第 20 話 : 東北の荒風、海を渡る

第 20 話 : 東北の荒風、海を渡る
第 13 話で初登場した頑固者の山夫クン。静子さんからジャスト 1 年遅れで英国に渡ってきました。ヒースローから
直送された田舎の語学学校に半年弱こもりきり、ロンドン上京後は即キングス・カレッジで囚われの身になったため、
私は長い間彼を見ることがありませんでした。彼がユニコン事務所に姿を現したのは、実は翌年になってからなので
す ( 自分で何もかも決済する性分なのでユニコンが必要なかったのですね )。
負けず嫌いでかたくなで自分の考えに固執する性格ゆえ、メトロポリス・ロンドンの風を誰よりも冷たく感じなが
ら始まったロンドン生活だったようです。
●●●山夫クンにインタビュー●●●
のダンジョンにぶち込まれたようなものでした。
( これを見ても山夫クンの性格の一面が窺い知れるので
社会的刺激に抵抗力が無かった僕は、
「見たくないもの
は? )
は見ない、やりたくないものはやらない」
「間違っている
■心に残る一冊 : 畑村洋太郎著
「失敗学」
、
司馬遼太郎著
「竜
のはやつらであり、モノを考えてる自分が正しいのだ」
馬が行く」
という排他的な考え方で自分をガードするようになりま
■好きな作家 : 畑村洋太郎先生、司馬遼太郎先生
した。しかし、やがて、これでは自分を追い詰めるだけ
■尊敬する人物 : 坂本竜馬、シャア・アズナブル
と気づきます。そこで、白黒だけでなく、ブルーやグレー
■心に残る映画 「海の上のピアニスト」
:
をも取り入れるスキルを身につけるようになりました。
■今度生まれ変わったら : 世界の支配者
世の中には白黒だけでは分類できない考えもあるのだと
●山夫くん、渡英する (2003 年 4 月 )
認める方法です。こんな哲学 (?) を取り入れることで葛藤
は相変わらず続いたものの、少し生きやすくなった気が
僕が英国に渡ったのは高校卒業直後の 4 月。親類の
しました。
人に紹介してもらったケンブリッジの田舎の語学学校で
5 ヵ月過ごしました。その頃の僕は単純で純粋で、世界
をモノクロでしか見ることができない天邪鬼 ( あまのじゃ
●ファウンデーション・コース始まる
(2003 年 9 月 )
く ) でした。
世界をモノクロで見ると言うのは、例えば、日本は「僕
キングス・カレッジでのコースが始まりましたが、心
の自由を束縛し」
「自分に適した自由な勉強ができない国」 の葛藤は整理しきれていたわけではなく、学習面での行
であり、英国は「ユートピア ( 楽園 )」であると定義する
き詰まりと息苦しさの中で増大していったように思いま
ような、つまり、白か黒かに分類する見方です。物事を
す。他のどこのファウンデーション・コースと比べても
「ワ
白黒でしか見ないという意味から、僕はこれをプロパガ
ケもなく厳しい」との評判を誇るコースだけあって、エッ
ンダ症候群と名付けています。まあ、カラフルな世界を
セイとかは、もうどんなにがむしゃらにやっても点数が
求めながらもモノクロな世界に生きたかったのかもしれ
伸びないのだとさえ思うことがしばしばでした。
ません。
●ロンドン上京 (2003 年 9 月 )
●経済学部一直線 (2003 年 10 月 )
まもなく始まるキングス・カレッジのファウンデーショ
将来は自分で会社を立ち上げアントレプレナーを目指
ン・コース ( 別名 3K コース ) に入学するためにロンドン
していた僕は志望学部として躊躇なく経済学部を選びま
に出てきました。
した。後になって考えると、この時点でユニコンに相談
僕はここで初めて、現実と理想、空想と虚構に戸惑い
すべきだったかもしれません。アカデミックで学ぶ経済
ます。目的も性格も生き方もことごとく違う留学生たち。
学は本来、経済学者や研究者を育てるのが目的であり、
母国 ( 日本 ) を公然と批判する日本人。民族の特性ばかり
別に金儲けの方法を学ぶ場所ではないのに、経済学と経
を非難する欧米人。民族ごとに固まる人々。許しがたい
営学をごっちゃにしたところに落とし穴があったのです。
のは彼らの傍若無人な行動と言動で、これには嫌気がさ
おまけに英国の経済学は元々理数系学科なので数学が必
し怒りすら覚えました。そして自分はと言うと、頼る人
須です。数学もさほど得意ではないのに経済学部一直線
多からず、友達と呼べる人もおらず、文化も意識も違う
に突っ走った果ての結果は壊滅となります。 2004 年 5
無数の人間の渦の中での孤独感。18 歳なんてドラクエで
月、UCAS からの通知は僕を落胆のどん底に突き落とし
言ったら最初のレベル 2 ぐらいなのにいきなりレベル 25
ました。オファーをくれた先は保険校の 1 校のみ。どう
妥協しても行きたくないような大学でした。
●まな板の上の鯉 (2004 年 7 月 )
英国にしては蒸せるような暑い夏、僕はユニコンを訪
ねました。それまで何もかも独りで考え決断してきた僕
ですが、もうここまで追い詰められると仕方がありませ
ん。
「相談に来るのが遅いんだよ、お前はホントに思い込み
が激しい上に頑固だからな」ユニコンの社長には僕の性
格も含めて結構めちゃくちゃ言われ放題言われました。
「ま、オレには考えがあるからちょっと辛抱しろ」の言葉
をあてにしてユニコン通いが始まりました。通えとは別
に一言も云われなかったのですが、暑苦しい寮で一人悶々
とするのが耐えられなかったのです ( 向こうにとっては
迷惑だったでしょう。実際そう言われました )。
時期が大学の夏休みに当たっていたのでさすがの社長
も目当てのカレッジ担当者をなかなか捕まえられないよ
うで、僕が遠慮しいしいユニコンの事務所内をうろつき
回る日がそれから 3 週間くらい続きました。ふて腐れて
ユニコンの ( 古い ) 応接セットに大の字にひっくり返り
「煮
るなり焼くなり好きにしてくれ」とか「どうせオレはま
な板の上の鯉だ」とかわめいたこともあります ( 向こう
にとってはさぞかし大迷惑だったでしょう。実際そう言
われました )。こんな健気な少年が心を痛めているという
のに、ユニコンのスタッフは容赦がありません。
「あーう
ざいわねー。そんなひねた鯉、煮ても焼いても食えない
わ。大体この期に及んでまだそんなジジ臭い表現に凝ろ
うとするのね。そーゆー性格がこーゆー不幸を招くのよ。
こんな時くらいせめて若者言葉を使えよ」と冷たくあし
らわれただけでした。
「決まったら電話するから家で待っててくれよ」—
「またか」という社長の迷惑顔を無視してユニコンでゴ
ロゴロしていたある日、ついに進学先が決まりました。
Queen Mary の Business Management です。今にして
思えば、申し込む段階で間違ったのかなあ、最初から
Business Management で申し込んでいれば良かったのか
なあ、と思わないではありませんが、何せ僕は頑固です
から、たとえ申込み時点でユニコンに相談していたとし
ても、そしてどんなアドバイスをされていたとしても、
きっと自分の考えを押し通してやはり同じ結果になって
いた気がします。
とにかく「まずは入った!」— 辛くて長かった 2004
年の夏が終わろうとしていました。
第 21 話:シマ子の流転
熊子さんの冬眠が長々と続いている間にも時代は回る。静子さんが LSE の学部生として髪振り乱して勉強していた
2005 年の淋しい秋口、ユニコンのロンドン事務所にロンドンではとんと見ることがない珍しいミニスカ学生が登場。
静子、福子、熊子、フク子、山夫の5人がいわゆる直参 ( 留学のスタートがユニコンから始まったという意味 ) である
のに対し、このミニスカは外様であった ( トザマ:ユニコンでない留学機関の手配で留学が始まった )。出身は福島県。
地理的に東の風がもう少しほしいと思っていた私はウェルカムしました。( って、それにしても、また田舎もんかよ…)
とりあえず、ユニコンにたどり着くまでの彼女の足跡をたどります。
●●ゲスト・ライターの紹介●●
述べられ、新しい家に払った 3 ヶ月分の家賃は忘れるこ
シマ子さん ( 福島出身 )
とを決意。生活はまともに戻ったものの、コースに対し
1982 年生まれ。3 姉妹の末っ子
て疑問を持ち始める。これは私の勉強したかったことじゃ
得意だった科目:国語
ないかも。という考えが脳裏をよぎるがここでも 1 年分
苦手の科目:科学
授業料を払っていたため、動くに動けない。
部活:バスケ、バレー ( 踊らない方 )、水泳、陸上、自転車、 バドミントン、少林寺拳法、海岸掃除、焼肉 ( これはサー
ホテル学校を退学
クルで )
趣味:ダイエット、掃除
しばらく授業を受け続けるが、やはり煮え切らない。
リスペクトする人:ココ・シャネル、マイ先祖さま
ホテル学校のコース修了テストは選択方式で頭をまった
シマ子さん (2004 年 4 月渡英:当時 22 歳 )
く使わずただの丸暗記なのに加え、先生が答えを教えて
くれるというだめっぷり炸裂の授業である。私はいった
「アジアのホテル王」を目指して
い何をしにイギリスにきたのだろう?と日々むなしさを
つのらせ、最終的に校長とけんかをして退学。ロンドン
東京の大学で卒業単位を先取りし、ひまになる 1 年間
で近寄れない場所を一つ作ってしまった。
を利用しての渡英を決意する ( 卒業証書を入手するため
には出ない授業にでも学費を払わなくてはいけないが )。
失意のあぜ道 (2004 年 10 月 )
観光学を専攻していたこともあり、観光立国のイギリス
でホテル学を修め、いずれアジアのホテル王になるのが
夢破れて一時帰国。地元郡山のあぜ道で自分が何をし
当時の夢だった。留学の目的や、費用、滞在先及びその
たいのかを模索する日々。このままでは退けない。大体、
後の進路などワードで作った留学計画文書 (10 枚ほど )
ホテル王を目指したいのだからホテル学校へ行けばいい
を両親に提出。
「いいよ」とすんなり許可がおりる ( 娘は
と短絡的に考えたのが大間違いだった。別にベルボーイ
まだ 2 人いるし? )。
とか受付けになりたいんじゃないから。短絡的思考のた
友達や家族に見送られ意気揚々と成田空港出発。
めに犯してしまった数々の間違いを反省した上で、こう
なればいっそのこと MA を目指そうと思いつく。だって
語学学校 → ホテル学校
私が必要なのは体系的な知識なのだから。なら、目標は
思い切り厚かましく、LSE( ロンドン大学 ) の大学院。そ
語学学校とホームスティ生活を楽しく一ヶ月ほど経験
のためにはみっちり英語を勉強しなくてはいけない。日
した後、ホテル学校に移る。この頃から続々と問題が発
本の大学卒業まであと半年、田んぼの脇でグズグズ悔や
生。フラットに移ったのだが、あまり家のひどさに毎日
んでる暇はない。早くロンドンに戻って語学学校に通お
泣いて過ごす。3 ヶ月分の家賃をすでに払っているので
う。
どうにも逃げられない。どうしよう。学校の授業は授業で、 語学学校で習っていた英語とはまったく違い ( あたりま
●●山夫、二度目のつまづき●●
えだが )、よくわからない。
2004 年 9 月、山夫 20 歳学部入学
踏んだり蹴ったり
戦場はキングスからクィーン・メアリーに移りました。
やる気満々で望んだはずなのに、僕は初年度で留年して
ホームステイ先の鍵を返し忘れた事が転機を呼ぶ。鍵
しまうのです。
を返しにホームスティ先を訪れ、いかに新しい住処がひ
どいかを小一時間話す。
「戻っておいで」と愛の手をさし
学部の勉強はファウンデーションより数段ハードなの
に僕にはそれに見合うスキルがなかった。読む量、
書く量、
タスク。どれをとってもレベルが段違いでした。
環境も違った。ファンデーションにはどこか和やかな
部分があったのですが、学部は一変して個人主義のオン
パレード。
「ほかのやつは敵だよ」的な雰囲気がありまし
た。まあ、全然知らない者同士の集まりなわけでいきな
り仲良くというのも無理な話なのでしょうが、人見知り
の僕には寒々としたものに映りました ( 学部の日本人は
僕一人でした )。
このように技術的ミスやら精神的ミスやら、留年の理
由は幾つかあげられますが、最大の原因は、将来役立ち
そうに見えるスキルや教科以外には力をいれる必要がな
いという、いつもながらの独善的考えのまま突っ走った
自分の浅はかさにあると思います。第一学年のほとんど
の教科が「意味のないもの」に見えて手を抜いてしまい、
挙句、学校に通う意義を喪失、留学の意味さえ疑問に思
うようになっていました。そんな堂々巡りした挙句の落
第でした。
2005 年 6 月、第一学年修了試験を落とす
留年決定。1 年後の再試を目指して自宅浪人です。
「悲しいけどこれ戦争なのよね・・」
スレッガー中尉が
言いました。
第 22 話:眠り熊、目覚める
時系列ランナーの中で唯一の社会人出身で、一番慎重で、一番東京から遠くに住んでいて、一番年上の熊子さん。も
ういい加減、目覚めてくださいよ。
熊子さん (2004 年まだ冬眠中 )
いきなりの BA 入学が無理なことくらい知っていたので
( 自分としては謙虚な気持ちで )LCP のグラフィック・ファ
ユニコンに初コンタクトしてから 3 年経っていました。 ウンデーションに申し込みました。
この間何もしていなかったわけではなく、いつかするか
もしれない留学のために英語の勉強を結構頑張っていま
2004 年 12 月にユニコン東京事務所の 2 階で面接。面
した。地元の英会話スクールに 1 年半通ったし、( 熊本
接官、私の作品を見て絶句。一呼吸置いて彼が言ったの
では入手できないので ) わざわざ上京して IELTS のテキ
は、
「あのねー、ファウンデーションはど素人が入学でき
ストも購入。終業後は疲れて勉強しないだろうと、起床
るコースじゃないのョ。あなたのような超ビギナーには
時間を 30 分早め、家を 30 分早く出てドトールで勉強し
ABC ディプロマが精々ってとこだね」
ていました。
私の理解では ABC なんたらはファウンデーションより
数段格落ちのコースだったので、
「こちとらだって大学出
それなのに母にも会社の同僚にも留学の夢のことは話
てるけど分野が畑違いだから謙虚にファウンデーション
さずにいました。たとえ留学したとしてもいずれ日本と
でいいつーてるのに ABC だとぉー」と思い、
「その ABC
いう現実社会に戻ったときに、手に職も無い地方大学出
むにゃむにゃとやらは行きたくないかもー」と抵抗。あ
身の年増の女ジムインに再びまともな仕事が見つかるん
の面接官、絶対「このやろー、お前ジューネンはえーよっ」
だろうか?」とか、
「好きな事を仕事にしてる人ってきっ
と叫びたいのを我慢していたに違いない。
と一握りなんだし、こんなご時世仕事があるだけでもあ
りがたいと思わなきゃ」という超現実的な自己分析をし
面接後、
事務所にいた男性が「まー歳が歳だし ABC やっ
ていたからです。
てるひまがないのわかるよ。しかしその作品じゃ話にな
んないわけだから、とりあえず、ロンドンで語学学校に
あと、1 人ぼっちの母と、( アホかと思われそうだが )
通いながらセント・マーチンズのパートタイム・コース
私がいなくなるとほぼ 1 日を一匹で過ごさなくてはいけ
を受けてさ、作品を増やしたところで現地でもう一度イ
なくなる犬を置いて出て行く事にも気が引けていたし、
ンタビューを受けてみたら?」とアドバイスしてくれた
先の見えない世界に飛び出してしまうのも怖かった。
「留
( この男性が、3 年前ロンドンから熊本の実家にいきなり
学をしない方がいい理由」のほうが「留学したい理由」
の電話をかけてきたユニコンのシャチョーであることを
の 10 倍以上あったのです。
この時知る )。あのときはいきなりの電話で " ちょっとア
ヤシイかも " と微妙に警戒心を持ったのだが、
だけど、ある日、それまでバリバリに元気だった祖父
「ほら、あなたの地元って、加藤清正の時代から精神的
がいきなり亡くなりました。
「俺って死んでしまうのか
に何一つ変わってないような頑固者が多いイナカでしょ
…」という祖父の無念そう目を見たとき、
「あー、やっぱ
う。メールであーでもないこーでもない、と言うより、
やりたいと思った事は死ぬ前に全てやんないとな。人生
地理的にも訛り的にもあなたの地元に近い出身の僕が直
1 回きりなんだし、やって失敗した後悔より、やらなかっ
接話したほうがわかりやすいと思って電話したのよ」と、
たことを後悔して死ぬ方が悲しいかも」と思ったのです。
とてもざっくばらんにアドバイスしてくれた。
もちろんそれだけが理由ではないけれど、あの祖父の目
( 自分ではかなりなレベルの標準語を話していたつもり
が私を留学に思い切らせた大きな理由のひとつだと思い
だったので )「頑固者」はともかく「訛り的」の言い草に
ます。
はちょっとムッとしたが、とりあえずロンドンで 3 ヵ月
花の東京へ (2004 年 12 月 : ロンドン芸術大学の面接 )
やってみるというアイデアには共鳴できた。
( それで見込みが無かったら帰ってくればいいんだもん
お久しぶりにユニコンの HP をチェックし、東京事務
ね)
所での UAL( ロンドン芸術大学 ) 説明会のために上京しま
( それなら時間的にもおカネ的にもリスクが低いし )
した。話を聞いてとりあえず面接を受けることにしまし
( 親にも話しやすいかも )。
た。大卒といってもアートとは無関係の学部出身なので
熊子さんに聞いてみました
「留学することに決めた」と公表したときの周りの反応を
教えてください。
母 :「あなたは甘い」
友人 :「うらやましい」
「勇気があるね」
会社の上司 :「その歳で会社辞めて 1 年やそこら留学した
ゆーたちゃ、帰ってきても仕事やら無かろうもん」
「会社
に残れ」
親戚のおばさんが唯一の大賛成者でした。おばさん自身
も息子も留学経験者なので私の良き理解者になってくれ、
留学を終えて金欠で帰国したときも助けてくれました。
2004 年の日本
●自衛隊イラク派遣
●イラクで日本人が人質に
●日本人の人口がピーク
●イチロー、メジャー安打大記録樹立
●芸能人 : ヨン様 ( 韓流ブーム )
●流行った歌:瞳を閉じて
●流行語:チョー気持ちいい ( 北島康介 )
負け犬、冬ソナ、セカチュー、間違いない
●事件:オレオレ詐欺
( 為替レート :1 ポンド =200 円 )
2004 年の世界では
●アテネ・オリンピック
●スペイン列車爆破事件
●スマトラ沖地震
●鳥インフルエンザ
第 23 話 : 眠り熊、ついに海を越える
「将来どんな人生を送りたいのか?」という質問に「せめて福岡に進出したい」と熱く夢を語っていた熊子さん。長
年勤めていた会社に退職願いを出したことで踏ん切りがついたのか、ホントにロンドン行きのフライトに乗ってしま
いました。
熊子さん (2005 年 1 月 : 渡英。30 歳 )
ロンドン到着
サンキュー、スカーレット
行動を起すまでの時間こそ長かったけれど英語の勉強
学校では、発音のコツや日本では教えてくれないよう
は秘かに頑張っていたつもりだった ( 渡英前に上京して
な日常会話に出てくる言葉を「褒め殺し?」手法で教え
受けた IELTS テストだってちゃんと 6.0 を取った )。だか
てもらった。ところで私のクラス教師は私と同年齢の男
ら、いつロンドンへ行っても英語については致命的な不
性だったが、数年前までは人生を捨てたようなホームレ
自由をしないだろうと思っていたのに、着いたその途端
スばりの生活をしていたと言う ( フツー、言わないよな、
から不自由ばかりだった。
そんなこと )。だが、あるときスピーチ・セラピーに目覚
まず、熊本の英会話学校で通じていた英語がロンドン
めて以来、英語教師をする傍ら、多くの施設でボランティ
ではどうしてか通じない。通じないから時間を食って銀
ア活動を行っているという。そのせいか、彼の授業は内
行でもスタバでもマックでも行列の素を作ってしまう。
容自体も授業前のウォーミング・アップのゲームも趣向
Pardon? Sorry? と聞き返される度に萎縮して英語が一
が凝らされていて今でも印象に残っているような楽しい
層モゴモゴになり、そのうち声を出すのも怖くなってし
ものだった。
まった。カフェテリアでの注文がなかなか通じないこと
に疲れてランチを抜いたこともある。
「ビデオ見てみんな笑っているのに私だけ内容を理解し
そういう意味で、( 少しムッとしつつも ) ユニコンのお
てないみたい」とチュートリアルで不安を吐露すれば「大
じさんのアドバイスを聞いて第一ステップを語学学校か
丈夫、みんなもわかってないと思うよ。僕に合わせて笑っ
ら始めたのは正解だった。おかげで語学学校のある平日
ているだけ」
と励ましてくれたこと。
「ホモセクシャリティ
ならインチキ英語をわかってくれるおばちゃんがいる校
に対する自国の世論」の題での課題エッセィでは、文法
内のカフェテリアでランチを買うことが出来た。
の間違いよりも視点のユニークさを評価して「Excellent!」
とほめてくれたこと。
麗しのハイゲート
スカーレット、最初の先生が君で本当によかったよ ( 男
なのにこんな名前、
でもストレートです。結婚しているし、
私が通ったのは St. Giles College という世界中にネット
去年子供も生まれたし )。
ワークを持つ語学学校のハイゲート校。ロンドン市内に
勉強だけでなく、ロンドンを楽しみ、生活を楽しみ、
はジャイルズ・グループの姉妹校が 2 つあって、もうひ
国際色豊かな学生達とのコミュニケーションを楽しみ。
とつはロンドンのど真ん中、ラッセル・スクェアに、ハ
ホームスティでの自炊はできないので、それぞれのお国
イゲート校はど真ん中からバスで 40 分くらい北寄りに
レストランを見つけて食べに行ったり、映画に行ったり、
ある。なぜか、ユニコンのおじさんはやたらとハイゲー
ピクニックに行ったり。ある意味、セント・ジャイルズ
ト校を推薦。私が田舎者だと思って繁華街から隔離して
での 10 週間がトータル約 2 年間の留学期間の中で一番
いるのか?と勘ぐって理由を訊いたら「確かに」と返事
インターナショナルだったかも。
されたのには驚いたが、来てみて彼の判断が正しかった
熊子さんにインタビュー
のを実感した。
◆心に残る一冊 :プリズン・ホテル ( 浅田次郎 )
第一印象は「わぁ〜きれいなとこ」
。いかにも、な豊か
◆好きな作家 :浅田次郎 ( 好きと言うほどでもな
な緑の木々の合間からイギリス特有の赤茶レンガの家が
いが一番読んでる ?)
見え隠れしていて絵本みたい。学校もこじんまりしてい
◆心に残る映画 :Billy Elliot( 邦題:リトル・ダンサー )
て妙にファミリア&フレンドリー。ホームスティ先も学
◆好きなブランド :特に無いです…
校の近所に住む人の良さそうな老夫婦。生き馬の目を抜
◆日本より安いもの:パブのビール
くような市内の繁華街から 40 分しか離れていないのに
◆イギリスで一番美味しいもの:ジャガイモとヨーグル
こんな別世界があるなんて。社長さん、目がお高い。
ト ( 日本のものと比べて、という意味で )
◆ロンドンで一番通った食堂 :Nero Cafe。UCL 近辺の
韓国料理店 2 軒。美里 ( 日本レストラン )
◆日本から輸入したいもの :暖かい便座
◆ロンドンでの得意料理 :納豆丼 ( キッチンに非
日本人フラット・メイトが居ない時のみ、納豆を食べる
ことを許されていた )
◆どこのガイジンが一番付き合いやすかった? :コロ
ンビア、フランス
ホームスティの感想
ロンドン留学で一番初めに出会った人たち。何かを相
談すると我が子のように一緒に一生懸命考えてくれるし、
日本語で聞いたら恥ずかしくなるような sweet な言葉で
励ましてくれた。
ホスト・ママに至っては、いい歳こいた留学生 ( 私 ) に
オトコの心配までしてくれた。当時同宿していたスイス
人男性を眼で追って『クマコ、彼なんてどう? 彼女は
一応居るんだけどね、うふ』とか、学校での話題に男子
学生の名前が混じると、
『その子は独身なの?』と真剣に
聞いてきたり。
セント・ジャイルズ校同様、ロンドン生活のスタート
を彼らと過ごせたことにとても感謝しています。頻繁で
はないけれど、今でも手紙のやり取りをしていて、一度
なんかホスト・パパ ( と言っても 70 歳以上 ) が『クマコ
〜元気か〜い。ロンドンに来る予定は無いのか〜い』と
国際電話をしてきてくれました。時差を勘違いしていた
ようで日本時間では夜中の 3 時でしたが。
心配していた食事に関しても、インド系イギリス人な
のでカレーが超おいしく、お米料理もよく出してくれま
した。ま、ほんのごくたまに、
『おおっと、今日は明らか
に手を抜きましたね』
という日もありましたが ( マッシュ・
ポテトの上にちょこっとコーン・ビーフが乗っかってる
だけ or フライド・ポテトの上にちょこっとビーンズが
乗っかってるだけ、とか )( 全部イモ。好きだからいいけ
ど )。
第 24 話 : 熊子がアート
時間と経費をなるべく節約するため、ロンドン上陸の翌週から語学学校と夜間アート・コースを掛け持ちするという
作戦に出た熊子さんです。がんばり屋だし、頑固だし、オトナだから何とかなるでしょう。
熊子のプチ・アート@セント・マーチンズ
(2005 年 1 〜 3 月 )
渡英直後はまだ「LCP に行こう!」と思っていたので、
お粗末だし、それを説明する英語もお粗末だし。せめて
ナイスなポートフォリオを作るべく、セント・ジャイル
コース初日にいたもう一人の日本人が残っていてくれれ
ズ校と並行して、セント・マーチンズで週 1 度のパート
ば、私の苦痛も痛み分けできたのだが。1 人ぼっちになっ
タイム・コースを受講することにした。
てしまった私のその後の珍獣っぷりといったら、もう。
取ったコースは Life Drawing for Beginners( ヌード・
それでも 10 週間頑張れたのは、チューターもクラス
デッサン ) と Graphic Design for Beginners ( グラフィッ
メートも忍耐力のあるいい人たちだったから。私のアホ
ク初心者向け ) で、それぞれが週に一度の 10 回コース。
作品でも「うんうん」と言って見てくれ、おもしろい点
コースはロンドン到着の翌日から始まった。
を強引に探して褒めてくれ、アドバイスをしてくれる。
プレゼンテーションで「あのー英語へたっぴでめんごで
す」と言ったときだって、
「でも、今あなたが言ったこと
クラスメートはトータルで 10 人ちょっと。私以外は
私全部理解できたわよ」なんて言ってくれる。
全員 ( 英語に問題が無い )EU 圏内の学生だった ( コース
初日はもう一人日本人がいたのだが、あっという間に消
最後のプロジェクトは Self Portrait( 自分の肖像 ) という
えてしまった )。初日は自己紹介から始まったが、私が話
もので、私は当時よく見る夢を題材にした。プレゼンで
し出した途端 ( あり得ない英語を聞いたせいだろう ) みん 「近頃は英語が通じなくて困ってる夢ばかり見る」と言っ
なびっくり顔になっていた。英語は訛っていないはずな
たら、
「そんなことない、あなたの英語はこの 2 ヶ月で本
んだけどな〜それとも英語に聞こえていない ?
当に上達したわよ〜」とフォローされ、大変嬉しかった
のを覚えている。
私には Graphic Design のコースの方が楽しかった。
Beginners とはいえ、集った生徒は何かしらデザインに
Life Drawing の方は Graphic に輪をかけて珍獣だった
関係があるから共通のトピックを探しやすい。印象的だっ
ので、もうここでは書きたくない。
たのは Self Portrait のプロジェクト。また、ちょうどそ
の時バービカン・センターで催していた Graphic Design
の歴史展をクラス全員で見学したのも思い出深い。
アヒルさん達へのインタビュー
●●一億円あったら何に使いたいですか?●●
その Exhibition や Graphic の歴史についてリサーチし
「この展覧会の Preview party 招待状を作ろう」とか「タ
静子 :家購入
イポのみでいろんなモノを表そう」とか、
「タイトル無し
福子 :旅行に出かける。旅行から帰ったら大学院に行く。
の映画のポスターを作ってみよう」とか、色々なチャレ
残りはマン島の口座 ( タックスフリー ) に保管。
ンジを試みた。
熊子 :母と半分こ。自分の分でマンション購入 ( 東京じゃ
ムリか…)
シマ子:10 億円にすべく画策する。
造るだけでなく、シメとしてクラスメート全員の前で
のプレゼンテーションがある。完成した作品と共に作品
完成に至るまでのリサーチや試作品、失敗作品なども一
緒に見せて、なぜそれを作ったのか、どうしてそこがそ
うなったのかを説明しなくてはならない。もうね、これ
がこの上なく苦痛タイムなの。だってコンセプトが元々
2005 年の日本
●中部国際空港 ( セントレア ) 開港
●「愛、地球博」( 愛知万博 ) 開催
●「ドラえもん」の声優が交代
● JR 福知山線脱線事故 ( 死者 107 名 )
●北朝鮮が日本海に向けてミサイルを発射
●レッサーパンダ「風太」が立つ
●芸能人 :倖田來未
●流行り歌:青春アミーゴ
●流行語 :エロかわいい、想定内 ( 外 )
●ベストセラー:電車男、のだめカンタービレ
2005 年の世界
●ロンドン同時多発テロ発生
●ローマ教皇パウロ 2 世死去
●ブッシュ、2 度目の米大統領就任
●中国—台湾の航空線が 56 年ぶりに開通
●香港ディズニーランド開業
●ハリケーン「カトリーナ」がフロリダ上陸
第 25 話:さまよえる不良子羊
第 21 話で初登場のシマ子さん(福島県出身)
、夢破れていったん日本に舞い戻ったものの、故郷(郡山)の畦道で再
起を誓い、再びロンドンへ。MA への道は開けるのか? 2005 年春、シマ子さん再渡英
2005 年 8 月:さまよえる不良子羊
自分でやれることはやったつもりだが、結果が出なかっ
MA(しかも LSE)に出願
た 2005 年・夏。渡英して約一年が経過。まだ何一つ手
失意の中で新たな目標(MA 受験)を見つけ不死鳥の
に入れてない ・・・ !
ように蘇った私は再渡英。
仕方なくまた語学学校に戻るが、当然ながら全然面白く
東京の大学での専攻学科は観光学部観光学科だが、将来
ない。かといって何から手をつけていいのかわからず、
の夢(アジアのホテル王)のためには数字(=ビジネ
悶々と空白の日々を過ごす。そのうち、語学学校をさぼ
ス)を極めなくてはと考え、ターゲットを LSE の MA in
り図書館で好きな本を読みふける不良少女に。
Accounting に定めた。英語学校で IELTS コースを受講し
ながらGMATの勉強を並行し、LSE への出願手続きを
済ませた。
ちなみにロンドン同時多発テロが起こった時刻には図書
結果を待つ間に日本に一時帰国し大学を無事卒業(休学
館にいて、
(私の安否を確認する)日本の姉からの電話で
扱いみたいなものだったので)
。周りの皆が就職だ、大学
テロの事を知りました。
院だと進路が確定している中、宙ぶらりんな状態の自分
にちょっぴり焦る。卒業式の後、ロンドンにリターン。
■■シマ子さんにインタビュー■■
◆心に残る一冊 :武家の女性
真夏のサクラ
◆好きな作家 :村上春樹
◆心に残る映画 :The Pursuit of Happiness、Life is
願書を出して 3 ヶ月以上経つというのにLSEから何
beautiful
の連絡もこない。待ちくたびれて入学課に問い合わせた
◆好きなブランド:Christian Dior( バッグ )、Yves Saint
ところ、
「そんなものは受け取っていない」と云われた。
Laurent(化粧品)
、Jaguar(車)
、Chanel(香水)
、服に
絶対失くしたに決まってる…と言う確信はあるのだが抵
ついては特に好みがありません。
抗しても無意味だろう(無いものは無い、と言われるだ
◆クールな人(かっこいい人:織田信長
け)
。
◆今度生まれ変わったら :魔法使いに生まれたい
イギリスの郵便サービスを盲信した馬鹿な私を許してく
◆ロンドンで一番美味しいもの:Camden Town の
ださい、と日本にいるゼミの教授に泣きつき、リファレ
Thanbin(ベトナム料理店)のカニの揚げ物(ブラック・
ンスを再郵送してもらい再出願に漕ぎつけた。しかしさ
ビーンズのピリ辛風)
れどそれなのに、苦労報われず、サクラ散る。
◆最も通ったレストラン:Tottenham Court Road にある
韓国レストラン
◆日本から輸入したいもの:スケスケでもペラペラでも
LSE のバカヤロー(ゴメン、LSE)
ない可愛い下着
◆ロンドンでの得意料理:大根の煮物風ズッキーニ
それでもあきらめきれない私は、LSE の担当教授一人
◆日本より安いもの:お湯沸かし器(5ポンド)
ひとりにメールを送りまくり、熱意を持って入学許可を
◆どこのガイジンが付き合いやすい?:バーレーン人
訴えた。出願書類も再度送ってみた ( 今思うと相当アホ
だが、ひょっとして見落とされているのではないかと一
縷の望みを抱いたのだ )。
だがある日、入学課からの完璧な不合格通知を受け取る。
きっとブラックリストに載ってしまったのだろう。また
一つロンドンで近寄れない場所を一つ作ってしまった。
ホームスティの感想
もしかたないので「あい」とコピーを渡すしかなかった
のだった。この適当さ、マニュアル国家・サービス命の
親を安心させるには一番。料理も掃除もしなくて良かっ
日本人には結構コタエるのでは?
たのは怠惰な私には最高だった。しかし、ホスト・ファー
ザーの発音は 4 年たった今でも聞き取れない。
日本で散々遊んで 9 月中旬にロンドンに戻りました。
静子、キングス城脱出直後の幸せなひと夏を回想
する
Reading List にある本を買ったり、寮生活のための生活
用品をそろえたり、たまに本を読んだり、映画を見たり、
遊んだりして。
2005 年 LSE 2年生の静子、1 年生時代を振り返
るの巻(パート1)
そうそう、授業料の支払いも忘れずに。イギリスの大
学は日本のように受験料だ入学金だ設備費だ寄付金だ、
2003 年夏:真夏の夜の夢
の意味不明な出費が無いのがいい。
「授業料」のみをど
かんと払い込むだけです。支払期限はコース開始当日で、
キングス城を出獄した 2003 年の夏、私はそれまでの
私は締め切り 1 日前に 1 年分の授業料を小切手で払った
分を取り返すべく、3 ヵ月間遊びまくりました。ヨーロッ
のですが、そんな時期の支払いに対しても早期一括払い
パを旅したり日本に一時帰国して買い物したりバイトし
者のための割引制度を適用してもらえました。こういう
たり(これで完全リフレッシュ !!)あ、もちろん帰国前
点はとても合理的だと思います。
に学生寮の申込みをしたり、LSE に IELTS のスコア用紙
を提出しに行ったりと、入学のための事務手続きはしっ
かり済ませておきました。
コース開始前に新入生を対象に 1 週間のオリエンテー
ションがありました。学長のウェルカム・レクチャー、
学生証や Student Card の発行作業、オイスター・カード
LSE に IELT スコアを届けに行ったときの話ですが、イ
に関する説明など、生活面でのサポートがメインです。
ギリスの郵便サービスはあまり信用できないし、郵送料
色々な Society(サークル)の勧誘もあり、興味があれば
も浮くしっ♪と思い、直接 LSE の受付に行ってスタッフ
入会金(だいたい £1 とか)を払うと簡単に入会できます。
に手渡しました(LSE は King’s の向かいにあるのでとて
も便利でした)
。
しかし !! それから 1 週間後に LSE の Admin(教務課)か
暗雲再び?
らメールが届きました。その内容は「IELTS のスコアを
提出してください。○月○日までに提出しないとオファー
オリエンテーションが終わると Lecture が始まります。
が取り消されてしまいますよ」というもの。信用できな
拘留時代(King’s のファウンデーション時代)
、
「学部に
いのは郵便事情だけではなかったのか…。
入ったら、今の倍は大変だからねっ」とチューターに何
度も脅されました。当時の私は「またまたー。今でも死
にそうなくらい大変なのに、これより大変なんてありえ
今の(2008 年現在)私なら「おいー、ついこの間手
ないわー。そんな脅しには騙されないもん」と思ってい
渡ししたじゃないか。書類管理くらいしっかりやってく
たのですが、チューターが脅していたわけでもなんでも
れよ」と、怒りながらも諦めがつくのですが、当時の私
ないということが判明するまでそれほど時間はかかりま
はまだロンドン歴 1 年のかわいい 18 歳。不安になって
せんでした。
翌日 IELTS スコア用紙のコピーを握って(ちゃんとコピー
しておいてよかった)LSE の受付にダッシュ。
荒い息を吐きつつ、メール発信人を指名。現われた当人
に「IELTS スコアを提出しろってメールもらったけど、1
週間前にここであなたに手渡したでしょ?」と抗議した
ら、
「あら〜そうだったっけ? ごめんなさい、こちらの
ミスだわ。まー、でも今コピー持って来てるんでしょ?
だったら、それ、もらえないかしら?」
(ははん、探す
のが面倒ってわけね)…軽いっ…しかしウダウダ言って
第 26 話:小象の涙
キングス城の拷問(ファウンデーション時代)に耐えられたのだから、もうどんな困難でも大丈夫!と意気揚々 LSE
の城門をくぐった静子さんでしたが、すぐに象の胃袋も縮むような世界が。神はこの小象に再び試練をお与えになる
のか?かたや、学部 2 年への進級ならず留年浪士の身となった山夫の運命や、いかに?
2005 年 LSE2 年生の静子、1年生時代を振り返
るの巻(パート2)
Jump out of the frying pan into the fire
Me alone
入学するや否や、まだレクチャーが始まってもいないう
Class でも悲惨な状態。授業中はずうっと黙黙黙。先生達
ちに、マルクスと人類学の関係に関するエッセイを 3 週
はクリアな英語をややゆっくりめに話すのでまだいくら
間後までに提出しろというメールが突然チューターから
か理解できるのですが、生徒達の英語は倍速の若者言葉
届きました。エッセイ・タイトルからしてちんぷんかん
なので何を言っているのか解りません。たまに解っても、
ぷん、何を書けばいいか見当もつきません。とりあえず
その意見に対する自分の意見を考えているうちに他の人
本を読むしかない…という次第でコース開始の第1週目
が発言し Discussion が発展していくので、この間、口を
からエッセイとの格闘が始まりました。周囲がまだ新入
挟めないまま置いてけぼりです。その場にいるのに取り
生気分で遊びほうけているのを横目に、一人部屋にこもっ
残されているような…英語でつまずいても笑ってごまか
てひたすらリーディング、黙々とエッセイ…マルクスに
してやっていけたキングス時代の和気あいあいとしたク
ついて。マルクス、意味わかんない〜とか思っていると
ラスが心底懐かしくなりました。
外から笑い声が聞こえてきたりして、もう、泣きそうに
なりました。てか、泣きました、悲しいやら寂しいやら
辛いやら情けないやら羨ましいやらで。
理解できないレクチャーに苦しみ、たまの遊びのお誘い
も断って部屋にこもりきりで勉強しているうちに、第1
Social Anthropology
週目に熱を出し学校を休んでしまいました。象の胃袋、
鉄骨の足腰を誇っていた私が、です。う〜む、ストレス?
私のコース(Social Anthropology)は Lecture が週 5 時間、 知恵熱? 知恵熱は初エッセイ提出前日にも再発。でも
Class が週 4 時間、Tutorial は 1 学期に 3 回くらいありま
これだけは終わらせないと。熱でふらふらしながらも明
した。 Social Anthropology は他のコースに比べて読み物
け方まで書き続けました。
が多い割りに授業時間が少なかったです。
Lecture は 30 〜 60 名規模の受講者で行われましたが、
Economics など人気コースの Lecture は 100 名以上を対
学部に入学するのを機に、渡英以来ずっとお世話になっ
象に大きなホールでマイクを使って行われていました。
ていた Highgate のホームスティを出て LSE の学生寮に入
居していました。積極的にコミュニケーションを取って
オンリー・ジャパニーズ
お友達つくろう♪と考えたからですが、英語できない→
勉強に時間かかる→遊ぶ暇なし→友達できない→英語伸
日本人が主流を占めていたキングスのファンデ時代と
びない、の Vicious Circle に見事どっぷりはまってしまっ
打って変わってコースのガイジンはほとんどヨーロッパ
た 1 年目でした。
人。 Economics などカネやビジネスと直結するコースに
However しかしながら人間の適応能力とはすごいもの
は実益主義の中国人がドッサリいるのですが、人類学の
で、そんな辛い状況にも少しずつ慣れていくのですね。
ように即カネに結びつきそうもないコースにはアジア人
慣れてくると周りも見えてきます。遊びほうけていた学
がほぼゼロ。精々が、ロンドンで生まれ育った中国人と
生達も時間の経過と共に自分の生活ペースに戻り、その
香港育ちの日本語が不自然な日本人だけでした。何を言
うち似た者同志が集まります。例えば、毎晩キッチンで
いたいかと言うと、英語のハンディを背負っているのが
お料理する組と、外で食べて遊びまわる組とかね。自分
私一人だけという事実。前にも増してレクチャーに付い
と似た匂いを持つグループにちょろちょろ顔出しをする
ていけませんでした。
うちに淋しい私に構ってくれる心優しい人を発見するこ
とが出来ました。辛さが少しずつ和らいでいきました。
レクチャーも相変わらず解らないながらも徐々にやり過
ガンダムかと言うと、ラグビーと並んで留年中の僕に大
ごせるようになっていきました。 Reading の量が減るこ
インパクトを与えたファクターだからです。昔からガン
とはなかったし、Class は常に苦痛の 1 時間であり続けた
ダム作品は大好きでしたが、こんな人生最悪の時期に引
けれど。
き籠りながら観たガンダムの衝撃はまったく新しいもの
でした。
Tomorrow will come
ガンダムのキャラクターはどれも強い精神と意志をもつ
僕のライバルです。彼らを観ると「なんで俺はこうも自
エッセイのほうはキングスで痛い目にあってきた甲斐
分の気持ちや意志を素直に表現したり体現できないんだ
があって大体「B」前後の成績をキープすることができ
ろう?」と思います。まーこう書くと僕が変なやつだ、
ました。 1 年目の終わりには一度だけですが「A」判定
と思われるでしょうが、確かに変なやつだと思いますよ。
(Distinction)をもらうことが出来、とても嬉しかったで
とにかく、クヨクヨ引き籠るよりは体を動かしながら考
す。小難(King’s)を逃れたと思ったら大難(LSE)に陥っ
えようという方向に生活リズムが変化していきました。
(1
てしまった感のある辛い年でしたが、この A 判定が私を
年前の夏に僕のことをウザイ鯉と評した)ミセス・ロー
勇気づけ、また頑張ろうと前向きにしてくれました。
ズからも「前に比べれば少しは丸くなったかも」と言わ
れるようになりました。
2005 年 9 月、山夫(哀戦士)の‘これが留年だ’ 永くて寒い氷河期(留年時期)は、こうしてラグビーと
ガンダムで乗り切りました。
コモラーからの脱皮
ところで、留年の最大危機は知識や学識が風化しがちに
留年決定直前の自分を [ 踏切前で交通信号機に触れまく
なることです。その防止のため、
「誰だよこいつ?」と思
りのミニ四駆 ] と例えるなら、決定後(6 月以降)の僕
われながらも、留年中も QM のセミナーや講義に参加さ
は単にヒキコモリ戦士でした。だってそうでしょう、キ
せてもらっていました。
ングスの仲間がみぃーんな学部 2 年生に進級してるのに
自分だけ足踏み留年生なんですから。
フラットの自室でコモラーを決め込んでいた7月、日本
2006 年5月、resit
の大学を卒業した兄が大学院進学のために渡英して来ま
した。塞ぎこみがちな僕を何とかしなければと思ったの
でしょうか。大学でラグビー部キャプテンを務めていた
兄は僕をラグビーに誘ってくれました。
ラグビー
ラグビーはそれまで団体スポーツの経験がなかった僕に
はとても新鮮で純粋なものに映りました。だって、この
世で「前にパスしてはいけない」なんてバカな競技はラ
グビーぐらいです。僕はこのスポーツがすごく好きにな
りました。大袈裟に言えば人生の縮図のように思えた
からです。悩むよりまず走る!汗流してまた走る転ぶ汗
流す走る。するとメシ美味いビール美味い夜はバタン
キュー。よりラグビーを楽しむために来年の再試に向け
た勉強スケジュールのクリアに気合が入りました。遅ま
きながら紆余曲折のコレが青春だ!ってところですかね。
なぜか、ガンダム
さて唐突ですが、ガンダムの話をします。なぜいきなり
進級試験をパス、第二学年への進級が決まりました。
第 27 話:熊子、揺れる心
グラフィック・コースに進む予定で渡英してきた熊子さん。セントマでの講習が終盤を迎えるころになりました。計
画通りグラフィック・デザイナーを目指してゼロからの出発点に立つのか?
Jump out of the frying pan into the fire
2005 年 3 月:揺れる心
アカデミックにターン?
という次第でユニコン・ロンドン事務所へ。この日対
セント・ジャイルズ校と並行して取っていたセントマ
応してくれたのは(自他共にロンドンで一番口が悪いと
のパートタイム・コースは順調に回を重ねていましたが
太鼓判を押されているらしい)女性スタッフでした。
…あるとき気がついてしまったのです。
「あれ? グラフィックのファウンデーション・コースの
「やっぱ今更アートじゃないのかなと思って…」と私が口
を開くや否や、
「そーでしょそーでしょ。そろそろ気がつ
再面接を受けるためにセントマに通っていたはずなのに、
く頃だと思っていたのよ。自分から言い出すのを待って
作品増えてない…」
いたわ」とアッサリ。そして、
「あなた、アートではなく、
そうです、ポートフォリオというのは、自分で空き時間
アカデミック系で大学院行かない?」と来た。
を利用して量を増やさなくてはいけないのです。
「へっ?無理ですッ」アカデミックなど考えたこともな
ところで、セントマのコースには将来 UAL のフルタイム・
かった私は驚きながらも、とっさに答えました。日本で
コース進学を考えている人がたくさん通っていました(っ
は(一応)大学に入って真面目に通いはしたが何を勉強
て、私もそうだったんだが)
。そのため、コース後半の 2
したか覚えてないし、専攻(経済学)を活かした仕事に
週間はチューターがポートフォリオのアドバイスをして
就いたわけじゃなし、その仕事だって手に職とは無関係
くれ、他の学生の作品を見る機会に恵まれました。そこ
な事務だったし。
で自分の作品との差に愕然。
いい男に出会いたければ
やがて週を追うごとに、
「本当にグラフィックが好きで
彼女が私にアカデミックへの転向を勧める理由は次の
勉強したいのならこのコースをもっと楽しんでいるはず
ようなものでした(彼女の直球のセリフ、ほぼそのまま)
。
なのに、コンセプトやアイデアを考えることを重荷に感
◆その歳でゼロからアートを始めるのは負け勝負に打っ
じている時間が結構長いかも…」と考えている自分を発
て出るようなものよ。
見。そしてコースが終了する頃には(いや実はもっと早
い段階で)
「グラフィックといっても自分にとっては趣味
◆アートを始めるにはもっとピュアな心が必要よ(7年
レベルの『好き』に過ぎなかったのかも。毎日勉強した
も社会で揉まれて賢くなった分計算高くなって心が汚れ
いワケでもこれで食べていきたいワケでもないし」とはっ
ているでしょ。ま、大人になるってそーゆーことだけど)
きりわかりました。
◆大学院課程はもちろんタフなコースだが、アートと違っ
今更悩む 31 歳(おい、
)
てやった分だけ確実に reward(英語力)が残るし、履歴
書上わかりやすい学位でしょ。大体、
あなた(ってゆうか、
グラフィックじゃないとしたら何をしたらいいん
日本人に)足りないのは自信なのよ。今はとても自分に
だっ?と超プリミティブな問題にぶつかったワケです。
はムリだと思っているだろうけれど、やり始めたらあな
ここで血迷った31歳は本屋に走って Hot Courses とか
たのようなしぶとい性格の人は必ず最後までちゃんとや
いうロンドンでのお習い事コースを紹介している雑誌を
るのよ(カネが戻ってこないとなれば、特にね)
。大変な
購入しました。
「グラフィックじゃなければ今流行りのア
分、やり終えたときに得る自信はとても大きいし、その
ロマテラピーかな」と、これまでの人生と何のゆかりも
自信こそが長い人生のパワーになるわ。大体、
「一応大卒
興味があるわけでもないコースを物色。
ですが」っていちいち断りを入れなきゃいけない学歴っ
この悩みをホスト・パパ&ママに打ち明けたところ、
「日
て納得できないでしょう。長い人生のたった 1 年くらい、
本でお世話になった会社のブランチがロンドンにもあ
死ぬほど勉強してみない?堂々のシティ大学 MA 卒を目
るって言ってたでしょ?そこに行って相談してみたら?」
指して、さ。
とアドバイスをしてくれました。
◆(これまでの人生、熊本ではいい男に出会わなかった
のでしょう)
(出会っていたら今ここに居るわけないもの
ね)この先いつかいい男に出会いたいという望みを持っ
ているのなら、いい男が属する世界に脚をかけられるよ
うな女に自分がレベルアップしないと出会いのチャンス
は一生ないわ。シンデレラだって、いつものボロ服すっ
ぴんで舞踏会に出かけていたら絶対王子にシカトされて
いたわ。てゆうか、会場にも入れなかったわよ。
◆あなたのように元々欲が薄いつましいタイプはこのま
ま田舎に帰ったら多分そこらの会社に無抵抗に就職して、
出入りする業者さんや営業マンと合コンで仲良くなって、
まぁこの辺でいいかと手を打って結婚して子供産んで、
タマゴや洗剤が 10 円安いスーパーを走り回る生活に安
住するようになるのよ。
ま、訛っているとは言え、私も伊達に年をとってきた
わけじゃないし、そうそう簡単に口車に乗る馬鹿ではな
いので、
「大学院?ないな…」と心の中で軽く否定しなが
らふんふんと聞いていたのです。しかし聞いているうち
に、せっかく大決心をして会社辞めて渡英してきたのに
手ぶらで帰るのは確かに口惜しい、それにどうせ大金を
使うのならラクなものより大変でもやりがいがあるもの
の方がいい、それになんだか大学院でもやれそうな気が
してきたのでした。
金繰りの算段
その気になったはいいが、大問題が。カ、カネが足り
ません! 私が当初 London Institute(現 UAL)のコースに行こう
と思ったのは、学費が割りと安いのと3ヶ月間の英語コー
スがおまけで(タダで)ついてくるというのも大きな理
由だったのです。それが、アカデミックの大学院コース
ともなると授業料が大幅に跳ね上がるし事前の準備コー
スも超高くて、これじゃどうムリしても鼻血も出ません。
と、あれこれカネの算段をする私の頭の中をレントゲン
したかのように、かの女性スタッフが「大学院の席は1
年保留できるから、準備コース終了後は一旦帰国してカ
ネ貯めて大学院には来年戻ってくればいい」という裏技
を教授してくれた。なるほど。パンフレットをもらって
その日は帰りました。
第 28 話:熊子、アカデミックへのターン
よくよく考えてみたら、私、経済学部出身だったし、
(この歳で)アートをゼロからなんて、ちと計算が甘かったかしら?
刺激的だったつかの間のアーティスト生活に別れを告げ、ターゲットを MA 取得に定めたものの、資金面で問題が(足
りないってこと)…どうする、熊子さん。
2005 年3月:ありがとう叔母さん
2005 年 4 月:GPC(Graduate Preparatory
Course) 前期
帰ってからパンフを熟読。半年間の UCL 大学院準備突
貫コース (GPC) も大学院(City University)もなかなか興
GPC 開始。初日に指定された場所に向かうと、そこに
味深いコースであることが判明。ユニコン作成のコース
集まっているのは 95%アジア人。セント・ジャイルズで
案内マニュアル(日本語版)には何度もしぶとく「大変
見かけたような人たちも
(全員ユニコンっ子)
。皆でおしゃ
です」と書いてあるが、なんだか頑張ればやれそうな気
べりしているとインタビューの日に会った男前が登場。
がしてきました。
彼に引率されて、やれ学生証発行やら設備の使用説明や
らでその日は終了。コースの第一週はクラス分け目的の
一人では結論を出しかねたので、昔から何かとお世話
テストがかなりしつこく行われました。
になっている叔母に相談メールを送りました。息子を高
校から留学させている叔母はガイコクのことに詳しいの
授業は読み書き中心ですが、進み方は割りとゆっくり。
で、渡英後も送金手続きや留学生保険延長手続きなどの
課題の量もクラスごとに違います。私のクラスはゆるめ
(英語が必要な)事務処理面でお世話になっていたのです。 の方で、
「もっと宿題出せ」と文句を言う人もいたけど、
大学院という進路に変更したいこと、資金不足なので大
ユニコンのマニュアルに「前半はゆっくり進むが、ここ
学院準備コースを終えたら一旦帰国して金を貯めて 1 年
で気を抜くと後半苦労するぞ」と脅してあったので、毎
後に大学院に進学しようと思っていることを伝えました。
日夜8時頃まで学校の自習室で勉強をしました(家では
まもなく返ってきた叔母のメールには、
勉強しないから)
。GPC は通常なら1年かかるコースを
5ヶ月に短縮したものなのでその分ハードだと聞いてい
●自分で出した決断なら賛成だし、進路を変更するのは
ましたが、放課後のレクレーション企画などが充実して
別に恥じることではない
いたせいか、それほど辛いとは思いませんでした。
●準備コースと大学院の間に 1 年帰国するのは反対。進
学へのモチベーションも英語力も下がるに決まってるか
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世ご逝去のとばっちり
ら、一気に終わらせて帰ってきなさい……
( クマ子の歴史的思い出)
……そうは言ってもね〜」なんて、続きを読むと、
進路(GPC)が決まりひと安心した 3 月、
「イタリア
「というワケで、
(留学資金の不足分は)叔母さんが貸し
1人旅」の敢行を決心。ベネツィア・フィレンツエ・ロー
てあげる。それでも足りない分はばーちゃん(叔母の母)
マを列車で回ろう!と、フライトもホテルも列車も手配
から借りてあげるから、1年半は死ぬ気で勉強しなさい」
し出発を待つのみだった3月末頃、
「ローマ法王が入院
と書いてあるじゃあありませんかーっ!うおー、言って
しました」
「ローマ法王の具合が急変しました」
「小康状
みるものですねー。人様にお金を借りるのは少し気が引
態です」と言ったニュースが流れるようになった。最初
けたけど、いろいろ考えてありがたくお借りすることに
は特に気に留めていなかったけど(法王、すみません)
、
したのでした。
そのうち、
「お亡くなりになると全世界から多くの人々
がローマにお悔やみに押し寄せることが予想されるので
UCL の門をくぐる
ローマは空港閉鎖を検討しています」なんて言い出した。
全世界の皆さんとは違う意味で私も「
(まだ)死なないで
そうと決めた後は早かった。ユニコンから渡された
UCL の申込書&入学テストを提出し、その日のうちに大
〜」と懇願する毎日となりました
(法王、重ねてすみません)
。
学院準備コースのコース・ダイレクター(なかなかの男前) しかし不謹慎な祈りも空しく、4月2日ローマ法王ご
とインタビュー。
「じゃ、ちみ合格ね♪」と軽い感じで握
逝去。そして恐れていた通り、ローマの主要空港以外の
手をして4月からの学習の場が決まりっ。
空港は閉鎖決定。
ツアー出発予定日の2日前、旅行会社から「ご予約の
フライトはキャンセルになりました。代わりにペルージャ
に行きませんか?」というメールが届いた。
2日前に言われてのこのこペルージャにいけるかっ !
第 29 話:熊子、GPC 後期
大学院準備 5 ヵ月突貫コース (GPC) もいよいよ佳境に。そして歴史的惨事が。
2005 年 7 月 7 日早朝、ロンドン・テロ同時発生。ロンドンの目抜き Russell Square ではバスが爆発されました。
Russell Square はユニコン・ロンドン事務所のホームグラウンドであるだけでなく、ロンドン大学の母体校 UCL、
SOAS、セントラル・セイント・マーチンズ、セントジャイルズ・セントラル校など、ユニ学生に超お馴染みの教育機
関が建ち並ぶロンドン随一の文教エリアです。
テロ直後、界隈の車道や歩道の全てに立ち入り禁止を示す黄色のテープが張り巡らされ、私達はビルから出ること
も許されませんでした。固定電話もケータイも不通となり、今夜はここ(事務所)でゴロ寝かと、事務所内をチェッ
クしたところ、ミルク数箱とカップヌードル 2 個ともらいもののお菓子となぜかビール2缶を発見、こんな一大事の
最中だと言うのに、人間はなんと現実的な行動に走るのだろう。
夕方、一部解除された黄色のテープの隙間からようやく外へ。見上げれば、薄紅の雲が散る美しい 7 月のロンドン
の青空。その下を黙々と歩く人々の群れ。いつもなら観光客とバスと車で満ち溢れている大通りには一台の車の影す
ら無い。ほんの数時間前にすぐそばで幾つもの命が不条理に失われたというのに、私も彼らも今こうして生きて歩い
ている。その事実の残酷な不思議さに胸を打たれ、美しい空とテロという異様なコントラストの前に立ちすくんだ日
でした。
2005 年 6 月:GPC 後期(プリセス)
2005 年 7 月 7 日:ロンドン・テロ
GPC 前半を終えたところで後期用のクラス分けテスト
後期 GPC 中にあの7月7日テロが起きました。朝イチ
があり、数日の休暇後に後期戦が始まりました(後期戦
の授業開始時間になっても生徒がぱらぱら、先生もきま
は Pre-sessional Course の別名で呼ばれています)
。
せん。日本なら「何かあったのか?」と不審に思うのが
前期まで英語レベルが似たりよったりの仲間でほんわか
普通だが、すっかり適当王国イギリスに慣れきっていた
やってきたのですが、ここでどどーっと参入してきたの
私は2、3人のクラスメートと「みんな、遅いねー」な
が(英語の問題なんかほとんど無さそうな)ヨーロッパ
どと話していました。 まもなくチューターが
勢(全員 IELTS スコアが軒並み7とか8)
。
来て「地下鉄で事故があったみたいなので自習室でニュー
コース・ダイレクターも男前から関根勉似のおっさんに
スを見ましょう」と、皆でテレビのある自習室に移動し
変わり、スケジュールがぐっとタイトになり、下がり気
ました。
味なのはテンションだけ。
最初はどこのニュースでも「電気系の事故で地下鉄が
「平日は夜まで頑張るが、土日は勉強しない」と言う甘
ストップしている」と言っていたが、
時間が経つにつれ「バ
あまなルールを自分で決めていたのだが、エッセイの課
スが爆発された」
「死亡者がでている」
「テロの可能性あり」
題が増えてくるとそうも言っていられなくなり土曜も勉
というシリアスなものに。
強する事に(UCL の自習室は土曜日も空いているので)
。
前期はライティングのツボが分からず苦労したけど、後
そこからチューターと学生が手分けしてまだ学校に来
期の tutor は教え方がすこぶる上手で、ライティングが
ていない人の安否確認作業が始まりました。電話がなか
急速に苦でなくなっていくのが分かりました。
なか通じなかったけど1人を除いてみんな無事であるこ
ところで、彼女は優秀な教師である半面ルーズなとこ
とが判明。その1人というのはアラブ系の超金持ちお嬢
ろがあり遅刻の常習者でした。授業の途中で「今日は
様で、学校には(ほとんど来ないけれど、来るときは)
「バ
これからオックスフォードに行かなくちゃいけないから
スも tube も使わないから大丈夫(タクシーしか乗らな
30分早く終わっていい? いやなに、今週教えるべき
い)
」という事で一見落着。
ところはちゃんと昨日のうちに終わっているから心配な
バス爆破の1件が UCL のすぐそばで起ったのでキャンパ
いわー」と学生を残したまま帰ったりというちゃっかり
スは「立ち入り禁止」のテープにすっぽり覆われて外に
ぶり。
出ることができません。バスも tube も週日ストップされ、
しかし、
「私が教えた事をちゃんとやれば修了試験で必要
徒歩で帰れない学生には UCL が学寮を提供してくれるこ
なスコアは必ず取れるし、大学院に進んだ後も必ずサバ
とになりました。
イブできるわ」という彼女の超自信満々な言葉通り、最
終的にクラス全員が進学に必要なスコアを大幅に上回る
私の住んでいる地域(Highgate)は途中からバス路線
スコアを取って無事に進学を決めたのでした。
が一部運行を始めたらしいと聞き、がんばって帰ること
にしました。
「明日の授業はどうなるんでしょーか?」と
(関根ではなく)男前に聞くと、
「ん?通常通りやるよ?
テロは確かに怖いけど、これで日常生活を止めてしまっ
たらテロリストに負けちゃった事になるからね。普段通
りに生活するのが一番なんだよ」との返事。英国人はタ
フだなぁ。
それからしばらくの間はバスの中で誰かがちょっとでも
不審な動きをしたり、
「かさっ」と音がするたびにドキド
キしました。
2005 年 7 月:大学院合格
GPC の途中でユニコンが勧めてくれた City 大学の社会
学部にアプライすることにしました。
UCL の tutor 達に助けてもらいながら書類を揃え IELTS
のスコアもクリアして願書提出。2、3週間後にあっさ
り Unconditional Offer をもらいました。