-祈りの考古学- 平成20 平成20年 20年9月1日( 月1日(月)~9月12日 12日(金) 「祈り」 ほかの言葉では祈祷(きとう)、祈願(きがん)ともいいます。人々が神 格化されたものとの交流、思いを伝える時、あるいは願う時に行われます。 「祈り」 は祖霊信仰やアニミズム(精霊信仰)、太陽や星、そして宗教など、対 象は広く、人間の根本的な活動です。このため長い歴史の中で人々の「祈り」は 多種、多様、その対象も大きく変化してきました。やがて人々の祈りは数多く の遺跡、遺構となり、今に伝えられています。 今回の展示は福知山の大地に残された「祈り」の遺跡を歴史的、考古学的に見 たいと思います。 精霊への祈り 原始、人々の願いは「一日を無事に過ごすこと」であったに違いありません。そのため自然を畏れ、 また、一番に敬ったのです。やがて大自然の様々な現象から「神」という観念が現れます。原始の神 は唯一の絶対的なものではなく、植物や動物、山や川、あるいは岩石など、自然界の万物に神が宿 るという精霊信仰(アニミズム)でした。 たとえば流麗な姿の山、あるいは山中の巨石は神々が降臨する特別な場所となりました。ただ、 採集社会であった縄文時代、そして栽培社会となった弥生時代では「神」の対象が変わるようです。 参 呑ま所おで天 拝 童ざとおは座 巨石への 巨石への祈 への祈り・・・・巨石の信仰物を「いわくら」 し 子 )の し み 天 橋 た 退地てか照谷 と呼び「磐座」と書きます。巨石には神が宿る。 伝 治名祀み大の 説 の 起 ら )が 神 御 あるいは神が降り座す処という考えから、畏 が 際 源 れ 降 (あ 座 れ敬われてきました。そのいくつかは、今な あ、 ま岩 で、 り源 お御神体として伝えられますが、忘れ去られ 天臨 し て す 頼 ま 座 た磐座は、苔むした巨石を累々と横たえてい 。( たら地 す光 。が酒あ場す元 ます。 第一部 原始の祈り ( ) にれ地の毛毛 見祀元宮原原 えらで津のの るては道元岩 神 いま 岩 沿 普 神 秘す神い甲さ 的。さに道ん な岩 顔 ん あ 中 世大 で のよ と呼 る ま江 すうば巨 石 。 。で町 感 まの林こ天 じ っ天でのの さての、 あ 岩戸 せ神岩御 た神 ま秘戸座 り社 す的の石 はの 。な伝、 有 神 雰 説 楽 数 御座 囲と岩の岩 気あな自 をいど然 ) ( 1 承 て以象姿山峰知三 地 も来とかと八山岳 を 栄はならも三北山 伝え、 部み 古呼 修っ え、 て ば九 く m 験 山 ま 麓 道 い か れ 。 にそ たけ すにのまら、 古 びえ さ 。数聖し信そ の た仰秀く るん 々地 。 最 の麗は 御 のと 中 伝し世対な嶽高福 山 神にびあ見山荒 陰 社はやるせ市木 道 が延まいる街山 が 座喜とは通のあ 存 し式呼神称南ら し 、内ば奈荒方き て 近社れ備木にさ い 隣でま山の秀ん まにあすか権麗 すはる。 現な 。古荒中ん山姿福 代木腹な、を知 山への祈 への祈り・・・・山は獲物をもたらし、森林か らは家の材料や火の元を得られる。 原始の人々が山に感謝し、神として崇拝し、 畏敬の念を持つのは当然です。山に対する信 仰は豊かな収穫を祈ることにあり、農耕社会 となった弥生時代以降、盛んに信仰の対象と なりました。 ( ( ) ) 足 お峰戸大日 地 り。神江室 と 、山社町ヶ な 現自のの嶽 っ 在体目元ひ てもが前伊 い 山神に勢む ま の体そ内ろ す 東とび宮が 。 面なえ、た はっる天け 禁て秀岩 ) ( ( ) 荒 堀 遺 跡 ( 夜 久 野 町 大 油 子 ) ( ( ) ) 棲家 すみか での祈り・・・・日々の生活が行わ れている家屋の中でも祈りが行われていま した。発掘調査で発見された竪穴住居跡では 家の床に祭壇を作り、台の上に載せられた壺 には、神への奉げものが入れられていたので しょうか?。今の祭壇につながる「祈りのし るし」です。 ( ) 田 すおて木腹の轟 畑 る告てのに鹿水 が 伝げ水根モ倉と 潤 説にが元ミ山ど わ がよ湧かのしろ さ ありいら巨かき れ り掘て轟木くみ て、 りい 々が い今 ま あ らや ず 当 と も ま多てす音りま三 すくた。 を、 この和 。のと神 の立の中町 土馬 土馬は馬を模した土製品であり、古墳時代から平安時代ま での遺跡から出土します。古来、馬は神霊な乗り物として崇拝さ れ、特に農耕儀礼の祈雨、祈晴のために神に白馬、黒馬を献上す る慣わしがあります。 土馬はその馬の代わりです。その証拠にほとんどの土馬は井戸 や溝、川跡から発見されます。水に係わる祭祀に用いられるので しょう。やがて木板に馬の絵を描いた「絵馬」が登場し、その祈り の形は今に伝えられています。 水への祈 への祈り・・・・山と水は切れない関係です。 民俗学では農耕社会での「山の神」は、「水の 神」であり、「田の神」でもあると考えられて います。「山の神は春になると山からくだり、 田の神として人々に恩恵を与え、収穫の終わ る秋になると再び山へ帰り、山の神となる」 という伝承が全国的に伝えられています。 出 土 土 馬 ( ) 祭壇の土器発見の様子 土師新町城下層遺跡 弥生時代終わり頃の竪穴住居跡から器台と壺が2固体づつ、小さな鉢や壺がまとまって発見さ れました。おそらく家屋に作り付けられた祭壇跡と思われます。器台の上に壷を載せ、高く捧げた壺の中には神へ の貢物を入れたのでしょうか?。祖先への感謝、あるいは雨風をしのぎ、快適にくらせる家を神として感謝するた めに献じられたものでしょう。この祭壇は住居の廃絶と同じくして廃棄されたのか、同時に埋没していました。 2 第二部 伝統の祈り 精霊から姿あるものへ 先の原始信仰では、神々が姿をあらわすことはありません。岩や山、木などがその代わりとなっ て、敬虔 けいけん な招請に応じて、神霊が降臨しました。このような神と人間との関係が長く続 いた後、ようやく神の姿が形をあらわす時代がやってきます。日本の神が偶像となってあらわれる のは、日本に仏教が伝来し、仏が仏像として現されるようになってからです。 ( ) 考 い色せ内むすし三 え 九まはん刳頭。て岳 ら なすな。う、檜ま一 れ い。く瞳ち体のつの る し 、をぐの一ら宮 も 一 木墨りす木れ神 の 〇 ので べ材て社 で 世 素描もてかい神 す 紀 地く施をらる像 。の で以し彫両男 製 著外て出手神主 作 しにいしを像神 と て彩ま、含でと 神像・・・・日本の神の姿を映した神像は、仏像 とは造形、祭り方で異なっています。冠と袍 ほう をつけて笏 しゃく を持つ、木そのも のの一木 いちぼく で作られています。神像 は神殿の奥に安置され、普段人々の前に姿を あらわしません。人々は扉の向こうの神像に 神が降臨することを想像しながら祈りをさ さげたのでしょう。 ( ) ( ( ( ) ) ) 威光寺(下佐々木)神像群(未指定) 五体からなり、このうち四体は冠を 戴き、袍(ほう)をつけ、笏を棒持する姿であることはわかります。一 木造で、湿気による朽損と虫害は激しく、土に帰ろうとする直前の姿 です。 左端の一体は菩薩形の立像で、他の四体の神像と同居するように、 神仏習合が進み、このように祭神を仏像の形であらわすこともありま した。 島田神社・・・・字畑中に鎮座するこの神社は、 本殿の柱上部(内法貫:うちのりぬき)に記さ れた墨書から文亀2年(1502)室町時代の創建 として知られており、市内最古の木造建築で あり、京都府でも数少ない中世の建造物とし て著名です。国指定重要文化財に指定(昭和 62年)されています。 前身遺構A列石 前身遺構A列石 火を炊いた跡 島田神社本殿下層遺構 現在の本殿基壇の内部から先行する2時期の遺構を新たに確認しました。 一つ目(前身遺構A)は現在の社殿を200~300年ほど遡る鎌倉時代のもので内部に一回り小さい石積みを持つ二重基壇 の様子を示しています。石積は正面を中心に約4.5mほど列を成しています。建物規模は明らかではありませんが現状 より小さな社殿の存在が推定されます。 二つ目は(前身遺構B)、これをさらに遡るもので拳大の石と土を突き固め、土壇状の高まりを造っています。時代 をはっきりさせる遺物も少なく、また社殿を設けたものかも不明ですが島田神社の地で行われた最も初期の祭祀遺構 と考えることができるでしょう。またこの地面では数箇所の火を炊いた跡が見つかりました。火と煙による祈りの儀 式があったのでしょう。 3 第三部 新たな祈り 蕃神(となりのくにの神)の渡来 『日本書記』や他の資料により、仏教の伝来は欽明天皇の時代(552年or538年)、隣国である百済 から仏像・仏具・経典を献上されたこと始まります。「となりのくにの神」である仏教の受容を巡って は、豪族の権力闘争も相まって大きな騒乱が起きましたが、受容派が勝利し、仏教はまたたく間に 全土に広まり、現在まで日本の文化に大きな影響を与えてきました。 一方、仏が神に置換わるのではなく、日本では長く神と仏は同化し、神仏習合という独自の信仰 文化を作ってきました。実際、明治政府による「神仏分離令」(1868)以前には寺に神社が祀られたり、 神社の中に神宮寺と呼ばれる寺が作られていました。 寺院の建立・・・・古代寺院は単に仏教のため たけではなく、地域支配者の古墳に替わる新 時代の権力、財力の象徴として造営されまし た。由良川流域では綾中廃寺(綾部市)と和久 寺廃寺(和久寺)、多保市廃寺(多保市)の3遺 跡が知られていますが、近年、河守廃寺(大 江町河守)が新たに発見されました。 和 久 寺 廃 寺 の 瓦 和久寺廃寺 1985~86年発掘。塔跡、金堂、築地塀、北方建物跡、雑舎などを確認。伽藍配置(堂塔の配地)は、塔の 東に金堂を置くものですが、斜面に造営されているため決められた形式を示さない。現在塔心礎のほか、古瓦の散布 が認められます。天高くそびえる塔、色彩あでやかな金堂、屋根に光る瓦など、今ではすっかり町の景観にとけ込ん でいる瓦葺きの寺院も、当時の人々には見慣れない風景に新しい文化の到来を感じたことでしょう。 高田山経塚 末法思想・・・・平安時代も終わりに近づいた 頃、仏教の末法思想とともに社会情勢の不安 や天変地異から世紀末的な考えが蔓延しま す。釈迦の教えがおよばなくなる末法の危機 感に備え、経典を後代に伝えようと地中に埋 納する経塚が大流行します。 発見された青磁 高田山経塚 高田山2号古墳の頂上で発見された中世の墓群と経塚。経塚からは13世紀はじめ頃の中国製青白磁小壺 が発見されました。美術工芸品としてもその価値は高く、当時の末法思想による、来世への祈りを感じることができ ます。 道教・・・・中国の民間信仰であり、日本では宗 教として確立しませんでしたが、その一部で ある呪術は古代に日本に伝わり、鬼道と呼ば れました。また神仙思想は修験道に盛行しま す。特に安部清明で著名な陰陽道は道教の考 え方であり、平安時代に大流行します。 石本遺跡発見のまじないの道具 石本遺跡の大溝 石本遺跡(牧) この地方有数のムラ跡です。川の合流地に近く、水運や陸運 の重要な場所にあることで栄えたたムラと考えられます。古墳時代終わり頃 の大きな溝から大量の土器類に混ざって馬形や船形など形代と呼ばれる「ま じない」の道具が発見されました。鬼道による古代のまつりの跡と考えられ、 次の奈良時代に流行する祭祀をいち早く取り入れた、時代の最先端を行くム ラの様子を伝えています。 4 庚申塔(こうしんとう) 道教では、人の体の中には三尸(さんし)という3種類の虫がすみ、庚 申の日(60日毎)の夜、睡眠中に人の悪事をすべて天帝に告げに行くという。そのため庚申の 日に人々が集まって徹夜で過ごす「庚申待ち」という風習がありました。平安時代に始まり、 江戸時代に入っては、庚申塔(石塔)をつくり夜通し酒宴を行う風習が広まりました。 庚申塔は、この信仰に基づくもので、牧川、由良川以北の三岳山を中心とした北部地域で50 ヶ所以上確認されています。庚申塔には彫刻があり、本尊には青面金剛(しょうめんこんご う)と呼ばれる武人が配されています。また申(さる)は干支で猿に例えられるから、「見ざる、 言わざる、聞かざる」の三猿を彫られています。 明治時代以降の近代になると庚申信仰は迷信と考えられるようになり、今は忘れさられ、道 筋にひっそりと佇んでいます。 天座(あまざ)の庚申塔 第四部 新たな祈りⅡ 西欧から渡来した神々 日本へのキリスト教伝来は、1549年ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルによってもたら されました。安土桃山期を通じて権力者に保護され、新たな西欧文化とともに急速に日本に広まり かけましたが、キリスト教の教義が封建的な武家社会の道徳に相入れないことから豊臣秀吉以降、 江戸時代を通じて禁教令等によって厳しい弾圧が行われました。 切支丹 ・ ・ ・ ・ ポルトガル語でキリシタン (cristão)、戦国時代~明治初頭まで使われ た言葉で、英語ではクリスチャンとなり、キ リスト教信者全般を指しますが、伝来の経過 により日本ではカトリック信者をいいます。 本来は吉利支丹と書きますが将軍・綱吉に吉 の字があることから、切支丹と書くようにな りました。 福知山城出土ロザリオ残欠 東京国立博物館蔵 手に提げて祈 ( ) る道具。福知山城で発見されたものは5種類あり、基本は木製 顆 つぶ で、一部水晶製の十字架を持っています。 ( ) 福 知 山 城 出 土 メ ダ イ 各 種 東 京 国 立 博 物 館 蔵 (裏) 「LOUVODO SEIA 天使の聖体礼拝(表) 文字 O SANCTISSO SAKRANP」 (聖体をほめ讃えられよか) 無罪論の聖母(表) 聖母を拝す宣教師(裏) ( 聖者半身像(表) 聖者半身像(裏) ) キリスト半身像(表) 聖母半身像(裏) 福知山城出土のロザリオとメダイ(東京国立博物館蔵) 大正五年(1916)に福知山城堡内(つつみない)から発見された と伝えられるメダイ4点とロザリオ5連です。堡内とはどこなのか?、発見の経緯も不明で謎の遺物です。おそらく 江戸時代初期の禁教、弾圧によって埋め隠されたものと想像されますが、誰が、どのようにして隠したものか謎のま まです。福知山三代城主小野木重勝の妻は受洗名シメオンを持つ切支丹と伝えられています。ここ福知山でも江戸時 代の初期確実にキリスト教が広まっていたことをしめす貴重な遺物です。 ※ロザリオ、メダイの画像は、至文堂『日本の美術 5 NO.144』1992から転載 す ア隠彫竿内 が 像れに柱記 真 と潜しの稲 相 見伏て下荷 は る切い部の 闇方 に 切支 支ま す の々 丹。立丹 中も のこ像? であ マれを灯 り す 。 まリを浮篭 キリシタンの面影・・・・厳しい弾圧の結果、各 地のキリスト信徒達は、改宗を迫られました が、一部の熱心な信者は観音像を聖母マリア に見立て、表向きは仏教徒にカモフラージュ して潜伏しました。俗に隠れ 厳密には「潜 伏」と「隠」に区分される キリシタンと呼び、 各地にその伝説を残しています。 ( ( ) ( ) ( ) ( ( ( ) ( ) ) ) を神② 想と祭 像あ神 さりは せ 、母 十 る神倉 。が大 聖明 母神 マの リ御 ア母 ( ( ) ) ) 像在何主し丹 さ的らでて後 れに確あ知国 る切証るら一 地支の時れ円 域丹無期るは で信いが京切 す仰話あ極支 。のでり高丹 姿 すが ま 知大 が、し が名 た 想潜。領と 灯十 篭 字 織部灯篭 おりべとうろう 桃山時代の武将、また茶人で あった古田織部が信者や茶人の好みに合うよう創案した 市逆 さ 内 卍 といわれます。基礎をもたず竿 柱 を地中に埋め込み、上 某 の 部が丸く膨らんでラテン十字架、下部に立像を浮彫にし 寺 あ ています。これを地蔵信仰に似せた隠れ切支丹の尊像と 院 る 見て、切支丹灯篭とも言われますが、古田織部が切支丹 所織 在 部 であった証拠はなく、また、キリスト教信仰と本当に関 連があるのかは不明です。 ク① れ社に大 来 ル 「く て に あ 雲 寿 スる い切る橋 森 支小 十す ま く さ大 丹 字」 す 江 。 な 架が と神町 る の社南 す にポ の 関で有 通ル も 路 じト 係 るガ がす のり 。ル 論。 こ 語 じのた も神 の ら神と 社 ( 苔 水 庵 内 記 の 織 部 灯 篭 キ神地は子は③ リ で 三 吾 、そ わ 同 スあ界をのが拝 トる唯お患も殿 教」 一い難のの 義 口 の て を 、衆 神 に語主他救生託 似訳宰にいはの るの神なう悉文 。内がいるく語 容 こ 」、「 も わ 「万 がの天のが有 毛原の岩神さん 天岩戸神社 日室ヶ岳 天座の御座岩 庚申塔 三岳山 小和田神社 威光寺 来寿森神社 三岳一宮神社 荒堀遺跡 ) 石本遺跡 高田山経塚 和久寺廃寺 福知山城 土師新町下層遺跡 内記稲荷 苔水庵 島田神社 荒木山 今回紹介する遺跡、文化財 梅田神社 6 轟水
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