信仰の視力 日本基督教団金城教会伝道師 池 田 慎 平 ルカによる福音書 第11章33-36節 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来 る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。 目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、 あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少し も暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすとき のように、全身は輝いている。」 私は普段、東区にあります金城教会に仕えています。基本的には教会の中 で、朝から晩まで仕事をして過ごします。教会といっても、作業をしているの は狭い部屋の一室ですので、普段はあまり遠くを見る機会がありません。です から、今日のように外へと出かける用事があるときは、遠くを見るようにして います。あまり近くを見すぎていると、目が疲れてしまうからです。特に今日 のような秋晴れの天気のいい日には、空が遠くまで見渡せる。この秋から冬に かけての季節が、私は好きです。 目を凝らして、遠くを見る。そうすると近眼が治る、という迷信に近い話が 昔からありました。最近では、宮崎駿監督の長編最後の作品である『風立ちぬ』 でも、近眼に悩む主人公が少年時代に一生懸命屋根の上で遠くを見ているシー ンがありました。かく言う、私も、小学生の時から目が悪く、眼鏡をかけてい るため、これ以上目が悪くならないように遠くを見ていた者のひとりでした。 しかし、現代の医学で分かっている限り、遠くを見て視力が回復される可能 性は、残念ながら大人になってからはほぼゼロだそうです。けれども、遠くを 見ることによって視力がこれ以上悪くなるのは予防されるということをどこか の雑誌で読みました。近くばかりを見ていると、その目は悪くなってしまう。 遠くを見ることをしないと、その目は悪くなりっぱなしということが、ここか らわかるわけです。 目について、目がいいか悪いかについて、聖書の言葉は語っています。それ は本日読んでいただいた聖書に書いてある、目が澄んでいる、目が濁っている という言葉です。この言葉は、「あなたの目はよく見えていますか」というこ ― 68 ― とを、イエス・キリストが問うている聖書の言葉です。目が澄んでいれば、あ なたは目の前に光り輝いている光を受け止めることができる。そうではなく て、あなたの目が濁っている、あなたの目が悪い時は、たとえ光があなたの前 で輝いていても、それを受け取ることはできないと言われるのです。 光とは、私たちを様々な暗闇から救い出そう、導こうと道案内をして下さる ためにイエス・キリストが掲げて下さる明かりです。その光に導かれて初めて、 暗闇から抜け出せるのです。あなたはその光を見ることができていますか。あ なたはその全身が照らされていることを感じることができていますか、とイエ ス・キリストは問われます。だからこそ、イエス・キリストは忠告します。「あ なたの中にある光が消えていないか調べなさい」(35節)。それは、見るべきも のを見ているか、という意味です。もちろん視力のことではありません。見え るものだけでなく、見えないところにある大事なものを見ているかという信仰 の視力のことです。 最初に、遠くを見ると、その目はこれ以上悪くなることを防ぐことができる という話をいたしました。私たちがこの人生において、遠くを見ること。それ は聖書の言葉に従うならば、見えないものを見ることであります。見えないも のを見る、それが「信じる」ということです。目には見えないけれども、確か にいま、ここに生きて働かれているお方を信じるのです。見えないものを見る といっても、それは目の前にあるものをないがしろにすることではありませ ん。目の前にある試練や、苦しみや、出会いを引き受けながら、なおその背後 にあるものを見ようとすることです。信じようとすることです。 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見える ものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリント の信徒への手紙二第4章18節)。イエス・キリストの弟子のひとりであるパウ ロは、キリストを信じる者たちを自分も含め、このように自己定義します。永 遠に続く目に見えないものに目を注ぐ者たち、それが私たちです、と。私たち も同じように、日々を過ごす生活の中にある、目には見えない、しかし確かに ある広く深い現実へと目を凝らしたいと思います。そのようにして、私たちの 生活もまた遠くまで見渡すことのできるような、奥行きのある生活へと変えら れてゆくのです。 2013年11月21日 昼の礼拝 ― 69 ―
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