41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イス

06月21日 虫けらのヤコブ
「イザヤ書
41章 14節~16節」
『41:14
恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告
げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
41:15
見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけ
て粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。
41:16
あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって
喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。』
<【註】韓国語版聖書「イザヤ書
41章14節」には、『恐れるな。蚯蚓(みみず)の如きヤ
コブ...』と記録されています。ご参考迄>
田舎では夏、梅雨が明けた後に、長い蚯蚓(みみず)が家の前庭を蠢(うごめ)きなが
ら這って行くのをよく見る事ができます。みみずは気味が悪く醜い外観のために、あらゆ
る虫の中でももっとも下等で嫌悪を感じさせます。しかし、みみずは相手を攻撃するとか、
自分を防御すべき何の武器ももっておりません。目も、耳も、牙も、爪もありません。
獰猛な牙もなく、素早く逃げるための足とか、その他、身体の鱗(うろこ)もありませ
ん。このように、ひくひくのろのろと蠢きながら這って行くみみずが、瞬間的に鶏や鳥の
餌食になるのを私は度々見ました。神様は何故、数多い虫の中で選りによってヤコブをみ
みずに譬(たと)えられたでしょうか?
ヤコブは果たして、みみずになったでしょうか?
神様は、人がみみずになったら、そ
の時、積極的に助けると仰せられました。それでは、狡猾なヤコブがみみずになる過程を
たどってみることにします。
第一、ヤコブは決してみみずではありませんでした。
ヤコブは、狡猾ですばしっこい蜥蜴(とかげ)の様な人でありました。ヤコブは、母リ
ベカの胎内にあった時から、兄エサウと競いあいました。産まれる時も、兄エサウの踵
(かかと)を手で掴(つか)んで出てきました。それでヤコブと名づけられました。
「創世記 25章22節~26節」に、『子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようにな
ったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。
そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなた
の胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄
が弟に仕える。」 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子
は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟
が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけ
た。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。』と、リベカがエサウとヤコブを身ご
もってから産むときまでに体験した苦痛が記録されています。
既に胎内にいる時からエサウと争い合い、生まれる時から兄の踵を掴んで出てきたヤコ
ブは、絶対に無能力なみみずではありませんでした。彼らが成長して青少年期に達したと
き、エサウは巧みな猟師、野の人となりましたが、ヤコブは母リベカを助けて、家の中で
家事に励む日々を過ごしました。
ある日のことです。兄エソウが飢え疲れて野から帰ってきた時、ちょうどヤコブは煮物
を煮ていました。兄エソウが、「その赤い物を私に食べさせてくれ。」と請いました。す
るとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言いました。ヤコ
ブが煮ていた赤色の煮物は、レンズ豆の煮物でありました。長子の権利をレンズ豆の煮物
一杯で売るとは、そのような常軌を逸したしわざが何処にあるでしょうか。いずれにせよ、
ヤコブはレンズ豆の煮物一杯で兄から長子の権利を奪ったのです。
また、父イサクは老年になり、人生の終わりを迎えて、子どもたちに按手し祝福してあ
げようと思い立ちました。それで長子エソウに、「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか
わからない。だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲
物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て
私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」(創世
紀 27章 2節~4節)と言いました。
その話をリベカが聞きました。リベカはエサウよりもヤコブを愛しました。それで、エ
サウが獲物をしとめるために野に出ているあいだに、ヤコブを呼んで、イサクが好む料理
をこしらえてやり、そして、エサウの晴れ着を着させ、毛深いエサウのようにヤコブの首
と手に子やぎの毛皮をかぶさせて、長子の祝福をヤコブが代わりに受けるようにしました。
長子の祝福をすべて受けたあとに、エサウが帰って来ましたが、既に凡ての長子の祝福を
ヤコブが受けてしまいました。
エサウは、ヤコブを殺そうとしましたが、リベカが自分の兄の家にヤコブを避難させま
した。母の兄の家でヤコブは、どんなに数多い苦境に会い、争ったか知りません。そのよ
うに20年間を過ごし、彼の年40才が過ぎてから妻子と家畜の群れを引き連れて、母の兄
の家から出ました。そのとき、ヤコブはまたもの衝突を避けて密かに脱出しました。
「創世記 31章21節~24節」に、『彼は自分の持ち物全部を持って逃げた。彼は旅立っ
て、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かった。三日目に、ヤコブが逃げたこと
がラバンに知らされたので、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追
って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに
現われて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」』と
記されています。
母の兄ラバンがヤコブに追いついたとき、ヤコブとラバンとの間に論争が起こりました。
「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。私はこの二
十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年
間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の
報酬を変えたのです...。」(創世紀 31章40節~41節)と言い残して、ヤコブはラバ
ンと訣別しました。
このように、今までのヤコブの生涯を見ますと、彼は決してみみずではありませんでし
た。むしろ、彼は狡猾であり、あらゆる人間の手段と方法とを総動員して自分の利益を占
めました。
第二、ヤコブが会った患難とみみずに変化された体験
ヤコブは、妻子と家畜としもべたちを引き連れてヤボクの渡しに着きました。そのとき、
ヤコブの耳に入った情報は、兄エサウが四百人の軍隊をを引き連れて来る、と言うことで
ありました。背筋がすっかり寒くなりました。ヤコブは非常に恐れ、心配しました。
その夜、家畜の群れとしもべたち、それに妻子たちまでもヤボクの渡しを渡るようにし
たヤコブは、そこに一人だけ残りました。その時までヤコブは、非情で狡猾な人でありま
した。
ところが、突然ある人が現れて、彼と格闘するようになりました。妻子を捨てて逃げよ
うとする考えでいっぱいであったヤコブは、その人と夜通し格闘を続けました。夜が明け
かけました。勝負がつかなかったので、最後にその人はヤコブのもものつがいを打ちまし
た。ヤコブはもものつがいが外れて倒れてしまいました。立ち上がる事ができませんでし
た。びっこになったのです。そうなるや、ヤコブに大波のような絶望が押し寄せてまいり
ました。もうこれからは、逃げる事すらできなくなったからです。最後の望みの光まで消
えうせるや、彼は突然みみずになりました。
もう、ヤコブはみみずのように、目があっても見ることができず、耳があっても聞くこ
とができず、牙もなく、爪もなく、走ろうにも足までもがなくなってしまいました。完全
に見捨てられたみみずのようになりました。そうなったのにも拘らず、ヤコブは自分と格
闘したその人に、祝福してくれなければ去らせないと言って、決死的に縋りつきました。
「私を祝福して下さらなければ、私はあなたを去らせません。私を祝福して下さい。」と
言うヤコブに、その人は聞きました。『あなたの名は何と言うのか?』「ヤコブと言いま
す。」『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、
人と戦って、勝ったからだ。』と言って、その人はヤコブを祝福してくれました。
ヤコブが夜通し格闘したその人は、他ならぬ主の使い、即ち旧約時代に現れた天使であ
りました。ヤコブは、みみずになってからはじめて、神様の使いである天使をみてとるこ
とができるようになったのです。彼の体が健康であり、人間の手段・方法をすべて動員す
ることが出来たときには、自分と格闘する人が誰であるかわかりませんでした。みみずの
ように卑しくなって始めて目が開き、格闘した人が主の使いである事を悟るようになった
のです。
第三、神様とみみずとの関係
もしも、私たちがみみずになればどうなるでしょうか?
みみずになる前の私たちは、
人本主義のうえに利己主義で暮らし、自分を自慢し、自己中心、自我一辺倒で暮らします。
しかし、一旦みみずになれば、人本主義も砕かれ、利己主義も、自慢も、自己中心の自我
もすべて砕かれてしまいます。その時になって始めて、神様の前にひれ伏して徹底的に悔
い改めるようになります。今まで人本主義的で暮らして来た事を告白し、涙を流しながら
振り返って見るようになります。そして、みみずになったら、全的に神様に拠り頼むよう
になります。神様にだけ縋って祈るようになるのです。
自我を押し通している間は、自分だけを信頼しますが、それが砕かれた後からは、ヤコ
ブがみみずになるや天使に取り縋ったように、私たちもみみずになったら、全的に神様に
拠り頼んで呼ばわり、叫び、祈るようになるのです。「詩篇 25篇16節~20節」に、みみ
ずになった人の祈りが記録されています。『私に御顔を向け、私をあわれんでください。
私はただひとりで、悩んでいます。私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩の
うちから私を引き出してください。私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してくだ
さい。私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいま
す。私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。
私はあなたに身を避けています。』
みみずになったら、切に神様をさがし求め、神様に呼ばわり祈りたくなる、そのような
心境になるのです。ところで、私たちがミミズになったとき、私たちを神様はどのように
して下さるでしょうか? 神様はみみずになった私たちをそれこそほんとうに愛して下さ
るのです。人々は、みみずになる前には、自分の知恵と、知識と、聡明と、自分の能力を
依り頼みます。神様の存在を忘れてしまいます。私たちクリスチャンまでも、神様中心に
暮らすと言いはしながらも、神様をただの装飾品のように思うときがあります。必要な時
には祈り求め、そうでない時には神様中心でない人本主義、即ち自己中心に暮らすクリス
チャンがどれほど大勢いるか知りません。
しかし、みみずになって完全に砕かれてしまえば、神様を切にさがし求め信じるように
なるので、神様はみみずになった人を本当に愛し、喜んで受け入れて下さるのです。神様
はみみずになった人に対して責任を負って下さるのです。「イザヤ書 41章14節」に、『
恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告
げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。』と記されています。
神様は、むしろミミズになった人に、恐れるな、と仰せられました。みみずになった私
たちを助けて下さり、贖ってくださると言われるのです。人たちが自信満々になって、自
分の手段と方法で暮らすときは、神様を必要としないだけでなく、神様が助けてあげよう
として来られても、見向きもしません。しかし、みみずになって自我がすべて砕かれ、拠
り頼むところがなくなって切に助けを求めなければならなくなったときには、神様である
主に祈り求めるようになるのです。
また私たちがみみずになったら、主は私たちが打穀機になるようにして下さると言われ
ました。「イザヤ書 41章15節~16節」は、『 見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ
刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。
あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって
喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。』 と記録しています。
みみずがどのようにして打穀機になれるでしょうか?
それは私たちがみみずになって、
神様に全的に拠り頼めば、みみずの祈りによって、歯が鋭い打穀機のようになると言われ
たのです。私たちがみみずになって、神様に全的に拠り頼めば、神様が、私たちに神様の
権力と能力とを着させてくださって、私たちに押し寄せて来る問題の山々が粉々になり、
私たちの祈りによって聖霊様の風が吹いてきて、つむじ風のようにすべての問題を吹き飛
ばしてしまうと言われたのです。
「ゼカリヤ書 4章 6節~7節」は、『すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、
ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』
と万軍の主は仰せられる。大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。
彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」』と記
しています。
みみずになった人生は、目も,鼻も、耳も、歯もありませんが、しかし、みみずのよう
な人生になって神様に祈れば、その祈りは歯が鋭い打穀機になると言われたのです。その
祈りによって歯が鋭い打穀機となれば、近寄ってくる小さい山も粉々になり、大きい山も
砕いて、つむじ風に吹き飛ばしてしまう偉大な力をもっている、力ある神様の人にして下
さると言われたのです。
ですから、自ら歯があると言う人は、自分の歯で問題を噛むので、その歯が折れるか抜
けてしまいます。しかし、歯がないみみずは神様に呼ばわり祈る時、運命と環境を変化さ
せる偉大な力を得るようになります。そして、そのみみずになった人生は、自分に対して
喜びません。自己自慢とか自分の能力を誇りません。ひとえに、神様にあって喜び、神様
だけを誇りとするのです。
「詩篇 28篇 7節~9節」は、『主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助け
られた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。主は、
彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。どうか、御民を救ってください。
あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、
彼らを携えて行ってください。』と記しています。
第四、イスラエルに変化されたヤコブ
ヤコブがみみずになった時、どうであったでしょうか?
彼はびっこを引き、髪の毛は
ぼうぼうと散り放題、全身が引っ掻かれ、傷だらけになり、可憐な片輪者になりましたが、
太陽が昇るとき、彼は家族たちの前に現れました。過去の狡猾なヤコブではありませんで
した。今や彼はみみずのようでありました。彼は自分を守る何の手段もなく、攻撃する力
もありませんでした。みみずのように目も無く、耳もなく、歯もありません。今は踏みに
じられたら、死ぬしかない彼でありました。
彼は、全的に神様にだけ拠り頼みました。今や彼は、イスラエルになりました。神様と
の格闘で勝った者と言うのは、神様の前に降伏した者が勝った者である、ということです。
完全に神様に降伏して、神様の権威と能力に支えられて彼は歩いて行きました。神様の天
軍・天使が彼と共に進んで行きました。神様の能力の御手が彼の上にのせられて進んで行
きました。
遠くでその様相を見たエサウの心から、憎しみが瞬く間に雪が溶けるように解けてしま
いました。エソウは馬から飛び降り、走ってきてヤコブを両手で抱いて、「おい、兄を欺
いて出て行って、20年の間他国で暮らしながら苦労しただろうに、なんだ、今このように
片輪になってくるとは、どうしたのだ... なぜ、こうなったんだ?」と言いながら泣き出
しました。彼ら二人は首を抱き合って泣き、和解しました。ヤコブ殺そうとして連れてき
た四百人の軍隊は、かえってヤコブとその妻子一行を防衛するようになりました。神様が
運命を変化させて下さったのです。
こんにち、我が韓国はIMF寒波という恐ろしい難局に瀕しています。まさに、ヤボク
の渡しのヤコブも同様になりました。今韓国は、人間の手段と方法で問題を解決しようと、
もがき、足掻いています。そうするうちに私たちは、ますますひどい片輪になって行きま
す。金融改革によって銀行が統廃合され、企業の構造調整で多くの会社がクロ-ズし、数
多い失業者が生じ、韓国の経済がびっこをひくようになり、韓国民族が片輪になっていき
つつあります。
今がまさに、私たちが神様に請い、祈り、求めるときなのです。すべての罪をみな悔い
改め、砕かれて、「神様!
い。
私たちから離れないで下さい。神様!
私たちを助けて下さ
神様が私たちを祝福して下さらなければ、私たちは神様を離しません。」と、私た
ちがみみずになって、主に呼ばわり、祈り、叫んだら、主は私たちをイスラエルにして下
さるはずです。
また、主が私たちと共に居てくださって、私たちの祈りを聞きかなえてくださり、私た
ちを歯が鋭い打穀機にして下さるはずです。私たちの祈りが鋭い打穀機になり、その祈り
の歯を通してすべての難題、大小の山々が砕かれてしまって、神様の御力と権勢により、、
もう一度再起する勝利のお恵みを与えて下さるはずです。
私たちが苦難に会う前には、肉の人ヤコブのようであり、すべての事に自信満々・慢
心・驕慢でありました。 しかし、大小を問わずに試練や苦難に遭うようになれば、まこ
との自分の姿が露出されます。人間がどんなに無力であり、醜悪で、それこそ何の価値も
無い存在であることを悟るようになります。そのとき始めて、私たちは全能であられる神
様に請い求め、祈り、拠り頼むようになり、まことの信仰生活を始めるようになるのです。
ただひとえに、みみずになった人だけが、神様と共に暮らし、共に行動し、神様の祝福
と能力にあずかるようになるのです。ですから、私たちに押し寄せて来るいろいろな試練
と患難に会うとき、「私が責任を負ってやる。みみずの如き人生よ。わたしがあなたを助
けて上げる。わたしはあなたと共に居る。私があなたを救い出してやる。私があなたのた
めに戦ってやる。」と仰せられる神様を仰ぎ見てください。そうするとき、私たちは第二
の人生を暮らすようになります。
祈 祷
聖く、栄光であられる、天のお父さま!
私たちの自我が生きており、私たちが「でき
る」と思っていたとき、私たちは狡猾であり、驕慢と慢心でいっぱいでありました。しか
し、私たちが自らを砕き、悔い改め、口に言い表して告白し、みみずになるとき、神様は
私たちを助けてくださいました。
私たちの祈りが、歯が鋭い打穀機になり、大小の山々を砕き、神様に栄光をお返しする
私たちにして下さったことに心から感謝申し上げます。父なる神様!
我が国が只今、甚
だ難しい最中にあります。このようなとき、我が国民すべてが砕かれ、悔い改め、両手を
挙げて神様の御前に出て来て、主に祈り、呼ばわり、叫び、拠り頼むように導いて下さい。
私たちがみな、聖霊充満になるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申
し上げます。ア-メン。