好色 芥川龍之介 平中といふ色ごのみにて、 宮仕人はさらなり、人の女

好色
芥川龍之介
へいちゆう
むすめ
平中といふ色ごのみにて、
みやづかへびと
宮仕人はさらなり、人の女
など忍びて見
あ は
宇治拾遺物語
ぬはなかりけり。
いか
何でかこの人に不会では止
1
しに
まむと思ひ迷ける程に、平
やみつき
中病付にけり。
しかうし なやみ
然て悩ける程に死にけり。
今昔物語
色を好むといふは、かやう
十訓抄
のふるまひなり。
一 画姿
2
たいへい
しも
泰平の時代にふさはしい、優美
ゑ ぼ し
なきらめき烏帽子の下には、下ぶ
くれの顔がこちらを見てゐる。そ
のふつくりと肥つた頬に、鮮かな
えんじ
赤みがさしてゐるのは、何も臙脂
す
をぼかしたのではない。男には珍
ひん
しい餅肌が、自然と血の色を透か
ひげ
せたのである。髭は品の好い鼻の
下に、︱︱と云ふよりも薄い唇の
は
左右に、丁度薄墨を刷いたやうに、
3
僅ばかりしか残つてゐない。しか
びん
しつややかな鬢の上には、霞も立
たない空の色さへ、ほんのりと青
びん
みを映してゐる。耳はその鬢のは
あが
づれに、ちよいと上つた耳たぶだ
はまぐり
け見える。それが蛤の貝のやうな、
暖かい色をしてゐるのは、かすか
な光の加減らしい。眼は人よりも
うち
い つ
細い中に、絶えず微笑が漂つてゐ
ほとんど
る。殆その瞳の底には、何時でも
4
咲き匂つた桜の枝が、浮んでゐる
のかと思ふ位、晴れ晴れした微笑
が漂つてゐる。が、多少注意をす
そ こ
れば、其処には必しも幸福のみが
住まつてゐない事がわかるかも知
しやうけ
れない。これは遠い何物かに、※
い
※を持つた微笑である。同時に又
いつさい
むし
手近い一切に、軽蔑を抱いた微笑
くび
である。頸は顔に比べると、寧ろ
きやしや
華奢すぎると評しても好い。その
5
かざみ
頸には白い汗衫の襟が、かすかに
すゐかん
香を焚きしめた、菜の花色の水干
ゑが
の襟と、細い一線を画いてゐる。
顔の後にほのめいてゐるのは、鶴
きちやう
を織り出した几帳であらうか? めまつ
それとものどかな山の裾に、女松
を描いた障子であらうか? 兎に
あかる
角曇つた銀のやうな、薄白い明み
が拡がつてゐる。⋮⋮
これが古い物語の中から、わた
6
たひら さだぶみ
あめ
した
いろ
しの前に浮んで来た﹁天が下の色
ごの
好み﹂平の貞文の似顔である。平
よしかぜ
あだな
の好風に子が三人ある、丁度その
へいちゆう
の似顔である。
D
次男に生まれたから、平中と渾名
Juan
を呼ばれたと云ふ、わたしの
on
二 桜
平中は柱によりかかりながら、
7
漫然と桜を眺めてゐる。近々と軒
に迫つた桜は、もう盛りが過ぎた
あ
らしい。そのやや赤みの褪せた花
には、永い昼過ぎの日の光が、さ
かは
し交した枝の向き向きに、複雑な
影を投げ合つてゐる。が、平中の
眼は桜にあつても、平中の心は桜
にない。彼はさつきから漫然と、
じじゆう
侍従の事を考へてゐる。
﹁始めて侍従を見かけたのは、︱
8
︱﹂
平中はかう思ひ続けた。
﹁始めて侍従を見かけたのは、︱
い つ
︱あれは何時の事だつたかな? いなりまう
さうさう、何でも稲荷詣でに出か
はつうま
けると云つてゐたのだから、初午
の朝だつたのに違ひない。あの女
が車へ乗らうとする、おれが其処
の起りだつた。顔は扇をかざした
へ通りかかる、︱︱と云ふのが抑々
そもそも
9
うちぎ
陰にちらりと見えただけだつたが、
もえぎ
紅梅や萌黄を重ねた上へ、紫の袿
ようす
をひつかけてゐる、︱︱その容子
が何とも云へなかつた。おまけに
はこ
※へはひる所だから、片手に袴を
まま
つかんだ儘、心もち腰をかがめ加
おん
減にした、︱︱その又恰好もたま
おとど
らなかつたつけ。本院の大臣の御
やかた
屋形には、ずゐぶん女房も沢山ゐ
るが、まづあの位なのは一人もな
10
ほ
いな。あれなら平中が惚れたと云
つても、︱︱﹂
まがほ
平中はちよいと真顔になつた。
﹁だが本当に惚れてゐるかしら?
惚れてゐると云へば、惚れてゐ
るやうでもあるし、惚れてゐない
と云へば、惚れて、︱︱一体こん
な事は考へてゐると、だんだんわ
からなくなるものだが、まあ一通
りは惚れてゐるな。尤もおれの事
11
だから、いくら侍従に惚れたと云
くら
つても、眼さきまで昏んでしまひ
のりざね
うら
はしない。何時かあの範実のやつ
うはさ
と、侍従の噂をしてゐたら、憾む
らくは髪が薄すぎると、聞いた風
な事を云つたつけ、あんな事は一
目見た時にもうちやんと気がつい
のりざね
てゐたのだ。範実などと云ふ男は、
ひちりき
篳篥こそちつとは吹けるだらうが、
かうしよく
好色の話となつた日には、︱︱ま
12
あ、あいつはあいつとして置け。
差向きおれが考へたいのは、侍従
一人の事なのだから、︱︱所でも
う少し欲を云へば、顔もあれぢや
ゑまき
寂しすぎるな。それも寂しすぎる
ど こ
と云ふだけなら、何処か古い画巻
じみた、上品な所がある筈だが、
寂しい癖に薄情らしい、妙に落着
いた所があるのは、どう考へても
頼もしくない。女でもああ云ふ顔
13
をしたのは、存外人を食つてゐる
ものだ。その上色も白い方ぢやな
い、浅黒いとまでは行かなくつて
こはくいろ
も、琥珀色位な所はあるな。しか
ふる
し何時見てもあの女は、何だかか
みづぎは
う水際立つた、震ひつきたいやう
な風をしてゐる。あれは確かにど
の女も、真似の出来ない芸当だら
う。⋮⋮﹂
平中は袴の膝を立てながら、う
14
つとりと軒の空を見上げた。空は
むらが
簇つた花の間に、薄青い色をなご
ませてゐる。
﹁それにしてもこの間から、いく
ふみ
ら文を持たせてやつても、返事一
つよこさないのは、剛情にも程が
あるぢやないか? まあおれが文
なび
をつけた女は、大抵は三度目に靡
いてしまふ。たまに堅い女があつ
ても、五度と文をやつた事はない。
15
ゑげん
あの恵眼と云ふ仏師の娘なぞは、
一首の歌だけに落ちたものだ。そ
れもおれの作つた歌ぢやない。誰
よしすけ
かが、さうさう、︱︱義輔が作つ
た歌だつけ。義輔はその歌を書い
てやつても、とんと先方の青女房
には相手にされなかつたとか云ふ
話だが、同じ歌でもおれが書けば
︱︱尤も侍従はおれが書いても、
やつぱり返事はくれなかつたから、
16
あんまり自慢は出来ないかも知れ
ない。しかし兎に角おれの文には
必ず女の返事が来る、返事が来れ
ば逢ふ事になる。逢ふ事になれば
大騒ぎをされる。大騒ぎをされれ
ば︱︱ぢきに又それが鼻について
しまふ。かうまあ相場がきまつて
ゐたものだ。所が侍従には一月ば
かりに、ざつと二十通も文を書い
たが、何とも便りがないのだから
17
えんしよ
な。おれの艶書の文体にしても、
さう無際限にある訳ぢやなし、そ
ろそろもう跡が続かなくなつた。
だが今日やつた文の中には、﹃せ
ふたもじ
めては唯見つとばかりの、二文字
だに見せ給へ﹄と書いてやつたか
ら、何とか今度こそ返事があるだ
らう。ないかな? もし今日も亦
ないとすれば、︱︱ああ、ああ、
おれもついこの間までは、こんな
18
事に気骨を折る程、意気地のない
人間ぢやなかつたのだがな。何で
ぶらくゐん
も豊楽院の古狐は、女に化けると
云ふ事だが、きつとあの狐に化か
されたのは、こんな気がするのに
違ひない。同じ狐でも奈良坂の狐
みかか
ぎつしや
は、三抱へもあらうと云ふ杉の木
め
わらは
に化ける。嵯峨の狐は牛車に化け
かやがは
る。高陽川の狐は女の童に化ける。
ももぞの
桃薗の狐は大池に化け︱︱狐の事
19
い
なぞはどうでも好い。ええと、何
を考へてゐたのだつけ?﹂
かみころ
うづ
平中は空を見上げた儘、そつと
あくび
欠伸を噛殺した。花に埋まつた軒
先からは、傾きかけた日の光の中
に、時々白いものが飜つて来る。
何処かに鳩も啼いてゐるらしい。
こんま
﹁兎に角あの女には根負けがする。
たとひ逢ふと云はないまでも、お
れと一度話さへすれば、きつと手
20
せつ
に入れて見せるのだがな。まして
こちゆうじやう
一晩逢ひでもすれば、︱︱あの摂
つ
津でも小中将でも、まだおれを知
らない内は、男嫌ひで通してゐた
ものだ。それがおれの手にかかる
と、あの通り好きものになるぢや
かなぼとけ
ないか? 侍従にした所が金仏ぢ
やなし、有頂天にならない筈はあ
るまい。しかしあの女はいざとな
つても、小中将のやうには恥しが
21
るまいな。と云つて又摂津のやう
に、妙にとりすます柄でもあるま
い。きつと袖を口へやると、眼だ
けにつこり笑ひながら、︱︱﹂
﹁殿様。﹂
﹁どうせ夜の事だから、切り燈台
ゑ ぼ
か何かがともつてゐる。その火の
光があの女の髪へ、︱︱﹂
﹁殿様。﹂
あわ
平中はやや慌てたやうに、烏帽
22
し
い つ
子の頭を後へ向けた。後には何時
わらべ
か童が一人、ぢつと伏し眼になり
ふみ
ながら、一通の文をさし出してゐ
る。何でもこれは一心に、笑ふの
をこらへてゐたものらしい。
せうそこ
﹁消息か?﹂
﹁はい、侍従様から、︱︱﹂
そうそう
童はかう云ひ終ると、※々主人
さが
の前を下つた。
﹁侍従様から? 本当かしら?﹂
23
ほとんど
うすえふ
平中は殆恐る恐る、青い薄葉の
文を開いた。
いたづら
﹁範実や義輔の悪戯ぢやないか?
あいつ等はみんなこんな事が、
ひまじん
何よりも好きな閑人だから、︱︱
おや、これは侍従の文だ。侍従の
文には違ひないが、︱︱この文は、
これは、何と云ふ文だい?﹂
はふ
平中は文を抛り出した。文には
ふたもじ
﹁唯見つとばかりの、二文字だに
24
見せ給へ﹂と書いてやつた、その
﹁見つ﹂と云ふ二文字だけが、︱
︱しかも平中の送つた文から、こ
の二文字だけ切り抜いたのが、薄
した
葉に貼りつけてあつたのである。
あめ
﹁ああ、ああ、天が下の色好みと
ば か
か云はれるおれも、この位莫迦に
されれば世話はないな。それにし
こづら
ても侍従と云ふやつは、小面の憎
い女ぢやないか? 今にどうする
25
か覚えてゐろよ。⋮⋮﹂
平中は膝を抱へた儘、茫然と桜
の梢を見上げた。青い薄葉の飜つ
た上には、もう風に吹かれた落花
が、点々と幾ひらもこぼれてゐる。
⋮⋮
三 雨夜
それから二月程たつた後である。
26
ながあめ
或長雨の続いた夜、平中は一人本
つぼね
院の侍従の局へ忍んで行つた。雨
すさ
は夜空が溶け落ちるやうに、凄ま
でいねい
じい響を立ててゐる。路は泥濘と
云ふよりも、大水が出たのと変り
はない。こんな晩にわざわざ出か
けて行けば、いくらつれない侍従
でも、憐れに思ふのは当然である、
︱︱かう考へた平中は、局の口へ
うかが
窺ひよると、銀を張つた扇を鳴ら
27
わらは
しながら、案内を請ふやうに咳ば
らひをした。
め
すると十五六の女の童が、すぐ
ね
に其処へ姿を見せた。ませた顔に
おしろい
白粉をつけた、さすがに睡むさう
な女の童である。平中は顔を近づ
けながら、小声に侍従へ取次を頼
んだ。
一度引きこんだ女の童は、局の
口へ帰つて来ると、やはり小声に
28
こんな返事をした。
﹁どうかこちらに御待ち下さいま
し。今に皆様が御休みになれば、
御逢ひになるさうでございますか
ら。﹂
平中は思はず微笑した。さうし
て女の童の案内通り、侍従の居間
やりど
の隣らしい、遣戸の側に腰を下し
た。
﹁やつぱりおれは智慧者だな。﹂
29
女の童が何処かへ退いた後、平
中は独りにやにやしてゐた。
﹁さすがの侍従も今度と云ふ今度
は、とうとう心が折れたと見える。
とかく
兎角女と云ふやつは、ものの哀れ
を感じ易いからな。其処へ親切気
を見せさへすれば、すぐにころり
かんどころ
のりざね
と落ちてしまふ。かう云ふ甲所を
よしすけ
知らないから、義輔や範実は何と
云つても、︱︱待てよ。だが今夜
30
うま
逢へると云ふのは、何だか話が旨
すぎるやうだぞ。︱︱﹂
平中はそろそろ不安になつた。
﹁しかし逢ひもしないものが、逢
ふと云ふ訳もなささうなものだ。
するとおれのひがみかな? 何し
ろざつと六十通ばかり、のべつに
文を持たせてやつても、返事一つ
貰へなかつたのだから、ひがみの
起るのも尤もな話だ。が、ひがみ
31
ではないとしたら、︱︱又つくづ
く考へると、ひがみではない気も
ほだ
しない事はない。いくら親切に絆
されても、今までは見向きもしな
かつた侍従が、︱︱と云つても相
手はおれだからな。この位平中に
お
思はれたとなれば、急に心も融け
るかも知れない。﹂
えもん
平中は衣紋を直しながら、怯づ
お
怯づあたりを透かして見た。が、
32
ほか
彼のゐまはりには、くら闇の外に
何も見えない。その中に唯雨の音
ひはだぶき
が、檜肌葺の屋根をどよませてゐ
る。
﹁ひがみだと思へば、ひがみのや
うだし、ひがみでないと、︱︱い
や、ひがみだと思つてゐれば、ひ
がみでも何でもなくなるし、ひが
みでないと思つてゐれば、案外ひ
がみですみさうな気がする。一体
33
運なぞと云ふやつは、皮肉に出来
てゐるものだからな。して見れば、
いつしん
何でも一心にひがみでないと思ふ
事だ。さうすると今にもあの女が、
なるほど
︱︱おや、もうみんな寝始めたら
しいぞ。﹂
そばだ
平中は耳を側立てた。成程ふと
あひかはらず を や
ごぜん
気がついて見れば、不相変小止み
うせい
ない雨声と一しよに、御前へ詰め
つぼねつぼね
てゐた女房たちが局々に帰るらし
34
い、人ざわめきが聞えて来る。
はん
﹁此処が辛抱のし所だな。もう半
とき
時もたちさへすれば、おれは何の
造作もなく、日頃の思ひが晴らさ
はら
れるのだ。が、まだ何だか肚の底
には、安心の出来ない気もちもあ
るぞ。さうさう、これが好いのだ
つけ。逢はれないものだと思つて
ゐれば、不思議に逢ふ事が出来る
ものだ。しかし皮肉な運のやつは、
35
むなさんよう
さう云ふおれの胸算用も見透かし
てしまふかも知れないな。ぢや逢
はれると考へようか? それにし
ても勘定づくだから、やつぱりこ
ちらの思ふやうには、︱︱ああ、
胸が痛んで来た。一そ何か侍従な
ぞとは、縁のない事を考へよう。
大分どの局もひつそりしたな。聞
えるのは雨の音ばかりだ。ぢや早
速眼をつぶつて、雨の事でも考へ
36
るとしよう。春雨、五月雨、夕立、
秋雨、⋮⋮秋雨と云ふ言葉がある
かしら? 秋の雨、冬の雨、雨だ
あまりよう
り、雨漏り、雨傘、雨乞ひ、雨竜、
あまがは
雨蛙、雨革、雨宿り、⋮⋮﹂
こんな事を思つてゐる内に、思
ひがけない物の音が、平中の耳を
驚かせた。いや、驚かせたばかり
らいがう
ではない、この音を聞いた平中の
み だ
顔は、突然弥陀の来迎を拝した、
37
信心深い法師よりも、もつと歓喜
やりど
に溢れてゐる。何故と云へば遣戸
はづ
の向うに、誰か懸け金を外した音
が、はつきり耳に響いたのである。
平中は遣戸を引いて見た。戸は
しきゐ
彼の思つた通り、するりと閾の上
すべ
こ
を辷つた。その向うには不思議な
そらだき
程、空焚の匂が立ち罩めた、一面
の闇が拡がつてゐる。平中は静か
に戸をしめると、そろそろ膝で這
38
ひながら、手探りに奥へ進み寄つ
なまめ
た。が、この艶いた闇の中には、
天井の雨の音の外に、何一つ物の
けはひもしない。たまたま手がさ
いかう
はつたと思へば、衣桁や鏡台ばか
りである。平中はだんだん胸の動
悸が、高まるやうな気がし出した。
﹁ゐないのかな? ゐれば何とか
云ひさうなものだ。﹂
かう彼が思つた時、平中の手は
39
偶然にも柔かな女の手にさはつた。
きぬ
それからずつと探りまはすと、絹
うちぎぬ
らしい打衣の袖にさはる。その衣
の下の乳房にさはる。円々した頬
あご
や顋にさはる。氷よりも冷たい髪
にさはる。︱︱平中はとうとうく
ら闇の中に、ぢつと独り横になつ
た、恋しい侍従を探り当てた。
これは夢でも幻でもない。侍従
は平中の鼻の先に、打衣一つかけ
40
た儘、しどけない姿を横たへてゐ
る。彼は其処にゐすくんだなり、
我知らずわなわな震へ出した。が、
侍従は不相変、身動きをする気色
さへ見えない。こんな事は確か何
かの草紙に、書いてあつたやうな
ほかげ
心もちがする。それともあれは何
おほとのあぶら
年か以前、大殿油の火影に見た何
かの画巻にあつたのかも知れない。
かたじけ
﹁忝ない。忝ない。今まではつれ
41
かうご
ないと思つてゐたが、もう向後は
御仏よりも、お前に身命を捧げる
つもりだ。﹂
平中は侍従を引き寄せながら、
ささや
うはあご
かうその耳に囁かうとした。が、
せ
いくら気は急いても、舌は上顋に
引ついた儘、声らしいものは口へ
出ない。その内に侍従の髪の匂や、
妙に暖い肌の匂は、無遠慮に彼を
包んで来る。︱︱と思ふと彼の顔
42
へは、かすかな侍従の息がかかつ
た。
一瞬間、︱︱その一瞬間が過ぎ
てしまへば、彼等は必ず愛欲の嵐
め
わらは
に、雨の音も、空焚きの匂も、本
おとど
院の大臣も、女の童も忘却してし
きは
まつたに相違ない。しかしこの際
せつな
どい刹那に侍従は半ば身を起すと、
平中の顔に顔を寄せながら、恥し
さうな声を出した。
43
﹁お待ちなさいまし。まだあちら
の障子には、懸金が下してござい
ませんから、あれをかけて参りま
す。﹂
うなづ
ぬく
平中は唯頷いた。侍従は二人の
しとね
褥の上に、匂の好い暖みを残した
儘、そつと其処を立つて行つた。
﹁春雨、侍従、弥陀如来、雨宿り、
雨だれ、侍従、侍従、⋮⋮﹂
あ
平中はちやんと眼を開いたなり、
44
彼自身にも判然しない、いろいろ
な事を考へてゐる。すると向うの
くら闇に、かちりと懸金を下す音
がした。
﹁雨竜、香炉、雨夜のしなさだめ、
ぬば玉の闇のうつつはさだかなる
夢にいくらもまさらざりけり、夢
にだに、︱︱どうしたのだらう?
懸け金はもう下りたと思つたが、
︱︱﹂
45
もた
平中は頭を擡げて見た。が、あ
たりにはさつきの通り、空焚きの
ゆか
匂が漂つた、床しい闇があるばか
りである。侍従は何処へ行つたも
のか、衣ずれの音も聞えて来ない。
﹁まさか、︱︱いや、事によると、
︱︱﹂
しとね
平中は褥を這ひ出すと、又元の
やうに手探りをしながら、向うの
たど
障子へ辿りついた。すると障子に
46
は部屋の外から、厳重に懸け金が
下してある。その上耳を澄ませて
見ても、足音一つさせるものはな
い。局々が大雨の中に、いづれも
ひつそりと寝静まつてゐる。
﹁平中、平中、お前はもう天が下
の色好みでも何でもない。︱︱﹂
平中は障子に寄りかかつた儘、
失心したやうに呟いた。
﹁お前の容色も劣へた。お前の才
47
のりざね
も元のやうぢやない。お前は範実
よしすけ
や義輔よりも、見下げ果てた意気
地なしだ。⋮⋮﹂
四 好色問答
これは平中の二人の友達︱︱義
輔と範実との間に交換された、或
無駄話の一節である。
48
義輔 ﹁あの侍従と云ふ女には、
さすがの平中もかなはないさうだ
ね。﹂
範実 ﹁さう云ふ噂だね。﹂
い
義輔 ﹁あいつには好い見せしめ
によごかうい
だよ。あいつは女御更衣でなけれ
ば、どんな女にでも手を出す男だ。
こ
ちつとは懲らしてやる方が好い。﹂
範実 ﹁へええ、君も孔子の御弟
子か?﹂
49
義輔 ﹁孔子の教なぞは知らない
がね。どの位女が平中の為に、泣
かされたか位は知つてゐるのだ。
ついで
もう一言次手につけ加へれば、ど
の位苦しんだ夫があるか、どの位
腹を立てた親があるか、どの位怨
んだ家来があるか、それもまんざ
ら知らないぢやない。さう云ふ迷
こ
惑をかける男は当然鼓を鳴らして
責むべき者だ。君はさう考へない
50
かね?﹂
範実 ﹁さうばかりも行かないか
なるほど
らね。成程平中一人の為に、世間
は迷惑してゐるかも知れない。し
かしその罪は平中一人が、負ふべ
きものでもなからうぢやないか?﹂
義輔 ﹁ぢや又外に誰が負ふのだ
ね?﹂
範実 ﹁それは女に負はせるの
さ。﹂
51
義輔 ﹁女に負はせるのは可哀さ
うだよ。﹂
範実 ﹁平中に負はせるのも可哀
さうぢやないか?﹂
く ど
義輔 ﹁しかし平中が口説いたの
だからな。﹂
か
範実 ﹁男は戦場に太刀打ちをす
ねくび
るが、女は寝首しか掻かないのだ。
人殺しの罪は変るものか。﹂
義輔 ﹁妙に平中の肩を持つな。
52
だがこれだけは確かだらう? 我々
は世間を苦しませないが、平中は
世間を苦しませてゐる。﹂
範実 ﹁それもどうだかわからな
い か
いね。一体我々人間は、如何なる
きずつ
因果か知らないが、互に傷け合は
ないでは、一刻も生きてはゐられ
ないものだよ。唯平中は我々より
も、余計に世間を苦しませてゐる。
この点は、ああ云ふ天才には、や
53
むを得ない運命だね。﹂
義輔 ﹁冗談ぢやないぜ。平中が
天才と一しよになるなら、この池
どぢやう
の鰌も竜になるだらう。﹂
範実 ﹁平中は確かに天才だよ。
あの男の顔に気をつけ給へ。あの
ふみ
男の声を聞き給へ。あの男の文を
読んで見給へ。もし君が女だつた
ら、あの男と一晩逢つて見給へ。
あの男は空海上人だとか小野道風
54
だとかと同じやうに、母の胎内を
離れた時から、非凡な能力を授か
つて来たのだ。あれが天才でない
と云へば、天下に天才は一人もゐ
ない。その点では我々二人の如き
も、到底平中の敵ぢやないよ。﹂
義輔 ﹁しかしだね。しかし天才
は君の云ふやうに、罪ばかり作つ
てはゐないぢやないか? たとへ
ば道風の書を見れば、微妙な筆力
55
ずき
に動かされるとか、空海上人の誦
やう
経を聞けば︱︱﹂
範実 ﹁僕は何も天才は、罪ばか
り作ると云ひはしない。罪も作る
と云つてゐるのだ。﹂
義輔 ﹁ぢや平中とは違ふぢやな
いか? あいつの作るのは罪ばか
りだぜ。﹂
範実 ﹁それは我々にはわからな
ろく
い筈だ。仮名も碌に書けないもの
56
には、道風の書もつまらないぢや
しんじんき
ないか? 信心気のちつともない
ずきやう
ものには、空海上人の誦経よりも、
くぐつ
傀儡の歌の方が面白いかも知れな
くどく
い。天才の功徳がわかる為には、
こちらにも相当の資格が入るさ。﹂
義輔 ﹁それは君の云ふ通りだが
そんじや
ね、平中尊者の功徳なぞは、︱︱﹂
範実 ﹁平中の場合も同じぢやな
いか? ああ云ふ好色の天才の功
57
徳は、女だけが知つてゐる筈だ。
君はさつきどの位女が平中の為に
泣かされたかと云つたが、僕は反
対にかう云ひたいね。どの位女が
平中の為に、無上の歓喜を味はつ
たか、どの位女が平中の為に、し
みじみ生き甲斐を感じたか、どの
位女が平中の為に、犠牲の尊さを
教へられたか、どの位女が平中の
為に、︱︱﹂
58
義輔 ﹁いや、もうその位で沢山
よろひむしや
だよ。君のやうに理窟をつければ、
か か し
案山子も鎧武者になつてしまふ。﹂
範実 ﹁君のやうに嫉妬深いと、
鎧武者も案山子と思つてしまふ
ぜ。﹂
義輔 ﹁嫉妬深い? へええ、こ
れは意外だね。﹂
いん
範実 ﹁君は平中を責める程、淫
ぽん
奔な女を責めないぢやないか? 59
たとひ口では責めてゐても、肚の
底で責めてゐまい。それはお互に
男だから、何時か嫉妬が加はるの
だ。我々はみんな多少にしろ、も
し平中になれるものなら、平中に
なつて見たいと云ふ、人知れない
野心を持つてゐる。その為に平中
むほんにん
は謀叛人よりも、一層我々に憎ま
れるのだ。考へて見れば可哀さう
だよ。﹂
60
義輔 ﹁ぢや君も平中になりたい
かね?﹂
範実 ﹁僕か? 僕はあまりなり
たくない。だから僕が平中を見る
のは、君が見るのよりも公平なの
だ。平中は女が一人出来ると、忽
ちその女に飽きてしまふ。さうし
て誰か外の女に、可笑しい程夢中
ふざん
しんによ
になつてしまふ。あれは平中の心
い つ
の中には、何時も巫山の神女のや
61
じんりん
うな、人倫を絶した美人の姿が、
はうふつ
髣髴と浮んでゐるからだよ。平中
は何時も世間の女に、さう云ふ美
しさを見ようとしてゐる。実際惚
れてゐる時には、見る事が出来た
と思つてゐるのだ。が、勿論二三
しんきろう
度逢へば、さう云ふ蜃気楼は壊れ
てしまふ。その為にあいつは女か
う
ら女へ、転々と憂き身をやつしに
まつぽふ
行くのだ。しかも末法の世の中に、
62
そんな美人のゐる筈はないから、
結局平中の一生は、不幸に終るよ
り仕方がない。その点では君や僕
の方が、遙かに仕合せだと云ふも
のさ。しかし平中の不幸なのは、
云はば天才なればこそだね。あれ
は平中一人ぢやない。空海上人や
小野道風も、きつとあいつと似て
ゐたらう。兎に角仕合になる為に
は、御同様凡人が一番だよ⋮⋮。﹂
63
五 まりも美しとなげ
く男
へいちゆう
ひとけ
平中は独り寂しさうに、本院の
つぼね
侍従の局に近い、人気のない廊下
に佇んでゐる。その廊下の欄にさ
した、油のやうな日の色を見ても、
そうそう
ぬ
又今日は暑さが加はるらしい。が、
ひさし
庇の外の空には、簇々と緑を抽い
た松が、静かに涼しさを守つてゐ
64
る。
﹁侍従はおれを相手にしない。お
れももう侍従は思ひ切つた。︱︱﹂
平中は蒼白い顔をした儘、ぼん
やりこんな事を思つてゐる。
﹁しかしいくら思ひ切つても、侍
従の姿は幻のやうに、必ず眼前に
浮んで来る。おれは何時かの雨夜
以来、唯この姿を忘れたいばかり
に、どの位四方の神仏へ、祈願を
65
こ
凝らしたかわからない。が、加茂
みやしろ
の御社へ行けば、御鏡の中にあり
みてら
ありと、侍従の顔が映つて見える。
きよみづ
清水の御寺の内陣にはひれば、観
世音菩薩の御姿さへ、その儘侍従
に変つてしまふ。もしこの姿が何
じに
時までも、おれの心を立ち去らな
こが
ければ、おれはきつと焦れ死に、
死んでしまふのに相違ない。︱︱﹂
平中は長い息をついた。
66
﹁だがその姿を忘れるには、︱︱
たつた一つしか手段はない。それ
は何でもあの女の浅間しい所を見
つける事だ。侍従もまさか天人で
はなし、不浄もいろいろ蔵してゐ
るだらう。其処を一つ見つけさへ
すれば、丁度女房に化けた狐が、
尾のある事を知られたやうに、侍
従の幻も崩れてしまふ。おれの命
はその刹那に、やつとおれのもの
67
になるのだ。が、何処が浅間しい
か、何処が不浄を蔵してゐるか、
それは誰も教へてくれない。ああ、
大慈大悲の観世音菩薩、どうか其
処を御示し下さい、侍従は河原の
女乞食と、実は少しも変らない証
拠を。⋮⋮﹂
ものう
平中はかう考へながら、ふと懶
い視線を挙げた。
﹁おや、あすこへ来かかつたのは、
68
め
わらは
なでしこ
侍従の局の女の童ではないか?﹂
あこめ
あの利口さうな女の童は、撫子
がさ
重ねの薄物の袙に、色の濃い袴を
引きながら、丁度こちらへ歩いて
来る。それが赤紙の画扇の陰に、
はこ
何か筐を隠してゐるのは、きつと
まり
侍従のした糞を捨てに行く所に相
違ない。その姿を一目見ると、突
うち
然平中の心の中には、或大胆な決
ひらめ
心が、稲妻のやうに閃き渡つた。
69
平中は眼の色を変へたなり、女
の童の行く手に立ち塞がつた。そ
してその筐をひつたくるや否や、
廊下の向ふに一つ見える、人のゐ
ない部屋へ飛んで行つた。不意を
打たれた女の童は、勿論泣き声を
出しながら、ばたばた彼を追ひか
けて来る。が、その部屋へ躍りこ
やりど
むと、平中は、遣戸を立て切るが
早いか、手早く懸け金を下してし
70
まつた。
﹁さうだ。この中を見れば間違ひ
ない。百年の恋も一瞬の間に、煙
よりもはかなく消えてしまふ。⋮
⋮﹂
平中はわなわな震へる手に、ふ
かうぞめ
はりと筐の上へかけた、香染の薄
物を掲げて見た。筐は意外にも精
まきゑ
巧を極めた、まだ真新しい蒔絵で
ある。
71
まり
﹁この中に侍従の糞がある。同時
におれの命もある。⋮⋮﹂
平中は其処に佇んだ儘、ぢつと
美しい筐を眺めた。局の外には忍
び忍びに、女の童の泣き声が続い
てゐる。が、それは何時の間にか、
重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。
と思ふと遣戸や障子も、だんだん
霧のやうに消え始める。いや、も
う今では昼か夜か、それさへ平中
72
か
には判然しない。唯彼の眼の前に
ほととぎす
は、時鳥を描いた筐が一つ、はつ
きり空中に浮き出してゐる。⋮⋮
﹁おれの命の助かるのも、侍従と
一生の別れをするのも、皆この筐
に懸つてゐる。この筐の蓋を取り
さへすれば、︱︱いや、それは考
へものだぞ。侍従を忘れてしまふ
のが好いか、甲斐のない命を長ら
へるのが好いか、おれにはどちら
73
とも返答出来ない。たとひ焦がれ
死をするにもせよ、この筐の蓋だ
けは取らずに置かうか?⋮⋮﹂
やつ
平中は窶れた頬の上に、涙の痕
を光らせながら、今更のやうに思
しばらくちんぎん
ひ惑つた。しかし少時沈吟した後、
急に眼を輝かせると、今度はかう
心の中に一生懸命の叫声を挙げた。
﹁平中! 平中! お前は何と云
ふ意気地なしだ? あの雨夜を忘
74
れたのか? 侍従は今もお前の恋
を嘲笑つてゐるかも知れないのだ
ぞ。生きろ! 立派に生きて見せ
まり
ろ! 侍従の糞を見さへすれば、
かならず
必お前は勝ち誇れるのだ。⋮⋮﹂
ほとんど
平中は殆気違ひのやうに、とう
とう筐の蓋を取つた。筐には薄い
香色の水が、たつぷり半分程はひ
つた中に、これは濃い香色の物が、
二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふ
75
ちやうじ
と夢のやうに、丁子の匂が鼻を打
つた。これが侍従の糞であらうか?
いや、吉祥天女にしてもこんな
糞はする筈がない。平中は眉をひ
そめながら、一番上に浮いてゐた、
二寸程の物をつまみ上げた。さう
して髭にも触れる位、何度も匂を
まぎ
嗅ぎ直して見た。匂は確かに紛れ
ぢん
もない、飛び切りの沈の匂である。
﹁これはどうだ! この水もやは
76
り匂ふやうだが、︱︱﹂
平中は筐を傾けながら、そつと
ちやうじ
水を啜つて見た。水も丁子を煮返
した、上澄みの汁に相違ない。
﹁するとこいつも香木かな?﹂
平中は今つまみ上げた、二寸程
の物を噛みしめて見た。すると歯
とほ
にも透る位、苦味の交つた甘さが
たちま
ある。その上彼の口の中には、急
ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂
77
が一ぱいになつた。侍従は何処か
ら推量したか、平中のたくみを破
る為に、香細工の糞をつくつたの
である。
﹁侍従! お前は平中を殺した
ぞ!﹂
うめ
平中はかう呻きながら、ばたり
と蒔絵の筐を落した。さうして其
ほとけだふ
処の床の上へ、仏倒しに倒れてし
まつた。その半死の瞳の中には、
78
しまごん
紫摩金の円光にとりまかれた儘、
てんぜん
※然と彼にほほ笑みかけた侍従の
姿を浮べながら。⋮⋮
︵大正十年九月︶
79
底本:﹁現代日本文学大系 43
芥川龍之介集﹂筑摩書房
1968︵昭和43︶年8
月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネット
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の図書館、青空文庫︵http:
//www.aozora.gr.
jp/︶で作られました。入力、
校正、制作にあたったのは、ボラ
ンティアの皆さんです。
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