1 長州藩兵(第二奇兵隊)宿営の地/信行寺

西 宮市 今 津 真砂 町
幕末期 、外国船 に対する防衛 のため、摂海 (大 阪湾 )防 衛策 として数箇所 に砲台 を築くことになり
ました。軍艦奉行並 勝 海舟 は砲台の設置場所の調査をするため 、文久3年 (1863)2月 30日 に
和 田岬と湊川を訪れ砲 台の設置場所を決 め 、翌 日の3月 1日 、西宮及び今津の砲台設置場所
を決めました。勝 海舟 日記 に次のとおり記載されています。
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『 西宮砲台と今津砲台 の工事 は、勘定奉行 と大坂町奉行 の支配下で進められ 、台場掛 には次の
ような幕府 の役人が西 宮 に出 張し工事を進 めました
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・大須賀鎌次郎 (大 坂西町奉行与 力)
・嶋 田栄太 郎 (大 坂西町奉行与 力)
・林 又七郎(勘 定吟味役 )
・矢 口孝 一 郎 (勘 定方 )
・榎本吉蔵 (吟 味方改役下役 )
・郡 司宰助 (普 請役 )
・山内源太郎 (普 請役代 り)
・田中鎌作 (小 人 日付 )
当初 は和 田岬砲台のような円形の砲台ではなく、
舞子砲 台 に似た五稜郭 のような堅城方式で進め
られていました。
しかし、財政面が苦しいという理 由で計画を縮小し、円堡に変更されました。
竣 工は慶応2年 (1866)後 半 だつたようです。
砲台 の 大きさは直径 10数 メートル、高さ10∼ 12メ ートルでした。
大正 15年 (1915)、 砲台 は民間に払い下げられ壊されました。
跡地に砲 台 の石 を使 つた記念碑 が建 てられています。
1 長州藩兵 (第 二奇兵隊)宿 営 の地/信 行寺
>
長州藩は来る王政復古 、討幕 に向け着 々と京都 へ 兵を進めていました。
慶応 3年 (1867)12月 1日 から8日 にかけて長州藩 は西宮に滞陣しました。
各隊 ごとに分散し第 二 奇兵隊 は信行寺にて宿営をしています。
西 宮市 用海 町 1
長 州藩兵 (整 武 隊 )宿 営 の 地 /正 念 寺
西 宮市 本 町 1
信行寺 の近くにある正念寺 には 、
長州藩 整武隊が宿営しています。
長 州藩兵 (奇 兵隊)宿 営 の地/海 清寺
西宮市六湛寺町 7-25
レ 慶応3年 (1867)12月 1日 、長州藩本陣 が宿 営した六湛寺の真向かいにある海 清寺 には 、同藩の
奇兵隊 が宿営しました。
長 州藩本 陣宿 営 の 地 (六 湛 寺跡 )西 宮市六湛寺町10-3晒 宮市役所
)
か 慶応 3年 (1867)12月 1日 、長州藩は西宮 の下町に兵を進 め 、
いくつか の寺に分散して宿営しました。
長州藩 の本陣は、六湛寺に宿営し、しばらくここか ら京都の
情勢を窺うことにしています。
六湛寺 は現存せず 、跡地は西宮市役所となつています。
名残として石碑と道標 があります。
岩 倉具視遺構 の六 英堂 /西 宮神社
西 宮市 社 家 町 1-17
≫ 六 英堂 は岩倉具 視邸 の 名称です。
当時の建物がそのまま残っている貴重な史跡です。
岩倉具視 の私邸 六英堂は東京の丸の内の馬場先門にありました。
明治6年 の政 変当時、しばしば木戸孝允、大久保利通 、伊藤博文が
訪れ密議を行 つていたそうです。
明治 16年 (1883)6月 、岩倉 は病によりこの六英堂で床に臥せ りました。
見舞 いのため 明治天皇 、皇后両陛下が六英堂に足を運んでいます。
同年 7月 20日 、岩倉具視 は養生の 甲斐なく六英堂にて息を引き取 りました
莞去後、宮内省 が岩倉邸を買い上 げ取り壊すようになっていたところ、
宮内省御用掛 の 多田好間が請願 して旧岩倉邸を譲 り受けました。
角筈村 に移築して「隣雲軒」と名づ けて保存が図られました。
その後、渋谷 に移転しています。
多田好 間の没後、所有者 が川 崎茂太郎 :1崎 造船社長 )に 移 りました。
大正 11年 (1922)7月 、保存 目的で川崎茂太郎 の 自邸である神戸の布引丸山 (神 戸市中央区
布引丸山)に 移築されました。
「隣雲軒」から
「六 英堂」に改称されました。
名称も
岩倉具視 、三 条実美、西郷 隆盛 、大久保利通 、木戸孝允、伊藤博文ら6人 の位牌と写真を祀 つた
事 から六 英堂と名づ けられました。
その後、川崎氏の所有から離れ 、神戸市の観光会社 に移 り、その会 社より西宮神社 に寄進され
ました。(昭 和 51年 8月 )
位牌は今でも布 引の徳光院に祀られています。
(り
西 宮 砲 台 跡
西 宮 市 西 波止 町
幕末期 、外国船 に対する防衛 のため、摂海 (大 阪湾 )防 衛策として数箇所 に砲台を築くことになり
ました。軍艦奉行並 勝 海舟 は砲 台 の設置場所 の調査をするため、文久3年 (1863)2月 30日 に
和 田岬と湊川を訪れ砲台 の設置場所を決 め 、翌 日の3月 1日 、西宮及び今津の砲台設置場所
を決 めました。勝 海舟 日記 に次のとおり記載されています。
i鑢蝶 鴫 ″ヨ海 岸 だ〃 ク、地所を定 れ ″ β、意 へ″ 統 似 下電総 L
西宮砲台と今津砲台の 工事 は、勘定奉行 と大坂町奉行 の支配下で進められ 、台場掛 には次の
ような幕 府 の役 人 が西 宮 に出 張 し工 事 を進 めました 。
・大須 賀鎌 次 郎 (大 坂西 町 奉 行 与 力 )
・嶋 田栄太 郎 (大 坂西 町奉 行 与 力 )
・林 又七 郎 (勘 定吟 味役 )
・矢 口孝 一 郎 (勘 定 方 )
・榎本 吉 蔵 (吟 味 方 改 役 下役
・郡 司宰 助 (普 請 役 )
・山 内源 太郎 (普 請 役 代 り)
・田中鎌 作 (小 人 日付 )
)
当初 は和 田岬砲 台 の ような円形 の 砲 台 ではなく、
舞子 砲 台 に似 た五稜 郭 の ような堅城 方 式で進 め
られていました。
しかし、財政面 が苦しいという理 由で計画を縮小し、円堡に変更されました。
正確な記録が残されていませんが 、竣 工 したのは慶応 2年 (1866)の 秋 ∼冬頃だつたようです。
大砲 2門 と弾薬庫 が設 けられました。空砲を試射したところ、硝煙 が堡 塔内に充満 し、実戦 には
使 えないことが判 りました。実際 に使用されず明治維新を迎えました。
その後 、明治 17年 (1884)に 火災 のため内部の木造構架を焼失しましたが、幸 い石椰部分 は築造
当時の原型 が残 りました。
西宮砲台 の土塁 は破壊されたものの、円堡塔は残され 、幕末 当時の土 木技術を知る貴重な史跡
として、大正 11年 (1922)3月 8日 内務大臣指定史蹟 として指定されています。
昭和 9年 の室 戸台風 による被害のあと屋根の復元 工事 が行われ 、また昭和49年 から50年 にかけて
鉄骨 による石椰 の補 強 工事賀され現在 に至つています。
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