2016 年 10 月 6 日各務原キャンパスチャペルアワー奨励 「わたしはあなたの名を呼ぶ」 聖書:イザヤ書 43 章 1 節後半、ルカによる福音書 15 章 4 節~6 節 各務原キャンパス事務室主幹 村上 進 聖書:イザヤ書 43 章 1 節後半 あがな 恐れるな、わたしはあなたを 贖 う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名を呼ぶ。 聖書:ルカによる福音書 15 章 4 節~6 節 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹 を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜 んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、 『見失った羊を見つけたので、一 緒に喜んでください』と言うであろう。 聖書 新共同訳 ©共同訳聖書実行委員会、©日本聖書協会 昨年まで教育学部の准教授をされていた齋藤亜矢先生の研究室に、チンパンジーの顔のアップを ずらっと並べたポスターのパネルが掛かっていました。齋藤先生はこの大学に来られる前、京大野 生動物研究センター・熊本サンクチュアリというところでチンパンジーの研究をしておられました。 、 そこのチンパンジーたちなのだそうです。私は猿の顔なんてみんな同じだろうと思っていましたが、 よく見るとその顔つきは少しずつ違っていて、それぞれに個性があることがわかりました。 そこで私は齋藤先生に、 「顔の写真だけで、どれが誰ってわかりますか?」と聞きました。先生は 即座に「わかりますよ!」とお答えになりました。一人ひとりに名前で呼びかけ、ずっとその行動 を観察してきた研究者なのです。それはごくあたりまえのことですね。 齋藤先生は、チンパンジーの子どもと人間の子どもに「お絵かき」をさせて比較する、という研 究をされていました。チンパンジーも絵を書きます。福笑いの台紙のような、猿の顔の輪郭だけが 描かれたイラストを与えると、上手にその輪郭の上をなぞって描くんだそうです。研究を続けてい くうちに先生は、人間とチンパンジーの決定的な違いに気づきました。人間の子どもに同じ下絵を 、、、、、、、 見せると、3 歳くらいでも「お目々がないね~」と、そこに描かれていない目や口を描き足します。 しかしチンパンジーは「ない」ものを描くことはしません。齋藤先生は著書のなかで、 「ある」もの に重ねて描くチンパンジー、 「ない」ものを想像して描くヒト、と述べておられます。 そこにあるはずなのに「ない」 。それに想いを寄せることができるのが人間だ、というのです。 さて、先ほど読んで頂いた聖書のお話です。これはイエスが話した「たとえ話」なんですね。イ エスはこのとき実は、三つのたとえ話を続けて話されています。最初がこの迷子の羊、二つめが金 貨をなくした女、三つめが「放蕩息子」と呼ばれているお話で、親がまだ生きているうちに相続財 産を分けてもらって家を出て、それを遊びや賭け事に使い果たしてスッカラカン、ぼろぼろになっ て帰宅した次男坊を、父親はずっと待っていたという話です。どれも、神さまが私たちのことをど れほど思っているか、私たちが何度神さまにそむいても、自分を見失っていても、神さまは私たち をけっして見限ったりしない、そういうメッセージなのです。 現代の私たちの周りに「職業は羊飼いです」とか「実家が羊飼いで」と言う人はあまり見ません が、当時は身近に「羊飼い」という職業の人が普通にいたんですね。イエスがここで喩えとして羊 飼いの話を持ち出したのは、神さまの想いを説明するのに、羊とか、金貨とか、バカ息子とか、そ ういう「身近な」例に置き換えることで、 「あぁそういうことか、それなら俺らにもよくわかる」と みんなが納得するからです。 100 匹も羊を飼っていれば、中には多少トンマな、集団行動の苦手な奴が 2、3 匹はいるでしょう。 小屋から草場に出るとき、戻るとき、ちゃんとついてこないことが何度もある。そのたびに羊飼い は、ホレホレ~こっちだぁ~、などと声をかけて誘導していました。ところが今日に限って、1 匹 がどこにも見当たりません。 他人は、わけ知り顔で「まず 99 匹を小屋に戻すほうが先でしょう? 最悪その1匹が戻らなくて も、群れ全体の安全を優先して考えるべきです」などと言うかもしれません。けれども、どの羊も 家族同様に思う飼い主は、そんなことは考えません。99 匹と 1 匹を天秤にかけることなどできるは ずがない。いなくなった一匹を見つけ出すまで必死に探し回るのは当たり前です。イエスの話を聴 いていた人たちも皆、そりゃそうだ、わしだってそうするわなぁ、と思ったことでしょう。 少し前のことです。私の勤務していた大学で、ある学生…「A 君」としておきましょうか、A 君 が警察に逮捕されました。深夜、アルバイトの帰り、アルコールを飲んだ状態で車を運転して人を はねてしまったのです。気が動転した彼は、あろうことか被害者を助けることをせず現場から逃走 しました。被害者の方は亡くなりました。飲酒運転、過失運転致死、ひき逃げ。 ・・・懲役 6 年の刑 をうけました。大学 4 年生、あとちょっとで卒業という時だったのに、もちろん大学は退学です。 けれども、彼は自分のしてしまったことを深く後悔し、牢の中で聖書を読み始めました。私はそ れを家族の方から聞いて、クリスマスに、ある小さな本を贈りました。 「日々の聖句 ローズンゲン」という、赤い表紙の小さな本です。そこには一年間分、毎日、聖書 の言葉がひと言ずつ書かれているのです。日めくりカレンダーみたいなものです。彼は一日一回、 牢の中でこの本を開くでしょう。そして、今日の日付のところに記された聖書の言葉を読む。私も 同じ本を持っています。ですから、1 年 365 日、私たちは毎日、少なくとも一日に一度は同じ聖書 の言葉を読むことになります。その言葉を読むときに私たちは、お互いを想うことができる。 彼は、刑があけたら、また大学に戻ってちゃんと卒業したい、と言っているそうです。彼のこと をずっとこころにかけていた先生や職員の多くは、6 年後には定年を過ぎています。彼が大学に戻 っても、そこで彼を迎えることはできないかもしれない。それでも私たちは、彼が帰ってくるのを、 そして彼が大学を卒業するのをずっと待ち続けています。 私たちは、-そこにいなきゃいけないはずなのに、いない人のことを-ずっと想い続けることが できます。そのように神さまは人間をつくられた。そしてなにより神さまご自身が、そのように私 たち一人ひとりのことを、かけがえのないものとしてずっと思い続けていて下さるのです。何度過 ちを繰り返しても、絶望にへたり込んでいても…。 神さまはあの日イエスを通してなさったように、 今日も、今日生きている誰かの体を、ことばを、行動を借りて私の名をよび、探し回って私を見つ け、あるべき場所へと連れ帰ってくださる。それが、今日私たちが聴いた聖書のメッセージです。 掲載元:中部学院大学・中部学院大学短期大学部_チャペルアワー
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