『イエス・キリストの復活』 '13/03/31(イースター礼拝) 聖書個所:Ⅰコリント人への手紙 15 章 1-11 節(新約 p.339-) 今日、つまり今年の 3 月 31 日は、イエス・キリストが復活してくださったことを記念し、お祝いするため の「イースター(復活祭)」という日になっています。今や全世界で、イエス様が十字架による死からよみが えられた!ということを記念し、そのことを感謝するための礼拝が、ここ日本だけでなく…、世界各国で行 われています。 しかし、それと同時に…、多くの方々がイエス・キリストの復活を、単なる伝説や言い伝えの類である と考えている…ということもまた事実であります。特に、欧米諸国などとは違って…、ここ日本におきまし ては、人口的に見ますと、圧倒的にクリスチャンの数が少ないこともあって、イエス様が復活されたという 聖書の教えに対しては懐疑的、つまり、「あまり信用できない!意味が分からない!」と考えておられる 方が多いのではないでしょうか? 命題:イエス・キリストの復活が、私たちに教えてくれていることとは? そこで今日は、聖書が今から 2000 年前に起こった事実として教えてくれている、イエス・キリストの復 活ということに焦点を当てて…、一体、2000 年も前に起こったイエス・キリストの復活が、どうして、今の 私たちと関係があるのか?イエス様の復活が私たちに教えてくれていることについて、ご一緒に、聖書の みことばを学んでいきたいと思います。まずは、今朝与えられましたみことばである、Ⅰコリント 15:1-11 ま でを読ませていただきます。 1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、 あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。 2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっ かりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリス トは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、 5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。 6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き 残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。 7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。 8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。 9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の 教会を迫害したからです。 10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだには ならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の 恵みです。 11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あ なたがたはこのように信じたのです。 Ⅰ・イエス様の 死と復活 こそが、弟子たちのメッセージであった! まず、今お読みしましたみことばをご覧いただきますと、当時、イエス様の弟子たちが語ったメッセージ は、何よりもまず、イエス様の“死と復活”であった!ということが分かります。まずは、そのことを確認して いきたいと思います。 ●これこそが、私たちに救いをもたらしてくれる教えである(1-3 節 a)。 皆さんは、「キリスト教」と聞いて、どういったことをイメージされるでしょう?特に、ここ日本にあっては、 一般の方たちは、イエス・キリストと聞くと、①まずは、「チャペルでの結婚式」や、②クリスマス・イヴなどと 関連して、クリスマス・ツリーやプレゼント、また、サンタ・クロースなどをイメージされる方たちが多いのだそ うです。あるいは、③教会での賛美歌や、④洗礼などの儀式、また、⑤キリスト教は、お酒やタバコを禁 じている…というような、かなり表面的と言うか…、少し間違った理解や、本当に聖書のみことばが教え ようとしてくれている内容とは全く違ったイメージを持っておられる方が多いというのが現状です。 しかし、今先程読んだみことばの、3 節に、はっきりと書かれてあります通り、聖書のみことばが、私たち に対して、『最もたいせつなこととして伝え…』ようとしてくれている内容は、何よりもまず、イエス・キリスト の死と復活なのです!…と言いますのは、ここの 2 節に、『この福音によって救われる…』と書かれてあり ます通り、これこそが、私や皆さんに、本当の救いをもたらしてくれる教えであるからなのです! 確かに、聖書のみことばは、私たちに対して、正しい…、あるべき結婚についても教えてくれています。 また、聖書の中には、イエス様の誕生であるクリスマスのストーリーも描かれています。また、賛美歌や洗 礼に関するみことばだってあります。タバコに関する直接的な言及は無くても、お酒に関する教えなら何 ヵ所も書かれてあります。でも、そういったことは、決して重要ではないとまでは言いませんが、聖書が1番 に教えようとしている内容ではありません! この聖書のみことばが1番に教えてくれていますことは、私や皆さんの救いに関することであり…、それ こそが、聖書が言うところの、『福音』(≒良い知らせ)というメッセージなのです。…にも関わらず、日本 人の多くの方たちは、そういったことを真剣に聞こうとする前に、もう結婚式に参加しただけで、さも、教会 に行ったかのような気になってしまったり…、あるいは、クリスチャンになったら酒&タバコは止めないといけ ないからとか、私の家には仏壇があるからとか、そういった理由でもって…、聖書の教えを初めから聞こう としてくださらない場合が、非常に多いことが私には残念でなりません。 皆さんだって、何か物事を真剣に判断する時、そのものの本質以外のもので判断しないでしょ?⇒ 例えば、もしも皆さんにお子さんが居たとして…、そのお子さんが結婚を考え始めて…、その相手のこと を皆さんは、ごく表面的な…、名前や出身、あるいは、学歴などで、結婚して良いかどうかの判断をされ ます?そうじゃないでしょ?まずは、会ってみようとされるじゃないですか!そうして、その人物のプロフィー ル以上に、その人物がどういった経歴を持っているのか?あるいは、どのような物の考え方をするのか? つまりは、その人物の本質を見極めようとするじゃないですか!そうですよね。…にも関わらず、多くの日 本人たちは、聖書の教えの本質を見極めようとしないで、ただ単に、表面的な理解や知識だけで、簡 単に判断をしてしまっています。どうぞ、皆さんは、そうならないでいただきたいと思います。 聖書の教えは、イエス様やパウロなどといったような歴史上の偉人と言われるような人間たちの知恵 や功績などによって書かれたのではありません。まして、単なる噂や言い伝えの類などでは決してありま せん。聖書のみことばは、すべてを御存知の神様が特定の人間たちを使って書き記された、まさしく神 様のみことばなのです!だから、聖書の教えは、その書き始めから完成に至るまでの 1500-1600 年間、 40 人もの者たちが、この1冊の聖書を書き記していったにも関わらず、それらが一切、矛盾することなく、 それどころか、完全な調和をもって完成され、今に至っています。聖書以外に、こんな不思議な書物が あるでしょうか!だから、私たちクリスチャンは、この聖書のみことばを、他の如何なる書物とも区別して …、唯一無二の特別なものと考えて、この聖書だけを重んじて、学んでいるわけなのです。 Ⅰコリント 15:1-11、「イエス・キリストの復活」(八田西 CC、礼拝)-1 ●イエス様は、あなたのために死なれた(3-7 節)。 イエス様の弟子たちが語っていた内容…、それは、先程も言いましたように、様々な儀式や事細かな キリスト教の作法などのような…、所謂、宗教行事の類ではありません。弟子たちが語ったメッセージの、 1番の中心的な内容は、イエス様が死んでくださった、その理由と、間違いなくイエス様が復活された! という歴史的事実であったのです!そのことが、今日のみことばの 3-7 節に書かれてあります。 今日のみことばを書き記したパウロは、ここで、イエス・キリストが、①はるか何百年も前から預言され ていた旧約聖書の示す通りに、②私たちの罪のために死んでくださったこと、③そうして、これまた、聖書 の示す通りに、3日目によみがえられたことを証言しています。そういったことからも、イエス様の復活は、 単なる偶然などではなかったことが分かります。 そういったことが、例えば、旧約聖書のイザヤ 53 章などをご覧くださいますと分かります。どうぞ、皆さん、 イザヤ 53 章をお開きください。ここの部分は、イエス様が活躍をされる 700 年も前に、救い主に関して預 言されてあったみことばですが、そこにはこう記されてあります。イザヤ 53:3-7、『3 彼はさげすまれ、人々 からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ば なかった。 4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰 せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たち はいやされた。 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しか し、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開か ない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かな い。』 ⇒まさしく、ここのみことばで予言されてあることが、イエス・キリストによって成就しました。イエス様は、 本来ならば、私たちが受けるべき痛みを代わりに担ってくださったのです。しかし、それを見た多くの者たち が、「あれは神様からの罰で苦しんでいる…」と考えました。しかし、事実は違いました…。イエス様は、 私や皆さんの犯した罪の罰を、私たちの身代わりになってお受けになってくださったのです。そのことのゆえ に、私たちに平和が…、神との和解がもたらされたのです!イエス様は、十字架とその前に受けたむち 打ちなどによって、死ぬほどの痛みを経験されました。…なのに、イエス様は、ただの一言も、ご自分のこ とを弁護なさいませんでした。それは、私や皆さんの救いのために、イエス様の身代わりが…、私たちの 罪が赦されるために、その罪の贖いが必要であったからです!実に、そのために、イエス様は自ら進んで 十字架にかかってくださったのです! 良いですか、皆さん。イエス・キリストは、当時の者たちの陰謀や、あるいは策略によって、意図せずに、 十字架にかかってしまったわけではありません。また、イエス様は、たまたま、瀕死の状態から、奇跡的に 目を覚ましたわけでもありません!すべては、何百年も前から、神様の計画によって定められていて…、 しかも、そういったことが聖書のみことばを通して予言されてあったのです! 聖書のみことばを通して確実に分かることは、今から 2000 年前にイエス・キリストが十字架にかかった ことは、決して偶発的なことではなく…、すべてを御存知の神様による計画であった!永遠の昔から、 定められていたことであった!ということです。つまり、イエス様はかかるべくして、十字架にかかられたので す!イエス様の十字架は、私やあなたのために必要であったのです! もしも、私やあなたに、一片の罪さえも無かったら…、イエス様は十字架にかかる必要は無かったでし ょう。もしも、私たちが自分の行いや力で自分自身を救うことができたら、イエス様が、私たちの身代わり に犠牲になる必要性はありませんでした…。でも、悲しいことに、私たち人間は皆罪人です!誰だって、 その心の中にみにくい思いを持っているし…、自分勝手な行動を取ってしまうこともあれば…、悪に傾倒 してしまうことだって数多くあるということを、私たちは経験してきたはずです。そうですよね。 残念ながら、私たち人間は、どんなに努力しても完全に清くなることはできません。私たち人間が、ど んなに深く反省したところで、私たちの内側に潜むみにくい思いや感情などを 100%コントロールすること などは到底できっこありません。そうですよね?間違いなく、皆さんも、これまでに色々な悪い思いやみに くい考えに支配されて…、後悔したことが1度や2度ではないはずです。でも、そういった経験からも分か ることは、私たち人間は皆、罪人である!ということなのではないでしょうか?イエス様は、そんな私やあ なたのために、十字架にかかって、その罪の罰を身代わりに受けてくださったのです。 ●神は、恵みによって弟子たちを用いてくださる(8-11 節)。 どうぞ、今日のみことばの 8 節以降をご覧ください。ここで、パウロは自分のような者の前にも、イエス 様が現れて…、恵みを与えてくださったことを感謝しています。だから、パウロは精一杯、神様のために、 自分自身を捧げて、神様に仕えていったのです。パウロが、よーく分かっていたことは、本来ならば、自分 が自分自身の犯した罪のゆえに、裁かれて当然の存在であった!ということです。 このように、神様は、私たち人間のことをただ救い出しては、そのまま放っておかれるのではなく…、救 い出した者たちのことを、素晴らしい目的のために用いてくださるのです。 今日のみことばの 9 節でパウロが告白していますように、救われる前のパウロは、イエス様のことを信じ ることができないせいで…、教会に通うクリスチャンたちを迫害しておりました。…と言うのは、そうすること が神様の前に正しいことである!と信じていたからです。そんな時、パウロは、クリスチャンたちを捕まえて は迫害をするために、ダマスコという町へ向かいます。その時、イエス様がパウロに現れてくださって…、そう して、そのことがきっかけで、パウロは、イエス様こそが真の神であられ…、救い主であることを信じます。 今日のみことばの 4 節をご覧くださいますと、そこで、イエス様が、『聖書の示すとおりに、三日目によみ がえられた…』と書かれてあります。ここの、『よみがえられた』という表現には、ギリシヤ語の完了形という 時制が使われています。この時制は、ある時点で、そのことが起こって、その事象がまだそのまま続いてい る時に使われる時制であります。つまり、聖書のみことばが、ここで教えてくれていることは、イエス・キリス トは、十字架にかかって死んでくださって、その後、20 年以上も経った今もなお、生きておられる!という ことを教えてくれているのです。 だから、例えば、ローマ 8:34 などでは、『…よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着 き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』というようなことが教えられてあって、イエス様が今も生 きて、働いてくださっている!ということが教えられてあります。 ですから、聖書のみことばが教えてくれているイエス・キリストというお方は、今から 2000 年前に生きて、 私たちのために十字架で死んでくださっただけのお方ではありません。イエス様は、2000 年経った現代で あっても生きて…、私たちが犯した罪のとりなしをしてくださっているのです。 一体、どうして、そんなことが有り得るのでしょう?⇒それは、このイエス・キリストというお方が、単なる 人間ではなく…、真の神様が、私たちの救いのために、この地上へと遣わしてくださった唯一の救い主な るお方であったからなのです。そのことをはっきりと証明してくれる事実の1つが、「復活」であるのです。 Ⅰコリント 15:1-11、「イエス・キリストの復活」(八田西 CC、礼拝)-2 Ⅱ・イエス様が復活されたという、幾つかの 証拠 ! そのように、イエス様が復活されたことを信じる!ということは、ある意味において、聖書のメッセージの 根幹部分であって、決して避けることはできません。そこで、今日は、もう少し、イエス様の復活について 考えていきたいと思います。最後に、イエス様が、本当に復活されたという“証拠”を幾つか確認をして、 今日のメッセージを終わりたいと思います。 ①数多く存在していた目撃者たちによる証言 今日のみことばをご覧いただきますと、イエス・キリストは、十字架で1度亡くなられた後、その後、その 死からよみがえられて…、ご自分が復活されたということを、『ケパ』という人物や、12 使徒たちに証明し てくださったということが書かれてあります。それだけではありません。復活したイエス様に直接会った人物 は、500 人を優に超えていたのです。実は、ここで、『ケパ』として登場している人物は、12 弟子のリーダ ー的な存在であった、シモン・ペテロを指しています。シモン・ペテロと言えば、キリスト教の歴史で言うとこ ろの、初代ローマ教会の監督でもあった人物なので、ちょうど最近話題になった、ローマ教皇の第1代 目?と言えなくもありません。 そんな者たちがイエス・キリストの復活を証言しているということで、一部の方たちは、イエス様の弟子 たちが、十字架で死んでしまったイエス様の体を盗み出して、「そら!キリストがよみがえられた!」という ようなことを吹聴した!と考えられるかも知れません。しかし、真剣に聖書のみことばを観察してみますと、 そんなことは絶対に有り得ないということが分かります。 もしも、イエス様の弟子たちがイエス様のおからだを盗み出したのなら、その後、イエス様の弟子たちが 迫害をも恐れずに、イエス様の死と復活を宣べ伝えて…、殉教までしていったことの説明がつきません。 聖書に記されてある有名なエピソードとして、十字架の前夜、イエス様が捕えられた時、弟子たち全員 が、イエス様のことを見捨てて逃げていったことが書き記されてあります。彼らは、自分たちもイエス様と同 様、捕えられて殺されてしまうことを恐れたのです。 しかし、その後すぐ、弟子たちは死をも恐れずに、大胆にイエス・キリストの十字架と復活とを宣べ伝 えていきます。一体、どうして、彼らは、そんなにも急に…、しかも、大きく変えられたのでしょう?⇒そのこ との答えが、使徒 4 章に記されてありますので、どうぞ、お開きください。使徒 4:1-2、『1 彼らが民に話し ていると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、 2 この人たちは、ペテロとヨハネ が民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、』と続いていきます。 ここにも書かれてありますように、ペテロとヨハネたちは、イエス様のことを例にあげて…、つまり、イエス様が 復活されたのと同じように、私たちもまた、いつか復活するのだ!ということを教えていたのです。そのよう に、私たち人間は皆、いつの日か、すべての者の造り主であり、同時に裁き主でもあられる神様の前に 立たされる日がやって来るのです。 そして、使徒 4:10-12、『10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が 直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせ たナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。 11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、 礎の石となった』というのはこの方のことです。 12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天 の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」』⇒皆さん、気 付いてくださいました?ここで、ペテロは、イエス様のことを十字架へと追いやった者たちを相手に、このよ うな大胆なメッセージをしています。下手をすると、今度は自分たちが十字架へと追いやられてしまいか ねない…。いえ、実際に、これ以降、イエス様の復活を宣べ伝えていったが故に、何万…、何十万もの クリスチャンたちが殉教していきました。その背後にいた町の有力者たちを相手に、ペテロは、堂々とイエ ス様の復活を宣言しているのです。皆さん。つい最近まで、自分にも何かの被害が及ぶことを恐れてい た弟子たちが、こんなにも大きく変えられた理由が、イエス様の復活以外に説明つくでしょうか? ②空っぽになった墓 イエス様が十字架にかけられた場所は、当時は、「どくろ」と呼ばれている場所でありました(写真①)。 そういったことが、ヨハネ 19:17 に書かれてあります。『彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分 で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。』とあります。 私たちが、この後で賛美する、「カルバリ山の十字架」という聖歌の「カルバリ」という言葉は、この「どくろ」 という言葉のラテン語から来ています。 今、イエス様が十字架にかかられた場所であるエルサレムに行きますと、まさに、「どくろの地」と呼ぶに ふさわしい丘があって、そこの上に、イエス様が葬られたであろうと考えられているお墓があります(写真 ②)。福音書を見てみますと、イエス様が葬られた墓は、岩に掘られた墓で、当時は、まだ誰も葬られた ことの無かった新しい墓であるとの記述があります(マタイ 27:60、ルカ 23:53)。 そうして、そこの内部に入りますと、このような看板が貼られてあります(写真③)。これは、「”HE IS リ ズ ン NOT HERE- FOR HE IS RISEN”(彼はここには居られません。よみがえられたからです。)」という意味 です。確かに、私たちの救い主として来てくださったイエス様は、私や皆さんの身代わりとして、十字架に かかって、死んでくださいました…。しかし、イエス様は、死んで、そのままではありませんでした、よみがえ られたのです! もしも、イエス様の体が、イエス様の弟子でない…、他の何者かによって盗まれたのなら、弟子たちが、 「イエス様がよみがえられたのだ!」というようなことを訴え始めた時に、そういった噂を否定するために、イ エス様の遺体を出してきて否定すれば良かったのです!しかし、そういったようなことはありませんでした。 それは、誰もイエス様のおからだを盗み出したのではないからです!そうではないでしょうか! ③聖書の預言通り、世界中に教会が存在している。 それだけではありません。この聖書を見ても…、また、世界の歴史が証明してくれる通り、聖書の教え であるキリスト教?は、文字通り、世界中で大きな迫害を受けました。そういったことは、ここ日本におい ても行われ…、そのために、20 万とも、30 万とも言われる人たちが殉教をしていきました。…にも関わら ず、このイエス様を信じる信仰は、このエルサレムから始まって、この聖書の預言通り(使徒 1:8)、世界 中へと広まっていきました。 普通の人間の常識では信じられないようなことが、この聖書の中で語られ…、それが幾つも成就して、 現実となっています。イエス様を信じるという信仰が、何百万、何千万という人たちのことを変え…、そう いったことによって、さらに、この聖書の教える福音のメッセージが語り続けられています。 先程紹介した場所が、今から 2000 年も前…、実際にイエス様が葬られた場所かどうかは、実のとこ ろ、定かではありません。…と言うのは、イエス様の十字架が、今から 2000 年も前ということもあって、詳 しいことまでは知り得ないからです。しかし、確実なことは、シモン・ペテロやパウロのことを大きく変えてくだ さったイエス様は、私やここに居る多くのクリスチャンの人生をも、もう既に変えてくださった!ということです。 そうして、もしも皆さんが、このイエス様をあなたの救い主として信じ…、あなたが唯一仕えるべき真の神 様として受け入れてくださるなら、あなたもまた同じように変えられる!ということです。 Ⅰコリント 15:1-11、「イエス・キリストの復活」(八田西 CC、礼拝)-3 どうぞ、私たちの罪のため…、私や皆さんを罪とその裁きから救うため、この世に来てくださった唯一の 救い主であるイエス・キリストを、あなたの神&救い主として信じ、受け入れてくださいますよう、心からお 勧めいたします。そして、どうぞ、この神様への全き献身の思いと、感謝の思いをもって、この1週間も歩 んでいってくださいますように、お願いいたします。最後に、お祈りをもって、今日のメッセージを終わらせて いただきます。 <参照資料> (写真①:ゴードンのカルバリ) (写真②:園の墓の外部) (写真③:園の墓の内部) Ⅰコリント 15:1-11、「イエス・キリストの復活」(八田西 CC、礼拝)-4
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