http://e-asia.uoregon.edu

http://e-asia.uoregon.edu
金色夜叉
尾崎紅葉
底本:「金色夜叉」新潮文庫、新潮社
1969(昭和 44)年 11 月 10 日第 1 刷発行
1998(平成 10)年 1 月 15 日第 39 刷発行
金色夜叉
尾崎紅葉
目次
前編
中編
後編
続金色夜叉
続続金色夜叉
新続金色夜叉
[#改丁]
前編
第一章
ま
さしこ
ますぐ
よこた
未だ宵ながら松立てる門は一様に 鎖 籠 めて、 真 直 に長く東より西に 横 はれる
だいどう
とど
さびし
ゆきき
大 道 は掃きたるやうに物の影を 留 めず、いと 寂 くも 往 来 の絶えたるに、例
しげ くるま きしり
あるひ せはし
あるひ
ならず 繁 き 車 輪 の 輾 は、 或 は 忙 かりし、 或 は飲過ぎし年賀の
かへり
まばら
ししだいこ とほひびき
帰 来 なるべく、 疎 に寄する 獅 子 太 鼓 の 遠
響 は、はや今日に尽きぬる
さんがにち
あはれさ ちひさ はらわた たた
三 箇 日 を惜むが如く、その 哀 切 に 小 き
膓
は 断 れぬべし。
しる
けが
たそがれ
元日快晴、二日快晴、三日快晴と 誌 されたる日記を 涜 して、この 黄 昏 より
こがらし そよぎい
なだ
凩 は 戦 出 でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の 宥 むる者無きよ
いかり
かざりだけ ふきなび
から
はした
り、 憤 をも増したるやうに 飾
竹 を 吹 靡 けつつ、 乾 びたる葉を 粗 な
ほ
はしりゆ
も
ひと
げに鳴して、吼えては 走 行 き、狂ひては引返し、揉みに揉んで 独 り散々に騒げり。
ほのぐも
ねむり さま
けしき
ぎんなしぢ
微 曇 りし空はこれが為に 眠 を 覚 されたる 気 色 にて、 銀 梨 子 地 の如く無数
あらは
さ
かんき はな
おも
の星を 顕 して、鋭く沍えたる光は 寒 気 を 発 つかと 想 はしむるまでに、その
うすあかり さら
ちまた ほとん
薄
明 に 曝 さるる夜の 街 は 殆 ど氷らんとすなり。
うち
りようりようめいめい
いかで な
人この 裏 に立ちて 寥
々
冥
々 たる四望の間に、 争 か那の世間あり、
社会あり、都あり、町あることを想得べき、
きゆうちよう
はつさい
九
重 の天、 八 際 の地、始めて
こんとん さかひ い
いま ことごと かせい
混 沌 の 境 を出でたりといへども、万物 未 だ
尽
く 化 生 せず、風は
こころみ
試 に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、
ただみだり
よこた
かな
うち さながら
唯
濫 にく 横 はれるに過ぎざる 哉 。日の 中 は 宛 然 沸くが如く楽み、
うた
ゑ
たはむ
よろこ
はかな
謳 ひ、酔ひ、 戯 れ、 歓 び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は 儚 くも夏
ぼうふり
をさ
いまはたいづく いか
果てし 孑 孑 の形を 歛 めて、 今 将 何 処 に如何にして在るかを疑はざらんとす
かた
しばらく
のち はるか
るも 難 からずや。 多 時 静なりし 後 、 遙 に拍子木の音は聞えぬ。その響の消
たちま
ともしび
そ
ゆらゆら
はづれ よこぎ
う
ゆる頃 忽 ち一点の 燈 火 は見え初めしが、 揺 々 と町の 尽 頭 を 横 截 りて失
さびし
ほしいまま
とあ
せぬ。再び寒き風は 寂 き星月夜を
擅
に吹くのみなりけり。唯有る小路の湯
ひあはひ
ふきい
屋は仕舞を急ぎて、 廂 間 の下水口より 噴 出 づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、
ぬくもり
あふ
あかくさ
さかん ほとばし
心地悪き 微 温 の四方に 溢 るるとともに、 垢 臭 き悪気の 盛 に
迸
るに
あ
かど
いとまな
遭へる綱引の車あり。勢ひで 角 より曲り来にければ、避くべき 遑 無 くてその中を
かけぬ
駈 抜 けたり。
「うむ、臭い」
車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
車夫のかく答へし後は
ことば
ましぐら
語 絶えて、車は 驀 直 に走れり、紳士は
にじゆうがいとう そで ひし かきあは
かはうそ えりかは
二 重 外 套 の 袖 を 犇 と 掻 合 せて、
獺
の 衿 皮 の内に耳より深く
おもて うづ
はし
よこじま はなやか
面 を 埋 めたり。灰色の毛皮の敷物の 端 を車の後に垂れて、 横 縞 の 華 麗
ふはおり ひざかけ
ちようちん しるし
ふたつ
なる 浮 波 織 の 蔽 膝 して、 提
灯 の 徽 章 はTの花文字を 二 個 組合せたるな
はづれ
やや
とほり い
わづか
り。行き行きて車はこの小路の 尽 頭 を北に折れ、 稍 広き 街 に出でしを、 僅
い
なかほど みのわ しる
のきラムプ
に走りて又西に入り、その南側の 半 程 に 箕 輪 と 記 したる 軒
燈 を掲げて、
もんがまへ
ひきい
ひかげ さ
こうし
を飾れる 門
構 の内に 挽 入 れたり。玄関の障子に 燈 影 の映しながら、 格 子 は
さしかた
うちたた
鎖 固 めたるを、車夫は 打 叩 きて、
「頼む、頼む」
かた
どよみ はげし
奥の 方 なる 響 動 の 劇 きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は
おとな
つづけうち
いそぎあし
声を合せて 訪 ひつつ、格子戸を 連
打 にすれば、やがて 急
足 の音立てて
い き
人は出で来ぬ。
まるわげ
ちひさ や
ちやみじん
円 髷 に結ひたる四十ばかりの 小 く痩せて色白き女の、 茶 微 塵 の糸織の
こそで
ほうしよつむぎ
ないぎ
小 袖 に黒の 奉 書 紬 の紋付の羽織着たるは、この家の 内 儀 なるべし。彼の
せは
あく
い
忙 しげに格子を 啓 るを待ちて、紳士は優然と内に入らんとせしが、土間の一面に
みちみち
はきもの つゑ
ためら
すか
充 満 たる 履 物 の 杖 を立つべき地さへあらざるに 遅 へるを、彼は 虚 さず
まめやか おりた
まらうど
から
勤 篤 に 下 立 ちて、この敬ふべき
賓
の為に 辛 くも一条の道を開けり。かく
こまげた
ひと
て紳士の脱捨てし 駒 下 駄 のみは 独 り障子の内に取入れられたり。
(一)の二
みのわ
ま
じつかしよ
箕 輪 の奥は十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の 十 個 処 に
しんちゆう しよくだい
めかけ ろうそく
いさりび
真
鍮 の 燭
台 を据ゑ、五十 目 掛 の 蝋 燭 は沖の 漁 火 の如く燃えたる
まごと
ニッケルめつき
とも
あたり
に、 間 毎 の天井に 白 銅 鍍 の空気ラムプを 点 したれば、 四 辺 は真昼より
あきらか
まばゆ
かがや わた
なんによ
明 に、人顔も 眩 きまでに 耀 き 遍 れり。三十人に余んぬる若き 男 女
ふたわかれ
さかり かるたあそび す
ほのほ
は 二
分 に輪作りて、今を 盛 と 歌 留 多 遊 を為るなりけり。蝋燭の 焔 と
たにんず いきれ
うんき ほとん
炭火の熱と 多 人 数 の 熱 蒸 と混じたる一種の 温 気 は 殆 ど凝りて動かざる一間の
たばこ けふり ともしび
たがひ もつ
内を、 莨 の 煙 と 燈 火 の油煙とは 更 に 縺 れて渦巻きつつ立迷へり。込
おもて
おしろい うすは
ほつ
合へる人々の 面 は皆赤うなりて、 白 粉 の 薄 剥 げたるあり、髪の 解 れたるあ
きぬ しどな きくづ
よそほ
こと
り、 衣 の 乱 次 く 着 頽 れたるあり。女は 粧 ひ飾りたれば、取乱したるが 特 に
わき
ちよつき
著るく見ゆるなり。男はシャツの 腋 の裂けたるも知らで 胴 衣 ばかりになれるあり、
よつ
ゆ
羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば 四 まで紙にて結ひたるもあ
うんき
むせ
けふり
むし
り。さしも息苦き 温 気 も、 咽 ばさるる 煙 の渦も、皆狂して知らざる如く、 寧
ののし わめ
わらひくづ
ねぢあ
ふみしだ ひしめ
ろ喜びて 罵 り 喚 く声、 笑
頽 るる声、 捩 合 ひ、 踏 破 く 犇 き、一斉
どよみ
うち ろうぜき
たはむ
ていたらく
に揚ぐる 響 動 など、絶間無き騒動の 中 に 狼 藉 として 戯 れ遊ぶ 為
体 は
さんこうごじよう へちま
まび
ただ
しゆらどう ぶつくりかへ
三 綱 五 常 も 糸 瓜 の皮と地に 塗 れて、 唯 これ 修 羅 道 を 打
覆 し
たるばかりなり。
あ
そくばく
そそ
なみ くし
海上風波の難に遭へる時、 若 干 の油を取りて航路に 澆 げば、 浪 は 奇 くも
たちま しづま
い
いかに
す
忽 ち 鎮 りて、船は九死を出づべしとよ。今この 如 何 とも為べからざる乱脈の
によおう
たけ
座中をば、その油の勢力をもて支配せる 女 王 あり。 猛 びに猛ぶ男たちの心もその
やはら
つひ
そね
おそれ
人の前には 和 ぎて、 終 に崇拝せざるはあらず。女たちは皆 猜 みつつも 畏 を
いだ
まどゐ はしらわき
おも
いただ
懐 けり。中の間なる 団 欒 の 柱
側 に座を占めて、 重 げに 戴 ける
やかいむすび うすむらさき
かざり
あづきねずみ ちりめん
夜 会 結 に 淡
紫 のリボン 飾 して、 小 豆 鼠 の 縮 緬 の羽織を着
たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目をりて、
みづから しとや
ひきつくろ
躬
は 淑 かに 引
繕 へ
つくり
かほだち
みづぎはた
ただ
こび
る娘あり。 粧 飾 より 相 貌 まで 水 際 立 ちて、 凡 ならず 媚 を含めるは、色を
売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負
の果てぬ間に、宮といふ名は
あまね
あまた
みにく
普 く知られぬ。娘も 数 多 居たり。 醜 きは、子守
とまどひ
おぼし
の借着したるか、茶番の姫君の 戸 惑 せるかと 覚 きもあれど、中には二十人並、
みなり
すとう
あまた
五十人並優れたるもありき。 服 装 は宮より 数 等 立派なるは 数 多 あり。彼はその点
まなむすめ
ふきりよう きは
にては中の位に過ぎず。貴族院議員の 愛
娘 とて、最も 不 器 量 を 極 めて
いかん
きら
いかりがた もんおめし
遺 憾 なしと見えたるが、最も綺羅を飾りて、その 起
肩 に紋 御 召の
さんまいがさね かつ
しこん しちん ゆり をりえだ よりきん
三 枚 襲 を 被 ぎて、帯は 紫 根 の 七 糸 に百合の 折 枝 を 縒 金 の
もりあげ
く
まゆ しわ
盛 上 にしたる、人々これが為に目も眩れ、心も消えて 眉 を 皺 めぬ。この外
さまざま
きらびやか
たちまじ
よそほひ わづか
種 々 色々の 絢
爛 なる中に 立 交 らひては、宮の
装
は 纔 に暁の星
いか
うつくし そめいろ
の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何なる
美
き 染 色 をも奪ひて、
おもて
うるはし
あや
彼の整へる 面 は如何なる
麗
き織物よりも文章ありて、醜き人たちは如何に着
おほ あた
飾らんともその醜きを 蔽 ふ 能 はざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せ
ざるなり。
ふくろだな
かたすみ てあぶり
みかん む
かたら
袋
棚 と障子との 片 隅 に 手 炉 を囲みて、 蜜 柑 を剥きつつ 語 ふ男の
ひとり
ほれぼれ はるか
つひ おもひた
一 個 は、彼の横顔を 恍 惚 と 遙 に見入りたりしが、 遂 に 思 堪 へざらんや
うめ いだ
うに 呻 き 出 せり。
い
「好い、好い、全く好い!
まご
いしよう い
うつくし
馬士にも 衣 裳 と謂ふけれど、
美
いのは衣裳には
みづか
い
及ばんね。物それ 自 らが美いのだもの、着物などはどうでも可い、実は何も着てを
らんでも可い」
なほ
「裸体なら 猶 結構だ!」
あひづち
この強き 合 槌 撃つは、美術学校の学生なり。
つなひき
かけつ
しばら
いりきた
綱 曳 にて 駈 着 けし紳士は 姑 く休息の後内儀に導かれて 入 来 りつ。その
うしろ
あるじ みのわりようすけ
後 には、今まで居間に潜みたりし 主 の 箕 輪 亮 輔 も附添ひたり。席上は
せんど はげし
きた
入乱れて、ここを 先 途 と 激 き勝負の最中なれば、彼等の 来 れるに心着きしは
まれ
いちはや
そば
ふうさい み
稀 なりけれど、片隅に物語れる二人は 逸 早 く目を 側 めて紳士の 風 采 を視た
り。
ひかげ
みたり
あざや
ちひさ
広間の 燈 影 は入口に立てる 三 人 の姿を 鮮 かに照せり。色白の 小 き内儀の
かん
ひきゆが
ひたひぎは
あかは
つむり なめら
口は 疳 の為に 引 歪 みて、その夫の 額
際 より 赭 禿 げたる 頭 顱 は 滑 か
ひとなみ
すぐ
だいひよう
に光れり。妻は 尋 常 より小きに、夫は 勝 れたる 大
兵 肥満にて、彼の常に
こころづかひ
おももち
ほてい
心
遣 ありげの 面 色 なるに引替へて、生きながら 布 袋 を見る如き福相した
り。
としのころ
たけたか
紳士は 年
歯 二十六七なるべく、 長 高 く、好き程に肥えて、色は玉のやうな
ほほ あたり
うすくれなゐ
あぎと
るに 頬 の 辺 には 薄
紅 を帯びて、額厚く、口大きく、 腮 は左右に
はびこ
やや
な
ゆる
こびん
蔓 りて、面積の広き顔は 稍 正方形を成せり。 緩 く波打てる髪を左の 小 鬢 より
なでつ
こ
くちひげ はや
ちひさ
一文字に 撫 付 けて、少しは油を塗りたり。濃からぬ 口 髭 を 生 して、 小 から
きんぶち めがね はさ
いつつもん くろしほぜ
かもんおり
ぬ鼻に 金 縁 の 目 鏡 を 挾 み、 五
紋 の 黒 塩 瀬 の羽織に 華 紋 織 の
こそで すそなが きな
しちんおび きんぐさり
小 袖 を 裾 長 に着做したるが、六寸の 七 糸 帯 に 金 鏈 子 を垂れつつ、
おほやう おもて
かたち
げ
はな
あたり
大 様 に 面 を挙げて座中をしたる 容 は、実に光を 発 つらんやうに 四 辺 を
まどゐ
びび
よそほ
払ひて見えぬ。この 団 欒 の中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々しく 装 ひ
たるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
ひとり
つぶや
例の二人の 一 個 はさも憎さげに 呟 けり。
いや
「可厭な奴!」
つば
おもて そむ
唾 吐くやうに言ひて学生はわざと 面 を 背 けつ。
しゆん
ちよいと
くんじゆ
「お 俊 や、 一 寸 」と内儀は 群 集 の中よりその娘を手招きぬ。
あわただし
きた
お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、 慌
忙 く起ちて 来 れるが、顔好くはあ
あいきよう
に
ゆ
にくいろちりめん
らねど 愛
嬌 深く、いと善く父に肖たり。高島田に結ひて、 肉 色 縮 緬 の羽
つま
あか
ひざまづ
いんぎん
織に 撮 みたるほどの肩揚したり。顔を 赧 めつつ紳士の前に
跪
きて、 慇 懃
かしら さぐ
わづか
かが
頭 を 低 れば、彼は 纔 に小腰を 屈 めしのみ。
に
こちら
「どうぞ 此 方 へ」
娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうに
うなづ
頷 けり。母は
ゆが
歪 める口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
かしら さ
ゑみ
お俊は再び 頭 を低げぬ。紳士は 笑 を含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
あるじ
そば
あない
主 の勧むる 傍 より、妻はお俊を促して、お俊は紳士を 案 内 して、客間の床柱
ひばち
かた つ
そこ
かいぞへ
かない
の前なる 火 鉢 在る 方 に伴れぬ。妻は其処まで 介 添 に附きたり。二人は 家 内 の
あつか
きは
ていちよう
いぶか
紳士を 遇 ふことの 極 めて 鄭
重 なるを 訝 りて、彼の行くより坐るまで一
みのが
まどゐ
挙一動も 見 脱 さざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、 団 欒 の
むめいし
ただ
ともしび てりそ
間を過ぎたりしが、 無 名 指 に輝ける物の 凡 ならず強き光は 燈 火 に 照 添 ひて、
ほとん ただし
あた
まなこ
あき
殆 ど 正 く見る 能 はざるまでに 眼 を射られたるに 呆 れ惑へり。天上の最
あきらか
わがて
いま かつ
明
なる星は 我 手 に在りと言はまほしげに、紳士は彼等の 未 だ 曾 て見ざり
も
おほき
ダ゗ゕモンド
きん
は
大 さの 金 剛 石 を飾れる黄金の指環を穿めたるなり。
し
かるた
かへ
ひそか
ひざ つ
お俊は 骨 牌 の席に 復 るとく、 密 に隣の娘の 膝 を衝きて口早にきぬ。彼は
いそがはし
もた
かた
かがや
忙
々 く顔を 擡 げて紳士の 方 を見たりしが、その人よりはその指に 耀 く物
おどろ
てい
の異常なるに 駭 かされたる 体 にて、
「まあ、あの指環は!
ちよいと ダ゗ゕモンド
一 寸 、 金 剛 石 ?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
お俊の説明を聞きて彼は
そぞろ みのけ よだ
漫 に 身 毛 の弥立つを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」
いくとせ ねんが
いま
の目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この 幾 歳 か 念 懸 くれども 未 だ容易に
たちま
せめつづみ
とどろ
許されざる娘の胸は、 忽 ち或事を思ひ浮べて 攻
皷 の如く 轟 けり。彼は
ぼうぜん
ま
のびきた
えんぴ
さき
惘 然 として殆ど我を失へる間に、電光の如く隣より 伸 来 れる 猿 臂 は鼻の 前
かるた ひきさら
なる一枚の 骨 牌 を 引 攫 へば、
あなた
「あら、 貴 女 どうしたのよ」
いらだ
よこひざ
はた
お俊は 苛 立 ちて彼の 横 膝 を続けさまに 拊 きぬ。
よ
これから
「可くつてよ、可くつてよ、 以 来 もう可くつてよ」
さま
み ぶん あきら
彼は始めて空想の夢を 覚 して、及ばざる身の 分 を 諦 めたりけれども、一旦
ダ゗ゕモンド
金 剛 石 の強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも
めざまし
てなみ
やうや しどろ
あへな
目 覚 かりける 手 腕 の程も見る見る 漸 く四途乱になりて、彼は 敢 無 くもこの
がたな
時よりお俊の為に頼み 難 き味方となれり。
かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
ダ゗ゕモンド
「 金 剛 石 !」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石
」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石
」
すばらし
「 可 感 い金剛石」
おそろし
「 可 恐 い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
またた ひま
うた
瞬 く 間 に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を 謳 へり。
かたみがはり
かた なが
シガゕ
彼は人々の 更
互 におのれの 方 を 眺 むるを見て、その手に形好く 葉 巻 を
めて そでぐち
たゆ
もた
持たせて、右手を 袖 口 に差入れ、少し 懈 げに床柱に 靠 れて、目鏡の下より下界
みわた
めくばり
を 見 遍 すらんやうに 目 配 してゐたり。
たれ
も
かかる目印ある人の名は 誰 しも問はであるべきにあらず、洩れしはお俊の口よりな
とみやまただつぐ
ぶげん
したや
るべし。彼は 富 山 唯 継 とて、一代 分 限 ながら 下 谷 区に聞ゆる資産家の家督
うち
なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の 中 にも富山
じゆうへい
みいだ
重
平 の名は 見 出 さるべし。
かた もてはや
ただち
宮の名の男の 方 に 持 囃 さるる如く、富山と知れたる彼の名は 直 に女の口々
ずん
ひとたび
めで
しせき
に 誦 ぜられぬ。あはれ 一 度 はこの紳士と組みて、世に 愛 たき宝石に 咫 尺 する
の栄を得ばや、と彼等の
こころごころ こひねが
まれ
も
心
々 に
冀
はざるは 希 なりき。人若し彼に咫尺
ただ
たぐひな たのしま
するの栄を得ば、 啻 にその目の 類 無 く
楽
さるるのみならで、その鼻までも
ヴゔ゗オレット
いきよう くん
さいはひ
菫
花 の多くぐべからざる 異 香 に 薫 ぜらるるの
幸
を受くべきなり。
おのづ
すさ
こぞ
ダ゗ゕモンド こころひか
男たちは 自 から 荒 められて、女の 挙 りて 金 剛 石 に 心
牽 さるる
けしき
あるひ ねた
さま
気 色 なるを、 或 は 妬 く、或は浅ましく、多少の興を 冷 さざるはあらざりけり。
ひと
てい
すずし まなざし
独 り宮のみは騒げる 体 も無くて、その 清 き 眼 色 はさしもの金剛石と光を争
たしなみふか
こころざま ゆかし
よろこ
はんやうに、 用 意 深 く、 心
様 も 幽 く振舞へるを、崇拝者は益々 懽
かひ
ひとへ
こちゆう
びて、我等の慕ひ参らする 効 はあるよ、 偏 にこの君を奉じて 孤 忠 を全うし、
つら
ひきむ
てぐすね
美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き 面 の皮を 引 剥 かん、と 手 薬 煉 引い
て待ちかけたり。されば宮と富山との
いきほひ
じつげつ ならべか
勢
はあたかも 日 月 を 並 懸 けたるや
たれ
けねん
うなり。宮は 誰 と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も 懸 念 するところなり
くじ
みたり
けるが、 鬮 の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の 三 人 とと
にんず
いつ おほい
もに一組になりぬ。始め二つに輪作りし 人 数 はこの時合併して 一 の 大 なる
まどゐ
となりあひ
団 欒 に成されたるなり。しかも富山と宮とは 隣
合 に坐りければ、夜と昼との
いちじ
うろたへ
たちま
とな
一 時 に来にけんやうに皆 狼 狽 騒ぎて、 忽 ちその隣に自ら社会党と 称 ふる一
いだ
すなは
もつぱ
組を 出 せり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。 則 ち彼等は 専
あんねい
むかひ
ら腕力を用ゐて或組の果報と 安 寧 とを妨害せんと為るなり。又その 前 面 には一人
ろうぜきぐみ
の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を 狼 藉 組 と称
じゆうりんたい
くじ
おほわらは
し、右翼を 蹂 躙 隊 と称するも、実は金剛石の鼻柱を 挫 かんと 大
童 にな
ほか
かな くだん
きたな
れるに 外 ならざるなり。果せる 哉 、 件 の組はこの勝負に 蓬 き大敗を取りて、
はなしろ
あか
た
人も無げなる紳士もさすがに 鼻 白 み、美き人は顔を 赧 めて、座にも堪ふべからざ
めんぴ かか
いつか
るばかりの 面 皮 を 欠 されたり。この一番にて紳士の姿は 不 知 見えずなりぬ。男た
ちは万歳を唱へけれども、女の中には
たなぞこ
ここち
掌
の玉を失へる 心 地 したるも多かりき。
散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯に
おそれ
ひそか あるじ
怖 をなして、 密 に 主 の居間に逃帰れるなりけり。
かつら き
くしけづ
しゆろぼうき
かん
鬘 を被たるやうに
梳
りたりし彼の髪は 棕 櫚 箒 の如く乱れて、 環 の
かたかた
ひも
てながざる
とら
かたち
ぶらぶら
隻 げたる羽織の 紐 は、 手 長 猿 の月を 捉 へんとする 状 して 揺 曳 と
さが
あわ
垂 れり。主は見るよりさも 慌 てたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
きせる
ゆるがせ
とつかは
彼はやにはに 煙 管 を捨てて、
忽
にすべからざらんやうに 急 遽 と身を起せ
り。
ひど
あ
「ああ、 酷 い目に遭つた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けな
たちき
くつちやとても 立 切 れないよ。馬鹿にしてゐる!
ぶた
頭を二つばかり 撲 れた」
す
おももち
まうけ
かね
手の甲の血を吮ひつつ富山は不快なる 面 色 して 設 の席に着きぬ。 予 て用意
えびちや もんちりめん
かたはら しちほうやき こばんがた
したれば、 海 老 茶 の 紋 縮 緬 のの
傍
に 七 宝 焼 の小 判 形の
おほてあぶり
まきゑ すひものぜん
大 手 炉 を置きて、 蒔 絵 の 吸 物 膳 をさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して
をんな
おほいそぎ
あつら
婢 を呼び、 大
急 に銚子と料理とを 誂 へて、
ほか どこ
けが
「それはどうも飛でもない事を。 外 に何処もお怪我はございませんでしたか」
たま
「そんなに有られて 耐 るものかね」
せ
にがわらひ
為う事無さに主も 苦
笑 せり。
ただいまばんそうこう
「 唯 今 絆 創 膏 を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でござ
わざわざおまねき
はなは
あつち
いませう。 故 々 御 招 申しまして 甚 だ恐入りました。もう 彼 地 へは御出陣
よろし
どうぞごゆる
にならんが 宜 うございます。何もございませんがここで 何 卒 御 寛 り」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
うちゑ
あぎと いよいよひろが
物は言はで 打 笑 める富山の 腮 は
愈
展 れり。早くもその意を得てや
はがん
あるじ
すすき きりきず
破 顔 せる 主 の目は、 薄 の 切 疵 の如くほとほと有か無きかになりぬ。
ぎよい
「では 御 意 に召したのが、へえ?」
ますますゑみ ただ
富山は 益
笑 を 湛 へたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
なぜ
「何故な」
じゆうもく
「何故も無いものでございます。 十
目 の見るところぢやございませんか」
うなづ
富山は 頷 きつつ、
「さうだらうね」
よろし
「あれは 宜 うございませう」
ちよいと
「 一 寸 好いね」
おつもり
ひとつ むづかしや あなた
「まづその 御 意 でお熱いところをお 一 盞 。 不 満 家 の 貴 方 が一寸好いと
おつしや
よつぽどまれもの
すくな
有 仰 る位では、 余 程 尤 物 と思はなければなりません。全く 寡 うござい
ます」
あたふたいりきた
倉 皇 入 来 れる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
こちら
いで
「おや、 此 方 にお 在 あそばしたのでございますか」
つめ
なかいり
さしづ
彼は先の程より台所に 詰 きりて、 中 入 の食物の 指 図 などしてゐたるなりき。
ひど
に
「 酷 く負けて迯げて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
ゆが
すぼ
そらぞら
たちま
ひも
例の 歪 める口を 窄 めて内儀は 空 々 しく笑ひしが、 忽 ち彼の羽織の 紐 の
かたかたちぎ
みとが
かん
あわ
偏
断 れたるを 見 尤 めて、 環 の失せたりと知るより、 慌 て驚きて起たんと
いか
せり、如何にとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
よろし
「なあに、 宜 い」
きん
「宜いではございません。純金では大変でございます」
い
をは
かた い
「なあに、可いと言ふのに」と聞きも 訖 らで彼は広間の 方 へ出でて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
たい
「が、 大 した事はございませんです」
しか およ
「それはさうだらう。 然 し 凡 そどんなものかね」
もと
ただいま
かさく
「 旧 は農商務省に勤めてをりましたが、 唯 今 では地所や 家 作 などで暮してゐる
しぎさわりゆうぞう
ぢき
やうでございます。どうか小金も有るやうな話で、 鴫 沢 隆 三 と申して、 直
となりちよう
ごく
こてい や
隣
町 に居りまするが、 極 手堅く 小 体 に遣つてをるのでございます」
「はあ、知れたもんだね」
われ がほ おとがひ かいな
ダ゗ゕモンド きらり
我 は 顔 に
頤
を 掻 撫 づれば、例の 金 剛 石 は 燦 然 と光れり。
く
あととり
「それでも可いさ。然し嫁れやうか、 嗣 子 ぢやないかい」
「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」
こま
「それぢや 窮 るぢやないか」
わたくし くはし
私
は 悉 い事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」
「
さがしえ かへりき
た いたづら
みみかき
程無く内儀は環を 捜 得 て 帰 来 にけるが、誰が 悪 戯 とも知らで 耳 掻 の
ひきのば
かない
たづ
如く 引 展 されたり。主は彼に向ひて宮の 家 内 の様子を 訊 ねけるに、知れる
ひととほり
なほよ
のち
一
遍 は語りけれど、娘は 猶 能 く知るらんを、 後 に招きて聴くべしとて、夫婦
しきり さかづき すす
頻 に
觴
を 侑 めけり。
は
きた
かるたあそび
富山唯継の今宵ここに 来 りしは、年賀にあらず、 骨 牌 遊 にあらず、娘の多く
あつま
よめえらみ
をととし
゗ギリス
聚 れるを機として、 嫁
選 せんとてなり。彼は 一 昨 年 の冬 英 吉 利 より帰朝
てわけ
のぞみ はなはだ
するや否や、八方に 手 分 して嫁を求めけれども、器量 望 の 太 甚 しければ、二
かな
あくさく
や
十余件の縁談皆意に 称 はで、今日が日までもなほその事に 齷 齪 して已まざるなり。
しば
いま
くろ
当時取急ぎて普請せし 芝 の新宅は、 未 だ人の住着かざるに、はや日に 黒 み、或所
あつ
は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額を 鳩 めては、寂しげに彼等の昔を語
るのみ。
第二章
かるた
骨 牌 の会は十二時にびて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に
にんず
なほ
人 数 の三分の一強を失ひけれども、 猶 飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。
富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終ま
もしと かへ
おそら
で居たり。彼 若 疾く 還 りたらんには、 恐 く踏留るは三分の一弱に過ぎざりけん
を、と我物顔に富山は主と語合へり。
やから
よふけ かへり
きづか
ねがは
彼に心を寄せし 輩 は皆彼が 夜 深 の 帰 途 の程を 気 遣 ひて、我 願 くは
いづく
したた おも
しんせつ
何 処 までも送らんと、 絶 か 念 ひに念ひけれど、彼等の 深 切 は無用にも、宮
の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。
ダ゗ゕモンド つ
めざさ
金 剛 石 に亜いでは彼の挙動の 目 指 れしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人
ほか
ひ
なりければなり。この一事の 外 は人目を牽くべき点も無く、彼は多く語らず、又は
さわ
つつまし
ふたり つれ
躁 がず、始終 慎
くしてゐたり。終までこの 両 個 の同伴なりとは露顕せざりき。
よそよそ
かど い
さあらんには余所々々しさに過ぎたればなり。彼等の打連れて 門 を出づるを見て、始
すくな
めて失望せしもの 寡 からず。
はとばねずみ ずきん かぶ
こいあさぎぢ
ちゆうがた
宮は 鳩 羽 鼠 の 頭 巾 を 被 りて、 濃 浅 黄 地 に白く 中
形 模様ある毛織
まと
オバコオト
すぼ
のシォールを 絡 ひ、学生は焦茶の 外
套 を着たるが、身を 窄 めて吹来る
こがらし やりすご
たどりつ
凩 を 遣 過 しつつ、遅れし宮の 辿 着 くを待ちて言出せり。
みい
ダ゗ゕモンド
は
いや
「 宮 さん、あの 金 剛 石 の指環を穿めてゐた奴はどうだい、可厭に気取つた奴ぢ
やないか」
みんな
かたき
「さうねえ、だけれど 衆 があの人を目の 敵 にして乱暴するので気の毒だつたわ。
ひど
あは
隣合つてゐたもんだから私まで 酷 い目に 遭 されてよ」
あいつ
よこつぱら
「うむ、 彼 奴 が高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も 横
腹 を二つばかり突いて
遣つた」
「まあ、酷いのね」
へど
「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐が出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あん
なのが女の気に入るのぢやないか」
いや
「私は可厭だわ」
ぷんぷん
にほひ
ダ゗ゕモンド
なり
「 芬 々 と香水の 匂 がして、 金 剛 石 の金の指環を穿めて、殿様然たる服装
い
ちがひな
をして、好いに 違 無 いさ」
あざ
学生は 嘲 むが如く笑へり。
「私は可厭よ」
「可厭なものが組になるものか」
くじ
しかた
「組は 鬮 だから 為 方 が無いわ」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
ゆりあ
なかば
おほひかく
宮はシォールを 揺 上 げて鼻の 半 まで 掩
隠 しつ。
「ああ寒い!」
そばだ
ひた
なほ
男は肩を 峙 てて 直 と彼に寄添へり。宮は 猶 黙して歩めり。
「ああ寒い
」
宮はなほ答へず。
「ああ寒い※[#感嘆符三つ、23-5]」
かた
彼はこの時始めて男の 方 を見向きて、
「どうしたの」
「ああ寒い」
「あら可厭ね、どうしたの」
たま
いつしよ
「寒くて 耐 らんからその中へ 一 処 に入れ給へ」
「どの中へ」
「シォールの中へ」
をかし
「 可 笑 い、可厭だわ」
いちはや
かたはし
うち
い
男は 逸 早 く彼の押へしシォールの 片 端 を奪ひて、その 中 に身を容れたり。
みや
宮 は歩み得ぬまでに笑ひて、
かんいつ
むかふ
「あら 貫 一 さん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、 前 面 から人が来てよ」
たはむれ な
はばか
まか
とが
かかる 戯
を作して 憚 らず、女も為すままに 信 せて 咎 めざる彼等の
かんけい そもそ いかに
きぐう
はざまかんいち
関 繋 は 抑 も 如 何 。事情ありて十年来鴫沢に 寄 寓 せるこの 間 貫 一 は、
ことし
い
めあは
此 年 の夏大学に入るを待ちて、宮が 妻 せらるべき人なり。
第三章
よ
間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、怙る所無くて養はるるなり。母は彼の
いとけな
幼 かりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せ
なげき
おのれ
べ
しより、彼は 哀 嘆 の中に父を葬るとともに、 己 が前途の望をさへ葬らざる可から
あ
くるし
ざる不幸に遭へり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに 苦 き
やせじよたい
さきだ
くら
痩 世 帯 なりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶに 先 ちて 食 ふ
べき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては
はうむり
なほ
葬 すべき急、 猶 これに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくも
をさな
いか
すくひえ
もと
あた
あらぬ 幼 き者の如何にしてこれ等の急を 救 得 しか。 固 より貫一が力の 能 ふ
ひとつ ひきう
よ
みなしご
べきにあらず、鴫沢隆三の身 一 個 に 引 承 けて万端の世話せしに因るなり。 孤 児
の父は隆三の恩人にて、彼は
いささ
ただ
聊 かその旧徳に報ゆるが為に、 啻 にその病めりし時
こころづ
まま
に扶助せしのみならず、常に 心 着 けては貫一の月謝をさへ 間 支弁したり。かくて
うしな
みなしご
うしろみ
貧き父を 亡 ひし 孤 児 は富める 後 見 を得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩
せいじ もつ あきた
人に報ゆるにその短き 生 時 を 以 て 慊 らず思ひければ、とかくはその忘形見を
あつぱれ
天 晴 人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
な
いやし
めんぼく
亡き人常に言ひけるは、 苟 くも侍の家に生れながら、何の 面 目 ありて我子貫
あなど
しみん かみ
一をも人に 侮 らすべきや。彼は学士となして、願くは再び 四 民 の 上 に立たしめ
ことば も いまし
も
ん。貫一は不断にこの 言 を以て 警 められ、隆三は会ふ毎にまたこの言を以て
かこ
ものい いとま
にはか みまか
喞 たれしなり。彼は 言 ふ 遑 だに無くて 暴 に 歿 りけれども、その前常
に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者として
ひそか うと
陰 に 疎 まるる如
うきめ あ
なまじ ままこ
き 憂 目 に遭ふにはあらざりき。 憖 ひ 継 子 などに生れたらんよりは、かくて在り
いかばかり さいはひ
うはさ
なんこそ 幾
許 か
幸
は多からんよ、と知る人は 噂 し合へり。隆三夫婦は
げ
おろそか
実に彼を恩人の忘形見として
疎
ならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるる
を見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は
構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、
やうや
漸 くその
い き
い
心は出で来て、彼の高等中学校に入りし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
すぐ
おこなひ ただし
貫一は篤学のみならず、性質も 直 に、
行
も 正 かりければ、この人物を以
いただ
えやす
ひそか
つて学士の冠を 戴 かんには、誠に 獲 易 からざる婿なるべし、と夫婦は 私 に喜
しんだい
たせい をか
えい
びたり。この 身 代 を譲られたりとて、 他 姓 を 冒 して得謂はれぬ屈辱を忍ばんは、
いさぎよ
屑
しと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も
彼の
何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したる
よろこび いだ
ますます
懽
を 懐 きて、
益
学問を励み
たり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる
なかば
半 には過ぎざらん。
いろよき
たれ
彼は自らその 色 好 を知ればなり。世間の女の 誰 か自らその色好を知らざるべき、
すぐ
い
おのれ
憂ふるところは自ら知るに 過 るに在り。謂ふ可くんば、宮は 己 が美しさの
いかばかり
わづか かほど
幾
何 値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして 纔 に 箇 程 の資産
つ
ふぜい
のぞみ
を嗣ぎ、類多き学士 風 情 を夫に有たんは、決して彼が 所 望 の絶頂にはあらざりき。
びせん
い
ためしすくな
彼は貴人の奥方の 微 賤 より出でし 例
寡 からざるを見たり。又は富人の醜き妻
いと
めかけ
を 厭 ひて、美き 妾 に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女
ふうき
は色をもて 富 貴 を得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの
そくばく
かたち おのれ し
みいだ
若 干 を見たりしに、その 容 の 己 に如かざるものの多きを 見 出 せり。
あまつさ
ひとつ
剰 へ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ 一 件 最も彼の意
とし
を強うせし事あり。そは彼が十七の 歳 に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひた
ド゗ツ
たもと えんしよ
りしに、ヴゔ゗オリンのプロフェッサゕなる 独 逸 人は彼の愛らしき 袂 に 艶 書
もと
あだ
めをと ちぎり
を投入れぬ。これ 素 より 仇 なる恋にはあらで、 女 夫 の 契 を望みしなり。
ほとん
なにがし
こ
うしな
殆 ど同時に、院長の
某
は年四十を踰えたるに、先年その妻を 喪 ひしをも
めと
ひそか
て再び彼を 娶 らんとて、 密 に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
ちひさ
とどろ
なかば かつ
この時彼の 小 き胸は破れんとするばかり 轟 けり。 半 は 曾 て覚えざる
はづかしさ
にはか おほい
のぞみ
可
羞 の為に、半は 遽 に 大 なる 希 望 の宿りたるが為に。彼はここに始め
おのれ
すくな
つま あた
己 の美しさの 寡 くとも奏任以上の地位ある名流をその 夫 に 値 ひすべきを
て
かき
だんじぶ
信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、 牆 を隣れる 男 子 部
の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
もし
あるひ
若 かのプロフェッサゕに添はんか、 或 は四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある
つ
いだ
のぞみ
地位は、学士を婿にして鴫沢の後を嗣ぐの比にはあらざらんをと、一旦 抱 ける 希 望
は年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある
おのれ みいだ
こし かか
きた
めぐりいた
人の 己 を 見 出 して、玉の 輿 を 舁 せて迎に 来 るべき天縁の、必ず 廻
到
らんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。
きら
たのし
おも
されども決して彼を 嫌 へるにはあらず、彼と添はばさすがに 楽 からんとは 念 へ
かくのごと さだか
ははきぎ
るなり。 如
此 く 決 定 にそれとは無けれど又有りとし見ゆる 箒 木 の好運を望
みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に
何もあらじとのみ思へるなりけり。
第四章
やみ うち
漆の如き 闇 の 中 に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より
むこうじま やおまつ
いま かへ
向
島 の 八 百 松 に新年会ありとて 未 だ 還 らざるなり。
いりき
とも をは
宮は奥より手ラムプを持ちて 入 来 にけるが、机の上なる書燈を 点 し 了 れる時、
をんな
もちきた
ひばち
婢 は台十能に火を盛りたるを 持 来 れり。宮はこれを 火 鉢 に移して、
てつ
あちら おやすみ
「さうして奥のお鉄瓶も持つて来ておくれ。ああ、もう 彼 方 は 御 寝 になるのだか
ら」
ひさし ひとけ
さむさ
にはか
久 く 人 気 の絶えたりし一間の 寒 は、今 俄 に人の温き肉を得たるを喜び
ただ
か
はだへ せま
あわただし
て、 直 ちに咬まんとするが如く 膚 に 薄 れり。宮は 慌
忙 く火鉢に取付きつ
しよだな
つ、目を挙げて 書 棚 に飾れる時計を見たり。
くら
ともし
ひと
えん
夜の 闇 く静なるに、 燈 の光の 独 り美き顔を照したる、限無く 艶 なり。松の
内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の
こずゑ
梢 に月のう
うしろ
にほひこぼ
つろへるが如く、 背 後 の壁に映れる黒き影さへ 香
滴 るるやうなり。
ダ゗ゕモンド
をしげ
セコンド
うちまも
金 剛 石 と光を争ひし目は 惜 気 も無くりて時計の
秒
を刻むを 打 目 戍 れ
かざ
むらさきちりめん
り。火に 翳 せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある 紫
縮
緬
はんえり つつ
うち
いか
の 半 襟 に 韜 まれたる彼の胸を想へ。その胸の 中 に彼は今如何なる事を思へるか
かへり まちわ
を想へ。彼は憎からぬ人の 帰 来 を 待 佗 ぶるなりけり。
ひとしきり さむさ はなはだし
一
時 又 寒 の 太
甚 きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、
むかふ
火鉢の 対 面 なる貫一がの上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、
貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
もし
やうや ちかづ
ますますとどろ
つひ
若 やと聞着けし車の音は 漸 く 近 きて、
益
轟 きて、 竟 に
わがかど とどま
うたがひな
ゑ
我 門 に 停 りぬ。宮は 疑
無 しと思ひて起たんとする時、客はいと酔ひたる
きげこ
かつ ゑ
声して物言へり。貫一は生下戸なれば 嘗 て酔ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又
坐りつ。時計を見れば早や十一時に
なんな
垂 んとす。
かど
ひきあ
門 の戸 引 啓 けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず
ただあわ
い
をんな
いであ
唯 慌 ててラムプを持ちて出でぬ。台所より 婢 も、 出 合 へり。
ふみど おぼつかな
うちかたむ
足の 踏 所 も 覚 束 無 げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに 打
傾 き、ハンカチ
つつ
さ
だし
ゆらゆら
゗フに 裹 みたる折を左に挈げて、山車人形のやうに 揺 々 と立てるは貫一なり。
おもて
くれなゐ
かわ
た
しきり
面 は今にも破れぬべく
紅
に熱して、舌の 乾 くに堪へかねて 連 に
からつば
空 唾 を吐きつつ、
おみやげ
かへ
おく
じん
「遅かつたかね。さあ 御 土 産 です。 還 つてこれを細君に 遣 る。何ぞ 仁 なるや」
「まあ、大変酔つて!
どうしたの」
しま
「酔つて 了 つた」
かんいつ
ね
「あら、 貫 一 さん、こんな所に寐ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
のけさま
あし かきいだ
から
仰 様 に倒れたる貫一の 脚 を 掻 抱 きて、宮は 辛 くもその靴を取去りぬ。
ひ
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽いてくれなければ僕
には歩けませんよ」
をんな ともし と
よろめ
宮は 婢 に 燈 を把らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は 踉 きつつ
すが
つひ
あやふ
たす
肩に 縋 りて 遂 に放さざりければ、宮はその身一つさへ 危 きに、やうやう 扶 け
い
て書斎に入りぬ。
かきおろ
くづ
たい
うちあふ
の上に 舁 下 されし貫一は 頽 るる 体 を机に支へて、 打 仰 ぎつつ微吟せり。
きんる ころも
すべから
「君に勧む、 金 縷 の 衣 を惜むなかれ。君に勧む、
須
く少年の時を惜むべし。
た
ただち
べ
むなし
花有り折るに堪へなば 直 に折る須し。花無きを待つて 空 く枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
みい
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、 宮 さん、非常に酔つてゐるでせう」
くるし
「酔つてゐるわ。 苦 いでせう」
しかり
つ
おほ
「 然 矣 、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就いては 大 いに訳が有るのだ。
さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
いや
きら
なぜ
「可厭よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断 嫌 ひの癖に何故そんなに飲んだの。誰
のま
はやま
に 飲 されたの。 端 山 さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、
ひど
よは
酷 いわね、こんなに 酔 して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、
もう十一時過よ」
みい
しや たしや
「本当に待つてゐてくれたのかい、 宮 さん。 謝 、 多 謝 !
もし
若 それが事実である
ならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
にぎりし
彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く 握 緊 めつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して
れがどうして知れたのか、
しやべ
喋 る男ぢやない。そ
みんな
衆 が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から
しゆくはい
ちよく
祝
盃 だ祝盃だと、十も二十も一度に 猪 口 を差されたのだ。祝盃などを受ける
おぼえ
ひつこ
みんな
覚 は無いと言つて、手を 引 籠 めてゐたけれど、なかなか 衆 聴かないぢやない
か」
ひそか ゑみ
宮は 窃 に 笑 を帯びて余念なく聴きゐたり。
かりそめ
いつしよ
「それぢや祝盃の主意を変へて、 仮 初 にもああ云ふ美人と 一 所 に居て寝食を
とも
うらやまし
をとこ
倶 にすると云ふのが既に 可
羨 い。そこを祝すのだ。次には、君も 男 児 なら、
更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更
と
ひと
いつ
人に奪られるやうな事があつたら、 独 り間貫一 一 個人の恥辱ばかりではない、我々
ほうゆう
ひ
朋 友 全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延いて高等中学の
なをれ
名 折 にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を
いつ
むすぶ
いの
一 にして 結 の神に 祷 つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら
かへ
からかひ
いひぐさ
却 つて神罰が有ると、 弄 謔 とは知れてゐるけれど、 言 草 が面白かつたから、
かたつぱし
ぐひぐひやつつ
片
端 から引受けて 呷 々 遣 付 けた。
宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つ
よろし
たものだ。何分 宜 く願ひます」
いや
「可厭よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、
いよい
弥 よ僕の男が立たな
わけ
い 義 だ」
きま
「もう 極 つてゐるものを、今更……」
をぢ
をば
「さうでないです。この頃 翁 さんや 姨 さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
け
「そんな事は決して無いわ、邪推だわ」
りようけん
「実は翁さんや姨さんの 了
簡 はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや
あんま
余 りだわ」
ゑひ
ひざ
ほほ
貫一は 酔 を支へかねて宮が 膝 を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き 頬 に、額に、手
を加へて、
ね
「水を上げませう。あれ、又寐ちや……貫一さん、貫一さん」
まこと
いさぎよ かな
のぞみ
寔 に愛の
潔
き 哉 、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる 希 望 は跡を絶
あつ
ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に 鍾 め
ないしあら
とろか
て、富も貴きも、 乃 至 有 ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に 溶
ただたへ かうばし かんろ
ゑ
されて、彼は 唯 妙 に
香
き 甘 露 の夢に酔ひて前後をも知らざるなりけり。
もろもろ いまはし もうぞう
まなこ
ひとま
諸
の 可 忌 き 妄 想 はこの夜の如く 眼 を閉ぢて、この 一 間 に彼等の
二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この
あきらか
明
なる
ともしび
こと
燈 火 の光の如きものありて、 特 に彼等をのみ照すやうに感ずるなり。
第五章
みのわ
とひきた
ほうばい
或日 箕 輪 の内儀は思も懸けず 訪 来 りぬ。その娘のお俊と宮とは学校 朋 輩 に
ゆきき
いま うち
て常に 往 来 したりけれども、 未 だ 家 と家との交際はあらざるなり。彼等の通学せ
し
おうらい やうや うと
し頃さへ親々は互に識らで過ぎたりしに、今は二人の 往 来 も 漸 く 踈 くなりけ
にはか
きた
いか
ゆゑ
ふたおや
るに及びて、 俄 にその母の 来 れるは、如何なる 故 にか、と宮も 両 親 も
あやし
おも
怪 き事に 念 へり。
およ
かへりゆ
凡 そ三時間の後彼は 帰 行 きぬ。
おもひが
先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に 思 懸 けざるに驚けり。貫一は
めづらし きやくらい
あへ
不在なりしかばこの
珍
き 客
来 のありしを知らず、宮もまた 敢 て告げずし
て、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮は
すこし
少 く食して、多く眠らずなりぬ。
せ
ふたおや いくたび
貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとは為ざりき。この間に 両 親 は 幾 度 と無く
談合しては、その事を決しかねてゐたり。
彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知る
よし
へんじ
みいだ
かた
因 もあらねど、 片 時 もその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを 見 出 さんは 難
き事にあらず。さも無かりし人の顔の色の
にはか
ふるまひ
遽 に光を失ひたるやうにて、 振 舞 な
わ
うちしめ
ど別けて力無く、笑ふさへいと 打 湿 りたるを。
い
たんす
など
宮が居間と謂ふまでにはあらねど、彼の 箪 笥 手道具 等 置きたる小座敷あり。ここ
こたつ
かたみ ふゆごもり
には 火 燵 の炉を切りて、用無き人の来ては 迭 に 冬
籠 する所にも用ゐらる。
う
こと
ひ
てすさみ
彼は常にここに居て針仕事するなり。倦めば 琴 をも弾くなり。彼が 手 玩 と見ゆる
いのこやなぎ
ゆる
しん
あんこうぎり
ほこり
狗 子 柳 のはや根を 弛 み、 真 の打傾きたるが、 鮟 鱇 切 の水に 埃 を浮
かたへ
ひぢかけまど あかる
しきがみ ひろ
べて小机の 傍 に在り。庭に向へる 肱 懸 窓 の 明 きに 敷 紙 を 披 げて、
ひざ
もみ ひきとき
ものう
もた
宮は 膝 の上に紅絹の 引 解 を載せたれど、針は持たで、 懶 げに火燵に 靠 れた
り。
すこし
い
彼は 少 く食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に入りて、深く物思ふ
ふたおや しさい
な
なりけり。 両 親 は 仔 細 を知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の為す
まか
ままに 委 せたり。
はじめ
かへりき
した
たれ
この日貫一は授業 始 の式のみにて早く 帰 来 にけるが、 下 座敷には 誰 も見
こたつ
しはぶ
えで、 火 燵 の間に宮の 咳 く声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひけ
うかがひよ
ふすま わづか あ
ひま
さしのぞ
れば、忍足に 窺
寄 りぬ。 襖 の 僅 に啓きたる 隙 より 差 覗 けば、宮は
よ
ガラス
なが
ふしめ
火燵に倚りて 硝 子 障子を 眺 めては 俯 目 になり、又胸痛きやうに仰ぎては
ためいきつ
たちま
みは
太 息 吐 きて、 忽 ち物の音を聞澄すが如く、美き目を 瞠 るは、何をか
おもひこら
うかが
思
凝 すなるべし。人の 窺 ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の
くもん
かたち あらは
はばか
苦 悶 をその 状 に 顕 して 憚 らざるなり。
あやし
なほ
せ
しばし
貫一は 異 みつつも息を潜めて、 猶 彼の為んやうを見んとしたり。宮は 少 時 あ
つひ やぐら うちふ
りて火燵に入りけるが、 遂 に 櫓 に 打 俯 しぬ。
ななめ
まゆ ひそ
おもひまど
柱に身を倚せて、 斜 に内を窺ひつつ貫一は 眉 を 顰 めて 思
惑 へり。
いか
わづら
彼は如何なる事ありてさばかり案じ 煩 ふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何
ゆゑ
なれば我に明さざるならん。その 故 のあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のある
べきをも彼は信じ得ざるなりけり。
かく又案じ煩へる彼の
おもて おのづか うつむ
面 も
自
ら 俯 きぬ。問はずして知るべきにあらず
おもひさだ
さしのぞ
いつ
と 思
定 めて、再び内を 差 覗 きけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時か落ちけ
まきゑ くし こぼ
む、 蒔 絵 の 櫛 の 零 れたるも知らで。
けはひ
かたはら
あわ
人の 気 勢 に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその
傍
に在り。彼は 慌 てて
おもひくづを
けしき おほ
思
頽 るる 気 色 を 蔽 はんとしたるが如し。
びつくら
いつ
「ああ、 吃 驚 した。何時御帰んなすつて」
「今帰つたの」
ちつと
「さう。 些 も知らなかつた」
しきり
まば
宮はおのれの顔の 頻 に眺めらるるを 眩 ゆがりて、
み
いや
「何をそんなに視るの、可厭、私は」
うちそむ
きれたたふ
かきさが
されども彼は猶目を放たず、宮はわざと 打 背 きて、 裁 片 畳 の内を
撈
せ
り。
みい
どこ わるい
「 宮 さん、お前さんどうしたの。ええ、何処か 不 快 のかい」
なぜ
「何ともないのよ。何故?」
ますます
かきさが
かぶ
かく言ひつつ 益
急に
撈
せり。貫一は帽を 冠 りたるまま火燵に
かたひぢか
ななめ
みや
片 肱 掛 けて、 斜 に彼の顔を見遣りつつ、
ぢき うたぐりぶか
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、 直 に 疑
深 いの、神経質だ
のと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
ぼんやり
ためいき つ
ふさ
「何ともないものが、 惘 然 考へたり、 太 息 を吐いたりして 鬱 いでゐるものか。
さつき
からかみ
僕は 先 之 から 唐 紙 の外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。
きか
言つて 聞 したつて可いぢやないか」
宮は言ふところを知らず、
わづか
もみ てまさぐ
纔 に膝の上なる紅絹を 手 弄 るのみ。
「病気なのかい」
わづか かしら ふ
彼は 僅 に 頭 を掉りぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
うち くるま
めぐ
いつはり
宮は唯胸の 中 を 車 輪 などの 廻 るやうに覚ゆるのみにて、誠にも
詐
にも
ことば いだ
すべ
つひ つつ あた
言 を 出 すべき 術 を知らざりき。彼は犯せる罪の 終 に 秘 む 能 はざるを悟れ
おそれ
こころをのの
いか
かたはら
る如き 恐 怖 の為に 心
慄 けるなり。如何に答へんとさへ惑へるに、
傍
に
なじ
しぼ
せまりく
ひま
は貫一の益 詰 らんと待つよと思へば、身は 搾 らるるやうに 迫 来 る息の 隙 を、
い
ひやや
得も謂はれず 冷 かなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
こわね やうや いらだ
貫一の 声 音 は 漸 く 苛 立 ちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて
そぞろ いひいだ
不 覚 に 言 出 せり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に
色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
あき
またたき
かたぶ
呆 れたる貫一は
瞬
もせで耳を 傾 けぬ。
いつ
しま
「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時死んで 了 ふか解らないのね。か
たのしみ
かはり つら
くるし
うしてゐれば、 可 楽 な事もある 代 に 辛 い事や、悲い事や、 苦 い事なんぞ
ふつと
が有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。 不 図 さう
おもひだ
いや こころもち
思 出 したら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭な 心
地 になつて、自分でもど
し
うか為たのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
きき
しづか
まゆ ひそ
目を閉ぢて 聴 ゐし貫一は 徐 にを開くとともに 眉 を 顰 めて、
「それは病気だ!」
うちしを
かしら
宮は 打 萎 れて 頭 を垂れぬ。
しか
「 然 し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
あやし
いか
異 く沈みたるその声の寂しさを、如何に貫一は聴きたりしぞ。
せゐ
わるい
「それは病気の所為だ、脳でも 不 良 のだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑
もと
わけ
つて暮せる日は有りはしない。 固 より世の中と云ふものはさう面白い 義 のものぢや
ないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、
みんな みんな
りようけん
しま
衆 が 皆 そんな 了
簡 を起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて 了 ふ。
はかな
せめ
たのしみ
儚 いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で 切 ては
楽
を求
つまり
ふさ
めやうとして、 究 竟 我々が働いてゐるのだ。考へて 鬱 いだところで、つまらない世
の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つま
いくら
らない世の中を 幾 分 か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何
たのしみ
ひとつ
楽
が無ければならない。 一 事 かうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまら
か
みい
んものではないよ。 宮 さんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこ
そ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く
ひそか
偸 に男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
ゑみ
彼は 笑 を含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
かたさき と
こなた
な
ゆる
宮の 肩 頭 を捉りて貫一は 此 方 に引向けんとすれば、為すままに彼は 緩 く身を
めぐら
はぢがまし そむ
廻 したれど、顔のみは 可
羞 く 背 けてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
肩に懸けたる手をば放さで
しきり ゆすら
くろがね つち
うちこら
連 に 揺 るるを、宮は
銕
の 槌 もて 撃 懲
さるるやうに覚えて、安き心もあらず。
ひややか
ひとしきりながれい
冷
なる汗は又 一
時 流 出 でぬ。
け
「これは怪しからん!」
あやぶ
うかが
おもて
宮は 危 みつつ彼の顔色を 候 ひぬ。常の如く戯るるなるべし。その 面 は
やはら
むし くちもと
和 ぎて一点の怒気だにあらず、 寧 ろ 唇 頭 には笑を包めるなり。
ひとつ
たま
「僕などは 一 件 大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で 耐 らんの。一日
た
こしら
が経つて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を 拵 へたの
も
ではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。若しこの世の中からその楽を
取去つたら、世の中は無い!
貫一といふ者も無い!
しようし とも
僕はその楽と 生 死 を 倶 に
みい
うらやまし
するのだ。 宮 さん、 可
羨 いだらう」
たちま
た
うちふる
宮は 忽 ち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪へかねて 打 顫 ひしが、この心の
さと
中を 覚 られじと思へば、弱る力を励して、
うらやまし
「 可
羨 いわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
どうぞ
「何 卒」
みんなや
しま
「ええ 悉 皆 遣つて 了 へ!」
オバコオト かくし
とりいだ
こたつ
彼は 外
套 の 衣 兜 より一袋のボンボンを 取 出 して 火 燵 の上に置けば、
はずみ
ゆる
さらさら みだれい
余 力 に袋の口は 弛 みて、紅白の玉は 珊 々 と 乱 出 でぬ。こは宮の最も好める
菓子なり。
第六章
その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて
いちびん すいやく
まこと
一 瓶 の 水 薬 を与へられぬ。貫一は 信 に胃病なるべしと思へり。患者は必ず
おうのう
うき た
さる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。 懊 悩 として 憂 に堪へざらんやうな
ようたい いくばく
る彼の 容 体 に 幾 許 の変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて
あひこく
ますます
やま
相 剋 する苦痛は、
益
募りて 止 ざるなり。
貫一は彼の憎からぬ人ならずや。
あやし
怪 むべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見
おそ
おもて
ひやあせ
ることを 懼 れぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、 面 を合すれば 冷 汗
おそれ
なさけあ ことば
き
も出づべき 恐 怖 を生ずるなり。彼の 情 有 る 言 を聞けば、身をも斫らるるやう
こころね
すぐ
に覚ゆるなり。宮は彼の優き 心 根 を見ることを恐れたり。宮が心地 勝 れずなりて
へいぜい
もと
より、彼に対する貫一の優しさはその 平 生 に一層を加へたれば、彼は死を 覓 むれ
た
ども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪ふべからざる限に
至りぬ。
つひ
くるしみ
あるひ
にはか
遂 に彼はこの
苦
を両親に訴へしにやあらん、 一 日 母と娘とは 遽 に身支
いそがはし
ちひさ
ひとつ たびかばん
度して、 忙
々 く車に乗りて出でぬ。彼等は 小 からぬ 一 個 の 旅
鞄 を携
へたり。
おほかぜ な
あと ひとつや
わび
あるじ
大 風 の凪ぎたる 迹 に 孤 屋 の立てるが如く、 侘 しげに留守せる 主 の隆
ひと
きけい ひら
よはひ
かしら
三は 独 り碁盤に向ひて 碁 経 を 披 きゐたり。 齢 はなほ六十に遠けれど、 頭
おびただし しらが
ひげ
かたち や
夥
き 白 髪 にて、長く生ひたる 髯 なども六分は白く、 容 は痩せたれど
は
いま
おとろへ
びもくおんこう
すこぶ こせい
未 だ老の 衰
も見えず、 眉 目 温 厚 にして 頗 る 古 井 波無きの風あり。
かへりき
あるじ たづ
しづか
やがて 帰 来 にける貫一は二人の在らざるを怪みて 主 に 訊 ねぬ。彼は 徐
な
に長き髯を撫でて片笑みつつ、
きのふ
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも 昨 日 医者が
しきり
おもひつき
湯治が良いと言うて 切 に勧めたらしいのだ。いや、もう急の 思
着 で、
あしもと
た
ひとり
脚 下 から鳥の起つやうな騒をして、十二時三十分ので。ああ、 独 で寂いところ、
い
まあ茶でも淹れやう」
貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
わし
あんばい
「はあ、 私 もそんな 塩 梅 で」
しか
いくか
とうりゆう
つもり
「 然 し、湯治は良いでございませう。 幾 日 ほど 逗
留 のお 心 算 で?」
ほん
ぢき
「まあどんなだか四五日と云ふので、 些 の着のままで出掛けたのだが、なあに 直 に
しま
で
うち
うま
飽きて 了 うて、四五日も居られるものか、出養生より 内 養生の方が楽だ。何か 旨
い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
きか
のこ
あと
貫一は着更へんとて書斎に還りぬ。宮の 遺 したる筆の 蹟 などあらんかと思ひて、
求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、
たより
おもひかへ
明日は必ず 便 あらんと 思
飜 せしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校
かへりきた
や
おもかげ う
に在りて 帰
来 れるは、心の痩するばかり美き
俤
に饑ゑて帰来れるなり。彼
むなし
いだ
空 く饑ゑたる心を 抱 きて慰むべくもあらぬ机に向へり。
は
いくら
ひとこと
いひお
い
「実に水臭いな。 幾 許 急いで出掛けたつて、何とか 一 言 ぐらゐ 言 遺 いて行きさ
ちよつとそこ
うなものぢやないか。 一 寸 其処へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、
はじめ
始 に話が有りさうなものだ。急に思着
言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、
いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待
あした
わかれ
つて、話をして、 明 日 行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの 離 別 には顔を見
ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
女と云ふ者は一体男よりは情が
こまやか
濃
であるべきなのだ。それが濃でないと為れば、
愛してをらんと考へるより外は無い。
まさか
豈 にあの人が愛してをらんとは考へられん。
ばんばん
又 万 々 そんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
いはゆる
元来あの人の性質は冷淡さ。それだから 所 謂 『娘らしい』ところが余り無い。自
せゐ
分の思ふやうに情が濃でないのもその所為か知らんて。子供の時分から成程さう云ふ
かたむき も
はなはだし
傾 向 は有つてゐたけれど、今のやうに 太
甚 くはなかつたやうに考へるがな。
なほさら
子供の時分にさうであつたなら、今ぢや 猶 更 でなければならんのだ。それを考へる
と疑ふよ、疑はざるを得ない!
それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、
ほとん
殆 ど……殆どで
おぼ
はない、全くだ、全く 溺 れてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺
れてゐる!
あつ
これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が 篤 くなければならんのだ。或時
ひど
などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分 酷 い話だ。これが互に愛してゐる
なか
さ
間 の仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事を為れると実に憎い。
はつけんでん はまじ
しの あした
小説的かも知れんけれど、 八 犬 伝 の 浜 路 だ、信乃が 明 朝 は立つて了ふと云
よふけ あ
じやうあひ
ふので、親の目を忍んで 夜 更 に逢ひに来る、あの 情
合 でなければならない。い
や、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話にな
そこ
いひなづけ
つてゐて、其処の娘と 許
嫁 ……似てゐる、似てゐる。
もま
しかた
然し内の浜路は困る、信乃にばかり気を 揉 して、余り憎いな、そでない 為 方 だ。
や
これから手紙を書いて思ふさま言つて遣らうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病
かあい
人に心配させるのも 可 哀 さうだ。
自分は又神経質に過るから、
おもひすごし
思
過 を為るところも大きにあるのだ。それにあ
の人からも不断言はれる、けれども自分が
おもひすごし
じよう
思
過 であるか、あの人が 情 が薄
ひとつ
いのかは 一 件 の疑問だ。
いくら
あなど
時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、 多 少 か自分を 侮 つて
ここ
おのづか
ゐるのではあるまいか。自分は此家の厄介者、あの人は家附の娘だ。そこで
自
ら
しゆう
いや
よ
主 と家来と云ふやうな考が始終有つて、…… 否 、それもあの人に能く言れる事だ、
それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さ
ひど おこ
もちろん
うだ、それを言出すと 太 く 慍 られるのだ、一番それを慍るよ。 勿 論 そんな様子
すこし
ひがみ
の 些 少 でも見えた事は無い。自分の 僻 見 に過ぎんのだけれども、気が済まないから
もし
あか
愚痴も出るのだ。然し、 若 もあの人の心にそんな根性が爪の 垢 ほどでも有つたらば、
自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる!
自分は愛情の
とりこ
俘 とはなつ
ま
あるひ
ても、未だ奴隷になる気は無い。 或 はこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかね
こがれじに
て 焦
死 に死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん!
どう
お
ならうと切れて了ふ。切れずに措くものか。
ひがみ
みじん
それは自分の 僻 見 で、あの人に限つてはそんな心は 微 塵 も無いのだ。その点は自
よ
こまやか
分も能く知つてゐる。けれども情が
濃
でないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だ
うちこは
から、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を 打 壊 すほ
あるひ
あた
どに熱しないのか。 或 は熱し 能 はざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、
研究すべき問題だ」
こころ
かつ
彼は 意 に満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だ 曾 て
いか
解釈し得ざるなりけり。今日はや如何に解釈せんとすらん。
(六)の二
たより
わづか
はがき
翌日果して熱海より 便 はありけれど、 僅 に一枚の 端 書 をもて途中の無事と
しゆせき
宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の 手 蹟 なり。貫一
よみをは
ひと
きれきれ
いか
は 読 了 ると 斉 しく 片 々 に引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何にとも言解く
したし いひと
うちはらだ
と
なるべし。彼の 親 く 言 解 かば、如何に 打 腹 立 ちたりとも貫一の心の釈けざる
ことはあらじ。宮の前には常に彼は
いかり
うれひ
慍 をも、恨をも、 憂 をも忘るるなり。今は
なつかし
あ
可 懐 き顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平に遭ひて、しかも言解く者のあ
いかり
や
らざれば、彼の 慍 は野火の飽くこと知らで燎くやうなり。
ゆふべ
すす
わび
とど
ものがたら
この 夕 隆三は彼に食後の茶を 薦 めぬ。一人 佗 しければ 留 めて 物
語 は
くつたくがほ
あら かた は
んとてなるべし。されども貫一の 屈 托 顔 して絶えず思の 非 ぬ 方 に馳する
けしき
気 色 なるを、
し
「お前どうぞ為なすつたか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
ひど
「それは好くない。 劇 く痛みでもするかな」
よろし
「いえ、なに、もう 宜 いのでございます」
い
「それぢや茶は可くまい」
ちようだい
「 頂
戴 します」
いかり
はなは いはれな
かかる浅ましき 慍 を人に移さんは、 甚 だ 謂 無 き事なり、と自ら制して、
なまじ
しばら うさ
し
書斎に帰りて 憖 ひ心を傷めんより、人に対して 姑 く 憂 を忘るるに如かじと思
くつろ
やや
そら
ひければ、彼は努めて 寛 がんとしたれども、 動 もすれば心は 空 になりて、
あるじ ことば ききそら
主 の 語 を 聞 逸 さむとす。
ふみ
こまごま
かきつら
いか
うれし
今日 文 の来て 細 々 と優き事など 書 聯 ねたらば、如何に我は 嬉 からん。
か
たのしみ
なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに易へて、その
楽
は深かるべきを。さては
いでゆ
ふたよみよ とほざ
出 行 きし恨も忘られて、 二 夜 三 夜 は 遠 かりて、せめてその文を形見に思続けん
もをかしかるべきを。
にはか いでゆ
いか ほいな
よ
彼はその身の 卒 に 出 行 きしを、如何に本意無く我の思ふらんかは能く知るべき
ひとふで
せ
に。それを知らば 一 筆 書きて、など我を慰めんとは為ざる。その一筆を如何に我の
いと
なにゆゑ
せ
嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐しと思へる人の 何 故 にさは為ざるに
なさけあつ
やあらん。かくまでに 情
篤 からぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と
貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は
たちま
われ かへ
忽 ちその事を忘るべき 吾 に 復
れり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
ひそ
やや
あざ
ともしび
笑ふにもあらず、 顰 むにもあらず、 稍 自ら 嘲 むに似たる隆三の顔は、 燈 火
に照されて、常には見ざる
あやし
あらは
異 き相を 顕 せるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
ひげ せはし も
おとがひ あたり
しづか なでおろ
彼は長き 髯 を 忙 く揉みては、又
頤
の 辺 より 徐 に 撫 下 して、
まづうちいだ
ことば
先 打 出 さん 語 を案じたり。
つ
「お前の一身上の事に就いてだがの」
わづか
ためら
ひげ あぶ
纔 にかく言ひしのみにて、彼は又 遅 ひぬ、その 髯 は 虻 に苦しむ馬の尾の
ふる
やうに 揮 はれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
にはか
おのづ ひざ
貫一は 遽 に敬はるる心地して 自 と 膝 を正せり。
わし
おとつさん
「で、 私 もまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の 御 父 様 に対して
おんがへし
ますます
恩
返 も出来たやうな訳、就いてはお前も
益
勉強してくれんでは困るなう。
未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなけれ
さ
し
ば、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも為せて、指折の人物に為たいと考へて
ま
りようはだ
ゐるくらゐ、未だ未だこれから 両
肌 を脱いで世話をしなければならんお前の体だ、
なう」
き
てつじよう
いまし
た
これを聞ける貫一は 鉄
繩 をもて 縛 められたるやうに、身の重きに堪へず、
うた くるし
うち
心の 転 た 苦 きを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその 中 に在り
へいぜい
てその中に在ることを忘れんと為る 平 生 を省みたるなり。
「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもござい
おやぢ
ません。 愚 父 がどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受ける
お
ほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は措きまして、私は私で、この御恩は
おも
なくな
どうか立派に御返し申したいと 念 つてをります。愚父の 亡 りましたあの時に、
こちら
いただ
此 方 で引取つて 戴 かなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひま
さいはひ
おそら
すと、世間に私ほど
幸
なものは 恐 く無いでございませう」
彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる
おのれ
きぬ
己 を見て、その着たる 衣 を見て、その
ぬし
そぞろ
坐れるを見て、やがて美き宮と共にこの家の 主 となるべきその身を思ひて、 漫 に
げ
そうれん
あがな
涙を催せり。実に七千円の 粧 奩 を随へて、百万金も 購 ふ可からざる恋女房を得
べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を
走りし少年なるをや。
わし
たのみ
「お前がさう思うてくれれば 私 も張合がある。就いては改めてお前に 頼 があるの
だが、聴いてくれるか」
「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」
彼はかく潔く答ふるに
はばか
憚 らざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざ
ことば いだ
あた
し
ためし
りき。人のかかる 言 を 出 す時は、多く 能 はざる事を強ふる 例 なればなり。
や
「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に遣らうかと思つて」
た
おどろき
あわただし ことば
見るに堪へざる貫一の 驚 愕 をば、せめて乱さんと彼は 慌
忙 く 語 を次ぎ
ぬ。
いろいろ
「これに就いては私も 種 々 と考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあ
しま
すこ
れは遣つて 了 うての、お前はも 少 しの事だから大学を卒業して、四五年も
エウロッパ
すつかり
欧 羅 巴 へ留学して、 全 然 仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」
なんぢ
せま
いか
汝 の命を与へよと 逼 らるる事あらば、その時の人の思は如何なるべき!
おそろし
むなし
おもて うちまも
いた
可 恐 きまでに色を失へる貫一は 空 く隆三の 面 を 打 目 戍 るのみ。彼は 太
こう
てい
く 困 じたる 体 にて、長き髯をば揉みに揉みたり。
へんがへ
「お前に約束をして置いて、今更 変 換 を為るのは、何とも気の毒だが、これに就い
ては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、
可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
ことば いだ
あるじ すくな
待てども貫一の 言 を 出 さざれば、 主 は 寡 からず惑へり。
うち
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家とお前との縁を
たい
そつくり
切つて了ふと云ふのではない、可いかい。 大 した事は無いがこの家は 全 然 お前に
やはり
譲るのだ、お前は 矢 張 私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く
取つては困るよ。
よそ
約束をした宮をの、余所へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれ
そこ
よ
ど、決してさうした訳ではないのだから、其処はお前が能く承知してくれんければ困る、
あつぱれ
誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、 天 晴 の人物に成るの
のぞみ
と
が第一の 希 望 であらう。その志を遂げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程
しか
りくつ
の事でもないのだ。なう、さうだらう、 然 しこれは 理 窟 で、お前も不服かも知れん。
不服と思ふから私も頼むのだ。お前に
たのみ
頼 が有ると言うたのはこの事だ。
これまで
これから
そこ
従 来 もお前を世話した、 後 来 も益世話をせうからなう、其処に免じて、お前
もこの頼は聴いてくれ」
をのの くちびる くひし
ことさ ゆるやか いだ
こわね
貫一は 戦 く
唇
を 咬 緊 めつつ、 故 ら 緩 舒 に 出 せる 声 音 は、
あやし
怪 くも常に変れり。
をぢさん
みい
「それぢや 翁 様 の御都合で、どうしても 宮 さんは私に下さる訳には参らんのです
か」
た
「さあ、断つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、
とんちやく
又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな 貪
着 は無しに、何でもかでも宮が欲し
いと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
得言はぬ貫一が胸には、
ことわり
なじ
理
に似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、 詰 る
ののし
はぢし
わ
みちみ
べき事、 罵 るべき、言破るべき事、 辱 むべき事の数々は沸くが如く 充 満 ちた
まさ
ことば
れど、彼は神にも 勝 れる恩人なり。理非を問はずその 言 には逆ふべからずと思へ
か
あへ
ば、血出づるまで舌を咬みても、 敢 て言はじと覚悟せるなり。
かせ かくのごと せま
彼は又思へり。恩人は恩を 枷 に 如
此 く 逼 れども、我はこの枷の為に屈せら
いか
をの
なさけ
るべきも、彼は如何なる 斧 を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が 情 は我が思
こまやか
ふままに 濃
ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だ
に我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるる
なり
いとし
いかり やはら
つと
も宮が心 也 と、彼は 可 憐 き宮を思ひて、その父に対する 慍 を 和 げんと 勉
めたり。
なさけ こまやか
我は常に宮が 情 の
濃
ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛
ばんこんさくせつ あ
の力を試むるに足るなる。善し善し、 盤 根 錯 節 に遇はずんば。
おつしや
どちら おつかは
「嫁に遣ると 有 仰 るのは、 何 方 へ 御 遣 しになるのですか」
ま しか
きま
したや
「それは未だ 確 とは 極 らんがの、 下 谷 に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重
平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
かるたかい
ダ゗ゕモンド
それぞ箕輪の 骨 牌 会 に三百円の 金 剛 石 をかせし男にあらずやと、貫一は
ひそか あざわら
おどろ
陰 に 嘲 笑 へり。されど又余りにその人の意外なるに 駭 きて、やがて又彼は
自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、
いやし
苟 くも吾が宮の如く美きを、目あり心ある
たれ
ひと
こころ
かな わが
ものの 誰 かは恋ひざらん。 独 り怪しとも怪きは隆三の 意 なる 哉 。 我 十年の
かろがろし
なほいはれな
いだ
か
約は 軽 々 く破るべきにあらず、 猶 謂 無 きは、一人娘を 出 して嫁せしめん
たはむ
むし
とするなり。 戯 るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は 寧 ろかく疑ふ
ちか
をば、事の彼の真意に出でしを疑はんより 邇 かるべしと信じたりき。
ダ゗ゕモンド
ひとたび けが
はづかし
彼は競争者の 金 剛 石 なるを聞きて、 一 度 は 汚 され、
辱
められたら
いかり な
ぶんめい
つか
んやうにも 怒 を作せしかど、既に勝負は 分 明 にして、我は手を 束 ねてこの弱
たふ
み
やや
敵の自ら 僵 るるを看んと思へば、心 稍 落ゐぬ。
「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」
おもて
この一言に隆三の 面 は熱くなりぬ。
わし
なに し
「これに就いては 私 も大きに考へたのだ、 何 に為ろ、お前との約束もあるものなり、
しか
こうらい つ
又一人娘の事でもあり、 然 し、お前の 後 来 に就いても、宮の一身に就いてもの、
又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、こ
の鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心
わか
細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは 若 しと云ふもので、ここに
たのもし
可 頼 い親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に
はづかし
いへがら
へんがへ
持つても 可 愧 からん 家 格 だ。気の毒な思をしてお前との約束を 変 易 するの
よそ
つまり
も、私たちが一人娘を 他 へ遣つて了ふのも、 究 竟 は銘々の為に行末好かれと思ふよ
り外は無いのだ。
た
それに、富山からは切つての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫
いつけ
おろそか
せ
婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も 一 家 のつもりで、決して鴫沢家を
疎
には為
まい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうに
は計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。
い
い
とり なほ
決して慾ではないが、良い親類を持つと云ふものは、人で謂へば 取 も 直 さず良い
友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力
いつか
になる、なう、謂はば親類は 一 家 の友達だ。
たいそう
お前がこれから世の中に出るにしても、 大 相 な便宜になるといふもの。それやこ
たれ
れや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、 誰 の為彼の為ではない。四方八
わし
方が好いのだから、 私 も決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。
りようけん
私の 了
簡 はかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だと
としがひ
なにし
ふため
て 年 効 も無く事を好んで、 何 為 に若いものの 不 為 になれと思ふものかな。お前
よ そこ
も能く其処を考へて見てくれ。
すぐ
私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら 直 に洋行でもし
ひとつ
たいと思ふなら、又さう云ふ事に私も 一 番 奮発しやうではないか。明日にも宮と一処
すこ
になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも 少 しのところを辛抱して、
はかせ
いつその事 博 士 になつて喜ばしてくれんか」
ときおほ
おももち
ゆたか ひげ な
彼はさも思ひのままに 説 完 せたる 面 色 して、 寛 に 髯 を撫でてゐたり。
貫一は彼の説進むに従ひて、
やうや
み
あきらか
漸 くその心事の火を覩るより
明
なるを得たり。
ろう
う
ひつきよう
おほ
彼が千言万語の舌を 弄 して倦まざるは、 畢
竟 利の一字を 掩 はんが為のみ。貧
けが
する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も 穢 れたるこの世
に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、
あるひ
或 は穢れたる念を起し、或は穢れたる
おこなひ な
行 を為すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて
あに
博士を買ふ! これ 豈 穢れたるの最も大なる者ならずや。
ひと けがれ そ
世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の 独 り 汚 に染みざるを信じて疑
みなしご
はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き 孤 子 を養へる志は、これ
あまり
むご
を証して 余 あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は 酷 くも我を欺きぬ。
今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時こ
ただ
の穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に 唯 一つ穢れざるものあり。喜ぶべ
いとし
きものあるにあらずや。貫一は 可 憐 き宮が事を思へるなり。
おびやか
なにがし みかど
我の愛か、死をもて
脅
すとも得て屈すべからず。宮が愛か、
某
の 帝
かむり
ぶそう だいこんごうせき
あがな
冠 を飾れると聞く世界 無 双 の 大 金 剛 石 をもて 購 はんとすとも、
の
いか
おでい うち
争 でか動し得べき。我と彼との愛こそ 淤 泥 の 中 に輝く玉の如きものなれ、我はこ
いだ
すべ
の一つの穢れざるを 抱 きて、この世の 渾 て穢れたるを忘れん。
うらめ
ま
貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し 可 恨 しとは思ひつつも、枉げてさ
てい
あらぬ 体 に聴きゐたるなりけり。
みい
「それで、この話は 宮 さんも知つてゐるのですか」
うすうす
「 薄 々 は知つてゐる」
ま みい
「では未だ 宮 さんの意見は御聞にならんので?」
ちよつと
「それは、何だ、 一 寸 聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
おとつさん おつかさん よろし
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。 御 父 様 や 御 母 様 の 宜 いやうに
と云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところ
が、さう云ふ次第ならばと、
やうや
漸 く得心がいつたのだ」
いつはり
をど
断じて 詐
なるべしと思ひながらも、貫一の胸は 跳 りぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうでは
わし
あるが、その実少しも無理ではないのだ。 私 の今話した訳はお前にも能く解つたらう
が、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。
くはし
いづ
悉 い事は 何
ゆつくり
いろいろ
れ又 寛 緩 話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く 種 々 考へて置
い
くが可いの」
「はい」
第七章
熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日
やうや
なかば
漸 く一月の 半 を過ぎぬるに、
ばいりん
こずゑ
うつろ
れいろう
梅 林 の花は二千本の 梢 に咲乱れて、日に 映 へる光は 玲 瓏 として人の
おもて
みち うづ
いくと せいこう こ
むす
た
ほか
面 を照し、 路 を 埋 むる 幾 斗 の 清 香 は凝りて 掬 ぶに堪へたり。梅の 外
いちぼく
ところどころ
よこた
たひらか
には 一 木 無く、 処
々 の乱石の低く 横 はるのみにて、地は
坦
に
せん し
しばふ
うち
ほとばし
ねりぎぬ
氈 を鋪きたるやうの 芝 生 の園の 中 を、玉の砕けて
迸
り、
練
の裂けて
ひるがへ
うららか は
飜 る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は
麗
に霽れ
さ
いただき あた
ものう
かか
ねむ
そよ
たる空を攅してその
頂
に 方 りて 懶 げに 懸 れる雲は 眠 るに似たり。 習
しきり
かろ
うぐひす
との風もあらぬに花は 頻 に散りぬ。散る時に 軽 く舞ふを
鶯
は争ひて歌へり。
いりきた
しようぎ
こ
宮は母親と連立ちて 入 来 りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の 牀 几 を据ゑたる木
もと
ゆる
いま
うすげしやう
の 下 を指して 緩 く歩めり。彼の病は 未 だ快からぬにや、 薄 仮 粧 したる顔色
はなびら
はこび たゆ
とも
かしら た
も散りたる 葩
のやうに衰へて、足の 運 も 怠 げに、 動 すれば 頭 の低る
おもひいだ
なが
ものあんじ
るを、 思
出 しては努めて梢を 眺 むるなりけり。彼の常として 物
案 すれば
くちびる か
しきり
唇
を咬むなり。彼は今 頻 に唇を咬みたりしが、
必ず
おつか
「 御 母 さん、どうしませうねえ」
うつ
いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に 転 りぬ。
はじめ
い
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。 初 発 にお前が適きたいといふから、か
う云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
かんいつ
おとつ
「それはさうだけれど、どうも 貫 一 さんの事が気になつて。 御 父 さんはもう貫一
な
おつか
さんに話を為すつたらうか、ねえ 御 母 さん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
宮は又唇を咬みぬ。
も ゆ
あ
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若し適くのなら、もう逢は
ずつ
しま
ずに 直 と行つて 了 ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はず
に行くわ」
声は低くなりて、美き目は
うるほ
ぬぐ
湿 へり。彼は忘れざるべし、その涙を 拭 へるハンカ
チ゗フは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
い
いつ
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適きたいとお言ひなのだえ。さう何時まで
た
も気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にど
しつかりき
い
いや
いで
うとも 確 然 極めなくては可けないよ。お前が可厭なものを無理にお 出 といふのぢ
やないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つた
つて……」
い
「可いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
たび
貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ 度 に、犯せる罪をも
歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざ
し
るなり。彼は強ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
とつ
「お 父 さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前
あちら
しあはせ
が 彼 方 へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の 仕 合 と云ふものだから、
そこ
おもひきり
其処を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは 思
切 が好いから、
あ
お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇はずに行くなんて、それはお前
かへ
やつぱり
ちやん
却 つて善くないから、 矢 張 逢つて、 丁 と話をして、さうして清く別れるのさ。
ゆきかよひ
この後とも末長く兄弟で 往
来 をしなければならないのだもの。
あした
おたより
いづれ今日か 明 日 には 御 音 信 があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、
早く支度に掛らなければ」
しようぎ よ
なかば
ひざ
はなびら
宮は 牀 几 に倚りて、 半 は聴き、半は思ひつつ、 膝 に散来る
葩
を拾ひ
ては、おのれの唇に代へて
しきり かみくだ
うぐひす
むせ
連 に 咬 砕 きぬ。
鶯
の声の絶間を流の音は 咽
びて止まず。
おもて あぐ
やや
こ まがくれ
そぞろあるき
宮は何心無く 面 を 挙 るとともに 稍 隔てたる木の 間 隠 に男の 漫
行
する姿を認めたり。彼は
たちま まなこ
忽 ち 眼 を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに
さへぎ ひま
しばら
お
つひ たれ
みいだ
遮 る 隙 を縫ひつつ、 姑 くその影を逐ひたりしが、 遂 に 誰 をや 見 出 しけ
あわただし
いつあしむあしすすみゆ
ん。 慌 忙 く母親にけり。彼は急に牀几を離れて 五 六 歩 進 行 きしが、
あなた
いちはや
彼 方 よりも見付けて、 逸 早 く呼びぬ。
そこ おいで
「其処に 御 出 でしたか」
その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと
ひとし
ふぜい
斉 く、恐れたる 風 情 にて牀几の
はし すくま
端 に 竦 りつ。
ただいま がた
「はい、 唯 今 し 方 参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
あいさつ
そなた
母はかく 挨 拶 しつつ彼を迎へて立てり。宮は 其 方 を見向きもやらで、彼の
いそぎあし ちかづ
急
足 に 近 く音を聞けり。
おやこ
あらは
たれ
母 子 の前に 顕 れたる若き紳士は、その 誰 なるやを説かずもあらなん。
めざまし おほい
ダ゗ゕモンド
にぎり
ぎよく
目 覚 く 大 なる 金 剛 石 の指環を輝かせるよ。 柄 には緑色の 玉 を
ししがしら きざ
ぞうげ
つややか
つゑ
さき
獅 子 頭 に 彫 みて、 象 牙 の如く 瑩 潤 に白き 杖 を携へたるが、その 尾 をも
て低き梢の花を打落し打落し、
ここ
おつか
「今お留守へ行きまして、此処だといふのを聞いて 追 懸 けて来た訳です。熱いぢやな
いですか」
おもて
しとやか
うやうやし
宮はやうやう 面 を向けて、さて
淑
に起ちて、
恭
く礼するを、唯継
おご たかぶ
は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも 倨 り 高 るを忘れざりき。
あぎと
うすくちびる
けやけ きんぶち めがね
その張りたる 腮 と、への字に結べる 薄
唇 と、 尤 異 き 金 縁 の 目 鏡 と
すくな
うたがひ
は彼が尊大の風に 尠 からざる光彩を添ふるや
疑
無し。
「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶ
ほん こんにち
らぶらと出掛けて見ました。 真 に 今 日 はお熱いくらゐでございます。まあこれへ
お掛遊ばして」
みち
かたはら たたず
母は牀几を払へば、宮は 路 を開きて
傍
に 佇 めり。
あなた
「 貴 方 がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速
こちら
帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ 此 方 の塗
物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上
る訳でありますから、私も今は随分
せはし からだ
忙 い 体 、なにしろ社長ですからな。それで
あす
私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、 翌 の朝立たなければならん
のであります」
「おや、それは急な事で」
いつしよ
「貴方がたも 一 所 にお立ちなさらんか」
ぬすみみ
けしき
彼は宮の顔を 偸 視 つ。宮は物言はん 気 色 もなくて又母の答へぬ。
ありがた
「はい、 難 有 う存じます」
ま おいで
「それとも未だ 御 在 ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありません
わけ
か。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の 難 は無い事です。地面を広く取つて
ゐなかや
その中に風流な 田 舎 家 を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実
ゆつくり
は保養には成らん。家が出来てから 寛 緩 遊びに来るです」
「結構でございますね」
「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」
ゑみ
かたはら
宮は 笑 を含みて言はざるを、母は
傍
より、
「これはもう遊ぶ事なら
きらひ
嫌 はございませんので」
これからさかん
あす
「はははははは誰もさうです。それでは 以 後
盛 にお 遊 びなさい。どうせ毎日
さいきよう
用は無いのだから、田舎でも、東京でも 西
京 でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。
おきらひ
しな
ゕメリカ
船は 御 嫌 ですか、ははあ。船が平気だと、支那から亜米利加の方を見物がてら今度
ゆさん ある
旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや 遊 山 に 行 いたところで知れたもの。
ぜいたく
どんなに 贅 沢 を為たからと云つて」
おかへり
いでくだ
「 御 帰 になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお 出 下 さい、ねえ。梅が好いの
であります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、
まる しかた
皆老木ばかり。この梅などは 全 で 為 方 が無い!
のうめ まき
こんな若い 野 梅 、 薪 のやうな
もので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も
すさまし
凄
い。是非内のをお目
ごちそう
に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。 御 馳 走 を為ますよ。お宮さんは何
すき
が所好ですか、ええ、一番所好なものは?」
ひそか
はづか
うちゑ
彼は 陰 に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして 可 羞 しげに 打 笑
めり。
いつ
あした
おたち
こつち
「で、何日御帰でありますか。 明 朝 一所に御発足にはなりませんか。 此 地 にさう長
く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらど
うであります」
ありがた
うち
「はい、 難 有 うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日 内 には
たより
はず
たより
音 信 がございます 筈 で、その 音 信 を待ちまして、実は帰ることに致してございま
すものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
おご
にら
うちあふ
ししがしら なでまは
唯継は例の 倨 りて天を 睨 むやうに 打 仰 ぎて、杖の 獅 子 頭 を 撫 廻 しつ
しばらく
てい
しろはぶたへ
とりいだ
つ、 少 時 思案する 体 なりしが、やをら 白 羽 二 重 のハンカチ゗フを 取 出 し
ひとふりふ
はな ぬぐ
ヴゔ゗オレット かをり むせ
て、片手に 一 揮 揮るよと見れば 鼻 を 拭 へり。 菫
花 の 香 を 咽 ば
くん わた
さるるばかりに 薫 じ 遍 りぬ。
にほひ
宮も母もその鋭き 匂 に驚けるなり。
つ
「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿いて、
たんぼ
ま
田 圃 の方を。私未だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、
みち
あなた
大分跡程が有るから、 貴 方 は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下
わるい
きは
さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が 不 良 のだから散歩は 極 めて
薬、これから行つて見ませう、ねえ」
彼は杖を取直してはや立たんとす。
ありがた
し
「はい。 難 有 うございます。お前お供をお為かい」
ためら
ことさら
た
宮の 遅 ふを見て、唯継は
故
に座を起てり。
いんじゆん
い
「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう 因
循 してゐては可けない」
かろ
う
たちま おもて あか
いか
せ
つと寄りて 軽 く宮の肩を拊ちぬ。宮は 忽 ち 面 を 紅 めて、如何にとも為ん
すべ
たちまど
はばか
なれなれ
術 を知らざらんやうに 立 惑 ひてゐたり。母の前をも 憚 らぬ男の 馴 々 しさ
を、憎しとにはあらねど、
おのれ はした
は
己 の 仂 なきやうに慙づるなりけり。
い
あどな
しみわた
た
そぞろ
得も謂はれぬその 仇 無 さの身に 浸 遍 るに堪へざる思は、 漫 に唯継の目の
うち あらは
あやし ひとりゑみ
あどな
中 に 顕 れて 異 き 独
笑 となりぬ。この 仇 無 きしらしき、美き娘の
やはらか
のどか
かたら
いか
柔 き手を携へて、人無き野道の 長 閑 なるを 語 ひつつ行かば、如何ばかり楽
そら
からんよと、彼ははや心も 空 になりて、
おつか
おゆるし
「さあ、行つて見ませう。 御 母 さんから 御 許 が出たから可いではありませんか、
あなた よろし
ねえ、 貴 方 、 宜 いでありませう」
なほは
母は宮の 猶 羞 づるを見て、
いで
し
「お前お 出 かい、どうお為だえ」
おつしや
な
「貴方、お出かいなどと 有 仰 つちや可けません。お出なさいと命令を為すつて下さ
い」
おく
宮も母も思はず笑へり。唯継も 後 れじと笑へり。
いりく けはひ
うかが
又人の 入 来 る 気 勢 なるを宮は心着きて 窺 ひしに、姿は見えずして靴の音のみ
を聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに
せはし
忙 く踏立つる足音なりき。
まい
「ではお 前 お供をおしな」
ぢきそこ
「さあ、行きませう。 直 其処まででありますよ」
ちひさ
宮は 小 き声して、
おつか
おいで
「 御 母 さんも一処に 御 出 なさいな」
「私かい、まあお前お供をおしな」
すこぶ
頗 る妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれ
母親を伴ひては大いに風流ならず、
を防がんと、
かへ
「いや、御母さんには 却 つて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可け
た
ますまい。実際貴方には切つてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行
くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折
角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴
いや
すぐ
女が可厭だつたら 直 に帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に
だま
騙 されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」
せは
や
いでさ
この時 忙 しげに聞えし靴音ははや止みたり。人は 出 去 りしにあらで、七八間
あなた
とど
こなた みたり たれ
彼 方 なる木蔭に足を 停 めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、 此 方 の 三 人 は 誰
たたず
オバコオト
も知らず。 彳 める人は高等中学の制服の上に焦茶の 外
套 を着て、肩には古り
かばん
たる象皮の学校 鞄 を掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
再び靴音は高く響きぬ。その
にはか
みたり
驟 なると近きとに驚きて、 三 人 は始めて音する
かた みや
方 を見遣りつ。
すすみき
花の散りかかる中を 進 来 つつ学生は帽を取りて、
をば
「 姨 さん、参りましたよ」
おやこ どうてん
ほとん ひとごこち
母 子 は 動 顛 して 殆 ど 人 心 地 を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず
あき
むなし
しばし
呆 れ果てたる目をば 空 くりて、 少 時 は石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあ
たちま
なりをは
こころやす
らんより 忽 ち消えてこの土と 成 了 らんことの、せめて 心
易 さを思ひつつ、
うすじろ くちびる くひさ
か
や
その 淡 白 き
唇
を 啖 裂 かんとすばかりに咬みて咬みて止まざりき。
おどろき おそれ
きた
想ふに彼等の 驚 愕 と 恐 怖 とはその殺せし人の計らずも今生きて 来 れるに会へ
そぞろ
うはごと
いひいだ
るが如きものならん。気も 不 覚 なれば母は 譫 語 のやうに 言 出 せり。
いで
「おや、お 出 なの」
わづか
ねが
宮は 些 少 なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと 冀 へる如く、
こかげ
そば
うちはず いき
おほ
木 蔭 に身を 側 めて、 打 過 む呼吸を人に聞かれじとハンカチ゗フに口元を 掩 ひ
くるし
つら
ふ
ひたひごし うかが
て、見るは 苦 けれども、見ざるも 辛 き貫一の顔を、俯したる 額
越 に 窺
けしき
きづか
ひては、又唯継の 気 色 をも 気 遣 へり。
だいはらん
唯継は彼等の心々にさばかりの 大 波 瀾 ありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の
しよくかく きた
ダ゗ゕモンド
食
客 の 来 れるよと、例の 金 剛 石 の手を見よがしに杖を立てて、誇りかに
あぎと
梢を仰ぐ 腮 を張れり。
こたび
貫一は 今 回 の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざ
ひし
しばら
るにはあらねど、言ふべき事は後にぞ 犇 と言はん、今は 姑 く色にも出さじと、裂
しづ
くるし ゑがほ
けもしぬべき無念の胸をやうやう 鎮 めて、 苦 き 笑 顔 を作りてゐたり。
みい
「 宮 さんの病気はどうでございます」
たま
ひそか
かみし
宮は 耐 りかねて 窃 にハンカチ゗フを 咬 緊 めたり。
うち
よ
「ああ、大きに良いので、もう二三日 内 には帰らうと思つてね。お前さん能く来られ
ましたね。学校の方は?」
あすあさつて やすみ
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日 明 後 日 と 休 課 になつたもの
ですから」
「おや、さうかい」
唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、
あやま
ふるゐ
過 ちて野中の 古 井 に落ちた
あが
えせ
あやふ
とりすが
る人の、沈みも果てず、 上 りも得為ず、命の綱と 危 くも 取 縋 りたる草の根を、
ねずみ きた
か
あ
たとへ いとよ
いか
鼠 の 来 りて噛むに遭ふと云へる 比 喩 に 最 能 く似たり。如何に為べきかと
あるひ おそ
つひ
まぬが
或 は 懼 れ、或は惑ひたりしが、 終 にその 免 るまじきを知りて、彼はやうや
う胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、
はなは
甚 だ勝手がましうございますが、私
ども
等 はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございます
が……」
あす
「ははあ、それでは何でありますか、明朝は御一所に帰れるやうな都合になりますな」
よ
「はい、話の模様に因りましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程に
は是非伺ひまして、……」
や
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷めます。散歩は罷めてこれから帰ります。
いでくだ
よろし
帰つてお待申してゐますから、後に是非お 出 下 さいよ。 宜 いですか、お宮さん、
いで
それでは後にきつとお 出 なさいよ。誠に今日は残念でありますな」
そば
よりき
彼は行かんとして、更に宮の 傍 近く 寄 来 て、
あなた
のち
いで
「 貴 方 、きつと 後 にお 出 なさいよ、ええ」
まばたき せ み
し
貫一は 瞬
も為で視てゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ為かねつ。娘気の
はづかしさ
ますます
したたる
可
羞 にかくあるとのみ思へる唯継は、
益
寄添ひつつ、 舌 怠 きまでに
ことば やはら
語 を 和 げて、
よろし
宜 いですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
「
まなこ
な
ねめつ
おそ
貫一の 眼 は燃ゆるが如き色を作して、宮の横顔を 睨 着 けたり。彼は 懼 れて
わきめ
ふ
ひと
をのの
なほ
傍 目 をも転らざりけれど、必ずさあるべきを想ひて 独 り心を 慄 かせしが、 猶
いか
唯継の如何なることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。
いかばかり さいはひ
い
母子の為には 幾
許 の
幸
なりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容れず、
のこ
唯くまでもき宮に心を 遺 して行けり。
うしろかげ とほ
まも
しばら たたず
その 後
影 を 透 すばかりに目戍れる貫一は我を忘れて 姑 く 佇 めり。
ふたり
ことば い
むなし
両 個 はその心を測りかねて、 言 も出でず、息をさへ凝して、 空 く早瀬の音の
かしまし
聒 きを聴くのみなりけり。
こなた
ただ
おもて
やがて 此 方 を向きたる貫一は、尋常ならず激して血の色を失へる 面 上 に、多から
あた
わづか ゑみ
んとすれども 能 はずと見ゆる 微 少 の 笑 を漏して、
みい
やつ
かるた
ダ゗ゕモンド
「 宮 さん、今の 奴 はこの間の 骨 牌 に来てゐた 金 剛 石 だね」
うつむ
まね
な
うぐひす こ ま
宮は 俯 きて唇を咬みぬ。母は聞かざる 為 して、折しも啼ける
鶯
の木の間
うかが
てい
あざわら
窺 へり。貫一はこの 体 を見て更に 嗤 笑 ひつ。
を
きざ
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障な奴だね、さうしてどうだ、あ
つら
の高慢ちきの 面 は!」
にはか
「貫一さん」母は 卒 に呼びかけたり。
「はい」
をぢ
「お前さん 翁 さんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
あつこう
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の 悪 口 な
どを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
くたびれ
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお 草 臥 だらうから、お湯にでも入つて、さう
ま おひる
して未だ御午餐前なのでせう」
すし
「いえ、の中で 鮨 を食べました」
みたり とも あゆみはじ
オバコオト
うしろ ねぢむ
三 人は 倶 に 歩
始 めぬ。貫一は 外
套 の肩を払はれて、 後 を 捻 向
おもて
けば宮と 面 を合せたり。
そこ
つ
「其処に花が粘いてゐたから取つたのよ」
ありがた
「それは 難 有 う※[#感嘆符三つ、64-13]」
第八章
うちかす
にほひこぼ
ほのじろ
打 霞 みたる空ながら、月の色の 匂
滴 るるやうにして、 微 白 き海は
ひようびよう
たと
縹
渺 として限を知らず、 譬 へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返
ねむ
す波の音も 眠 げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を
しようよう
逍
遙 せるは貫一と宮となりけり。
ただ
「僕は 唯 胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
いつあしむあし
五 歩 六 歩 行きし後宮はやうやう言出でつ。
かんにん
「 堪 忍 して下さい」
あやま
をぢ
をば
「何も今更 謝 ることは無いよ。一体今度の事は 翁 さん 姨 さんの意から出たのか、
い
又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可いのだから」
「…………」
こつち
りようけん
「 此 地 へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな 了
簡 の
はず
なか
あるべき 筈 は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の 間 で、知れき
つた話だ。
ゆふべ
くはし
おことば
昨 夜 翁さんから 悉 く話があつて、その上に頼むといふ 御 言 だ」
さしぐ
ふる
差 含 む涙に彼の声は 顫 ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の
からだ
体 は
ひみづ
火 水 の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水
の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来
ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではない
かと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
や
さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣るとお言ひのだ。
みなしご
い……い……いかに貫一は乞食士族の 孤 児 でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思
はん!」
ふみとどま
きづかは
貫一は 蹈
留 りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、 気 遣
さしのぞ
しげにその顔を 差 覗 きぬ。
みんな
「堪忍して下さいよ、 皆 私が……どうぞ堪忍して下さい」
すが
たちま
おもて おしあ
なくね
貫一の手に 縋 りて、 忽 ちその肩に 面 を 推 当 つると見れば、彼も 泣 音 を
もら
ようよう
けむ
おぼろ
まさご
洩 すなりけり。波は 漾 々 として遠く 烟 り、月は 朧 に一湾の 真 砂 を照して、
みぎは うすじろ
したた
空も 汀 も 淡 白 き中に、立尽せる二人の姿は墨の 滴 りたるやうの影を作れり。
をぢ
をば
「それで僕は考へたのだ、これは一方には 翁 さんが僕を説いて、お前さんの方は 姨
ここ
さんが説得しやうと云ふので、無理に此処へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有
はいはい
つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、 唯 々 と言つて聞いてゐ
みい
いくら
さしつかへ
いや
たけれど、 宮 さんは 幾 多 でも剛情を張つて 差
支 無いのだ。どうあつても可厭
しま
そば
だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて 了 ふのだ。僕が 傍 に居ると
ちゑ
す
智慧を付けて邪魔を為ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる
はかりごと
ゆふべ よつぴてね
計
だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は 昨 夜 は 夜 一 夜 寐はしない、そん
ばんばん
いろいろ
いや
な事は 万 々 有るまいけれど、 種 々 言はれる為に可厭と言はれない義理になつて、
もし
うち
つもり
若 や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、 家 は学校へ出る 積 で、僕は
わざわざ様子を見に来たのだ。
どこ
馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処に在る
し
程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知……知……知らなかつた」
かなしさ おそろしさ
すこし
宮は 可 悲 と 可
懼 に襲はれて 少 く声さへ立てて泣きぬ。
いかり おさ
やうや
憤 を 抑 ふる貫一の呼吸は 漸 く乱れたり。
みい
「 宮 さん、お前は好くも僕を欺いたね」
をのの
宮は覚えず 慄 けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
僕はこれ
あんま
ひど
余 り邪推が過ぎるわ、余り 酷 いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
「
か
泣入る宮を尻目に挂けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、
せ
大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為んよ。
ここ
いちごん
お前が得心せんものなら、此地へ来るに就いて僕に 一 言 も言はんと云ふ法は無か
よこ
らう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来すが可いぢやな
だしぬ
たより
いか。 出 抜 いて家を出るばかりか、何の 便 も為んところを見れば、始から富山と
てはず
あるひ
出会ふ 手 筈 になつてゐたのだ。 或 は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前
かんぷ
かんつう
は 奸 婦 だよ。 姦 通 したも同じだよ」
あんま
余 りだわ、余りだわ」
「そんな酷いことを、貫一さん、
なきくづ
つきの
彼は正体も無く 泣 頽 れつつ、寄らんとするを貫一は 突 退 けて、
みさを
操 を破れば奸婦ぢやあるまいか」
「
いつ
「何時私が操を破つて?」
いくら
さい
そば
「 幾 許 大馬鹿者の貫一でも、おのれの 妻 が操を破る 傍 に付いて見てゐるものかい!
れき
よそ
貫一と云ふ 歴 とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所の男と湯治に来てゐた
どこ
ら、姦通してゐないといふ証拠が何処に在る?」
しま
「さう言はれて 了 ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあ
わたしたち こつち
つたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。 私
等 が 此 地 に来てゐるのを
聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
くちびる くぎ
ことば い
宮はその 唇
に 釘 打たれたるやうに再び 言 は出でざりき。貫一は、かく詰
あやまち
わ
おろ
おのれ
責せる間に彼の必ず
過
を悔い、罪を詫びて、その身は 未 か命までも 己 の欲
するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、
こころひそか
心
陰
いか
けしき
に望みたりしならん。如何にぞや、彼は露ばかりもさせる 気 色 は無くて、引けども朝
顔の垣を離るまじき一図の
こころがはり
まこと
心
変 を、貫一はなかなか 信 しからず覚ゆるまで
あき
に 呆 れたり。
いとをし
宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて 最 愛 みし人
あくた
にく
いかり
つんざ
芥 の如く我を 悪 めるよ。恨は彼の骨に徹し、 憤 は彼の胸を 劈 きて、ほ
は
くら
ねつちよう さま
とほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を 啖 ひて、この 熱
膓 を 冷 さ
たちま
えた
んとも思へり。 忽 ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪へずして尻居に
たふ
僵 れたり。
いとま
もろとも
まび
かきいだ
宮は見るより驚く 遑 もあらず、 諸 共 に砂に 塗 れて 掻 抱 けば、閉ぢたる
まなこ
はふりお
ほほ
さまよ
眼 より 乱 落 つる涙に浸れる灰色の 頬 を、月の光は悲しげに 彷 徨 ひて、迫れ
すさまし
うしろ
とりすが
いだきし
る息は 凄
く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の 背 後 より 取 縋 り、 抱 緊 め、
ゆりうごか
をのの
撼
動 して、 戦 く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと
ねんごろ ぬぐ
懇
に 拭 ひた
り。
ああ みい
「 吁 、 宮 さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてく
れるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善
どこ
く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!
さらいねん
再 来 年
のち
の今月今夜……十年 後 の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるも
のか、死んでも僕は忘れんよ!
可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜に
なつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つ
たらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
ひし
ものぐるはし むせびい
宮は 挫 ぐばかりに貫一に取着きて、 物
狂 う 咽 入 りぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も
なか
立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお 肚 の中には言ひ
たい事が沢山あるのだけれど、
あんま いひにく
余 り 言 難 い事ばかりだから、口へは出さないけ
たつたひとこと
あなた
れど、 唯 一 言 いひたいのは、私は 貴 方 の事は忘れはしないわ――私は生涯忘
れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
ゆ
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰くかい、馬鹿な!
い」
二人の夫が有てるか
すこ
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も 少 し辛抱してそれを――私の心を見
て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
うろた
こま
「ええ、 狼 狽 へてくだらんことを言ふな。食ふに 窮 つて身を売らなければならんの
ゆ
そこ
ぢやなし、何を苦んで嫁に帰くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処の一人
きま
娘ぢやないか、さうして婿まで 極 つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学
士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思
ゆ
つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰かなければなら
わけ
ゆ
んのだ。天下にこれくらゐ 理 の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰くべき必
ゆ
用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成
らない。
ふたつ
婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの 二 件 の外にはあるま
い
い。言つて聞かしてくれ。遠慮は要らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無い
よ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要
るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
あんま
「貫一さん、それは 余 りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さう
して証拠を見せるわ」
かね
「婿に不足は無い? それぢや富山が 財 があるからか、して見るとこの結婚は慾から
だね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
をぢ
をば
翁 さん 姨 さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談に
ほう いくら
する 方 は 幾 許 もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にも
ぶちこは
ならずに 打 壊 して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるの
い
だが、お前も適つて見る気は有るのかい」
まなこ
あつ
うちまも
貫一の 眼 はその全身の力を 聚 めて、思悩める宮が顔を鋭く 打 目 戍 れり。五歩
ためいき
行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて 太 息 し
たり。
よろし
宜 い、もう宜い。お前の心は能く解つた」
「
うちあん
今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと 打 按 じつつも、彼は乱る
ゆる
し
かた
る胸を 寛 うせんが為に、強ひて目を放ちて海の 方 を眺めたりしが、なほ得堪へずや
ありけん、又言はんとして顧れば、宮は
かたはら
あと
傍
に在らずして、六七間 後 なる
なみうちぎは おもて おほ
波 打 際 に 面 を 掩 ひて泣けるなり。
なやま
可 悩 しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、
はし
くづ
えん あはれ
ふぜい
たる海の 端 の白く 頽 れて波と打寄せたる、 艶 に 哀 を尽せる 風 情 に、貫一は
いかり
しばし
み
憤 をも恨をも忘れて、 少 時 は画を看る如き心地もしつ。更に、この美き人も今は
我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
かしら た
みぎは かた
あゆみきた
彼は 頭 を低れて足の向ふままに 汀 の 方 へ進行きしが、泣く泣く 歩
来
れる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は
ちつと
些 も泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
ほとん
殆 ど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じて
かね
いか
ゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、 財 なのだね。如何に何でも余り情無い、
あいそう
宮さん、お前はそれで自分に 愛 相 は尽きないかい。
い
えよう
かね
好い出世をして、さぞ 栄 耀 も出来て、お前はそれで可からうけれど、 財 に見換へ
い
くちをし
られて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂はうか、 口 惜 いと謂はうか、
さしころ
宮さん、僕はお前を 刺 殺 して――驚くことは無い!
――いつそ死んで了ひたいの
こら
とら
せ
こころもち
だ。それを 怺 へてお前を人に 奪 れるのを手出しも為ずに見てゐる僕の 心
地 は、
どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ!
ひと
自分さへ好ければ 他 はどうならうともお前は
かまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の
ゐさふらふ
をとこめかけ
居
候 でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の 男
妾 になつた
おぼえ
なぐさみもの
へいぜい
覚 は無いよ、宮さん、お前は貫一を 玩 弄 物 にしたのだね。 平 生 お前の仕
打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の
つもり
意 で、本当の愛情
は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外に
たのしみ
は何の 楽
も無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、
宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。
くらべもの
あつち
それは無論金力の点では、僕と富山とは 比
較 にはならない。 彼 方 は屈指の財
もと
産家、僕は 固 より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福
かね
ばかりは決して 財 で買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の
第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前
を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは
出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて
見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
おのれ
も
己 の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有つてゐる貫一を棄てて、夫婦間の
むし
やす
幸福には何の益も無い、 寧 ろ害になり 易 い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮
さん、どういふ心得なのだ。
かね
すぐ
然し 財 といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に 勝
ひど
れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分 甚 い事も為るのだ。それを考へれば、お
ふつと
あるひ
とが
前が 偶 然 気の変つたのも、 或 は無理も無いのだらう。からして僕はそれは 咎 め
ただ
ない、 但 もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が――富山の財産がお前の夫婦
い
間にどれ程の効力があるのかと謂ふことを。
すずめ
わづ とつぶ
雀 が米を食ふのは 僅 か 十 粒 か二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵
食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を
ひもじ
いくぢ
欠いて、お前に 餒 い思を為せるやうな、そんな意気地の無い男でもない。若し間違
つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前
に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
しづく
貫一は 雫 する涙を払ひて、
ゆ
えよう
「お前が富山へ嫁く、それは立派な生活をして、 栄 耀 も出来やうし、楽も出来やう、
けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と
云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ!
栄
よば
耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ 招 れて行く人
つまこ
ひ
もあれば、自分の 妻 子 を車に載せて、それを自分が挽いて花見に出掛ける車夫もある。
ゆ
ひとでいり
はげ
富山へ嫁けば、家内も多ければ 人 出 入 も、 劇 しし、従つて気兼も苦労も一通の事
いた
ぢやなからう。その中へ入つて、気を 傷 めながら愛してもをらん夫を持つて、それで
たのしみ
お前は何を 楽
に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前
の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の
十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたとこ
つか
ろで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く 費 へるかい。
雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立
よ
てないものなら、一生の苦楽他人に頼るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百
かね
万の 財 が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なか
なか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人
おもて
外 に三人も妾を置いてゐると云ふ話
まね
ほん
い
だ。財の有る者は大方そんな真似をして、妻は 些 の床の置物にされて、謂はば棄てら
れてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多
くるしみ
たのしみ
ゆ
もと
苦
ばかりで
楽
は無いと謂つて可い。お前の嫁く唯継だつて、 固 より
く、
のぞみ
もら
所 望 でお前を 迎 ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くもの
かね
ほか たのしみ
ぢき
か、 財 が有るから好きな真似も出来る、 他 の
楽
に気が移つて、 直 にお前の
さま
こころもち
恋は 冷 されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の 心
地 を考へて御覧、
くるしみ すく
あの富山の財産がその
苦
を 拯 ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて
床の置物になつてゐても、お前はそれで
たのしみ
楽
かい、満足かい。
と
い
僕が人にお前を奪られる無念は謂ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に
こころがはり
かあい
見えて、 心
変 をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり 可 哀 さうでならんか
ら、僕は真実で言ふのだ。
ほ
僕に飽きて富山に惚れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さ
ん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは
あやま
あやま
つまり
過 つてゐる、それは実に 過 つてゐる、愛情の無い結婚は 究 竟 自他の後悔だよ。
ふんべつ
今夜この場のお前の 分 別 一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前
ふびん
も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が 不 便 だと思つて、頼む!
頼むから、もう一
しなお
度分別を 為 直 してくれないか。
七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二
うらやまし
人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを 可
羨 いとは
更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ!
かはゆ
僕を忘れたのかい、僕を 可 愛 くは
思はんのかい」
あやふ
すく
ひし
にほひこぼ
えりもと に
彼は 危 きを 拯 はんとする如く 犇 と宮に取着きて 匂
滴 るる 頸 元 に沸
そそ
あし
もま
ふるは
ゆる涙を 濺 ぎつつ、 蘆 の枯葉の風に 揉 るるやうに身を 顫 せり。宮も離れじと
いだきし
もろとも
ひぢ か
むせびなき
抱 緊 めて 諸 共 に顫ひつつ、貫一が 臂 を咬みて 咽
泣 に泣けり。
ああ
「嗚呼、私はどうしたら可からう!
あつち い
若し私が 彼 方 へ嫁つたら、貫一さんはどうする
の、それを聞かして下さいな」
木を裂く如く貫一は宮を突放して、
いよいよ
「それぢや 断 然 お前は嫁く気だね!
これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。
はらわた
ちええ、 膓
の腐つた女!
」
かんぷ
姦 婦
あし
よこさま まろ
その声とともに貫一は 脚 を挙げて宮の弱腰をはたとたり。地響して 横 様 に 転
びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一
えせ よわよわ たふ
は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為ず 弱 々 と 僵 れたるを、なほ憎さげ
みや
に見遣りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!
貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男
いつぴき
しま
一 匹 はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて 了 ふのだ。学問も何ももう
やめ
くら
廃 だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を 啖 つ
て遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人!
もう一生お目には掛らんから、その顔
つら
を挙げて、真人間で居る内の貫一の 面 を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた
をぢ
をば
翁 さん 姨 さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれ
しさい
おいとま
ごきげん
ど、 仔 細 あつて貫一はこのまま長の 御 暇 を致しますから、随分お達者で 御 機 嫌
みい
も
よろしう…… 宮 さん、お前から好くさう言つておくれ、よ、若し貫一はどうしたとお
たづ
訊 ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から
ゆくへ
行 方 知れずになつて了つたと……」
はねお
いたみ もろ
かひな
宮はやにはに 蹶 起 きて、立たんと為れば脚の 痛 に 脆 くも倒れて 効 無 きを、
やうや はひよ
すがりつ
漸 く 這 寄 りて貫一の脚に 縋 付 き、声と涙とを争ひて、
あなた
ど
どこ
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。 貴 方 これから何……何処へ行くのよ」
きぬ はだ
ゆきはづかし あらは
ひざがしら
貫一はさすがに驚けり、宮が 衣 の 披 けて 雪 可 羞 く 露 せる 膝
頭 は、
おびただし
夥
く血に染みて顫ふなりき。
けが
「や、怪我をしたか」
寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所
に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
あ
「話が有ればここで聞かう」
いや
「ここぢや私は可厭よ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
けとば
「剛情張ると 蹴 飛 すぞ」
「蹴られても可いわ」
きは
ふりちぎ
ふしまろ
貫一は力を 極 めて 振 断 れば、宮は無残に 伏 転 びぬ。
「貫一さん」
いそぎゆ
いたみ
「貫一ははや幾間を 急 行 きたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の 傷 に
いくたび たふ
幾 度 か 仆 れんとしつつも後を慕ひて、
いひのこ
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は 言 遺 した事
がある」
つひ
た
たのみ
遂 に倒れし宮は再び起つべき力も失せて、唯声を 頼 に彼の名を呼ぶのみ。
やうや おぼろ
みもだえ
なほ
漸 く 朧 になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は 身 悶 して 猶 呼
いただき
こなた まも
頂
に立てるは、 此 方 を目戍れるならんと、宮
続けつ。やがてその黒き影の岡の
は声の限に呼べば、男の声も
はるか
遙 に来りぬ。
みい
「 宮 さん!」
かんいつ
「あ、あ、あ、 貫 一 さん!」
のち
かきけ
う
首を延べてせども、目をりて眺むれども、声せし 後 は黒き影の 掻 消 す如く失せて、
それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁
ひぬ。
こひし
宮は再び 恋 き貫一の名を呼びたりき。
[#改ページ]
中編
第一章
しんばしステエション
すぐ
よ
新 橋 停 車 場 の大時計は四時を 過 ること二分余、東海道行の列車は既に客
とびら さ
けふり ふか
よりよう つら
えんえん
車の 扉 を鎖して、機関車に 烟 を 噴 せつつ、三十 余 輛 を 聯 ねて 蜿 蜒
よこた
まうけ
ゆふばえ
ガラス
として 横 はりたるが、 真 承 の秋の日影に 夕 栄 して、窓々の 硝 子 は燃えんと
かがや
わめ
よそ
すばかりに 耀 けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと 喚 くを余所に、
だいとうほ かんかん
エウロッパ
ビ゗ルだる ぬす
つきいだ
大 蹈 歩 の 寛 々 たる老 欧 羅 巴 人は 麦 酒 樽 を 窃 みたるやうに腹 突 出
ゑひがさ え オレンジ
して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の 絵 日 傘 の柄に
橙
色のリボンを飾りた
こわき
おしなら
けしき
すぐ
るを 小 脇 にせると 推 並 び、おのれが乗物の顔して急ぐ 気 色 も無く 過 る後より、
のみとりまなこ
しよたいくづ
かけく
かさだか
蚤 取 眼 になりて遅れじと 所 体 頽 して 駈 来 る女房の、 嵩 高 なる風呂
いだ
よつ
どこ
うろた
敷包を 抱 くが上に、四歳ほどの子を背負ひたるが、何処の扉も鎖したるに 狼 狽 ふる
しよぴか
やうや あんど
ま
あをばなたら
を、車掌に 強 曳 れて 漸 く 安 堵 せる間も無く、 青 洟 垂 せる女の子を率ゐ
あまり おやぢ
とまどひ
ゆ
もど
あげく
ひか
て、五十 余 の 老 夫 のこれも 戸 惑 して往きつ 復 りつせし 揚 句 、駅夫に 曳
いか
た
たもと はさ
れて室内に押入れられ、如何なる罪やあらげなく閉てらるる扉に 袂 を 介 まれて、
すくひ
いま
あはれ
もしもしと 救 を呼ぶなど、 未 だ都を離れざるにはや旅の 哀 を見るべし。
かたすみ まどゐ
五人一隊の若き紳士等は中等室の 片 隅 に 円 居 して、その中に旅行らしき手荷物
いでたち
を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる 扮 装 にて、紋付の
あはせはおり
セル
はかま
袷 羽 織 を着たるもあれば、精縷の背広なるもあり、 袴 着けたるが一人、
おほしまつむぎ
大 島 紬 の長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし
せんべつ びん はこ
あみだな
すりはら
餞 別 の 瓶 、 凾 などを 網 棚 の上に片附けて、その手を 摩 払 ひつつ窓より
いだ
ステエション かた
のぞみみ
首を 出 して、 停 車 場 の 方 をば、求むるものありげに 望 見 たりしが、やが
あゐ
ばんせい
て 藍 の如き 晩 霽 の空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
あまかす
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、 甘 糟 」
こくもち たちおもだか くろつむぎ
黒 餅 に 立 沢 瀉 の 黒
紬 の羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如
もら
ちやじま せんだいひら
き微笑を 洩 せり。甘糟と呼れたるは、 茶 柳 条 の 仙 台 平 の袴を着けたる、この
ひと ほほひげ いかめし
たくは
中にて 独 り 頬 鬚 の
厳
きを 蓄 ふる紳士なり。
さきだ
かざはや
しわがれごゑ
甘糟の答ふるに 先 ちて、背広の 風 早 は若きに似合はぬ 皺 嗄 声 を
ふりしぼ
振 搾 りて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
かゆ
た
ちやん どうさつ
「馬鹿言へ。甘糟の 痒 きに堪へんことを僕は 丁 と 洞 察 してをるのだ」
はばかりさま
「これは 憚
様 です」
へばりつ
もた
にはか
大島紬の紳士は 黏 着 いたるやうに 靠 れたりし身を 遽 に起して、
さぶり
かね
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利と甘糟は 夙 て横
ゆうせんくつ
浜を主張してゐるのだ。何でもこの間 遊 仙 窟 を見出して来たのだ。それで我々を
きえん
つもり
引張つて行つて、大いに 気 焔 を吐く 意 なのさ」
「何じやい、何じやい!
い
君達がこの二人に犠牲に供されたと謂ふなら、僕は四人の為
に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒な
け
こつ
と思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……怪しからん 事 たぞ。学生中から
おもひや
その方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に 想 遣 らるるね。ええ、肩書を
はづかし
よ
辱 めん限は遣るも可からうけれど、注意はしたまへよ、本当に」
げん な
よとせ
はざまかんいち けいじ
この老実の 言 を作すは、今は 四 年 の昔 間 貫 一 が 兄 事 せし同窓の
あらおじようすけ
あ
荒 尾 譲 介 なりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に挙げられ、
こんにち
よはひ
踰えて一年の 今 日 愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その 齢
ゆゑ
と深慮と誠実との 故 を以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。
いひをさめ
ねがは
よろし
「これで僕は諸君へ意見の 言
納 じや。 願 くは君達も 宜 く自重してくれた
まへ」
はや
たちま しら
しきり くゆ
まきたばこ
面白く 発 りし一座も 忽 ち 白 けて、 頻 に 燻 らす 巻
莨 の煙の、
きゆうし
むかひかぜ あふ
のが
ろくごうがわ
急 駛 せる車の 逆
風 に 扇 らるるが、飛雲の如く窓を 逸 れて 六 郷 川 を
かす
掠 むあるのみ。
あまたたびうなづ
佐分利は 幾 数 回 頷 きて、
ぞつ
さつきステエション
びじ
「いやさう言れると慄然とするよ、実は 嚮
停 車 場 で例の『美人クリ゗ム』
とかげくら
(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で 蜥 蜴 啖 ふかと思ふ
いつ
まる レデゖ いでたち
なかんづく
めか
ね、 毎 見ても美いには驚嘆する。 全 で 淑 女 の 扮 装 だ。 就
中 今日は 冶
どこ うま
あいつ しぼ
かな
してをつたが、何処か 旨 い口でもあると見える。 那 奴 に 搾 られちや 克 はん、あ
れが本当の真綿で首だらう」
かね
「見たかつたね、それは。 夙 て御高名は聞及んでゐる」
おほしまつむぎ なほ
さへぎ
と 大 島 紬 の 猶 続けんとするを 遮 りて、甘糟の言へる。
く
そいつ
おも
「おお、宝井が退学を吃つたのも、 其 奴 が債権者の 重 なる者だと云ふぢやないか。
きん
は
ひど
余程好い女ださうだね。黄金の腕環なんぞ篏めてゐると云ふぢやないか。 酷 い奴な!
かか
鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら 係 つたのは、大いに冒険の目的があ
ミ゗ラ
ふんどし し
つて存するのだらうけれど、木乃伊にならんやうに
褌
を緊めて掛るが可いぜ」
たれ そいつ
しりおし
あるひ いろ
「 誰 か 其 奴 には 尻 押 が有るのだらう。亭主が有るのか、 或 は情夫か、何か
有るのだらう」
しわがれごゑ
皺 嗄 声 は卒然としてこの問を発せるなり。
ラ゗フ
いろ
こいつ
「それに就いては小説的の 閲 歴 があるのさ、情夫ぢやない、亭主がある、 此 奴 が君、
ぜん
ゕ゗ス
あかがしごんざぶろう
我々の一世紀 前 に鳴した高利貸で、 赤 樫 権 三 郎 と云つては、いや無法な強
慾で、加ふるに大々的と来てゐるのだ」
「成程!
しやくきよく
つめ
積
極 と消極と相触れたので 爪 に火がる訳だな」
や
大島紬が得意のに、深沈なる荒尾も已むを得ざらんやうに破顔しつ。
「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を
もてあそ
こいつ
弄
ぶのが道楽で、 此 奴 の為
けが
へん
びじ
に 汚 された者は随分意外の 辺 にも在るさうな。そこで今の『美人クリ゗ム』、これ
かか
もと
おやぢ
もその手に 罹 つたので、 原 は貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、 老 猾 この娘を
見ると食指大いに動いた訳で、これを
とりこ
俘 にしたさに父親に少しばかりの金を貸した
のだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置
いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり
なかばたらき
仲
働 に貸してく
れと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ
ことわ
辞 りかね
おやぢ
る人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年 老 猾 は六十ばかりの
はげあたま
禿
顱 の事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説い
たきざはりぜん
たのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな 爨 妾 然 たる女を置いてをつたのが、
その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」
かたづ の
うちうなづ
固 唾 を嚥みたりし荒尾は思ふところありげに 打
頷 きて、
「女といふ者はそんなものじやて」
おもて
甘糟はその 面 を振仰ぎつつ、
「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」
「何故かい」
にはか
遽 に速力を加へぬ。
佐分利の話を進むる折から、は
佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」
ひざくり
甘「さあ、御順にお 膝 繰 だ」
ぶどうしゆ
のど かわ
い
佐「荒尾、あの 葡 萄 酒 を抜かんか、 喉 が 渇 いた。これからが佳境に入るのだか
らね」
なかせん
ひど
甘「 中 銭 があるのは 酷 い」
かまだ
たばこ す
ちようだい
佐「 蒲 田 、君は好い 莨 を吃つてゐるぢやないか、一本 頂
戴 」
てまはり
甘「いや、図に乗ること。僕は 手 廻 の物を片附けやう」
佐「甘糟、を持つてゐるか」
いで
しあはせ
甘「そら、お 出 だ。持参いたしてをりまする 仕 合 で」
ゐたけだか
佐分利は 居 長 高 になりて、
ちよつ つ
些 と点けてくれ」
「
くれなゐ すす
おもむろ ことば
葡萄酒の 紅
を 啜 り、ハヴゔナの紫を吹きて、佐分利は
徐
に 語 を継
ぐ、
いはゆるいちだ りかかいどう
しま
「 所 謂 一 朶 の 梨 花 海 棠 を圧してからに、娘の満枝は自由にされて 了 つた訳
しき
だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は 荐 つて帰りたがつた娘が、後には
親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍
かたぎ
はげ
形 気 の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると 禿 の
方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判にな
おとつ
ますま
つた。それで逢つて見ると娘も、 阿 父 さん、どうか承知して下さいは、親父 益 す
あいそ つか
ただ
意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も 愛 相 を 尽 して、 唯
とを
おやぢ
一人の娘を阿父さん彼自身より十歳ばかりも 老 漢 の高利貸にくれて了つたのだ。それ
ちよう
さと
から満枝は益す禿の 寵 を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家の
みつ
きめ もの
ちりつぱ
や
ぎよい
方へ 貢 ぐと思の外、 極 の 給 の外は 塵 葉 一本饋らん。これが又禿の 御 意 に入
つらつ ゕ゗ス あんばい
つたところで、女め 熟 ら 高 利 の 塩 梅 を見てゐる内に、いつかこの商売が面白
しんだい
かね
くなつて来て、この 身 代 我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭の方が大事、
りようけん
といふ不敵な 了
簡 が出た訳だね」
「驚くべきものじやね」
いまは
つぶや
やや
うごか
荒尾は 可 忌 しげに 呟 きて、 稍 不快の色を 動 せり。
びんしよう
ゕ゗ス
「そこで、 敏
捷 な女には違無い、自然と 高 利 の呼吸を呑込んで、後には手の足
どこ
りん時には禿の代理として、何処へでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだ
あたり
いま
らう。丁度一昨年 辺 から禿は中気が出て 未 だに動けない。そいつを大小便の世話
までして、女の手一つで
さかん
盛 に商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死ん
うすべり いちまい
だのださうだが、板の間に 薄 縁 を 一 板 敷いて、その上で往生したと云ふくらゐ
の始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、ど
しか
う云ふのだか余り気が知れんぢやないかな―― 然 し事実だ。で、禿はその通の病人だ
ひとり
ふる
や
すなは
びじ
から、今ではあの女が 独 で腕を 揮 つて益す盛に遣つてゐる。これ 則 ち『美人
ゆゑん
クリ゗ム』の名ある 所 以 さ。
とし
やうや
年紀かい、二十五だと聞いたが、さう、 漸 う二三とよりは見えんね。あれで
かはゆ
ものやはらか
くちかず すくな
こと
可 愛 い細い声をして 物
柔 に、 口 数 が 寡 くつて巧い 言 をいふこと、
恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様
かきかへ
つ てぎは えんきよく
子をしてゐて、 書 替 だの、手形に願ふのと、急所を衝く 手 際 の 婉
曲 に巧妙
なや
な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を 痿 すかと思ふばかりだ。僕も三度ほど
なや
ゕ゗ス
痿 されたが、柔能く剛を制すで、高利貸には美人が妙!
あいつ
那 彼 に一国を預ければ
すなは
輙 ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」
けしき
風早は最も興を覚えたる 気 色 にて、
はげ ちゆうふう ね
をととし
「では、今はその禿顱は 中
風 で寐たきりなのだね、 一 昨 年 から?
それでは何
か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せ
て有るところがクレオパトラよ。然し、
さかん
壮 な女だな」
「余り壮なのは恐れる」
かしら おさ
うしろさま もた
佐分利は 頭 を 抑 へて 後
様 に 靠 れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
お
とりま
佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕ちて、今はしも連帯一判、 取 交 ぜ
いつくち
かしやく あぶら とら
五 口 の債務六百四十何円の 呵 責 に 膏 を 取 るる身の上にぞありける。次い
ご
むきず
では甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後に又二百円、 無 疵 なるは風
早と荒尾とのみ。
ゑま
車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば 笑 しげに傍聴したりし横浜
しようにんてい
さいはひ ぶりよう
商 人 体 の乗客は、
幸
に 無 聊 を慰められしを謝すらんやうに、
ねんごろ いつゆう
しばら
ひま
懇 に 一 揖 してここに下車せり。 暫 く話の絶えける 間 に荒尾は何をか打
てい
むなし
そぞろごと
いひい
案ずる 体 にて、その目を 空 く見据ゑつつ 漫
語 のやうに 言 出 でたり。
たれ はざま
「その後 誰 も 間 の事を聞かんかね」
しわかれごゑ とひかへ
「間貫一かい」と 皺 嗄 声 は 問 反 せり。
ゕ゗ス さいとり
てだい
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸の 才 取 とか、 手 代 とかしてをると言うたのは」
ゕ゗ス
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸の才取は出来ない。あれ
は高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
い
うなづ
なほ
我が意を得つと謂はんやうに荒尾は 頷 きて、 猶 も思に沈みゐたり。佐分利と甘
さきだ
糟の二人はその頃一級 先 ちてありければ、間とは相識らざるなりき。
ゕ゗ス
うそ
荒「高利貸と云ふのはどうも 妄 ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事を
した、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
ためいき もら
彼は忍びやかに 太 息 を 泄 せり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
ぴん めじり あが
めじるし
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然と 外 眥 の 昂 つた所が 目 標 さ」
あたま くせつけ
あいきよう
蒲「さうして 髪 の 癖 毛 の具合がな、 愛
嬌 が有つたぢやないか。デスクの
ほほづゑ つ
いつ
まじめ
上に 頬 杖 を抂いて、かう下向になつて何時でも真面目に講義を聴いてゐたところは、
どこ
に
何処かゕルフレッド大王に肖てゐたさ」
荒尾は仰ぎて笑へり。
いつ
「君は 毎 も妙な事を言ふ人ぢやね。ゕルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古
いつぱい
英雄に擬してくれた御礼に 一 盃 を献じやう」
おも
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終 憶 ひ出すだらうな」
おとと
「僕は実際死んだ 弟 よりも間の居らなくなつたのを悲む」
かしら た
さかづき と
愁然として彼は 頭 を俛れぬ。大島紬は受けたる
盃
を把りながら、更に佐分
ちよく
利が持てる 猪 口 を借りて荒尾に差しつ。
ひとつ
「さあ、君を慰める為に 一 番 間の健康を祝さう」
げ あふ
荒尾の喜は実に 溢 るるばかりなりき。
かたじけ
「おお、それは 辱
ない」
なみなみ
い
ひとし かつ
盈 々 と酒を容れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると 斉 く 戞
あひう
くれなゐ しづく
ひといき
と 相 撃 てば、
紅
の 雫 の漏るが如く流るるを、互に引くより早く 一 息 に
飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を
うごか
揺 して、
つら まづ
「蒲田は如才ないね。 面 は 醜 いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。あ
いは
たれ
ちよつ
あ 言 れて見ると 誰 でも 些 と憎くないからね」
さすが
甘「 遉 は交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
ことば
いひいだ
言 を改めて荒尾は 言 出 せり。
ステエション
「どうも僕は不思議でならんが、 停 車 場 で間を見たよ。間に違無いのじや」
ただ いま
いの
おもて なが
唯 の 今 陰ながらその健康を 祷 りし蒲田は拍子を抜して彼の 面 を 眺 めたり。
「ふう、それは不思議。
むかふ
他 は気が着かなんだかい」
いりくち
ちよつ
「始は待合所の 入 口 の所で 些 と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕
ソオフワゕ
しばらく
ふつと
は思はず 長 椅 子 を起つと、もう見えなくなつた。それから 有 間 して又 偶 然 見
ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて
プラットフォーム
歩
場
へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて
そば
ふ
見ると、 傍 の柱に僕を見て黒い帽を揮つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつた
から間に違無いぢやないか」
横浜! 横浜!
あるひ
ゆる
そとも とびすぐ
或 は急に、或は 緩 く叫ぶ声の窓の 外 面 を 飛 過 るとと
と
もに、響は雑然として起り、
ほとばし い
くんじゆ おもちやばこ かへ
迸
り出づる、 群 集 は 玩 具 箱 を 覆 したる
かなた
とどろ ベル ね
如く、場内の 彼 方 より 轟 く 鐸 の音はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。
さくなぬか
いいだまち
☆ 昨 七 日 ゗便の葉書にて( 飯 田 町 局消印)美人クリ゗ムの語にフエゕクリ゗
あるひ
ぼうくんありたく
げん おく
或 はベルクリ゗ムの 傍 訓 有 度 との 言 を 貽 られし読者あり。ここにそ
ム
の好意を謝するとともに、
いささ
聊 か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英
語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は
なまじひ
憖
に理詰ならむよりは、出まかせの
をかし
よ
おもひつ
こころ
可 笑 き響あらむこそ可かめれとバ゗スクリ゗ムとも 思 着 きしなり。 意 は美ゕ
゗スクリ゗ムなるを、ビ、ゕ゗――バ゗の格にて試みしが、さては説明を要すべき
くだくだ
きら
きようごうしや
炊 冗 しさを 嫌 ひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、 校 合 者 の
おもひひが
じ
いや
うち
思
僻 めてん字は添へたるなり。 陋 しげなるびじクリ゗ムの響の 中 には
とうろう こころ こも
こうゆ こ
嘲 弄 の 意 も 籠 らむとてなり。なほ 高 諭 を請ふ(三〇・九・八附読売新聞よ
り)
第二章
さく
もと
ふ
ことば
しようし
柵 の柱の 下 に在りて帽を揮りたりしは、荒尾が 言 の如く、四年の 生 死 を
つまびらか
みづから
くらま
詳
悉 にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に
自
の影を 晦 し、
あらまし
その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の 概 略 を伺ふことを怠らざ
たび
りき、こ 回 その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しか
よそ
いとまごひ
にしき
ば、余所ながら 暇
乞 もし、二つには栄誉の 錦 を飾れる姿をも見んと思ひて、
くんじゆ
きた
群 集 に紛れてここには 来 りしなりけり。
なに ゆゑ
おとづれ
おもひ
何 の 故 に間は四年の 音 信 を絶ち、又何の故にさしも 懐 に忘れざる旧友と
べつ
おのづか
相見て 別 を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は
自
ら解釈せら
るべし。
ひと
つど
柵の外に立ちて列車の行くを送りしは 独 り間貫一のみにあらず、そこもとに 聚 ひ
ろうにやくきせん なんによ
きづか
し 老 若 貴 賤 の 男 女 は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、 虞 ふ
いつ
もの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は 一 なり。数分時の混雑の後車の
い
ひさし
出づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く 久 う立尽せるはあらざりき。や
がて重き物など引くらんやうに彼の
やうや きびす めぐら
おしかさな
漸 く 踵 を 旋 せし時には、 推
重 る
さくぎは つど
ひと ほとん
はうき
までに 柵 際 に 聚 ひし 衆 は 殆 ど散果てて、駅夫の三四人が 箒 を執りて場
内を掃除せるのみ。
さしぐま
おく
にはか
貫一は 差 含 るる涙を払ひて、独り 後 れたるを驚きけん、 遽 に急ぎて、
ほうらいばしぐち
い
たれ
蓬 莱 橋 口 より出でんと、あだかも石段際に寄るところを、 誰 とも知らで中等
待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
あわ
慌 てて彼の見向く途端に、
ちよつ
きん
けざやか かがや
些 と」と戸口より半身を示して、黄金の腕環の 気 爽 に 耀 ける手なる絹ハ
「
くちもと おほ
かが
えん
ンカチ゗フに 唇 辺 を 掩 いて束髪の婦人の小腰を 屈 むるに会へり。 艶 なる
おもて
い
ゑみ
面 に得も謂はれず愛らしき 笑 をさへ浮べたり。
あかがし
「や、 赤 樫 さん!」
ゑみ
まゆ
婦人の 笑 もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として 眉 だに動かさず。
よ
「好い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、
ちよつ こち
些 と此方へ」
つ
ソオフワゕ かく
婦人は内に入れば、貫一も渋々跟いて入るに、 長 椅 子 に 掛 れば、止む無くその
そば
側 に座を占めたり。
おぐるめ
「実はあの保険建築会社の 小 車 梅 の件なのでございますがね」
くろちよろけん
さぐ
とりいだ
彼は 黒 樗 文 絹 の帯の間を 捜 りて金側時計を 取 出 し、手早く収めつつ、
あなた
「 貴 方 どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、
どちら
何 方 へかお供を致しませう」
しほぜ けしきん くちがね
てかばん
紫紺 塩 瀬 に 消 金 の 口 金 打ちたる 手 鞄 を取直して、婦人はやをら
たちあが
おもて あらは
起 上 りつ。迷惑は貫一が 面 に 顕 れたり。
どちら
「 何 方 へ?」
どちら
あなた
よろし
「 何 方 でも、私には解りませんですから 貴 方 のお 宜 い所へ」
「私にも解りませんな」
おつしや
よろし
「あら、そんな事を 仰 有 らずに、私は何方でも 宜 いのでございます」
あらめがは
てかばん
かきいだ
荒 布 革 の横長なる 手 鞄 を膝の上に 掻 抱 きつつ貫一の思案せるは、その宜
かた
とも
ちゆうちよ
き 方 を択ぶにあらで、 倶 に行くをば 躊
躇 せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
であひがしら
いりく
貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の 出 会 頭 に、 入 来 る者ありて、その
つまさき ひし
たけたか
あやし
足 尖 を 挫 げよと踏付けられぬ。驚き見れば 長 高 き老紳士の目尻も 異 く、
いろか
そそう
なほこ
満枝の 色 香 に惑ひて、これは失敬、意外の 麁 相 をせるなりけり。彼は 猶 懲 りずま
めざまし びけい
しばら もくそう
にこの 目 覚 き 美 形 の同伴をさへ 暫 く 目 送 せり。
ステエション
かた
二人は 停 車 場 を出でて、指す 方 も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減
き
に極めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
さと
つと
わがい
おも
満枝は彼の心進まざるを 暁 れども、 勉 めて 吾 意 に従はしめんと 念 へば、さば
ぶあしらひ
かりの 無
遇 をも甘んじて、
うなぎ あが
「それでは、貴方、 鰻 は 上 りますか」
「鰻
?
遣りますよ」
とり
よろし
「鶏肉と何方が 宜 うございます」
「何方でも」
ごあいさつ
「余り 御 挨 拶 ですね」
なぜ
「何為ですか」
この時貫一は始めて満枝の
おもて まなこ
もも こび
面 に 眼 を移せり。 百 の 媚 を含みてへし彼の
まなじり
いま
なかば
かたりつく
眸 は、 未 だ言はずして既にその言はんとせる 半 をば 語
尽 したるべし。
ひととなり
うと
彼の 為 人 を知りて畜生と 疎 める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざり
き。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを
あらは
かたゑ
露 して 片 笑 みつつ、
なぜ
とり
「まあ、何為でも宜うございますから、それでは鶏肉に致しませうか」
い
「それも可いでせう」
さんじつけんぼり
かど
と
三 十 間 堀 に出でて、二町ばかり来たる 角 を西に折れて、唯有る露地口に清
かどがまへ
つやけしガラス のきとうろう
しる
かた
らなる 門
構 して、 光 沢 消 硝 子 の 軒 燈 籠 に鳥と 標 したる 方 に、人目
わけ
あたり
にはさぞ 解 あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ 辺
わたりづたひ
うべ
に六畳の隠座敷の 板 道 伝 に離れたる一間に案内されしも 宜 なり。
おそ
こう
懼 れたるにもあらず、 困 じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざら
けしき
かたち
つつま
ん 気 色 にて貫一の 容 さへ 可 慎 しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共
おもひか
ていたらく
にとは 思 懸 けざる 為
体 を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は
いちはや
しばし ことば
たばこぼん
逸 早 く満枝が好きに計ひて、 少 頃 は 言 無き二人が中に置れたる 莨
盆 は
ひやつかこう くゆ
子細らしう一の 百 和 香 を 燻 らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
おつしや
「まあ、そんな事を 有 仰 らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
うそ おつしや
「 嘘 を 有 仰 いまし」
ひざ くづ
まきたばこいれ とりいだ
あやにく
かくても貫一は 膝 を 崩 さで、 巻 莨 入 を 取 出 せしが、 生 憎 一本の
莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は
さきん
先 じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
あさえぞ ごしゆでんもち
すす
はし
やききん
ほのか
麻 蝦 夷 の 御 主 殿 持 とともに 薦 むる筒の 端 より 焼 金 の吸口は 仄 に
かがや
きん
きん
きん
きん
きん
耀 けり。歯は黄金、帯留は黄金、指環は黄金、腕環は黄金、時計は黄金、今又
きせる きん
きん
かな きん きん
煙 管 は黄金にあらずや。黄金なる 哉 、 金 、 金 !
べ
きん
知る可し、その心も 金 !
ひと をか
た
と貫一は 独 り可笑しさに堪へざりき。
い
「いや、私は日本莨は一向可かんので」
をは
じつ み
言ひも 訖 らぬ顔を満枝は 熟 と視て、
け
きたな
こころつ
「決して 穢 いのでは御坐いませんけれど、つい 心 着 きませんでした」
ふところがみ いだ
ねぢぬぐ
すこし あわ
懐
紙 を 出 してわざとらしくその吸口を 捩 拭 へば、貫一も 少 く 慌
てて、
け
「決してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
満枝は再び彼の顔を眺めつ。
つ
ものおぼえ
「貴方、嘘をお吐きなさるなら、もう少し 物
覚 を善く遊ばせよ」
「はあ?」
わにぶち
「先日 鰐 淵 さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
ひようたん
かつこう
らう もと ちよつ
「 瓢
箪 のやうな 恰 好 のお煙管で、さうして羅宇の 本 に 些 と紙の巻いて
ございました」
とみ ふさ
あどな
おほ
「あ!」と叫びし口は 頓 に 塞 がざりき。満枝は 仇 無 げに口を 掩 ひて笑へり。こ
ただち
し
の罰として貫一は 直 に三服の吸付莨を強ひられぬ。
ま はいばん つら
ばい
げこ
とかくする間に 盃 盤 は 陳 ねられたれど、満枝も貫一も三 盃 を過し得ぬ下戸な
ちよく いだ
り。女は清めし 猪 口 を 出 して、
ひとつ
「貴方、お 一 盞 」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
ビール
「それでは 麦 酒 に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
すす
酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に 侑 めて酌せんとこそあるべきに、
はなはだし
つか
甚
い哉、彼の手を 束 ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはな
かなかに可笑しと思へり。
ひとつ
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお 一 盞 お受け下さ
いましな」
ひとつ
貫一は止む無くその 一 盞 を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言
ひし用談に及ばざれば、
おぐるめ
「時に 小 車 梅 の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事!
たちま まゆ あつ
彼は 忽 ち 眉 を 攅 めて、
「いやそんなに」
いただ
「それでは私が 戴 きませう、恐入りますがお酌を」
もうお一盞」
「で、小車梅の件は?」
ほか
「その件の 外 に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
にく
はばかりさま
「酔はないと申上げ 難 い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、 憚
様 で
すが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
つもり
「今晩は私酔ふ 意 なのでございますもの」
こび
ほとり やうや
やや
ゆるやか
その 媚 ある目の 辺 は 漸 く花桜の色に染みて、心楽しげに 稍 身を
寛
ふぜい
げ にほひ
こぼ
きぬセル ひふ
に取成したる 風 情 は、実に 匂 など 零 れぬべく、熱しとて紺の 絹 精 縷 の被風を
ぱつ
あはせ くろちよろけん まるおび
脱げば、羽織は無くて、粲然としたる紋御召の 袷 に 黒 樗 文 絹 の 全 帯 、
はなやか べに
おびあげ
びん おく
かか みみぎは
華 麗 に 紅 の入りたる友禅の 帯 揚 して、 鬢 の 後 れの 被 る 耳 際 を
かきあ
さわらび ふたすぢ
ちよう
かた
掻 上 ぐる左の手首には、 早 蕨 を 二 筋 寄せて 蝶 の宿れる 形 したる例の腕
さはやか きらめ わた
いまは
あからさま
爽
に 晃 き 遍 りぬ。常に 可 忌 しと思へる物をかく 明 々 地 に見せつ
環の
えた
にが
まゆつき
ひそか
けられたる貫一は、得堪ふまじく 苦 りたる 眉 状 して 密 に目をしつ。彼は女の
よそほ
くろつむぎ
あゐせんすぢ
貴族的に 装 へるに反して、 黒
紬 の紋付の羽織に 藍 千 筋 の
ちちぶめいせん
しろちりめん へこおび あたらし
秩 父 銘 撰 の袷着て、 白 縮 緬 の 兵 児 帯 も
新
からず。
し
みとが
おもかげ すくな
彼を識れりし者は定めて 見 咎 むべし、彼の 面 影 は 尠 からず変りぬ。愛らし
う
よとせ
かりしところは皆失せて、 四 年 に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、
おのづか
おもて おほ
たゆ
自 ら暗き陰を成してその 面 を 蔽 へり。 撓 むとも折るべからざる堅忍の気
がんしよく
かつ
は、沈鬱せる 顔
色 の表に動けども、 嘗 て宮を見しやうの優き光は再びその
まなこ
ひややか
つつし
眼 に輝かずなりぬ。見ることの
冷
に、言ふことの 謹 めるは、彼が近来の
な
はばか
みづから
いやしく
特質にして、人はこれが為に狎るるを 憚 れば、
自
もまた
苟
も親みを求
たれ
とほざ
いづく
めざるほどに、同業者は 誰 も誰も偏人として彼を 遠 けぬ。 焉 んぞ知らん、貫
一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを
彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて
あやし
怪 むなりけり。
さかづき
てい うちまも
盃
を重ぬる 体 を 打 目 戍 れり。
ひとつ
「もう 一 盞 戴きませうか」
ゑみ ただ
まなじり びくん
こび
笑 を 漾 ふる
眸
は 微 醺 に彩られて、更に別様の 媚 を加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
あなた
おつしや
「 貴 方 が止せと 仰 有 るなら私は止します」
あへ
「 敢 て止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
てじやく
なかば
答無かりければ、満枝は 手 酌 してその 半 を傾けしが、見る見る頬の麗く
くれなゐ
おほ
紅 になれるを、彼は手もて 掩 ひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
まね
くゆ
貫一は聞かざる 為 して莨を 燻 らしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
あざけら
ほほゑ
満枝は 嘲
むが如く 微 笑 みて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お
さ
しか
ごしゆ
気に障へては困りますの。 然 し、 御 酒 の上で申すのではございませんから、どうぞ
つもり
よろし
そのお 意 で、 宜 うございますか」
どうちやく
「 撞
着 してゐるぢやありませんか」
おつしや
たか
「まあそんなに 有 仰 らずに、 高 が女の申すことでございますから」
ことむづかし
かな
こは 事
難 うなりぬべし。 克 はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を
こまぬ
ふしめ
つと
かかは
もてな
拱 きつつ 俯 目 になりて、 力 めて 関 らざらんやうに 持 成 すを、満枝は
すりよ
擦 寄 りて、
ひとつ
け
「これお 一 盞 で後は決してお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さ
いましな」
さ ことば いだ
ちよく
貫一は些の 言 も 出 さでその 猪 口 を受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
やす
い
くちびる
わづか
「 易 い願ですな」と、あはや出でんとせし
唇
を結びて、貫一は 纔 に苦笑し
て止みぬ。
「間さん」
「はい」
ま
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未だお長くゐらつしやるお
つもり
意 なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
もちろん
「 勿 論 です」
いつごろあちら
「さうして、まづ 何 頃 彼 方 と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
たちま
をさ
さしうつむ
ふち
もてあそ
満枝は 忽 ち声を 斂 めて、物思はしげに 差
俯 き、莨盆の 縁 をば
弄
きせる
きざみ
にはか くら
べるやうに 煙 管 もて 刻 を打ちてゐたり。折しも電燈の光の 遽 に 晦 むに驚き
あぐ
もと
ひとま あかる
なほしば
て顔を 挙 れば、又 旧 の如く 一 間 は 明 うなりぬ。彼は煙管を捨てて 猶 暫 し
打案じたりしが、
「こんな事を申上げては
はなは
あちら
甚 だ失礼なのでございますけれど、何時まで 彼 方 にゐら
つしやるよりは、早く独立あそばした方が
よろし
宜 いでは御坐いませんか。もし明日にも
をこ
さうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸がましいの
で御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げ
たいのでございますが、さう遊ばしませんか」
はし ひか
き み
意外に打れたる貫一は 箸 を 扣 へて女の顔を屹と視たり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
実に貫一は答に窮せるなりき。
くちごも
「訳ですか?」と満枝は 口 籠 りたりしが、
あかがし
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも 赤 樫 に居たいこと
は無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
さつぱり
「 全 然 解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
うらめ
ことば
よこひざ
ひね
可 恨 しげに満枝は 言 を絶ちて、 横 膝 に莨を 拈 りゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
めしつぎ
おさ
貫一が 飯 桶 を引寄せんとするを、はたと 抑 へて、
「お給仕なれば私致します」
はばかりさま
「それは 憚
様 です」
ちやわん
あなた かべぎは
満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、 茶 椀 をそれに伏せて、 彼 方 の 壁 際 に
おしや
推 遣 りたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
かな
ゆる
「もう頭が痛くて 克 はんですから 赦 して下さい。腹が空いてゐるのですから」
ひもじ
つら
「お 餒 いところを御飯を上げませんでは、さぞお 辛 うございませう」
「知れた事ですわ」
こちら
まる さき
「さうでございませう。それなら、 此 方 で思つてゐることが 全 で先方へ通らなかつ
たら、餒いのに御飯を食べないのよりか
はるか
夐 に辛うございますよ。そんなにお餒じけ
れば御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
おつしや
よ
「返事と言はれたつて、 有 仰 ることの主意が能く解らんのですもの」
なぜ わかり
「何故お 了 解 になりませんの」
なじ
責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた 詰 るが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうし
あすこ
てその訳はと云へば、貴方も 彼 処 を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さ
いな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございま
すか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
す
「どうも非常に腹が空いて来ました」
ほか
あん
「それとも貴方 外 にお約束でも遊ばした御方がお 在 なさるのでございますか」
つひ ほうぼう あらは きた
なほ
てい な
彼 終 に 鋒 鋩 を 露 し 来 れるよと思へば、貫一は 猶 解せざる 体 を作して、
「妙な事を聞きますね」
と苦笑せしのみにて続く
ことば
はづ
言 もあらざるに、満枝は図を 外 されて、やや心惑へる
なりけり。
あん
「さう云ふやうなお方がお 在 なさらなければ、……私貴方にお願があるのでございま
す」
きつ
貫一も今は 屹 と胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
わかり
「ああ、お 了 解 になりまして
」
けしき
ちよく あま
ひといき のみほ
嬉しと心を言へらんやうの 気 色 にて、彼の 猪 口 に 余 せし酒を 一 息 に 飲 乾
して、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
はずみ
うく
ひとし なみなみそそが
発 に乗せられて貫一は思はず 受 ると 斉 く 盈 々
注 れて、下にも置れ
よろこび
ず一口附くるを見たる満枝が 歓 喜 !
「その盃は清めてございませんよ」
ゆるがせ
わづらはし
もてあま
一々底意ありて 忽 諸 にすべからざる女の言を、彼はいと 可
煩 くて 持 余
せるなり。
わかり
「お 了 解 になりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
わづか
おごそ
ゑひ さま
僅 にかく言ひ放ちて貫一は 厳 かに沈黙しつ。満枝もさすがに 酔 を 冷 して、
けしき うかが
ことばすくな
彼の 気 色 を 候 ひたりしに、例の 言
寡 なる男の次いでは言はざれば、
はづかし
「私もこんな 可 耻 い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
ゆるや
うなづ
貫一は 緩 かに 頷 けり。
よくよく
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは 能 々 の事でございますから、それに対す
おつしや
るだけの理由を 有 仰 つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、
私座興でこんな事を申したのではございませんから」
ごもつとも
「 御
尤 です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない
つつ
かんがへ
事はありません。ですから、その御深切に対して 裹 まず自分の 考 量 をお話し申し
ひと
ます。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、 衆 とは大きに考量が違つてをり
ます。
さい
け
第一、私は一生 妻 といふ者は決して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、
や
私は書生でありました。それが中途から学問を罷めて、この商売を始めたのは、
ほうとう やりそこな
あへ くひつ
放 蕩 で 遣
損 つたのでもなければ、 敢 て 食 窮 めた訳でも有りませんので。
いや
ほか いくら
書生が可厭さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ 外 に 幾 多 も好い商売は有りますさ、
はくじつとう な
い
のどくち ほ
何を苦んでこんな極悪非道な、 白 日 盗 を為すと謂はうか、病人の 喉 口 を干す
い
えら
と謂はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを 択 む
ものですか」
ますま ゑひ
聴居る満枝は 益 す 酔 を冷されぬ。
こんにち
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が 今 日 始めて知つたのでは
おと
さき
ない、知つて身を 堕 したのは、私は当時敵手を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念
きはま
たのみ
極 る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を 頼 にして
をつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図し
た慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
ひかげ
にはか かがや
あらた
火 影 を避けんとしたる彼の目の中に 遽 に 耀 けるは、なほ 新 なる痛恨の
涙の浮べるなり。
たのみすくな
「実に 頼
少 い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、
もと
かね
かりそめ
いつぴき
かね
原 はと云へば、金銭からです。 仮 初 にも 一 匹 の男子たる者が、金銭の為に
みか
い
見易へられたかと思へば、その無念といふものは、私は一……一生忘れられんです。
いつはり
あいそ
軽薄でなければ 詐
、詐でなければ利慾、 愛 相 の尽きた世の中です。それほど
いや
なぜひとおもひ
可厭な世の中なら、何為 一
思 に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は
死にたいにも、その無念が
さはり
障 になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやう
ふくしゆう
なそんな 復
讐 などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨!
きつ はら
お
それだけは 屹 と 霽 さなければ措かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸
まる
中といふものは、我ながらさう思ひますが、 全 で発狂してゐるやうですな。それで、
はなはだし
ほとん
高利貸のやうな残刻の
甚
い、 殆 ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つ
あら
て、さうして感情を 暴 してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売
かね
はづかし
です。そこで、金銭ゆゑに売られもすれば、
辱
められもした、金銭の無いのも謂
はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを
たのしみ
楽 に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の
のぞみ
なまじ
望 も持たんのです。又考へて見ると、 憖 ひ人などを信じるよりは金銭を信じた
はる たのみ
方が間違が無い。人間よりは金銭の方が 夐 か 頼 になりますよ。頼にならんのは人
の心です!
まづ
先 かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣
おつしや
らうと 有 仰 る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
たかわらひ
おもて
彼は仰ぎて 高
笑 しつつも、その 面 は痛く激したり。
ことば
いつはり
げ
満枝は、彼の 言 の決して
譌
ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実に
かんがへ
さるべき 所 見 を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘
ゆゑ
とびら
いつはり
きを知らざるが 故 に、心狭くもこの面白き世に偏屈の 扉 を閉ぢて、
詐
と軽
さと
たやす
薄と利欲との外なる楽あるを 暁 らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は 輙
く望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございます
か」
きらひ
すべ
嫌 で、 総 て
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が
の人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
ほ
「勿論! 別して惚れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
わかり
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお 了 解 になりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
しば ぼうぜん
今は取付く島も無くて、満枝は 暫 し 惘 然 としてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
うちしを
めし
いだ
打 萎 れつつ満枝は 飯 を盛りて 出 せり。
「これは恐入ります」
くら
かたはら
ごと
おもて うすくれなゐ
ゑひ
彼は 啖 ふこと
傍
に人無き 若 し。満枝の 面 は 薄
紅 になほ 酔 は
よ
てい
有りながら、酔へる 体 も無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
さんばいめ か
かく会釈して貫一は 三 盃 目 を易へつ。やや有りて、
ふく
にはか こた
あた
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を 啣 みて 遽 に 応 ふる 能 はず、唯目を
あ
挙げて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等
しばらく
を考へまして、もう 多 時 胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つて
ことわり
めんぼく
をりながら、かう一も二も無く奇麗にお 謝 絶 を受けては、私実に 面 目 無く
あんま くやし
て…… 余 り 悔 うございますわ」
あわただし
うらみなき
おほ
慌
忙 くハンカチ゗フを取りて、片手に 恨
泣 の目元を 掩 へり。
たた
「面目無くて私、この座が 起 れません。間さん、お察し下さいまし」
ひややか
貫一は 冷 々 に見返りて、
すべ
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は 総 ての人間が嫌
あし
なのですから、どうぞ 悪 からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお!
おぐるめ
さうして 小 車 梅 の件に就いてのお話は?」
なきあか
ぬぐ
泣 赤 めたる目を 拭 ひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
よろし
「そんな事はどうでも 宜 うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、
おぼしめ
いや
さう 思 召 して下さい。で、お可厭ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに
いつ
思つてゐることを、どうぞ何日までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
やさし ことば
「もつと 優 い 言 をお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
おつしや
「もつと何とか 有 仰 りやうが有りさうなものではございませんか」
け
「御志は決して忘れません。これなら宜いでせう」
ひらり
満枝は物をも言はずつと起ちしが、 飜 然 と貫一の身近に寄添ひて、
ちからこも
ふともも したた つめ
「お忘れあそばすな」と言ふさへに 力
籠 りて、その 太 股 を 絶 か 撮 れば、
くつがへ
よこさま
貫一は不意の痛に 覆
らんとするを支へつつ 横 様 に振払ふを、満枝は早くも身
を開きて、知らず顔に手を打鳴して
をんな
婢 を呼ぶなりけり。
第三章
あかさかひかわ ほとり
ごぜん
げ
い
赤 坂 氷 川 の 辺 に写真の 御 前 と言へば知らぬ者無く、実にこの殿の出づる
に写真機械を車に積みて
したが
おのづか
随 へざることあらざれば、
自
ら人目をれず、かかる
いみよう
しさい
しようぎ
異 名 は呼るるにぞありける。 子 細 を明めずしては、「 将 棊 の殿様」の流かと
も想はるべし。あらず!
才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき
うつは いだ
ド゗ツ
なげう
器 を 抱 きながら、五年を 独 逸 に薫染せし学者風を喜び、世事を 抛 ちて愚な
るが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を
ほしいまま
とし
肆
にすれども、なほ 歳 の入る
まさ
たづみよしはる
ものを計るに 正 に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる 田 鶴 見 良 春
その人なり。
からはふづくり
うつ
たち
氷川なる邸内には、 唐 破 風 造 の昔を 摸 せる 館 と相並びて、帰朝後起せし三
れんがづくり あやし
すき
層の 煉 瓦 造 の 異 きまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄にて、独逸に名ある
おもかげ しの
かたど
あ
古城の 面 影 を 偲 びてここに 象 れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充
よろづた
かんじつげつ
ふけ
たのし
てて、 万 足 らざる無き 閑 日 月 をば、書に 耽 り、画に 楽 み、彫刻を愛し、
うそぶ
もつぱ
よはひ
がん
音楽に 嘯 き、近き頃よりは 専 ら写真に遊びて、 齢 三十四にべども 頑 とし
いま めと
ひようぜん
て 未 だ 娶 らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に 飄
然 として、
絶えて貴族的容儀を修めざれど、
おのづか
おもてしろ
自
らなる七万石の品格は、 面
白 う
まゆひい
まなこさはやか
かたち きよら あが
こう
眉 秀 でて、鼻高く、 眼
爽 に、 形 の 清 に 揚 れるは、 皎 として
ぎよくじゆ
い
ごだいだい
玉
樹 の風前に臨めるとも謂ふべくや、 御 代 々 御美男にわたらせらるるとは常
に藩士の誇るところなり。
むなし
ちよう とら
くも
しげ
かかれば良縁の 空 からざること、 蝶 を 捉 へんとする蜘蛛の糸より 繁 しと
かへりみ
せ
ゑひ
いつはや みやび
いへども、 反 顧 だに為ずして、例の飄然忍びては 酔 の紛れの 逸 早 き 風 流 に
慰み、内には無妻主義を主張して、人の
いさめ
諌 などふつに用ゐざるなりけり。さるは、
あひあい
をぶね
かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と 相 愛 して、末の契も堅く、月下の 小 舟
かひ あやつ
ゆびさ
つひ か
に比翼の 櫂 を 操 り、スプレ゗の流を 指 して、この水の 終 に涸るる日はあら
せいし いつはり
んとも、我が恋のの消ゆる時あらせじ、と互の 誓 詞 に
詐
はあらざりけるを、帰
こ
いた
ゆゆ
りて母君に請ふことありしに、いと 太 う驚かれて、こは由々しき家の大事ぞや。
いてき
いやし
かしこ
きんじゆう
夷 狄 は□□よりも 賤 むべきに、 畏 くも我が田鶴見の家をばなでう 禽
獣
おり
うとま
あこ
かきくど
かなし
の 檻 と為すべき。あな、 可 疎 しの吾子が心やと、涙と共に 掻 口 説 きて、 悲 び
せんな
なほ
歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無くて、心苦う思ひつつも、 猶 行
たより たびたび
あなた
みとせ
末をこそ頼めと文の 便 を 度 々 に慰めて、 彼 方 も在るにあられぬ 三 年 の月日
う
あぢき
をととし
を、憂きは死ななんと 味 気 なく過せしに、 一 昨 年 の秋物思ふ積りやありけん、心自
ながら
くるしみ
みかみ めぐみ
から弱りて、 存 へかねし身の 苦 悩 を、 御 神 の 恵 に助けられて、導かれし
よう
たづ
なつか
天国の 杳 として 原 ぬべからざるを、いとど 可 懐 しの殿の胸は破れぬべく、ほとほ
と知覚の半をも失ひて、世と絶つの念
ますま
益 す深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何に
ただおもひ な
あだ
かはせんと、 唯
懐 を亡き人に寄せて、形見こそ 仇 ならず書斎の壁に掛けたる半
かのをんな
ねんごろ しゆしや
かつ おく
身像は、 彼
女 が十九の春の色を
苦
に 手 写 して、 嘗 て 貽 りしものな
りけり。
ほうし
うち いささ おもひ や
殿はこの失望の極 放 肆 遊惰の 裏 に 聊 か 懐 を遣り、一具の写真機に千金を
なげう
しように
ほか
擲 ちて、これに嬉戯すること 少 児 の如く、身をも家をも 外 にして、遊ぶと費
くろやなぎもとえ
う
すとに余念は無かりけれど、家令に 畔 柳 元 衛 ありて、その人迂ならず、善く財
を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を
いただ
さいはひ さ
戴 ける田鶴見家も、
幸
に些の
はたん
破 綻 を生ずる無きを得てけり。
彼は貨殖の一端として
ひそか
密 に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、
ないし
も
乃 至 一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以て、高利貸の大口を引受くる
はい
たよ
さかし
輩 のここに 便 らんとせざるはあらず。されども 慧 き畔柳は事の密なるを策の上
な
みだり
ただゆき
と為して 叨 に利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵 直 行 の一手に貸出す
いづれ
のみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の 那 辺 に
きんけつ
か 金 穴 あるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
わにぶち
鰐 淵 の名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この
うしろだて
資本主の 後
楯 ありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身
い
あしがるがしら
柄は謂ふにも足らぬ 足 軽 頭 に過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の
のちい
つか
あるひ
後 出でて小役人を勤め、転じて商社に 事 へ、一時 或 は地所家屋の売買を周旋し、
おもと
こめやまち しゆつにゆう
いづ
よわたり
万年青を手掛け、 米 屋 町 に 出
入 し、 何 れにしても 世 渡 の茶を濁さず
つひ
といふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、 竟 に
きん
けん
は警部にまで取立てられしを、中ごろにして 金 これ 権 と感ずるところありて、奉職
たくはへえ
いま
中 蓄
得 たりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の 未 だこの種の悪手段に慣れ
ある
おど
すか
しひた
わづか
ざるに乗じて、 或 は欺き、或は 嚇 し、或は 賺 し、或は 虐 げ、 纔 に法網を
くぐ
から
なはつき
ころ
潜 り得て 辛 くも 繩 附 たらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし 比 、あ
とら
だかも好し、畔柳の後見を得たりしは、 虎 に翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる
ほとん
金額は 殆 ど数万に上るとぞ聞えし。
とりい
なかば
ごてん
畔柳はこの手より 穫 るる利の 半 は、これを 御 殿 の金庫に致し、半はこれを
ふところ
よ
きん いつ
懐 にして、鰐淵もこれに因りて利し、 金 は 一 にしてその利を三にせる家令が
ろつぴ はたらき
なほ
い
六 臂の
働
は、主公が不生産的なるを補ひて 猶 余ありとも謂ふべくや。
すてばち
ごずめず
鰐淵直行、この人ぞ間貫一が 捨 鉢 の身を寄せて、牛頭馬頭の手代と頼まれ、五番
よとせ こんにち
きぐう
町なるその家に 四 年 の 今 日 まで 寄 寓 せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の
あつか
遇 はれ、手代となり、顧問となりて、
一間を与へられて、名は雇人なれども客分に
あるじ
よとせ ひさし
わた
いだ
主 の重宝大方ならざれば、 四 年 の 久 きに 弥 れども主は彼を 出 すことを喜
かま
あへ
いと
ばず、彼もまた家を 構 ふる必要無ければ、 敢 て留るを 厭 ふにもあらで、手代を勤
かたはらそくばく
おのづか
たより
傍
若 干 の我が小額をも運転して、
自
ら営む 便 もあれば、今
むる
なまじ
やせひぢ
しか
し
憖 ひにここを出でて 痩 臂 を張らんよりは、 然 るべき時節の到来を待つには如
ただ
よ
おもんぱか
かじと分別せるなり。彼は 啻 に手代として能く働き、顧問として能く
慮
るの
みをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の
よはひ
齢 を以てして、色を近けず、酒に親
まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、
おのれ
己 を
てら
ひと おとし
ありがた
衒 はず、 他 を 貶 めず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に 難 有
むし こころひそか
おそ
き若者なり、と鰐淵は 寧 ろ 心
陰 に彼を 畏 れたり。
あるじ
ひととなり
のち かくのごと
いか
主 は彼の 為
人 を知りし 後 、 如
此 き人の如何にして高利貸などや志
せると疑ひしなり、貫一は
おのれ
いつは
己 の履歴を 詐 りて、如何なる失望の極身をこれに
おと
あらは
墜 せしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に 顕 れ
にき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にけ
せんさく
のれん
きつ
うしろみ
れば、改めて 穿 鑿 もせられで、やがては、 暖 簾 を分けて 屹 としたる 後 見 は
為てくれんと、鰐淵は常に
おろそか
おも
疎
ならず彼が身を 念 ひぬ。直行は今年五十を一つ越
みね
たけ
うれひ
くさめ
えて、妻なるお 峯 は四十六なり。夫は心 猛 く、人の 憂 を見ること、犬の 嚏
ただむさぼ
きだて
の如く、 唯
貪 りてくを知らざるに引易へて、 気 立 優しとまでにはあらねど、鬼
も
りちぎ
の女房ながらも尋常の人の心は有てるなり。彼も貫一の偏屈なれども 律 義 に、愛すべ
なほさら
きところとては無けれど、憎ましきところとては 猶 更 にあらぬを愛して、何くれと
心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
さち
かな
あまり
か
いと 幸 ありける貫一が身の上 哉 。彼は世を恨むる 余 その執念の駆るままに、
くら
いささ
さら
こちよう いや
人の生ける肉を 啖 ひ、以つて 聊 か逆境に 暴 されたりし 枯 膓 を 癒 さんが為
ほつき
かしやく
くげん もと
に、三悪道に捨身の大願を 発 起 せる心中には、百の 呵 責 も、千の 苦 艱 も 固 よ
ご
ゆたか
あたたか れんみん
り期したるを、なかなかかかる 寛 なる信用と、かかる
温
き 憐 愍 とを
かうむ
ていよう ち
かな
被 らんは、 羝 羊 の乳を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる 哉 、
いか
くげん
あへ にく
彼はこの喜を如何に喜びけるか。今は呵責をも 苦 艱 をも 敢 て 悪 まざるべき覚悟の
つひ
は
れんみん
をし
貫一は、この信用の 終 には慾の為に剥がれ、この 憐 愍 も利の為に 吝 まるる時の
目前なるべきを固く信じたり。
(三)の二
わにぶち
ぼう
毒は毒を以て制せらる。 鰐 淵 が債務者中に高利借の名にしおふ 某 党の有志家某
なまごろし
せめ
かんち
あり。彼は三年来 生
殺 の関係にて、元利五百余円の 責 を負ひながら、 奸 智 を
ろう
ふる
かま
はかりごと いだ
弄 し、雄弁を 揮 ひ、大胆不敵に 構 へて出没自在の
計
を 出 し、鰐淵が老
かか
さかねぢ
巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに 係 りては、 逆 捩
く
ちへど はか
すくな
いよい
を吃ひて血反吐を 噴 されし者 尠 からざるを、鰐淵は 弥 よ憎しと思へど、彼に
かなてこ
かな
すてお
くちをし
対しては 銕 桿 も折れぬべきに持余しつるを、 克 はぬまでも 棄 措 くは 口 惜 け
みせしめ
くぎ
しやつ はがい の
れば、せめては 令 見 の為にも折々 釘 を刺して、再び 那 奴 の 翅 を展べしめざ
し
きのふ
ぬか
らんに如かずと、 昨 日 は貫一の 曠 らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひし
なり。
ほんろう
ののし
彼は散々に 飜 弄 せられけるを、劣らじと 罵 りて、前後四時間ばかりその座を
や
さかん
あなど
しんねり
起ちも遣らで 壮 に言争ひしが、病者に等き青二才と 侮 りし貫一の、 陰 忍 強
けしき
しこみつゑ
かへ
く立向ひて屈する 気 色 あらざるより、有合ふ 仕 込 杖 を抜放し、おのれ 還 らずば
生けては還さじと、二尺
あまり
あやふ
おびやか
余 の白刃を 危 く突付けて
脅
せしを、その
はなさき あしら
いよい
をりから
鼻 頭 に 待 ひて 愈 よ動かざりける 折 柄 、来合せつる壮士三名の乱拳に囲
かへりき
やす
れて門外に突放され、少しは傷など受けて 帰 来 にけるが、これが為に彼の感じ 易
はなはだし
うた すぐ
き神経は
甚
く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の 転 た 勝 れねば、
ひきこも
一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に 引 籠 れるなりけり。かかることありし
おびただし
つか
いか
のち
翌日は
夥
く脳の 憊 るるとともに、心乱れ動きて、その 憤 りし 後 を憤り、
や
ゆゑ
悲みし後を悲まざれば已まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。 故 に彼は
たい
折に触れつつその 体 の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざるこ
と無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の
笑ふことあり。次の年よりは
やうや
け
な
漸 く慣れてけれど、彼の心は決してこの悪を作すに慣
ただよ
じらい
れざりき。 唯 能 く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、 爾 来 終
いちじつ
あた
くもん
天の失望と恨との 一 日 も忘るる 能 はざるが為に、その 苦 悶 の余勢を駆りて他の
た
方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪ふまじき
ある
苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、 或 は人の加
た
こうふん
ふる侮辱に堪へずして、神経の過度に 亢 奮 せらるる為に、一日の調摂を求めざるべ
びよう
からざる 微 恙 を得ることあり。
ほがらか
ただずまひにほ
きんしよく
朗
に秋の気澄みて、空の色、雲の 布
置 匂 はしう、 金
色 の日影は
みなみうけ
すか
さはやか
はださむ とこ
豊に快晴を飾れる 南
受 の縁障子を 隙 して、
爽
なる 肌 寒 の 蓐 に
たけたか や
よこた
あを にご
ほほ
長 高 く痩せたる貫一は 横 はれり。 蒼 く 濁 れる 頬 の肉よ、へる横顔の
りんかく
まゆ
めざし
輪 廓 よ、曇の懸れる 眉 の下に物思はしき 眼 色 の凝りて動かざりしが、やがて
くづ
ほほづゑ
くくりまくら
かしら
崩 るるやうに 頬 杖 を倒して、 枕
嚢 に重き 頭 を落すとともに寝返りつ
かいまき
なげや
つ 掻 巻 引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず 投 遣 りて仰向に
たれ
はしご のぼりく
ふた
なりぬ。折しも 誰 ならん、 階 子 を 昇 来 る音す。貫一は凝然として目を 塞 ぎゐ
ふすま あ
いりきた
あるじ
あわ
たり。 紙 門 を啓けて 入 来 れるは 主 の妻なり。貫一の 慌 てて起上るを、その
かたはら
ままにと制して、机の
傍
に坐りつ。
い
くり ゆ
「紅茶を淹れましたからお上んなさい。少しばかり 栗 を茹でましたから」
てかご
まくらもと
手 籃 に入れたる栗と盆なる茶器とを 枕
頭 に置きて、
「気分はどうです」
ごちそうさま
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々 御 馳 走 様 でございます」
「冷めない内にお上んなさい」
カフヒ゗ちやわん
彼は会釈して 珈 琲 茶 碗 を取上げしが、
だんな いつ
でかけ
「 旦 那 は何時頃お 出 懸 になりました」
いつも
ひかわ
「今朝は 毎 より早くね、 氷 川 へ行くと云つて」
うとま
こころ
言ふも 可 疎 しげに聞えけれど、さして貫一は 意 も留めず、
くろやなぎ
「はあ、 畔
柳 さんですか」
「それがどうだか知れないの」
にがわらひ
あきらか
ひざし
おもて こじわ
お峯は 苦
笑 しつ。
明
なる障子の 日 脚 はその 面 の 小 皺 の読まれぬ
くし
いつぱつ
まるわげ
は無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、 櫛 の歯通りて、 一 髪 を乱さず 円 髷 に結
かた
みが
きよら なめらか
あたり
ひて顔の色は赤き 方 なれど、いと好く 磨 きて 清 に
滑
なり。鼻の 辺 に
うすいも
ひきすぼ
くろ
薄 痘 痕 ありて、口を 引 窄 むる癖あり。歯性悪ければとて常に 涅 めたるが、かか
ぬばたま
い
ほとん かがや
うるは
ちやじま
るをや 烏 羽 玉 とも謂ふべく 殆 ど 耀 くばかりに 麗 し。 茶 柳 条 のフラネル
ひとへ あささむ
ちりめん
の 単 衣 に 朝 寒 の羽織着たるが、御召 縮 緬 の染直しなるべく見ゆ。貫一はさす
がに聞きも流されず、
なぜ
「何為ですか」
ひも
ためら
ふぜい
お峯は羽織の 紐 を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを 遅 へる 風 情
し
かご
む
なるを、強ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は 籃 なる栗を取りて剥きゐ
しばら
たり。彼は 姑 く打案ぜし後、
あかがし べつぴん
うはさ
「あの 赤 樫 の 別 品 さんね、あの人は悪い 噂 が有るぢやありませんか、聞き
ませんか」
「悪い噂とは?」
くひもの
「男を引掛けては 食 物 に為るとか云ふ……」
さき
貫一は覚えず首を傾けたり。 曩 の夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
あいつ
かね
こま
「一向聞きませんな。 那 奴 男を引掛けなくても金銭には 窮 らんでせうから、そんな
事は無からうと思ひますが……」
い
かね
「だから可けない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭が有るから為な
いと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
こつち
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、 此 方 へお貸しなさい」
はばかりさま
「これは 憚
様 です」
まじまじ
つか
お峯はその言はんとするところを言はんとには、 墨 々 と手を 束 ねて在らんより、
たより
えら
事に紛らしつつ語るの 便 あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを 択 みて、そ
いただき
頂
よりナ゗フを加へつ。
の
ちよい
些 と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは
「
かたじん
かかりあ
堅 人 だから可いけれど、本当にあんな者に 係 合 ひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひま
や
かなくぼ
わしづめ
すがね。あの別品さんがそれを遣ると云ふのは評判ですよ。 金 窪 さん、 鷲 爪 さ
あくたはら
みんな
ん、それから 芥
原 さん、 皆 その話をしてゐましたよ」
あるひ
或 はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云
「
ふ風ですから、それはさうかも知れません」
うち
おんな
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内の人も 同 じのお前
さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どう
したら可からうかと思つてね」
お峯がナ゗フを執れる手は
やうや
漸 く鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません!
栗には限らず」
「さうです」
む
はこび いよい
お峯は又一つ取りて剥き始めけるが、心進まざらんやうにナ゗フの 運 は 愈 よ
なほざり
等 閑 なりき。
ここ
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処きりの話です
からね」
「承知しました」
き
貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れ
ど、秘密を語らんとする彼の声は
おのづ
ひそま
自 から 潜 りぬ。
「どうも私はこの間から
をかし
異 いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の
ひと
かかりあひ
夫 があの別品さんに 係
合 を付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無
いの!」
彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は
ゆすりわらひ
揺
笑 して、
あなた
「そんな馬鹿な事が、 貴 方 ……」
にようぼ
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる 女 房 の私が……それはもう間違無しよ!」
じつ
貫一は 熟 と思ひ入りて、
いくつ
「旦那はお 幾 歳 でしたな」
ぢぢい
「五十一、もう 爺 ですわね」
彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなく
たつて、もう違無いの
息巻くお峯の前に彼は
」
おもて ふ
おもひめぐ
面 を俯して言はず、静に 思
廻 らすなるべし。お峯は
心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで
ことば
おもむろ
言 を継がざりしが、さて
徐
に、
「それはもう男の働とか云ふのだから、
めかけ たのしみ
妾 も
楽
も可うございます。これが芸
かこひもの
者だとか、 囲
者 だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、
あかがし
赤 樫 さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ!
ただ
凡 の
しろもの
ちんちん
代 物 ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、 心 火 なら可いけれ
しやれ さた
かかりあ
ど、なかなか心火どころの 洒 落 た沙汰ぢやありはしません。あんな者に 係 合 つて
ひと
ゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の 夫 も
あのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも
をかし
異 い
しや
の、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく 冶 れ
したておろ づくめ
てゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで 仕 立 下 し 渾 成 で、その奇麗
い
いつ ひ
事と謂つたら、 何 が日にも氷川へ行くのにあんなにした事はありはしません。もうそ
れは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無
いと云ふのに」
はがゆ
いら
貫一の気乗せぬをお峯はいと 歯 痒 くて心 苛 つなるべし。
いよい
「はあ、事実とすれば 弥 よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配で
せう」
りんき
あひて
「私は 悋 気 で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、 敵 手
が悪いからねえ」
ふ
思ひ直せども貫一が腑には落ちざるなりけり。
いつごろ
「さうして、それは 何 頃 からの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
しか
な
「 然 し、何にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も
とつく
篤 り言はうと思ふのです。
そこ
就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処を突止めたいのだけ
からだ
おもて
さつぱり
れど、私の 体 ぢや 戸 外 の様子が 全 然 解らないのですものね」
ごもつとも
「 御
尤 」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。
いで
お前さんが寝てお 在 でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
かな
行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る 哉 、紅茶と栗と、と貫一はその
あまり
ひと をかし
余 に安く売られたるが 独 り 可 笑 かりき。
さしつかへ
「いえ、一向 差
支 ございません。どういふ事ですか」
「さう?
あんま
余 りお気の毒ね」
かがや
よろこ
彼の赤き顔の色は 耀 くばかりに 懽 びぬ。
おつしや
「御遠慮無く 有 仰 つて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
ぜんだく さはやか
あ
お峯は彼が 然 諾 の
爽
なるに遇ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過
はづかし
ぎたるを、今更に 可 愧 く覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、そ
も
れで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若し行つたのな
いつごろ
とを ここのつ
ら、 何 頃 行つて何頃帰つたか、なあに、 十 に
九
まではきつと行きはしませ
んから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一
つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
ねまきおび
彼は起ちて 寝 衣 帯 を解かんとすれば、
くるま
や
「お待ちなさいよ、今 俥 を呼びに遣るから」
せはし はしご おりゆ
かく言捨ててお峯は 忙 く 階 子 を 下 行 けり。
あと
わづら
迹 に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ 煩 ひけるが、服を改めて居間を出
でんとしつつ、
なりそこな
「女房に振られて、学士に 成
損 つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵
か!」
はしな
そぞろ ひと うちゑま
と 端 無 く思ひ浮べては 漫 に 独 り 打 笑 れつ。
第四章
ただち くるま とば
くろやなぎ
おもむ
貫一は 直 に 俥 を 飛 して氷川なる 畔
柳 のもとに 赴 けり。その居宅
は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より
しゆつにゆう
やかた
出
入 すべく、 館 の側面を負ひて、
もくげがき
むかしかたぎ
ゆか
つくりな
横長に三百坪ばかりを 木 槿 垣 に取廻して、 昔 形 気 の内に 幽 しげに 造 成
かまへ つつまし
ひきか
きぐち せんたく
したる二階建なり。 構 の 可 慎 う目立たぬに 引 易 へて、 木 口 の 撰 択 の至
れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
あるじ
でいり はばか
わき
貫一も彼の 主 もこの家に公然の 出 入 を 憚 る身なれば、玄関 側 なる
こうしぐち
おとづ
はきもの
格 子 口 より 訪 るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の 履 物 は在
こ
あるひ いま
らず。はや帰りしか、来ざりしか、 或 は 未 だ見えざるにや、とにもかくにもお峯
ことば
ただち
い
言 にも符号すれども、 直 にこれを以て疑を容るべきにあらずなど思ひつつ音
が
なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる
あるじ
しきり をんな
主 の妻の声して、 連 に 婢
い
の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出で来て、
いで
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお 出 でした」
まなこ
やまひがち やせおとろ
とうしみ
眼 のみいと大くて、 病
勝 に 痩
衰 へたる五体は 燈 心 の如く、見る
いたいた
あきらか
いづこ
い
ね
だに 惨 々 しながら、声の
明
にして張ある、 何 処 より出づる音ならんと、一
い
たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂へるその人なり。
いそぢ
かしら しもしげ
年は五十路ばかりにて 頭 の 霜 繁 く夫よりは姉なりとぞ。
うやうやし
な
貫一は屋敷風の
恭
き礼を作して、
こんにち
こちら
「はい、 今 日 は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど 此 方
様へ伺ひましたでございませうか」
いで
かか
「いいえ、お 出 はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に 懸 りたいと
ただいま
ちよつ
申してをりましたところ。 唯 今 御殿へ出てをりますので、 些 と呼びに遣りませ
しばら
うから、 暫 くお上んなすつて」
はしちか
ゐ はた
をんな
言はるるままに客間に通りて、 端 近 う控ふれば、彼は井の 端 なりし 婢 を呼
そくそくあるじ かた
たばこぼん いだ
いだ
立てて、 速 々
主 の 方 へ走らせつ。 莨
盆 を 出 し、番茶を 出 せしのみ
なんど
い きた
いか
にて、 納 戸 に入りける妻は再び出で 来 らず。この間は貫一は如何にこの探偵一件を
いきせ かへりき
けはひ
処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の 息 促 き 還 来 にける 気 勢 せしが、
やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
ちよつ
あちら
「さあ唯今 些 と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか 彼 方 へお
ぢきそこ
とよ
出なすつて。 直 其処ですよ。婢に案内を為せます。あの 豊 や!」
いとまごひ
きは はたち
ものなれがほ
暇
乞 して戸口を出づれば、勝手元の垣の 側 に二十歳かと見ゆる 物 馴 顔
ま
うしろ
おびかひつくろ
みちしるべ
の婢の待てりしが、 後 さまに
帯
ひつつ 道 知 辺 す。垣に沿ひて曲れ
ざり
こみち
ではづ
かまへうち
みむね
ば、玉川砂礫を敷きたる 径 ありて、 出 外 るれば子爵家の 構
内 にて、 三 棟
ぬりごめ うしろ
きり
うゑつら
したみち
並べる 塗 籠 の 背 後 に、 桐 の木高く 植 列 ねたる 下 道 の清く掃いたるを
ゆきつむ
いたべいめぐ
げやつくり
せは
けふり
行 窮 れば、 板 塀 繞 らせる 下 屋 造 の煙突より 忙 しげなる 煙 立昇りて、
ごぜんかごかきい
い
よそ
すぎこ
折しも 御 前 籠 舁 入 るるは通用門なり。貫一もこれを入りて、余所ながら 過 来 し
くりや
か
にほひしき
ひしめき
厨 に、酒の香、物煮る 匂
頻 りて、奥よりは絶えず人の通ふ 乱 響 したる、
ひとま
来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき 一 間 に導かれぬ。
(四)の二
くろやなぎもとえ
しずお やかた
畔 柳 元 衛 の娘 静 緒 は 館 の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の
とりもち
たかわげ かはりうら よそひ
そばさらず そりやく
執 持 に召れて、 高 髷 、 変
裏 に 粧 を改め、お 傍 不 去 に 麁 略 あ
かしづ
ま
らせじと 冊 くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先づ西洋館の三階に案
まはりばしご なかば のぼりゆ うしろすがた
いか
内すとて、 迂 廻 階 子 の 半 を 昇 行 く 後
姿 に、その客の如何に貴婦人
うかが
かつら
ゆひな
まるわげ
なるかを 窺 ふべし。 鬘 ならではと見ゆるまでに 結 做 したる 円 髷 の漆の如
さんご ろくぶだま うしろざし
しろえり れいえん
きに、 珊 瑚 の 六 分 玉 の 後
挿 を点じたれば、更に 白 襟 の
冷
物の
たぐ
きぞくねずみ
いつつもん
ひとへ ひ
みる
類 ふべき無く、 貴 族 鼠 のの 五
紋 なる 単 衣 を曳きて、帯は海松色地に
しようぞくきれうつし しきしちらし しちん
ときいろもんろ
装
束 切
摸 の 色 紙 散 の 七 糸 を高く負ひたり。 淡 紅 色 紋 絽 の
ながじゆばん すそ うはぐつ あゆみ ゆる にほひこぼ
きぬたび
長 襦 袢 の 裾 は 上 履 の 歩 に 緩 く 匂
零 して、 絹 足 袋 の雪に
たわわ
さざんか
嫋 々 なる 山 茶 花 の開く心地す。
うるはし かたち
かべぎは
この 麗
き 容 をば見返り勝に静緒は 壁 側 に寄りて二三段づつ先立ちける
うつむ
のぼ
くし まきゑ
よ
が、彼の 俯 きて 昇 れるに、 櫛 の 蒔 絵 のいと能く見えければ、ふとそれに目を
そこ
すさまじ
たふ
し
さいはひ
奪はれつつ一段踏み 失 ねて、
凄
き響の中にあなや 僵 れんと為たり。
幸
けが
おのれ
きかく おどろ
に怪我は無かりけれど、彼はなかなか 己 の怪我などより 貴 客 を 駭 かせし
ろうぜき
は
狼 藉 をば、得も忍ばれず満面に慚ぢて、
そそう
「どうも飛んだ 麁 相 を致しまして……」
どこ
いた
「いいえ。貴方本当に何処もお 傷 めなさりはしませんか」
びつくり
「いいえ。さぞ 吃 驚 遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
たび はくひよう ふ おもひ
こ 度 は 薄
氷 を蹈む 想 して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見
て、
ちよつ
些 とお待ちなさい」
「
あわ
進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は 慌 て驚きて、
おそれい
「あれ、 恐 入 ります」
よ
じつ
「可うございますよ。さあ、 熟 として」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
つひ
わづらは
あふ
争ひ得ずして 竟 に貴婦人の手を
労
せし彼の心は、 溢 るるばかり感謝の情を
起して、次いではこの優しさを桜の花の
かをり
薫 あらんやうにも覚ゆるなり。彼は
じよししよ ないくん
しばし
ごさいふく さかん
女 四 書 の 内 訓 に出でたりとて 屡 ば父に聴さるる「 五 綵 服 を 盛 にす
か
ていじゆんみち したが
すなは
るも、以つて身の華と為すに足らず、 貞 順 道 に 率 へば、 乃 ち以つて婦
ほんもん かな
ほこ
そむ
徳を進むべし」の 本 文 に 合 ひて、かくてこそ始めて色に 矜 らず、その徳に 爽
め
あ
したたか
かずとも謂ふべきなれ。愛でたき人にも遇へるかなと
絶
に思入りぬ。
にしきた
かひがひ
とばり
三階に着くより静緒は 西 北 の窓に寄り行きて、 効 々 しく緑色の 帷 を絞り
ガラスど くりあ
硝 子 戸 を 繰 揚 げて、
こちら
いで
みはらし よろし
「どうぞ 此 方 へお 出 あそばしまして。ここが一番 見 晴 が 宜 いのでございま
す」
よ
「まあ、好い景色ですことね!
もくせい にほ
富士が好く晴れて。おや、大相 木 犀 が 匂 ひます
やしきうち
ね、お 邸
内 に在りますの?」
しゆうせい ほがらか ひろ
貴婦人はこの 秋
霽 の
朗
に 濶 くして心往くばかりなるに、夢など見るら
おももち
たたず
さしい
ななめ
ん 面 色 して 佇 めり。窓を争ひて 射 入 る日影は 斜 にその姿を照して、
えりどめ
も
ちり
ゆる
うち
襟 留 なる真珠は焚ゆる如く輝きぬ。 塵 をだに 容 さず澄みに澄みたる添景の 中
かほばせ
あざやか みまさ
ぎよくこ
さ
に立てる彼の 容 華 は清く
鮮
に 見 勝 りて、 玉 壺 に白き花を挿したらん
ふぜい
みと
ふつつか ながめい
風 情 あり。静緒は女ながらも見惚れて、 不 束 に 眺 入 りつ。
さはやか
したた
なさけ こも
まゆ
その目の 爽
にして 滴 るばかり 情 の 籠 れる、その 眉 の思へるままに
えが
つぼみ
か
画 き成せる如き、その口元の 莟 ながら香に立つと見ゆる、その鼻の似るものも無
きめこまやか
とほ
くいと好く整ひたる、 肌 理 濃 に光をさへ帯びたる、色の 透 るばかりに白き、難
つややか
かしら
つか
はへぎは
を求めなば、髪は濃くて 瑩 沢 に、 頭 も重げに 束 ねられたれど、 髪 際 の
すこし
かたち
た
なよやか
おもて
少 く打乱れたると、立てる 容 こそ風にも堪ふまじく 繊 弱 なれど、 面 の
やせ
おのづか うれはし そこさびし
えり
痩 の過ぎたる為に、
自
ら
愁
う 底
寂 きと、 頸 の細きが折れやしぬ
いたはし
べく 可 傷 きとなり。
そろ
きりよう いま
ふみはづ
されどかく 揃 ひて好き 容 量 は 未 だ見ずと、静緒は心に驚きつつ、 蹈 外 せ
そこつ
ながしめ
ねら
し 麁 忽 ははや忘れて、見据うる 流 盻 はその物を奪はんと 覘 ふが如く、吾を失へ
る顔は間抜けて、常は顧らるる
かたち
貌 ありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人
かたはら
おびただし
おのれ
傍
には見劣せらるること
夥
かり。彼は 己 の間抜けたりとも知らで、
の
や
げ
返す返すも人の上を思ひて止まざりき。実にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の
さ
は
襟留せるも、指環を五つまで穿せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか愧づべき。
をんな
か
あでやか
あ
婦 の徳をさへ虧かでこの 嬋 娟 に生れ得て、しかもこの富めるに遇へる、天の
めぐみ
さち
あは う
かた
いみじ
恵 と世の 幸 とを 併 せ享けて、残る 方 無き果報のかくも 痛 き人もあるもの
ふたつ
か。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、 二 者 ははぬ
世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その
さいはひ
幸
は男にも過ぎぬべしなど、
ものうらやみ
ねた
おそ
若き女は 物
羨 の念強けれど、 妬 しとは及び難くて、静緒は心に 畏 るるなる
べし。
かたち ふけ
彼は貴婦人の 貌 に 耽 りて、そのにとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着か
フランス
やうや とりいだ
すす
でゐたり。こは殿の 仏 蘭 西 より持ち帰られし名器なるを、 漸 く 取 出 して 薦
いちあく
よ
めたり。形は 一 握 の中に隠るるばかりなれど、能く遠くを望み得る力はほとほと神
助と疑ふべく、筒は乳白色の
み。
ぎよく
わづか きん
玉 もて造られ、 僅 に黄金細工の金具を施したるの
お
め
やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措くを忘らるるまでに愛でられけるが、目の及
ながめつく
グラス ただ
ばぬ遠き限は南に北に 眺
尽 されて、彼はこの 鏡 の 凡 ならず精巧なるに驚け
さま
る 状 なり。
あすこ
ほん こようじ
あさぎ
「 那 処 に遠く 些 の 小 楊 枝 ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、 浅 黄 に赤い
しま
はつきり
はたさを さき とび とま
柳条の模様まで 昭 然 見えて、さうして 旗 竿 の 頭 に 鳶 が 宿 つてゐるが手に
取るやう」
たんと
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも 多 度 御座いませんさ
しようこんしや
のろし
よ
うで、 招 魂 社 のお祭の時などは、 狼 煙 の人形が能く見えるのでございます。
たび
私はこれを見まする 度 にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えま
よろし
あんま
したらさぞ 宜 うございませう。 余 り近くに見えますので、音や声なんぞが致す
かと想ふやうでございます」
あちこち
ごちやごちや
しま
「音が聞えたら、彼方此方の音が一所に成つて 粉
雑 になつて 了 ひませう」
ひとし
きやくあしらひ
はづか
かく言ひて 斉 く笑へり。静緒は 客
遇 に慣れたれば、 可 羞 しげに見え
ながらも話を求むるには
つたな
拙 からざりき。
「私は始めてこれを見せて
いただ
すつかりだま
戴 きました折、殿様に 全 然 騙 されましたのでござ
さき
います。鼻の 前 に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げま
すぐ
おつつ
おつつ
すと、見えたら 直 にその眼鏡を耳に 推 付 けて見ろ、早くさへ耳に 推 付 ければ、音
でも声でも聞えると仰せられますので……」
よどみな かたりい
ゑ
淀 無 く 語 出 づる静緒の顔を見入りつつ貴婦人は笑ましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付け
やうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致
して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう
致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、
おいで
みんななす
御親類方も 御 在 でゐらつしやいましたが、 皆
為 つて御覧遊ばしました」
こら
貴婦人は 怺 へかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと
はやみ
あんま
仰せられるものでございますから、御殿に居ります 速 水 と申す者は 余 り急ぎまし
ここ ひど ぶ
たので、耳の此処を 酷 く打ちまして、血を出したのでございます」
よろこ
もちきた
すす
彼の 歓 べるを見るより静緒は椅子を 持 来 りて 薦 めし後、さて語り続くるや
う。
たれ
「それで 誰 にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ば
して御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお
まじめ
フランス
よ
真面目なお顔で、わざと御考へあそばして、 仏 蘭 西 に居た時には能く聞えたのだが、
日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと
仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の
あくさげき
み
悪 作 劇 を親く睹たらんにも劣らざりき。
おもしろ
「殿様はお 面 白 い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
すぐ
むづかし
「それでもこの二三年はどうも御気分がお 勝 れ遊ばしませんので、お
険
いお顔
をしてゐらつしやるのでございます」
書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、
にはか
卒 に
そらめづかひ
そこさびし うちしめ
空 目 遣 して物の思はしげに、例の 底
寂 う 打 湿 りて見えぬ。
しづか
たび
ちか
やや有りて彼は 徐 に立ち上りけるが、こ 回 は更に 邇 きを眺めんとて双眼鏡を
あなたこなた
あてど
たまた
取り直してけり。 彼 方 此 方 に差向くる筒の 当 所 も無かりければ、 偶 ま
からゆづりは
レンズ い き
はびこ
唐 楪 葉 のいと近きが 鏡 面 に入り来て一面に 蔓 りぬ。粒々の実も珍く、何の
木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めける
おのづ
に
に、 自 から得忘れぬ面影に肖たるところあり。
しか
ぬぐ
せはし
貴婦人は差し向けたる手を 緊 と据ゑて、目を 拭 ふ間も 忙 く、なほ心を留めて
えだは さへぎ
やうや
あきらか
望みけるに、 枝 葉 の 遮 りてとかくに思ふままならず。 漸 くその顔の
明
ひま
さしむか
まつかう
に見ゆる 隙 を求めけるが、別に 相 対 へる人ありて、髪は黒けれども 真 額 の
てらてらは
あいさつ い
瑩 々 禿げたるは、先に 挨 拶 に出でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、
まゆこ
まなじり あが
に
眉 濃 く、 外 眦 の 昂 れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖たりとは
おろか
グラス
未 や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の 鏡 持てる手は
わなわな うちふる
兢 々 と 打 顫 ひぬ。
かずか
はかな
なつか
わかち
行く水に 数 画 くよりも 儚 き恋しさと 可 懐 しさとの朝夕に、なほ夜昼の 別
よとせ
おぼろ
も無く、絶えぬ思はその外ならざりし 四 年 の久きを、熱海の月は 朧 なりしかど、
いちご
いつか
一 期 の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又 何 日
おもひか
つゆ
かは
は必ずと 念 懸 けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は 毫 も昔に 渝 らねど、
いか
君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何なる
わづらひ
よはひ
おもやつれ
あやし
労 をやさまでは積みけん、 齢 よりは 面
瘁 して、 異 うも物々しき
ふんべつかほ
さいはひうす
分 別 顔 に老いにけるよ。 幸
薄 く暮さるるか、着たるものの見好げにもあ
らで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く
わきい
あざやか
湧 出 でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の
鮮
に映れば、
た
貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪へ難くて声も立ちぬべきに、
さと
しな
せんな
きびし
始めて人目あるを 暁 りて 失 したりと思ひたれど、所為無くハンカチ゗フを 緊 く
あ
おどろき
目に掩てたり。静緒の 驚 駭 は謂ふばかり無く、
いか
「あれ、如何が遊ばしました」
わるい
あんま
みつ
「いえ、なに、私は脳が 不 良 ものですから、 余 り物を 瞶 めてをると、どうかす
めまひ
ると 眩 暈 がして涙の出ることがあるので」
ぐし
さす
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお 頭 をお 摩 り申上げませう」
ぢき なほ
はばかり
ひや
「いえ、かうしてをると、今に 直 に 癒 ります。
憚
ですがお 冷 を一つ下さい
ましな」
ましぐら
静緒は 驀 地 に行かんとす。
あなた
おつしや
「あの、 貴 方 、誰にも 有 仰 らずにね、心配することは無いのですから、本当に有
うがひ
仰らずに、唯私が 嗽 をすると言つて、持つて来て下さいましよ」
かしこま
「はい、 畏
りました」
はしご
ひとし
グラス
はごし
彼の 階 子 を下り行くと 斉 く貴婦人は再び 鏡 を取りて、 葉 越 の面影を望み
さしぐ
たちま あいろ
しが、一目見るより 漸 含 む涙に曇らされて、 忽 ち 文 色 も分かずなりぬ。彼は
しどな
くづを
ほしいま
静 無 く椅子に 崩 折 れて、
縦
まに泣乱したり。
(四)の三
ただつぐ とも
この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる 唯 継 と 倶 に田鶴見子爵に招れて、男
くみかは ま
同士のシャンペンなど 酌 交 す間を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の
いづれ
よ
孰 も日本写真会々員たるに因れり。
おのづか
のけもの
い
自 ら宮の 除 物 になりて二人の興に入れるは、想ふにその物語なるべし。富山
はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその
こころ え
つと
意 を獲んと 力 めけるより、
まじは
うとん がた
子爵も好みて 交 るべき人とも思はざれど、勢ひ 疎 じ 難 くして、今は会員中善
し
さい
じらい
ますま
お
く識れるものの 最 たるなり。 爾 来 富山は 益 す傾慕して措かず、家にツゖシゕン
かんてい
さき しばにしのくぼ
の模写と伝へて所蔵せる古画の 鑒 定 を乞ふを名として、 曩 に 芝 西 久 保 なる
おろそか
もてな
かへし
居宅に請じて 疎
ならず 饗 す事ありければ、その 返 とて今日は夫婦を
しようだい
招
待 せるなり。
しきり
会員等は富山が 頻 に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は
かれため
いやし
あへ
彼 為 にするところあらんなど言ひて 陋 み合へりけれど、その実 敢 て為にせん
とにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が
まじは
交 るところは、その地位に
おい
あるひ
いづれ
於 て、その名声に於て、その家柄に於て、 或 はその資産に於て、 孰 の一つか
取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つ
げ
も
を以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実に彼は美き友を有てるなり。さり
いま かつ
あながち
とて彼は 未 だ 曾 てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも
強
に有福な
つと
まじはり
る華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく 勉 めて
交
は求む
ゆゑ
いつか うれひ おなじ
みいだ
るならん。 故 に彼はその名簿の中に 一 箇 の 憂 を 同 うすべき友をだに 見 出
そもそ
たのしみ
も
さざるを知れり。 抑 も友とは
楽
を共にせんが為の友にして、若し憂を同うせ
マネ゗
んとには、別に 金 銭 ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。
もと
まこと
彼の美き友を択ぶは 固 よりこの理に外ならず、 寔 に彼の択べる友は皆美けれども、
ことごと
けいてい
尽 くこれ酒肉の 兄 弟 たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、
しか
な
なほこれをその妻に於けるも 然 りと為すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守
いやし
なほ
そそ
るべき夫の目をめて、 陋 みても 猶 余ある高利貸の手代に片思の涙を 灑 ぐにあら
ずや。
かたはら
かきく
うちふ
宮は 傍
に人無しと思へば、限知られぬ涙に 掻 昏 れて、熱海の浜に 打 俯 した
なげき
つ
した
ほのか
りし 悲 歎 の足らざるをここに続がんとすなるべし。階下より 仄 に足音の響きけれ
ば、やうやう泣顔隠して、わざと
かしら
しつ まなか
テエブル めぐり
頭 を支へつつ 室 の 中 央 なる 卓 子 の 周 囲
もちきた
くちそそ
かいちゆうくすり
を歩みゐたり。やがて静緒の 持 来 りし水に
漱
ぎ、 懐
中
薬 など服し
をさま
よ
とのがた
て後、心地 復 りぬとて又窓に倚りて 外 方 を眺めたりしが、
あすこ
いで
「ちよいと、 那 処 に、それ、男の方の話をしてお 在 の所も御殿の続きなのですか」
どちら
「 何 方 でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
やしきうち
ぢき
「はい、お 邸
内 でございます。これから 直 に見えまする、あの、倉の左手に高
もみ
い 樅 の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
ずつ
い
「おや、さうで。それではこの下から 直 とお宅の方へ行かれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
ちつ
「ああさうですか。では 些 とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に
ざいませんです」
きたな
穢 うございまして、御覧あそばすやうな所はご
はごし
うかが
宮はここを去らんとして又 葉 越 の面影を 窺 へり。
あすこ
とつさま
「付かない事をお聞き申すやうですが、 那 処 にお 父 様 とお話をしてゐらつしやる
どちら
のは 何 地 の方ですか」
でいり
わにぶち
彼の親達は常に 出 入 せる 鰐 淵 の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通
つぐ
りを 告 るなり。
あれ
うりかひ
「 他 は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの 売 買 を致してをります者の手代
はざま
で、 間 とか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
ひとりご
たが
いぶか
もてな
宮は聞えよがしに 独 語 ちて、その 違 へるを 訝 るやうに 擬 しつつ又
そなた うちまも
其 方 を 打 目 戍 れり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
よ
この物語に因りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この
いか
たより
えがた
まさ
上は如何にとも逢ふべき 便 はあらんと、 獲 難 き宝を獲たるにも 勝 れる心地せる
いつ
なり。されどもこの後相見んことは何日をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじ
あだ
よそ
ほいな
も
まなこ
き今日の奇遇を 仇 に、余所ながら見て別れんは本意無からずや。若し彼の 眼 に
にら
おもて
ことば かは
せめ
睨 まれんとも、互の 面 を合せて、 言 は 交 さずとも 切 ては相見て相知らば
よとせ
う
いら
やと、 四 年 を恋に饑ゑたる彼の心は 熬 るる如く動きぬ。
きづか
あやふ
まらうど
さすがに彼の 気 遣 へるは、事の 危 きに過ぎたるなり。附添さへある
賓
の
いやし
あつか
ふぜい
やしきうち こみち
身にして、 賤 きものに 遇 はるる手代 風 情 と、しかもその 邸
内 の 径
そも いかばか
に相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は 抑 や 幾 許 り恥辱を受くるならん。
人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この
おもて つばはか
いと
面 に 唾 吐 るるも 厭 はじの
あふせ
ひとひ
覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、 逢 瀬 は今日の 一 日 に限らぬものを、事
やぶれ
はやま
をり
つら
破 を目に見て愚に 躁 るべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき 機 ならず、 辛 く
の
すか
やしきうち
とも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を 賺 して、 邸
内 を一周せんと、西洋
うしろ
わき
そとべいぎは
ざりみち
館の 後 より通用門の 側 に出でて、 外 塀 際 なる 礫 道 を行けば、静緒は
ななめ
のきば さ
斜 に見ゆる父が詰所の 軒 端 を指して、
あすこ
「 那 処 が唯今の客の参つてをります所でございます」
げ からゆづりは
きな
あやし
実に 唐 楪 葉 は高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴けり。宮が胸は 異 うつと
ふたが
塞 りぬ。
たかどの
わづか ひま
いま
楼
を下りてここに来たるは 僅 少 の 間 なれば、よもかの人は 未 だ帰らざる
きた
いか
おそろし
べし、若しここに出で 来 らば如何にすべきなど、さすがに 可 恐 きやうにも覚えて、
あゆみ
い
歩 は運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には入らで、さて行くほどに裏
かたはら
傍
に到りぬ。
門の
あぐ
いづこ
遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を 挙 れども 何 処 を眺むるにもあらず、
うつむ
ふぜい
きづかはし
俯 き勝に物思はしき 風 情 なるを、静緒は怪くも 気
遣 くて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
ま
「いいえ、もう大概良いのですけれど、未だ何だか胸が少し悪いので」
よろし
「それはお 宜 うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うござ
いませう」
うち
おもて
ち
をさま
「 家 の中よりは 戸 外 の方が未だ可いので、もう些と歩いてゐる中には 復 ります
こちら
よ。ああ、 此 方 がお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な!
もくげ さかり
さつぱり
よ
木 槿 が 盛 ですこと。白ばかりも 淡 白 して好いぢやありま
せんか」
すまひ
さき
まらうど
い
畔柳の 住 居 を限として、それより 前 は道あれども、
賓
の足を容るべくもあ
まだらがき こなた
かし
らず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる 疎
垣 の 此 方 に、 樫 の実の
おびただし こぼ
かたわき
ほそみち
ねむ
夥
く 零 れて、 片 側 に下水を流せる 細 路 を鶏の遊び、犬の 睡 れるな
いぶせ
ど見るも 悒 きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするととも
おそれ たちま
に 恐 懼 は 忽 ちその心を襲へり。
いできた
のが
この一筋道を行くなれば、もしかの人の 出 来 るに会はば、 遁 れんやうはあらで
あからさま おもて
明 々 地 に 面 を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを
いか
たとひこなた
いか
如何にせん。 仮 令 此 方 にては知らぬ顔してあるべきも、 争 でかの人の見付けて驚
もと
ことば
かざらん。 固 より恨を負へる我が身なれば、 言 など懸けらるべしとは想はねど、
さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその
おどろき
あだ あ
いきどほり
驚 駭 は如何ならん。 仇 に遇へるその 憤
懣 は如何ならん。必ずかの人の
すさまじ
いかばかり
ひとし
凄 う激せるを見ば、静緒は 幾
許 我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると 斉 く
つめた
いだ
すく
身内は熱して 冷 き汗を 出 し、足は地に吸るるかとばかり 竦 みて、宮はこれを想
た
わきみち
ふにだに堪へざるなりけり。 脇 道 もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。
や
おももち やす
知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣る方も無く惑へる宮が 面 色 の 穏 から
みとが
ひそか
そば
おそ
ぬを 見 尤 めて、静緒は 窃 に目を 側 めたり。彼はいとどその目を 懼 るるなるべ
そぞろ
はや
かど
そこ
し。今は心も 漫 に足を 疾 むれば、土蔵の 角 も間近になりて其処をだに無事に過
しきり
とつ
あらは
ぎなば、と 切 に急がるる折しも、人の影は 突 としてその角より 顕 れつ。宮は
めくるめ
眩 きぬ。
よ
いひこしら
ただ
これより帰りてともかくもお峯が前は好きやうに 言
譌 へ、さて篤と実否を 糺
ひそか せ
ややまぶか
せし上にて 私 に為んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を 稍 目 深
ひきそば
なら
はやあし
ぬりこめ
ななめ
に 引 側 め、通学に 馴 されし 疾 足 を駆りて、 塗 籠 の角より 斜 に桐の並
あひ
ざりみち
きた
木の 間 を出でて、 礫 道 の端を歩み 来 れり。
あたり ゆきき
たちま
四 辺 に 往 来 のあるにあらねば、二人の姿は 忽 ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳
と
かほうちそむ
まばゆ
の娘なりとは疾く知られけれど、 顔 打 背 けたる貴婦人の 眩 く着飾りたるは、
わづか
ちかづ
子爵家の客なるべしと 纔 に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに 近 け
いんぎん
かたはら あた
すぼ
ば、貫一は静緒に向ひて 慇 懃 に礼するを、宮は
傍
に 能 ふ限は身を 窄 めて
ひそか ながしめ
おもて
うつろ
密 に 流 盻 を凝したり。その 面 の色は惨として夕顔の花に宵月の 映 へる
ひややか
あし うちふる
如く、その 冷
なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。 脚 は 打 顫 ひ打顫ひ、
とどろ
さと
なほ
胸は今にも裂けぬべく 轟 くを、 覚 られじとすれば 猶 打顫ひ猶轟きて、貫一が面
し
影の目に沁むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫
きは
めざや
まらうど
一は帽を打着て行過ぎんとする 際 に、ふと 目 鞘 の走りて、館の
賓
なる貴婦人
べつ
はしな
たがひ おもて
を一 瞥 せり。 端 無 くも 相 互 の 面 は合へり。宮なるよ!
にくぶとん
臭の 肉 蒲 団 なるよ!
かんぷ
姦 婦 なるよ!
銅
ね
まなこ
とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨めて動かざる 眼 に
たた
ひとつかみ
をど
おしこら
は見る見る涙を 湛 へて、唯 一
攫 にもせまほしく肉の 躍 るを 推 怺 へつつ、
ひそか はがみ
なつか
おそろ
はづか
窃 に 歯 咬 をなしたり。 可 懐 しさと 可 恐 しさと 可 耻 しさとを取集めたる宮が
たと
いだきつ
胸の内は何に 喩 へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば 抱 付 きても思ふまま
さいな
あこが
いかに
しがた
苛 まれんをと、心のみは 憧 れながら身を 如 何 とも 為 難 ければ、せめてこ
に
こ
の誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠むるより外はあらず。
あしばや
つきひと
そむ
貫一はつと踏出して始の如く 足 疾 に過行けり。宮は 附 人 に面を 背 けて、
くちびる か
わきま
すい
唇 を咬みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも 弁 へねど、 推 すべ
まらうど
賓
の顔色のさしも常ならず変りて
きほどには推して、事の秘密なるを思へば、
なやま
よし あし
はか
つつまし
可 悩 しげなるを、問出でんも 可 や 否 やを 料 りかねて、唯 可 慎 う引添ひて行
くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
いで
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお 出 あそばして、お休み遊ば
いかが
しましては 如 何 でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
まつさを
「はい、 真 蒼 でゐらつしやいます」
あちら
「ああさうですか、困りましたね。それでは 彼 方 へ参つて、又皆さんに御心配を懸け
い
ひとまはり
なほ
ると可けませんから、お庭を 一
周 しまして、その内には気分が 復 りますから、
あなた
さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変 貴 方 のお世話になりまして、お蔭様で
私も……」
おつしや
「あれ、飛んでもない事を 有 仰 います」
むめいし
めじろ おしくら かたきり
きん
貴婦人はその 無 名 指 より繍眼児の 押 競 を 片 截 にせる黄金の指環を抜取りて、
ふところかみ
懐
紙 に包みたるを、
しるし
証 に」
「失礼ですが、これはお礼のお
おそ
静緒は驚き 怖 れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
よ
「可うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、
おとつさま
おつかさま
おつしや
阿 父 様 にも 阿 母 様 にも誰にも 有 仰 らないやうに、ねえ」
てごめ
受けじと為るを 手 籠 に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の
そたばし
たかわらひ
麁 朶 橋 近く寄る時、書院の静なるに夫の 高
笑 するが聞えぬ。
つと
たひら
をさ
宮はこの散歩の間に 勉 めて気を 平 げ、色を 歛 めて、ともかくも人目をれんと
ぬす
おなじ
計れるなり。されどもこは酒を 窃 みて酔はざらんと欲するに 同 かるべし。
あ
ゑ
あた
彼は先に遭ひし事の胸に鏤られたらんやうに忘るる 能 はざるさへあるに、なかなか
もえい
みだれ
た
朽ちも果てざりし恋の更に 萠 出 でて、募りに募らんとする心の 乱 は、堪ふるに
かた くるしみ もたら
せま
難 き 痛 苦 を 齎 して、一歩は一歩より、胸の 逼 ること急に、身内の血は
ことごと
しんとう
い
尽 くその 心 頭 に注ぎて余さず熬らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は
うちくつろ
こころまか
よ
し
打
寛 ぎて 意
任 せの我が家に独り居たらんぞ可き。人に接して強ひて語り、
わづらは
はげし くちびる か
強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな 可 煩 しと、例の 劇 く
唇
を咬みて止
まず。
つきやまかげ のぢ
こみち
ふみどころな
は くず
お
築 山 陰 の野路を写せる 径 を行けば、 蹈 処 無 く地を這ふ 葛 の乱れ生
くさふぢ みづひき おしろい
かや ほすすき つゆしげ
ひて、 草 藤 、 金 線 草 、 紫 茉 莉 の色々、茅萱、 穂 薄 の 露 滋 く、泉水の末
みづ ひく
みぎは
ごまたけ ひとむら
みえかくれ
を引きて 水 を 卑 きに落せる 汀 なる 胡 麻 竹 の 一 叢 茂れるに 隠
顕 して
こけむ
あづまや
なやま
苔 蒸 す石組の小高きに 四 阿 の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は 艱 しげ
に憩へり。
はしらぎは
彼は静緒の 柱
際 に立ちて控ふるを、
くたびれ
「貴方もお 草 臥 でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
さき
あをざ
きずつ
すこし
その色の 前 にも劣らず 蒼 白 めたるのみならで、下唇の何に 傷 きてや、 少
いた
く血の流れたるに、彼は 太 く驚きて、
いかが
「あれ、お唇から血が出てをります。 如 何 あそばしました」
ざくろ はなびら
ハンカチ゗フもて抑へければ、絹の白きに 柘 榴 の 花 弁 の如く附きたるに、貴婦
ふところかがみとりいだ
か
ゆゑ
げ
懐
鏡
取 出 して、咬むことの過ぎし 故 ぞと知りぬ。実に顔の色は
人は
みづから すご
いくめぐり
躬 も 凄 しと見るまでに変れるを、庭の内をば 幾
周 して我はこの色を隠さ
す
こころひそか おのれ あざけ
んと為らんと、彼は 心
陰 に 己 を 嘲 るなりき。
たちま
あなた
忽 ち女の声して築山の 彼 方 より、
「静緒さん、静緒さん!」
こた
こがくれ かたら けはひ
彼は走り行き、手を鳴して 応 へけるが、やがて 木 隠 に 語 ふ 気 勢 して、返
ひとし まらうど
り来ると 斉 く
賓
の前に会釈して、
すぐ あちら
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、 直 に 彼 方
いで
へお 出 あそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
うんたいきよう
かた
道を転じて静緒は 雲 帯 橋 の在る 方 へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望
ところせま
はいばん つら
むべく、はや 所
狭 きまで 盃 盤 を 陳 ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
こなた
さしまね
此 方 の姿を見るより子爵は縁先に出でて
麾
きつつ、
こちら とうろう
そば ちよつ
「そこをお渡りになつて、 此 方 に 燈 籠 がございませう、あの 傍 へ 些 とお出
とら
で下さいませんか。一枚 像 して戴きたい」
おりた
写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に 下 立 ちて、早くもカメラの
おほひ ひきかつ
覆 を 引 被 ぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
よう
ゆらゆら いできた
いでや、事の 様 を見んとて、 慢 々 と 出 来 れるは富山唯継なり。片手には
シガゕ なかばくゆ
つま
かたひぢ
ひとへはおり そで
葉 巻の 半
燻 りしを 撮 み、 片 臂 を五紋の 単 羽 織 の 袖 の内に張りて、
ゑみ
鼻の下の延びて見ゆるやうの 笑 を浮べつつ、
そこ
なぜ
「ああ、おまへ其処に居らんければ可かんよ、何為歩いて来るのかね」
あわ
けじゆす
あらは
子爵の 慌 てたる顔はこの時 毛 繻 子 の覆の内よりついと 顕 れたり。
「可けない!
あすこ
かうむ
那 処 に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を 蒙
る? ――可けない!
お手間は取せませんから、どうぞ」
あなた
こと
「いや、 貴 方 は巧い 言 をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いで
あちら
あすこ
すからね。さあ、奥さん、まあ、 彼 方 へ。静緒、お前奥さんを 那 処 へお連れ申して」
唯継は目もて示して、
ごしたく
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして 御 支 度 をなすつて下すつたのに、
そば
是非願ひな。ええ。あの燈籠の 傍 へ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非
はにか
願ひな。何も 羞 含 むことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない?
さうとも羞含む
や
かたち
ことは無いとも、始終内で遣つてをるのに、あれで可いのさ。 姿 勢 は私が見て遣るか
よつかか
ほほづゑ
なが
かたち
ら早くおいで。燈籠へ 倚 掛 つて 頬 杖 でもいて、空を 眺 めてゐる 状 なども
いかが
可いよ。ねえ、 如 何 でせう」
「結構。結構」と子爵は
うなづ
頷 けり。
いな
心は進まねど強ひて 否 むべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継
は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
つぶや
ひきか
よら
かく 呟 きつつ庭下駄を 引 掛 け、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に 倚 しめ、
頬杖をしめ、空を眺めよと教へて、
たもと しわ
の
すそ もつれ
袂 の 皺 めるを展べ、 裾 の 縺 を引直し、
すこし の
おもて なやまし
いた
さて好しと、 少 く退きて姿勢を見るとともに、彼はその 面 の 可 悩 げに 太
くも色を変へたるを発見して、
ただち
直 に寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は?
どこ わるい
何処か 不 快 のか、ええ。非常な血色だよ。
どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
わし
ことわり
「苦いやうなら我慢をせんとも、 私 が訳を言つてお 謝 絶 をするから」
よろし
「いいえ、 宜 うございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
いや
「さうか、然し非常に可厭な色だ」
けんけん
あた
彼は 眷 々 として去る 能 はざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
いかが
「 如 何 ですか」
あわただし
唯継は 慌
忙 く身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
レンズ
たねいた さしい
鏡 面 に照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は 種 板 を 挿 入 るれば、唯継
ちかき
は心得てその 邇 を避けたり。
うち
も
みちみ
空を眺むる宮が目の 中 には焚ゆらんやうに一種の表情力 充 満 ちて、物憂さの支へ
きぬ からまつ みどり したかげ あや
かねたる姿もわざとならず。色ある 衣 は 唐 松 の 翠 の 下 蔭 に 章 を成して、
し
よつあし
こだて
あたり
秋高き清遠の空はその後に舗き、 四 脚 の雪見燈籠を 小 楯 に裾の 辺 は
かんざきつつじ しげみ
が みぎは
むし
寒 咲 躑 躅 の 茂 に隠れて、近きに二羽の鵞の 汀 にるなど、 寧 ろ画にこそ
レンズ
写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や 鏡 面 を開かんと構
ふる時、貴婦人の頬杖は
たちま くづ
がば
忽 ち 頽 れて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破と
伏しぬ。
第五章
ゆさりようきつ
すこぶ
も
遊 佐 良 橘 は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、 頗 る謹直を以て聞えしに、
かへ
こんにち
なやま
却 りて、日本周航会社に出勤せる 今 日 、三百円の高利の為に 艱 さるると知れ
る彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは
おもて
外 を張らざる
やりくり
かくれあそび
べからざる為の 遣 繰 なるべしと言ひ、或ものは 隠
遊 の風流債ならんと説く
もありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるる
い
いん か
かた
なりき。されどもこは謂ふべからざる事情の下に連帯の 印 を仮せしが、 形 の如く腐
うく
れ込みて、義理の余毒の苦を 受 ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる
かまだ
かざはやくらのすけ
法学士 蒲 田 鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士 風 早 庫 之 助 とあるのみ。
およ
かつしや
はなはだし た
凡 そ高利の術たるや、 渇 者 に水を売るなり。渇の
甚
く堪へ難き者に至
さ
りては、決してその肉を割きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売
あたひぎよくしよう
ゆゑ
る、一杯の水もその 値
玉
漿 を盛るに異る無し。 故 に前後不覚に渇する者
いゆ
きつ
能くこれを買ふべし、その渇の 癒 るに及びては、玉漿なりとして喜び 吃 せしものは、
も
うはずみ
素と下水の 上 澄 に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水
しぼ
ああ
の倍量をばその鮮血に 搾 りその活肉に割きて以て返さざるべからず。 噫 、世間の最
か
も不敵なる者高利を貸して、これを借るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを
も
か
以て、高利は借るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あ
るべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人に
かか
かな
あらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に 罹 れる 哉 と、彼は人の為ながら常に
うれひ
あた
この 憂 を解く 能 はざりき。
きようゆうかい
かへる
近きに 郷 友 会 の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし 帰 さを彼等は
みたり
三 人 打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
ごちそう
まつだけ ごくあたらし
「別に 御 馳 走 と云つては無いけれど、 松 茸 の 極
新 いのと、製造元から
もら
くろビ゗ル
とり
ゆつく
貰 つた 黒 麦 酒 が有るからね、 鶏 でも買つて、 寛 り話さうぢやないか」
まさぐ
ハム かんづめ
まうけ
みち
遊佐が 弄 れる半月形の熏豚の 罐 詰 も、この 設 にとて 途 に求めしなり。
蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう
とまり
泊 が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエ
たい
しか
ム。君はこの頃風早と 対 に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。 然 し、どうも
つ
その長足のちやうはてう(貂)足らず、続 ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。
すつかり
とま
この頃は 全 然 フロックが 止 つた?
めでた
ははははは、それはお目出度いやうな御愁
傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは
あきらか
明
に一段の進境を示すも
のだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
しわかれごゑ
たいしよう
風早は例の 皺 嗄 声 して 大
笑 を発せり。
たてキュウ
やぶ
風「更に一段の進境を示すには、 竪
杖 をして二寸三分クロオスを 裂 かなければ
可けません」
ひぢ
たてキュウ
蒲「三たび 臂 を折つて良医となるさ。あれから僕は 竪
杖 の極意を悟つたのだ」
あとびき てぎは
風「へへへ、この頃の僕の 後 曳 の 手 際 も知らんで」
これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
あすこ おやぢ
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間 那 処 の 主 翁 がさう言つてゐた、風早さん
が後曳を三度なさると新いチョオクが半分
なくな
失 る……」
うがちえ
蒲「 穿 得 て妙だ」
わざ
むやみ キュウ とりか
風「チョオクの多少は 業 の巧拙には関せんよ。遊佐が 無 闇 に 杖 を 取 易 へるの
み
だつて、決して見とも好くはない」
にはか
蒲田は手もて 遽 に制しつ。
ひと
わざ
ためし
「もう、それで可い。 他 の非を挙げるやうな者に 業 の出来た 例 が無い。悲い
かな
とまり
哉 君達の球も蒲田に八十で 底 止 だね」
風「八十の事があるものか」
いくつ
蒲「それでは 幾 箇 で来るのだ」
「八十五よ」
かな
「五とは情無い! 心の程も知られける 哉 だ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
ことば をは
ひばら
ひぢつき くら
語 も 訖 らざるに彼は 傍 腹 に不意の 肱 突 を 吃 ひぬ。
いた
「あ、 痛 !
つ
ころ
あら
さう強く撞くから毎々球が 滾 げ出すのだ。風早の球は 暴 いから
かんしやくだま
やはらか
こんにやくだま
癇 癪 玉 と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に
柔
いから 蒟 蒻 玉 。それで、
かみなり かや もんちやく
二人の撞くところは 電 公 と蚊帳が 捫
択 してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
たんと
てんぐ
蒲「さう、 多 度 も行かんが、 天 狗 の風早に二十遣るのさ」
あらが
ただち
てぐすね
二人は劣らじと 諍 ひし末、 直 に一番の勝負をいざいざと 手 薬 煉 引きかくる
を、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で
ゆつく
寛 り出来るさ。帰つて風呂にでも
い
そろそろ
入つて、それから 徐 々 始めやうよ」
ゆききしげ
い
往 来 繁 き町を湯屋の角より入れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店
まじ
やなみ
みせぐら しちや
も 雑 りながら閑静に、 家 並 整へる中程に 店 蔵 の 質 店 と軒ラムプの並びて、
こうしきど
かど ゆづりは
すまひ
格 子 木 戸 の内を庭がかりにしたる 門 に 楪 葉 の立てるぞ遊佐が 居 住 なる。
い きた
彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出で 来 りて、伴へる客あるを
やや
けしき
にはか ゑみ
見て 稍 打惑へる 気 色 なりしが、 遽 に 笑 を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
とが
こう
「座敷は?」と夫に 尤 められて、彼はいよいよ 困 じたるなり。
ただいまちよい ふさが
「 唯 今 些 と 塞 つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
勝手を知れる客なればと長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
わにぶち
「 鰐 淵 から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きまし
ちよい
かへ
しま
た、 些 とお会ひなすつて、早く 還 してお 了 ひなさいましな」
まつだけ
「 松 茸 はどうした」
のんき
妻はこの 暢 気 なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
くろビ゗ル
「待てよ。それからこの間の 黒 麦 酒 な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。
わたし あいつ
私 は那 奴
いや
が居ると思ふと不快な心持で」
まゆ ひそ
ビリゕゕド あらそひ
遊佐も差当りて当惑の 眉 を 顰 めつ。二階にては例の 玉
戯 の
争
なるべ
たかわらひ
し、さも気楽に 高
笑 するを妻はいと心憎く。
しばし
きた
少 間 ありて遊佐は二階に昇り 来 れり。
ゆ
てぬぐひ
蒲「浴に一つ行かうよ。 手 拭 を貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
げ
こころおだや
実に言ふが如く彼は 心
穏 かならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
ゕ゗ス
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸が来てをるのだよ」
えてもの
蒲「 那 物 が来たのか」
かへり
遊「先から座敷で 帰 来 を待つてをつたのだ。困つたね!」
かしら
ゆる
よ
彼は立ちながら 頭 を抑へて 緩 く柱に倚れり。
おつかへ
蒲「何とか言つて 逐 返 して了ひ給へ」
ひねくね
あいつ つかま
たま
遊「なかなか逐返らんのだよ。 陰 忍 した皮肉な奴でね、 那 奴 に 捉 つたら 耐
らん」
たた
蒲「二三円も 叩 き付けて遣るさ」
たびたび
むかふ
さ
遊「もうそれも 度 々 なのでね、 他 は書替を為せやうと掛つてゐるのだから、延
期料を握つたのぢや今日は帰らん」
風早は聴ゐるだに心苦くて、
ふる
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を 揮 つて」
かね
すで
ふる
「これは外の談判と違つて唯金銭づくなのだから、素手で飛込むのぢや弁の 奮 ひやう
まごまご
が無いよ。それで 忽 諸 すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つ
すけだち
て何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の 助 太 刀 を為るから」
むづか
いと 難 しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなり
けり。
しを
すく
風「気の毒な、 萎 れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして 拯
つて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。
い
ますま あしもと
遊佐は気が小いから可かない。ああ云ふ風だから 益 す 脚 下 を見られて好い事を
かね かしかり
為れるのだ。高が金銭の 貸 借 だ、命に別条は有りはしないさ」
おそ
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは 懼 れるだらうぢやな
いか」
「ところが懼れない!
ゕ゗ス
紳士たるものが 高 利 を貸したら名誉に関らうけれど、高い
あんり
はるか
利を払つて借りるのだから、 安 利 や無利息なんぞを借りるから見れば、 夐 に以つ
かね こま
て栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭に 窮 らんと云ふ限は無い、窮つたか
す
きずつ
ら借りるのだ。借りて返さんと言ひは為まいし、名誉に於て 傷 くところは少しも無
い」
ゕ゗ス
「恐入りました、 高 利 を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
ゕ゗ス
は
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、 高 利 を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚づ
おこなひ
行
と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借
べき
いま
りた以上は仕方が無い、 未 だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも
あた
そう
おこ
能 はざるなりだらう。 宋 の時代であつたかね、何か乱が 興 つた。すると上奏に及
んだものがある、これは
いくさ
いちにん
かじよう
師 を動かさるるまでもない、 一 人 の将を 河 上 へ
つかは
かた
こうきよう
おのづ
遣 して、賊の 方 に向つて 孝
経 を読せられた事ならば、賊は 自 から消滅
まじめ
せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目で孝経を読んでゐる
てんびきしわり く
おき
すは
のだよ、既に借りてさ、 天 引 四 割 と吃つて一月 隔 に血を 吮 れる。そんな無法
あ
いま
な目に遭ひながら、 未 だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。
ゕ゗ス
けだもの
孝経が解るくらゐなら 高 利 は貸しません、彼等は銭勘定の出来る 毛 族 さ」
つが
とききた
得意の快弁流るる如く、彼は息をも 継 せず 説 来 りぬ。
ぬ
「濡れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひな
いま
もちろん
がら、なほ 未 だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きなだ。それは 勿 論 借りた
後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良
いちぶつ
たましひ あきんど
これ
心とは、 一 物 にして一物ならずだよ。武士の
魂
と 商 人 根性とは元 是 一
物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへど
ゆる
あへ
も決して不義不徳を 容 さんことは、武士の魂と 敢 て異るところは無い。武士にあつ
あきんど
ては武士魂なるものが、 商 人 にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も
ゕ゗ス
たいゕ゗ス
高 利 などを借りん内は武士の魂よ、既に 対 高 利 となつたら、商人根性にならんけ
つまり
れば身が立たない。 究 竟 は敵に応ずる手段なのだ」
ゕ゗ス
い
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が 高 利 を借りて、栄と為るに足れりと謂ふ
に至つては……」
さま な
蒲田は恐縮せる 状 を作して、
あら
「それは少し白馬は馬に 非 ずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
いつぴ
こうがく えん
「どれ、 一 匕 深く探る 蛟 鰐 の 淵 と出掛けやうか」
くうけん いか
「 空 拳 を 奈 んだらう」
ひと ね
きづかは
一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は 独 り臥つ起きつ安否の 気 遣 れて苦き
ぶりよう
あるじ
やうや
無 聊 に堪へざる折から、 主 の妻は 漸 く茶を持ち来りぬ。
はなは
「どうも 甚 だ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
あか
彼はその美き顔を少く 赧 めて、
いで
ふすまごし
「はい、あの居間へお 出 で、 紙 門 越 に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこ
はづかし
んなところを皆様のお目に掛けまして、実にお 可 恥 くてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
わたくし
あいつ
そうけだ
私
はもう 彼 奴 が参りますと、 惣 毛 竪 つて頭痛が致すのでございます。あん
「
いや
な強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭に陰気なした、底意地
の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
いそぎあし はしご
急
足 に 階 子 を鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
あがりはな
うしろ すぐ
したた
ふんづ
と 上 端 に坐れる妻の 背 後 を 過 るとて 絶 かその足を 蹈 付 けたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
し
おしこら
あいさつ
骨身に沁みて痛かりけるを妻は赤くなりて 推 怺 へつつ、さり気無く 挨 拶 せる
を、風早は見かねたりけん、
あひかはらずそそつ
「 不 相 変 麁 相 かしいね、蒲田は」
あわ
「どうぞ御免を。つい 慌 てたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
おちつか
ゕ゗ス
たれ
「 落 付 れる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸と云ふのは、 誰 だと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君のとは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
つら
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の 面 を蹈んだ」
しあはせ
「でも 仕 合 と皮の厚いところで」
け
「怪しからん!」
いたみ たちま
うつ
妻の足の 痛 は 忽 ち下腹に 転 りて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た
」
「さう! 驚いたらう」
彼は長き鼻息を出して、
むなし まなこ
空 く 眼 をりしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
あき
あるじ
おぞ
をど
別して 呆 れたるは 主 の妻なり。彼は 鈍 ましからず胸の 跳 るを覚えぬ。同じ
おもて
あらは
思は二人が 面 にも 顕 るるを見るべし。
ごほうゆう
「下に参つてゐるのは 御 朋 友 なのでございますか」
せは
うなづ
蒲田は 忙 しげに 頷 きて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
かね
や
ゕ゗ス
「 夙 て学校を罷めてから高利貸を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、
ごくおとなし
ゕ゗ス
うそ
極 温 和 い男で、高利貸などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は 虚 だら
うと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢ
やありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
うそ
「さあ、そこで誰も 虚 と想ふのです」
ほん
「 本 にさうでございますね」
すこし
うたがひ はら
きた
少 き前に起ちて行きし風早は
疑
を 霽 して帰り 来 れり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
おもかげ
「ゕルフレッド大王の 面 影 があるだらう」
おつぱら
あいつ
「エッセクスを 逐 払 はれた時の面影だ。然し 彼 奴 が高利貸を遣らうとは想はなか
つたが、どうしたのだらう」
いんごう
「さあ、あれで 因 業 な事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
あるじ
しわ
主 の妻はその美き顔を 皺 めたるなり。
ひど
蒲「随分 酷 うございますか」
妻「酷うございますわ」
こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば
にはか
遽 に取り
て飲干し、
さいはひ
「然し間であるのが
幸
だ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。
あこぎ
ついで
我々が口を利くのだ、奴もさう 阿 漕 なことは言ひもすまい。 次 手 に何とか話を着け
もときん
あいつ
て、 元 金 だけか何かに負けさして遣らうよ。 那 奴 なら恐れることは無い」
彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
けんか
「まるで 喧 嘩 に行くやうだ」
ちつ きりつ
ぶらさが
「そんな事を言はずに自分も 些 と 気 凛 とするが可い、帯の下へ時計の 垂 下 つて
ゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、
あるじ
かたはら
主 の妻は
傍
より、
「お羽織をお取りなさいましな」
はばかりさま
ちよつ
こころぞへ
「これは 憚
様 です。 些 と身支度に婦人の 心
添 を受けるところは
ほりべやすべえ
にんず
堀 部 安 兵 衛 といふ役だ。然し芝居でも、 人 数 が多くて、支度をする方は大概取つ
て投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な!
はざま
間 如きに」
をかし
い
「急に強くなつたから 可 笑 い。さあ。用意は好いよ」
こつち い
「 此 方 も可い」
き
二人は膝を正して屹と差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
かたきうち かどで
ちやさかづき
蒲「どうしても 敵
討 の 門 出 だ。互に交す 茶
盃 か」
第六章
くるし
おちつ
たばこぼん
座敷には 窘 める遊佐と 沈 着 きたる貫一と相対して、 莨
盆 の火の消えんと
かたはら ちやたく
ちやわん
かつ
すれど呼ばず、彼の
傍
に 茶 托 の上に伏せたる 茶 碗 は、 嘗 て肺病患者と
いだ
のけもの
知らで 出 せしを恐れて 除 物 にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
いきどほり
こわね
遊佐は
憤
を忍べる 声 音 にて、
もちろんほうゆう いくら
「それは出来んよ。 勿 論 朋 友 は 幾 多 も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな
なん
者は無いのだから。考へて見給へ、 何 ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金
の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
ひ
貫一の声は重きを曳くが如く底強く沈みたり。
あへ
「 敢 て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、
わたくし
どちら
それでは 私
の方が立ちません。 何 方 とも今日は是非願はんければならんのでご
もと
あなた
ざいます。連帯と云つたところで、 固 より 貴 方 がお引受けなさる精神なれば、外の
ほん
迷惑にはならんのですから、 些 の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の
よしみ
どなた
つまり
誼 として、 何 方 でも承諾なさりさうなものですがな。 究 竟 名義だけあれば
よろし
け
宜 いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決してその連帯者に掛
かど
らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ 廉 が付きませんと、私も主人に対して
言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それ
ひとまづ
で 一 先 句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
遊佐は答ふるところを知らざるなり。
どなた
「 何 方 でも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に
かかは
関 るやうな手段
も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
さしおさへ
「無論 差
押 です」
し
ひし こた
おじけ
遊佐は強ひて微笑を含みけれど、胸には 犇 と 応 へて、はや八分の 怯 気 付きたる
もだ
ねぢき
ひげ ひね
なり。彼は 悶 えて 捩 断 るばかりにその 髭 を 拈 り拈りて止まず。
はしたがね あなた
きずつ
さまたげ
「三百円やそこらの 端
金 で 貴 方 の御名誉を 傷 けて、後来御出世の 妨 碍
け
このまし
にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決して 可 好 くはないのです。けれども、
こちら
い
や
此 方 の請求を容れて下さらなければ已むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益
なのですから、更に御一考を願ひます」
もときん
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、 元 金 の上
こんにち
に借用当時から 今 日 までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分
なにがし
がつ
強
、それと 合
を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円
して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、
つか
一文だつて自分が 費 つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、
かか
又改めて五百円の証書を 書 される!
あんま
こつち
余 り馬鹿々々しくて話にならん。 此 方 の
しんしやく
身にも成つて少しは 斟
酌 するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証
書が書けると想ふかい」
そらうそぶ
空
嘯 きて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
ひそか はがみ
ねめつ
遊佐は 陰 に 切 歯 をなしてその横顔を 睨 付 けたり。
いんつ
わざはひ
彼もれ難き義理に迫りて連帯の 印 捺 きしより、不測の
禍
は起りてかかる憂き
いた おのれ
目を見るよと、 太 く 己 に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を
か
い
懸くることもやと、断じて貫一の請求を容れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を
即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに
きはま
谷 るとともに貫一もこの場は
いつすん
わな
一 寸 も去らじと構へたれば、遊佐は 羂 に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は
いはれな
無くて、今は唯身に受くべき 謂 無 き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨
ひるがへ
せんど
あ
飜
りて一点の人情無き 賤 奴 の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴れ乱れ
み、
てほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
はつか
いま
わたし
いつ
「先月の二十日にお払ひ下さるべきのを、 未 だにお 渡 が無いのですから、何日で
も御催促は出来るのです」
こぶし
ふる
遊佐は 拳 を握りて 顫 ひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を!
何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで
むなし
くるまだい
も
空 く帰るその日当及び 俥
代 として下すつたから戴きました。ですから、若し
あれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
うちきん
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の 内 金
でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それか
らついこの間又十円……」
むだあし
「それは確に受取りました。が、今申す通り、 無 駄 足 を踏みました日当でありますか
ら、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても
よろし
宜 い訳なのです。まあ、過去つ
お
た事は措きまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
こんにち
こんにち
「 今 日 はその事で上つたのではないのですから、 今 日 の始末をお付け下さいま
おつしや
し。ではどうあつても書替は出来んと 仰 有 るのですな」
「出来ん!」
きん
「で、 金 も下さらない?」
「無いから遣れん!」
貫一は目を側めて遊佐が
おもて じ うかが
ひややか
まなこ
面 を熟と 候 へり。その
冷
に鋭き 眼 の光は
あやし
そぞろ
たちま
かへ
異 く彼を襲ひて、 坐 に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は 忽 ち吾に 復 れる
あやふ
を
つひ ひか
やうに覚えて、身の 危 きに処るを省みたり。一時を快くする暴言も 竟 に 曳 れ
もの こうた
さと
てもちぶさた なり
者 の 小 唄 に過ぎざるを 暁 りて、手 持 無 沙 汰 に 鳴 を鎮めつ。
いつ
「では、 何 ごろ御都合が出来るのですか」
機を制して彼も劣らず
やはら
和 ぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
しか
「 聢 と相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
よろし
宜 うございま
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら
せう」
「宜い事も無い……」
おつしや
なんぶん こんにち
「不承を 有 仰 るところは少しも有りはしません、その代り 何 分 か 今 日 お
つかは
遣 し下さい」
てかばん
とりいだ
かく言ひつつ 手 鞄 を開きて、約束手形の用紙を 取 出 せり。
「銭は有りはせんよ」
わづか よろし
「 僅 少 で 宜 いので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
かね
「五円なんと云ふ金円は有りはせん」
「それぢや、どうも」
にはか ちゆうちよ
ひね
彼は 遽 に 躊
躇 して、手形用紙を惜めるやうに 拈 るなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
ふすま
ふ
めさき
しづしづ
折から 紙 門 を開きけるを弗と貫一のふる 目 前 に、二人の紳士は 徐 々 と
いりきた
おのおの
入 来 りぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の
各
心得顔なるは、
必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は
すこし
ゆる
かたち
少 く座を 動 ぎて 容 を改めたり。紳士は
かみしも
な
上 下 に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作せり。
さき
蒲「どうも 曩 から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
がくぜん
おもて
たちま
貫一は 愕 然 として二人の 面 を眺めたりしが、 忽 ち身の熱するを覚えて、
おもひいだ
その誰なるやを 憶
出 せるなり。
めづらし
どなた
「これはお 珍
い。 何 方 かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りま
せんでしたが、いつもお変無く」
まうか
儲 りませう」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――
うちゑ
貫一は 打 笑 みて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
いささか は
こころひそか あき
あなど
彼の 毫
も愧づる色無きを見て、二人は 心
陰 に 呆 れぬ。 侮 りし風
くみ やす
早もかくては 与 し 易 からず思へるなるべし。
しか
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、 然 し思切つた事を始めましたね。君の性
よ
質で能くこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
わざ
「真人間に出来る 業 ぢやありませんな」
これ実に真人間にあらざる人の
ことば
はれんち ろうめんぴ
言 なり。二人はこの 破 廉 耻 の 老 面 皮 を憎し
と思へり。
ひど
蒲「 酷 いね、それぢや君は真人間でないやうだ」
わたし
なまじ
私 のやうな者が 憖 ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れん
「
や
と悟りましたから、学校を罷めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めました
ので」
やはり
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、 依 旧 真人間
で居てもらひたいね」
風早は親しげに放笑せり。
うきな やかまし
蒲「さうさう、それ、あの時分 浮 名 の
聒
かつた、何とか云つたけね、それ、君
の所に居つた美人さ」
まね
貫一は知らざる 為 してゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
よしその旧友の前に人間の
おもて あか
面 を 赧 めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動か
さざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
うらやまし
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、 可
羨 い」
ごいん
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに 御 印 を願ひます」
やたて
ぬ
彼は 矢 立 の筆を抽きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
ちよつ
風「ああ 些 と、その手形はどう云ふのですね」
貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
ごもつとも
「成程 御
尤 、そこで少しお話を為たい」
しばら
つぐ
しわがれごゑ いか
蒲田は 姑 く助太刀の口を 噤 みて、 皺 嗄 声 の如何に弁ずるかを聴かんと、
すひさし
ひいれ さ
ゐたけだか
吃 余 の葉巻を 火 入 に挿して、 威 長 高 に腕組して控へたり。
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の
あつかひ
扱
をして戴きたいのだ。君の
たのみ
頼 と思つて、少し勘弁を
方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友の
してもらひたい」
しばし
彼も答へず、これも 少 時 は言はざりしが、
「どうかね、君」
「勘弁と申しますと?」
つまり
ま
もとこ
「 究 竟 君の方に損の掛らん限は減けてもらひたいのだ。知つての通り、 元 金 の借金
は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来
たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取
そこ よ
立てるものは取立てる、其処は能く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやな
かか
いか
い。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に 罹 つたので、如何にも気の毒な
はか
てつぷ
おもひ
次第。ところで、 図 らずも貸主が君と云ふので、 轍 鮒 の水を得たる 想 で我々が
中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の
はざま
間 として、実
かね
は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。 夙 て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、
とおばやし これまで
あ
借主の 遠
林 が 従 来 三回に二百七十円の利を払つて在る。それから遊佐君の手
で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方
もときん
には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の 元 金 だけを遊佐君の手で返せば
可いといふ事にしてもらひたいのだ」
貫一は冷笑せり。
つか
くう
「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も 費 はずに 空 に出るのだ
つら
ま
から随分 辛 い話、君の方は未だ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。
くらべ
そこで辛さ 競 を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだか
たちまへ
こつち
まるぞん
ら、 立 前 にはなつてゐる、 此 方 は三百九十円の 全 損 だから、ここを一つ酌量
してもらひたい、ねえ、特別の扱で」
まる
「 全 でお話にならない」
みじか
い
秋の日は 短 しと謂はんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額
を書入れたり。一斉に彼の
おもて
まなこ
面 を注視せし風早と蒲田との 眼 は、更に相合うて
いか
あなた
きびし うちまも
瞋 れるを、再び 彼 方 に差向けて、いとど 厳 く 打 目 戍 れり。
風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」
ごいん
にちげん
よろし
貫「それでは遊佐さん、これに 御 印 を願ひませう。 日 限 は十六日、 宜 うござ
いますか」
こら
けしき
めまぜ
この傍若無人の振舞に蒲田の 怺 へかねたる 気 色 なるを、風早は 目 授 して、
「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊
ほう
佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも 方 が付かんのだから、長くこれ
いつしよ
かか
を背負つてゐた日には、体も 一 所 に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に 関 る
いかに
大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで 如 何 とも手の着
あいて
けやうが無い。 対 手 が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を
すく
まるまる
拯 ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。 全 然 損を掛けやうと云ふのぢやないの
け
だから、決してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」
わたくし
私
は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、
「
こんにち
今 日 はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」
ひとり
おぼつか
うなづ
遊佐はその 独 に計ひかねて 覚 束 なげに 頷 くのみ。言はで忍びたりし蒲田
いかり
つ
怒 はこの時衝くが如く、
の
「待ち給へと言ふに!
す
先から風早が口を酸くして頼んでゐるのぢやないか、
ぜにもらひ かど
しかるべ
銭
貰 が 門 に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、 可 然
あいさつ
き 挨 拶 を為たまへ」
しかるべ
「お話がお話だから 可 然 き御挨拶の為やうが無い」
はざま
「黙れ、 間 !
あたま
貴様の 頭 脳 は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと
しかるべき
見えるな。誰がその話に 可
然 挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だか
たしな
節 めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。
ら
ぬすつと
あか
盗 人 の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば 赧
い顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのを
あつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我
ぶべつ
あらおじようすけ
々を 侮 蔑 したこの有様を、 荒 尾 譲 介 に見せて遣りたい!
貴様のやうな畜生
に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様
の安否を苦にしてな、実の
おとと
ふさ
弟 を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて 鬱 い
いちごん
ねむり
でゐたぞ。その 一 言 に対しても少しは良心の 眠 を覚せ!
真人間の風早庫之助
と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は
おとなし
順
く帰れ、帰れ」
あなたがた
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。 貴 下 方 がそれまで遊佐さんの件に
な
就いて御心配下さいますなら、かう為すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形
かた
ひとまづ
は遊佐さんから戴きまして、この方の 形 はそれで 一 先 附くのですから、改めて三
百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
よろし
「うん、 宜 い」
なす
「ではさう 為 つて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
じつかねんぷ
「然し気の毒だな、無利息、 十 個 年 賦 は」
「ええ? 常談ぢやありません」
さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに
せせらわらひ
嘲
笑 しつ。
うち とく
風「常談は措いて、いづれ四五日 内 に 篤 と話を付けるから、今日のところは、久し
ぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
おつしや
「さう云ふ無理を 有 仰 るで、私の方も然るべき御挨拶が出来なくなるのです。既
ほか
に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ 外 へ廻る
で急ぎますから、お話は後日
ゆつく
寛 り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。
あなた
ぐづぐづ
貴 方 御承諾なすつて置きながら今になつて 遅 々 なすつては困ります」
やくびようがみ とまどひ
うるさ
おれ
蒲「 疫 病 神 が 戸 惑 したやうに手形々々と 煩 い奴だ。 俺 が始末をして
遣らうよ」
彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
よ
かかる事は能く知りながら彼はわざと怪しむなりき。
はず
遊「そんな 筈 は無い」
か
貫一は彼等の騒ぐを尻目に挂けて、
もときん
ゕ゗ス じようほう
「九十円が 元 金 、これに加へた二十七円は天引の三割、これが 高 利 の 定
法
です」
つぶ
音もせざれど遊佐が胆は 潰 れぬ。
「お……ど……ろ……いたね!」
くだん
蒲田は物をも言はず 件 の手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、
なほ
ひきねぢ
なげや
猶 も引裂き引裂き、 引 捩 りて間が目先に 投 遣 りたり。彼は騒げる色も無く、
なさ
「何を 為 るのです」
「始末をして遣つたのだ」
「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」
彼は間が非常手段を取らんとするよ、と
こころひそか おそれ な
心
陰 に 懼 を作して、
「いやさう云ふ訳ぢやない……」
ひざ すす
蒲田はと 膝 を 前 めて、
「いや、さう云ふ訳だ!」
こはもて
をさな
かろ
やはら
彼の 鬼 臉 なるをいと 稚 しと 軽 しめたるやうに、間はわざと色を 和 げて、
あなた
「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、 貴 方 も折角中へ入つて下さるなら、も
少し男らしい扱をなさいましな。
わたくし
私
如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」
「おお俺が法学士ならどうした」
あひそ
「名実が 相 副 はんと謂ふのです」
「生意気なもう一遍言つて見ろ」
な
「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為さい」
かひな
をど
もろつかみ むず
蒲田が 腕 は電光の如く 躍 りて、猶言はんとせし貫一が胸先を 諸
掴 に無図
と
と捉りたり。
「間、貴様は……」
ねぢむ
おもて うちまも
捩 向 けたる彼の 面 を 打 目 戍 りて、
「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋
かぶ
ストオブ
ああ おとなし
の帽子を 冠 つて 煖 炉 の前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼、
順
い
ちからぬけ
間を、と 力
抜 がして了ふ。貴様これが人情だぞ」
たか あ
みうごき えせ
鷹 に遭へる小鳥の如く 身 動 し得為で押付けられたる貫一を、風早はさすがに
あはれ
憫 然 と見遣りて、
「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の
るやうな事は為んから、君も友人の
はざま
間 と思つて、それは誓つて迷惑を掛け
よしみ
誼 を思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」
「さあ、間、どうだ」
「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で
おのづ
自 から別問題……」
のどつま
やや
し
彼は忽ち 吭 迫 りて言ふを得ず、蒲田は 稍 強く緊めたるなり。
いき
「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸が止るぞ」
た
ふりほど
かのうりゆう
貫一は苦しさに堪へで 振 釈 かんとけども、 嘉 納 流 の覚ある蒲田が力に敵し
まか
かねて、なかなかその為すに 信 せたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、
風早も心ならず、
「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」
あら
「余り、 暴 くするなよ」
こうぜん
たいしよう
蒲田は 哄 然 として 大
笑 せり。
すいこでん
「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは 水 滸 伝 にある図だらう。
おも
およ
まも
へちま
惟 ふに、 凡 そ国利を 護 り、国権を保つには、国際公法などは実は 糸 瓜 の皮、要
あらそひ そもそ
争
は 抑 も
は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直の
たれ
いかんな
誰 の手で公明正大に 遺 憾 無 く決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、
いは たたかひ
曰 く 戦
!」
ゆる
だいぶ
風「もう 釈 してやれ、 大 分 苦しさうだ」
はづかし
ためし
ゆゑ
蒲「強国にして 辱
められた 例 を聞かん、 故 に僕は外交の術も嘉納流よ」
ひど
むく
よ
遊「余り 酷 い目に遭せると、僕の方へ 報 つて来るから、もう舎してくれたまへな」
ひと ことば
ゆる
いま
他 の 言 に手は 弛 めたれど、蒲田は 未 だ放ちも遣らず、
「さあ、間、返事はどうだ」
のど
ね
「 吭 を緊められても出す音は変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈す
つら
さつたば
たた
るものか。憎いと思ふならこの 面 を五百円の 紙 幣 束 でお 撲 きなさい」
「金貨ぢや可かんか」
「金貨、結構です」
「ぢや金貨だぞ!」
たかほ
したた くらは
あ
おさ
油断せる貫一が左の 高 頬 を平手打に 絶 か 吃 すれば、呀と両手に痛を 抑 へ
しばし
えあ
かえ
て、 少 時 は顔も得挙げざりき。蒲田はやうやう座に 復 りて、
こいつ
「急には 此 奴 帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談
せ
ずると為う」
よ
「さあ、それも可からう」
独り可からぬは遊佐なり。
うま
いつ
「ここで飲んぢや 旨 くないね。さうして形が付かなければ、何時までだつて帰りはせ
しまひ
のこ
なほ
んよ。酒が 仕 舞 になつてこればかり 遺 られたら 猶 困る」
よろし
かへり
宜 い、 帰 去 には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、
「
おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
う
さけ
と彼は横手を拍ちて不意に ※ [#「口+斗」、170-16]べば、
びつくり
「ええ、 吃 驚 する、何だ」
おもひだ
いひなづけ
「 憶 出 した。間の 許
婚 はお宮、お宮」
こんにち
ひなし
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、 今 日 ぢや大きに 日 済 など
さ
ゕ゗ス
を貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為しちや可かんよ。けれども高利貸
かへ
をんな
やさし
などは、これで 却 つて 女 子 には 温 いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働
むさぼ ゆゑん
いて暴利を 貪 る 所 以 の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好き
えよう
な 栄 耀 がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなの
さんたん
かね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営 惨 憺 と努めるとこ
かね こしら
たと
あつ
ろは、何ぞ非常の目的があつて 貨 を 殖 へるやうだがな、 譬 へば、軍用金を 聚
しちうけ
おのれ
めるとか、お家の宝を 質 請 するとか。単に 己 の慾を充さうばかりで、あんな思
おほく
もうじや
切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。 許 多 のガリガリ 亡 者 は論外
おい
として、間貫一に 於 ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだか
そん
ら、必ず非常の目的が有つて 存 するのだらう」
たちま たそが
やや
ともし
秋の日は 忽 ち 黄 昏 れて、 稍 早けれど 燈 を入るるとともに、用意の
さけさかな
お
いだ
酒
肴 は順を逐ひて運び 出 されぬ。
ビ゗ル
ちようだい なべ
よろし
「おつと、 麦 酒 かい、 頂
戴 。 鍋 は風早の方へ、煮方は 宜 くお頼み申しま
まつだけ
ましろ
すよ。うう、好い 松 茸 だ。京でなくてはかうは行かんよ――中が 真 白 で、
ほうちよう きし
はづれ
や
庖
丁 が 軋 むやうでなくては。今年は 不 作 だね、瘠せてゐて、虫が多い、あの
さは
雨が 障 つたのさ。間、どうだい、君の目的は」
かね
「唯 貨 が欲いのです」
「で、その貨をどうする」
「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、
その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さ
るのです」
いつぱい
きげん
風「まあ、これを 一 盃 飲んで、今日は 機 嫌 好く帰つてくれ給へ」
蒲「そら、お取次だ」
わたくし
いかん
私
は酒は 不 可 のです」
「
蒲「折角差したものだ」
「全く不可のですから」
おしの
はずみ
もろ
すべ
差付けらるるを 推 除 くる 機 に、コップは 脆 くも蒲田の手を 脱 れば、
たばこぼん ひいれ あた
はつし
莨
盆 の 火 入 に 抵 りて 発 矢 と割れたり。
「何を為る!」
こら
貫一も今は 怺 へかねて、
「どうしたと!」
むないた つか
ひとたまり
やをら起たんと為るところを、蒲田が力に 胸 板 を 衝 れて、 一
耐 もせず
のけさま うちこ
ひま
てかばん
仰 様 に 打 僵 けたり。蒲田はこの 隙 に彼の 手 鞄 を奪ひて、中なる書類を
てまかせ つかみだ
かけよ
手 信 に 掴 出 せば、狂気の如く 駈 寄 る貫一、
さは
ききうでと
「身分に 障 るぞ!」と組み付くを、 利 腕 捉 つて、
ねぢふ
「黙れ!」と 捩 伏 せ、
そいつ
「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く 其 奴 を取つて了ひ給へ」
これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の
あまり
こころよ
余 に暴なるを
快
しと為ざる
おどろ
はねかへ
ふんまたが
なりき。貫一は 駭 きて、 撥 返 さんと右に左に身を揉むを、 蹈
跨 りて
ねぢあ
捩 揚 げ捩揚げ、蒲田は声を励して、
ご
「この期に及んで!
ちゆうちよ
躊
躇 するところでないよ。早く、早く、早く!
風早、何
を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を
取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」
ねめまは
もだ
手を出しかねたる二人を 睨 廻 して、蒲田はなかなか下に貫一の 悶 ゆるにも劣ら
ひと ごう にや
かひな ぢただら
ず、 独 り 業 を 沸 して、 効 無 き 地 鞴 を踏みてぞゐたる。
よ
風「それは余り遣過ぎる、善くない、善くない」
い
「善いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、
何をしてゐるのだ」
をのの
むし
うでだて
いさ
彼はほとほと 慄 きて、 寧 ろ蒲田が 腕 立 の紳士にあるまじきを 諌 めんとも
くみ
い
思へるなり。腰弱き彼等の 与 するに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山に入りながら手
むなし
ねぢあぐ
空 うする無念さに、貫一が手も折れよとばかり 捩 上 れば、
を
「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」
やかまし
ひとり
「ええ 聒
い。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が 独 で遣つて見せる
から、後学の為に能く見て置き給へ」
かく言捨てて蒲田は片手して
おのれ
ひも あやにく
己 の帯を解かんとすれば、時計の 紐 の 生 憎 に
からま
あせ
絡 るを、 躁 りに躁りて引放さんとす。
ひとり
風「 独 でどうするのだよ」
彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。
こいつ ふんじば
蒲「どうするものか、 此 奴 を 蹈 縛 つて置いて、僕が証書を探すわ」
おだやか
とま
「まあ、余り 穏
でないから、それだけは思ひ 止 り給へ。今間も話を付けると言
つたから」
こいつ
「何か 此 奴 の言ふ事が!」
くるし
しぼ
間は 苦 き声を 搾 りて、
ゆる
「きつと話を付けるから、この手を 釈 してくれ給へ」
こつち
い
風「きつと話を付けるな―― 此 方 の要求を容れるか」
間「容れる」
いつはり
ちからくじ
詐
とは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと 力
挫 けて、
つひ
竟 に貫一を放ちてけり。
かきあつ
かばん
身を起すとともに貫一は落散りたる書類を 掻 聚 め、 鞄 を拾ひてその中に
ねぢこ
あわただし
かへ
捩 込 み、さて 慌
忙 く座に 復 りて、
こんにち
いとま
「それでは 今 日 はこれでお 暇 をします」
蒲田が思切りたる無法にこの長居は
あやふ
危 しと見たれば、心に恨は含みながら、
おもて
かな
い
陽 には 克 はじと閉口して、重ねて難題の出でざる先にとかくは引取らんと為るを、
げすあつかひ
「待て待て」と蒲田は 下 司 扱 に呼掛けて、
い
こつち
「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容れん内は、今度は 此 方 が
かへ
還 さんぞ」
ひざおしむ
つめよ けしき
膝 推 向 けて 迫 寄 る 気 色 は、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。
「きつと要求は容れますけれど、
さつき
あは
嚮 から散々の目に 遭 されて、何だか酷く心持が
ちようざ
悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは 長 座 をいたしてお
邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
たちま
あざわらひ
忽 ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は 冷
笑 して、
くそ かたき
「間、貴様は犬の 糞 で 仇 を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には
これからいつ
とりひし
自 今 毎 でも蒲田が現れて 取 挫 いで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢや
かたき
仇 は取らない」
き
「利いた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、
そこ
何事もその節だ。さあ、僕が其処まで送らう」
おくりいだ
あるじ
い きた
遊佐と風早とは起ちて彼を 送
出 せり。 主 の妻は縁側より入り 来 りぬ。
あなた
ありがた
「まあ、 貴 方 、お蔭様で 難 有 う存じました。もうもうどんなに好い心持でござい
ましたらう」
ちよつ そうし
「や、これは。 些 と 壮 士 芝居といふところを」
よろし
「大相 宜 い幕でございましたこと。お酌を致しませう」
くだん
あたり ろうぜき
かひかひ
件 の騒動にて 四 辺 の 狼 藉 たるを、彼は 効 々 しく取形付けてゐたりしが、
いりく
二人はやがて 入 来 るを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いま
ごゆる
せんけれど、どうぞ貴下方 御 寛 り召上つて下さいまし」
あふ
ひきか
あをいき
く
妻の喜は 溢 るるばかりなるに 引 易 へて、遊佐は 青 息 きて思案に昏れたり。
とつち
あいつ
「弱つた! 君がああして 取 緊 めてくれたのは可いが、この返報に 那 奴 どんな事を
あした
どん さしおさへ
くは
たま
為るか知れん。 明 日 あたり突然と 差
押 などを 吃 せられたら 耐 らんな」
てひど
はらはら
「余り蒲田が 手 酷 い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、 惴 々 してゐたぢ
あとさき
はためいわく
やないか。嘉納流も可いけれど、 後 前 を考へて遣つてくれなくては 他 迷 惑 だ
らうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
たもと
かいさぐ
もめしわ
とりいだ
蒲田は 袂 の中を
撈
りて、 揉 皺 みたる二通の書類を 取 出 しつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」
あるじ
うかが
何ならんと 主 の妻も鼻の下を延べて 窺 へり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
ひらきみ
彼は先づその一通を取りて 披 見 るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる
百円の公正証書謄本なり。
二人は蒲田が案外の物持てるに
おどろか
おのおの
こら
まなこ
驚
されて、
各
息を 凝 してれる 眼 を
うち
ひら
ちかづ
動さず。蒲田も無言の 間 に他の一通を取りて 披 けば、妻はいよいよ 近 きて
さしのぞ
よつ かしら
めぐり ふ
こひ
ひし あつま
差 覗 きつ。四箇の 頭 顱 はラムプの 周 辺 に麩に寄る池の 鯉 の如く 犇 と 聚
れり。
「これは三百円の証書だな」
さき
しる
一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の 前 なる遊佐良橘の名をも 署 したり、蒲
ばねじかけ
をど
田は 弾 機 仕 掛 のやうに 躍 り上りて、
「占めた! これだこれだ」
驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は
しやも はち
鶤 の 鉢 の中にすつぱと落入り、乗出す
ひざがしら ちようし なぎたふ
膝
頭 に 銚 子 を 薙 倒 して、
「僕のかい、僕のかい」
きん はたらき
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、 筋 の 活 動 を失へるやう
いくたび とら
にて 幾 度 も 捉 へ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻は
たちま むねふたが
忽 ち 胸
塞 りて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は
ふ
手の舞ひ、膝の蹈むところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ
ありがた
難 有 い※[#感嘆符三つ、177-14]」
むつ
も
証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と 六 の目を以て子細にこれを点検して、
あきら
その夢ならざるを 明 めたり。
「君はどうしたのだ」
おもて
あき
をそ
風早の 面 はかつ 呆 れ、かつ喜び、かつ 懼 るるに似たり。やがて証書は遊佐夫
ビ゗ル
婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に 麦 酒 の
まん
したた
ぬぐ
いとま
あ
満 を引きし蒲田は「血は大刀に 滴 りて 拭 ふに 遑 あらざる」意気を昂げて、
すご
ねぢふ
あし かきよ
たもと
「何と 凄 からう。奴を 捩 伏 せてゐる中に 脚 で 掻 寄 せて 袂 へ忍ばせたの
はやわざ
だ―― 早 業 さね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
きようげべつでん
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の 教 外 別 伝 さ」
「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」
たいじ
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を 退 治 る材料になると考
ねら かたき
へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが 覘 ふ 敵 の証書ならんとは、
くみ
全く天の善に 与 するところだ」
こつち
ふ
風「余り善でもない。さうしてあれを 此 方 へ取つて了へば、三百円は蹈めるのかね」
おほふ
蒲「 大 蹈 め!
少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
さしつかへな
蒲「あつても 差 支 無 い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、
せいほん
いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この 正 本 さへ引揚げてあれば、間貫一い
じたばた
かつぱ
かわ
くら地動波動したつて『 河 童 の皿に水の 乾 いた』同然、かうなれば無証拠だから、
まるまる
ふびん
おぼしめし
矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、 全 然 蹈むのもさすがに 不 便 との 思
召
を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲
よろし そんそ かん
たいざん
田弁理公使が 宜 く 樽 爼 の 間 に折衝して、遊佐家を 泰 山 の安きに置いて見せ
ああ
る。嗚呼、実に近来の一大快事だ!」
あき
おしいただ
人々の 呆 るるには目も掛けず、蒲田は証書を 推
戴 き推戴きて、
あなた おんど
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、 貴 方 が 音 頭 をお取んなさいまし
よ――いいえ、本当に」
小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引
らち
おんてき
いはひ
受けて見事に 埒 開けんといふに励されて、さては一生の 怨 敵 退散の 賀 と、
おのおのそぞろ すす
あつ
ちようや
ひしめ
各
漫 に 前 む膝を 聚 めて、 長 夜 の宴を催さんとぞ 犇 いたる。
第七章
ぼうぼう
はや
いはん
あたた
茫 々 たる世間に放れて、 蚤 く骨肉の親むべき無く、 況 や愛情の 温 むる
かいぜん
よこた
に会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに 塊 然 として 横 はる石の
しぎさわ
如きものなるべし。彼が 鴫 沢 の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、
やはらか
たのしみ
柔 き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の
楽
をも以外に求むる事
を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として
あきた
慊 らず、母の一部分となし、
いもと
あるひ
な
妹 の一部分となし、 或 は父の、兄の一部分とも為して宮の一身は彼に於ける愉
まどひ
ゆゑ
いちじよう
快なる家族の 団 欒 に値せしなり、 故 に彼の恋は青年を楽む 一
場 の風流の
うるはし
たぐひ
ぶん
お
麗 き夢に似たる 類 ならで、質はその 文 に勝てるものなりけり。彼の宮に於
すべ
むし
けるは 都 ての人の妻となすべき以上を妻として、 寧 ろその望むところ多きに過ぎず
やと思はしむるまでに心に懸けて、
みづから
自
はその至当なるを固く信ずるなりき。彼は
いちじ
さき
この世に一人の宮を得たるが為に、万木 一 時 に花を着くる心地して、 曩 の枯野に夕
は
ぬく
かすみ ゑ
のどか
暮れし石も今将た水に 温 み、 霞 に酔ひて、 長 閑 なる日影に眠る如く覚えけんよ。
その恋のいよいよ急に、いよいよ
こまやか
まさ
濃
になり 勝 れる時、人の最も憎める競争者の
たやす
いか
うちまか
為に、しかも 輙 く宮を奪はれし貫一が心は如何なりけん。身をも心をも 打 委 せ
いつは
おのれ そむ
むなし
詐 ることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く 己 に 反 きて、 空 く他人に
て
いか
さき
嫁するを見たる貫一が心は更に如何なりけん。彼はここに於いて 曩 に半箇の骨肉の親
せいりよう
とどま
むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし 凄
寥 を感ずるのみにて 止 らず、
かさ
のずゑ
こがらし
失望を添へ、恨を 累 ねて、かの塊然たる 野 末 の石は、霜置く上に
凩
の吹誘ひ
うが きた
や
て、皮肉を 穿 ち 来 る人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已まざるなり
かつ
き。実に彼の宮を奪れしは、その 甞 て与へられし物を取去られし上に、与へられざり
あは
し物をも 併 せて取去られしなり。
あるひ
なげう
彼は 或 はその恨を 抛 つべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は
ひとたびいた
きずつ
永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、 一 旦 太 くその心を 傷 けられたるか
とも
の痛苦は、永くその心の存在と 倶 に存在すべければなり。その業務として行はざるべ
し
よ
あひこく
かんいささ
からざる残忍刻薄を自ら強ふる痛苦は、能く彼の痛苦と 相 剋 して、その 間
聊
おもひ
ぬす
やうや
思 を遣るべき余地を 窃 み得るに慣れて、彼は 漸 く忍ぶべからざるを忍びて
か
けいてき あ
かか
為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、 勁 敵 に遇ひ、悪徒に 罹 りて、或
もてあそ
おびやか
いきほひ
弄
ばれ、或は欺かれ、或は
脅
され
勢
毒を以つて制し、暴を以つて
は
か
や
いつ
ますま おそ
易ふるの已むを得ざるより、 一 はその道の習に薫染して、彼は 益 す 懼 れず
むさぼ
むちう
貪 るに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼を 撻 つやうに募ることありて、
きえきえ
あくさく
お
心も 消 々 に悩まさるる毎に、
齷
利を趁ふ力も失せて、彼はなかなか死の安き
おも
やす
むなし
と をは
を 懐 はざるにあらず。唯その一旦にして 易 く、又今の 空 き死を遂げ 了 らんを
かひな
ひとたびさき
ば、いと 効 為 しと思返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう 一 度 前
はら
きようり
と
の失望と恨とを 霽 し得て、 胸 裡 の涼きこと、氷を砕いて明鏡を磨ぐが如く為ざら
ゆふべ
まさ
ひそか
ん、その 夕 ぞ我は 正 に死ぬべきと 私 に慰むるなりき。
いつ
いつ
もうしゆう
貫一は 一 はかの痛苦を忘るる手段として、 一 はその 妄
執 を散ずべき快心の
事を買はんの目的をもて、かくは高利を
むさぼ
ゆふべ
貪 れるなり。知らず彼がその 夕 にして
めい
ふくしゆう
瞑 せんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常 復
讐 の小術を成して、宮に富山に鴫
沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今
すこし
少 く事の大きく男らしくあら
きと
はげし
た
んをば企図せるなり。然れども、痛苦の 劇 く、懐旧の恨に堪へざる折々、彼は熱き
かこ
涙を握りて祈るが如く 嘆 ちぬ。
「、こんな思を為るくらゐなら、いつそ潔く死んだ方が
はるか まし
夐 に 勝 だ。死んでさへ了
むなし
くげん
へば万慮 空 くこの 苦 艱 は無いのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死
やす
ぬのは 易 いが、死ぬことの出来んのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのま
かね
まに胸に納めて死ぬことは出来んのだ。 貨 が有つたら何が面白いのだ。人に言はせた
おれ たくは
かね
い
ら、今 俺 の 貯 へた 貨 は、高が一人の女の宮に換へる価はあると謂ふだらう。俺
かね
せ
には無い! 第一 貨 などを持つてゐるやうな気持さへ為んぢやないか。失望した身に
とりかへ
わ
はその望を 取 復 すほどの宝は無いのだ。、その宝は到底取復されん。宮が今罪を詑
けが
びて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身まで 涜 された宮
もと
はざま
ぜん
は、決して 旧 の宮ではなければ、もう 間 の宝ではない。間の宝は五年 前 の宮だ。
その宮は宮の自身さへ取復す事は出来んのだ。返す返す
こひし
恋 いのは宮だ。かうしてゐ
ま
る間も宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、
ああ
ぜん
え
噫 、鴫沢の宮! 五年 前 の宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮は獲ら
れんのだ!
かね
すくな
かね
思へば 貨 もつまらん。 少 いながらも今の 貨 が熱海へ追つて行つた
かばん
時の 鞄 の中に在つたなら……ええ
」
かしら
あた
頭 も打割るるやうに覚えて、この以上を想ふ 能 はざる貫一は、ここに到りて自
たずみ
失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見の底に
しようよう
そうそう
ほうこう
逍
遙 せし富山が妻との姿は、 双 々 貫一が身辺を 彷 徨 して去らざるなり。
彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為す
か
きゆうてき
より、往々その性の為す能はざるをも為して、仮さざること 仇
敵 の如く、債務を
せま
きは
しりぞ
逼 りて酷を 極 むるなり。 退 いてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、
たちま
はばか
かかつら
忽 ち勢に駆られて断行するを 憚 らざるなり。かくして彼の心に
拘
ふ事あ
おのづか
もと
せい
れば、 自
ら念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、 素 より彼は 正
ぜ
ひ
おのれ ま
を知らずして邪を為し、是を喜ばずして非を為すものにあらざれば、 己 を抂げてこ
ふ
は
おそ
わづか
れを行ふ心苦しさは俯して愧ぢ、仰ぎて 懼 れ、天地の間に身を置くところは、 纔
い
なほひろ
はるか
にその容るる空間だに 猶 濶 きを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、 夐 に忍ぶ
たい
ゆたか
の易く、 体 のまた 胖 なるをさへ感ずるなりけり。
ひたぶる しん
のぶ
いとま
一 向 に 神 を労し、思を費して、日夜これを 暢 るに 遑 あらぬ貫一は、
にくや
さながらしすい
をは
あつ
肉 痩 せ、骨立ち、色疲れて、 宛 然 死 水 などのやうに沈鬱し 了 んぬ。その 攅
まゆ むなし こら
やうや
いよい
めたる 眉 と 空 く 凝 せる目とは、体力の 漸 く衰ふるに反して、精神の 愈
よ興奮するとともに、思の
ますま しげ
か
益 す 繁 く、益す乱るるを、従ひて芟り、従ひて解かん
つひ いか せ
とすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、 竟 に如何に為ばや、と心も砕けつつ打悩め
つややか
あたり そくばく
るを示せり。更に見よ、漆のやうに 鮮 潤 なりし髪は、後脳の 辺 に 若 干 の白
まじ
しわ
よこた
せばま
ひだ
きを 交 へて、額に催せし 皺 の一筋長く 横 はれるぞ、その心の 窄 れる 襞 な
いは
おもて おほ
ますま
らざるべき、 況 んや彼の 面 を 蔽 へる蔭は 益 す暗きにあらずや。
ああ
と
げめん
吁 、彼はその初一念を遂げて、 外 面 に、内心に、今は全くこの世からなる魔道に
お
どんよくかい
こ
ほほ
まも
りこんてん
墜つるを得たりけるなり。 貪 欲 界 の雲は凝りて歩々に厚く 護 り、 離 恨 天 の
ただち そそ
いつぴ
くら
い
雨は随所 直 に 灑 ぐ、 一 飛 一躍出でては人の肉を 啖 ひ、半生半死入りては我と
はらわた つんざ
を
めぐ
膓 を 劈 く。居る所は陰風常に 廻 りて白日を見ず、行けども行けども
むみよう ちようや
あ
なつかし
おもて
無 明 の 長 夜 今に到るまで一千四百六十日、逢へども 可 懐 き友の 面 を知
まじは
かつ なさけ みつ
はるび
らず、 交 れども 曾 て 情 の 蜜 より甘きを知らず、花咲けども 春 日 の
うららか
たのしみきた
うちそむ
よろこ
麗 なるを知らず、 楽
来 れども 打 背 きて 歓 ぶを知らず、道あれど
ふ
くみ
さいはひ
も履むを知らず、善あれども 与 するを知らず、
福
あれども招くを知らず、恵あ
う
むなし
ふけ
うしな
ひとへ
れども享くるを知らず、 空 く利欲に 耽 りて志を 喪 ひ、 偏 に迷執に
もてあそ
つか
ああ
つひ
弄 ばれて思を 労 らす、 吁 、彼は 終 に何をか成さんとすらん。間貫一の名は
やうや
しよくもく
漸 く同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を 属
目 せざるはあらずなりぬ。
た
かの堪ふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸
しきり
げんだんこくそく おのづ
ここ かしこ
うらみ
頻 なる 厳 談 酷 促 は 自 から此処に 彼 処 に債務者の 怨 を買ひて、
く
彼の為に泣き、彼の為に憤るもの
すくな
寡 からず、同業者といへども時としては彼の
あまり
とが
ひと
余 に用捨無きを 咎 むるさへありけり。 独 り鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒
いだ
おのれ こんにち
いま
を 出 さざるを誇れるなり。彼は 己 の 今 日 あるを致せし辛抱と苦労とは、 未
かくのごと
しばし
だ 如
此 くにして足るものならずとて、 屡 ばその例を挙げては貫一をし、飽く
つと
まで彼の意を強うせんと 勉 めき。これが為に慰めらるるとにはあらねど、その行へる
残忍酷薄の人の道に欠けたるを知らざるにあらぬ貫一は、職業の性質既に不法なればこ
れを営むの非道なるは必然の
ことわり
おのれ な
すべ
理
にて、 己 の為すところは 都 ての同業者の為
おのれいちにん
すところにて、 己 一 人 の残刻なるにあらず、高利貸なる者は、世間一様に
かくのごと
おも
ゆゑ
如
此 く残刻ならざるべからずと 念 へるなり。 故 に彼は決して己の所業のみ
ひと うらみ
独 り 怨 を買ふべきにあらずと信じたり。
げ
から
なかば
実に彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼の 辛 うじてその 半 を想ひ得る残刻と、
つひ
あた
きつさ
こんにち
終 に学ぶ 能 はざる 譎 詐 とを左右にして、始めて 今 日 の富を得てしなり。この
点に於ては彼は一も二も無く貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と
きつさ
ほしいまま
おそ
はばか
ごうこつ
譎 詐 とを
擅
にして、なほ天に 畏 れず、人に 憚 らざる不敵の 傲 骨 あ
ひそか いまし
い
るにあらず。彼は 密 に 警 めて多く夜出でず、内には神を敬して、得知れぬ教会
をし
きゆうきゆう
の大信者となりて、奉納寄進に財を 吝 まず、唯これ身の無事を祈るに 汲
々 と
はかりごと
して、自ら安ずる
計
をなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の
まさ
おんかみ みようご かたじけ
全きを得るは、 正 にこの信心の致すところと仕へ奉る 御 神 の 冥 護 を
辱
お
きつさ
なみて措かざるなりき。貫一は彼の如く残刻と 譎 詐 とに勇ならざりけれど、又彼の如
きよ
いつ かつ
く敬神と閉居とに 怯 ならず、身は人と生れて人がましく行ひ、 一 も 曾 て犯せる事
かへ
いつは
のあらざりしに、天は 却 りて己を罰し人は却りて己を 詐 り、終生の失望と遺恨と
みだり だんちよう をの ふる
し
濫 に 断
膓 の 斧 を 揮 ひて、死苦の若かざる絶痛を与ふるを思ひては、彼
は
おそ
せ
はよし天に人に憤るところあるも、 懼 るべき無しと為るならん。貫一の最も懼れ、最
みづから
も憚るところは 自
の心のみなりけり。
第八章
ま
にべな いとまごひ
しば
とどめお
用談果つるを俟ちて貫一の魚膠無く 暇
乞 するを、満枝は 暫 しと 留 置 きて、
い
ことば
い こ
用有りげに奥の間にぞ入りたる。その 言 の如く暫し待てども出で来ざれば、又
まきたばこ とりいだ
てあぶり
おほかみ ふん
巻
莨 を 取 出 しけるに、 手 炉 の炭は
狼
の 糞 のやうになりて、いつ
たんざ
いしがさ
か火の気の絶えたるに、 檀 座 に毛糸の敷物したる 石 笠 のラムプのを仮りて、貫一
せ
けふり
あかがし
は為う事無しに 煙 を吹きつつ、この 赤 樫 の客間を夜目ながらしつ。
ふくろだな
袋
棚 なる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、
しつぽうやきまがひ いちりんざし ろうせき
みづいろちりめん
その下は 七 宝 焼 擬 の 一 輪 挿 、 蝋 石 の飾玉を 水 色 縮 緬 の
みつがさね しとね
かけはないれ
はやぶさ
三
重 の 褥 に載せて、床柱なる水牛の角の 懸 花 入 は松に
隼
の勧工
まきゑきんきん
いもの
わるふる
くす
場 蒔 絵 金 々 として、花を見ず。 鋳 物 の香炉の 悪 古 びに 玄 ませたると、
はぶたへ
はなかたみ
うちゆう
ひきかきまは
羽 二 重 細工の 花
筐 とを床に飾りて、 雨 中 の富士をば 引 攪 旋 したるや
うに落墨して、金泥精描の
のぼりりゆう めぬき
くもま かがや
騰
竜 は 目 貫 を打つたるかとばかり 雲 間 に 耀
よこもの
かしら めぐ
こうかい
ける 横 物 の一幅。 頭 を 回 らせば、に 黄 海 大海戦の一間程なる水彩画を掲
すみ
ふたばち
げて座敷の 隅 には 二 鉢 の菊を据ゑたり。
いできた
えりか
こそで
やや有りて 出 来 れる満枝は服を改めたるなり。糸織の 衿 懸 けたる 小 袖 に
なんど
しつちん くろじゆす
はで
納 戸 小紋の縮緬の羽織着て、 七 糸 と 黒 繻 子 との昼夜帯して、華美なるシオウ
なでつ
おぼし
おもて
よそほ
ルを携へ、髪など 撫 付 けしと 覚 く、 面 も見違ふやうに軽く 粧 ひて、
「大変失礼を致しました。
ちよつ わたくし そこ
些 と
私
も其処まで買物に出ますので、実は御一緒
に願はうと存じまして」
無礼なりとは思ひけれど、口説れし
よしみ
誼 に貫一は今更腹も立て難くて、
「ああさうですか」
満枝はつと寄りて声を低くし、
「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」
い
聴き飽きたりと謂はんやうに彼は取合はで、
あなた どちら
いで
「それぢや参りませう。 貴 方 は 何 方 までお 出 なのですか」
わたくし おおよこちよう
私
は 大 横 町 まで」
「
よつやさもんちよう
い
てんまちようどおり
二人は打連れて 四 谷 左 門 町 なる赤樫の家を出でぬ。 伝 馬 町 通 は両
ともし つら
ま
はなはだし
側の店に 燈 を 列 ねて、未だ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒の
甚
ゆきき まれ
ければ、 往 来 も 稀 に、空は星あれどいと暗し。
「何といふお寒いのでございませう」
「さやう」
「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくても
よろし
宜 いぢやございません
とど
か。それではお話が 達 きませんわ」
すりよ
彼は町の左側をこたびは貫一に 擦 寄 りて歩めり。
わたくし
にく
「これぢや 私
が歩き 難 いです」
「貴方お寒うございませう。私お
かばん
鞄 を持ちませう」
「いいや、どういたして」
あなた
ごゆつく
いき
「 貴 方 恐入りますが、もう少し 御 緩 りお歩きなすつて下さいましな、私呼吸が切
れて……」
や
きおも
ゆりあ
已む無く彼は加減して歩めり。満枝は 着 重 るシォウルを 揺 上 げて、
とう
ちよつ
「 疾 から是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後 些 とも
たま
お目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当に 偶 にはお遊びにいらしつて下さ
せんだつて
ち
いましな。私もう決して 先 達 而 のやうな事は再び申上げませんから。些といらしつ
て下さいましな」
ありがた
「は、 難 有 う」
「お手紙を上げましても宜うございますか」
「何の手紙ですか」
ごきげんうかがひ
「 御 機 嫌 伺 の」
「貴方から機嫌を伺はれる訳が無いぢやありませんか」
こひし
「では、 恋 い時に」
「貴方が何も私を……」
「恋いのは私の勝手でございますよ」
「然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お
ことわり
辞
をします」
わにぶち
「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、 鰐 淵 さんの事に就き
ましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存
じまして、……」
と
てんまちよう
ま
唯見れば 伝 馬 町 三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝を撒かんと思
せ
たちどま
ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈為ずして 立 住 りつ。
「それぢや私はここで失礼します」
い
くら
い
その不意に出でて貫一の 闇 き横町に入るを、
あなた そちら
「あれ、 貴 方 、 其 方 からいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、
さびし
いで
こつち
わざわざ、そんな 寂 い道をお 出 なさらなくても、 此 方 の方が順ではございませ
んか」
満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。
こつち
「なあに、 此 方 が余程近いのですから」
いくら
にぎや
「 幾 多 も違ひは致しませんのに、 賑 かな方をいらつしやいましよ。私その代り四
みつけ
谷 見 附 の所までお送り申しますから」
いただ
ふ
「貴方に送つて 戴 いたつて為やうが無い。夜が更けますから、貴方も早く買物を為
すつてお帰りなさいまし」
ためごかし おつしや
よろし
「そんなお 為
転 を 有 仰 らなくても 宜 うございます」
しらずしらず
かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、 不 知 不 識
そなた
たちすく
其 方 に歩ませられし満枝は、やにはに 立 竦 みて声を揚げつ。
ちよつ
些 と」
「ああ! 間さん
「どうしました」
みちわる
しま
はきもの
「 路 悪 へ入つて 了 つて、 履 物 が取れないのでございますよ」
い
「それだから貴方はこんな方へお出でなさらんが可いのに」
きた
彼は渋々寄り 来 れり。
はばかりさま
憚
様 ですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」
「
たすけ
ぬかるみ
シォウルの外に 援 を求むる彼の手を取りて引寄すれば、女はきつつ 泥 濘 を出
もた
でたりしが、力や余りけん、身を支へかねてと貫一に 靠 れたり。
「ああ、危い」
あなた せゐ
「転びましたら 貴 方 の所為でございますよ」
「馬鹿なことを」
たす
くぎつけ
ひ
彼はこの時 扶 けし手を放たんとせしに、 釘 付 などにしたらんやうに曳けども振
おもて うかが
うちそむ
面 を 窺 へるなり。満枝は 打 背 けたる顔の
れども得離れざるを、怪しと女の
なかば
はし
いよい
し
半 をシオウルの 端 に包みて、握れる手をば 弥 よ固く緊めたり。
「さあ、もう放して下さい」
ますま
そで
益 す緊めて 袖 の中へさへ曳入れんとすれば、
「貴方、馬鹿な事をしては可けません」
ひとこと
ますます
かた
女は 一 語 も言はず、面も背けたるままに、その手は
益
放たで男の行く 方
に歩めり。
「常談しちや可かんですよ。さあ、
うしろ
後 から人が来る」
よろし
宜 うございますよ」
「
ひとりご
いよいよ
こら
独 語 つやうに言ひて、満枝は
弥
寄添ひつ。貫一は 怺 へかねて力任せに
うん
吽 と曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。
いた
「あ、 痛 !
ひど
そこ
そんな 酷 い事をなさらなくても、其処の角まで参ればお放し申します
から、もう少しの間どうぞ……」
「好い加減になさい」
あらら
ひつぱら
ひま
すりぬ
はや
と 暴 かに 引 払 ひて、寄らんとする 隙 もあらせず 摩 脱 くるより足を 疾 め
つのかみざか ましぐら
て 津 守 坂 を 驀 直 に下りたり。
とかま
らんうん か
こずゑ いただき しばら
やうやう昇れる 利 鎌 の月は 乱 雲 を芟りて、き 梢 の
頂
に 姑 く掛れ
いちまつ やみ
り。 一 抹 の 闇 を透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の
かたわれ
ものう
おぼつか
あらは
片 割 とは、 懶 く寝覚めたるやうに 覚 束 なき形を 顕 しぬ。坂上なる巡査
ともし むなし けつこう
派出所の 燈 は 空 く 血 紅 の光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の
つひ
姿も 終 に見えず。
(八)の二
かたかはまち
さかまち のきなみ とざ
いづこ すきも ひかげ
片 側 町 なる 坂 町 は 軒 並 に 鎖 して、 何 処 に 隙 洩 る 火 影 も見えず、
がいさく おひしげ むらまつ さつさつ
な
したみち
旧砲兵営の 外 柵 に 生 茂 る 群 松 は 颯 々 の響を作して、その 下 道 の
をぐら
ごいさぎ たまき
まさ
なんな
小 暗 き空に 五 位 鷺 の 魂 切 る声消えて、夜色愁ふるが如く、 正 に十一時に 垂
んとす。
たちま
あた
くせもの
忽 ち兵営の門前に 方 りて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の 曲 者 に囲れた
いちにん
つば まぶか ひきおろ
ねずみいろ
るなり。 一 人 は黒の中折帽の 鐔 を 目 深 に 引 下 し、 鼠
色 の毛糸の
えりまき
つつ
したばき
衿 巻 に半面を 裹 み、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの 下 穿 高々と
しりからげ
くろたび
せつた は
ろくぶづよ
いろき
をれ
尻
して、 黒 足 袋 に木裏の 雪 踏 を履き、 六 分 強 なる 色 木 の弓の 折 を
つゑ
めくらじま ももひきはらがけ
とうざん はんてん
杖 にしたり。他は 盲
縞 の 股 引 腹 掛 に、 唐 桟 の 半 纏 着て、茶ヅ
ふかぐつ うが
ほほかぶり とりうちぼうし
ックの 深 靴 を 穿 ち、衿巻の 頬
冠 に 鳥 撃 帽 子 を頂きて、六角に
けずりな
びんろうじ
ひんだ
みのたけ
削 成 したる 檳 榔 子 の逞きステッキを 引 抱 き、いづれも 身 材 貫一よりは低
わかもの
けれど、血気腕力兼備と見えたる 壮 佼 どもなり。
「物取か。恨を受ける覚は無いぞ!」
ささ
「黙れ!」と弓の折の寄るを貫一は片手に 障 へて、
あひて
かね
「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に 敵 手 にならう。物取ならば 財 はくれる、
訳も言はずに無法千万な、待たんか!」
ふりおろ
たかほほ はつし
めくるめ
答は無くて 揮 下 したる弓の折は貫一が 高 頬 を 発 矢 と打つ。
眩
きつつ
にげ
おひせま
くだん
あたり
も 迯 行くを、猛然と 追 迫 れる檳榔子は、 件 の杖もて片手突に肩の 辺 を
えい
こた
レ゗ル つまづ
たふ
曳 と突いたり。踏み 耐 へんとせし貫一は水道工事の 鉄 道 に 跌 きて 仆 るるを、
つけい
あまり はや
得たりと 附 入 る曲者は、 余 に 躁 りて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの
あなた はずみ
いりかは
そびら
彼 方 に 反 跳 を打ちて投飛されぬ。 入 替 りて一番手の弓の折は貫一の 背 を
けさがけ
くづを
ひま
袈 裟 掛 に打据ゑければ、起きも得せで、 崩 折 るるを、畳みかけんとする 隙 に、手
ぬぎす
こまげた
おもて
ちよう
元に 脱 捨 てたりし 駒 下 駄 を取るより早く、彼の 面 を望みて投げたるが、 丁
あた
ひる
はねお
うちこ
と 中 りて 痿 むその時、貫一は 蹶 起 きて三歩ばかりもれしを 打 転 けし檳榔子の
をど かか
をがみうち おろ
こびん かす
すべ
かばん
躍 り 蒐 りて、 拝
打 に 下 せる杖は 小 鬢 を 掠 り、肩を 辷 りて、 鞄 持
ちぎ
う
から
の
みがまへ
つ手を 断 れんとすばかりに撲ちけるを、 辛 くも忍びてつと退きながら 身 構 しが、
めつぶしくら
いかり な
きた
あやふ
目 潰 吃 ひし一番手の 怒 を作して奮進し 来 るを見るより今は 危 しと鞄の
こがたなかいさぐ
はせい
たやす
しもと
中なる 小 刀
撈
りつつ 馳 出 づるを、 輙 く肉薄せる二人が 笞 は雨の如
ところきら
めつたうち
あへな
こんとう
く、 所 嫌 はぬ 滅 多 打 に、彼は 敢 無 くも 昏 倒 せるなり。
檳「どうです、もう可いに為ませうか」
こいつ
はなづら
いた
弓「 此 奴 おれの 鼻 面 へ下駄を打着けよつた、ああ、 痛 」
かきの
な
あけ
たうがらし つ
衿巻 掻 除 けて彼の撫でたる鼻は 朱 に染みて、西洋 蕃
椒 の熟えたるに異らず。
はなぢ
檳「おお、大変な 衂 ですぜ」
しか
かきいだ
さかて
貫一は息も絶々ながら 緊 と鞄を 掻 抱 き、右の 逆 手 に小刀を隠し持ちて、この
ろうぜき
せ
てい よそほ
上にも 狼 藉 に及ばば為んやう有りと、油断を計りてわざと為す無き 体 を 装 ひ、
ひたうめ
直 呻 きにぞ呻きゐたる。
う
弓「憎い奴じや。然し、随分撲つたの」
檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」
弓「もう引揚げやう」
い
から
おもて あ
かくて曲者は間近の横町に入りぬ。 辛 うじて 面 を擡げ得たりし貫一は、一時に
いたみ
やうや
しばし
発せる全身の 疼 通 に、精神 漸 く乱れて、 屡 ば前後を覚えざらんとす。
[#改ページ]
後編
第一章
さかまち
ゕ゗ス
うち はざま
翌々日の諸新聞は 坂 町 に於ける高利貸遭難の一件を報道せり。 中 に 間 貫一
わにぶちただゆき せ
を誤りて 鰐 淵 直 行 と為るもありしが、負傷者は翌日大学第二医院に入院したり
とのみは、一様に事実の真を伝ふるなりけり。されどその人を誤れる報道は決して何等
し
けんか
の不都合をも生ぜざるべし。彼等を識らざる読者は湯屋の 喧 嘩 も同じく、三ノ面記事
じようとう
みすご
いとま
あひて たれたれ
の 常
套 として 看 過 すべく、何の 遑 かその 敵 手 の 誰 々 なるを問はん。
き
うちのめ
識れる者は恐くは、貫一も鰐淵も一つに足腰の利かずなるまで
撃
されざりしを
ほいな
本意無く思へるなるべし。又或者は彼の即死せざりしをも物足らず覚ゆるなるべし。下
な
わざ
しる
手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣より為せる 業 ならんとは、諸新聞の 記
せる如く、人も皆思ふところなりけり。
直行は今朝病院へ見舞に行きて、妻は患者の容体を案じつつ留守せるなり。夫婦は心
あは
かなし
つひえ
をし
てあて
を 協 せて貫一の災難を 悲 み、何程の 費 をも 吝 まず 手 宛 の限を加へて、
すこし きず
のこ
少 小 の 瘢 をも 遺 さざらんと祈るなりき。
ここう たの
股 肱 と 恃 み、我子とも思へる貫一の遭難を、主人はなかなかその身に受けし
やみうち
みせしめ
闇 打 のやうに覚えて、無念の止み難く、かばかりの事に屈する鰐淵ならぬ 令 見
めざまし
まかな
の為に、彼が入院中を 目 覚 くも厚く 賄 ひて、再び手出しもならざらんやう、
かげ
ひきようもの
と
くるはし
つく
陰 ながら 卑 怯 者 の息の根を遏めんと、気も
狂
く力を 竭 せり。
い きた
おもひすご
彼の妻は又、やがてはかかる不慮の事の夫の身にも出で 来 るべきを 思
過 して、
も
いか
す
くちを
若しさるべからんには如何にか為べき、この悲しさ、この 口 惜 しさ、この心細さにて
や
そらおそろし
とど
は止まじと思ふに就けて、 空 可 恐 く胸の打騒ぐを 禁 め得ず。奉公大事ゆゑに
うらみ
あ
わざはひ
あだ
あはれ
怨 を結びて、憂き目に遭ひし貫一は、夫の
禍
を転じて身の 仇 とせし 可 憫
しみじみありがた
おも
さを、日頃の手柄に増して 浸 々 難 有 く、かれを 念 ひ、これを思ひて、
したたか
は
おそ
やまし
絶 に心弱くのみ成行くほどに、裏に愧づること、 懼 るること、 疚 きことな
おさ
たちま わきた
をどりい
た
どの常に 抑 へたるが、 忽 ち 涌 立 ち、 跳 出 でて、その身を責むる痛苦に堪へ
ざるなりき。
かは
ろうみよう およ こいぬ
かたまり
年久く 飼 るる 老
猫 の 凡 そ 子 狗 ほどなるが、棄てたる雪の
塊
のやう
ながひばち ねこいた
うづくま
かたしおと
つまさき
に 長 火 鉢 の 猫 板 の上に
蹲
りて、前足の 隻
落 して 爪 頭 の灰に
うづも
か
うまい
とりこみ
埋 るるをも知らず、をさへ掻きて 熟 睡 したり。妻はその夜の 騒 擾 、次の日の
きづかれ
ここち
気 労 に、血の道を悩める 心 地 にて、となりては驚かされつつありける耳元に、
こうし ベル とどろ
かへり
ふすま
格 子 の 鐸 の 轟 きければ、はや夫の 帰 来 かと疑ひも果てぬに、 紙 門 を開きて
あらは
としのころ
たけ
あを
顕 せる姿は、 年
紀 二十六七と見えて、身材は高からず、色やや 蒼 き
やせがほ むづか
くちひげたくまし
お
ふかふか
痩 顔 の 険 しげに 口
髭
逞 く、髪の生ひ乱れたるに 深 々 と紺ネルト
にじゆうまわし えり
ンの 二 重 外 套 の 襟 を立てて、黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。高き鼻に
べつこうぶち
はさ
かど
まなざし
鼈 甲 縁 の眼鏡を 挿 みて、 稜 ある 眼 色 は見る物毎に恨あるが如し。
おももち
たた
妻は思設けぬ 面 色 の中に喜を 漾 へて、
ただみち
いで
「まあ 直 道 かい、好くお 出 だね」
かたすみ がいとう
くろあや
あたらし
片 隅 に 外 套 を脱捨つれば、彼は 黒 綾 のモオニングの
新
からぬに、
こいなんどじ くろじま ズボン ゆたか
きよら
ゴム
濃 納 戸 地 に 黒 縞 の 穿 袴 の 寛 なるを着けて、 清 ならぬ護謨のカラ、カ
ねずみいろ もんじゆす えりかざり
いそいそ
フ、 鼠 色 の 紋 繻 子 の 頸
飾 したり。妻は 得 々 起ちて、その外套を柱
をりくぎ
の 折 釘 に懸けつ。
おとつ
「どうも取んだ事で、 阿 父 さんの様子はどんな?
今朝新聞を見ると
おどろ
愕 いて飛ん
ようだい
で来たのです。 容 体 はどうです」
の
せは
とひい
彼は時儀を叙ぶるにばずして 忙 しげにかく 問 出 でぬ。
なさ
「ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうも 作 りはしないわね」
おほけが なす
「はあ? 坂町で 大 怪 我 を 為 つて、病院へ入つたと云ふのは?」
はざま
「あれは 間 さ。阿父さんだとお思ひなの?
いや
可厭だね、どうしたと云ふのだらう」
ちやん
「いや、さうですか。でも、新聞には 歴 然 とさう出てゐましたよ」
さつき
「それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは 先 之 病院へ見舞にお出掛だから、
かへり
ゆつくり
いで
間も無くお 帰 来 だらう。まあ 寛 々 してお 在 な」
あまり
えせ あぜん
かくと聞ける直道は 余 の不意に拍子抜して、喜びも得為ず 唖 然 たるのみ。
や
「ああ、さうですか、間が遣られたのですか」
かあい
「ああ、間が 可 哀 さうにねえ、取んだ災難で、大怪我をしたのだよ」
ひど
「どんなです、新聞には余程 劇 いやうに出てゐましたが」
かたは
すつかりよ
「新聞に在る通だけれど、 不 具 になるやうな事も無いさうだが、 全 然 快くなるに
みつき
かか
は 三 月 ぐらゐはどんな事をしても 要 るといふ話だよ。誠に気の毒な、それで、
おとつ
てあて
阿 父 さんも大抵な心配ぢやないの。まあ、ね、病院も上等へ入れて 手 宛 は十分にし
きづかひ
てあるのだから、決して 気 遣 は無いやうなものだけれど、何しろ大怪我だからね。
くだ
ぶらぶら
しま
左の肩の骨が少し 摧 けたとかで、手が 緩 縦 になつて 了 つたの、その外紫色の
あざ
めめずばれ
ぶつき
すりこは
きず
痣 だの、 蚯 蚓 腫 だの、 打 切 れたり、 擦 毀 したやうな負傷は、お前、体一面
あたま ぶた
なのさ。それに気絶するほど 頭 部 を 撲 れたのだから、脳病でも出なければ可いつて、
いで
あんばい
お医者様もさう言つてお 在 ださうだけれど、今のところではそんな 塩 梅 も無いさ
かつぎこ
ほん
うだよ。何しろその晩内へ 舁 込 んだ時は半死半生で、 些 の虫の息が通つてゐるば
わたし
かり、 私 は一目見ると、これはとても助るまいと想つたけれど、割合に人間といふ
ものは丈夫なものだね」
「それは災難な、気の毒な事をしましたな。まあ十分に手宛をして遣るが可いです。さ
うして阿父さんは何と言つてゐました」
「何ととは?」
やみうち
「間が 闇 打 にされた事を」
あひて かしきん
まぎれ
まね
「いづれ 敵 手 は 貸 金 の事から遺趣を持つて、その悔し 紛 に無法な真似をした
いで
おとなし
のだらうつて、大相腹を立ててお 在 なのだよ。全くね、間はああ云ふ不断の 大 人
けんか
きづかひ
い人だから、つまらない 喧 嘩 なぞを為る 気 遣 はなし、何でもそれに違は無いのさ。
なほさら
い
それだから 猶 更 気の毒で、何とも謂ひやうが無い」
おとつ
「間は若いから、それでも助るのです、 阿 父 さんであつたら命は有りませんよ、
おつか
阿 母 さん」
いや
「まあ可厭なことをお言ひでないな!」
しみじみ
しづか
うらめし
浸 々 思入りたりし直道は 徐 にその
恨
き目を挙げて、
ま
や
「阿母さん、阿父さんは未だこの家業をお廃めなさる様子は無いのですかね」
母は苦しげに鈍り鈍りて、
わたし
よ
私 には能く解らないね……」
「さうねえ……別に何とも……
むくい
あ
「もう今に 応 報 は阿父さんにも……。阿母さん、間があんな目に遭つたのは、決して
人事ぢやありませんよ」
「お前又阿父さんの前でそんな事をお言ひでないよ」
「言ひます! 今日は是非言はなければならない」
これまで
「それは言ふも可いけれど、 従 来 も随分お言ひだけれど、あの気性だから阿父さん
ちつと
ひと
些 もお聴きではないぢやないか。とても 他 の言ふことなんぞは聴かない人なの
は
つぶ
いで
だから、まあ、もう少しお前も目を 瞑 つてお 在 よ、よ」
わたし
つぶ
私 だつて親に向つて言ひたくはありません。大概の事なら目を 瞑 つてゐたいの
「
だけれど、実にこればかりは目を瞑つてゐられないのですから。始終さう思ひます。私
は外に何も苦労といふものは無い、唯これだけが苦労で、考出すと夜も寝られないので
す。外にどんな苦労が在つても可いから、どうかこの苦労だけは
なくな
しま
没 して 了 ひたい
つくづ
ああ
ま
はるか
熟 く思ふのです。 噫 、こんな事なら未だ親子で乞食をした方が 夐 に可い」
と
うつむ
とも
あるひ
倆 きぬ。母はその身も 倶 に責めらるる想して、 或 は
彼は涙を浮べて
はづかし
いまはし
くるし
た
すべ
可 慚 く、或は 可 忌 く、この 苦 き位置に在るに堪へかねつつ、言解かん 術
や
からう
うちいだ
さへ無けれど、とにもかくにも言はで已むべき折ならねば、 辛 じて 打 出 しつ。
「それはもうお前の言ふのは
もつとも
おとつ
まる きあひ
尤
だけれど、お前と 阿 父 さんとは 全 で 気 合 が
かんがへ
はら
違ふのだから、万事 考 量 が別々で、お前の言ふ事は阿父さんの 肚 には入らず、ね、
い
又阿父さんの為る事はお前には不承知と謂ふので、その中へ入つて私も困るわね。内も
かね
や
今では相応にお 財 も出来たのだから、かう云ふ家業は廃めて、楽隠居になつて、お前
もら
に嫁を 貰 つて、孫の顔でも見たい、とさう思ふのだけれど、ああ云ふ気の阿父さんだ
おこ
から、そんなことを言出さうものなら、どんなに 慍 られるだらうと、それが見え透い
うつかり
かあい
てゐるから、 漫 然 した事は言はれずさ、お前の心を察して見れば 可 哀 さうではあ
どつち
り、さうかと云つて 何 方 をどうすることも出来ず、陰で心配するばかりで、何の役に
も立たないながら、これでなかなか苦いのは私の身だよ。
さぞお前は気も済まなからうけれど、とても今のところでは何と言つたところが、応
と承知をしさうな様子は無いのだから、
なまじ
憖 ひ言合つてお互に心持を悪くするのが
おち
果 だから、……それは、お前、何と云つたつて親一人子一人の中だもの、阿父さんだ
つて心ぢやどんなにお前が
たより
つまり
便 だか知れやしないのだから、 究 竟 はお前の言ふ事も
聴くのは知れてゐるのだし、阿父さんだつて現在の子のそんなにまで思つてゐるのを、
おとつ
そこ
りようけん
決して心に掛けないのではないけれども、又 阿 父 さんの方にも其処には 了
簡 が
あつて、一概にお前の言ふ通にも成りかねるのだらう。
それに今日あたりは、間の事で大変気が立つてゐるところだから、お前が何か言ふと
かへ
そつ
お
却 つて善くないから、今日は 窃 として措いておくれ、よ、本当に私が頼むから、ね
え直道」
げ
いたばさみ
実に母は自ら言へりし如く、 板
挾 の難局に立てるなれば、ひたすら事あらせじ
さと
た
はなめがね
と、誠の一図に直道を 諭 すなりき。彼は涙の催すに堪へずして、 鼻 目 鏡 を取捨て
おしぬぐ
むせ
て目を 推 拭 ひつつ猶 咽 びゐたりしが、
おつか
こら
「 阿 母 さんにさう言れるから、私は不断は 怺 へてゐるのです。今日ばかり存分に言
あ
はして下さい。今日言はなかつたら言ふ時は有りませんよ。間のそんな目に遭つたのは
天罰です、この天罰は阿父さんも今に免れんことは知れてゐるから、言ふのなら今、今
言はんくらゐなら私はもう一生言ひません」
おびやか
そぞろ
はなうちか
母はその一念に 脅
されけんやうにて 漫 寒きを覚えたり。 洟 打 去 みて直
ことば
道は 語 を継ぎぬ。
わたし
「然し 私 の仕打も善くはありません、阿父さんの方にも言分は有らうと、それは自
けが
分で思つてゐます。阿父さんの家業が気に入らん、意見をしても用ゐない、こんな 汚
いや
いか
れた家業を為るのを見てゐるのが可厭だ、と親を棄てて別居してゐると云ふのは、如何
にも情合の無い話で、実に私も心苦いのです。決して人の子たる道ではない、さぞ不孝
いで
者と阿父さん始阿母さんもさう思つてお 在 でせう」
「さうは思ひはしないよ。お前の方にも理はあるのだから、さうは思ひはしないけれど、
いつしよ
一 処 に居たらさぞ好からうとは……」
なほ
いや
ひとり
「それは、私は 猶 の事です。こんな内に居るのは可厭だ、別居して 独 で遣る、と
わがまま
我 儘 を言つて、どうなりかうなり自分で暮して行けるのも、それまでに教育して貰
たれ
みんな
おとつ
つたのは 誰 のお陰かと謂へば、 皆 親の恩。それもこれも知つてゐながら、 阿 父
さんを踏付にしたやうな
おこなひ
おつか
よくよく
行
を為るのは、 阿 母 さん 能 々 の事だと思つて下さ
さから
きら
い。私は親に 悖 ふのぢやない、阿父さんと一処に居るのを 嫌 ふのぢやないが、私
いやし
だいきらひ
なや
おのれ こや
は金貸などと云ふ 賤 い家業が 大
嫌 なのです。人を 悩 めて 己 を 肥
す――浅ましい家業です!」
ふる
かきく
いたたま
身を 顫 はして彼は涙に 掻 昏 れたり。母は 居 久 らぬまでに惑へるなり。
すご
めんぼく
「親を 過 すほどの芸も無くて、生意気な事ばかり言つて実は 面 目 も無いのです。
然し不自由を辛抱してさへ下されば、両親ぐらゐに
ひもじ
さ
乾 い思はきつと為せませんから、
あばらや
ささ
破 屋 でも可いから親子三人一所に暮して、人に後指を 差 れず、罪も作らず、
うらみ
かね
怨 も受けずに、清く暮したいぢやありませんか。世の中は 貨 が有つたから、それ
で可い訳のものぢやありませんよ。まして非道をして
こしら
かね
かね
拵 へた 貨 、そんな 貨 が何
たのみ
しんじよう
頼 になるものですか、必ず悪銭身に附かずです。無理に仕上げた 身
上 は一
の
代持たずに滅びます。因果の報う
ためし
例 は恐るべきものだから、一日でも早くこんな家
や
ああ
業は廃めるに越した事はありません。 噫 、末が見えてゐるのに、情無い事ですなあ!」
てきめん
うれ
お
まなこ
うらみ
積悪の応報 覿 面 の末を 憂 ひて措かざる直道が心の 眼 は、無残にも 怨 の
やいば つんざか
おうし
さら
まみ
刃 に
劈
れて、路上に 横 死 の恥を 暴 せる父が死顔の、犬にられ、泥に 塗
ふるむしろ
まくら
まざまざ
れて、 古
蓆 の陰に 枕 せるを、怪くも 歴 々 と見て、恐くは我が至誠の
かがみ
さながら
いだ
あやま
鑑 は父が未然を 宛 然 映し 出 して 謬 らざるにあらざるかと、事の
まのあたり
ほとばし
目
前 の真にあらざるを知りつつも、余りの浅ましさに我を忘れてつと
迸
る
なきごゑ
くひし
く
哭 声 は、 咬 緊 むる歯をさへ漏れて出づるを、母は驚き、途方に昏れたる折しも、
かど くるま とどま
ベル
かへり
ついで
門 に 俥 の 駐 りて、格子の 鐸 の鳴るは夫の 帰 来 か、 次 手 悪しと胸を
とどろ
うごか
轟 かして、直道の肩を揺り 動 しつつ、声を潜めて口早に、
かへり
あつち
「直道、阿父さんのお 帰 来 だから、泣いてゐちや可けないよ、早く 彼 方 へ行つ
て、……よ、今日は後生だから何も言はずに……」
きた
あわ
た
ふすま
はや足音は次の間に 来 りぬ。母は 慌 てて出迎に起てば、一足遅れに 紙 門 は外よ
あるじ
からだ のつそり
かたごし あらは
り開れて 主 直行の高く幅たき 躯 は 岸 然 とお峯の 肩 越 に 顕 れぬ。
(一)の二
いつ
「おお、直道か珍いの。何時来たのか」
つやつや あから
はちわれ
かく言ひつつ彼は 艶 々 と 赭 みたる 鉢 割 の広き額の陰に小く点せる
かねつぼまなこ こころよ
がいとう ぬが
金 壺 眼 を 心 快 げにきて、妻が例の如く 外 套 を 脱 するままに立てり。
ことば かど
おもひはか
お峯は直道が 言 に 稜 あらんことを
慮
りて、さり気無く自ら代りて答へつ。
さつき
あなた
よ
「もう少し 先 でした。 貴 君 は大相お早かつたぢやありませんか、丁度好ございま
したこと。さうして間の容体はどんなですね」
しあはせ
「いや、 仕 合 と想うたよりは軽くての、まあ、ま、あの分なら心配は無いて」
くろいちらく みつもん
わたいればおり えもん
きげん
黒 一 楽 の 三 紋 付けたる 綿 入 羽 織 の 衣 紋 を直して、彼は 機 嫌 好く
ひばち そば
やうや おもて あ
な
火 鉢 の 傍 に歩み寄る時、直道は 漸 く 面 を抗げて礼を作せり。
「お前、どうした、ああ、妙な顔をしてをるでないか」
しゆろ
くちひげ かいひね
ふとみじか
まゆ
梭 櫚 の毛を植ゑたりやとも見ゆる 口 髭 を 掻 拈 りて、 太
短 なる 眉 を
ひそ
はつ
やいば
き
顰 むれば、聞ゐる妻は 呀 とばかり、 刃 を踏める心地も為めり。直道は屹と振仰
ゐたけだか
おもて
ぐとともに両手を胸に組合せて、 居 長 高 になりけるが、父の 面 を見し目を伏せ
しづか
て、さて 徐 に口を開きぬ。
おとつ
なす
「今朝新聞を見ましたところが、 阿 父 さんが、大怪我を 為 つたと出てをつたので、
早速お見舞に参つたのです」
しらが まじ
ちやかつしよく
かしら
な
白 髪 を 交 へたる 茶 褐 色 の髪の 頭 に置余るばかりなるを撫でて、直行
は、
おれ
「何新聞か知らんけれど、それは間の間違ぢやが。 俺 ならそんな場合に出会うたて、
おめおめうた
あひて
唯 々 打 れちやをりやせん。何の先は二人でないかい、五人までは 敵 手 にしてく
れるが」
直道の隣に居たる母は
ひそか
すそ
ことば
密 に彼のコオトの 裾 を引きて、 言 を返させじと心
づく
ためら
着 るなり。これが為に彼は少しく 遅 ひぬ。
ほん
かほつき
「 本 にお前どうした、 顔 色 が良うないが」
あなた
「さうですか。余り 貴 方 の事が心配になるからです」
「何じや?」
たびたび
や
「阿父さん、 度 々 言ふ事ですが、もう金貸は廃めて下さいな」
「又! もう言ふな。言ふな。廃める時分には廃めるわ」
みつ
あなた
「廃めなければならんやうになつて廃めるのは 見 ともない。今朝 貴 方 が半死半生の
怪我をしたといふ新聞を見た時、
わたし
私 はどんなにしても早くこの家業をお廃めなさる
さ
つくづ
さいはひ
やうに為せなかつたのを 熟 く後悔したのです。
幸
に貴方は無事であつた、か
なほさら
もら
ら 猶 更 今日は私の意見を用ゐて 貰 はなければならんのです。今に阿父さんも間の
おそろし
やうな災難を必ず受けるですよ。それが 可 恐 いから廃めると謂ふのぢやありません、
ただし
おと
け
正 い事で争つて 殞 す命ならば、決して辞することは無いけれど、金銭づくの事で
うらみ
ゆゑ
あ
いか
はぢさら
怨 を受けて、それ 故 に無法な目に遭ふのは、如何にも 恥 曝 しではないですか。
かたは
さ
一つ間違へば命も失はなければならん、 不 具 にも為れなければならん、阿父さんの身
の上を考へると、私は夜も寝られんのですよ。
せ
こんな家業を為んでは生活が出来んのではなし、阿父さん阿母さん二人なら、一生安
楽に過せるほどの資産は既に有るのでせう、それに何を苦んで人には怨まれ、世間から
つまはぢき
かね こしら
は 指
弾 をされて、無理な 財 を 拵 へんければならんのですか。何でそんなに
い
かね
のこ
金が要るのですか。誰にしても自身に足りる以外の 財 は、子孫に 遺 さうと謂ふより
ひとりつこ
外は無いのでせう。貴方には私が 一 人 子 、その私は一銭たりとも貴方の財は譲られ
こんにち
たくは
ません! 欲くないのです。さうすれば、貴方は 今 日 無用の財を 貯 へる為に、
そし
かたき
人の怨を受けたり、世に 誚 られたり、さうして現在の親子が 讐 のやうになつて、
なす
貴方にしてもこんな家業を決して名誉と思つて楽んで 為 つてゐるのではないでせう。
かはい
のこ
かはり
私のやうなものでも 可 愛 いと思つて下さるなら、財産を 遺 して下さる 代 に私
の意見を聴いて下さい。意見とは言ひません、私の願です。一生の願ですからどうぞ聴
いて下さい」
かしら た
たやす あ
おもて
おほは
父が前に 頭 を低れて、 輙 く抗げぬ彼の 面 は熱き涙に 蔽 るるなりき。
さ
かへ
ことば
やはら
些も動ずる色無き直行は 却 つて微笑を帯びて、 語 をさへ 和 げつ。
「俺の身を思うてそんなに言うてくれるのは
うれし
きゆう
嬉 いけど、お前のはそれは 杞 憂 と謂
ふんじや。俺と違うてお前は神経家ぢやからそんなに思ふんぢやけど、世間と謂ふもの
あたま
はの、お前の考へとるやうなものではない。学問の好きな 頭 脳 で実業を遣る者の仕事
を責むるのは、それは可かん。人の怨の、世の
そしり
誚 のと言ふけどの、我々同業者に対
する人の怨などと云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじや。世の誚と云ふのは、
そねみ
あはれ
多くは 嫉 、その証拠は、働の無い奴が貧乏しとれば 愍 まるるじや。何家業に限
かね こしら
かね
らず、 財 を 拵 へる奴は必ず世間から何とか攻撃を受くる、さうぢやらう。 財 の
え
おのづか
有る奴で評判の好えものは一人も無い、その通じやが。お前は学者ぢやから
自
ら
かね
たつと
心持も違うて、 財 などをさう 貴 いものに思うてをらん。学者はさうなけりやなら
え
ただかね
んけど、世間は皆学者ではないぞ、可えか。実業家の精神は 唯 財 じや、世の中の奴
ほし
え
の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人の 欲 がる財じや、何ぞ好えところが
どこ え
え
無くてはならんぢやらう。何処が好えのか、何でそんなに好えのかは学者には解らん。
かね
お前は自身に供給するに足るほどの 財 があつたら、その上に望む必要は無いと言ふ
かんがへ
のぢやな、それが学者の 考 量 じやと謂ふんじやが。自身に足るほどの物があつたら、
え
ひ
りようけん
たちま
それで可えと満足して了うてからに手を退くやうな 了
簡 であつたら、国は 忽
ほろぶ
こくちゆう
亡 るじや――社会の事業は発達せんじや。さうして 国
中 若隠居ばかりにな
ち
つて了うたと為れば、お前どうするか、あ。慾にきりの無いのが国民の生命なんじや。
かね こしら
せ
俺にそんなに 財 を 拵 へてどうするか、とお前は不審するじやね。俺はどうも為
つまり
きは
ん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。 究 竟 財を拵へるが 極 めて面白いんじや。お
え
前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るが面白いんじや。お前に本を読むのを好
せ
え加減に為い、一人前の学問が有つたらその上望む必要は有るまいと言うたら、お前何
と答へる、あ。
よ
けがらはし
まう
お前は能うこの家業を不正ぢやの、
汚
いのと言ふけど、財を 儲 くるに君子
どこ
いか
の道を行うてゆく商売が何処に在るか。我々が高利の金を貸す、如何にも高利じや、
なぜ
え
何為高利か、可えか、無抵当じや、そりや。借る方に無抵当といふ便利を与ふるから、
その便利に対する報酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安
いつは
いと 詐 つて貸しはせんぞ。無抵当で貸すぢやから利が高い、それを承知で皆借るん
じや。それが何で不正か、何で
けがらはし
汚
いか。利が高うて不当と思ふなら、始から借
すく
おか
らんが可え、そんな高利を借りても急を 拯 はにや 措 れんくらゐの困難が様々にある
今の社会じや、高利貸を不正と謂ふなら、その不正の高利貸を作つた社会が不正なんじ
や。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したうても借る者が無けり
や、我々の家業は成立ちは為ん。その必要を見込んで仕事を為るが
すなは
則 ち営業の
たましひ
魂 なんじや。
かね
おも
し
財 といふものは誰でも愛して、皆獲やうと 念 うとる、獲たら離すまいと為とる、
のう。その財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。
すべ
合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、 総 ての商業は皆不正でないか。学
かねまうけ
者の目からは、 金
儲 する者は皆不正な事をしとるんじや」
いた
しばし
ぬすみみ
太 くもこの弁論に感じたる彼の妻は、 屡 ば直道の顔を 偸 視 て、あはれ彼が
りくつ
くじ
きづか
ひそか
理 窟 もこれが為に 挫 けて、 気 遣 ひたりし口論も無くて止みぬべきを想ひて 私
よろこ
懽 べり。
に
ま おごそか かしら ふ
直道は先づ
厳
に 頭 を掉りて、
「学者でも商業家でも同じ人間です。人間である以上は人間たる道は誰にしても守らん
わたし
ければなりません。 私 は決して金儲を為るのを悪いと言ふのではない、いくら儲け
つけい
ても可いから、正当に儲けるのです。人の弱みに 付 入 つて高利を貸すのは、断じて正
当でない。そんな事が営業の魂などとは……!
たと
あ
譬 へば間が災難に遭つた。あれは先
くは
は二人で、しかも不意打を 吃 したのでせう、貴方はあの所業を何とお考へなさる。男
いしゆがへし
きはま
らしい 遺 趣 返 の為方とお思ひなさるか。卑劣 極 る奴等だと、さぞ無念にお思
ひでせう?」
あ
せま
彼は声を昂げて 逼 れり。されども父は他を顧て何等の答をも与へざりければ、再び
しづ
声を 鎮 めて、
「どうですか」
もちろん
「 勿 論 」
「勿論? 勿論ですとも!
なにやつ
きたな
けち
何 奴 か知らんけれど、実に 陋 い根性、 劣 な奴等
です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さ
たと
いか
うでせう、 設 ひその手段は如何にあらうとも」
ゑみ
ひげ まさぐ
父は騒がず、 笑 を含みて赤き 髭 を 弄 りたり。
きたな
「卑劣と言れやうが、 陋 いと言れやうが、思ふさま遺趣返をした奴等は目的を達し
つかみころ
くやし
こつち
てさぞ満足してをるでせう。それを 掴
殺 しても遣りたいほど 悔 いのは 此 方
ばかり。
おとつ
阿 父 さんの営業の主意も、彼等の為方と少しも違はんぢやありませんか。間の事に
あなた
就いて無念だと 貴 方 がお思ひなさるなら、貴方から金を借りて苦められる者は、やは
り貴方を恨まずにはゐませんよ」
又しても感じ入りたるは彼の母なり。かくては如何なる
ことば
言 をもて夫はこれに答へ
ことわり てきめん
んとすらん、我はこの
理
の 覿 面 当然なるに口を開かんやうも無きにと、心
あわ
ひそか うかが
かへ
慌 てつつ夫の気色を 密 に 窺 ひたり。彼は自若として、 却 つてその子の善く
め
おももち
うた
ろう
論ずるを心に愛づらんやうの 面 色 にて、 転 た微笑を 弄 するのみ。されども妻は
よ
能く知れり、彼の微笑を弄するは、必ずしも、人のこれを弄するにあらざる時に於いて
しばしば
あら
屡 するを。彼は今それか 非 ぬかを疑へるなり。
あを やつ
いまはし
かんだか
蒼 く 羸 れたる直道が顔は 可 忌 くも白き色に変じ、声は 甲 高 に細りて、
ひざ
てさき しき
膝 に置ける 手 頭 は 連 りに震ひぬ。
「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯
これまで たびたび
阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、 従 来 も 度 々 言ひましたし、
おとつ
又今日こんなに言ふのも、皆 阿 父 さんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれ
いで
かんがへだ
ほど私が始終苦心してゐるか知つてお 在 は無からうけれど、 考
出 すと勉強する
いや
ああ
ひつこ
のも何も可厭になつて、 吁 、いつそ山の中へでも 引 籠 んで了はうかと思ひます。阿
父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎
いやし
はぢ
賤 んで、附合ふのも 耻 にしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴
み
きか
方はお言ひでせうが、子としてそれを 聞 される心苦しさを察して下さい。貴方はかま
はんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に
つひ
い
肩身が狭くなつて 終 には容れられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそ
こつち
れが何より悲い。 此 方 に大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれる
とか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に
みちばた かつゑじに
世間に棄てられます。親子棄てられて 路 辺 に 餓
死 するのを、私は親子の名誉、
家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間から
うとま
疎 れてゐるのは、自業自得の致すと
ころで、不名誉の極です!」
まなこ
わか
おもて にら
眼 は痛恨の涙を 湧 して、彼は覚えず父の 面 を 睨 みたり。直行は例の
うそぶ
嘯 けり。
直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまで
ことば や
言 を止めず。
いか
あなた
「今度の事を見ても、如何に間が恨まれてゐるかが解りませう。 貴 方 の手代でさへあ
の通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、
に忍びない」
たちま さへぎ
父は 忽 ち 遮 りて、
よ
「善し、解つた。能う解つた」
ことば
「では私の 言 を用ゐて下さるか」
にくみ
憎 はどんなであるか言ふ
え
「まあ可え。解つた、解つたから……」
「解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」
しか
なんぢ
「お前の言ふ事は能う解つたさ。 然 し、 爾 は爾たり、吾は吾たりじや」
こら
ひし こぶし
直道は 怺 へかねて 犇 と 拳 を握れり。
「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情
あだ
として親の身を案じてくれる、その点は 空 には思はん。お前の心中も察する、意見も
解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやか
ま
らと謂うて、枉げて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺
なほさらえら
は 猶 更 劇 い目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」
はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。
かたじけな
からだ
まか
「そりや
辱
いが、ま、当分俺の 躯 は俺に 委 して置いてくれ」
しづか
彼は 徐 に立上りて、
ちよつ
い
ゆつく
え
些 とこれから行て来にやならん処があるで、 寛 りして行くが可え」
「
そそくさ にじゆうまわし うちかつ
い
おく
忽 忙 と 二 重 外 套 を 打 被 ぎて出づる後より、帽子を持ちて 送 れる妻は
ひそか
しわ
密 に出先を問へるなり。彼は大いなる鼻を 皺 めて、
「俺が居ると面倒ぢやから、
ちよつ
え
かへ
些 と出て来る。可えやうに言うての、 還 してくれい」
あなた わたし
「へえ? そりや困りますよ。 貴 方 、 私 だつてそれは困るぢやありませんか」
「まあ可えが」
よ
「可くはありません、私は困りますよ」
あしずり
お峯は 足 摩 して迷惑を訴ふるなりけり。
「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」
「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」
「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」
さすがに争ひかねてお峯の渋々
たたず
まつしぐら かど
佇 めるを、見も返らで夫は 驀
地 に 門 を出
おそ
さいな
とら
でぬ。母は直道の勢に 怖 れて先にも増してさぞや 苛 まるるならんと想へば、 虎
ふ
と
こまぬ
の尾をも履むらんやうに覚えつつ帰り来にけり。唯見れば、直道は手を 拱 き、
かしら た
頭 を低れて、在りけるままに凝然と坐したり。
ひる
「もうお中食だが、お前何をお上りだ」
みじろぎ せ
彼は 身 転 も為ざるなり。重ねて、
おぼつか
あ
「直道」と呼べば、始めて 覚 束 なげに顔を挙げて、
おつか
「 阿 母 さん!」
じゆつな
いひし
その 術 無 き声は 謂 知 らず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める
まくらもと
枕
頭 に居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。
「それぢや私はもう帰ります」
「あれ何だね、未だ可いよ」
あやし
にはか なごり をしま
はな
こころひか
異 くも 遽 に 名 残 の 惜 れて、今は得も 放 たじと 心
牽 るるなり。
ひる
ごぜん
「もうお中食だから、久しぶりで 御 膳 を食べて……」
のど
「御膳も 吭 へは通りませんから……」
第二章
ほか
主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩める 外 、身辺に
いとま
事あらざる 暇 に乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。
えら
一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日を 択 びて富山の家に
こしいれ
しつそう
しぎさわいつけ
もつけ
輿 入 したりき。その場より貫一の 失 踪 せしは、 鴫 沢 一 家 の為に 物 化 の
じやまばらひ
うたがひな
かない こぞ
邪 魔 払 たりしには 疑
無 かりけれど、 家 内 は 挙 りてさすがに騒動しき。
こ
その父よりも母よりも宮は更に切なる誠を籠めて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄
よるべ
おもひはか
お あた
てにし悔に泣くのみならで、 寄 辺 あらぬ貫一が身の安否を
慮
りて措く 能 は
ざりしなり。
こ
つひ あだ
さと
気強くは別れにけれど、やがて帰り来んと頼めし心待も、 終 に 空 なるを 暁 りし
かりそめ
後、さりとも今一度は 仮 初 にも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばか
あふせ
ゆくへ
りの 逢 瀬 は有るべきを、おのれと契りけるに、彼の 行 方 は知られずして、その身の
い
うしほ
やるかた
そぞろ
家を出づべき日は 潮 の如く迫れるに、 遣 方 も無く 漫 惑ひては、常に
おぞまし
ぼくしや
めぐりあ
鈍 う思ひ下せる 卜 者 にも問ひて、後には 廻 合 ふべきも、今はなかなか
ふみ たより
まめ
うらみ
文 に 便 もあらじと教へられしを、筆持つは 篤 なる人なれば、長き長き 怨 言 な
つげこ
たなごころ
どは 告 来 さんと、それのみは
掌
を指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者の
ことば
あやま
うらみ
言 は不幸にも 過 たで、宮は彼の 怨 言 をだに聞くを得ざりしなり。
おも
とにもかくにも今一目見ずば動かじと始に 念 ひ、それははずなりてより、せめて
ひとふで たより
すべ たが
一 筆 の 便 聞かずばと更に念ひしに、事は心と 渾 て 違 ひて、さしも願はぬ
いちじ
さはり
はかど
むなし
一 事 のみは玉を転ずらんやうに何等の 障 も無く 捗 取 りて、彼が 空 く貫一の
たより
たちま かしら
をど きた
便 を望みし一日にも似ず、三月三日は 忽 ち 頭 の上に 跳 り 来 れるなりき。
つひ
はだみ
はつごひ なげう
もんもん うち
彼は 終 に心を許し 肌 身 を許せし 初 恋 を 擲 ちて、絶痛絶苦の 悶 々 の 中
たのし
をは
に一生最も 楽 かるべき大礼を挙げ 畢 んぬ。
宮は実に貫一に別れてより、始めて
おのれ いか
己 の如何ばかり彼に恋せしかを知りけるなり。
い
た
ゆふべ
よ
彼の出でて帰らざる恋しさに堪へかねたる 夕 、宮はその机に倚りて思ひ、その
きぬ ひとか か
もだ
ほほずり
あくが
も おのれ い
衣 の 人 香 を嗅ぎて 悶 え、その写真に 頬 摩 して 憧 れ、彼若し 己 を容れ
たより
きか
ただち
はし
て、ここに優き 便 をだに 聞 せなば、親をも家をも振捨てて、 直 に彼に 奔 る
ゆいのう かは
つま
べきものをと念へり。 結 納 の 交 されし日も宮は富山唯継を 夫 と定めたる心はつ
つひ
ゆ
ゆ起らざりき。されど、己は 終 にその家に適くべき身たるを忘れざりしなり。
いとぐち もと
あた
ほとほと自らその
緒
を 索 むる 能 はざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし
後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、
てその恋を全うせんとは計らざりけるよ。
あやまち
みさを
過
を改め、 操 を守り、覚悟し
まこと
たの
真 に彼の胸に 恃 める覚悟とてはあらざ
わ
りき。恋佗びつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつ
し
いな
かなた こひし
も、強ひて今更 否 まんとするにもあらず、 彼 方 の 恋 きを思ひ、こなたの富める
をし
むなし まよひ もてあそ
を 愛 み、自ら決するところ無く、為すところ無くして 空 き 迷 に
弄
ばれ
きた
つつ、終に移すべからざる三月三日の 来 るに会へるなり。
ゆふべ
ふ
とこさかづき
ご
あやし
この日よ、この 夕 よ、更けて 床
盃 のその期にびても、 怪 むべし、宮
つま
ただ
つま
は決して富山唯継を 夫 と定めたる心は起らざるにぞありける、 止 この人を 夫 と定
おも
めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自ら 謂 へり、この心は始より貫一
まか
ゆゑ
に許したるを、縁ありて身は唯継に 委 すなり。 故 に身は唯継に委すとも、心は長く
おも
貫一を忘れずと、かく 謂 へる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のそ
まぬか あた
むし
の身に 免 る 能 はざる約束なるべきを信じて、 寧 ろ深く怪むにもあらざりき。
かくのごとく
如
此 にして宮は唯継の妻となりぬ。
はなむこぎみ
あ
花 聟 君 は彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力を挙げたり。宮はその身の
まさ
わたくし
上の日毎輝き 勝 るままに、いよいよ意中の人と
私
すべき陰無くなりゆくを見て、
いよい
つま
ものう
ただ
つか
愈 よ楽まざる心は、 夫 の愛を承くるに 慵 くて、 唯 機械の如く 事 ふるに過
ぎざりしも、唯継は彼の
ものい
かたち ひたぶる め よろこ
言 ふ花の姿、温き玉の 容 を 一 向 に愛で 悦 ぶ余
ひやや
むなし うつは いだ
ほとん
に、 冷 かに 空 き 器 を 抱 くに異らざる妻を擁して、 殆 ど憎むべきまで
おとがひ な
みごも
に得意の 頤
を撫づるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻は 妊 り
なんし
て、翌年の春美き 男 子 を挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり
い
ま
うひご
みまか
重く病みけるが、その癒ゆる日を竣たで、 初 子 はいと弱くて肺炎の為に 歿 りにけ
り。
子を生みし後も宮が色香はつゆ
うつろ
おのづか なやまし ふぜい そは
移 はずして、
自
ら 可 悩 き風 情の 添
つま
ますます
ちよう
みぐるし
いよい
りたるに、 夫 が愛護の念は
益
深く、 寵 は人目の 見 苦 きばかり 弥 よ
くはは
たのし
ゆゑ つゆ さと
加 るのみ。彼はその妻の常に 楽 まざる 故 を 毫 も 暁 らず、始より唯その色
うちしづ
うまれ ひとりがてん
を見て、 打 沈 みたる 生 得 と 独 合 点 して多く問はざるなりけり。
いとし
ありがた
なさけ そむ
かく 怜 まれつつも宮が初一念は動かんともせで、 難 有 き人の 情 に 負 き
とつ
あやまち いか
て、ここに 嫁 ぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せし
過
は如何
みづか
ゆる
は
はなはだし
げ
にすべきと、 躬 らその 容 し難きを慙ぢて、悲むこと 太
甚 かりしが、実に親
にくしみ
た
う
の 所 憎 にや堪へざりけん。その子の失せし後、彼は再び唯継の子をば生まじ、と固
ふたとせ のち みとせ
よとせ
あやし
く心に誓ひしなり。 二 年 の 後 、 三 年 の後、 四 年 の後まで 異 くも宮はこの
誓を全うせり。
次第に彼の心は楽まずなりて、今は何の故にその嫁ぎたるかを自ら知るに
くるし
苦 める
かひ
なりき。機械の如く夫を守り置物のやうに内に据られ、絶えて人の妻たる 効 も思出も
むなし ろうちよう
ゆたか
あらで、 空 く 籠
鳥 の雲を望める身には、それのみの願なりし 裕 なる生活
かへ
よとせ
も、富める家計も、土の如く顧るに足らず、 却 りてこの 四 年 が間思ひに思ふばかり
ゆくへ
たずみ
にて、熱海より 行 方 知れざりし人の姿を田鶴見の邸内に見てしまで、彼は全く
おとさた
さと
しぎさわ
音 沙 汰 をも聞かざりしなり。生家なる 鴫 沢 にては薄々知らざるにもあらざりしか
よしな
おろか
ど、さる 由 無 き事を告ぐるが如き 愚 なる親にもあらねば、宮のこれを知るべき
たより
便 は絶れたりしなり。
むび
いかばかり
う
計らずもその夢寐に忘れざる姿を見たりし彼が思は 幾
計 なりけんよ。饑ゑたる
むさぼ くら
よとせ
者の 貪 り 食 ふらんやうに、彼はその一目にして 四 年 の求むるところを求めんと
したり。かず、
かず、彼の慾はこの日より益急になりて、既に自ら心事の不徳を以
や
つて許せる身を投じて、唯快く万事を一事に換へて已まん、と深くも念じたり。
わにぶち
かた
しずお
ふみ
五番町なる 鰐 淵 といふ 方 に住める由は、 静 緒 より聞きつれど、むざとは 文
ひと
さまよ
かな
も通はせ難く、道は遠からねど、 独 り出でて 彷 徨 ふべき身にもあらぬなど、 克 は
くるし
わ
いくとせ
くら
ぬ事のみなるに 苦 かりけれど、安否を分かざりし 幾 年 の思に 較 ぶれば、はや
ふくろ
さぐ
つれづれ
嚢 の物を 捜 るに等しかるをと、その一筋に慰められつつも彼は日毎の 徒 然 を
あまり
のこ かた
憂きに堪へざる 余 、我心を 遺 る 方 無く明すべき長き長き文を書かんと思立ちぬ。
そは折を得て送らんとにもあらず、又逢うては言ふ能はざるを言はしめんとにもあらで、
た
はかな
ひとり
うつた
止だかくも 儚 き身の上と切なき胸の内とを 独 自ら 愬 へんとてなり。
(二)の二
あた
宮は貫一が事を忘れざるとともに、又長く熱海の悲き別を忘るる 能 はざるなり。更
としどしめぐりく
やきがね
に見よ。 歳 々 廻 来 る一月十七日なる日は、その悲き別を忘れざる胸に
烙
して、彼の悔を新にするにあらずや。
のち
「十年 後 の今月今夜も、僕の涙で月は曇らして見せるから、月が曇つたらば、貫一は
どこ
何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると想ふが可い」
おほ
掩 へども宮が耳は常にこの声を聞かざるなし。彼はその日のその夜に会ふ毎に、果
して月の曇るか、あらぬかを
こころみ
かつ
よそ
しるし
試
しに、 曾 てその人の余所に泣ける 徴 もあら
もろとも
ざりければ、さすがに恨は忘られしかと、それには心安きにつけて、 諸 共 に今は我
いづこ いか
うちなげ
をも思はでや、さては 何 処 に如何にしてなど、更に 打 歎 かるるなりき。
よ
めぐ
きた
例のその日は四たび 廻 りて今日しも 来 りぬ。晴れたりし空は午後より曇りて
すこし ふきい
ただ
ひ
いつ
少 く 吹 出 でたる風のいと寒く、 凡 ならず冷ゆる日なり。宮は 毎 よりも
こころわづらはし
し
あまり
心
煩 きこの日なれば、かの筆採りて書続けんと為たりしが、 余 に思乱
るればさるべき力も無くて、いとどしく紛れかねてゐたり。
ますま
にはか だんろ
益 す寒威の募るに堪へざりければ、 遽 に 煖 炉 を調ぜしめて、彼は西洋間に
うつ
ことごと カゕテン
ま すんげき
つつ
徙 りぬ。 尽
く 窓 帷 を引きたる十畳の間は 寸 隙 もあらず 裹 まれて、火
やうや
たい ゆたか ゆうぜんちりめん ながじゆばん
気の 漸 く春を蒸すところに、宮は 体 を 胖 に 友 禅 縮 緬 の 長 襦 袢
つま ふみひら
ひ もんどんす
らくいす よ
そこ
の 褄 を 蹈 披 きて、緋の 紋 緞 子 張の 楽 椅 子 に凭りて、心の影の其処に映るを
なが
たひら
眺 むらんやうに、その美き目をば唯白く 坦 なる天井に注ぎたり。
夫の留守にはこの家の
あるじ
つか
きゆうこ いただ
主 として、彼は 事 ふべき 舅 姑 を 戴 かず、気兼す
こじうと かか
あしてまとひ
ま
ひとり
べき 小 姑 を 抱 へず、 足 手 絡 の幼きも未だ有らずして、 一 箇 の
なかばたらき ふたり かひ
よろづ わづらはし
まか
な
仲
働 と 両 箇 の下婢とに 万 般 の
煩
きを 委 せ、一日何の為すべき事
い
ぜん
も無くて、出づるに車あり、 膳 には肉あり、しかも言ふことは皆聴れ、為すことは皆
よろこ
げ
悦 ばるる夫を持てるなど、彼は今若き妻の黄金時代をば夢むる如く楽めるなり。実
まさ おのれ
かな
に世間の娘の想ひに想ひ、望みに望める絶頂は 正 に 己 のこの身の上なる 哉 、と
そぞろ
宮は 不 覚 胸に浮べたるなり。
ああ
あまり
嗟乎、おのれもこの身の上を願ひに願ひし 余 に、再び得難き恋人を棄てにしよ。
きは
たのしみ
いつとせ
きは
されども、この身の上に 窮 めし
楽
も、 五 年 の昔なりける今日の日に 窮 め
かなしみ か
ためいき
悲
に易ふべきものはあらざりしを、と彼は苦しげに 太 息 したり。今にして
し
とも
たのしみ
彼は始めて悟りぬ。おのれのこの身の上を願ひしは、その恋人と 倶 に同じき
楽
う
も
たのしみ
たのしみ
あはせう
を享けんと願ひしに外ならざるを。若し身の
楽
と心の
楽
とを 併 享 くべ
さちな
えら
いづれ
き 幸 無 くて、必ずその一つを 択 ぶべきものならば、 孰 を取るべきかを知ること
おそ
やるかた
の 晩 かりしを、 遣 方 も無く悔ゆるなりけり。
あたたか しつ
この寒き日をこの
煖
き 室 に、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠
いか
ほとん
をもてこの恋しさを語らば如何に、と思到れる時、宮は 殆 ど裂けぬべく胸を苦く覚
くちを
もだ
えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その 口 惜 しさを 悶 えては、在るにも
そとも
うちみや
在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の 外 面 を何心無く 打 見 遣 れば、いつしか雪
の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。一月十七日なる感はいと
はげし
劇 く動きて、宮は
ふりしき
あることば
たたず
かへりきた
降 頻 る雪に 或
言 を聴くが如く 佇 めり。折から唯継は 還
来 りぬ。静
あ
ドゕ
したたか
い
ひえわた
に啓けたる 闥 の響は
絶
に物思へる宮の耳には入らざりき。氷の如く 冷 徹 り
ふところ
あなや
たる手をわりなく 懐
に差入れらるるに驚き、 咄 嗟 と見向かんとすれば、後より
しか かか
たしな
かをり
緊 と 抱 へられたれど、夫の常に 飭 める香水の 薫 は隠るべくもあらず。
かへり
「おや、お 帰 来 でございましたか」
「寒かつたよ」
「大相降つて参りました、さぞお困りでしたらう」
「何だか知らんが、むちやくちやに寒かつた」
宮は楽椅子を夫に勧めて、
みづから ストオブ たきぎ
躬
は 煖 炉 の 薪 をべたり。今の今まで貫一が
おもひつ
つか
事を 思 窮 めたりし心には、夫なる唯継にかく 事 ふるも、なかなか道ならぬやうに
いさぎよ
こずゑ
屑
からず覚ゆるなり。窓の外に降る雪、風に乱るる雪、 梢 に宿れる雪、庭
て
し
しらたへ
うらみ たけ
に布く雪、見ゆる限の 白 妙 は、我身に積める人の 怨 の 丈 かとも思ふに、かく
やま
あぶら しぼ
てあることの 疚 しさ、切なさは、 脂 を 搾 らるるやうにも忍び難かり。されども、
あし
ふみはだ
この美人の前にこの雪を得たる夫の得意は限無くて、その 脚 を八文字に 踏 展 け、
やうや
おとがひ つきそら
漸 く煖まれる
頤
を 突 反 して、
よせなべ
もら
「ああ、降る降る、面白い。かう云ふ日は 寄 鍋 で飲むんだね。寄鍋を取つて 貰 は
カフヒ゗
こしら
ち
う、寄鍋が好い。それから 珈 琲 を一つ 拵 へてくれ、コニャックを些と余計に入
れて」
宮の行かんとするを、
い
「お前、行かんでも可いぢやないか、要る物を取寄せてここで拵へなさい」
でんれい
そば
ひとし
こわき
彼の 電 鈴 を鳴して、火の 傍 に寄来ると 斉 く、唯継はその手を取りて 小 脇
はさ
よろこ
に 挾 みつ。宮は 懌 べる気色も無くて、彼の為すに任するのみ。
ふさ
「おまへどうした、何を 鬱 いでゐるのかね」
たふ
す
引寄せられし宮はほとほと 仆 れんとして椅子に支へられたるを、唯継は鼻も摩るば
さしのぞ
かりにその顔を 差 覗 きて余念も無く見入りつつ、
はなは
「顔の色が 甚 だ悪いよ。雪で寒いんで、胸でも痛むんか、頭痛でもするんか、さう
はつきり
も無い? どうしたんだな。それぢや、もつと 爽 然 してくれんぢや困るぢやないか。
じようあひ
さう陰気だと 情
合 が薄いやうに想はれるよ。一体お前は夫婦の情が薄いんぢやあ
るまいかと疑ふよ。ええ?
そんなことは無いかね」
たちま ドゕ あ
なかばたらき
もちきた
忽 ち 闥 の啓くと見れば、 仲
働 の命ぜし物を 持 来 れるなり。人目を
はばか
そば の
憚 らずその妻を愛するは唯継が常なるを、見苦しと思ふ宮はその 傍 を退かんとす
ふり
ボトル
れど、放たざるを例の事とて仲働は見ぬ 風 しつつ、器具と 壜 とをテエブルに置き
ぢき まか い
しゆうね
う
て、 直 に 退 り出でぬ。かく 執 念 く愛せらるるを、宮はなかなか憂くも浅ましく
も思ふなりけり。
かきみだ
ふりしき
雪は風を添へて 掻 乱 し掻乱し 降 頻 りつつ、はや日暮れなんとするに、楽き夜
やうや きた
いとかたじけな
漸 く 来 れるが 最
辱 き唯継の目尻なり。
の
おれ
「近頃はお前別して鬱いでをるやうぢやないか、 俺 にはさう見えるがね。さうして内
ひつこ
よろし
ちよつ
にばかり 引 籠 んでをるのが 宜 くないよ。この頃は 些 とも出掛けんぢやないか。
いんじゆん
ますま
としば
さう 因 循 してをるから、 益 す陰気になつて了ふのだ。この間も 鳥 柴 の奥さ
なぜ
ちよつ
んに会つたら、さう言つてゐたよ。何為近頃は奥さんは 些 ともお見えなさらんのだ
まるつきり
らう。芝居ぐらゐにはお出掛になつても可ささうなものだが、 全
然 影も形もお見
しまひ
せなさらん。なんぼお大事になさるつて、そんなに 仕 舞 込んでお置きなさるものぢや
ひと
や
ございません。慈善の為に少しは 衆 にも見せてお遣んなさい、なんぞと非常に遣られ
ふくづみ
たぢやないか。それからね、知つてをる通り、今度の選挙には実業家として 福 積 が
おほ
あづか
当選したらう。俺も 大 いに 与 つて尽力したんさ。それで近日当選祝があつて、そ
すみしだい
れんじゆう
れが 済 次 第 別に慰労会と云ふやうな名で、格別尽力した 連
中 を招待するんだ。
その席へは令夫人携帯といふ訳なんだから、是非お前も出なければならん。驚くよ。俺
の社会では富山の細君と来たら評判なもんだ。会つたことの無い奴まで、お前の事は知
である
つてをるんさ。そこで、俺は実は自慢でね、さう評判になつて見ると、軽々しく 出 行
よ
かれるのも面白くない、余り顔を見せん方が見識が好いけれど、然し、近頃のやうに
こも
を
籠 つてばかり居るのは、第一衛生におまへ良くない。実は俺は日曜毎にお前を連れて
出たいんさ。おまへの来た当座はさうであつたぢやないかね。子供を産んでから、さう、
はんとし
た
あれから 半 年 ばかり経つてからだよ。余り出なくなつたのは。それでも随分
あちこち
彼地此地出たぢやないかね。
カフヒ゗
うま
善し、 珈 琲 出来たか。うう熱い、 旨 い。お前もお飲み、これを半分上げやうか。
沢山だ? それだからお前は冷淡で可かんと謂ふんさ。ぢや、酒の入らんのを飲むと可
まだ
あつち
い。寄鍋は 未 か。うむ、 彼 方 に支度がしてあるから、来たら言ひに来る?
それは
ながひばち さしむかひ
善い、西洋室の寄鍋なんかは風流でない、あれは 長 火 鉢 の 相
対 に限るんさ。
しようだい
びつくり
うつくし
可いかね、福積の 招
待 には 吃 驚 させるほど
美
くして出て貰はなけり
やならん。それで、着物だ、何か欲ければ早速
こしら
拵 へやう。おまへが、これならば十
なり
りゆう
なり
分と思ふ服装で、 隆 として推出すんだね。さうしてお前この頃は余り服装にかまは
ねぼ
んぢやないか、可かんよ。いつでもこの小紋の羽織の寐恍けたのばかりは恐れるね。
なぜ
ひふ
何為あの被風を着ないのかね、あれは好く似合ふにな。
あさつて
どこ
明 後 日 は日曜だ、何処かへ行かうよ。その着物を見に三井へでも行かうか。いや、
かしわばら
たび
さうさう、 柏
原 の奥さんが、お前の写真を是非欲いと言つて、会ふ 度 に
やかまし
かな
あした
聒 く催促するんで 克 はんよ。 明 日 は用が有つて行かなければならんのだから、
まづ
持つて行かんと 拙 いて。未だ有つたね、無い?
そりや可かん。一枚も無いんか、そ
あさつて
ずつ
りや可かん。それぢや、 明 後 日 写しに行かう。 直 と若返つて二人で写すなんぞも可
いぢやないか。
善し、寄鍋が来た?
さあ行かう」
夫に引添ひて宮はこの室を出でんとして、思ふところありげに
しばら
そとも
姑 く窓の 外 面 を
うかが
窺 ひたりしが、
「どうしてこんなに降るのでせう」
くだ
「何を 下 らんことを言ふんだ。さあ、行かう行かう」
第三章
ゆたか
そもそ
とつ
まどひふか
宮は既に富むと 裕 なるとにきぬ。 抑 も彼がこの家に 嫁 ぎしは、 惑
深
えいよう
き娘気の一図に、 栄 耀 栄華の欲するままなる身分を願ふを旨とするなりければ、始
より夫の愛情の如きは、有るも善し、有らざるも更に善しと、
かろし
つひ
軽 めたりき。今やその願足りて、しかも 遂 に
に
ほとん
殆 ど無用の物のやう
いよい
弥 よらるる愛
きたる彼は
わづらはし
た
むし
はかな
煩
きに堪へずして、 寧 ろ影を追ふよりも 儚 き昔の恋を思ひて、
情の
ひそか
あぢはひ
私 に楽むの
味
あるを覚ゆるなり。
おのづか
いと
たれこ
かくなりてより彼は
自
ら唯継の面前を 厭 ひて、寂く 垂 籠 めては、随意に物
よろこ
たずみ やしきうち
思ふを 懌 びたりしが、図らずも田鶴見の 邸
内 に貫一を見しより、彼のさして
ひとたび
めいめい
昔に変らぬ一介の書生風なるを見しより、 一 度 は絶えし恋ながら、なほ 冥 々 に
行末望あるが如く、さるは、彼が昔のままの
かたち
ひとり
容 なるを、今もその 独 を守りて、
おもひな
時の到るを待つらんやうに 思 做 さるるなりけり。
その時は果して到るべきものなるか。宮は
みづから
たた
躬
の心の底を 叩 きて、答を得るに
はば
おのれ
ここち
沮 みつつも、さすがに又 己 にも知れざる秘密の潜める 心 地 して、一面には
おぼつか
覚 束 なくも、又一面にはとにもかくにも信ぜらるるなり。
すなは
たへがた
レンズ
便 ち宮の夫の愛を受くるを 難 堪 く苦しと思知りたるは、彼の写真の 鏡 面 の
もんぜつ
とりつ
前に 悶 絶 せし日よりにて、その恋しさに 取 迫 めては、いでや、この富めるに
ゆたか
う
ためら
き、 裕 なるに倦める家を棄つべきか、棄てよとならば 遅 はじと思へるも
しばしば
ただあへ
せ
ひそか
か
屡 々 なりき。 唯 敢 てこれを為ざるは、 窃 に望は繋けながらも、行くべき
かた うらみ
おそ
ゆゑ
方 の 怨 を解かざるを 虞 るる 故 のみ。
もと
素 より宮は唯継を愛せざりしかど、決してこれを憎むとにはあらざりき。されど今
おも
わがをつと
はしも正にその念は起れるなり。自ら 謂 へらく、 吾
夫 こそ当時恋と富との
あたひ
むなし
う
値 を知らざりし己を欺き、 空 く輝ける富を示して、售るべくもあらざりし恋を
ひと き
あやま
奪ひけるよ、と悔の余はかかる恨をも 他 に被せて、彼は己を 過 りしをば、全く夫
な
の罪と為せり。
この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく
しの
つ
うた
はなはだし
むこ
貫一が事の 忍 ばるるに就けて 転 た悪人の夫を厭ふこと
甚
かり。無辜の唯継
たのしみ さづく
あるほど
はかかる今宵の 楽
を 授 るこの美き妻を拝するばかりに、 有 程 の誠を捧げ
みつ
ことば
て、 蜜 よりも甘き 言 の数々をきて止まざれど、宮が耳には人の声は聞えずして、
よ
雪の音のみぞいと能く響きたる。
や
けんこん
はなやか
その雪は明方になりて歇みぬ。 乾 坤 の白きに漂ひて 華 麗 に差出でたる日影は、
みなぎ
し
ひねもす
漲 るばかりに暖き光を鋪きて 終 日 輝きければ、七分の雪はその日に解けて、は
ゆきき さまたげ
ところどころ ぬかるみ
そら
や翌日は 往 来 の 妨 碍 もあらず、 処
々 の 泥 濘 は打続く快晴の 天 に
さら
かわ
曝 されて、刻々に 乾 き行くなり。
そとで
ひより
こら
この雪の為に 外 出 を封ぜられし人は、この 日 和 とこの道とを見て、皆 怺 へかね
きのふ
よろし
て 昨 日 より出でしも多かるべし。まして今日となりては、手置の 宜 からぬ横町、
つづらをり ある こねかへ
しるこ
不性なる裏通、屋敷町の小路などの氷れる雪の 九 十 九 折 、 或 は 捏 返 せし 汁 粉
きは
まちとほり からからほし
の海の、差掛りて難儀を 極 むるとは知らず、見渡す 町
通 の 乾 々 干 に
かたま
そその
ゆきき
固 れるに 唆 かされて、控へたりし人の出でざるはあらざらんやうに、 往 来 の
しきり
かが
ころも
常より 頻 なる午前十一時といふ頃、 屈 み勝に疲れたる車夫は、泥の 粉 衣 掛けた
なやま
まろば
くろあや あづま
てついろちりめん
る車輪を 可 悩 しげに 転 して、 黒 綾 の 吾 妻 コオト着て、 鉄 色 縮 緬 の
づきん えり
いそぢ
いやし
かた
頭 巾 を 領 に巻きたる五十路に近き 賤 からぬ婦人を載せたるが、南の 方 より
しばいいぐらとおり
芝 飯 倉 通 に来かかりぬ。
とあ
なにがし
たまがき
のぼ
唯有る横町を西に切れて、
某
の神社の石の 玉 垣 に沿ひて、だらだらと 上
しげ
ふさ
おびただし
どろまじり
る道狭く、 繁 き木立に南を 塞 がれて、残れる雪の 夥
多 きが 泥
交 に踏散
くだん
えいえい ひきあ
とつき どべい ゆゆ
されたるを、 件 の車は 曳 々 と 挽 上 げて、 取 着 に 土 塀 を由々しく構へて、
かど
かた
い
門 には電燈を掲げたる 方 にぞ入りける。
すまひ
あるじ とく
こは富山唯継が 住 居 にて、その女客は宮が母なり。 主 は 疾 に会社に出勤せし
きた
かへりゆ
後にて、例刻に 来 れる髪結の今方 帰 行 きて、まだその跡も掃かぬ程なり。
もんはぶたへ にくいろがのこ
おほまるわげ
た
紋 羽 二 重 の 肉 色 鹿 子 を掛けたる 大 円 髷 より水は滴るばかりに、玉の如
のど
かぜけ
しきり うちしはぶ
き 喉 を白絹のハンカチ゗フに巻きて、風邪気などにや、 連 に 打
咳 きつつ、
ゆゑ
あまり しる おもやつれ
宮は奥より出迎に見えぬ。その 故 とも覚えず 余 に 著 き 面
羸 は、唯一目に
おどろか
母が心を 驚
せり。
ひま
さと
と
閑 ある身なれば、宮は月々生家なる両親を見舞ひ、母も同じほど訪ひ音づるるをば、
こよな
まこと
此上無き隠居の保養と為るなり。 信 に女親の心は、娘の身の定りて、その家栄え、
その身安泰に、しかもいみじう出世したる姿を見るに増して楽まさるる事はあらざらん。
おほい
し
彼は宮を見る毎に 大 なる手柄をも成したらんやうに吾が識れるほどの親といふ親は、
しあはせ
ありよう
かな
そぞろ
皆才覚無く、 仕 合 薄くて、 有 様 は気の毒なる人達 哉 、と 漫 に己の誇らる
かど
まさ
るなりけり。されば月毎に彼が富山の 門 を入るは、 正 に人の母たる成功の
がいせんもん すぐ
凱 旋 門 を 過 る心地もすなるべし。
なつかし
なほ
いそいそ
たれこ
可 懐 きと、嬉きと、 猶 今一つとにて、母は 得 々 と奥に導れぬ。久く 垂 籠
すくひ
ひそか
めて友欲き宮は、 拯 を得たるやうに覚えて、有るまじき事ながら、或は 密 に貫
もたら
ま
うれひ
一の報を 齎 せるにはあらずやなど、枉げても念じつつ、せめては 愁 に閉ぢたる
しばら
ゆる
胸を 姑 くも 寛 うせんとするなり。
お
きづかはし
母は語るべき事の日頃蓄へたる数々を措きて、先づ宮が血色の 気
遣 く衰へたる
なじ
やつ
故を 詰 りぬ。同じ事を夫にさへ問れしを思合せて、彼はさまでに己の 羸 れたるを
おそ
惧 れつつも、
どこ
あんま
いご
「さう? でも、何処も悪い所なんぞ有りはしません。 余 り体を 動 かさないから、
せゐ
ふさ
たま
その所為かも知れません。けれども、この頃は時々気が 鬱 いで鬱いで 耐 らない事が
い
あるの。あれは血の道と謂ふんでせうね」
「ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。そ
み
れでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者に診てもらふ方が可いよ、放
お
ひつきよう
つて措くから 畢
竟 持病にもなるのさ」
うなづ
宮は唯 頷 きぬ。
あわただ
母は不図思起してや、さも 慌 忙 しげに、
「後が出来たのぢやないかい」
うちゑ
はづか
かたはらいた
ほのみ
宮は 打 笑 みつ。されども例の 可 羞 しとにはあらで 傍
痛 き余を 微 見 せし
やうなり。
「そんな事はありはしませんわ」
いつ
さた
ま
「さう何日までも沙汰が無くちや困るぢやないか。本当に未だそんな様子は無いのかえ」
「有りはしませんよ」
「無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、
先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれき
り後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にな
らなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけ
いで
れど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねてお 在 だか知れはしないの
おとつ
だよ。内ぢや又 阿 父 さんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み
おこ
得ないのは女の恥だつて、 慍 りきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、
いや
せん
可厭に落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前は 先 の内は子供
すき
が所好だつた癖に、自分の子は欲くないのかね」
宮もさすがに当惑しつつ、
「欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ」
せん
「だから、何でも養生して、体を丈夫にするのが 専 だよ」
み
「体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、診て
おつか
とう
もらふのも変だし……けれどもね、 阿 母 さん、私は 疾 から言はう言はうと思つてゐ
よ
たのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持が快くないの。そ
せゐ
の所為で自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ」
ひざ すす
つぶ
母のその目はり、その 膝 は 前 み、その胸は 潰 れたり。
「どうしたのさ!」
うつむ
宮は 俯 きたりし顔を寂しげに起して、
わたし
かんいつ
私 ね、去年の秋、 貫 一 さんに逢つてね……」
「
「さうかい!」
はばか
こた
あたり
己だに聞くを 憚 る秘密の如く、母はその 応 ふる声をも潜めて、まして 四 辺 に
けはひ
は油断もあらぬ 気 勢 なり。
どこ
「何処で」
まるきりあれから
「内の方へも 全 然 爾 来 の様子は知れないの?」
「ああ」
ちつと
些 も?」
「
「ああ」
「どうしてゐると云ふやうな話も?」
「ああ」
わづか
わか
うち
かく 纔 に応ふるのみにて、母は自ら 湧 せる万感の渦の 裏 に陥りてぞゐたる。
「さう?
おとつ
いで
阿 父 さんは内証で知つてお 在 ぢやなくて?」
「いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ」
あらまし
のが
宮はその 梗 概 を語れり。聴ゐる母は、彼の事無くその場を 遁 れ得てし始末を
つまびら
ま
つ
げ
詳 かにするを俟ちて、始めて重荷を下したるやうにと息を咆きぬ。実に彼は熱海
あぶらあせ しぼ
ついで
の梅園にて 膩
汗 を 搾 られし 次 手 悪さを思合せて、憂き目を重ねし宮が不幸を、
ふびん
いぢら
いた
不 愍 とも、 惨 しとも、今更に親心を 傷 むるなりけり。されども過ぎしその事よ
しようげ あるひ きた
りは、為に宮が前途に一大 障 礙 の 或 は 来 るべきを案じて、母はなかなか
こころおだやか
心
穏 ならず、
「さうして貫一はどうしたえ」
「お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……」
「ああそれから?」
「それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、
なり
やつ
きまり
さうも思はないけれど、つまらない風采をして、何だか大変 羸 れて、私も 極 が悪
みすぼらし
かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに 身
窄 い様子だつたわ。そ
わにぶち
れに、聞けばね、番町の方の 鰐 淵 とかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内
そこ
に使はれて、やつぱり其処に居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子
いつしよ
供の内から 一 処 に居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、
私は何だか情無くなつて……」
じゆばん そで はし そ
彼は 襦 袢 の 袖 の 端 に窃とをりて、
「好い心持はしないわ、ねえ」
「へええ、そんなになつてゐるのかね」
あやし
母の顔色も 異 き寒さにや襲はるると見えぬ。
おもひだ
「それまでだつて、 憶 出 さない事は無いけれど、去年逢つてからは、毎日のやうに
いや
たびたび
おとつ
おつか
気になつて、可厭な夢なんぞを 度 々 見るの。 阿 父 さんや、 阿 母 さんに会ふ度に、
にく
今度は話さう、今度は話さうと思ひながら、私の口からは何と無く話し 難 いやうで、
しよつちゆう
せゐ
いた
実は今まで言はずにゐたのだけれど、その事が 初 中 終 苦になる所為で気を 傷 め
さは
るから体にも 障 るのぢやないかと、さう想ふのです」
おもひこら
ことば
うなづ
思
凝 せるやうに母は或方を見据ゑつつ、 言 は無くて 頷 きゐたり。
「それで、私は阿母さんに相談して、貫一さんをどうかして上げたいの――あの時にそ
やつぱりしぎさわ
とら
んな話も有つたのでせう。さうして 依 旧 鴫 沢 の跡は貫一さんに 取 して下さい
ゆきがた
よ、それでなくては私の気が済まないから。今までは 行 方 が知れなかつたから為方
ぢき
はふ
お
こつち
がないけれど、聞合せれば 直 に分るのだから、それを 抛 つて措いちや 此 方 が悪い
もら
から、阿父さんにでも会つて 貰 つて、何とか話を付けるやうにして下さいな。さうし
これまでどほり
て 従 来 通 に内で世話をして、どんなにもあの人の目的を達しさして、立派に
うち
さかづき
さと
吾家の跡を取して下さい。私はさうしたら兄弟の
盃
をして、何処までも生家の兄
さんで、末始終力になつて欲いわ」
ことば
ひと
宮がこの 言 は決して内に自ら欺き、又敢て外に 他 を欺くにはあらざりき。影と
はかな へだて
よそ
儚 く 隔 の関の遠き恋人として余所に朽さんより、近き他人の前に己を殺さん
も
ぞ、同く受くべき苦痛ならば、その忍び易きに就かんと
こひねが
冀
へるなり。
「それはさうでもあらうけれど、随分考へ物だよ。あのひとの事なら、内でも時々話が
よ
出て、何処にどうしてゐるかしらんつて、案じないぢやないけれど、阿父さんも能くお
いか
言ひのさ、如何に何だつて、余り貫一の仕打が憎いつて。成程それは、お前との約束ね、
ほご
とし
それを反古にしたと云ふので、 齢 の若いものの事だから腹も立たう、立たうけれど、
ちつと
お前自分の身の上も 些 は考へて見るが可いわね。子供の内からああして世話になつ
て、全く内のお蔭でともかくもあれだけにもなつたのぢやないか、その恩も有れば、義
どこ ちつ
理も有るのだらう。そこ 所 を 些 と考へたら、あれぎり家出をして了ふなんて、あん
つらあて
なまあ 面 抵 がましい仕打振をするつてが有るものかね。
それぢやあの約束を反古にして、もうお前には用は無いからどうでも
ひとり
独 で勝手に
かりそめ
為るが可い、と云ふやうな不人情なことを 仮 初 にも為たのぢやなし、鴫沢の家は譲
のぞみ
さ
らうし、 所 望 なら洋行も為せやうとまで言ふのぢやないか。それは一時は腹も立たう
けれど、好く了簡して前後を考へて見たら、万更訳の解らない話をしてゐるのぢやない
ばち
のだもの、私達の顔を立ててくれたつて、そんなに 罰 も当りはしまいと思ふのさ。さ
まけ
さ
うしてお 剰 に、阿父さんから十分に訳を言つて、頭を低げないばかりにして頼んだの
こつち
はず
あんま
ぢやないかね。だから 此 方 には少しも無理は無い 筈 だのに、貫一が 余 り身の程
すぎ
を知らな 過 るよ。
おんがへし
それはね、阿父さんが昔あの人の親の世話になつた事があるさうさ、その 恩
返
ゆきどこ
からだ
なら、 行 処 の無い 躯 を十五の時から引取つて、高等学校を卒業するまでに仕上
げたから、それで十分だらうぢやないか。
しかた
全く、お前、貫一の 為 方 は増長してゐるのだよ。それだから、阿父さんだつて、私
かはゆ
こつち
だつて、ああされて見ると決して 可 愛 くはないのだからね、今更 此 方 から捜出して、
とやかう言ふほどの事はありはしないよ。それぢや何ぼ何でも不見識とやらぢやないか」
きら
おそ
いまし
その不見識とやらを 嫌 ふよりは、別に嫌ふべく、 懼 るべく、 警 むべき事あら
ひそか おもひはか
ずや、と母は 私 に
慮
れるなり。
おとつ
おつか
「 阿 父 さんや 阿 母 さんの身になつたら、さう思ふのは無理も無いけれど、どうもこ
のままぢや私が気が済まないんですもの。今になつて考へて見ると、貫一さんが悪いの
でなし、阿父さん阿母さんが悪いのでなし、全く私一人が悪かつたばかりに、貫一さん
には阿父さん阿母さんを恨ませるし、阿父さん阿母さんには貫一さんを悪く思はせたの
だから、やつぱり私が仲へ入つて、元々通に為なければ済まないと思ふんですから、貫
一さんの悪いのは、どうぞ私に免じて、今までの事は水に流して了つて、改めて貫一さ
んを内の養子にして下さいな。若しさうなれば、私もそれで苦労が
なくな
滅 るのだから、
きつと体も丈夫になるに違無いから、是非さう云ふ事に阿父さんにも頼んで下さいな、
ねえ、阿母さん。さうして下さらないと、私は段々体を悪くするわ」
かく言出でし宮が胸は、ここに
ことごと
ざんげ
尽
くその罪を 懺 悔 したらんやうに、多少の涼
きを覚ゆるなりき。
かへ
せゐ
「そんなに言ふのなら、 還 つて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為で体
が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか」
たま
「いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実に 耐 らな
い心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれ
い
ふしあはせ
ど、あれから急に――さうね、何と謂つたら可いのだらう――私があんなに 不 仕 合
しま
な身分にして 了 つたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、
おそろし
ほか
可 恐 いやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。 外 には何も望は無いから、ど
うかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話
をして貰つたら、どんなに
うれし
ふさ
嬉 からうと、そんな事ばかり考へては 鬱 いでゐるので
さしあたり
す。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、 差
当 阿母さんから好くこの訳
をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから」
なげくび
されども母は 投 首 して、
かんがへ
「私の 考 量 ぢや、どうも今更ねえ……」
「阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰
はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまい
から……」
「お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……」
「可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせ
うから、私はにはしないから、不承知なら不承知でも可いの」
なみだぐ
せきごころ
涙 含 みつつ宮が 焦
心 になれるを、母は打惑ひて、
「まあ、お聞きよ。それは、ね、……」
「阿母さん、可いわ――私、可いの」
よ
「可かないよ」
「可かなくつても可いわ」
「あれ、まあ、……何だね」
「どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……」
ほとばし
おさ
せきく
とど
我にもあらで 迸
る泣声を、つと袖に 抑 へても、宮は 急 来 る涙を 止 めかね
たり。
をかし
「何もお前、泣くことは無いぢやないか。 可 笑 な人だよ、だからお前の言ふことは解
つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……」
りようけん
「可いわ。そんなら、さうで私にも 了
簡 があるから、どうとも私は自分で為るわ」
「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で
為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」
「…………」
おとつ
「帰つたら 阿 父 さんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」
おつか
たのみがひ
い
「だから、 阿 母 さんは私の心を知らないのだから、 頼
効 が無い、と謂ふのよ」
たんと
「 多 度 お言ひな」
「言ふわ」
ひばち ふち とん きせる はた
よそゆきもち しばら
真顔作れる母は 火 鉢 の 縁 に 丁 と 煙 管 を 撃 けば、 他 行 持 の 暫 く
から
ゆる
がんくび
乾 されて 弛 みし 雁 首 はほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。
第四章
ざしよう
あやふ
したい
頭部に受けし貫一が 挫 傷 は、 危 くも脳膜炎を続発せしむべかりしを、 肢 体
すかしよ
そくばく
に 数 個 所 の傷部とともに、その免るべからざる 若 干 の疾患を得たりしのみにて、
こうふく
お
なやま
たちゐ たす
今や日増に 康 復 の歩を趁ひて、 可 艱 しげにも自ら 起 居 を 扶 け得る身となりけ
な
つと
れば、一日一夜を為す事も無く、ベッドの上に静養を 勉 めざるべからざる病院の
ぶりよう
ほとん
う こう
無 聊 をば、 殆 ど生きながら葬られたらんやうに倦み 困 じつつ、彼は更にこの
病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。
つきそひばば
ないし
主治医も、助手も、看護婦も、 附 添 婆 も、受附も、小使も、 乃 至 患者の幾人
そば
しげしげ
も、皆目を 側 めて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の 頻 繁
やまひ
しゆつにゆう
病 を訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず 出
入 するなれ
うはさ おのづ
ひろま
ぼう
つひ そそのか
ば、 噂 は 自 から院内に 播 りて、博士の 某 さへ 終 に
唆
されて、
かいまみ
ま
はべ
びけい
垣 間 見 の歩をここに枉げられしとぞ伝へ 侍 る。始の程は何者の 美 形 とも得知れざ
りしを、医員の中に例の
くるし
なうて びじ
もら
困 められしがありて、 名 著 の美人クリ゗ムと 洩 せしよ
り、いとど人の耳を驚かし、目を
よろこば
悦
す種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて
唱はれけり。
さと
かど
さりとは彼の 暁 るべき由無けれど、何の 廉 もあらむに足近く訪はるるを心憂く思
ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふを
おもて
陽 にして訪
い
なさけ かけわな
ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さは謂へ、こは 情 の 掛 ※
[#「(箆-竹-比)/民」、233-15]と知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみ
ひととなり にく
かたち
ならで、彼は素より満枝の 為
人 を 悪 みて、その 貌 の美きを見ず、その
おもひせつ
なほ
ぬし
あやま
あだな
思
切 なるを汲まんともせざるに、 猶 かつ 主 ある身の 謬 りて 仇 名 もや立
きづか
いりく
わきい
たばなど 気 遣 はるるに就けて、貫一は彼の 入 来 るに会へば、冷き汗の 湧 出 づると
きずしよ にはか うづ
ただあやし
おのれ
しび
ともに、 創 所 の 遽 に 疼 き立ちて、 唯
異 くも 己 なる者の全く 痺 ら
とが
かひ
げ
さるるに似たるを、吾ながら心弱しと 尤 むれども 効 無かりけり。実に彼は日頃この
わづらひ
煩 を逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に
密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上に
よこた
さながらまないた
横 はれれば、 宛 然 爼 板 に
うを
むなし
まか
しあはせ
かきむし
上れる 魚 の如く、 空 く他の為すに 委 するのみなる 仕 合 を、
掻
らんと
もだ
ばかりに 悶 ゆるなり。
くるし まくらもと
みいだ
ひるが
かかる 苦 き 枕
頭 に彼は又驚くべき事実を 見 出 しつつ、 飜 へつて己を
およ
わらぶとん
はり
顧れば、測らざる累の既に 逮 べる迷惑は、その 藁 蒲 団 の内に 針 の包れたる心地
さんぶ わづら
かへ
しちぶ
して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に 三 分 を 患 ひて、内に 却 つて 七 分
けねん
わにぶち
を憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ 懸 念 せしが、果して 鰐 淵 は彼と満枝
ほぼすい
との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をも 略 推
し得たるなり。
わづらし
と き
あだ
こころ こ
おぼし
例の 煩
き人は今日も訪ひ来つ、しかも 仇 ならず 意 を籠めたりと 覚 き
見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか
よせつ
あなた
帰り行くべくも見えず。貫一は 寄 付 けじとやうに 彼 方 を向きて、覚めながら目を
ふさ
ふ
つきそひばば
いでゆ
うかが
塞 ぎていと静に臥したり。 附 添 婆 の折から 出 行 きしを 候 ひて、満枝は椅
にじ
子を 躙 り寄せつつ、
はざま
あなた
間 さん、間さん。 貴 方 、貴方」
「
はし
と枕の 端 を指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起
あなた
ねがほ さしのぞ
ちてベッドの 彼 方 へ廻り行きて、彼の 寐 顔 を 差 覗 きつ。
「間さん」
猶答へざりけるを、軽く肩の
あたり うごか
まね
辺 を 撼 せば、貫一はさるをも知らざる 為 はし
なつか
かねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の 可 懐 し
かたち
げに差寄りたる 態 を改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けた
るまま、
わたくし
ちよつ
私
貴方に 些 とお話をして置かなければならない事があるのでございますか
「
ら、お聞き下さいまし」
ゐら
「あ、まだ 在 しつたのですか」
「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」
「…………」
「外でもございませんが……」
へだて
な
うとま
ねがへ
彼の 隔 無く身近に狎るるを 可 忌 しと思へば、貫一はわざと 寐 返 りて、椅子を
かた
置きたる 方 に向直り、
こちら
「どうぞ 此 方 へ」
さと
この心を 暁 れる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチ゗フにベッドを
あつか
や
かひ
打ちて、かくまでに 遇 はれながら、なほこの人を慕はでは已まぬ我身かと、 効 無
もてあそ
はづかし
たたず
すぐ
くも余に軽く 弄
ばるるを 可 愧 うて 佇 みたり。されども貫一は 直 に席を
移さざる満枝の為に、再び
ことば
せ
言 を費さんとも為ざりけり。
きがさ
気 嵩 なる彼は胸に余して、聞えよがしに、
けいべつ
なぜわたくし
「、貴方には 軽 蔑 されてゐる事を知りながら、何為
私
腹を立てることが出来
ないのでせう。実に貴方は!」
とら
ふる
せきぜん
まなこ
満枝は彼の枕を 捉 へて 顫 ひしが、貫一の 寂 然 として 眼 を閉ぢたるに
ますますいらだ
益
苛 ちて、
あんま ひど
おつしや
余 り 酷 うございますよ。間さん、何とか 有 仰 つて下さいましな」
「
にが
ひきゆが
彼は堪へざらんやうに 苦 りたる口元を 引 歪 めて、
ありがた
「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは 難 有 迷惑で……」
おつしや
「何と 有 仰 います!」
「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」
「貴方、何と……
」
まゆ あ
まなこ ふた
満枝は 眉 を昂げて詰寄せたり。貫一は仰ぎて 眼 を 塞 ぎぬ。
もと
おのれ
素 より彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相の 己 に対しては更に
はなはだし
てくだ
おもて あらは
甚
きを加ふるをも善く知れり。満枝が 手 管 は、今その 外 に 顕 せるや
け
こら
いさか
うに決して内に 怺 へかねたるにはあらず、かくしてその人と 諍 ふも、またはざる
いささ
ほのあか
かがや
恋の内に 聊 か楽む道なるを思へるなり。涙 微 紅 めたるに 耀 きて、いつか宿
あかつき はなびら
しとど
暁
の
葩
に露の 津 々 なる。
せる
「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。
わたくし
私
も
たびたび
はなは
貴方に 度 々 来て戴くのは 甚 だ迷惑なのですから」
「御迷惑は始から存じてをります」
「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」
「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」
「まあ、さうです」
「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふ
うつと
いか
なさ
と何でも 鬱 陶 しがつて、如何に何でもそんなに 作 るものぢやございませんよ。その
事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどん
こま
いや
おつしや
なに 窮 つてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭なことを 有 仰 つた
ちつと
のです。私 些 もかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あ
そばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」
うけこたへ
せ
聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて 応
答 だに為ざるなり。
とう
いや
「実は 疾 からお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭な事を自分
かへ
の口から吹聴らしく、 却 つて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずに
さん
おつしや
をつたのでございますが、鰐淵 様 のかれこれ 有 仰 るのは今に始つた事ではないの
こま
に
で、もう私実に 窮 つてをるのでございます。始終好い加減なことを申しては遁げてを
るのですけれど、鰐淵さんは私が貴方をこんなに……と云ふ事は御存じなかつたのです
から、それで済んでをりましたけれど、貴方が御入院あそばしてから、私かうして始終
しげしげ
たびたび
お訪ね申しますし、鰐淵さんも 頻 繁 いらつしやるので、 度 々 お目に懸るところ
おつしや
から、何とかお想ひなすつたのでございませう。それで、この間は到頭それを 有 仰
つて、訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろと有仰るのぢやございませんか。私為方
しま
がありませんから、お約束をしたと申して 了 ひました」
ほうたい
もた
したりがほ ゆる
うちまも
「え!」と貫一は 繃 帯 したる頭を 擡 げて、彼の 有 為 顔 を 赦 し難く 打 目 戍
あやまち
ふぜい
たもと ひざ かきの
れり。満枝はさすが
過
を悔いたる 風 情 にて、やをら左の 袂 を 膝 に 掻 載
ぼたん つぼみ
そろ
もみうら ふり まさぐ
とがめ おそ
せ、 牡 丹 の 莟 の如く 揃 へる 紅 絹 裏 の 振 を 弄 りつつ、彼の 咎 を 懼
めづかひ
るる 目 遣 してゐたり。
け
「実に怪しからん!
ばか
※ [#「言+(「荒」の「亡」の代わりに「曷-日-勹」)」、238-8]
おつしや
なことを 有 仰 つたものです」
しを
萎 るる満枝を尻目に掛けて、
「もう可いから、早くお還り下さい」
かつ
いかり
なかば
たい
ようぶ きずしよ
彼を 喝 せし 怒 に任せて、 半 起したりし 体 を投倒せば、 腰 部 の 創 所
あ
えた
うめ
こと まど
を強く抵てて、得堪へず 呻 き苦むを、不意なりければ満枝は 殊 に 惑 ひて、
どこ
「どう遊ばして? 何処ぞお痛みですか」
よぎ
はらひの
手早く夜着を揚げんとすれば、 払 退 けて、
「もうお還り下さい」
そびら
にはか うちしづま
言放ちて貫一は例の 背 を差向けて、 遽 に 打
鎮 りゐたり。
わたくし
私
還りません!
「
おつしや
貴方がさう酷く 有 仰 れば、以上還りません。いつまでも
からだ
おとなし
居られる 躯 ではないのでございますから、
順
く還るやうにして還して下さい
まし」
ドゕ あ
いりきた
いとはしたなくて立てる満枝は 闥 の啓くに驚かされぬ。 入 来 れるは、
つきそひばば
ドクトル
附 添 婆 か、あらず。看護婦か、あらず。 国 手 の回診か、あらず。小使か、あ
らず。あらず!
ごましほらしや
にじゆうまわし まと
かいひ
ゆうぜん
胡 麻 塩 羅 紗 の地厚なる 二 重 外 套 を 絡 へる 魁 肥 の老紳士は 悠 然 とし
いりきた
ありさま
ひとし
おもて い
て 入 来 りしが、内の 光 景 を見ると 斉 く胸悪き色はつとその 面 に出でぬ。
すこ あわ
あらは
しとや
かが
満枝は心に 少 く 慌 てたれど、さしも 顕 さで、 雍 かに小腰を 屈 めて、
いで
「おや、お 出 あそばしまし」
「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」
いんぎん
かなつぼまなこ
同く 慇 懃 に会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる 金 壺 眼 は光を
たくまし
べつけん
ふ
パロキシマ きた
逞 う女の横顔を 瞥 見 せり。静に臥したる貫一は 発
作 の 来 れる如き苦
ただゆき
悩を感じつつ、身を起して 直 行 を迎ふれば、
え
え
「どうぢやな。好え方がお見舞に来てをつて下さるで、可えの」
うちつけ
ことば
とみ いらへ
打 付 に過ぎし 言 を二人ともに快からず思へば、 頓 に 答 は無くて、その
しら
い
ひと
いか
場の 白 けたるを、さこそと謂はんやうに直行の 独 り笑ふなりき。如何に答ふべきか。
いひと
おもひわづら
むづか
如何に 言 釈 くべきか、如何に処すべきかを 思
煩 へる貫一は 艱 しげなる顔
やや
わるび
てあぶり
を 稍 内向けたるに、今はなかなか 悪 怯 れもせで満枝は椅子の前なる 手 炉 に寄り
ぬ。
「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又お
せはし
忙 いところを度々お見舞下されては
いたみい
よ
痛 入 ります。それにこれの病気も最早快うなるばかりじやで御心配には及ばんで、
い
以来お出で下さるのは何分お断り申しまする」
いひくろ
つらにく
言 黒 めたる邪魔立を満枝は 面 憎 がりて、
ついで
「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々 次 手 がありますのでございます
から、その御心配には及びません」
まなこ
なまじひ
くるし
かたはら
直行の 眼 は再び輝けり。貫一は
憖
に彼を 窘 めじと、
傍
より
ことば
言 を添へぬ。
かへ
わたくし
「毎度お訪ね下さるので、 却 つて
私
は迷惑致すのですから、どうか貴方から
しかるべく
可
然 御断り下さるやうに」
「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さ
らんやうに、のう」
「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、
わたくし
私
差控へませう」
な
うちみや
おもて ひきめぐら
あら
満枝は色を作して直行を 打 見 遣 りつつ、その 面 を 引
廻 して、やがて 非
かた まも
ぬ 方 を目戍りたり。
け
「いや、いや、な、決して、そんな訳ぢや……」
あんま
余 りな御挨拶で!
「
おぼしめ
おつしや
女だと 思 召 して 有 仰 るのかは存じませんが、それま
さしづ
よろし
でのお 指 図 は受けませんで 宜 うございます」
「いや、そんなに悪う取られては
はなは
ひつきようあんた
甚 だ困る、 畢
竟 貴 方 の為を思ひますじや
よ
に因つて……」
「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で
わたくし ふため
私
の 不 為 になるのでございませ
う」
こころづき
「それにお 心
着 が無い?」
ろう
たくみ
その能く用ゐる微笑を 弄 して、直行は 巧 に温顔を作れるなり。
ややせきた
満枝は 稍 急 立 ちぬ。
「ございません」
「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方も
をなご
でいり
お若けりや間も若い。若い男の所へ若い 女 子 が度々 出 入 したら、そんな事は無うて
やす
え
も、人がかれこれ言ひ 易 い、可えですか、そしたら、間はとにかくじや、
あかがしさん
からだ きず
赤 樫 様 と云ふ者のある貴方の 躯 に 疵 が付く。そりや、不為ぢやありますま
いか、ああ」
おのれ
はなはだし
し
陰には 己 自ら更に
甚
き不為を強ひながら、人の口といふもののかくまで
をか
に重宝なるが可笑し、と満枝は思ひつつも、
ありがた
うつくし
「それは御深切に 難 有 う存じます。私はとにかく、間さんはこれからお
美
い
御妻君をお持ち遊ばす大事のお
からだ
躯 でゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑
これからつつし
遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私 自 今
慎 みます
でございます」
えら
「これは 太 い失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴
うそ
いは
うれし
方のやうな方と 嘘 にもかれこれ 言 るるんぢやから、どんなにも 嬉 いぢやらう、
わし
す
私 のやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為
まいにな」
まね
貫一は苦々しさに聞かざる 為 してゐたり。
「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」
「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」
ゐら
しげしげ
「それこそ、御妻君が 在 つしやるのですから、余り 頻 繁 上りますと……」
こび
くちおほひ
はぢがま
後は得言はで打笑める目元の 媚 、ハンカチ゗フを 口
蔽 にしたる 羞 含 しさ
など、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。
いで
わし
「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心してお 出 かな。 私 は赤樫
さんの処へ行つて言ひますぞ」
おつしや
わたくしこなた
「はい、 有 仰 つて下さいまし。
私
此 方 へ度々お見舞に出ますことは、宅で
あなた
も存じてをるのでございますから、唯今も 貴 方 から御注意を受けたのでございますが、
私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へま
かへ
する訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんは 却 つて私の伺ふのを
うるさ おぼしめ
懊 悩 く 思 召 してゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお
めざはり
目 障 か知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そ
なさ
よろし
んなに 作 らなくても 宜 いではございませんか。
たく
いで
然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、 宅 へお 出 にな
おかへりみち
おけが
ま
つた 御 帰 途 にこの御怪我なんでございませう。それに、未だ私済みません事は、
つのかみざか
いで
あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、 津 守 坂 へお 出 なさる方がお
みち
近いとさう申してお勧め申すと、その 途 でこの御災難でございませう。で私考へるほ
ど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すの
で、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実
に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでお
よろこび
喜
が無いの
でございませう」
つら
うらめ
み
彼はいと 辛 しとやうに、 恨 しとやうに、さては悲しとやうにも直行を視るなり
けり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、
ひそか かなつぼまなこ
とろか
ながめい
窃 に 金 壺 眼 の一角を 溶 しつつ 眺 入 るにぞありける。
いか
えら
「さやうかな。如何さま、それで善う解りましたじや。 太 い御深切な事で、間もさぞ
わし
満足ぢやらうと思ひまする。又 私 からも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、
お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに
おも
念 うて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか
しりぞく
卻 るやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふか
お
らで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措けんで。年寄と云ふ者は、これで
きら
とかく 嫌 はるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、あ
あ」
あかひげ ひね
けしき ぬすみみ
赤 髭 を 拈 り拈りて、直行は女の 気 色 を 偸 視 つ。
もちろん
「さやうでございます。お年寄は 勿 論 結構でございますけれど、どう致しても若い
ものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう
くちやかまし
口
喧 くてなりませんのです」
きむづかし
「ぢや、口喧うも、 気
難 うもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん?
えら
太 う嫌うたもんですな」
もつと
尤 も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。
「
こつち
さき
かひ
いくら 此 方 から好きましても、 他 で嫌はれましては、何の 効 もございませんわ」
あんた
こつち
「さやう、な。けど、 貴 方 のやうな方が 此 方 から好いたと言うたら、どんな者でも
いや
可厭言ふ者は、そりや無い」
おつしや
「あんな事を 有 仰 つて!
いかが
如 何 でございますか、私そんな覚はございませんから、
一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
そら
ゆりあ
椅子も傾くばかりに身を 反 して、彼はわざとらしく 揺 上 げ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
いかが
「 如 何 ですか、さう云ふ事は」
たれ からす しゆう
うそぶ
誰 か 烏 の 雌 雄 を知らんとやうに、貫一は冷然として 嘯 けり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
はず
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう 筈 はございませんわ。ほ
ほほほほほほほ」
ゆづ
はや
そのわざとらしさは彼にも 遜 らじとばかり、満枝は笑ひ 囃 せり。
まなこ
ひと かがや
直行が 眼 は誰を見るとしも無くて 独 り 耀 けり。
いとま
「それでは私もうお 暇 を致します」
かへり
わし
そこ
「ほう、もう、お 帰 去 かな。 私 もはや行かん成らんで、其所まで御一処に」
ちよつ
にしくろもんちよう
はなは
「いえ、私 些 と、あの、 西 黒 門 町 へ寄りますでございますから、 甚
だ失礼でございますが……」
よろし
そこ
「まあ、 宜 い。其処まで」
こんにち
「いえ、本当に 今 日 は……」
あさひざ
まとま
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの 旭 座 の株式一件な、あれがつい 纏 りさう
うちあはせ
ことぶき
とりたて
ぢやで、この際お 打
合 をして置かんと、『 琴 吹 』の 収 債 が面白うない。
さいはひ
ちよつ
お目に掛つたのが 幸
ぢやから、 些 とそのお話を」
みようにち
ち
「では、 明
日 にでも又、今日は些と急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌
はれてはどうもならん」
しばら おし
つひ
らつ
あと
姑 く 推 問答の末彼は 終 に満枝を 拉 し去れり。 迹 に貫一は悪夢の覚めたる
しきり ためいき
せ
まくら
如く 連 に 太 息 いたりしが、やがて為ん方無げに 枕 に就きてよりは、見るべ
かた
た はてしな
き物もあらぬ 方 に、止だ 果 無 く目を奪れゐたり。
第五章
ひば もみ
檜葉、 樅 などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場
うららか
ゆたか おきあま
ぼちぼち
は、唯 麗
なる日影のみぞ 饒 に 置 余 して、そこらの梅の 点 々 と咲初め
おのづか
ふぜい
いろか い
あはれ
たるも、 自
ら怠り勝に 風 情 作らずと見ゆれど、春の 色 香 に出でたるは 憐
うちかす
きな
ひよ
なきしき
むべく、 打 霞 める空に来馴るる 鵯 のいとどしく 鳴 頻 りて、午後二時を過ぎぬ
せきせき
ゆる
る院内の 寂 々 たるに、たまたま響くは患者の廊下を 緩 う行くなり。
つれづれ
ほとん
枕の上の 徒 然 は、この時人を圧して 殆 ど重きを覚えしめんとす。書見せると
から
げ
あやし
見えし貫一は 辛 うじて夢を結びゐたり。彼は実に夢ならでは有得べからざる 怪 き
もてあそ
みづから
ねむり
弄
ばれて、
躬
も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ 睡 の中に
夢に
とらは
はしな
おどろか
やうや ものう
そばだ
囚 れしを、 端 無 く人の呼ぶに
駭
されて、 漸 く 慵 き枕を 欹 てつ。
がくぜん
ひとみ こら
かたはら
愕 然 として彼は 瞳 を 凝 せり。ベッドの
傍
に立てるは、その怪き夢の
あらは
あひはな
み
中に 顕 れて、終始 相 離 れざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視れども
とひきた
まぎれ
い
訪 来 れる満枝に 紛 あらざりき。とは謂へ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。
うち
さるはその真ならんよりなほ夢の 中 なるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさ
あたり かがやかし
いつつむつ
も常に増して、夢に見るべき姿などのやうに 四 辺 も 可
輝 く、 五 六 歳 ばかり
わかや
むそぢ
つまも
若 ぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路に余れる 夫 有 てる身と
も
たれ
誰 かは想ふべき。
たいわんいちよう
かざり
ほんこうまきゑ くし
髪を 台 湾 銀 杏 といふに結びて、 飾 とてはわざと 本 甲 蒔 絵 の 櫛 の
さ
くろちりめん
むそううら こうりんふう
いろいり
みを挿したり。 黒 縮 緬 の羽織に 夢 想 裏 に 光 琳 風 の春の野を 色 入 に
なんどじま
こいあづき さらさちりめん しこんしちん
染めて、 納 戸 縞 の御召の下に 濃 小 豆 の 更 紗 縮 緬 、 紫 根 七 糸 に
がつきつくし
はんえり
ぬひ
えり
にほ
楽 器 尽 の昼夜帯して、 半 襟 は色糸の 縫 ある肉色なるが、 頸 の白きを 匂
きらきら うるさ
こと
はすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは 燦 爛 と 煩 し。今日は 殊
お
えた
とが
ふぜい
たたず
すがたかぎりな
に推して来にけるを、得堪へず心の 尤 むらん 風 情 にて 佇 める 姿
限 無 く
なまめ
嬌 きて見ゆ。
やすみ
わたくしあが はず
「お 寝 のところを飛んだ失礼を致しました。
私
上 る 筈 ではないのでござ
いますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、
ちよつ
些 と伺ひまし
こんにち
ごかんにん
たのでございますから、 今 日 のところはどうか 御 堪 忍 あそばして」
ゆるし
はばか
ただよは
彼の 許 を得んまでは席に着くをだに 憚 る如く、満枝は
漂
しげになほ立
てるなり。
「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
いかり おさ
ことば
内に燃ゆる 憤 を 抑 ふるとともに貫一の 言 は絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら
いませう……間さん、かうなのでございますよ」
「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」
おつしや
「あら、そんなことを 有 仰 らずに……」
よろし
宜 いのでござ
こんにち
きず
「失礼します。 今 日 は腰の傷部が又痛みますので」
きつ
あん
「おや、それは、お 劇 いことはお 在 なさらないのでございますか」
「いえ、なに」
ゐら
「どうぞお楽に 在 しつて」
ぐんないじま かいまきひきか
ふ
貫一は無雑作に 郡 内 縞 の 掻 巻 引 被 けて臥しけるを、疎略あらせじと満枝
まめやか かしづ
おのれ
よ
は 勤 篤 に 冊 きて、やがて 己 も始めて椅子に倚れり。
あなた
にく
「 貴 方 の前でこんな事は私申上げ 難 いのでございますけれど、実は、あの一昨々日
でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べる
おつしや
ゆしま
から何でも附合へと 有 仰 るので、 湯 島 の天神の茶屋へ寄りましたのでございます。
いやらし
しつこ
さう致すと、案の定 可 厭 い事をもうもう 執 濃 く有仰るのでございます。さうして
うたぐ
飽くまで貴方の事を 疑 つて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。
としがひ
あの方もお 年 効 の無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体
おぼしめ
たはむ
私を何と 思 召 してゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者に 戯
れるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日
なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その
場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でござ
と
やつあたり
いますから、取んだ 八
当 で貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がご
あし
ざいませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、 悪 からず……。
今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐ
らつしやいませうけれど、そこは
よろし
宜 いやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴
ちよつと
方が何とか 些
でも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのも
きらひぬ
いで
わたくし
また何でございませうけれど、 嫌 抜 いてお 在 あそばす
私
のやうな者と訳で
おつしや
もあるやうに 有 仰 られるのは、さぞお辛くてゐらつしやいませうけれど、私のやう
な者に見込れたのが因果とお
あきら
諦 め遊ばしまし。
なほ
貴方も因果なれば、私も……私は 猶 因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因
い
果と謂ふのでございませうね」
きんぎせる たばこ ひと ほのぼの くゆ
はかな
金 煙 管 の 莨 の 独 り 杳 眇 と 燻 るを手にせるまま、満枝は 儚 さの
やるかたな
しを
いら
がん
遣 方 無 げに 萎 れゐたり。さるをも見向かず、 答 へず、 頑 として石の如く
よこた
横 はれる貫一。
せめ
「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、 切 てさうと諦めてでも
とほ
ゐて下されば、それだけでも私幾分か思が 透 つたやうな気が致すのでございます。
いつぞや
いつ
間さん。貴方は 過 日 私がこんなに思つてゐることを何日までもお忘れないやうに
と申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやい
いかが
ませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。 如 何 なのでございますよ」
きは
勢ひて問詰むれば、 極 めて事も無げに、
「忘れません」
おもて したたか うらみみ またたき せ
ドゕ
満枝は彼の 面 を
絶
に 怨 視 て
瞬
も為ず、その時人声して 闥 は
しづか あ
徐 に啓きぬ。
ばば
案内せる附添の 婆 は戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、
こころまどひ
てい
つつまし
今更内の様子を 心
惑 せらるる 体 にて、彼にさへ 可 慎 う小声に言付けつつ
名刺を渡せり。
ちら
しらがまじ
ひげ
あたり
満枝は如何なる人かと 瞥 と見るに、 白 髪 交 りの 髯 は長く胸の 辺 に垂れて、
おもざしや
いやし
たけ
もと
篤実の 面 貌 痩 せたれども 賤 からず、 長 は高しとにあらねど、 素 よりにもあ
おのづか よはひ おとろへ
ぬ
そび
らざりし肉の 自
ら 齢 の
衰
に削れたれば、冬枯の峰に抽けるやうに 聳
おくゆかし
えても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが 奥
幽 くて、誰とも知らねどさす
おろそか
まらうど
疎
ならず覚えて、彼は早くもこの
賓
の席を設けて待てるなりき。
がに
しぎさわりゆうぞう しる
貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、 鴫 沢 隆 三 と 誌 した
おどろき
たちま
ひるがへ
り。色を失へる貫一はその堪へかぬる 驚 愕 に駆れて、 忽 ち身を
飜
して
そなた
ほとん
つひ
其 方 を見向かんとせしが、 幾 ど同時に又枕して、 終 に動かず。狂ひ出でんずる
きびし
もゆ
いか
まなこ
息を 厳 く閉ぢて、 燃 るばかりに 瞋 れる 眼 は放たず名刺を見入りたりしが、
つつ
まろ い
さしも内なる千万無量の思を 裹 める一点の涙は不覚に 滾 び出でぬ。こは怪しと思ひ
つつも婆は、
こちら
「 此 方 へお通し申しませうで……」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」
人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、
けがらは
し
涜
しと投返せば床の上に落ちぬ。彼は強
ふさ
ふる
だきすく
いかり
ひて目を 塞 ぎ、身の 顫 ふをば吾と吾手に 抱 窘 めて、恨は忘れずとも 憤 は忍
むちう
さかだ うごめ
うち
ぶべしと、 撻 たんやうにも己を制すれば、髪は 逆 竪 ち 蠢 きて、頭脳の 裏 に
わきのぼ
みだれさ
沸 騰 る血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと 乱 螫 すなり。彼
なほ
やうや
おそ
めざし
はこれと争ひて 猶 も抑へぬ。面色は 漸 く変じて灰の如し。婆は 懼 れたる 目 色
を客の方へ忍ばせて、
「御存じないお方なので?」
「一向知らん。人違だらうから、
ことわ
断 つて返すが可い」
おつしや
「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を 有 仰 つてお尋ね……」
「ああ、何でも可いから早く断つて」
「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」
(五)の二
しぎさわ
婆は 鴫 沢 の前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を
うしろさま つか
し
おもて やはら
後
様 に 束 ねたるままに受取らで、強ひて 面 を 和 ぐるも苦しげに見えぬ。
だいぶ
「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、 大 分 久い前の事だから、
お忘れになつたのか知れん、それでは
よろし
わし ぢか
宜 い。 私 が 直 にお目に掛らう。この部屋
は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」
き
かた
屹と思案せる鴫沢の椅子ある 方 に進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席を
すす
薦 めぬ。
わし
「貫一さん、 私 だよ。久う会はんので忘れられたかのう」
すみ
あるひ
室の 隅 に婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、 或 は指図も
もちきた
し、又自ら 持 来 りて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に
あなた
しさい
注目せるなり。貫一は知らざる如く、 彼 方 を向きて答へず。 仔 細 こそあれとは覚ゆ
よそ
あはれ をかし
れど、例のこの人の無愛想よ、と満枝は 傍 に見つつも 憫 に 可 笑 かりき。
わし
とう
さつぱり
「貫一さんや、 私 だ。 疾 にも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が 全 然 知れ
おとつひ
とりあへず
んので。 一 昨 日 ふと聞出したから 不 取 敢 かうして出向いたのだが、病気はどうか
おほけが
のう。何か、 大 怪 我 ださうではないか」
なほ
はらだたし
さいはひ
猶 も答のあらざるを 腹
立 くは思へど、満枝の居るを
幸
に、
ね
「睡てをりますですかな」
いかが
「はい、 如 何 でございますか」
くるし
よそ
うかが
彼はこの長者の 窘 めるを 傍 に見かねて、貫一が枕に近く差寄りて 窺 へば、
しとね すりつ
せきあ
かたいき
涙の顔を 褥 に 擦 付 けて、 急 上 げ急上げ 肩 息 してゐたり。何事とも覚えず
おどろか
ことば いだ
ちと
驚 されしを、色にも見せず、怪まるるをも 言 に 出 さず、 些 の心着さへあ
もてな
らぬやうに 擬 して、
「お客様がいらつしやいましたよ」
し
「今も言ひました通り、一向識らん方なのですから、お還し申して下さい」
おもて
すい
彼は 面 を伏せて又言はず、満枝は早くもその意を 推 して、また多くは問はず席
かへ
に 復 りて、
おつしや
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと 有 仰 るのでございます」
ひげ おしも
せんかたな
にがわらひ
長き 髯 を 推 揉 みつつ鴫沢は 為 方 無 さに 苦
笑 して、
いか
「人違とは如何なことでも!
わし ま
ろうもう
五年や七年会はんでも 私 は未だそれほど 老 耄 はせ
んのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へ
ばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向
いて来たのでのう、そこに免じて、
ちよつ
些 とでも会うて貰ひませう」
あいさつ
挨 拶 如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是
非が無い。
よ
然し、貫一さん、能う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らん
これまで しかた
おだやか
が、お前さんの 爾 来 の 為 方 、又今日のこの始末は、ちと 妥 当 ならんではある
をぢ
まいか。とにかく鴫沢の 翁 に対してかう為たものではなからうと思ふがどうであらう
の。成程お前さんの方にも言分はあらう、それも聞きに来た。私の方にも
すこし
少 く言分
の無いではない。それも聞かせたい。然し、かうしてわざわざ尋ねて来たものであるか
こちら
けつ
ら、 此 方 では既に折れて出てゐるのだ。さうしてお前さんに会うて話と謂ふは、 決
そちら
して身勝手な事を言ひに来たぢやない、やはり 其 方 の身の上に就いて善かれと計ひた
ろうばしんせつ
い 老 婆 心 切 。私の方ではその当時に在つてもお前さんを棄てた覚は無し、又
こんにち
かんがへ
今 日 も五年前も同じ 考 量 で居るのだ。それを、まあ、若い人の血気と謂ふので
こんにち
あらう。唯一図に思ひ込んで誤解されたのか、私は如何にも残念でならん。 今 日 ま
でも誤解されてゐるのは
いよい
愈 よ心外だで、お前さんの住所の知れ次第早速出掛けて来
およ こちら りようけん
たのだ。 凡 そ 此 方 の 了
簡 を誤解されてゐるほど心苦い事は無い。人の為に
はか
わづか ゆきちがひ
き
謀 つて、さうして 僅 の 行
違 から恨まれる、恩に被せうとて謀つたではない
たれ
むつまし
が、恨まれやうとは 誰 にしても思はん。で、ああして
睦
う一家族で居つて、私
たちも死水を取つて貰ふ
つもり
いんしんふつう なか
意 であつたものを、僅の行違から 音 信 不 通 の 間 に
わし
ねざめ
なつて了ふと謂ふは、何ともはや浅ましい次第で、 私 も誠に 寐 覚 が悪からうと謂ふ
をば
どこ
もとどほ
もの、実に 姨 とも言暮してゐるのだ。私の方では何処までも 旧 通 りになつて貰う
と
て、早く隠居でもしたいのだ。それも然しお前さんの了簡が釈けんでは話が出来ん。そ
ぢき
の話は二の次としても、差当り誤解されてゐる一条だ。会うて篤と話をしたら 直 に訳
は分らうと思ふで、是非一通りは聞いて貰ひたい。その上でも心が釈けん事なら、どう
まゐ
そもそ
もそれまで。私はお前さんの親御の墓へ 詣 つて、のう、 抑 もお前さんを引取つて
こんにち
ありようの
から 今 日 までの来歴を 在 様 陳 べて、鴫沢はこれこれの事を為、かうかう思ひま
する、けれども成行でかう云ふ始末になりましたのは、残念ながら致方が無い、と
ちやん
ことわり
いちぶん
丁 とお 分 疏 を言うて、そして私は私の 一 分 を立ててから立派に縁を切りた
いのだ。のう。はや五年も
たより せ
便 を為んのだから、お前さんは縁を切つた気であらうが、
私の方では未だ縁は切らんのだ。
をぢ
私は考へる、たとへばこの鴫沢の 翁 の為た事が不都合であらうか知れん、けれども
いか
間貫一たる者は唯一度の不都合ぐらゐは如何にも我慢をしてくれんければ成るまいかと
おだやか
思ふのだ。又その我慢が成らんならば、も少し 妥 当 に事を為てもらひたかつた。私
そこ
の方に言分のあると謂ふのは其処だ。言はせればその通り私にも言分はある。然し、そ
いかさま
わび
んな事を言ひに来たではない、私の方にも 如 何 様 手落があつたで、その 詫 も言はう
こちら
かはり
し、又昔も今も 此 方 には心持に 異 変 は無いのだから、それが第一に知らせたい。翁
こんにち
が久しぶりで来たのだ、のう、貫一さん、 今 日 は何も言はずに清う会うてくれ」
かつ
あやし
曾 て聞かざりし恋人が身の上の秘密よ、と満枝は 奇 き興を覚えて耳を傾けぬ。
がづよ
ものい
やうや こら
我 強 くも貫一のなほ 言 はんとはせざるに、 漸 く 怺 へかねたる鴫沢の翁は
し
やにはに椅子を起ちて、強ひてもその顔見んと歩み寄れり。事の由は知るべきやう無け
ことば
ことわり
むげ うち
れど、この客の 言 を尽せるにも
理
聞えて、無下に 打 も棄てられず、されど
いだ
も貫一が唯涙を流して一語を 出 さず、いと善く識るらん人をば覚無しと言へる、これ
いはれ
おしはから
くみ
にもなかなか 所 謂 はあらんと 推
測 るれば、一も二も無く満枝は恋人に 与 して
すく
この場の急を 拯 はんと思へるなり。
まくらもと うかが
あつ
いま
枕
頭 を 窺 ひつつ危む如く眉を 攅 めて、鴫沢の 未 だ言出でざる時、
わたくし
どなたさま
私
看病に参つてをります者でございますが、 何 方 様 でゐらつしやいますか
「
いちりようにち
うとうと
存じませんが、この 一 両 日 病人は熱の気味で始終 昏 々 いたして、時々
うはごと
おこ
譫 語 のやうな事を申して、泣いたり、 慍 つたり致すのでございますが、……」
ねぢむ
ことさら
頭を 捻 向 けて満枝に対せる鴫沢の顔の色は、この時
故
に解きたりと見えぬ。
「はあ、は、さやうですかな」
「先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼
を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございま
ぢき と
すから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱も 直 に除れまするさうでご
いで
こんにち
いただ
ざいますから、又改めてお 出 を願ひたう存じます。 今 日 は私御名刺を 戴 いて
こころよく
くはし
置きまして、お 軽
快 なり次第私から 悉 くお話を致しますでございます」
「はあ、それはそれは」
「実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまし
しかた
て、何も病気の事で 為 方 もございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。
こんにち
いかが
まる
今 日 は又 如 何 致したのでございますか、昨日とは 全 で反対であの通り黙りきつ
むやみ
よろし
てをりますのですが、却つて 無 闇 なことを申されるよりは始末が 宜 いでございま
す」
をぢ うちひそ
し
か
ゑみ
かくても始末は善しと謂ふかと、 翁 は 打 蹙 むべきを強ひて易へたるやうの 笑
もら
いひをは
を 洩 せば、満枝はその 言 了 せしを喜べるやうに笑ひぬ。彼は婆を呼びて湯を易へ、
すす
更に熱き茶を 薦 めて、再び客を席に着かしめぬ。
「さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申し
しる
て――名刺を差上げて置きまする、これに住所も 誌 してあります――貴方は失礼なが
わにぶち
らやはり 鰐 淵 さんの御親戚ででも?」
「はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、
それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致し
てをります」
「はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり
もら
いかが
嫁を 娶 うたと聞きましたが、 如 何 いたしましたな」
彼はこの美き看病人の素性知らまほしさに、あらぬ問をも設けたるなり。
「さやうな事はついに存じませんですが」
「はて、さうとばかり思うてをりましたに」
かたち
きらきら
よそほひかざ
容 儀 人の娘とは見えず、妻とも見えず、しかも 絢 粲 しう 装
飾 れる様は
たぐひ
ものごし
はしはしおのづか
色を売る 儔 にやと疑はれざるにはあらねど、 言 辞 行儀の 端 々
自
らさ
ひつきよう
いつぱん
すい
にもあらざる、 畢
竟 これ何者と、鴫沢は容易にその 一 斑 をも 推 し得ざるな
りけり。されども、懇意と謂ふも、手伝と謂ふも、皆
いつはり
詐
ならんとは想ひぬ。
ただし
しるべ
正 き筋の 知 辺 にはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、
も
深き訳ある内証者なるべし。若しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して
しようね
くづ
つな
性 根 も腐れ、身持も 頽 れたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を 繋 ぐべきも
かくのごと やから でいり
つひ
わざはひ
のにあらず。 如
此 き 輩 を 出 入 せしむる鴫沢の家は、 終 に不慮の
禍
を招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中
にはか おそれ
遽 に 懼 を生じて、さては彼の
ことば い
さいはひ
こんにち ひとまづたちかへ
な
恨深く 言 を容れざるを
幸
に、 今 日 は 一 先 立 還 りて、尚ほ一層の
と
きた べ
おそ
うち
探索と一番の熟考とを遂げて後、 来 る可くは再び来らんも 晩 からず、と失望の 裏
別に幾分の得るところあるを
ひそか
私 に喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りま
するで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
わたくし
しこんしほぜ
うち
「はい、 私
は」と 紫 根 塩 瀬 の手提の 中 より小形の名刺を取出だして、
はなは
甚 だ失礼でございますが」
「
あかがしみつえ
おつしや
「はい、これは。 赤 樫 満 枝 さまと 有 仰 いますか」
お
ますます
つまも
この女の素性に於ける彼の疑は
益
暗くなりぬ。 夫 有 てる身の我は顔に名刺を
にげな
うら
なほつつまし
用意せるも似気無し、まして裏面に横文字を入れたるは、 猶 可 慎 からず。応対の
しとやか
ひとな
みなり
あるひ ヨウロッパ
雍 にして 人 馴 れたる、 服 装 などの当世風に貴族的なる、 或 は 欧 羅 巴
的女子職業に自営せる人などならずや。但しその
あまり いろよ
きは
余 に 色 美 きが、又さる 際 には
ふさはし
つひ
うるはし なぞ
相 応 からずも覚えて、こは 終 に一題の
麗
き 謎 を彼に与ふるに過ぎざりき。
ぶあしらひ いきどほ
なぞ
鴫沢の翁は貫一の 冷
遇 に
慍
るをも忘れて、この 謎 の為に苦められつつ病
院を辞し去れり。
いりきた
ゐたけだか
客を送り出でて満枝の内に 入 来 れば、ベッドの上に貫一の 居 丈 高 に起直りて、
やせすが
こぶし
とつとつ
ひと
痩 尽 れたる 拳 を握りつつ、 咄 々 、言はで忍びし無念に堪へずして、 独 り
しつし ひとみ こら
疾 視 の 瞳 を 凝 すに会へり。
第六章
すじつぜん
わにぶち
あかしとも
いづこ
数 日 前 より 鰐 淵 が家は 燈
点 る頃を期して、 何 処 より来るとも知らぬ
ろうによ とは
よはひむそぢ
かたふ
一人の 老 女 に 訪 るるが例となりぬ。その人は 齢 六十路余に 傾 きて、顔は
しわ
はだへきよ
きりがみ かたち
よし
皺 みたれど 膚
清 く、 切 髪 の 容 などなかなか 由 ありげにて、風俗も見
ただ
ちやみじん おめしちりめん ひふ
さらさ
苦からず、 唯 異様なるは 茶 微 塵 の 御 召 縮 緬 の被風をも着ながら、 更 紗 の
うはがけ
やはず
うすきたな ゴムぞこ
小風呂敷包に油紙の 上 掛 したるを 矢 筈 に負ひて、 薄
穢 き 護 謨 底 の運動靴
は
を履いたり。
あるじ
あいにく
たび
所用は折入つて 主 に会ひたしとなり。 生 憎 にも来る 度 他出中なりけれど、
ほいな
やうや
本意無げにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯は 漸 く怪し
おもひそ
と 思 初 めぬ。
きた
こと
まなざしすご
彼のあだかも三日続けて 来 れる日、その挙動の常ならず、 殊 には 眼 色 凄 く、
はばかり
まも
ひと うちゑ
すずろさむ
憚 も無く人を目戍りては、時ならぬに 独 り 打 笑 む顔の 坐
寒 きまでに
おそろし
い
うかが
たが
おとな
可 恐 きは、狂人なるべし、しかも夜に入るを 候 ひ、時をも 差 へず 訪 ひ来
たたり な
にはか おそれ いだ
るなど、我家に 祟 を作すにはあらずや、とお峯は 遽 に 懼 を 抱 きて、とて
も一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日
かへ
は用意して、四時頃にはや 還 り来にけるなり。
あなた
い
ちよい
「どうも 貴 方 、あれは気違ですよ。それでも品の良いことは、 些 とまあ旗本か何
い
や
おもなが
かの隠居さんと謂つたやうな、然し一体、鼻の高い、目の大きい、痩せた 面 長 な、
こは
おもて
怖 い顔なんですね。 戸 外 へ来て案内する時のその声といふものが、実に無いんです
いつ
きま
しとやか
ゆつく
よ。 毎 でも 極 つて、『頼みます、はい頼みます』とかう
雍
に、 緩 り二声
ぞつ
いや
言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然として、ああ可厭だ。何だつて又あんな気違な
んぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」
お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。
あかし とも
燈 の 点 るには未だ間ありと見るなるべし。直行は
むづか
まゆ
くちびる
可 難 しげに 眉 を寄せ、
唇
を引結びて、
「何者か知らんて、一向
こころあたり
心
当 と謂うては無い。名は言はんて?」
「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」
「さうして今晩来るのか」
たま
「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては 耐 り
ませんから、貴方本当に来ましたら、
とつく
なす
篤 り説諭して、もう来ないやうに 作 つて下
さいよ」
さき
「そりや受合へん。 他 が気違ぢやもの」
わたし
「気違だから 私 も気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか」
いくら
おれ
「 幾 多 頼まれたてて、気違ぢやもの、 俺 も為やうは無い」
つま
たのみな ことば
すくな
頼める 夫 のさしも思はで 頼 無 き 言 に、お峯は力落してかつは 尠 からず
あわつ
慌 るなり。
心
や
「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡して遣りませう」
うちわら
直行は 打 笑 へり。
え
「まあ、そんなに騒がんとも可え」
「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」
え
「誰も気違の好えものは無い」
「それ、御覧なさいな」
「何じや」
ろうによ
ごうりよく
はた
知らず、その 老 女 は何者、狂か、あらざるか、 合
力 か、物売か、 将
あるじ しりびと
あらは
うち
ちかづ
主 の 知 人 か、正体の 顕 るべき時はかかる 裏 にも一分時毎に 近 くなり
き。
ひねもす
をし
もら
やうや
終 日 灰色に打曇りて、薄日をだに 吝 みて 洩 さざりし空は 漸 く暮れんとし
いやま
けし
せま
しの
て、 弥 増 す寒さは 怪 からず人に 逼 れば、幾分の 凌 ぎにもと家々の戸は例よりも
ささ
ややあか
あつこほり
いんいん
早く 鎖 れて、なほ 稍 明 くその色 厚
氷 を懸けたる如き西の空より、 隠 々
きた
にはか
さまよ
ちまた
として寂き余光の遠く 来 れるが、 遽 に去るに忍びざらんやうに 彷 徨 へる 巷
ここかしこ
ほのほ
の 此 処 彼 処 に、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白き 焔 を放てり。
ま
ろうによ
ふきいだ
一陣の風は砂を捲きて起りぬ。怪しの 老 女 はこの風に 吹 出 されたるが如く姿
さかだ
はたはた ひるがへ すそたもと なびか
を顕はせり。切髪は乱れ 逆 竪 ちて、 披 払 と
飄
る 裾
袂 に 靡 されつ
ただよは
たど
い
漂
しげに行きつ留りつ、町の南側を 辿 り辿りて、鰐淵が住へる横町に入りぬ。
つ
じゆうそう しのびがへし
いしべい あふ
ひともと
銃
槍 の 忍
返 を打ちたる 石 塀 を 溢 れて 一 本 の梅の咲誇れるを、
ななめ
かど
斜 に軒ラムプの照せるがその 門 なり。
ほとん
きた
あ
彼は 殆 ど我家に帰り 来 れると見ゆる態度にて、と寄りて戸を啓けんとしたれど、
しとやか ゆる
啓かざりければ、かの
雍
に 緩 しと謂ふ声して、
「頼みます、はい、頼みます」
すく
風はと鳴りて過ぎぬ。この声を聞きしお峯は 竦 みて立たず。
「貴方、来ましたよ」
「うん、あれか」
げ
こなべだて
ひばち かど ちよく お
実に直行も気味好からぬ声とは思へり。 小 鍋 立 せる 火 鉢 の 角 に 猪 口 を措き、
あかし も
をんな
ま
燈 を持て来よと 婢 に命じて、玄関に出でけるが、先づ戸の内より、
どなた
「はい 何 方 ですな」
だんな
「 旦 那 はお宅でございませうか」
どなた
「居りますが、 何 方 で」
つぶや
しきり
答はあらで、 呟 くか、くか、小声ながら 頻 に物言ふが聞ゆるのみ。
どなた
おつしや
「 何 方 ですか、お名前は何と 有 仰 るな」
「お目に掛れば解ります。何に致せ、おおお、まあ、梅が好く咲きましたぢやございま
はな
よろし
こちら
せんか。当日の挿花はやつぱりこの梅が 宜 からうと存じます。さあ、どうぞ 此 方
へお入り下さいまし、御遠慮無しに、さあ」
あ
うちたた
はげし あない
啓けんとせしに啓かざれば、彼は戸を 打 叩 きて 劇 く 案 内 す。さては狂人な
お
ひとたび
るよと直行も迷惑したれど、このままにては逐ふとも立去るまじきに、 一 度 は会う
せ
たが
ろうによ
てとにもかくにも為んと、心ならずも戸を開けば、聞きしに 差 はぬ 老 女 は
いりきた
入 来 れり。
わし
「鰐淵は 私 じやが、何ぞ用かな」
「おお、おまへが鰐淵か!」
のりいだ
おもて ひとみ
たちま
つと 乗 出 してその 面 に 瞳 を据ゑられたる直行は、鬼気に襲はれて 忽
をのの
つくづ
まなこ
しわで
ち寒く 戦 けるなり。 熟 くと見入る 眼 を放つと共に、老女は 皺 手 に顔を
おほ
さめざめ なきいだ
あき
かなつぼまなこ こら
掩 ひて 潜 々 と 泣 出 せり。 呆 れ果てたる直行は 金 壺 眼 を 凝 してそ
の泣くを眺むる外はあらざりけり。
彼は泣きて泣きて止まず。
わし
「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、 私 に用と云ふのは?」
おのづか くづ
うちしを
もうねん
朽木の 自
ら 頽 れ行くらんやうにも 打 萎 れて見えし老女は、 猛 然 とし
しぼ
て振仰ぎ、血声を 搾 りて、
おほかたり
「この 大
騙 め!」
「何ぢやと!」
まさゆき
「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の…… 雅 之 のや
かいのくに
たけだだいぜんだゆう
うな孝行者が……先祖を尋ぬれば、 甲 斐 国 の住人 武 田 大 膳 太 夫
しんげんにゆうどう でんぷやじん
信 玄 入 道 、 田 夫 野 人 の為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来
かしわい すう
わたし
る。 柏 井 の 鈴 ちやんがお嫁に来てくれれば、 私 の仕合は言ふまでもない、雅
やぶ
之もどんなにか嬉からう。子を捨てる 藪 は有つても、懲役に遣る親は無いぞ。二十七
みず
よ
だま
にはなつても世間不見のあの雅之、能うも能うもおのれは 瞞 したな!
さあ、さあさ
かたき
讐 を討つから立合ひなさい」
ひとりご
直行は舌を吐きて 独 語 ちぬ。
「あ、いよいよ気違じやわい」
いかり
ぎようそう
もののけ
見る見る老女の 怒 は激して、 形
相 漸くおどろおどろしく、 物 怪 などの
いたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯の
まばら
疎 なるを
きば
あらは
こ
まなじり
ほか
牙 の如く 露 して、一念の凝れる
眸
は直行の 外 を見ず、
なくな
つれあひ
くれぐれ
ひとりつこ
歿 られた 良 人 から 懇 々 も頼まれた秘蔵の秘蔵の 一 人 子 、それを瞞し
「
このほう
あなど
ふらち
ておのれが懲役に遣つたのだ。 此 方 を女と 侮 つてさやうな 不 埒 を致したか。
なぎなた
長 刀 の一手も心得てゐるぞよ。恐入つたか」
たちま
ここちよ
彼は 忽 ちさも 心 地 快 げに笑へり。
ゆる
すう
はれ
「さうあらうとも、 赦 します。内には 鈴 ちやんが今日を 曠 と着飾つて、その美し
きりよう
さと謂ふものは! ほんにまああんな 縹 致 と云ひ、気立と云ひ、諸芸も出来れば、
よみ かき はりしごと
くび
読 、 書 、 針 仕 事 、そんなことは言つてゐるところではない。 頸 を長くして待
いで
つてお 在 だのに、早く帰つて来ないと云ふ法が有るものですか。大きにまあお世話様
はきもの
でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、 履 物 はここに在るよ。な
あに、おまへ私はね、で行くから訳は無いとも」
せは
そこ
かく言ふ間も 忙 しげに我が靴を脱ぎて、其処に直すと見れば、背負ひし風呂敷包の
なかゆひ
うはがけ
ひろ
中 結 を釈きて、直行が前に 上 掛 の油紙を 披 げたり。
ぢき
「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。 直 に落ちるから、早く
落してお了ひなさい」
もてあつか
ほそ
いづこ
さすがに 持
扱 ひて直行の途方に暮れたるを、老女は目を 纖 めて、 何 処 より
出づらんやとばかり世にも
あやし
はな
ゆる
いひし
せいき
奇 き声を 発 ちて 緩 く笑ひぬ。彼は 謂 知 らぬ 凄 気
そびや
に打れて、覚えず肩を 聳 かせり。
よ
懲役と言ひ、雅之と言ふに因りて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務
あくらまさゆき
も
ぜん
者なる 飽 浦 雅 之 は、私書偽造罪を以つて彼の被告としてこの十数日 前 、罰金十
じゆうきんこ
げ
円、 重 禁 錮 一箇年に処せられしなり。実にその母なり。その母はこれが為に乱心
せしか。
しかおも
なほ
爾 思 へりしのみにて直行はその他に 猶 も思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。
はか
雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼の 謀 りて陥
れたるなり。
うち
か
彼等の用ゐる悪手段の 中 に、人の借るを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その
はなしあひ
とな
ま いざな
しか
ただ
一判にても 話
合 の上は貸さんと 称 へて先づ 誘 ひ、 然 る後、 但 し証書の
てい
しかるべ
体 を成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に 可 然 き親
しるべ
お
もと
族 知 己 などの名義を私用して、在合ふ印章を捺さしめ、 固 より懇意上の内約なれば
いつはり
とが
偽
なるを 咎 めず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむる
その
いつ しようび
なり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、 一 は 焦 眉 の急に迫り、
いつ
こそく
一 は期限内にだに返弁せば何事もあらじと 姑 息 して、この術中には陥るなりけり。
期にびて還さざらんか、彼は
たちま そうが あらは
忽 ち 爪 牙 を 露 し、陰に告訴の意を示してこれ
おびやか
むさぼ
な
脅
し、散々に不当の利を 貪 りて、その肉尽き、骨枯るるの後、猶ほく無き
を
くだん
慾は、更に 件 の連帯者に対して寝耳に水の強制執行を加ふるなり。これを
おもてざた
おい たれ
表 沙 汰 にせば債務者は論無う刑法の罪人たらざるべからず、ここに 於 て 誰 か恐
ろうばい
つく
ななとこがり ちようだつ
慌し、 狼 狽 し、悩乱し、号泣し、死力を 竭 して 七 所 借 の 調
達 を計ら
ざらん。この時魔の如き力は
のんど やく
すべ
喉 を 扼 してその背をつ、人の死と生とは 渾 て彼が
手中に在りて緊握せらる、欲するところとして得られざるは無し。
わな
かか
雅之もこの ※ [#「(箆-竹-比)/民」、265-5]に 繋 りて学友の父の名を仮りて連
はたん
印者に私用したりき。事の 破 綻 に及びて、不幸にも相識れる学友は折から海外に遊学
して在らず、しかも父なる人は彼を識らざりしより、その間の調停成らずして、彼の行
つひ
為は 終 に第二百十条の問ふところとなりぬ。
らつ
あまつ
つゑ
よろぼ
法律は鉄腕の如く雅之を 拉 し去りて、 剰 さへ 杖 に離れ、涙に 蹌 ふ老母を
かたはら
ああ
いかばかり
か
ば道の 傍
にして顧ざりけり。 噫 、母は 幾
許 この子に思を繋けたりけるよ。
つか
こよな
かしわい すず
親に 仕 へて、此上無う優かりしを、 柏 井 の 鈴 とて美き娘をも見立てて、この秋
めあは
くれ
ひ かた
には 妻 すべかりしを、又この歳暮には援く 方 有りて、新に興るべき鉄道会社に好
や
よはひ
をは
地位を得んと頼めしを、事は皆休みぬ、彼は人の 歯 せざる国法の罪人となり 了 れ
ちじよく
り。 耻 辱 、憤恨、悲歎、憂愁、心を置惑ひてこの母は終に発狂せるなり。
むやく ことば
ただてやはらか つま
し
無 益 に 言 を用ゐんより、 唯 手 柔 に 撮 み出すに如かじと、直行は少し
さから
逆 はずして、
も
よろし
「ああ 宜 いが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここでは可かんから
おもて
外 へ行かう。さあ一処に来た」
かしら ふ
狂女は苦々しげに 頭 を掉りて、
うそ
だま
「お前さんの云ふことは皆 妄 だ。その手で雅之を 瞞 したのだらう。それ、それ見な
だまくらか
さい、親孝行の、正直者の雅之を 瞞
着 して、散々金を取つた上に懲役に遣つたに
いつさつ
ま
相違無いと云ふ 一 札 をこの通り入れたぢやないか、これでも未だしい顔をしてゐる
のか」
うちひろ
うつりが
打 披 げたりし油紙を取りて直行の目先へ突付くれば、何を包みし 移 香 にや、
せいき
おびただし
う
なほ
や
胸悪き一種の 腥 気 ありて
夥
く鼻を撲ちぬ。直行は 猶 も逆はで已む無く
おもて そむ
こをどり
面 を 背 けたるを、狂女は目をりつつ 雀 躍 して、
「おおおお、あれあれ!
うれし
嬉 い、自然とお前さんの首が段々細くなつて来る。
これは
ああ、それそれ、今にもう落ちる」
あわ
せ
ききうで
地には落さじとやうに 慌 てき、油紙もて承けんと為る、その 利 腕 をやにはに
とら
こうし
おさ
すが
捉 へて直行は 格 子 の外へさんと為たり。彼は 推 れながら格子に 縋 りて
しやりむり
差 理 無 理 争ひ、
ひと
がけ
としより だましうち
「ええ、おのれは 他 をこの 崖 から突落す気だな。この 老 婦 を 騙
討 に為る
のだな」
わめ
ねぢかへ
ふみすべ
喚 きつつ身を 捻 返 して、突掛けし力の怪き強さに、直行は 踏 辷 らして尻居
はや
たちま
えりがみ
に倒るれば、彼は 囃 し立てて笑ふなり。 忽 ち起上りし直行は彼の 衿 上 を
かいつか
とのかた つきや
きし
掻 掴 みて、力まかせに 外 方 へ 突 遣 り、手早く雨戸を引かんとせしに、 軋 み
ひま
かけもど
すさまし
あら
て動かざる 間 に又 駈 戻 りて、狂女はその
凄
き顔を戸口に 顕 はせり。余り
おそろ
う
ひる
とざ
の 可 恐 しさに直行は吾を忘れてその顔をはたと撲ち、 痿 むところを得たりと 鎖 せ
ば、外より割るるばかりに戸を叩きて、
「さあ、首を渡せ。大事な証文も取上げて了つたな、大事な靴も取つたな。
くつどろぼう おほかたり
靴 盗 坊 、 大
騙 !
よこ
首を寄来せ」
たたず
うかが
ぬきあしさしあし
きた
直行は 佇 みて様子を 候 ひゐたり。 抜 足 差 足 忍び 来 れる妻は、後よ
り小声に呼びて、
「貴方、どうしました」
ゆびさ
ゴムぐつ
夫は戸の外を 指 してなほ去らざるを示せり。お峯は土間に 護 謨 靴 と油紙との
おちち
よしな
おも わづら
遺 散 れるを見付けて、 由 無 き質を取りけるよと 思 ひ 煩 へる折しも、
「頼みます、はい、頼みますよ」
どうぶるひ
とどま
と例の声は聞えぬ。お峯は 胴
顫 して、長くここに 留 るに堪へず、夫を勧め
い
て奥に入りにけり。
のち たゆ
うかが
戸叩く音は 後 も 撓 まず響きたりしが、直行の裏口より出でて 窺 ひける時は、
ふきすさ かど
ひせつ
ほのか
風 吹 荒 ぶ 門 の梅の 飛 雪 の如く乱点して、燈火の 微 に照す処その影は見えざ
るなりき。
と
あるじ
をんな
次の日も例刻になれば狂女は又訪ひ来れり。 主 は不在なりとて、 婢 をして彼
のこ
ふたしな
あ
けしき
の 遺 せし 二 品 を返さしめけるに、前夜の暴れに暴れし 気 色 はなくて、殊勝に聞
分けて帰り行きぬ。
きた
おそ
お峯はその翌日も必ず 来 るべきを 懼 れて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。
をんな いだ
よし
ぢき
又試に 婢 を 出 して不在の 由 を言はしめしに、こたびは 直 に立去らで、
かへり
「それぢやお 帰 来 までここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるの
で、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」
かどぐち うづくま
いひこしら
すか
彼は 戸 口 に
蹲
りて動かず。婢は様々に 言
作 へて 賺 しけれど、一声
い
いしぼとけ
や
も耳には入らざらんやうに、 石
仏 の如く応ぜざるなり。彼は已む無くこれを奥へ
せ すべ
すてお
告げぬ。直行も為ん 術 あらねば 棄 措 きたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。
こころぐるし
さわ
お峯は 心
苦 がりて、この上は唯警察の手を借らんなど 噪 ぐを、直行は人を
わづらは
おひはら
煩 すべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに 逐 払 ふべき
てだて
な
やどなしいぬ
手 立 のありやと責むるに、害を為すにもあらねば、 宿 無 犬 の寝たると想ひて
こころ かく
こころ か
ことさら
意 に 介 るなとのみ。 意 に介くまじき如きを
故
に夫には学ばじ、と彼は
はらだたし
いちじ
はか
腹
立 く思へり。この 一 事 のみにあらず、お峯は常に夫の共に 謀 ると謂ふこと
をんなわらべ あなど
くちをし
うらめし
無くて、 女
童 と 侮 れるやうに取合はぬ風あるを、 口 惜 くも 可 恨 く
たよりな
も、又或時は心細さの 便 無 き余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざると
しんめい みようご よ
やほよろづ
しやべつな
ころをば 神 明 の 冥 護 に拠らんと、 八 百 万 の神といふ神は 差 別 無 く敬神
ぜん
せるが中にも、ここに数年 前 より新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神
あが
みようじよう
おんな おおみあかりのみこと
体と 崇 めたるは、その光紫の一大 明
星 にて、 御 名 を 大
御
明 尊
てんちこんとん
じつげつ いま
たかまがはら
と申す。 天 地 渾 沌 として 日 月 も 未 だ成らざりし先 高 天 原 に出現まし
よ
つかさ
もろもろ
すべ
ませしに因りて、天上天下万物の 司 と仰ぎ、
諸
の足らざるを補ひ、 総 て欠
まつた
おほみちかひ
やすらけ
けたるを 完 うせしめんの 大 御 誓 をもて国土百姓を
寧
く恵ませ給ふとな
つと
いつけ まもりがみ
り。彼は 夙 に起信して、この尊をば一身 一 家 の 守 護 神 と敬ひ奉り、事と有れば
こら
ひとへ
祈念を 凝 して 偏 に頼み聞ゆるにぞありける。
きよ
みあかし
ささ
おんてきたいさん
この夜は別して身を 浄 め、 御 燈 の数を 献 げて、災難即滅、 怨 敵 退 散
こ
あくるひ ひともしごろ
の祈願を籠めたりしが、 翌 日 の 点 燈 頃 ともなれば、又来にけり。夫は出でて
いま
も ののし さわ
をどりい
いかに
未 だ帰らざれば、今日若し 罵 り 噪 ぎて、内に 躍 入 ることもやあらば 如 何
わかれ
どうてん
いだ や
せんと、前後の 別 知らぬばかりに 動 顛 して、取次には婢を 出 し遣り、
みづから かみだな
かけつ
ふるひごゑ うちあ
ぬきん
のりと
躬 は 神 棚 の前に 駈 着 け、 顫
声 を 打 揚 げ、丹精を 抽 でて 祝 詞
の
あへ
きのふ
かへり
を宣りゐたり。狂女は不在と聞きて 敢 て争はず、 昨 日 の如く、ここにて 帰 来 を待
おなじ
うづくま
さ
い
たんとて、 同 き処に同き形して
蹲
れり。婢は格子を鎖し固めて内に入りける
しばら
にはか
あるひ ののし
が、 暫 くは音も為ざりしに、 遽 に物語る如き、 或 は 罵 る如き声の
しきり
あるじ
かへりき
とら
頻 に聞ゆるより 主 の知らで 帰 来 て、 捉 へられたるにはあらずや、と台所
さしのぞ
の小窓より 差 覗 けば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語ると
ころは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここの
あるじ
主 に欺かれて無実の罪に陥されし
あとさきぶぞろひ
段々を、 前 後 不 揃 に泣いつ怒りつ訴ふるなり。
第七章
かたき
え
ゆふべゆふべ
子の 讐 なる直行が首を獲んとして 夕
々 に狂女の訪ひ来ること八日にべり。
お
かどぐち
浅ましとは思へど、逐ひて去らしむべきにあらず、又 門 口 に居たりとて人を騒がす
すておか
にもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて 棄 措 るるなりき。直行が言へりし如
ひつきよう
はなは えら
く、 畢 竟 彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たると 太 だ 択 ばざ
ちりめん ひふ
たそが
つくば
るべけれど、 縮 緬 の被風着たる人の形の 黄 昏 るる門の薄寒きに 踞 ひて、灰色
きりがみ かきみだ
ようせい
まなこ ねめそら
の 剪 髪 を 掻 乱 し、 妖 星 の光にも似たる 眼 を 睨 反 して、笑ふかと見
いか
おのれ
そこひ
れば泣き、泣くかと見れば 憤 り、 己 の胸のやうに 際 も知らず黒く濁れる夕暮
かなしみ
なまぐさ
ひね
の空に向ひてその 悲
と恨とを訴へ、
腥
き油紙を 拈 りては人の首を獲んを
つひ
たたり な
待つなる狂女! よし今は何等の害を加へずとも、 終 にはこの家に 祟 を作すべき
か
望を繋くるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄を
つんざ
いはほ
ためし
めつ
みなごろし
劈 き、 巌 を砕くの 例 、ましてや家を 滅 し、人を
鏖
にすなど、
ちり
やす
おそろ
ひと
塵 を吹くよりも 易 かるべきに、 可 恐 しや事無くてあれかしと、お峯は 独 り
いひし
いた
謂 知 らず心を 傷 むるなり。
け
おのれ
たくみ
夫は決して雅之の私書偽造を 己 の陥れし 巧 なりとは彼に告げざれば、悪は
まさし
こなた
おのづか
正 く狂女の子に在りて、 此 方 に恨を受くべき筋は無く、
自
らかかる事も
いでく
かしだふれ
しよせん
出 来 るは家業の上の勝負にて、又一方には 貸
倒 の損耗あるを思へば、 所 詮
たふ
あきなひ
おのづか こころ
仆 し、仆さるるは
商
の習と、お峯は
自
ら 意 を強うして、この
ろうによ くるひ
な
わざ
つゆ
よす
老 女 の 狂 を発せしを、夫の為せる 業 とは 毫 も思ひ 寄 るにあらざりき。さ
い
なさけ
げ
こた
ふしな
は謂へ、人の親の切なる 情 を思へば、実にさぞと肝に 徹 ふる 節 無 きにもあらざ
るめり。大方かかる筋より人は恨まれて、
あやし わざはひ
あ
奇 き
殃
にも遭ふなればと
ただおもひすご
きはまりな おそれ
唯 思 過 されては 窮
無 き 恐 怖 の募るのみ。
しばらく
日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我等の命を絶たんが為にて、 多 時
かど
もうしゆう ねんりき こ
のろ
門 に居て動かざるは、その 妄
執 の 念 力 を籠めて夫婦を 呪 ふにあらずや、
たと
とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地は 譬 へん方無く悩されぬ。されば狂女
かど
おおみあかしのみこと おんまへ うちしき のりと
の 門 に在る間は、 大
御
明
尊 の 御 前 に 打 頻 り 祝 詞 を唱ふるにあ
しの あた
うち
ちと ゆるみ
こうこう かがや
らざれば 凌 ぐ 能 はず。かかる 中 にも心に 些 の 弛 あれば、 煌 々 と 耀
わた
みあかし かげにはか くら
てんそん みかたち おぼろ
き 遍 れる 御 燈 の 影
遽 に 晦 み行きて、 天 尊 の 御 像 も 朧 に
きえう
わがめ
のうじゆ
も
おうご
消 失 せなんと 吾 目 に見ゆるは、 納 受 の恵に泄れ、 擁 護 の綱も切れ果つるやと、
こ
けむり
彼は身も世も忘るるばかりに念を籠め、 烟 を立て、汗を流して神慮を驚かすにぞあ
やり
く
おぢおそ
りける。 槍 は降りても必ず来べし、と 震 摺 れながら待たれし九日目の例刻になり
いか
さえかへ
はり
ぬれど、如何にしたりけん狂女は見えず。鋭く 冱 返 りたるこの日の寒気は 鍼 もて
はだへ
う
はげしきかぜいか さけ
膚 に霜を種うらんやうに覚えしめぬ。外には 烈
風
怒 り 号 びて、樹を鳴
いへ うごか
ま
こいし
し、 屋 を 撼 し、砂を捲き、 礫 を飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるる
ほこり おほは
くら
につしよくき
こと ものおそろし
埃 に 蔽 れて、一天 晦 く乱れ、 日
色 黄に濁りて、 殊 に 物 可 恐 き
けはひ
夕暮の 気 勢 なり。
かど ともし ガラス
くつがへ
鰐淵が 門 の 燈 は 硝 子 を二面まで吹落されて、火は消え、ラムプは
覆
り
あかし
あざやか あるじ
ちやぶだい
ひばち か
たり。内の 燈 火 は常より
鮮
に 主 が晩酌の 喫
台 を照し、 火 鉢 に架け
なべ
ふつふつ くん
ひとちようしか
いま
たる 鍋 の物は 沸 々 と 薫 じて、はや 一 銚 子 更へたるに、 未 だ狂女の
おとづれ
なかば
あんど
もてあそ
ふぜい
音 容 はあらず。お峯は 半 危みつつも幾分の 安 堵 の思を
弄
び喜ぶ 風 情
にて、
いつ
「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もう 毎 もきつと来るのに来ませんから、
しま
今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されて 了 ひませうから。ああ、
ほん
ごりやく
真 に天尊様の 御 利 益 があつたのだ」
ちよく
夫が差せる 猪 口 を受けて、
あひ
いただ
いし
「お 相 をしませうかね。何は無くともこんな好い心持の時に 戴 くとお 美 いもの
あなた
ですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、 貴 方 。おやおやもう七時廻つたんで
いよいよ
きま
とじまり さ
すよ。そんなら 断 然 今晩は来ないと 極 りましたね。ぢや、 戸 締 を為して了ひ
ほん
せいせい
しん
ませうか、 真 に今晩のやうな気の 霽 々 した、 心 の底から好い心持の事はありま
せんよ。あの気違さんぢやどんなに
いのち ちぢ
寿 を 短 めたか知れはしません。もうこれきり
ごしゆ
いし
来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。 御 酒 もお 美 いも
ただこは
きび
のですね。なあにあの婆さんが 唯 怖 いのぢやありませんよ。それは気味は悪うござ
すご
たま
いますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何と無く 凄 くて 耐 らないのです。
ぞつ
そうけだ
からだ すく
あれが来ると、悚然と、 惣 毛 竪 つて 体 が 竦 むのですもの、唯の怖いとは違ひま
とつつか
よ
すわね。それが、何だか、かう 執 着 れでもするやうな気がして、あの、それ、能く
おそろし
おつか
に
夢で 可 恐 い奴なんぞに 追 懸 けられると、迯げるには迯げられず、声を出さうとし
ても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。
ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」
か
をんな もちきた
銚子を更へて 婢 の 持 来 れば、
きん
「 金 や、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」
あんばい
「好い 塩 梅 でございます」
ごほうび
あなた
「お前には後でお菓子を 御 褒 美 に出すからね。 貴 方 、これはあの気違さんとこの頃
懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」
いや
おつしや
「あら可厭なことを 有 仰 いまし」
ふききた
おほなみ
とどろ
吹 来 り、吹去る風は 大 浪 の寄せては返す如く絶間無く 轟 きて、その
はげし
なりゆる
ひしめ
ひきちぎ
劇 きは柱などをひちひちと 鳴 揺 がし、物打倒す 犇 き、 引 断 る音、
へしお
ここかしこ
きも ひや
圧 折 る響は 此 処 彼 処 に聞えて、唯居るさへに 胆 は 冷 されぬ。長火鉢には怠らず
てつびん
は
しきり
さむさ
炭を加へ加へ、 鉄 瓶 の湯気は雲を噴くこと 頻 なれど、更に背面を圧する 寒
てつぱん
ゑ
ひ
や
は 鉄 板 などや負はさるるかと、飲めども多く酔ひ成さざるに、直行は後を牽きて已
こころいはひ
あか
ニスし
まず、お峯も 心
祝 の数を過して、その地顔の 赭 きをば仮漆布きたるやうに照
かがやか
耀
して陶然たり。
り
こ
よろこ ゑ
ゑ
もら
狂女は果して来ざりけり。 歓 び酔へるお峯も唯酔へる夫も、褒美 貰 ひし婢も、
ころほひ
ねしづま
十時近き 比
には皆 寐 鎮 りぬ。
なほ よこしま
こずゑ ははき
たわ
風は 猶 も
邪
に吹募りて、高き 梢 は 箒 の掃くが如く 撓 められ、
まばら
つひ ふきおろ
こ
さむさ ほとん
疎 に散れる星の数は 終 に 吹 下 されぬべく、層々凝れる 寒 は 殆 ど有ら
ん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色は
ますま くら
すさまじ
益 す 冥 く、益す
凄
から
たちま
つんざ
あたり いちどう
んとす。 忽 ちこの黒暗々を 劈 きて、鰐淵が裏木戸の 辺 に 一 道 の光は揚
おこ
さへぎ
わきま
りぬ。低く 発 りて物に 遮 られたれば、何の火とも 弁 へ難くて、その
ほとばしり あか けむ
もや
おぼろ あらは
迸
発 の 朱 く 烟 れる中に、母家と土蔵との影は 朧 に 顕 るるともなく奪
またた
はれて、 瞬 くばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。やや有りて、同じ
うつろ
ほどの火影の又 映 ふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも
しばしあかり
わづか
ぬす
ひらひら なや
遣らで、 少 時 明 を保ちたりしが、風の 僅 の絶間を 偸 みて、 閃 々 と納屋
のぼ
ほのほ へいぜん
あたり
へいぎは
の板戸を伝ひ、始めて 騰 れる 焔 は 炳 然 として 四 辺 を照せり。 塀 際 に添
かたち
さだか
ひて人の 形 動くと見えしが、なほ暗くて 了 然 ならず。
すそく
はびこ
ふきい
数 息 の間にして火の手は縦横に 蔓 りつつ、納屋の内に乱入れば、 噴 出 づる
くろけふり
あるひ くづ
ひきつつ
黒
烟 の渦は 或 は 頽 れ、或は畳みて、その外を
引
むとともに、見え
わた
うづたか あんたん
けふり
遍 りし家も土蔵も
堆
き
黯
の底に没して、闇は焔に破られ、焔は 烟 に
もみた
けむり
おびただし
揉 立 てられ、 烟 は更に風の為に砕かれつつも、蒸出す勢の
夥
ければ、猶
ところせ みなぎ
あやめ
かきみだ
ほ 所 狭 く 漲 りて、 文 目 も分かず 攪 乱 れたる中より爆然と鳴りて、天も焦
さだか
あきらか
げよと納屋は一面の猛火と変じてけり。かの 了 然 ならざりし形はこの時
明
に輝
く
たたず
をど
かされぬ。宵に来べかりし狂女の 佇 めるなり。 躍 り狂ふ烟の下に自若として、
おもて ただ
面 も 爛 れんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけ
げ
いか も
や
おごそか み
るかと疑はしむ。実に彼は火の如何に焚え、如何に燬くや、と
厳
に監るが如く
まなじり
ほのほ
あひまじは
眥 を裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟と 焔 との 相
雑 り、
あひあらそ
あひきほ
ふる
いみじ
し
相
争 ひ、 相 勢 ひて、力の限を互に 奮 ふをば、 妙 くも為たりとや、
そぞろゑみ もら
がんしよく
たぐ
漫 笑 を 洩 せる 顔
色 はこの世に 匹 ふべきものありとも知らず。
あれしき どよみ
ききつく
風の 暴 頻 る 響 動 に紛れて、寝耳にこれを 聞 着 る者も無かりければ、誰一人
いで さわ
めらめら げや し
くりや
出 て 噪 がざる間に、火は 烈 々 と下屋に延きて、 厨 の燃立つ底より一声
きようかん
たれ
叫
喚 せるは 誰 、狂女はとして高く笑ひぬ。
(七)の二
うちさわ ころほひ
人々出合ひて 打 騒 ぐ
比
には、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓
ほのほ いだ
いか
ごうふう
々より 焔 を 出 し、はや如何にとも為んやうあらざるなり。さしもの 強 風 なり
つと
よ
しかど、消防 力 めたりしに拠りて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時にびて鎮火
うち
するを得たり。雑踏の 裏 より怪き奴は早くも拘引せられしと伝へぬ。かの狂女の去り
やら
とらは
も 遣 ざりしが 捕 れしなり。
わにぶちかた ちりひとすぢ
もちいだ
あはれ
火元と認定せらるる 鰐 淵 方 は 塵 一 筋 だに 持 出 さずして、 憐 むべ
のこ
ただ
じんもん
き一片の焦土を 遺 したるのみ。家族の消息は 直 ちに警察の 訊 問 するところとな
をんな
からがらにげおほ
ひとし まくらもと
りぬ。 婢 は命 辛 々 迯 了 せけれども、目覚むると 斉 く 頭
面 は一面
よびすて
い
あるじ
いか
の火なるに仰天し、二声三声奥を 呼 捨 にして走り出でければ、 主 たちは如何に
なりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、
あやまち
過
など有りし
にはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。
ねつかい
かばね なかばこげただ
みいだ
熱 灰 の下より一体の 屍 の 半
焦 爛 れたるが 見 出 されぬ。目も当てら
いぶせ
あるじ
たやす
おもかげ
れず、浅ましう 悒 き限を尽したれど、 主 の妻と 輙 く弁ぜらるべき 面 影
やけのこ
ちか
くまな かきおこ
は 焚 残 れり。さてはとその 邇 くを 隈 無 く 掻 起 しけれど、他に見当るものは
おぼし あたり
こげくづ
ほりいだ
ゑ
無くて、倉前と 覚 き 辺 より始めて 焦 壊 れたる人骨を 掘 出 せり。酔ひて
にげまど
ゆゑ
むさぼ
あるじふうふ
遁 惑 ひし 故 か、 貪 りて身を忘れし故か、とにもかくにも 主 夫 婦 はこの
火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜の
けふり
烟 となりて、鰐淵の跡とては赤土と灰
もと
ちようえんたんえん
ひと
との外に 覓 むべきものもあらず、風吹迷ふ 長 烟 短 焔 の紛糾する処に、 独
り無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。
ただみち
いま かへ
別居せる 直 道 は旅行中にて 未 だ 還 らず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし
かけつ
てはず
い
時病院より 駈 着 けたり。彼は三日の後には退院すべき 手 筈 なりければ、今は全く癒
きは
さしよう
えて務を執るをも妨げざれど、事の 極 めて不慮なると、急激なると、 瑣 小 ならざ
こころまどひ
も
くるし
るとに 心
惑 のみせられて、病後の身を以てこれに当らんはいと 苦 かりける
じんすい
を、 尽 瘁 して万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。
えあ
すこやか
枕をも得挙げざりし病人の今かく
健
に起きて、常に来ては親く慰められし人の
かたくな
むなし じんよ
あひみ
ことば
頑 にも強かりしを、 空 く 燼 余 の断骨に 相 見 て、弔ふ 言 だにあらざら
にはか
まこと
あた
んとは、貫一の 遽 にその 真 をば真とし 能 はざるところなりき。人は皆死ぬべ
きものと人は皆知れるなり。されどもその常に相見る人の死ぬべきを思ふ能はず。貫一
せ
やきつく
はこの五年間の家族を迫めての一人も余さず、家倉と共に 焚 尽 されて一夜の中に
はかな
をは
ふところ
ゆゑな
儚 くなり 了 れるに会ひては、おのれが 懐 裡 の物の 故 無 く消失せにけんやう
いか
はか
にも頼み難く覚えて、かくては我身の上の今宵如何に成りなんをも 料 られざるをと、
しきり はらわた し
無常の愁は 頻 に
腸
に沁むなりけり。
あとかた
い
あは
住むべき家の 痕 跡 も無く焼失せたりと謂ふだに、見果てぬ夢の如し、まして 併
あるじ
うしな
おんようまぼろし
せて頼めし 主 夫婦を 喪 へるをや、 音 容
幻
を去らずして、ほとほと幽
さかひ
あまつさ
こう
おも
明の 界 を弁ぜず、
剰
へ久く病院の乾燥せる生活に 困 じて、この家を 懐 ふ
こと切なりければ、追慕の情は
きはま
せ
極 りて迷執し、迫めては得るところもありやと、夜
おそ
いち や
たちのきじよ
つゑ たす
の 晩 きに貫一は 市 ヶ谷なる 立 退 所 を出でて、 杖 に 扶 けられつつ程遠から
ぬ焼跡を弔へり。
連日風立ち、寒かりしに、この夜は
にはか ゆる
おぼろ
あたたか
遽 に 緩 みて、 朧 の月の色も
暖
に、
うちかす
いぶりくさ
あたり みちみ
曇るともなく 打 霞 める町筋は静に眠れり。 燻
臭 き悪気は 四 辺 に 充 満 ちて、
踏荒されし道は水にり、
もえがら うづも
やけくひやけがはら
燼
に 埋 れ、 焼 杭 焼
瓦 など所狭く積重ねた
くうち
いたがこひ えせ
ろうぜき
る 空 地 を、火元とて 板
囲 も得為ず、それとも分かぬ焼原の 狼 藉 として、鰐
いへゐ
みき
ひとつら
淵が 家 居 は全く形を失へるなり。黒焦に削れたる 幹 のみ短く残れる 一 列 の立木
かたはら
つちくれうづたか
なごり
傍
に、
塊
堆
く盛りたるは土蔵の 名 残 と踏み行けば、灰燼の熱気
の
いま
ほのか おもて う
まへづゑ
ちようぜん
は 未 だ冷めずして、 微 に 面 を撲つ。貫一は 前 杖 いて 悵
然 として
たたず
おこ
佇 めり。その立てる二三歩の前は直行が遺骨を 発 せし所なり。恨むと見ゆる死顔
きれ
あか し
い
の月は、肉の 片 の棄てられたるやうに 朱 く敷ける満地の瓦を照して、目に入るもの
りようりよう
おのづか
は皆伏し、四望の空く 寥
々 たるに、黒く点せる人の影を、彼は
自
ら
ものすご
物 凄 く顧らるるなりき。
さま
あか
立尽せる貫一が胸には、在りし家居の 状 の明かに映じて、 赭 く光れるお峯が顔も、
にが
あるじ おもて
まざまざ さしむか
苦 き口付せる 主 が 面 も眼に浮びて、 歴 々 と 相 対 へる心地もするに、
しばら
おのれ
しづか
ふ
姑 くはその境に 己 を忘れたりしが、やがて 徐 に仰ぎ、徐に俯して、さて徐
おしぬぐ
に一歩を行きては一歩を返しつつ、いとど思に沈みては、折々涙をも 推 拭 ひつ。彼
うた
せいりよう
あた
いやし
は 転 た人生の 凄
涼 を感じて禁ずる 能 はざりき。 苟 くもその親める者の半
そむ
のこ
にして離れ 乖 かざるはあらず。見よ或はかの棄てられし恨を 遺 し、或はこの奪はれ
かなしみ あ
悲
に遭ひ、前の恨の消えざるに又新なる悲を添ふ。棄つる者は去り、棄てざる
し
ゆ
われひと
よろこ
な
いた
者は逝き、として 吾 独 り在り。在るが故に 慶 ぶべきか、亡きが故に 悼 むべき
い
もと たふ
そもそ
かつ
か、在る者は積憂の中に活き、亡き者は非命の 下 に 殪 る。 抑 もこの 活 とこの
いづれ あはれ
かなし
死とは 孰 を 哀 み、孰を 悲 まん。
はんもん
さんたん
あひおなじ
吾が 煩 悶 の活を見るに、彼等が 惨 憺 の死と 相
同 からざるなし、
ただこと
いささ
くるし
但 殊 にするところは去ると留るとのみ。彼等の死ありて 聊 か吾が活の 苦 き
をも慰むべきか、吾が活ありて、始めて彼等が死の
いたまし
傷
きを弔ふに足らんか。吾が
ちよう
やぶ
ただ
腸 は断たれ、吾が心は 壊 れたり、彼等が肉は 爛 れ、彼等が骨は砕けたり。活き
しかくるし
たましひ け
うちおどろ
て 爾
苦 める身をも、なほさすがに
魂
も消ぬべく 打
駭 かしつる彼等が
しにざま
なほ
死 状 なるよ。産を失ひ、家を失ひ、 猶 も身を失ふに尋常の終を得ずして、極悪の
いま かつ かくのごと
はづかしめ
重罪の者といへども 未 だ 曾 て 如
此 き虐刑の
辱
を受けず、犬畜生の末
かよう ごう さら
めい
ある
しか
ひと
までも 箇 様 の 業 は 曝 さざるに、天か、 命 か、 或 は応報か、 然 れども 独 り
な
な
やいば ふる
吾が直行をもて世間に善を作さざる者と為すなかれ。人情は暗中に 刃 を 揮 ひ、
せいろ
かんせい
な
も
世 路 は到る処に 陥 穽 を設け、陰に陽に悪を行ひ、不善を作さざるはなし。若し吾
とが
とが
が直行の行ふところをもて 咎 むべしと為さば、誰か有りて 咎 められざらん、しかも
なほはなはだし
うす
さく
猶
甚
きを為して天も憎まず、命も 薄 んぜず、応報もこれを 避 るもの有る
さんし はづかし
たまた
を見るにあらずや。彼等の 惨 死 を
辱
むるなかれ、 適 ま奇禍を免れ得ざりし
のみ。
おも
しようぜん よしみふか
かく 念 へる貫一は 生
前 の 誼
深 かりし夫婦の死を歎きて、この永き
わかれ やるかた
いつ
別 を 遣 方 も無く悲み惜むなりき。さて何時までかここに在らんと、主の遺骨を
いだ
あたり
かばね よこた
こころわびし
出 せし 辺 を拝し、又妻の 屍 の 横 はりし処を拝して、 心
佗 く立去
らんとしたりしに、彼は怪くも
にはか
かきみだ
遽 に胸の内の 掻 乱 るる心地するとともに、失せ
やみぢ
なほしばし
し夫婦の弔ふ者もあらで 闇 路 の奥に打棄てられたるを悲く、あはれ 猶 少 時 留らず
せ
すが
やと、いと迫めて乞ひ 縋 ると覚ゆるに、行くにも忍びず、又立還りて積みたる土に
いこ
息 へり。
げ
なきがら
実に彼も家の内に居て、 遺 骸 の前に限知られず思ひ乱れんより、ここには亡き人
そば
おもひ
の 傍 にも近く、遺言に似たる或る消息をも得るらん 想 して、立てたる杖に重き
かしら
もたら
めいそう
頭 を支へて、夫婦が地下に 齎 せし念々を 冥 捜 したり。やがて彼は何の得る
しげ
はらはら ほほ
こぼ
ところや有りけん、 繁 き涙は 滂 沱 と 頬 を伝ひて 零 れぬ。
とどろ
とば きた
やけば きは とどま
夜陰に 轟 く車ありて、一散に 飛 し 来 りけるが、 焼 場 の 際 に 止 りて、
ひらり おりた
ただ
あゆみ とど
翩 と 下 立 ちし人は、 直 ちに鰐淵が跡の前に尋ね行きて 歩 を 住 めたり。
やけがはら ふみしだ
おもて もた
くだん
焼
瓦 の 踏 破 かるる音に 面 を 擡 げたる貫一は、 件 の人影の近く
すすみく
ひま
進 来 るをば、誰ならんと認むる 間 も無く、
「間さんですか」
あなた
「おお、 貴 方 は!
かへり
お 帰 来 でしたか」
その人は待ちに待たれし直道なり。貫一は
いそがはし
忙
く出迎へぬ。向ひて立てる
ふたり つきあかり おもて
おのおのくちきつ
にはか
両 箇は 月
明 に 面 を見合ひけるが、
各
口 吃 して 卒 に言ふ能は
ざるなりき。
「何とも不慮な事で、申上げやうもございません」
たび
「はい。この 度 は留守中と云ひ、別してお世話になりました」
わたくし
ま
私
は事の起りました晩は未だ病院に居りまして、かう云ふ事とは一向存じませ
「
やうや かけつ
んで、夜明になつて 漸 く 駈 着 けたやうな始末、今更申したところが愚痴に過ぎん
のですけれど、私が居りましたらまさかこんな事にはお為せ申さんかつたと、実に残念
ろうばい
でなりません。又お二人にしても余り不覚な、それしきの事に 狼 狽 される方ではな
のこりおほ
かつたに、これまでの御寿命であつたか、 残
多 い事を致しました」
ふさ
まなこ たゆ
直道は 塞 ぎし 眼 を 怠 げに開きて、
「何もかも皆焼けましたらうな」
ひとしな
「唯 一 品 、金庫が助りました外には、すつかり焼いて了ひました」
「金庫が残りました?
何が入つてゐるのですか」
かね
おも
「 貨 も少しは在りませうが、帳簿、証書の類が 主 でございます」
「貸金に関した?」
「さやうで」
「ええ、それが焼きたかつたのに!」
くちを
したた
おもて のぼ
あひい
口 惜 しとの色は 絶 かその 面 に 上 れり。貫一は彼が意見の父と 相 容 れず
としごろ
つまびら
せ
かへ
して、 年 来 別居せる内情を
詳
かに知れば、迫めてその喜ぶべきをも、 却 つ
うれひ な ゆゑ さと
てかく 憂 と為す 故 を 暁 れるなり。
さしつかへな
むし
「家の焼けたの、土蔵の落ちたのは 差 支 無 いのです。 寧 ろ焼いて了はんければ
成らんのでしたから、それは結構です。両親の
なくな
わたくし
歿 つたのも、
私
であれ、貴方
であれ、かうして泣いて悲む者は、ここに居る二人きりで、世間に誰一人……さぞ
みんな
なくな
なさけな
衆 が喜んでゐるだらうと思ふと、唯親を 喪 したのが 情 無 いばかりではない
のですよ」
せきあ
はばか
おそ
されども 堰 敢へず流るるは恩愛の涙なり。彼を 憚 りし父と彼を 畏 れし母とは、
決して共に子として彼を
いつくし
慈
むを忘れざりけり。その憚られ、畏れられし点を除き
ては、彼は他の憚られ、畏れられざる子よりも多く愛を
かうむ
被 りき。生きてこそ争ひし
きか
つか
父よ。亡くての今は、その 聴 れざりし恨より、親として 事 へざりし不孝の悔は直道
の心を責むるなり。
なまあたたか
きた
がいとう
ふきまく
生
暖 き風は急に 来 りてその 外 套 の翼を 吹 捲 りぬ。こはここに失せ
はしな
おもひおこ
あり
し母の賜ひしを、と 端 無 く彼は 憶
起 して、さばかりは 有 のすさびに徳とも為
いつし
ざりけるが、世間に量り知られぬ人の数の中に、誰か故無くして 一 紙 を与ふる者ぞ、
へい
かへりきた
我は今 聘 せられし測量地より 帰
来 れるなり。この学術とこの位置とを与へて恩
と為ざりしは誰なるべき。外にこれを求むる能はず、重ねてこれを得べからざる父と母
はるか はるか
とは、相携へて 杳 に 迢 に隔つる世の人となりぬ。
うち
くるし もだ
たすけ
炎々たる猛火の 裏 に、その父と母とは 苦 み 悶 えて 援 を呼びけんは
いかばかり
あいえつ
幾
許 ぞ。彼等は果して誰をか呼びつらん。思ここに到りて、直道が 哀 咽 は
こんしん
をは
渾 身 をして涙に化し 了 らしめんとするなり。
あなたひとり
「喜ぶなら世間の奴は喜んだが可いです。 貴 方 一 箇 のお心持で御両親は御満足なさ
こんにち
るのですから。こんな事を申上げては実に失礼ですけれども、貴方が 今 日 まで御両
親をお持ちになつてゐられたのは、
わたくし
うらやまし
私
などの身から見ると何よりお 可
羨 い
ので、この世の中に親子の情愛ぐらゐ
いつはり
詐
の無いものは決して御座いませんな、私
とし
みなしご
みくび
は十五の 歳 から 孤 児 になりましたのですが、それは、親が附いてをらんと 見 縊
やけ もと
つひ
なりそこな
られます。余り見縊られたのが自棄の 本 で、 遂 に私も真人間に 成
損 つて了つ
もと
おのれ
そもそ
たやうな訳で。 固 より 己 の至らん罪ではありますけれど、 抑 も親の附いてを
ふしあはせ
らんかつたのが非常な 不 仕 合 で、そんな薄命な者もかうして在るのですから、それ
いくつ
い りくつ
いささ
はもう 幾 歳 になつたから親に別れて可いと謂ふ 理 窟 はありませんけれど、 聊 か
おぼしめ
慰むるに足ると、まあ、 思 召 さなければなりません」
貫一のこの人に向ひて親く物言ふ今夜の如き
ためし
例 はあらず、彼の物言はずとよりは、
にく とほざ
この人の 悪 み 遠 けたりしなり。故は、彼こそ父が不善の助手なれと、始より畜生
う
ことば はしはし
視して、得べくば撲つて殺さんとも念ずるなりければ、今彼が 言 の 端 々 に人が
あや
ましき響あるを聞きて、いと 異 しと思へり。
なりそこな
「それでは、貴方真人間に 成
損 つたとお言ひのですな」
「さうでございます」
「さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか」
もちろん
「 勿 論 でございます」
うつむ
直道は 俯 きて言はざりき。
ふてくさ
「いや貴方のやうな方に向つてこんな 太 腐 れた事を申しては済みません。さあ、参
りませうか」
うつむ
うなづ
彼はなほ 俯 き、なほ言はずして、 頷 くのみ。
いた ふ
た
しづかさ
すみわた
夜は 太 く更けにければ、さらでだに音を絶てる 寂 静 はここに 澄 徹 りて、深
ふみにじ
もろ わ
くも物を思入る苦しさに直道が 蹂 躙 る靴の下に、瓦の 脆 く割るるが鋭く響きぬ。
こぼた
ひとり
ひとり いこ
ことば
地は荒れ、物は 毀 れたる中に 一 箇 は立ち、 一 箇 は 偃 ひて、 言 あらぬ姿の
わび
さしそ
ほうふつ
かなしみ
佗 しげなるに照すとも無き月影の隠々と 映 添 ひたる、既に 彷 彿 として
悲
ゑがきな
の図を 描 成 せり。
しばら
ことば いだ
かくて 暫 く有りし後、直道は卒然 言 を 出 せり。
「貴方、真人間に成つてくれませんか」
こわね うれはし
なさけ こも
ほぼ
さと
その 声 音 の 可 愁 き底には 情 も 籠 れりと聞えぬ。貫一は 粗 彼の意を 暁
れり。
ありがた
「はい、 難 有 うございます」
「どうですか」
ことば
わたくし
お
「折角のお 言 ではございますが、
私
はどうぞこのままにお措き下さいまし」
なぜ
「それは何為ですか」
かへ
「今更真人間に 復 る必要も無いのです」
「さあ、必要は有りますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考
あいさつ
へてから 挨 拶 をして下さいな」
さは
ゆる
これまでしみじみ
「いや、お気に 障 りましたらお 赦 し下さいまし。貴方とは 従 来 浸 々 お話を
致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。
うはさ
よ
ごくきよ
私の方では毎々お 噂 を伺つて、能く貴方を存じてをります。 極 潔 いお方なので、
きずつ
精神的に 傷 いたところの無い御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申上げ
るのは、実際恥入る次第で、言ふ事は一々曲つてゐるのですから、
ただし
すぐ
正 い、 直 なお
い
ねぢ
耳へは入らんところではない。逆ふのでございませう。で、潔い貴方と、 拗 けた私と
では、始からお話は合はんのですから、それでお話を為る以上は、どうぞ何事もお
ききながし
聞
流 に願ひます」
「ああ、善く解りました」
おつしや
うれし
「真人間になつてくれんかと 有 仰 つて下すつたのが、私は非常に 嬉 いのでござ
います。こんな商売は真人間の為る事ではない、と知つてゐながらかうして致してゐる
つら
なぜ
私の心中、 辛 いのでございます。そんな思をしつつ何為してゐるか!
いは
曰 く
いひがた
ひど きずつ
ま おぼしめ
言 難 しで、精神的に 酷 く 傷 けられた反動と、先づ 思 召 して下さいまし。
やけざけ
くら
からだ こは
私が酒が飲めたら 自 暴 酒 でも 吃 つて、 体 を 毀 して、それきりに成つたのかも
い
つまり
知れませんけれど、酒は可かず、腹を切る勇気は無し、 究 竟 は意気地の無いところか
ら、こんな者に成つて了つたのであらうと考へられます」
きよ
ほのめか
やや
彼の 潔 しと謂ふなる直道が潔き心の同情は、彼の 微 見 したる述懐の為に 稍 動
されぬ。
こんにち
「お話を聞いて見ると、貴方が 今 日 の境遇になられたに就いては、余程深い御様子
が有るやう、どう云ふのですか、
くはし きか
悉 く 聞 して下さいませんか」
ぐ
ひと
「極愚な話で、到底お聞せ申されるやうな者ではないのです。又自分もこの事は 他 に
つまり
は語るまい、と堅く誓つてゐるのでありますから、どうも申上げられません。 究 竟 或
事に就いて或者に欺かれたのでございます」
お
「はあ、それではお話はそれで措きませう。で、貴方もあんな家業は真人間の為べき事
は
ではない、と十分承知してゐらるる、父などは決して愧づべき事ではない、と謂つて剛
いつそ
情を張り通した。実に浅ましい事だと思ふから、或時は 不 如 父の前で死んで見せて、
最後の意見を為るより外は無い、と決心したことも有つたのです。父は飽くまで聴かん、
お
私も飽くまで棄てては措かん精神、どんな事をしても是非改心させる覚悟で居つたとこ
ろ、今度の災難で父を失つた、残念なのは、改心せずに死んでくれたのだ、これが一生
いかん
ふたおや
あ
の 遺 憾 で。一時に 両 親 に別れて、死目にも逢はず、その臨終と謂へば、気の毒と
およ
かなしみ
も何とも謂ひやうの無い…… 凡 そ人の子としてこれより上の
悲
が有らうか、察
し給へ。それに就けても、改心せずに死なしたのが、
いよい
愈 よ残念で、早く改心さへし
のが
てくれたらば、この災難は 免 れたに違無い。いや私はさう信じてゐる。然し、過ぎた
事は今更為方が無いから、父の
かはり
もら
代 に是非貴方に改心して 貰 ひたい。今貴方が改心
して下されば、私は父が改心したも同じと思つて、それで満足するのです。さうすれば、
は
必ず父の罪も滅びる、私の念も霽れる、貴方も正い道を行けば、心安く、楽く世に送ら
れる。
おと
や
成程、お話の様子では、こんな家業に身を 墜 されたのも、已むを得ざる事情の為と
は承知してをりますが、父への追善、又その遺族の路頭に迷つてゐるのを救ふのと思つ
や
て、金を貸すのは罷めて下さい。父に関した財産は一切貴方へお譲り申しますからそれ
を資本に何ぞ人をも益するやうな商売をして下されば、この上の
よろこび
喜
は有りません。
父は非常に貴方を愛してをつた、貴方も父を愛して下さるでせう。愛して下さるなら、
あらた
父に代つて非を 悛 めて下さい」
あした
み
をは
いか
聴ゐる貫一は露の 晨 の草の如く仰ぎ視ず。語り 訖 れども猶仰ぎ視ず、如何にと
問るるにも仰ぎ視ざるなりけり。
たちま いつせん
ほとり
ともしび
忽 ち 一 閃 の光ありて焼跡を貫く道の 畔 を照しけるが、その
燈
の
こなた
ちかづ
みとが
よりく
ふたり
此 方 に向ひて 近 くは、巡査の 見 尤 めて 寄 来 るなり。 両 箇 は一様にへて、待
くまな
さら
つとしもなく動かずゐたりければ、その前に到れる角燈の光は 隈 無 く彼等を 曝 しぬ。
いか
おのおの
あを おもて
巡査は如何に驚きけんよ、かれもこれも
各
惨として 蒼 き 面 に涙垂れた
まさ
り――しかもここは人の泣くべき処なるか、時は 正 に午前二時半。
[#改ページ]
続金色夜叉
与紅葉山人書
学海居士
紅葉山人足下。僕幼嗜読稗史小説。当時行於世者。京伝三馬一九。及曲亭柳亭春水数輩。
雖有文辞之巧麗。搆思之妙絶。多是舐古人之糟粕。拾兎園之残簡。聊以加己意焉耳。独
曲亭柳亭二子較之余子。学問該博。熟慣典故。所謂換骨奪胎。頗有可観者。如八犬弓張
侠客伝。及田舎源氏諸国物語類是也。然在当時。読此等書者。不過閭巷少年。畧識文字。
間有渉猟史伝者。識見浅薄。不足以判其巧拙良否焉。而文学之士斥為鄙猥。為害風紊俗。
禁子弟不得縦読。其風習可以見矣。」年二十一二。稍読水滸西遊金瓶三国紅楼諸書。兼
及我源語竹取宇津保俊蔭等書。乃知稗史小説。亦文学之一途。不必止游戯也。而所最喜。
在水滸金瓶紅楼。及源語。能尽人情之隠微。世態之曲折。用筆周到。渾思巧緻。而源氏
之能描性情。文雅而思深。金瓶之能写人品。筆密而心細。蓋千古無比也。近時小説大行。
少好文辞者。莫不争先攘臂其間。然率不過陋巷之談。鄙夫之事。至大手筆如金瓶源氏等
者。寥乎無聞何也。僕及読足下所著諸書。所謂細心邃思者。知不使古人専美於上矣。多
情多恨金色夜叉類。殆与金瓶源語相似。僕反覆熟読不能置也。惜範囲狭。而事跡微。地
位卑而思想偏。未足以展布足下之大才矣。盍借一大幻境。以運思馳筆。必有大可観者。
僕老矣。若得足下之一大著述。快読之。是一生之願也。足下以何如。
第一章
ぜに
いちにんまへ
時を 銭 なりとしてこれを換算せば、一秒を一毛に見積りて、 壱 人 前 の
ねぶりだかおよ
睡
量 凡 そ八時間を除きたる一日の正味十六時間は、実に金五円七拾六銭に相当
す。これを三百六十五日の一年に合計すれば、金弐千壱百〇弐円四拾銭の巨額に上るに
おしつま
きようきよう
あらずや。さればここに二十七日と 推 薄 りたる歳末の市中は物情 恟
々 とし
つひ
て、世界絶滅の期の 終 に宣告せられたらんもかくやとばかりに、坐りし人は出でて歩
き
けたたまし
み、歩みし人は走りて過ぎ、走りし人は足も空に、合ふさ離るさの 気
立 く、
けんあひま
きずつ
こくあひう
肩 相 摩 しては 傷 き、 轂 相 撃 ちては砕けぬべきをも覚えざるは、
こころごころ
かぎり あわ
心
々 に今を 限 と 慌 て騒ぐ事ありて、不狂人も狂せるなり。彼等は皆過去
あだ
ちり
いづく
の十一箇月を 虚 に送りて、一秒の 塵 の積める弐千余円の大金を 何 処 にか振落し、
しり
ちまなこ
おこ
ゆくへ
後悔の 尾 に立ちて今更に 血 眼 をき、草を分け、瓦を 揆 しても、その 行 方 を尋
ひま
ただ
ないし
ねんと為るにあらざるなし。かかる 間 にも常は 止 一毛に値する一秒の壱銭 乃 至 拾
ききちようちよう
つるべうち
とびすぐ
銭にも暴騰せる 貴 々 重 々 の時は、速射砲を 連
発 にするが如く 飛 過 る
にぞ、彼等の恐慌は更に
こころことば
意
言 も及ばざるなる。
へいぜい おこたりな
へんえき
ゆうゆう
その 平 生 に 怠
無 かりし天は、又今日に何の 変 易 もあらず、 悠 々 と
あを
ひろ
こうこう
おほ
して 蒼 く、昭々として 闊 く、 浩 々 として静に、しかも確然としてその 覆 ふべ
ひねもす
おろ
ゆふづ
かがやか
しはす ちり
きを覆ひ、 終 日 北の風を 下 し、 夕 付 く日の影を
耀
して、 師 走 の 塵 の
おもて
みわた
かどかざり
じゆざん
表 に高く澄めり。 見 遍 せば両行の 門
飾 は一様に枝葉の末広く 寿 山 の
みどり かは
じつちよう のきば
しめなは
ふくかい かすみようえい
翠 を 交 し、 十
町 の 軒 端 に続く 注 連 繩 は、 福 海 の 霞
揺 曳 し
うた ふ
とし こん おどろ
て、繁華を添ふる春待つ景色は、 転 た旧り行く 歳 の 魂 を 驚 かす。
はせちが
た
かた
かの人々の弐千余円を失ひて 馳 違 ふ中を、梅提げて通るは誰が子、猟銃 担 げ行
ぎ
おなじ
くはへようじ
きぬ
くは誰が子、妓と車を 同 うするは誰が子、 啣 楊 枝 して好き 衣 着たるは誰が
あるひ
だち
か
ゆひのう
つら
子、 或 は二頭 立 の馬車を駆る者、 結 納 の品々 担 する者、雑誌など読みもて
ずずつなぎ
かんこうば い
おのおのそこばく
行く者、五人の子を 数 珠 繋 にして 勧 工 場 に入る者、彼等は
各
若 干 の
かくのごと
す
すこし
得たるところ有りて、 如
此 く自ら足れりと為るにかあらん。これ等の 少 く失
はい
まれ
へる者は喜び、彼等の多く失へる 輩 は憂ひ、又 稀 には全く失はざりし人の楽めるも、
あくそく
み
か
いづれ
皆内には 齷 齪 として、盈てるは虧けじ、虧けるは盈たんと、 孰 かその求むると
みつ あした
ゆふべ
ころに急ならざるはあらず。人の世は 三 の 朝 より花の昼、月の 夕 にもその
おもひ ほか
ゆうきよう
い
あきらか
思 の 外 はあらざれど、 勇
怯 は死地に入りて始て
明
なる年の関を、物
せ
からすね ゑひ
てつべん ひ
の数とも為ざらんほどを目にも見よとや、 空 臑 の 酔 を踏み、 鉄 鞭 を曳き、一
ふところ
かへいじひら はかま やきのり つづ
うが
巻のブックを 懐
にして、 嘉 平 治 平 の 袴 の 焼 海 苔 を 綴 れる如きを 穿
ゆかた
あかぞめ
あやめ
もめんじま
ち、フラネルの 浴 衣 の洗ひして 垢 染 にしたるに、 文 目 も分かぬ 木 綿 縞 の
ぬのこ かさ
かはらいろ
しまらしや
布 子 を 襲 ねて、ジォンソン帽の 瓦
色 に化けたるを頂き、焦茶地の 縞 羅 紗
にじゆうまわし いつ
た
なみなみ
つま
の 二 重 外 套 は 何 の冬誰が不用をや譲られけん、 尋 常 よりは寸の 薄 りたる
みのたけ
まと
ふきちぎ
あやふ
を、 身 材 の人より豊なるに 絡 ひたれば、例の袴は風にや 吹 断 れんと 危 く
ひらめ
よはひ
かたちや
閃 きつつ、その人は 齢 三十六七と見えて、
形
せたりとにはあらねど、
も
よ
ふぜい ひと
げな うるはし
ひげ
寒樹の夕空に倚りて孤なる 風 情 、 独 り負ふ気無く
麗
くも富める髭髯は、下に
ち あたり
ひね
つる
は乳の 辺 までと垂れて、左右に 拈 りたるは八字の 蔓 を巻きて耳の根にもびぬ。
うちみ
めんもくさはやか
ややおご
さかし
打 見 れば 面 目
爽
に、 稍 傲 れる色有れど 峻 くはあらず、しかも今陶
のべ たど
々然として酒興を発し、春の日長の野辺を 辿 るらんやうに、西筋の横町をこの大路に
い きた
出で 来 らんとす。
ひようむなし よ しづか
のぼ
れん
むか
瓢
空 く夜は 静 にして高楼に 上 り、酒を買ひ、 簾 を巻き、月を 邀 へ
「
ゑ
すいちゆうけん
ひかりつき
て酔ひ、 酔
中 剣 を払へば 光
月 を射る」
ふし
彼は 節 をかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽むに似たり。打晴れたる空は
るりいろ ゆふば
にはか さ まさ
し
とぎはり
瑠 璃 色 に 夕 栄 えて、 俄 に冴え 勝 るの目口に沁みて 磨 錻 を打つらんやうな
ふといきふ
るに、烈火の如き酔顔を差付けては 太 息 嘘 いて、右に一歩左に一歩ときつつ、
おうおうひか
ひと りゆうてい
くんざん
しようすい
けいじゆ
「 往 々 悲歌して 独 り 流
涕 す、 君 山 をして 湘
水 平に 桂 樹 をし
さら あきらか
じようふこころざしあ
て月 更 に
明
ならんを、 丈 夫
志
有 りて……」
うた い
このえきへい みなみがしら
はや
と 唱 ひ出づる時、一隊の 近 衛 騎 兵 は 南
頭 に馬を 疾 めて、
まいちもんじ
てつべん た
真 一 文 字 に行手を横断するに会ひければ、彼は 鉄 鞭 を植てて、舞立つ
すなけむり
さきがけ
よそほ
しんさ
おしゆ うしろかげ
砂
煙 の中に
魁
の花を 装 へる健児の 参 差 として 推 行 く 後
影 を
さかん
かな いは
みおく
ば、 壮 なる 哉 と 謂 まほしげに 看 送 りて、
われしほう
こころ
ようきよう
し
「 我 四 方 に遊びて 意 を得ず、 陽
狂 して薬を施す成都の市」
そぞろ
はじめ
こごゑほがらか
ゆきき
と 漫 にその詩の 首 をば 小 声
朗
に吟じゐたり。さては 往 来 の
いとまな
ひか
しゆらば ひとりてんか くら ゑ
遑 き目も皆 牽 れて、この節季の 修 羅 場 を 独 天 下 に 吃 ひ酔へるは、何
のんき
やけ
さとり
のんだくれ
あやし
すぐ
者の 暢 気 か、自棄か、豪傑か、 悟 か、 酔 生 児 か、と 異 き姿を見て 過 る
おもて
うかが
有れば、 面 を識らんと 窺 ふ有り、又はその身の上など思ひつつ行くも有り。彼
いた ゑ
すべ
にぎはひ なが や
いづれ
は 太 く酔へれば 総 て知らず、町の 殷 賑 を 眺 め遣りて、 何 方 を指して行かん
しばら
とも心定らず 姑 く立てるなりけり。
あやし
あらは
さばかり人に 怪 まるれど、彼は今日のみこの町に姿を 顕 したるにあらず、折
いでく
かよう
々散歩すらんやうに 出 来 ることあれど、 箇 様 の酔態を認むるは、兼て注目せる派出
めづら
所の巡査も 希 しと思へるなり。
てつべん ひきなら
やがて彼は 鉄 鞭 を 曳 鳴 して大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、
いぬゐ かた
かど
とたん
はせくだ
乾 の 方 より狭き坂道の開きたる 角 に来にける 途 端 に、風を帯びて 馳 下 り
くるま
あいにくそなた
すいかく
あたり ひとあてあ
たる 俥 は、 生 憎 其 方 にける 酔 客 のの 辺 を 一 衝 撞 てたりければ、
はずみ
そなた はねとば
ひとし
よこづらす
彼は 郤 含 を打つて二間も 彼 方 へ 撥 飛 さるると 斉 く、大地に 横 面 擦 つて
たふ
ふみとどま
そこつ
僵 れたり。不思議にも無難に 踏
留 りし車夫は、この 麁 忽 に気を奪れて立ちた
かぢ
りしが、面倒なる相手と見たりけん、そのまま 轅 を回して逃れんとするを、俥の上な
くろあや あづま
すねずみちりめん づきんかぶ
る 黒 綾 の 吾 妻 コオト着て、 素 鼠 縮 緬 の 頭 巾 被 れる婦人は
かばいろむじ きぬらつこ ひざかけ おしの
と
もだ
なほ
樺 色 無 地 の 絹 臘 虎 の 膝 掛 を 推 除 けて、駐めよ、返せと 悶 ゆるを、 猶
えいえい ひ
うしろ
聴かで 曳 々 と挽き行く 後 より、
かつ
さと
「待て、こら!」と 喝 する声に、行く人の始て事有りと 覚 れるも多く、はや車夫の
とが
ことば
たま
しひ そこ
不情を 尤 むる 語 も聞ゆるに、 耐 りかねたる夫人は 強 て其処に下車して返り
きた
来 りぬ。
例の物見高き町中なりければ、この
せはし きは
よりく にんず あり
忙 き 際 をも忘れて、 寄 来 る 人 数 は 蟻
の甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土に
つくば
めぐり
踞 へる 周 辺 を擁し、一面には婦
そ
もみた
みち
かぶりもの
人の左右に傍ひて、目に物見んと 揉 立 てたり。婦人は 途 を来つつ 被
物 を取り
もんはぶたへ あづきかのこ てがら
まるわげ
べつこうあし
ぬ。 紋 羽 二 重 の 小 豆 鹿 子 の 手 絡 したる 円 髷 に、 鼈 甲 脚 の
きんしつぽう
うしろざし ななめ
たかまきゑ まさこぐし かざ
金 七 宝 の玉の 後
簪 を 斜 に、 高 蒔 絵 の 政 子 櫛 を 翳 して、
よそほひ げ ちり
おそ
い
おもひまど
いたは
粧 は実に 塵 をも 怯 れぬべき人の謂ひ知らず 思
惑 へるを、 可 痛 しの
あらし た
かんばせ
くんじゆ おのづか
をさ
こた
嵐 に堪へぬ花の
顔
や、と 群 集 は
自
ら声を 歛 めて肝に 徹 ふるな
りき。
おもて つつ
はづか
いと更に 面 の 裹 まほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の 可 羞 しさと切なさとは
いかばかり
うちあか
お
ひとがき
幾
許 なりけん、 打 赧 めたる顔は措き所あらぬやうに、 人 堵 の内を
いそぎあし たど
てつべん
ふところ
さつまげた
急
足 に 辿 りたり。帽子も 鉄 鞭 も、
懐
にせしブックも、 薩 摩 下 駄 の
かたし
すいかく
もた
たかほ
隻 も投散されたる中に、 酔 客 は半ば身を 擡 げて血を流せる右の 高 頬 を平手
おほ
よりく
うちみや
ま わるび
に 掩 ひつつ 寄 来 る婦人を 打 見 遣 りつ。彼はその前に先づ 懦 れず会釈して、
そそう
「どうも取んだ 麁 相 を致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を!
ぶ
お目を打ちましたか、まあどうも……」
たい
「いや 太 した事は無いのです」
どこ
「さやうでございますか。何処ぞお痛め遊ばしましたでございませう」
きづか
腰を得立てずゐるを、婦人はなほ 気 遣 へるなり。
あまたたびこし かが
うしろ
すすみい
車夫は 数
次 腰 を 屈 めて主人の 後 方 より 進 出 でけるが、
だんな
ひら
「どうも、 旦 那 、誠に申訳もございません、どうか、まあ 平 に御勘弁を願ひます」
まなこ そなた
いか
こゑおごそか
眼 を 其 方 に転じたる酔客は 恚 れるとしもなけれど 声
粛 に、
そそう
なぜ
と
「貴様は善くないぞ。 麁 相 を為たと思うたら何為車を駐めん。逃げやうとするから呼
かか
止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を 掻 する」
「へい恐入りました」
「どうぞ御勘弁あそばしまして」
くるま
くだ
ことば
うちうなづ
俥 の主の身を 下 して 辞 を添ふれば、彼も 打
頷 きて、
「以来気を着けい、よ」
「へい……へい」
「早う行け、行け」
やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従の
よろこび ひきか
喜
に 引 易 へて、見物の
あつけな
あまり
飽 気 無 さは更に望外なりき。彼等は幕の開かぬ芝居に会へる想して、 余 に落着の
だび
いそがはし きびす かへ
みばえ
蛇尾振はざるを悔みて、はや 忙
々 き 踵 を 回 すも多かりけれど、又 見 栄 あ
なごり
あ
るこの場の模様に 名 残 を惜みつつ去り敢へぬもありけり。
たす
はきもの
むち
あてが
車夫は起ち悩める酔客を 扶 けて、 履 物 を拾ひ、 鞭 を拾ひて 宛 行 へば、主人
は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、
ねんごろ がいとう
懇
に 外 套 、
はかま
ゆる
まざまざ すりきず
袴 の泥を払はしめぬ。 免 されし罪は消えぬべきも、 歴 々 と 挫 傷 のその
おもて
やまし
な
をし
面 に残れるを見れば、 疚 きに堪へぬ心は、なほ為すべき事あるを 吝 みて
わたくし
いたま
私 せるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は 可 傷
なが
まなざし やうや
しと 眺 めたりしに、その 眼 色 は 漸 く鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、
まも
びんな
たたず
むやく
忍びては 矚 りつつ 便 無 げに 佇 みけるに、いでや長居は 無 益 とばかり、彼は
よろよろ ふみいだ
蹌 踉 と 踏 出 せり。
やりすご
おもひなほ
にはか
婦人はとにもかくにも 遣 過 せしが、又何とか 思
直 しけん、 遽 に追行き
かしら ねぢむ
まなこ き
われ ひと
て呼止めたり。 頭 を 捻 向 けたる酔客はれる 眼 を屹と見据ゑて、 自 か 他 か
いぶか
ことば いだ
訝 しさに 言 も 出 さず。
と
ひとちがひ
あなた
「もしお 人
違 でございましたら御免あそばしまして。 貴 方 は、あの、もしや荒
尾さんではゐらつしやいませんですか」
かへ
ちよう
よ
これ
「は?」彼は覚えず身を 回 して、 丁 と立てたる鉄鞭に仗り、こは 是 白日の夢か、
くうげ
むなし
ますま は
空 華 の形か、正体見んと為れど、酔眼の 空 く張るのみにて、 益 す霽れざるは
うたがひ
疑 なり。
「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」
わたくし
私
荒尾です」
「はあ? 荒尾です、
はざま
「あの 間 貫一を御承知の?」
「おお、間貫一、旧友でした」
わたくし しぎさわ
私
は 鴫 沢 の宮でございます」
「
おつしや
「何、鴫沢……鴫沢の……宮と 有 仰 る……?」
「はい、間の居りました宅の鴫沢」
「おお、宮さん!」
ゑひ とみ なかば
おもかげ
奇遇に驚かされたる彼の 酔 は 頓 に 半 は消えて、せめて昔の
俤
を認むる
うちなが
や、とその人を 打 眺 むるより外はあらず。
「お久しぶりで御座いました」
よろこ
ひし
宮は 懽 び勇みて 犇 と寄りぬ。
うつくし くるま
なのりあ
今は 美
き 俥 の主ならず、路傍の酔客ならず 名 宣 合 へるかれとこれとの思
いかに
は 如 何 。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身
いとし
はらから
の如く契りて 怜 かりし人にあらずや。その日の彼等は又 同 胞 にも得べからざる
したしみ も
ひざ
まじ
親 を以て、 膝 をも 交 へ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変
かぞ
ひと
を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を 算 へざりしなり。よしさりとも、 一 たび
はらから むつみあ
へいい ひるがへ
ゑ
同 胞 と 睦 合 へりし身の、 弊 衣 を
飄
して道に酔ひ、流車を駆りて富に
おご
こうげ しやべつ おのづか しゆ
な
かくのごと
驕 れる 高 下 の 差 別 の
自
ら 種 有りて作せるに似たる 如
此 きを、彼
ゆめみ
かぞ
ゆめみ
しやべつ
等は更に更に 夢 ざりしなり。その 算 へざりし奇遇と 夢 ざりし 差 別 とは、
とつとつ
しんじよう せま
をんなぎ もろ
咄 々 、相携へて二人の 身
上 に 逼 れるなり。 女 気 の 脆 き涙ははや宮の
うるほ
目に 湿 ひぬ。
「まあ大相お変り遊ばしたこと!」
あなた
「 貴 方 も変りましたな!」
おもて
おそろし
ますま
いだ
さしも見えざりし 面 の傷の 可 恐 きまでに 益 す血を 出 すに、宮は持たり
ぬぐ
うかが
しハンカチ゗フを与へて 拭 はしめつつ、心も心ならず様子を 窺 ひて、
「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」
いひつ
彼は何やらん 吩 咐 けて車夫を遣りぬ。
ぢき
そこ
「 直 この近くに懇意の医者が居りますから、其処までいらしつて下さいまし。唯今俥
を申附けました」
「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」
あぶな
「あれ、お 殆 うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、
いで
ともかくもお俥でお 出 あそばしまし」
よろし
「いんや、 宜 い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」
むなさき やいば とほ
おぼ
宮は 胸 先 を 刃 の 透 るやうに 覚 ゆるなりき。
「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」
「然し、どうしてゐますか、無事ですか」
「はい……」
はず
「決して、無事ぢやない 筈 です」
は をのの
かたはら
みぐるし
生きたる心地もせずして宮の慙ぢ 慄 ける
傍
に、車夫は 見 苦 からぬ一台
つじぐるま
きた
やうや おもて あぐ
の 辻
車 を伴ひ 来 れり。 漸 く 面 を 挙 れば、いつ又寄りしとも知らぬ
ひとたち
いまはし
ちかづ
人 立 を、 可 忌 くも巡査の怪みて 近 くなり。
第二章
ひげふか よこづら はりくすり
あらおじようすけ
あを ゑひさ
鬚 深 き 横 面 に 貼
薬 したる 荒 尾 譲 介 は既に 蒼 く 酔 醒 めて、
こうこう
ひだ
はかま ひざ じようろく
煌 々 たる空気ラムプの前に 襞 もあらぬ 袴 の 膝 を 丈
六 に組みて、
せつたいたばこ
くゆ
おごそか
うちしを
接 待 莨 の葉巻を 燻 しつつ意気
粛
に、 打 萎 れたる宮と熊の敷皮を
ななめ
し
い
斜 に差向ひたり。こはこれ、彼の識れると謂ひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる
西洋造の十畳間なり。物語ははや
いとぐち
緒
を解きしなるべし。
はざま
のこ
くはし
間 が影を隠す時、僕に 遺 した手紙が有る、それで 悉 い様子を知つてをるで
「
ふる
すぐ あなた
す。その手紙を見た時には、僕も 顫 へて腹が立つた。 直 に 貴 方 に会うて、是非こ
れは思返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられ
い
うちのめ
かたは
ん、腹の癒ゆるほど
打
して、一生結婚の成らんやう立派な 不 具 にしてくれやう、
と既にその時は立上つたですよ。然し、間が
ことば
言 を尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕
ことば い
きら
言 を容れやう道理が無い。又間を 嫌 うた以上は、貴方は富山への売物じや。
の
ひと
きず
たて たま
他 の売物に 疵 を附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢も 楯 も 耐 らん胸
しま
をつて 了 うたんです」
おしあ
かたそで はし
しきり まゆ ひそ
宮が顔を 推 当 てたる 片 袖 の 端 より、 連 に 眉 の 顰 むが見えぬ。
「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつた
はざま
間 さ
へが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理も無いぢやらう。僕は僕として貴方を
うら
あきた
怨 むばかりでは 慊 らん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、
しちしよう
七
生 まで怨む、きつと怨む!」
つひ
えた
なくね も
終 に宮が得堪へぬ 泣 音 は洩れぬ。
いつぷじよし
「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が 一 婦 女 子
くじ
なげう
に棄てられたが為に志を 挫 いて、命を 抛 つたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、
いか
別に間として大いに責めんけりやならん。然し、間が如何に不心得であらうと、貴方の
ゆゑ
こんにち
罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てた 故 に、彼が 今 日 の
有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女の
みさを
あは
操 を破つたのみでない。 併 せて夫
さしころ
を 刺 殺 したも……」
りつぜん
まなじり
うらみ うつ
宮は 慄 然 として振仰ぎしが、荒尾の鋭き
眥
は貫一が 怨 も 憑 りたりや
おきどころな うちすく
と、その見る前に身の 措 所 無 く 打 竦 みたり。
かいご
「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の 悔 悟 されたのは善い、これは人とし
こんにち
すで おそ
て悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら 今 日 に及んでの悔悟は 業 に 晩
い。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水は
くつがへ
覆
しま
もはや
およ
つた。盆は破れて 了 うたんじや。かう成つた上は 最 早 神の力も 逮 ぶことではない。
な
むくい
お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自ら作せる罪の 報 で、固よりかく有るべ
き事ぢやらうと思ふ」
うつむ
宮は 俯 きてよよと泣くのみ。
ああ
吁 、吾が罪!
さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪!
その吾が罪の深さは、あの
人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思知る時有らんと言
いか
ゆる
ああ
つひ ゆる
ひしその人の、 争 で争で吾が罪を 容 すべき。 吁 、吾が罪は 終 に 容 されず、吾
が恋人は終に再び見る能はざるか。
むねつぶ
ひとここち
宮は 胸 潰 れて、涙の中に 人 心 地 をも失はんとすなり。
ひつぷ
おのれ、利を見て愛無かりし 匹 婦 、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面
に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがに
げずゐたり。
じよう
はてしな
えあ
情 は動くなりき。宮は 際 無 く顔を得挙
なす
「然し、好う悔悟を 作 つた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟に
よ
因つて自ら容されたんじや」
よしな なぐさめ
ふ
かしら ふ
由 無 き 慰 藉 は聞かじとやうに宮は俯しながら 頭 を掉りて更に泣入りぬ。
みづから
たれ
まさ
自
にても容されたのは、 誰 にも容されんのには 勝 つてをる。又自ら容さる
「
い
ま
るのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうと謂ふもの。僕は未だ未だ容し難く貴方
こんにち
を怨む、怨みは為るけれど、 今 日 の貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察す
はざま
るからには、他の者の 間 の胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうして
いづれ
あはれ
そもそも
孰 が多く 憐 むべきであるかと謂へば、間の無念は
抑
どんなぢやらうか、
なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外は無
い。
こんにち
かうして 今 日 図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、
後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、
かたじけな
忝
いと思
いくたび
レデゖフレンド
うた事も 幾 度 か知れん、その 媛
友 に何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕
なつかし
も実に 可 懐 う思ひました」
なくね ほとばし
くひし
ぬれひた
そで ひしひし
宮は 泣 音 の
迸
らんとするを 咬 緊 めて、 濡 浸 れる 袖 に 犇 々 と
おもて すりつ
面 を 擦 付 けたり。
まるわげ
け
かはゆ
「けれど又、 円 髷 に結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、決して 可 愛 うはな
いは
いつは
かつた。幸ひ貴方が話したい事が有ると 言 るる、善し、あの様に間を 詐 つた貴方
どれ
うちのめ
じや、又僕を幾何ほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは
打
して
くれやうと待つてをつた。然るに、貴方の悔悟、僕は
ひそか
陰 に喜んで聴いたのです。
こんにち
フレンド
今 日 の貴方はやはり僕の
友
の宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた!
さ
きず
かへ
も無かつたら、貴方の顔にこの十倍の 疵 を附けにや 還 さんぢやつたのです。なあ、
自ら容されたのは人に赦さるる始――解りましたか。
わび
たのみ
で、間に取成してくれい、 詑 を言うてくれい、とのお 嘱 ぢやけれど、それは僕
せ
は為ん。為んのは、間に対してどうも出来んのぢやから。又貴方に罪有りと知つてをり
ながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さん
のぢやから。
かたき
かうして親友の 敵 に逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対
いや こと
する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭な 言 ばかり
ごきげんよ
いとま
聞せました。それぢや、まあ、 御 機 嫌 好 う、これでお 暇 します」
会釈して荒尾の身を起さんとする時、
しばら
ふりあ
まぶた
暫 く、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を 振 挙 げて、重き 瞼 の露を払へり。
「
なす
「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑を 為 つては下さらないの
で御座いますか。さうして貴方もやはり
すか」
わたくし ゆる
おつしや
私
を 容 さんと 有 仰 るので御座いま
「さうです」
せは
かたひざ
忙 しげに荒尾は 片 膝 立ててゐたり。
ただいまぢき
「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、 唯 今 直 に御飯が参りますですから」
めし
「や、 飯 なら欲うありませんよ」
「私は未だ申上げたい事が有るのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」
「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」
かんにん
「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう 堪 忍 なすつて下さいまし」
ひばち ふち
かざ
さま
火 鉢 の 縁 に片手を 翳 して、何をか打案ずる 様 なる目をしつつ荒尾は答へず。
ききいれ
あきら
「荒尾さん、それでは、とてもお 聴 入 はあるまいと私は 諦 めましたから、
かんいつ
貫 一 さんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」
とつさ
かたりつづく
おもて かす さ
咄 嗟 に荒尾の視線は転じて、猶 語
続 る宮が 面 を 掠 め去りぬ。
いか
「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何にも悪かつた事を思ふ
あやま
存分 謝 りたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本
もと
望なのでございます。 素 より容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してく
れやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。
私はもう覚悟を致し……」
宮は苦しげに涙を呑みて、
「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下され
ば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましても
よ
可いので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さ
して下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」
感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、
たちま
ひげ
うなづ
忽 ちその長き 髯 を振りて 頷
けり。
いは
「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好う 言 れた。さうなけりやな
ただつぐ
らんじや。然し、なあ、然しじや、貴方は今は富山の奥さん、 唯 継 と云ふ夫の有る
身じや、滅多な事は出来んですよ」
「私はかまひません!」
「可かん、そりや可かん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟は可いが、それぢや貴
方は間有るを知つて夫有るのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事
になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。
あなた
して見りや、始には富山が為に間を欺き、今又間の為に 貴 方 は富山を欺くんじや。
一人ならず二人欺くんじや!
一方には悔悟して、それが為に又一方に罪を犯したら、
なくな
折角の悔悟の効は 没 つて了ふ」
「そんな事はかまひません!」
むざん くちびる か
無 慙に
唇
を咬みて、宮は抑へ難くも激せるなり。
「かまはんぢや可かん」
「いいえ、かまひません!」
「そりや可かん!」
わたくし
私
はもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、
「
とう
疾 から棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気
の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富
いつそ
山の事などは…… 不 如 さうして死んで了ひたいので御座います」
むかんがへ
くみ
「それそれさう云ふ 無
考 な、訳の解らん人に僕は 与 することは出来んと謂ふん
りようけん
ふらち
じや。一体さうした貴方は 了
簡 ぢやからして、始に間をも棄てたんじや。 不 埓
です! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了
むし
ふびん
簡であつて見りや、僕は 寧 ろ富山を 不 憫 に思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を
有つた富山その人の不幸を
あはれ
愍 まんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕
いよい
は同情を表する、 愈 よ憎むべきは貴方じや」
しどろ うるほ
も
かがや
四途乱に 湿 へる宮の目は焚ゆらんやうに 耀 けり。
おつしや
よろし
「さう 有 仰 つたら、私はどうして悔悟したら 宜 いので御座いませう。荒尾さん、
おぼしめ
をし
どうぞ助けると 思 召 してお 誨 へなすつて下さいまし」
よ
「僕には誨へられんで、貴方がまあ能う考へて御覧なさい」
「三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたら無いのでございます。
ぶらぶら まる わづら
ああ
それが為に始終 悒 々 と 全 で 疾 つてをるやうな気分で、 噫 もうこんななら、
しま
つくづ
たつた
いつそ死んで 了 はう、と 熟 くさうは思ひながら、 唯 もう一目、一目で可うご
かんいつ
ざいますから 貫 一 さんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座いま
す」
「まあ能う考へて御覧なさい」
「荒尾さん、貴方それでは
あんま
余 りでございますわ」
ひとり
たもと
ことわりせ
独 に余る心細さに、宮は男の 袂 を執りて泣きぬ。 理
切 めて荒尾もその
むねふさが
げ
やつれすがた
手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に 胸
塞 れて、実にもと覚ゆる宮が 衰
容 に
まなこ こら
眼 を 凝 しゐたり。
「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召
たのみ
をし
して 頼 に成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、お 誨 へなすつて
下さいまし」
く
ことば
はしごした
ぜんはこ い
涙に昏れてその 語 は能くも聞えず、 階 子 下 の物音は 膳 運 び出づるなるべ
し。
いりき
ゆふげ まうけ
しばしまぎら
い
果して人の 入 来 て、 夕 餉 の 設 すとて 少 時 紛 されし後、二人は謂ふべか
わびし
あひたい
しはぶ
らざる 佗 き無言の中に 相 対 するのみなりしを、荒尾は始て高く 咳 きつ。
よ
いか
「貴方の言るる事は能う解つてをる、決して無理とは思はんです。如何にも貴方に誨へ
て上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置で有るなら、誨へて上げんぢやないです。
けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ
かんがへ とどま
いは
考 量 に 止 るので……いや、いや、そりや 言 れん。言うて善い事なら言ひます、
人に対して言ふべき事でない、
いはん
た
况 や誨ふべき事ではない、止だ僕一箇の了簡として
はら
つまり
肚 の中に思うたまでの事、 究 竟 荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を
誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、
なほよ
みいだ
然し 猶 能 う考へて見て、貴方に誨へらるる方法を 見 出 したら、更にお目に掛つて申
すまひ
上げやう。折が有つたら又お目に掛ります。は、僕の 居 住 ?
居住は、まあ言はん方
あま こ
さしつかへ
が可い、 蜑 が子なれば宿も定めずじや。言うても 差
支 は無いけれど、貴方に押
いか
なり
掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何にも、こんな 態 をしてをるので、貴方
びつくり
は 吃 驚 なすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方が無
い。僕の身の上に就ては段々子細が有るですとも、それもお話したいけれど、又この次
に。
まれ
かたじけな
酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事は 希 です。
忝
い、折角の
よろし
御忠告ぢやから今後は 宜 い、気を着くるです。
力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴
方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。
間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事も
すこぶ
頗 る有る
のぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味は無いですとも。はあ、一遍訪ね
あす
ませう。明日訪ねてくれい?
い
さうは可かん、僕もこれでなかなか用が有るのぢやから。
うきよ いや
ああ、貴方も 浮 世 が可厭か、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠
こんにち
いきがひ
に面倒なもので、僕なども 今 日 の有様では 生 効 の無い方じやけれど、このまま
むなし
空 く死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをる
で
まし
なにゆゑ
すこぶ
なら、死んだ方が無論 勝 ですさ。 何 故 命が惜いのか、考へて見ると 頗 る
わから
解 なくなる」
をは
語りつつ彼は食を 了 りぬ。
ああ
「嗚呼、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」
さしぐ
すす
かなしみ
宮は 差 含 む涙を 啜 れり。尽きせぬ
悲
を何時までか見んとやうに荒尾は
にはか
俄 に身支度して、
かへ
いとま
「こりや然し 却 つてお世話になりました。それぢや宮さん、お 暇 」
「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」
はや彼は起てるなり。宮はその前に
ふさが
塞 りて立ちながら泣きぬ。
「私はどうしたら可いのでせう」
「覚悟一つです」
をし
かきの
すが
始て 誨 ふるが如く言放ちて荒尾の 排 け行かんとするを、彼は猶も 縋 りて、
「覚悟とは?」
「読んで字の如し」
すはや
や
さびし
驚 破 、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りも遣らぬ宮が姿は、 寂 くも壁
に向ひて動かざりけり。
第三章
かどかど
ななやうか
きげん
門 々 の松は除かれて 七 八 日 も過ぎぬれど、なほ正月 機 嫌 の失せぬ富山唯継
あす
ゆきどころ
うちめぐ
は、今日も明日もと 行
処 を求めては、夜をに継ぎて 打 廻 るなりけり。宮は
いささ
とが
い
な
毫 かもこれも 咎 めず、出づるも入るも唯彼の為すに任せて、あだかも旅館の
あるじ す
かた
い
主 の為らんやうに、 形 ばかりの送迎を怠らざると謂ふのみ。
しむけ
へいぜい
ゆゑ
この夫に対する 仕 向 は両三年来の 平 生 を貫きて、彼の性質とも病身の 故 とも
めなら
あなた
許さるるまでに 目 慣 されて又 彼 方 よりも咎められざるなり。それと共に唯継の
おこなひ さきのひ
やうや
であそび ふけ
かたむき い き
行 も 曩 日 とは 漸 く変りて、 出 遊 に 耽 らんとする
傾
も出で来
あさせ なみ み ま
にはか ふかはまり
うか
しを、 浅 瀬 の 浪 と見し間も無く近き頃より 俄 に 深
陥 して 浮 るると知れ
なほ
お
ひと いか
せ
たるを、宮は 猶 しも措きて咎めず。 他 は如何にとも為よ、吾身は如何にとも成らば
こころやす
ぬす
あやし めをと
つな
成れと互に咎めざる 心
易 さを 偸 みて、 異 き 女 夫 の契を 繋 ぐにぞありけ
る。
うき やつ
かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の 憂 に 瘁 れたる宮は決して
うつくし
か
美 き色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛は虧くべきにあら
そもそ
とつ
ただ
ざりき。 抑 もここに 嫁 ぎしより一点の愛だに無かりし宮の、今に到りては 啻 に
とどま
ひそか いと
愛無きに 止 らずして、 陰 に 厭 ひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の
うさ はら
いそがはし
楽からざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でて 憂 を 霽 すに
忙
きにあらずや。されども彼の忘れず
ねぐら
きた
塒 に帰り 来 るは、又この妻の美き顔を見んが
みをは
たのしみ
為のみ。既にその顔を 見 了 れば、何ばかりの
楽
のあらぬ家庭は、彼をして火無
ストオブ かたはら をら
い
い
き 煖 炉 の
傍
に 処 しむるなり。彼の凍えて出でざること無し。出づれば幸ひ
よ
こび
ほしいま
そこ
にその金力に頼りて勢を得、 媚 を買ひて、一時の慾を
肆
まにし、其処には楽む
とも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮が
むなし いろか おぼ
空 き 色 香 に 溺 れて、内にはかか
ていけ
なが
おしまは
る美きものを 手 活 の花と 眺 め、外には到るところに当世のを鳴して 推 廻 すが、
こよな
此上無う紳士の願足れりと心得たるなり。
いで、その妻は見るも
いとはし
そば
しげ
厭
き夫の 傍 に在る苦を片時も軽くせんとて、彼の 繁
そとで みゆる
とたび ひとたび
な
かぜひ
き 外 出 を 見 赦 して、 十 度 に 一 度 も色を作さざるを 風 引 かぬやうに召しませ
ちよき
ありがた
いただ
猪 牙 とやらの 難 有 き賢女の志とも 戴 き喜びて、いと堅き家の守とかつは
なほざり
おも
ひと
はじめ
等 閑 ならず 念 ひにけり。さるは 独 り夫のみならず、本家の両親を 始 親属
しるべ
あはれ
ほ そや
知 辺 に至るまで一般に彼の病身を 憫 みて、おとなしき嫁よと賞め 揚 さぬはあら
げ
なにがし
である
マダム
きまま
ず。実に彼は
某
の妻のやうに 出 行 かず、くれがしの 夫 人 のやうに 気 儘 なら
たれだれ
はで
ねだりごと
ず、又は 誰 々 の如く華美を好まず、 強 請 事 せず、しかもそれ等の人々より才も
かたち たちまさ
つか
ほか せ
容 も 立 勝 りて在りながら、常に内に居て夫に 事 ふるより 外 を為ざるが、
いとを
つつ
みづから
最 怜 しと見ゆるなるべし。宮が 裹 める秘密は知る者もあらず、
躬
も絶えて
あやし
あらは
つか
はかばか
いつはり
異 まるべき穂を 露 さざりければ、その夫に 事 へて 捗 々 しからぬ
偽
かへ
あはれ
はかりな さいはひ
も偽とは為られず、 却 りて人に 憫 まるるなんど、その身には 量 無 き
幸
う
ひと やるかたな
を享くる心の内に、 独 り 遣 方 無 く苦める不幸は又量無しと為ざらんや。
きのふ
かこ
すぐ
十九にして恋人を棄てにし宮は、 昨 日 を夢み、今日を 嘆 ちつつ、 過 せば過さる
かさ
はたち
いつつ
もたら
る月日を 累 ねて、ここに 二 十 あまり 五 の春を迎へぬ。この春の 齎 せしもの
ゆうもん
むなし
おい
よはひ
は痛悔と失望と 憂 悶 と、別に 空 くその身を 老 しむる 齢 なるのみ。彼は
ゆるさ
とらはれ
おなじ
あく
おうのう
釈 れざる
囚
にも 同 かる思を悩みて、元日の 明 るよりいとど 懊 悩 の
ふ
やまひ
遣る方無かりけるも、年の始といふに臥すべき 病 ならねば、起きゐるままに本意な
よそほひ
なほ
粧
も、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、 猶
らぬ
はなはだし
かげ ひなた
甚
き浅ましさをその人の 陰 に 陽 に恨み悲むめり。
さむさしの
ぶどうしゆ
ま しばら ながひばち
宮は今外出せんとする夫の 寒
凌 ぎに 葡 萄 酒 飲む間を 暫 く 長 火 鉢 の
かしづ
きぶりいやし
ふたはち
のぼ
前に 冊 くなり。 木 振 賤 からぬ 二 鉢 の梅の影を帯びて南縁の障子に 上 り
ひざし
ふくろだな
ふくじゆそう
さきそろ
はなびら
尽せる 日 脚 は、 袋
棚 に据ゑたる 福 寿 草 の五六輪 咲 揃 へる
葩
に
ひるまばゆ
輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は 昼
眩 き新調の
さんまいがさね
ちん
リヨン
すかしおり
三 枚 襲 を着飾りてその最も 珍 と為る 里 昂 製の白の 透
織 の
きぬえりまき めて ひきつくろ
絹 領 巻 を右手に
引
ひ、左に宮の酌を受けながら、
まづ てつき
こぼ
「あ、 拙 い 手 付 ……ああ 零 れる、零れる!
これは恐入つた。これだからつい
よそ
い
余所で飲む気にもなりますと謂つて可い位のものだ」
たんとあが
「ですから 多 度 上 つていらつしやいまし」
よろし
宜 いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」
「
かへり
「何時頃お 帰 来 になります」
「遅いよ」
おほよそ
「でも 大 約 時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」
「遅いよ」
みんな
「それぢや十時には 皆 寝みますから」
「遅いよ」
わづらはし
又言ふも
煩
くて宮は口を閉ぢぬ。
「遅いよ」
「…………」
「驚くほど遅いよ」
「…………」
ちよつ
「おい、 些 と」
「…………」
おこ
「おや。お前 慍 つたのか」
「…………」
「慍らんでも可いぢやないか、おい」
そで
彼は続け様に宮の 袖 を曳けば、
なさ
「何を 作 るのよ」
「返事を為んからさ」
おそ
「お 遅 いのは解りましたよ」
きげん
「遅くはないよ、実は。だからして、まあ 機 嫌 を直すべし」
「お遅いなら、お遅いで
よろし
宜 うございますから……」
ぢき
「遅くはないと言ふに、お前は近来 直 に慍るよ、どう云ふのかね」
せゐ
「一つは病気の所為かも知れませんけれど」
「一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね」
「…………」
「お前一つ飲まんかい」
わたくし
私
沢山」
「
す
「ぢや俺が半分助けて遣るから」
「いいえ、沢山なのですから」
つ まね
「まあさう言はんで、少し、注ぐ真似」
「欲くもないものを、貴方は」
あんばい
「まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ 塩 梅 に、愛子流かね」
ぎ
いか
ひそか
ながしめ
妓の名を聞ける宮の如何に言ふらん、と唯継は 陰 に楽み待つなる 流 眄 を彼の
おもて
面 に送れるなり。
がほ
ふく
まゆ ひそ
宮は知らず 貌 に一口の酒を 喞 みて、 眉 を 顰 めたるのみ。
こつち
よこ
「もう飲めんのか。ぢや 此 方 にお寄来し」
「失礼ですけれど」
いつぱいつ
「この上へもう 一 盃 注 いで貰はう」
「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」
「可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅く
なるのだ」
「さうでございますか」
おほざらひ
「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の 大 温 習 が有るといふ
いとがわ
したざらひ
訳だらう、そこで今日五時から 糸 川 の処へ集つて 下 温 習 を為るのさ。俺は、そ
はこ
おやおや いざな
なにわ うら ふなで
れお特得の、「 親 々 に 誘 はれ、 難 波 の 浦 を 船 出 して、身を尽したる、憂
かぜまち
きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン 風 待 にテチンチンツン……」
いとは
よそみ
のりぢ
いよい
厭 しげに宮の余所見せるに、 乗 地 の唯継は 愈 よ声を作りて、
「たまたま逢ひはゕ――ゕ逢ひ゗――ながらチツンチツンチツンつれなき
あらし
嵐 に
ふきわ
吹 分 けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればゕゕ
ちち
はは
ゕゕゕ 父 ゗゗゗゗ 母 のチチチチンチンチンチンチンチ゗ン〔思ひも寄らぬ
つまさだめ
夫
定 ……」
いいかげん
「貴方もう 好 加 減 になさいましよ」
「もう少し聴いてくれ、〔立つる
みさを
操 を破ら……」
ゆつく
「又 寛 り伺ひますから、早くいらつしやいまし」
「然し、巧くなつたらう、ねえ、
ちよつ
些 と聞けるだらう」
「私には解りませんです」
もら
「これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて 貰 はうか」
「解らなくても宜うございます」
じようるり
あたま
しかた
「何、宜いものか、 浄 瑠 璃 の解らんやうな 頭 脳 ぢや 為 方 が無い。お前は一体冷
あたま も
淡な 頭 脳 を有つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ」
「そんな事はございません」
「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」
「愛子はどうでございます」
「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」
「それで能く解りました」
「何が解つたのか」
「解りました」
ちつと
些 も解らんよ」
「
よ
「まあ可うございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」
「うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」
いつ
「私は何時でも待つてをりますぢや御座いませんか」
「これは冷淡でない!」
やうや
たちあが
がいとう
とりあへず
漸 く唯継の 立 起 れば、宮は 外 套 を着せ掛けて、 不 取 敢 彼に握手を求
け
ゆゑ
めをと
めぬ。こは決して宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、 故 は、この 女 夫 の
しゆつにゆう
しつけ
出
入 に握手するは、夫の始より命じて習せし 躾 なるをや。
(三)の二
い
あなぐら
い
おもひ
夫を玄関に送り出でし宮は、やがて氷の
窖
などに入るらん 想 しつつ、是非
あゆみ
かへ
とも
い
無き 歩 を運びて居間に 還 りぬ。彼はその夫と 偕 に在るを謂はんやう無き
わづらひ す
ひとり
おか
た
いぶせ
累 と為なれど、又その 独 を守りてこの家に 処 るるをも堪へ難く 悒 きも
かならず
つと
おのづか
のに思へるなり。 必
しも 力 むるとにはあらねど、夫の前には
自
ら気の張
ありて、とにかくにさるべくは振舞へど
ほしいま
みひとつ
にはか
恣
まなる 身 一 箇 となれば、 遽 に
ものう うちつか
すべ
みだ
慵 く 打 労 れて、心は整へん 術 も知らず 紊 れに乱るるが常なり。
ひばち よ
うしな
てい
いか おもひい
おもひまは
火 鉢 に倚りて宮は、我を 喪 へる 体 なりしが、如何に 思 入 り、 思
回
おもひつ
つひ
やみ さまよ
し 思 窮 むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、 終 に明けぬ 闇 に 彷 徨 へる
かな
い
可悲しさは、在るにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出でたり。
うるはし さ
みつよつ いか
みわた
なごり
麗
く冱えたる空は遠く 三 四 の 凧 の影を転じて、 見 遍 す庭の 名 残 無く
ふゆか
あからさま
まばゆ
なきくる
こずゑ
冬 枯 れたれば、 浅
露 なる日の光の 眩 きのみにて、 啼 狂 ひし 梢 の
ひよ
かつかつ はね
鵯 の去りし後は、隔てる隣より 戞 々 と羽子突く音して、なかなかここにはその寒
あたひ
しばし
なが
ふゆがれ みや
さを忍ぶ 値 あらぬを、彼はされども 少 時 居て、又空を 眺 め、又 冬 枯 を見遣
おなじ
おさ
り、 同 き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、 抑 へんとはしたりけれども抑へ
つひ
い
そこ
ねま い
難さの 竟 に苦く、再び居間に入ると見れば、其処にも留らで書斎の次なる寝間に入る
なげう
より、身を 抛 ちてベットに伏したり。
しとね
みだれたた
いくへ きぬ いろどり
厚き 蓐 の積れる雪と真白き上に、 乱
畳 める 幾 重 の 衣 の
彩
を争ひ
あで
こころ お
よこた
カゕテン とほ
つつ、 妖 なる姿を 意 も介かず 横 はれるを、窓の日の
帷
を 透 して
ほのぼの
げ にほひ こぼ
なみ
うちあ
隠 々 照したる、実に 匂 も 零 るるやうにして彼は 浪 に漂ひし人の今 打 揚 げ
うつつ
ちからつ
たえい
た
られたるも 現 ならず、ほとほと 力 竭 きて 絶 入 らんとするが如く、止だ
てまくら
まなこ
つひ
ためいき
手 枕 に横顔を支へて、力無き 眼 をれり。 竟 には 溜 息 きてその目を閉づれ
う
おもて うちむ
すそ
わび
みうごき
ば、片寝に倦める 面 を 内 向 けて、 裾 の寒さを 佗 しげに 身 動 したりしが、
なほ そこひな
ふち
猶 も 底 止 無 き思の 淵 は彼を沈めてさざるなり。
すみだな
はた チクタク
ますま
ねや
隅 棚 の枕時計は 突 と 秒 刻 を忘れぬ。 益 す静に、益す明かなる 閨 の内
むな
むなし
たちま
には、 空 しとも 空 き時の移るともなく移るのみなりしが、 忽 ち差入る鳥影の
のきば
ふ
かたさき うちつらな
ひらめ
軒 端 に近く、俯したる宮が 肩 頭 に 打
連 りて 飜 きつ。
しどな
びん ほつ
かしら かたぶ
やや有りて彼は 嬾 くベットの上に起直りけるが、 鬢 の 縺 れし 頭 を 傾
カゕテン ひま
わづか
おも
けて、 帷
の 隙 より 僅 に眺めらるる庭の 面 に見るとしもなき目を遣りて、
あてどな
さまよ あと
当 所 無 く心の 彷 徨 ふ 蹤 を追ふなりき。
ぢき たんす
久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、 直 に 箪 笥 の中より
ゆうぜんちりめん おびあげ とりいだ
こ
ふみ
友 禅 縮 緬 の 帯 揚 を 取 出 し、心に籠めたりし一通の 文 とも見ゆるもの
あるじ
のこ
を抜きて、こたびは 主 の書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一が 遺 せし
たけ ひそか
筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思の 丈 を 窃 に
かきつら
書 聯 ねたるものなりかし。
さいつとし
たずみ
往
年 宮は田鶴見の邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へん
かた
ただこころゆかし かりそめ と
方 もあらぬ切なさに、 唯
心
寛 の 仮 初 に援りける筆ながら、なかなか口
うちいだ
いとよ
つづ
せ
もと
には 打 出 し難き事を 最 好 く書きて 陳 けも為しを、あはれかのひとの 許 に送り
て、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図の
こころ
意 をも定めしが、又案ずれば、
うら
その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎み 怨 める
いかり
さら
いたづら
ほろぼ
怒 の余に投返されて、人目に 曝 さるる事などあらば、
徒
に身を 滅 す
きず
あやふ
疵 を求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫の 危 く、捨つるは惜くも、やがて好
よりどころな
か
おうのう
き首尾の有らんやうに 拠
無 き頼を繋けつつ、彼は 懊 悩 に堪へざる毎に取出
か
かたは
ある
でては写し易ふる 傍 ら、 或 は書添へ、或は改めなどして、この文に向へば
おのづか
いひつく
こころのこり
自 らその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと 言 尽 して 心
残
ただ
よ
のあらざる如く、 止 これに因りて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなり
ほご
こ
き。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古となりて、彼の帯揚に籠められては、
あはれ
げ ひさし
いつまで草の 可 哀 や用らるる果も知らず、宮が手習は実に 久 うなりぬ。
かごと
めぐりあ
い
些 箇 に慰められて過せる身の荒尾に 邂 逅 ひし嬉しさは、何に似たりと謂はんも
おろか
と
あだ
くみ
愚 にて、この人をこそ仲立ちて、積る思を遂げんと頼みしを、 仇 の如く 与 せら
かきみだ
やうや
おそ
れざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は 掻 乱 れて、今は 漸 く危きを 懼 れ
い
ざる覚悟も出で来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃
思ひ立ちてけり。
えら
こころ
紙の良きを 択 び、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼は 意 してその字の良き
こと
かりそめ
す
うちふる
を 殊 に択びて、今日の今ぞ始めて 仮 初 ならず写さんと為なる。 打 顫 ふ手に十
あまりしたた
さしく
ほのほ
のぼ
余
認 めしを、つと裂きて火鉢に 差 べければ、 焔 の急に炎々と 騰 る
行
うとま
ふすま あ
おび
をんな
を、 可 踈 しと眺めたる折しも、 紙 門 を啓けてその光に 惧 えし 婢 は、覚えず
あるじ けしき あやし
主 の 気 色 を 異 みつつ、
い
「あの、御本家の奥様がお出で遊ばしました」
第四章
あるじ
あは
しようぼう
わにぶち
よ
主 夫婦を 併 せて 焼
亡 せし 鰐 淵 が居宅は、さるほど貫一の手に頼りて
ありがた
こてい
もつぱ さき
その跡に改築せられぬ、 有 形 よりは 小 体 に、質素を旨としたれど 専 ら 旧 の
うつ
たが
つと
構造を 摸 して 差 はざらんと 勉 めしに似たり。
間貫一と陶札を掲げて、彼はこの新宅の
あるじ
主 になれるなり。家督たるべき直道は
いか
如何にせし。彼は始よりこの不義の遺産に手をも触れざらんと誓ひ、かつこれを貫一に
与へて、その物は正業の資たれ。その人は改善の人たれと
こひねがひ
冀
しを、貫一は今こ
ぬし
ひるがへ
ますま さかん
の家の 主 となれるに、なほ先代の志を
飜
さずして、 益 す 盛 に例の
むさぼり
しか
こんにち かんけい いか
貪 を営むなりき。 然 れば彼と貫一との 今 日 の 関 繋 は如何なるものなら
およ
ここ
かくのごと
もし
ん。絶えてこれを知る者あらず。 凡 そ人生箇々の裏面には必ず 如
此 き内情 若
くは秘密とも謂ふべき者ありながら、
さいはひ
せんさく
あいまい
幸
に他の 穿 鑿 を免れて、 瞹 眛 の
うち
をは
ためしすくな
裏 に葬られ 畢 んぬる 例
尠 からず。二代の鰐淵なる間の家のこの一件もまた
も
貫一と彼との外に洩れざるを得たり。
かくして今は鰐淵の手代ならぬ三番町の間は、その向に有数の名を成して、外には善
をさ
ろうひ つか
わづか
く貸し、善く 歛 むれども、内には事足る 老 婢 を 役 ひて、 僅 に自炊ならざる
をとこせたい
おご
きのふ
男 世 帯 を張りて、なほも 奢 らず、楽まず、心は 昔 日 の手代にして、趣は失意
へんぶつ
の書生の如く依然たる 変 物 の名を失はでゐたり。
い
つか
わがいへ
出でてはさすがに 労 れて日暮に帰り来にける貫一は、彼の常として、 吾 家 なが
ら人気無き居間の内を、旅の木蔭にも
やすら
やや
や
休 へる想しつつ、 稍 興冷めて坐りも遣らず、
ゆふべ こと ひとり
きた
物の悲き 夕 を 特 に 独 の感じゐれば、老婢はラムプを持ち 来 りて、
こんにち
みようにち
「 今 日 三時頃でございました、お客様が見えまして、 明
日 又今頃来るから、
おつしや
是非内に居てくれるやうにと 有 仰 つて、お名前を伺つても、学校の友達だと言へば
おつしや
可い、とさう 有 仰 つてお帰りになりました」
「学校の友達?」
おしあて
あた
やぶ
ぬし
臆 測 にも知る 能 はざるはこの 藪 から棒の 主 なり。
「どんな風の人かね」
としごろ
むしやくしや ひげ は
せい
「さやうでございますよ、 年 紀 四十ばかりの 蒙
茸 と髭髯の生えた、身材の
こは
まる
ふうてい
いで
高い、 剛 い顔の、 全 で壮士みたやうな 風 体 をしてお 在 でした」
「…………」
さ おもひおこ ふし
なかば
些の 憶
起 す 節 もありや、と貫一は打案じつつも 半 は怪むに過ぎざりき。
「さうして、まあ大相横柄な方なのでございます」
あした
「 明 日 三時頃に又来ると?」
「さやうでございますよ」
たれ
「 誰 か知らんな」
にんてい
みようんち
「何だか誠に風の悪さうな 人 体 で御座いましたが、 明
日 参りましたら通しま
せうで御座いますか」
「ぢや用向は言つては行かんのだね」
「さやうでございますよ」
よろし
宜 い、会つて見やう」
「
「さやうでございますか」
起ち行かんとせし老婢は又居直りて、
あかがし
「それから何でございました、間もなく 赤 樫 さんがいらつしやいまして」
よろこ
な
こた
貫一は 懌 ばざる色を作してこれに 応 へたり。
かまぼこ
ふじむら むしようかん
「神戸の 蒲 鉾 を三枚、見事なのでございます。それに 藤 村 の 蒸 羊 羹 を下
わたくし
ちようだいもの
さいまして、 私
まで毎度又 頂 戴 物 を致しましたので御座います」
おももち
うけこたへ せ
彼は益す不快を禁じ得ざる 面 色 して、 応
答 も為で聴きゐたり。
みようんち
ちよい
「さうして 明
日 、五時頃 些 とお目に掛りたいから、さう申上げて置いてくれ
おつしや
と 有 仰 つてで御座いました」
よ
いだ
むし や
せはし うなづ
可しとも彼は口には 出 さで、 寧 ろ止めよとやうに 忙 く 頷 けり。
(四)の二
なの
ことば
と き
おどろ
学校友達と名宣りし客はその 言 の如く重ねて訪ひ来ぬ。不思議の対面に 駭 き
じんらい
おほ
いとま
はげし
惑へる貫一は、 迅 雷 の耳を 掩 ふに 遑 あらざらんやうに 劇 く吾を失ひて、
とみ
ぼうぜん
あたたま ひま
頓 にはその 惘 然 たるより覚むるを得ざるなりき。荒尾譲介は席の
温
る 間
てまさぐり
や
したひげ
いか
み
の 手
弄 に放ちも遣らぬ 下 髯 の、長く忘れたりし友の今を如何にと観るに
いそがし
忙 かり。
ほとん
よ
殆 ど一昔と謂うても可い程になるのぢやから話は沢山ある、けれどもこれより先
「
こんにち
に聞きたいのは、君は 今 日 でも僕をじや、この荒尾を親友と思うてをるか、どうか
と謂ふのじや」
答ふべき人の胸はなほ自在に語るべくもあらず乱れたるなり。
「考へるまではなからう。親友と思うてをるなら、をる、さうなけりや、ないと言ふま
゗エス ノウ
でで 是 か 否 かの一つじや」
「そりや昔は親友であつた」
おぼつかな
いひいだ
彼は 覚 束 無 げに 言 出 せり。
「さう」
「今はさうぢやあるまい」
なぜ
「何為にな」
「その後五六年も全く逢はずにゐたのだから、今では親友と謂ふことは出来まい」
ぜん
「なに五六年 前 も一向親友ではありやせんぢやつたではないか」
そば
いぶか
貫一は目を 側 めて彼を 訝 りつ。
「さうぢやらう、学士になるか、高利貸になるかと云ふ一身の浮沈の場合に、何等の相
せ
しつそう
どこ
談も為んのみか、それなり 失 踪 して了うたのは何処が親友なのか」
は
くゆ
い
きず
さか
その常に慙ぢかつ 悔 る一事を責められては、癒えざる 痍 をも 割 るる心地して、
かたち をさ
いだ
彼は苦しげに 容 を 歛 め、声をも 出 さでゐたり。
いろ
そむ
フレンド け
はず
「君の情人は君に 負 いたぢやらうが、君の
友
は決して君に負かん 筈 ぢや。そ
フレンド なぜ
友
を何為に君は棄てたか。その通り棄てられた僕ぢやけれど、かうして又訪ね
の
ま
て来たのは、未だ君を実は棄てんのじやと思ひ給へ」
学生たりし荒尾! 参事官たりし荒尾
をはうちから
尾羽 打 枯 せる今の荒尾の姿は変りた
なほ
れど、 猶 一片の変らぬ物ありと知れる貫一は、夢とも消えて、去りし、去りし昔の跡
しの
無き跡を悲しと 偲 ぶなりけり。
つうよう
「然し、僕が棄てても棄てんでも、そんな事に君は 痛 痒 を感ずるぢやなからうけれ
フレンド
ど、僕は僕で、 友
の徳義としてとにかく一旦は棄てんで訪ねて来た。で、断然棄
こんにち
つもり
つるも、又棄てんのも、唯 今 日 にある 意 じや。
今では荒尾を親友とは謂へん、と君の言うたところを以つて見ると、又今更親友であ
あへ
ることを君は望んではをらんやうじや。さうであるならば僕の方でも 敢 て望まん、立
なの
派に名宣つて僕も間貫一を棄つる!」
かしら た
貫一は 頭 を低れて敢て言はず。
こんにち
わかれ
「然し、 今 日 まで親友と思うてをつた君を棄つるからには、これが一生の 別 に
はなむけ
いちごん
なるのぢやから、その 餞 行 として 一 言 云はんけりやならん。
かね こしら
たのしみ
間、君は何の為に 貨 を 殖 ゆるのぢや。かの大いなる
楽
とする者を奪れた
か
マネエ
為に、それに易へる者として 金 銭 といふ考を起したのか。それも可からう、可いとし
お
え
て措く。けれどもじや、それを獲る為に不義不正の事を働く必要が有るか。君も現在
ひと
からだ
おのれ
ひと
他 から苦められてゐる 躯 ではないのか。さうなれば 己 が又 他 を苦むるのは
もつと
ひと
つけい
尤 も用捨すべき事ぢやらうと思ふ。それが 他 を苦むると謂うても、難儀に 附 入
しぼ
こしら
つて、さうしてその血を 搾 るのが君の営業、殆ど強奪に等い手段を以つて金を 殖
こんにち
いか マネエ すべ
えつつ、君はそれで 今 日 慰められてをるのか。如何に 金 銭 が 総 ての力であるか
知らんけれど、人たる者は悪事を行つてをつて、一刻でも安楽に居らるるものではない
いぜん
のどか
さかり
のじや。それとも、君は 怡 然 として楽んでをるか。 長 閑 な日に花の 盛 を眺むる
さしおさへ
やうな気持で催促に行つたり、 差
押 を為たりしてをるか。どうかい、間」
いよい
彼は 愈 よ口を閉ぢたり。
「恐くじや。さう云ふ気持の事は、この幾年間に一日でも有りはせんのぢやらう。君の
がんしよく
顔
色 を見い!
まる
つら
全 で罪人じやぞ。獄中に居る者の 面 じや」
やつ
おもて まも
別人と見るまでに彼の浅ましく 瘁 れたる 面 を 矚 りて、譲介は涙の落つるを覚
えず。
いくらかね
「間、何で僕が泣くか、君は知つてをるか。今の間ぢや知らんぢやらう。 幾 多 貨 を
こしら
殖 へたところで、君はその分では到底慰めらるる事はありはせん。病が有るからと
なほ
謂うて毒を飲んで、その病が 痊 るぢやらうか。君はあたかも薬を飲む事を知らんやう
フレンド
たはけ
なものじやぞ。僕の
友
であつた間はそんな 痴 漢 ぢやなかつた、して見りや発狂
しを
とが
したのじや。発狂してからに馬鹿な事を為居る奴は 尤 むるに足らんけれど、
いつぷじん
フレンド
は
一 婦 人 の為に発狂したその根性を、彼の
友
として僕が慙ぢざるを得んのじや。
ぬすと
いは
間、君は 盗 人 と言れたぞ。罪人と 言 れたぞ、狂人と言れたぞ。少しは腹を立てい!
け
腹を立てて僕を打つとも蹴るとも為て見い!」
いは
なほ
けり せ
な
そくそく
彼は自ら 言 ひ、自ら憤り、 尚 自ら打ちも 蹴 も為んずる色を作して 速 々 答を
せま
貫一に 逼 れり。
「腹は立たん!」
ぬすと
「腹は立たん? それぢや君は自身に 盗 人 とも、罪人とも……」
めんぼく
「狂人とも思つてゐる。一婦人の為に発狂したのは、君に対して実に 面 目 無いけれ
しま
ど、既に発狂して 了 つたのだから、どうも今更為やうが無い。折角ぢやあるけれど、
このまま棄置いてくれ給へ」
わづか
や
貫一は 纔 にかく言ひて已みぬ。
マネエ
「さうか。それぢや君は不正な 金 銭 で慰められてをるのか」
「未だ慰められてはをらん」
いつ
「何日慰めらるるのか」
「解らん」
もら
「さうして君は妻君を 娶 うたか」
「娶はん」
なぜ
「何故娶はんのか、かうして家を構へてをるのに独身ぢや不都合ぢやらうに」
「さうでもないさ」
「君は今では彼の事をどう思うてをるな」
「彼とは宮の事かね。あれは畜生さ!」
こんにち
「然し、君も 今 日 では畜生ぢやが、高利貸などは人の心は有つちやをらん、人の心
が無けりや畜生じや」
「さう云ふけれど、世間は大方畜生ぢやないか」
「僕も畜生かな」
「…………」
も
「間、君は彼が畜生であるのに激してやはり畜生になつたのぢやな。若し彼が畜生であ
や
つたのを改心して人間に成つたと為たら、同時に君も畜生を罷めにやならんじやな」
「彼が人間に成る? 能はざる事だ!
僕は高利を
むさぼ
貪 る畜生だけれど、人を欺く事
いつは
は為んのだ。 詐 つて人の誠を受けて、さうしてそれを売るやうな残忍な事は決して
なの
為んのだ。始から高利と名宣つて貸すのだから、否な者は借りんが可いので、借りん者
う
を欺いて貸すのぢやない。宮の如き畜生が何で再び人間に成り得るものか」
なぜ
え
「何為成り得んのか」
なぜ
え
「何為成り得るのか」
「さうなら君は彼の人間に成り得んのを望むのか」
「望むも望まんも、あんな者に用は無い!」
むし
めん つば
けしき
寧 ろその 面 に 唾 せんとも思へる貫一の 気 色 なり。
「そりや彼には用は無いぢやらうけれど、君の為に言ふべきことぢやと思ふから話すの
ぢやが、彼は今では大いに悔悟してをるぞ。君に対して罪を悔いてをるぞ!」
あざわら
いか いやし
貫一は吾を忘れて 嗤 笑 ひぬ。彼はその如何に 賤 むべきか、謂はんやうもあら
おも
あざわら
や
ぬを 念 ひて、更に 嗤 笑 ひ猶嗤笑ひ、遏めんとして又嗤笑ひぬ。
「彼もさうして悔悟してをるのぢやから、君も悔悟するが可からう、悔悟する時ぢやら
うと思ふ」
「彼の悔悟は彼の悔悟で、僕の
れも可からう」
あづか
与 る事は無い。畜生も少しは思知つたと見える、そ
「先頃計らず彼に逢うたのじや、すると、僕に向うて涙を流して、そりや真実悔悟して
わび
をるのじや。さうして僕に 詑 を為てくれ、それが成らずば、君に一遍逢せてくれ、と
すが
縋 つて頼むのじやな、けれど僕も思ふところが有るから拒絶はした。又君に対しても、
ゆる
せ
ただ
彼がその様に悔悟してゐるから 容 して遣れと勧めは為ん、それは別問題じや。 但 僕
ひと
すなは
として君に言ふところは、彼は悔悟して 独 り苦んでをる。 即 ち彼は自ら罰せられ
てをるのぢやから、君は君として
うらみ と
怨 を釈いて可からうと思ふ。君がその怨を釈いた
かへ
なら、昔の間に 復 るべきぢやらうと考へるのじや。
いつ
君は今のところ慰められてをらん、それで又、何日慰めらるるとも解らんと言うたな、
然しじや、彼が悔悟してからにその様に思うてをると聞いたら、君はそれを以つて大い
マネエ
いくら
に慰められはせんかな。君がこの幾年間に得た 金 銭 、それは 幾 多 か知らんけれど、
すくな
マネエ
つひ
いちごん
はるか
その 寡 からん 金 銭 よりは、彼が 終 に悔悟したと聞いた 一 言 の方が、 遙
に大いなる力を以つて君の心を慰むるであらうと思ふのじやが、どうか」
「それは僕が慰められるよりは、宮が苦まなければならん為の悔悟だらう。宮が前非を
こんにち
悟つた為に、僕が失つた者を再び得られる訳ぢやない、さうして見れば、僕の 今 日
よ
すこし
はそれに因つて 少 も慰められるところは無いのだ。憎いことは彼は飽くまで憎い、
が、その憎さに僕が慰められずにゐるのではないからして、宮その者の一身に向つて、
あだ かへ
僕は棄てられた怨を報いやうなどとは決して思つてをらん、畜生に 讐 を 復 す価は無
いさ。
こんにち
今 日 になつて彼が悔悟した、それでも好く悔悟したと謂ひたいけれど、これは
もと
固 よりさう有るべき事なのだ。始にあんな不心得を為なかつたら、悔悟する事は無か
つたらうに――不心得であつた、非常な不心得であつた!」
あんぜん
むなし おも
彼は 黯 然 として 空 く 懐 へるなり。
「僕は彼の事は言はんのじや。又彼が悔悟した為に君の失うた者が再び得らるる訳でな
よ
いから、それぢや慰められんと謂ふのなら、それで可いのじや。要するに、君はその失
かね こしら
うた者が取返されたら可いのぢやらう、さうしてその目的を以つて君は 貨 を 殖 へ
てをるのぢやらう、なあ、さうすりやその貨さへ得られたら、好んで不正な営業を為る
必要は有るまいが。君が失うた者が有る事は知つてをる。それが為に常に楽まんのも、
マネエ
よ
同情を表してゐる、そこで 金 銭 の力に頼つて慰められやうとしてゐる、に就いては異
まか
かね こしら
議も有るけれど、それは君の考に 委 する。 貨 を 殖 ゆるも可い、可いとする以上
は大いに富むべしじや。けれど、富むと云ふのは
むさぼ
あつ
貪 つて 聚 むるのではない、又貪
つて聚めんけりや貨は得られんのではない、不正な手段を
もちゐ
用 んでも、富む道は
いくら
た
幾 多 も有るぢやらう。君に言ふのも、な、その目的を変へよではない、止だ手段を改
みち
たかね
めよじや。 路 は違へても同じ 高 嶺 の月を見るのじやが」
かたじけ
辱
ないけれど、僕の迷は未だ覚めんのだから、間は発狂してゐる者と想つて、
「
いつせつ
一 切 かまひ付けずに措いてくれ給へ」
「さうか。どうあつても僕の
ゆる
「 容 してくれ給へ」
ことば もちゐ
言 は 用 られんのじやな」
「何を容すのじや! 貴様は俺を棄てたのではないか、俺も貴様を棄てたのじやぞ、容
すも容さんも有るものか」
こんにちかぎり
ひとつ
「 今 日 限 互に棄てて別れるに就いては、僕も 一 箇 聞きたい事が有る。それは
君の今の身の上だが、どうしたのかね」
「見たら解るぢやらう」
「見たばかりで解るものか」
「貧乏してをるのよ」
「それは解つてゐるぢやないか」
「それだけじや」
や
「それだけの事が有るものか。何で官途を罷めて、さうしてそんなに貧乏してゐるのか、
様子が有りさうぢやないか」
きちがひ
「話したところで 狂 人 には解らんのよ」
そらうそぶ
す
荒尾は 空
嘯 きて起たんと為なり。
「解つても解らんでも可いから、まあ話すだけは話してくれ給へ」
ノオサンク
「それを聞いてどう為る。ああ貴様は何か、金でも貸さうと云ふのか。 N o thank じや、
いぜん
赤貧洗ふが如く窮してをつても、心は 怡 然 として楽んでをるのじや」
なほ
「それだから 猶 、どう為てさう窮して、それを又楽んでゐるのか、それには何か事情
が有るのだらう、から、それを聞せてくれ給へと言ふのだ」
ことさ
こうこう
荒尾は 故 らに 哈 々 として笑へり。
むけつちゆう
「貴様如き 無 血 虫 がそんな事を聞いたとて何が解るもので。人間らしい事を言ふ
な」
はづかし
ことば
からだ
「さうまで 辱
められても 辞 を返すことの出来ん程、僕の 躯 は腐つて了つ
たのだ」
「固よりじや」
「かう腐つて了つた僕の
からだ
躯 は今更為方が無い。けれども、君は立派に学位も取つて、
参事官の椅子にも居た人、国家の為に有用の
うつは
器 であることは、決して僕の疑はんと
ころだ。で、僕は常に君の出世を予想し、又
ひそか
いの
陰 にそれを 祷 つてをつたのだ。君は
おも
僕を畜生と言ひ、狂人と言ひ、賊と言ふけれど、君を 懐 ふ念の僕の胸中を去つた事は
こんにち
いちにん フレンド
をととし
ありはせんよ。 今 日 まで君の外には 一 人 の
友
も無いのだ。 一 昨 年 であ
なつかし
つた、君が静岡へ赴任すると聞いた時は、嬉くもあり、 可 懐 くもあり、又考へて見
れば、自分の身が悲くもなつて、僕は一日飯も食はんでゐた。それに就けても、久し振
よろこび
おも
からだ
で君に逢つて 慶 賀 も言ひたいと 念 つたけれど、どうも逢れん僕の 躯 だから、
せめ
ステエション
切 て陰ながらでも君の出世の姿が見たいと、新橋の 停 車 場 へ行つて、君の立派
に成つたのを見た時は、何もかも忘れて僕は唯嬉くて涙が出た」
こころひそか うなづ
さてはと荒尾も 心
陰 に 頷 きぬ。
こんにち
「君の出世を見て、それほど嬉かつた僕が、 今 日 君のそんなに零落してゐるのを見
る心持はどんなであるか、察し給へ。自分の身を顧ずにかう云ふ事を君に向つて言ふべ
きではないけれど、僕はもう
おのれ
いつぷじよし いつはりごと
己 を棄ててゐるのだ。 一 婦 女 子 の 詐
如 き
きようせい
に憤つて、それが為に一身を過つたと知りながら、自身の覚悟を以て 匡
正 するこ
との出来んと謂ふのは、全く天性愚劣の致すところと、自ら恨むよりは無いので、僕は
生きながら腐れて、これで果てるのだ。君の親友であつた間貫一は既に亡き者に成つた
のだ、とさう想つてくれ給へ。であるから、これは間が言ふのではない。君の親友の或
をし
者が君の身を 愛 んで忠告するのだとして聴いてくれ給へ。どう云ふ事情か、君が話し
てくれんから知れんけれど、君の躯は十分自重して、社会に立つて
さかん
はたらき
壮 なる
働
な
を作して欲いのだ。君はさうして窮迫してゐるやうだけれど、決して世間から棄てられ
いつこじん
をし
るやうな君でない事を僕は信ずるのだから、 一 箇 人 として己の為に身を 愛 みたま
へと謂ふのではなく、国家の為に自重し給へと願ふのだ。君の親友の或者は君がその才
を用る為に社会に出やうと為るならば、及ぶ限の助力を為る精神であるのだ」
おもて
たちま い
かくのごと
貫一の 面 は病などの 忽 ち癒えけんやうに輝きつつ、 如
此 く潔くも
うるはし ことば
麗 き 辞 を語れるなり。
らくはく
きのどく
「うう、それぢや君は何か、僕のかうして 落 魄 してをるのを見て 気 毒 と思ふの
か」
「君が謂ふほどの畜生でもない!」
そこ
もちゐ
「其処じや、間。世間に貴様のやうな高利貸が在る為に、あつぱれ 用 らるべき人才
きずつ
ほか
むなし
の多くがじや、名を 傷 け、身を誤られて、社会の 外 に放逐されて 空 く朽つる
のじやぞ。国家の為に自重せい、と僕の如き者にでもさう言うてくるるのは
かたじけ
忝
な
や
いが、同じ筆法を以つて、君も社会の公益の為にその不正の業を罷めてくれい、と僕は
こんにち
ほろぼ
いは
又頼むのじや。 今 日 の人才を 滅 す者は、 曰 く色、曰く高利貸ぢやらう。この
おちぶ
なやま
通り 零 落 れてをる僕が気毒と思ふなら、君の為に 艱 されてをる人才の多くを一層
ふびん
不 敏 と思うて遣れ。
ラヴ
マネエ
君が 愛 に失敗して苦むのもじや、或人が 金 銭 の為に苦むのも、苦むと云ふ点に於
かはり
ては 差 異 は無いぞ。で、僕もかうして窮迫してをる際ぢやから、憂を分つ親友の一人
は誠欲いのじや、昔の間貫一のやうな
フレンド
友
が有つたらばと思はん事は無い。その
フレンド
おも
さかん
いつぴ
友 が僕の身を 念 うてくれて、社会へ打つて出て 壮 に働け、 一 臂 の力を仮
いか
さうと言うのであつたら、僕は如何に嬉からう!
世間に最も喜ぶべき者は
フレンド
友
、
にく
いか
最も 悪 むべき者は高利貸ぢや。如何に高利貸の悪むべきかを知つてをるだけ、僕は
ますま フレンド おも
フレンド こんにち
益 す
友
を 懐 ふのじや。その昔の
友
が 今 日 の高利貸――その悪む
べき高利貸! 吾又何をか言はんじや」
彼は口を閉ぢて、貫一を疾視せり。
ありがた
からだ
「段々の君の忠告、僕は 難 有 い。猶自分にも篤と考へて、この腐れた 躯 が元の
通潔白な者に成り得られるなら、それに越した幸は無いのだ。君もまた自愛してくれ給
へ。僕は君には棄てられても、君の大いに用られるのを見たいのだ。又必ず大いに用ら
れなければならんその人が、さうして不遇で居るのは、残念であるよりは僕は悲い。そ
おも
どこ
んなに 念 つてもゐるのだから一遍君の処を訪ねさしてくれ給へ。何処に今居るかね」
もら
「まあ、高利貸などは来て 貰 はん方が可い」
フレンド
「その日は 友
として訪ねるのだ」
フレンド
「高利貸に 友
は持たんものな」
しとや
ふすま おしひら
いできた
たれ
いか
雍 かに 紙 門 を 押 啓 きて 出 来 れるを、 誰 かと見れば満枝なり。彼如何
ぶしつけ
あらは
うちおどろ
あるじ
なれば 不 躾 にもこの席には 顕 れけん、と 打
駭 ける 主 よりも、荒尾が
たぐ
くるし
ひげ
心の中こそ更に 匹 ふべくもあらざるなりけれ。いでや、彼は 窘 みてその長き 髯
したたか ひね
うろた
くちを
にはか
痛
に 拈 りつ。されど 狼 狽 へたりと見られんは 口 惜 しとやうに、 遽
をば
むなたか こまぬ
うちひか
さま
にその手を 胸 高 に 拱 きて、動かざること山の如しと 打 控 へたる 様 も、
おのづか
みよ
自 らわざとらしくて、また見好げにはあらざりき。
ま あるじ あいさつ
ひときは
満枝は先づ 主 に 挨 拶 して、さて荒尾に向ひては 一 際 礼を重く、しかも
みづから
み
もつぱ
ゑ
躬 は手の動き、目の視るまで、 専 ら貴婦人の如く振舞ひつつ、笑むともあら
おもて やはら
しばら ことば いだ
た
面 を 和 げて 姑 く 辞 を 出 さず。荒尾はこの際なかなか黙するに堪へ
ず
ずして、
「これは不思議な所で!
成程間とは御懇意かな」
こちら し
「君はどうして 此 方 を識つてゐるのだ」
とみかうみ
あき
左 瞻 右 視 して貫一は 呆 るるのみなり。
「そりや少し識つてをる。然し、長居はお邪魔ぢやらう、大きに失敬した」
「荒尾さん」
満枝はさじと呼留めて、
いかが
「かう云ふ処で申上げますのも 如 何 で御座いますけれど」
ここ
「ああ、そりや 此 で聞くべき事ぢやない」
いつ
「けれど 毎 も御不在ばかりで、お話が付きかねると申して弱り切つてをりますで御座
いますから」
に
「いや、会うたところでからに話の付けやうもないのじや。遁げも隠れも為んから、ま
あ、時節を待つて貰はうさ」
「それはどんなにもお待ち申上げますけれど、貴方の御都合の
よろし
宜 いやうにばかり致
してはをられませんで御座います。そこはお察しあそばしませな」
ひど
「うう、随分 酷 い事を察しさせられるのじやね」
わたくし
「近日に是非 私
お願ひ申しに伺ひますで御座いますから、どうぞ宜く」
「そりや一向宜くないかも知れん」
「ああ、さう、この前でございましたか、あの者が伺ひました節、何か御無礼な事を申
き
しま
上げましたとかで、大相な御立腹で、お刀をお抜き遊ばして、斬つて 了 ふとか云ふ事
が御座いましたさうで」
「有つた」
「あれ、本当にさやうな事を遊ばしましたので?」
は
あざわら
満枝は彼に耻ぢよとばかり 嗤 笑 ひぬ。さ知つたる荒尾は飽くまで真顔を作りて、
あやつ
「本当とも! 実際 那 奴 つて了はうと思うた」
「然しお考へ遊ばしたで御座いませう」
「まあその辺ぢや。あれでも犬猫ぢやなし、斬捨てにもなるまい」
こは
わたくし
「まあ、 怖 い事ぢや御座いませんか。
私
なぞは滅多に伺ふ訳には参りませんで
御座いますね」
た
うなじ そら
ののめ
そは誰が事を言ふならんとやうに、荒尾は 頂 を 反 して 噪 き笑ひぬ。
ふ
「僕が美人を斬るか、その目で僕が殺さるるか。どれ帰つて、刀でも拭いて置かう」
ゆふめし
「荒尾君、 夕 飯 の支度が出来たさうだから、食べて行つてくれ給へ」
「それは折角ぢやが、盗泉の水は飲まんて」
「まあ貴方、私お給仕を勤めます。さあ、まあお下にゐらしつて」
あしもと しとね おしつ
げ
あるじ
満枝は荒尾の立てる 脚 下 に 褥 を 推 付 けて、実に還さじと 主 にも劣らず
いとをし
最 惜 む様なり。
「全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや」
つもり
「そのお 意 で、どうぞお席にゐらしつて」
もと
とどま
つひ
固 より 留 らざるべき荒尾は 終 に行かんとしつつ、
「間、貴様は……」
「…………」
「…………」
くちびる
むなし うつよく
彼は 唇
の寒かるべきを思ひて、 空 く 鬱 抑 して帰り去れり。その言はざ
ことば ただち
い
あと
くるし
りし 語 は 直 に貫一が胸に響きて、彼は人の去にける 迹 も、なほ聴くに 苦
おもて えあ
面 を得挙げざりけり。
き
(四)の三
とも
た
すく
かたはら
程も有らずラムプは 点 されて、止だ在りけるままに 竦 みゐたる彼の
傍
に置
るるとともに、その光に照さるる満枝の姿は、更に
よそほひ
け
粧
をも加へけんやうに怪しか
あでやか
さながらいろか ほしいまま
ぼたん
さきたわ
らず 妖 艶 に、 宛 然 色 香 を
擅
にせる 牡 丹 の枝を 咲 撓 めたる
ふぜい
風 情 にて、彼は親しげに座を進めつ。
はざま
あなた
ふさ
間 さん、 貴 方 どうあそばして、非常にお 鬱 ぎ遊ばしてゐらつしやるぢや御座
「
いませんか」
たゆ
わづか
貫一は 怠 くも 纔 に目を移して、
「一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか」
ごほうゆう
「私よりは、貴方があの方の 御 朋 友 でゐらつしやるとは、実に私意外で御座います
わ」
「貴方はどうして御存じなのです」
「まあ債務者のやうな者なので御座います」
「債務者? 荒尾が?
貴方の?」
「私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど」
たか どれほど
「はあ、さうして 額 は 若 干 なのですか」
「三千円ばかりでございますの」
かしぬし い
どこ
「三千円? それでその直接の 貸 主 と謂ふのは何処の誰ですか」
にはか ねぢむ
ひざ すす
ゆが
満枝は彼の 遽 に 捩 向 きて 膝 の 前 むをさへ覚えざらんとするを見て、 歪 む
くちもと ゑみ
る 口 角 に 笑 を忍びつ、
「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、
へいぜい
まる
平 生 私がお話でも致すと、 全 で取合つても下さいませんのですもの」
「まあ可いです」
ちよつ
些 とも可い事はございません」
「
「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね」
「存じません」
「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」
「私貴方からは戴きません」
「上げるのではない、弁償するのです」
「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私
あの債権を棄てて了ひます」
なぜ
「それは何為ですか」
よろし
おぼしめ
「何為でも 宜 う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと 思 召 すなら、
おつしや
私に債権を棄てて了へと 有 仰 つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」
「どう云ふ訳ですか」
「どう云ふ訳で御座いますか」
はなは
甚 だ解らんぢやありませんか」
「
もちろん
「 勿 論 解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。
然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」
「いいや、僕は解つてゐます」
「ええ、解つてゐらつしやりながら
ちよつ
些 ともお解りにならないのですから、私も
ますま
益 す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」
きんぎせる てあぶり ふち ちよう う
ながしめ うらみ
満枝は 金 煙 管 に 手 炉 の 縁 を 丁 と拍ちて、男の顔に 流 眄 の 怨 を
注ぐなり。
「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」
「御勝手ねえ、貴方は」
「さあ、お話し下さいな」
「唯今お話致しますよ」
にはか きせる もと
かたはら
ごと ゆるやか けふり
満枝は 遽 に 煙 管 を 索 めて、さて
傍
に人無き 若 く
緩
に 煙 を
吹きぬ。
「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」
「…………」
「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」
「…………」
「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、
ほとん
殆 ど有得べき事でないのだけれ
ど、……」
「…………」
と
唯見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。
「さあ、お話し下さいな」
ぐづぐづ
じれ
「こんなに 遅 々 してをりましたら、さぞ貴方 憤 つたくてゐらつしやいませう」
「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」
け
「憤つたいと云ふものは、決して好い心持ぢやございませんのね」
いで
「貴方は何を言つてお 在 なのです!」
「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」
「どうぞ」
たし
ぜん
さぎさか
「 蓋 か御承知でゐらつしやいましたらう。 前 に宅に居りました 向 坂 と申すの、
あれが静岡へ参つて、今では
ちよつ さかん
些 と 盛 に遣つてをるので御座います。それで、あ
いで
の方は静岡の参事官でお 在 なのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手
つまり
から何したので御座います。 究 竟 あの方もその件から論旨免官のやうな事にお成なす
あちら
つて、又東京へお還りにならなければ為方が無いので、 彼 方 を引払ふのに就いて、向
坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度
すつかりこちら
去年の秋頃から 全 然 此 方 へ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。
とん
いで
然し、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして 止 と遊んでお 在 も
ほんやく
すこし
同様で、 飜 訳 か何か 少 ばかり為さる御様子なのですから、今のところではどう
にも手の着けやうが無いので御座いますわ」
「はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」
「それはあの方は連帯者なので御座います」
「はあ! さうして借主は何者ですか」
おおだちさくろう
「 大 館 朔 郎 と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動
あとばら
費の 後 肚 だとか云ふ話でございました」
いか
「うむ、如何にも!
大館朔郎……それぢや事実でせう」
「御承知でゐらつしやいますか」
「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」
ことば うち
いた
おのれ
はやその 言 の 中 に彼の心は急に 傷 みぬ。 己 の敬愛せる荒尾譲介の窮して
せきせき
なげう
戚 々 たらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を 擲 ち、恩の為に富貴
ゆゑ
まさ
わがとも
を顧ざりし 故 にあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに 優 れり。君子なる 吾 友
いだ
はつこう
はなはだし
よ。さしも潔き志を 抱 ける者にして、その酬らるる 薄 倖 の彼の如く
甚
く
そぞ
酷なるを念ひて、貫一は 漫 ろ涙の沸く目を閉ぢたり。
第五章
にはか
ほんじよ
遽 に千葉に行く事有りて、貫一は午後五時の 本 所 発を期して車を飛せしに、
あなや
のち
とうけん
あ
咄 嗟 、一歩の時を遅れて、二時間 後 の次回を待つべき 倒 懸 の難に遭へるなり。
すごすご
い
しまケット
ぬるちや すす
彼は 悄 々 停車場前の休憇処に入りて奥の一間なる 縞 毛 布 の上に 温 茶 を 啜
かど
かばん
りたりしが、 門 を出づる折受取りし三通の郵書の 鞄 に打込みしままなるを、この
とりいだ
時 取 出 せば、中に一通の M., Shigis――と裏書せるが在り。
よこ
「ええ、又寄来した!」
彼はこれのみ開封せずして、やがて他の
よみがら
読
と一つに投入れし鞄をと閉づるや、
あふぎふ
ふさ
ねむり
枕に引寄せて 仰 臥 すと見れば、はや目を 塞 ぎて 睡 を促さんと為るなりき。さ
よ ねぶ
あと
れども、彼は能く 睡 るを得べきか。さすがにその人の筆の 蹟 を見ては、今更に憎し
おもひ
とも恋しとも、絶えて 念 には懸けざるべしと誓へる彼の心も、睡らるるまでに安か
る能はざるなり。
いで、この文こそは宮が送りし再度の
うつたへ
愬
にて、その始て貫一を驚かせし
いつさつ
およ
一 札 は、 約 そ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼
さき
も
は 曩 に荒尾に答へしと同様の意を以てその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同
くりごと
いたづら
けが
おもひ きずつ
き 繰 言 なるべきを、何の未練有りて、
徒
に目を 汚 し、 懐 を 傷 けん
かきや
やと、気強くも右より左に 掻 遣 りけるなり。
いか
宮は如何に悲しからん!
さ
この両度の消息は、その苦き胸を剖き、その切なる誠を吐
きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事若し誤らば、この手証は生ながら葬らるべき
う
罪を獲るに余有るものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て
ただち
直 に貫一の心を解かんとは思設けざりき。
ゆゑ
しるし
故 に幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ 験 あらずば、彼は
いやま かなしみ
みたび
と
弥 増す
悲
の中に定めて 三 度 の筆を援るなるべし。知らずや、貫一は再度の封
みたび いつたび ななたび
と
をだに切らざりしを―― 三 度 、 五 度 、 七 度 重ね重ねて十百通に及ばんとも、
貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと
こころ
意 を決せるを。
ふ
いだ
さぐ
静に臥したりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を 出 し、を 捜 りて、封の
はし
ひばち
さしかざ
ほのほ
ままなるその 端 に火を移しつつ、 火 鉢 の上に 差 翳 せり。一片の 焔 は
れつれつ
くづれお
烈 々 として、白くるものは宮の思の何か、黒く 壊 落 つるものは宮が心の何か、
いくとせ かなしみ
けふり
彼は 幾 年 の
悲
と悔とは嬉くも今その人の手に在りながら、すげなき 烟 と
消えて跡無くなりぬ。
あふぎふ
貫一は再び鞄を枕にして始の如く 仰 臥 せり。
しばし
をんな
よびむか
いりき
ごし
間 有りて 婢 どもの口々に 呼 邀 ふる声して、 入 来 し客の、障子 越 なる
けはひ
なんによ
づれ
隣室に案内されたる 気 勢 に、貫一はその 男 女 の二人 連 なるを知れり。
彼等は若き人のやうにもあらず
「まだ沢山時間が有るから
すこぶ しめやか
頗 る 沈 寂 に座に着きたり。
ゆつく
すう
寛 り出来る。さあ、 鈴 さん、お茶をお上んなさい」
こは男の声なり。
あなた
「 貴 方 本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか」
ぼんすぎ
をぢ
をば
「 盆 過 には是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父さんや尊母さんの気が
いで
変つて了つてお 在 なのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これが
ただあきら
わたし
どうして、円く納るものぢやない。この上はもう 唯
諦 めるのだ。 私 は男らし
く諦めた!」
まさ
わたし あきら
「 雅 さんは男だからさうでせうけれど、 私 は 諦 めません。さうぢやないとお
おとつ
おつか
しかた おこ
いで
言ひなさるけれど、雅さんは 阿 父 さんや 阿 母 さんの 為 方 を 慍 つてお 在 なのに
違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅
どこ
い
さんが引取つて下さらなければ、一生何処へも適きはしませんから」
ところどころ
女は 処
々 聞き得ぬまでの涙声になりぬ。
いくら
「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、 幾 許 私の方で引取りたくつ
たれ うら
ても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、 誰 を 怨 む訳も無い、全く自分
からだ きず
が悪いからで、こんな 躯 に 疵 の付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれない
もつとも
尤
だと、それは私は自分ながら思つてゐる」
のが
もら
「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ 貰 つて下されば可いのぢやありま
せんか」
「そんな解らない事を言つて!
私だつてどんなに
くやし
悔 いか知れはしない。それは自
わな
分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の ※ [#「(箆-
竹-比)/民」、338-17]に
かか
きず
ひとり
罹 つたばかりで、自分の躯には生涯の 疵 を付け、 隻 の
いひなづけ
母親は……殺して了ひ、又その上に…… 許
婚 は破談にされ、……こんな情無い思
いつそ
ろう
を為る位なら、 不 如 私は 牢 の中で死んで了つた……方が可かつた!」
「あれ、雅さん、そんな事を……」
ふたり
な いだ
両 箇 は一度に哭き 出 せり。
ちきしよう
はらいせ
「阿母さんがあん 畜
生 の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い 肚 癒 ぢやあ
すう
るけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は 鈴 さんが来てく
れると言つて、朝晩にそればかり
たのしみ
ゐな
楽
にして 在 すつた……のだし」
をんな
なくね
こら
すすりあ
女 はつと出でし 泣 音 の後を 怺 へ怺へて 啜 上 げぬ。
わたし
す
私 も破談に為る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず
「
悪く思つて下さるな」
「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」
「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。
ひ
あきら
それがお気毒だから、私は自分から身を退いて、これまでの縁と 諦 めてゐるので、
然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」
いよい むせ
ふ
女は唯 愈 よ 咽 びゐたり。音も立てず臥したりし貫一はこの時忍び起きて、障子
そこここ
すきみ
つひ こころ
の其処此処より男を 隙 見 せんと為たりけれど、 竟 に 意 の如くならで止みぬ。
しか
まさし
こわね ききおぼえ
然 れども彼は 正 くその 声 音 に 聞
覚 あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に
あくらまさゆき
放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし 飽 浦 雅 之 ならずと
せ
ひと うなづ
為んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と 独 り 頷 きつつ貫一は
ひそま
潜 りて聴耳立てたり。
又
うそ
「 嘘 にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引
あひ
つもり
取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお 遭 なので、それが為に縁を切る 意 な
しほだち
ら、私は、雅さん、……一年が間…… 塩 断 なんぞ為はしませんわ」
おも
彼は自らその苦節を 憶 ひて泣きぬ。
だま
「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に 瞞 されて
ともども くや
くやし
無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は 倶 共 に 悔 し……悔し…… 悔
いとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなん
いつ
と何時私が思つて!
雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」
この心を知らずや、と
じようきはま
もだ なげ
情
極 りて彼の 悶 え 慨 くが手に取る如き隣には、貫
うつぷし かしら すりつ
まきたばこ
よこた
一が 内 俯 に 頭 を 擦 付 けて、 巻
莨 の消えしをげたるままに 横 はれる
なり。
「雅さんは私をそんな女だとお思ひのは、貴方がお留守中の私の事を御存じないからで
みつき よ わづら
いで
すよ。私は 三 月 の余も 疾 つて……そんな事も雅さんは知つてお 在 ぢやないので
おとつ
おつか
せう。それは、 阿 父 さんや 阿 母 さんは雅さんのところへ上げる気は無いにしても、
私は私の了簡で、若しああ云ふ事が有つたので雅さんの肩身が狭くなるやうなら、私は
ゆ
猶更雅さんのところへ適かずにはゐられない。さうして私も雅さんと一処に肩身が狭く
かはい
なりたいのですから。さうでなけりや、子供の内からあんなに 可 愛 がつて下すつた雅
おつか
さんの 尊 母 さんに私は済まない。
りようけんどほり
親が不承知なのを私が自分の 了
簡
通 に為るのは、そりや不孝かも知れませ
ゆ
いや
んけれど、私はどうしても雅さんのところへ適きたいのですから、お可厭でなくば引取
あん
つて下さいましな。私の事はかまひませんから雅さんが貰つて下さるお心持がお 有 な
さるのか、どうだか唯それを聞して下さいな」
めぐら
ひざまくら うちあふ
おのれ
貫一は身を 回 して 臂
枕 に 打 仰 ぎぬ。彼は 己 が与へし男の不幸より
そは
かなしみ
ま
さかん
も、 添 れぬ女の
悲
よりも、先づその娘が意気の 壮 なるに感じて、あはれ、
もゆ
かしら ねつ
とどろ
世にはかかる切なる恋の 焚 る如き誠もあるよ、と 頭 は 熱 し胸は 轟 くなり。
さて男の声は聞ゆ。
すう
あ
「それは、 鈴 さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭はなかつたら、
むつまし
今頃は家内三人で 睦
く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今
いは
かほむけ
日の別が何とも 謂 れないほど情無い。かうして今では人に 顔 向 も出来ないやうな
身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。
をぢ
その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父さん、
をば
そは
尊母さんの心にもなつて見たら、今の私には 添 されないのは、決して無理の無いとこ
じよう
どこ
かはり
ろで、子を念ふ親の 情 は、何処の親でも 差 違 は無い。そこを考へればこそ、私は
あきら
鈴さんの事は 諦 めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころでは
ない、悪事だ、立派な罪だ!
私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿
母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その
上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやう
な者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに
たのしみ
成るのを 楽
に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、
と私は覚悟してゐるのです」
おとつ
おつか
「それぢや、雅さんは内の 阿 父 さんや 阿 母 さんの事はそんなに思つて下すつても、
ちつと
私の事は 些 も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さん
はかまつては下さらないのね」
「そんな事が有るものぢやない!
私だつて……」
「いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから」
まる
「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは 全 で私の心を酌んではおくれでな
いのだ」
「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人
ゆ
きま
の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適くと 極
つて、その為に御嫁入道具まで
ちやん こしら
ゆか
丁 と 調 へて置きながら、今更外へ 適 れますか、
雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや
あんま ひど
余 り 酷 いわ、余り勝手だわ!
よそ
私は死んでも 他 へは適きはしませんから、可い
わ、可いわ、私は可いわ!」
ふるは
女は身を 顫 して泣沈めるなるべし。
せ
「そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為うと云ふのです」
き
「どう為ても可う御座います、私は自分の心で極めてゐますから」
つ
せ
しばしあ
いづれ
亜いで男の声は為ざりしが、 間 有 りて 孰 より語り出でしとも分かず、又
ひとしきりひそひそ
も
こなた
一
時 密 々 と話声の洩れけれど、調子の低かりければ 此 方 には聞知られざり
ささめごと や
ことば いだ
き。彼等は久くこの 細
語 を息めずして、その間一たびも高く 言 を 出 さざり
しは、互にその
こころ さか
意 に 逆 ふところ無かりしなるべし。
「きつと? きつとですか」
始て又明かに聞えしは女の声なり。
「さうすれば私もその気で居るから」
じよじよ
かくて彼等の声は又低うなりぬ。されど益す 絮 々 として飽かず語れるなり。貫一
こころひそか
いか さいはひ
心
陰 に女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何に
幸
ならん
は
たへ
ね
もれきこ
う
かを想ひて、あたかも 妙 なる楽の音の計らず 洩 聞 えけんやうに、憂かる己をも忘
れんとしつ。
いか
こんにち
今かの娘の宮ならば如何ならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は 今 日 の吾た
えら べ
はた
こひねが
むなし
るを 択 ぶ可きか、 将 かの雅之たるを
希
はんや。貫一は 空 うかく想へり。
かつ
ゆづ
いだ
宮も 嘗 て己に対して、かの娘に 遜 るまじき誠を 抱 かざるにしもあらざりき。彼
も ダ゗ゕモンド
にして若し 金 剛 石 の光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を
まつた
ただつぐ
おびやか
全 うしたらんや。 唯 継 の金力を以て彼女を
脅
したらんには、またかの雅
之を入獄の先に棄てたりけんや。
かがや
ダ゗ゕモンド けが
耀 ける 金 剛 石 と 汚 れたる罪名とは、
いづれ
さ
孰 か愛を割くの力多かる。
彼は更にかく思へり。
唯その人を命として、
おのれ
いづこ のずゑ
あひしたが
己 も有らず、家も有らず、 何 処 の 野 末 にも 相
従
つひ
はんと誓へるかの娘の、 竟 に利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与
をし
へたる愛を 吝 みて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れ
たると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。
彼は又かくも思へるなり。
あつ
か
それ愛の最も 篤 からんには、利にも惑はず、他に又易ふる者もあらざる可きを、
かりそめ
あか
およ
仮 初 もこれの移るは、その最も篤きにあらざるを 明 せるなり。 凡 そ異性の愛は
ある
こと
吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、 或 は己の信ずらんやうに、宮の愛の 特 に己に
ゆゑ
のみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが 故 に世上の恋なる者を疑ひ、か
すべ
しりぞ
いきどほり
つ 渾 てこれを 斥 けぬ。されどもその一旦の
憤
は、これを斥けしが為に消
おうおう
ゆるにもあらずして、その必ず得べかりし物を失へるに似たる 怏 々 は、吾心を
はみつく
つひ
たふ
あくりよう
食 尽 し、 終 に吾身を 斃 すにあらざれば、得やは去るまじき 悪
霊 の如く
しゆうね
たまた
執 念 く吾を苦むるなり。かかれば何事にも楽むを知らざりし心の今日 偶 ま人の
あひよろこ
みづから よろこ
たのし
相
悦 ぶを見て、又
躬
も 怡 びつつ、 楽 の影を追ふらんやうなりしは
何の故ならん。よし吾は宮の愛ならずとも、これに易ふる者を得て、とかくはこの心を
慰めしむ可きや。
おもひめぐら
彼はいよいよ 思
廻 せり。
宮はこの日頃吾に篤からざりしを悔いて、その悔を表せんには、何等の事を成さんも
めい
いひこ
いきどほり
唯吾 命 のままならんとぞ 言 来 したる。吾はその悔の為にはかの
憤
を忘るべ
さはれ
むかし かへ
まつた
きか、 任 他 吾恋の 旧 に 復 りて再び 完 かるを得るにあらず、彼の悔は彼の悔
よ
のみ、吾が失意の恨は終に吾が失意の恨なるのみ。この恨は富山に数倍せる富に因りて
あるひ
どんよく
始て償はるべきか、 或 はその富を獲んとする 貪 欲 はこの恨を移すに足るか。
くるし いき ふ
彼は 苦 き 息 を嘘きぬ。
やぶ
吾恋を 壊 りし唯継!
せ
た
おもむ
彼等の恋を壊らんと為しは誰そ、その吾の今千葉に 赴 く
も、又或は壊り、或は壊らんと為るにあらざる無きか。しかもその貪欲は吾に何をか与
い
へんとすらん。富か、富は吾が狂疾を医すべき特効剤なりや。かの妨げられし恋は、破
さか
かへ
をは
鏡の再び合ふを得て楽み、吾が 割 れし愛は落花の 復 る無くして 畢 らんのみ!
い
うづも
よ
で、吾はかくて空く 埋 るべきか、風に因りて飛ぶべきか、水に落ちて流るべきか。
すぐ ともしび
うち
貫一は船橋を 過 る
燈
暗き汽車の 中 に在り。
第六章
ふみ
きた
よ
千葉より帰りて五日の後 M., Shigis――の書信は又 来 りぬ。貫一は例に因りて封の
まま火中してけり。その筆の跡を見れば、
たちま
おもかげ
忽 ち浮ぶその人の 面 影 は、唯継と並
び立てる梅園の密会にあらざる無きに、彼は
ほとん
おなじ いかり
殆 ど当時に 同 き 憤 を発して、
みたび
をこがまし
も
先の二度なるよりはこの 三 度 に及べるを、 径
廷 くも廻らぬ筆の力などを以て、
むかし
きた
だいかい うづ
旧 に返し得べき未練の吾に在りとや想へる、愚なる精衛の 来 りて 大 海 を 填
かへ
かたくな
めんとするやと、 却 りて
頑
に自ら守らんとも為なり。
あり
かたたより
さりとも知らぬ宮は 蟻 の思を運ぶに似たる 片
便 も、行くべき方には音づるる
いか
かきつづ
わがまこと
を、さてかの人の如何に見るらん、 書 綴 れる 吾
誠 の千に一つも通ずる事あら
ひとすぢ いとぐち
ば、掛けても願へる 一 筋 の
緒
ともなりなんと、人目あらぬ折毎には必ず
ふでと
おもひ
筆 採 りて、その限無き 思 を写してぞ止まざりし。
もつぱ
おこなひ
あまり
唯継は近頃彼の 専 ら手習すと聞きて、その善き
行
を感ずる 余 に、良き
すずり
ありがた
墨、良き筆、良き 硯 、良き手本まで自ら求め来ては、この 難 有 き心掛の妻に
おく
けがら
遣 りぬ。宮はそれ等を 汚 はしとて一切用ること無く、後には夫の机にだに向はず
つづ
むゆか
もと
なりけり。かく怠らず 綴 られし文は、又 六 日 を経て貫一の 許 に送られぬ。彼は
よたび
ふ
いつたび
四 度 の文をも例の灰と棄てて顧ざりしに、日を経ると思ふ程も無く、 五 度 の文は
ちつか
けむ
あなど
来にけり。よし送り送りて 千 束 にも余れ、手に取るからの 烟 ぞと 侮 れる貫一も、
かつ
いひし
あやし
すぐ
曾 て宮には無かりし執着のかばかりなるを 謂 知 らず 異 みつつ、今日のみは 直
や
ひとたび ひら
にも焚かざりしその文を、 一 度 は 披 き見んと為たり。
「然し……」
たやす
彼は 輙 く手を下さざりき。
ゆる
「 赦 してくれと謂ふのだらう。その外には、見なければ成らん用事の有る訳は無い。
も
や
若し有ると為れば、それは見る可からざる用事なのだ。赦してくれなら赦して遣る、又
赦さんでも既に赦れてゐるのではないか。悔悟したなら、悔悟したで、それで可い。悔
こんにち
悟したから、赦したからと云つて、それがどうなるのだ。それが 今 日 の貫一と宮と
いか
みさを きず い
の間に如何なる影響を与へるのだ。悔悟したからあれの 操 の 疵 が愈えて、又赦し
おい
たから、富山の事が無い昔に成るのか。その点に 於 ては、貫一は飽くまでも十年前の
けが
しま
こんにち
貫一だ。宮! 貴様は一生 汚 れた宮ではないか。ことの破れて 了 つた 今 日 にな
い
つて悔悟も赦してくれも要つたものか、無益な事だ!
すこし けが
少 も 汚 れん宮であるから
愛してをつたのだ、それを貴様は汚して了つたから怨んだのだ。さうして一遍汚れた以
上は、それに対する十倍の徳を
おこな
行 つても、その汚れたのを汚れざる者に改めること
は到底出来んのだ。
であるから何と言つた!
ほか
熱海で別れる時も、お前の 外 に妻と思ふ者は無い、一命
おれ
あはれ
に換へてもこの縁は切られんから、 俺 のこの胸の中を 可 憐 と思つて、十分決心して
そむ
めんぼく
くれ、と実に男を捨てて頼んだではないか。その貫一に 負 いて……何の 面 目 有つ
おそ
て今更悔悟…… 晩 い!」
彼はその文を再三柱に
むちう
なは
ひきねぢ
鞭 ちて、終に 繩 の如く 引 捩 りぬ。
たより
ひらか
打続きて宮が 音 信 の必ず一週に一通来ずと謂ふこと無くて、 披 れざるに送り、
ひらか
かぞ
のぼ
送らるるに 披 かざりしも、はや 算 ふれば十通に 上 れり。さすがに今は貫一が見
たび いかり
しげ
る 度 の 憤 も弱りて、待つとにはあらねど、その定りて来る文の 繁 きに、
おのづか
あた
自 ら他の悔い悲める宮在るを忘るる 能 はずなりぬ。されど、その忘るる能はざ
にはか
なつかし
い
るも、 遽 に彼を 可 懐 むにはあらず、又その憤の弱れるも、彼を赦し、彼を容れ
んと為るにあらずして、
はじめ
始 に恋ひしをば棄てられ、後には棄てしを悔らるる身の、
おのれ
いたづら
その古き恋はなほ 己 に存し、彼の新なる悔は切にるも、
徒
に凍えて水を得た
おなじ
ふたつ
あひたい
あひすく
くげん
るに 同 かるこの 両 の者の、 相 対 して 相 拯 ふ能はざる 苦 艱 を添ふるに
過ぎざるをや。ここに於て貫一は披かぬ宮が文に向へば、その幾倍の悲きものを吾と心
に読みて、かの恨ならぬ恨も生じ、かの
いかり
うきみひとり
憤 ならぬ憤も発して、 憂 身 独 の
はかな
いか
儚 き世をば如何にせんやうも知らで、唯安からぬ昼夜を送りつつ、出づるに入るに
ぼうぼう
しばし
むさぼ
はげし
茫 々 として、彼は 屡 ばその 貪 るをさへ忘るる事ありけり。 劇 く物思ひ
い
ねや おそは
て寝ねざりし夜の明方近く疲睡を催せし貫一は、新緑の雨に暗き七時の 閨 に 魘 る
しきり うめ
ろうひ よば
うつつ
る夢の苦く 頻 に 呻 きしを、 老 婢 に 喚 れて、覚めたりと知りつつ 現 ならず
ゆりおこさ
又睡りけるを、再び彼に 揺
起 れて驚けば、
「お客様でございます」
「お客? 誰だ」
おつしや
「荒尾さんと 有 仰 いました」
「何、荒尾? ああ、さうか」
あるじ
主 の急ぎ起きんとすれば、
「お通し申しますで御座いますか」
「おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、
しばら
暫 く失礼致しますとさう申して」
みたび
かくれが
つね
貫一はかの一別の後 三 度 まで彼の 隠 家 を訪ひしかど、 毎 に不在に会ひて、二
いかが
ただ
度に及べる消息の返書さへあらざりければ、安否の 如 何 を満枝に 糺 せしに、変る事
そこ
まこと まじはり
しばら
無く其処に住めりと言ふに、さては 真 に
交
を絶たんとすならんを、 姑 く
しひ
あまり
あなた
よ
強 て追はじと、一月 余 も打絶えたりしに、 彼 方 より好くこそ来つれ、吾がこの
くるしみ
とも きた
げ
苦 を語るべきは唯彼在るのみなるを、 朋 の 来 れるも、実にかくばかり楽きは
いだ
いちじつ
こころせはし
あらざらん。今日は酒を 出 して 一 日 彼を還さじなど、 心
忙 きまでに
よろこ
歓 ばれぬ。
そいん
にはか とひきた
絶交せるやうに 疏 音 なりし荒尾の、何の意ありて 卒 に 訪 来 れるならん。貫
おも
おとづれ
あやし
一はその何の意なりやを 念 はず、又その突然の 来 叩 をも 怪 まずして、
ひつきよう
ひようぜん
かか
ゆゑ まじはり
畢
竟 彼の疏音なりしはその 飄
然 主義の 拘 らざる 故 、
交
を絶つと
よしみ
おのれ
は言ひしかど、 誼 の吾を棄つるに忍びざる故と、彼はこの人のなほ 己 を友とし
きた
て 来 れるを、有得べからざる事とは信ぜざりき。
てうづば いでき
はれまぶた
しばたた
ひも
手 水 場 を 出 来 し貫一は
腫
の赤きを
連
きつつ、羽織の 紐 を結びも
あ
ふすま ひら
敢へず、つと客間の 紙 門 を 排 けば、荒尾は居らず、かの荒尾譲介は居らで、
うつくし よそほ
ひと はぢがまし
うちまど
い
美 う 装 へる婦人の 独 り 羞
含 う控へたる。 打 惑 ひて入りかねたる
まのあたり
うたがはし
いま そむ
おもて めぐら
さいう
彼の 目 前 に、 可
疑 き女客も 未 だ 背 けたる 面 を 回 さず、 細 雨
しづか ていじゆ う
したた みどり
静 に 庭 樹 を撲ちて 滴 る 翠 は内を照せり。
おつしや
「荒尾さんと 有 仰 るのは貴方で」
彼は先づかく会釈して席に着きけるに、婦人は猶も
おもて
かしら
面 を示さざらんやうに 頭
な
たやす
かしら
を下げて礼を作せり。しかも彼は 輙 くその下げたる 頭 とへたる手とを挙げざる
なりき。始に何者なりやと
おどろか
いよい あき
驚
されし貫一は、今又何事なりやと 弥 よ 呆 れて、
うちまも
たちま
まなこ あわただし もと
彼の様子を 打 矚 れり。 乍 ち有りて貫一の 眼 は 慌
忙 く 覓 むらん色を
な
うつむ
うかが
作して、婦人の 俯 けるをと 窺 ひたりしが、
「何ぞ御用でございますか」
「…………」
ますま
とみかうみ
彼は 益 す急に 左 瞻 右 視 して窺ひつ。
「どう云ふ御用向でございますか。伺ひませう」
「…………」
ゆり
ほのか
うたがはし
おもて
露置く百合の花などの 仄 に風を迎へたる如く、その 可
疑 き婦人の 面 は
じゆつな
は おそ
たゆた
術 無 げに挙らんとして、又慙ぢ 懼 れたるやうに 遅 疑 ふ時、
「宮
」と貫一の声は筒抜けて走りぬ。
こころくら
宮は嬉し悲しの 心
昧 みて、身も世もあらず泣伏したり。
「何用有つて来た!」
いか
はぢし
さけ
怒 るべきか、この時。恨むべきか、この時。 辱 むべきか、悲むべきか、 号 ぶ
ののし
あひみだ
べきか、 詈 るべきか、責むべきか、彼は一時に万感の 相 乱 れて急なるが為に、
うちふる
吾を吾としも覚ゆる能はずして 打 顫 ひゐたり。
かんいつ
「 貫 一 さん!
かんにん
どうぞ 堪 忍 して下さいまし」
やうや
すさまじ
おもて
宮は 漸 う顔を振挙げしも、
凄
く色を変へたる貫一の 面 に向ふべくもあ
しを ふ
らで 萎 れ俯しぬ。
「早く帰れ!」
「…………」
「宮!」
いくとせ
なつか
そなた
幾 年 聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも 可 懐 しと見る目を覚えず 其 方
うつ
まなこ うるほ
いか
に 転 せば、鋭くふる貫一の 眼 の 湿 へるは、既に如何なる涙の催せしならん。
「今更お互に逢ふ必要は無い。又お前もどの顔で逢ふ
つもり
せんだつて
しきり
意 か。 先 達 而 から 頻
よこ
すぐ
に手紙を寄来すが、あれは一通でも開封したのは無い、来れば 直 に焼棄てて了ふのだ
から、以来は断じて寄来さんやうに。
わたし
たいぎ
私 は今病中で、かうしてゐるのも 太 儀 でな
らんのだから、早く帰つて貰ひたい」
彼は老婢を召して、
たち
「お客様のお 立 だ、お供にさう申して」
おもひなや
お
取附く島もあらず 思
悩 める宮を委きて、貫一は早くも独り座を起たんとす。
わたし
い つもり
「貫一さん、 私 は今日は死んでも可い 意 でお目に掛りに来たのですから、
あなた
あは
貴 方 の存分にどんな目にでも 遭 せて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、
お願ですから私の話を聞いて下さいまし」
「何の為に!」
「私は全く後悔しました!
貫一さん、私は今になつて後悔しました
くはし
悉 い事
まる
はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、 全 で見ては下さらないのでは、
後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に
いは
たと
掛つて口では言ふに 言 れない事ばかり、 設 ひ書けない私の筆でも、あれをすつかり
ちつ
わび
見て下すつたら、 些 とはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お 詑 は為
つもり
めんぼく
意 でも、かうしてお目に掛つて見ると、 面 目 が無いやら、悲いやらで、何
る
ひとこと
はず
一 語 も言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる 筈 でない処へかう
して来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし」
「それがどう為たのだ」
「さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、ど
うぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし」
あしもと ぬかづ
涙ながらに手をへて、吾が 足 下 に 額 叩 く宮を、何為らんとやうに打見遣りたる
貫一は、
ぜん
「六年 前 の一月十七日、あの時を覚えてゐるか」
「…………」
「さあ、どうか」
「私は忘れは為ません」
「うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ」
「堪忍して下さい」
と
いでゆ
あなや ふすま
た
唯見る間に 出 行 く貫一、 咄 嗟 、 紙 門 は鉄壁よりも堅く閉てられたり。宮はその
はりつ
ひれふ
心に 張 充 めし望を失ひてはたと 領 伏 しぬ。
「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声
はげし えんつづき はなれ
きこ
ぢき
劇 く 縁
続 の 子 亭 より 聞 ゆれば、 直 に走り
きた
あらは
かしら
行く足音の響きしが、やがて返し 来 れる老婢は客間に 顕 れぬ。宮は未だ 頭 を
しをらし
えりもとふか
おうばくぞめ はんえり
挙げずゐたり。 可 憐 き束髪の 頸 元 深 く、 黄 蘖 染 の 半 衿 に
もんおめし にまいあはせ
えもん あやま
かたつき
紋 御 召 の 二 枚 袷 を重ねたる 衣 紋 の 綾 先づ謂はんやう無く、 肩 状
やさし うつふ
そびら きんちやぢ あづまつづれ
かついろうら
優 う 内 俯 したる 脊 に 金 茶 地 の 東
綴 の帯高く、 勝 色 裏 の
しきみだ
しろはぶたへ
おほ
リング
敷 乱 れつつ、 白 羽 二 重 のハンカチ゗フに涙を 掩 へる指に赤く、白く 指 環 の
かがやか
ほとん
み
耀
したる、 殆 ど物語の画をも看るらん心地して、この美き人の身の上に
玉を
おそろし
何事の起りけると、豊は 可 恐 きやうにも覚ゆるぞかし。
あいにく
「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今 生 憎 と急に気分
が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで
こんにち
おたちかへり
御座いますが、どうぞ 今 日 はこれで 御 立 帰 を願ひますで御座います」
おもて
すす
面 を抑へたるままに宮は涙を 啜 りて、
「ああ、さやうで御座いますか」
いで
「折角お 出 のところを誠にどうもお気毒さまで御座います」
ちよつ
いただ
「唯今 些 と支度を致しますから、もう少々置いて 戴 きますよ」
あなた
ごゆるり
「さあさあ、 貴 方 御遠慮無く 御 寛 と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、
こんにち
今 日 はいつそお寒過ぎますで御座います」
あと
よみがへ
彼の起ちし 迹 に宮は身支度を為るにもあらで、始て
甦
りたる人の唯在るが如
くに打沈みてぞゐたる。やや
ひさし
久 かるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又
いできた
にはか みづくろい
出 来 れり。宮はその時 遽 に
身
して、
いとま
ちよつ
「それではお 暇 を致します。 些 と御挨拶だけ致して参りたいのですから、
どちら
よ
いで
何 方 にお寝つてお 在 ですか……」
「はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……」
ちよつ
「いいえ、御挨拶だけ 些 と」
こちら
「さやうで御座いますか。では 此 方 へ」
あるじ ほい
おも
はなれ あない
主 の本意ならじとは 念 ひながら、老婢は止むを得ず彼を 子 亭 に 案 内 せり。
ゆふべ
とこ
うちたふ
よぎ かいまき すそ
昨 夜 の収めざる 蓐 の内に貫一は着のまま 打 仆 れて、夜着も 掻 巻 も 裾 の
かた けはな
まくら から
はし いくたび おきかへ
かしら の
方 に 蹴 放 し、 枕 に 辛 うじてその 端 に 幾 度 か 置 易 られし 頭 を載
せたり。
いりく
おきかへ
ひざもと
思ひも懸けず宮の 入 来 るを見て、 起 回 らんとせし彼の 膝 下 に、早くも女の
まろ
たもと
なほ ひし
転 び来て、立たんと為れば 袂 を執り、 猶 も 犇 と寄添ひて、物をも言はず泣伏
したり。
まね
「ええ、何の真似だ!」
いだ し
突返さんとする男の手を、宮は両手に 抱 き緊めて、
「貫一さん!」
はぢしらず
「何を為る、この 恥 不 知 !」
「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」
やかまし
「ええ、 聒
い!
ここを放さんか」
「貫一さん」
「放さんかと言ふに、ええ、もう!」
たて
ますま
ふたり
その身を 楯 に宮は放さじと争ひて 益 す放さず、 両 箇 が顔は互に息の通はんと
あひみ
なが
すばかり近く合ひぬ。一生又 相 見 じと誓へるその人の顔の、おのれ 眺 めたりし色は
と
たれ
べつ
げ
疾く失せて、 誰 ゆゑ今の 別 になるも、なほ形のみは変らずして、実にかの宮にして
いか
宮ならぬ宮と、吾は如何にしてここに逢へる!
ひま うつつ
貫一はその胸の夢むる 間 に 現 と
まも
ほとん
きはま
わづか
もなく彼を 矚 れり。宮は 殆 ど情 極 りて、 纔 に狂せざるを得たるのみ。
かしら
と
彼は人の 頭 より大いなるダ゗ゕモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把る手をば
と
いかばかり
釈かざらん。大いなるダ゗ゕモンドか、 幾
許 大いなるダ゗ゕモンドも、宮は人の
も
心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持たるダ゗ゕモンドはさせる大いなる者
はかりな
ああ
いづこ
ならざれど、その棄去りし人の誠は 量 無 きものなりしが、嗟乎、今 何 処 に在りや。
かつ
ひやや
むなし
いだ
その 嘗 て誠を恵みし手は 冷 かに残れり。 空 くその手を 抱 きて泣かんが為に
きた
げ いかばかり
来 れる宮が悔は、実に 幾
許 大いなる者ならん。
「さあ、早く帰れ!」
ぶ
「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打つな
たた
すこし
きげん
り、 殴 くなり貫一さんの勝手にして、さうして 少 小 でも 機 嫌 を直して、私のお
わび
詑 に来た訳を聞いて下さい」
うるさ
「ええ、 煩 い!」
「それぢや打つとも殴くともして……」
みもだえ
すが
身 悶 して宮の 縋 るを、
おれ
は
あきた
「そんな事で 俺 の胸が霽れると思つてゐるか、殺しても 慊 らんのだ」
「ええ、殺れても可い!
殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺
して下さい、死んで了つた方が可いのですから」
「自分で死ね!」
くだ
いさぎよ
おのれ いやし
彼は自ら手を 下 して、この身を殺すさへ
屑
からずとまでに 己 を 鄙 む
つら
くちびる か
なるか、余に 辛 しと宮は
唇
を咬みぬ。
みつ
ざま
なぜ
「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更 見 とも無い 態 を為ずに何為死ぬまで
立派に棄て通さんのだ」
とつく
篤 りとお話を為た
「私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから
とう
いのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう 疾 から自分ぢや生きてゐるとは
思つてゐません」
「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」
「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」
ゆる
うち
宮は男の手をば益す 弛 めず、益す激する心の 中 には、夫もあらず、世間もあらず
か
ひたぶる
なりて、唯この命を易ふる者を失はじと 一 向 に思入るなり。
折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれ
いかに
ちと ゆる
かたち
ど、こは 如 何 、宮は 些 も 弛 めざるのみか、その 容 をだに改めんと為ず。果し
ふすま
せま
て足音は 紙 門 の外に 逼 れり。
「これ、人が来る」
「…………」
きは
宮は唯力を 極 めぬ。
てい
なかばあ
ふすま
不意にこの 体 を見たる老婢は、 半 啓けたる 紙 門 の陰に顔引入れつつ、
あかがし
いで
「 赤 樫 さんがお 出 になりまして御座います」
窮厄の色はつと貫一の
おもて のぼ
面 に 上 れり。
そつち
「ああ、今 其 方 へ行くから。――さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放
せ。客が有ると云ふのにどうするのか」
「ぢや私はここに待つてゐますから」
「知らん! もう放せと言つたら」
ねぢたふ
ろうぜき
あ
いでゆ
用捨もあらず宮は 捻 倒 されて、落花の 狼 藉 と起き敢へぬ間に貫一は 出 行 く。
(六)の二
むらさきうら あづま
かつ
座敷外に脱ぎたる 紫
裏 の 吾 妻 コオトに目留めし満枝は、 嘗 て知らざりし
うちわ
あた
めぐま
その 内 曲 の客を問はで止む 能 はざりき。又常に厚く 恵 るる老婢は、彼の為に始
つぐ
をし
しんい
終の様子を 告 るの労を 吝 まざりしなり。さてはと推せし胸の内は 瞋 恚 に燃えて、
につく
と
こ
いか
かほ
す
せきごころ
可 憎 き人の疾く出で来よかし、如何なる 貌 して我を見んと為らん、と 焦
心 に
ひさし
い
はなれ
待つ間のいとどしう 久 かりしに、貫一はなかなか出で来ずして、しかも 子 亭 のほ
ひとけ
うちしづま
いよい
とほと 人 気 もあらざらんやうに 打
鎮 れるは、我に忍ぶかと、 弥 よ満枝は
こら
怺 へかねて、
だんな
わたし
「お豊さん、もう一遍 旦 那 様にさう申して来て下さいな、 私 今日は急ぎますから、
ちよつ
些 とお目に懸りたいと」
わたくし
にく
「でも、 私
は誠に参り 難 いので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお
いで
在 のやうで御座いますから」
「かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの」
「ではさう申上げて参りますです」
「はあ」
ふすま
老婢は行きて、 紙 門 の外より、
「旦那さま、旦那さま」
こちら
いで
「 此 方 にお 在 は御座いませんよ」
ふすま
かく答へしは客の声なり。豊は 紙 門 を開きて、
「おや、さやうなので御座いますか」
げ あるじ
まくらもと
なほかなしみ
実に 主 は在らずして、在るが如くその 枕
頭 に坐れる客の、 猶
悲 の
おもて
うちみだ
残れる 面 に髪をば少し 打 乱 し、左のの二寸ばかりも裂けたるままに姿も整はず
にはか ひきつくろ
ゐたりしを、 遽 に 引
枢 ひつつ、
そちら
いで
「今し方 其 方 へお 出 なすつたのですが……」
「おや、さやうなので御座いますか」
あちら
いで
「 那 裡 のお客様の方へお 出 なすつたのでは御座いませんか」
あちら
おつしや
「いいえ、貴方、 那 裡 のお客様が急ぐと 有 仰 つてで御座いますものですから、さ
どちら
う申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、 那 辺 へいらつしやいましたら
う!」
あちら
「 那 裡 にもゐらつしやいませんの!」
「さやうなので御座いますよ」
とつかは
老婢はここを 倉 皇 起ちて、満枝が前に、
こちら
「 此 方 へもいらつしやいませんで御座いますか」
「何が」
あちら
「あの、 那 裡 にもゐらつしやいませんので御座いますが」
「旦那様が? どうして」
こちら
いで
「今し方 這 裡 へ出てお 在 になつたのださうで御座います」
うそ
「 嘘 、嘘ですよ」
あちら
「いいえ、 那 裡 にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」
「嘘ですよ」
「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」
こちら
いで
「だつて、 此 方 へお 出 なさりは為ないぢやありませんか」
どつち
「ですから、まあ、 何 方 へいらつしやつたのかと思ひまして……」
あちら
いで
「 那 裡 にきつと隠れてでもお 在 なのですよ」
「貴方、そんな事が御座いますものですか」
「どうだか知れはしません」
てうづ
「はてね、まあ。お 手 水 ですかしらん」
そこら
とつかは
随 処 尋ねんとて彼は又 倉 皇 起ちぬ。
ありがひな
はづかしめ あ
わがみ いか
や
有 効 無 きこの 侵
辱 に遭へる 吾 身 は如何にせん、と満枝は無念の遣る方無
ちと
は
しるし
さに色を変へながら、 些 も騒ぎ惑はずして、知りつつ食みし毒の 験 を耐へ忍びゐ
いは
ひそか
のが
たのみ
たらんやうに、得も 謂 れず 窃 に苦めり。宮はその人の 遁 れ去りしこそ 頼 の
綱は切られしなれと、はや留るべき望も無く、まして立帰るべき力は有らで、罪の
むくい
はかな
うちふ
ためいき
報 は悲くも何時まで 儚 きこの身ならんと、 打 俯 し、打仰ぎて、 太 息 くの
み。
さ
くら
やうや
颯と空の 昏 み行く時、軒打つ雨は 漸 く密なり。
とだな おしいれ ほか
つひ あるじ みいだ
戸 棚 、 押 入 の 外 捜さざる処もあらざりしに、 終 に 主 を 見 出 さざる老
けう
かほ
はなれ いりきた
婢は希有なる 貌 して又 子 亭 に 入 来 れり。
どちら
「 何 方 にもゐらつしやいませんで御座いますが……」
「あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか」
あちら
「さやうで御座いますね。一体まあどうなすつたと云ふので御座いませう、 那 裡 にも
こちら
おきざり なす
這 裡 にもお客様を 置 去 に 作 つてからに。はてね、まあ、どうもお出掛になる訳
どつこ
は無いので御座いますけれど、家中には 何 処 にもゐらつしやらないところを見ますと、
お出掛になつたので御座いますかしらん。それにしても……まあ御免あそばしまして」
もと
よし
彼は又満枝の 許 に急ぎ行きて、事の 由 を告げぬ。
あなた
はなれ
「いいえ、 貴 方 、私は見て参りましたので御座いますよ。 子 亭 にゐらつしやりは致
しません、それは大丈夫で御座います」
にはか
はきもの あらた
つ
彼は 遽 に心着きて 履 物 を 検 め来んとて起ちけるに、踵いで起てる満枝の
にはさき
はなれ
あらは
庭 前 の縁に出づると見れば、と行きて 子 亭 の入口に 顕 れたり。
なにびと
いりきた
ま おどろ
宮は 何 人 の何の為に 入 来 れるとも知らず、先づ 愕 きつつも彼を迎へて
かたち
容 を改めぬ。吾が恋人の恋人を拝まんとてここに来にける満枝の、意外にも敵の
おのれ
わか
しをらし
たつと
ねた
己 より 少 く、己より美く、己より 可 憐 く、己より 貴 きを見たる 妬 さ、
いと
ひと なさけ
憎さは、唯この者有りて可怜しさ故に、 他 の 情 も誠も彼は打忘るるよとあはれ、
つるぎ
さしころ
をど かか
一念の力を 剣 とも成して、この場を去らず 刺 殺 さまほしう、心は 躍 り 襲 り、
躍り襲らんと為るなりけり。
ややはぢら
はがくれ
すずし むね
宮は 稍
羞 ひて、 葉 隠 に咲遅れたる花の如く、夕月の 涼 う 棟 を離れた
すすみい
るやうに満枝は彼の前に 進 出 でて、互に対面の礼せし後、
「始めましてお目に掛りますで御座いますが、間様の……御親戚?
すで御座いますか」
でゐらつしやいま
憎き人をば一番苦めんの満枝が底意なり。
「はい親類筋の者で御座いまして」
「おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の
御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながら
お世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ
これまで
従 来 お見上げ申しませんで御座いました」
「はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから」
「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」
「はい……広島の方に居りまして御座います」
どちら
「はあ、さやうで。唯今は 何 方 に」
いけのはた
「 池
端 に居ります」
よろし
かね
「へえ、池端、お 宜 い処で御座いますね。然し、 夙 て間様のお話では、御自分は
おつしや
身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと 有 仰 るもので御座
いますから、全くさうとばかり
わたくし
私
信じてをりましたので御座いますよ。それに唯
今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお
つもり
意 であ
んな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには
なさ
当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体 作 るので御座いま
すよ」
うたがひ
かか
かつ
疑
の雲は始て宮が胸に 懸 りぬ。父が 甞 て病院にて見し女の必ず訳有るべし
さ
きやくらい
いつはり
あるひ
と指せしはこれならん。さては 客
来 と言ひしも
詐
にて、 或 は内縁の妻
とが
ただし かのひと
と定れる身の、吾を 咎 めて邪魔立せんとか、 但 は 彼 人 のこれ見よとてここに
ひきいだ
たが
ことば
あだ
引 出 せしかと、今更に 差 はざりし父が 言 を思ひて、宮は 仇 の為に病めるを
むちう
笞 たるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれ
いづく
かのひと
までと潔く座を起たんとしたりけれど、 何 処 にか潜めゐる 彼 人 の吾が還るを待ち
たちま
と
おもて
あはれ
忽 ち出で来て、この者と手を把り、 面 を並べて、 可 哀 なる吾をば笑ひ
て
ののし
えた
くちをし
いか
よ
こころくるし
罵 りもやせんと想へば、得堪へず 口 惜 くて、如何にせば可きと 心
苦 く
ためら
遅 ひゐたり。
いで
あいにく
「お久しぶりで折角お 出 のところを、 生 憎 と余義無い用向の使が見えましたもの
で、お出掛になつたので御座いますが、
ちよつ
かへり
些 と遠方でございますから、お 帰 来 の程
ごゆつく
い
は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又 御 寛 りとお出で遊ばしまして」
ちようざ
「大相 長 座 を致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を
致しまして、相済みませんで御座いました」
「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、
ちよつ
些 とも御遠慮には及
びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」
「はい、誠に残念でございます」
「さやうで御座いませうとも」
こんにち
「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して 今 日 は一日遊
たのしみ
んで参らうと 楽
に致してをりましたのを、実に残念で御座います」
「大きに」
いとま
「さやうなら私はお 暇 を致しませう」
かへり
「お 帰 来 で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」
いくら
くるま
「いいえ、 幾 多 降りましたところが 俥 で御座いますから」
くちを
しのぎ
やいば
あひみ
互に憎し、 口 惜 しと 鎬 を削る心の 刃 を控へて、彼等は又 相 見 ざるべしと
念じつつ別れにけり。
第七章
くまな
いづこ
かへりこ
家の内を 隈 無 く尋ぬれども在らず、さては今にも 何 処 よりか 帰 来 んと待てど
くらま
い
くるしまぎ
暮せど、姿を 晦 せし貫一は、我家ながらも身を容るる所無き 苦
紛 れに、裏庭
かさ
の木戸より 傘 もさで忍び出でけるなり。
のが
にはか
かた
あやにく
されど唯一目散に 脱 れんとのみにて、 卒 に志す 方 もあらぬに、 生 憎
ふりしき
から
しの
降 頻 る雨をば、 辛 くも人の軒などに 凌 ぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思
をりふし
そこ
立ちて 折 節 通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処に
をどりい
躍 入 りけり。
おのおの
せいいん
あひたい
客は三組ばかり、
各
静に窓前の竹の 清 韻 を聴きて 相 対 せる座敷の
ひとま
あるじ ひもの
おやぢ
ひげ
はや
こつぜん
一 間 奥に、 主 は 乾 魚 の如き 親 仁 の黄なる 髯 を長く 生 したるが、 兀 然
ひと
みが
ま ぬ
きぬ あぶ
ひばち
として 独 り盤を 磨 きゐる傍に通りて、彼は先づ濡れたる 衣 を 炙 らんと 火 鉢 に
寄りたり。
あやし
よ
異 み問はるるには能くも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、そ
なごり
とどろ
したた おもひめぐら
むなし しん いた
の 余 波 は今も 轟 く胸の内に 痛 か 思
回 して、又 空 く 神 は 傷 み、
こん
いか
あはれ
あるひ
魂 は驚くといへども、我や 怒 る可き、事や 哀 むべき、 或 は悲む可きか、恨
そもそ
ごないすべ
む可きか、 抑 も喜ぶ可きか、慰む可きか、彼は全く自ら弁ぜず。 五 内 渾 て燃え、
ししただち
はんもん
きた
四肢 直 に氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と 煩 悶 とは新に 来 りて彼を
襲へるなり。
あるじ
づぶぬれ
いぶかし
けしき
主 は貫一が 全 濡 の姿よりも、更に 可 訝 きその 気 色 に目留めて、問はで
ちんじ
のが
も 椿 事 の有りしを疑はざりき。ここまで身は 遁 れ来にけれど、なかなか心安からで、
ふたり おきざり せ
いかに
せ
いかに
両 人 を 置 去 に為し跡は 如 何 、又我が為んやうは 如 何 など、彼は打惑へり。沸
さわが
をぐら
うせい
くが如きその心の 騒 しさには似で、 小 暗 き空に満てる 雨 声 を破りて、三面の盤
はなは
あるじ
まどぎは てあはせみ
の鳴る石は断続して 甚 だ幽なり。 主 はこの時 窓 際 の 手 合 観 に呼れたれ
ひ たもと かざ
いよい
ば、貫一は独り残りて、未だ乾ぬ 袂 を 翳 しつつ、 愈 よ限無く惑ひゐたり。
にはか
おどろ
あぐ
ことごと くび
おの
遽 に人の騒立つるに 愕 きて顔を 挙 れば、座中
尽
く 頸 を延べて 己 が
かた
よば
はし
方 を眺め、声々に臭しと 喚 はるに、見れば、吾が羽織の 端 は火中に落ちて
くろけふり
ぢき もみけ
しづま
さき
黒
煙 を起つるなり。 直 に 揉 消 せば人は 静 るとともに、彼もまた 前 の如
し。
しばし
かど いりき
おとな
少 頃 有りて、 門 に 入 来 し女の 訪 ふ声して、
だんな
こちら
し
「宅の 旦 那 様はもしや 這 裡 へいらつしやりは致しませんで為たらうか」
たちま ひげ おとがひ めぐら
主は 忽 ち 髯 の
頤
を 回 して、
いで
「ああ、奥にお 在 で御座いますよ」
さしのぞ
豊かと 差 覗 きたる貫一は、
「おお、傘を持つて来たのか」
こちら
いで
「はい。 此 方 にお 在 なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」
「さうか。客は帰つたか」
とう
かへり
「はい、 疾 にお 帰 になりまして御座います」
「四谷のも帰つたか」
おつしや
「いいえ、是非お目に掛りたいと 有 仰 いまして」
「居る?」
「はい」
お
「それぢや見付からんと言つて措け」
「ではお帰りに成りませんので?」
た
「も少し経つたら帰る」
ぢき
ひる
「 直 にもうお中食で御座いますが」
い
「可いから早く行けよ」
ま
「未だ旦那様は朝御飯も」
「可いと言ふに!」
あしだ
すごすご
老婢は傘と 足 駄 とを置きて 悄 々 還りぬ。
程無く貫一も焦げたる
たもと
いでゆ
袂 を垂れて 出 行 けり。
はげし
わづらはし
彼はこの情緒の 劇 く紛乱せるに際して、 可
煩 き満枝にらるる苦悩に堪へざ
かへりさ
け
ありか
るを思へば、その 帰 去 らん後までは決して還らじと心を定めて、既に 所 在 を知ら
たちい
かた
れたる碁会所を 立 出 でしが、いよいよ指して行くべき 方 は有らず。はや正午と云ふ
いま
いか せ
に 未 だ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何に為んとするにか有らん、
ぼうぼうぜん
さまよ
猶降りに降る雨の中を 茫 々 然 として 彷 徨 へり。
初夏の日は長かりけれど、
わづか
ほとん
纔 に幾局の勝負を決せし盤の上には、 殆 ど惜き夢
く
は
すきもの
つひ きし をさ
の間に昏れて、折から雨も霽れたれば、 好 者 どもも 終 に碁子を 歛 めて、
そうだち
いそがはし ひ
ころ
惣 立 に帰るをあたかも送らんとする主の 忙
々 く燈ともす 比 なり、貫一の姿
かど あらは
は始て我家の 門 に 顕 れぬ。
い
彼は内に入るより、
をんな しつ
さ
ふすま ひら
「飯を、飯を!」と 婢 を 叱 して、颯と奥の間の 紙 門 を 排 けば、何ぞ図らん
ともしび
燈 火 の前に人の影在り。
うしろむき
せ
彼は立てるままに目をりつ。されど、その影は 後
向 に居て動かんとも為ず。満
いま
なほ ことさら
枝は 未 だ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は 尚 も 殊 更 に見向か
こなた
ことば
はなれ
か
ぜん
ぬを、 此 方 もわざと 言 を掛けずして 子 亭 に入り、豊を呼びて衣を更へ、 膳 を
そこ
いりく
をは
も其処に取寄せしが、何とか為けん、必ず 入 来 べき満枝の食事を 了 るまでも来ざる
かへ
しあはせよ
うちつか
のびや
なりき。 却 りて 仕 合 好 しと、貫一は 打 労 れたる身を 暢 かに、障子の月影
ひぢまくら
しばら きつえん ふけ
に 肱
枕 して、 姑 く 喫 烟 に 耽 りたり。
あへ
やつ
おもかげ
かしら めぐ
敢 て恋しとにはあらねど、苦しげに 羸 れたる宮が 面 影 の幻は、 頭 を 回
ひとつか
おもひい
れる 一 蚊 の声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて 憶 出 でら
そこら
いくたび かしら
るれば、なほ往きかねて 那 辺 に忍ばずやと、風の音にも 幾 度 か 頭 を挙げし貫
ばさ
ゆ
一は、婆娑として障子に揺るる竹の影を疑へり。
いつ
ひとり
宮は何時までここに在らん、我は例の 孤 なり。思ふに、彼の悔いたるとは誠なら
も ゆる
ん、我の死を以て 容 さざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さ
は容さずして堅く隔つる思も、又
あやし
わびし
と
怪 きまでに貫一は 佗 くて、その釈き難き
うらみ
あはれ
怨 に加ふるに、或種の 哀 に似たる者有るを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の
うちなが
ひと
うた みづから
色こそ、その哀にも似たるやうに 打 眺 めて、 他 の憎しとよりは 転 た
自
を
つひ
けしき
おしあく
すずし
悲しと思続けぬ。彼は 竟 に堪へかねたる 気 色 にて障子を 推 啓 れば、 涼 き空
かたわれづき まむき
おもて
まなこ
したた
に懸れる 片 割 月 は 真 向 に彼の 面 に照りて、彼の愁ふる 眼 は又 痛 か
にその光を望めり。
「間さん」
うとまし
うしろ
居たるを忘れし人の 可 疎 き声に見返れば、はや 背 後 に坐れる満枝の、常は人を
ゑみ
しほ かわ
こと か
見るに必ず 笑 を帯びざる無き目の秋波も 乾 き、顔色などは 殊 に槁れて、などかく
こころひそか
は浅ましきと、 心
陰 に怪む貫一。
おいで
「ああ、未だ 御 在 でしたか」
ひるまへ
わたくし
「はい、居りました。お 午 前 から
私
お待ち申してをりました」
「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」
「急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」
にはか
おどろ
むなし
みや
語気の 卒 にきを 駭 ける貫一は、 空 く女の顔を見遣るのみ。
「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりま
とん
したのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。 飛 だ
おたのしみ
御
娯 のお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」
まなざし うらみ きつさき あらは
きびし
その 眼 色 は 怨 の
鋩
を 露 して、男の面上を貫かんとやうに 緊 く
見据ゑたり。
貫一は苦笑して、
あなた
ばか
「 貴 方 は何を ※ [#「言+(「荒」の「亡」の代わりに「曷-日-勹」)」、368-16]な事を
言つてゐるのですか」
ひとま
とつつ ひつつ
「今更おしなさるには及びませんさ。若い男と女が 一 間 に入つて、 取 付 き 引 付 き
して泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに
ななつ やつ
控へてをりまして、様子は大方存じてをります。 七 歳 や八歳の子供ぢや御座いません、
ぢき
それ位の事は誰にだつて 直 に解りませうでは御座いませんか。
それから
ぢき
おしか
爾 後 貴方がお出掛になりますと私 直 にここのお座敷へ 推 掛 けて参つて、あの
御婦人にお目に掛りましたので御座います」
くど
そばだ
絮 しと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を 欹 てぬ。
「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又
おつしや
なさ
ききにく
有 仰 らなくても可ささうな事までお話を 作 いますので、それは随分 聞 難 い事
まで私伺ひました」
しな
ひそか じゆつな こぶし
なほ
為失したりと貫一は 密 に 術 無 き 拳 を握れり。満枝は 猶 も言足らで、
さすが
「然し、間さん、 遉 に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼なが
おたのしみ
ら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を 御
娯 にお持ち
いつこくもの
遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、 一 国 者 だ事のと、その方へ掛けては実
ひしかくし
に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの 秘
隠 に隠し通して
てぎは
いちごん
すご
ゐらしつたお 手 際 には私実に驚入つて 一 言 も御座いません。能く 凄 いとか何と
か申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」
「もうつまらん事を……、貴方何ですか」
おつしや
うれし
「お口ぢやさう 有 仰 つても、実はお 嬉 いので御座いませう。あれ、ああしちや
考へてゐらつしやる!
こひし
恋 くてゐらつしやるのですかね」
そんなにも
いでゆ
あと
よしな
されば我が 出 行 きし 迹 をこそ案ぜしに、果してかかるは出で来にけり。 由 無 き
者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く
こころくぐま
心
跼 りつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢ
こなた
つくづく みすか
て、唯月に打向へるを、女は 此 方 より 熟 々 と 見 透 して目も放たず。
「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでも
よろし
宜 いでは御座いませんか。ああ云ふ
うつくし
き
いや
美
いのを御覧に成つた後では、私如き者には口をお利きに成るのもお可厭なの
お
くど
でゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決して 絮 い事は申上げ
どう
いは
ません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、 庶 かそれだけ 言 して下さ
いまし」
ひややか
うつ
貫一は 冷
に目を 転 して、
おつしや
「何なりと 有 仰 い」
「私もう貴方を殺して了ひたい!」
「何です
」
「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」
「それも可いでせう。可いけれど何で
わたし
私 が貴方に殺されるのですか」
ごぞんじな
おつしや
「間さん、貴方はその訳を 御 存 無 いと 有 仰 るのですか、どの口で有仰るのです
か」
けし
「これは 怪 からん!
何ですと」
「怪からんとは、貴方も
あんま
余 りな事を有仰るでは御座いませんか」
いか
まなこ
既に恨み、既に 瞋 りし満枝の 眼 は、ここに到りて始て泣きぬ。いと有るまじく
むし おそろ
おも
思掛けざりし貫一は 寧 ろ 可 恐 しと 念 へり。
「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのです
お
か。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措きません」
いつ
「貴方を何日私が憎みました。そんな事は有りません」
おつしや
「では、何で怪からんなどと 有 仰 います」
け
「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳が有るとは。私は決して貴方に殺され
おぼえ
覚 は無い」
る
くちを
かしら ふ
満枝は 口 惜 しげに 頭 を掉りて、
「有ります! 立派に有ると私信じてをります」
ひとり
「貴方が 独 で信じても……」
「いいえ、独で有らうが何で有らうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」
「私を殺すと云ふのですか」
「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」
「はあ、承知しました」
ふぜい そは
のきば
いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の 風 情 は 添 りけれど、 軒 端 なる
ばしようば つゆおびただし
た
芭 蕉 葉の 露
夥 く夜気の侵すに堪へで、やをら内に入りたる貫一は、障子
た
ひ あか
ことさら
を閉てて燈を 明 うし、
故
に床の間の置時計を見遣りて、
おそ
「貴方、もうお帰りに成つたが可いでせう、余り 晩 くなるですから。ええ?」
はばか
憚 り様で御座います」
「
「いや、御注意を申すのです」
「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」
「ああ、さうですか」
いかが
「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。 如 何 ですか」
み
しばら
うかが
憎さげに言放ちて、彼は吾矢の立つを看んとやうに、 姑 く男の顔色を 候 ひし
が、
「一体あれは何者なので御座います!」
犬にも非ず、猫にも非ず、
なんぢ
いひあらそ
汝 に似たる者よと思ひけれど、 言
争 はんは愚な
わづか
な
じ
りと勘弁して、彼は 才 に不快の色を作せしのみ。満枝は益す独り憤れて、
ふる
なじみ
かつこう
「 旧 いお 馴 染 ださうで御座いますが、あの 恰 好 は、商売人ではなし、万更の
しろうと
よつぽど
素 人 でもないやうな、貴方も 余 程 不思議な物をお好み遊ばすでは御座いません
ぬしあ
か。然し、間さん、あれは 主 有 る花で御座いませう」
みだり
おも
いか
ひそか とどろ
妄 に言へるならんと 念 へど、如何にせん貫一が胸は 陰 に 轟 けるを。
「どうですか、なあ」
あひて
べつ
たのしみ
「さう云ふ者を 対 手 に遊ばすと、 別 してお
楽
が深いとか申しますが、その
かはり
こんにち
たくみ
代 に罪も深いので御座いますよ。貴方が 今 日 まで 巧 に隠し抜いてゐらしつ
た訳も、それで私能く解りました。こればかりは余り
おほやけ
公
に御自慢は出来ん事で御
ごもつとも
座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に 御
尤 で御座います。
きら
だいおきら
その大事の秘密を、人も有らうに、貴方の 嫌 ひの嫌ひの 大 御 嫌 ひの私に知られ
こころくるし
たのは、どんなにかお 心
苦 くゐらつしやいませう。私十分お察し申してをりま
さいはひ
幸
な事は無いので御座います。貴方が余り片
す。然し私に取りましては、これ程
ひと
意地に 他 を苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるの
おぼしめ
です。さう 思 召 してゐらつしやい!」
ききをは
きつきつ
せつしよう
聞 訖 りたる貫一は 吃 々 として 窃
笑 せり。
せ
「貴方は気でも違ひは為んですか」
きちがひ
な
「少しは違つてもをりませう。誰がこんな 気 違 には作すつたのです。私気が違つて
あが
ゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅に 詣 つて気が違つたのですか
なほ
ら、元の正気に 復 してお還し下さいまし」
すりよ
せま
こころくるし
に
彼は 擦 寄 り、擦寄りて貫一の身近に 逼 れり。浅ましく 心
苦 かりけれど迯
おほ
そば
ぐべくもあらねば、臭き物に鼻を 掩 へる心地しつつ、貫一は身を 側 め側め居たり。
なほ
ふぜい
満枝は 猶 も寄添はまほしき 風 情 にて、
いちごん
「就きましては、私 一 言 貴方に伺ひたい事が有るので御座いますが、これはどうぞ
御遠慮無く貴方の思召す通を
ますか」
「何ですか」
ちやん おつしや
よろし
丁 と 有 仰 つてお聞せ下さいまし、 宜 う御座い
いや
よろし
きつぱりおつしや
「なんですかでは可厭です、 宜 いと 截 然 有 仰 つて下さい。さあ、さあ、貴
方」
「けれども……」
いつ
「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は 毎 も気の無い返事ばかり遊ば
すのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方
が思召す通を答へて下されば、それで
よろし
宜 いのですから」
もちろん
あたりまへ
「 勿 論 答へます。それは 当
然 の事ぢやないですか」
あたりまへ
つつ
「それが 当
然 でなく、極打明けて少しも 裹 まずに言つて戴きたいのですから」
よし
うなづ
善 と貫一は 頷 きつ。
あなた
「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、 貴 方 は私をい奴だと思召してゐらつし
やるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかう
つきまと
かよう
はなは をかし
して 附 纏 つてゐるのは、自分の口から 箇 様 な事を申すのも、 甚 だ 可 笑 いの
で御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは
いか
もともと
きら
おいで
如何に思つてをりましたところが、 元 来 私と云ふ者を 嫌 ひ抜いて 御 在 なのです
かずか
はかな
から、あの歌が御座いますね、行く水に 数 画 くよりも 儚 きは、思はぬ人を思ふな
りけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願のふ事は到底無
いので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりは
あきら
諦 められんので御座います。
こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに
ごぞんじ
思つてゐると云ふ事は、貴方も 御 存 でゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を
わかり
思つてゐると云ふ事で御座います、それはお 了 解 に成つてゐるで御座いませう」
「さうですな……そりや
あるひ
或 はさうかも知れませんけれど……」
「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、
あるひ
或 はもさうかもないでは御座いませ
んか! さも無ければ、私何も貴方にがられる訳は御座いませんさ、貴方も私をいと思
しつこ
召すのが、現に何よりの証拠で。 漆 膠 くて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知
いで
を遊ばしてお 在 のでは御座いませんか」
「それはさう謂へばそんなものです」
「貴方から嫌はれ抜いてゐるにも
かかは
関 らず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十
分御承知なので御座いませう」
「さう」
これまで
ちよつ
「で、私 従 来 に色々申上げた事が御座いましたけれど、 些 とでもお聴き遊ばし
りくつ
ては下さいませんでした。それは表面の 理 窟 から申せば、無理なお願かも知れません
け
おつしや
けれど、私は又私で別に考へるところが有つて、決して貴方の 有 仰 るやうな道に
はづ
外 れた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事
そこ
とは別で、お互にかうと思つた日には、其処に理窟も何も有るのでは御座いません。
つまり
に
究 竟 貴方がそれを口実にして遁げてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。
然し、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成程
ぎごは
あん
とんちやく
儀 剛 な片意地なところもお 有 なすつて、色恋の事なんぞには 貪
着 を遊ばさん
方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方
がんこ
はがゆ
の 頑 固 なのを私 歯 痒 いやうに存じてをつたので御座います……ところが!」
あ
きせる
よこひざ
ねんりき
したた
と言ひも敢へず 煙 管 を取りて、彼は貫一の 横 膝 をば或る 念 力 強く 痛 か
推したり。
なさ
「何を 作 るのです!」
払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るを
さいはひ
幸
に満枝は
かか
又打ち 被 る。
おどろ
さく いとま
つひ
こは何事と 駭 ける貫一は、身を 避 る 暇 もあらず三つ四つ撃れしが、 遂 に
うつぷし
取つて抑へて両手を働かせじと為れば、 内 俯 に引据ゑられたる満枝は、物をも言は
もも あたり かみつ
けし
かな
いかり
てあら
で彼の 股 の 辺 に 咬 付 いたり。 怪 からぬ女 哉 、と 怒 の余に 手 暴 く
ねぢはな
から
すが
おもて すりつ
むせびなき
捩 放 せば、なほ 辛 くも 縋 れるままに 面 を 擦 付 けて 咽
泣 に泣くなり
き。
ていたらく あき
ことば い
やうや
貫一は唯不思議の 為
体 に 呆 れ惑ひて 言 も出でず、 漸 く泣ゐる彼を
おしの
にかは
推 斥 けんと為たれど、 膠 の附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。
うるほひ ひとへ とほ
つれな
はだへ し
湿
は 単 衣 を 透 して、この 難 面 き人の 膚 に沁みぬ。
涙の
いか
もぎはな
捨置かば如何に募らんも知らずと、貫一は用捨無く ※ 放 [#「(夕+匕)/手」、
376-12]して、起たんと為るを、彼は
すか
すりつく
こら
虚 さずりて、又泣顔を 擦 付 れば、 怺 へか
ねたる声を励す貫一、
「貴方は何を為るのですか!
好い加減になさい」
「…………」
「さうして早くお帰りなさい」
「帰りません!」
「帰らん? 帰らんけりや
よろし
あす
あしぶみ
宜 い。もう明日からは貴方のここへ 足 蹈 の出来んや
しま
うに為て 了 ふから、さうお思ひなさい」
「私死んでも参ります!」
はふ
「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう 抛 つて置かれんから、私は赤樫さんに会つ
て、貴方の事をすつかり話して了ひます」
うるほ
満枝は始て涙に 沾 へる目を挙げたり。
「はあ、お話し下さい」
「…………」
「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」
せきあ
貫一は歯を鳴して 急 上 げたり。
おどろきい
「貴方は……実に…… 驚
入 つた根性ですな!
赤樫は貴方の何ですか」
「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」
けし
「 怪 からん!」
ほほげた
うちわ あた
うらみ す
彼は憎き女の 頬 桁 をば撃つて撃つて 打 割 る 能 はざるを 憾 と為なるべし。
さだめ
け
定 てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決してさやうでは御座いませ
「
んです」
なん
「そんなら 何 ですか」
いつぞや
「 往 日 もお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、
かたき
謂はば私の 讐 も同然なので。成程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つ
かた ほ
てをりは致しません。さうですから、自分の好いた 方 に惚れて騒ぐ分は、一向
さしつかへ
ひとりみ
差
支 の無い 独 身 も同じので御座います。
間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方が無いから、内
ごぜんたき
おつしや
とよ
の 御 膳 炊 に貰つて遣るから、さう思へと、貴方が 有 仰 つて下さいまし。私 豊
こなた
の手伝でも致して、 此 方 に一生奉公を致します。
おつしや
こは
貴方は大方赤樫に言ふと 有 仰 つたら、震へ上つて私が 怖 がりでも為ると思召す
むし
のでせうが、私驚きも恐れも致しません、 寧 ろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途
く
方に昧れるで御座いませう」
しか
あき
貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝も 然 こそは 呆 れつらんと思へば、
「それは実際で御座いますの。若し話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私
が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を
とほざ
遠 けやう為
むだ
に、お話をなさるのなら、徒爾な事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、
ちよつ
おぼしめ
些 ともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう 思 召 すものな
私
ためし
ら、物は 試 で御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいま
しな。
ぬし
私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ 主 有る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍
あひびき
ふれちら
どちら
んで 逢 引 してゐらつしやる事を 触 散 しますから、それで 何 方 が余計迷惑する
くらべつこ
いかが
か、 比 較 事 を致しませう。 如 何 で御座います」
をとこまさ
「 男
勝 りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」
「何で御座います?」
ただ
あひびき
「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが 直 ちに 逢 引 ですか。又
としごろ
きま
あさはか
妙 齢 の女でさへあれば、必ず主有るに 極 つてゐるのですか。 浅 膚 な邪推とは
し
はなはだし
言ひながら、人を誣ふるも 太
甚 い!
き
失敬千万な、気を着けて口をお利きなさい」
ちよつ こちら
「間さん、貴方、 些 と 此 方 をお向きなさい」
ふりほど
手を取りて引けば、 振 釈 き、
「ええ、もう貴方は」
「おいでせう」
もちろん
「 勿 論 」
これから
「私 向 後 もつと、もつともつと
くして上げるのです。さあ、貴方、今何と
おつしや
あさはか
有 仰 つたので御座います、 浅 膚 な邪推ですつて?
貴方こそも少し気を着けて
き
なぜ
お口をお利き遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為立派に、その通だ。
をんな
ぶつつ
情 婦 が有るのがどうしたと、かう 打 付 けて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つ
いくら
てそんな事をかれこれ申す権利は無い女なので御座いますよ。 幾 多 さう云ふ権利を有
ちたくても、有つ事が出来ずにゐるので御座います。それに、何も私の前を
はばか
憚 つて、
むき
さう 向 に成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。
かよう
よそほか
私実を申しませうか、 箇 様 なので御座います。貴方が 余 所 外 に未だ何百人愛して
かた
あいそ つか
ゐらつしやる 方 が有りませうとも、それで 愛 相 を 尽 して、貴方の事を思切るやう
りようけん
もら
な、私そんな浮気な 了
簡 ではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密を 洩 しま
したところで、はない願が
ふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつし
ひきよう
つもり
やるか存じませんけれど、私それ程 卑 怯 な女ではない 積 で御座います。
ほん
世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれは 些 のその場の憎まれ口で、
け
みじん
私決してそんな心は 微 塵 も無いので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪
く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この
わび
通お 詫 を致します」
くだ
かしら さ
しをら
いか
満枝は惜まず身を 下 して、彼の前に 頭 を低ぐる 可 憐 しさよ。貫一は如何にと
す
ひそか かうべ か
も為る能はずして、 窃 に 首 を掻いたり。
つ
これまで
「就きましては、私今から改めて折入つた御願が有るので御座いますが貴方も 従 来
の貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたい
ので御座います。そのお
ことば
どちら
辞 次第で、私もう断然 何 方 に致しても了簡を極めて了ひ
どう
きぬ
ますですから、間さん、貴方も 庶 か歯に 衣 を着せずに、お心に在る通りをそのまま
よろし
有仰つて下さいまし。 宜 う御座いますか。
ごぞんじ
今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は 御 存 でゐらつしや
これまで
くど
きら
るのです。 従 来 も随分 絮 く申上げましたけれど、貴方は一図に私をお 嫌 ひ遊ば
ちよつと
して、 些
でも私の申す事は取上げては下さらんのです――さやうで御座いませう。
きら
はぢ
貴方からそんなに 嫌 はれてゐるのですから、私もさう何時まで好い 耻 を掻かずとも、
よ
早く立派に断念して了へば宜いのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも
をんな
てみじか
ばち
がは
女 子 にしては極未練の無い方で、 手 短 に一か 八 か決して了ふ 側 なので御座い
なぜ
ます。それがこの事ばかりは実に我ながら何為かう意気地が無からうと思ふ程、……こ
れが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふは無い積の私、それ
が貴方の事ばかりには全く迷ひました。
うち
ですから、唯その胸の 中 だけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座いま
す。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能く
つまり
の因果で、 究 竟 貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう
いたしかた
さ
致
方 も有りませんが、そんなに為れてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、
いか
ふびん
たと
如何にも 不 敏 な者だと、 設 ひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し
遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方では
ないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。
こひし
かはり
御自分が 恋 く思召すのも、人が恋いのも、恋いに 差 は無いで御座いませう。
ま
かたおもひ
増して、貴方、 片
思 に思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、
ふつつか
私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな 不 束 な者でも、
いちにん
まる どれい
同じに生れた人間 一 人 が、貴方の為には 全 で 奴 隷 のやうに成つて、しかも今貴
ことば ひとこと
方のお 辞 を 一 言 聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐ
そこ
いか
しづく
るので御座います。其処をお考へ遊ばしたら、如何に好かん奴であらうとも、 雫 ぐ
なさけ
や
らゐの 情 は懸けて遣らう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。
私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお
ことば
辞 を、
ひとこと
なじみがひ
唯 一 言 で宜いのですから、今までのお 馴 染 効 にどうぞ間さん、それだけお聞せ
下さいまし」
ふる
つひ へいぜい ちよう
終に近く益す 顫 へる声は、 竟 に 平 生 の 調 をさへ失ひて聞えぬ。彼は
まさし
いちごん
ほぐ
をし
正 くその 一 言 の為には幾千円の公正証書を挙げて反古に為んも、なかなか 吝
せま
こ
おもて うちあを
そで
からぬ気色を帯びて 逼 れり。息は凝り、 面 は 打 蒼 みて、その 袖 よりは
つるぎ いだ
ゑみ いだ
むねをど
へんじ
劒 を 出 さんか、その心よりは 笑 を 出 さんか、と 胸 跳 らせて 片 時 も苦く
待つなりき。
げ きは
しをら
切なりと謂はば実に 極 めて切なる、 可 憐 しと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、
た おのれ
ゆゑ も ただ
だかつ
貫一もいと善く知れれど、他の 己 を愛するの 故 を以て 直 ちに 蛇 蝎 に親まんや、
かへ
たへがた
と 却 りてその執念をば 難 堪 く浅ましと思へるなり。
うちなや
まゆ しひ
されど又情としてく言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は 打 悩 める 眉 を 強
ひら
て 披 かせつつ、
いちごん
「さうして貴方が満足するやうな 一 言 ?……どう云ふ事を言つたら可いのですか」
おつしや
ひと
「貴方もまあ何を 有 仰 つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を 他 にお聞
き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」
「それはさうですけれど、私にも解らんから」
にげこうじよう
「解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い 遁 口 上 を
おつしや
有 仰 らうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致す
やうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ」
「いや、それなら解つてゐます……」
「解つてゐらつしやるなら
ちよつ おつしや
些 と 有 仰 つて下さいましな」
「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな
訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解る
あいさつ
むづかし
やうな 挨 拶 を為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程
難
い、別
にどうも外に言ひ様も無いですわ」
よろし
「まあ何でも 宜 う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さ
いまし」
「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」
「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」
おぼしめし
ありがた
「貴方の 思
召 は実に 難 有 いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れま
せん」
「間さん、きつとで御座いますか、貴方」
「勿論です」
「きつとで御座いますね」
「相違ありません!」
「きつと?」
「ええ!」
「その証拠をお見せ下さいまし」
「証拠を?」
くちさき
いや
たしか おつしや
「はあ。 口 頭 ばかりでは私可厭で御座います。貴方もあれ程 確 に 有 仰 つた
のですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれ
だけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか」
「みせられる者なら見せますけれど」
「見せて下さいますか」
「見せられる者なら。然し……」
「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」
すはや
おしひら
をど
あと
驚 破 、障子を 推 開 きて、貫一は露けき庭に 躍 り下りぬ。つとその 迹 に
あらは
おもて
ななめ はごし
つめた
顕 れたる満枝の 面 は、 斜 に 葉 越 の月の 冷 き影を帯びながらなほ火の
如く燃えに燃えたり。
第八章
おのれ ろうひ
ほか
ののし
家の内には 己 と 老 婢 との 外 に、今客も在らざるに、女の泣く声、 詬 る声
はなは いはれな
われあるひ
の聞ゆるは 甚 だ 謂 無 し、 我
或 は夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は
まくら
かしら もた
枕 せる 頭 を 擡 げて耳を澄せり。
さわがし
あひあらそ けはひ
ふすま ひしめ
その声は急に 噪
く、 相
争 ふ 気 勢 さへして、はたはたと 紙 門 を 犇
いよい あや
よぎはねの
かすは、 愈 よ 怪 しと夜着 排 却 けて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るる
ひとし
めさき まろ い
斉 く、二人の女の姿は貫一が 目 前 に 転 び出でぬ。
と
さいな
かた
うきも
しづく
苛 まれしと見ゆる 方 の髪は 浮 藻 の如く乱れて、着たるコートは 雫 するば
ぬ
さま
うれ
なつか
かり雨に濡れたり。その人は起上り 様 に男の顔を見て、 嬉 しや、 可 懐 しやと心も
そら
けしき
空 なる 気 色 。
かんいつ
は
うすいろななこ
やかいむすび
「 貫 一 さん」と匐ひ寄らんとするを、 薄 色 魚 子 の羽織着て、 夜 会 結 に
し
うしろすがた
をど かか
ひきすう
為たる 後
姿 の女は 躍 り 被 つて 引 据 れば、
「あれ、貫、貫一さん!」
すくひ
拯 を求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし
しちしよう
しりぞ
つら
宮ならずや。 七
生 までその願は聴かじと 郤 けたる満枝の、我の 辛 さを彼に
なほあきた
移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、 猶
慊 らで我が前に責むるかと、
こら
ふる
ほしいま
とら
ちと
貫一は 怺 へかねて 顫 ひゐたり。満枝は
縦
まに宮を 据 へて 些 も動かせず、
しづか
徐 に貫一を見返りて、
はざま
あなた
間 さん、 貴 方 のお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」
「
えりがみと
おもて
頸 髪 取 つて宮が 面 を引立てて、
「この女で御座いませう」
わたし くやし
「貫一さん、 私 は 悔 う御座んす。この人は貴方の奥さんですか」
わたくし
私
奥さんならどうしたのですか」
「
「貫一さん!」
あしずり
ただ
おしふ
彼は 足 擦 して叫びぬ。満枝は 直 ちに 推 伏 せて、
やかまし
「ええ、 聒
い!
かんいち
そこ
貫 一 さんは其処に一人居たら沢山ではありませんか。貴方
いで
より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し静にして聴いてお 在 なさい。
つまり
間さん、私想ふのですね、 究 竟 かう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんな
こと
に申しても私の 言 は取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がお
よそ
しま
有り遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所へ嫁に入つて 了 つたやうな、実に畜
生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。――私善く存じてゐますわ。貴方も
あんま
いで
いか
かはい
余 り男らしくなくてお 在 なさる。それは如何にお 可 愛 いのか存じませんけれど、
あいそ つか
に
ぐづぐづ
一旦 愛 相 を 尽 して迯げて行つた女を、いつまでも思込んで 遅 々 してゐらつしや
るとは、まあ何たる不見識な事でせう!
貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女
さしころ
しま
は一息に 刺 殺 して 了 ふのです」
はねかへ
せ
おさ
宮は 跂 返 さんと為しが、又 抑 へられて声も立てず。
「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を
おつしや
なぜ
有 仰 いましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為こんな
いんらん にんぴにん おめおめい
淫 乱 の 人 非 人 を 阿 容 活けてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に
いちぶん
なぜ
対しても、貴方男子の 一 分 が立たんで御座いませう。何為成敗は遊ばしません。さ
け
あ、私決してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ば
しまし。さもなければ、私も立ちませんです。
間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分を
お立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをります
いざ
しそん
から、立派に遣つて御覧あそばせ。 卒 と云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して 為 損
よ きれもの
じの無いやうに、私好い 刃 物 をお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊
ばせ」
ふところ
ろぬり きらめ いつこう
彼の 懐
を出でたるは 蝋 塗 の 晃 く 一 口 の短刀なり。貫一はその殺気に
うた
むなし まなこ かがやか
おもて にら
撲 れて一指をも得動かさず、 空 く 眼 を
輝
して満枝の 面 を 睨 みた
おしふ
り。宮ははや気死せるか、 推 伏 せられたるままに声も無し。
のど
ひとつき や
「さあ、私かうして抑へてをりますから、 吭 なり胸なり、ぐつと 一 突 に遣つてお
しま
ぐづぐづ
もちやう
了 ひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を 遅 々 してゐらつしやるのです。刀の 持 様
さへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」
ひとふりふ
さや はつし
たもと めぐ
と片手ながらに 一 揮 揮れば、 鞘 は 発 矢 と飛散つて、電光 袂 を 廻 る
しらは
たちま ひるがへ
おちきた
白 刃 の影は、 忽 ち
飜
つて貫一が面上三寸の処に 落 来 れり。
よ
「これで突けば可いのです」
「…………」
ま
「さては貴方はこんな女に未だ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやる
ので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つ
て殺して上げませう。何の雑作も無い事。
ちよつ
些 と御覧あそばせな」
ごんか こつえん
やいば
らんびん かす
あらは
言 下 に 勿 焉 と消えし 刃 の光は、早くも宮が 乱 鬢 を 掠 めて 顕 れぬ。
さけ
いし
はねお
きつさき あやふ はづ
と貫一の 号 ぶ時、 妙 くも彼は 跂 起 きざまに突来る
鋩
を 危 く 外 して、
「あれ、貫一さん!」
すが
きは
ねぢふ ねぢふ
のけざま
と満枝の手首に 縋 れるまま、一心不乱の力を 極 めて 捩 伏 せ 捩 伏 せ、 仰 様
おしかさな
たふ
に 推
重 りて 仆 したり。
「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい――貴
方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺
して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから
ひとおもひ
一
思 に殺して下さい!」
ひん
いひし
あやし
あへ すくひ
この恐るべき危機に 瀕 して、貫一は 謂 知 らず自ら 異 くも、 敢 て 拯 の手
か
むなし もだ
を藉さんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、 空 く 悶 えに悶えゐたり。
ふたり
やいば
あるひ
せんせん
必死と争へる 両 箇 が手中の 刃 は、 或 は高く、或は低く、右に左に 閃 々 と
いつこう
ぬ
して、あたかも 一 鉤 の新月白く風の柳を縫ふに似たり。
みごろし
「貫一さん、貴方は私を 見 殺 になさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺す
のですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのは
は悔い
くやし
悔 い!
悔い
私
」
やしや
ごたい も
くちびる
彼は乱せる髪を 夜 叉 の如く打振り打振り、 五 体 を揉みて、
唇
の血を噴きぬ。
きずつ
めぐ
ごと
いか
彼も殺さじ、これも 傷 けじと、貫一が胸は車輪の 廻 るが 若 くなれど、如何にせ
きんばく
はや
あせ
ん、その身は内より不思議の力に 緊 縛 せられたるやうにて、 逸 れど、 躁 れど、
ゆるぎ
のんど
ふさが
てつがん
寸分の 微 揺 を得ず、せめては声を立てんと為れば、 吭 は又 塞 りて、 銕 丸
ふく
おもひ
を 啣 める 想 。
力も今は絶々に、はや
あやふ
危 しと宮は血声を揚げて、
「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つ
て、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さ
い」
ねぢあ はずみ
からり
つつた
又激く 捩 合 ふ 郤 含 に、短刀は 戞 然 と落ちて、貫一が前なる畳に 突 立 つたり。
すか
をど かか
宮は 虚 さず 躍 り 被 りて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、
おしへだ
わき
うしろづき
とほ
さけ
推 隔 つる 腋 の下より 後
突 に、も 透 れと刺したる急所、一声 号 びて
のけぞ
仰 反 る満枝。鮮血!
兇器!
殺傷!
死体!
乱心!
重罪!
く
貫一は目も眩れ、
ひし
心も消ゆるばかりなり。宮は 犇 と寄添ひて、
「もうこの上はどうで私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺
ゆる
して下さい。私はそれで貴方に 赦 された積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれ
かんにん
はら
でもう 堪 忍 して、今までの恨は 霽 して下さいまし、よう、貫一さん。私がこんな
いきかはりしにかはり
に思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は 生
替
死
替
しちしよう
うら
して 七 生 まで貫一さんを 怨 みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、
とな
貴方の口からお念仏を 唱 へて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」
あけ
しらは
なつかし こぶし
朱 に染みたる 白 刃 をば貫一が手に持添へつつ、宮はその 可 懐 き 拳 に
あまたたびほほずり
頻
回 頬 擦 したり。
「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることは無いのですから、せ
えこう
きは ただひとこと
めて一遍の 回 向 をして下さると思つて、今はの 際 で 唯 一 言 赦して遣ると
おつしや
有 仰 つて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了
へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後
おわび
悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その 御 詑 が為たいばかりなのですから、貫
これまで
一さん、 既 往 の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一
さん、貫一さん!
今思へばあの時の不心得が実に
くやし
悔 くて悔くて、私は何とも謂ひやうが無い!
貴
こぼ
のちのち
おもひあた
方が涙を 零 して言つて下すつた事も覚えてゐます。 後 来 きつと 思
中 るから、
今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひ
なぜ
すこし
おろか
ながら何為あの時に 些 少 でも気が着かなかつたか。 愚 な自分を責めるより外は無
とりかへし
いけれど、死んでもこんな 回
復 の付かない事を何で私は為ましたらう!
貫一さ
ばち あた
ん、貴方の 罰 が 中 つたわ!
そら
私は生きてゐる 空 が無い程、貴方の罰が中つたのだ
わ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。
さうしてとてもこの罰の中つた
からだ
躯 では、今更どうかうと思つても、願なんぞのふ
ま
うきめ
おもひじに
と云ふのは愚な事、未だ未だ 憂 目 を見た上に 思
死 に死にでも為なければ、私の
ごう めつ
業 は 滅 しないのでせうから、この世に未練は沢山有るけれど、私は早く死んで、こ
くげん う
きよ からだ
かは
の 苦 艱 を埋めて了つて、さうして早く元の 浄 い 躯 に生れ 替 つて来たいのです。
かんなんしんく
そひと
さう為たら、私は今度の世には、どんな 艱 難 辛 苦 を為ても、きつと貴方に 添 遂
げて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて
た事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも
いただ
しのこ
戴 き、又この世で 為 遺 し
よろこ
うれし
悦 ばれ、自分も 嬉 い思を
為て、この上も無い楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあん
よ
な不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。可うござんすか!
き
つと忘れずにゐて下さいよ。
さいご
しよう
おもひつ
人は 最 期 の一念で 生 を引くと云ふから、私はこの事ばかり 思 窮 めて死にま
す。貫一さん、この通だから堪忍して!」
すが
ひざ
きつさき
がば
声震はせて 縋 ると見れば、宮は男の 膝 の上なる
鋩
目掛けて岸破と伏したり。
や
「や、行つたな!」
つんざ
いだ
貫一が胸は 劈 けて始てこの声を 出 せるなり。
「貫一さん!」
無残やな、振仰ぐ宮が
のんど
まみ
やいば なかば
喉 は血に 塗 れて、 刃 の 半 を貫けるなり。彼はそ
まなこ
み
そぞろ
の手を放たで苦き 眼 をきつつ、男の顔を視んと為るを、貫一は気も 漫 に
ひつかか
引 抱 へて、
「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」
こ
ちと ゆる
大事の刃を抜取らんと為れど、一念凝りて 些 も 弛 めぬ女の力。
なぜ
「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為放さんのだ」
「貫、貫一さん」
「おお、何だ」
おもひのこ
「私は嬉い。もう……もう 思
遺 す事は無い。堪忍して下すつたのですね」
「まあ、この手を放せ」
「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて
ゆる
来たから、早く、早く、 赦 すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」
こんこん
まつご
くら せま
血は 滾 々 と益す流れて、 末 期 の影は次第に 黯 く 逼 れる気色。貫一は見るに
た
も堪へず心乱れて、
しつかり
「これ、宮、 確 乎 しろよ」
「あい」
「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」
「貫一さん!」
「宮!」
「嬉い! 私は嬉い!」
貫一は唯胸も張裂けぬ可く覚えて、
ことば い
いだ し
はふ
言 は出でず、 抱 き緊めたる宮が顔をば 紛
り下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき
くちびる むさぼ す
つばき
唇
を 貪 り吮ひぬ。宮は男の 唾 を
くちうつし から
のど うるほ
口
移 に 辛 くも 喉 を 潤 して、
ああ くるし
「それなら貫一さん、私は、 吁 、 苦 いから、もうこれで一思ひに……」
いだ
えぐ
しか
と力を 出 して 刳 らんと為るを、 緊 と抑へて貫一は、
「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」
「いいえ、止めずに」
「待てと言ふに」
「早く死にたい!」
やうや
たちま
かへ
こ
ころ
のが
漸 く刀をせば、宮は 忽 ち身を 回 して、輾けつ 転 びつ座敷の外に 脱 れ出
づるを、
どこ
「宮、何処へ行く!」
や
の
かひな およ
いら
ひとつかみ
かか
遣らじと伸べし 腕 は 逮 ばず、 苛 つて起ちし貫一は唯 一
掴 と躍り 被 れ
あやにく
しがい つまづ
そこ
ば、 生 憎 満枝が 死 骸 に 躓 き、一間ばかり投げられたる其処の敷居に
ひざがしら
すく
うめ
膝
頭 を砕けんばかり強く打れて、りしままに起きも得ず、身を 竦 めて 呻 きな
がらも、
「宮、待て! 言ふことが有るから待て!
豊、豊!
豊は居ないか。早く追掛けて宮
を留めろ!」
さけ
あしゆら
いか
呼べど 号 べど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は 阿 修 羅 の如く 憤 りて起ちし
たふ
おきかへ
いそがはし あたり
が、又 仆 れぬ。仆れしを漸く 起 回 りて、 忙
々 く 四 下 をせど、はや宮の影
ほほ おと
をだまき
つらな
は在らず。その歩々に 委 せし血は 苧 環 の糸を曳きたるやうに長く 連 りて、畳
いづこ
いたで
より縁に、縁より庭に、庭より外に 何 処 まで、彼は 重 傷 を負ひて行くならん。
ばんじやく
いたみ こら
磐
石 を曳くより苦く貫一は膝の 疼 痛 を 怺 へ怺へて、とにもかくにも
へいそと
いま
ありあけ つきひやや
塀 外 にひ出づれば、宮は 未 だ遠くも行かず、 有 明 の 月
冷 かに夜は水の
ごと しら
さぎりこ
せき
あたり
若 く 白 みて、ほのぼのと 狭 霧 罩 めたる大路の 寂 として物の影無き 辺 を、唯
ひと おぼつかな
独 り 覚 束 無 げに走れるなり。
「宮! 待て!」
こだま
ゆう
こた
はがみ な
呼べば 谺 は返せども、雲は 幽 にして彼は 応 へず。 歯 咬 を作して貫一は後を
追ひぬ。
もと
あはひ いくばく
いだ
ひつとら
固 より 間 は 幾 許 も有らざるに、急所の血を 出 せる女の足取、 引 捉 ふ
るに何程の事有らんと、
あなど
ひきか
こなた
侮 りしに相違して、彼は始の如く走るに 引 易 へ、 此 方
いきつか
つひ
ちかづ
くちを
は漸く 息 疲 るるに及べども、距離は 竟 に依然として 近 く能はず。こは 口 惜
たふ
し、と貫一は満身の力を励し、 僵 るるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は
なほのが
たちま さ と
あし まと
猶 脱 るるほどに、帯は 忽 ち颯と釈けて 脚 に 絡 ふを、右に左にひつつ、
つまづ
よろめ
つ
いか せ
跌 きては進み、行きては 踉 き、彼もはや力は竭きたりと見えながら、如何に為
そこ
また
みづから つひ
ここ ぜつにゆう
ん、其処に伏して 復 起きざる時、
躬
も 終 に及ばずして此処に 絶
入 せん
と思へば、貫一は今に当りて
わづか
じゆつ
纔 に声を揚ぐるの 術 を余すのみ。
ふる
あはれ
あへぎ
「宮!」と 奮 つて呼びしかど、 憫 むべし、その声は苦き 喘 の如き者なりき。
くら
あせ
我と吾肉を 啖 はんと想ふばかりに 躁 れども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へ
かひな おのれ いかり な
きようこ
るなり。さては 効 無 き 己 に 憤 を作して、益す休まず 狂 呼 すれば、彼の
のんど
こつぜん
いちゆう せんこう はきいだ
こころくら
吭 は終に破れて、 汨 然 として 一 涌 の 鮮 紅 を 嘔 出 せり。 心
晦
まつかぜどつ
かへ
みて覚えず倒れんとする耳元に、 松 風 驀然と吹起りて、吾に 復 れば、眼前の
おほりばた
み
おひしげ
じゆすい
御 壕 端 。只看る、宮は行き行きて 生 茂 る柳の暗きに分入りたる、 入 水 の覚
きはま
しぼ
しきり
せきい
悟に 極 れりと、貫一は必死の声を 搾 りて 連 に呼べば、 咳 入 り咳入り
すうこう かつけつ はんらん
お
ちすぢ
数 口 の 咯 血 、 斑 爛 として地に委ちたり。何思ひけん、宮は 千 条 の緑の陰
やや
おもて あらは
じ
つひ
より、その色よりは 稍 白き 面 を 露 して、追来る人を熟と見たりしが、 竟 に
あ
はるか と
ゆる
ふしをが
疲れて起きも得ざる貫一の、唯手を抗げて 遙 に留むるを、 免 し給へと 伏 拝 み
うち
て、つと茂の 中 に隠れたり。
おのれ
かけよ
くぐ
彼は 己 の死ぬべきを忘れて又起てり。 駈 寄 る岸の柳を 潜 りて、水は深きか、
いづこ
むぐら
ふみすべ
あやふ
ふち
そそ
宮は 何 処 に、と 葎 の露に 踏 滑 る身を 危 くも 淵 に臨めば、と 瀉 ぐ早瀬
おどろ なみ たい つく
ぶん ま
の水は、 駭 く 浪 の 体 を 尽 し、乱るる流の 文 を捲いて、眼下に幾個の怪き
たいせき
ごうはい あつ
いきほひ ふせ
大 石 、かの 鰲 背 を 聚 めて丘の如く、その
勢
を 拒 がんと為れど、触る
ひるがへ
ゆ
とうとう
な ふんじん
れば払ひ、当れば 飜
り、長波の邁くところ 滔 々 として破らざる為き 奮 迅
こんじく
とどろ
ふみゐ
くづ
の力は、両岸も為に震ひ、 坤 軸 も為に 轟 き、 蹈 居 る土も今にや 崩 れなんと
いべい あめこまやか そそ
びんぱつ
うた
疑ふところ、 衣 袂 の 雨
濃 に 灑 ぎ、 鬢 髪 の風 転 た急なり。
すさま
みのけ よだ
すが
あな 凄 じ、と貫一は 身 毛 も弥竪ちて、 縋 れる枝を放ちかねつつ、看れば、
くさむら
しゆうだ
こみち
さかおとし けんがい
叢 の底に 秋 蛇 の行くに似たる 径 有りて、ほとほと 逆
落 に 懸 崖
くだ
あやふ かな さしのぞ
かやかつら しきり
を 下 るべし。 危 き 哉 と 差 覗 けば、 茅
葛 の 頻 に動きて、
をざさうばら
すべ
小 笹 棘 に見えつ隠れつ段々と 辷 り行くは、求むる宮なり。
とど
た
その死を 止 めんの一念より他あらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地
いとま
たにま あらし
まか
を踏む 遑 もあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、 壑 間 の 嵐 の誘ふに 委 せて、
ましぐら
おと
驀 直 に身を 堕 せり。
あるひ くだ
つつがな
たすけ
或 は 摧 けて死ぬべかりしを、 恙 無 きこそ天の 佑 と、彼は数歩の内に宮
ひた
いはほ わた
たきつせ あやにく
を追ひしが、流に 浸 れる 巌 を 渉 りて、既に渦巻く 滝 津 瀬 に 生 憎 !
花は
散りかかるを、
「宮!」
うしろ
と 後 に呼ぶ声残りて、前には人の影も在らず。
とつさ おくれ
わめ
もだ
咄 嗟 の 遅 を天に叫び、地に 号 き、流に 悶 え、巌に狂へる貫一は、血走る
まなこ
ここ かしこ こひし みくづ もと
まさし
眼 に水を射て、此処や 彼 処 と 恋 き 水 屑 を 覓 むれば、 正 く
うきぎあくた
じつけん
あなた
浮 木 芥 の類とも見えざる物の、 十 間 ばかり 彼 方 を揉みに揉んで、
なみまがくれ おしなが
や
ひとみ
波 間 隠 に 推 流 さるるは、人ならず哉、宮なるかと 瞳 を定むる折しもあれ、
そこ
つる
やとび な
ゆくへ
水勢其処に一段急なり、在りける影は 弦 を放れし 箭 飛 を作して、 行 方 も知らずと
むねつぶ
たちま
胸 潰 るれば、 忽 ち遠く浮き出でたり。
よ
がけ
あるひ
こ
嬉しやと貫一は、道無き道の木を攀ぢ、 崖 を伝ひ、 或 は下りて水を踰え、石を
ふ
めぐ
ろうそう
ちかづ
りよくじゆかげうれ
躡み、巌を 廻 り、心地死ぬべく 踉 蹌 として 近 き見れば、 緑
樹 蔭 愁
せんかんこゑむせ
かか
むくろ
ひ、 潺 湲 声 咽 びて、浅瀬に 繋 れる宮が 骸 よ!
貫一は唯その上に泣伏したり。
ああ
おい わづか
さき
なさけ
吁 、宮は生前に 於 て 纔 に一刻の 前 なる生前に於て、この 情 の熱き一滴
いかばかり
かたじけ
せんこうた
かひな
を 幾
許 かは
忝
なみけん。今や 千 行 垂 るといへども 効 無 き涙は、
いたづら
そそ
こん
徒 に無心の死顔に 濺 ぎて宮の 魂 は知らざるなり。
かなしみ きはま
貫一の 悲
は 窮 りぬ。
あはれ
「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺を為るさへ 可 哀 なのに、この浅ましい姿
はどうだ。
やいば
おぼ
かはい
刃 に貫き、水に 溺 れ、貴様はこれで苦くはなかつたか。 可 愛 い奴め、
おもひつ
思 迫 めたなあ!
宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では
あきた
慊 らずに、二つ命を捨て
ふびん
た気か。さう思つて俺は 不 敏 だ!
どんな事が有らうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけ
しにざま
うらみ
れども、この無残な 死 状 を見ては、罪も 恨 も皆消えた!
赦したぞ、宮!
おれ
俺 は心の底から赦したぞ!
きは
ひとこと
今はの 際 に赦したと、俺が 一 言 云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つた
が、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した!
余り立派で、貫一は恥入つた!
めんもく
宮、俺は 面 目 無い!
みごろし
ずに 見 殺 に為たのは残念だつた!
あやまり
過
だ!
俺が
立派な悔悟だぞ
これまでの精神とは知ら
宮、赦してくれよ!
い
可い
か、宮、可いか。
ああ
嗚呼死んで了ったのだ※[#感嘆符三つ、396-10]」
むご
ことごと そそ
貫一は彼の死の余りに 酷 く、余りに潔きを見て、不貞の血は既に
尽
く 沃 が
はだへ
おのれ
れ、旧悪の 膚 は全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、 己 の為に捨て
なきがら
げ あはれ
なほ
きは
たる 亡 骸 の、実に 憐 みても憐むべく、悲みても 猶 及ばざる思の、今は唯 極
めて切なる有るのみ。
れつれつ
おんねん
か
かの 烈 々 たる 怨 念 の跡無く消ゆるとともに、一旦涸れにし愛慕の情は又泉の
わ
みなぎ
や
な
涌くらんやうに起りて、その胸に 漲 りぬ。苦からず哉、人亡き後の愛慕は、何の思
いか
か
やす
かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何なる恨をも繋くるの忍び 易
きを今ぞ知るなる。
ちようた なみだつらな
貫一は 腸 断 ち 涙
連 りて、我を我とも覚ゆる能はず。
たむ
うち
「宮、貴様に手向けるのは、俺のこの胸の 中 だ。これで成仏してくれ、よ。この世の
事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、
ひやく
そひ
そひと
百 歳 までも 添 、添、 添 遂 げるぞ!
忘れるな、宮。俺も忘れん!
貴様もきつと
覚えてゐろよ!」
ひし
おもて のぞ
氷の如き宮が手を取り、 犇 と握りて、永く眠れる 面 を 覗 かんと為れば、涙急
あいろ
おしかさな
いと
もだ
しばし
にして 文 色 も分かず、 推
重 りて、 怜 しやと身を 悶 えつつ 少 時 泣いたり。
「然し、宮、貴様は立派な者だ。
ひとた
一 び罪を犯しても、かうして悔悟して自殺を為た
あつぱれ
のは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、 天 晴 だぞ。それでこそ始て人間
めんもく
たるの 面 目 が立つのだ。
然るに、この貫一はどうか!
いつぱし
いつぷ
一 端 男と生れながら、高が 一 婦 の愛を失つたが
くぢ
がき
ふるまひ
為に、志を 挫 いて一生を誤り、餓鬼の如き 振 舞 を為て恥とも思はず、非道を働い
むさぼ
かね
て暴利を 貪 るの外は何も知らん。その 財 は何に成るのか、何の為にそんな事を為
るのか。
およ
い
おのれ
凡 そ人と謂ふ者には、人として必ず尽すべき道が有る。 己 と云ふ者の外に人の
道と云ふ者が有るのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と
添ふ事が出来ん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、
いやし
苟 くも男と
なげう
かひ どこ
生れた一生を 抛 たうと云ふのだ。人たるの 効 は何処に在る、人たる道はどうした
のか。
ああ
噫 、誤つた!
宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済ま
からだ
はぢい
す
躯 だ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に 愧 入 りも為りや、
ん
うらやまし
はじめ
可
羨 くもある。 当 初 貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、
すみや
あらた
貴様の悔悟と共に俺も 速 かに心を 悛 めて、人たるの道に負ふところのこの罪を
つぐな
贖 はなけりや成らん訳だ。
ああ
つ
くるし
嗟乎、然し、何に就けても 苦 い世の中だ!
人間の道は道、義務は義務、
たのしみ
楽
は又楽で、それも無けりや立たん。俺も
しぎさわ
あいて
鴫 沢 に居て宮を 対 手 に勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢の
やうに考へてゐた。
あれが浮世なのか、これが浮世なのか。
あれから こんにち
爾 来 、 今 日 までの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でも無かつた。そ
たのみ
れで何が 頼 で俺は活きてゐたのか。死を決する勇気が無いので活きてゐたやうなも
しにぞくな
のだ! 活きてゐたのではない、 死
損 つてゐたのだ
わにぶち やけし
す
鰐 淵 は 焚 死 に、宮は自殺した、俺はどう為るのか。俺のこの感情の強いのでは、
これから
又 向 来 宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。
して見りや、今までよりは一層
くるしみ
苦
を受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きて
ゐて何を為るのか。
人たるの道を尽す?
おこなひ
行
を為る?
人たるの
ああ、い、
い!
人としてを
ればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨て
いつ
い
あるひ
ぼうぼうぜん
るのは、 一 の罪悪だと謂ふ。 或 は罪悪かも知れん。けれども、 茫 々 然 と呼
なにら
吸してゐるばかりで、世間に対しては 何 等 の益するところも無く、自身に取つてはそ
みじまつ
ま
たちま
れが苦痛であるとしたら、自殺も一種の 身 始 末 だ。増して、俺が今死ねば、 忽 ち
何十人の人が助り、何百人の人が
よろこ
懽 ぶか知れん。
ひとり
ゆゑ
あと
ぬすと
俺も 一 箇 の女 故 に身を誤つたその 余 が、 盗 人 家業の高利貸とまで堕落してこ
はじめ でそくな
れでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、 当 初 に 出 損 つたのが一
そもそ
からだ
きたへなほ
生の不覚、あれが 抑 も不運の貫一の 躯 は、もう一遍 鍛
直 して出て来るよ
ほか
はら
り 外 為方が無い。この世の無念はその時 霽 す!」
かなし
たちどこ
すべ
さしも遣る方無く 悲 めりし貫一は、その悲を
立
ろに抜くべき 術 を今覚れ
みるみる
ほほ かわ
あたり
あやし あが
きあ
かがや
り。 看 々 涙の 頬 の 乾 ける 辺 に、 異 く 昂 れる気有りて青く 耀 きぬ。
「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ!
の命も貴様に遣る!
貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一
らいせ
ゆひのう
来 世 で二人が夫婦に成る、これが 結 納 だと思つて、
いくひさし
幾
久 く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」
なんぢ
ふち
もろとも
かばね
さらば往きて 汝 の陥りし 淵 に沈まん。沈まば 諸 共 と、彼は宮が 屍 を引
うしろ
かろ
ひとひら
ひと
あや
起して 背 に負へば、その 軽 きこと 一 片 の紙に 等 し。 怪 しと見返れば、更
に怪し!
ほうふん
う
いちだ しろゆりおほい じんめん ごと
芳 芬 鼻を撲ちて、 一 朶 の 白 百 合 大 さ 人 面 の 若 きが、満開
はなびら
かか
葩
を垂れて肩に 懸 れり。
の
おどろ
めさ
不思議に 愕 くと為れば目覚めぬ。覚むれば暁の夢なり。
[#改ページ]
続続金色夜叉
第一章
ますますくるし
まさ
おも
貫一が胸は 益
苦 く成り 愈 りぬ。彼を 念 ひ、これを思ふに、生きて在る
むし
あやし
べき心地はせで、 寧 ろかの 怪 き夢の如く成りなんを、快からずやと疑へるなり。
むなし
なげう
おうのう
すご
彼は 空 く万事を 抛 ちて、
懊
の間に三日ばかりを 過 しぬ。
これを語らんに人無く、
うつた
すく
愬 へんには友無く、しかも自ら 拯 ふべき道は有りや。
有りとも覚えず、無しとは知れど、
わづら
ほしいま
煩 ふ者の煩ひ、悩む者の悩みて
縦
まなる
いか
こんめいらんじよう
いつこん
くじりさ
を如何にせん。彼は実にこの 昏 迷 乱 擾 せる 一 根 の悪障を 抉 去 りて、
や
こひねが
猛火に燬かんことを
冀
へり。その時彼は死ぬべきなり。生か、死か。貫一の
くもん やうや
つひ
かうべ
苦 悶 は 漸 く急にして、 終 にこの問題の前に 首 を垂るるに至れり。
値無き吾が生存は、又
おなじ
を
た
同 く値無き死亡を以つて畢へしむべき者か。悔に堪へざる
べ
せ
吾が生の値無かりしを結ばんには、これを償ふに足る可き死を以て為ざる可からざるか、
あるひ
あやまちおほ
さいご と
あらた
或 は、ここに 過
多 き半生の 最 期 を遂げて、 新 に他の値ある後半の復
みようにち
活を 明 日 に計るべきか。
あなが
いと
ふたつ
彼は 強 ちに死を避けず、又生を 厭 ふにもあらざれど、 両 ながらその値無き
ひそか いさぎよ
せ
はぢ
を、 私 に
屑
しと為ざるなり。当面の苦は彼に死を勧め、半生の悔は 耻 を責
めて仮さず。苦を抜かんが為に、我は値無き死を辞せざるべきか、
あやまち
過
を償はんが
ろくろく
やす
すなは かた
為に、我は楽まざる生を忍ぶべきか。 碌 々 の生は 易 し、死は 即 ち 難 し。碌
すなは
まつた
々の死は易し、生は 則 ち難し。我は悔いて人と成るべきか、死してその愚を 完
うすべきか。
もと
おも
ふ
おも
貫一は活を求めて得ず、死を 覓 めて得ず、居れば立つを 念 ひ、立てば臥すを 想
おも
い
ひ、臥せば行くを 懐 ひ、寐ぬれば覚め、覚むれば思ひて、夜もあらず、日もあらず、
ただうれ
おのれひとり おきどころな わづらはし
人もあらず、世もあらで、 唯 憂 ひ惑へる 己 一 個 の 措 所 無 く 可
煩
きに悩乱せり。
なげう
おほぐち
あだかもこの際 抛 ち去るべからざる一件の要事は起りぬ。先に 大 口 の
いひこみあ
だらだら
ちと
やしゆう
言 込 有 りし貸付の 緩 々 急に取引迫りて、彼は 些 の猶予も無く、自ら 野 州
はたおり
おんせんじよう
そこ せいきんろう
塩原なる 畑 下 と云へる 温 泉 場 に出向き、其処に 清 琴 楼 と呼べる湯宿
ひそか うんぬん
に就きて、 密 に 云 々 の探知すべき必要を生じたるなり。
いひし
ゆきがかり
えがた
謂 知 らずしと腹立たれけれど、 行
懸 の是非無く、かつは 難 得 き奇景の地と
しばし うさ
およそ
聞及べば、 少 時 の 憂 を忘るる事も有らんと、自ら努めて結束し、かの日より 約
ひ
あしたよこぐもしろ
一週間の後、彼はほとほと進まぬ足を曳きて家を出でぬ。その 晨
横 雲 白 く
あけがた
くるま
明 方 の空に半輪の残月を懸けたり。一番列車を取らんと上野に向ふ 俥 の上なる
ながめ うた
しようぜん
貫一は、この暁の 眺 矚 に 撲 れて、覚えず 悚
然 たる者ありき。
(一)の二
は
かは
そ ゆううつ
車は駛せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は 易 らざる他の 悒 鬱 を
いだ
や
ひとり う つか
にしなすの
抱 きて、遣る方無き五時間の 独 に倦み 憊 れつつ、始て 西 那 須 野 の駅に下車せ
り。
ただ
いまなほぼうぼう
いにしへ なすのがはら い
直 ちに西北に向ひて、 今 尚 茫 々 たる
古
の 那 須 野 原 に入れば、天
ひろ
はるか
ただへいぶ
たんと
は 濶 く、地は 遐 に、 唯 平 蕪 の迷ひ、断雲の飛ぶのみにして、三里の 坦 途 、
ちようらん
そこ
みち きはま
やうや
一帯の 重
巒 、塩原は其処ぞと見えて、行くほどに 跡 は 窮 らず、 漸 く千
せきやむら
そうそう
本松を過ぎ、進みて 関 谷 村 に到れば、人家の尽る処に 淙 々 の響有りて、これに
かか
にゆうしようきよう な
架 れるを 入
勝
橋 と為す。
すなは
わづか
くら
らんきひややか
輙 ち橋を渡りて 僅 に行けば、日光 冥 く、山厚く畳み、 嵐 気
冷
に
たにふか
いくめぐり
つづらをり
みつじゆ せいせい
壑 深 く陥りて、 幾
廻 せる 葛
折 の、後には 密 樹 に 声 々 の鳥呼び、
ゆうそうほほ
ひら
のぼ
はるか こがくれ
前には 幽 草 歩々の花を 発 き、いよいよ 躋 れば、 遙 に 木 隠 の音のみ聞え
みなかみ
あらは
すは
くうざん いかづちはつこう
し流の 水 上 は浅く 露 れて、驚破や、ここに 空 山 の
雷
白 光 を放ち
くづ
すさま
いしゆう
て 頽 れ落ちたるかと 凄 じかり。道の右は山をりて長壁と成し、 石 幽 に
こけあを
いくすぢ
ほそたきこたき さんさん
蘚 碧 うして、 幾 条 とも白糸を乱し懸けたる 細 瀑 小 瀑 の 珊 々 として
そそ
れいじよう
しらべ
さだめ
を
濺 げるは、 嶺
上 の松の 調 も、 定 てこの緒よりやと見捨て難し。
か
しらはざか こ
みかへりばし
ひばく
俥を駆りて 白 羽 坂 を踰えてより、 回 顧 橋 に三十尺の 飛 瀑 をみて、山中の
景は始て奇なり。これより行きて道有れば、水有り、水有れば、必ず橋有り、全渓にし
いはあ
たき
ぜんれい
て三十橋、山有れば 巌 有 り、巌有れば必ず 瀑 有り、 全 嶺 にして七十瀑。地有れ
なほ
ば泉有り、泉有れば必ず熱有り、全村にして四十五湯。 猶 数ふれば十二勝、十六名所、
たれ
さぐ
七不思議、 誰 か一々 探 り得べき。
そもそ
しおやごおり
い
抑 も塩原の地形たる、 塩 谷 郡 の南より群峰の間を分けて深く西北に入り、
ははきがわ
さかのぼ かたそば
わか
わた
綿々として 箒
川 の流に
沂
る 片 岨 の、四里に 岐 れ、十一里に 亙 りて、
ざんがん
はさ
さながら
やげん るりまつ
到る処 巉 巌 の水を 夾 まざる無きは、 宛 然 青銅の 薬 研 に 瑠 璃 末 を砕くに似
おほあみ
すぐ
ねもとやま うおどめのたき ちご ふち
たり。先づ 大 網 の湯を 過 れば、 根 本 山 、 魚 止 滝 、 児 ヶ 淵 、
ひだりうつぼ
ふ
はくうんどう ほがらか
ぬのだき りゆう はな
左
靱 の険は古りて、 白 雲 洞 は
朗
に、 布 滝 、 竜 ヶ 鼻 、
ざいもくいし ごしきせき ふないわ
ながめゆ
とりいど まえやま
材 木 石 、 五 色 石 、 船 岩 なんどと 眺 行 けば、 鳥 井 戸 、 前 山 の
みどりころも
ふくわた
い
翠
衣 に染みて、 福 渡 の里に入るなり。
みち
むかひ がけ ところどころ つつじ
はなは
途 すがら 前 面 の 崖 の 処
々 に 躑 躅 の残り、山藤の懸れるが、 甚 だ
興有りと目留まれば、又この
あたりこと たにあさ
こきよう
辺
殊 に 谿 浅 く、水澄みて、大いなる 古 鏡 の
おほ
がんじゆ
沈める如く、深く 蔽 へる 岸 樹 は陰々として眠るに似たり。貫一は覚えず踏止りぬ。
さかま
そこ
かの 逆 巻 く波に分け入りし宮が、息絶えて浮び出でたりし其処の景色に、似たりと
はなは
たたずまひ しげり ありさま ないし たた
あや
酷 だ似たる岸の 布
置 、 茂 の 状 況 、 乃 至 は 漾 ふる水の 文 も、
も
すきとほ
いはづら
おもむき
みきた
透 徹 る底の 岩 面 も、広さの程も、位置も、
趣
も、子細に 看 来 ればいよ
たが
いよ 差 はず。
まなじり さ
かんりつ
彼は 眦
を決きて 寒 慄 せり。
あやし
かな かつ へ
ところ
ためし
怪 むべき 哉 、 曾 て経たりし 塲 をそのままに夢むる 例 は有れ、
よりどころ
まざまざ
所
拠 も無く夢みし跡を、 歴 々 とかく目前に見ると云ふも有る事か。宮の
むくろ よこた
おのれ おひき
かしこ
ここ
ひそか
骸 の 横 はりし処も、又は 己 の 追 来 し筋も、 彼 処 よ、此処よと、 陰
ゆびさ
かぎりな おどろ
に一々 指 しては、 限 無 く 駭 けるなり。
ふどうざわ
車夫を顧みて、処の名を問へば、 不 動 沢 と言ふ。
ものおそろ
物 可 恐 しげなる沢の名なるよ。げに思へば、人も死ぬべき処の名なり。我も既に
死なんとせしがと、さすが
うつつ
し
やまゆり
現 の身にも沁む時、宮にはあらで 山 百 合 の花なりし怪
おも
かたさき
ふる
異を又 懐 ひて、彼は 肩 頭 寒く 顫 ひぬ。
にはか きびす かへ
ゆくて
ふさが
とつとつ なんら
卒 に 踵 を 回 して急げば、 行 路 の雲間に 塞 りて、 咄 々 、 何 等 の
まづおどろ
いぎよう びようぶいは
じよう みあぐ
物か、と 先
驚 かさるる 異 形 の 屏 風 巌 、地を抜く何百 丈 と 見 挙 る
絶頂には、はらはら松も
あやふ たちすく
からたけわり さきはな
危 く 立 竦 み、 幹 竹 割 に 割 放 したる断面は、
なかそら
すいか
きゆうきゆう
いきほひ ほとん なが
半 空 より一文字に 垂 下 して、 岌
々 たるその
勢
、 幾 ど 眺 むる
まなこ とま
眼 も 留 らず。
ぼうぜん
たたず
貫一は 惘 然 として 佇 めり。
まろ
まさ
てつぺん
彼が宮を追ひて 転 び落ちたりし谷間の深さは、 正 にこの 天 辺 の高きより投じ
せんせん
まひくだ きぐ たへがた
たらんやうに、 冉 々 として虚空を 舞 下 る危惧の 堪 難 かりしを想へるなり。
われいま かつ
我 未 だ 甞 て見ざりつる絶壁!
あやふ
おそろ
危 しとも、 可 恐 しとも、夢ならずして
いかで
ひとなみ
ひばりぼね こなみじん
う
争 か飛下り得べき。又この 人 並 ならぬ 雲 雀 骨 の 粉 微 塵 に散つて失せざ
まこと
ちりけひやや
ひとみ こら
かたはら
りしこそ、 洵 に夢なりけれと、 身 柱 冷 かに 瞳 を 凝 す彼の
傍
より、
てんぐいわ
し
がほ
あない
これこそ名にし負ふ 天 狗 巌 、と為たり 貌 にも車夫は 案 内 す。
おそ
貫一はかの夢の奇なりしより、更に更に奇なるこの塩原の実覚をば疑ひ 懼 れつつ立
尽せり。
かくのごと
いよい
あるひ
あと なほ
既に 如
此 くなれば、怪は 愈 よ怪に、 或 は夢中に見たりし 踪 の 猶
ちやくちやく
きた
おびやか
や
着
々 活現し 来 りて、飽くまで我を
脅
さざれば休まざらんと為るにあら
まか
いはほ
そび
あたり
ずや、と彼は胸安からずも足に 信 せて、かの 巌 の頭上に 聳 ゆる 辺 に到れば、
たに
こど
ほうこう
げきとう
ほんば
谿 急に激折して、水これが為に鼓怒し、 咆 哮 し、噴薄 激 盪 して、 奔 馬 の乱
きそ
よこた
いただき
れ 競 ふが如し。この乱流の間に 横 はりて高さ二丈に余り、その
頂
は
たひらか ひろが
ゆたか
だいばんじやく
としふ
平 に 濶 りて、 寛 に百人を立たしむべき 大 磐 石 、風雨に 歳 経 る
はだへ しかい
うろこ
かたちおそろ
膚 は 死 灰 の色を成して、 鱗 も添はず、毛も生ひざれど、 状 可 恐 しげに
うづくま
きゆうたん なみ ひた
蹲 りて、老木の蔭を負ひ、 急
湍 の 浪 に 漬 りて、夜な夜な天狗巌の
まふう
ほ
魔 風 に誘はれて吼えもしぬべき怪しの物なり。
いにしへがもうひだのかみうじさと
のだち
よ
その 古
蒲 生 飛 騨 守 氏 郷 この処に 野 立 せし事有るに因りて、
のだちいし
ときいだ
うなづ
野 立 石 とは申す、と例のが 説 出 すを、貫一は 頷 きつつ、目を放たず
うちなが
ひそか
打 眺 めて、独り 窃 に舌を巻くのみ。
げ たにま
たいせき
彼は実に 壑 間 の宮を尋ぬる時、この 大 石 を眼下に窺ひ見たりしを忘れざるなり。
又は流るる宮を追ひて、道無きに
くるし
よ
困 める折、左右には水深く、崖高く、前には攀
ふさが
よ
なかば
きはま
づべからざる石の 塞 りたるを、攀ぢて 半 に到りて進退 谷 りつる、その石も
おのづ そび
とどま
た
これなりけん、と肩は 自 と 聳 えて、久く 留 るに堪へず。
すほ
ふち
と
ひ
数歩を行けば、宮が命を沈めしその 淵 と見るべき処も、彼が釈けたる帯を曳きしそ
いはほ
巌 も、歴然として皆在らざるは無し!
の
かみのけ はり
た
そよ
貫一が 髪 毛 は 針 の如く竪ちて 戦
くりかへ
ひとし
げり。彼の思は前夜の悪夢を 反 復 すに 等 き苦悩を辞する能はざればなり。
おそろし
いたまし
わ
夢ながら 可 恐 くも、浅ましくも、悲くも、 可 傷 くも、分く方無くて唯一図に
とどま
そもそ いかん
止 らざらんには、 抑 も 如 何 !
切なかりしを、事もし一塲の夢にして
いちいち
原の実景は 一 々 夢中の見るところ、然らばこの景既に夢ならず!
ここに来にける吾身もまた夢ならず!
今や塩
おもひが
思 掛 けずも
ただ
ひとり
わづか
但 夢に欠く者とては宮 一 箇 のみ。 纔 に
きた
彼のここに 来 らざるのみ
貫一はかく思到りて、我又夢に入りたるにあらざるかと疑はんとも為つ。夢ならずと
せ
よしな
さいはひ
あや
為ば、我は 由 無 き処に来にけるよ。
幸
に夢に似る事無くてあれかし。 異 しと
はなは
甚 だ異し!
も
と
かへ
にはか ひきゐ くるま
疾く往きて、疾く 還 らんと、 遽 に 率 し 俥 に乗りて、
しらくらやま ふもと しおがま ゆ たかおづか はなれむろ あまゆざわ
白 倉 山 の 麓 、 塩 釜 の湯、 高 尾 塚 、 離
室 、甘 湯 沢、
あにおととのたき たまだれのせ こたろうがぶち みち ほとり
てらやま
兄
弟
滝 、 玉 簾 瀬 、 小 太 郎 淵 、 路 の 頭 に高きは 寺 山 、
はたおり
低きに人家の在る処、即ち 畑 下 戸 。
第二章
わ
一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に
あた
ははきがわ ゆる めぐ
かはら
ふ
すいせき
方 りて 箒
川 の 緩 く 廻 れる 磧 に臨み、俯しては、 水 石 のたるを
もてあそ
きじゆうろく すいらん
弄 び、仰げば西に、富士、 喜 十 六 の 翠 巒 と対して、清風座に満ち、
そで
おちく
ねりぎぬ
袖 の沢を 落 来 る流は、二十丈の絶壁に懸りて、
素
を垂れたる如き
よしいのたき
ろうかん ぎよくれん
おそ
吉 井 滝 あり。東北は山又山を重ねて、
琅
の 玉
簾 深く夏日の 畏 るべ
さへぎ
ゆうもく
きゆうかく
ほしいまま
きを 遮 りたれば、四面 遊 目 に足りて 丘
壑 の富を
擅
にし、林泉の
おごり きは
奢 を 窮 め、又有るまじき清福自在の別境なり。
み
せいおん
あ
みちすがらけはし いはほ
貫一はこの絵を看る如き 清 穏 の風景に値ひて、かの 途
上
険 き 巌 と
さかし
いくたび こん
にくしよう
をさ
かた
かきみだ
峻 き流との為に 幾 度 か 魂 飛び 肉
銷 して、 理 むる 方 無く 掻 乱 さ
あいぜん
とみ やはら
こうぜん
すべ
れし胸の内は 靄 然 として 頓 に 和 ぎ、 恍 然 として 総 て忘れたり。
おもへ
彼は 以 為 らく。
き
誠に好くこそ我は来つれ!
きた
はなは
うるは
い
なんぞ 来 るの 甚 だ遅かりし。山の 麗 しと謂ふ
つち うづたか
のどけ
ゆ
ろう
も、 壌 の
堆
き者のみ、川の 暢 しと謂ふも、水の逝くに過ぎざるを、 牢 と
こしつ
いか つち
い
して抜く可からざる我が半生の 痼 疾 は、 争 で 壌 と水との医すべき者ならん、と
しが
あなど
おのれ
おろか
歯牙にも掛けず 侮 りたりし 己 こそ、先づ侮らるべき 愚 の者ならずや。
み
ひいづ
たに
そばだ
看よ、看よ、木々の緑も、浮べる雲も、 秀 る峰も、流るる 渓 も、 峙 つ
いはほ
ふきく
とり
ね
おのづか
巌 も、 吹 来 る風も、日の光も、 鶏 の鳴く音も、空の色も、皆
自
ら浮世の
うれひ
かなしみ
くるしみ
つかれ
物ならで、我はここに 憂 を忘れ、
悲
を忘れ、
苦
を忘れ、 労 を忘れ
て、身はかの雲と軽く、心は水と淡く、
こひねが
かくのごと
希
はくは今より 如
此 くして我生を
をは
かな
了 らん 哉 。
うらみ
ぜに
恋も有らず、 怨 も有らず、金銭も有らず、権勢も有らず、名誉も有らず、野心も
有らず、栄達も有らず、堕落も有らず、競争も有らず、執着も有らず、得意も有らず、
た
むく
けいがい
わがおもひ
失望も有らず、止だ天然の無垢にして、 形 骸 を安きのみなるこの里、 我
思 を
うづ
埋 むるの里か、吾骨を埋るの里か。
したし
こと
性来多く山水の美に 親 まざりし貫一は、 殊 に心の往くところを知らざるばかり
め よろこ
あない
い
に愛で 悦 びて、清琴楼の二階座敷に 案 内 されたれど、内には入らで、始より滝に
らんかん よ
たまた
あ
向へる 欄 干 に倚りて、 偶 ま人中を迷ひたりし子の母の親にも逢ひけんやうに、
しばし
かたはら
少 時 はその
傍
を離れ得ざるなりき。
やうや
をちこち
さ
ゆふく
し
楼前の緑は 漸 く暗く、 遠 近 の水音冱えて、はや 夕 暮 るる山風の身に沁めば、
ゆあみ
まなこ
ひとつ
先づ 湯 浴 などせばやと、何気無く座敷に入りたる彼の 眼 を、又 一 個 驚かす物こ
そあれ。
かばん
とこのま
やまゆり
ただ
ぼうざし い
鞄 を置いたる 床 間 に、 山 百 合 の花のいと大きなるを 唯 一輪 棒 挿 に活
くきなり くね
こなた
けたるが、 茎 形 に 曲 り傾きて、あたかも 此 方 に向へるなり。
貫一は覚えず足を踏止めて、そのれる
まなこ
眼 を花に注ぎつ。宮ははやここに居たりと
そつじ
つか
やうに、彼は 卒 爾 の感に 衝 れたるなり。
いくところ
ひともと
既に 幾
処 の実景の夢と符合するさへ有るに、またその殊に夢の夢なる 一 本
ひつきょう
百合のここに在る事、 畢
竟 偶合に過ぎずとは謂へ、さりとては余りにかの夢とこ
はなはだし
の旅との照応急に、因縁深きに似て、などかくは我を驚かすの 太
甚 き!
ろう
ますます
おそれ な
あるひ
うち
奇を 弄 して
益
出づる不思議に、彼は益 懼 を作して、 或 はこの 裏 に
天意の測り難き者有るなからんや、とさすがに惑ひ苦めり。
そばちか
いかばかり
なが
うちひら
はなびら
やがて 傍 近 く寄りて、 幾
許 似たると 眺 むれば、 打 披 ける
葩
は
りん
さ
ふんふん ほとばし
ろき
凛 として玉を割いたる如く、濃香 芬 々 と
迸
り、葉色に露気有りて
みどりあざやか
さだめ けさ き
おぼし
いきほひ
緑
鮮 に、 定 て今朝や剪りけんと 覚 き花の
勢
なり。
しばら
きようさ
にはか
かしら
少 く楽まされし貫一も、これが為に 興 冷 めて、 俄 に重き 頭 を花の前
うれひ
よびおこ
に支へつつ、又かの 愁 を徐々に 喚 起 さんと為つ。
「お風呂へ御案内申しませう」
をんな
その声に彼は 婢 を見返りて、
ねえ
そつち
「ああ、 姐 さん、この花を 那 裏 へ持つて行つておくれでないか」
だんな
きら
「はあ、その花で御座いますか。 旦 那 様は百合の花はお 嫌 ひで?」
にほひ
「いや、 匂 が強くて、頭痛がして成らんから」
ぢき
たつた
はやざき
「さやうで御座いますか。唯今 直 に片付けますです。これは 唯 一つ 早 咲 で、
めづらし
いたづら
珍 う御座いましたもんですから、先程折つてまゐつて、
徒
に挿して置いた
んで御座います」
「うう、成程、早咲だね」
「さやうで御座います。来月あたりに成りませんと、余り咲きませんので、これが
たつた
まぐ ざき
唯 一つ有りましたんで、 紛 れ 咲 なので御座いますね」
「うう紛れ咲、さうだね」
「御案内致しませう」
い
ひとり
まづ
ま ひとも
うすくらがり ゆぶね
風呂場に入れば、 一 箇 の客 先 在りて、未だ 燈 点 さぬ 微
黯 の湯 槽に
ひた
きた
おどろ
おぼし
はなは せは
漬 りけるが、何様人の 来 るに 駭 けると 覚 く、 甚 だ 忙 しげに身を起し
ぢき
ひとし ながし かたすみ
そびら
つ。貫一が入れば、 直 に上ると 斉 く 洗 塲 の 片 隅 に寄りて、色白き 背 を
こなた
此 方 に向けたり。
としのころ
かよわ
こづくり
しきり
年
紀 は二十七八なるべきか。やや 孱 弱 なる 短 躯 の男なり。 頻 に
とみかうみ
あからさま
おもて さだ
左 視 右 胆 すれども、 明 々 地 ならぬ 面 貌 は 定 かに認め難かり。されども、
おのづか みしりごし
あきらか
ゆゑ
さく
かたち
自 ら 見 識 越 ならぬは
明
なるに、何が 故 に人目を 避 るが如き 態
な
きやしや
かたちづくり
らあたり
なにびと
を作すならん。 華 車 なる 形
成 は、ここ 等 辺 の人にあらず、 何 人 に
して、何が故になど、貫一は
いたづら こころひか
徒
に 心
牽 れてゐたり。
こなた
やがて彼が出づれば、待ちけるやうに男は入替りて、なほ飽くまで 此 方 を向かざら
しめやか ゆ つか
んと為つつ、 蕭 索 に浴を 行 ふ音を立つるのみ。
はだ
にげな
ほねほそ
や
その 膚 の色の男に似気無く白きも、その 骨 纖 に肉の痩せたるも、又はその
ふるまひ うちしめ
おそ
けしき
すべ おのづか ただ
挙 動 の 打 湿 りたるも、その人を 懼 るる 気 色 なるも、 総 て
自
ら尋常
ならざるは、察するに精神病者の
たぐひ
類 なるべし。さては何の怪むところ有らん。節は
ま
りようりよう
きた とま
初夏の未だ寒き、この 寥
々 たる山中に 来 り 宿 れる客なれば、保養鬱散の為
こころと
ならずして、湯治の目的なるを思ふべし。誠にさなり、彼は病客なるべきをと 心 釈
ひま
ゆあ
かしゆかたひきまと
けては、はや目も遣らずなりける 間 に、男は 浴 み果てて、 貸 浴 衣 引 絡 ひつ
つ出で行きけり。
こまやか
うたたはげし
てずくな
暮色はいよいよ 濃
に、 転
激 き川音の寒さを添ふれど、 手 寡 なれば
あかり
きた
ゆのか
むしのぼ けむり
ひと
うづくま
燈 も持 来 らず、 湯 香 高く 蒸 騰 る 煙 の中に、 独 り影暗く
蹲
る
や
すこし すさまじ
とこのま
も、 少 く
凄
き心地して、程無く貫一も出でて座敷に返れば、 床 間 には百
こうこう
ともしび
ぜん
かたはら
合の花も在らず 煌 々 たる 燈 火 の下に座を設け、 膳 を据ゑて
傍
に
てあぶり
じきろう
とりそろ
つかれ
手 焙 を置き、茶器 食 籠 など 取 揃 へて、この一目さすがに旅の 労 を忘る
べし。
いこう
どてら かつ
ゆふびえ
こひし
たばこ
先づ 衣 桁 に在りける 褞 袍 を 被 ぎ、 夕 冷 の火も 恋 く引寄せて 莨 を
ふか
しづか いはばし
こずゑ
吃 しゐれば、天地 静 に 石 走 る水の響、 梢 を渡る風の声、
さつさつそうそう
颯 々 淙 々 と鳴りて、幽なること太古の如し。
たちま
あしおと
ひ
こをんな ゆふげ
乍 ちはたはたと 跫 音 長く廊下に曳いて、先のにはあらぬ 小 婢 の 夕 餉 を
きた
そこ
あるじ
運び 来 れるに引添ひて、其処に出でたる宿の 主 は、
こんにち よ
おこ
おつかれさま
「 今 日 は好うこそ御越し下さいまして、さぞ 御 労 様 でゐらつしやいませうで
くだ
はなは
御座ります。ええ、又唯今程は格別に御茶料を 下 し置れまして、 甚 だ恐入りまし
ありがた
た儀で、 難 有 う存じまして、厚く御礼を申上げまするで御座います。
ぜんもつ
わび
ええ 前 以 てお 詑 を申上げ置きまするのは、召上り物のところで御座りまして一
向はや御覧の通何も御座りませんで、誠に相済みません儀で御座いまするが、実は、未
ちよつ
こし
とう
些 と時候もお早いので、自然お客様のお 越 も御座りませんゆゑ、何分用意 等
だ
いちりようにち
そまつ
も致し置きませんやうな次第で、然し、 一 両 日 中にはお 麁 末 ながら何ぞ差上
こんみようにち
げまするやうに取計ひまするで御座いますで、どうぞ、まあ 今 明 日 のところは
ごゆるり ごとうりゆう
御勘弁を下さいまして、 御 寛 と 御 逗 留 下さいまするやうに。――これ、早う
おみおつけ
か
御 味 噌 汁 をお易へ申して来ないか」
あるじ
いはゆる
わん
主 の辞し去りて後、貫一は彼の 所 謂 何も無き、 椀 も皿も皆黄なる
たまごいつしき
鶏 子 一 色 の膳に向へり。
いくたり
「内にはお客は今 幾 箇 有るのだね」
こちら
ひとかた
「 這 箇 の外にお 一 方 で御座りやす」
ひとり
「一 箇?
ひとり
あのお客は 単 身 なのか」
「はい」
さつき
ちよつ あ
先 に湯殿で 些 と遇つたが、男の客だよ」
「
「さよで御座りやす」
「あれは病人だね」
ね
「どうで御座りやすか。――そんな事無えで御座りやせう」
どこ わる
「さうかい。何処も不良いところは無いやうかね」
ね
「無えやうで御座りやすな」
「どうも病人のやうだが、さうでないかな」
「ああ、旦那様はお医者様で御座りやすか」
ふんぱん
貫一は覚えず 噴 飯 せんと為つつ、
「成程、好い事を言ふな。俺は医者ぢやないけれど、どうも見たところが病人のやうだ
から、さうぢやないかと思つたのだ。もう長く来てゐるお客か」
きのふ いで
「いんえ、 昨 日 お 出 になりやしたので」
「昨日来たのだ? 東京の人か」
「はい、日本橋の方のお方で御座りやす」
あきんど
「それぢや 商 人 か」
「私能く知りやせん」
「どうだ、お前達と懇意にして話をするか」
「そりやなさりやす」
どつち
「俺と 那 箇 が為る」
「旦那様とですけ? そりや旦那様のやうにはなさりやせん」
しやべり
「うむ、さうすると、俺の方がお 饒 舌 なのだな」
あちら
「あれ、さよぢや御座りやせんけれど、 那 裏 のお客様は黙つてゐらつしやる方が多う
つれさま ぢき
はず
えら
御座りやす。さうして何でもお 連 様 が 直 にいらしやる 筈 で、それを、まあ 酷
いで
う待つてお 在 なさりやす」
つれ
ごちそう
「おお、 伴 が後から来るのか。いや、大きに 御 馳 走 だつた」
そまつさま
「何も御座りやせんで、お 麁 末 様 で御座りやす」
をんな
ころり ね
婢 は膳を引きて起ちぬ。貫一は 顛 然 と臥たり。
おほがまへ
さびしさ
二十間も座敷の数有る 大
構 の内に、唯二人の客を宿せるだに、 寂 寥 は既に
余んぬるを、この深山幽谷の暗夜に
おほは
かたほとり よ
蔽 れたる孤村の 片
辺 に倚れる清琴楼の間
わた
いかばかり
おそろし
毎に 亘 る長廊下は、星の下行く町の小路より、 幾
許 心細くも 可 恐 き夜道な
とひとへそと
やまおろし
ふきめぐ
らんよ。 戸 一 重 外 には、 山
颪 の絶えずおどろおどろと 吹 廻 りて、早瀬の
たかなり
おも
波の 高 鳴 は、真に放鬼の名をも 懐 ふばかり。
はひふき
ふたま
しめやか
折しも 唾 壺 打つ音は、 二 間 ばかりを隔てて甚だ 蕭 索 に聞えぬ。
なに ゆゑ
貫一は 何 の 故 とも知らで、その念頭を得放れざるかの客の身の上をば、独り様々
し
せ
おそ
に案じ入りつつ、彼既に病客ならず、又我が識る人ならずと為ば、何を以つて人を 懼
かたち な
そもそ
とが
るる 態 を作すならん。 抑 も彼は何者なりや。又何の 尤 むるところ有りて、さ
ばかり人を懼るるや。
かぎ
とさまかうさま
もさく おもひ
貫一はこの秘密の 鑰 を獲んとして、 左 往 右 返 に暗中 摸 索 の 思 を費すな
りき。
(二)の二
あく あした
ま
はたおり すみずみ
ひとわたりみめぐ
明 る 朝 の食後、貫一は先づこの狭き 畑 下 戸 の 隅 々 まで 一
遍 見 周
ほ
いへがら
かはら
りて、略ぼその状況を知るとともに、清琴楼の 家 格 を考へなどして、 磧 に出づ
かか
ふぜい
さんろく
れば、浅瀬に 架 れる板橋の 風 情 面白く、渡れば喜十六の 山 麓 にて、十町ばかり
すまき たき
つひ そこ
ひる
登りて 須 巻 の 滝 の湯有りと教へらるるままに、 遂 に其処まで往きて、 午 近き頃
宿に帰りぬ。
すれちがひ
汗を流さんと風呂場に急ぐ廊下の 交
互 に、貫一はあたかもかの客の湯上りに出
おもて
あわただし うちそむ
会へり。こたびも彼は 面 を見せじとやうに、 慌
忙 く 打 背 きて過行くなり。
今は疑ふべくもあらず、彼は
まさし
すなは
正 く人目を避けんと為るなり。 則 ち人を懼るる
とがむ
いよい
なり。故は、自ら 尤 るなり。彼は果して何者ならん、と貫一は 愈 よ深く怪みぬ。
きのふ
たそがれ くらがり
さやか かほかたち
昨 日 こそ 誰 乎 彼 の
黯
にて、 分 明 に 面
貌 を弁ぜざりしが、今の一目
みづから
くし
うち
躬
も奇なりと思ふばかり 奇 くも、彼の不用意の 間 に速写機の如き力を以
は、
きた
すべ のが
とら
てして、その映じ 来 りし形を 総 て 脱 さず 捉 へ得たりしなり。
そうぼう べつけん よ
ただ
うらな
こころむ
貫一はその 相 貌 の 瞥 見 に縁りて、 直 ちに彼の性質を 占 はんと
試
みきは
るまでに、いと善く 見 極 めたり。されども、いかにせん、彼の相するところは始に疑
すこぶ
も まこと
せ
ひしところと 頗 る一致せざる者有り。彼若し 実 に人を懼るると為ば、彼の人を
ゆゑん
な
あるひ ややおもむき
懼るる 所 以 と、我より彼の人を懼るる所以と為す者とは、 或 は 稍
趣
を
こと
とがむ
た
異 にせざらんや。又想ふに、彼は決して自ら 尤 るところなど有るに非ずして、止
せい シャ゗
ふたつ さき
だその 性 の 多 羞 なるが故のみか、未だ知るべからず。この 二 者 の 前 のをも取り
難く、さすがに後のにも
うなづ
あらた うちまど
頷 きかねて、彼は又 新 に 打 惑 へり。
ひるめし
としかさ をんな
よそ
午 飯 の給仕には 年 嵩 の 婢 出でたれば、余所ながらかの客の事を問ひける
はし
に、 箸 をも取らで今外に出で行きしと云ふ。
めし
「はあ、 飯 も食はんで?
どこ
何処へ行つたのかね」
きのふ
つれさま
いで はず
「何でも 昨 日 あたりお 連 様 がお 出 の 筈 になつてをりましたので御座いませう。
それを大相お待ちなすつてゐらつしやいましたところが、到頭お着が無いもんで御座い
けさ
あそば
ステエション
ますから、今朝から御心配 遊 して、 停 車 場 まで様子を見がてら電報を掛けに
おつしや
行くと 有 仰 いまして、それでお出ましに成つたので御座います」
も
「うむ、それは心配だらう。能く有る事だ。然し、飯も食はずに気を揉んでゐるとは、
つれ
としより
をんな
どう云ふ 伴 なのかな。―― 年 寄 か、 婦 ででもあるか」
いかが
「 如 何 で御座いますか」
「お前知らんのか」
わたくし
私
存じません」
「
かたむ
彼は覚えず小首を 傾 くれば、
だんな
「 旦 那 も大相御心配ぢや御座いませんか」
おれ
「さう云ふ事を聞くと、 俺 も気になるのだ」
よつぽど
「ぢや旦那も 余 程 苦労性の方ですね」
「大きにさうだ」
「それぢやお連様がいらしつて見て、お年寄か、お友達なら
よろし
宜 う御座いますけれど、
あなた
うつくし
もしも、ねえ、 貴 方 、お
美
い方か何かだつた日には、それこそ旦那は大変で御
座いますね」
「どう大変なのか」
「又御心配ぢや御座いませんか」
「うむ、大きにこれはさうだ」
かぜしづか
かを
ひより こそばゆ
風
恬 に草 香 りて、唯居るは惜き 日 和 に 奇 痒 く、貫一は又出でて、塩釜
かへ
さびし
の西南十町ばかりの山中なる塩の湯と云ふに遊びぬ。 還 れば 寂 く夕暮るる頃なり。
い
あが
ぢき ぜん もちい
あかし
かがや
例の如く湯に入りて、 上 れば 直 に 膳 を 持 出 で、 燈 も漸く 耀 きしに、か
いま
こ
の客、 未 だ帰り来ず、
しづか
まる
ひとりぼつち
「 閑 寂 なのも可いけれど、外に客と云ふ者が無くて、 全 でかう 独 法 師 も随分
心細いね」
かごと
託 言 がましく貫一は言出づれば、
「さやうでゐらつしやいませう、何と申したつてこの山奥で御座いますから。全体旦那
こころがけ
がお一人でゐらつしやると云ふお 心
懸 が悪いので御座いますもの、それは為方が
御座いません」
たかわらひ
婢はわざとらしう 高
笑 しつ。
「成程、これは恐入つた。今度から善く心得て置く事だ」
おつしや
あした
よびよせ
いかが
「今度なんて 仰 有 らずに、旦那も 明 日 あたり電信でお 呼 寄 になつたら 如 何
で御座います」
ばあや
「五十四になる 老 婢 を呼んだつて、お前、始らんぢやないか」
「まあ、旦那はあんな好い事を言つてゐらつしやる。その老婢さんの方でないのをお呼
びなさいましよ」
「気の毒だが、内にはそれつきりより居ないのだ」
ほか
「ですから、旦那、づつと 外 にお在んなさるので御座いませう」
いくら
「そりや外には 幾 多 でも在るとも」
「あら、御馳走で御座いますね」
「なあに、能く聴いて見ると、それが
みんな
皆 人の物ださうだ」
おつしや
「何ですよ、旦那。貴方、本当の事を 有 仰 るもんですよ」
うそ
わたし
なにし
「本当にも 嘘 にもその通だ。 私 なんぞはそんな意気な者が有れば、 何 為 にこん
な青臭い山の中へ遊びに来るものか」
「おや! どうせ青臭い山の中で御座います」
てんぐいわ
おそろし
「青臭いどころか、お前、 天 狗 巌 だ、七不思議だと云ふ者が有る、 可 恐 い山の
のそのそ ひま
かほ
たつたひとり や
中に違無いぢやないか。そこへ 彷 徨 、 閑 さうな 貌 をして 唯 一 箇 で遣つて
よくよく まぬけ
来るなんぞは、 能 々 の 間 抜 と思はなけりやならんよ」
「それぢや旦那は間抜なのぢや御座いませんか。そんな解らない事が有るものですか」
まぬけいちにん
「間抜にも大間抜よ。宿帳を御覧、東京 間 抜 一 人 と附けて在る」
そば
いただ
「その 傍 に小く、下女塩原間抜一人と、ぢや附けさせて 戴 きませう」
「面白い事を言ふなあ、おまへは」
せゐ
「やつぱり少し抜けてゐる所為で御座います」
をは
ゆあみ
しばらく
いま
彼は食事を 了 りて 湯 浴 し、 少 焉 ありて九時を聞きけれど、かの客は 未 だ帰
い
むなし
めぐ
らず。寝床に入りて、程無く十時の鳴りけるにも、水声 空 く楼を 繞 りて、松の嵐
ちんじよう
の 枕
上 に落つる有るのみなり。
とが
ささい
もこ
始よりその人を怪まざらんにはこの 咎 むるに足らぬ 瑣 細 の事も、大いなる糢糊の
な
うたがひ まなこ さへぎ きた
影を作して、いよいよ彼が
疑
の 眼 を 遮 り 来 らんとするなりけり。貫一
はほとほと疑ひ得らるる限疑ひて、
みづから
ぼう すぐ
はなはだし
躬
も其の 妄 に 過 るの 太
甚 きを驚け
や
るまでに至りて、始て罷めんと為たり。
つ
そもそ
ゆゑ
ひせき
これに亜いで、彼は 抑 も何の 故 有りて、 肥 瘠 も関せざるかの客に対して、か
くばかり軽々しく思を費し、又
おもひ かく
いはれな おのれ
念 を 懸 るの固執なるや、その 謂 無 き 己 を
ば、敢て自ら解かんと試みつ。
されども、人は往々にして自ら
ひきゐ
率 るその己を識る能はず。貫一は抑へて怪まざら
せ
んと為ば、理に於て怪まずしてあるべきを信ずるものから、又幻視せるが如きその大い
めいそう
てんめん
あるひ
なる影の 冥 想 の間に 纏 綿 して、 或 は理外に在る者有る無からんや、と疑は
かたはら
かへ
まどは
ざらんと為る 傍
より 却 りて 惑 しむるなり。
おもてばしご
かか
つか
な
表 階 子 の口に 懸 れる大時計は、病み 憊 れたるやうの鈍き響を作して、廊下
やみ さまよ
まさ
の 闇 に 彷 徨 ふを、数ふれば 正 に十一時なり。
しんこう
いま
こ
かの客はこの 深 更 に及べども 未 だ帰り来ず。
おもひはな
彼は帰り来らざるなるか、帰り得ざるなるか、帰らざるなるかなど、又 思
放 つ
ねぐるし
あまたたびか
能はずして、貫一は 寝 苦 き枕を 頻
回 易へたり。今や十二時にも成りなんにと
つひ ねむり
ひだか
心に懸けながら、その音は聞くに及ばずして 遂 に 眠 を催せり。 日 高 き朝景色の
こをんな ぞうきんがけ
前に起出づれば、座敷の外を 小 婢 は 雑 巾 掛 してゐたり。
「お早う御座りやす」
ねむ
「 睡 さうな顔をしてゐるな」
よんべあちら
かへり
「はい、 昨 夜 那 裏 のお客様がお 帰 になるかと思つて、遅うまで待つてをりやし
たで、今朝睡うござりやす」
ゆふべ
「ああ、あのお客は 昨 夜 は帰らずか」
かへり
「はい、お 帰 が御座りやせん」
あけはな
くはへようじ
てすりづた
貫一はかの客の間の障子を 開 放 したるを見て、 咥 楊 枝 のまま 欄 杆 伝 ひ
おもて
ふり
すぐ
あづきがは てかばん
外 を眺め行く 態 して、その前を 過 れば、床の間に 小 豆 革 の 手 鞄 と、
に
あさぎ
なら
そば
ひつつく
浅 黄 キャリコの風呂敷包とを 並 べて、 傍 に二三枚の新聞紙を 引 ※ [#「捏」の
いこう
あはせ
すそ
衣 桁 に絹物の 袷 を懸けて、その 裾 に紺の靴下
「日」に代えて「臼」、418-16]ね、
を畳置きたり。
すこし ほいな
みいだ
さては 少 く本意無きまでに、座敷の内には 見 出 すべき異状も有らで、彼は宿帳
よ
あへ そむ
に拠りて、洋服仕立商なるを知りたると、 敢 て 背 くところ有りとも覚えざるなりき。
もど
こころひそか
いりほが
拍子抜して 返 れる貫一は、 心
私 にその臆測の
鑿
なりしをぢざるにも
ただ
ぬれぎぬ はぎさ
あらざれど、又これが為に、 直 ちに彼の 濡 衣 を 剥 去 るまでに釈然たる能はずし
まちびと いか
て、好し、この上はその 待 人 の如何なる者なるかを見て、疑は決すべしと、やがて
もたら きた
かへり
いとさら
その消息を 齎 し 来 るべき彼の 帰 来 の程を、陰ながら 最 更 に遅しと待てり。
さんせいもくび
いんしんせいゆう
こら
夜は 山 精 木 魅 の出でて遊ぶを想はしむる、 陰 森 凄 幽 の気を 凝 すに反
せいろう
めいびいかで が し
してこの 霽 朗 なる昼間の山容水態は、 明 媚 争 か画も如かん、天色大気も
ほとん じんきよういがい
こがね おりな
うすもの
殆 ど 塵 境 以 外 の感無くんばあらず。 黄 金 を 織 作 せる
羅
にも似た
うるはし
かうむ
ばんこく
らんとう
麗
き日影を 蒙 りて、 万 斛 の珠を鳴す谷間の清韻を楽みつつ、 欄 頭
る
こうこつ
あわただし あしおと
の山を枕に 恍 惚 として消ゆらんやうに覚えたりし貫一は、 急
遽 き 跫 音 の
うごか きた
おどろか
おきかへ
かしら ねぢむく
廊下を 動 し 来 るに
駭
されて、 起 回 りさまに 頭 を 捻 向 れば、何
としかさ をんな かけつく
事とも知らず、 年 嵩 の 婢 の 駈 着 るなり。
ちよい
些 と旦那、参りましたよ、参りましたよ!
「
と早く」
早くいらしつて御覧なさいまし。些
「何が来たのだ」
「何でも可いんですから、早くいらつしやいましよ」
「何だ、何だよ」
はしご
「早く 階 子 の所へいらしつて御覧なさい」
「おお、あの客が還つたのか」
彼ははや飛ぶが如くに引返して、貫一の
ことば
言 は五間も後に残されたり。彼が注進の
す
おもてはしご あたり
模様は、見るべき待人を伴ひ帰れるならんをと、直ぐに起ちて 表 階 子 の 辺 に
おそ ふたり
てすり
あらは
行く時、既に 晩 し 両 箇 の人影は 欄 の上に 顕 れたり。
つばひろ
あゐねずみ なかをれぼう まへのめり かむ
おもて
鍔 広 なる 藍
鼠 の 中 折 帽 を 前
斜 に 冠 れる男は、例の 面 を
はたち
べ
見せざらんと為れど、かの客なり。引連れたる女は、二十歳を二つ三つも越したる可し。
いてふがへし ひつつ
ほんこうまきゑ さしぐしねぶか
銀 杏 返 を 引 約 めて、 本 甲 蒔 絵 の 挿 櫛 根 深 に、大粒の
うすいろめのう きんあし うしろざし ついしゆぼり たまねがけ
びん
淡 色 瑪 瑙に 金 脚 の 後
簪 、 堆 朱 彫 の 玉 根 掛 をして、 鬢 の
いつぱつ
きは
な
えびちや ほそごうし しまおめし
一 髪 をも乱さず、 極 めて快く結ひ做したり。 葡 萄 茶 の 細 格 子 の 縞 御 召
かついろうら あはせ
こもんちりめん ひとつもん オランダ
に 勝 色 裏 の 袷 を着て、羽織は 小 紋 縮 緬 の 一
紋 、 阿 蘭 陀 模様の
しつちん ふくさおび きんぐさり ほそ
なまめかし
七 糸 の 袱 紗 帯 に 金 鎖 子 の 繊 きを引入れて、
嬌
き友禅染の
じゆばん そで
ぬぐ
しきぶくろ ひもみじ
さ
ふ
襦 袢 の 袖 して口元を 拭 ひつつ、 四 季 袋 を 紐 短 かに挈げたるが、弗と
こなた
あを
べに さ
うらさびし
此 方 を見向ける素顔の色 蒼 く、口の 紅 も点さで、やや 裏
寂 くも花の咲過ぎ
やつれ
へん
いろかなほこまやか
そぞ
たらんやうの 蕭 衰 を帯びたれど、美目の 盻 たる 色 香 尚
濃 にして、 漫 ろ
人に染むばかりなり。
ふたり
あらは
きおくれ
両 箇 は彼の見る目の 顕 露 なるに 気 怯 せる様子にて、先を争ふ如く足早に過行
ほうちやく
くはし
きぬ。貫一もまたその 逢
着 の唐突なるに打惑ひて、なかなか 精 く看るべき
いとま
ひと
遑 あらざりけれど、その女は万々彼の妻なんどにはあらじ、と 独 り合点せり。
第三章
なんによ
た
まじ
ひそやか
かの 男 女 はしさに堪へざらんやうに居寄りて、手に手を 交 へつつ 密 々 に語
れり。
あなた
「さうなの、だから私はどんなに心配したか知れやしない。なかなか 貴 方 がここで想
し
つてゐるやうな訳に行きは為ませんとも。そりや貴方の心配もさうでせうけれど、私の
い
心配と云つたら、本当に無かつたの。察しるが可いつて、そりや貴方、お互ぢやありま
ああ
どきどき
おつか
せんか。 吁 、私は今だに胸が 悸 々 して、後から 追 掛 けられるやうな気持がして、
何だか落着かなくて可けない」
あ
「まあ何でも、かうして約束通り逢へりや上首尾なんだ」
をととひ
「全くよ。 一 昨 日 の晩あたりの私の心配と云つたら、こりやどうだかと、さう思つた
くらゐ、今考へて見れば、自分ながら好く出られたの。やつぱり尽きない縁なのだわ」
ちよ
みや
ぬ
まぶた
ぬぐ
些 と男の顔を 盻 りて、濡るる 瞼 を軽く 拭 へり。
つまりふたり
つまり
おれ
「その縁の尽きないのが、 究 竟 彼 我 の身の 窮 迫 なのだ。 俺 もかう云ふ事に成ら
しかた
うとは思はなかつたが、成程、悪縁と云ふ者は 為 方 の無いものだ」
なほひそか
おもて そむ
女は 尚
窃 に泣きゐる 面 を 背 けたるまま、
ぢき
「貴方は 直 に悪縁だ、悪縁だと言ふけれど、悪縁ならどうするんです!」
「悪縁だからかうなつたのぢやないか」
「かう成つたのがどうしたんですよ!」
「今更どうするものか」
あたりまへ
「 当
然 さ!
貴方は一体水臭いんだ
」
しず
「おい、お 静 、水臭いとは誰の事だ」
な
まなこ
わ
色を作せる男の 眼 は、つと湧く涙に輝けり。
「貴方の事さ!」
はらはら こぼ
女の目よりは 漣 々 と 零 れぬ。
「俺の事だ
てめへ
お静…… 手 前 はそんな事を言つて、それで済むと思ふのか」
「済んでも済まなくても、貴方が水臭いからさ」
ま
「未だそんな事を言やがる!
さあ、何が水臭いか、それを言へ」
ひと
ぢき
「はあ、言ひますとも。ねえ、貴方は 他 の顔さへ見りや、 直 に悪縁だと云ふのが癖
ふたり
いは
ですよ。 彼 我 の中の悪縁は、貴方がそんなに 言 なくたつて善く知つてゐまさね。何
ひとり
い
いは
も貴方 一 箇 の悪縁ぢやなし、私だつてこれでも随分謂ふに 謂 れない苦労を為てゐる
はし
んぢやありませんか。それを貴方がさもさも迷惑さうに、何ぞの 端 には悪縁だ悪縁だ
きか
あんま い
とお言ひなさるけれど、 聞 される身に成つて御覧なさいな。 余 り好い心持は為や
しません。それも不断ならともかくもですさ、この場になつてまでも、さう云ふ事を言
ふのは、貴方の心が水臭いからだ――何がさうでない事が有るもんですか」
「悪縁だから悪縁だと言ふのぢやないか。何も迷惑して……」
「悪縁でも可ござんすよ!」
あひそむ
しばら ことばな
彼等は 相 背 きて 姑 く 語 無 かりしが、女は忍びやかに泣きゐたり。
「おい、お静、おい」
「貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私
はどうせう。情無い!」
つひ
おほ
お静は 竟 に顔を 掩 うて泣きぬ。
「何だな、お前も考へて見るが可いぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこ
なか
そ、世間を狭くするやうな 間 にも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。
うそ
いは
くやし
それを 嘘 にも水臭いなんて 言 れりや、俺だつて 悔 いだらうぢやないか。余り悔
くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだか
ら、さう思つてゐてくれ」
さやま
「 狭 山 さん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか」
「お前が言出すからよ」
「だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情無くなつて、どう
したら可からうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから
ちよい
山さん、 些 と」
うちまも
ぼうぜん
お静の顔を 打 矚 りつつ、男は 茫 然 たるのみなり。
あやま
謝 ります。ねえ、狭
「狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね」
ふたり
「知れた事さ、 彼 我 の身の上をよ」
「何だつてそんな事を考へてゐるの」
「…………」
「今更何も考へる事は有りはしないわ」
おもむろ
うつ
といき
狭山は 徐 々 に目を 転 して、 太 息 をいたり。
ためいき
「もうそんな 溜 息 なんぞを
よ
くのはお舎しなさいつてば」
「お前二十……二だつたね」
「それがどうしたの、貴方が二十八さ」
「あの時はお前が十九の夏だつけかな」
あはせ
こげつ
「ああ、さう、何でも 袷 を着てゐたから、丁度今時分でした。 湖 月 さんのあの池
さ
あつたか
に好いお月が映してゐて、
暖
い晩で、貴方と一処に涼みに出たんですよ、善く覚
まる
えてゐる。あれが十九、二十、二十一、二十二と、 全 三年に成るのね」
きのふ
「おお、さうさう。 昨 日 のやうに思つてゐたが、もう三年に成るなあ」
「何だか、かう全で夢のやうね」
ああ
「 吁 、夢だなあ!」
「夢ねえ!」
「お静!」
「狭山さん!」
ふたり
と
ひざ
なおかなし
両 箇 は手を把り、 膝 を重ねて、同じ思を 猶
悲 く、
「ゆ……ゆ……夢だ!」
「夢だわ、ねえ!」
声立てじと男の胸に泣附く女。
みんな
あいつ
「かう成るのも 皆 約束事ぢやあらうけれど、 那 奴 さへ居なかつたら、貴方だつて
余計な苦労は為はしまいし。私は私で、ああもかうも思つて、末始終の事も大概考へて
いつか
置いたのだから、もう少しの間時節が来るのを待つてゐられりや、 曩 日 の
おみくじどほり
あいつ
御 神 籤 通 な事に成れるのは、もう目に見えてゐるのを、 那 奴 が邪魔して、
よこがみ
横 紙 を裂くやうな事を為やがるばかりに大事に為なけりや成らない貴方の体に、取
つて返しの付かない傷まで附けさせて、私は、狭山さん、
あんま
余 り申訳が無い!
かん
にん
堪 …… 忍 ……して下さい」
「そりやなあに、お互の事だ」
「いいえ、私がもう少し意気地が有つたら、かうでもないんだらうけれど、胸には色々
はめ
在つても、それが思切つて出来ない性分だもんだから、ついこんな破滅にも成つて了つ
て、私は実に済まないと、自分の身を考へるよりは、貴方の事が先に立つて、さぞ陰ぢ
いで
たんび
いつ
や迷惑もしてお 在 なんだらうに、逢ふ 度 に私の身を案じて、 毎 も優くして下さ
あだ おろか
うれし
ありがた
るのは 仇 や 疎 な事ぢやないと、私は 嬉 いより 難 有 いと思つてゐます。だ
ぢき
ものだから、近頃ぢや、貴方に逢ふと 直 に涙が出て、何だか悲くばかりなるのが不思
やつぱり
しらせ
議だと思つてゐたら、 果 然 かう云ふ事になる 讖 だつたんでせう。
ひ
貴方にはお気の毒だ、お気の毒だ、と始終自分が退けてゐるのに、悪縁だなんぞと言
れると、私は体が縮るやうな心持がして、ああ、さうでもない、貴方が迷惑してゐるば
いで
かりなら未だ可いけれど、取んだ者に懸り合つた、ともしや後悔してお 在 なんぢやな
さつき
からうかと思ふと、私だつて好い気持はしないもんだから、つい 向 者 はあんなに言過
ちがひな
ぎて、私は誠に済みませんでした。それはもう貴方の言ふ通り悪縁には 差 無 いんだ
いや
けれど、後生だからそんな可厭な事は考へずにゐて下さい。私はこれで本望だと思つて
ゐる」
なまき さ
まし
「 生 木 を割いて別れるよりは、まあ 愈 だ」
「別れる?
ああ
吁 !
いや
可厭だ!
ぞつ
考へても慄然とする!
切れるの、別れるのなんて事
あいつ
は、 那 奴 が来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの
あげく
位内で責められたか知れやしない。さうして 挙 句 がこんな事に成つたのも、想へば
みんな
くやし
皆 那奴のお蔭だ。ええ、 悔 い!
とつつ
うらみ
私はきつと 執 着 いても、この 怨 は返し
や
て遣るから、覚えてゐるが可い!」
ふるは
ののし
おもひい
のろ
な
女は身を 顫 せて 詈 るとともに、 念 入 りて 呪 ふが如き血相を作せり。
しらず
ののし
いづく だれ
不 知 、この恨み、 詈 り、呪はるる者は、 何 処 の 誰 ならんよ。
「那奴も好加減な馬鹿ぢやないか!」
はがみ
ししよう
男は 歯 咬 しつつ苦しげに 嗤 笑 せり。
「馬鹿も大馬鹿よ! 方図の知れない馬鹿だわ。畜生!
いろ
なび
所歓の有る女が金で 靡 くか、
ちつと
いや
靡かないか、 些 は考へながら遊ぶが可い。来りや不好な顔を為て遣るのに、それさ
しまひ
へ解らずに、もうく附けつ廻しつして、 了 局 には人の恋中の邪魔を為やがるとは、那
よ
げいなしざる
奴も能く能くの 芸 無 猿 に出来てゐるんだ。憎さも憎し、私はもう悔くて、悔くて、
おきみやげ
ぶちわ
狭山さん、実はね、私はこの世の 置 土 産 に、那奴の額を 打 割 つて来たんでさね」
「ええ、どうして!」
あくるひ
のべつ
「なあにね、貴方に別れたあの 翌 日 から、 延 続 に来てゐやがつて、ちつとでも
そば
こつち
傍 を離さないんぢやありませんか。 這 箇 は気が気ぢやないところへ、もう
わるしつこ
たま
い
に
すぐ おつか
悪 漆 膠 くて 耐 らないから、病気だと謂つて内へ遁げて来りや、 直 に 追 懸 けて
つきまと
ちやん わたり
来て、 附 絡 つてゐるんでせう。さうすると寸法は知れてまさね、 丁 と 渉 が
おつか
そば
まじめ
付いてゐるんだから、 阿 母 さんは 傍 から『ちやほや』して、そりや貴方、真面目ぢ
てあつ
や見ちやゐられないお 手 厚 さ加減なんだから、那奴は図に乗つて了つて、やあ、風呂
わか
ひや
ひとり
し
を 沸 せだ事の、ビ゗ルを 冷 せだ事のと、あの狭い内へ 一 個 で幅を為やがつて、な
いご
かなか 動 きさうにも為ないんぢやありませんか。
いけどり
こつち
私は全で 生 捕 に成つたやうなもので、出るには出られず、 這 箇 の事が有るから、
そら
も
ほんと
さうしてゐる 空 は無し、あんな気の揉めた事は有りはしない―― 本 当 にどうせうか
おつぽりだ
お
こつち かいまき
と思つた。ええ、なあに、あんな奴は 打 抛 出 して措いて、 這 箇 は 掻 巻 を
ひつかぶ
じ
引 被 つて一心に考へてゐたんですけれど、もう憤れたくて耐らなくなつて来たから、
いつそ
よつぽど
たんこ
不 如 かまはず飛出して了はうかと、 余 程 さう念つたものの、 丹 子 の事も、ねえ、
かはい
たより
考へて見りや 可 哀 さうだし、あの子を始め阿母さんまで、私ばかりを 頼 に為てゐ
な
るものを、さぞや私の亡い後には、どんなにか力も落さうし、又あの子も為ないでも好
ひか
い苦労を為なけりやなるまいと、そればかりに 牽 されて、色々話も有るものだから、
あの子の阿母さんにも逢つて遣りたし、それに、私も出るに就いちや、為て置かなけり
ぐづぐづ
でそこな
やならない事も有るし為るので、到頭 遅 々 して 出 損 つて了つたんです。
さうすると、どうでせう、まあ、那奴はその晩二時過までうで付いてゐて、それで
かへ
あくるひ
も不承々々に 還 つたのは可い。すると 翌 日 は半日阿母さんのお談義が始まつて、
りようけん
好加減に 了
簡 を極めろでせう。さう言つちや済まないけれど、育てた恩も聞飽き
おつくりかへ
ひつくりかへ
あくたいまじ
てゐるわ。それを 追 繰 返 し、 引 繰 返 し、 悪 体 交 りには、散々聴せて、
しまひ
あしげ
ぶた
了 局 は口返答したと云つて 足 蹴 にする。なあに、私は足蹴にされたつて、 撲 れた
こつち
つて、それを悔いとは思やしないけれど、 這 箇 だつて貴方と云ふ者が有ると思ふから、
かせ
ちやん
もう一生懸命に 稼 いで、為るだけの事は 丁 と為てあるのに、何ぼ慾にきりが無い
いひじよう
ひと
ちつと
と謂つても、自分の 言
条 ばかり通さうとして、 他 には 些 でも楽を為せない
かね
こきつか
算段を為る。私だつて金属で出来た機械ぢやなし、さうさう 駆 使 はれてお為にばか
こつち
り成つてゐちや、 這 箇 の身が立ちはしない。
別にどうしてくれなくても、訳さへ解つてゐてくれりや、辛いぐらゐは私は辛抱する。
いろ せ
だんなとり
いや まね
所歓は堰いて了ふし、 旦 那 取 は為ろと云ふ。そんな不可な真似を為なくても、立派
に行くやうに私が稼いであるんぢやありませんか。それをさう云ふ無理を言つてからに、
素直でないの、馬鹿だのと、足蹴に為るとは……何……何事で……せう!
かつ
それぢや私も 赫 として、もう我慢が為切れなく成つたから、物も言はずに飛出さう
あいつ
つかま
と為る途端に、運悪く又 那 奴 が遣つて来たんぢやありませんか。さあ、 捉 つて了
そこ ばつ にげ
おつか
え
かしこ
つて、其処の場図で 迯 るには迯られず、 阿 母 さんは得たり 賢 しなんでせう、一
やかまし
処に行け行けと 聒
く言ふし、那奴は何でも来いと云つて放さない。私も内を出た
方が都合が好いと思つたから、まあ言ふなりに成つて、例の処へられて行つたとお思ひ
ながちり
おもはく
なさい。あの 長 尻 だから、さあ又還らない、さうして何か 所 思 でも有つたんで
むやみ
しひ
こつち
せうよ、何だか知らないけれど、その晩に限つて 無 闇 とお酒を 強 るんでさ。 這 箇
むしやくしやばら
いくら
も 鬱
勃
肚 で、飲めも為ないのに 幾 多 でも引受けたんだけれど、酔ひさうに
も為やしない。
そろそろ
きま
きざ
こつち
その内に 漸 々 又お 極 りの気障な話を始めやがつて、 這 箇 が柳に受けて聞いて
あき
まね
ゐて遣りや、可いかと思つて増長して、 呆 れた真似を為やがるから、性の付く程
つけつけ
やけ
どくつ
諤 々 さう言つて遣つたら、さあ自棄に成つて、それから 毒 吐 き出して、やあ店番
ほこりかぶり
ひやめしくら
やとひにん
埃
被 だの、 冷 飯 吃 ひの 雇
人 がどうだのと、聞いちやゐられない
の
こつち
あくたい つ
やうな腹の立つ事を言やがるから、 這 箇 も思切つて随分な 悪 体 を吐いて遣つたわ、
私は。
しまひ
いくらじたばた
しば
さうすると、 了 局 に那奴は何と言ふかと思ふと、 幾 許 七顛八倒しても金で 縛 つ
き
て置いた体だなんぞ、と利いた風な事を言ふんぢやありませんか。だから、私はさう言
くら
つて遣つた、お気の毒だが、貴方は大方目が 眩 んで、そりやお袋を縛つたんだらうつ
て」
こきみよ
うなづ
聴ゐる狭山は小気味好しとばかりに 頷 けり。
あいつ すつかりおこ
さわぎ
「それで 那 奴 は 全 然 慍 つて了つて、それからの 騒 擾 でさ。無礼な奴だとか何
えり
ひきず たふ
とか言つて、私は 襟 を持つて 引 擦 り 仆 された。随分飲んでゐたから、やつぱり酔
まる
ただ
つてゐたんでせう。その時はもう 全 で夢中で、 唯 那奴の憎らしいのが胸一杯に
こみあ
こんちくしよう
いきなりそこ
よこつつら
込 上 げて、 這 畜 生 と思ふと、 突 如 其処に在つたお皿を那奴の 横
面
たたきつ
みけん ぶつか
だらだら
へ 叩 付 けて遣つた。丁度それが 眉 間 へ 打 着 つて血が 淋 漓 流れて、顔が半分
すき
真赤に成つて了つた。これは居ちや面倒だと思つたから、家中大騒を遣つてゐる 隙 を
そつ
ゆきどころ
おつか
見て、 窃 と飛出した事は飛出したけれど、別に 往
所 も無いから、丹子の 阿 母
かけこ
さんの処へ 駈 込 んだの。
ところが、好かつた事には、今旅から帰つたと云ふところなんで、時間を見ると、十
よつぽど
せ
どつちみち
時 余 程 廻つてゐるんでせう。はもう出ず、気ばかりは急くけれど、 若 箇 道 間に
合ふんぢやなし、それに話は有るし為るもんだから、一晩厄介に成る事にして、髪なん
ちつ
ぞを結んでもらひながら、 些 と訳が有つて、貴方と一処に当分身を隠すのだと云ふや
うに話を為てね、それから丹子の事も
くはし
悉 く言置いて遣りましたら――善い人ね、あ
の阿母さんは――おいおい泣出して、自分の子の事はふつつりとも言はずに、唯私の身
ああ
ばかりを案じて、ああのかうのと色々言つてくれたその実意と云つたら…… 噫 、同じ
人間でありながら、内の阿母さんは、実に、あなた、鬼ですわ!
私もあの子の阿母さ
んのやうな実の親が有つたらば、こんな苦労は為やしまいし、又貴方のやうな方の有る
おも
のを、さぞかし力に 念 つて、喜びも為やうし、大事にも為る事だらうと思つたら、も
いか
あんま
うもう悲くなつて、悲くなつて、如何に何でも 余 り情無くて、私はどんなに泣きま
したらう。
それに、私をばあんなに
たのみ
ゐなか
頼 に為てゐた阿母さんの事だから、当分でも 田 舎 へ行
つて了ふと云ふのを、それは心細がつて、力を落したの何のと云つたら、私も別れるの
ところ
が気の毒に成るくらゐで、先へ落付いたら、どうぞ一番に 住 所 を知せてくれ、
しよつちゆう
である
ぢき ごきげんうかが
初 中 終 旅を 出 行 いてゐる体だから、 直 に 御 機 嫌 伺 ひに出ると、その事
くれぐれ
びつくり
をあんなに 懇 々 も頼んでゐましたから、後で聞いたら、さぞ 吃 驚 して……きつ
わづら
かはい
いとし
疾 ひでも為るでせうよ。考へて見りや、丹子も 可 愛 し、あの阿母さんも 怜
と
ああ
いし。 吁 、吁!」
すすりなき
もだ
歔
欷 して彼は 悶 えつ。
なほさら
「さう云ふ訳ぢや、 猶 更 内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」
「大変でせうよ」
あんま ぐづぐづ
「それだと 余 り 遅 々 しちやゐられないのだ」
「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」
「さうだ」
「だからねえ、もう早い方が可ござんすよ」
むせ
そこ
しばたた
女は 咽 びて其処に泣伏しぬ。狭山は涙を
連
きて、
「お静、おい、お静や」
「あ……あい。狭山さん!」
あはれ
じようきはま
あひよう
ひつきよう
なげき
憐 むべし、 情
極 りて彼等の 相 擁 するは、 畢
竟 尽きせぬ 哀 歎
いだ
を 抱 くが如き者ならんをや。
(三)の二
ふたり こなた
あなた ひとり つれづれ
よ
両 箇 は 此 方 にかつ泣きかつ語れる間、 彼 方 の 一 箇 は 徒 然 の柱に倚りて、
やうやう傾く日影に照されゐたり。
いか
その待人の如何なる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし
あやしみ
女を見るにびて、その疑はいよいよ錯雑して、しかも新なる 怪 訝 の添はるのみなり。
いか
はなは すぐ
如何なればや、女の顔色も 甚 だ 勝 れず、その点の男といと善く似たるは、同じ
も まこと
憂を分つにあらざる無からんや。我聞く、犯罪の底には必ず女有りと、若し 信 なり
まさし かのをんな
いか
ゆゑ
とせば、彼は 正 く 彼
女 ゆゑに如何なる罪をも犯せるならんよ。その罪の 故
せ
あひあい
に男は苦み、その苦の故に女は憂ふると為ば、彼等は誠に 相 愛 するの堅き者ならず
や
哉。
なに
あひひきゐ
まれ
やまなか
きた
知らず、彼等は 何 の故に 相
率 てこの人目 稀 なる 山 中 には 来 れる。そ
の罪をれんが為か、その苦と憂とを忘れんが為か、
あるひ
或 はその愛を全うせんが為か、
あきらか
かくれあそび
明 に彼等は夫婦ならず、又は、女の芸者風なるも、決して尋常の 隠
遊 に
おのづ
あらは
なにら
あらずして、 自 から穂に 露 るるところ有り。さては 何 等 の密会ならん。
も
ぬす
はし
まづすい
な
貫一は彼を以て女を 偸 みて 奔 る者ならずや、と 先 推 しつつ、尚ほ如何にやな
ど、飽かず疑へる間より、
たちま
きらめ
おぼろ
くら
忽 ち一片の反映は 閃 きて、 朧 にも彼の胸の 黯
きを照せり。
おも
彼はこの際熱海の旧夢を 憶 はざるを得ざりしなり。
ほか
うべな
わづか
世上貫一の 外 に愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るを 諾 はずして、 僅
べつ
ふみにじ
をし
ああ
に一 瞥 の富の前に、百年の契を 蹂 躙 りて 吝 まざりき。 噫 我が当時の恨、彼が
こんにち
今 日 の悔!
かのをんな
てら
いざな
今 彼
女 は日夜に栄の 衒 ひ、利の 誘 ふ間に立ち、守るに難
い
したが
き節を全うして、世の容れざる愛に 随 つて奔らんと為るか。
しかおも
ひそか
ふたり
いまはし
爾 思 へる後の彼は、 陰 にかの 両 個 の先に疑ひし如き 可 忌 き罪人ならで、
いの
こひねが
潔く愛の為に奔る者たらんを、 祷 るばかりに
冀
へり。若しさもあらば、彼は
つぶさ
おも
具 に彼等の苦き身の上と切なる志とを聴かんと 念 ひぬ。
きずつ
ことさら
み
心永く 痍 きて恋に敗れたる貫一は、 殊 更 に他の成敗に就いて観るを欲せるな
おのれ
いかばかり
さち
り。彼は 己 の不幸の 幾
許 不幸に、人の 幸 の幾許幸ならんかを想ひて、又己
の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人
えにし
かは
なさけ
縁 の幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の 交 せる 情
の
さまたげ
の幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の 障 碍 の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許
ああ
狭からんかを想ひて。嗟呼、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の
つひ いか
末終に如何ならんかを想ひて。
つと
こも
ふたり
うちつ
昼間の程は 勗 めて 籠 りゐしかの 両 個 の、夜に入りて後 打 連 れて入浴せるを伺
ますま
さく
おも
ひ知りし貫一は、例の 益 す人目を 避 るならんよと 念 へり。
き しばらく
くみかは
還り来て 多 時 酒など 酌 交 す様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障
ともし
さやか
子を照す 燈 のみいと 瞭 に、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの
つひ ゑひ
吹絶えぬ松風に、彼等は 竟 に 酔 を成さざるならんと覚ゆばかりなりき。
な
と ふしど
わづか
ぢき
さ
為す事もあらねば、貫一は疾く 臥 内 に入りけるが、 僅 にむと為れば 直 に、寤
ねむり うす
めて、そのままに 睡 は 失 るとともに、様々の事思ひゐたり。
なんによ ひそめき も き
はなは かすか
夜の静なるを動かして、かの 男 女 の 細 語 は洩れ来ぬ。 甚 だ 幺 微 なれば
聞知るべくもあらねど、として絶えず枕に打響きては、なかなか大いなる声にも増して
みみわづら
耳
煩 はしかり。
いねがた
さ
さなきだに 寝 難 かりし貫一は、益す気の澄み、心の冱え行くに任せて、又
いたづら
みのうへ おしはか
おもひめぐ
徒 にとやかくと、彼等の 身 上 を 推 測 り推測り 思
回 らすの外はあら
あなた
かすか
や
たけ たんや
ず。 彼 方 もその 幺 微 なる声に語り語りて休まざるは、思の 丈 の 短 夜 に余らんと
するなるか。
たちま
ほとばし
がくぜん
乍 ち有りて、
迸
れるやうにその声はつと高く揚れり。貫一は 愕 然 とし
そばだ
にはか なきいだ
て枕を 欹 てつ。女は 遽 に 泣 出 せるなり。
こわね
ひと
ほしいま
なくね もら
その時男の 声 音 は全く聞えずして、唯 独 り女の
縦
まに 泣 音 を 洩 すのみ
いや
ゆゑ
とどろか
なる。寤めたる貫一は 弥 が上に寤めて、自ら 故 を知らざる胸を
轟
せり。
しばし
やうや
しめ がち
そ
少 焉 泣きたりし女の声は 漸 く鎮りて、又 湿 り 勝 にも語り初めしが、一たび
じよう
おのづ
情 の為に激せし声音は、 自 から始よりは高く響けり。されどなほその言ふとこ
かへ
さき
ほのか
ろは聞知り難くて、男の声は 却 りて 前 よりも 仄 なり。
しはぶ
貫一は 咳 きも遣らで耳を澄せり。
あるひ
つ
かひこ
う
或 は時に断ゆれども、又続ぎ、又続ぎて、彼等の物語は 蚕 の糸を吐きて倦ま
わた
ざらんやうに、限も知らず長く 亘 りぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、
あす あさつて
はなは
彼等はここに来つるにやあらん。されども、日は明日も 明 後 日 も有るを、 甚 だ
せはし
かな
まどほ
あふせ
忙 くも語るもの 哉 。さばかり 間 遠 なりし 逢 瀬 なるか、言はでは裂けぬる胸の
あきた
こひなか
内か、かく有らでは 慊 らぬ 恋 中 か、など思ふに就けて、彼はさすがに我身の
こんじやく
よぎひきかつ
ねがへ
今
昔 に感無き能はず、枕を引入れ、夜着 引 被 ぎて、 寐 返 りたり。
いつや
何時罷みしとも覚えで、彼等の寐物語は漸く絶えぬ。
はや
おきい
貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは 蚤 かりけれど、目覚めしままに 起 出 でし
あさびえ
おしあ
まなこ
朝 冷 を、走り行きて 推 啓 けつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし 眼 を
おどろか
なんによ ゆあみ
驚 して、かの 男 女 は 浴 しゐたり。
とざ
貫一ははたと 閉 して急ぎ返りつ。
第四章
ふたり
たれこ
ゆふべ いた
ぼさん
両 箇 はやや熱かりしその日も 垂 籠 めて 夕 に 抵 りぬ。むづかしげに 暮 山 を
めぐ
ひやひや そぼふ
ともしび
ふ
繞 りし雲は、果して雨と成りて、 冷 々 と 密 下 るほどに、宵の 燈 火 も影更け
うつろ
なまじ
よごろ
て、壁に 映 ふ物の形皆寂く、 憖 ひに起きて在るべき 夜 頃 ならず。さては貫一
まくら
枕 に就きたり。
も
ラムプを細めたる彼等の座敷も
はなは
ねいそ
甚 だ静に、宿の者さへ 寐 急 ぎて後十一時は鳴り
ぬ。
すさまじ
をやみ
やみつか
凄
き谷川の響に紛れつつ、 小 歇 もせざる雨の音の中に、かの 病 憊 れたる
たゆげ
ふたり ねや ともし たちま
やうの柱時計は、息も 絶 気 に半夜を告げわたる時、 両 箇 が 閨 の 燈 は 乍 ち
あきら
かがや
明 かに 耀 けるなり。
とも
ひばち
彼等は 倶 に起出でて 火 鉢 の前に在り。
ぜん
「 膳 を持つて来ないか」
「ええ」
かすか
うちしを
や
女は 幺 微 なる声して答へけれど、 打 萎 れて、なかなか立ちも遣らず。
わたし
あなた
ま
「狭山さん、 私 は何だか 貴 方 に言残した事が未だ有るやうな心持がして……」
ああ
い
「 吁 、もうかう成つちやお互に何も言はないが可い。言へばやつぱり未練が出る」
じ うつむ
彼は熟と 内 向 きて、目を閉ぢたり。
とりかへつこ
「貴方、その指環を私のと 取 替 事 して下さいね」
「さうか」
おのおの
各
その手に在るを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダ゗ゕモンド入のを
をは
男の指に、し 了 りてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。
さ
ひとしきりしげ そそ きた
颯と鳴りて雨は 一
時 繁 く 灑 ぎ 来 れり。
「ああ、大相降つて来た」
すき
いとま
ごひ
「貴方は不断から雨が所好だつたから、きつとそれで…… 暇 …… 乞 に降つて来た
んですよ」
さかな
「好い折だ。あの雨を 肴 に……お静、もう覚悟を為ろよ!」
「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」
「酒を持つて来な」
「あい」
お静も今は心を励して、宵の程
あつら
しゆこう とこのま
誂 へ置きし 酒 肴 の 床 間 に上げたるを
もてき
ふたり
かん
ま おのおの
持 来 て、 両 箇 が中に膳を据れば、男は手早く 燗 して、その間に
各
服を
あらた
せは
たちま きぬ す
更 むる 忙 しさは、 忽 ち 衣 の擦り、帯の鳴る音高く[#「糸+察」、436-13]と
うた
こまやか
おどろ
乱れ合ひて、 転 た雨
濃
なる深夜を 驚 かせり。
す
「ええ、もう好かない!」
おびし
はし
みもだえ
帯 緊 めながら女はその 端 を振りて 身 悶 せるなり。
「どうしたのだ」
むす
「なあにね、帯がこんなに 結 ばつて了つて」
「帯が結ばつた?」
と
「ああ! あなた釈いて下さい、よう」
い
「何か吉い事が有るのだ」
やりそこな
はぢ
さら
「私はもしも 遣
損 つて、 耻 でも 曝 すやうな事が有つちやと、それが苦労に成
たま
つて 耐 らなかつたんだから、これでもう可いわ」
「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは
おれ
念ふけれど、運悪く遅れたら、 俺 はきつと後から往くから――どんなにしても往くか
ら、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」
ふ
か
つと俯したるお静は、男の膝を咬みて泣きぬ。
ひよつ
たましひ
「その代り、 偶 としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……
魂
は
かげみ
こころがはり
おまへの 陰 身 を離れないから、必ず 心
変 を……す、するなよ、お静」
「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」
「一処に往くとも!」
「一処に! 一処に往きますよ!」
いつぱい
「さあ、それぢやこ、この世の……別に 一 盃 飲むのだ。もう泣くな、お静」
「泣、泣かない」
あすこ
「さあ、 那 裏 へ行つて飲まう」
と
すが
そば
男は先づ起ちて、女の手を把れば、女はその手に 縋 りつつ、泣く泣く火鉢の 傍 に
はなれがた
座を移しても、なほ 離
難 なに寄添ひゐたり。
ちよく
ゆのみ
「 猪 口 でなしに、その 湯 呑 に為やう」
「さう。ぢや半分づつ」
あつがん
れつれつ くん
ふる
熱 燗 の酒は 烈 々 と 薫 じて、お静が 顫 ふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれ
ぬ。
せつな
たすく
なら
女の最も悲かりしは、げにこの 刹 那 の思なり。彼は人の為に酒を 佐 るに 嫻 ひ
し手も、などや今宵の恋の命も、
はかな
みづさかづき
儚 き夢か、うたかたの 水
盃 のみづからに、
うた
かな
そぞろ せま
酌取らんとは想の外の外なりしを、 唄 にも似たる身の上 哉 と、 漫 に 逼 る胸の
たと
かた
内、何に 譬 へん 方 もあらず。
しばし
なが
男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、 少 時 手にせるままに 眺 めゐれば、よし今は
ひさし
憂くも苦くも、 久 く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、
わづか いつぱい
あいべつりく
僅 に 一 盃 の酒に対するも、又 哀 別 離 苦 の感無き能はざるなり。
おも
あひそ
ゆふべ
こころ
ふく
念 へ、彼等の 逢 初 めし 夕 、互に 意 有りて 銜 みしもこの酒ならずや。更
ふたり
なさけ
こまやか
かうばし
に 両 個 の影に伴ひて、人の 情 の必ず
濃
なれば、必ず
芳
かりしもこの
酒ならずや。その恋中の
たのしみ
みとせ うさ はら
楽
を添へて、 三 歳 の 憂 を 霽 せしもこの酒ならずや。
よ
まつご むく
あはれ
彼はその酒を取りて、吉き事積りし後の凶の凶なる今夜の 末 期 に 酬 ゆるの、 可 哀
かなし
すぐ
ほろほろ
に余り、 可 悲 きに 過 るを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は 点 々
こぼ
と散りて 零 れぬ。
「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」
「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れ
ふぜい
くやし
ずに、芸者 風 情 で死んで了ふのが…… 悔 い、私は!」
聞くも苦しと、男は一息に湯呑の
なかば あふ
半 を 呷 りて、
「さあ、お静」
女は何気無く受けながら、思へば、別の
さかづき
むねつぶ
盃
かと、手に取るからに 胸 潰 れて、
「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、
ふつつかもの わがままもの
あいそ
私のやうなこんな 不 束 者 の 我 儘 者 を、能くも 愛 相 を尽かさずに、深切に、
世話をして下すつた。
私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふの
ありがた
は通り越して、実に 難 有 いと思つてゐました。その御礼を為たいにも、知つてゐる
おつか
ほんと
通の 阿 母 さんが在るばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事も出来ず、 本 当 に
はづかし
あんま
可 恥 いほど行届かないだらけで、これぢや 余 り済まないから、一日も早く所帯
でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しを為ませうと、私は、そればかり
たのしみ
楽
に、出来ない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも
を
み
み
みづ
水……水…… 水 の……泡。
こころやすだて
しみじみ
つい 心 易 立 から、 浸 々 お礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、
さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には
掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」
しぼ
こら
いだ
男は身をも 搾 らるるばかりに 怺 へかねたる涙を 出 せり。
「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな!
よみぢ さはり
ふたり
冥 路 の 障 だ。 両 箇 が一処
に死なれりや、それで不足は無いとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜ん
で死なうよ」
「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝
つて私は飲みます」
もろとも
涙 諸 共 飲干して、
「あなた、一つお酌して下さいな」
つ
あふ
と
注げば又 呷 りて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手を把りて、顔見合せ
だきし
なごり
おもひまど
て、 抱 緊 めて、惜めばいよいよ尽せぬ 名 残 を、いかにせばやと 思
惑 へる互の
心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。
いだ
くちびる
うつつ
男は 抱 ける女の耳のあたかも
唇
に触るる時、 現 ともなく声誘はれて、
「お静、覚悟は可いか」
「可いわ、狭山さん」
「可けりや……」
いつそ
「 不 如 もう早く」
ぢき
ふくさづつみ かみいれ
いだ
狭山は 直 に枕の下なる 袱 紗 包 の 紙 入 を取上げて、内より 出 せる
いつぽう
まさ ふたり
やいば か
一 包 の粉剤こそ、 正 に 両 個 が絶命の 刃 に易ふる者なりけれ。
ちやわん
ひら
女は二つの 茶 碗 を置並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を 披 きて、男の手より
わか
その内に 頒 たれぬ。
「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」
「ああ可うござんす」
は
たえだえ
かいきんなきすぐ
さんせい
雨はこの時漸く霽れて、軒の玉水 絶 々 に、 怪 禽 鳴 過 る者両 三 声 にし
さつさつ
て、跡松風の音 颯 々 たり。
ちようし
ひとつ
そそ
狭山はやがて 銚 子 を取りて、 一 箇 の茶碗に酒を 澆 げば、お静は目を閉ぢ、合
しのびね
掌して、聞えぬほどの 忍 音 に、
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
「南 無 阿 弥 陀 仏 、南 無 阿 弥 陀 仏 」
わがて
むなもと さしちが
きつさき
代りて酌する彼の想は、 吾 手 男の 胸 元 に 刺 違 ふる
鋩
を押当つるにも
おのづ
もれい
似たる苦しさに、 自 から 洩 出 づる声も打震ひて、
なむあみだぶつ
なむ
あみだ
なむあみ
だ
ぶつ
「南 無 阿 弥 陀 仏 、南無阿弥陀仏、南無……阿弥陀……南無阿弥……陀…… 仏 、
なむ
南無……」
ふたり
にはか やなりしんどう
お
と 両 個 は心も消入らんとする時、 俄 に 屋 鳴 震 動 して、百雷一処に堕ちた
たふ
うつつ
たちま あらは
る響に、男は 顛 れ、女は叫びて、前後不覚の夢か 現 の人影は、 乍 ち 顕 れ
ともしび
て 燈 火 の前に在り。
あなた
「 貴 方 方は、怪からん事を!
可けませんぞ」
かへ
お おどろ
男は漸く我に 復 りて、惧ぢ 愕 ける目をき、
「ああ!
あなた
貴 方 は」
みおぼえ
とまりきやく
「お 見 覚 ありませう、あれに居る 泊
客 です。無断にお座敷へ入つて参りま
はなは
して、 甚 だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所!
貴下方はどうなすつたので
すか」
しようぜん
おもて
ふたり
悄
然 として 面 を挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は 両 個
の姿をしつつ、彼の答を待てり。
もちろん
こみい
「 勿 論 これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから 込 入 つたお話は
うけたま
よろし
ただなにゆゑ
い
承 はらんでも 宜 い、 但 何 故 に貴下方は活きてをられんですか、それだ
けお聞せ下さい」
「…………」
「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」
はなは かすか うなづ
男は 甚 だ 微 に 頷 きつ。
なにゆゑ
「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、 何 故 に添れんのです」
彼は又黙せり。
わたくし
あひて
「その次第を伺つて、
私
の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談 合 手 にも成
らうかと、実は考へるので。然し、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成程活きて
ごもつとも
わたし
をられんのは 御
尤 だ、他人の 私 でさへ外に道は無い、と考へられるやうなそ
とど
れが事情でありましたら、私は決してお 止 め申さん。ここに居て、立派に死なれるの
かいしやく
を拝見もすれば、 介
錯 もして上げます。
わたくし
むなし
ひ
私
もこの間に入つた以上は、 空 く手を退く訳には行かんのです。貴下方を
すく
どつちか
さいはひ すく
拯 ふ事が出来るか、出来んか、 那 一 箇 です。
幸
に 拯 ふ事が出来たら、私は
な
いか
命の親。又出来なかつたら、貴下方はこの世に亡い人。この世に亡い人なら、如何なる
さしつかへな
も
秘密をここで打明けたところが、一向 差 支 無 からうと私は思ふ。若し命の親とす
なおさら
つつ
しやれ
ればです、 猶 更 その者に 裹 み隠す事は無いぢやありませんか。私は何も 洒 落 に
ちやん
貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、 顕 然 と聴くだけ
の覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」
第五章
おごそか
せま
いだ
貫一は気を 厳 粛 にして 逼 れるなり。さては男も是非無げに声 出 すべき力も有
らぬ口を開きて、
ありがた
「はい御深切に…… 難 有 う存じます……」
「さあ、お話し下さい」
「はい」
つつ
「今更お 裹 みなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつた
こうじまち
はざま
が、東京の 麹
町 の者で、 間 貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目
よくよく
に掛るのは、 好 々 これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方
ふため
ふたり
すく
の 不 為 に成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間 両 個 の命を 拯 ふの
ですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申す
のです」
「はい、段々御深切に、難有う存じます」
「それぢや、お話し下さるか」
「はい、お聴に入れますで御座います」
かたじけ
「それは 忝
ない」
おそ
ま
ぬすみみ
彼は始めて心安う座を取れば、恐る 惶 る狭山は先づその姿を 偸 見 て、
よろし
「何からお話し申して 宜 いやら……」
おつしや
「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと 有 仰 る――!
なぜ
何為添
れんのですか」
つか
「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分 遣 ひ込みま
したので御座います」
もち
「はあ、御主人 持 ですか」
みなみてんまちよう こうびし
「さやうで御座います。私は 南 伝 馬 町 の 幸 菱 と申します紙問屋の支配人
さやまもとすけ
を致してをりまして、 狭 山 元 輔 と申しまする。又これは新橋に勤を致してをりま
かしわや
す者で、 柏 屋 の愛子と申しまする」
なの
や
くら
わづか にじ
名宣られし女は、消えも遣らでゐたりし人陰の 闇 きより 僅 に 躙 り出でて、
おもぶせ
面 伏 にも貫一が前に会釈しつ。
「はあ、成程」
みうけ
「然るところ、昨今これに 身 請 の客が附きまして」
「ああ、身請の? 成程」
ひきおひ
「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその 引 負 の為に、主
い
いか
人から告訴致されまして、活きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何にと
いたしかた
むふんべつ
つきつ
も 致
方 が御座いませんゆゑ、 無 分 別 とは知りつつも、つい 突 迫 めまして、
面目次第も御座いません」
は
しにぞこな
彼等はその無分別を慙ぢたりとよりは、この 死
失 ひし見苦しさを、天にも地に
さら
ふ
うなじ すく
なほ
も 曝 しかねて、俯しも仰ぎも得ざる 項 を 竦 め、 尚 も為ん方無さの目を閉ぢた
り。
「ははあ。さうするとここに金さへ有れば、どうにか成るのでせう!
貴方の
つかひこみ
よろし
わ
費
消 だつて、その金額を弁償して、 宜 く御主人に詑びたら、無論内済に成る
こつち
事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、 此 方 でも請出すまでの事。さうし
ひきおひ いくら
たか
て、貴方の 引 負 は 若 干 ばかりの 額 に成るのですか」
「三千円ほど」
「三千円。それから身請の金は?」
ふたことみこと
かたら
狭山は女を顧みて、 二 言 三 言 小声に 語 合 ひたりしが、
い
「何やかやで八百円ぐらゐは要りますので」
「三千八百円、それだけ有つたら、貴下方は死なずに済むのですな」
きた
打算し 来 れば、真に彼等の命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。
「それぢや死ぬのはつまらんですよ!
三千や四千の金なら、随分そこらに
ころが
滾 つて
ゐやうと私は思ふ。就いては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにか
ひとつくはし
く貴下方の身の上を 一 番 悉 くお話し下さらんか」
きは
ことば
いつはり まこと
かかる 際 には如何ばかり嬉き人の 言 ならんよ。彼はその
偽
と 真 とを
いとま
うきみ
こひねがは
思ふに 遑 あらずして、遣る方も無き 憂 身 の憂きを、
冀
くば跡も留めず語
つく
いさみ な
りて 竭 さんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたる 勇 を作して、
こと
かよう ぶしまつ しだ
「はい、ついに一面識も御座いません私共、 殊 に痴情の果に 箇 様 な 不 始 末 を為出
なに
やくざもの
こころづかひ
しました、 何 ともはや申しやうも無い 爛 死 蛇 に、段々と御深切のお 心
遣 、
却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。
おことば
おぼしめし
折角の 御 言 で御座いますから、 思
召 に甘えまして、一通りお話致しますで
御座いますが、何から何まで皆恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座い
ます。
つかひこみ
つまりあそび
実は、只今申上げました三千円の 費
消 と申しますのは、 究 竟 遊 蕩 を致しま
き
した為に、店の金に手を着けましたところ、始の内はどうなり融通も利きましたので、
やみつき
それが 病 付 に成つて、段々と無理を致しまして、長い間に穴を開けましたのが、積
だいぶん
り積つて 大 分 に成りましたので御座います。
しか
ふさが
やりくり
然 るところ、もう八方 塞 つて 遣 繰 は付きませず、いよいよ主人には知れま
くるしまぎ
けが
すので、 苦
紛 れに相場に手を出したのが怪我の元で、ちよろりと取られますと、
さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、
いよい
愈 よ為方御座いません、今度は
しにものぐるひ
どうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も 死 物 狂 で、無理の中から無理
おひたふ
を致して、続くだけ遣りましたところが、到頭 逐 倒 されて了ひまして、三千円と申
つかひこみ
上げました 費
消 も、半分以上はそれに注込みましたので御座います。
これまで つとめ
然し、これだけの事で御座いますれば、主人も 従 来 の 勤 労 に免じて、又どうに
も勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前
たび
ゆる
に呼付けられました節も、この 度 の事は格別を以つて 赦 し難いところも赦して遣る
と、箇様に申してはくれましたので」
「成程
」
しさい
めひ
「と申すのには、少し又 仔 細 が御座いますので。それは、主人の家内の 姪 に当りま
す者が、内に引取つて御座いまして、これを私に
めあは
つもり
妻 せやうと云ふ 意 衷 で、
ぜんぜん
前 々 からその話は有りましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、
いひのば
いよいよ
てづめ
何と就かずに段々 言 延 して御座いましたのを、 決 然 どうかと云ふ 手 詰 の
はなし あひな
つまり つかひこみ
談 に 相 成 りましたので。 究 竟 、 費
消 は赦して遣るから、その者を家内に
持て、と箇様に主人は申すので御座います」
「大きに」
そこ
いろいろ
「其処には又 千 百 事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に
ことわ
わがまま
辞 るにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと 吾 儘 を
申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」
「ああ、さうなのですか」
こんど
「そこへ持つて参つて、 此 度 の不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと
まる かたき
まをしぶん
云ふので御座いますから、 全 で 仇 をば恩で返してくれますやうな、 申
分 の
はからひ
もど
ばち あた
無い主人の 所 計 。それを 乖 きましては、私は 罰 が 中 りますので御座います。
いか
さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何にともその気に成れませんので、
や
ことわり
已むを得ず縁談の事は 拒 絶 を申しましたので御座います」
「うむ、成程」
わがまま
つかひこみ まと
「それが為に主人は非常な立腹で、さう 吾 儘 を言ふのなら、 費
消 を 償 へ、
きず
それが出来ずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の 疵 が附く事だから、
おもひかへ
さしず
ま
思
反 して主人の 指 図 に従へと、中に人まで入れて、未だ未だ申してくれました
どこ
のを、何処までも私は剛情を張通して了つたので御座います」
ああ
「 吁 !
それは貴方が悪いな」
「はい、もう私の善いところは一つでも有るのぢや御座いません。その事に就きまして、
かきおき
きは
きは
主人に 書 置 も致しましたやうな次第で、既に覚悟を 極 めました 際 まで、
こころがかり
心
懸 と申すのは、唯そればかりなので御座いました。
みうけさわぎ
で又その最中にこれの方の 身 請 騒 が起りましたので」
「成程!」
「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分そ
れは非道な強慾な者で御座います。まあ
くはし
悉 く申上げれば、長いお話も御座いますが、
これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた
かかへ
とりあつかひ
抱 も同様の 取
扱 を致して、為
かせ
りようけん
て遣る事は為ないのが徳、 稼 げるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな 了
簡
さ
しぼ
で、長い間無理な勤を為せまして、散々に 搾 り取つたので御座います。
で、私の有る事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところ
やかまし
から、さあ 聒
く言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります
際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、
したや
下 谷 に富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」
「え
何……何……何ですか!」
ただつぐ
「御承知で御座いますか、あの富山 唯 継 と云ふ……」
「富山? 唯継!」
こわね
その面色、その 声 音 !
ごんか こど
をど かか
彼は 言 下 に皷怒して、その名に 躍 り 被 らんとする
いきほひ
おどろ
おそ
うろた
勢 を示せば、愛子は 駭 き、狭山は 懼 れて、何事とも知らず 狼 狽 へたり。
おししづ
まなざし
ふたり
せはし
貫一は轟く胸を 推 鎮 めても、なほ 眼 色 の燃ゆるが如きを、 両 個 が顔に 忙
く注ぎて、
「その富山唯継が身請の客ですか」
「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」
「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」
うちまど そば
ひそか
狭山の 打 惑 ふ 傍 に、女は 密 に驚く声を放てり。
あいつ
「 那 奴 が身請の?」
問はるる愛子は、会釈して、
「はい、さやうなんで御座います」
ひ
きら
「で、貴方は彼に退かされるのを 嫌 つたのですな」
「はい」
「さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」
「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」
「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」
「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」
「ああ、さうですか!
だんな
それぢや 旦 那 に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」
けがらは
しりめづかひ
女は聞くも 穢
しと、さすが謂ふには謂れぬ 尻 目 遣 して、
「私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、
まるつきり
全
然 無いんで御座います」
「ああ、さうですか!
うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました」
うつむ
狭山は 俯 きゐたり。
「それではかう云ふのですな、貴方は
ひとり
人 一 個 を守つて――さうですね」
つとめ
勤 を為てをつても、外の客には出ずに、この
「さやうです」
よそ
ことわ
「さうして、余所の身請を 辞 つて――富山唯継を振つたのだ!
さうですな」
「はい」
ひとみ こら
おもて
や
に 瞳 を 凝 せる貫一は、愛子の 面 を熟視して止まざりしが、やがてその
まなこ
うるほ
眼 の中に浮びて、輝くと見れば 霑 ひて出づるものあり。
ああ
「嗚呼……感心しました!
実に立派な者です!
貴方は命を捨てても……この人
と……添ひたいのですか!」
ゆゑ
ふたり むなし あき
何の 故 とも分かず彼の男泣に泣くを見て、 両 個 は 空 く 呆 るるのみ。
いつひつぷ
たれ なんぢ
貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの 一 匹 婦 も、知らず 誰 か 爾 に教へて、
いた
なほ
よ がた
よ
かた
つひ
死に 抵 るまで 尚 この頼り 難 き義に頼り、守り 難 き節を守りて、 終 に奪はれざ
る者あるに泣けるなり。
ゆゑん
たふと
其の泣く 所 以 なるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、 崇 く優くも、
うるはし
まつた
麗
くも、又は、 完 くも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、
高く
ひとたび まのあたりみ
ゆる
一 度 は 目
前 睹るを得て、その倒懸の苦を 寛 うせん、と心くが如く望みたり
うきくさ
あ
そつじ よろこびきは
しを、今却りて 浮 萍 の底に沈める泥中の光に値へる 卒 爾 の 歓
極 まれれば
なり。
「勿論さう無けりや成らん事!
それが女の道と謂ふもので、さう有るべきです、さう
こんにち
きはま
有るべき事です。 今 日 のこの軽薄 極 つた世の中に、とてもそんな心掛のある人
間は、私は決して在るものではないと念つてをつた。で、もし在つたらば、どのくらゐ
嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い!
今夜のやうに感じた事は有り
ひとごと
ません。私はこの通泣いてゐる――涙が出るほど嬉いのです。私は 人 事 とは思はん、
人事とは思はん訳が有るので、別して深く感じたのです」
いそがはし はなうちか
かく言ひて、貫一は 忙
々 く鼻洟 打 みつ。
「ふむ、それで富山はどうしました」
たび
ていよ ことわ
「来る 度 に何のかのと申しますのを、 体 好 く 辞 るんで御座いますけれど、もう
ひとつきり
あげづめ
いや
く来ちや、 一
頻 なんぞは毎日 揚 詰 に為れるんで、私はふつふつ不好なんで御
座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして
ひとり
独 で利巧ぶつて、
おつそろし
ふたことめ
ありがた
可
恐 い意気がりで、 二 言 目 には金々と、金の事さへ言へば人は 難 有 がる
おも
ものかと思つて、俺がかうと 思 や千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、
始終そんな有余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、
みんな
衆 が『御威光』と云
あだな
きざ
ひど
ふ 仇 名 を附けて了つて、何処へ行つたつて気障がられてゐる事は、そりや太甚いんで
御座います」
「ああ、さうですか」
い
「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可
あひかはらずしつくど
こつち
けもしない事を 不 相 変 執 煩 く、何だかだ言つてをりましたけれど、 這 箇 も
しまひ
か
ぢかだん
剛情で思ふやうに行かないもんですから、 了 局 には手を易へて、内のお袋へ 親 談
をして、内々話は出来たんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全で気違
はし あげおろし
のやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう 箸 の 上
下 には言れますし、狭
やかまし
つら
山と切れろ切れろの
聒
く成りましたのも、それからなので、私は 辛 さは辛し、
つくづ
なんに
おもしろをかし
熟 くこんな家業は為る者ぢやないと、 何 も解らずに 面 白 可 笑 く暮してゐ
た夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が
あんま
余 りつまらなくて、もうどう
ふさ
したら可いんだらう、と 鬱 ぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」
すぐ
「うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事も無くて、 直 に身請と云ふ
のですか」
「さうなので」
しかた
「変な奴な! さう云ふ身請の 為 方 が、然し、有りますか」
「まあ御座いませんです」
ほか かこ
「さうでせう。それで、身請をして 他 へ 囲 つて置かうとでも云ふのですか」
「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるや
うにして遣つたら、言分は無からうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何
ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな
うれし
嬉 がらせを言つちやをりましたけれど」
まゆ あ
うち
眉 を昂げたる貫一、なぞ彼の心の 裏 に震ふものあらざらんや。
「妻君に就いてどう云ふ話が有るのですか」
「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の
病人で、小供は無し、用には立たず、有つても無いも同然だから、その内に隠居でもさ
くちぶり
せて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな 口 気 なんで御座います」
「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」
あて
「随分ちやらつぽこを言ふ人なんですから、なかなか 信 にはなりは致しませんが、
妻君の病身の事や、そんなこんなで
あんま
余 り内の面白くないのは、どうも全くさうらし
いんで御座んす」
「ははあ」
にはか
彼は 遽 に何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、
「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さう
ですか!」
宮の悔、宮の恨、宮の
なげき
かなしみ
くるしみ
うれひ
歎 、宮の
悲
、宮の
苦
、宮の 愁 、宮が心の
やまひ
ああ つひ
疾 、宮が身の不幸、 噫 、 竟 にこれ宮が一生の惨禍!
は
彼の思は今将たこの
あはれ
憐 むに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。
いかばかりさいはひ
貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の 幾
許
幸
にかつ愚なら
みづから
おのれ
すく
かへ
ざるかを思ひて、又
躬
の、先には 己 の愛する者を 拯 ふ能はずして、今 却
いかばかりさち
りて得知らぬ他人に恵みて余有る身の、 幾
許 幸 無くも又愚なるかを思ひて、謂
ふばかり無く悲めるなり。
時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。
もんちやく
さわぎ
「そんな 捫
懌 最中に、狭山さんの方が 騒 擾 に成りましたんで、私の事はまあど
うでも、ここに三千円と云ふお金が無い日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんで
びつくら
く
すから、私は 吃 驚 して了つて、唯もう途方に昧れて、これは一処に死ぬより外は無
すぐ
いと、その時 直 にさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へら
いつそ
れないから、これは 不 如 富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやう
に為やうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お
前の了簡ぢや、富山の処へ行くのが可いか、死ぬのが可いか、とかう申すので御座いま
せう」
「うむ、大きに」
「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ
まし
しよつちゆう
まか
方が 愈 だと、 初 中 終 言つてをりますんですから、あんな奴に身を 委 せるの、
いや
不好は知れてゐます」
「うむ、さうとも」
ふたり
あんま
「さうなんですけれど金ゆゑで 両 個 が今死ぬのも 余 り悔いから、三千円きつと出
すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は
あつち
ぢき に
すこし
那 裏 へ行つたつて、 直 に迯げて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、 少 の
まいや
まし
間不好な夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは 愈 だらう、と私はさう申しますと、
かたり
狭山さんは、それは 詐 取 だ……」
かたり
「それは 詐 取 だ!
さうとも」
の
あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りて陳べぬ。
かたり
「 詐 取 で御座いますとも!
をんな
つかひこみ
情 婦 を種に詐取を致すよりは、 費
消 の方が罪は
はるか
わたくし
夐 に軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、
私
は決
して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて
まか
いか
あんま
金ゆゑ体を 委 せるとは、如何なる事にも、 余 り意気地が無さ過ぎて、それぢや人
かぶ
かひ
つま
間の皮を 被 つてゐる 効 が御座りませんです。私は金に 窮 つて心中なんぞを為た、
わらわ
をんな
あいつ
と人に 嗤 れましても、 情 婦 の体を売つたお陰で、やうやう 那 奴 等は助つてゐる
いや
ふたり
のだ、と一生涯言れますのは不好で御座います。そんな了簡が出ます程なら、 両 個 の
いくら
命ぐらゐ助ける方は外に 幾 多 も御座いますので。
ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、
とても死ぬより外は無い!
私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私
が申しましたので」
「成程。そこで貴方が?」
つまり
「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、 究 竟 私ゆゑにそんな訳に成つた狭
山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、
ひとり
私 一 箇 残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――そ
れぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」
「いや、善く解りました!」
さながら
じようきゆう
まことさかん
りん
貫一は 宛 然 我が宮の 情
急 に、 誠
壮 に、 凛 たるその一念の
ことば
ひと
た
言 を、かの当時に聴くらん想して、 独 り自ら胸中の躍々として痛快に堪へざる者
あるなり。
はてし
さばく
もうもう
うるはし
正にこれ、 垠 も知らぬ失恋の 沙 漠 は、 濛 々 たる眼前に、
麗
き一望の
ミレエジは清絶の光を放ちて、
はなは ゆたか
あきら
甚 だ 饒 に、甚だ 明 かに浮びたりと謂はざら
や
ん哉。
ほとん
彼は 幾 どこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始
しばらく はじよ
いとま
まこと
いとま
て 少 頃 も 破 除 するの 間 を得つ。 信 に得難かりしこの 間 こそ、彼が宮
ただ
か
せ
を失ひし以来、 唯 これに易へて望みに望みたりし者ならずと為んや。
ああうるはし
嗚呼 麗
きミレエジ!
きゆうかつ
うごか
貫一が 久
渇 の心は激く 動 されぬ。彼は声さへやや震ひて、
ひとり
じつ
「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、 一 箇 の男を 熟 と守つて、さうし
これから
てその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、 後 来
あつぱれ
花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に 天 晴 なもの!
余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。
貴方は、どうか生涯その心掛を忘れずにゐて下さい!
その心掛は、貴方の宝ですよ。
すなは
又狭山さんの宝、 則 ち貴下方夫婦の宝なのです!
いつ
今後とも、貴方は狭山さんの為には何日でも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟
は、始終きつと持つてゐて下さい。可う御座いますか。
おも
もちろん
千万人の中から唯一人見立てて、この人はと 念 つた以上は、 勿 論 その人の為に
は命を捨てるくらゐの了簡が無けりや成らんのです。その覚悟が無いくらゐなら、始か
しやり
ら念はん方が可いので、一旦念つたら骨が 舎 利 に成らうとも、決して志を変へんと云
ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです!
も
ほ
で、若し好いた、惚れたと云ふ
うはべ
こつち
のは 上 辺 ばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、 這 箇 は一心に成つて
おもひつ
ねがへり
あ
思 窮 めてゐる者を、いつか 寝 返 を打れて、突放されるやうな目に遭つたと為た
ら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」
こわね
彼の 声 音 は益す震へり。
「さう云ふのが有ります!
私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな
いたづら
ふしあはせ
い
徒 爾 な色恋は、為た者の 不 仕 合 、棄てた者も、棄てられた者も、互に好い事は
み
無いのです。私は現にさう云ふのを睹てゐる!
睹てゐるから今貴下方がかうして一処
に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合
は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。
はだみ
それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生 肌 身 に附
けて、どんな事が有らうとも、決して失はんやうに為て下さい!――可う御座いますか。
いつ
さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、 毎 も今夜のやうなこの心を持つて、
むつまじ
睦 く暮して下さい、私はそれが見たいのです!
今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうで
も為て上げます」
ききをは
ふたり
もろとも うしほ
聞 訖 りし 両 個 が胸の中は、 諸 共 に 潮 の如きものに襲はれぬ。
ま
にはか
おどろ
未だ服さざりし毒の 俄 に変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりは 愕
うちまど
あやし
かれ、愕くとよりは 打 惑 はれ、惑ふとよりは 怪 まれて、鬼か、神か、人ならば、
いか
おもて
ひそか
如何なる人かと、彼等は覚えず貫一の 面 を見据ゑて、更にその目を 窃 に合せつ。
あたり
やこゑ とり
うた
四 辺 も震ふばかりに 八 声 の 鶏 は高く 唱 へり。
ふたり
おほ
とこやみ
ほのぼの すきも
夜すがら 両 個 の運星 蔽 ひし 常 闇 の雲も晴れんとすらん、 隠 約 と 隙 洩 る
あけぼの
を
ともしび もと
曙 の影は、玉の緒長く座に入りて、光薄るる 燈 火 の 下 に並べるままの茶碗
ひとつ
ちひさ が
の 一 箇 に、 小 き蛾有りて、落ちて浮べり。
[#改ページ]
新続金色夜叉
第一章
かみほとけ
さふらふこと
ござなくさふら
生れてより 神
仏 を頼み 候
事 とては一度も 無 御 座 候 へども、
このたび
わがいのち
さふらふかはり
此 度 ばかりはつくづく一心に祈念致し、 吾
命 を縮め 候
代 に、必ず
おんめ
さいはひ
此文は 御 目 に触れ候やうにと、それをば力に病中ながら筆取りまゐらせ候。
幸
おんひらか くだされさふら
あひは
に此の一念通じ候て、ともかくも 御
披 せ 被 下 候 はば、此身は直ぐ 相 果
うらみ
ぞんじまをさずさふらふ
おんにくしみつよ
て候とも、つゆ 憾 には 不
存
申
候 。元より 御 憎 悪 強 き
わたくし
さふら
なにとぞこれ
ひとり あはれ
私 には 候 へども、 何 卒 是 は前非を悔いて自害いたし候 一 箇 の 愍
おんまへさま みか
ゆいごん
おぼしめ
ひととほ
なる女の、 御 前 様 を見懸けての 遺 言 とも 思 召 し、せめて 一 通 り
ごはんどくくだされさふら
おんなさけ
うれし
御 判 読 被 下 候 はば、未来までの 御
情 と、何より 嬉 う嬉う
ぞんじあ
存 上 げまゐらせ候。
さて
おんいきわかれ
あさゆふ あきら を
扨 とや、先頃に久々とも何とも、 御 生 別 とのみ 朝 夕 に 諦 め居り候
おんかほ
おんなつか
御 顔 を拝し、飛立つばかりの 御
懐 しさやら、言ふに謂れぬ悲しさやらに、先
立つものは涙にて、十年越し思ひに思ひまゐらせ候事何一つも口には出ず、あれまでに
は様々の覚悟も致し、また
こころぐるし おんめ
心
苦 き 御 目 もじの恥をも忍び、女の身にてはやう
さふらふかひ
やうの思にて参じ 候
効 も無く、誠に一生の無念に存じまゐらせ候。
ただそのをり
ひま
おんすがた
唯 其 折 の形見には、涙の 隙 に拝しまゐらせ候 御
姿 のみ、今に目に附き候
あけくれわす
おんまへさま
て 旦 暮 忘 れやらず、あらぬ人の顔までも 御 前 様 のやうに見え候て、此頃は
心も空に泣暮し居りまゐらせ候。
ひさし おんめ
さふらふうち
すべ おんかは なされ
久 う 御 目 もじ致さず 候
中 に、別の人のやうに 総 て 御 変 り 被 成
わたくし
なに
こと
やつれ
ひとかた
候も、 私
には 何 とやら悲く、又 殊 に御顔の 羸 、御血色の悪さも 一 方
ゐらせられさふらふ
いか
おんわづらひ
おんみあ
ならず 被 為 居 候 は、如何なる 御
疾 に候や、 御 見 上 げ申すも心細く
あそばされ
お
おんいと
存ぜられ候へば、折角御養生 被
遊 、何は措きても御身は大切に 御 厭 ひ
なされさふらふ
あげ
さふらふあまり
被 成 候 やう、くれぐれも念じ 上 候。それのみ心に懸り 候
余 、悲き
ひとしほおんあん
夢などをも見続け候へば、 一 入 御 案 じ申上まゐらせ候。
私事恥を恥とも思はぬ者との御さげすみを
し候胸の内は、なかなか御目もじの上の
かへりみ
お
おんもと
さん
顧
ず、先頃推して 御 許 まで 参
ことば
がた
ぞんじさふら
辞 にも尽し 難 くと 存
候 へば、ま
わざ
しる
なにとぞ
よろし おんくみわけ
して廻らぬ筆には 故 と何も 記 し申さず候まま、 何 卒 々々 宜 く 御 汲 分
くだされたくさふらふ
そのせつ おんはらだち
被
下
度
候 。さやうに候へば、 其 節 の 御 腹 立 も、罪ある身には元
より覚悟の前とは申しながら、
あまり
ほいな おんわかれ
まさ
余 とや本意無き 御
別 に、いとど思は 愈 り
さふらふ
つむりいた
むねさく
候 て、帰りて後は 頭
痛 み、 胸 裂 るやうにて、夜の目も合はず、明る日
あし あひなり
ただなみだ
よりは一層心地 悪 く 相 成 、物を見れば 唯
涙 こぼれ、何事とも無きに
むねふさが
おもひつ
はげし
胸
塞 り、ふとすれば 思 迫 めたる気に相成候て、夜昼と無く 劇 く悩み候ほ
ひるすぎ
とこ
どに、四日目には最早起き居り候事も大儀に相成、 午 過 より 蓐 に就き候まま、今
いたしさふらふ
なつかし おんかた
おもひつづ さふらふ
日まで 致
候 て、唯々
懐
き 御 方 の事のみ 思
続 け
候
ては、
はかな
なげ
いよい
みぐるし はれあが
みづからの 儚 き儚き身の上を 慨 き、胸は 愈 よ痛み、目は 見 苦 く 腫 起
きのふ
やせおとろ まをしさふらふ
り候て、今日は 昨 日 より 痩
衰 へ 申
候 。
おもひつ さふらふき
あひなりさふらふうへ
やみ
かやうに 思 迫 め 候
気 にも 相
成
候
上 に、日毎に 闇 の奥に引入
れられ候やうに段々心弱り候へば、
うたがひ
まことあらは
疑
も無く信心の 誠
顕 れ候て、此の
とこ つ
ぞんじさふらふ
なにとぞ
蓐 に就き候が元にて、はや永からぬ吾身とも 存
候 まま、 何 卒 これまで
いか
おんうらみ
きは
の思出には、たとひ命ある内こそ如何やうの 御
恨 は受け候とも、今はの 際 には
おんまへさま おんひざ
いきひきと た
御 前 様 の 御 膝 の上にて心安く 息 引 取 り度くと存候へども、それははぬ罪
深き身に候上は、もはや再び
なつかし
懐
き懐き御顔も拝し難く、猶又前非の御ゆるしも無
このまま
あきら
くて、 此 儘 相果て候事かと、 諦 め候より外無く存じながら、とてもとても諦め
このこころ
たと
ござなくさふらふ
かね候苦しさの程は、 此
心 の外に知るものも、 喩 ふるものも 無 御 座 候 。
これ
おんにくしみ
すこし ふびん おぼしめしくだされたく
是 のみは 御 憎 悪 の中にも 少 は 不 愍 と 思
召 被 下 度 、かやうに
したた を さふらふうち
いたしかたな
そそう
認 め居り 候
内 にも、涙こぼれ候て 致 方 無 く、覚えず 麁 相 いたし候
よご
おんゆる くだされたくさふらふ
て、かやうに紙を 汚 し申候。 御 容 し 被
下
度
候 。
わたくしこといか
むくい
さ候へば 私
事 如何に自ら作りし罪の 報 とは申ながら、かくまで散々の
せめく
ざんげいた
あはれ
責 苦 を受け、かくまで十分に 懺 悔 致 し、此上は唯死ぬるばかりの身の 可 哀 を、
つゆほども御前様には通じ候はで、これぎり
むなし
あまり くちをし
空 く相成候が、 余 に 口 惜 く
ぞんじさふらふゆゑ
かみほとけ
すが
存
候
故 、一生に一度の 神
仏 にも 縋 り候て、此文には私一念を巻込
おんもと さしいだ
め、 御 許 に 差 出 しまゐらせ候。
くやし
おんわかれ
たずみ
返す返すも 悔 き熱海の 御
別 の後の思、又いつぞや田鶴見子爵の邸内にて図
ごけんいたしさふらふこのかた
そののちとちゆう
おんかは
らぬ 御 見
致
候 而 来 の胸の内、 其 後 途 中 にて 御 変 り
なされさふらふあらをさま おんめ
おんものがたり
被 成 候 荒 尾 様 に 御 目 に懸り、しみじみ 御 物 語
いたしさふらふこと
せんだつてじゆうくど
さしあげまをしさふらふ
致
候
事 など、 先 達 而 中 冗 うも冗うも 差
上
申
候 。
こまか
おんひらか
これなき
毎度の文にて 細 に申上候へども、一通の 御
披 せも 無 之 やうに仰せられ候
ごぞんじな
おんうらめし ぞんじあげさふらふ
へば、何事も 御 存 無 きかと、誠に 御
恨 う 存
上
候 。
ももたびちたびくりかへ
たくぞんじさふら
百 度 千 度 繰 返 し候ても、是非に御耳に入れまゐらせ 度
存
候 へども、
をりさふらふをり
かりそめ
あぢきな
今此の切なく思乱れ 居
候
折 から、又 仮 初 にも此上に 味 気 無 き昔を偲び
たへがた
候事は 堪 難 く候故、ここには今の今心に浮び候ままを書続けまゐらせ候。
なにとぞよそ
うけたま
たくぞんじあげさふらふ
おんたより
何 卒 余所ながらも
承
はり 度
存
上
候 は、長々 御
信 も無
おんまへさま これまでいか おんすご あそばされさふらふ
く居らせられ候 御 前 様 の 是 迄 如何に 御 過 し 被
遊
候 や、さぞ
あら うきよ
ひとかた
ごかんなん あそば
おそろし
かし 暴 き 憂 世 の波に 一 方 ならぬ 御 艱 難 を 遊 し候事と、思ふも 可 恐
ぞんじあげさふらふ
おん
おんさはりな
きやうに 存
上
候 を、ようもようも 御 めでたう 御 障 無 う居らせられ、
よろこび
悲き中にも私の 喜
は是一つに御座候。
おんまへさま
あそばされさふらふあひだ
御 前 様 の数々御苦労 被
遊
候
間 に、私とても始終人知らぬ
うきおもひ
ただはかな
憂
思 を重ね候て、此世には苦みに生れ参り候やうに、 唯
儚 き儚き月日を送
わがみ
いか
みなうらやまし
りまゐらせ候。 吾 身 ならぬ者は、如何なる人も 皆 可
羨 く、朝夕の
すずめからす
まで
さいはひ
ござなく
雀
鴉 、庭の木草に至る 迄 、それぞれに
幸
ならぬは 無 御 座 、世の光に
ひとや つなが さふらふあくにん
さふらふひ たのしみ
遠き 囹 圄 に 繋 れ 候
悪
人 にても、罪ゆり 候
日 の
楽
は
これありさふらふ
くげん のが さふらふこと
有
之
候 ものを、命有らん限は此の 苦 艱 を 脱 れ 候
事 はぬ身の悲し
いたしさふら
よろし
くだされたくさふらふ
さは、如何に 致
候 はば 宜 きやら、御推量 被
下
度
候 。申すも異
そもそ
わたくし
ただつぐ
な事に候へども、 抑 も始より
我
心には何とも思はぬ 唯 継 に候へば、夫婦
かへ
あだ
の愛情と申候ものは、十年が間に唯の一度も起り申さず、 却 つて憎き 仇 のやうなる
そのそば
くちをし
つくづ うと
ぜん
思も致し、 其 傍 に居り候も 口 惜 く、 倩 く 疎 み果て候へば、三四年 前 よ
りは別居も同じ有様に暮し居候始末にて、私事一旦の身の
けがれ やうや
きよ
涜 も 漸 く今は 浄 く
ますます
みさを
おんしかり
相成、 益
堅く心の 操 を守り居りまゐらせ候。先頃荒尾様より 御
譴 も受
け、さやうな心得は、始には御前様に不実の上、今又唯継に不貞なりと仰せられ候へど
も、其の始の不実を唯今思知り候ほどの
おろか
愚 なる私が、何とて後の不貞やら何やら
わきま
かどはか
弁 へ申すべきや。愚なる者なればこそ人にも 勾 引 され候て、帰りたき空さへ見
たれひとり あはれ
えぬ海山の果に泣倒れ居り候を、 誰 一 箇 も 愍 みて救はんとは思召し
くだされさふら
おぼしめ くだされさふら
被 下 候 はずや。御前様にも其の愚なる者を何とも 思 召 し 被 下 候 は
ずや。愚なる者の致せし
あやまち
過
も、並々の人の過も、罪は同きものに御座候や、重き
ものに御座候や。
愚なる者の癖に人がましき事申上候やうにて、誠に
おんはづかし ぞんじさふら
御
恥 う 存
候 へど
こころえがた ぞんじあげさふらふ
おんまへさまただいま
も、何とも何とも 心 得 難 く 存
上
候 は、 御 前 様 唯 今 の御身
ござさふらふ
さかさま
おんまへさま
分に 御 座 候 。天地は
倒
に相成候とも、 御 前 様 に限りてはと、
いまなほ
おどろきいり
なりはひ
今 猶 私は疑ひ居り候ほど 驚
入 まゐらせ候。世に 生 業 も数多く候に、優
さ
おんい なされさふらふ
き優き御心根にもふさはしからぬ然やうの道に 御 入 り 被 成 候 までに、世間は
おにおに
おんまへさま
まをしさふらふ
たずみさまかた
おんすがた
鬼 々 しく 御 前 様 を苦め 申
候 か。 田 鶴 見 様 方 にて 御
姿 を
さふらふのちはじめ おんうはさうけたま
いくか
拝し 候
後
始 て 御
噂
承 はり、私は 幾 日 も幾日も泣暮し申候。
しさい
かはら
これには定て深き 仔 細 も御座候はんと存候へども、玉と成り、 瓦 と成るも人の一
なにとぞ
おんたちかへ あそばされ
生に候へば、 何 卒 昔の御身に 御 立 返 り 被
遊 、私の焦れ居りまゐらせ候
おんしたは あそばされさふらふ
ひとへ
やうに、多くの人にも 御
慕 れ 被
遊
候 御出世の程をば、 偏 に
ひとへ ねがいあげ
偏 に 願
上 まゐらせ候。世間には随分賢からぬ者の好き地位を得て、時めかし
なにゆゑおんまへさま
さ
わざ
居り候も少からぬを見るにつけ、 何 故 御 前 様 には然やうの善からぬ 業 を
より
すぐ
ちりあくた
おんす
択 に択りて、折角の人に 優 れし御身を 塵
芥 の中に 御 捨 て
あそばされさふらふ
ぞんじあげ
被
遊
候 や、残念に残念に 存
上 まゐらせ候。
こころえちがひ
ござなくさふら
しじゆうおんそば
愚なる私の 心 得 違 さへ 無 御 座 候 はば、 始 終 御 側 にも居り候事
おもひたち ござさふらふせつ
きつとおんいさ
かな
とて、さやうの 思
立 も 御 座 候 節 に、 屹 度 御 諌 め申候事も 叶 ひ候
ものを、返らぬ愚痴ながら私の浅はかより、みづからの一生を誤り候のみか、大事の御
すた
身までも世の 廃 り物に致させ候かと思ひまゐらせ候へば、何と申候私の罪の程かと、
おんまをしわけ
これなく
おそろ
いりた ぞんじ
今更 御 申 訳 の致しやうも 無 之 、唯そら 可 恐 しさに消えも 入 度 く 存
おんゆる くだされたく
くだされたく
まゐらせ候。 御 免 し 被 下 度 、御免し 被 下 度 、御免し被下度候。
なにゆゑ
そのき
私は 何 故 富山に縁付き申候や、 其 気 には相成申候や、又何故御前様の
おんことば
まをさず
ただいま
くやし
御
辞 には従ひ 不 申 候や、 唯 今 と相成候て考へ申候へば、覚めて 悔 き
まをすべく
夢の中のやうにて、全く一時の迷とも 可
申 、我身ながら訳解らず存じまゐらせ候。
あし
かよう
二つ有るものの善きを捨て、 悪 きを取り候て、好んで 箇 様 の悲き身の上に相成候は、
おもひいだ
あきら
よくよく私に定り候運と、 思
出 し候ては 諦 め居り申候。
おんはらだち
ひとうち
くだされさふら
其節御前様の 御 腹 立 一層強く、私をば 一 打 に御手に懸け 被 下 候 は
くげん これあるまじく
ば、なまじひに今の 苦 艱 は 有 之 間 敷 、又さも無く候はば、いつそ御前様の
てごめ
くだされさふら
さいはひ
手 籠 にいづれの山奥へも御連れ 被 下 候 はば、今頃は如何なる
幸
を得候
かんがへを
事やらんなど、愚なる者はいつまでも愚に、始終愚なる事のみ 考
居 り申候。
おんゆるし
なが
嬉くも 御
赦 を得、御心解けて、唯二人熱海に遊び、昔の浜辺に昔の月を 眺 め、
かなし
昔の 哀 き御物語を致し候はば、其の心の内は如何に御座候やらん思ふさへ
むねとどろ
か
胸
轟 き、書く手も震ひ申候。今も彼の熱海に人は参り候へども、そのやうなる
たのしみ
これある
そのかはり
わたくしごと
楽 を持ち候ものは一人も 有 之 まじく、 其
代 には又、 私
如 き
あはれ
いちや
可 憐 の跡を留め候て、其の 一 夜 を今だに歎き居り候ものも決して御座あるまじく候。
なほはだみはな
世をも身をも捨て居り候者にも、 猶 肌 身 放 さず大事に致候宝は御座候。それは
おんのこしおき
これ
御 遺 置 の三枚の御写真にて何見ても楽み候はぬ目にも、 是 のみは絶えず眺め
候て、少しは憂さを忘れ居りまゐらせ候。いつも御写真に向ひ候へば、何くれと当時の
おもひだ
ぜん
しばし
事 憶 出 し候中に、うつつとも無く十年 前 の心に返り候て、苦き胸も 暫 は
すずし
すき
いろさ
涼 く相成申候。最も所好なるは御横顔の半身のに候へども、あれのみ 色 褪 め、段
々薄く相成候が、何より情無く存候へども、長からぬ私の宝に致し候間は仔細も有るま
な
をさ
それ
じく、亡き後には棺の内に 歛 めもらひ候やう、母へは 其 を遺言に致候覚悟に御座候。
たぐひな にしき
さふらふところ
さかり
ある女世に 比 無 き 錦 を所持いたし 候
処 、夏の熱き 盛 とて、
さしあた
差 当 り用無く思ひ候不覚より、人の望むままに貸与へ候後は、いかに申せども返さ
ふゆきた
はれぎ
ず、其内に秋過ぎ、 冬 来 り候て、一枚の 曠 着 さへ無き身貧に相成候ほどに、いよ
いづこ
いよ先の錦の事を思ひに思ひ候へども、今は 何 処 の人手に渡り候とも知れず、日頃そ
なげ
れのみ苦に病み、 慨 き暮し居り候折から、さる方にて計らず一人の美き女に逢ひ候処、
か
はなや
さんざん
彼の錦をば 華 かに着飾り、先の持主とも知らず貧き女の前にて 散 々 ひけらかし
かのをんな
あやまり あきら
候上に、恥まで与へ候を、 彼
女 は其身の
過
と 諦 め候て、泣く泣く無念
かか
を忍び申候事に御座候が、其錦に深き思の 繋 り候ほど、これ見よがしに着たる女こそ、
くやし
うらめし
憎くも、 悔 くも、
恨
くも、謂はうやう無き心の内と察せられ申候。
せんだつて おんもと
先 達 而 は 御 許 にて御親類のやうに仰せられ候御婦人に御目に掛りまゐらせ候。
おんい なされさふらふ
おんせわ
あそばされさふらふ
毎日のやうに 御 出 で 被 成 候 て、御前様の 御 世 話 万事 被
遊
候
おんかた よし
御 方 の 由 に候へば、後にて御前様さぞさぞ御大抵ならず御迷惑
あそばされさふらふおんこと
おんさつ
被
遊
候 御 事 と、山々 御 察 し申上候へども、一向さやうに
おんうちあひ
ぶしつけ
おんわびまをしあげ
御 内 合 とも存ぜず、 不 躾 に参上いたし候段は幾重にも、 御 詫 申 上
まゐらせ候。
なほかずかずまをしあげたくぞんじさふらふこと
尚 数 々 申 上 度
存
候
事 は胸一杯にて、此胸の内には
まをしあげたきこと
ござなくさふら
申 上 度 事 の外は何も 無 御 座 候 へば、書くとも書くとも尽き
まをすまじく こと つたな
申 間 敷 、 殊 に 拙 き筆に候へば、よしなき事のみくだくだしく相成候ていく
かきもら
おもひのこり
とど
らも、大切の事をば 書 洩 し候が 思
残 に御座候。惜き惜き此筆 止 めかね候
かな がた
あけちか
へども、いつの限無く手に致し居り候事も 叶 ひ 難 く、折から四時の 明 近 き油も
尽き候て、手元暗く相成候ままはやはや
こひし
したた
恋 き御名を 認 め候て、これまでの
おんわかれ
御
別 と致しまゐらせ候。
ただいま
たへがた
唯 今 の此の気分苦く、何とも 難 堪 き様子にては、明日は今日よりも病重き事
ぞんじさふらふ
あひなりまをすべく
存
候 。明後日は猶重くも 相 成 可 申 、さやうには候へども、筆取
と
あひかな
たくぞんじさふら
る事 相 叶 ひ候間は、臨終までの胸の内御許に通じまゐらせ 度
存
候 へば、
おぼつかな
あひしたた まをすべくさふらふ
覚 束 無 くも何なりとも 相
認 め 可
申
候 。
むなし
よ
これなく おんまへさまおんこと
私事 空 く相成候とも、決して余の病にては 無 之 、 御 前 様 御 事 を
おもひじに しにさふらふ
なにとぞ
おんあはれ くだされ そのだん
思
死 に 死
候 ものと、 何 卒 々々 御
愍 み 被 下 、 其 段 はゆ
いつはり
ござなく
めゆめ 詐
にては 無 御 座 、みづから堅く信じ居候事に御座候。
みようにち おんまへさまごたんじようび
かげぜん
明
日 は 御 前 様 御 誕 生 日 に当り申候へば、わざと 陰 膳 を供へ候
おんいは まをしあぐべく うれし
て、私事も共に 御 祝 ひ 可 申 上 、 嬉 きやうにも悲きやうにも存候。猶く
ちようせき
ごきげんよ
おんむか
れぐれも 朝
夕 の御自愛御大事に、幾久く 御 機 嫌 好 う明日を 御 迎 へ
あそばされ
ゐらせられさふらふ
被
遊 、ますます御繁栄に 被 為 居 候 やう、今は世の望も、身の願も、そ
れのみに御座候。
まづはあらあらかしこ。
五月二十五日
おろかなる女
こひし
恋 き恋き
いきわかれ おんかたさま
生
別 の 御 方 様
まゐる
第二章
ばら か はげし くん
さ
い
よみつく
隣に養へる薔薇の香の 烈 く 薫 じて、颯と座に入る風の、この 読 尽 されし長
ふみ
せんせん
なほ をど
き 文 の上に落つると見れば、紙は 冉 々 と舞延びて貫一の身をり、 猶 も 跳 らん
しづか
ひざ ものう
つらづゑ
とするを、彼は 徐 に敷据ゑて、その 膝 に 慵 げなる 面 杖 きたり。憎き女の
けがらは
さき
やきす
いか
文なんど見るも 穢
しと、 前 には皆 焚 棄 てたりし貫一の、如何にしてこたびば
つひ うちひら
かりは 終 に 打 拆 きけん、彼はその手にせし始に、又は読去りし後に、自らその
ゆゑ せ
は
故 を譲めて、自ら知らざるを愧づるなりき。
かが
ただ
た
かしら
彼はやがて 屈 めし身を起ししが、又 直 ちに重きに堪へざらんやうの 頭 を支へ
よ
て、机に倚れり。
こまや
おひしげ
ほのか
いきれ
あたり
緑 濃 かに 生 茂 れる庭の木々の 軽 々 なる 燥 気 と、近き 辺 に有りと有る
かをり
うちま
はなは ゆる
ぼうご
花の 薫 とを 打 雑 ぜたる夏の初の大気は、 太 だ 慢 く動きて、その間に 旁 午
つばくら
ほがらか
いくたび
つひ
かきほ
する 玄 鳥 の声
朗
に、 幾 度 か返しては 遂 に往きける跡の 垣 穂 の、さら
ざくろ
おびただし
ぬだに燃ゆるばかりなる満開の 石 榴 に四時過の西日の
夥
く輝けるを、彼は
わづらは
ごどう すずし
煩 しと目を移して更に 梧 桐 の 涼 き広葉を眺めたり。
ぬし
かみほとけ
文の 主 はかかれと祈るばかりに、命を捧げて 神
仏 をも驚かししと書けるにあ
ゆゑ
ひと
ひら
らずや。貫一は又、自ら何の 故 とも知らで、 独 りこれのみ 披 くべくもあらぬ者を
まと
いはほ なみ そそ
かか
披き見たるにあらずや。彼を 絡 へる文は猶解けで、 巌 に 浪 の 瀉 ぐが如く 懸
れり。
ひた
やうや なやまし
みじろ
そのままに 専 と思入るのみなりし貫一も、 漸 く
悩
く覚えて 身 動 ぐとと
ふみがら らちな
あわ
ひだりがた
もに、この 文 殻 の 埓 無 き様を見て、やや 慌 てたりげに 左
肩 より垂れたる
ひとひら たぐ
を取りて二つに引裂きつ。さてその 一 片 を手繰らんと為るに、長きこと帯の如し。
かさ
好き程に裂きては 累 ね、累ぬれば、皆積みて一冊にも成りぬべし。
ま
おのづ
たゆ
かかる間も彼は 自 と思に沈みて、その動す手も 怠 く、裂きては一々読むかとも
こら
さきをは
はげし
つか
目を 凝 しつつ。やや有りて 裂 了 りし後は、あだかも 劇 き力作に 労 れたらん
よわよわ
うなじ
やうに、 弱 々 と身を支へて、長き 頂 を垂れたり。
ひさし
た
にはか
お
されど 久 きに勝へずやありけん、 卒 に起たんとして、かの文殻の委きたるを
あゆみい
ひと
取上げ、庭の日陰に 歩 出 でて、一歩に 一 たび裂き、二歩に二たび裂き、木間に入
めぐ
りては裂き、花壇を 繞 りては裂き、留りては裂き、行きては裂き、裂きて裂きて
すんずん な
ひきねぢ
寸 々 に作しけるを、又 引 捩 りては歩み、歩みては引捩りしが、はや行くも
くるし
うしろさま とあ もち
苦 く、 後
様 に唯有る冬青の樹に寄添へり。
いできた
ゆひたて まるわげ
たすきがけ
折から縁に 出 来 れる若き女は、 結 立 の 円 髷 涼しげに、 襷
掛 の惜く
ぬれて はじ
のぞ
うかが
も見ゆる真白の 濡 手 を 弾 きつつ、座敷を 覗 き、庭を 窺 ひ、人見付けたる会釈
ゑみ
の 笑 をつと浮べて、
だんな
「 旦 那 様、お風呂が沸きましたが」
こころまめや
わづか
いつ
この姿好く、 心
信 かなるお静こそ、 僅 にも貫一がこの頃を慰むる 一 の
ただいつ
唯 一 の者なりけれ。
(二)の二
ゆあみ
おりた
あか
ゆかた
すう
浴 すれば、 下 立 ちて 垢 を流し、出づるを待ちて 浴 衣 を着せ、鏡を 据 るま
なほざり
をんなわざ かひな
で、お静は 等 閑 ならず手一つに扱ひて、数ならぬ 女
業 の 効 無 くも、身に
かな
ゆだ
称 はん程は貫一が為にと、明暮を唯それのみに 委 ぬるなり。されども、彼は別に奥
ひとま おのれ
さやま
の 一 間 に 己 の助くべき 狭 山 あるをも忘るべからず。そは命にも、換ふる人なり。
又されども、彼と我との命に換ふる大恩をここの
あるじ
かくのごと
主 にも負へるなり。 如
此 く
いづ おろそか
あるじ
も
せは
あは
孰 れ 疎
ならぬ 主 と夫とを同時に有てる 忙 しさは、盆と正月との 併 せ来
いま
うち
にけんやうなるべきをも、彼はなほ 未 だ覚めやらぬ夢の 中 にて、その夢心地には、
いか
かた
まこと
如何なる事も 難 しと為るに足らずと思へるならん。 寔 に彼はさも思へらんやうに
いさ
おもて
い
勇 み、喜び、誇り、楽める色あり。彼の 面 は為に謂ふばかり無く輝ける程に、常
ま
あでやか
にも愈して 妖 艶 に見えぬ。
しば ゆあがり
そよそよ うちは
暫 し 浴 後 を涼みゐる貫一の側に、お静は 習 々 と 団 扇 の風を送りゐたりし
えんばしら もた
つか
とみかうみ
が、 縁 柱 に 靠 れて、物をも言はず 労 れたる彼の気色を 左 瞻 右 視 て、
あなた
かほつき
「 貴 方 、大変にお 顔 色 がお悪いぢや御座いませんか」
ことば
な くづ
ゆす
貫一はこの 言 に力をも得たらんやうに、萎え 頽 れたる身を始て 揺 りつ。
「さうかね」
「あら、さうかねぢや御座いませんよ、どうあそばしたのです」
はつきり
「別にどうも為はせんけれど、何だかかう気が閉ぢて、 惺 然 せんねえ」
はつきり
ビ゗ル
「 惺 然 あそばせよ。 麦 酒 でも召上りませんか、ねえ、さうなさいまし」
「麦酒かい、余り飲みたくもないね」
おつしや
わたくし ひや
「貴方そんな事を 有 仰 らずに、まあ召上つて御覧なさいまし。折角
私
が 冷
して置きましたのですから」
「それは狭山君が帰つて来て飲むのだらう」
「何で御座いますつて
」
「いや、常談ぢやない、さうなのだらう」
ビ゗ル
いただ
「狭山は、貴方、 麦 酒 なんぞを 戴 ける今の身分ぢや御座いませんです」
せ
「そんなに堅く為んでも可いさ、内の人ぢやないか。もつと気楽に居てくれなくては困
る」
ちよ なみだぐ
ぬぐ
お静は 些 と 涙 含 みし目を 拭 ひて、
たま
「この上の気楽が有つて 耐 るものぢや御座いません」
あるもの
すき
い
「けれども 有 物 だから、所好なら飲んでもらはう。お前さんも克くのだらう」
いつぱい
「はあ、私もお相手を致しますから、 一 盃 召上りましよ。氷を取りに遣りまして
なつみかん
む
りんご
―― 夏 蜜 柑 でも剥きませう―― 林 檎 も御座いますよ」
「お前さん飲まんか」
「私も戴きますとも」
ひとり
「いや、お前さん 独 で」
「貴方の前で私が独で戴くので御座いますか。さうして貴方は?」
「私は飲まん」
いや
「ぢや見てゐらつしやるのですか。不好ですよ、馬鹿々々しい!
まあ何でも可いから、
ただいまぢき
そこ
ともかくも一盃召上ると成さいましよ、ね。 唯 今 直 に持つて参りますから、其処
にゐらつしやいまし」
ろうひ
もたら
気軽に走り行きしが、程無く 老 婢 と共に 齎 せる品々を、見好げに献立して彼の
なら
ろうばし さびし
きつぱん し
前に 陳 ぶれば、さすがに他の 老 婆 子 が 寂 き給仕に義務的 吃 飯 を強ひらるる
すてがた
とりあぐ
の比にもあらず、やや 難 捨 き心地もして、コップを 取 挙 れば、お静は慣れし手
ふきこぼ
元に 噴 溢 るるばかり酌して、
ぐう
「さあ、 呷 とそれを召上れ」
なかば
ま いこ
む
ふたひら
貫一はその 半 を尽して、先づ 息 へり。林檎を剥きゐるお静は、手早く 二 片
ばかりぎて、
さかな
「はい、お 肴 を」
「まあ、一盃上げやう」
ちつ
「まあ、貴方――いいえ、可けませんよ。 些 とお顔に出るまで二三盃続けて召上れよ。
は
さうすると幾らかお気が霽れますから」
「そんなに飲んだら倒れて了ふ」
よろし
いや
「お倒れなすたつて 宜 いぢや御座いませんか。本当に今日は不好な御顔色でゐらつ
しやるから、それがかう消えて了ふやうに、奮発して召上りましよ」
うすわらひ
彼は覚えず 薄
笑 して、
き
「薬だつてさうは利かんさ」
どこ
「どうあそばしたので御座います。何処ぞ御体がお悪いのなら、又無理に召上るのは可
う御座いませんから」
「体は始終悪いのだから、今更驚きも為んが……ぢや、もう一盃飲まうか」
あんま
「へい、お酌。ああ、 余 りお見事ぢや御座いませんか」
「見事でも可かんのかい」
「いいえ、お見事は結構なのですけれど、
あんま
余 り又――頂戴……ああ恐入ります」
みずしらず
「いや、考へて見ると、人間と云ふものは不思議な者だ。今まで 不 見 不 知 の、実に何
じつてい
の縁も無いお前さん方が、かうして内に来て、狭山君はああして 実 体 の人だし、お
せ
いか
前さんは優く世話をしてくれる、私は決して他人のやうな心持は為んね。それは如何な
あすこ あ
どこ
る事情が有つてかう成つたにも為よ、 那 裏 で逢はなければ、何処の誰だかお互に分ら
ずに了つた者が、急に一処に成つて、貴方がどうだとか、
わたくし
私
がかうだとか、……
かは
つきあひ
や、不思議だ! どうか、まあ 渝 らず一生かうしてお 附 合 を為たいと思ふ。けれ
じや
いは
ひんせき
ども私は高利貸だ。世間から鬼か 蛇 のやうに 謂 れて、この上も無く 擯 斥 されて
みえ
ゐる高利貸だ。お前さん方もその高利貸の世話に成つてゐられるのは、余り 栄 でも無
く、さぞ心苦く思つてゐられるだらう、と私は察してゐる。のみならず、人の生血を
しぼ
かね こしら
ゆかり
搾 つてまでも、非道な 貨 を 殖 へるのが家業の高利貸が、縁も 所 因 も無い者に、
たと
設 ひ幾らでも、それほど大事の金をおいそれと出して、又体まで引取つて世話を為る
おそろし
ずく
き
と云ふには、何か 可 恐 い下心でもあつて、それもやつぱり慾徳渾成で恩を被せるの
だらうと、内心ぢやどんなにも無気味に思つてゐられる事だらう、とそれも私は察して
ゐる。
あ
さあ、コップを空けて、返して下さい」
「召上りますの?」
「飲む」
やや
おもて のぼ
酒気は 稍 彼の 面 に 上 れり。
「お静さんはどう思ふね」
わたくし
もと
たすか
私
共は 固 より命の無いところを、貴方のお蔭ばかりで 助 つてをりますの
「
で御座いますから、私共の体は貴方の物も同然、御用に立ちます事なら、どんなにでも
あそば
遊 してお使ひ下さいまし。狭山もそんなに申してをります」
かたじけ
みつきしばり
をどり
あら
忝
ない。然し、私は天引三割の 三 月 縛 と云ふ 躍 利 を貸して、 暴 い
「
かせぎ
かねまうけ
稼 を為てゐるのだから、何も人に恩などを被せて、それを種に 銭
儲 を為るや
くど
け
けねん
うな、廻り 迂 い事を為る必要は、まあ無いのだ。だから、どうぞ決してそんな 懸 念
ほん
は為て下さるな。又私の了簡では、元々 些 の酔興で二人の世話を為るのだから、
つまり
究 竟 そちらの身さへ立つたら、それで私の念は届いたので、その念が届いたら、もう
つり もら
剰銭を 貰 はうとは思はんのだ。と言つたらば、情無い事には、私の家業が家業だから、
鬼が念仏でも言ふやうに、お前さん方は
いよい
愈 よ怪く思ふかも知れん――いや、きつと
さう思つてゐられるには違無い。残念なものだ!」
ちようう
彼は 長 吁 して、
あくぼく
「それも 悪 木 の蔭に居るからだ!」
け
「貴方、決して私共がそんな事を夢にだつて思ひは致しません。けれども、そんなに
おつしや
さは
有 仰 いますなら、何か私共の致しました事がお気に 障 りましたので御座いませう。
なんに
ぞんざいもの
かう云ふ 何 も存じません 粗 才 者 の事で御座いますから」
「いいや、……」
「いいえ、私は始終言はれてをります狭山に済みませんですから、どうぞ行届きません
ところは」
「いいや、さう云ふ意味で言つたのではない。今のは私の愚痴だから、さう気に懸けて
はなは
くれては 甚 だ困る」
おつしや
「ついにそんな事を 有 仰 つた事の無い貴方が、今日に限つて今のやうに有仰ると、
あん
日頃私共に御不足がお 有 なすつて」
かげひなたな
「いや、悪かつた、私が悪かつた。なかなか不足どころか、お前さん方が 陰 陽 無
く実に善く気を着けて、親身のやうに世話してくれるのを、私は何より嬉く思つてゐる。
いつか
ひとりぼつち
往 日 話した通り、私は身寄も友達も無いと謂つて可いくらゐの 独 法 師 の体だか
たれ
ら、気分が悪くても、 誰 一人薬を飲めと言つてくれる者は無し、何かに就けてそれは
ふさ
心細いのだ。さう云ふ私に、 鬱 いでゐるから酒でも飲めと、無理にも勧めてくれるそ
うそ
の深切は、枯木に花が咲くやうな心持が、いえ、 嘘 でも何でも無い。さあ、嘘でない
しるし ひとつさ
信 に 一 献 差 すから、その積で受けてもらはう」
「はあ、是非戴かして下さいまし」
「ああ、もうこれには無い」
「無ければ嘘なので御座いませう」
ま はんダース うへ
「未だ 半
打 の 上 有るから、あれを皆注いで了はう」
「可うございますね」
いちはや
貫一が老婢を喚ぶ時、お静は 逸 早 く起ち行けり。
(二)の三
わとう
あらた
話 頭 は酒を 更 むるとともに転じて、
つら
ふみにじ
「それはまあ考へて見れば、随分主人の 面 でも、友達の面でも、 踏 躙 つて、取る
みさかひ
いか
事に於ては 見 界 なしの高利貸が、如何に虫の居所が善かつたからと云つて、人の難
がら
儀――には附込まうとも――それを見かねる風ぢやないのが、何であんな 格 にも無い
あたりまへ
気前を見せたのかと、これは不審を立てられるのが 当
然 だ。
けれども、ねえ、いづれその訳が解る日も有らうし、又私といふ者が、どう云ふ人間
であるかと云ふ事も、今に必ず解らうと思ふ。それが解りさへしたら、この上人の十人
や二十人、私の有金の有たけは、助けやうが、恵まうが、
すこし
少 も怪む事は無いのだ。
ひど
ききづら
かう云ふと何か 酷 く偉がるやうで、 聞 辛 いか知らんけれど、これは
こころやすだて
心 易 立 に、全く奥底の無いところをお話するのだ。
やめ せ
いやさう考込まれては困る。陰気に成つて可かんから、話はもう 罷 に為う。さうし
てもつと飲み給へ、さあ」
「いいえ、どうぞお話をお聞せなすつて下さいまし」
さかな
肴 に成るやうな話なら可いがね」
「
「始終狭山ともさう申してをるので御座いますけれど、旦那様は御病身と云ふ程でも無
ごげんき
むづかし
かほつき
いやうにお身受申しますのに、いつもかう 御 元 気 が無くて、お
険
いお 顔 面
ばかりなすつてゐらつしやるのは、どう云ふものかしらんと、陰ながら御心配申してを
るので御座いますが」
「これでお前さん方が来てくれて、内が
にぎや
もと
賑 かに成つただけ、私も 旧 から見ると
よつぽど
余 程 元気には成つたのだ」
あん
「でもそれより御元気がお 有 なさらなかつたら、まあどんなでせう」
「死んでゐるやうな者さ」
「どうあそばしたので御座いますね」
「やはり病気さ」
「どう云ふ御病気なので」
ふさ
「 鬱 ぐのが病気で困るよ」
「どう為てさうお鬱ぎあそばすので御座います」
あざけ
わら
貫一は自ら 嘲 りて苦しげに 哂 へり。
つまり
せゐ
「 究 竟 病気の所為なのだね」
「ですからどう云ふ御病気なのですよ」
「どうも鬱ぐのだ」
「解らないぢや御座いませんか!
おつしや
鬱ぐのが病気だと 有 仰 るから、どう為てお鬱ぎ
あそば
どこ
遊 すのですと申せば、病気で鬱ぐのだつて、それぢや何処まで行つたつて、同じ事
ぢや御座いませんか」
「うむ、さうだ」
「うむ、さうだぢやありません、
「ああ、もう酔つて来た」
しつか
緊 りなさいましよ」
おやすみ
「あれ、未だお酔ひに成つては可けません。お横に成ると 御 寐 に成るから、お起き
なすつてゐらつしやいまし。さあ、貴方」
よ
ひぢづゑ よこた
うしろ
たすけおこ
せ
お静は寄りて、彼の 肘 杖 に 横 はれる 背 後 より 扶
起 せば、為ん無げに
よ
柱に倚りて、女の方を見返りつつ、
ただつぐ
「ここを富山 唯 継 に見せて遣りたい!」
よ
「ああ、舎して下さいまし!
ぞつ
名を聞いても慄然とするのですから」
ぞつ
「名を聞いても慄然とする?
さう、大きにさうだ。けれど、又考へて見れば、あれに
罪が有る訳でも無いのだから、さして憎むにも当らんのだ」
ほん いけす
「ええ、 些 の 太 好 かないばかりです!」
ちが
「それぢや余り 差 はんぢやないか」
どつち
い
「あんな奴は 那 箇 だつて可いんでさ。第一活きてゐるのが間違つてゐる位のものです。
いや
本当に世間には不好な奴ばかり多いのですけれど、貴方、どう云ふ者でせう。三千何
たい
ひとかず
百万とか、四千万とか、何でも 太 した 人 数 が居るのぢや御座いませんか、それな
き
はだあひ
うれし
でつくは
らもう少し気の利いた、 肌 合 の好い、 嬉 い人に 撞 見 しさうなものだと思ひ
ますのに、一向お目に懸りませんが、ねえ」
「さう、さう、さう!」
うじやうじや
ばんくるはせ
「さうして富山みたやうなあんな奴がまあ 紛 々 然 と居て、 番
狂 を為て
ある
行 くのですから、それですから、一日だつて世の中が無事な日と云つちや有りは致し
きざ
いけす
いやみ
ません。どうしたらあんなにも気障に、 太 好 かなく、 厭 味 たらしく生れ付くのでせ
う」
「おうおう、富山唯継散々だ」
よ
「ああ。もうあんな奴の話をするのは馬鹿々々しいから、貴方、舎しませうよ」
「それぢやかう云ふ話が有る」
「はあ」
どつち
「一体男と女とでは、だね、 那 箇 が情合が深い者だらうか」
なぜ
「あら、何為で御座います」
なぜ
「まあ、何為でも、お前さんはどう思ふ」
「それは、貴方、女の方がどんなに情が」
「深いと云ふのかね」
「はあ」
あて
「 信 にならんね」
「へえ、信にならない証拠でも御座いますか」
「成程、お前さんは別かも知れんけれど」
よ
「可う御座いますよ!」
「いいえ、世間の女はさうでないやうだ。それと云ふが、女と云ふ者は、
かんがへ
慮
が浅
やす
いからして、どうしても気が移り 易 い、これから心が動く――不実を不実とも思はん
やうな了簡も出るのだ」
あさはか
きま
「それはもう女は 浅 捗 な者に 極 つてゐますけれど、気が移るの何のと云ふのは、
ほ
ちつと
やつぱり本当に惚れてゐないからです。心底から惚れてゐたら、 些 も気の移るとこ
おもひつ
ろは無いぢや御座いませんか。善く女の一念と云ふ事を申しますけれど、 思 窮 めま
すと、男よりは女の方が余計夢中に成つて了ひますとも」
わる
「大きにさう云ふ事は有る。然し、本当に惚れんのは、どうだらう、女が 非 いのか、
それとも男の方が非いのか」
むづかし
どつち
わる
「大変 難
く成りましたのね。さうですね、それは 那 箇 かが 非 い事も有りませ
とし
う。又女の性分にも由りますけれど、一概に女と云つたつて、一つは 齢 に在るので御
座いますね」
「はあ、齢に在ると云ふと?」
わたくしども しようばい
みぼれ
私
共 の 商
買 の者は善くさう申しますが、女の惚れるには、 見 惚 に、
「
きぼれ
そこぼれ
みとほり
ちよい
気 惚 に、 底 惚 と、かう 三 様 有つて、見惚と云ふと、 些 と見たところで惚
あかえり
込んで了ふので、これは十五六の 赤 襟 盛に在る事で、唯奇麗事でありさへすれば可
まる
いのですから、 全 で酸いも甘いもあつた者ぢやないのです。それから、十七八から
はたち
二 十 そこそこのところは、少し解つて来て、生意気に成りますから、顔の好いのや、
なり おつ
あんま
扮装の 奇 なのなんぞには 余 り迷ひません。気惚と云つて、様子が好いとか、気合
ま
が嬉いとか、何とか、そんなところに目を着けるので御座いますね。ですけれど、未だ
未だやつぱり浮気なので、この人も好いが、又あの人も万更でなかつたりなんぞして、
つまり なか
究 竟 お 肚 の中から惚れると云ふのぢやないのです。何でも二十三四からに成らなく
ては、心底から惚れると云ふ事は無いさうで。それからが本当の味が出るのだとか申し
ますが、そんなものかも知れませんよ。この齢に成れば、曲りなりにも自分の了簡も
すわ
しやれつき
据 り、世の中の事も解つてゐると云つたやうな勘定ですから、いくら 洒 落 気 の奴
うはちようし
そこ
でも、さうさう 上 調 子 に遣つちやゐられるものぢやありません。其処は何と無く
しんみり
深 厚 として来るのが人情ですわ。かうなれば、貴方、十人が九人までは滅多に気が
きれか
移るの、心が変るのと云ふやうな事は有りは致しません。あの『赤い 切 掛 け島田の
うち
うた
中 は』と云ふ 唄 の文句の通、惚れた、好いたと云つても、若い内はどうしたつて
しん いちにんまへ
心 が 一 人 前 に成つてゐないのですから、やつぱりそれだけで、為方の無いもの
です。と言つて、お婆さんに成つてから、やいのやいの言れた日には、殿方は御難です
ね」
お静は一笑してコップを挙げぬ。貫一は
しきり うなづ
連 に 頷 きて、
みぼれ
とし
「誠に面白かつた。 見 惚 に気惚に底惚か。 齢 に在ると云ふのは、これは大きにさう
だ。齢に在る! 確に在るやうだ!」
「大相感心なすつてゐらつしやるぢや御座いませんか」
「大きに感心した」
あた
あん
「ぢやきつと胸に 中 る事がお 有 なさるので御座いますね」
なぜ
「ははははははは。何為」
ただ
「でも感心あそばし方が 凡 で御座いませんもの」
いよい
「ははははははは。 愈 よ面白い」
「あら、さうなので御座いますか」
「はははははは。さうなのとはどうなの?」
「まあ、さうなのですね」
ことさら
まなこ こら
ゑ
ほころ
おもて
彼は 故
にれる 眼 を 凝 して、貫一の酔ひて赤く、笑ひて 綻 べる 面
もと
うちまも
の上に、或者を 索 むらんやうに 打 矚 れり。
「さうだつたらどうかね。はははははは」
いよい
「あら、それぢや 愈 よさうなので御座いますか!」
「ははははははははは」
「可けませんよ、笑つてばかりゐらしつたつて」
「はははははは」
第三章
さふらふ
それ
なぬか あひなりさふら
惜くもなき命は有り
候
ものにて、はや 其 より 七 日 に 相 成 候 へども、
なほひごと
くるし
このよ
猶 日 毎 に心地 苦 く相成候やうに覚え候のみにて、今以つて 此 世 を去らず候へ
おん
さ
くちをし
おんはづかし
ば、未練の程の 御 つもらせも然ぞかしと、 口 惜 くも 御
恥 く
ぞんじあげまゐ
おんまへさま
おひおひあつさ
存 上 参 らせ候。 御 前 様 には 追 々
暑 に向ひ候へば、いつも夏まけ
なされさふらふこと
このごろ いか おんくら あそばされさふらふ
にて御悩み 被 成 候 事 とて、 此 頃 は如何に 御 暮 し 被
遊
候
ひとしほおんあん まをしあげまゐ
やと、 一 入 御 案 じ 申 上 参 らせ候。
わたくしこと
これありさふらふゆゑ しるし
私
事 人々の手前も 有
之
候
故 、 儀 ばかりに医者にも掛り候へ
みなうちす まをしさふらふ
ども、もとより薬などは飲みも致さず、 皆 打 捨 て 申
候 。御存じの
このわづらひ
此
疾 は決して書物の中には載せて在るまじく存候を、医者は訳無くヒステリ゗
ぞんじまをさずさふら
と申候。是もヒステリ゗と申候外は無きかは 不
存
申
候 へども、自分には広
たぐひな
き世間に 比 無 き病の外の病とも思居り候ものを、さやうに有触れたる名を附けられ
候は、身に取りて誠に誠に無念に御座候。
うち つむりおも
きづかれはげし
たいぎ
わ
昼の 中 は 頭
重 く、胸閉ぢ、 気 疲 劇 く、何を致候も 大 儀 にて、別け
たれ
いつせつくち き まをさず ただひと ひきこも
て人に会ひ候がく、 誰 にも 一 切 口 を利き 不 申 、 唯 独 り 引 籠 り居り
むなし
た さふらふうち
このいのち
ちと
候て、 空 く時の経ち 候
中 に、 此
命 の絶えず 些 づつ弱り候て、
さいご
おのづ
おぼ まをしさふらふ
最 期 に近く相成候が 自 から知れ候やうにも 覚 え 申
候 。
よ い
にはか さえざえ あひなり
ねぶ
夜に入り候ては又気分変り、胸の内 俄 に 冱 々 と 相 成 、なかなか 眠 り居
これなく
おぼしめしなされ
り候空は 無 之 、かかる折に人は如何やうの事を考へ候ものと 思 召 被 成 候や、
これあるべくさふらふ
又其人私に候はば何と 可
有
之
候 や、今更申上候迄にも御座候はねば、
なにとぞよろし おんはん あそばされたく よひとよ
何 卒 宜 く 御 判 じ 被 遊 度 、 夜 一 夜 其事のみ思続け候て、毎夜寝も
せず明しまゐらせ候。
もと
いよい ほのほ や
ひとし
さりながら、何程思続け候とても、水を 覓 めて 逾 よ 焔 に燃かれ候に 等
くげん
このせめ のが
ながら さふらふ
き 苦 艱 の募り候のみにて、いつ 此 責 を 免 るるともなく 存 へ
候
は、
かよわ
あまり
しのびがた
なほなほ
くるし
孱 弱 き女の身には 余 に余に 難
忍 き事に御座候。 猶 々 此のやうの 苦
いたしさふらふ
かたづ まをさざ
き思を 致
候 て、惜むに足らぬ命の早く 形 付 き 不 申 るやうにも候はば、
まし ぞんじつ さふら
いつそ自害致候てなりと、潔く相果て候が、に 愈 と 存 付 き 候 へば、万一の場
さ
いたすべく
合には、然やうの事にも 可
致 と、覚悟極めまゐらせ候。
あきら まをしさふら
とて
さまざまに 諦 め 申
候 へども、此の一事は 迚 も思絶ち難く候へば、
わたくしあひは さふらふまで
お
おんめ
私
相 果て 候
迄 には是非々々一度、如何に致候ても推して 御 目 もじ相
まをすべく
ただそのこと
かんがへを まをしさふらふ
願ひ 可 申 と、此頃は 唯 其 事 のみ一心に 考
居 り 申
候 。昔よ
うつつ かみほとけ おんすがた
をが
り信仰厚き人達は、 現 に 神
仏 の 御
姿 をも 拝 み候やうに申候へば、私
ござなく ぞんじまゐ
とても此の一念の力ならば、決してはぬ願にも 無 御 座 と 存
参 らせ候。
(三)の二
さくじつ
おんははさままゐ
これ
ただつぐこと
昨 日 は見舞がてらに本宅の 御 母 様 参 られ候。 是 は一つは 唯 継 事
ふきげん
さふらふところ
近頃 不 機 嫌 にて、とかく内を外に遊びあるき居り 候
処 、両三日前の新聞に
うはさい
あまり
善からぬ 噂 出 で候より、心配の 余 様子見に参られ候次第にて、其事に就き私へ
こんこん
ほうとういたしさふらふ
ひつきよううち
懇 々 の意見にて、唯継の 放
蕩
致
候 は、 畢
竟 内 のおもしろか
ゆゑ
はづかし
らぬ 故 と、日頃の事一々誰が告げ候にや、 可 恥 き迄に皆知れ候て、此後は何分心
まをされさふらふ わたくしことそのせつひとおも
を用ゐくれ候やうにと 被
申
候 。 私
事
其 節 一 思 ひに不法の事
あいそ
さた
あひなりさふら
を申掛け、 愛 想 を尽され候やうに致し、離縁の沙汰にも 相 成 候 はば、誠に此
さいはひ ぞんじつ
このしうとめ まをしさふらふひと
上無き 幸
と 存 付 き候へども、 此
姑 と 申
候
人 は、評判の
こと
ひごろ
なさけ
たと
心掛善き御方にて、 殊 に私をば娘のやうに思ひ、 日 頃 の厚き 情 は海山にも 喩
へ難きほどに候へば、なかなか
ことば
これなく
辞 を返し候段にては 無 之 、心弱しとは思ひなが
こぼ
よんどころなくみ ふつつか
わ まをしさふらふ
ら、涙の 零 れ候ばかりにて、 無
拠 身の 不 束 をも詑び 申
候 次
第に御座候。
このいのちおんまへさま
ござなくさふら
此
命 御 前 様 に捨て候ものに 無 御 座 候 はば、外には此人の為に捨て
まをすべく ぞんじさふらふ
おんまへさま
可
申 と 存
候 。此の御方を母とし、 御 前 様 を夫と致候て暮し候事
かな
い
むしろ まと さふらふ
そのたのしみ さ
も相 叶 ひ候はば、私は土間に寐ね、 蓆 を 絡 ひ
候
ても、 其
楽 は然
ぞやと、常に及ばぬ事を
こひし
恋 く思居りまゐらせ候。私事相果て候はば、他人にて
まこと
おんかたひとり
さ
真 に悲みくれ候は、此世に此の 御 方 一 人 に御座あるべく、第一然やうの人を
なさけ よそ いたしさふらふ
いか
欺き、然やうの 情 を余所に 致
候 私は、如何なる罰を受け候事かと、悲く
しにやう
さはり
悲く存候に、はや浅ましき 死 様 は知れたる事に候へば、外に私の願の 障 とも
あひなりまをさず
まをしさふらふ
相 成 不 申 やと、始終心に懸り居り 申
候 。
おそろし
ござなくさふらふ
思へば、人の申候ほど死ぬる事は 可 恐 きものに 無 御 座 候 。私は今が今
このまま
しあはせ ぞんじまゐ
ただあと のこ
此 儘 に息引取り候はば、何よりの 仕 合 と 存
参 らせ候。 唯 後 に 遺 り
なげき
がひ
ぢき
候親達の 歎 を思ひ、又我身生れ 効 も無く此世の縁薄く、かやうに今在る形も 直
このふで このすずり
このあかり このすまひ
に消えて、 此 筆 、 此
硯 、此指環、 此
燈 も 此 居 宅 も、此夜も此夏も、
あたり
ひと な
此の蚊の声も、 四 囲 の者は皆永く残り候に、私 独 り亡きものに相成候て、人には草
花の枯れたるほどにも思はれ候はぬ
はかな
儚 さなどを考へ候へば、返す返す情無く相成候
い まをしさふらふ
て、心ならぬ未練も出で 申
候 。
底本:「金色夜叉」新潮文庫、新潮社
1969(昭和 44)年 11 月 10 日第 1 刷発行
1998(平成 10)年 1 月 15 日第 39 刷発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
※「□」は底本が用いた、伏せ字用の記号です。底本では「□」は、縦長のものが使わ
れています。
いち や
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号 5-86)を、「 市 ヶ谷」
ちご ふち
りゆう はな
「 児 ヶ 淵 」「 竜 ヶ 鼻 」は小振りに、「一ヶ年分」は大振りに、つくっていま
す。
2000 年 2 月 23 日公開
2005 年 9 月 29 日修正
青空文庫作成フゔ゗ル:
このフゔ゗ルは、゗ンターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作ら
れました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランテゖゕの皆さんです。