№101 『万事を益に変えて下さる神』 2016.3.22 酒匂キリスト教会 牧師 勝俣慶信 <聖書のみことば> だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は 私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。 (創世記 45:8) 受難週を迎えました。イエス様は木曜日の夜、弟子達と最後の食事をとり、彼らの足を洗 い、ゲッセマネの園で捕らえられ、不当な裁判の後、金曜日の午前 9 時に十字架につけられ ます。イエス様の身の上に起こった出来事は、詩篇 22 篇、69 篇、イザヤ書 53 篇など旧約 聖書に記されており、神は新約聖書で、旧約に記された出来事は、その当時の人々の上に起 こった出来事の記述でありながら、実はイエス・キリストを預言的に指し示していたのだと 語り掛けます。 つまり、イエス様をもって「キリスト教」と呼ばれたる所以は、イエス・キリストだけが 神を顕わし、解き明かして下さっているという信仰の視点に立つ故です(Ⅰヨハネ 4:9)。 イエス・キリストの光で照らされる時、旧約聖書の記事の中に、罪と死の力の支配下から、 御自身の愛といのちの交わりに救い入れようとしていて下さる、永遠に変わらぬ神の愛が、 はっきり見てとれるようにされるのです。そこで、クリスチャンは旧約聖書を新約聖書と分 離せず、イエス・キリストこそ旧約預言の成就として読み取っていきます。 さて、聖書は全体を通し、私たちに「苦難」の意味を考えさせます。 私たちは、理解できない悲しみ、納得のいかない苦しみ、理不尽な人生の取り扱いに直面 することがあります。聖書は、 「神を信じさえすれば、そのような問題は起こらない」とか、 「祈りと正しい行いが足りないから、罰があたったのだ」などと決して述べません。聖書の 中で、最も正しいと評価されるような人々も、納得のいかない苦難や災いに遭うことがある。 その悲しみの深さを聖書はせきららに語り掛けます。 人間は極めて自己中心なので、 「神がいるならどうしてこういうことが起こるのか。」 「神 が愛なら、どうして守ってくれなかったのか」と、自分の秤で神を裁いてしまいます。でも、 聖書はその姿さえせきららに書き記し、それも起こってしまう現実であることを否定しま せん。 今日の、創世記の記事もそうです。ヨセフが、兄達の妬みを買い、エジプトに売り飛ばさ れてしまったのでした。さらに売り飛ばされた先でもヨセフの上には苦難が続き、身に覚え のない罪の濡れ衣を着せられ牢獄に投げ込まれてしまいます。 「神は、私を見捨てた」 「神は 私を裏切った」と、大声で叫んでもよさそうな場面です。 ところが聖書は、主が彼とともにおられ、彼がなにをしても、主がそれを成功させてくだ さったからである(創世記 39:23)。と、圧倒的な神の視点を私たちに示してくれます。 ヨセフは牢屋に投げ込まれても決して神に見捨てられてなどいなかった。通っている現 実の意味をすぐに知ることはできないが、絶望に思える一日一日の上にも神は共にいてく ださり、彼を支え、導き続けて下さったと、神がどういうお方であるかを、聖書を通して自 己証言されるのです。そうです、聖書は神御自身の自己証言の書なのです。 そして今日のみことばにあるように、大飢饉が来た時、ヨセフの父ヤコブとその一家を死 から救い出し、エジプトという国を用いて神の御手の中に具体的に取り分け、養い、イスラ エルの民を大きくするよう、ヨセフはエジプトの首相にまでされていきました。 これは、たまたまハッピーエンドだったからよかっただけで、みんながみんなそうなるわ けではないというような話ではありません。 私たちがこの世で経験せざるを得ない理不尽な出来事があっても、神は見捨てたり、見放 したりするお方ではないこと。私たちが絶望の淵にあっても、神様は共にいて働いていてく ださること。そして、神様が私たちの通る現実生活の先に、脱出と回復の道を用意し、どん な苦しみ悲しみも、神様と共にあれば意味が見えてくる。そして神様の祝福に変えられてい くことを私たちに信じさせようと、神が必死になって訴えかけて下さっているのです。 受難週の中、イエス様も、私たちと変わらぬ人間として苦しみもだえながら歩まれました。 それが、どれほどの苦しみであったか、想像しきれませんが、味わおうとしなくてはいけ ないと思います。 そして、イエス様は十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのです か」と、本来でしたら私たちが叫ぶはずの絶命の叫びを身代わりに負って叫んで下さいまし た。これは詩篇 22 篇の冒頭のみことばで、ダビデ自身の祈りとされています。けれども、 新約聖書は、このダビデの身の上に起こった経験は、ダビデだけのことではなく、彼を通し てイエス・キリストの叫びを預言したものであったと語ります。そして、この詩篇は絶望の 嘆きからはじまり、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。と信仰の勝利の ことばでしめくくられていきます。 私たちも、生活の中で納得のいかない苦難や災害に遭うかもしれません。 その悲しみ苦しみは、 「どうして私を、見捨てたのですか」というほどの理解できない苦 しみかもしれません。しかし、イエス様がそれを全人類のために先取りしてくださり、勝利 と祝福に変えてくださるため、死んでよみがえってくださいました。 私たちの今日の上にも、主が共にいてくださる。 そして、すぐに理解できなくても、主が最善へて導いてくださることに信頼していきまし ょう。全能の主、いのちの主、愛の神様から離れずにいれば、万事は益に変えられていくの です。 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての ことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ 8:28
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