「vol.5 2004-0606

源 聖寺坂
天 王 寺 区生 玉 寺 町
下寺町 1丁 目にある源聖寺 の南側 から生玉寺町
に至る狭く曲が った石 畳の坂です。
この坂は登 り口に源聖寺があるので、源聖寺坂
と名づ けられました。
源聖寺坂や 口縄坂など夕陽 丘にある坂 は、上町
台地の代表的な坂 で、遊歩道としても知られてい
ます。最初 は石畳道ですが、やがて階段状になつて
います。
影残雲珀ツタか グαガレ
新選 組 大坂 屯 所跡 (萬 福 寺 )
天 王 寺 区下 寺 町 1
≫ 萬福寺を開 いた僧 開尊 は、戦国武将 加賀の前 田利家の 弟 にあたります。
その萬福寺 は、幕末期 に一 時的な期間だけ新選組 の大坂屯所にあてられました。
昭和 45年 の 火災で本堂 が焼 けて新築されており、当時の面影 は残されていません。
しかし、天保年間に建てられた灯籠が残 つており、幕末 当時の姿を偲 ばせています。
新選組大坂屯所 の 隊長 に谷二兄弟の次兄 谷 万太郎が任命され 、20人 ほどが
詰 めていたようです。
慶応元年 (1865)5月 26日 、南堀江で私塾「玉 生堂 」を開 いていた勤皇派 の儒学者
藤井藍 田を捕 らえ、この 屯所の納屋を臨時の牢獄にしたてたうえ、そこに放 り込み
ます。捕縛理 由は、倒幕 の 密謀をおこなつたためということです。
実際は、大坂屯所に詰める新選組の功績を挙 げたかつたため 、たまたま
紀州藩邸 に近 い場所で私塾を開 いていた藍 田を怪しいというだけで捕ら
えたとの説があります。
新選組 は藍 田を非情 ともいえる拷間にかけ、何も喋らない藍 田を槍 で
刺し殺 してしまつたそうです。その時の槍きずが納屋の柱に残されていた
ようです。絶叫をあげ拷間死 した藍日の声が、当時の住職の耳に残り、
納屋を板で囲 つてしまったそうです 。
納屋を含 め本堂は戦災 に遭 わなかつたのですが、昭和 45年 の火災で
すべ て焼 失してしまいました。
谷 万太 郎
夕霧 太 夫 墓 (浄 国寺 )
天 王 寺 区生 玉 町 2
)夕 霧太夫は、京都島原 の宮島甚 二郎抱えの遊女
′
でしたが、寛文 12年 (1672)、 21歳 のとき大坂新町
の 扇屋 四郎兵衛 が鳴 り物 で迎えます。京美人 という
こともありたちまち人気が上がります。井原西鶴 の著作
「好色 一 代男」の 中で夕霧太夫をべ た誉めしています
しかし、扇屋 に来てから6年 後病気で亡くなります。
亡くなつてlヵ 月後、荒木与次兵衛座 で「夕霧名残の
正 月」という歌舞伎が 上 演され 、夕霧太夫の馴染み客
伊左衛門を演 じた坂田藤十郎 が 大人気となります。
その後、坂 田藤十郎 は夕霧太夫の年忌ごとにこの 芝居
を上 演 し、計 18回 上演されたそうです。また、夕霧太夫
の死から35年 後 に近 松門左衛門作 の「夕霧阿波鳴門」
が評判となります。
この物語 では、扇屋ではなく吉 田屋が 舞台 となっています。
夕霧太夫の墓 は扇屋の菩提寺だつた浄国寺に建てられます。初期 の墓 は、角型でしたが、
「墓石を削りそれを飲 めば病気 が 治る」という噂 が 広まり、破損してしまいましたので、
文久3年 (1863)、 丸型の墓碑が再建されました。
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英国 公 使 ハ リー・パ ー クス宿 泊 の地 (正 法寺 )中 央区中寺2
慶応3年 (1867)3月 、第 15代 将軍となった徳川慶喜 と各国公使 との
・サ トウに前
謁見 が大坂城で行われた際、パ ークスはアーネスト
もつて宿舎の手配をさせていました。
この 時は、本覚寺を中心 に3つ の寺が割 り当てられたとのことで、
正 法寺であつたという決め手はありません。
しかし、次の来坂となった同年7月 、パ ークスは正法寺に宿泊した
とアーネストロ
サ トウの 日記 に記載され ています 。
パークスは長崎 で
慶応3年 (1867)7月 24日 、イギリス公 使 ハ リー ロ
起 こつた「イカルス号事件」(英 国水夫が 日本の武士に殺害される
という事件 )の 協議を幕閣と行うため来坂し、ここ正 法寺 に宿泊
します。
翌 25日 から26日 にかけて板倉勝静と談判を行 います。海援隊 士
による犯行と疑 がわれ ていましたので、パ ークスと幕府高官 が
高知 に行き調査を行うというパ ークス側 の意 見を、幕府は全面的
に受け入れます。
Tギ 鶴
I
ハ リー・パ ークス
この会談直後 、パ ークスは将軍徳川慶喜 から大 坂城 へ の招待を受け、7月 27日
(陽 暦 8月 26日 月曜 日)、 3月 に続 いて大坂城の 白書院で謁見します。
その 日、慶喜 は佐賀藩の前藩主である鍋 島閑曳をパークスに引き合 わせています 。
英国外交官 アーネスト サ トウ宿 泊の地跡 (本 覚寺跡 )
中央 区 中寺 2
アー ネスト サ トウは 、文 久 2年 (1862)8月 、生 麦事 件 の 直前 に 、
駐 日イギ リス公 使 館 付 の通 訳 生 として 、19歳 では じめ て 日本 の
土 を踏 んでか ら、幕 末・維 新 の動 乱 期 を目撃 し、そ の 間 、そ の
地 位 は通 訳 官 、日本 語 書 記 官 と昇進 を続 けて、明治 15年 に
レグアイ)、
至 りました。そ の 後 バ ンコク(タ イ)、 モンテビデオ (ウ リ
タンジー ル (モ ロッコ)で の 勤 務 を経 て、や が て明治28年 (1895)、
日清 戦 争 直 後 の 日本 に公 使 として帰 任 し、明治 33年 (1900)に
駐 清 公使 に転 じるまで、そ の 職 にあ りました。
サ トウの 日本 勤 務 は 、通 算 すると約 25年 に及 びます 。
「サ トウ」という名前が 日本
サ トウは 日本語 が大 変堪能でした。
で多いことなどから、日本人 の血が流れていると思われがちです
が 、サ トウの祖先はドイツに住んでいました。バ ルト海の港町
ヴィスマールという町の中にSatOw(種 を蒔く人の村という意 )と いう
地名があり、この地名から姓名になつたようです 。
この地ではありら、
れた姓だそうです 。
<初 めての 来坂 >
初めて大坂に来たのは慶応 3年 (1867)1月 7日 です。来坂の 目的は、将軍徳川慶喜が
外国公使謁見を予定している日時とその準備状況。イギリス公使 の宿舎が適 当である
かどうか 。そして大坂の町の商 業活動 、兵庫開港及び大坂開市に対する住 民の感情を
視察することでした。
・サ トウの 日記によると、
アーネスト
「天満橋を渡 り、///″ を つて左 折 ι、さら│こ右折 ιζ
後 %課 てι鋒 ¨ 覆 箋 脅 せ 、とル タ れ わ ″ %栓 α 猪 寺町 の本覚院 rf〃
ごや つてきた。衡の ナごιぼ けれ し ろ ノと記載されています。
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翌 日の 1月 8日 、漆器を買い求め に心斎橋筋 に出かけ、9日 には四天王寺
を探索しています。
9日 の 午後 に薩摩藩士 吉井幸輔 (の ちの友実 )が 、サ トウに会うため
本覚寺を訪れています。
10日 、北御堂と南御堂を訪ね 、大坂の町を探索します。
11日 には 、再び吉井幸輔が小松帯刀を伴つて本覚寺を訪ね 、朝食をとつて
います。小松と吉井は、朝食 に出たパテ・ドロ
フォアグラとビールが大いに
気に入つたようです。
12日 、今度は逆にサ トウが 薩摩藩大坂蔵屋敷を訪ねています。
13日 、大坂東町奉行の竹内 日向守 幸彙 (ゆ きつね )が 、11日 の 夜 に続 いて
本覚寺を訪ねて会談しています。
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ヽ 、 ヽ 為 ﹂
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本覚 寺跡
本 覚 寺 が移 転 す る前 の 古 地 図
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サ トウの 日記 には 、最初の大坂出張を記念してか、関係者 ―行 の集合写真 が 添付されています。
撮影したのは、浪花心斎橋北詰塩町角 写真師 中川信輔 で宿 舎本覚寺 の庭で撮影 したものと考え
られます。一 緒 に写つているのは、イギリス外交官ミットフォード、イギリス第九連隊カーデュー大尉 、
デンマー ク士官タルビッツァー 少佐 、サ トウの従者 野 口富蔵、サ トウの下僕 安次郎、ミットフォード
が北京から連れてきた中国人 林福と亜金です。
タルビッツァー少佐
<2回 目の 来坂 >
サ トウは 、慶 応3年 3月 、公 使 ハ リー・パ ークスと共 に 来坂 しました 。
宿 舎 はサ トウの 日記 によると、本 覚 寺を中心 に3つ の 寺 が割 り当てられ たとあ ります ので、
2回 目の 来坂 で本 覚 寺 に宿 泊 したか どうか の 決 め 手 はあ りませ ん 。
<3回 目の 来 坂 >
慶 応 3年 7月 、北 陸 の 視 察 を終 え、7月 23日 大 坂 に到 着 します 。
本 覚 寺 で宿 泊することになります 。到着 翌 日、公使 パ ークスも大 坂 に到 着 し、長 崎で起 こつた「 イギ
リス 軍 艦 イカル ス号 水 夫 2名 殺 害事 件 」をサ トウらに伝 えます 。
この 事 件 につい てパ ー クスと幕 閣 板 倉 勝 静 との交 渉 、さらには パ ークスと徳 川慶 喜 との大 坂城 での
謁 見 が 行 わ れ ています 。詳 細 については 前 記 の とおりです 。
大 坂城 謁 見 の 当 日早 朝 、7月 27日 、薩摩 藩 士 西 郷 吉 之助 が 本 覚 寺 にい るアーネスト・サ トウを訪 ね
ます。
そして28日 には 、サ トウが西郷吉之助を訪ねるため出かけて
います。詳細 は次の項で取 り上 げます。
この本覚寺 は移転し、当時あつた場所にはマンションが建 つて
います。
・サ トウはこの イカルス号事件解決のため、
さて、アーネスト
長崎 で才谷梅太郎と称する海援隊長 坂本龍馬と出会います。
坂本 龍 馬像