道徳の哲学

道徳の哲学
澤山晋太郎†
澤山物理塾
†email:[email protected]
目次
1:初めに
2:道徳の哲学史
3:宗教社会学
4:道徳の哲学
5:まとめ
1:初めに
道徳を哲学しようと思ったのは自分が幼少の時期である。自分は生まれながら哲学の才
能だけはあって、三歳くらいから哲学を語り始めている。その三歳くらいの自分が一番疑
問に思ったのが道徳であった。以後二十歳になるまで延々と考え続けた。そして、今また
宗教の勉強をして、哲学の完成を見ることになった。
古代ソクラテスの時代から道徳こそ最大の疑問であったと思うが、近年は現代思想が流
行るようになって心そのものや言語学の研究が盛んになっている。しかしながら、道徳は
まだ完全には追求されていなかった。そこで自分はこの問題に熱心に取り組むことにした。
または、宗教家たちも道徳の問題を追求してきた。
道徳の定義であるが、心のありようである、もしくは心がどうあるべきかである。現代
において、心、精神、脳とはまだ解明されていないが、そのありようを問題にすることは
非常に有意義であると思う。心がどうあるべきかなどは観測できないので科学的に決定し
ようがない。だからこの問題は難しくなっている。今までの人類は道徳を宗教に依存して
きたとしか言いようがない。科学には必ず観測が入るが、道徳は観測のない学問である。
これこそ哲学で真理の探究をしないとならない分野であり、非常に難しい問題になってい
る。ところで先ほどの「道徳とは心のありようであり、観測できないので科学的に真偽を
決定することはできない」という問いにはソクラテスですら答えられなかった難問である。
実に 2500 年解決できなかったような問題であったりする。
道徳を哲学すること、それは心のありようを疑うことに等しい。それゆえ、精神を病む
人は多い。ニーチェは道徳を哲学的に扱った人であるが統合失調症だったらしい。その他
大勢の無神論者は精神を病んでいる。実は自分も二十歳のころにこの問題に一定の解決を
測るときに精神を病んでいる。探究すれば精神を病むような哲学であったりする。
道徳は心のありようであり、科学的に真偽の決定しようがない。ただ、それを認めるか
どうかによって、心のありようは決定できる。つまるところ、道徳というものには科学的
な根拠など一切なかったりする。それならば心のありように依存しなければいい。自分は
二十歳のころから心のありように依存しないで生きている。これが仏教で言う空であると
は最近になって知った。仏教の教えの中に色即是空という難解なものがあるが、実は自分
は高々二十歳の時にそれに到達していた。ただ、人間というものは心のありようという根
拠のないものに依存しないと生きていけないほど弱い生き物なので、心のありように依存
しないで生きるということは非常に難しく、仏教徒であっても空の概念には簡単には到達
できないものだったりする。
2:道徳の哲学史
道徳を哲学したのはソクラテスの時代に遡る。今から 2500 年くらい前に三人の偉人が考
えていた。ソクラテス、釈迦、孔子の三人が道徳に関して熟考していた。しかしながら、
日本では西洋哲学史の流れで道徳の哲学史を書くことが当たり前になっていて、自分もそ
れに習うつもりである。しかしながら、古代ギリシアでソクラテスが答えられなかったこ
ろに釈迦はそれに答えていたということは十分面白い。
倫理学の歴史はソクラテス以前からあってニコマス倫理学と呼ばれた分野があったが、
それは倫理学であって、道徳の哲学ではなかった。ソクラテスはもちろん、哲学の生みの
親であるし、哲学は学問の生みの親なので、学問の生みの親とも言われる人物である。無
知の知と呼ばれる言葉で有名であったりする。ソクラテス以前から古代ギリシアには哲学
者のような人がいたのだが、ソクラテスはそういう人をソフィストと呼び、知ったかであ
ると言って、無知の知といい始めた。しかしながら、ソクラテスは道徳を哲学していたの
だが、実は一人の青年に論破されている。一人の青年は「道徳とは心のありようであり、
観測ができないので科学的に真偽の決定のしようがないじゃないか」と言われた。その時
にソクラテスがなんと答えたのかというと、
「これは東方で聞いたことだが、世の中には生
まれ変わりというものがあって、人間は生まれ変わって神にもなれるらしいから、人間は
前世で神だったことがあるので知っている」と答えた。もちろん、これは答えになってい
ないと思う。確かに、インドには古代から輪廻という概念があり。天道というものがあっ
て、人間は生まれ変わると神にもなれるらしい。実はソクラテスも無知の知であったとい
うことである。
次にその問題に答えようとしたのはプラトンであった。プラトンは神が人間に憑依する
から分かると言ったのだが、これも答えになっていない。そもそもギリシア神話では神が
人間に憑依して神託を下すようになっていたので、そう答えるのが自然だったのかも知れ
ない。アリストテレスはその問題には答えようとしなかった。
次の時代はアウグスティヌスの時代になってくる。アウグスティヌスは神学大全を書い
て古代ローマにキリスト教を認めさせた人物であるが、ここからキリスト教の倫理学を哲
学者が語るような時代になる。中世ヨーロッパの哲学にはあまり進展がなかったとも言え
る。なかには 12 世紀ルネッサンスがあってヒューマニズムがあったと言っている人もいる
のだが、道徳に関しては進展がなかった。
そこからようやく抜け出すのがカントであったりする。カントは純粋理性批判の中で、
キリスト教は理屈で追求していくと誤りであるが、道徳のために必要と言っている。もち
ろん、純粋理性批判は、純粋なる理性の批判であって、何事も理屈だけでは駄目であると
言っている書物である。ここでカントは道徳は宗教に関係していて間違っているけれど、
理屈では道徳を持てないと言っている。しかし、道徳も理屈で決定できるというのが自分
のこの論文である。
その後に登場するのはニーチェである。ニーチェはキリスト教を全否定して、神は死ん
だなどと言っている。ニーチェの解説書は幾つかあるのだが、書物によって何を否定した
のか意見が分かれている。キリスト教を否定したのか、神を否定したのか、ヨーロッパを
否定したのかよく分からないところがある。ただ道徳の系譜によって、道徳の起源を研究
したり、善悪の彼岸によって、ゾロアスター教から発生した善悪二元論から脱却しようと
している。
それ以降は現代思想と呼ばれる心と言語の時代になってしまって、道徳の研究は一時ス
トップしている状況である。
3:宗教社会学
世界には色々な宗教があるのだが、それらを網羅的に説明しようと思う。もちろん、道
徳の起源は宗教にあるので、それを説明しなくてはならない。ユダヤ教、キリスト教、イ
スラム教、仏教、儒教、色々な神話と話を進めていく。
まずはじめにユダヤ教の説明からしていくのだが、これは一神教の説明でもある。ユダ
ヤ、キリスト、イスラムは基本的に同じ神を信仰している。ユダヤ、キリストではヤーヴ
ェと呼ばれている神であり、イスラムではアッラーと呼ばれている神である。実はこの二
つは呼び方が異なるだけで実際には同じ神だったりする。イスラムが十三億人、キリスト
が二十二億人であり、世界の半分の人が同じ宗教を信じていることになる。ちなみに、聖
書と行ったら旧約聖書のことであり、これはすべて共通している。では、ユダヤ、キリス
ト、イスラムでは何が信仰されているかというと、終末思想というものが信じられている。
終末思想というものは世界がいつか終わってしまう時があり、その時に人類を復活させて
最後の審判というものを行い、天国に行かせるか地獄の業火に焼かせるかするらしい。そ
れがこの三つの宗教で同じことだったりする。つまるところ、一神教では生き返りという
ものを信じている。ではユダヤ、キリスト、イスラムでは何が異なるのかというと、預言
者が異なる。ユダヤ教では預言者が現れることになっているが、ユダヤ教ではアブラハム
が預言者で、キリスト教ではキリストが預言者で、イスラム教ではムハンマドが預言者で
ある。キリスト教とイスラム教はたまに対立するのだが、キリスト教の中には三位一体説
というものがあって、キリストが神と同格になっていたり、イスラム教ではムハンマドが
最後で最大の預言者ということになっているので対立をするのかなぁと思っている。一神
教の場合は聖書の教えであったり、コーランの教えが道徳になっている。しかし、重要な
のは神を信じることにある。信じる者は救われるとはよく言ったものである。日本人なら
ば神は人間の形をしていると思うだろうが、一神教の場合は神には姿かたちはないものだ
と思われている。ここで神を定義するのなら、人間の知らないことを知っているとか、カ
オスの結果を知っていると定義できる。例えば、道徳的に正しいことは神のみぞ知るとい
う考え方になっていたりする。また、もしも、ここに南北に一本の線を引いて、その上に
棒を立てて右に落ちたら生きることにして、左に落ちたら死ぬことにしよう。日本人なら
ば左に落ちて死ぬことになったら、なんて不条理なんだろうと思うだろうが、神を信じて
いる人は、それは神は知っていたし、神の意志であるという考えになり、不条理という概
念は生じないようになっている。不条理の文学を書き始めたカミュなどもニーチェによっ
て神を否定され無神論に走ったためである。不条理の文学というものは全てニーチェ以降
であるし、一神教の下では不条理という概念が生じてこなかった。まあ、一神教の道徳観
というのはこの程度のものである。
次に仏教の説明をするのだが、仏教は四法印と色即是空という五つの言葉だけを知って
いればいいことになる。四法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦の四つで
ある。勿論、仏教には中道八正の教えや、輪廻の教えもあるのだが、一番重要なのは四法
印と色即是空である。ただし、仏教の道徳というものは中道八正や輪廻の教えに基づくも
のが多い。輪廻という生まれ変わりを信じるがために殺生などができないようになってい
る。では四法印の説明であるが、これは一切皆苦から始まる。つまり、全ては苦痛である
が、それは諸行無常であるからであり、そのために諸法無我に至ることによって涅槃寂静
に至ろうという教えである。一切皆苦は一切のものは皆苦痛であるという教えであり、諸
行無常とは世の中は移ろい変わるけれど、その中でも普遍的なものがあることであり、そ
れを発見せよということである。諸法無我とはありとあらゆる教えは無我の境地に至るこ
とであるということであるが、ここで無我というのは非常に難しいために色即是空という
ものがある。涅槃寂静とは諸法無我によって心を平静に保とうということである。仏教に
は目的があって仏陀になることが目的である。釈迦を信じることは仏教ではなかったりす
る。仏教では何かを信じたりしないことが重要である。
では、儒教であるが、儒教は孔子や草子の言ったことを守ることである。ただ、儒教で
は死後の世界がないので宗教ではないとか言われる。両親を大事にしろなどと差別的な宗
教とも言われる。
最後に神話であるが、日本神話など自然信仰という原始的な神話や信仰もあるのだが、
ギリシア神話という何かの概念の神を信じる多神教もあるし、北欧神話というあまり宗教
ではないような神話もあったりする。
ではここで仏教とキリスト教を比較してみる。仏教には空という教えがあり、キリスト
教には博愛という教えがある。これはもともと人間は弱いという大前提に則ったものであ
り、仏教が人間の弱さを克服するものであって、キリスト教は人間の弱さを認めて弱いま
ま生きるということであったりする。仏教の教えは先程言ったように、涅槃寂静という精
神的に非常に強い状態になって仏陀になることが目標である。しかし、キリスト教を理解
するためには原罪という概念が非常に大事である。両方の宗教とも、人間は弱いために強
くなろうとするものである。キリスト教の場合は人間の弱さは克服できないものとして、
それを元から人間に備わっている罪として原罪と呼んでいる。人を傷つけたことがない人
間などいないであろう。人間は誰もが罪人である。これを意識することによって他人が自
分を傷つけたとしてもそれは人間の原罪から発生するものだと思うことによって博愛とい
う概念が生まれるようになっている。自分としては仏教の空とキリスト教の博愛を極めた
のは自分くらいではないのかと思っているくらいである。それに対して、仏教の空という
概念は、人間が他人を傷つけるのは人間が心のありように依存しているからであり、その
弱さを克服することによって精神的に強くなろうとするものである。宗教でもその教えと
いうものはある程度科学して導き出していると思う。
4:道徳の哲学
さてと、今までで道徳の哲学史と宗教社会学は終わった。それで、道徳を哲学するとす
るならば、道徳というのは全て根拠のないものであって、それに依存しないで生きるとい
うのが最も科学的に正しいことになる。しかも、それが仏教の空という考えでもある。宗
教以外にも科学的な道徳というものがひとつだけあって功利主義と呼ばれるものがあるの
だが、あれは最大多数の最大幸福を追求する主義である。自由主義や資本主義にもつなが
る主義であったりする。しかし、道徳の真理というものは、道徳が全て根拠のないもので
あるから、それに依存しないというのが正しい。しかし、心のありように依存しないで生
きるというのは常人では発狂するほど難しいものであったりする。人間は何か正しいと思
っていないと生きられないほどに弱い生き物である。それゆえに心のありようには依存し
て生きている。道徳を理屈で考えるのを避けたり、宗教に依存している。確かに、自分も
二十歳の時に道徳を哲学し終わったときに道徳には一切の根拠がないと導き出したが、そ
の頃に精神を病むことになった。それを一年かけて実践するようになったりした。その一
年間が非常に大変な時期でもあった。仏教の空を極める人は釈迦以外に日本では空海がい
るし、空海以来では自分くらいかなぁと思ったりする。それほどに、色即是空という概念
は難しい。しかも、自分はキリスト教の博愛も極めているので、そんな人は世界にただ一
人であろと思っている。ちなみに、博愛を理解しないと愛というものを理解できないよう
になっている。日本人の大半が愛を理解しないで愛を語っていると思っている。しかし、
道徳を哲学するということは道徳の根拠ないことを導きだして、それでも依存するという
カントの考えと、根拠がないから依存しないで生きるという二通りの考え方があるであろ
う。しかし、道徳は全て間違いであるから、依存しないで生きるというのが科学的に正し
いと言える。