2012/12/06 藤井恵介研究室 D2 長谷川香 近代建築理論研究会 第11章 EUROPEAN MODERNISM 3-6 ̶ ヨーロッパにおけるモダニズム̶ 〈担当箇所〉 11章では、モダニズムに大きな影響を与えたシュペングラー主義とテーラー主義の思想を説明した上で、 ロシア構成主義、デ・スティル、バウハウス、コルビュジェといったモダニズムの大きな流れが論じられ る。さらに、同時期におけるその他の建築の動向について国ごとに分析する。(11.7は未読) 11. EUROPEAN MODERNISM 11.1 Spenglerism versus Taylorism 11.2 Soviet Rationalism and Constructivism 11.3 De Stijl and Dutch Modernism 11.4 Expressionism and the Bauhaus 11.5 Le Corbusier and Giedion 11.6 The Breadth of the Early Modern Movement 11.7 Weissenhof and CIAM 〈本日の発表内容〉 11.3 11.3.1 ベルラーヘからアムステルダム派へ 11.3.2 デ・スティルの展開 11.4 11.5.5 デ・スティルとオランダにおけるモダニム 11.6 表現主義とバウハウス ギーディオン 初期モダニズム運動の波及 11.6.1 フランス(コルビュジェ以外) 11.6.2 ベルギー 11.4.1 表現主義 11.6.3 イタリア 11.4.2 バウハウスの誕生 11.6.4 スペイン 11.4.3 バウハウスの変革期 11.6.5 スイス 11.4.4 モダニズムに関する歴史書の出版 11.6.6 オーストリア 11.6.7 オーストリアから独立した国々 11.5 ル・コルビュジェトギーディオン 11.5.1 ジャンヌレからコルビュジェへ 11.6.8 北欧諸国 11.5.2 『L’Esprit Nouveau』と純粋主義 11.6.9 ドイツ(バウハウス以外) 11.5.3 『建築をめざして』にみるコルビュジェの思想 11.5.4 コルビュジェと住宅、都市(1917-1929) 1 〈11.3 デ・スティルとオランダにおけるモダニズム 〉 第一次世界大戦における数少ない中立国であったオランダは、戦前戦後で建築に連続性があり、また前 衛思想が建築に迅速かつ顕著な影響を及ぼしたという点において、ヨーロッパ諸国において特異な存在で あった。オランダは 1920 年代前半の建築界において最も活気ある国であったとし、ベルラーヘの流れを汲 むアムステルダム派と、デ・スティルを中心にオランダのモダニズムが展開する。 11.3.1 ベルラーヘからアムステルダム派へ ⅰ.ベルラーヘ(Berlage) − 戦前戦後にまたがり、住宅設計と並行してアムステルダム南地区の都市計画(1910-)を手がける → アムステルダム派へと引き継がれる ⅱ.アムステルダム派の建築家 ・ピーター・クラマー(Pieter Kramer)とミケル・デ・クラーク(Michel de Klerk) − アムステルダム南地区の住宅地区の設計を手がける ex)アイヘン・ハールの集合住宅(the housing and community estate Eigen Haard, 1913-6)(Fg.1)、 ダヘラードの集合住宅(Dageraad estate, 1920-2) → ディティールとスケールの統制、多様なデザイン形態、煉瓦のテクスチャーの使用により、 兵舎のような集合住宅(barracks-style housing)に対する代替案を明確に打ち出す ・他にも J.M.ファン・デル・メイ(J.M. van der Mey)、J.F.スタール(J.F.Staal)など ⅲ.ウィレム・デュドック(Willem Dudok, 1884-1974) ・ヒルフェルスム市の建築家、タウン・ホール(Town Hall, 1924-30)(Fg.2)等を手がける − 空間的なヴォリュームの外部への拡張と、垂直方向の支えを用いた水平方向のレイヤリング → アムステルダム派だけでなく、ライトの影響が大きい 11.3.2 デ・スティルの展開 1910 年代後半から 20 年代前半にかけて強い影響力を持った雑誌『デ・スティル』の存在により、この間 のオランダのモダニズムは「デ・スティル」と呼ばれる。モンドリアンとドースブルフが中心となり、ま ずは絵画においてデ・スティルが起こり、そこにアウトが関与し、運動は建築へと展開する。 ⅰ.モンドリアンとドースブルフのバックグラウンド ・ピエト・モンドリアン(Pieter Mondrian, 1872-1944) − 1900 年より前から画家として活動、パリでキュビズムに興味を抱き、抽象芸術作品を試みる − 神智学者兼キリスト論者のスフーンマーケルス(Mathieu Schoenmakers, 1875-1944)の影響 ※スフーンマーケルスの思想:世界の「うわべの姿」を拒絶し、ものの形態を神秘的かつ象徴的な 真実として捉える「積極的神秘主義」を提唱。一般には「新プラトン主義」と呼ばれた。 2 ・テオ・ファン・ドースブルフ(Theo van Doesburg, 1883-1931) − ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)の『芸術における精神性に関して』 (Concerning the Spiritual in Art)に影響を受ける ⅱ.デ・スティルの思想、ドースブルフによる絵画から建築への展開 雑誌『デ・スティル』は、1917 年に創刊し、まずは絵画において運動を展開する ・運動の思想(1918 年のマニフェストより) 「古い時代認識は個人に結びつく。新しい時代認識は世界へと結びつく」 → 抽象化によって感情的なもの、個人的なものを否定し、新しい集合体の思想を説く ・表現の原理(ドースブルフによる) — それまでの絵画における抽象芸術の構成要素(平面、線、色)を「色」のみに限定 → ポジ(=赤、青、黄)とネガ(=黒、白、グレー)の使用 → 建築においては、「表面とマッス(ポジ)とスペース(ネガ)」に限定 → 建築における実践は非常に難しく、建築への展開を反対するメンバーも ⅲ.建築家アウトの参加、建築におけるデ・スティルの実践 1915 『デ・スティル』の構想に、建築家 J.J.P.アウト(J.J.P.Oud)が参加 → 1917 アウトの影響により、ドースブルフはデルフト工科大学で建築教育をうける アウトとドースブルフが共同し、建築において初めてデ・スティルを実践 − アウトが建築設計、ドースブルフがカラー・スキーム作成 ex) ライデンのコミュニティーセンター、海辺のヴィラ(Katwijk aan Zee)(Fg.3) 1918 再びアウトとドースブルフが共同してスパンゲン(Spangen, Rotterdam)を設計 − 形態と色、どちらが優位かをめぐる意見が分かれる (アウトは煉瓦造の切妻屋根を設計、ドースブルフは室内と外観のカラースキーム) → 二人は決別、アウトはデ・スティルから外れる(完全な決別は 1921 年頃) ⅴ.アウト決別後のデ・スティル 1920 ドースブルフはベルリンを訪問、タウトとべーネ、グロピウスに面会 → 1921 ドースブルフはワイマールにて『デ・スティル』を出版 − → 1922 グロピウスに誘われてワイマール・バウハウスへ グロピウスと対立するも、キャンパス外でスタジオ、レクチャーを開催 バウハウスにおいてデ・スティルの思想に普及に成功 オランダ人建築家エーステレン(Cornelis van Eesteren)、ヘリット・リートフェルト (Garrit Rietveld)が運動に加わる 1923 パリにてデ・スティル展開催 → 刺激を受けたリートフェルトがシュレーダー邸(Schroder House, 1924)を設計 3 − 斬新なデザインに数多くの賞賛が寄せられたが、実際は木と煉瓦でできていた → 「作品の概念上、構造上の率直さは、当時の技術におけるデ・スティル建築の限界を 浮き彫りにした」= → 構造的な純粋性の欠如 この欠如を明るみにしたのが、決別後のアウトの活躍 ⅳ.決別後のアウトの活躍と彼の系譜 1918 ロッテルダム市の建築家となって住宅問題に取り組む中で、方向転換 − 煉瓦に色を塗ることを批判し、卓越した表現手法は装飾(ornament)ではく材料を丁寧 に扱うこと(detailing)にあるとして、材料を重視 1921 = ザッハリヒカイトの重視 フック・ファン・ホランドの住宅地区(Hook of Holland, 1924-7)(Fg.4)を設計 − スパンゲンでの伝統的要素を捨て、コンクリートとガラスを使用 → 後にインターナショナル・スタイルのアイコンとして評価される(11.6.9.参照) → 立て続けに、カフェ・デ・ユニ(Café de Unie, Rotterdam, 1924)とキーフフークの 集合住宅(Kiefhoek housing estate, 1925-9)(Fg.5)を設計 1925 マルト・スタム(Mart Stam)、ヨハネス・アンドレア・ブリックマン(Johannes Andreas Brinkman, 1902-49)とレーンデルト・コルネリス・ファン・デル・フルーフト(Leendert Cornelis van der Vlugt, 1902-49)らが活躍 ex) ファン・ネレ煙草の事務所ビル(1925-7)と工場(1926-30)(Fg.6) − 1926 フラット・ルーフとガラス壁の使用、 空中廊下 ← ロシア構成主義との関連性 ヨハネス・ダイカー(Johannes Duiker, 1890-1935)とバーナード・ベイフト(Bernard Bijvoet)がサナトリウム(Hilversum, 1926-8)(Fg.7)を設計 → その後モダニズムにおいて多く引用される、この十年間において最も重要な建物 11.3 の総括 ・オランダは戦前のベルラーヘからの流れを汲んだアムステルダム派が活躍する一方で、デ・ステ ィルが起こる ・デ・スティルは絵画から建築へと展開したが、「構造的な純粋性の欠如」という欠点があった ・デ・スティルから離脱したアウトにより、後のインターナショナル・スタイルの潮流が作られる → オランダのモダニズムは実に多様 〈11.4 表現主義とバウハウス〉 第一次世界大戦にて壊滅的な敗戦を喫したドイツでは、戦中から戦後にかけて建築生産が滞り、全ての都 市において貧困と住宅が大きな問題となった。戦前の楽観主義の反動により、国内では精神的な不安感と 政治的な悲観主義とが広まった結果、 「工芸への回帰」や「非現実的な空想的社会主義への撤退」といった 思想が流行し、想像的なイメージと結びついた幻想的な表現主義が起こった。 4 11.4.1 表現主義 「表現主義」という用語は、戦後ドイツにおける哲学的、芸術的、文学的な運動に対して幅広く用いられ る。マルグレーブは、その全体像を一つにまとめ上げる理論的な筋道がないと指摘した上で、建築におい て「表現主義」を展開したシュタイナー、ペルツィヒ、タウトについて一人ずつ論じる。 ※表現主義とは 芸 術 流 派 ・ 潮 流 。第 一 次 世 界 大 戦 の 直 前 に 始 ま り 、そ の 戦 後 し ば ら く し て 終 わ っ た と こ ろ の 、 芸 術 各 領 域 で の 運 動 ま た は 傾 向 ( 1 9 1 0 年 ご ろ か ら 2 0 年 代 前 半 ま で )。 そ の 全 体 に わ た る 統 一 的 な 理 論 や 方 向 と い っ た も の は な か っ た が 、歴 史 大 転 換 の 時 代 の 必 然 性 に 駆 り 立 てられるようにして、さまざまな領域でさまざまな形のものが次々と現れた。 ・・・そ れ は ま ず 芸 術 の 領 域 で 始 ま っ た 。 19 世 紀 後 半 を 支 配 し た 印 象 主 義 Impressionismus ( ド イ ツ 語 )が 、外 界 の 印 象 を 鮮 明 な イ メ ー ジ と し て 直 接 に 描 写 的 に 表 現 す る の に 対 し て 、 外界とのそういう安定した関係を信じられなくなった魂は、印象そのままの表現でなく、 印 象 に 対 す る 主 観 の 強 烈 な 動 き の ほ う こ そ が 表 現 に 値 す る 、 と 考 え る よ う に な っ た 。 ・・・ (執筆担当:小 田 切 秀 雄 、 『日本大百科全書』Japanknowldge+) (0. フリッツ・シューマッハ(Fritz Schumacher)とハインリヒ・テスノー(Heinrich Tessenow)) ・空想主義者以外で、戦後のドイツにおいて最初の建築の潮流を作った − シューマッハは都市住宅の大量生産、テスノーは住宅の規格化を論じる →「表現主義の範疇だと考えられている」(← マルグレーブにとっては表現主義ではない?) ⅰ.ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861-1925) 1897 ゲーテ研究者としてベルリンに訪れ、文学と芸術のサークルと接触 1902 ドイツ神智学協会のリーダーとなる → 1911 協会から離脱、新たに「人智学協会」を設立、その後建築に関心を持つように ミュンヘン建設予定の初代ゲーテアヌム(人智学協会の宗教施設)(Fg.8)を設計 → 地元民の反対によりバーゼルに変更、ゲーテアヌムを中心としたコミュニティーを建設 ・シュタイナーの設計思想 建築とは、五感に訴えかける外観の印象によって、人々の精神が「魂の結合」を感じことのでき る「一体的な有機体」を作り上げること = 建築は「精神科学」の最高の表れ ⅱ.ハンス・ペルツィヒ(Hans Poelzig, 1869-1936) 1903 ベルリン工科大学で建築を学んだ後、ブロツワフの美術応用芸術学校の校長就任 − → 工作連盟に参加するも、ムテジウスらの大量生産や商業主義を批判し、職人主義を重視 伝統的(バナキュラー)な要素と、即物性を有する構造形態を強調し、作品で実践 ex) 博覧会の塔(Fg.9)、工場(Fg.10) 5 cf) マックス・ベルシュ(Max Berg)の百年記念館(Centennial Hall)(Fg.11) 1919 工作連盟の会長に就任、ベルリン大劇場を設計 − 洞窟のような強烈な形態、赤い入り口から内部の緑のホワイエへという劇的な体験 ⅲ.ブルーノ・タウト(Bruno Taut, 1880-1938) 表現主義のまとめ役、最も刺激的な存在であった人物 1909 ベルリンで建築を学んだ後、フランツ・ホフマン(Franz Hoffmann)とともに事務所開設 → 1914 個人の仕事をしつつも、工作連盟の活動に深く関わる シュトゥットガルトの工作連盟展にて、ガラスのパヴィリオンを設計 − → 詩人パウル・シェーアバート(Paul Scheerbart, 1863-1915)との交流の中で着想を得る ガラスは社会改革のメタファーであり、光の伝達と高度な知覚認識を刺激する手段 戦時中 友人アドルフ・ベーネ(Adolf Behn)とともに、熱心な社会主義者となる 1918-9 ドイツ革命の後、社会主義政府を経て、ワイマール共和国が成立 → 政変の最中で、11 月集団(ノヴェンバー・グルッペ)(Novembergruppe)と芸術労働評 議会(Arbeitrar fur kunst)という二つの芸術家集団が結成される ・11 月集団:会員数が多い。美術館、学校教育の徹底的な見直し等、学術的なものを嫌う ・芸術労働評議会:タウトが議長、ベーネも参加。より過激。革命政府の芸術家による正 式な評議会を目指す → 1919 タウトは 6 箇条の計画を提示して、ユートピアの実現(=建築の革命)を要求 政局が変化し、タウトは評議会の議長を辞任、グロピウスが後任を務める → タウトによるユートピア思想を保持しつつも、革命路線をやめ、だいぶ穏健な団体となる → ユートピアをテーマに「無名建築家展」開催 ・タウトは「社会構造の中に寄生し、建築を全く知らず、建築を全く欲せず、それゆえ建築 を全く必要としない、全てをむさぼり尽くす社会」を嘆く ・グロピウスは「工芸への回帰」を訴える → 1919−20 − 1921 11.4.2 ← 同年のバウハウスの要綱(11.4.2 参照) その後、タウトは秘密主義組織「クリスタル・チェーン」を組織 『都市の冠』、『アルプス建築』、『都市の崩壊』、雑誌『Fruhlicht』出版 結晶への執着、アルプスにおける聖堂と洞窟の創造、人々の田舎への移住等がテーマ マクデブルグ市の建築家に任命され、タウトの情念の時代(=表現主義)は終わる (→ 11.6.9) バウハウスの誕生:戦後ドイツの芸術教育の混乱 戦前からのワイマール工芸学校にグロピウスが関与し、戦後バウハウスが誕生する。 1902 ワイマール工芸学校創立、ヴァン・ド・ヴェンド(Henry van de Velde)が芸術監督に就任 → 新たに独立した美術学校を設立することが決定 6 1914 ドイツのベルギー侵攻により、ベルギー人のヴァン・ド・ヴェンドはスイスへ避難 → 工作連盟で交友のあったグロピウスを後任に指名(当時グロピウスは戦線) → 戦争の影響で工芸学校自体が閉鎖、新しい美術学校開校の準備は難航 1919 遂に工芸学校と一体化した形で美術学校「バウハウス」開校、校長はグロピウス − 「バウハウス」=バウ(建設)+ハウス(家) という中世のギルドを意識した命名 「建築、彫刻、絵画をひとつに統合し、新しい信仰のシンボルであるクリスタルのようにい つの日か数百万の労働者の手から天上の世界へと昇るであろう、未来の新しい構造体を、 ともに望み、想像し、生み出そう」(グロピウスが示したバウハウスの綱領) − 当時開催されていた無名建築家展での主張(工作連盟及び表現主義の主張)とかぶる → 表向きは美術学校のはずが、グロピウスの目標は「モリスに強い影響をうけた」工芸学校 → 一方で、講師陣は美術(ファイン・アート)界から任命される ・まずはファイニンガー(版画部門)、彫刻家のマルクス(製陶部門)、 画家のヨハネ ス・イッテン(Johannes Itten)、のちにオスカー・シュレンマー(彫刻、舞台部門) とパウル・クレー(ステンド・グラス部門)が加わる → 「工芸への回帰」を主張する教育方針に生徒、講師陣が不満を募らせ、抗議活動が起こる ー → さらに、当時の政治・経済状況も相まって、学校の外部からも不満が募る − → ファイン・アートを否定された講師らは、「行き過ぎた表現主義」と批判 生徒の政治的態度を嫌う地元住民、競合を恐れる地元の職人、アカデミーの排斥に不満を持つ政府・・・ この対立を「グロピウスを支持する急進派と、それに対する保守派」と捉えるのは間違い 両者とも正当な意見を持っており、当時の国内の政治及び経済状況を考慮する必要がある 11.4.3 バウハウスの変革期:ワイマールからデッサウへ ドイツでは 1920 年代にアメリカニズムが流行し、1921 年から 23 年にかけてロシア構成主義、デ・ステ ィルが伝えられ、芸術界の状況、グロピウスの思想とともに、バウハウスの方針も変化してゆく。 ⅰ.ドイツ芸術界の変化 1918 グロピウスの友人・ヴァグナー(Martin Wagner)が『近代の建設業』出版 − 1920〜 テーラー主義とアメリカの生産方法を強く支持 アメリカニズムが流行る − 映画や音楽、ダンス、工業、そして都市など、モダニティと関連する全てのものに対して (それを支持する場合にも、反対する場合にも)用いるキャッチフレーズ 1921 ・ドースブルフがバウハウスにデ・スティルをもたらす、「工芸への回帰」を批判 ・リシツキーはベルリンで雑誌『Vea/Oblet/Gegenstand』を出版、ロシア構成主義を伝える さらにリヒター(Hans Richter)とグレフ(Werner Graff)とともに雑誌『G』に携わる 7 1921 高層建築への興味が高まり、フリードリッヒ街のコンペ案には 37 人のドイツ人が参加 1923 ヘンリー・フォードの自伝のドイツ語訳が出版される → アメリカの豊かな生活は、疲弊したヨーロッパの人々を魅了 ⅱ.グロピウスの思想の変化 ・ⅰに見た様々な運動の影響を受け、グロピウスの思想は「工芸への回帰」から「芸術と工業の統一」 へと回帰する(※戦前のグロピウスはアメリカニズムを賞賛していたので、回帰と表現) ex) ゾンマーフェルト邸(1921)(Fg.12) → オッテ邸(1921)、カレンバッハ邸(1921-2)(Fg.13) 、イェナ劇場改築 ・それに伴い、グロピウスによるバウハウス教育方針も変化する 1921 芸術と工業の統一という思想に対し、講師陣の大半(とくにイッテン)が異議を唱え始める 1922 バウハウスによる大量生産住宅を計画する(一方でシカゴ・トリビューンのデザインの準備) 1923 バウハウスの第一回展覧会開催により、対立は浮き彫りに ・グロピウスの演説:「芸術と技術」と題して、学校の新方針を語る ・シュレンマーのマニフェスト:バウハウスは、実利主義と機械化に対抗する「社会主義の 大聖堂」であると主張 グロピウスは「建築の国際展覧会」を開催 − → 自身の建築思想による新しい運動(モダニズム)を明示した最初の試み、概ね好評 ・芸術と技術を統合するという課題を探求する「率直さと決意」が評価される ・取り上げられた建築が(表現主義より)時代の精神に即していると評価される ・新しいテーマである「技術」は、「手工芸の狭量さ」の中では明瞭でないと批判さえる → グロピウスは、大きな分岐点にさしかかっていた(「工芸」と「技術」の選択?) → グロピウスは最終的にザッハリヒカイト(即物性)という主題を採用する(=「技術」?) 1924 政治変動によって共産主義が優勢となり、ワイマール・バウハウスの閉鎖が決定 1925 社会主義のデッサウ市長の協力により、バウハウスはデッサウへと移転 → 新しいカリキュラムが整えられ、バウハウスを代表する数々のデザインが生み出される ex)工業家庭用品、ナジのグラフィック・デザイン、ブロイヤーのクロムチェア → 11.4.4 デッサウへの移転はバウハウスにとって良い結果に モダニズムに関する歴史書の出版 1920 年代中頃、アドルフ・ベーネの『現代の目的建築』と、グロピウスの『国際建築』が出版されたが、 両者は「モダニズム運動」を論じた最初の歴史書であり、ドイツのモダニズムの意味を明確なものにした。 ⅰ.アドルフ・ベーネの『現代の目的建築』(Der modern Zweckbau, 1926)※執筆は 1923 年 ・「Zweck」(機能、目的)と「Sachlichkeit」(ザッハリヒカイト、即物性)の 2 つの概念が論文の軸 ・建築を三段階に分ける(ベーネにとっての「Sachlichkeit」は社会的な性質を帯びている) 8 ① 第一段階:「ファサード(Facade)ではなく、むしろ家(House)」 − 歴史的なファサードという概念が、機能的な平面プランの成形に譲歩する段階 ex) ヴァグナーやベルラーヘ、メッセル、ライト 第二段階:「家ではなくむしろ形作られた空間(Shaped Space)」 ② − 家もしくはボックス自体が、より厳密な「ザッハリヒカイト」に譲歩する段階 ex) AGE におけるべーレンスの仕事、ヘンリー・フォード(Henry Ford)の思想 アメリカの穀物サイロ、ヴァン・ド・ヴェルドやメンデルゾーンの作品 第三段階:「形作られた空間ではなくむしろデザインされた実在(Designed Reality)」 ③ − (東の)構成主義的な要求と(西の)オランダ人建築家やドイツ人建築家らの民族意識と の溝を埋める、「ザッハリヒカイト」の段階 ex)ヘーリンク(Hugo Haring)やシャウロン(Hans Scharoun)の有機的な機能主義(Fg.14,15) → 様々な図版を取り上げ、論考は実に広範囲 → ベーネにとってのモダニズムとは、包括的であり、未来の発展を許容する制限のないもの ⅱ.グロピウス『国際建築』(Internationale Architektur,1925) ・1923 年の「建築の国際展覧会」の記録を編集した、グロピウス最初の著書 ・短い序文のみだが、彼の考える機能主義の精神を力強く表現 − 過去の感傷主義や美学、装飾的な観念から、社会や生活の全体性に根ざした「普遍的な造形意志」へ 「偽りや装飾を用いることなく、内なる法則に従って、我々を取り巻く建築をデザインすること、 建築的なマッスの緊張感によって建築の意味と目的を機能的に表現すること、そして建築の絶対 的な形態を覆う無用な全てのものを拒むこと」→ 個人の価値観から、全体性へ ・図版の選定は狭い(ベーレンス、ライト、グロピウスの作品と、高層建築) → ヨーロッパのモダニズムに関する最初の歴史的な神話の創造 「シュペングラーは、変質させることによって否定されたのである」 11.4 の総括 ・敗戦国のドイツでは、戦後まずユートピアを理想とする表現主義がおこる ・表現主義という用語は多義的(シュタイナー、ペルツィヒ、タウトなど) ・当初バウハウスは表現主義の影響が強く、 「工芸への回帰」を目指したが、ロシア構成主義、デ・ スティル、アメリカニズムを取り入れて、「芸術と工業の統一」へと方針を変える ・初めてモダニズムの歴史書が書かれたことで、ドイツのモダニズムが意味付けられる 〈11.5 ル・コルビュジェとギーディオン〉 第一次世界大戦中にスイスからパリへとやってきたジャン・ヌレは、 『L’Esprit Nouveau』の活動や著作を 通じてモダニズムの思想を広め、国内外で数々の建築、都市計画を手がけた。そして、コルビュジェに魅 9 了されたギーディオンの歴史著述により、コルビュジェはモダニズムの牽引者として神格化されていった。 11.5.1 ジャンヌレからコルビュジェへ 1911 夏 ドイツを出発、ギリシャとトルコを訪れる東方への旅に出る (行きはバルカン、帰りはイタリー経由) 帰国後、芸術学校で装飾とインテリアデザインを教える 1912-4 3 つの住宅(Villa Jeanneret –Perret、Villa Favre-Jacot、Cite Jardin)(Fg.16,17)を設計 → 住宅建築家となりつつある中で第一次世界大戦に仕事を中断され、教職も失う → 工作連盟の会議に参加、ジュネーブ近郊のコンクリート橋のコンペにエントリー パリ在住のマックス・デュ・ボア(Max Du Bois)に数学や構造を教えてもらう 1915 ドミノシステム発表=大量生産住宅のためのコンクリートの柱梁システム(Fg.18) 1916 戦時中唯一の住宅 Villa Schwob と映画館 La Scala を設計する(ドミノシステムは採用せず) → 両物件は裁判沙汰となり、故郷での生活は悲惨・・・ 1917 30 歳目前にして戦時下のパリへ 当時は「10 年そこそこの経験を積んだ」、 「オリジナルの様式を持たない」、 「二流」の建築家 → 旧友デュ・ボアと新しい友人オザンファン(Amedee Ozenfant)に助けられる → オザンファンからアルフレッド・H・バール(Alfred.H.Barr)の「アーキテクト ニックの原理」を教わり、新しい名前「ル・コルビュジェ」を一緒に考える (11.5.1+ ドミノ・システム批判 ) ドミノシステムは「コルビュジェの業績の中で、最も誤って理解され、過大評価されている」 ・謳い文句:フラットスラブ、膨らみや上部の外側への傾斜がない柱(?) 仮設の木の足場(型枠?)なしで、技術を要しない作業によって現地で作る ・実際 → :I形鋼と空洞タイルを用いているため、電気配線・ダクト用の空洞をあけることが不可能 構造の発想自体は新しくないが、「簡単な問題に対する解決策を難解にした」(?) 「一見世間知らずの発想」「お金に換えることのできるデザインではない」 → 実際、誰も(コルビュジェも)このシステムを用いない ( ← サヴォワ邸は違う?)(Fg.19) 11.5.2 『L’Esprit Nouveau』と純粋主義 コルビュジェはオザンファンの純粋主義芸術運動に参加し、『L’Esprit Nouveau』を出版するに至る ⅰ.創刊までの流れ 1915 オザンファンが純粋主義の運動を開始 1916 オザンファンが『Notes sur le cubisme』で初めて純粋主義を論じる → キュビスムを「純粋主義の運動」と見なすも、徐々にキュビズムは純粋主義ではない 10 と考えるに至る 1917 コルビュジェとオザンファンが出会い、意気投合 1920 ポール・ドルメ(Paul Dormee)が加わり、『L’Esprit Nouveau』創刊 ⅱ.純粋主義(Purism) ・「芸術作品は、数学的法則を知覚させるべきものであり、この数学的法則を生み出す方法は普 遍的な方法から見いだされるべきである」 ※キュビズムとの違い — 塑造的な形態の重視 デ・スティル、構成主義との違い — 色彩は限定しない → 可塑的な形態、単純なヴォリューム、簡潔な線、滑らかな表面、平らな面、幾何学法則が特徴 → 建築に適用可能 ⅱ.『L’Esprit Nouveau』の意義 創刊号では「心から現在の美学に専念する」精神と表現 → その後、副題を「日々の出来事を扱う国際イラスト雑誌」と変更、扱う対象を拡大 (美学のみならず芸術、文学、美学、科学、工学、都市工学、哲学、生活、スポーツ、展覧会・・・) 実業家や製造業者への宣伝に成功、6 年間(全 28 部)続く → 『L’Esprit Nouveau』の掲載論文を編集して後に4本を出版 『建築をめざして』(Vers une architecture, 1923) → 『装飾芸術』(L’art decorative, 1925) 11.5.3 『ユルバニズム』(Urbanism, 1925) 『現代絵画』 ( Le Peinture modern, 1924-5) 『建築をめざして』にみるコルビュジェの思想 上記四作の中の第一作 ※『建築をめざして』の構成(吉阪隆正訳、鹿島出版会、1967 より) 工学技師の美学、 建築 建築家各位への覚 え書:一.立体、二. 面、三.平面 指標線 もの見ない目:一.商船、二.飛行機、三.自動車 建築:一.ローマの教訓、二.平面の厳格、三.純粋な創造 量産家屋 建築か革命か ⅰ. 「アカデミックなもの」と「機械論的なもの」の並置 (Rayner Banham, Theory and Design in the First Machine Age, 1978) ex.) ローマ建築、プチ・トリアノン/穀物用 EV 、ペレやガルニエの作品 → コルビュジェの純粋主義的な美学の追究と、建築の定義(「建築とは光の下に集められた立体 の塊を、匠みで正確かつ壮麗な演出である」に起因する ⅱ.建築家の役割 ・アメリカニズムとテーラー・システムに根ざした信念を持ち、建築家を「建築的、 社会的に世界を変える役割を担う form-maker」として捉える 11 (建築と「機械的なもの」を結びつける発想自体はコルビュジェが最初ではない) ・コルビュジェにとっての社会にはびこる悲劇とは、「建築の不確かさと偽りによる悲劇」 → 「住宅が我々の健康とモラルを悪化させる」として住宅の現状を嘆く → それに対抗するのは「工学の倫理的な誠実さ」 ⅲ.工学(機械)の賛美 ・建築家と工学技師を比較 建築家:幻滅している、仕事がない、自慢気、気難しい 工学技師:健康、男性的、行動的、実用的、バランスが良い、幸福 ・ムテジウスは「ザッハリヒカイトの厳密な解釈を避けるため」に船のメタファーを用いたが コルビュジェは(機械が人々の生活に)「道徳的にすぐに必要である」ことを示すべく用いる 船:純粋、きっちり、明瞭、健康 → ⇔ 絨毯、クッション、壁紙、キャノピー:陰鬱 「住宅は住むための機械である」 ⅳ.視覚表現(イメージ)の重視 ・魅力的な飛行機や自動車のイメージを使用する → 人に訴えかける手段として、「イメージの持つ力」を最初に理解した建築家 → ギーディオンもコルビュジェにその手法を学び、著書に生かす 「時間に追われ、イメージとキャプションにしか目をやらない忙しい読者」を想定 ⑤住宅の思想 ・パリ移住(1917 年)以降、住宅はコルビュジェにとって最重要解題 11.5.4 コルビュジェと住宅、都市(1917-1929) 1910 年代から 20 年代にかけて数々の住宅、都市計画を手がけるが、ロシア訪問(1928)、アフリカ訪問(1929) あたりから、コルビュジェの思想が変化する。 1917 労働者住宅(Saint-Nicholas-d’Aliermont)の提案 1919 Vouldy の集合住宅(Troyes) 1922 「300 万人の現代都市」をサロン・ドートンヌ(Salon d’Automne)にて発表 − − − レンガ造、Tessenow の作品に類似 ガルニエを意識 中心:7 層構成の道路、60 階建て高層ビル 24 棟(行政と会社)、中層住宅 外周:工業地帯 1920-3 オザンファンのスタジオ(Ozenfant studio, Paris)(Fg.21) − → 船の階段や工業サッシが特徴、モールディンやコー二スがない、素材感のない外観 ミニマリズムが新しい方向性を提示 後にライトは「実質のない建築」(cardboard architecture) と揶揄 1923-5『建築をめざして』出版、オートイユの住宅とラ・ロッシュ邸設計 12 1925 ペサックの集合住宅(Cite Fruge, Pessac)(Fg.22)設計 5m モジュール、純粋主義的な外壁の彩色(水色、黄緑、明るい黄褐色) − (→ 経済難や景観問題で、1929 年まで市が水道をひいてくれずに入居が遅れる・・・) エスプリ・ヌーボー館(Pavillion L’Esprit Nouveau)設計 − 装飾芸術国際博覧会のパビリオン、 「300 万人の現代都市」をパリに適用した「ヴォワザン 計画(Plan Voisin)の展示用施設 高層建築にプラグインする 2 層の生活エリアと二層のテラスから成る → 後の共産主義住宅のモデルとは外見は似ているが、これは「プロレタリアート」のためで はなく、「趣味のいい人」(Men of taste)のための建物 → 1925 ペサックとエスプリ・ヌーボー館は、コルビュジェのキャリアにおいて重要なステップ 『ユルバニズム』(Urbanism)出版 − ヴォワザン計画(Plan Voisin)を掲載 『装飾芸術』(L’art decorative)出版 − ・「偉大な芸術は慎ましく存在する 調和の時代がやってきた 何が起きたのか? 華やかさは消え去った 建築の精神は自己主張をしている 機械の世代が生まれたのだ。」 ・ロースによる装飾の終焉に賛同、「現代の装飾芸術は装飾されない」と主張 1926-8 「フランスの再発見」(Redressement Francais)という運動に参加 (フォードやテーラーの哲学に沿って、経済の技術主義的な見直しを要請する運動) − パリのヴォワザン計画実行を要請、ペサックの集合住宅と新しい住宅地区計画を宣伝 1926 『近代建築の5原則』出版 1926 スタイン・ドゥ・モンジ邸(Villa Stein-de- Monzie, Vaucresson) − → 1927 コルビュジェの人生において「突破口」となった計画 国際連盟のコンペに一旦入選するも取り消しとなり、古典的な案に負ける → 1928 自由な平面、船のモチーフ、裏庭、高品質な建設規準 この結果が国際的に物議をかもす、コルビュジェは名声を得る サヴォワ邸(Villa Savoye)設計 − ミニマリズム、純粋主義の言語という点においては名作 『住宅と宮殿』出版 − 前半部は生活や住宅、進化の意味についての論評、自身の住宅作品を掲載 後半部は国連コンペ案の説明、アカデミー批判 → 英訳されていないが、コルビュジェの熟達した議論方法が明白となる本 これ以来「ヨーロッパのモダニズム運動の最も有能な伝道師」となる 1928 モスクワ訪問、モスクワ再建計画にアドバイス 13 − ヴォワザン計画のような「エリート」専用住宅ではなく、全階級のための住宅を提示 (ライトのブロード・エーカー・シティと同年にこの計画案の本を出版) 消費者協同組合中央同盟(Union of Consumer’s Cooperative)のコンペに勝利 − → 1929 1936 年に竣工、モスクワにおいて最後に建てられた近代建築(Fg.25) 世界恐慌でヴォワザン計画の実行可能性はなくなり、アメリカニズムも終焉を迎える ・ラテン・アメリカへ旅行 − 現地で講義、その内容を編集して『建築と都市の精密さ』(1930)出版 → これまでの自分の都市計画を再考 ヴォワザン計画は丘陵地に適さないことに気付く 1931 → ヴォワザン計画のような「skyscraper」ではなく、低層の「seascraper」を提案(Fg.25) → 後の南米での仕事に大きな影響を与える ソヴィエト・パレス( Palace of Soviet)のコンペに参加 − 11.5.5 コンクリートシェル、放物線アーチに吊られた議場を持つ精巧なデザイン(落選) ギーディオン(Sigfried Giedion, 1888-1968) 〜1915 ウィーンで工学を学ぶ 1915 ハインリヒ・ヴェルフリンのもとで芸術史を学ぶ 1923 ワイマールのバウハウス展を訪れ、グロピウスに会う 1925 モダン・ムーブメント研究の一環で、コルビュジェに面会を申し込む → 1928 感銘をうけ、研究テーマからフランスの動向、コルビュジェに移り変わる 『フランスの建築、鉄の建築、コンクリートの建築』出版 − モダニズムの知的根拠を探求した最初の本 ⅰ. コルビュジェの表現手法の採用 「本の内容は全てコルビュジェによっている」 ex) テキストよりイメージ重視、先人の言葉の引用、キーワードの反復 ⅱ. 近代における新しい課題の提示(序章) 「現在起きていることは、個人を超越した近代という時代精神の力によって前へ進むのだ」 → ⅲ. 近代においては、個人ではなく「全体性」が重要 近代(現代)の系譜 1830 年頃 1889 生きた芸術としての建築(architecture as a living art)は消滅 − 時代精神はボザールからエコール・ポリテクニークへと移行 − ラブルーストが 19 世紀最後の建築家であり、工学技師らが跡を継ぐ パリ万博で新しい精神が威力を発揮 14 − エッフェル塔と機械館 ⅳ. コルビュジェに関する記述(鉄筋コンクリートに関する章) ペレに始まり、ガルニエを経て、the great “constructor”(=コルビュジェ?)に至る − ペサックと国連コンペのイメージを掲載 − 「(コルビュジェは)第二のドレヒュスだ」(フランツ・ジョーダンの言葉を引用) ※ドレフュス事件:1894 年にフランス陸軍で起きたユダヤ人大尉の冤罪事件 →「コルビュジェは犠牲的な殉死と、栄光の頂点の両方を経験した最初のモダニズム運 動の建築家となった」 11.5 の総括 ・モダニストとしてのコルビュジェの活動は『エスプリ・ヌーヴォー』に始まり、その後も著作を 通してモダニズムの思想を広める ・1910 年代〜20 年代にかけて、住宅設計や都市計画、コンペ案によって建築家として地位を築く ・1928 年頃に都市、住宅に対する思想に変化が見られる ・同時代のギーディオンによってモダニズムの建築家として神格化される 〈11.6 初期モダニズム運動の波及〉 従来、モダニズムは運動として捉えられ、コルビュジェなど一部の建築家の業績に焦点をあてて語られて きた。マルグレーブは、モダニズムにおける様々な傾向は「考えられていたほど同一性のあるものではな い」として、あまり注目されてこなかった各国の初期モダニズム(1920 年頃)の建築家ついて論じる。 11.6.1 フランス(コルビュジェ以外) 当時のフランスでは、コルビュジェは孤独な存在であり、最も成功している建築家ではなかった ・ペレ − もはや古典的な傾向があったが、仕事は多い ・アンリ・ソヴァージュ(Henri Sauvage, 1873-1932)− RC造のアパートを設計(Fg.26) ・ロベール・マレ・ステヴァンス(Robert Mallet-Stevens, 1886-1945) − セセッション、キュビズム、デ・スティルに影響を受け、映画セット、住宅を手がける → 彼の都市住宅の提案(Cite moderne)はコルビュジェに影響を与える(Fg.27) → しかし、高級志向であるために徐々に受け入れられなくなる ギーディオンは「過去の華美なものの名残り」と表現 ・アンドレ・ルカ(Andre Lurcat, 1894-1970)(Fg.28) − コルビュジェの産業主義を拒絶した社会主義者 ギーディオンは「厳格、冷淡」と評価する ヒッチコックはコルビュジェと対比し、ルカの方が優れていると評価(Modern Architecture, 1970) コルビュジェ:絶対的信仰、独断主義 → ⇔ ルカ:堅実な現実性、妥当性 その後ソ連に行ってネオクラシシズムの建築家になる・・・ 15 ・アイリーン・グレイ(Eileen Gray, 1879-1976) - アイルランド出身、ロンドンのフィン・アート・スクールで学び、1900 年にパリへ 当初は美術工芸品を手がけ、1920 年代以降建築設計で活躍 別荘 E1027 はコルビュジェの「近代建築の 5 原則」を採用(Fg.29) → コルビュジェが頼まれずに壁画を描いたこと、コルビュジェが溺死した場所に建つことで有名 11.6.2 ベルギー ・ヴィクトール・ブルジョア(Victor Bourgeois, 1897-1962) − 11.6.3 ガルニエの影響を受けた住宅地区を設計、1928 年に CIAM の創設メンバー イタリア 大戦の戦勝国であるものの、甚大な被害をうけ、1920 年頃には政治的に崩壊するが、1922 年にムッソ リーニによるファシスト政権成立により国内は落ち着きを取り戻す。美術・建築界では未来派が去り、 1920 年代にノヴェチェント(Novecento)が結成される。それに対抗して合理主義建築が流行し、ファ シスト政権下というイタリア独自の特殊な状況下で建築は政治との結びつきを強めてゆく。 1920〜 ノヴェチェント( Novecento)の活躍 − 1920 年代前半に活躍した芸術家集団 アヴァン・ギャルドの題材とネオクラシシズムのオーダー、均衡、明暗法、色彩を重視 ⅰ. ジョバンニ・ムツィオ(Giovanni Muzio, b.1893) Diano Marina(1921):パラーディアン、遠近画法的 Ca Brutta(1920, Milan):妙な組合せ、崩壊している(Fg.30) ⅱ. ジオ・ポンティ(Gio Ponti, 1891-1979) Casa Borletti(1927-8):オベリスクのモチーフを用いる、ポストモダン的(Fg.31) → 建築においては、ノヴェチェントの理論は表層の装飾に適応される そこから「装飾を減らす」か「抽象化」し、 「ネオクラシシズムの言語の輪郭を単純化」 → 1926 しかしイタリア国内では依然としてアカデミックな古典主義の勢力が根強い グルッポ 7(Group 7)結成 — ノヴェチェントに対抗する合理主義的(rational)なグループ ジョゼッペ・テラーニ(Giuseppe Terragni, 1904-43)中心 最初に掲げたマニフェストは「論理や合理性への揺るぎない信仰」 イタリア語の razionalismo はザッハリヒカイトを翻訳した概念らしい → グロピウスやコルビュジェの思想をラテンの伝統的解釈で伝える 北(=仏):社会主義的(労働者住宅、都市計画)、機械的な建築、機能主義 16 南(=伊):ファシストの政治的規則のもと、地中海文化とコルビュジェ流のモダニズムが融合 グルッポ 7 の代表作はテラーニの作品(Novecento Apartment building, Como, 1927-9)(Fg.32) → — 1928 彩色豊かな「モダニストの傑作」 (ベージュ、オレンジ、グレイ・グリーン、青) MIAR(Italian Movement for Rationalist Architecture)結成 グルッポ 7 の一員であるアダルベルト・リベラ(Adalberto Libera, 1903-63)中心 — 最初の合理主義建築の展覧会をローマで開催 — 雑誌『Casabella』でトリノ万博における合理主義建築を宣伝 → 北イタリア中心だった合理主義運動が南イタリアへ(1930〜) (←ムッソリーニにより、ローマが首都として整備された影響が大きい) リベラとマリオ・リドルフィ(Mario Ridolfi)が活躍 → 1930−2 イタリア・モダニズムに関する二冊の対照的な本がでる — ⅰ.マルセロ・ピアセンティーニ『今日の建築』(Marcello Piacentini, Architettura d’oggi, 1930) — べーレンスやミース、ホフマンの建築を評価 イタリアのモダニズムは ①地方的特色 と ②古典的な伝統 が重要 ⅱ.アルベルト・サルトリス『機能主義建築の構成要素』 (Arberto Sartoris, Gli elementi dell’architecttura funzionale) — → 1931 題名を「合理的」(razionale)から「機能的」(funzionale)へと変更 第 2 回合理主義建築展開催 — 11.6.4 コルビュジェが序文執筆、内容もコルビュジェの影響大 マニフェストで、政府に国家の様式として合理主義建築を採用するよう呼びかける → 1930 年代前半まで、合理主義建築運動とファシスト政権は、適度な協力体制にある → 1936 年にムッソリーニがヒトラー政権と同盟を組んだことにより、状況は変わる・・・ スペイン スペインは第一次世界大戦の中立国であったが、戦後は政治、経済ともに不安定であった。1923 年に右 翼のクーデターが起き、軍人ミゲル・プリモ・デ・リベーラが独裁政権を樹立した。1930 年に独裁政権 が崩壊すると政局は不安定となり、1936 年にはフランコの反乱から内戦へと発展し、最終的に 1939 年、 フランコの独裁政権が誕生した。このように、大戦後のスペインはイタリアにも増して政治的に不安定 であったが、建築の動向は少し共通点がある。 1927 雑誌『Arquitectura』によって古典主義から脱する 1930〜 ホセ・ルイ・セルト(Jose Luis Sert)が活躍 − コルビュジェ事務所で働き、1930 年に帰国して近代建築運動グループ GATCPAC 結成 衝撃的なモダニズム建築を設計(Galobart House, 1932)(Casa Bloc, 1932-6)(Fg.33) 17 → 11.6.5 スペイン最初の重要なモダニスト建築家、コルビュジェの影響大 スイス スイスは早い時期からモダニスト建築家がおり、また工学技術の伝統があるため、モダニズムの成立過 程が他国とは若干異なる。 1910〜 カール・モーザー(Karl Moser)、ロバート・マイエ(Rbert Maillet)が活躍 − マイエはフラット・コンクリート・スラブを試みる ギーディオンが『空間・時間・建築』にて高く評価 → コンクリートは早い段階から住宅建築に適用される 1928 建築家兼歴史家ピーター・マイヤー(Peter Meyer)が『現代スイス住宅』出版 1928 ギーディオン『解放された暮らし』(Befreites Wohnen)出版 − ・本のテーマは「住宅の「不滅の価値観」(value of eternity)からの解放」、 さらに家賃、厚い壁、管理のための(主婦の)労力からの解放 ※「不滅の価値観」= 永続的な建築 ⇔ 1世代ごとに交代する建築 ・「不滅の価値観」からの解放はサンテリア(Sant’Elia)の要求により発せられた 家賃は産業技術により低くなり、分厚い壁は被耐力壁により取り除かれるだろう ・「今日私達は、運動や体操、生活に付随するものから私達を解放する、私達の体の感 覚と一致する構造を持つ住宅が必要だ − 明るく、透明で、順応性がある住宅だ」 ・図版として多くのコルビュジェの他、最新の国際的な建築が紹介される 最後の図版は「モロッコのバナキュラー住宅の俯瞰」、「短パン姿の女性テニスプレ イヤー」、そして「チューリヒの公園で日光浴する人々」 → 1924 現代建築を「美学的な流行」ではなく、「ライフスタイルそのもの」として売り出す 雑誌『ABC』創刊 − ・編集はハンス・シュミット(Hans Schmidt)とマルト・スタム(Mart Stam) ・デ・スティルと構成主義を紹介(スタムはリシツキーと親交あり) ・「構成主義の厳格な機能主義」を主張 ・スタムの作品( Geneva Cornavin train station)を紹介 ・ハンネス・マイヤー(Hannes Meyer)の紹介 − 1927 マイヤーとウィットワーが国連コンペで三等入選(Fg.34) − 1928 デ・スティル、マルクス主義の影響大、ウィットワー(Wettwer)と共同設計 多くの建築家がコルビュジェ案よりモダンだと評価 グロピウスの推薦により、マイヤーがデッサウ・バウハウスの学長に就任 (グロピウスはバウハウスを去る) − マイヤーの機能主義、反美学的な思想はクレーやカンディンスキーと不和 18 マイヤーはバウハウスを左翼組織にしようとし、ドイツ国内の社会民主党が反発 1930 マイヤーはバウハウス内外での衝突により、学長を辞任 → 11.6.6 卒業生 7 人とともにバウハウス旅団(briage)を結成、ロシアに渡って活動 オーストリア 1918 年、ハプスブルグ家が滅亡し、チェコスロバキアとポーランド、ユーゴスラビア、ハンガリーが独立 した。オーストリアでは国の議会でキリスト教社会党が与党となった一方で、ウィーンにおいては社会共 産党が優勢であり、 「赤いウィーン」として独自に活動するようになった。こうした中で、ウィーンで最も 急を要する課題は住宅問題であり、「赤いウィーン」の社会主義者らは住宅供給計画に取り組んだ。 1921—4 アドルフ・ロースが市の建築家を務め、住宅問題の解決策を提示 − 低い人口密度、一世帯住宅、菜園を好む 4 つのプロトタイプを設計するが、中でも最も重要なのがアム・ホイベルク(Am Heuberg) ※Am Heuberg:「一枚壁の家」のシステム。前と後、2 枚の壁が梁からぶら下がるシステム? 1923 ロースの提案から一転し、市は中庭型を採用するようになる − → 解放された中庭を囲う形で、大きな住宅地区と労働者集合住宅、公共施設が建つ その代表作がカール・マルクス・ホーフの集合住宅(Karl Marx Hof, 1926-30, Vienna) (Fg.35,36) − カール・エーン(Karl Ehn)設計、1400 戸、総長1km 以上、モニュメンタルな中庭 「赤い城塞」として町の急進的な政治を体現 − → 1924-7 1928 実際、1934 年に中庭で暴動がおこる この時期合計 64000 戸の住宅が供給される ロースは職を辞してパリへ ロースは晩年にして良い住宅を設計(Moller House, 1928, Vienna) (Muller House,1930, Prague) 1930-1 ヴェルツェンバッハ(Lois Welzenbasher)が Turmhotel Seeber を設計(Fg.36) − 11.6.7 有名なモダニストではないが、彼の作品は後のアアルト作品に通じる要素がある オーストリアから独立した国々 ⅰ.チェコスロバキア ・ヨーゼ・プラチニック(Joze Plecnik) − ワーグナーの弟子、プラハで活躍 まだ作風は「古典的発想の、非常に神話的なモダニズム」(Prague Castle, 1928-31)を設計 ・ヤン・コテラ(Jan Kotera) − チェコ最初期のモダニスト、ライトの影響を受け空間論に至る ・チェコ・キュビズムの人々 19 − パヴェル・ヤナーク(Pavel Janak)、ヨゼフ・ゴチャール(Josef Chochal) ヨセフ・ホホール(Josef Boar)、ブラスティラフ・ホフマン(Vlastislav Hofman) → 形態の上で、バロックとフランスのキュビズムが合体、思想は「共感理論」 → チェコのキュビズムは、形態的に洗練され、ヨーロッパにおいてユニークな運動 ・カレル・タイゲ(Karl Teige) − 1920 年代に構成主義がもたらされ、チェコの建築の状況は変化してゆく中、 詩人、美術史家であるカレルは、『エスプリ・ヌーボー』のコルビュジェ記事をチェコで出版 → チェコにコルビュジェの思想を伝える(=スイスにとってのギーディオン) → その結果、1925 年以降新しい傾向の若手建築家がでてくる、タイゲは彼らを宣伝 → 現代文化展(1928, Bruno)開催され、チェコの動きが国際的な知られるように チェコ工作連盟住宅開発も行われるが、これは前年のワイゼンホッフの住宅に似ている − 1930 年『チェコスロバキアの現代建築』出版 − ・1920 年代を構成主義の時代と捉え、ヨーロッパ全体を視野に入れ説明 (ソヴィエトに始まり、オランダで実践され、ロース、コルビュジェに至る) ・モダニズムを社会主義運動と捉える → → 新しい建築は反形態主義、反美学的、反資本主義、「究極の機能主義」に違いない コルビュジェによる美術館のコンペ案(Mundaneum)(Fg.37)の設計は、 「社会主義の装置という より昔の様式で作らたたモニュメント」であると批難 → 1948 年チェコで社会主義革命が起きた後は中傷の的となる ⅱ.ハンガリー ・ヨージェフ・ヴァゴ(Jozsef Vago) − ハンガリーで活躍、工作連盟に参加、ワーグナーの伝統から解放される ・モルナー・ファーカス(Farkas Molnar)、ヨージェフ・フィッシャー(Jozsef Fischer) − ハンガリーで活躍、コルビュジェの影響大 ・ラースロー・モホイ・ナジ(Laszlo Moholy-Nagy) − ハンガリー出身 1919 ベルリンに移り、「Elementist Art」に傾斜 ※Elementist:1921 年出版の『デ・スティル』にて、ナジは「何か純粋で実用性と美か ら解放された何か純粋なもの、各々の中でわき起こるであろう要素的なもの」と定義 1923 構成主義の評判を買われて、バウハウスの講師として呼ばれる 1929 『素材から建築まで』(Von Material zu Architektur)を出版 − 抽象芸術の教育課程を紹介、空間を語る 「建築の根幹は、空間問題への熟達にある」 「タスクは一つの構造で完結しない。次の 20 段階はあらゆる方向に向かって空間を作ること、連続体の中で空間を作ること」 → ギーディオンの『空間・時間・建築』の先駆 ⅲ.ポーランド ・シモン・セイッカイル(Szymon Syrkus) − ポーランドにおける最初のモダニスト、デ・スティルの影響大、妻ヘレナと設計 11.6.8 北欧諸国 ⅰ.フィンランド 大戦後、6 世紀に及ぶスウェーデンとロシアの支配から独立を果たしたフィンランドでは、20 世紀初頭に 浪漫主義が流行する。1920 年代半ばに入ると、ドイツのネオクラシシズム運動と、バウハウスの影響とが せめぎ合うようになる。 1920 サーリネンがアメリカへ移住するも、まだ浪漫主義の影響が大きい →20 年代中頃から、ドイツのネオクラシシズム運動と、バウハウスの影響とがせめぎ合う 1924-5 1927 アルバ・アアルト(Alvar Aalt, 1898-1976)がネオクラシシズムの労働者倶楽部を設計 エリック・ブリグマン(Erik Bryggman, 1891-1955)がモダニズムを試みる → 刺激を受けたアアルトはコンペでモダニズムを試みて勝利(Southwestern Agricultural Cooperative building, 1927) → 1930 年代にかけて、アアルトは完全にモダニズムへと移行 ex)Sanomat Newspaper Building(1928-30)、結核療養所(1928-33)、Viipuri Liberary(1933-6)(Fg.39) ⅱ.スウェーデン ・エリック・グンナール・アスプルンド(Erik Gunner Asplund) − とくに 1920 年代初頭に活躍 1916 アスプルンド設計の「森の火葬場」造営開始 − 古典とバナキュラーな要素を組み合わせる 1920-8 ストックホルム図書館(Ledouxian Stockholm Library)設計 - 幾何学的 1930 ストックホルム博覧会で鉄骨梁とガラス、ケーブルを用いた建築を設計 スヴェン・マルケリウス(Sven Markelius)とウノ・オーレン(Uno Ahren)も活躍 → 1931 アスプルンドとマルケリウス、ウノらが社会主義のマニフェスト「acceptera」を発表 - 1933 アスプルンドがモダニズムへと転向するきっかけ フォード方式、産業化、大量生産住宅に対する社会的な責任を認めるよう奨励 アルネ・ソレンセン(Arne Sorensen)が「機能主義と社会」出版 - 「acceptera」を押し進め、モダニズムは北欧の社会保障制度の地盤をかため、住 宅供給と都市計画の問題を解決する社会主義的、平等主義的な手段であると主張 21 ⅲ.デンマーク ・カイ・フィスカー(Kay Fisker, 1893-1965) - 純粋主義的な幾何学を用いたレンガ造と木造建築を設計 雑誌『建築』(Architekten)を編集 ・アルネ・ヤコブセン(Arne Jacobsen, 1902-71) - フィスカーの弟子、1929 年に円盤状の家を設計して「未来の家」コンペで勝利(Fg.39) → 新しい形態(form)を用いた最初のデンマーク人 11.6.9 ドイツ(バウハウス以外) 1922〜28 年にかけて、ドイツは新しい建築様式のバリエーションに富んでいた。バウハウスが大きいな影 響力を持っていたが、それとは関係の薄いメンデルゾーンとメイの二人も大いに活躍した。 ⅰ.エーリヒ・メンデルゾーン(Erich Mendelshon, 1887-1953) ①メンデルゾーンを表現主義とする従来の評価への反論 モダニズムと技術を受け入れ、幻想的な計画を夢想するだけでなく多くの実作を手がける → 表現主義者ではない → 彼(と彼の系統)の作品は当時の建築雑誌を賑わせたが、それ以降評価されてきていない ex)Hans Scharoun, Hugo Haring, Hans Luckhardt, Wassily Luckhardt らによる作品 ②メンデルゾーンの建築理論の重要性 1920 年代にオランダ、アメリカ、ロシアを旅行し、その成果を本にする →『ロシア-ヨーロッパ-アメリカ』(Russland-Europe-Amerika, 1929) − ・ロシアとアメリカはヨーロッパにとってジレンマであると指摘 ロシア: 東方の継子、神秘的な文化を持ち、新しいオーダーを探求しているが、 技術の遅れや貧困により成功していない アメリカ:世界の新しい支配者、冨と産業は抜きんでるが、文化を求めている ヨーロッパ:精神的な緊張感がゆるみ、結束していない 合理的かつ理論的な駆け引きをする傾向 → ヨーロッパはロシアとアメリカの仲介ができない ・コルビュジェ批判を通じて、後に起こるインターナショナル・スタイルの美学を いち早く批難 → 彼の主張は受け入れられず、その後反ユダヤ主義を警戒してアメリカへ避難 ⅱ.エアンスト・メイ(Ernst May, 1886-1970) 戦後のドイツで最も目立って住宅問題に取り組んだ建築家 - メイは 1920 年代に集合住宅を手がけるが、戦前のヘレラウの影響が大きい 22 色やプレファブの方法、早い組立、コンクリートのパネルと平らな屋根を試す - テイラー主義の影響をうけ、工法や部材、家具を標準化、PC 壁システムの採用 短期間で低コストな住宅ユニットを多量生産することが目標 → 経済が悪化し、1930 年頃バウハウス旅団の一員としてロシアへ、その後南米、アフリカへ ・ⅲ.テーラー主義による低コスト住宅の系譜 ①グロピウス - 1920 年代後半、アッセンブリー・ライン、PC を採用して量産住宅を設計 → 工法の分析不足で壁は破損、面積を最小化しすぎて生活に不便 → バウハウスを辞した後、テーラー主義の国アメリカへ訪れ勉強 ②マルティン・ワーグナー( Martin Wagner, 1885-1957) → 共産主義者、低コスト住宅建設のためのギルドや共同体作りに尽力 1926 年にベルリンの計画部の主任となり、タウトと共同して集合住宅を設計(Fg.40) ③タウト(11.4.1 表現主義で取り扱った以降の活動) → 1921〜4 年にかけてマッドバーグ市の建築家として活動 1924 年にベルリンに戻り『新しい住まい』を出版 − → 主婦の解放を訴え、テーラー主義の工場の研究に基づいた住宅のレイアウトを提案 1920 年代後半にワーグナーらと共同して優れた公営住宅を数多く生み出す 11.6 の総括 ・ヨーロッパにおける初期モダニズムにおいては、テーラー主義、アメリカニズム、ロシア個性主 義、デ・スティル、バウハウス、コルビュジェが大きな影響力を持つが、各国の経済・政治状況 によって異なる展開をみせる 初期モダニズムに関する考察 ・テーラー主義とシュペングラーの思想の影響は甚大 ・初期モダニズムは、第一次世界大戦後の各国の経済・政治状況が反映され、多種多様 → とくにオランダ、ドイツは国内でも多種多様 ・初期モダニズムにおいては、本や雑誌、展覧会を通して、運動を国内外に宣伝することが重要 ex)表現主義にとっての無名建築家展(失敗?) グロピウスにとっての国際建築展(成功) デ・スティルにとっての『De Stijl』 純粋主義にとっての『L’Esprit Nouveau』 ・さらに、同時代の理論家や歴史家によって評価され、意味付けられることも重要 ex)コルビュジェにとってのギーディオン ドイツ・モダニズムにとってのベーネ、グロピウス ・マルグレーブにとって、モダニズムの定義とは何か − 単に時代区分なのか、その背景にある時代精神が重要なのか、多様性なのか・・・ 23 2012.12.06 近代建築理論研究会 藤井研究室 D2 長谷川香 オランダ ドイツ ロシア フランス Berlage 14. ドミノ・システム 1915 Rudolf Steiner Hans Poelzig Bruno Taut Fritz Schumacher 純粋主義 Heinrich Tessenow Amedee Ozenfant Le Corbusier 表現主義 デ・スティル ロシア構成主義 Pieter Mondrian Theo van Doesburg 1920 (J.J.P.Oud) アムステルダム派 Garrit Rietveld Pieter Kramer Cornelis van Michel de Klerk 19. 無名建築家展 20.『L’Esprit Nouveau』創刊 19. ワイマール・バウハウス創立 バウハウス Walter Gropius Le Corbusier Johannes Itten J.M. van der Mey 22.「300 万人の現代都市」 Oskar Schlemmer J.F.Staal Paul Dormee 23.『建築をめざして』 Paul Klee 1925 J.J.P.Oud 23. 第一回バウハウス展、国際建築展 24. デッサウ・バウハウス創立 25. グロピウス『国際建築』 26. アドルフ・ベーネ『現代の目的建築』 Ernst May Erich Mendelshon 25. エスプリ・ヌーボー館 ペサックの集合住宅 Mart Stam Brinkman Leendert Willem Dudok Cornelis Leendert Johannes Duiker 1930 Bernard Bijvoet 28. サヴォワ邸、『住宅と宮殿』 ギーディオン『フランスの建築、 鉄の建築、コンクリートの建築』 28. ロシア訪問 29. ラテン・アメリカ訪問 アイヘン・ハールの集合住宅(Amesterdam, 1913-6) (Hilversum, 1924-30) (http://spqa-am.blogspot.jp) (http://www.akpool.co.uk) ) ) 海辺のヴィラ(Katwijk aan Zee, 1917) スパンゲンの集合住宅(Rotterdam, 1919) (http://spqa-am.blogspot.jp) (http://commons.wikimedia.org ) ) ファン・ネレ煙草工場(Rotterdam, 1926-30) http://www.arthistory.upenn.edu) サナトリウム(Hilversum, 1926-8) (http://zegelaar.com/) http://www.brianrose.com) Centennial hall (右:http://goeasteurope.about.com 左:http://www.rhstudiotour.com) Villa Favre-Jacot(1912-13 消費者協同組合中央同盟 リオデジャネイロの都市計画 des Amiraux http://www.viewpictures.co.uk Paris ボムゼル邸 http://www.artic.edu/aic/collections/artwork E1027 の外観 右:E1027 の内観 http://www.citechaillot.fr Roquebrune-Cap-Martin http://www.housing.com Ca Btutta Milan http://www.marcomanfredini.it http://www.marxist.com http://archiwatch.it) http://nana-gothikaroid.blogspot.jp) ttp://www.republicstore-keizo.com ) http://www.azw.at) http://www.yamagiwa.co.jp) http://topos.exblog.jp/8282712)
© Copyright 2026 Paperzz