あのブランドはなぜ「名門」とされるのか。 Text:石丸 淳 MASERATI エンジンの供給元を求めていたシトロエンが、オ マイルに優勝している。 フェラーリやアルファ・ロメオと壮絶な戦いを繰 ルシ親子から株を買い取り、オメールの息子アド 第二次世界大戦後、A6 〜 A6GCS を開発、 り広げていたが、この年にレース活動からの撤 ルフォを代表とする。 53 年にはフェラーリやアルファ・ロメオでエンジン 退を表明、表向きのワークス活動から姿を消す。 しかし 73 年のオイルショックにより、またして を設計したジォアッキーノ・コロンボを迎え、F1 しかしその後も、様々なプロトタイプやプライベー も経営が不安定に陥ったマセラーティは、その の名作 250F などでアルベルト・アスカリ、フア トチーム向けに「バード・ケージ」などの名作、 株すべてをベネッリとイノチェンティ、アレハンドロ・ F1 へのエンジン供給などをしていた。 デ・ トマゾに売却、新たな時代を迎える。これが “ビ タイトルを制覇するのだった。 一方、1958 年には本格的な高級グラントゥリ トゥルボ”と呼ばれるツイン・ターボチャージャー・ この時期、エルネストはこの直列 6 気筒 1.5 ズモの量産を計画、3500GT を世に送り出す。 エンジンの時代で、実に 30 を超えるモデルがバ リッターの A6 を少数ながらロードカーとして量産 レーシングカーの 350S 譲りの 3.5 リッター直列 リエーションで発表されている。 することを計画。1947 年のジュネーヴショーで 6 気筒 DOHC エンジンはコロンボ設計によるユ それでも 90 年代を迎えると持ち堪えられずに ピニン・ファリーナ製のボディを架装、マセラーティ ニットの直系で、その性能とエレガントで豪華な 1993 年、デ・トマゾはマセラーティをフィアット 初の市販ロードカーとして発表した。ちなみに A 造りから、当時のフェラーリ製 GT を上回る売り へ売却、他のイタリアのメーカー同様にフィアッ はアルフィエリの A である。 上げを記録した。 ト・グループとなるのだった。しかしフィアットは だが 1947 年の末になるとマセラーティ兄弟た こうして豪華な GT のメーカーとしてマセラー 1997 年 7 月 1 日、同じフィアット傘下のフェラー ちは、オメール・オルシの望む量産車メーカーに ティは大きな転換期を迎え、1963 年には同社 リに株を一時移管した。かつてのライバル、フェ タリアの雄、マセラーティはロンバルディア 次男ビンド、六男エットーレが 興味を示すことなく、オルシとの契約の延長を望 初となる初代のクアトロポルテが発表されてい ラーリとグループになったマセラーティは、潤沢な 州ヴォゲーラに生まれた 7 人のマセラーティ 戻り、七男エルネストを加えて まなかった。自分たちの興したメーカーを去ること る。 資金によって素晴らしいモデルを開発、今まさに 兄弟にその源を持っている。 一人は生を受けて 再出発をする。 にしたのである。 この後 1968 年 1 月、SM に搭載する大きな 最高の時代を迎えているのだ。 から数ヵ月で夭逝してしまうが、他の 6 人につい 1933 年 には 偉 大なレー ては人並み外れて機械やデザインなどに幼少期 サー、タツィオ・ヌヴォラーリ から熱中し、自転車やバイクに傾倒していく。 を開発に迎えたが、自動車製 中でも四男のアルフィエリ・マセラーティは、 造といってもまったくレーシング 長男のカルロとともにイソッタ・フラスキーニで技 カーばかりを造っていたに過ぎ 術者、そしてドライバーとして経験を積んだ後、 ず、実業家のジーノ・ロヴェー イ 1914 年ボローニャ旧市街のペポリ通りに自らの レからの資本を入れても破綻 事務所「ソチエタ・アノニマ・オッフィチーネ・ OFFICINE ALFIERI MASERATI アルフィエリ・マセラーティ」を構える。 マセラーティの名を冠したモデル、直列 8 気筒 1937 年、ついに兄弟の持ち株をモデナのオ そこではトリノのディアットの設計を請け負って 1.5リッターのティーポ 26 であった。 ルシ親子に売り渡して、マセラーティ兄弟は経営 いたが、そのレーシング・プロジェクトが破綻する こうして自動車製造会社としてオッフィチーネ・ からは撤退、ひとまず 1947 年 12 月までの契 とアルフィエリは自分でこのレーシングカーを完成 アルフィエリ・マセラーティはスタートするが、過 約で開発に専念することになるのである。これを し、自身のドライブで 1926 年のタルガ・フロー 去のレース事故の後遺症で 1932 年にアルフィ 機に会社はモデナへと移転。縮小されていたレー エリが亡くなると、その遺志を継いでイソッタから ス活動も再開して、1939、40 年にはアメリカ リオに初出場して優勝してしまう。これが初めて 1926 _ Tipo26 Targa Florio 098 1957 年までレース・シーンでマセラーティは、 ン・マヌエル・ファンジオらが活躍し、ワールド・ そのヒストリーを振り返り、名門の名門たる所以を解き明かす。 vol.04 でウィルバー・ショウがインディアナポリス 500 目前となっていた。 1947 _ A6 Pinin Farina 099
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