1 創世記 6 章9から 22 節 「すべて神が命じられたとおりに」 石原俊久

創世記 6 章9から 22 節
「すべて神が命じられたとおりに」
石原俊久
先週は教会の誕生について使徒の働きから私たちの教会が、御言葉、祈り、
交わりによって生まれ立てあげられていったことを見ることができまし
た。
そして今日はまた、再開拓記念日でもありますが
また今週は創世記に戻りたいと思います。でもこの箇所も、教会のあり方
を示しているといえる箇所だと思います。
今日は創世記の 6 章の箇所から見てゆきたいと思います。
先回の創世記 5 章の箇所は死を見ることがなかった神とともに歩んだエ
ノクの話でした。そしてそのエノクの子孫からノアが誕生することになる
のです。
1.人間の堕落に対する神の裁き
6 章を見ますと 1 節から 7 節の間で、このころの人類がどのような状態
であったか、が描かれています。それはおぞましい堕落の状態であります。
「神の子が人間の娘たちと結婚始めた」
地上に人が増え始めたときに、人間は堕落したとあります。
ここで言う「神の子」とはだれなのか、
「神の御子」と言えばイエス様の
ことですが、
「神の」とあることを考えるとそばに居て仕えていた天使た
ちのことではないかという説がありますが、その裏づけが第二ペテロの2
章4∼5節にこうあります「 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄
に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。 ま
た、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な
世界に洪水を起こされました。」
御使いも罪を犯した、とあります。そしてだれあろうこの罪を犯した御使
いこそはサタンであります。
人間がサタンとの関係を持つようになった。さらに人間の世界は神から
1
はなれてゆきます。そのように人間が堕落してゆくときに、神の裁きがあ
るのです。神が捌きを与えられるのはいつも神のみこころから離れようと
するときです。アダムとエバは神のみこころから離れてエデンの園を追い
出されたときも、そしてカインがアベルを殺したときも神は思い罰をお与
えになりました。しかしそれでも神のみこころは、人間の永遠の滅びでは
なく、永遠の命を与えることにあるのです。神の愛はこの寛容さにありま
す。神は確かに厳しい方ですが、必ず悔い改めの余地を残しておられるの
です。そして神は必ず、神の御心にかなった人物をお探しになり目を留め
てくださる。そこから、永遠の命の鍵がバトンタッチされるようにとご計
画なさっているのです。今この礼拝に集っている私たちも実はその鍵を受
け取ったものです。2000 年このことが繰り返され、今でも悔い改め神に
立ち返るものがおこされる。これが神の愛であり寛容であります。
2.ノアは主の心にかなっていた。
さてその救いの計画の責任者として神が選んだのがノアであります。ノア
はアダムの子孫セツのときからの子孫、主の御名によって祈るものとされ
た子孫、祝福の子エノクの子レメクから生まれました。5 章のクライマッ
クスにこのノアの誕生が描かれています。
ノアはどのような人であったか、6 章 8 節「しかしノアは主の心にかな
っていた」とあります。そうです、ノアは主のみこころにかなっていたの
です。主の御名によって祈る子孫は、途中で堕落することなく、主の御名
によって祈り続けた人でした。エノクのように神とともに歩んだ人であっ
たのです。ここに信仰の継承、と言うことの果たす意味が明らかにされて
いると思います。もしこの家系の誰かが、祈ることを忘れたら、神ととも
に歩むことをしなくなったら、神の救いのご計画は起こらないわけです。
これは私たちの問題でもあります。親から子へと信仰継承の問題は切実で
す。またこのことは親子だけにとどまりません。教会が伝道することを忘
れてしまったならば、この救いの計画は頓挫してしまうのです。今、多く
の教会が高齢化を迎えています。新しい人が来ない、と小樽市内牧師会で
も話題になります。しかし、神が定めておられる方が必ずこの町に居ると
信じて伝道しなければならないと思わされます。現に、私たちはこの恵み
2
に預かっているではありませんか。自分がなぜ救われたのか、何で教会に
来るようになったのか、全く神のみこころではありますが、しかし誘って
くれたクリスチャン、あるいは投函されたチラシがあったはずです。私た
ちが神の御心にかなっているならば、神はノアのように私たちを用いてく
ださるでしょう。そのためには、まず神の御心にかなっているかが吟味さ
れなければならないと思います。
3.神の救いの計画
このノアに神は救いの具体的なご計画を示されます。
それが箱舟の建設であります。サタンと人間が親密になってゆくと言うこ
の世の乱れの中で神の怒りは頂点に達し、ついに神は人類を滅ぼそうとお
考えになりました。先ほども言いましたが神の怒りは頂点に達したのです。
降水による人類の絶滅。
しかし神はそのような中で、人を愛し、救いの道をもうけられました。
箱舟を作り、ノアの家族と動物たちを、ひとつがいづつ、この箱舟におさ
め、人間に再出発のチャンスを与えたのです。
ここでノアは神から詳しい箱舟の設計図を教えられます。
方舟のサイズは「長さ 300 キュビト、幅 50 キュビト、高さ 30 キュビト」
であった。1 キュビトを伝統に従って約 44.5cm として換算すると、およ
そ「長 133.5m、幅 22.2m、高 13.3m」となります。仮に、箱舟がこのと
おりに作成されたとするならば、現在の船とは異なり、航行ではなく水面
浮揚目的であるため、それに加えてより多くの積載量を得るため、直方体
に近い形状であったと推測されます。この仮定を進めると、総容積は、
40,000 立方メートル近くにも達し、そこから導き出される排水量は、ほぼ
タイタニック号にも匹敵する。
またこの「長:幅:高=30:5:3」の比率は、現在のタンカーなどの大型
船を造船する際に、最も安定しているといわれる寸法とほぼ同じ比率で作
られています。
ここで、二つの考え方が考えられます。
ひとつはノアは、船の作り方をよく知っていた。だから、神はノアに命じ
て船を造らせたと言うものです。しかしノアの居た場所は推測ですが、内
3
陸にあったと考えられます。川はありましたが、このような 130 メートル
もあるような船はおそらくだれも目にしたことがなかったのではないか、
と言うことです。
もうひとつは、ノアは木造の技術はあったけれども船は作ったことがなか
った。と言うものです。私はおそらくこの方が正しいのではないかとおも
われます。ここには書かれていない多くの法方や技術が神からノアに伝え
られたのではないでしょうか。そして知らないからこそ、神の言葉に忠実
なものが出来上がった、と考えられるのです。
4.ノアは神のみこころどおりに
22 節を見てみたいと思います。「ノアは、すべて神が命じられたとおり
にし、そのように行った」とあります。
忠実に船を作った。そしてもうひとつ考えさせられるのはこの船はノア自
身が自分で作ったということであります。
神が万能で、この地をつくられ、命さえも作られたお方であるならば、こ
の箱舟をノアにポンとプレゼントしてくださればよかったのに、と思いま
す。土からアダムを作られたお方にそれができないはずはありません。
ノア自身がこの箱舟を作るということにはどんな、意味があるのでしょう。
まず神はノアが神に本当に忠実であるかどうかを見られたのではないか、
と思います。ノアの考えや技術がそこに入り込んでは、ならない。神のみ
こころだけがある。ノアにとってもこの 130 メートルの船は非現実的であ
ったはずです。しかし、神のみこころならばと、疑うこともせずにこれを、
作り上げた。
「そのように行った」のです。
そしてこの箱舟には教会の雛形を見ることができます。
教会は罪に満ちたこの世の中に浮かぶ箱舟です。そしてこの箱舟は、神の
御心に忠実なものが神の御心に忠実に作り上げなければなりません。でな
ければ教会は罪の海の中へ水没してしまいます。
自分たちで神の言葉に忠実に作り上げてゆかねばならない
箱舟の大きさは神の恵みの大きさでもあります。
私たちはこの箱舟の中に入ることが許されたものであります。
4
私たちのこの世は、終末のときさばきによって滅ぼされますが、神の御心
に従ったもの、神とともに歩んだものだけがこの箱舟に入ることができる。
つまり滅ばない永遠の命を持つことができるのです
現代の箱舟、教会を作り上げるのは、私たちです。ノアのように主の御名
によって祈る、御言葉に忠実に行う、聖霊の励ましによってたとえこの世
から笑われようと、この箱舟を作り上げてゆくこと。
再開拓記念のこの日に思わされます。
教会を一人ひとりの手で、御言葉に忠実にたてあげてゆきたいと思いまう
s。
5