現代建築史 第三部/ ケネス・フランプトン

modern architecture
Kenneth Frampton
a critical history
translator: Toshio Nakamura
Ⅲ1
no.1
第1章 国際様式:主題と変奏 1925〜1965
1) 国際様式
(インターナショナル
・スタイル)
1932年のヒッチコックとジョンソンによるMOMAでの展覧会『国際様式』。
国の気候や文化の相違に対応して、微妙に変化しており、普遍的なものではなかった。
考え方の共通項として、生産と建設を促進することを目的とした軽量化の技術、合成材料、規
格標準部材などがあった。
共通の規則として、自由な平面による仮想的な融通性を志向していたため、骨組構造を選択
された。
特殊条件によって先端的軽量化の科学技術が応用されない場合は形式主義化。
2) アメリカ
①ノイトラとシンドラー
ともにオーストリア人であり、ライトの下でアメリカ的な修行を積んだ。二人の最大 の関心
は太陽と光の調節にあり、建物とそれを含む文脈との間に植物というスクリ ーンを介在さ
せて、微妙な変化をつけることであった。
シンドラー《サックス・アパートメント》(1929)、ノイトラ《砂漠の家》(1946‑1947)
②リチャード・ノイトラ:《健康住宅》(1927)
国際様式の理想像。この住宅の建築としての表現性は、軽量の合成皮膜を纏っ たスティ
ール構造の骨組に由来する。
「国際様式」の同質性が最初に派生してきた共通する起源を示唆している。
「生態的現実主義」:建築の形態はすべて健康に結びつくという主張
3) アルフレッド・ロート
:『新しい建築』
(1940)
ロートにとっての「国際様式」の基準は、建築の形態を作り上げるための情感豊かでかつ厳密
に理論的なアプローチであった。
「新即物主義」は、先端技術や自由な平面がそれ自体、目的とされなくなった時に初めて
実現されることを実例でもって示す。
周囲に与える影響を配慮したディテールの処理などを高く評価している。
(骨組構造による先端的方式の例)ノイトラ《野外学校》(1934)
(組積造といった伝統的技術の例)ヴァーノン・デ・マース設計の住居(1939)、
「ABC」グループ《ノイビュール団地》(1932)
(スイス)ヴェルナー・モーザー《バード・アレンモースの水泳施設》(1935)、
ロート、マルセル・ブロイヤー《ドルダータールのアパートメント》(1936)
(フランス)ボードゥアン、ロッズ設計の野外学校、コルビュジェ設計の住宅(1935)
(オランダ)「オプバウ」グループの作品:ブリンクマン、ファン・デル・フルーフト
(イギリス)オーウェン・ウィリアムズ《ブーツ製薬工場》(1932)
4) チェコスロヴァキア
機能主義運動についての詳しい歴史はわかっていない。
J・ハヴリチェック、K・ホンツィック:《保険会社ビル》(1934)
オットー・アイスラー:《二軒長屋》(1926)
ルートヴィック・キセラ:《バータ靴店》(1929)
ジャロミール・クレイカール:パリ万国博《チェコスロヴァキア館》(1937)
5) イギリス
アメリカと同様に部外者による作品が「国際様式」の起源となる。
ペーター・ベーレンス:《ニュー・ウェイズ》(1926)
エイミアス・コーネル:《ハイ・アンド・オーヴァー》(1930)
①テクトン:
バーソルド・リュベトキンにより設立された事務所で、それまでの英国建築に無い論理的組
織能力を発揮した。
《ハイポイント−1》(1935):厄介な敷地での建物の配置や内部空間の設計などは、今な
お形態的、機能的秩序の模範となっている。
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Ⅲ1
no.2
第1章 国際様式:主題と変奏 1925〜1965
1938年以降、バロック建築の修辞的な伝統を立体主義の厳格な統辞法の中に吸収同化
させようと意識的に方向転換する。戦後10年間の英国建築に大きく影響を与える。
《ロイヤル・フェスティヴァル・ホール》(1950)
②MARS:1932年ウエルズ・コーツ主導で創立された、CIAMの英国派。未来の組織化に必
要な進歩的方法論を定式化できなかった。
《ロンドン計画》(1940年代前期):極めてユートピア的であるが、目覚しい出来栄え。
6) スペイン
1930年以降、ホセ・ルイス・セルトとガルシア・メルカダの指揮の下で論争・運動が展開された
GATEPAC :CIAMのスペイン派で、シクスト・イレカス、ゲルマ・ロドリゲス・アリアス、トレ
ス・クラヴェらが参加した。
・《マキア・バルセロナ計画》:重要な理論的研究の一つで、超低密度の計画。
・《カサ・ブロック》:コルビュジェの《現代都市》の入隅型原型を発展させたもの。
セルト:パリ万国博《スペイン館》(1937)
7) ブラジル
ブラジルの近代建築はルシオ・コスタとグレゴリー・ワルシャヴシクが共同体制を作ると共に始
まり、コルビュジェの影響を色濃く受けた。
オスカー・ニーマイヤー :コルビュジェの構成要素を変形して感覚的で、土着的表現を作り
上げるという修辞的手法の最も見事な建築家であった。
・《ブラジル館》(1939):コルビュジェの自由な平面の概念を、流動性と相互貫入性というレ
ベルへ引き上げた。ブーレ・マルクスのランドスケープはブラジルで
の新しい国家様式を生み出した。
・《カジノ》(1942):コルビュジェの「建築的周遊性」という概念を再解釈し、釣り合いの取れ
た華やかな空間の構成の中に生かす。あらゆる観点からの豊かな物語
性。
・1950年代コスタによるブラジリアの計画では、コルビュジェのチャンディガールと同じよう
に記念性を重視したため、都市と建築に分裂ができてしまう。さらにニーマイヤーが担当
した《三権広場》は形態の純粋性を求める余り、気候条件を無視したものになった。ブラ
ジル近代建築の豊饒さの中に、退廃的形式主義の萌芽が紛れ込む。
・《近代美術館》(1955)を機に新古典主義の伝統にいっそう近づいていった。
8) 日本
50年以上にわたり西欧の影響を受け続けてきたため、「国際様式」の受容は容易であった。
①アントニン・レイモンド :《自邸》(1933)
日本の伝統的木造建築を想起させるほど、精妙に造られたコンクリートの仮枠は、戦後に
おける日本の建築構造の規準とされる。室内においては片持梁式の家具の設計。土着的
な手法から直接採った要素を形態に組み込む。
《ライジング・サン石油会社》、《東京ゴルフ・クラブ》、《赤星邸》、《福井邸》
②坂倉準三 :パリ万国博《日本館》(1937)
日本の伝統的茶室の構築的な秩序を、コルビュジェでなく現代的語法により再解釈。
③川喜田煉七 :《ハリコフ劇場》国際設計競技応募案(1931)
当時の近代主義からかけ離れている。機械装置の動きそのものに対する熱狂的な関心、
大規模な構造物を創造する修辞法に対する興味。戦後の丹下作品との関係。
④丹下健三 :《(香川県庁舎》(1955‑1958)
古典的ともいうべき完成の域。平安時代から引き出された基本概念が「国際様式」の常套
的語彙から慎重に選ばれた要素と溶け合い、一体となっている。
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no.3
第1章 国際様式:主題と変奏 1925〜1965
⑤前川國男:
《晴海のアパートメント》(1957):大きな耐震構造による多層階の建物に、西欧風と日本風
の生活様式を取り入れる。
「日本の伝統的文化は、なおも西欧の技術官僚制の行き過ぎを救済する力として存続しう
るのでないか。」という逆説的問題提起を受け入れる
→「国際様式」の時代が、決定的に終息。
(注)
・ヒッチコック+ジョンソンの「国際主義」
1)ヴォリュームとしての建築、2)規則性、3)装飾付加の忌避
・新即物主義
表現主義に対する反動として、1920年代からドイツに興った芸術運動。主観的・幻想的傾
向を排し、現実を明確に、客観的・合理的にとらえようとする立場。
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no.1
第2章 ニュー・ブルータリズムと福祉国家の建築:英国 1949〜1959
1) 背景
第二次世界大戦後、英国は物質資源もなければ、モニュメンタルな表現を少しでも必要とす
るような文化的自負心も喪失していた。
英国の公共建築の一般的なスタイルは、
・「簡略型」ネオ・ジョージ朝様式
・長い伝統を持った福祉国家スウェーデンの公共建築を大いに手本とした「現代様式」
しかし、統辞法は、低い傾斜屋根、煉瓦壁、縦羽目、四角い木製窓枠の飾り窓。
→「ピープルズ・ディティール」 左翼建築家のお気に入りの建築言語
1955年 ペヴスナーが、レイス記念講演「英国芸術の英国性」で「絵画的で形式ばらないこと
が英国文化の本質である。」と述べる。このような「近代運動」の人間的な説明は、
「ニューヒューマニズム」と名付けられ広く普及。
1951年 「英国祭」が開催。ソビエトの構成主義による英雄的図像性をもじって、穏便な文化
政策に進歩的かつ近代的な次元を付け加えることになった。
英国祭の大人気にはっきりと反対を表したのが、アリソン、ピ−ター・スミッソン夫妻。
→ブルータリズムの精神の最初の擁護者
2人の賛成者、同調者は「スウェーデン路線」と関係なく仕事をしていた。
このような状況をレイナー・バンハムは「〜。重要なのは、それが福祉型建築のどんなスタイル
も一切合切を拒絶してしまおうという興奮した真実であることだ。〜」
ブルータリスト達は、スウェーデンの経験主義のプチ・ブルジョワ的上品さをきっぱりと拒否す
る一方、大衆文化の社会人類学的根源を直接参照することによって、「ピープルズ・ディティ
ール」の挑戦に答えた。
1953展覧会「芸術と生活の平行」 初めてブルータリズムが大衆の注目を集める。
1956展覧会「これこそ明日だ」
2) アリソン・スミッソン
、ピータースミッソン
1949「パラディオ+ミース」的な中学校を計画
以下3つの作品において、パラディオ的な所が見られなくなった。
《コヴェントリー大聖堂》(1951) 《ゴールデン・レイン集合住宅計画》(1952)
《シェフィールド大学増築計画》(1953)
これらの計画に見られる構造を抑制した修辞法は、顧みれば、ロシアへの思い入れと言うより
もむしろ日本的な傾斜だったと思われるが、何はともあれ、類似性から言えば「構成主義」で
ある。
1950年代後半期、彼等はプロレタリアの生活様式に対する当初の同調的姿勢から離反し、
中産階級の理想に接近。
1956年「ロンドンの道路研究」 高架高速道路を新たな都市の装置として提案
日常的規模ではクローム製消費財を、ぼろぼろに老朽化したアパートメントやごてごての飾り
立てた室内での宥和的スタイルによる究極の解放イコンと見ていた。
《ハンスタントン中学校》 設備の要素や構造の要素など表現豊かな文節に対する強い執着
《ソーホーの小住宅》(1952) 一段と強い規則性、反美学的手法
↓
これらは素材に対する執着の表れ。
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Ⅲ2
no.2
第2章 ニュー・ブルータリズムと福祉国家の建築:英国 1949〜1959
3) J・スターリング
スターリング自身、一度たりとも自分がブルータリストだったことはないと述べている。
《住宅計画》(1953) 19世紀の実用主義的な煉瓦の美学に回帰。正方形を組み合わせる新
造形主義風の構成を採用して、《ソーホーの小住宅》の野性的で反芸術
的な雰囲気からの脱出。
1955年コルビジェ《ジャウル邸》に訪れ、衝撃を受ける。
(ブルータリズムの様式の発展は、コルビジェの後期の作品の語彙に負うところが大きい)
→照応関係が《ハム・コモン集合住宅》に見られる。
1959年ジェームズ・ゴーワンとの共同による《セルウィン・カレッジ寄宿舎》計画案
彼等のスタイルに結晶質の造形性を導入した最初のものであり、「表」と「裏」という2項対
立の主題が最初に提示されたもの。
ゴーワンと共同《レスター大学工学部棟》(1959) 「近代運動」の正当な形態と、スターリング
の故郷リヴァプールの土着の産業固有言語や商業固有言語が混在(cf.ピーター・エリス)。
初期ブルータリズムの根本的矛盾が吸収されている。
→「形式主義」と「大衆性」の2つの矛盾し合う2つの要素を、19世紀の産業建築のガラ
スと煉瓦の固有言語の中に融合する。
1964年《ケンブリッジ大学歴史学部棟》 煉瓦とガラスの統辞法の拡大。ガラスの透明な形態
が主要な煉瓦造りの防御部分を圧倒するまでになった。その煉瓦造りの部分は2本の昇降機
と階段の塔であり、「サーヴァント」部分に相当する出入り口を文節。
→スターリングの住宅を示す類型学の装置となる
1966年《オクスフォード大学 フローリー学生寮》
以上の4つの大学施設のように類型学を目指す方向性が、建築の要素を個々別々に分解し
再結合する傾向と相俟って、1つには経験的な要求に答え、1つには「近代運動」で受け入れ
られた形態を「脱構築」しようとして、場所性に対する関心などを遙かに上回ったブルータリズ
ム最後の「モニュメント」を次々に作り出すこととなった。
スターリングの建築の重要性は、そのスタイルの魅力にあるとされる。生活の質を間違いなく
決定する「場所性」を絶えず洗練するのではなく、形態を決定する見事な構築性にある。
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no.1
第3章 イデオロギーの変遷:CIAMとチームⅩ、批判と反批判 1928〜1968
1) CIAM
1928
CIAM宣言
「進化と人間発達に密に結びついた基本的人権活動である」
「建てること、すなわち建物」が建築よりも強調
計画経済と工業化の必要性を強調 → 規格寸法と効率的生産方式
「ラ・サラ」 都市計画についても急進的な姿勢が見られる。
・第一期 1928〜1930
理論中心 「新即物主義」の建築家が主導権
第2回会議フランクフルト会議 「生活最小限住宅」
第3回会議ブリュッセル会議 「合理的建築方法」
・第二期 1933〜1947
ル・コルビュジェの個性が発揮
力点を意識的に都市計画へ
第4回会議 34のヨーロッパ都市の比較 → アテネ憲章
レイナー・バンハムの批判的に述べた
アテネ憲章は説得力ある一般論によって普遍的適応性があるに見えながら建築及
び都市に関して実に狭隘なる概念を隠しているのである。
・・・三十年の歳月を隔てて見ると、それが美的選択の表現でしかないことが認識さ
れるが、当時にあっては、モーゼの戒律のような力を発揮して、他の住居形態を研
究するなど到底なし得なかったのであった。
第5回会議 「住居と余暇」
この時以来、CIAMは歴史的構造物の影響ばかりでなく都市が発生した地域の
影響も考慮するようになった。
・第三期 唯物論的思考はまったく払拭されて自由主義な観念論が大勢
第6回会議 「機能的都市」論の抽象的不毛性の超克が試みられる
第8回会議 第6回を受けてMARSが「ザ・コア」を議題として提起、しかし「都市の中心」
が採択される。
ジークフリート・ギーディオンやホセ・ルイス・セルトやフェルナン・レジェ等が提出した
宣言文の中で提示した論題を突きつける。
場所の具体的特性に対する関心が高まったにも拘らず、CIAMのメンバーのうちの
後衛達は戦後の都市状況の複雑系を現実的に評価してゆこうという意思表示を見せ
なかった。
第9回会議 決定的分裂
若い世代はアリス・スミッソン、ピーター・スミッソン、アルド・ヴァン・アイクに率いら
れ「アテネ憲章」に対して異議申し立てを唱える。
後衛達の「理想主義」
⇔ 単純化された都市のコアのモデルでなく複合化した図式を策定して、そ
れが独自性の必要にはいっそう答える
第10階会議 若手グループ「チームⅩ」が進行
物理的形態と社会・心理的必要との間の正確な関係を批判的に探求する
2) チームⅩ
・スミッソン夫妻
写真家ナイジェル・ヘンダスンのロンドンの街頭生活の写真がスミッソン夫妻の感性の形成に
決定的役割を果たしている。「同定性」や「共同性」といった概念を誰よりも早く引き出す。この
感性がCIAMグリッドへの無条件な連座と真っ向からぶつかることになったのである。
≪ゴールデン・レイン計画≫ 都市の地域別に対する批判を意図、家族単位とする。しかし地
上から引き離された街路がもはや共同生活を享受できない、高密度住居の自然からは生活
感にあふれた生活を維持できる解決などないという矛盾に逆戻りしていた。
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Ⅲ3
no.2
第3章 イデオロギーの変遷:CIAMとチームⅩ、批判と反批判 1928〜1968
家族単位の住居開発計画には低層高密度が好ましい方針として採用される。≪村落住宅計
画≫などに見られる。
ドーン宣言を発表し「生態学的」議論を展開し「住居は風景の中に孤立した物体ではなく、風
景の中に組み込まれなければならない」と主張した。
≪エコノミスト社計画社≫→ ≪ハウプシュタット計画≫
≪ロンドン・ロビン・フッド・ガーデンズ集合住宅計画≫→ ≪メーリングプラッツ計画≫
・バケマ
反機能主義を表明、「新即物主義」に敷地計画の原理からほとんど逸脱することはなかっ
た。≪アムステルダム・サウス計画≫とオランダ機能主義を絶えず参照。
J・M・ストクラと協力し≪ケナーメルランド計画≫を設計。「近隣住居単位」から生じたもの
であった。
≪テルアヴィヴ計画≫ 近隣住区という擬制には重要性が与えられずに巨大な形態が
近隣住区単位を組織する機能にとって換わってしまう。
バケマにせよスミッソン夫妻にせよ、彼等は「都市の中の位置付け」という概念に拘った。「モ
ートピア」の「無限定な空間」の中に、建築によって場所の感覚を作り出すと言う意味である。
・アルド・ヴァン・アイク
「場所の形態」という概念を発展させることに携わってきた。この概念こそ二十世紀後半に
相応しいものであった。悲観主義的思想に近いくらいの批判性を原動力としていた。
人間の超時間性に関心を表明。「チームⅩ」の主流の思想とはおよそ無縁であり、CIAM
のイデオロギーからも異質であった。
「内側と外側」「住居と都市」といった、どこにでも見られる一対の現象を象徴的に媒介する
「境界」を拡大させることに関心をもっている。→≪子どもの家≫
近代建築が「様式」と同時に「場所」の抹殺にも手を貸したことを指摘。土着性の喪失に絶
望する。
・サドラッチ・ウッズ
≪フランクフルト計画案≫ アイクの「迷路のような明快性」に答え「縮図都市」の概念を提
示。実現はしないが≪ベルリン自由大学≫に生かされる。都市文化の欠落により都市固
有の活気にあふれた多様性が生み出せず。
≪ウルビノ計画≫これによって≪輝く都市≫に対するアンチテーゼを提起することに
なる。
・デ・カルロ
論文「建築の合法化」において「CIAM宣言」について批評
建築の理論は社会全体に浸透しつつある権力と搾取の実際のネットワークを惑わすのに
しばしば与っているのである。その例としてCIAM第八回会議の議事録を挙げている。
ヴァン・アイク、ウッズ、デ・カルロを除く、大多数のチームⅩの人々は都市の遺産の破壊を、
投機の名のもとに無視しようとしていた。今後なお存続するものと言えば、彼等の建築的映像
などではなく、むしろ彼等の文化的批評を示唆する力なのである。
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no.1
第4章 場所、生産そして背景画:一九六二年以降の世界の理論と実践
1) 1960年代中期以降の
建築の両義的な役割
公共の利益に役立つことを事としながら、しばしば最大効果を求める科学技術の領域拡大に
無批判に手を貸す。
巨大建築:科学技術と財源により実現
ミノル・ヤマサキ《世界貿易センター》1927
SOM《シアーズ・タワー》1971
マンフレッド・タフーリ
現代の前衛達の目指すところは、伝達媒介を通じて前衛であることを立証するか、あるい
は、それとは対照的に、創造の悪魔祓いの儀式を秘密裏に執り行うことによって前衛の責
任を償おうとする。
2) アーキグラム
1961年 雑誌「アーキグラム」を創刊
バックミンスター・フラーの技術官僚的イデオロギーやジョン・マッケイル、レイナー・バンハム
の思想に強く結びついている。
「ハイ・テク」、軽量化、インフラストラクチャーといったアプローチを取り入れ、その後、皮肉に
充ちたサイエンス・フィクションに沈潜していく。
セドリック・プライスと区別:直ちに着手可能な高等教育システムに対応
フラーに倣って、生産方式などの焦眉の急に応える巧妙な技術に今日性を見出すよ
りも、生き残りのための科学技術にハルマゲドン的意味を与えることに興味をもった。:ロン・ヘ
ロン《ウォーキング・シティ》1964
巨大構造物による計画案が生み出す社会的および生態学的結果に対して、関心を払うこと
など思ってもみなかった。:ピーター・クック《プラグ・イン・シティ》
彼らの提案した空間の基準案は、彼等なら軽蔑したであろう戦前の機能主義者達による「必
要最小限住宅」を遥かに下回るものであった。
3) メタボリスト
1950年代後期に日本で結成
日本の人口過剰とういう圧力に応えて、絶えず成長し適応していく「プラグ・イン」方式の巨大
建造物の提案。 :菊竹清訓《海上都市》
日常生活への応用には縁遠いものであったが、通常の実践を継続、維持できたということは、
この前衛運動そのものが修辞法的であったことを証している。
基本概念はほとんど実現されず :菊竹清則《スカイ・ハウス》1958
黒川紀章《中銀単身者用カプセル・タワー》
4) ニュー・ウェイブ
アーキグラム、ハンス・ホラインからの影響:《福岡相互銀行本店》1968〜1971
ルドゥーの象徴的なネオ・プラトン主義的幾何学から出発して、グリッド状のハイ・テク建築を
追及した。:
《群馬県立近代美術館》1971:日本の伝統的な「闇の空間」の喪失を償う
伝統的まぼろしの空間に代わる、相似的空間を現在の時点に展開しようとした。:
《長島ホーム・バンク》1971
二つの極の間
格子の集合であり、立方体を重ね合わせることによって操作される非構築的なもの:
《群馬県立近代美術館》《秀巧社》
バレル・ヴォールトを連結させる構造である構築的なもの:
《富士見カントリー・クラブ》《北九州市中央図書館》《ロサンゼルス現代美術館》
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‑1
no.2
第4章 場所、生産そして背景画:一九六二年以降の世界の理論と実践
・ ニュー・ウェイブ
篠原一男、磯崎新の中間世代の支援
単体の建物と都市の組織全体との間に何らかの意味性という関係を成立させることなどでき
ないという認識がきわめて形式的で内向的な住宅に現れている。
(安藤、藤井、長谷川、伊東)
伊東豊雄
美的・イデオロギー的観点からしてもきわめて批判的な作品
「場所性を消去した都市領域」という閉鎖的で詩的な領域をつくり出すことこそ、文化として
の意義に値する唯一の可能性であるとした。
《PMTビル》1978
5) 《ポンピドー・センター》 「アーキグラム」の科学技術とインフラストラクチャーの修辞法を実現したものであり、先端技術
リチャード・ロジャース による輝かしい力作である。
+レンゾ・ピアノ 不確定性と適度の融通性という設計のアプローチは、極限まで、建物に貫通している。
文脈・風格に対して無関心
6) 《ミルトン・キーンズ》
1972
内容を伴わない不規則な網目状組織は、不確定性というアプローチを不条理なまでに追従
したもう一つの例
境界が、それと認識できるような秩序と対応していない状態
ウェーバーの「場所性を消却した都市領域」が信条
消費社会の仮想利益に見合った開放系の計画モデルを意識的に選択
7) 《ウルム造形大学
(HfG)》
1951年マックス・ビルによって構想
デザインならびに技術に関する厳格なアプローチは、十年のうちに、消費社会のためのデザ
インが根底的矛盾を孕んでいる事実に直面する。
「オペレーションズ・リサーチ」方式を採用
物体の形態は、その生産ならびに使用に関する精密な解析の方法に従って決定される
8) スーパースタジオ
コンスタント・ニューウェンホイスの唱える「中央集権都市計画」の基本概念から影響を受ける
典型的な反建築のユートピアである二つの傾向
仕事の原理の規則を超えて、沈黙の支配する、反未来主義的な、ただし科学技術に楽天的
なユートピアを提案し、非抑圧的世界を建築の言語によって表現しようとした
9) 一九六〇年代初期
建築家の価値観と使用者の要求や風習との間の根本的な対応関係に欠如が見られるという
意識が生じる。
反ユートピア的であり、現代建築の抽象的統辞法が問題の解決には不適切であるとの異義
申し立て社会の貧困層のために建築家を役立てる道筋を築こうとした
「新即物主義」のスラム・クリアランスの公式を、根本的に再検討する。
ハブラーケンと建築研究所(SAR)の研究
ヨナ・フリードマンの「動く建築」の「開放インフラストラクチャー」を論理的に進める
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no.3
第4章 場所、生産そして背景画:一九六二年以降の世界の理論と実践
10) 大衆主義
一九六〇年中期、現代建築の単純化された記号が都市環境の貧困化を招くことに気づき始
める。既存の都市の文脈を尊重せよという批判
コーリン・ロウ「コラージュ・シティ」
ロバート・ベンチューリ「建築の複合と対立」
ロバート・ベンチューリ他「ラスベガス」
日常の実践と対立する文化的実在に対して抱いていた繊細にして思慮深い評価を転換
することになった。
チャールズ・ジェンクス「ポスト・モダン建築の言語」
直接伝達可能な大衆主義+多元主義の芸術と特徴づけた。
古典的なものや土着的なものの輪郭を背景画のように扱い、建設そのものの構築的な側面を
まったくパロディー化してしまい、社会が形態の文化的意味を受け継ぐ能力を失う。
チャールズ・ムーア《イタリア広場》1979 、ムーア+ターンブル《クレスギー・カレッジ》
フランク・ゲーリー《自邸》1979 :アメリカの大衆主義の建築の自己満足的な退廃性を根
底から転覆させる要素を導入
1980年 ヴェネチア・ビエンナーレ
パオロ・ポルトゲージが担当。「過去の現前」「禁制の終焉」
「ストラーダ・ノヴィシマ」:実物大の正面が展示
11) 合理主義
・イタリア「傾向派」
建築と都市を巨大都市の圧倒的消費主義の氾濫から守ろうという意図
形態は機能に従属するという原理を拒絶し、建築の秩序の「相対的」な自立性を強調:
アルド・ロッシ「都市の建築」
ジョルジォ・グラッシ「建築の構造論理」
ロッシ
作品を、歴史的な構築的要素によって構造化
「類推的建築」:参照の対象・要素は、土着的なものから抽出される
《ガララテーゼのアパートメント》1973 《トリエステの市庁舎》1973
《モデナの墓地》1971:類推的アプローチ
・スイス
ブルーノ・ライヒリン+ファビオ・ラインハルト《トニーニ邸》
ウレリオ・ガルフェッティ《ロタリン邸》
・フランス
アンリ・E・シリニア《ンワジイ2》
・ドイツ
マティアス・ウンガースが修正合理主義のアプローチを都市の形態に採択。大都市の計
画的縮小を命題に
ウンガース:《メッセハレ》増築1983 《建築博物館》1984
《ホテル・ベルリン計画》1976
類型学による変形の原理を適用
ロベール・クリエ、レオン:類型学的変形の弁証法に影響を受ける。構築的で都市的な形
態の産出に対して、手作業的アプローチを適用。
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Ⅲ4
‑2
no.1
第4章 場所、生産そして背景画:一九六二年以降の世界の理論と実践
1) 構造主義
アルド・ヴァン・アイク :啓蒙思想と不可分の関係にある近代建築を一貫して批判。
変化に熱中し、「現在」を過去から切り離された情緒的に近づきがたいものにする建築家
を批判し、過去から出発して人間の不変の条件を発見しようとする。
→「迷路のような明晰性」クリエ兄弟やヘルツベルハーに影響
ヘルツベルハー :「多価値空間」…個人的生活パターンを集合的に解釈する原型ではなく
集合的生活パターンを個人的に解釈できるような原型
により、個人的解釈の可能性を生み出す必要性を主張
住居空間を細分化する機能主義的組織化を批判し、室内空間と人間活動のゆるやかな
合致のために部屋が融合する形式への復帰を唱えた。
→建築言語に対する慢性的な近づき難さを克服するために貢献。
≪セントラル・ベヒーア保険会社≫空間の私有化を自発的に行える。
*「傾向派」との違い:「カスパ(城)」という概念=内向的な形式が都市の文脈には無関
係。「入り口」という階層的位置づけを表現できない。
1970年以降、構造主義的アプローチに修正を加える。
・迷路のような内向性≪社会保健省≫
・集合体としての形態≪アポロ学校≫≪アンボンプレーン学校≫
ジョセフ・バックは「小規模にも拘らず複雑な空間体験を与えてくれる。」とし、構造主義の
基盤の上に物語性が加わった彼の作品を賞賛している。
2) 生産主義
ノーマン・フォスター≪ウィリス・フェイバー・アンド・ダマス保険会社≫
マックス・ビルの「生産的形態」の規定を現実化。ヴェンチューリの大衆主義とは正反対の
無装飾な小屋そのもの。
また、≪セントラル・ベヒーア≫と対極をなす。
ともに、第三次産業がかつての消費の場であった空間に組み込まれる。これはG.C.アル
ガンの議論によって説明のつく当然の結果だが、次のような差異を見てとれる。
≪セントラル・ベヒーア≫・官僚主義的な労働の分業を克服する試み
・仕上げのないコンクリートブロックが「無政府的」な空間の占有を
誘発
≪ウィリス・フェイバー≫・ベンサムの「パノプティコン」。会社の管理化に置かれる空間
・清潔そのものの皮膜と室内が「一見平等的で豊かな社会」という
企業イメージを提出
その上で、ミースの「殆ど何もない」どころか古典主義も削り落とし、またミラーガラスの採
用により周辺都市との文脈的要求にも応えている。
二つは、逆説的に共通点として自然な「めりはり」による統辞法を欠落してもいる。
生産主義:純粋な意味からすると正統的な「近代主義」の立場(=優雅な工学技術そのもの)と
区別しがたい。
前例として、ジャン・プルーヴェ≪ロラン・ギャロス飛行クラブ≫等。
*一翼には、ミースの「殆ど何もない」を礼賛して空気膜構造、吊り構造のテントに
傾倒する建築家も。村田豊≪フジ・パヴィリオン≫、フライ・オットー等。
生産主義の基本的な規範
・求められる課題は、可能な限り無装飾な小屋あるいは格納庫によって満たされる。
・内部の融通性は、各設備などが均一かつ統合的な方法によって供給、維持される。
・構造と設備を明確に分けてそれを表現する。
ロジャース≪ポンピドー・センター≫、≪ロイズ・オブ・ロンドン≫
フォスター≪セインズベリー視覚芸術センター≫ *カーン≪ソーク研究所≫
・すべての構成要素を「生産的形態」として表現する。
英米では「消費主義的」皮膜が目指される。
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no.2
第4章 場所、生産そして背景画:一九六二年以降の世界の理論と実践
ノーマン・フォスター:ロジャースが構造体に表現の主調を置いてきたのに対し、フォスター
は皮膜を得意としてきたが、最近では構造を外部に表現しようと転換。
≪香港・上海銀行≫…部分部分が明瞭に分節されている構成要素の巨大な規模
≪ルノー配送センター≫…反復される構造単位と建物全体のイメージが補完しあい、結
果として構造的に明瞭でかつ完結された形態。成熟したア
プローチへの兆し。
→≪フランクフルト・スタジアム計画≫≪スタンテッド・ロンドン第三空港≫
3) ポスト・モダニズム
1980年 ヴェネチア・ビエンナーレ展建築部門「過去の現前」
様式やイデオロギーの特徴として規定することはできないが、専ら形態的観点から正当性 を
表明しているのは事実で、そこには構築的、組織的、あるいは社会・文化的な観点が欠 落
している。
背景:アメリカを過去数十年に渡ってリードしたミースとカーン。その主題は「歴史という遺産
を解体すること、ならびにその規範と構成要素を時代の技術的能力に合わせて再集成
すること」であった。ミース≪国立美術館≫、カーン≪キンベル美術館≫
…後期の作品の焦点は構築的な構造に特有な還元不可能性であり、光と建物との
崇高なまでの相互作用。ポスト・モダニズムの出現を「文化的退廃」と見なしたは
ず。
しかし、弟子の中に巨匠の作品に内在する特質をよく理解し新たな出発点に立つ者は現れ
なかった
→後期モダニズムの凋落
ⅰ.ユルゲン・ハバーマスの「近代−未完のプロジェクト」への一致した拒絶
ⅱ.F.L.ライトへの拒否反応、ポスト・モダニスト達の健忘症ぶりに現れている。
一般的見地にあるようにポスト・モダンが社会全体の近代化の圧制に対する必然的な反動だ
としても、現代社会が近代化による基本的な恩恵を破棄できる根拠はどこにもない。
全ての価値観や市民制度を消費主義に縮小してしまう社会は、全ての伝統的特質を損ねて
しまう。それは建築の実践を巨大な規模の「梱包作業」と化してしまう。
→アメリカの都市の中心部で行われているのは、開発業者たちに決められた骨格に相
応しい魅力ある仮面を取り付けること。
フィリップ・ジョンソン≪AT&Tビル≫素材感を喪失した歴史主義
マイケル・グレイヴス≪ポートランド・ビル≫
…古典からの引用も、土着的なものからの引用も、イメージの中心性のないまま入り乱れ
て取り入れられる。この場合、建築家は極めて恣意的な歴史の引喩にしか興味を持てなく
なる。
マイケル・グレイヴス :ポスト・モダンの展開を代表する建築家。
ルドゥーを「転倒」させたモチーフに、クリエ、ホフマン、ジリー、シンケル、立体主義、アー
ル・デコなどから引用した断片を挿話風に混交させる。
≪ポートランド・ビル≫建物の敷地に対する驚くべき無神経さ、無考慮
ジェームス・スターリング≪シュトゥットガルト国立美術館≫ :「著者の喪失」
彼の初期に影響を与えた前衛的構成主義の規範からは遠く、古典的大衆主義に基づい
て「美術館は休息と娯楽の場」という信念を表現している。
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第4章 場所、生産そして背景画:一九六二年以降の世界の理論と実践
ハンス・ホライン≪メンヒェングラドバッハ美術館≫ :「消滅」、地中への埋没
ポスト・モダニストの中で唯一、批判的距離と手工芸的美学への沈溺を組み合わせられる
建築家。
≪旅行代理店≫:ウィーンの「建築を反実体あるいは現実の代替物とする伝統と感受
性」を内部空間の隠喩に用い、客を参照と幻想の世界へと引き入れ
る。
リカルド・ボッフィル≪アブラクサス≫ :集団的住居単位を欺瞞的な古典主義の骨格の中に
「監禁」してしまう。
いずれも「素材感を喪失した」歴史性という言説が内包され、近代主義の断片が無作為に混
在している。しかし結果は、見たところ建築家は素材に対する支配権を失って、効果のない
「不協和音」に過ぎない。
4) 新前衛主義
新前衛主義:1960年代後半、アメリカでは「新合理主義」のように理論的で芸術的な生産活
動を進めていこうとする動きが起こる。
「ニューヨーク・ファイブ」
ピーター・アイゼンマン、ジョン・ヘイダック
:戦前のヨーロッパの前衛芸術活動に基盤を求める。
マイケル・グレイヴス、チャールズ・グワスメイ、リチャード・マイヤー
:純粋主義時代のコルビュジェを出発点とする。
「自律的建築」に傾倒し、「新即物主義」による還元機能主義を拒否。
20世紀の前衛たちが打ち立てた芸術的・イデオロギー的前提条件を作品の基盤にする。
「OMA」: 「ニューヨーク・ファイブ」の役割をロンドンで反映させた。
イワン・レオニドフのシュプレマティズム建築に基づいた都市計画
ロラン・バルト「差異の繰り返し」の達成のために、シュルレアリスム的実践への転換
「ネオ・シュプレマティズム」:アルキテクトニカ、ザハ・ハディッド
バーナード・チュミ≪ヴィレット公園≫:ロシア構成主義から、オスカー・ニーマイヤーらの初期
のランドスケープ・デザインに見られるさまざまな前例
に基づきながら、反古典主義の建築をめざす。
→「脱構築主義」の出現
1988年MOMA≪脱構築主義建築≫:形態を破壊するのではなく、構造を「置換」する建築。
フランク・O・ゲーリー、ダニエル・リベスキンド、レム・コー
ルハース、ピーター・アイゼンマン、ザハ・ハディッド、バ
ーナード・チュミらを取り上げる。
構造主義が新しい社会のための新しい建築の創造を試みたのに対して、脱構築主義は地球
的な近代化が理性の限界を超え、技術官僚制の秩序を押し進めているという認識のに立っ
ている。(アリエ・グラーフランド)…ジャック・デリダの影響
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no.1
第5章 批判的地域主義:現代建築と文化のアイデンティティー
「批判的地域主義」 :気候や文化や神話や手仕事などが相互日組み合わされて、自然発生
的に生まれた土着的なものをさすのではなく、限られた支持者たちに応
え、彼等に仕えることを最大の目標とした、最近の地域的「諸派」を認定
するもの
1) ポール・リクール
・ 地域的文化:所与の比較的変化を受けないものとみるべきではなく、むしろ意図的に洗練
されるべきもの
・ 将来にわたっていかなる正当な文化を維持できるかどうかは、われわれが地域的文化から
生き生きとして形態を作り出せるかどうかにかかっており、外来の影響を文化と文明の水準
において吸収しなければならない
↓
同化と再解釈
2) ヨーン・ウッツオン
《バグスヴェルド教会》
プレファブの規格集成材→普遍的文明の標準を肯定
現場打ちのシェル・ヴォールト→独自の文化の価値観を主張
身廊のヴォールト→宗教的空間の存在を示唆する一方、コンクリート折版シェルは、その
形態が、西洋的かあるいは東洋的かと択一的に解読されるのを拒ん
でいる
解体(デコンストラクション)と再合成
1.ある「見放された」西洋的形態の基本的本質を、東洋的に鋳直すことによって活性化する
2.これらの形態によって表現される制度を世俗化する
3) バルセロナ
①カタルーニャ国民運動
反中心主義的な地域主義を明白に表明
グループR
目的: GATEPAKの反ファシズム的合理主義の価値観や方法を再興させる
誰にでも近づける現代主義的な地域主義を呼び覚ます
イニャーツィオ・ガルデラ
《カサ・ボルサリーノ》(1951 53)
↓影響
《ボナノヴァ通りのアパートメント》(1973)
マッケイ・ボイガス・マルトレル事務所
②J・A・コデルク
《ISMアパートメント》(1951) :地中海地方特有の煉瓦造の土着的用法を近代的に展開
《カサ・ボルサリーノ》と同様な伝統的な分節化
4) カタルーニャ地域主義 ①リカルド・ボッフィル
《ニカラグア通りのアパートメント》 :コデルクの煉瓦造の土着的用法の見直しに類似
の分枝
②タジェール・ド・アルキテクトゥーラ
《サナドゥ》(1967) :際物的ロマン主義の形態
《ウォルデン7》(1970 75) :カタルーニャ地域主義の批判的手法がただの写真写りのよ
い背景画に転落
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no.2
第5章 批判的地域主義:現代建築と文化のアイデンティティー
③アルヴァロ・シザ・ヴィエイラ (ポルトガル)
アアルトを出発点として自らの作品を特殊な地形の形状や地方の見事な素材感に根付か
せようとしている。その場所の地形との関係を強く意識して設計。
《ベイレス邸》、《ボウサ住宅協会集合住宅》、《ピント銀行支店》
ルイス・バラガン(メキシコ)
・シザと同じような触覚的姿勢、地形的形態をもっている
・インターナショナルスタイルの統辞法からはすでに遠く離れたところにいたが、彼の
作品は常に現代芸術の特徴である抽象的形態と関わりを持ち続ける
→不可解なほどの抽象的平面を風景の中に置くという傾向
ラス・アルボレアダスやロス・クルベスの住宅地における庭園
《サテライト・シティ・タワーズ》1957
5) 他のアメリカ諸国
1940's
①ブラジル :オスカー・ニーマイヤー、アフォンソ・レイディ
②アルゼンチン
アマンシオ・ウィリアムズ《橋の家》(1943 45)p.553
クロリンド・テスタ《バンク・オブ・ロンドン・アンド・サウスアメリカ》
③ヴェネズエラ
カルロス・ラウル・ヴィラヌエヴァ《大学都市》
④アメリカ
ノイトラ、シンドラー、ウェーバー、ギル
「ベイ・エリア派」
ウィリアム・ワースター
ハーウェル・ハミルトン・ハリス
限られた地域主義と開かれた地域主義
開かれた地域主義
「時代に先立つ思想と波長の合った」地域における「それがまだまだよそでは生ま
れていない」地域主義で、「よその世界にとって意義」を持つもの
ex. 開かれた地域→サンフランシスコ
閉ざされた地域→ニューイングランド
最近の開かれた地域主義の数少ない例
アンドリュー・ベイティーとマーク・マックが設計して見事に土地に馴染んだ住宅
ハリー・ウルフ《フォート・ローダーデイル・リヴァーフロント広場》計画案(1982)
6) ヨーロッパ
都市国家の痕跡が依然としてあちこちに残っていたため、第二次世界大戦後にも地域主義
への推進力が自然発生的に生じた
①イタリア
ジノ・ヴァッレ
《カサ・クワリア》(1954 56)p.553:ロンバルディアの田園風な風土性を解釈しなおした
②スイス連邦
背景: 複雑な言語的境界
伝統的世界主義
→強力な地方主義的傾向
ティチーノ地方
ドルフ・シュネブリのヴィラ→商業化した近代主義の影響に対する抵抗の始まり
↓影響
アウレリオ・ガルフェッティ《ロタリンティ邸》(1961)
アトリエ5《ハーレン・ジードルング》(1960)
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no.3
第5章 批判的地域主義:現代建築と文化のアイデンティティー
しかし、今日のティチーノ地域主義の根源的な起源は戦前のスイスにおけるイタリア合
理主義運動の擁護者たちにある
アルベルト・サルトリス(イタリア):《モラン・パストゥールの住宅》
リノ・タミ 《ルガーノの州立図書館》(1936〜40)
ティータ・カルローニ
1950年代中期:フランク・ロイド・ライトの言う「有機的」建築を目指した
↓
1970年代初期:近代主義の進化過程のすべて(とりわけ1920年代や1930年代の進化過
程)を批判的に再評価
マリオ・ボッタ
外来のアプローチと思想を適用しながら場所の特性に直接関係する問題点に焦点を当
てた
特徴: ⅰ.「敷地を築く」
ⅱ.歴史的都市の喪失を「都市を縮図化」することで償う
ⅲ.手作業によって形態を豊かにする
《モルビオ・インフェリオーレの学校》
小宇宙としての都市領域の表現 → 近傍の大都市キアッソにおける都市生活の喪失
を文化的に償う
ボッタの住宅:
「類推的な」形態と仕上げによって地域の半ば農業的特性と調和
造体の化粧仕上げのコンクリートブロックと、住宅のサイロないしは納屋のような外観
→ 近代的であると同時に伝統的である
《リヴァ・サン・ヴィターレの住宅》(1972 73)
《リゴルネットの住宅》 : 開拓地と未開拓地の境界を築く役割
ボッタ/スノッツィ
《チェントロ・ディレツィオナーレ(官庁街)》計画(1971)
「都市の中の都市」として計画
《チューリッヒ中央駅改造計画》
7) 日本
安藤忠雄
「閉ざされた近代建築」:開放的で普遍的な近代主義が作り上げた建築言語や技術を、個
人的生活様式と地域的差異のある、閉ざされた領域の中に当てはめる
「しかし私は、近代主義の解放的で国際主義的な建築言語では、特定の民族の感受性や、
習慣や、美意識や、特異な文化や、社会の伝統を表現しようとしても難しいのではないかと
思う。」
《小篠邸》
光や風といった要素を気やコンクリートと同じように、建築の材料として捕らえる
8) ギリシャ
アレックス・ツォニス/リアーヌ・ルフェーブル
『格子と歩道』
シンケル派の果たした両義的役割
「・・・歴史主義的地域主義は人々を結束させもしたが、分裂させもした。」
19世紀:国家主義的新古典主義様式の増殖
↓反動
1920年代:歴史主義
1930年代:公式的近代主義
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第1章 国際様式:主題と変奏 1925〜1965
地域主義を意識した近代主義の発生
エイリス・コンスタンティニディス
《エレウシス邸》(1938)
「キフィッシアの庭園博覧会」(1940)
《低廉集合住宅計画》
《ホテル》(1956 1966)
すべての作品において柱・梁を構成する鉄筋コンクリート造骨組みという普遍的合理性と、充
填剤として用いられた地元産の石や岩の土着的触覚性との間に緊張感が漲っている。
これよりさらに曖昧さを払拭した地域主義の精神が浸透しているのは・・・
ディミトリス・ピキオニス
《フィロパッポスの丘の公園と歩道》(1957)
アントナカキス・パートナーシップ
《ベナキ街のアパートメント》
ピニオキスの地形学的歩道+コンスタンティニディスの普遍的グリッド
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第6章 世界建築と反映としての実践
建物を建てるということは、広く社会の関心に訴え、深く投資に関わる公共的芸術であって、
まさしく手作業と生産の双方に関わる建設能力である。クライアントの適切にして充分な援助
なくしては、あらゆる実現過程において求められる標準的レヴェルまで到達することはもとより
そのレヴェルを維持することもできない。
1) ドイツ
財力、技術、関心は他国に較べて抜きん出ているにも拘らず、包括的で説得力を持った建築
文化を生み出す力がない。
2) イギリス
全般的にここ十年、極めて影の薄い存在。「反・近代」の風潮が広く行き渡っていることや、概
して教育機関が援助活動に積極的ではないことが原因している。
3) イタリア
国家的レヴェルや地方的レヴェルでの支持や援助が少なく、複雑な政治体制を背景に持つ
ため、現代建築に相応しい建築文化を生み出せなかった。個人としては素晴らしい作品を作
り出すことができる。
ヴィットリオ・グレゴッティ:全体としての社会に適用できるような建築文化の一般理論を打ち
立て呈示した建築家。
グレゴッティの力強さは、思想の批判性の鋭さにある。敷地の持つ
理念を重要視した。
レンゾ・ピアノ:国際的活躍によりイタリア建築の威信を高めたハイ・テク建築家。構造体の形
態と特殊な敷地の持つ輪郭線の融合により、グレゴッティの思想を再確認。
≪スポーツ・パレス≫、≪ニューポートの美術館≫、≪関西国際空港≫
4) オランダ
反映としての実践が国家レヴェル、地方レヴェルで継続的に見られる。1970年以降、実践活
動に一貫した建築、都市についての文化はないが、個人的な思想活動や自由放任という文
化政策が大きな役割を果たしている。若手建築家に中規模の公共工事を委嘱し、政府はか
つての指導権を回復した。
ベンサム・アンド・クラウエル、メカノ、シース・ダム
レム・コールハース ≪ゼーブルッヘのフェリーターミナル≫
ヨー・クーネン
≪国立建築博物館≫
4) ポルトガル
70年中頃以降、国家は建築に大した寄与はしていない。
「ポルト派」: 北部地方で、近代主義に対して批判的姿勢をとり、地域の地形や光線などそ
の地の独自性に反応する文脈的な建築を生み出してきた。
フェルナンド・タヴォラ、ソウタ・デ・モウラ、アルヴァロ・シザ ≪建築学部≫
5) フィンランド
厳格な建築教育の場であるヘルシンキ工科大学の影響、アアルトが生涯にわたり享受した国
民的栄誉、殆どの公共建築に対して公開設計競技を行う原則、マリメッコやアルテックといっ
た家具製作会社による高いデザイン基準の確立、「フィンランド建築博物館」・「アアルト賞」・
「アアルトシンポジウム」の影響などが要因となり、多くの才能ある建築家を輩出している。
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no.2
第6章 世界建築と反映としての実践
①アルト的有機主義を綿密に精緻化し抑揚に富む方向に発展させる傾向
幾何学的に屈折した形態をもつ裸形の有機主義とも言うべき建築。
ユハ・レイヴィスカ:光の調節が巧みであり、また既存の文脈に対して過剰なほど敏感であ
る建築家。
≪オウルのセント・トーマス教会≫、≪ミールマキの教会≫、≪新聞社の工場≫
②アアルトの圧倒的影響から逃れて構成主義に向かう傾向
ⅰ) 先駆的オランダ構造主義運動の新造形主義的要素主義と、スイスとドイツの合理主義
をくぐり抜けてきたモデュール方式による文節の明瞭な集合体への鋭い臭覚とを結合
させる方向。
クリスチャン・グリセリン、エリック・カイラモ、ティモ・ヴォルマラ
≪ウェストエンドの集合住宅≫、≪イタケスクス・ショッピング・センター≫
ⅱ) 一段と折衷的な方向。
ペッカ・ヘリン、トゥオモ・シートネン
≪トルパリンマキ団地≫、≪ユヴァスキュラ空港ビル≫
ⅲ) ミッコ・ハイッキネンとマルック・コモネンの作品を特徴づける方向。
≪科学センター≫
6) フランス
1968年「五月革命」以降、政府が建築の分野に介入し研究活動の助成金が提供され、大規
模公共建築が建築家に委嘱され始めた。また「エコール・デ・ボザール」が解体、分散され建
築教育が変貌した。
①政府援助の建設計画
≪ポンピドー・センター≫、≪ガラスのピラミッド≫、≪グラン・アルシュ≫
≪ヴィレット公園≫、≪バスティーユ・オペラ劇場≫、≪オルセー美術館≫
その後、フランス若手建築家を登用する。
≪アラブ研究所≫ ジャン・ヌーベル
≪音楽大学≫ クリスチャン・ドゥ・ポルザンパルク
≪国立図書館≫ ドミニク・ペロー
②建築教育・研究活動の活性化
主導的建築雑誌の登場:フランス近代主義の伝統の再評価、フランス独自の軽量な鉄・ガ
ラス構造への関心。
コルビュジェの遺産見直し:弟子の活躍、建築言語・方法論の再解釈。
「都市の断片」:「傾向派」が追求した類型学の路線。大きな多目的複合体の単位により、
都市の圏内・圏外に都市としての条件を発生させる。
アンリ・シリアニ ≪半月状の集合住宅≫、≪考古学博物館≫
*ロラン・シムネ:挽歌の気分を訴える建築家。
≪サン・ドニ中心部の集合住宅≫ 都市周辺部の特徴を見事に表現。
≪美術館≫ カーンに比類する構築的洗練さ。
7) スペイン
現在のスペイン建築の力強さの出所は1950年代に遡る。
アレハンドロ・デ・ラ・ソータ:アプローチの方法が柔軟性に富み、規則に従いながらも変化の
ある空間や、構造的
形態の簡潔な分節化を作り上げる建築家。ダイナミックだが控え
めな建築は、最近十年間スペインで方法論となる。「マドリッド派」
と対立。
≪知事官邸≫ ファシズム権力が好んだ石の伝統的記念性を、ダイナミックな
無重力壁にした。
≪コレヒオ・マラビラス体育館≫
「マドリッド派」:二つの有機派からなる。独立した建物を目標
にしている。
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no.3
第6章 世界建築と反映としての実践
「マドリッド派」:二つの有機派からなる。独立した建物を目標にしている。
「新アアルト派」 アントニオ・フェルナンデス・アルバ ≪エル・ロロ僧院≫
「新ライト派」 フランシスコ・ザビエル・サネス・デ・オイサ ≪ビルバオ銀行≫
ホセ・ラファエル・モネオ:デ・ラ・ソータやサネス・デ・オイサの薫陶を受け、ヨーン・ウォツォン
に師事しハブッリトな手法を築き上げた建築家。
≪バンキンター≫、≪ローマ時代美術館≫
「バルセロナ派」:建築批評とバルセロナの都市の組成変革という二つの活動を目標としてい
る。
「バルセロナ計画案」 オリオル・ボイガス 他
≪サンツ駅前広場≫、≪プラザ・デル・テニス≫
オリンピック(1992)による都市計画の発展:オリンピック村、競技施設、海岸道路の建設。
≪バダロナのバスケット競技場≫、≪自転車競技場≫
エスタバン・ボネル、フランチェスコ・リウス
集合住宅の計画:1960〜80年代の計画が、新しい住居形式を開発させる。
「コレヒオス(協会)」:地方の建築文化を援助している。また直属の雑誌の影響力は大きく、評
論活動など指導的地位を占めている。
8) 日本
建築生産の特質に影響を与えているのは、国家と地方自治体による公共事業への援助と建
設産業の独自性である。イデオロギーのレヴェルで影響を与えているのは、主要大学におけ
る活動と影響力をもつ雑誌である。そして優れた基本概念と精巧な仕上げを持つ幾多の作
品を生み出し、その幾つかは批判的かつ詩的様相を備えている。
篠原一男 :機能主義という近代の遺産に対し過剰なまでに両義的な姿勢をとる。
≪百年会館≫
槇 文彦 :「群造形」と呼ぶところの都市の可能性に関心を示してきた。
≪ペルー・リマの集合住宅≫、≪スパイラル≫、≪テピア≫、≪幕張メッセ≫
安藤忠雄 :ランドスケープ・デザインを加味した作品からは「奥」という思想がある。
≪水の教会≫、≪子供の博物館≫