マルコ福音書注解 - 日本キリスト教団出版局

NTJ ホームページ掲載
見本原稿
マルコ福音書注解
挽地茂男
黙示的勧告(13:1-37)
目覚めを呼びかける譬え(13:33-37)
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日本キリスト教団出版局
NTJ ホームページ掲載見本原稿─マルコ福音書
挽地茂男(2014.9.24 公開)
13:33-37 翻訳、形態/構造/背景
13:33-37 形態/構造/背景
出たと思われる)主人の与えた指示を忠実に果たす僕と、主人の帰りが遅い
黙示的勧告(13:1-37)
と見ると、仲間を殴りつけ、酒飲みどもと酒宴を催してはめを外す不忠実な
僕を対照する「忠実な僕と悪い僕」の譬えである。人の子の来臨が、それぞ
れの譬えの前段落で言及されており、文脈上、人の子の来臨の言及に対して、
目覚めを呼びかける譬え(13:33-37)
それを待つ者の態度を例示する「忠実な僕と悪い僕」の譬えが続く形になっ
ている。しかしそれぞれの福音書全体の大きな文脈で見ると、譬えの位置
づけおよび意味づけに大きな差が見える。マタイ版の譬えは、マルコ 13 章
と並行する文脈、つまりイエスの終末論的言辞の中に置かれている。そして
1. 翻訳
33
それに先行する前段落(マタ 24:36-44)で、人の子の来臨が思いがけないと
「気をつけて、目を覚ましていなさい。なぜならあなたがたは、その時が
きに起こるということを、ノアの洪水と泥棒の侵入にたとえて、いつ主(o`
いつであるのかを知らないのですから。 それはちょうど旅に出る人が、家
ku,rioj u`mw/n「あなたがたの主」または「あなたがたの主人」)が帰ってくるか分
を後にする際に、彼の僕たちに権限を与え、それぞれに彼の仕事をまかせ、
からないので「目を覚ましているように」(grhgorei/te、マタ 24:42)と勧告が
35
そして門番には、目を覚ましているように命じておいたようなものです。
なされている。ルカ版の譬えは、イエスがエルサレムへの旅の途上で弟子た
それゆえあなたがたは、目を覚ましていなさい。なぜならあなたがたは、家
ちに与える、「愚かな金持ちの物語」(12:13-21)や烏や野の花を指して「思
の主人がいつ帰ってくるのか知らないからです。それが夕方なのか、夜中な
い煩うな」と語る(12:22-34)一連の教えの一つとされていて、終末論的な
のか、鶏の鳴く頃なのか、それとも明け方なのか、知らないからです。
彼
言及は、信徒の信仰や忠実さを鼓舞する倫理的要素へと後退している。譬え
が突然帰って来て、見ると、あなたがたが眠っているということがないよ
の前段落(ルカ 12:35-40)は一連の教えの文脈にそって、人の子の来臨が思
うに。 しかしわたしがあなたがたに言うことは、すべての人に言うのです。
いがけないときに起こることを、婚宴に出かけた主人(o` ku,rioj)の帰りと
目を覚ましていなさい。
」
泥棒の侵入にたとえて、不意を突かれても「目を覚ましている」(grhgorou/
34
36
37
ntaj、ルカ 12:37)のを、つまり忠実な信仰的態度を見られる者は幸いである
34 節:直訳「命じた」(evnetei,lato( Ⅰアオリスト);口語訳、新改訳、新
としている。マルコ版の譬えは、マタイ版やルカ版の短縮形である可能性が
共同訳等主な邦訳は「命じる」
「言いつける」
「言いつけておく」等、
指摘されることがある─その際イエス自身によって短縮された可能性も、
現在形に訳す。
福音書記者によって短縮された可能性もある(Guelich 1989:341)。いずれに
せよ、この譬えが伝承的要素を強くもつことは確かである。しかしマタイ版
2. 形態/構造/背景
最後の「門番の譬え」(マコ 13:33-37) に類似した記事が、マタイ福音書
とルカ版のどちらの譬えにも、マルコ版に見られる「門番」(qurwro,j)が登
場しない、ということに注意が必要である。
ブルトマン(ブルトマン 1983:I.301)は、33 節をマルコの編集句としている。
とルカ福音書にある─どちらも Q 資料に由来する譬えである(マタ 24:45-
しかし、33 節で用いられる avgrupnei/te(「目を覚ましていなさい」) は、伝承
51 /ルカ 12:41-48)(シュヴァイツァー 1976:381)。それぞれの譬えが置かれた
に由来していると見るべきである(Lohmeyer 1963:284; Pesch 1977:2.314)。マ
文脈は異なっているが、内容的にはどちらも、外出した(婚宴や所用で旅に
ルコは「目を覚ましている」と言う場合に grhgorei/n(「目を覚ましている」)
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13:33-37 形態/構造/背景
13:33-37 形態/構造/背景
という言葉─これも元来は伝承に由来する言葉だがこれ─を、編集的
準に資料分析を行うと、ブルトマンのようなきわめて画一的な資料分析に満
にも好んで用いるからである(13:34, 35, 37; 14:34, 37, 38)。グニルカ(Gnilka
足することになる。資料分析はすでに解釈作業の一部であり、福音書記者の
1979: 2.209) は、avgrupnei/n(「目を覚ましている」) が、知恵の伝承に由来す
もつ構想やテーマ性が考慮されていなければ十分ではない。「門番」に関す
ると考えている(LXX 箴 8:34; 知恵 6:15; シラ 33:16)。例えば知恵の書 6 章 15
る言及はマルコの編集である。たとえ「門番」への言及を伝承に由来すると
節では、このように用いられる。
一歩譲ったとしても、33 節の avgrupnei/n(「目を覚ましている」)の場合と同じ
く、そこにはマルコの編集的意図が支配的に働いている。
幸いなるかな、 わたし〔=知恵〕に聞き従う者、わたしの道を堅く保つ人
さらにブルトマンは 34 節から 35 節 a までが古い伝承的要素で、35 節 b
は。彼は、日々、わたしの戸口を(evpV evmai/j qu,raij)寝ずに見張り(avgrupnw/n)、
が寓意的な拡大であるとしながらも、35 節全体が「二次的に作られた言葉
わたしの玄関口の柱を見守る。
の可能性がある。なぜなら grhgorei/te ou=n〔「それゆえあなたがたは、目を覚
(LXX より私訳。
〔
〕内は筆者による補足)
ましていなさい」〕 はもっぱら門番を眼中に置いており、他の僕たちは無視
しているからである」としている(ブルトマン 1983: I.301)。この点がもっと
ここでの avgrupnei/n は、知恵深く生きようとする者が、神の知恵を得ようと
掘り下げられたら、分析の結果は違ったものになったと思われる。34 節の
して、知恵の出所を寝ずに見張っている、その強い希求の現れとしての「目
三人称表現が、35 節に入ると突如として二人称に換えられて、譬えが弟子
覚め」を意味している。その他旧約(LXX)ではサム下 12:21; エズ 8:29; ヨ
たちへの勧告に移行していることからしても、少なくとも 35 節 a は編集と
ブ 21:32; 詩 102:8, 127:1; 雅 5:2; ダニ 9:14; およびエズ・ギ 8:58 に、新約で
見るべきである。ディベリウス(Dibelius 1934: ET 212-13)も 35 節を伝承と
は、ルカ 21:36; エフェ 6:18: ヘブ 13:17 などに現れるが、いずれも基本的な
見ているが、まったく根拠を示していない。テイラー(Taylor 1966:524)は、
意味は、
「見張りをする」
「何かを注視・注目する」
「監視・監督する」とい
34-36 節を「複数の譬えからなる一つの説教的反 響音(a homiletical echo of
う、何かの番をする者の「目覚め」を意味している。マルコはこの avgrupnei/n
several parables)」と呼んで、この箇所全体のもつ有機的な性格については述
を、13 章 29 節の「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に(evpi.
べるものの資料分析の詳細については何も語っていない。36-37 節がマルコ
qu,raij)近いことを悟りなさい」という言葉との連関を意識して、伝承から
の編集句であることにつ
採用し(29 節「注解」参照)、これを「気をつけていなさい」(ble,pete) の後
いて、研究者の間に異論
に挿入して「目覚め」のテーマを導入し、さらに「門番」(34 節)への言及
は見られない。よって資
を付加してこのテーマを強化し、最後(37 節)を「目を覚ましていなさい」
料分析の結果は右図のよ
と結ぶことによって、33-37 節の全体を「目覚め」のテーマでまとめ上げて
うになると考えられる。
いるのである。
34 節についてブルトマン(ブルトマン 1983:I.301)は、「おそらく古い伝承
ところでテイラーの指
摘は、資料分析の詳細に
33
34a
34b
35a
35b
36
37
編
集
伝承的要素 avgrupnei/te
編
集
伝承的要素 grhgorh|/
伝
承
編
集
伝
編
編
承
集
集
grhgorei/te 編集的使用
grhgorei/te 編集的使用
片であり(マタ 24:45-51 参照)、型どおりに、関係する相手をもたない w`j〔よ
ついては語ってはいないが、この箇所には複数の譬えが使われていることと、
うな〕 で始まっている」と語っている。しかし伝承として確定できるのは
それらが全体として有機的な構造に統合されているという事実を示唆してい
34 節 a の「僕たち」に関する言及部分までであり、それはブルトマンが参
る。これは「有機的統一性を欠いた構成」と見なすブルトマン(ブルトマン
照を指示するマタイ福音書との比較によって明白である。言語使用だけを基
1983:I.202) とは、趣を異にする。マンソン(Manson 1935:262) は、この箇
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13:33-37 形態/構造/背景、注解(13:33)
所が、4 節でイエスに投げかけられた弟子たちの質問に対する、一つのまと
13:33-37 注解(13:33-35)
弟子たちが「気をつけて、目を覚まして」いなければならないのは、彼ら
まった返答を提示している、と主張する。またエルンスト(Ernst 1981:392)
が、世界の終わりと人の子の来臨の「時」を知らないからである。「時」と
は 33-37 節が、目覚めていることを促す三重の命令に基づく終末論的勧告を
訳される o` kairo,j は、決定的な時、神の定めの時を意味する言葉であるが、
もって、5 節から始まるイエスの勧告全体を締めくくっていると説明してい
ここでは、「憎むべき破壊者」の到来がもたらす破局的な危険(14 節)から、
る。マルコは、この譬えの前置き(33 節)、中段(35 節)、結びに(37 節)に、
さらに「終りの日」の宇宙的異変をともなう「人の子」の出現(26 節)に至
「目を覚ましていなさい」という勧告を配置し、終末的事態の進展に動揺す
る最終的な 極 点 を指している。いつ来るか分からない「時」の到来は、目
る読者を念頭に置きつつ、
「そのことがいつ起こるのでしょうか。またそれ
を覚まして待つしかない。そしてこの「時」のモティーフが、
「門番の譬え」
らすべてが起こるときには、どんなしるしがあるのでしょうか」(4 節) と
(34-36 節)においてより鮮明にされる。
いう弟子たちの質問を介して、
「気をつけて、目を覚ましていなさい。なぜ
ならあなたがたは、その時がいつであるのかを知らないのですから」(33 節)
34 節「それはちょうど旅に出る人が、家を後にする際に、彼の僕たちに権
と応えて「目覚め」を促し、黙示的カレンダーの詮索ではなく、終末的な今
限を与え、それぞれに彼の仕事をまかせ、そして門番には、目を覚ましてい
という時を緊張をもって生きることを求めているのである。
るように命じておいたようなものです。
」
この「僕たち」(dou/loi)が、イエスの弟子たち自身を指すと考えることも
3. 注解
(Guelich 1989:341)
、マルコの共同体を指し示すと考えることも(Lohmeyer
1963:285)可能であるが、イエスの譬えは過度に限定して解釈すべきではな
33 節「気をつけて、目を覚ましていなさい。なぜならあなたがたは、その
い。直接的にイエスの弟子たちに語られている譬えが、容易に、イエスに従
時がいつであるのか知らないのですから。
」
ういかなる者にも適用可能なものとなるからである。それゆえ「僕たち」が
マルコは黙示的資料のもたらす終末的な緊迫感を背景にして、
「気をつけ
使徒たちを指し、(ヨハネ 10:3 を典拠にして)「門番」が使徒的職務を示すと
ていなさい」という表現を連呼して(5, 9, 23, 33 節)、邪説─偽キリスト、
する解釈も(Swete 1952:317)、使徒的職務を象徴するとされた「門番」をさ
偽預言者(5-6, 21-23 節)─と、迫害と苦難と「終りの日」までの忍耐(9-
らにペテロに限定する解釈も(Turner 1965:65)、すべて不当な寓意的解釈で
13, 28-37 節)について、注意を促してきた。この終結部にあたる 33-37 節で
ある。むしろこの譬えは伝承的な「僕たち」よりも「門番」に重点を移動し、
顕著なのは「気をつけて、目を覚ましていなさい」という言葉に見られる
しかも「目を覚ましているように」という命令は単数形で、「門番」にのみ
ように、
「目を覚ましている」(33 節)こと、つまり「目覚め」(覚醒)のテー
語られていることに注意が必要である(i[na grhgorh|/)。
「門番」(qurwro,j)は、
マが付加されていることである。マルコは 33 節で用いられている avgrupnei/te
ヨハネ福音書(10:3,18:16,17) を除けば、新約聖書にはこの箇所にしか登場
(
「目を覚ましていなさい」)という言葉を伝承から採用している(
「形態」参照)。
せず、マルコが、avgrupnei/n(「目を覚ましている」「番をする」)と関連づけて、
そしてこの「目覚め」(覚醒)のテーマが、33 節から始まり、34-36 節の「門
番の譬え」で反復され、強化されて(35 節)、結びの 37 節で総括の言葉と
「目覚め」のモティーフを強調するために編集的に付加したものと考えられ
る(「形態」参照)。
して表明されるとき、終結部の全体が、このテーマを強調していることが分
かる。こうして、13 章全体を特徴づけてきた勧告的な調子が、この箇所で
35 節「それゆえあなたがたは、目を覚ましていなさい。なぜならあなたが
一段と強くなっている。
たは、家の主人がいつ帰ってくるのか知らないからです。
」
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13:33-37 注解(13:35)
13:33-37 注解(13:35-37)
34 節の譬えが、35 節で弟子たち(あなたがた)に適用されている。つま
トフットのようにこれらの時刻表記に過度の寓意性を持たせることを避ける
り 34 節で譬えを語り始めたイエスの三人称の言葉は、この 35 節では二人
としても、マルコがこれによって「時への目覚め」を強調していることは確
称に換わって、弟子たちに直接に語りかける勧告に移行している。また旅立
かである。すなわち、どのような時にも、いつも「気をつけて、目を覚まし
つ「人」(a;nqrwpoj 34 節)から「家の主人」(すなわちキリスト自身、o` ku,rioj
ている」ことの必要性を強調している。いかなる時間も、弛緩した時間では
th/j oivki,aj 35 節) への変更も、マルコ共同体の状況を反映している(Taylor
あり得ない。13 章と受難物語では、終わりに向かっていく時に対して、終
1966:523)。 初期の教会は、日々主の来臨を待ち望んでいた(9:1, Ⅰテサ 5:6,
末論的な重みが加わっている。加えて「門番の譬え」に見られる「時」のモ
Ⅰコリ 16:22, ロマ 13:11, 黙 22:20)。
「譬え」から「勧告」への転換は、この譬
ティーフには、受難物語の「ゲツセマネの祈り」(14:32-42)や「十字架にお
えの具体的適用の一例を示しているだけではなく、マルコがこれを語らなけ
ける時の三重のパターン」(15:25-39)において、さらなる対応関係が見られ
ればならなかった、状況の緊急性をも示唆している(Guelich 1989:341)。そ
る(「解説」参照)。
してこの勧告は、さらに四つの夜警時への言及によって強化されている。
「それが夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴く頃なのか、それとも明け方な
のか、知らないからです。
」
36 節「彼が突然帰って来て、見ると、あなたがたが眠っているということ
がないように。
」
この「門番の譬え」は家の主人の帰宅の時への言及が、 昼間ではなく、 常
識を逸した夜に設定されていることの不自然さから、 時間設定の背後にな
んらかの意図が働いているものと推論されてきた。ライトフット(Lightfoot
1950:53) は、
「家の主人の帰宅の時への言及」(13:35) がイエス・キリスト
ゲツセマネの光景を彷彿とさせる言葉である。ゲツセマネでは、弟子たち
は眠っているのを発見されることになる。
「目を覚まして祈っているように」
(14:34, 38)と注意されたにもかかわらず、弟子たちは 3 回も眠りに落ちて
しまう(14:37, 40, 41)。その間イエスは、十字架にきわまる苦しみの「時」
の「受難前夜の諸事件の時への言及」(14:17, 32-50, 72; 15:1) に対応すると
(h` w[ra)が過ぎ去るように祈っている。弟子たちは今がどのような時である
指摘している。「家の主人の帰宅の時」(13:35) については「目を覚まして
のかを自覚していない。そして読者は、イエスが逮捕される時に見せる弟子
いなさい。なぜならあなたがたは、家の主人がいつ帰ってくるのか知らない
たちの痛ましい行動が(14:43-52)、イエスがすでに彼らに命じていたように、
4
4
4
4
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4
4
からです、それが夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴く頃なのか、明け方なの
目を覚まして祈っていることができなかった結果なのだと理解する。彼らは、
か、知らないからです」と語られるのに対して、
「受難前夜の諸事件」(14:17,
油断なく気をつけて目を覚ましているのではなく、眠りに落ちていた。危険
4
4
32-50, 72; 15:1) を描いた受難物語では、イエスは、夕方(14:17)12 弟子と
4
4
一緒に最後の晩餐にやって来る。それに続くゲツセマネにおける逮捕は夜中
4
4
4
4
4
に起こる(14:43-50)。一番弟子のペトロは鶏の鳴く頃(14:72)にイエスを否
4
4
4
4
4
認する。そして、夜が明ける(15:1)と祭司長、長老、律法学者たちは、イ
が突然、彼らを襲うとき、彼らはパニックに陥り、自分たちの主人を見捨て
てしまう。このような弟子たちの姿は、マルコの読者の心に忘れがたい教訓
を残す。この教訓は、13 章の結びの教えをよく例証しており、そして気を
つけて目を覚ましていなさいという繰り返される警告を正当化する。
エスを縛って引き出し、ピラトに引き渡す。これらの時刻表記は、夜に 4
つの夜警時を設けるローマの習慣と一致している(マコ 6:48; ヨセフス『古代
37 節「しかしわたしがあなたがたに言うことは、すべての人に言うのです。
誌』XVIII.9.6 [356]「第四夜警時の頃」;Taylor 1966:524; Cranfield 1977:412。ル
目を覚ましていなさい。
」
カにはユダヤ的な三夜警時の習慣が反映している 12:38)。しかしこれらの時刻
イエスの警告は弟子たち自身にだけではなく、共同体の全員に適用させる
の詳細は、当時の習慣を示唆する二次的な付加に終わるものではない。ライ
ように意図されている(Cranfield 1977:412)。この 13 章の黙示的勧告の最終
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13:33-37 解説
13:33-37 注解(13:37)、解説
節は、4 人の弟子から共同体全体へと聞き手を拡張している。
マルコはしきりに「気をつけていなさい」という勧告を繰り返してき
た。そして最後の「門番の譬え」の導入部では、「目を覚ましていなさい」
礼的空間は、つねにこの証しと待望に支えられて成立する。
すでに見たように、13 章においては「信徒の審問」(13:9)と「イエスの
審問」(14:53-15:20)が並行関係に置かれている(9-13 節「注解」参照)。イエ
(33 節)という言葉を加えて「目覚め」(覚醒)のテーマを付加導入した。こ
スの受難物語に特徴的な「渡す」「引き渡す」という意味の paradido,nai と
の 33 節以下と同じモティーフは、マタイでは「タラントンの譬え」(マタ
いう動詞は、受難物語では 10 回、13 章に 3 回(13:9, 11, 12) 出てくる。そ
25:14-30) において、ルカでは「ムナの譬え」(ルカ 19:11-27) において生か
れらはほぼ常に、マルコでは不吉な意味の言葉で、何か良いものや、良い人
されている。この二つの譬えでは、いずれも主人が留守をしている間の僕の
を悪しき力に引き渡すことを暗示している(4:29; 7:13 は例外)。ゆえに、こ
働きに関心が移っている。すなわちそこでは現在の「行い」に目が向けられ、
の動詞は、自らの主をユダヤの官憲に引き渡したユダの行為に関して規則
来たるべき終末はそれに応じた審き・評定の時として述べられている。マタ
的に用いられている。13 章では、この動詞は 3 回とも共同体のメンバーの
イとルカは再臨に至るまでの期間の功績を問題にしている。これは再臨遅延
苦難を表す言葉として用いられている。そのうち、最初の 13 章 9 節「あな
を意識して構成されたものである。それに対してマルコにおいては、現在の
たがたは……衆議所に引き渡され(paradido,nai)、会堂で打たれ、長官たち
功績は差し当たり問題にならない。ただひたすら「目を覚ましている」こと
や王たちの前に立たされ」るという信者の審問の記述は、ユダヤ人と異邦人
が要求されている。目覚めているようにという最後の警告として、37 節は
の法廷におけるイエスの審問(14:53-15:20)の記述と明らかに並行している。
この黙示的勧告全体を、強調的に結んでいる。
イエスはユダによってユダヤ人の最高法廷であるサンヘドリンに引き渡され、
審問者の前に立つ。またイエスは、ローマ総督ピラトの前に立ち、かつ鞭打
4. 解説
たれる。力あるはずの神の子が、苦難の中で忍従している。
偽キリストや偽預言者の「しるしと奇跡」(13:22)とは異なり、イエスの
この聖書の箇所は、聖書日課を用いる教会では、待降節の直前や待降節の
奇跡的力は苦難を安易な道とする力ではない。苦難を奇跡的に回避する道は
最初の日曜日に読まれるテクストである。では、このテクストは、教会暦の
峻拒されている。イエスは黙して苦難を忍ぶ。しかし同様に、イエスに従お
新しい 1 年を始めるにあたり、教会の生活および活動の出発点として、実
うとする者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスに従わなければ
際どのように機能しているのだろうか。この福音書テクストは、大変動によ
ならない。それは、自分の命を救おうと思うものはそれを失い、イエスの
る混乱、切迫した審判、世界の終わりを告知している。しかしわたしたち
ため、また福音のため、自分の命を失うものはそれを救うからである(8:34-
の知る世界は終わりつつあるが、神はこの混乱の直中に臨在する。そこでは、
35)。マルコ共同体は、苦難と迫害の苦しみを経験している。その状況下で、
苦しみと混乱の直中にあって、人の子の姿が、救いのしるしとして機能して
イエスの受難の苦しみは、マルコ共同体の忍従の典型とされているのである
いる。神の聖なる臨在のイメージは、ニヒリズムと絶望と対照をなす証言を
(Dewar 1961:106)。D. ドルマイヤーはこの点を正しく観察して、自らの受難
提示する。そして苦難の直中に臨在する神のイメージは、十字架に受難する
物語研究の標題を『行動の模範(Verhaltensmodell) としてのイエスの受難』
人の子の姿に究極の表現を見出す。人の子の再臨は、人の子の苦難とそれに
としている(Dormeyer 1974)。
よって成し遂げられた救済を通して、いっそう切に待ち望むべきものとなる。
さらに 13 章 35 節の「家の主人の帰宅の時への言及」(13:35)が、上述し
人の子の初臨つまりイエスの誕生は、十字架と重ねられ、また十字架と復活
たように、イエス・キリストの「受難前夜の諸事件の時への言及」(14:17,
は再臨と重ねられて、インマヌエルの神の到来と臨在を証しする。教会の典
32-50, 72; 15:1) に対応する、と見ることができる(35 節「注解」参照)。し
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13:33-37 解説
かし、この譬えに見られる時間設定は「不意」の出来事を強調する修辞的
13:33-37 解説
「目を覚ましている」(grhgorei/n)という言葉は、マルコ福音書においては、
表現とも見られるのであって、この時刻表示の一致そのものが本質的に重
この門番の譬え(13:34, 35, 37)とゲツセマネの場面(14:34, 37, 38)にだけで
要なことなのではない。むしろ、W. H. ケルバーがいうように、受難物語と
てくる。
「目を覚ましていなさい」という勧告は、13 章の黙示的勧告の終結
13 章との「時」のモティーフの対応を問題にしなければならない(Kelber
部では、4 人の弟子から共同体全体へと聞き手を拡張している(37 節)。ま
1976:44)。彼によると、14 章 35 節でイエスが過ぎ去らせてくれるようにと
たゲツセマネでは、イエスの苦悶をよそに眠りこけているペトロに対して向
祈っている「時」(h` w[ra)は、人の子が「渡される時」(paradido,nai)(14:41)
けられ、同時にペトロに語られた二人称複数の命令法は、一緒にいた他の
と同定されている。また、十字架の場面において、マルコは再び「時」のモ
弟子たちにも向けられ、この文書の持つ最終効果として、弟子たちを透過し
ティーフを持ち出して、それを彼に典型的な編集の仕方で、
「第 3 の時」「第
て、マルコ共同体を対象として含むものとなっている。またペッシュは両
6 の時」「第 9 の時」と時の経過を三重のパターンで展開し、イエスが十字
者を比較し、その勧告を含む著しい言語的な対応を取り出している(Pesch
架に「渡されていく」クライマックスへの高まりを表現している(15:25, 33,
1968:201)。
34)。ここにおいて「時」は、逮捕で始まり、十字架でその頂点を極めるイ
エスの受難の象徴となっている。そして、この絶対的な意味で用いられる
「時」は単に受難それ自体の期間に重要性を与えるだけでなく、苦難という
ものを終末論的に意味づけているのである。マルコ 13 章において、キリス
来る
見出す(見る)
眠る
13:36 mh. evlqw.n evxai,fnhj eu[rh| u`ma/j kaqeu,dontaj
彼が突然帰って来て、見ると、あなたがたが眠っているということがないように
ト者が「引き渡される時」(paradido,nai)は、同時に聖霊のとりなしの「時」
でもある(13:11)。聖霊の終末論的な次元は、苦難の「時」を媒介にして
14:37a kai. e;rcetai kai. euvri,skei auvtou.j kaqeu,dontaj
発動され、鮮明にされる。また、この 13 章において「時」は未来を指す
それから彼が戻って来て、見ると、彼らは眠っていた(歴史的現在)
(13:32)、予想できない人の子の kairo,j(13:33)である。すなわち、
「時」は、
苦難(14:35, 41)を指すものであり、苦難の終末論的な質(13:11)を暗示し、
14:40a kai. pa,lin evlqw.n eu=ren auvtou.j kaqeu,dontaj
また純粋に未来的な意味における終末論的な啓示(13:32)を指し示している。
そして彼が再び戻って来て、見ると、彼らは眠っていた
この「時」のモティーフを前提として初めて、ゲツセマネの物語と 13 章
34-36 節(門番の譬え)が真に対応していること、またこの譬えが 13 章全体
「目を覚ましていなさい」という命令に後続する、主人と主イエスの行動を
を締め括るものとなっていることが理解される。実際、13 章 33-37 節が問
示す動詞の対応が際立っている。目を覚ましている─来る─見出だす─眠っ
題にしているのは、人の子が「来臨する時」(13:29, 32, 33)であり、ゲツセ
ている(watching-coming-finding-sleeping) という著しい対応が見られる。こ
マネの物語では人の子が「渡される時」(14:41)が問題になっている。人の
の言語連関の並行に見られる覚醒─眠り(watching-sleeping) のモティーフ
子の来臨とイエスの受難という内容的には異なる両者が、
「時」のモティー
が「門番の譬え」と「ゲツセマネの祈り」を理解する鍵である。覚醒─眠り
フを前提として、いずれも、決定的なその「時」に対する緊張を問題にする
(watching-sleeping)のモティーフは、13 章の門番の譬えでは、人の子の来臨
ことにおいて対応させられている。この「時」に対する緊張、すなわち「目
に対置されることによって、すでに終末論的な重みを帯びている。そして同
を覚ましていなさい」という命令によって要求される信仰的な目覚めが、両
時に、それはゲツセマネにおける弟子たちの行為の上に終末論的な光を投げ
者を真の対応関係に置いているのである。
かけるのである(Kelber 1976:48)。
「時」への目覚めは終末論的な重みを持つ。
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挽地茂男(2014.9.24 公開)
13:33-37 解説
13:33-37 解説
マルコの共同体は「気をつけていなさい」
「目を覚ましていなさい」と勧告
イエスの言葉は決定的な意味を持つ。「あなたがたに言うことは、すべての
を与えられ、偽キリスト・偽預言者の横行と苦難と迫害の中で、イエスの受
人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(37 節)。受難は救いへの胎動を秘
難を手本としつつ、終末に向かって、信仰的覚醒を持ちつつ現在を生きるこ
めている。終末論的な視野の中で捉えられた受難者の姿は敗北者の姿ではな
とを求められている。なぜなら、 その 「時」 がいつであるのかわからないか
い。そこには 14 章から始まる最初の受難者イエスの姿が重ねられているの
らである(32 節)。
である。
福音書記者マルコは、ユダヤ・キリスト教的黙示録の材料を用いてイエス
13 章のテクストは一見、論争物語(11-12 章)から受難物語(14 章)に直
の黙示的勧告を構成した。しかし、彼はもはやユダヤ・キリスト教的黙示録
結するイエスの受難のプロセスを中断しているように見える。しかし、この
の思想圏内に立っていない。彼は異質な材料を用いながら、その意味を変え、
13 章のテクストがその神学的根拠を見つけるのは、正に切迫した十字架の
彼の共同体の現在の必要に答えようとしている。マルコは自らの共同体を脅
出来事の内においてなのである。イエスの苦難の記述は、マルコの時代だけ
かす邪説と苦難、それに戦争の騒擾によって切迫感を増した終末期待といっ
ではなく、苦しむ今のこの世界の直中に神が臨在されることを、教会が継続
た現実的な問題を射程に置いている。とりわけ、苦難と迫害の問題では、マ
的に証言するためのコンテクストとして機能する。13 章のテクストが奇妙
ルコはイエスの受難を明確に意識している。共同体の苦難をイエスの受難に
に響き、語ることが難しく思える一つの理由は、現代の豊かな文化状況にお
続くものとして、それに直面させている。マルコは、大変動による混乱、切
いては、わたしたちが苦しみをわきに押しやり、苦痛の可能性に麻痺してし
迫した審判、世界の終わりを告知する伝統的な黙示的言辞を記しながら言う。
まっているところにある。イエスの十字架の苦しみは、マルコがこの福音書
あなたがたは「気をつけていなさい」
。これらはまだ終わりでなく「苦しみ
の読者とした初期のキリスト教の共同体が経験したのと同じ苦難であり殉教
の初め」である(8 節)。
「最後まで耐え忍ぶ」者が救われる。つまり、マル
であった。福音を聞きそして経験することをわたしたちが望むなら、現代の
コは黙示的言辞を語りながらも、黙示的思弁に中心を置くのではなく、だか
教会が苦難の状況と脈略を回復することが、教会にとっての一つの召命とな
ら今緊張した時を過ごすべきであるという勧告をなしているのである。この
る。その時にこそ、教会的典礼は、教会の時を刻むとともに、わたしたちの
ことは、目覚めを呼びかける譬え(33-37 節)の付加によってさらに強調さ
経験の解釈学的ガイドとして機能するであろう。
れている。従って、マルコは終末的状況を意識しつつも、なおその視点は
現在の生へと集中している(田川 1962:102)。この 13 章に記されているのは、
静的な教義体系ではなく、共同体を襲っている状況の中で、信仰的な覚醒を
保持し続けるようにという勧告である。
黙示文学的な色調を帯びた勧告を口にするイエスは、オリーブ山上で、神
殿に向かって座してこれを語っている(3 節)。この箇所におけるイエスは、
ゼカリヤ 14 章 4 節に見られる終末的な審判者が、主の日にオリーブ山に立
つという絵画的な描写と二重にされている(3-4 節「注解」参照)。審判者の
言葉は、13 章の直後に展開するその受難の顚末の意味を確定し、同時に信
者の目を、あそこや、ここに出現する地上のキリスト(21-22 節)から引き
離して、やがて雲にのってキリストが来臨する天上(26 節)に引き上げる。
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挽地茂男(2014.9.24 公開)
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