北アルプスの事件

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北アルプスの事件
いまTVで「紫門一鬼、北ア山岳救助隊」シリーズが放映されている。主演、高嶋政宏。
北アの殺人事件を毎回取り上げているから、すでに20回ほど事件が発生したことになる。だ
が実際はどうか…。私の知る限り事件は1件だけである。
それは敗戦の翌年、昭和21年7月。裏銀座コース烏帽子岳の登山口にあった濁小屋で起こ
った。被害者はG大学の4人の学生、7月9日就寝中に深夜に2名の暴漢に襲われ、2名が即
死、残る2名が重傷を負った。重傷者の1名が近くから大町警察に連絡、すぐに非常線が張ら
れ翌日犯人は逮捕された。これが新聞報道である。
被害者のG大学生4人は烏帽子、野口五郎、槍、上高地と縦走予定。午後3時ごろ小屋に
着き、夕食の準備をしていると、2人の男が小屋に入ってきた。G大のリーダーは挨拶の声を
かけたが、2人の男は頭を下げただけで他の部屋に荷物を置き、外へ出ていった。
G大4名は夕食後しばらく談笑していたが、間もなく熟睡してしまった。そして深夜に棍棒
のようなもので殴られたと云う。しばらくして意識を取り戻した1名が、近くのダム事務所へ
救助連絡したという。
大町警察は事件から3時間後に犯人を逮捕。犯人は神戸の造船工K(24 才)と無職R(21
才)である。所持していた風呂敷から被害者のザック、靴、食料などが発見され、犯行の一切
を自供した。それによれば犯人は物取り目的で、登山者から物を奪う計画だった。凶行後は
所持金数千円と目ぼしい物を奪ったうえ、不要な物を焼いたり捨てたり。血痕のついた衣類は
洗って悠々と下山してきた。逮捕されたとき彼らの衣類にまだ血が点々と付着していた。
世間はこの事件に驚愕した。
犯人は憎むべき凶悪犯である。極刑に処すべきだ。
そんな世論が大半を占めた。犯人2人は徴用工
として広島の造船所で働いていたとき知り合った。
そして山登りのベテランKが金に困ったあげく、
Rを誘って登山客を目当てに神戸から列車に乗り、
はるばる信濃大町経由で濁小屋までやってきたと
いうのだ。G大4名とは小屋で初めて顔を合わせ
た。 なのに大胆不敵な凶行、世論の思惑どおり
数年後に犯人は極刑になった。
犯人はたしかに凶悪に違いない。だが動機や
情状酌量の余地がまったくないものか。
【濁小屋が沈む高瀬ダム】
主犯Kが山のベテランだというのに何か引っかかる。
この一点だけ疑問に思った人がいた。
そのFさんは事件から40年以上経過、もはや風化していた事件を自分なりに調べてみた。
それによると、犯人は凶行目的に入山したのではなく、彼らも彼らなりに空腹な身体で、山
登り目的だったことが判明した。粗末な食料と装備を一応は揃えていたという。
それが一転して彼らを凶行に走らせたのは何か…。それは歴然とした境遇の差であった。
一方は兵役につき安月給で貧しい生活、片方は金銭に不自由なく食料も困らない大学生。
同じ山小屋内で極度な空腹者と裕福な学生、あまりにも段差があり過ぎた。
突然、羨望が殺意に変わって行ったのではないだろうか。いまでは想像もできない
一億総飢餓の時代の事件であった。
濁小屋はいまはダムの底に沈んでいる。