科学と人間の不協和音

科学と人間の不協和音
タイトル
科学と人間の不協和音
著
池内 了(いけうち さとる)
者
出 版 社
角川書店
発 売 日
2012 年 1 月 10 日
ページ数
p224
現代社会は科学に依存しており、交通、情報通信、エネルギーなど、ありとあらゆ
る技術、社会インフラは科学によって生み出され、運営されています。
科学技術の進歩は人間の寿命を延ばし、生活の利便性を飛躍的に向上させました。
一方で、これらは環境破壊を起こし、格差の拡大が見られるようになるなど、豊かさの
副作用も出てきています。
これらの副作用が社会に科学を適用した結果だとしたら、科学者はそこに目を向け
るべき責務が生じます。福島第一原発の事故(以下、福島の事故)は、そんな副作用
の典型と言って良いでしょう。
今回、原発関連組織の構造が広く世間に知られるところとなり、科学者であっても利
益集団として活動する人々がいるという実態が白日の下に晒されました。そうしたこと
から、科学(あるいは科学者)は社会からの信頼を大きく失墜させました。
だからといって、福島の事故によって醸成された、「日本の科学は駄目になった」だ
とか、「科学者の言うことなど信用できない」などという風潮を、そのまま是認するわけ
にはいきません。というのも、科学技術が人類にもたらした、そしてこれからももたら
すであろう恩恵は計り知れないものがあるからです。
福島の事故を契機に、今一度科学技術の持つ負の部分にも目を向けながら、社会
との関りを問い直していくことこそが、科学者に課せられた今後の使命ではないでしょ
うか。
本書はまずイントロで、著者は次のように述べています。2011 年 3 月に東日本大震
災が勃発し、マグニチュード 9.0 という大地震とそれによって励起された大津波は人
間の手ではどうしようもない「天災」であったが、それによって引き起こされた福島の
大事故は「人災」の要素が強く、最新の粋を誇る科学・技術への信頼感を大きく揺る
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がせることになった。併せて、そのような科学・技術を先導したにも関らず、責任を取
ろうとしない科学者・技術者の社会的責任も厳しく問われる状況になっている。
科学・技術の発達によって人間は増長して自然を制御できるかのように錯覚し大失
敗を犯してしまった。ここにおいて科学と人間の間の不協和音は最高潮に達した感が
ある。果たして、これまで通りの科学偏重路線で進むのか、それともいったん停止して
科学と社会の関係を見直すのか、いま重大な岐路にさし掛かっているといえる。
そこで、本書の中身を少し覗いてみましょう。まず、科学・技術に関連した大学の現
状はどうでしょうか。
現代の科学の最前線はどんどん特殊化・専門化し、自然全体を大きく切り取るよう
な基本理論に欠けており、物理学でいえば「相対論や量子論」、地球物理学でいえば
「プレートテクトニクス」、生物学でいえば「DNA の二重ラセン構造」、これらは大きなパ
ラダイム変換を起こし、科学の中身を大きく変更させました。
しかし、いずれも 50 年以上も前に起こった科学革命であり、それ以後はその内容を
豊かにする通常科学の域を脱していません。
原理的な世界の発見が滞ると、技術的な側面に力点が移らざるを得ず、実際、一
般相対論は「カーナビ」に応用され、量子論は「エレクトロニクス革命」を担い、プレー
トテクトニクスは「地震や火山研究」の基礎となり、DNA の構造は「ゲノム解読を経て
創薬や病気の治療」に活かす、というふうに人間の生活と密着した課題へとシフトして
います。つまり、現状では科学と技術がより一層強く結びつくようになったわけです。
最近では、大学と社会をつなぐ橋として教育と研究以外に、納税者への説明責任と
して地域貢献、科学の商業化圧力から知的財産権の獲得が付け加わるようになりま
した。
さらに、国家の科学技術政策による研究課題の誘導、競争原理によった研究資金
の増大、業績主義(publish or perish:研究業績を出せ、さもなければ消えろ!の意)、
専門家でない者による査定・評価、官僚主義的管理、実用性(起業・特許)への圧力
など、アカデミック科学の時代とは異なった様相が強くなってきました。
それらの根源は大学への「経済論理の導入」であり、「知的共同体」であった大学
の「知的企業体」への変質です。つまり、「科学の商業化」が進みつつあるというわけ
です。
それを象徴する言葉として「産官学連携」が挙げられます。かっては、「産学共同」と
呼ばれ、産業界と大学との共同研究・開発が奨励されましたが成功しませんでした。
というのも、大学の私的企業との協力については、大学教員の兼業禁止、企業から
の寄付行為の制限、大学の特許取得や起業の困難など多くの制約があり、大学が企
業から従属的な関係を求められることを警戒したためです。
実際、産学共同には多くの大学人が反対しました。その制約を取り払い、大学と企
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業が対等な関係が結べるようになった法整備を行ったのが政府すなわち官僚で、そ
の意味で産官学という三者の連携が謳われるようになりました。
国立大学を法人化したことが、企業論理を国立大学に導入する結果となりました。
このことは、企業論理を大学に導入するために法人化したのだともいえるわけです。
そして、大学も産官学連携に進んで参加し、大学発ベンチャーの起業、特許取得の
推進など、大学への企業からの寄付など、大学はいま様変わりの様相を見せていま
す。
そうなると科学は、精神的な欲望を置き去りにして、物質的な欲望を満たすことに
奔走するのがその目的であるかのように変質してきました。
かっては、「必要は発明の母」でした。技術は物質的な欲望から出発したのは事実
ですが、「必要」という精神の飢えが、「発明」という物質的生産へと導いたことを忘れ
てはなりません。ところが、現代は「発明は必要の母」となってしまいました。・・・・・。
次に、欲望と科学の共犯関係では、
DNA の構造と遺伝情報伝達の仕組みが分かったのは 1953 年、DNA の操作によっ
て遺伝子改変が行われるようになったのが 1972 年、そして、ヒトゲノム(遺伝子の全
セット)の解読を完了したのが 2003 年でした。
今後の方向は、人間の遺伝子地図を作製し、問題となる遺伝子を改変操作して人
間の改造を行い、遺伝子の性質に合致した新薬の開発を行うことです。これを、テー
ラーメイド医療と呼んでいます。人それぞれの遺伝子は少しずつ異なるわけですから、
それぞれに合った治療を行おうというわけです。
既に開発され商業化さているのは、遺伝子改変の技術を農作物に応用した遺伝子
組み換え作物です。「除草剤耐性のダイズやナタネ」、「殺虫剤耐性のジャガイモやト
ウモロコシ」、「日持ちの良いトマト」などが既に市場に出回っています。
農薬が少なくて済むといういのが謳い文句で、安全性の根拠は「実質等価」にあると
いいます。新たに組み入れた遺伝子が作り出す物質が通常の作物と同様に「人口胃
液」の実験で分解されることから、実質的に同じと判断して安全だと言っているわけで
す。
しかし、アレルギーやガンを引き起こす物質や他の有害物質ができる可能性につ
いて、作物全体をチェックしていないことに注意すべきです。また、組み換えた除草剤
耐性(殺虫剤耐性)の遺伝子が雑草に移行して除草剤(殺虫剤)が効かない雑草(虫)
が広まり、生態系に大きな悪影響を及ぼす危険性もあります。
さらに問題なのは、遺伝子組み換え作物の種子は不稔化されており、毎年種子会
社から購入しなければならないことです。
種子会社の農業支配が貫徹するというわけです。アフリカの飢餓を救うために遺伝
子組み換え作物を提供するという「美談」はありましたが、その真の狙いはアフリカを
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農業支配し、生態系の実験場とすることにあったというわけです。・・・・・。
遺伝子関連では、遺伝子に関る人間への現在可能な応用技術として、遺伝子診断
(セラピー)があります。人の体液、血液、組織、受精卵などを用いて、遺伝的な異常、
すなわち遺伝病、タンパク質や代謝物の異常などを解析するもので、診断の確定、新
生児のスクリーニング(新生児における先天性代謝異常などの疾患やその疑いを早期
に発見し、発病する前から治療が出来るようにすることを目的とした検査のこと)、出生前
判断、疾患発症リスクの予測などを行うのが目的です。
一番問題となるのは受精の遺伝子診断で、遺伝子の異常があれば中絶するという
選択が可能になります。さらに、この診断と遺伝子操作を組み合わせれば、「好みの
タイプの子供とすることができる」というのです。いわゆる「デザイナー・ベビー」の誕生
で、自分の子供は好い子であって欲しいという欲望を充足させるための科学になりつ
つあります。
これが進むと、人間の品種改良に結び付き、新しいタイプの優生学を招く可能性が
あります。すなわち、究極のプライバシーである遺伝子型が明らかになってしまうため、
就職差別や生命保険の差別など遺伝子を理由とした人間差別につながる懸念もある
のです。・・・・・。
原発の「安全神話」が流布した原因の一つに、科学者が臆面もなく安全を保証して
きたことがあります。まさに、神に代わって絶対安全を説いてきたというわけです。
科学は物質を扱い、宗教は形のない心を扱うと、あたかも二つは水と油のように譬
えられますが、現在はそうではありません。というのも、「XXの科学」とか{○○真理教}
という風に科学に近いことを標榜するようになっているからです。宗教における科学
の利用は、今後様々に形を変えて出てくるに違いありません。
逆に、科学の側からの宗教の利用も見られます。「人間原理」というのがそれにあた
ります。「人間原理」とは、この宇宙の諸々の構造はちょうど人間が生まれるのに適し
た条件下で形成されたことに注目して、それを一歩進めて、「この宇宙は人間を作り
出すことを目的としている」とし、人間の存在を宇宙進化の原理としようというもので
す。
かの車椅子の天才であるスティーブン・ホーキングも「人間原理」の信奉者になって
います・・・・・。
終章で著者は、地下資源に支えられた現代の文明は曲がり角に差し掛かっており、
今後は地上資源に目を向けた新たな科学・技術に依拠した文明の構築に取りかかる
時期を迎えているという持論を紹介します。
地球の有限性の壁は、近代文明の基礎をなす地下資源の枯渇が目前に迫ってい
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ることであり、環境容量が満杯に近づいてきたために無秩序に行ってきた大量廃棄
が不可能になりつつあります。このままいけば、資源獲得競争が勃発し、人々は悪化
した環境の中で疲弊し、莫大な犠牲者が生み出されてしまうだろうと危惧しています。
たった 300 年足らずの歴史で地下資源文明が終焉を迎えようとしているからです。
発達した科学・技術による利得とは裏腹に、その弊害も目立つようになってきました。
原発事故がその典型で、不毛の土地を生み出し、放射線被曝におびえ、放射能に汚
染された地域の後始末に何十年も要するのです。
そもそも原発は、「放射性廃棄物を未来の人間に押し付ける」という根本的な矛盾を
抱えています。「現在の利得と将来の弊害」を知りつつ、平気で敢行してきたことの罪
深さを意識してきませんでした。
原発の事故はスリーマイル島(1979 年)、チェルノブイリ(1986 年)、そして福島の事
故(2011 年)を経て、明らかに再検討が迫られています。
ポスト原発では、地上資源である太陽光、太陽熱、風、水、海水、地熱、植物や動物
(バイオマス)などが考えられており、原理的には太陽と地球が存続する限り枯渇する
ことがない資源の利用であり、なおかつ、環境から取り入れた後に環境に廃棄すると
いう意味で、環境への負荷が小さいという大きな利点も挙げられます。
とはいうものの、地上資源はエネルギー密度が低いため、効率性に欠け、環境との
調和性があるため耐久性に欠け、自然状態に依拠するために安定性に欠ける、とい
った欠点が付随します。
そのために、大量生産に不向きであり、当然大量消費には結びつきません。むしろ、
大量生産・大量消費を拒否し、身の丈に合った生活へと回帰することが地上資源文
明の本旨で、「欲望を解放して生きる」ことから、「欲望を抑制して生きる」方向への転
換が必要になってきます。
以上、著者は科学者の立場にありながら、首尾一貫して科学者を批判しています。
つまり、自分たちがやっている研究が世の中とどう繋がっているかをしっかり見つめ、
必要な提言を続けています。
今回の福島の事故の状況を見ていると、人間の思考力、判断力の全般的衰弱と幼
稚化傾向が著しいことが見て取れます。その精神状態とは、適切なことと適切でない
ことを見分ける感情が欠落しており、他人および他人の意見を尊重する配慮が大幅
に欠如しているのを感じます。また、個人の尊厳の無視が著しく、自分自身のことに
対する過大な関心などが横行している有様です。
このような状況下で、大人たちは、「原発はやめろ、しかし計画停電などもっての他
だ」などとまるで子供のように振る舞っています。
そのようなインプットとアウトプットを結び付けるのは不可能だと言っても、「そんなこ
とを考えるのは我々の仕事ではない。われわれは、そういう結果を出してもらえばよ
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いのだ」と「俺だったらこうする。という代案さえ出さない」どこかの市長のように駄々を
こねている有様です。啖呵をきったその市長は、電力消費量の低下が高齢者の健康
を直撃し、昨年の夏の死亡率を上げた事実をご存じなのだろうか。
マスコミも、自分の頭でものを考えることを停止したまま、中途半端で、皮相な知識
の受け売りでしか情報を流しません。こうした思考力、判断力の衰弱がもたらした「品
質の悪い情報」は、私たちの周りに満ち溢れ、恐るべき情報汚染を引き起こしていま
す。まさに、福島原発事故のその後は、情報汚染の放射能が世論の中に蓄積されて
いる有様です。
ここ数十年間、社会は大変なスピードで高度化し、複雑化しています。そこに市民が
追い付けないほどに専門家と一般市民の間に深い溝が出来てきました。しかし、最低
限の基礎知識だけは学んでおかなければ、その時々の感情論に支配されやすいこ
の社会の風潮は是正されません。
一般市民が科学的素養を身につけなければ、科学の価値や危険性、専門家の言
動について正確な判断を下せないどころか、低レベルの敵探しに知らないうちに加担
してしまいかねないからです。
子供の成長はあっという間です。十数年もすれば社会の意思決定に参加できるよ
うになるのですから、決して非現実的な提案ではないはずです。まず、教育の現場か
ら手を付けることで、この不毛な言論空間が是正されることが望まれます。
さらに、原発を論じる中で以外にも十分に論じられていない話題があります。それ
は経済成長と科学の関係です。よく言われるように経済成長あるいは GDP の増加が
必ずしも人々の幸福度や生活満足度に結び付いていないといった点を示す様々な研
究がなされており、2010 年には「GDP に代わる指標」に関する報告書などがヨーロッ
パで見られるようになりました。リーマン・ショック後の不況や最近のアメリカ、ヨーロッ
パでの経済不安など、現在の経済社会システムの在り方をどこかで根本的に考え直
していかなければならないという認識が、人々の間で共有されつつあります。
さて、福島の事故以来、原子力を専攻する学生の数が減ってきました。というのも、
国の科学的な論拠に基づいたエネルギー政策の見通しが定まらず、原発再稼働の
目途も立たないことが背景にあるからです。
原発の集中する福井県の福井大大学院(2012 年 4 月)は 46 人から 28 人へ 39%
減り、また福井工業大学では 60 人から 24 人へと 60%減と際立っています。
原子力の専攻学生がこのまま先細りにでもなれば、今後事故を起こした「原子炉の
廃炉作業(廃炉は約 40 年続く作業)」や「安全管理技術の向上」などに影響がでること
は必須です。
本書を読んでいて気になったのは、今回の福島の事故で、原発に関った科学者を
罪人扱いするのではなく、新たな出発の場を作ってやってはどうかという著者(科学者)
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からの提言がなかったことです。
日本人が部分を見て全体をみることが出来ず、短期のことしか考えず、長期の未
来を考えることが出来なくなり、「エゴ」と「放縦」と「全体主義」の蔓延の中で自滅して
いく危険性を科学者の立場から指摘して欲しかったところです。
世界が原子力をインフラとして使っていく方向は変わらないことを考えると、日本は
世界の原発の安全に貢献していこうという科学者や技術者が勇気づけられるような
雰囲気を本書のどこかで指摘できなかったのでしょうか。
「おわりに」で、・・・・・「さて今後はどのように推移していくのだろうか」という傍観者
のような姿勢も気になるところです。
科学者らしい科学および科学者批判の書でもあります。章ごとの解説は判り易く、
多くのエピソードを交えながら解説してくれます。科学についてもっと考えを深めてみ
たいという人にはお薦めの書です。
2012.4.29
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