北 海 道 大 学 数 学 公 開 講 演 会

北海道大学数学公開講演会
コンピュータを駆使して現代数学の巨大パズルを解き,対称性の本質を捉える数学構造と
して 19 世紀末に発見されて以来,詳細は謎に包まれてきた 248 次元の例外型リー群 E8 の
表現(シンメトリーの下での変換の様子)を解き明かした数学者チーム「アトラス」の活
動と成果を,同チームの中核メンバーが紹介します.3 月に発表以来,欧米各メディアで
大きく取り上げられているホットな話題です.
日時: 平成 19 年 8 月 28 日 (火) 17:30∼18:45
場所: 北海道大学理学部 7 号館 310 教室
講師: デービット ヴォ―ガン (David Vogan) 教授
題目: E8 に対する指標テーブル;私たちはいかにして 453, 060 × 453, 060 の行列を書き下
し,幸せを見い出したのか.
The character table for E8 , or how we wrote down a 453, 060 × 453, 060 matrix and
found happiness
要約: たし算が不得手であることを誇りにしている純粋数学研究者たちがとてつもなく大
きな計算を実行しようとしたときに実際に何が起こる (起こった) かをお話ししま
す.この話をとおして,もしコンピュータに 1,181,642,979(11 億 8164 万 2979) を数
えさせるときに,スクリーンにカウンターを置くべきではないのは何故かがお分か
りになることでしょう.
This is a story about what happens when pure mathematicians, proud of their
inability to add, try to do a really large calculation. You’ll learn why, if you ask
your computer to count to 1,181,642,979, you should not write a counter to the
screen.
講師紹介: デービット ヴォ―ガン (David Vogan) .マサチューセッツ工科大学 (MIT)
において Ph.D の学位を取得後, 1976 年から同大学数学教室教員.プリンストン高
等数学研究所所員 (1977∼1979) を経て,1984 年から MIT 教授.全米芸術科学アカ
デミー会員 (1996∼). 専門は「リー群の表現論」.この分野での世界的指導者.近
年は,リー群及びその表現に関する研究をコンピュータを用いて可視化することを
目指したアトラスプロジェクトの中核メンバーとしても活躍.
主催: 21 世紀 COE プログラム「特異性から見た非線形構造の数学」,北海道大学大学院
理学研究院数学部門,札幌国際プラザ(共催),北海道大学科学技術コミュニケー
ター養成ユニット(後援)
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講演内容の解説
1. アトラスプロジェクト URL: http://www.liegroups.org/
この講演で述べる E8 の指標テーブルの研究は,リー群と表現 に関するアトラスプロジェ
クト (The Atlas of Lie Groups and Representations Project) の一環として行われました.
アトラスプロジェクトは,20 世紀前半以来数学において最も重要な未解決問題のうちのひ
とつとされる「単純リー群の既約ユニタリ表現の決定問題」に向かって,リー群や表現に
関する巨大で複雑な情報をコンピュータを活用して計算するシステムを作り,これらの情
報を各方面の研究者が利用しやすい形で蓄積・提供することを目指す野心的な計画です.
アトラスプロジェクトには,欧米から約 20 名の第一線数学研究者が参加しています.予
算面では国立科学財団 (NSF) やアメリカ数学研究所 (American Institute of Mathematics)
がこのプロジェクトを支えています.
(注) 数学の研究は,個人の高度な精神的営みであることを反映して,ほとんどの場合,個
人研究あるいはごく少人数の共同研究により行われます.社会的にも,例えば「博士の愛
した数式」(小川洋子著)に著されているように,数学研究者は純粋な心をもち,ともす
れば偏屈で,人と交わることには得意でなく,孤独を愛する人種であるような先入観を持
たれることがよくあるようです.こういった観点からも,アトラスプロジェクトのように
特定の課題に対して比較的大人数のチームを組み,計算機を用いながら協働して研究を進
めていくというスタイルは,これまで純粋数学の研究ではあまりなじみのない,新しい研
究の進め方であるとも考えられます.
(注) 「数学の研究は時と場所を選ばす,紙と鉛筆があればできる」とよくいわれます.こ
の言葉も数学という学問の特徴をよく言い表しています.数学の研究においては人の頭脳
が実験室であり,自由な発想が最も重要であるからです.もっとも,高度に発達した先端
数学の研究においては,手計算ではとても対処できない問題が生じることがあります.そ
のような場合,純粋数学の個人研究でも,計算機を用いることが,近年かなり見られるよ
うになってきました.また,アイデアを得るための手段としてもコンピュータによる計算
が役に立つことがあります.
2. ニュースストーリー
2007 年 1 月 8 日午前 9 時,一台のコンピュータが 60 ギガバイトのファイルの書き込みを
終えた.E8 型の分裂型実リー群 G(R) に対する Kazhdan-Lusztig polynomial (カジュ
ダン-ルスティック多項式) である.その 1 における値は G(R) の指標行列の成分を与える.
E8 のカジュダン-ルスティック多項式に現れる最も大きな係数は 11,808,808 であり,対応
する多項式の 1 における値は 60,779,787 である.
(注) E8 は “e eight” (イーエイト)と発音します.日本では「イーハチ」と呼ぶ人もいます.
(注) 細胞の遺伝子情報をすべて含む人ゲノムですら,その情報量が 1 ギガバイト以下で
あることと比べても,E8 計算での 60 ギガバイトのデータがいかに大きなものであるかが
分かります.
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3. 想定質問 (皆さんが尋ねたいと思われるかもしれない質問)
ここまでお聞きになって,皆さんがご存じでない言葉や用語が沢山現れたことと思いま
す.恐らく,次のような疑問を持たれたかもしれません.
Q. 数学者は (人前では) 特殊な例を論じることはしないと思うが,なぜ E8 なのか?
Q. いずれにせよ E8 とは何か?
Q. 指標テーブルとは何か?
Q. 60 ギガバイトとは?
Q. カジュダンと誰だって?
素晴らしい質問です.このように皆さんから提起されると思われる質問を以下のように整
理しなおしてみましょう.
4. 想定問答 (皆さんから尋ねていただきたい質問)
Q. リー群とは何か (What’s a Lie group?)
A. シンメトリーのなす連続な集合 (A continuous family of symmetries)
Q. リー群はいくつあるか (How many Lie groups are there?)
A. 正多面体それぞれに対して一つづつある (One for every regular polyhedron)
Q. E8 はそのどれにあたるのか (Which one is E8 ?)
A. E8 は正 20 面体に対応している (The one for the icosahedron)
Q. 群の表現とは何か (What’s a group representation?)
A. シンメトリーの下での変換の様子 (A way to change under symmetry)
Q. 指標テーブルとは何か (What’s a character table?)
A. すべての表現を記述する情報 (A description of all the representations)
Q. いかにして指標テーブルを書き下すのか (How do you write a character table?)
A. マニュアル (ワイル,ハリシュ・チャンドラ,カジュダン/ルスティック) に従う
(RTFM (by Weyl, Harish-Chandra, Kazhdan/Lusztig))
Q. それではあなたたちはまさに何をしたんですか (So what did you guys do exactly?)
A. まさにそのマニュアルを実行したのです (We read TFM)
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(注) RTFM 《略》 read the fucking [frigging, etc.] manual. [研究社 新英和大辞典第
6版]
上ではそれぞれの質問に一言で答えを添えています.講演は,上記の質問それぞれに詳し
く回答・説明する形で進みます.前半部分では,アトラスプロジェクトが扱っている数学
がどのようなものであるかをできるだけ平易に説明します.講演の後半部分では,分裂
型 E8 の指標テーブルを決定するために,アトラスチームがコンピュータを用いてどのよ
うな研究活動を行ってきたかを具体的に紹介します.アトラスチームが用いたのは決して
スーパーコンピュータと呼ばれる大型計算機ではありません.第一線の数学研究者が頭脳
を結集し,限られた資源の中で最大のパフォーマンスが出るアルゴリズムや解法を編み出
しました.通常は理解するのも困難な現代数学の最高峰の理論をコンピュータに移植す
るプログラムを開発して,E8 の巨大計算を成功に導いたことが重要 であると考えられま
す.このプログラムの開発に中心的な役割を果たしたのが,フランス人数学者 Fokko du
Cloux (フォッコ・デュクルー) (1954∼2006) です.同氏の生涯をかけた努力がこのプ
ロジェクトを実らせたのです.
5. Glossary
以下に,講演に現れる数学の基本概念に関する用語の説明を,講演内容に準拠しつつ,
Glossary (小辞典) 風に添えましょう.
• Rotations of the sphere (球面の回転)
球面の回転は,回転軸 (axis of rotation) と回転角 (angle of rotation) により定まる.
回転軸は球面上の 2 点 (ある点とその正反対にある点) を指定することで定まり,2
次元の自由度がある.一方,回転角のチョイスは 1 次元分である.併せて,球面上の
回転は 3 次元のリー群になる.球面の回転のなす群はコンパクト (compact) である.
なお,コンパクトとは遠近の概念を備えた図形 (位相空間) の性質を表す基本概念で
ある.例えば,円周,多面体,球面など,閉じた図形で範囲が限られたものは (そ
れがいくら大きくても) コンパクトであり,直線,平面,空間全体など,限りなく
続く図形はコンパクトでない.
• Lorentz group (ローレンツ群)
特殊相対論 (special relativity) には非ユークリッド幾何やローレンツ群が深く関係
している.ローレンツ群が与える変換には時間的ベクトル (time-like vector) の周り
の回転と空間的ベクトル (space-like vector) の周りの Lorentz boost など,本質的に
違う種類のものがある.ローレンツ群はコンパクトでない (noncompact) リー群の
例である.
• Regular polyhedron (正多面体)
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高等学校で学ぶように,正多面体には正 4 面体 (tetrahedron),正 6 面体 (cube),正
8 面体 (octahedron),正 12 面体 (dodecahedron), 正 20 面体 (icosahedron) の 5 種類
がある.
なお,2D polygon は 2 次元 (平面内) の多角形.
もっとも単純なリー群はこれらの正多面体や正多角形に対応している.
• 248 次元例外型単純リー群 E8
リー群 E8 は正 20 面体 (icosahedron) に対応している.E8 には,コンパクト (compact), 四元数型 (quaterionic), および分裂型 (split) の 3 種類の異なる実リー群があ
る.今回の計算により,そのうち最も難解な分裂型 E8 の指標テーブルが明らかに
なった.
• Irreducible representation (既約表現)
表現 (representation) とはシンメトリーの下での変換の様子を表す概念であるが,
表現のうちで最も単純なものを既約表現という.既約表現は化学における「原子」
(atom) のように,表現の最小構成単位である.このため,表現論の研究においては
既約表現を理解することが最も基本的な課題である.
例えば,時間対称性 (time symmetry) を記述するリー群 R (実数全体の集合に足し算
を考えたもの) の既約表現はすべて 1 次元であり,表現はさまざまな増大率 (growth
rate), 減衰率 (decay rate), あるいは振幅周期 (frequency of oscillation) をもった指
数関数 (exponential function) で表される.また,コンパクトな時間対称性 (compact
time symmetry) に対応するリー群 R/Z (時間対称性が一定時間経過後に元に戻ると
したもの) の既約表現は整数 (integer) n の振幅周期をもつ指数関数
e2πinθ = cos 2πnθ + i sin 2πnθ (Euler の公式)
に対応し,sin, cos の三角関数で表される.
また,回転群やローレンツ群といった可換でないリー群についても,振幅周期や増
大度といった若干の「マジックナンバー」で既約表現を特定することができる.特
にローレンツ群の既約表現の大部分は無限の自由度をもったベクトル空間 (infinitedimensional vector space) 上に実現され,整数の周期に対応する離散系列 (discrete
series) と複素数の増大率に対応する主系列 (principal series) とに分かれる.
• Flag variety (旗多様体)
旗多様体は単純リー群に付随した最も豊富な幾何構造のうちのひとつである.既約
表現に関するすべての情報を含む指標テーブル (character table) を決定するために
は,旗多様体 (falg variety) の幾何が本質的な役割をはたす.つまり,旗多様体の
高々有限個のセル分割 (軌道分解) を用いて,指標行列 (character matrix) を決定す
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る理論が得られている.これは現代数学の極めて高度な理論であり,指標行列の成
分に現れるのがカジュダン-ルスティック多項式の 1 での値である.
例えば,3 次元のローレンツ群に付随した旗多様体は 2 次元球面であり,球面は「北
極 (north pole)」「南極 (south pole)」「その他 (rest)」の 3 つにセル分解される.し
たがって,対応する指標行列は 3 × 3 の行列になる.また,非コンパクトな直交群
SO0 (5, 5) の場合は,旗多様体は 40 次元であり,251 個のセルに分割される.分裂型
E8 では,240 次元の旗多様体は 453,060 個のセルに分割され,対応する指標行列は
453, 060 × 453, 060 という巨大なサイズの行列になる.
• Chinese remainder theorem (中国式剰余定理, CRT)
m と n を自然数とし,ℓ を m と n の最小公倍数とする.ある自然数 N を m, n で割っ
た余り rm (N ), rn (N ) がそれぞれ与えられれば,N の ℓ を法とした余りが一意に定
まることを保障する定理.例えば,5 で割った余りが 2 であり,かつ,6 で割った余
りが 4 であるような自然数 N について,N を 30 で割った余りは 22 である.
ある数を求める際に,まず小さな数を法として計算し,その後で中国式剰余定理を
使うことにより,他の付加条件と併せてその数を特定することができる場合がある.
中国式剰余定理は今回の E8 計算でも有効に使われている.
6. 参考資料等について
この E8 の研究成果については,2007 年 3 月 19 日に David Vogan 教授が MIT におい
て一般向けに講演・発表を行いました.その講演で用いられたスライドや録音などの各
種資料が同教授のホームページ http://www-math.mit.edu/ ˜ dav/ に掲載されています.
この発表に対する各メディアの反響・報道などは,アメリカ数学研究所のホームページ
http://www.aimath.org/E8/newsstories.html からご覧いただけます.
(作成: 北海道大学大学院理学研究院 山下 博)
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