2009.1.4

「幸いなことよ」
2009年1月4日
詩篇1篇1∼3節
石原俊久
元旦礼拝では「はじめに」という言葉からヨハネの福音書の1章から神の
言葉とともにあることの幸いを学びました。今週は2009年の最初の礼
拝です。最初の礼拝にふさわしい箇所はどこかな、と思いながら元旦礼拝
の招詞でもお読みいたしました詩篇の1章1節から私たちの信仰のあり
方を教えられたいとねがいます。
詩篇 1 篇は 1 節から 6 節まであって、前半の3節で「幸いな人」いついて
4節からの後半部分で「悪者(罪人と訳してもよいかもしれません)語っ
ています。
今日はこの前半部の「幸いな人」について見てゆきたいと思います。
1.「これはいけない三つの状態」
1篇1節は原文では「幸いな人」あるいは「祝福された人」という言葉か
らこの詩篇ははじまります。
この幸いな人、の箇所はイエスキリストの山上の説教とよく比較される箇
所でもあります。
「心の貧しいものは幸いです」「悲しむものは幸いです」という、幸いな
人とはどういう人なのかをイエスは心の貧しいもの、悲しむものという一
見「幸い」とはほど遠い状態から話し始めます。結果、自らを貧しいもの
と自覚したときに、それでもなお主が祝福し与えてくださることを、私た
ちは知ることができるのです。逆説的な言葉からはじまる山上の説教は喜
びなさい、喜び踊りなさい」という言葉で閉じられています。この地上で
は報われなかったように見えるものが、最終的には「天ではあなた方の報
いはおおきいから」、といわれるものになるのです。
詩篇の作者もおなじように幸いな人とはどのようなものか、をやはり逆説
的に示しています。
1節には幸いな人は「こういう人である」というのではなく、幸いな人は
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「こういう人ではない」という事例として三つの状態が示されています。
まずはじめに「悪者のはかりごとに歩まず」とあります。私たち人間はは
この悪者のはかりごと、に弱いものであります。知らず知らずのうちに悪
い考え、やずるい考えが入ってくるのです。クリスチャンであっても、つ
いついその考えに引きずられるということは実はよくあります。このよう
な考えから私たちはいつも距離を置かねばならないと思うのです。ある教
会で新会堂建設のためにためたお金を、すっかり持ち逃げされる、という
ことがありました。建築話が進んだときに、今あるお金を一時貸してくれ
たら、もう少し会堂を広げられるという話に乗ってしまったのです。後に
なってこの教会は無事に会堂建築することができましたが、当初よりも小
さな規模での建築にならざるをえませんでした。この世と接触している限
り教会の中にもこのような問題は入り込んで来るのです。ましてや日ごと
の信仰生活において、職場で、日常の中でこの世と多くかかわる私たちは
このことに心を留め置くべきであると思います。
2番目には「罪人の道に立たず」とあります。クリスチャンであれば当然
のこと、と思われるかもしれませんが、このことも多くの困難が伴うこと
であります。自分がどの道の上に立っているかをいつも確認しなければな
りません。せっかくキリストの用意してくださった永遠の命の道を歩んで
いたのに、正反対の道を歩む人がいます。教会に熱心に通っていたはずな
のに、突然教会から去ってしまうとうことも、悲しいかな現実にはあるの
です。
いつも神の道、永遠の命のゴールを目指した道を歩んでいるかを確認した
いと思います。
3番目には「あざけるものの座に着かなかった」とあります。
「あざける」
とは見下げるということです。このことは高慢になって人をあざけるもの
になるということです。
高慢になる、このことはキリストが一番嫌われたことであります。
「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ
ます。(マタイ23章12節)」とキリストも言われました。
高慢の行き着くところは、あのバベルの塔に象徴される高ぶりであり、神
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をも超えようとする歩みです。究極的には神の存在をも否定することにつ
ながるのです。
ここに書かれている3つの「良くない」ことはこの高慢につながるプロセ
スであるともいえます。
悪人のはかりごとを魅力的に感じ、気がつくと神の道からそれて、罪人の
道に立っている。そして行き着くところは高慢の道、神の存在さえ否定す
る道。そのゴールは高慢であり神の否定です。
「幸いな人」はこのような人ではない、という人です。
それでは私たちはどのようにしてさまざまな悪の誘惑から守られ「幸いな
人」「祝福された人」になることができるのでしょうか。
2、「神の教えこそ秘訣」
2節からは幸いなひとの秘訣が歌われています。「まことにその人は主の
教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」
主の教えを喜びとする。これは大きな秘訣だと思います。ピリピ書の4章、
4節には「いつも喜んでいなさい」という命令があります。パウロ自身も
主の教えを喜ぶ人であったとおもいます。だからこそ主の働きを命をかけ
て実行することができたのです。詩篇の作者は「主の教えを守る」、とか
「行う」、という書き方ではなくて、主の教えを「喜ぶ」という表現を、
用いています。詩篇の時代の主の教えとは、律法のことでした。あの細か
な規定がわんさと書かれている律法を「喜び」とする、というのはどうい
う心境になればできるのか、と思ってしまいます。しかし、律法はもとも
と神様に正しく礼拝をささげるための手引書でありました。そして真の悔
い改めと、神との和解のために必要なそれぞれの儀式でありました。また
律法には選ばれた民の共同生活のための知恵も書かれていたのです。
ですから、律法を正しく理解し、行うならば、神の御心に従った歩みがで
きるのです。律法を喜ぶ、とはすなわち、神のみこころを行うことを喜ぶ
ことにほかなりません。みなさんは心から礼拝できること喜んでいますか。
また、教会の交わりを喜んでいますか。また神様がしてくださったことに
感謝できていますか。年末に感謝礼拝をささげました。みんな心からの感
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謝にあふれていました
。私たち人間は悪の誘惑に弱いものです。そして
それは簡単に手に入り、そこに喜びを見出しやすいものです。しかしまこ
との神からの喜びは違います。すぐにはきづかないかもしれないけれども
確かに私たちに与えられている喜びが神からの喜びです。数えてみよ主の
恵み、です。
今の私たちには、旧約と新約の聖書が与えられています。この聖書が自由
に読めることができることに感謝したい、そして喜びたいと思います。
秘訣の後半は、「昼も夜もその教えを口ずさむ」とありす。み言葉に喜
ぶことができた私たちはその言葉を心に蓄え、口から自然とみ言葉があふ
れてくるのです。
そんなにたくさん聖書の言葉を覚えていない、という方もご安心下さい。
一つでも、二つでも心の中に聖書の言葉があればよいのです。困難のとき
に励まされた言葉、感謝だったときに覚えた言葉など、何かあるはずです。
そしてその言葉を少しづつ増やしてゆけばよいのです。問題は数ではなく
て、そのみ言葉に感動しているかどうかです。「昼も夜もその教えを口ず
さむ」とあります。それくらい感動できるみ言葉があれば、悪魔の誘惑か
ら守られるのです。たとえ1つしかみ言葉を覚えていなくても、み言葉に
は力があります。その言葉一つでキリストにある聖なる守りが与えられる
のです。
このようにして私たちは神の言葉によって幸いな人とされてゆきます。
幸いな人がどんな人なのか3節に具体的に歌われています。
3.ゆるぎない人生
幸いな人は悪から守られ、キリストにある聖なる人生を歩みます。
その人は「水路のそばに植わった木のようだ」とあります。水路のそばと
は絶えず水分が補われている植物にとっては最高の環境である、というこ
とです。イスラエルのあった中東地域は荒野に出れば水のない世界で、そ
れこそ草一本生えていない砂漠の環境でした。 当時は井戸の所有をめぐ
って争う、ということが良くありました。水があるということはそれだけ
で一つの財産でした。水は大切だったのです。
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詩篇23編の有名な言葉に「主は私を緑の牧場に伏させいこいの水のほと
りに伴われます」ということばがあります。
幸いな人は主によって豊かな水辺に導かれているのです。そしてときがく
ると豊かな実を結ぶことができるのです。このときがくると、というとこ
ろが悪者の提供するものとの違いです。悪の結ぶ実はすぐ簡単に手に入る
ような錯覚を私たちに与えます。この世はそのようなものであふれていま
す。何でもワンタッチでできることが優先します。最近日本では大麻がは
やっているようです。簡単に幻想を手に入れるために、多くの人が大麻や、
覚せい剤、麻薬に手を染めています。しかしそのようなものは一時的なも
のであって、かえって体に悪影響を及ぼします。しかしまことの実は、時
期が来てきちんと中身が詰まった実です。
このような実がなることを主は約束してくださるのです。
そして3節のおわり、最後にこの幸いな人の究極の結論が描かれています。
「何をしても栄える」
主のみ言葉を愛し、口ずさむほどの人は、あらゆる悪から守られ、それだ
けでなく日々潤いの生活を与えられ実を結びそして「何をしても栄える」
のです。
この神のみ言葉に信頼したいとおもいます。
今悪の道ではなく聖なるキリストの道に立つことができているのも、そし
て主を喜び礼拝できているのもみんな神のみ言葉によるのですから。
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