コリントII 11

 野上キリスト福音教会 ◎礼拝説教:2015 年 8 月 16 日
◎説教者:中村準一 牧師
◎タイトル:弱さを誇る
◎今日の聖書:コリント人への手紙第二 11 章 16∼33 節
16
くり返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思う
なら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。
17
これから話すことは、
主によって話すのではなく、
愚か者としてする思い切った自慢話です。
18
多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
19
あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。
20
事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばら
れても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。
21
言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しか
し、人があえて誇ろうとすることなら、――私は愚かになって言いますが――私もあえて誇
りましょう。
22
彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らは
アブラハムの子孫ですか。私もそうです。
23
彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなの
です。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは
数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
24
ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
25
むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、
海上を漂ったこともあります。
26
幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、
荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
27
労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、
裸でいたこともありました。
28
このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあり
ます。
29
だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、
私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
30
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
31
主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないの
をご存じです。
32
ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。
33
そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。
◎宣教
パウロはコリントの教会に対して、特別な愛着を感じていました。ですから、コリントの
教会の中に大勢の反抗者が現れて、
パウロを批判したとき、
彼はその問題を解決するために、
一生懸命に取り組んだのでした。現代の多くの牧師たちの中には、教会の中に様々な問題が
起こると、勝手に教会を辞任して、別の教会に移ってしまう方がいます。しかし、パウロは
決して、教会を放棄することはありませんでした。彼は決して諦めることなく、教会員と最
後まで語り合い、説得し続けました。また、彼の敵対者たちが、自分たちの人間的な立場を
誇ると、彼も対抗して、自分の人間的な立場を誇りました。彼は誇ったのです。
「人があえて誇ろうとすることなら、――私は愚かになって言いますが、――私
もあえて誇りましょう。彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエ
ル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。彼
らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上に
そうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、
むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。」(21-23)
彼はキリストの福音のために、だれよりも深く悩み、だれよりも多く苦しみ、だれよりも多
く働きました。そして、それが彼の誇りでした。
「ユダヤ人から三十九のむちを受けた
ことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したこと
が三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊
の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、
にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しば
しば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から
来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまず
いていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(24 -29)
パウロは福音のために苦労することを当たり前と思っていたのです。なぜなら、主イエス・
キリストご自身が、
十字架にかけられることを当然のこととして受け入れていたからでした。
私たちもキリストの十字架の苦しみによって 救われたのですから、
キリストのために苦しむ
ことを、当然であると信じましょう。そのように信じることができるということが、信仰者
の強みなのです。どんなに苦労をしても、信仰者はそれを誇りへと変えることができるので
す。そのことを感謝しましょう。しかしながら、そのような誇りは、自分の強さを誇ること
なのです。
パウロは、自分の強さを誇ることができましたが、しかし、自分の強さではなく、弱さを
誇ることのほうが大切であることを知っていました。そこで、彼は言いました。
「もしどうし
ても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
」
(30) 病人や障害者のように弱い
人々は、自分の強さを誇ることはできません。しかし、弱い人々は、キリストの力に頼り、
キリストの恵みに信頼しますから、自分を助けてくださるキリストの力を誇ることができる
のです。弱いときに、私たちは、キリストの力を誇ることができることを感謝しま しょう。