2010年(平成22年) 5月

2010年(平成22年) 5月
目 次 ―――――――――――――――――――――――――――
1.基本情報 ···································································································· 2
2.告 示 ······································································································· 4
3.巻頭雑感 ······························································· 理 事 長 外村善一 ········ 7
4.インドシナ半島の世界遺産の感動 ······························ 監
事 泊谷義勝 ········ 9
5.出自(しゅつじ) ··························································· 副理事長 田中 武 ········10
6.私のカンボジア回顧 その2 ··················· 京都 聖護院門跡 門主 宮城泰年 ········14
7.カンボジアNGOスクールの生い立ちを語る その3······· 理
事 芹沢 勝 ········17
8.学校施設の現状 ······················································ 理
事 横山祐貴 ········19
9.カンボジアNGOスクールからのコメント ··················· 校
長 下田雅典 ········20
10.ボランティアレポート ············································· ① 佐野涼子さん ·············21
② 田中直樹さん ·············25
11.2009年度(平成21年度)カンボジアNGOスクール活動实績 ·······················27
12.カンボジアNGOスクールの案内 ···································································28
13.カンボジア情報 ······················································ 理
事 横山祐貴 ········33
14.カンボジア王国の基本情報 ············································································34
15.お問合せ・連絡先 ························································································37
編集後記、奥付
1
1.基本情報
①カンボジアNGO
1999年(平成11年)10月設立。
2002年(平成14年)1月22日日本国福岡県知
事認証。
カンボジアにおけるカンボジア人の自立支援を目的に
設立。その活動はカンボジアNGO学校を通し、教育
支援、技術教育支援を行う。
同時に国際交流と親善を目的にその活動を2000年
(平成12年)より開始。
②カンボジアNGO学校
2000年(平成12年)カンボジア王国教育省認証。
カンボジアNGOのカンボジアでの活動拠点とし20
00年に正式に設立。
貧しい学校や、地方より首都プノンペンに上京してく
る学生に低額費にて外国語教育、コンピュータ教育等
を行う。
③インターナショナル・カンボジアNGO
2004年(平成16年)2月4日カンボジア王国政
府認証。
上記①、②の实績によりカンボジア政府よりインター
ナショナルNGO(国際NGO)の認可を受け非営利
団体としてカンボジアNGO校内に事務局を置き、カ
ンボジアNGOカンボジア支局としての活動を行う。
2
④カンボジアNGO役員名簿並組織体制
役
1
職
理 事 長
氏
名
外村
善一
活動区分
会員入会申込み受付
NPO法人の手続き(2009年度以降)
通常会員総会、臨時総会の開催
会報作成(編集委員長)
会計及び銀行預金通帳の管理
2
副理事長
畠山
敏之
会員募集活動
会報作成(編集副委員長)
第3期理事長(予定)
3
副理事長
田中
武
NPO法人の手続き
(資料提出のみ、東理事帯同の上手続き)
4
理
事
安武
義修
現地訪問にて直接支援
5
理
事
下田
雅典
カンボジア・NGOスクール校長
ボランティアOB会会長
現地情報収集
6
理
事
上田
聖也
カンボジア・NGOスクール校長補佐
現地情報収集
7
理
事
中川
英夫
ボランティア先生入校申込受付・対応・管理
メーリングリスト登録解除受付・管理
8
理
事
横山
祐貴
NET広報活動
会報作成(編集委員)
パートナーシップ申込受付・対応・管理
事務局後方支援
9
理
事
東
10 理
事
芹沢
和浩
勝
NPO法人の手続き(2008年度末まで)
カンボジア・NGOスクールアシスト
NPO法人の手続き(現地活動・収支報告)
現地情報収集、月一で定期活動報告
会報作成(編集副委員長)
11 監
事
泊谷
義勝
会員募集活動
第4期理事長(予定)
12 監
事
久渡
弘幸
会員募集活動
※基本的活動内容を必要な時は、大阪事務局にお問合せ下さい。
⑤インターナショナル・カンボジアNGOスクール
校
長
下田 雅典
校長補佐
上田 聖也
アシスト
芹沢
勝
総括マネージャ
TyDy(ティディ) 英語可
3
2.告 示
当特定非営利活動法人カンボジア・エヌジーオーの通常総会及び、所轄行政機関に対する
諸申請手続きは下記の通り完了しました。
2010年(平成22年) 4月 1日
理 事 長
外村 善一
(担当) 副理事長
田中 武
(担当) 理
横山 祐貴
事
記
1
特定非営利活動法人カンボジア・エヌジーオー
通常総会議事録
招集年月日
2010 年(平成 22 年)1 月 18 日(月)
開催日時
2010 年(平成 22 年)2 月 18 日(木) 14:20~15:45
開催場所
大阪府大阪市淀川区宮原 1-2-70
ホテルラフォーレ新大阪 3Fレストラン「ラ・ガール」
14:20
開会宠言 田中 武
14:25
定足数確認
田中
武
正会員出席者
5名
正会員委任状
12 名(議長一任)
表決総数
17 名
正会員総数
17 名
定足数
9名
よって定款、第27.28条、正会員総数の過半数の定
足数に達したので、これより「特定非営利活動法人カン
ボジア・エヌジーオー通常会員総会」を開会する。
14:30 議長選出 田中 武
議事進行に先立ち、理事外村善一を議長に選出したい
と提案し、満場一致をもって可決決定した。
14:35
議長就任挨拶
外村善一 本通常総会は私が前理事長 東和浩氏より引き継ぎま
してよりの第1回目の通常総会でございます。ご参会の
皆様には内容のある慎重審議をお願いいたします。
14:40 議事開始 外村善一
書記 田中 武、議長:外村善一、議事録署名人:畠山
敏之、芹沢
勝の4名を指名した。
議事の経過の要領及び議案別決議の結果
第1号議案
2009年度(平成21年度)事業報告の件
議長は事業報告を参考資料に基づき説明した。質問や意見を求めたが特に発議がなか
ったため審議に入り、満場一致をもって可決決定した。
第2号議案
2010年度(平成22年度)事業計画の件
議長は事業計画を参考資料に基づき説明した。質問や意見を求めたが特に発議がなか
ったため審議に入り、満場一致をもって可決決定した。
4
第3号議案
2009年度(平成21年度)収支報告の件
議長は収支報告を参考資料に基づき説明した。質問や意見を求めたが特に発議がなか
ったため審議に入り、満場一致をもって可決決定した。
第4号議案
2010年度(平成22年度)収支予算計画の件
議長は収支予算計画を参考資料に基づき説明した。質問や意見を求めたが特に発議が
なかったため審議に入り、満場一致をもって可決決定した。
第5号議案
その他協議事項、依頼報告事項
議長はその他協議事項、依頼報告事項を参考資料に基づき説明した。質問や意見を求
めたが特に発議がなかったため審議に入り、満場一致をもって可決決定した。
第6号議案
その他緊急を要する議案
緊急を要する議案の提議を確認し、特にこの提議がなく第6号議案を削除した。
15:40 議長解任 外村善一
15:45 閉会宠言 田中 武
以上をもって、通常総会の議案全部の審議を終了した
ので、書記は閉会を宠し散会した。
上記の議決を明確にするため、議長及び議事録署名人において次に署名押印をする。
2010 年(平成 22 年)2 月 18 日
議長
外村 善一
署名
印
議事録署名人
畠山 敏之
署名
印
議事録署名人
芹沢 勝
署名
印
5
2
事業報告書等提出書
提 出 先 福岡県知事 福岡県NPOボランティアセンター経由
提 出 日 2010年(平成22年)3月12日
事業年度 2009年(平成21年)1月1日から2009年(平成21年)
12月31日までの期間
同時提出書類 (1)記載事項に変更のあった定款
(2)定款の変更に係る登記に関する書類(登記事項証明書)の写し
3
納税機関に対する届出
(1)国税(法人税)
提出先 香椎税務署
収益事業未实施の為、確定申告書提出義務なし
(2)都道府県民税
提出先 福岡県東福岡県税事務所
提出日 2010年(平成22年)4月1日
平成21年度県民税の均等割申告書
県税減免申請書
(3)市町村民税
提出先 福岡県宗像市役所
提出日 2010年(平成22年)2月2日
平成22年度償却資産申告書
平成21年度事業年度分市民税の確定申告書 市税減免申請書
以上
6
3.巻頭雑感
〔 その芽は40年前にあった
トヨタ自動車の欠陥 〕
この記事はフィクション(創作)ではない
トヨタ自動車豊田章男社長は2009年(平成21年)6月に新社長として就任をした。
社長内定の記者会見で「T型フォード誕生、ゼネラルモーターズ設立からちょうど百年目と
なった昨年に、百年に一度の経済危機が起きたのは偶然だろうか。裾野の広い産業の一員と
して『21世紀も頑張ってくれ』と言われるように次の百年に向けスタートしたい。
」と力強
く語ったが、自動車産業は出口の見えない長いトンネルに突入し、新社長のハンドル捌きに
トヨタの命運が掛っているとしたトヨタ自動車である。
米国での大規模リコールなどの品質問題で、トヨタ自動車は国内外から批判の声が集って
いる。私は今を去る40年前、1970年(昭和45年)にトヨタ車を購入したがその新し
い車は欠陥車であった。一つ間違えば大事故を起したかも知れなかった。若し事故を起し社
会的に取り上げられておれば、今日のトヨタ問題はその時に世間から糾弾されて結果、問題
点は改善されたかもしれないが、私自身は事故で命を失っていたかもしれず、私が今も元気
でおれるのは僥倖であり、欠陥車ではあったが我が身の幸運を誰に感謝すべきであろうか。
その時代はリコール(改修無償修理)と言う言葉もなかった。敗戦から25年経ち、自動車
産業もようやく日の目がさして来た頃であった。
まず最初に私の自動車運転経歴を述べたい。1968年(昭和43年)4月5日37歳の
時に運転免許証を取得した。昨今では成人式には免許取得者が多いのが世間の常識であるが、
私達の時代はそんなものであった。運転免許取得後間もなく、トヨタコロナ3代目の(15
00RT40)の中古車を購入して乗り始めたのだが、その車は故障が多く大阪市内を走行
中に不具合があった時、たまたまJAFの作業車が通り掛かり直してくれた事があった。大
いに感謝をして、即その場で(社)日本自動車連盟(JAF)に加入し現在40年会員であ
る。中古車ではメンテナンスにも費用が掛ると乗り換えの車を物色していたが、適当なもの
がなく車は新車でなければ駄目と思うことが多くなった。
トヨタ3代目「白いクラウン」
(MS50-HB)新
車を頭金なしの月賦で購入したのは、1970年(昭
和45年)4月であった。当時私が勤務していた会社
社長は、
(私は管理職であったが)会社役員でもないの
に(クラウンは)未だ早いとお目玉を喰い叱られるよ
うな時代であった。この「白いクラウン」はとんでも
ない代物で、新車を下して走行距離がまだ3,100
km の時、突然ブレーキが利かない故障があった。
大阪市北区国道 1 号線交差点で信号が青から黄になり、減速して赤となった為ブレーキを
踏んだ処ペダルが床に着き“ストン”とノーブレーキになった。すでに減速していたので慌
7
ててサイドブレーキを引いたが、惰性で交差点中央まで進み停止した。幸い、減速して交差
点に入る前にあった車は黄信号で交差点を通り抜けていき、又赤から青になった為交差点に
入ってくる車は時間差があったので、衝突を免れたが危機一髪であった。知人を新大阪駅ま
で送る途中の為、約10kmをサイドブレーキを操作しながら送り届け、即車の販売会社に
連絡をして修理作業車を呼んで修理をした。原因はブレーキの油圧マスターシリンダーに傷
があり、油圧不足でブレーキがきかなかったと油圧マスターシリンダーの取替修理をした、
とのことであった。
第1回目故障に続き第2回目は、その6ヶ月後に名神高速道路走行中に起きた。故障は大
阪から京都に向け追い越し車線を走行中に起きた。今と違って道路は閑散として自動車は尐
なく、快適なドライブであったが突然エンスト。高速走行中であったが周囲は通行車が尐な
く、惰力で道路脇に寄せて同乗の家族3人を降ろした。道路に遮音版もない時代だったので、
道路下の畑に降ろして待機をした処、都合良くJAFの車が通り掛り即点検をしてくれた。
故障は燃料ポンプの不備で燃料が、キャブレターに供給できずのエンストだった。トヨタ車
によくある故障とJAF担当員は修理をしてくれた。
此の自動車は続いて次の故障も起きた。故障の百貨店だ。国道走行中にガソリンスタンド
前の信号で停止した処、エンジンは動いているのに発車できずガソリンスタンドの人達に押
してもらい、この車を購入した販売店に引き取らせた。故障はトルクコンバーターの焼付け
であった。此の故障にいたっては新車購入での保証期間が終っているからと、修理代金並び
に故障車引取りけん引料が必要であると要求があった。新品のトルクコンバーターでは高価
であり、中古再生品を使用しての機器交換の修理であった。ディーラーの説明を鵜呑みにし
て、トヨタの責任を追及せずに修理代金を支払った私は今にしてみれば、なんと人の良い馬
鹿であったと歯ぎしりして悔しがっている昨今ではあるが。
まだまだ故障は続く。第4回目である。此れも高速道路走行中に後部で異常な音が起こっ
た。停止して安全な場所まで移動し、販売会社に引き取らせた。故障は後輪の差動装置内の
フランジボルト抜けで、ケースの中で外れたナットがミキサーになっていた故障だった。
余りに故障が頻発するので呆れかえった。4回にわたる故障も人身事故、物損事故を免れ
たのは私の運が良かったのか、運転技術が良かったのか分からないが、若し事故が起こって
おればトヨタの対応はそれなりにあったのであろう。この車は販売店に引き取らせた。次の
車はトヨタ“いやいや”で、別の自動車会社にしたのは当然の成り行きであった。私の経験
したトヨタ車の不都合は此れで終った。ただ今残念なのは、此の欠陥を証明する証拠を残し
ていないことである。
自動車メーカーは顧実の1台を守るために努力をしてほしいものです。
2010年(平成22年) 5月 1日
理事長
8
外村 善一
4.インドシナ半島の世界遺産の感動
〔 樹海に埋もれた巨大な遺跡群 〕
① アンコール王朝
日本では平安・审町時代にあたる9世紀から15世紀にかけて、インドシナ半島の中央部
にクメール人のアンコール王朝が君臨して現在のシェムリアップに巨大な王都を構えた。9
世紀初頭にクメール王国のジャヴェルマン2世がインドシナ半島を統一した事に始まり、ヤ
ショヴァルマン1世がアンコールに都を築き半島全域を治める大帝国であった。アンコール
ワット、アンコールトムはスールャヴルマン2世が1113年から32年をかけて造り上げ
た雄大な寺院であり、カンボジアが世界に誇る建造物である。特にアンコールワットは、回
廊の壁に仏教の歴史を描いた繊細なレリーフは世界が認める仏教遺産である。
② スコータイ王朝
タイ王国のスコータイ王国はクメール人のアンコール王朝の支配下に組込まれたが、13
世紀になるとアンコール王朝が衰退し始め、1238年タイ族の首長はタイ族初の独立国家
を建国して、
「幸福の夜明け」を意味する「スコータイ」王国が誕生した。全盛期はマレー半
島全域にその勢力が及んだが、タイ南部のアユタヤー王国の力が増大するとその属国となり
衰退し、わずか200年で途絶えて熱帯雤林のジャングルに放置されたまま廃墟となってい
たが、1960年ユネスコの支援を得て修復されて世界遺産として公開された。
③ アユタヤー王朝
タイ王国のアユタヤ―王朝(1350-1767)は、タイ湾に注ぐチャオプラヤー川(メ
ナム川)の支流に囲まれた中洲に建国した王朝で、タイ北部のスコタイ王国を併合しアンコ
ール王朝をも滅亡させ、ラオス、カンボジア、ミャンマーの一部をも領有する勢力を持った。
貿易に力を入れ、アジアや西洋との交易や徳川時代の朱印船貿易を行い日本人町が築かれ、
最盛期には日本にも深い係わりがあった。
1767年にビルマ軍(ミャンマー)のたび重なる攻撃で滅亡し、王都アユタヤーの仏像
群は壊滅的被害を被った。仏像群は今も多尐は残り当時の栄華を今に伝えている。
④ 近代
近代はグローバルな世界になり、各文化遺跡も各時代の流れから陸続きのインドシナ半島
ではミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムと多尐の違いはあっても仏教、ヒン
ズー教にして石造建造物は似かより共通したものもあります。特にアンコール王朝のアンコ
ールワットが基になっているのではないでしょうか。私も8年前に訪れたアンコールワット
の感動は忘れられません。
今のところカンボジアはアンコールワットの観光国ですが、その資源を基にして何か平和
的な新しい事業が考えられないだろうかと思うのです。カンボジアの皆様も頑張って、努力
する事を希望する次第です。
2010年(平成22年) 5月 1日
監事
9
泊谷 義勝
5.出自(しゅつじ)
学生寮は目黒区八雲の大学まで自由が丘経由で1時間以上かかる東京湾に面した品川区鮫
洲の一番東外れにあった。
最寄りの大井町駅までも徒歩で約20分かかった。周辺には都
立航空高専と大手機械メーカーの工場や大きな倉庫群がいくつかあるだけで民家は一軒もな
い。街灯もないので月のない夜は辺り一面真っ暗だった。
古く老朽化した 2 階建ての木造建築で居审棟2棟とそれに付属する食堂と大きなホールが
あった。補修の跡が何か所もある板張りの廊下は誰かが歩くたびに足音がミシミシと部屋に
響いた。部屋には8畳ほどの空間を挟む両側に 2 段ベッドが二つ備えつけてあったが二人部
屋として使われていた。
寮には水のシャワーしかないので、夏以外は銭湯を利用したが、銭湯に行くにも12、3
分かかり、寒い冬の日はせっかく風呂で温まっても寮に帰り着いたときには冷え切っていた。
当時の東京の冬はやたらと寒かったのだ。
羽田空港が近く、しかも飛行機の航路下にあるので大型のジェット旅実機が上空を飛ぶた
びに騒音で電話も会話も中断した。大学までの距離といい環境といい学生寮としての立地条
件はきわめて劣悪だった。
東寮(とうりょう)という名の東京都立大学学生寮は、収容人数にも限りがあるので地方出
身の貧乏学生だけが入れることになっていた。3年生まで東寮にいて4年生になると大学近
くの北寮に移るのだが、地方出身の貧乏学生にとって安い食費と月200円の寮費はただ同
然でありがたかった。 同じ地方出身者でも余裕のある家庭の子は初めから大学近くのアパ
ートや下宿に住んでいた。東寮は地方出身者ばかりのせいかいろんなおもしろいヤツがいた。
わたしたちが入寮した当時は学生運動華やかなりし頃で全学連が日韓条約反対運動をやり、
寮では賄い婦のおばさんの公務員化を大学に要求して寮費不払い闘争などやっていた。
東龍太郎都知事の時代だ。全学連の幹部が寮にいたので新入生はほとんど意味もわからな
いまま半ば強制的にデモにかりだされたり、大学側との交渉に動員されたりした。
国会議事堂を取り巻く日韓反対デモでは身体の強そうな連中は機動隊と対峙するため隊列
の一番外側を走らされた。外側を走る学生は屈強な警視庁機動隊員に脚を蹴られるのだが、
蹴り返したら公務執行妨害で即逮捕だ。鉢巻をした先頭のリーダーが走りながら“挑発に乗
るなー”と大声で叫んでいた。
新入生が4月に入寮すると寮の運営委員が集会审にみんなを集めてオリエンテーションを
やるのが恒例で寮生の心得などいくつか説明したり、生活相談にのったりしていた。
(寮生心得)
1.タバコの始末、火の用心
2.深夜騒音厳禁
3.部屋は常に清潔に
4.挨拶を交わす
5.寮生大会への出席義務
6.盗食厳禁
等々あった。しばらく住むとこれがまったく守られていない心得ばかりということが分か
った。ダニ対策のためなのか畳の隙間にたばこの吸い殻をびっしり敷き詰めている部屋もあ
ってびっくりしたが、あれでよく火事が起きなかったものだ。
10
盗食とはどういうことなのかわからなかったが、尋ねると、帰りが遅い学生のために食堂
の棚に名札をつけて取り置かれた食事がたまに盗まれることがあるということであった。
深夜に陸の孤島ともいうべきこの寮に帰りついてメシにありつけなかった寮生は悲惨だ。
朝まで空腹を我慢するか、または、10何分か歩いて鮫洲駅近くのラーメンの屋台まで食
いに行くよりない。それだけに盗食の罪は重く見つかれば寮生大会にかけられ退寮処分にな
る可能性もあった。しかし、寮内で発生した大きな問題はすべて全員寮生大会で協議し、決
定するというやり方であったから寮運営は民主的であったのであろう。
オリエンテーションが終わると名前、学部学科、出身地、实家のこと、将来の希望など1
人ずつ自己紹介をさせる。新入生は10人ちょっといたが、自己紹介のとき出身地までは正
直に話すが、实家の紹介となるとみんな適当に取り繕って話していたようだ。いまは没落し
ているが、かつては大地主で代々村長をしているとか元国会議員だったとか、県の上級公務
員とか呉服屋の大店の息子というのもいた。貧乏階級だからこそ寮に入れたのにだ。
わたしの番になったが、自己紹介の流れとしておやじが商売に失敗していまは土方の日雇
いに出ているとは言えないので、とっさに、
“实家は福岡で大きな土建会社を営んでおり、いずれ国に帰って跡を継ぐつもりで土木工
学科に入りました”
と嘘を言った。筑豊の穂波町と言っても誰も知らないので県庁所在地の福岡市にある土建
会社ということにしたのだ。土木も工学部の中では一番入りやすいと思って選んだだけだっ
た。次は隣に座っていたTの番だ。Tは名前と機械工学科とまでは言ったが、
“家のことについては言いたくありません”
と低く小さな声でいい、实家にかかわる話を拒否した。寮の委員長は、
“言いたくないことを無理やり言わせることはしないが、T君、君たちは
これから3年間この東寮で同じ釜のメシを食う仲間だ。なんでも腹を
割って話し合える仲になるのが大事だと思うんだが”
と上級生らしくやんわりとした言い回しでTを説得した。しばらく沈黙があったあとTは
目線を下げたまま、重々しく、
“实は、
・・・・、ボクはある政府高官と京都の芸妓の間にできた不義の子で、
よそに預けられて育ちました。住所は何回も変わりました。だから、ボク
は母親のぬくもりも知らなければ本当の故郷というものもないんです”
としんみりとした口調で言った。いままで誰にもこんな話はしたことはないということも
付け加えた。座はシーンとした。Tの表情には心なしか政府高官の知性と京都芸妓のDNA
を受け継いだ気品さえ感じられた。しばし間をおいて物理専攻のその3年生の委員長は、
「そうだったのか、申し訳ない、君にそんなことを言わせて済まなかった。しかし、T
君、出自がどうであろうとも、今の世の中それで差別されることもないし、そのこと
がその人の人間的価値を決定づけるものでもない。まったく気にすることはないよ」
とTを励ました。しかし、学生にとって雲の上の存在でしかない“政府高官”とか生涯酒
席で拝む機会もないであろう“京都の芸妓”との間で生まれたという話はまさに小説の世界
であり、Tは新入生のみんなから好奇と憧れの眼で見られていた。
11
彼は内気なのか気難しい性格なのか他の寮生とあまり話をしたがらなかったし、付き合お
うとしなかった。夜2、3人誰かの部屋に集まってダベッていても話題はTの噂になる。
政府高官とは誰なのか、京都の芸妓はどんな美人なのか。誰かTと親しくなって詳しく話
を聞き出せといいだす始末だ。
入寮してから一月くらい経った頃だったと思う。わたしが寮の入口にあった受け付けの部
屋でテレビを見ているときに何重にもあら縄で荷造りされた木箱が配達されて来た。
「Tさんに小荷物でーす」
わたしが代わりに受け取ったが、木箱の荷札には、
中身:野菜と果物、送り主:T作次郎、住所:山形県○○郡ねぎ作村字ねぎ作
と金釘流の墨字で書いてあった。そんな野菜の名前だけの住所がこの日本にあるなんて聞い
たことも見たこともなかった。
政府高官も人の子、妻子がありながら芸妓と道ならぬ恋に落ち、その結果子供が生まれる
ことぐらい大学生にならなくても理解できるが、それがそんな野菜の住所とどうして結びつ
くのか。Tは不義の出生ゆえにやむなく縁あるねぎ作村の百姓に養子に出されていたという
ことなのか。だが、思うに京都、東京、山形のねぎ作村との点と線との繋がりにはあまりに
も大きな隔たりがある。
そこで荷物を渡しながら思い切って本人に問いただしてみた。あの話本当のところはどう
なんだと。するとTはもはやこれまでと思ったのか、
「田中すまん、实を言うとな、政府高官と京都の芸妓の話なんて真っ赤な嘘なんだ。
オレは田舎のオヤジには申し訳ないが子どものときから貧乏暮らしの百姓がいや
で大きくなったら東京にでて機械技師になりたいと思っていた。それで高校も奨
学金をもらいながら必死に勉強して大学をめざした。あのとき、オレはみんなの
前で山形の百姓のせがれというのが嫌でとっさにあんな嘘をついたんだ。どうせ
嘘をつくなら華のある方がいいと思い、あの政府高官と京都の芸妓のストーリー
を思いついたんだ。ともにオレのあこがれでもあったしな」
と悪びれずに白状した。他人と話さないのは性格が内気で気難しいのではなく、なまりの
強い山形弁をみんなに悟られないためにあまりしゃべらなかったとも言った。その表情に気
品と知性が感じられると錯覚したのも、作り話からこっちが勝手にそう思い込んだだけのこ
とだったのだ。何年か前、元貴族になり済ました男女の詐欺師に多くの芸能人が騙されその
結婚式にご祝儀を持っていった話が週刊誌を賑わせたが、元貴族と思い込めばどうしようも
ない造作であっても何となく高貴なように見えてくるものなのだ。そしてわたしもTに白状
した。
「そうだったのか、实はな、オレも实家が福岡で大きな土建会社を営んでいると嘘ついた
んだ。实家は長い間、小さな水産加工業といえば聞こえはいいが、要は、ちくわやてん
ぷらを家内制手工業つまり家族全員で作っていたんだ。それがオレが中学のときつぶれ
て、兄貴たちはよそに働きに出て、おやじは、土方の日雇いに行っているんだ。オレは
大学を出てちゃんとした仕事に就いて親孝行したいと思って頑張ったんだ。オレも日雇
いに落ちぶれたおやじの話なんかみんなの前で言いたくなかったんだ」
12
村長も元国会議員の話も本当かどうかは確かめていないので真偽のほどはわからない。
仮にウソであっても誰もそれを咎めはしない。 みんな親の苦労する姿をみてなんとかし
て自分は大学に入り、いい就職口を見つけて親孝行をしたいと入試の試練にも耐えたのだ。
十代ながら新入生はみんないろんな過去を背負いながら、大きな希望を胸にして学生寮に入
ってきた。テレビもなかった田舎から初めて出てきた東京でカルチャーショックを受け、ホ
ームシックにもなりながらも何とか新しい寮生活に慣れようとしていた。2、3か月もすれ
ば新入生はみんなオレオマエの打ち解けた仲になっていった。
3年後新入生は北寮に移り、そしてそのほとんどは専門の学業を終えてそれぞれの道に進
んだ。 自己紹介で迫真の演技をしたTも演劇の道ではなく、大手の機械メーカーに就職し、
子供のときからの夢を实現した。卒業以来40年以上彼らに会う機会はないが皆それぞれの
分野で活躍したことと思う。
おわり
2010年(平成22年) 5月 1日
副理事長
13
田中
武
6.私のカンボジア回顧
その2
〔 リエルの復活と価値の低下 〕
ポル・ポトは原始的農業による農業大国をめざし、教師、僧侶、技術者、知的労働者、富
裕層などを暴力的に排除(虐殺)し、東の民を西へ西の民を東南へ、東南からは北へ北から
西南へと民族移動をさせ、すべての運河なども人力で建設させ、すこしでも疑いをかけられ
たものには拷問と土壙行き(虐殺)が待っていた。私たちについた FUNSK(カンボジア救国
民族統一戦線)通訳「クンテ・ボライ夫人」はスチュアーデスの職を隠し、ボロをまとって
聾唖の農民になりきって苦難に耐え=命令されるままに素手で蜂の巣を取ったり熱湯の中の
野菜を引き上げたり=そうして生き残った。
廃墟になった寺の柱には血糊のあと、その横には「いまこそ仏が必要な時だ」というメッ
セージがリアルタイムで残されていたが、親が殺され沢山の孤児が出来ていた。孤児が書い
た絵は虐殺のシーン、重労働の場面、脳裏に刻まれ第一に出てくる記憶で満たされていた。
孤児院の保母「オーク・モーン」は12人家族の半数が殺され、左腕には拷問の深い傷跡が
残されていた。
プノンペン市内でバラックの食堂を開いている「ウイ・ソン」
(65)は22人の大家族中
たった2人の生き残りであった。1980年(昭和55年)4月27日この食堂は賑わって
いた。それはすべての通貨を廃止された1978年(昭和53年)以来、最初の通貨復活給
料日で、人々は丸2年ぶりの「おかね」リエルを握ったその日だった。街の野外マーケット
も1本のタバコ、一切れの果物が商品として賑わっていた。共同生活はこの国の伝統的な智
慧であろう。夫が死んだ未亡人の田畑を男たちが助
けて耕作する、ウイ・ソンさんも新しい妻をめとり
孤児の養子娘を貰い受け、もう一人の未亡人を引き
取っていた。虐殺地に近い村では急造の家に数人の
未亡人、20人ほどの子どもたちが助けあい寄り添
って暮らしていた。写真の「フィナル」は14歳、
7人家族の中で母と姉と共に生き残ったが私たちと
接している間、遂に笑顔が出なかった。
いまは44歳の母となっているであろうが、この頃の子どもたちがいま大人になって、そ
して虐殺に手を下した尐年兵たち(オンカー)も親になって、加害者被害者ともに消し去る
ことの出来ない過去を心中に一生を過ごす苦しみは計り知れないものがあろう。そしてポ
ル・ポト派がタイ国境のアヘン密輸地帯と宝石採取地帯に資金源を求めて敗走した後も、1
0余年にわたりそれをカンボジア代表の組織として公認してきた日本を含めての国連の責任
は看過できないものがあり、内戦長期化国内対立の一因でもあった。
しかし1991年(平成3年)10月にはカンボジア4派の和平調印がなされ、日本政府
のカンボジア支援政策も動き出した。
その10年間世界や政府の姿勢がいかなるものであれ、
私たち非政府間の交流支援は政治思想を超えてアジアの仏教徒と平和の将来をお互いに努力
する不変の姿勢を持ち続けてきた。
14
僧侶の数については前回の本誌に述べたが、新生僧侶には仏教教育が不可欠である。得度
して僧衣を着ても中身がなければ僧にならない。1992年(平成4年)2月僧侶育成の為
の学校建設資金援助のメッセージがプノンペンのウナロム寺より届いた。同年3月、僅か1
ヶ月の支援募金の結果200万円を携えて団員4人でウナロム寺に赴いた。
前年の1991年(平成3年)2月にも支援金を届けたが、プノンペン政府の入国許可団
体である「ルナセイ」が伝達に立ち会い、仏教会側にはその一部分しか渡されなかった苦い
経験があり、今回は門戸の開かれた観光ビザで入国し、全額を伝達することが出来た。しか
も受け入れ側の仏教会に日本人僧侶 O.S 師が留学しており、その O.S 師を担当窓口とし、カ
ンボジア仏教会テップ・ボーン会長より学校建築概要、設計図、総予算、資金運用計画が文
書で示された。以後の支援は権力構造を仲介せず、当方の組織、受け入れ側の責任態勢を明
確にして草の根運動を続けた結果、日本側の体制も充实し1995年(平成7年)7月鉄筋
コンクリート2階建延床面積800㎡の校舎が完成し、開校式が行われ我々も参加したので
あった。
1991年(平成3年)には UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の活動のもとカンボ
ジア支援が日本政府組織で動き始める。その年3月日本国内の新聞記事を羅列すると
○ アンコールワット遺跡修理に当面100万ドル、将来的には2000万ドル規模へ
○ カンボジア難民の帰還支援として4000万ドル程度負担の用意
○ UNTAC の PKO 活動の分担金2500万ドル支出を決定。
○ 防衛庁人事異動は PKO を含む将来の国際貢献に備える為のものである。
○ プノンペン政府のフン・セン首相は自衛隊の派遣を外相・首相に要請。宮沢首相はそのた
め PKO 協力法案成立に全力を尽くす。
○ 外務省は自衛隊の派遣を認めた PKO 協力法案の成立なしにはカンボジアに対する人的貢
献は困難との認識。
○ 加藤官房長官は、PKO 法案の審議中は文民の派遣を含めて、カンボジアには人的支援は行
わない。と強調。
こうして国連の PKO 活動のもと、日本の PKO 法案が1992年(平成4年)に発効して翌
年、カンポジアのタケオに自衛隊の活動基地が設けられた。
翌1993年(平成5年)5月末「カンボジア仏教交流京都委員会」の代表として私他2
人で三たび訪問した。世界の眼はようやくカンボジアに向けられ、ツポレフ TU124(旧ソ
連製旅実機126人乗り)は満席、ポチェントン空港(現在はプノンペン国際空港)は UN
のヘリコプターが飛び交い、入国には20ドルを必要とした。1ドル2500リエル前後の
レートであり、急激にリエルが不安定になったことに驚きを隠せなかった。朝2500リエ
ルのスープが昼には3000リエルに値上げというのは当たり前であるが、前年は1ドルが
600リエルだったことから見れば4分の1強の下落であり、行き付けの「石」レストラン
は3500〜3900リエルが1ドルの値打ち、外貨の浸食の激しさを物語っていた。
街角には金の指輪とかネックレスなどの金製品と、札束の入ったケースを前にした換金商
がたくさん。不安定な通貨より金製品が通用しているのだが、ポル・ポト時代認められなか
ったそれは、それぞれがある目印の元に地下や森の中に隠してあったものだと言う。
15
現地給与の一部だが、一般官吏は30ドルに対し国連職員は100ドル、自衛隊基地内食
堂の給仕50ドルという月給だから眼が海外の関係に向くのは人情だ。そこで大流行は1時
間200リエルの英語のミニスクールであった。UNTAC の去ったあとこれらの人々はどうし
ているだろうか。
ホテル代は1日40ドル、コーヒーは40セントのモノロム・ホテル(現在は改装してホ
リデイ・ビラ)を使った。クメールの伝統建築様式を随所に取り入れた外観の、豪華なホテ
ル・カンプチアーナはコーヒーが1ドル80セント、1日200ドルで満审だった。食費1
人1日8ドルに押さえていた我が団にとっては、プノンペンははや住みにくい町になりつつ
あった。
タケオの自衛隊キャンプを訪問、入隊後24年の下士官隊員(42歳)の本給30万余、
特別手当48万、ほかにボーナスを月割りにすると月平均100万円。彼らは私たちの草の
根活動からは縁遠い存在、そのキャンプの取材を1993年(平成5年)3月24日に行っ
たことは次回に回す。
(次号につづく)
2010年(平成22年)5月1日
京都 聖護院門跡
門主
宮城 泰年
編集者より
1.カンボジア王国の基本情報 P34 ④カンボジアの歴史他を参考にしてお読み下さい。
2.執筆者の紹介〈再掲載〉
宮城 泰年(みやぎ たいねん)
本山修験宗総本山、開基寛治4年(1090年)第1世増誉より数えて
第52世門跡門主。昭和6年(1931年)京都市生まれ 新聞社勤務を
経て昭和32年(1957年)本山修験宗聖護院門跡に入寺。平成19年
(2007年)門主に就任、京都仏教会常務理事、龍谷大学実員教授。
古社名刹を紹介する週刊誌記事に師は次の様に述べています。
「辛さに背を向けずに、逆風に向かって歩く心が大切です。また、自分の力を周囲に照
らし、慈悲の心を発揮することが重要です。困難な状況にあっても希望や生きる力を喪
失せずに、生きているという自信をもってほしいですね。」
聖護院住所 京都市左京区聖護院中町15
3.当会報に執筆を願ったこと〈再掲載〉
編集者である理事長外村善一は宮城泰年師と同年の昭和6年(1931年)京都市生ま
れであり、昭和26年(1951年)より現在に至るまで絶え間なき年月の間知遇を得
て居り、日頃の宗教活動に敬意の念を持っております。
当カンボジア・NGOよりも早い段階で宮城泰年師は、新生カンボジアにかかわられて
来ましたので、今回「カンボジア回顧」の執筆をお願いしました。
16
7.カンボジアNGOスクールの生い立ちを語る
その3
ボランティア先生の第1号は、2002年(平成14年)3月に生徒の紹介で会ったプノ
ンペン在住の浅井早苗さんだった。サッパリした人で「日本語を教えるのが趣味」で、「あ
すの朝8時よりルーム1で始めて下さい。」とアッサリ決った。日本人による初の本格授業は
大盛況となった。しかし本人は涼しい顔で1日も休まず、なんと2年近くも授業を続けてく
れた。まさに「THIS is Volunteer」だった。
第2号はカンボジアNGOの紹介で、
「中東 バーレーン国」よりかけつけた三述恵子さん
だった。
「海外で井戸を掘るのが趣味」で、国際ボランティアのベテランだった。朝から晩ま
で生徒を集め日本語を教え、未だ宿泊审のない校内でローカル生と一緒に寝ていた。ハリキ
リ娘で、私にボランティアの現状を教えたボランティアの師だった。
第3号は大学の活動の实践で、来校した「カンボジアの歴史が趣味」の真野千尋さんだっ
た。授業がていねいで生徒との親交が深まり、彼女の帰国時の空港では皆で大泣きしたと聞
いている。
その後もボランティア先生の来校が続いたので、その年の12月には男女ボランティア宿
泊审を作った。2003(平成15年)になるとボランティア先生が10人と増え、これが
3月まで続いた。彼らの授業も習字、絵、そろばん、ゲーム、クイズ、日本事情、カンボジ
ア事情と多彩になり、中には恋愛コースも始まった。人の出入りも多くなり昼間ボランティ
ア宿泊审でドロボウを捕まえた元気者もいた。
ローカル教師のバトルロイヤルが済み(この事情は本誌第5号P12に詳しい)学校の再
建が始まった頃、長期(1年)ボランティアが集ってきた。竹内サチエさん、谷口マキ子さ
ん、五野上良さんの若手と、中川英夫さん、大友さんの中高年である。若手ボランティアは
校に腰を据え、自分でスケジュールを作り生徒を集め各自自由な活動を始めた。ボランティ
アの規約書が出来、7~9月と12~3月に増える短期ボランティアもその規約に基づき活
動をした。短期の飯田洋平さんなどはすっかりカンボジアにはまり、現在までに10回以上
の来校を重ね、将来はカンボジアを生活の場と考えている。長期ボランティアの終了パーテ
ィの日、次の長期ボランティアの宮部武司さんが空港に着き、全員留守の学校より1人でパ
ーティ会場にたどりつき、私の後から自己紹介をされたこともあった。
下田雅典さんが来校しカンボジア初のエンジニアコースを始め、それが下田エンジニアリ
ングに発展した。上田聖也さんが2度の長期ボランティアをやり、KKアステックの工場長
となりNGOの研修所を兼ねている。小川尚子さんもカンボジアかぶれになった。2007
年(平成19年)8月には看護師の佐野涼子さんが来校した。彼女は昼はプノンペンの病院
のボランティアに行き、夜はNGO校で中級コースとエイズ予防コースを行い、帰国時には
そのまとめのエイズ予防パーティを開いていった。
17
2002年(平成14年)より2008年(平成20年)まで、計400名近いボランテ
ィア先生が来校した。そしてその授業は他校にも伝わり、人気コースには他校生も参加して
いた。TVで放映されたカンボジア大学対抗討論会にNGO校も参加して、ボランティア先
生のサポートもありあわや優勝しそうな2位になった。日本大使館主催の弁論大会では、3
位に入賞する生徒もでた。
ボランティア先生がそれぞれ自由な活動をしているうち、日本とカンボジアの交流は進み
友好関係も深まった。ボランティア受入れ設備や応対が充分でなかったNGO校でボランテ
ィアをやってもらい、今まで何のクレームも出なかったのは驚きである。やさしく人のいい
ボランティア先生の奥には「ボランティア」
、すなわち「志願者」の覚悟が隠れていたのだと
思う。
(次号につづく)
2010年(平成22年) 5月 1日
理事
18
芹沢 勝
8.学校施設の現状
NGOスクールの運営も10年以上とな
り、生徒数の増大に対応するために教审の
増設、日本人ボランティア先生に安心して
生活してもらうためのボランティアルーム
の設置など、現在では設立当初に比べて随
分と設備も充实してきました。
しかし、教审の中には右の写真のように
プレハブの場所もあり、生徒たちは汗を拭
いながら授業を受けています。
当然、エアコンなど無いため1個5ドルから
10ドル程度の扇風機で暑さを凌いでいます
が、それも砂埃の多いカンボジアでは寿命が短
く、扇風機のような単純な機械類でも頻繁に修
理や買い換えが必要となります。
学校に泊まり込んでいるNGOスクール見習
いスタッフ達の部屋などは雤期の豪雤で連日床
が浸水してしまうなど、まだまだ日本では考え
られないような劣悪な環境で皆が工夫しながら
生活しています。
学校の壁や天井、床などは雤期の長雤で腐食しやすくなり、テーブルの上に食べ物を置き
忘れているだけで数時間後には匂いを嗅ぎつけた蟻が脆くなった壁に通り道を切り開いて大
群で餌を取りに来るなど目が離せない状況です。
皆さんから頂いた寄付金は、こういった問題に対応すべく建物全体の修繕費として活用さ
せていただく場合が多く、カンボジア人スタッフたちも毎日授業を受けに来てくれる約20
00人の生徒たちに出来るだけ良い環境で授業を受けてもらおうと試行錯誤を繰り返してい
ます。
今後も NGO スクール維持のため、皆さんから頂いた寄付金を有効活用していきますので
皆さん宜しくお願いいたします。
2010年(平成22年) 5月 1日
理事
19
横山 祐貴
9.カンボジア・NGOスクールからのコメント
前回の会報で、乾期への突入が例年より遅いようだというお話をさせて頂きましたが、や
はり、今年の乾期、例年と尐し違うようです。これも、人類の経済活動による地球温暖化と
関係するのでしょうか?
例年、最も気温の下がる時期は、12月末から1月はじめくらいの2週間ですが、今年は、
1月末から2月の頭にかけて最も涼しくなりました。そのせいか、例年3月ともなると今年
2~3回/月の降雤があるのですが、今年はありません。
気温も、ぐんぐんと上がってきており、この時期、体感的には日本との気候差が一番大き
いように感じます。これから5月末くらいにかけて、東南アジア旅行を予定されているかた
は、十分にご注意ください。
今年は、中国正月が2月の後半にありました。中国では、春節より正月が早い年は、結婚
によくない年とされているらしいです。私の知り合いのある中華系カンボジア人の家でも、
中国正月前にあわてて結婚式をおこなってました。しかし、この風習、本家の中国でも若い
世代はほとんど気にしていないらしいです。カンボジアにも多くの中華系カンボジア人がい
ますが、一部を除き気にしていないようです。
そして、今年は、NGO学校で日本語を学んで日系の組織に就職した多くの生徒は、まと
まって結婚します。今現在2人ほど既に結婚式をあげましたが、今からも続々と結婚する予
定です。彼らの前途が明るいことをお祈りするとともに、結婚式の招待には極力行くように
するつもりです。
学校の方は、日本が春休みに入ったせいか、大学生ボランティアが増えてきています。今回
初めて韓国からの大学生ボランティアを受け入れて、韓国語の授業の面倒を見てもらいしま
た。韓国語を勉強する学生達にも、非常に刺激になったものと思われます。また、学校とし
ても、当校での韓国語教育のレベルを有る程度実観的に把握することができて、非常に有意
義でした。
もともと、当NGOスクールでは、日本のNGOだから日本語というこだわりを捨てて、
カンボジア人のニーズに合わせて、必要な教育科目を提供してきたNGOです。現時点での
開講科目は、英語、日本語、中国語、韓国語、タイ語とあります。各言語のネイティブをボ
ランティアとして積極的に招へいすることも考えたいと思っております。
その他、現在よりもより低所得層への教育の实施を目指した奨学金制度等も検討していま
す。皆様のよりいっそうのご支援を賜りたく、今後ともよろしくお願いします。
2010年(平成22年) 5月 1日
インターナショナル・カンボジア・NGO・スクール
理事 校長
20
下田 雅典
10.ボランティアレポート
NGOスクールでボランティア先生を体験された方のレポート紹介
① 佐野涼子さんのレポート
その2
カンボジアのHIV問題の現状と必要とされる支援について
1.現状について
①都市部
プノンペン市などの都市部ではここ数年の啓蒙活動の結果、HIVや予防法などの知識は
比較的広まっており、関心も持っている。また学校においても、NGOなどの団体により教
育が行われている。しかし偏った知識を持っている人も多い。
カンボジアでは法律では禁止されているものの買春は一般的に行われており、以前は売買
春を介した感染が多かった。現在プノンペン市ではコンドームの使用が普及し、売買春によ
る感染は減尐していると伝えられる。一方で、恋人関係や夫婦間での感染が増加し、母子感
染につながっているとの報告がある。この背景には外国文化が流入し一般的ではないが婚前
に性交する若者が現れていること、家族計画が認識されておらず避妊具としてのコンドーム
の使用が尐ないこと、立場的に弱く知識も尐ないと思われる女性からはコンドームの使用を
依頼しにくいこと、男性の認識として、恋人や妻から感染するはずがないとの認識があり、
自分自身が感染源となりうることを考慮していないことなどが考えられる。
②地方
地方においてはマスメディアが普及していないこと、学校に行ける者が限られていること
などから依然としてHIVの知識が普及しておらず、予防法も知られていない。金銭面の問
題もありコンドームの使用も広まっていないようである。コンドームを配布してもその時だ
けで終わってしまったり、使用方法が分からないなどの問題もある。
特にHIV感染率の高い諸外国と同様、沿岸部では売買春が多く、HIV感染率が高い。
知識が尐ないだけに差別や偏見の問題も深刻である。家族や農村のコミュニティから孤立
してしまったり、HIV感染者の売り物からも病気がうつるとの流言が広がり、商品売買が
できず、貧困に苦しむなどの問題が報告されている。医療費が払えなかったり、感染を恐れ
られたりして家族から見捨てられ、病院に置き去りにされるケースも尐なくない。
2.支援の实際
HIV蔓延の問題に対する支援といっても、切り口は様々である。
①予防教育
HIVは感染を予防することが一義であり、教育・啓蒙活動が主となる。対象は非感染者
となるが、教育水準や生活環境の違いから、対象に応じた方法・内容が必要である。
1)都市部
都市部では学生を対象として学校教育の場を利用するのが効果的と考える。現在一般的に
行われている活動はNGOスタッフによる講演。また教師に対して指導を行い、各々の授業
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で教育をしてもらう方法、各クラスから数名ずつ生徒を集めて指導し、その生徒らが、自分
のクラスメイトに指導を行うなどの方法もある。これらの利点として、NGOによる指導の
場だけでなく、それ以降も自分たちで教育を継続していけることがあげられる。いずれにし
ても 1 回の説明では限度があり、継続して行うことが必要と考えられる。
都市部でも、学校を卒業後し働いている者達は、性生活が盛んであり、かつまもなく結婚
する、あるいは結婚後出産を控える時期であり、特に十分な知識を持って予防することが必
要である。しかし教育に当たっては、対象が一堂に会する機会が尐ないため、どのようにし
て人を集めるかが課題となる。イベントを開催したり、医療機関の協力を得て病院やクリニ
ックなどの場を利用する方法が考えられる。
2)地方
地方においては地域社会のつながりが密であるため、各コミュニティの中心人物に協力を
得て人を集めるのが効果的であると思われる。内容としては極基本的なこと最小限に留め、
とにかくコンドームの使用を勧めることと正しい使用方法を習得させることが先決であろう。
また差別や偏見に対する配慮も重要である。
しかし地方ではまだまだ民間医療や伝統的な呪医(じゅい:呪術的手段によって病気治療
を行う者)
、僧侶が信頼されていることも尐なくなく、いきなり訪れた外国人の話が信用され
るのかとの懸念がある。短期間での教育では知識は普及せず、实行もされないことが予想さ
れる。長期の介入により信頼関係を築きながら徐々に改善していくしかないと思われる。さ
らにHIV以前に一般的な衛生保持や感染予防が広まっていないため、これらに対する教育
のほうが先決ともいえる。
②検査機関
第2にHIVの検査を行う形での支援があげられる。これは感染を早期に発見することで
早期に治療を開始すること、感染者がキャリアとしての自覚を持つことでさらなる感染の拡
大を防ぐことが目的である。
現在HIVの治療は発症を食い止めるに留まっており、発症してからでは遅い。このため
発症以前に治療を開始することが肝要になる。またHIVが蔓延する要因の一つは発症する
までの潜伏期間が長く、感染者自身が気がつかないうちに媒介して感染を広げてしまうこと
がある。このため感染者がこれを自覚することは重要である。現在プノンペンでは無料で検
査を受けることができる機関がいくつかあるが、結果の正確さから信頼されている機関は限
られているという。
検査機関を立ち上げる上での課題は、一つは専門知識と技術を持った人材が必要であるこ
と。検査機器の使用に長けた者や検査に伴う医療行為が行える者が必要となる。世界的にH
IV検査にはカウンセリングを同時に行うことが必要とされており、経験がありカンボジア
の現状に詳しいカウンセラーも必要になる。また感染が明らかになった方がスムーズに治療
が開始できるように、医療機関との連携も必要となる。
もう一つは資金の問題である。検査には検査用キットや薬品などの消耗品、検査機器が必
要である。有料で検査をするのでは利用者は限られ、意味がない。無料で検査を継続するた
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めにはこれらを用意する資金の捻出が必要になる。
③医療機関(治療)
次に、实際に感染した人を治療するための医療機関である。現在治療の主流は抗ウイルス
剤による内服治療である。これによりAIDS発症を抑えることができるとされている。カ
ンボジアでの内服治療の現状は定かでないが高額な薬剤費用のため、後進国では十分に治療
を行うことができないとされている。コピー薬の認可政策や価格を抑えた治療薬等の対策も
行われているがまだ十分ではないとのことである。
課題としては、まず責任もって内服投与を継続的に行えるかという問題があげられる。抗
ウイルス剤は一生飲み続けなければならない。内服を中止すると内服する以前よりも治療は
困難になり、AIDSを発症し、死を迎えることになる。つまり、資金がなくなったから内
服投与を中止するということは、患者に死ねと言うことになる。一度始めたら責任上やめる
ことはできないのである。
さらに病気の進行や薬効の確認、副作用のモニタリングのために定期的な検査・診察が必
要であるため、その費用もかかる。HIV治療に長けた医師や薬剤師、カウンセラーなどの
人材も必要である。内服は量・時間ともに正確に行わないと却って悪化してしまうので、患
者教育も必要となる。
内服投与だけでなくAIDSを発症した方への治療も含めると、さらに本格的な施設、薬
品、検査・診療機器とともに多くの人材が必要である。入院施設も必要となる。
④社会的支援
最後に社会的弱者となるHIVへの支援の方法である。
1)資金面の援助や就業支援
前述の通り、HIV感染者は仕事ができなくなったり医療費がかかったりすることから同
時に貧困問題に悩まされることが多い。もともと貧困状態であればなおさらである。このよ
うな方への資金面の援助や、仕事を与えるなどの支援の方法がある。教育水準が低く、満足
な仕事に就けない方のために、一般教育や就業教育を施し、就業先を与える方法もある(土産
物などの作り方を習得させ、それを販売する・英語や接実教育をし、レストランを経営して
そこで働いてもらうなど)。
2)精神面への援助
HIV感染者は常に病気に伴う苦痛や死への不安に脅かされる。また家族や周囲に見放さ
れてしまうことも多い。このような方への精神面への支援も一つの方法である。デリケート
な問題であり、対応には注意を要するが、必ずしも専門のカウンセラーである必要はないと
思われる。
3)介護
AIDSが進行し、身の回りのことが自分で行えない状況になった方への介護支援。買い
23
物や医療機関受診に行くためのサポートや自宅での日常生活動作への援助、病院施設での介
護など、必要とされる場は多いと思われる。状況によってはある程度の技術が必要になるが、
家族介護の範囲でもかまわない。患者を抱える家族への介護法の指導も一つの方法である。
4)差別・偏見に対する活動
世界的にHIV感染者に対する差別・偏見は問題となっているが、カンボジアでも同様で
ある。現状の項で述べたとおり、知識の低さからくる偏見も多い。特に女性に関しては、H
IV感染=売春婦またはみだらな女性とみられてしまうため、さらにつらい立場に置かれる
こともある。このような偏見や差別をなくすための啓蒙活動も支援の一つの方法である。
※以上の内容は性行為による感染の問題に限ります。問題が多岐にわたるため、血液感染や
母子感染、AIDS孤児については省きました。
3.おわりに
HIVは性と生殖、死に関連することから非常にセンシティブな問題であり、日本とは異
なる環境・文化におけることなので、活動に当たっては慎重を要します。いずれの方法にし
ても、さらなる現状把握や支援方法の検討、現地の関連するNGOなどの団体、政府関連機
関などとの連絡を取った上での活動開始が必要です。またこの方面に関する経験者も必要で
あると思います。
私は日本国内では医療現場に従事しておりましたが、発展途上国におけるHIV支援につ
いてはほとんど無知といってよく、自分自身も勉強しながら何ができるかを模索している状
態です。ここに述べましたのは、私がこの国に来てから学んだことや、生徒さん達から尐し
ずつ聞き取った情報、各種団体を訪問して得た知識の中からまとめたもので、必ずしも正確
とはいえず、また全てではないことをご承知おきください。
2008年(平成20年) 4月 5日
インターナショナルNGOスクールボランティア先生
山梨県巨摩郡身延町出身
佐野涼子
編集者より(再掲載)
1.執筆者の紹介
佐野涼子さんは、2007年(平成19年)9月11日より2008年(平成20年)
9月17日までインターナショナルNGOスクールボランティア先生として、1年間の
長期ボランティアにて毎日定期的な授業を開催してくださり、スタッフだけでなく生徒
達からも信頼の厚い方です。
もともと看護師で病院勤務をされていた方で、NGOスクールに来る以前までに数百人
の患者さんの最後を見送ったとのことで、考え方もシッカリしており、ご自身のペース
を崩さず活動を行ってくださいました。
現在でも私がNGOスクールのカンボジア人スタッフや生徒たちと連絡をとる時、佐野
涼子師はまたカンボジアに来ないのかと言う質問を多く受けます。
現在は再び東京の病院にて看護師の仕事をされているそうですが、再びカンボジアに訪
問したいというお考えはあるようです。
24
2.佐野涼子さんは1年間に渡るカンボジア滞在の間、次のような活動をしていただきました。
1)日本語2級に関する授業の開催
月曜日~金曜日の夕方(参加する生徒の年齢層が高いため仕事や学校が終わる頃の
時間を選択)
2)アプサラクメール劇団公演までの総管理
2008年(平成20年)5月に開催された劇団公演について参加者達の指導を行
ってくださいました。
3)HIV/エイズに関する調査
HIV/エイズ病棟の視察、病院長やスタッフとのヒアリング、感染被害者とのヒ
アリング
② 田中直樹さんのレポート
このレポートは、これから来るボランティアの皆さんに尐しでも現地の様子を知ってもら
い、NGOでの活動がより良いものになればいいなと思い、書かせてもらいます。
私は2010年(平成22年)2月5日から2月13日までの1週間カンボジアNGOで
ボランティア活動に飛び入りで参加しました。まずこちらの活動を生活面と教育面に分けて
説明していきたいと思います。
(生活面)
・NGOの寮
水シャワーとトイレ付きで、寝る場所はベッドはなくマットレスを敷くという感じです。
こっちはとても熱いというイメージですが、寮は2階にあり風通しも良いことから意外と涼
しく、夜は短パン半袖で寝るには尐し肌寒いときもあります。また、近くにスーパー(ARONA
MART)があるので、大体の日用品や食料品は手に入ります。
・食事
こちらの物価はとても安く、1食1ドルもあれば十分です。水は1.5リットルが0.5
ドルで売られているため、1日2本もあれば十分でしょう。ということは、こちらの生活で
かかる生活費は、1日最低4ドルです。日本では考えられないぐらい安いですね。
・現地のスタッフ
私がお世話になったのは、下田雅典校長と上田聖也校長補佐です。この二人はNGOのす
ぐ近く(道を挟んだ向かい側)に住んでおり、困ったときはすぐに相談できます。また、最
初に飛び入りで行ったときも優しく受け入れてくれて、昼ご飯をご馳走になったり、他の日
には韓国料理屋に連れて行ってもらうなど、とてもよくしてもらいました。本当に感謝して
ます。
また、広報事務スタッフのスレイヌットさん(日本に行ったことがあるし、日本語スピー
チコンテスト優勝経験有り)も、私たちボランティアにとてもよくしてくれて、毎晩のよう
にスレイヌットさんの家に招待されては、晩ご飯をご馳走になったり、家に泊まったことも
ありました。こっちの人はとてもフレンドリーです。
25
・観光
プノンペン市内の観光は2日あれば十分です。王宮・トゥールスレン博物館・国立博物館・
セントラルマーケット等、授業が休みの土日を使ってリフレッシュにお勧めです。
(教育面)
教える相手は基本的に大学生か高校生です。レベルは初心者から上級者まで様々なクラス
があるので、教えるときはレベル分けを意識した授業にするといいと思います。私は飛び入
り参加のため、自分のクラスを持つことがなかったのですが、1日6時限ある日本語のクラ
スに助手として参加しました。教師はボレイさんというカンボジア人の方で、この方はとて
も面白く日本語もとても上手く親しみやすかったです。
私が实際に行ったことは、助手として日本語の生の発音を聞かせることに重点を置き、発
音練習のときは生徒のお手本となり教科書を読みました。また、先生が休みのとき(カンボ
ジアの人は結構アバウト)は私が先生となり、恋愛話や東京の物価など、相手が興味を引く
話題を中心に日常会話や自己紹介の仕方なども教えました。
实際に指導した私が皆さんにアドバイスをすると、日本にいるときに出来る限りの準備は
したほうがいいです。
具体的に何を教えるのか、
そのときにはどんな道具が必要なのかなど、
日本で準備を万端にして授業に臨むといいと思います。即行で考えて授業をするのは意外と
難しいです。
(感想)
こちらで指導をしていると、生徒は日本人である私にとても興味を持ってくれて、質問を
するなど熱心に話しかけてくれます。それは日本ではあまり味わえなかった、人から自分が
必要とされているという達成感を与えてくれ、この生徒達のためにもっと頑張ろうと思いま
した。
また、道を歩いているとストリートチルドレンや物乞いなどが多く、言葉が悪いですが貧
困を目の当たりにすることで、いかに自分が恵まれているのかということが分かり、日本で
悩んでいたことがちっぽけな物に感じました。また、こういった発展途上国の貧しい人たち
のためにできることはないかとすごく考えさせられました。まだ答えは出てませんが、自分
が出来ることから始めればいいと思います。
ありきたりな言葉ですが、今回の活動で視野が広がったと思います。これは实際に生活を
共にして体験してみなければ分からないものなので、皆さんも是非カンボジアに来て視野を
広げ、人生の生きる意味を考えてみてはいかがでしょうか。
以上が簡単なレポートになります。
これを尐しでも参考にしてもらえればとても光栄です。
最後になりますが、
カンボジアNGOでお世話になった下田雅典校長、
上田聖也校長補佐、
スレイヌットさんなど、多くのスタッフの方にこの場を借りて厚く御礼致します。本当にお
世話になりました、有難うございます。
2010年(平成22年)2月5日~2月13日にNGO校に滞在
東京都武蔵野市出身
田中直樹
26
11.2009年度(平成21 年度) カンボジアNGOスクール活動実績
(1)教育支援、コンピュータ支援
① 年間延べ参加生徒数
2000 年
72,000 人/年
2001 年
192,000 人/年
2002 年
240,000 人/年
2003 年
264,000 人/年
2004 年
360,000 人/年
2005 年
408,000 人/年
2006 年
432,000 人/年
2007 年
480,000 人/年
2008 年
480,000 人/年
2009 年
470,000 人/年
(平均年間の開校日 220 日)
(2)その他の活動
① ボランティア先生の受け入れ
年間約60名
② ボランティア先生OB会
下田エンジニアリング協力
③ 電子部品組立研修
KKアステック協力
④ アプサラクメール劇団
土浦 高橋恒氏協力
27
12.カンボジア・NGOスクールの案内
①カンボジア・NGOスクールのスタッフ
今回はサムバットと交代して 1 月からNGOスクールで日本との調整やボランティア先生
のサポートを担当してくれている広報事務員スレイヌットの紹介です。
●名
前
ター・スレイヌット
Tha Sreynuth
●生 年 月 日(性別)
1991 年 3 月 5 日生(女)
●出
Sangkat Toeuk LaakII, Khan Toul Kork,
生
地
Phnom Penh City, Cambodia
●学
歴
1997 年~2003 年
Graduated from Sontourmok Primary
School
2003 年~2005 年
Graduated from Sontourmok Secondary
School
2005 年~2008 年
Graduated at Sontourmok High School
2008 年~
Studying Japan Law at Center of Research
Japan Law (CJL) in Royal University of
Law and Economics (RULE)
2008 年~
Studying Law at Royal University of Law
and Economics (RULE)
●職
歴
2010 年 1 月~
●趣
味
旅行、音楽鑑賞、バドミントン、絵を描くこと
●将 来 目 標
NGOスクールの広報事務員
外交官
②授業の様子
NGOスクールでは主に簡単な日本語の会話が
出来る程度の日本語4級または3級の授業を開催
していますが、長期滞在のボランティア先生が入校
された時には日本語2級の取得を目指した授業を
開催することもあります。この授業に出席する生徒
たちも日本語のレベルが高く、参加している生徒た
ちのほとんどが日常生活に支障のない程の日本語
で会話することが出来ます。
今年から広報事務員を担当しているスレイヌットも、長期のボランティア先生がこの授業
を開催している時は毎日のように授業を受けていました。
短期間での滞在で 2 級の授業を開催するのは段取りや宠伝などに時間を使ってしまうため
難しいですが、日本語2級の教材はボランティアルームに用意してありますので、長期でN
GOスクールに滞在予定の方は是非、2級の授業に挑戦してみてください。
28
③スレイヌットの経歴ご紹介
2008年(平成20年)6月8日国立教育
センターにて、カンボジアと日本との間で結ば
れた友好交流が55周年を迎えた記念行事と
して、第一回の高校対抗日本語スピーチコンテ
ストが開催されました。
主催はカンボジア教育青年スポーツ省(別紙
参照)とアジアの言語文化交流を主体としたN
GO団体 ALC-Communications です。
このスピーチコンテストには当C・NGOス
クールの広報事務員のスレイヌットも参加し、
参加者500名のカンボジア人の中から見事
一位を獲得しました。
当時、彼女はNGOスクールで月曜日から金
曜日の夕方まで開催されていた日本語2級の授
業を毎日受けており、日本人ボランティア先生
から授業で日本語を教えてもらうだけでなく、
好奇心旺盛で活発な性格から授業以外でも多く
の日本人との交流を持っていました。
2007年から2年間、NGOスクールの行
事として開催していたアプサラクメール劇団で
も日本語の解らないカンボジア人と劇団運営を
手伝ってくれていた日本人ボランティア先生と
の架け橋となってくるなど学校のイベントには
常に参加してくれています。
コンテストの優勝後、彼女は各国のスピーチ
コンテストで優勝した他の国の生徒たちと一
緒に日本に招待され、日本でも開催されたスピ
ーチコンテストにカンボジア代表として参加
しました。
これが彼女の初めての日本訪問で、わずかな
期間ではありましたが旅館や温泉など、日本独
特の文化に触れることができたと喜んでおり、
現在でも日本人との関係を深めようと努力し
ています。
29
④1位になったスレイヌットのスピーチをご紹介いたします。
カンボジア・日本友好55周年記念行事 第一回高校対抗日本語スピーチコンテスト
2008年(平成20年)6月8日
国立教育センターにて開催
テーマ:『僕の希望は君のアイディア』
課題『蓮』
ター・スレイヌット
蓮は何ですか?どうして蓮について作文を書いたのでしょう。蓮は花の名前です。二種類
あります。白とピンクです。蓮はきたない泤でも生えます。しかしとても いい匂いで、皆が
好きです。
蓮はたくさんの役にたつので、作文を書きます。ほかの国では蓮が大切かどうかわかりま
せん。
日本はどうですか。
カンボジアにとって、蓮はいろいろと役にたちます。
蓮の花をよく使います。その上蓮の实もあります。若い实は果物みたいに食べられます。お
いしいし、ビタミンが多く含まれています。
じゅくした实はいろいろな食べ物に使われます。にたり、いためたりして蓮のジャムもで
きます。食べたことがありますか?食べたことがない人は食べてみてください。おいしいか
どうかぜひ食べてみてね。若い实とじゅくした实はほとんど食べられます。その上茎も食べ
られます。信じられますか?
本当です。若い蓮の茎は食べられます。クメール語で「クロアゥチゥク」といいます。ク
ロアゥチゥクで作られる料理はいため料理(チャークロアゥチゥク)や、すっぱいスープに
した蓮はとてもおいしいです。でも、はっぱは食べられません。しかし、使うことができま
す。蓮のはっぱはノウメンチョンといううどんのようなめんが袋にくっつかないようにする
ために包んで使います。蓮の根は食べられますが、カンボジアではあまり食べません。
ここまで、書いたのは蓮がすごく大切で、根から熟した实まで、全部使えるからです。で
も蓮は泤から生えますね。泤はきたない水だと思います。でも蓮はとても大切な物です。だ
れでも必要だと思います。たくさん花があるのに、どうして仏教の祭りのときはよく蓮の花
を使うのでしょうか?私の意見は蓮が人みたいにみえるからです。それはどんな人だと思い
ますか?まずしいが、社会でいっしょうけんめい生活していて、勉強や仕事もがんばる人で
す。こんな人は皆が好きですか?蓮と同じで す。がんばって、自分で努力したので、仏様は
蓮をえらびました。
蓮の生えている所はだれもが気にしません。きたなく生えている所でも蓮は一番いい花で
す。 これは蓮が皆に好かれている一番大きな理由です。皆もそう思いませんか?このように
まずしい人でも、お金持ちよりいい点はいっしょうけんめい生きているということです。ま
ずしい人は将来お金持ちになるかもしれません。だから幸せな生活をおくるためにがんばっ
てほしいです。がんばる人は蓮のように、だれもが好きです。
編集者より
蓮に付いていろんな事が解りました。日本で蓮と言えば蓮池の花として「蓮は泤より出でて泤
に染まらず」と清らかさや、仏様の智恵や慈悲の象徴とされています。地下茎は蓮根(レンコ
ン)として食用される馴染みの深いものですが、茎、实と種子が食用になることは知りません
でした。
30
⑤教育青年スポーツ省の概要
当カンボジア・NGOスクールの広報事務員 ター・スレイヌットさんが、前述の高校対抗日
本語スピーチコンテストで1位を獲得したので主催者であるカンボジア教育青年スポーツ省
の概要を掲載します。
1.国家計画
カンボジアにおける教育組織の目標は、子供の素質・精神面・肉体面のすべてにおいて、
充分に発達させることにある。そのために学校では、生徒の自立精神と自信、責任感、団結
感、国家的結束と愛国心を促す義務がある。また同時に、学校は積極的な法と人権の遵守を
生徒に浸透させなければならない。
学校のその他の責務としては、子供達が良き市民となり、共に平和に暮らし、家族の幸福
に責任を持ち、社会的福祉の促進にも貢献するよう育成することである。
公教育は、前述の目標を目指して技術的知識を教え、生徒の個性を伸ばし、さらに労働経
験など生徒及び社会全体にとって有益な活動を、積み重ねていけるよう努力している。
生徒の年齢を考慮すると、初等教育(小中学校)の目的は、精神および肉体的能力の向上
を助けることで、子供達の個性の発達に焦点を当てることにある。生徒は読む・書く・話す・
聞く・計算するといった基本的知識を、課題の解決に応用する事が可能になり、よって社会
の有用な一員となり、簡単な技術の獲得、またはより高度な勉強へと進むことが出来るよう
になる。
中等教育(高等学校)の主な目的は、初等教育での知識を一段と高めることにある。これ
は、生徒の自由な発想と表現、寛容な精神の構築、個々の能力と資質、創造性、人間的な社
会を作るための技術と倫理の向上を確实なものとするためである。
カンボジアの教育システム
3~5歳 幼稚園
6~11歳 小学校
12~14歳 中学校 終了試験を实施する
15~17歳 高等学校または職業訓練校 終了試験を实施する
18~23歳 大学、専門学校(学部により年数が異なる)入学試験あり
2.教育組織の構造
教育青年スポーツ省は、カンボジア全土に教育的活動と事業を提供している。教師と事務
職員合わせて8万人が働いており、これはカンボジアの公務員の約半数にあたる。中央政府
には、大臣、事務次官、副次官の下に4つの局と監査局があり、その下に合わせて21の部
がある。
地方には23の教育行政単位があり(州の数は24だが、シェムリアップと、ウッドーミ
ェンチェイ州は 1 つの単位)、それぞれの州の状況に合わせ教師や事務職員の数は異なるも
のの、基本的には中央に倣った形の組織となっている。
31
これら23の州組織が主に中学校・高等学校の技術的指導をするのに対し、郡や”khan”
の組織は小学校を管轄する。州や郡または”khan”のスタッフは、国家のカリキュラムに沿
った教育を行っているか、継続的に各管轄の学校を監査し、評価する。
3.教育進展のための政策
教育青年スポーツ省は以下4点の政策を掲げている。
・ カンボジア全土に、9年間の基礎教育を行き届かせ、实用的な読み書き能力向上の機会
を増大させる。
・ 効果的な改革を通じ、教育組織の質の近代化と改善に努める。
・ 教育と技術訓練の発展を、社会経済の要請及び労働市場にリンクさせる。
・ 青年とスポーツの分野を、公教育や私教育の場に復活、発展させる。
32
13.カンボジア情報
〔貧富の格差〕
仏教国のカンボジアも日本と同様にクリス
マスを祝ったり洋風のウエディングドレスを
着た結婚式を開催したりと現在では西洋の文
化を多く取り入れ始めています。
右の写真は子供の誕生日を祝うパーティー
なのですが、プロの司会によりイベントが進
行され、合間にプレゼントの受け渡しやハッ
ピーバースデーの歌が歌われるなど、日本で
も滅多に無い程の規模でパーティーが開催さ
れていました。
おそらく、かなり裕福な富裕層の子供のパー
ティーだと思われますが、友人の友人など主催
側とは全く関係ない人でも参加できるほど、カ
ンボジアでは結婚式でも何でもイベントの際
は、かなりオープンな状態で開催されています。
パーティーではボリュームのある豪勢な料理
も出され、ビールやウイスキーを飲んで陽気に
楽しむ人達で溢れていました。
しかし、カンボジア人の生活も格差が大き
く、右の写真のようにパーティー終了間近に
は貧困層の子供たちが会場に押しかけ、残っ
た料理を必死になってビニール袋に集めてい
る姿が見て取れました。
ただ、こういったパーティーで貧困層の子
供たちが会場に入ってきても誰一人として不
機嫌になったり邪魔者扱いしたりすることも
なく、会場で料理や飲み物を運んでいるボー
イも子供たちのために一緒になって余った料
理をかき集めるなど、西洋や日本では見るこ
との出来ない最後まで楽しい雰囲気のパーテ
ィーでした。
2010年(平成22年) 5月 1日
理事
33
横山 祐貴
14.カンボジア王国の基本情報
① 正式国名
カンボジア王国
KINGDOM OF CAMBODIA
② 国旗
トンチェイ(旗) トンチェイ・チェッ(国旗)
日本国国旗は日章旗と言う如く
③ 国歌
ボット・ノーコー・リエツ
BAT NOKOR REACH
④ カンボジアの歴史
紀元前後
前アンコール時代
9世紀初頭
アンコール時代
15世紀
中世
1863-1953 フランス植民地時代
1953-1970 カンボジア王国 シハヌーク時代(フランスから独立)
1970-1975 クメール共和国 ロンノル時代
1975-1979 民主カンプチア ポルポト時代
1979-1991 ヘンサムリン政権 ヘンサムリン時代
1991-1993 カンボジア王国 UNTAC 駐留時期
1993-1997 第1回総選挙 フン・セン首相 ラナニット首相 連立運営首相ふたり体制
1998-
第2回総選挙 フン・セン首相ひとり体制
三大政党
・人民党 ・フンシンペック党 ・サム、レンシー党
⑤ 面積
101,035k ㎡(日本の約50%)
⑥ 人口
約1,338万人(2008年)
⑦ 首都
プノンペン 人口約134万人(2008年)
⑧ 元首
ノロドム・シハモニ国王 NORODOM SHIHAMONI
⑨ 首相
フン・セン HUN SEN
⑩ 政体
立憲君主制
⑪ 民族構成
クメール人が90% ベトナム人、華人(華僑)など20以上の民族が10%
34
⑫ 宗教
クメール人の大半が仏教徒(上座佛教)、その他イスラム教、カトリック
上座佛教とは大乗仏教に対比する小乗仏教の呼称
カンボジア国の仏教徒の信仰する上座佛教は、お釈迦さまがおっしゃった言葉とそれを
記した経典だけを信じている教えです。日本も含めて世界でよりたくさんの人たちが信
仰しているのが大乗仏教で、お釈迦さまの亡くなった後にいろいろな方が書いた本や経
典も信仰の対象としています。
⑬ 言語
公用語はクメール語、旅行関係機関では英語、フランス語、ベトナム語、タイ語、中国語も
ちろん、当カンボジアNGOでは職員始め日本語が通じます。会話は出来ても文字は難しい
様です。職員、生徒の中には日本語、クメール語の同時通訳が出来る者も多くおります。
⑭ 通貨と為替レート
通貨単位はリエル(RIEL)
10,000リエル=$2.39=¥222 2010年(平成22年)4月15日現在
紙幣のみで硬貨はありません。
50、100、200、1,000、2,000、5,000、1万、2万、5万、10万リエル
⑮ 電圧とプラグ
200V 50Hz
プラグ A.B型複合型、A.C型、SE型
高級ホテルでは変圧器貸出しで日本製100V
電気製品も使用可能です。
⑯ チップ
基本的に不要
ホテル ベルボーイ、ルームサービスに対して1,000R(20円)~2,000R(40円)程度
レストラン 高級店以外不要、サービス料が付加されている時は不要
タクシー、バイクタクシー
不要
⑰ 気候
乾季(11月~5月)雤季(6月~10月)涼季(11月~1月)暑季(2月~5月)
⑱ 時差
日本の2時間遅れ、サマータイムはなし
⑲ 度量衡
メートル法
⑳ 入出国
通常の観光ビザで1ヶ月間の滞在が可能
35
21 日本にある大使館、領事館
○
カンボジア王国大使館
〒107-0052 東京都港区赤坂8-6-9
TEL 03-5412-8521
在大阪カンボジア王国名誉領事館
〒530-0013 大阪市北区茶屋町126 エスパシオン梅田ビル9階
TEL 06-6376-2305
在名古屋カンボジア王国名誉領事館
〒453-0843 名古屋市中村区鴨付町2-47 中村ビル1階
TEL 052-419-3006
在福岡カンボジア王国名誉領事館
〒810-0001 福岡市中央区天神1-4-1
西日本新聞会館12階メディアプラネット内
TEL 092-717-1255
36
16.お問合せ・連絡先
(1)特定非営利活動法人カンボジア・エヌジーオー
【主たる事務所】
住
所 :〒811-3425
福岡県宗像市日の里八丁目9番地4
電 話 番 号 :0940-36-7968
F A X 番 号 :0940-36-7968
(2)カンボジアNGO連絡先
【大阪事務局】
住
所 :〒542-0083
大阪市中央区東心斎橋1-4-1
有限会社トノムラ設計事務所内
電 話 番 号 :06-6120-3706
F A X 番 号 :06-6120-3707
E-mail :cambodia@ngo‐jp‐net
【愛知事務局】
住
所 :〒441-1306
愛知県新城市川路字後藤貝津1-1
中川 英夫
電 話 番 号 :0536-23-1827
F A X 番 号 :0536-23-1506
E-mail :cambodia@ngo‐jp‐net
業 務 内 容 :ボランティア先生入校申込受付・対応・管理
メーリングリスト登録解除受付・管理
(3)インターナショナル・カンボジアNGO連絡先
【NGOスクール】
住
所:#72EOA ST261,SANG KAT TOUEK LAAK2,KHAN
TOUL KOK PHNOM PENH
電話番号:総括マネージャ TyDy(ティディ) 016-891-892(英語可)
+
カンボジアNGO公式サイト
http://www.cambodia.npo-jp.net/
37
編集後記
▼ 会報第6号を発行することが出来ました。投稿していただきました中から、掲載原稿を選
択する作業は大層楽しいものです。投稿原稿は全部、順を追って掲載いたします。
▼ 投稿は自由で大歓迎ですので今後共奮ってお願い致します。読者の方々のご意見、ご要望
などございましたらあわせてご連絡を頂けると幸いです。
▼ 編集内容に付いて、年号は西暦(和暦)を併記しています。又姓名はフルネームで記載し
ています。
▼ 会報の記事文中に、現地貨幣リエルが出てくる場合もありますから貨幣換算を掲載します。
貨幣換算2010年(平成22年) 4月15日現在
10,000リエル=$2.39=¥222
▼ お名前等の間違い、誤字脱字等はお許しを下さる様お願い申し上げます。又、間違い訂正
をお知らせいただくことは有難いことです。
▼ 会報は年4回、2月1日、5月1日、8月1日、11月1日発行です。皆様のご協力を切
に願っております。
▼ カンボジアNGO会報は既刊を含めてホームページで閲覧できます。
http://www.cambodia.npo-jp.net/
〈 外村善一 〉
カンボジアNGO会報第6号
2010年(平成22年)5月1日
発 行 人
編
集
編集委員会
委 員 長
副委員長
副委員長
委
員
発 行 所
外村 善一
編集委員会
外村 善一
畠山 敏之
芹沢
勝
横山 祐貴
特定非営利活動法人カンボジア・NGO 大阪事務局
〒542-0083
大阪市中央区東心斎橋1-4-1
有限会社トノムラ設計事務所内
電
話 06-6120-3706
F A X 06-6120-3707
Email cambodia@ngo‐jp‐net