6 死ぬのはよせ、いつか日本へ帰れる

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死ぬのはよせ、いつか日本へ帰れる
―上村磯子、中国のおばあちゃんに助けられた残留婦人―
聞き書き:資料収集調査員 本島 和人
上村磯子(かみむら いそこ)の略歴
かみ い
な
みや だ
やなぎさわさだいち
大正 10(1921)年3月
長野県上伊那郡宮田村に 柳 沢貞一の三女として生まれる
昭和3(1928)年
一家と共に諏訪市上諏訪に転居
昭和 10(1935)年春
高等小学校[用語集→]卒業後、上京し、家事手伝いに
昭和 15(1940)年春
郷里に帰り、上村良夫と結婚
同年5月 15 日
夫と共に、満洲浜江省延寿県 中 和鎮の信濃村開拓団に入植[用語集→]
昭和 19(1944)年4月
夫応召、その後3歳と3ヵ月の男子2人をハシカで亡くす
昭和 20(1945)年秋
黒 竜 江省延珠県中和鎮の中国人の家に入る
す
わ
かみ す
わ
よし お
ひんこう
えんじゅ
ちゅう わ ちん
し な の むら
こくりゅうこう
中国人の夫との間に5子をもうける
その後中国人の夫は死亡
昭和 50(1975)年3月
子ども2人とともに永住帰国[用語集→]
現在
夫の本籍地である長野県駒ヶ根市に在住
こま が
ね
はじめに:いまだに語り尽くせぬ思い
生死を分けることになった終戦時の体験を、磯子はまだ語り尽くすことができないでい
る。この場面を語ろうとするといまだに胸が高鳴り、言葉が詰まり、自分の気持ちを伝え
ることができない。自分自身を強く責めているのである。夫が召集されていったあと、亡
くした2人の子どもの墓があり、姉の墓がある中和鎮の開拓地は離れがたいものであった。
渡満前に母から、姉の一家を助けてやって欲しい、と言われていた磯子は、遺された姉の
子どもたちを守らねばと固く決めていた。そんななかで、突然やってきたソ連軍による武
装解除と、開拓団周辺の地元住民の「襲撃」の恐怖のなかで、開拓地は混乱の極みにあっ
た。次々と惨劇が繰り広げられていった。その中で、10 歳を頭にした6人の子どもたちを、
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24 歳の若さの女が1人きりでどこまで守りきることができたのだろうか。磯子は自分の子
どもたちの墓と姉の墓がある中和鎮で自決を決意した。姉の子どもたちは、開拓団[用語集→満蒙開
ほうまさ
の逃避行に加わり方正[用語集→]へ向かっていった。
拓団]
「死ぬのはよせ、いつか日本へ帰れる」
、現地のおばあちゃんの、この言葉に助けられた
磯子は、その後も別れた甥と姪たちを気遣い続けていた。方正の収容所で苦しんでいる様
子を人伝てに聞き及び、厳冬を生きのびることができるのだろうか。何としても、お世話
になっている家に呼び寄せなければと気持ちばかりが急いた。姉の子どもたちを呼び寄せ
るために、その費用のこと、落ち着き先のこと、考えられることのすべてをした。
自分では子どもたちを養っていくことは、むろんできなかった。現地の人たちにお願い
することが、この時の磯子にできるただ一つの途であった。
この場面のことを磯子は、今でも、何度も何度も思い起こしている。
「いまだに苦しむこ
とは、親のない子どもたちを方正へやったことです」と磯子は言う。ほかにどのような途
があったのだろうか。そして、その時の思いがどうにもうまく伝えられないもどかしさの
中で、自分を責めることしかできないでいる。
私たちはいいですよ、自分で決めて満洲へ行ったんでしょ。でも子どもたちは親に連れられて行っ
たんでしょ、それが一番かわいそうだと思います。
語りを続けたものの、一度は、自らの体験を、公にすることを躊躇していた磯子である
が、
「自分たちの通ってきた道はうそではないでしょ。だから・・」と、自分がいなくなっ
た後でもよい、自分の通ってきた道を知ってくれたらいいと思っている。
1.生い立ち:5人きょうだいの2番目
大正 10 年、宮田村に生まれ、諏訪へ
磯子が生まれたのは、大正 10(1921)年3月 28 日のことであった。生家は、長野県の南
てんりゅうがわ
部、天 竜 川の上流にある上伊那郡宮田村。その村を南北に貫く街道のなかほどにある商人
まる
の家の2番目に生まれた。上には姉がいた。後に、その姉は隣村のクリーニング業を営む丸
やま
山家に嫁いでいる。この姉の存在が、磯子の一生を決めていくことになった。磯子は、伊
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那電鉄(現JR飯田線)が宮田村を通過してから8年後の大正 10(1921)年に生まれ、幼少
期をこの村で過ごしている。
てんのうさま
宮田の思い出ですか。あぁ、宮田の思い出はありますねぇ。あそこにお天皇様[神社の祠のこと]
ってあってねぇ、遊びに行ったりしました。あの宮田の駅[現JR飯田線宮田駅]に花電車が来た
り、駅に桜が咲いててね。宮田の駅、大きいと思ったんですけれど、満洲から帰ってきて見たら、
まぁ小さかったんですけどねぇ。宮田の学校(現宮田村立宮田小学校)
、コンクリートの学校でね
ぇ、私たちが入ったのは、新しいコンクリートの学校だったと思いますね。
・・火事で焼けて、作
り直した、ってね。
宮田の学校は、磯子が生まれた翌年、焼失し建て直されている。尋常小学校[用語集→]3年ま
で宮田で過ごし、一家は上諏訪(現諏訪市)に引っ越している。どのような事情があった
のか定かではないが、商いの新しい場を求め、にぎやかな上諏訪に移ったのだろうか。
私の父親は、商人をしておりました。そして小学3年生のときに、諏訪(上諏訪)のほうへ引っ
越しましてね。今、上諏訪に実家があります。商売はねぇ、洋品屋っていいますか、いろいろ細々
した物、昔は足袋の製造とか、職人さんが着るようなものをねぇ。ミシンで作っておりましたもん
で。そんなことからまたいろいろしてました。今は兄が、諏訪で、漬物やらお土産を売っておりま
まつ お
や
ほんまち
す。屋号は「松尾屋」って言います。駅前の本町2 丁目ですか、あそこにおります。きょうだいは、
大勢あったんですが、
今は兄はもうおりませんけれども。
甥たちがやっております。
兄と妹が2人。
駒ヶ根に1人弟がおります。きょうだいは5人ですけど。
高等小学校2年を終えて神津家に奉公
磯子が諏訪で過ごしたのは、高等小学校2年までであった。生まれた宮田村にくらべ、
諏訪は諏訪大社と諏訪湖の周りに温泉街が並ぶ大きな町であった。そして磯子はさらに上
京し、東京で暮らすことになった。
それから、東京へ行って・・。あの頃は、製糸が盛んだったんですけど、母が、製糸よりも家庭見
こう づ よしゆき
習いのほうがいいで、って言いまして、東京へ出ましてね。神津善行さんっていますね、作曲家の。
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あの方の親戚の神津さんという方のところがあってね、そこへお子守に行きました。そこに5年お
ゆ ざわ
りました。私の母は、小さい時に母親がなくて、宮田の旧家の湯沢家で育てられたらしいんです。
神津さんの奥さんって方が、湯沢さんの娘でして、そういう関係でね、神津さんのところにお子守
しぶ や
だいかんやま
に行きました。渋谷から行く代官山。賑やかな代官山のアパート、そこでお子守やら、家事をしま
したね。それから、神津さんでも、もう子どもさんが大きくなられたもんで、母が、じゃぁ洋裁で
に ほんばし
も習ったら、なんて言い出して、日本橋の洋裁屋さんへ少し行きました。
2.結婚から渡満まで
帰郷して結婚、姉夫婦とともに渡満
しんしゅう
信 州 の田舎で学校を終え 14 歳で上京し、5年が経っていた。郷里に戻った磯子に待っ
ていたのは、結婚話であった。商人の家に生まれ、東京に奉公に出て家事と子守、そして
少しばかり洋裁を習っているうちに適齢期に達していたのである。信州は農業県であった
が、磯子には農業の経験はなかった。満洲へ渡るということは、開拓地で農業に従うとい
うことと同義であったはずである。
それから郷里に戻って、それから結婚してね、満洲行きました。旧姓は柳沢です。それで、嫁いで
きたのが上村です。その時、19 歳です。昭和 15(1940)年でした。
きたざわ
結婚したいきさつは、私の姉が、北沢家へ嫁いでおりましてねぇ。クリーニング屋をしてたんです
よ。クリーニング屋をしてたけれど、やっぱり、あの頃は不況なもんですから、それで、満洲、あ
の広い土地で、百姓ができたら、子どもが大勢あっても暮らしていける、なんてね。それで、姉一
家が満洲へ行くことになって。姉たちが行く前に、義兄さんの弟がねぇ、満洲行っておりましてね
ぇ。満洲へ行ったけぇど、家族招致に帰ってきたら、その弟の奥さんたちが、満洲行くことは嫌だ
って、それで、私の姉の旦那がね、代わりに行ったんですね。
磯子を満洲へと向かわせることになったのは、嫁いだ姉の存在が大きかったといえる。
磯子が上村良夫との結婚を決めて、満洲行きを決意したときの気持ちはどうだったのだろ
うか。満洲行きの話は具体的には誰からどのように出されたのだろうか。
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満洲へ行くときには、あの母がね、私たちは女のきょうだいが大勢ありましたもんで。それでまぁ
ー、おめぇは太っとって丈夫そうだで、姉さんが満洲へ子ども連れて行くって言うで、おめぇも姉
さんの面倒見に、お互いにねぇ、助け合うように、と言いました。親は、姉が満洲に行くことをう
んと反対したんですよ。だけど、どうしても行くって言うもんだから、
・・それで、じゃあ、おめ
ぇにもついてってくれ、っちゅって言われて、行きました。自分では、まぁあの頃、まだ子どもな
いなもんでねぇ。百姓したことはないんですけど、ついて行きましたんですけど。もう、上村は、
満洲に開拓に行っておりまして。はい、行っておりましたから、こっちへ帰った時に、こっちでも
う一緒になって行きました。
岸本與の幻灯、満洲は広いよー
きしもとあたえ
磯子が生まれ幼少期を過ごした宮田村は、幻灯師岸本 與 の出身地でもあった。明治6年
生まれの岸本與は若くして社会教化事業に志を立て、幻灯機を使って漫遊教育幻灯会を長
野県内で開催していた。第一次世界大戦中の大正5(1916)年からは、信濃教育会社会教育
部嘱託となり、
「移殖民幻灯会」と称して海外発展の宣伝幻灯活動を始めている。当初はブ
ラジル移民の宣伝であったが、やがて満洲移民の宣伝となっていった。また活動写真も取
り入れ、その宣伝活動は長野県全域に及んでいる。還暦を過ぎて 66 歳になっていた昭和
きりやまじつ お
13(1938)年には、自ら朝鮮から満洲でも活動している。
(桐山實夫『幻灯の炎よ永遠に―幻
灯師岸本與伝―』1998 年ほかによる)
その岸本與について尋ねると、意外にも、幻灯師岸本與は磯子の嫁ぎ先の上村家とは親
きたざわこうきち
戚関係にあり、また、帰国後に磯子がもっとも世話になったという北澤康吉氏とは従兄弟
の関係にあるという。
そうです、あの岸本さんって小さいねぇ。あの方がねぇ、うちと親戚らしいですよ、えぇ。
・・・
よくあの岸本さん、幻灯写真でねぇ。諏訪の方まで行きましたねぇ。家の人たちは皆、岸本さん知
っておりますねぇ。それで、満洲に行けば広い土地があって、とてもいいような話をねぇ、聞きま
してね。大きな声でねぇ、よく岸本さんが、やっておった幻灯写真を、いつも見に行きましたね。
宮田の学校でもしましたしねぇ。諏訪へも行きましたしねぇ。満洲、って、前に岸本さんの宣伝や
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らねぇ、帰ってきた人の話で、満洲は広いよー。もう本当広くて、土地は、種を蒔けば、みんなね
っ、いろいろ出来て、豊富で、お米もたくさん取れるし、
・・魚は川へ行けば、ナマズだのドジョ
ウだのたくさんおるしなんてね。キジは、たくさん舞ってるし、なんてね、そういういい話ばっか
り聞いておりました。
よかったですよ、親は心配しましたけど
行った中和鎮の中部はよかったですよ。親は心配しましたけど。あの頃はやっぱし、景気はあんま
りよくないですし、親も、娘が大勢あるで、嫁に出すにもえらいで、行けっちゅうようなことでね
ぇ、行きました。義兄と姉さんたちからの家族と、私たちで上諏訪へ行きましてねぇ、親たちと会
つる が
せいしん
って、上諏訪から発ちました。あれはね、敦賀(福井県)だと思います、敦賀から清津あたりへ上
ぼ たんこう
と もん
ヤ ブゥ リ
陸して、牡丹江を通って、図們を通って、そうしてねぇ、亜布力っていう白系ロシア人の町があり
ましてね、亜布力に着きましてね。
それは、えーっと4月です。うん、昭和 15(1940)年のねぇ、まだねぇ、寒かったですよ。向こう
はまだね、雪がありました。中和鎮、そこまで行くのにねぇ、そこから今度、森林鉄道に乗り換え
マ
ホ
て行きました。森林鉄道の馬河っていう駅があったんです。そこからはねぇ、迎えが来て、あの馬
ダーチャ
車、大車っていう馬車に乗って行きました。
3.中和鎮信濃村開拓団での生活:何を作ってもよくとれた
中和鎮信濃村開拓団の概要
磯子が属した開拓団は、長野県単独の第7次中和鎮信濃村開拓団である。
「長野県満州開
拓史 各団編」
(1984 年)によれば、中和鎮信濃村開拓団は昭和 13(1938)年3月、浜江省
しも い な
延寿県中和鎮を入植地として、県南部の上伊那と下伊那の出身者が中心となって構成され
ていた。1区から8区に分かれ、最終的には 282 戸、1100 名余が入植していた。入植地の
畑の開墾は満拓のトラクター班によって行われたが、農地の一部は現地の中国人から買収
されており、水田づくりは現地の朝鮮人に委託され、磯子が語っているように、現地の中
国人も雇われていた。
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最初は共同生活:何を作ってもよくとれた
家財道具はねぇ、姉たちは持ちましたけどねぇ、私たちなんかあの時は、着るものだって人絹のよ
うなもので。
・・えらい家財道具なかったように記憶しています。
中和鎮信濃村開拓団見取図(出典:元中和鎮信濃村開拓団『追憶 あゝ中和鎮』
(1975 年刊)
)
中和鎮では、最初は全部一緒の合宿って感じでした。私たちが入ったのは5区です。
(示した地図
を見ながら)あぁ、ありますね、上村良夫って。5区の南です。南と北と分かれていて、はい。
そこへ行った時の感想ですか。あぁ、広々としてねぇ、日本よりいいと思いました。なんちゅうま
ぁ広い土地はよくていいんですけど、生活にはね、いろいろと、まぁありまして、泣くこともあり
ましたね、はい。
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最初は共同生活でね。いいこともあるけど。住宅はねぇ、もっと後なんですよ。どのくらい共同生
活してましたかねぇ。1 年くらいは共同生活だったと思います。それから、1 戸1戸の共同の家、
長屋みたいな、
隣との壁は紙くらいでねぇ、
そこに入ってました。
開拓団の先遣隊が建てた家です。
本部の暖房はオンドルでねぇ。でも、共同宿舎は、オンドルがなかったような気がしますね。寒い
とこだったから。食事やなんかも共同でね。農作業はみんな共同でしてました。
野菜には苦労しなかった
(土地の)割り当て? 割り当ては、最初はなかったですよ。1 年たってからに、家が1軒1軒建
って、そして土地が分配されて、はい。分配された時そうですね、
・・・私の主人は、とっても働
なかざわ
きもんでねぇ。もう本当、
(主人は)ここの中沢[駒ヶ根市中沢]で百姓しておりまして。
・・兄弟
2人、兄さんもおりましたんもんでねぇ。弟にはほら、土地がないでしょう? そういうことで行
きましたもんでねぇ。それで、うんと働くんですよ。真っ黒いあの土をねぇ耕して。何を作っても
採れましてねぇ。水田も、稲はできるし、野菜はできますしねぇ、スイカだのいろいろ出来ました。
日本人は、稲をね、米を作って、トウモロコシはふだん食べるくらいのもんで、そして家畜にやる
くらいでした。スイカなんかも沢山出来ました。スイカやマクワウリ、そういう野菜には苦労しま
せんでした。
夏は蚊とハエに悩まされる
えぇ、みんな、女の人たちは草取りに出ましてねぇ。みんな、私たちは草取りをねぇ。蚊が、細か
い蚊がいっぱいいるんですよ。だから、目だけ開けてねぇ、袋被って。そして、ヨモギを編んでね
ぇ、乾かして、火をつけて、いぶして。そうしないと、もう蚊がねぇ、鼻から口まで入るんです。
蚊にはね、苦労しました。もう5月頃からいたねぇ。あったかくなるころから。それはもう夏から
秋まで。はい、ご飯食べると、ハエがおりますしねぇ。真っ黒になるほど。もうハエがえらくてね。
ハエがもう、食堂なんかも真っ黒なんですよね。
・・それで食べる時、あの頃はまだバケツへご飯
を盛って、新しいバケツでね、今の洗面器ね、そこにご飯が盛ったりしてありましてね。
あぁ、そして、あのまだねぇ、行ったばかりで、お百姓をみんな慣れないもんでねぇ、ヒエがたく
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さんあるんですよ、脱穀も。まぁ、あれだったかな、ご飯炊くともうヒエが、ご飯とヒエがね、真
っ黒になってね。そんなこともありましたね。
農作業は共同、女衆は草取り
農作業は共同で、男の人たちは、男の人たちでね。女衆は女衆で、草取りに出ます。男の人たちと
女衆とは仕事が違ってね。私は農業の経験がありませんもんでねぇ。主人が働くもんで。それだも
んで、私はわりあい、なんちゅうかなぁ、たいがい行った人は、男の人でも百姓のできん衆が大勢
あったでしょ? こっちから行った衆にね。農業をしてた人もいるけども、そうでない人もいて、
それだから、農業も、私と主人たちは農業ができますしね、主人が働くもんで、それだもんで家族
はわりあいにねぇ、楽が出来ましたねぇ、そして、家畜、牛や馬を飼ったりねぇ、豚を飼ったり、
そういう仕事がありましてねぇ、あの時はねぇ。馬は日本馬、みんな。馬が1軒に1頭ずつ配給さ
れて。そして、耕作に使いましたもんで。どの家にも牛と豚がいましたね。女衆が飼ってねぇ。馬
は、あの男衆が飼っていてねぇ。そして、私たちは、草を刈って、馬を飼うのね。草を刈らなきゃ、
馬にやれないもんでね。そうやって、草を刈ることを女衆がして、男衆は馬を飼うんですよね。
現地の人たちの手伝い
はじめ作業は共同でした。家が共同宿舎だから。そして、家が建ってからにねぇ、土地をみんな分
けてもらいましてねぇ。それぞれで、やっていきました。共同宿舎ってのは、そうですね。中心に
あったと思いますよ。みんな家族持ちです。
(中国人や朝鮮人が)仕事を、手伝いに入ってました。
はい、そうです。みんなねぇ、やっぱり現地の人たちは食べ物がないもんで、開拓団へ来ると食べ
るものがたくさん食べれるっちゅうことでねぇ、そういう衆(中国人や朝鮮人が)が入ってきまし
たね。
満人のおばあちゃんは食べる物ない
まぁ、私は満洲の、おばあちゃんたちね、満洲のおばあちゃんたちは、日本人が行ったときは、開
拓団が行ったときは、はじめは監督から、お米はねぇ、配給されたんですよ。それだもんで、私た
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ちはお米を食べれたんですよね。それだけぇど、満人[用語集→]のおばあちゃんたちはね、食べるもの
う
ないんですよ。ヨモギをね、ヨモギを茹でて、ほとんど、ヨモギを食べてたの。それであのねぇ、
私たちが隠れて、おばあちゃんにやりたいけぇど、見られてると叱られるんですよ。それだから、
夜ねぇ、おにぎりにしてねぇ、おばあちゃんに届けたのね。ほんと、かわいそうでした。それで、
中国の人たちが、日本人のとこへ、お手伝いにくるでしょ。除草のときなんかね。日本人の中へ入
ってくると、お米のご飯食べれるってねぇ。こういっぱい炊いといても、みんな食べちゃうのね。
ほんと、驚くほど、1人がほんとに、5合位炊いておいたって1人が食べちゃうくらい、食べちゃ
います、うーん。
だからねぇ、あの頃は、
(出費を引き)締めたのほんと。歳のおばあさんが、野菜、野菜といって
も野のヨモギを茹でて食べてねぇ、ご飯こしらえ、ご飯の代わりにしとるのを見とれないですねぇ。
それだから中国の人たちが、姉のところで働いとるときにも、私は隠れて着る物をやったりねぇ、
そういうことをしましたもんで、戦争に負けてからは、わりあいに、私に対しては良かったんです
よ。助けてくれましたね。
「日本人の家は寒い」
「近くに小屋があって、あの人たち(中国人や朝鮮人)は、小屋はキビ(コーリャン)を材料にし
て小屋をじきに建てちゃねぇ、小屋に入ってました。そしてあの人たちは現地で生活して、そうゆ
う知恵があるから、オンドルは、じき出来ますしねぇ。私たちはオンドルがあってもねぇ、家の建
て方がうまくないんで寒いんですよ。内地での生活が慣れてるからねぇ。暖かくしてありますけど
ねぇ。日本人は下手だもんですからねぇ、壁も薄いしねぇ。もう、冬なんかもう壁が、壁の中が、
凍っちゃうくらいねぇ、寒くて。
オンドルが、あのペチカっていって、あれは壁をぬくとく(温かく)するやつ。こっちからご飯を
炊くとねぇ、煙が、レンガの壁を通っていってね、温かくなる。でもねぇ、オンドルがないんです
よ、日本人のところには。下手だもんで、そういう工夫がないの、日本人は知らないもんで。満人
の衆は、ペチカはなくてもねぇ、オンドルを先に作るもんで、家は暖かなんです。それで満人の衆
は笑ってたけどねぇ。だから、日本の人たちの家の中はさぶい(寒い)の。それでまぁ、薪ストー
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ブとそしてコタツでねぇ。コタツもあって、炭焼きもありましてね、自分たちで(炭を焼いて)作
っていましたねぇ。
屯墾病とアミーバー赤痢
あの鴨っちゅうのかなぁ。
あのキジっちゅうかぁ、
キジが卵をね、
あの川端へ産んでいくんですよ。
で、そんなところに行くとね、卵がねぇ、20 か 30 か 40 くらいあるんですよ。卵を抱いてるのを
ねぇ、採ってきちゃぁ食べたりねぇ。そしてナマズ、川には、ナマズが多いでしょ、ナマズを獲っ
てきてねぇ。はじめは食べ方が下手だもんで、泥臭かったけど、だんだん上手になってねぇ、食べ
れるようになったりね。味噌で煮たりね、臭みが取れるですね。
とんこんびょう
でもね、えらい時もありましたね、内地が恋しくて。あの頃、屯懇 病 [ホームシック]ちゅって、
内地を恋しくてね、病気になる人も大勢ありましたね。ノイローゼです。そして、水の慣れないも
んですからねぇ、あそこは生水駄目なんですよ。だから水を飲んでねぇ、下痢を起こしてね、あの
頃は「アミーバー、アミーバー」って言ったけぇどね、赤痢がありましたね。それで、お医者あり
ました、本部にはねぇ。そうなの3キロくらいありましたかね、うん。歩いていったりね。馬車で、
大車で送ってもらったりしました。
日用品は本部の合作社で
日用品は、合作社っちゅってね、あの本部のそばに合作社っていうところで売っておりました。合
作社もあったしね、そして、酒、工場ね、味噌、醤油の工場もありましたしねぇ。だいたい、間に
合いましたね。あの頃は、肉なんちゅうのは自分たちでね、よくあのノロジカっていうのがいるん
ですよ。鹿みたいな、それを撃ってきてはねぇ、その肉食べたりねぇ。キジを捕ったり、食べる物
や着る物、それはねぇ、みんな、ありました。内地から送ってもらうっちゅうことはなかったです
ね。向こうでは自給自足で。
とれたものはみんなでね、軍へ納めることはありましたよ。あの戦争が始まってからはね。軍部へ
納める、とれた米をね。
・・コーリャンとか、豆とかね、それはもうひどかったですよ。うーん、
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あれでね、私の姉ももう体こわしてしまったけども。そうですね。あれは割り当てられとったのか
なぁ。
4.昭和 19 年から 20 年:夫の出征から終戦まで
夫の出征と子どもたちの死
もうあの頃は私の主人は、もう戦争に行きましたでね。昭和 19 年、あれはね、何月だったかな、
まだ(昭和)19 年の3月かなぁ。まだ畑が始まらない頃だかなぁ。あっ、4月か。私も農耕へ出たで
ね、主人がいなくなったあと。はい、慣れないねぇ、草取りに。
・・馬を連れてねぇ、農耕しまし
た。もうその頃には、農耕もできるようになって。しなきゃぁしょうがないもんでね、しました。
馬を連れて、子どもをおんぶしたりねぇ。子どもは2人おりました。
・・・2人はみんな、
・・主人
が行ったあとに・・
(亡くなりました)
。
・・あの頃ハシカがね、悪性のハシカですね、流行っちゃ
ってね。
・・・畑に行って、子どもを連れて、ハシカの子どもが治るのも待っておれなくて、子ど
もをおぶっちゃぁ、ハシカが治らないうちに無理したかと思いますけどねぇ。
・・・畑連れ出した
から、それでハシカが引っ込んだのかなぁ。うん。それで2人とも、
・・亡くなりました。
姉の死
磯子の姉は肺結核を病んで昭和 20(1945)年の春に、6人の子どもたちを遺して亡くなっ
ていった。磯子は病床にある姉に新聞を読んでやったことを記憶している。その記事はア
メリカ軍が沖縄に上陸したというものだった。妹が読むその記事に病床の姉は、
「もう読ま
なんでくれ」と言ったことを今も鮮明に覚えている。日に日に悪化していく戦局は、満洲
の開拓地にも確かに伝えられていた。そして敗色の色は少しずつ開拓地をおおいはじめて
いたが、やがて訪れる悲劇と惨劇も予測することなく開拓地での日常は続いていった。
うーん、あれはねぇ、3歳と、生まれて3ヵ月くらいの子だねぇ。男の子です、2人です。
・・あ
の子は泣きましたねぇ。
・・・主人は出征する、
・・その前に姉は病気でねぇ、
・・・。それから、
家の子どもが亡くなってから、姉が病気で死んじゃったかなぁ。
・・姉は、栄養失調と、結核性で
したね。それが、(昭和)19 年。まぁ、戦争の負ける前だったから、もう、戦争がじき負ける頃だっ
139
・・・
たかねぇ。(昭和)19 年。(昭和)20(1945)年かなぁ。はい、そうですね。姉が悲しがったで。
姉さんは、私の子どもが亡くなってから、姉さんが亡くなったかなぁ。
5.開拓団の終末と逃避行
襲撃された開拓団
最初の召集令状[在郷軍人を召集する命令書。臨時召集などの召集には淡赤色の紙を用
あかがみ
]が開拓団に届いたのは昭和 19(1944)年1月であった。磯子
いたので、俗に赤紙という。
の夫上村良夫もこの時召集を受けたのである。その後昭和 20(1945)年に入り5月に大動員
があり、8月 10 日には 18 歳以上 45 歳までの男子は根こそぎ動員され、開拓団には男は
わずかに残るだけとなり老人と女性と子どもたちが残った。
8月9日のソ連軍の侵攻は誰も知らなかった。17 日になってようやく日本の無条件降伏が
伝えられたが、中和鎮開拓団には不穏な様子はどこにもなかった。事態が大きく変わった
のは、8月 29 日早朝のことであった。本部の加工場が中国人暴徒に襲撃され、さらに付近
の中国人も加わり数百人の暴徒に襲撃され、住宅が焼かれ、武器・物品や家畜まで奪われ
2人が殺害され、6人が拉致された。婦人たちは何も持たずに子どもたちを連れて本部に
つう が
ちいさがたごう
避難した。そのころ通河方面から 2000 人、 小 県郷から 300 人も合流した。本部では全員
を6区と本部に集結させた。
ここへ8月 30 日突然ソ連兵がやってきて武装解除[捕虜や投降者などから強制的に武器
を取り上げること。
]をし、団長はじめ本部員と集まった男子を方正方面に連行した。これ
と前後して付近に集結していた中国人暴徒と住民ら数千人の襲撃を受けた。この襲撃で何
人もが自決した。8月 31 日、さらなる襲撃を恐れた 3000 人余が、指導する者もなく開拓
団を離れ、無統制のまま方正方面に向かって移動を開始した。この途上、約 200 人がこの
本隊とは別行動をとった。そのうち約 130 人が集団自決を遂げている(
「長野県満州開拓史
各団編」より)
。
男衆はみんな連れていかれちゃった
140
戦争が始まって、
(昭和)19 年、20 年になると、この5区には男衆はもう皆、
(戦争に)行きまし
たねぇ。うちの主人が1番先でね。
・・そして、うちの兄たちまで連れられていく時には、もうほ
とんど男の衆は行っちゃったんでね。働ける男衆はいないの。
・・1人、70 歳位のおじいちゃんが
ね。
お
ぎ
そ
(住宅配置図を指差しながら)小木曽さんってあるでしょ?そこのおじいさんは、70 いくつかな、
そのおじいさんが1人残っただけ。皆連れていかれちゃった。昭和 20 年の春、そう終戦は8月で
クゥ リ
すねぇ。作付けも女の衆がしとったんだねぇ、男衆が行ったあとね。苦力の人が入ってましたね。
あの頃は、まだ戦争に負けた頃は現地の衆もおったかなぁ。
ソ連軍の進入、姉の子どもたちと逃げた
そして、いよいよ8月、ソ連が入ってきて、で、皆逃げたんですね。
・・そう、姉は死んじゃって
ねぇ、私の子どもも亡くなって、いないもんで。
・・それで、私は姉の子どもたちの世話してまし
てねぇ、姉の子どもが、1人亡くして、5人いたんです。それで、子どもたちに、姉の帯を解いて、
帯芯で、リュックサックを 1 人1人こしらえてねぇ。それに、道中食べるものは、あの頃はいろ
いろないもんで。豆が、大豆がありましてねぇ。それに蜜があったんですよ。蜂を飼ってたから。
蜜はたくさんありまして、大豆を炒って、蜂蜜で固めてね、リュックサックに1人1人入れた、と
思います。
「必ずソ連に捕まる」自決した一家
それで、みんなもう逃げたの。それで、逃げる時にねぇ、北と、
(地図を指差しながら)これが北
で、北へ一緒になって行ったんです。北へ一緒になってね。1軒1軒、入れていただいてね。で、
し みず
私の行った家が、清水さんっていうお家。清水さんってあるでしょ?こん家に行ってね、それで清
水さんは、
・・あれですよー。その前の日にねぇ、行った日には、もう清水さんは、奥さんは、も
う日本へは帰らない。清水さんが、ちょうどあの時、清水さんはどういうことか、召集がなくて家
にいたんですよ。けぇど清水さんは、
「ゆく先は、必ずソ連に捕まる」ってことで、それで、あれ
です、自決、自決したんです、この時ね。前の日に清水さんは、私たちが、そばに、清水さんの家
141
におりましたがねぇ。ここ(腹
部を指差しながら)に、腹巻っ
てあるでしょ?腹巻の中のお金
を、みんな置きましてねぇ。だ
けど、こうやって(両手を広げ
て)ばらまいてねぇ。
「欲しいも
の持ってけ!」って、みんな、
まきました。
・・だけど、拾う者
はなかったです。
みんなもう、行く先は死ぬんだ
から、お金の使い道はないし
ね。
・・・拾う者はなかった。そ
れから、私たちが清水さんの家
に別れて行った時に、清水さん
は自分で、
・・柳行李ってあるで
しょ?柳行李の中に、子ども2
人、男の子がいましてね。
・・子
どもの着るものと奥さんの着る
ものを、今まで手を通さなかったも
中和鎮信濃村開拓団行動概要図(出典:元中和鎮信濃村
開拓団『追憶 あゝ中和鎮(1975 年刊)
)
のをみんな入れて、きっと、亡くな
った時に、それに着替えさせてね、お父さんに穴を掘ってもらったんですよ。
・・・でね、清水さ
さんぱち
さんぱちしき ほ へいじゅう
ん、最後に、あの時はね、みんなあの、三八[三八式歩兵 銃 のこと。明治 38(1905)年に日本陸軍
が正式採用した小銃]って、昔の古い銃、三八はみんな家々にあってね、それで、清水さんは、こ
こへ、足のここ(親指)へねぇ、きて、
・・最後にね、じけっ・・、自決。全員自決・・・。
「みんな自決しろ」自決を覚悟する
それが、逃げる時です。はい、
(8月)31 日、逃げる時ですね。そして、清水さんにも、もう駄目
142
だで、皆自決しろ、って言われましたけどねぇ。私は、姉の子どもを連れておりますもんで。
・・
姉の子どもを連れておるけぇど、牛車に、みんな荷物持ってね、行ったんですよ。だけど、牛車が
もう、土に、雨が毎日毎日、雨が降って、車の輪がもう半分位はね、土に埋もれて、車が動かない。
・・
それで、私だって、そんな・・・馬車を使うのは下手ですしねぇ、
・・それでもう行く先は、
・・・
もう助からないからって。あの時はもう、子どもたちは皆、自決する大勢の中に連れられていくと
思い、もう夢中でしたね。それで私は、子どもたちの最期を見ることが嫌だし、
・・・自分は、子
どもを、2人・・・亡くなって、お墓があるし、姉が死んでいるから、
・・そこを離れることが嫌
で、自分ももう、自決も覚悟でおった。
死ぬのはよせ、いつか日本へ帰れる
それで、最後あれですね、部落(開拓団)で働いてたあの人たちにね、
「死ぬのはよせ」って、止
められて。中国のおばあちゃんがね、おばあちゃんが、とんで来て、
「死ぬのはよせ、いつか日本
へ帰れるで」っちゅってね、言われて、そして、まぁ、とどまったんですけれど、あの人たちに助
けられましたねぇ。
中国のおばあちゃんっていうのは中国人で、敗戦の前には開拓団の小屋を建てておったおばあさん。
私も5区の人たちもそうですけど、中国のそういう人とは仲良くやっておりましたね。満人たちと
は、ほんと仲良くやっておりましたね。それで自決を止められて。
・・もうあの時に、日本人は1
人も残しちゃいけない、もう全部殺しちまえ、っていう知らせがあった。それだけぇど、私に満人
の服を着せてねぇ、
・・自分で作った靴ですからね、靴を履かしてくれてねぇ、そういうふうにか
くまってくれましたね。それで満人の小屋へ行ってねぇ、そして、おし(唖)になっとれってね。
うーん、そういってかくまってくれましたねぇ。
そうしたら、ちょうど、日本の人たちが、方正の方からかね、もう道いっぱい、逃げてきた兵隊さ
んたちがあるの。兵隊や、それから普通の日本のお父さんたちが。で、そういうところに、私がそ
ういう小屋におって、満人の支度しているけぇども、ずっと、泊まるとこもないもんで、そういう
小屋でね、一晩、日本の人たちを泊めてねぇ、あくる朝になって、私に、
「おばさんは日本人かい?
ありがとな」って言ってくれました。その人たちは、それからずっと線路づたいに、ハルピンへ出
143
ていく、そう言いましたけぇどねぇ。戦争に負けた人って哀れですね。
それでねぇ、
「俺は、おばさんは中国のスパイだと思ってたけど、朝起きたら、日本人だったんだ。
だから助けてくれたんだ、ありがとう」と言ってね、私に、持ってる、あの時は持ってたやかんだ
とか、やかんに蜜がいっぱい入っとったかなぁ。そんなものを、おばさんに、って言って置いてい
きましたけぇどねぇ。あの人たちも、道々どうなったかは分かりませんけども。
大勢亡くなりました、腸チフスで亡くなってるね。冬を越せなかった人が、多いの。あの頃ねぇ、
冬は土が掘れないもんで、死体がね、山のようになってて、雪が融けると臭いからねぇ、満人の衆
は、春先になって、死体を焼いたんですよね。それはね、山へ行って、自決した人たち。あの頃み
んな子どもが小さかったでしょ? 私は自分の子どもは、ハシカでみんなね、亡くなっちゃったも
んで、姉の子どもたちは、小さいのは亡くして、みんな歩けたもんですけぇど。こんな小さい子ど
もねぇ、おんぶしたり、連れて歩けないでしょ。仕方がないから、自決なんですよね。
それから、ですねぇ、やっぱりどう考えても、もう帰れるっちゅう見込みがないもんですから。ま
ぁ、中国のおばあちゃんに、勧められて、そこにねぇ、居座ってたんですけど。
子どもたち(姉の子どもたち)は方正へ一応行って、また、私たちが呼び寄せて、帰って来ました。
はい、皆帰ってきました。一度に帰れないもんで、そのあいだにも大勢死にましたね。
・・子ども
っていっても、ほとんどおりませんでした。姉の子どもはね、1人亡くして、5人連れてきまして
ね。
・・で、私はまぁ・・・なんとか皆で、今は(日本へ)帰りたくても帰れないし、そこで、少
し、日本へ帰れるまでって、私が、中国の人ところにお世話になって・・・。それで、子どもたち
を呼び寄せました。
6.死を免れて中国人の家に:結婚・出産・日々の生活
一番辛かった
一番辛かったのは、
・・中国人の中へお世話になる時ですねぇ。
・・・ほんとに、あの中国人の人た
144
ちが、
日本の娘を世話してくれ、
って私に言うんですよ。
私は絶対そういうことは出来ないですよ、
ねっ。
・・・一番切なかったですね。
・・・日本人は、なんたってねぇ、満洲におってもお風呂があ
りましたしねぇ。
・・着る物だって着替えてますよねぇ。
・・あの人たちは着たっきりでねぇ、ほん
とうにシラミだらけ。
ほんとに、あの頃の中国の人たちは、顔を洗うこと知らないんですよ。手なんかもう垢だらけでね
ぇ、着とるものなんかもうほとんど冬も夏も無くて、着とるものなんか、綿が出て、シラミだらけ
でね。えぇー、そんなとこでね、生活してました。
おばあさんが世話してくれた
相手ですか。おばあさんがね、世話してくれましてね。
「死ぬのはよせ、いつか、日本へ帰れるで」
って言って、中国の人たちはねぇ、何ていうかなぁ、うんと死ぬのを恐れるし、まぁ、日本人もそ
うですけどねぇ。死んじゃあいけない、いつかは、帰れるで、いつかは。死んじゃあいけないって、
止められてねぇ、そして、ふだん生活しておるうえでもねぇ、そのおばあちゃんたちは、うんと日
本人を、大事にしてくれましたね。満人の衆にも、悪い衆がありますもんでね、おばあちゃんたち
が、うんと助けてくれました。靴を、みんな作って履くんですよ。私たちには靴の腕がないから、
靴の作り方も知らないし、それで、おばあちゃんたちがねぇ、
・・靴を、作ってくれたり、着るも
のもね、こさえることを教えてくれたり、
・・・ほんとそういうこと、ほんと親切でした。おばあ
ちゃんたちとは血のつながりがあるわけでもなく、
全然他人です。
近所にいた人。
それはほんとに、
日本人の真似できないねぇ、と思う、親切がありました。
世話になる中国の人も貧乏
私たちも、その世話になる中国の人も、貧乏人で、何にもないもんですから、子どもたちはそれぞ
れ、男の子は豚飼い、豚追いとかに出たり、小さいのは1人、中国人の人にもらってもらったりね
ぇ。いろいろなことに子どもたちを出して、
・・そんなことをしてね、何とかやっておりました。
女の子たちは、あの頃ね、まだ歳は若いんですけどね、中国の人にもらってもらいました。2人女
の子いましてね、まぁだ 15 歳、姉ちゃんのほうが 15 歳だったかなぁ。妹がいくつか小さいんで
145
すけどねぇ、中国の人とこにもらってもらって・・・、そんな苦労してました。あの頃の子どもは
かわいそうでした。
あの中国の人たちだって、食べ物、何にもない人とこにねぇ、食べ物はないし、ただ家があるっち
ゅうくらいのねぇ、あの頃みんな、貧乏でしたからねぇ。着るものはないし、床はむしろを敷いて
ねぇ、壁はむしろでした。家財道具がなんにもないです。
土地はたくさんありましたもんでね。土地を耕して。あの頃は、あの中国の満人の衆も、みんな共
同の生活で、土地を耕しておりましたりね、そして、分け前を、冬の前に採ったものを分けるよう
な生活でした。でも、それまでになるまでにねぇ、食べるものなんかないんですよ。で、開拓団の
日本人が捨ててった畑や田んぼに行って、取ってきて食べ物をなんとかして(生活していました)
。
身寄りがなかった結婚相手
夫になった相手の身寄りですか。
・・ないですよ。あの人たちはやっぱ中国の人たちも、中国に内
戦が続いたしねぇ。そして親たちは、みんな、ああいう人たち、アヘンを、アヘンでみんな財産を
つぶして、若死にしちゃうでしょ。そういうことで、子どもたちもねぇ。働いても働いても、お父
さんやお母さんのアヘンで、身につくものがなくて。
ただねぇ、兄さんが1人おってねぇ、敗戦前は開拓団の仕事をしてました、いくらか、片言でも日
本語が通じるっていうことでね。ずっと一緒に働いてましたねぇ。
(私の)姉たちのところで家の
手伝いをして、はい。
自分で産んだ子はかわいいですよ
子ども生まれる、って時ねぇ、
・・産婆はありましたけぇどねぇ。子どもを産むときには、
・・・ワ
ラをひいて、あのアワをね、アワの穂をとって石でたたいてね、柔らかくして、ワラをひいてお産
して・・。切ないですね。着るものはないし、
・・・着るものは後で革命があってからはよかった
んですけど、はじめはね、悲しい思いしましたね。
・・私はね、日本の人たちはね、いずれ日本へ
146
は帰りたい、って。
・・・そう、中国の人の子どもだからねぇ。だけど、複雑なんですけど、子ど
も、自分で産んだ子どもはかわいいですよ。
・・・だから日本人は引き揚げ、っていった時には、
・・
どうしても子どもからは離れなかったんですね。
・・・中国の人たち、子ども、中国の子ども連れ
て帰っちゃぁいけない、
・・政府が「帰ってもいいけれども子どもは置いていけ」
。そうなんです。
米はなくて、主食はトウモロコシ
食べ物は、畑で採れたトウモロコシですね。ほとんど米はないんですよ。あの人たちは、米を作る
ことはできないです。あとになってからはね、米を作ることを習ってきましたけぇど、はじめはト
ウモロコシでした。トウモロコシねぇ、私たち、トウモロコシのご飯が、ノド通らなくてねぇ、日
本人ならあのトウモロコシの若いのはいいんですけえどねぇ。あの堅いのはねぇ、
・・・若いのは
食べさせないんですよ、それで堅くなったのをねぇ、臼で挽いて、砕いてね。砕いて粉にして、粉
をパンにして食べてねぇ。干したトウモロコシの実を1日か、半日くらい煮なきゃ柔らかくならな
いでしょ。
おかずなんて、あの頃は、開拓団におった時は、お味噌とか醤油とかね、あるけども、そうやって
来た時には、味噌も醤油もないでしょ。塩でねぇ。そんな状態がねぇ、けっこう続きましたねぇ。
いつもバカにされて・・・、私たちは米で生活してきたでしょ、だから、トウモロコシの粉をご飯
にするの下手なんですよ。トウモロコシや粟でね、ご飯にしなくちゃで、そういうことで、毎日、
バカにされて・・・、もう、いろいろ悲しい思いしました。だけど、いつかは日本へ帰りたい一心
で、我慢してました。中国でも、私は「上村」って言ってました。はい、あぁ、発音が違います、
チャンツゥヌ
中国語で「 上 村 」
。それで通していました。
八路軍に助けられた
そうして、あの八路軍[用語集→]がね、八路ってあったでしょう? あの衆が、蒋介石を追い出して、
八路が入ってきました。八路の兵隊さんが私たちを助けてくれて、そして、粟をたくさんくれたん
ですよ。それで、命拾いしてましたねぇ。
(八路の人は)仕事をしとった満人でしたからねぇ、い
147
くらか日本語が通じましたからねぇ。そんなことで助かったんです。
冬はオンドル、山へ行って木は採ってきてオンドルを焚く、焚く物はあるんですけれど、敷物なん
かムシロで、家財道具がなんにもないですよ。
7.開拓団の集団引揚げまで
多数の死者を出した厳冬の収容所
中和鎮に留まり、中国のおばあちゃんに助けられ、中国人にお世話になった磯子であっ
い かんつう
たが、方正に移動して伊漢通開拓団跡に収容されていた開拓団の本隊は危機に瀕していた。
収容所は避難民で7〜8000 人にふくれあがっており、発疹チフスの蔓延で多くの犠牲者を
出し、中国人の物盗り、ソ連兵による強姦・暴行が横行し、配給の食糧はわずかなコウリ
ャンだけで、毎日死者が出ていた。さらに厳しい冬の到来のなかで避難民は、配給食糧を
打ち切られ収容所に留まることは不可能になっていた。昭和 20(1945)年 12 月 31 日朝、元
の中和鎮に向けて移動を開始した。中和鎮にたどりついた人たちも結局中国人の知人や雇
っていた人たちの情に助けられ、厳しい冬を越すことになった。
翌 21(1946)年5月、集団引揚げ[用語集→]のためにハルビンへ向けて中和鎮を出発することに
なった時の総員は 343 人であった。結局、中和鎮開拓団の在籍人員は 282 戸、1164 人、
うち 153 人が応召し 36 人が戦死。敗戦時の在団者は 1001 人、そのうち集団自決約 130
人、避難中の収容所などでの死者 599 人(集団自決約 130 人を含む)、残留者 42 人、不明9
人、日本に引き揚げたのは 351 人に過ぎなかった(
「長野県満州開拓史 各団編」より)
。
子どもと別れることはできない
あの頃はねぇ、
・・・うーん、私たちにも帰れ、帰れ、って言いましたけぇど。
(そういう連絡が)
ありました。あれは、信濃村の開拓団(中和鎮開拓団)の衆が帰ってきたでしょ?・・・そして、
一応みな帰れるから帰れ、
って。
日本人はもうみんな帰れって言われましてね。
言われましたけど、
あの頃、もう私たちは・・満人のお父さんの子どもがありましたもんでねぇ。
・・・子どものある
人たちは、いくら満人のあれ(亭主)でもねぇ、子どもとだって別れることできないし、
・・それ
148
でまぁ、はい。
・・・私たちとそれから、姪ですね。2人の姪も、もう子どもがありましたもんで
ね。それだもんで黙って。それで(姉の子どもの)男の子たちは、預けてあった中国人の家へ行っ
て、お願いして、帰しました。
向こうに残った人ですか。はい、
・・その頃、大勢ありましてね。日本の開拓団の、女の衆はね、
中国の衆の子どももありましたしね・・・。
あの頃は、まぁ中国の人たちとも仲良くやっておりました。でも、いつかは日本へ帰りたい一心で
ね。私が、1番年長だったもんですから、若い娘たち、娘ったって、もう嫁入しとって子どもある
けぇど。農業の忙しくない時にはね、呼んで、日本の歌を歌ったりね、いつか日本へ帰れるで、頑
張ろうねって、皆でね、一緒になって。
毛沢東が家を分けてくれた
もうたくとう
続いて、そして、あの革命が起きたでしょ。中国のねぇ。八路軍が入ってきたし、そして、毛沢東
がね、家を分けてくれたでしょ。あの、貧乏人ほどね、待遇がよかったものですから。
・・・だか
ら、わりあいね、食べ物はありますし、着るものはあるし。そして、貧乏人ほど家がなければ、家
をね、金持ちを追い出して、貧乏人を入れてくれて。そういうね、生活がありましたね。それまで
はねぇ、5区の人たちねぇ、女の人たち。オンドルがそうだったかなぁ、あの人たちも一緒にね、
一緒に寝泊りしましたね。布団もないの。冬もねぇ、布団がなかったです。
革命から後には、生活は、だんだん良くなって、食料もね、もらえたし、まぁ何とかだけど。日本
人ちゅぇうことで、いつでも私だけはね、差別されましたね。うーん、買い物に出ちゃいけない。
日本人っていうことでね、いろいろの会合には、もう出ちゃぁいけない、それで中国と日本人の人
たちと交際してはいけないね。子どもたちが会合に行っても、家にいて、お母さんにいろいろ言っ
ちゃぁいけないね。街へ行くことも、いいんですけれどねぇ。そうですねぇ、おばあさん、年のお
ばあちゃんたちはね、
・・
「日本人が、おめぇさんたちが悪いんじゃないよ、日本が、国が悪いんだ
でな」ってそう言うね、私たちには、うんと同情してくれましたね。だけど、政府のお役人たちに
はね、差別がありましたね。
149
私と似たような人ですか? えぇ、
大勢いました。
大勢いたけぇどね、
たいがいもう年の人たちは、
日本へ帰ってきて、若い人たちの中で、私が1番年長で。年の人たちは、娘を置いて、お父さん、
お母さんたちは帰ってきてましたから。
話をすることは、私が家に呼んでしましたけぇど。後で、そうだねぇ、あの革命(文化大革命[用語
)がおきてからは、私は、政府から睨まれて、スパイ活動だ、なんて言われましてねぇ。私は
集→]
もう、外へ出ちゃいけない、とスパイ扱いされたんです。夜中に、家の中まで調べが来ましてね。
私の実家、諏訪のほうから来た手紙だの何でもみんな、没収されたりしました。とにかくまぁ、外
へ出ちゃいけない、人と話しちゃあいけない、そういう時がありましたね。そして、日本と国交が
回復してからは、日本から手紙が来るようになって、子どもたちに、手紙を読んでやったり、書い
てやったり、しました。
いつか日本へ帰ろうよ
開拓団におった時はいいんですけどね、私は主人が働きもんだったし、性格もいい人だったもんで
すからねぇ。まぁ、幸せだったんですけれど。戦争が、ああいうふうになっちゃいましたもんでね。
中国人の中に入ってからは、言葉は通じなかったり、食事の作り方が悪かったりね、
・・・そうや
っちゃぁバカにされましたね。
・・・そうもうほんとに思い切って、もう死んじゃったほうがいい
と思うときありました。あったけぇども、
・・また思い返して、いつか日本へ帰りたい。帰りたい
で、私より年下の衆をみんな励まして、いつか帰れるで、帰る、みんなね。中国の人たち、
・・や
っぱり、
・・・なんちゅうの、日本人の旦那と違って、思いやりのない人が多いですよ。だからね
ぇ、
・・日本人の嫁さんだっちゅって、うんといじめられる人が、あったんですよ。
・・だけどねぇ、
我慢して我慢してな、いつか日本へ帰ろうよね、体気をつけて、いつか帰れるで、っちゅって、命
さえあれば帰れるで、っちゅってね、みんなでそうやってきました。ほんとにかわいそうな人なん
かありましたよ。病気でもお医者に診てもらえんとね。
・・中国人の旦那にも、差別されて亡くな
っていくのね、そういう人もありました。
日本人同士が集まるってことは出来ないです、できないの。畑で行きあったりね。中国は豚を飼う
150
にね、野へ行って、草取ってくるんですよ。豚を飼うのに、みんなカゴしょって行くでしょ、だか
ら、野で一緒になるね。
8.国交回復、帰国へ
田中総理の訪中、国交回復
た なか
変わったのは、田中総理が行ってからです。もう、ガラリと変わって、その時にはねぇ、嬉しかっ
たですよ、私たちには、配給も余計にあってね。日本人には、油も余計くれたり、砂糖もくれたり、
お米をくれたり、そういうことありました。そして県ね、たまには、1年に1回は県へ呼んでくれ
て。そして、ご馳走してくれたり。私たちのね、そばにおる衆、皆ねぇ、行きましたね。10 人、
20 人とか、おりました。
田中総理が中国へ行って、国交つけてからはねぇ、それだけでよかったんです。えぇ。国交がつい
てからはねぇ、私もだいぶ解放されましたけれども。日本人同士ではね、日本語使ってました。私
は歳だもんですから忘れないけぇど、小さい衆はもうほとんど言葉忘れましたね。忘れたけど、あ
れは不思議なもので、日本へ帰ってきたら日本語覚えが早いですね。でもねぇ5歳くらいかねぇ、
小さいときに行った衆が、言葉忘れても、日本へきてから日本語覚えるっていうの早かったですね。
はい。
・・・・私たちはでも、ちょいちょい日本語を、日本へ来てから困ったなぁって思ったこと、
いろいろありましたね。日本だって外国語が入ってましたね。トイレとか、いろいろありましたも
んでね、困りましたけぇど。
日本人は帰れる
国交回復[用語集→日中国交回復]して、回復してねぇ、帰れるようになるっていう時にゃ、やっぱりねぇ、
(旦
那たちの)あたりが悪かったですね。中国の政府は、私たちを良くしてくれたんですね。日本とね、
国交がついてから、うんと良くしてくれて、日本人も待遇が良かったんです。だけど、そう、家の
旦那たちは、帰りゃあ、うんと困るもんでね、
・・あたりは悪かったです。
151
政府からねぇ、知らせがありました。日本人は帰れるで、っちゅって。中国の人たちにねぇ、帰る
のを止めちゃぁいけない、ってね、政府から、中国の政府からありました。その時にはねぇ、もう、
うれしかったです。それにもう子どもたちも大きくなってたからね。それでも、あれだねぇ、日本
帰る、私が手続きやるでしょ、そうすると、中国の旦那は、帰っちゃ困るもんでねっ。それだもん
で、まぁ、手紙を書いたり、返事を書いたりするのを私も、ちょっと睨まれていましたね。そんな
時にね、私の主人は亡くなりました、50 歳で。はい。
昭和 50 年、2人の子どもを連れて帰国
子どもたちが内地へ帰るように手続きをするのが、子どもたちみんな、分からないもんで、私がす
るでしょ。中国の人たちは、現地の人たちは、字を知らないんですよ。
・・ちっと字を知っとるち
ゅうっと、何て言うの。日本人だから、何か日本とつうつうで、悪いことしとるんじゃあないか。
そういうふうにね、見られたんです。
日本に帰ってきたのが昭和 50(1975)年、西暦ではね、分かんないけぇど。戻ってきて 30 年になり
ます。2人子ども連れてきました。15 歳の男の子と 12 歳の女の子と2人連れてきて、駒ヶ根にお
世話になってます。駒ヶ根があの主人(日本人の前夫)の本籍地だもんで。
駒ヶ根で、はじめはお金をね、生活費を頂いて、で、あとで私が働くようになってから、だんだん
減らされてねぇ、まぁ、なんとかやってきました。日本へ来て 13 年働きました。精密の会社へ入
ったり、洋裁のほうの会社へ入ったりしました。
引き揚げた人たちからいうと幸せ
私たちは、そうですね、引き揚げた人たちからいうと、幸せだったと思います。親身になって助け
てくれた方がいましてねぇ、北澤康吉先生と公民館長をしておられた弟さん、あの人たちが、ほん
とに面倒見てくれましてね。家の今の嫁さんも世話してくれたりねぇ。そうですね、
(息子も)50
ちょっと前かな。あの子はねぇ、日本に来た時は、全然言葉は分かりませんもんで、妹とね、2人
連れてきて、それで、私が中学校へ3ヵ月一緒に通いました。言葉が通じないから。はい。そうい
152
うふうで、学校の先生たちもとても良く面倒見てきて下すってねぇ、それでまぁ・・中学を出て。
妹は6年で(日本へ来て、中学卒業して)
、岐阜の紡績工場へ入って、勉強しながら、紡績で働き
ましてね。息子のほうは、大工さんにお世話になって、自分でもねぇ、
「俺が家を建てたい」って、
そういう訳で大工を勉強して、そういうことで、おかげ様でねぇ、現在がありますけぇど。妹のほ
うも、日本の旦那さんでね。今元気でやっています。
2人の子どもを中国に残して
帰ってきたときですか? うれしかったですよ。うれしかったです。いまだに私は布団の中入ると、
涙が出ますよ。うれしくて、いまだに。
・・・あの中国のムシロの中で、
・・冷たいオンドルでね。
・・
あの生活を思い出します。
・・・でもまぁ、駒ヶ根の家ではおかげ様で、まっ、自分の家も持てた
し、まぁ一番私たち、幸せだと思います。いろいろありますけどね。子ども、息子の兄ちゃんたち
もね、中国におるんですよ、2人。だけど日本に仕事がないから。
2人は中国にね、はい。もう 50 過ぎてますね。連れて来れないんです。政府で年齢の制限があり
まして、成人した子は連れちゃあ来られないの。子どもたちゃあ、お母さんの髪を切って、しまっ
ています。
9. 帰国後のこと
帰りを待っていた父と母
中国でのことですか。何してもねぇ私も不器(不器用)だもんですから、作るものが下手なんです
よ。だからね、よけいね。食事なんて、中国のパンなんか、醗酵させてね、柔らかくしてね、作る
と美味しいんですけどねぇ。そういうことが下手だもんですから、硬い、硬いパンになっちまいま
すね。まぁ慣れてからは、だいぶ良かったんですけれどね。何かにつけて、そうですねぇ、それは
差別されました。性格もありますけぇどね。
まぁ、いろいろ。農作業というか、そういう経験もなくて、満洲へ渡って、それから敗戦で。だけ
153
ど、私はねぇ、だいたい持って生まれた気持ちが広いもんですから。まぁ、いつかは、日本へ帰れ
るし、大きな気持ちでしたもんで。私が帰ってきて、父はまだ、お前が帰ってきたら、俺 10 年長
生きできるわっちゅって、96 歳で亡くなりました。
そうして、私はねぇ、駒ヶ根へ帰って来ても、日曜にずっと諏訪へ飛んでいってねぇ、父の好きな
ものを買っちゃ、持ってってましたもんでねぇ。
こうあんまる
親は、私の妹たちが言うのにね、もう引き揚げが、興安丸が引き揚げで、もう最後はないとか言っ
て、話を聞くけぇども、あれはどこだったなぁ? 神様にね、おみくじを引いて、どこの神様だっ
たかなぁ? よく母がね、行っておみくじを引いて、いつ磯子は帰れるか、と言って、心配してた
ようです。で、母は、私が帰るより先に亡くなりましたけぇどね。
戦死していた主人
主人(日本人の前夫)
、上村ですか。はい、戦死です。戦死は満洲で。はい。公報が入ってます。
(昭和)20 年の 10 月。まだねぇ、敗戦だって言ってもねぇ、信じなくて、なんかやってたらしい
ですねぇ、船の中でねぇ。船の中で撃たれて、亡くなったらしいんですけど。諏訪の私の実家へ衛
ふ
じ
み
生兵の幹部だった方が日本へ帰ってきて、富士見の方が諏訪の家へ来てくれたらしいんです、そう
いう話を父から聞きました。日本へ帰ってからにねぇ。
10.今思うこと
中国の旦那、複雑です
中国の旦那ですか。
・・そうですねぇ、まぁ情が染みておりますもんで、ですけどねぇ、
・・・うー
ん、まぁね、複雑ですけど。
日本人ということで旦那に差別された。あの子どもたちのお父さんですからねぇ、だけど子どもた
ちはわりあい親父には好意を持っていないですよ。みんな、私の味方になって。
154
今ねぇ、私も、もうこういう悲しいことは、話せないもんで息子たちにも言ってないんですよ。だ
けど、息子たちは、親父が中国人で、お母さんをいじめたってことがわかかるもんで、それだもん
で、今、ほんとうに大事にしてくれますけぇど。
まぁ子どもたちは、まぁ大体知っとるもんでねぇ。だけど、私、話したことないですよ。お父さん
は、ぼろぼろの服を着たとか、シラミだらけだったとか、
・・貧乏で食べるものなかったとかね。
そういうこと、話してないです。そういうことは、子どもには言えないですよ。それからもう解放
されてから、生活しとる上でね、私、日本人でいろいろ下手だもんですから、
・・殴られたり蹴ら
れたりね、そういうところは子どもたちが見ておりますもんで。
そういうところ見ておりますもんでね、
子どもたちは、
まぁ承知していた、
お母さんの味方でねぇ。
今一緒におる子は、1番末子なんですけどねぇ、とても大事にしてくれます。
これが運命だと思いますけど
満洲へ行ったことですか。満洲行って、まぁ、これが運命だと思いますけどね。いろいろありまし
た。でも、おかげさまで体がねぇ、まぁ、痛いとこありませんし、お医者にもかかったことないん
ですよ。満洲におるときに、さんざん病みましてねぇ。もう家に帰りたい、帰りたいで、やっぱり
精神的に、食べれるものも、食べられないですし、さんざん病んだんですよ。で、もう駄目、心臓
弱いしねぇ、精神的にもうね、家帰りたい帰りたい、毎日、毎日、涙流しちゃおったもんで・・。
やっぱりね、日本人は中国へ行ったら、やっぱ前向きでなきゃいけないと思いますね。子どもたち
を救ってくれた、もしこれが反対だったら、日本人はあれだけはできないかなぁ、と思いますね。
学校まで出してくれたりねぇ。孤児を救ってくれたの。
不幸ですよ、戦争ということは。今難しいときですね。世界からも戦争の絶え間がない・・。もう
テレビでも、戦争のことは見たくないです。
155
残留孤児、言葉の問題
一番よかったことですか。帰ってきたことです、日本へ。日本へ帰ってきて、父親にいき会えた。
母は亡くなって、おりませんでしたけど。
子どもたちがかわいそうだったですねぇ、あっちで亡くなったのは。今帰ってきた中国残留孤児[用
の衆で、私たちのように、言葉が言えればいいんですけれど、言葉が言えないと職場行っても、
語集→]
日本人の人たちに差別されるときもありますよね、言葉の問題で。そういう人たちは、かわいそう
だなと思いますね。言葉って一番大事ですね。
悲しかったですね、生活も違うし
残留婦人[用語集→中国残留婦人]っていうのは、自分の意思で残ったんだと言う人もいますが、それはねぇ、
意思、って言ったって、死ぬか生きるかの境でしょ。働いて、食べていければいいんだけど、あそ
こには働く道もありませんしね、
どうしても家庭に入らなきゃ、
食べていけれないのよ。
だもんで、
ああいう人たちの中で暮らすってことは、
悲しかったですね。
日本人と全然、
食べるものは違うし、
生活も違うでしょ。お風呂もないし、水がうんと貴重なんですよ。どうやって暮らしてきたかって
思うくらい、あそこは生水飲めないもんでね。それで、鶏を飼ったり、豚を飼ったりね、それで生
活して、子どもが学校に行くときには、お金がないもんで、卵をためといて、合作社へ売って、そ
して、お金に換えて、お塩を買ってきたり、学校のお金を出したり、そうしましたね。
今、だんだん私たちのように、現地から帰ってきて、丈夫でいる人は少なくなりましたよね。えぇ。
日本の子どもたちにはちゃんとしてくれた
日本に帰って来て感じたことですか。 感じたことは、そうですねぇ、あれでしょ。言葉が分から
ないこともあったり、そして、昔の家と変わっちゃってね、何か都会みたいな、いいような、昔の
イメージが無いもんですから寂しかったですねぇ。30 何年間ずうっと思ってた昔の景色が違っち
ゃってて。慣れるまで寂しかったですねぇ。
156
でも、私、こういう性格だもんで、どこ行ってもまぁ、皆と仲良く暮らせましたけぇど。やっぱり
心の、本当の、なんちゅうの、こう愛情っていうのは、中国の人たちのほうが、ありましたね。全
然こうね、兄弟でなくても、本当に、日本人の子どもを欲しいっていう人に私が聞いたの。どうし
て日本人の子ども欲しいの? 戦争に負けた子どもを? って言ったら、日本人の子どもは頭がい
い、って言ってましたけどね。もらってくれた人たちだって、生活に、ほんと明日のご飯がないよ
うな生活の人たちが、子どもたちを救ってくれて、自分たちの食べるものがないのに、日本の子ど
もを養ってくれて。そのお母さんたちのズボンなんかもう、ビロビロ(ボロボロ)でねぇ、でも子
どもたちには、日本の子どもたちには、ちゃんとしてくれて、学校まで出してくれるってそういう
気持ちはね。もしこれが反対だったら、日本人にできるかなと思いましたね。
毛沢東の写真の前で泣けてねぇ
今の中国に対してですか? そうです、中国に対して、毛沢東が亡くなったときに、私は東京行き
ましてね。そして東京の大使館で、中国はお線香をあげないんですよね。だけど、大使館に行って、
あの毛沢東の写真の前でね、ありがとうございました、って頭下げてきました。泣けてねぇ。
・・・
泣いてたら、大使館の人がちょっと変だなぁ、と思って見てましたけど、泣けました。毛沢東のお
かげで、私たち助かりました、っちゅってね。命を救ってもらいましたもんでね。
二度とない人生でしょ
考えて見ますとねぇ、もう2度とない人生でしょ? ねっ、だから、ほんとに命が救えた、ってこ
とにね、心から感謝してます。
・・・あの時に、もう死んでしまえば、それだけね。大勢亡くなっ
てるんですよ、もう死人が山ほど・・・。
私たちは、満人の中へ入って、どうやら、食べるものはねぇ、あったんですけぇど、
・・・おばさ
んたちで、満人ん中に入れなんで、自分で子どもたち養ってかにゃあならん衆があったんですよ
ヤンツァオ
ね。
・・そういう衆はね、中国で屋根を葺く草があるんですよ、羊 草 って。あの羊草をねぇ、こう
やって刈ってきてねぇ、このくらいの束にして売るの。
・・・ほんのいくらにもならないんですけ
157
どね、
・・そうやって暮らしてかなきゃしょうがないでしょ。ほいで、子どもたちを満人のとこへ
働きにやらしてね。
・・・見とって切なかったですね。お母さんたちが、みんな、野へ行って、あ
の草を刈ってきて、背中へ背負ってね、売りに行くの。えぇ、子どもたちが・・・満人の中へ豚飼
いにいくんですよ、豚をね。
・・小さい子豚もいるでしょ。
・・そうすると、朝、10 頭いった豚が
ね、10 頭いった豚を放し飼いだから、子豚がねぇ、いなくなってしまうとねぇ、声を聞いてねぇ、
みんな、来い来い、っていうと、集まってきたり、放し飼いだから、10 頭あったのが、どっか行
っちまって9頭くらいになるでしょ。そうすると、中国の人に怒られるでしょ。飼い主に、叩かれ
るね。
・・・そういう人もあった。
・・寒くて、寒くてねぇ。
・・・寒くて寒くて足が、靴もボロボ
ロになるでしょ。
・・・そして牛飼いをしとるとねぇ、牛の糞、牛のウンチね。あん中で足を暖め
るんだよね。冷たいから。そういう子どもがあってね。
命って大事ですよね
あの1人、女の子は逃げて、その娘が、私も行ったときには、やっぱり満人のね、旦那で歳がいか
ないの、15、6 でね。それで子どもを産んで。
・・それだったから、もう腰が立たないのよね。腰
がたたないもんで、それこそねぇ、口が、ノドが渇くの。
・・梨の凍ったのを食べたいけども、食
べれないなんてね。そんな子どももいました。
その日本の子ども、それでも、私が帰るときには、行ったけぇど、亡くなってましたね。アンペラ
そう
[アンペラ草の茎で編んだ筵]ね、アンペラにくるまれて、捨てられて。
・ほんと、かわいそうで、
惨めです。お恥ずかしいですけどねぇ。ほんとにねぇ、今、命っちゅうのは大事ですよね。しみじ
み思います。あぁやって、苦労したり、満洲で、死んで、お墓もないでね。草ん中へ投げられた衆
がいく人もいるでしょう。本当、どうしてあんな戦争したか、満洲って、考えてみますと、敵の土
地ですよね。いじめられるのは、当たり前だ。
こんなこと考えるようになったのは、そうですねぇ、やっぱ私は、開拓団におってね、中国の子ど
もたちを、雇うでしょ? 小さい子どもたちが、開拓団の中へ働きに来るの。ほいけど、先にたつ
衆は、わりあいに、あの頃は日本が勝ってるもんでね。人の土地に来て、人の土地に落ち着いて、
そうして中国の子どもたちを雇って、賃金をやるの。でもねぇ、上の人たち、わりあいこすいんで
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すよ。ああいうとこ見て、ああいう時に、まぁ人の土地へ来てってことは感じましたね。他人の土
地へ来て、他人の耕しておる土地を自分たちで耕して、日本の人たちも結構悪いことをしてました
ねぇ。
昔のことは思い出したくなくて
開拓地へ行くと、中国のあの人たちの家が、みんな焼かれたのよ、ねっ。日本の、日本軍が、家を
焼いちゃったのね。日本が、中国の人たちの住んでる家、あれは軍がしたんだと思うんですけども
ね。開拓団の人たちはしないけぇど。ああそう、
・・あれ行ったときにね、焼け跡の家がいっぱい
ありましたよ。あれきっと、あの頃、日本軍が焼いたと思うんですけどもねぇ。それで追い出され
た人たちは、ボロを着てねっ、土地も取られて。まぁ、日本人だけ悪いことしましたね。だから、
私たちは、中国へ行っても、やっぱ頭あがらないですね。中国の人たちは、
「おばさんたちには罪
はないよ。これは、帝国主義で、軍人が悪い」ってね・・、慰めてくれますけぇど、でも、日本人
であればね、まっ、日本人であれば、悪いことしてるな、って思いますね。
・・私もスパイ扱いさ
れましたけぇど、それも仕方ないなと思って。私も本当、もう、昔の思い出はねぇ、思い出したく
なくってね。
また繰り返しちゃぁ困ります
老人会でもあの衆が本を出すんですよね。そうすると、必ず上村さん書いてくれなんて言われます。
そうすると、どうしても戦争反対でね、平和になってもらいたいって書くんですけぇど。
今の私たちは、まぁ、こうやってねぇ、きましたけぇど、これからの子どもたちの世界、世の中に
また繰り返しちゃあ困りますしね。何とか住み良い日本にしたいですけどねぇ。
・・中国との関係
もちょっと、ここんとこ、心配なことが、いくつかありますしね。難しい問題がいろいろあります
しねぇ。
おわりに
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私はまぁ、第二の人生、こんなおばあちゃんでもおれば、子どもたちも喜んでくれるかなぁっと思
って、一生懸命健康には気をつけております。
まもなく 85 歳になろうとする上村磯子は、静かな微笑みをたたえながら、3時間に及ぶ
語りをしめくくった。初対面の私の問いかけに、はじめはためらいをみせながらも、身じ
ろぎもせず訥々と語り続けた。
「こんなおばあちゃんでも」と磯子は謙遜して言う。80 年に及ぶ人生を、どう生きてき
たのか。ソ連が満洲に侵攻してきた年の8月、自決を選ぶことがなく子どもたちを抱えた
婦人たちの前には、夏の終わりの曠野が広がり、秋の訪れと厳しい冬が待っていた。その
時、生きのびる道は残されていたのであるが、選択の自由は残されていなかった。そもそ
も磯子が満州へ行くことになったのも、自由に選びとったものではなかった。
磯子の体験は重苦しいのだが、その語りは暗さに覆われたものではない。どの場面にも、
どこかに一条の光が射しているような救いがある。磯子は、19 歳で満洲へ渡ることを決め
てからこれまで、自身の生き方のなかに、希望を見いだし、生きる意味を失うことなく、
生涯を歩んで来たのではないか。老後の今も、なお前向きである。
この地区からは私1人なんですけど、看護大学(長野県立看護大学)ありますよね? 看護大学で
高齢者のプールの体操、水中運動に行ってます。
・・今年で 85 歳になります。家の近くから、今、
駒ヶ根駅までのバスがありますもんで、
100 円で駅へ行けますね。
それから 30 分位歩くんですよ、
看護大学まで。往復1時間ね。心臓は良くないんですけどねぇ、休み、休み行きます。看護大学の
先生も驚いてます。水泳してるなかで、私が歳は一番年長ですよね。
この地区に老人会がありますけぇどね、老人会も、何か用事がある時には仕方ないけど、もう必ず
出ます。まぁ、やっぱり、人と接触しとるっていうことは、脳軟化症にならないかなぁと思って。
そして、新聞も、毎日読みますしねぇ。本も好きだもんですからねぇ・・・。出かけると、本を買
ってましてねぇ・・・。私の読むのは戦争が関係のある、中国との関係とかね。そういう本なんで
すけぇど。
◇◆◇◆◇◆◇
160
聞き書きを終えて
長野県上伊那地方事務所厚生課の引揚者特別指導員の方から上村磯子さんを紹介していただいた。長
野県上伊那地域には約 50 名の中国残留婦人のみなさんが在住しているという。そのなかでもっとも早
い時期に帰国されたのが上村さんである。電話で「お話を聞かせていただきたいのですが」とお願いす
ると、
「いいですよ」としっかりした声が返ってきた。住所を頼りに訪ねると、お宅は駒ヶ根市の郊外に
あった。
「ここは、夫の本籍なんです」と、初対面の私を前に静かに語り始めてくれた。生まれ育った宮田村
での思い出から始まり、渡満、敗戦、残留、そして帰国から現在までの 85 年を3時間余にわたって語
り続けた。限られた時間の中で、しかも初対面の相手を前におのれの一生を語ることは容易なことでは
ないだろう。語りから歴史の大きなうねりの中でおのれを見失うことなく生きてきた姿が静かに浮かび
あがってきた。
渡満する契機となったのは、姉一家を助けてやって欲しいという母の一言であった。自決を思いとど
まり、満洲に残留することになったのは、
「死ぬのはよせ、いつか日本へ帰れる」という中国のおばあち
ゃんの言葉であった。この言葉が、残された姉の子どもたちを支えて、自分自身を支えていたのである。
「わたしはこういう性格だもんでね」と繰り返しているように、希望を失うことがなかった。そして中
国革命を指導し農村を解放した毛沢東への敬意、国交回復により帰国への道を拓いた田中首相への感謝
を忘れない。帰国後を支えてくれた人たちへの感謝の言葉も忘れることはない。
中国残留婦人の語りから教訓めいたことを引き出すことは聞き取りの本意ではない。だが、上村磯子
さんの語りから、思い出されたのはある小説の一節だった。
「人は生まれるところを選ぶことは出来ない。どのような人間として生まれるかも選べない。気が付い
きたむら
た時には否応なしに存在する《自分》というものを育てるのは、ある時からは自分自身であろう。
」
(北村
かおる
薫 『秋の花』
)
。
人が選ぶことが出来ないのは、生まれるところと《自分》だけではない。生きる時代を選ぶことも出
来ない。その時代のなかで抗うことなく、そして流されることなく、上村磯子という1人の中国残留婦
人は生きてきた。その時その時を誠実に生きてきた上村磯子さんのなかにゆらぐことなく貫かれていた
のは、人間に対する信頼だったのではないだろうか。その信頼と希望を支えにして、自分自身の意思と
責任で生きてきたのではないのだろうか。
二度目に訪ねたとき、中国残留婦人の1人のことが、少しばかり分かったつもりになっていた私に、
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「そりゃあ、まだ言えないことはありますよ」と上村磯子さんは口元を引き締めて言った。中国残留婦
人の体験の重さと深さを聞き取ることの難しさを私は痛感していた。そして話を終えて礼を述べ玄関に
立ったときだった。
「話を聞いていただいて、すっきりしました」
、私を見送りながら上村磯子さんは静
かな微笑をたたえたやさしい表情で、そう言ってくれた。満洲と新中国の 36 年を生き、現在の日本を
生きてきた 1 人の女性のしなやかさと誠実さを改めて感じた。
(もとじま かずと)
基本データ
聞き取り日:2004 年3月 25 日
2006 年2月6日
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