大学祭展示研究テーマ バロック音楽 Musica barocianae 1963 「室内合唱団」第四期 企画編集 藤井宏 小沢昭雄・堀内彩子 昭和三十八年 復刻版 創立五十周年・記念行事・実行委員会・復刻支部編 平成二十三年 企画編集 山下 豊 日光三代治 (2011) 復刻版はしがき 第四期定演をまじかにひかえた昭和38年(1963)の秋、 「室内合唱団」は、 「バロック音楽 研究」というテーマをかかげて、晩秋の大学祭に展示参加しています。草創期三年間の組織づく りの苦労がようやく報われ、いよいよとりあげるべき音楽の方向性の検討に入りはじめた時期で す。常任指揮者をはじめとして、バッハを中心にバロック音楽に、コンサート枠を配分すべきと いう意見は創立当初からありました( 『ハモル 27 号』座談会[1963] )が、四期から実質的な検 討と試行錯誤の期間に入ります。その嚆矢となったのが、今回、復刻版としてご紹介する冊子『バ ロック音楽』 (1963)であります。 学園祭で展示資料として配布されました。内容は難解ですが、 エボックメイキングなものゆえ、記録保存版を作ることにしました。折から、世界の潮流に連動 して、日本中にバロックブームの風が吹き荒れていました。音楽辞典類の文章の切り貼り的な冊 子ですが、このような大がかりなものをつくる熱意とチームワークに敬意を表したいと思います。 1 (2011年6月・復刻支部・山下・記) 2 3 は じ め に 1963 最近、音楽界においてバロック熱が隆盛を極め、外国から多くのバロック音楽の演奏団体が来日 し、その真髄を聴かせてくれました。 バロックとは美術からきた言葉で、それが最近になって音楽の形式に用いられるようになりま した。バロック音楽は、ローマン、クラシック音楽[注ⅰ]以前の音楽でありながら、我々現代 人にフレッシュな魅力を感じさせます。これは現代人の感覚にマッチする様な何か不思議な要素 があるからでしょう。急進的な前衛派についていけない音楽愛好者、チェンバロン [注ⅱ]の、 ある時はうらさびしい、ある時はほがらかな明るいメロディーに魅せられた者達が、バロック音 楽に音楽的新鮮さと憩いの場を見いだしたのでしょう。 私共、 「室内合唱団」は今年第四期(1963)の方針として、 『バロック音楽研究』という一大テ ーマをかかげ、バロックの本質を追求しようと、数カ月を要し、共同研究を実践してまいりまし た。ここにその成果を発表いたします。この冊子が音楽愛好家の皆様にバロック音楽理解の一端 を演ずれば幸いであります。(1963年・室内合唱団第四期・企画編集子・藤井宏(ふじい・ ひろむ) ・記) [注ⅰ: 「ローマン、クラシック音楽] 古めかしい印象がありますが、現代の語彙でいうと、「ロマン 派、古典派音楽」 。 [注ⅱ: 恐れながら、半世紀前の企画編集子の方の勘違いと思われます。バロックで活躍する鍵盤楽器 のチェンバロ〈cembalo〉と、欧州からアジアにまで広がりを持つ打弦楽器のチェンバロン〈cimbalom〉 [ツ ィンバロム]は、系統的に近く、語源も共通ですが、相互に異なる楽器です。1963年とうじ、チェン バロを巷間目にする機会はほとんどなく、博物館の陳列品であった時期です。勘違い自体が、かえって貴 重な歴史的証言となっています。カタカナ書きが似ているので間違える人は現代でもいます。アンダーラ インをクリックしてチェンバロンの音を聴いてみてください。なお、 「室内合唱団」のチェンバロ使用の 事始めは、意外に早く、1974年(15期)の六月演奏会でした。日本のチェンバロ製作の草分け、堀 栄蔵氏(1926-2005)の手になる歴史的楽器(通称「白チビ」)を使いました。現在、八ヶ岳連峰の山小屋 (青年小屋)で現役です!] [小目次] ◇グレゴリオ聖歌 ◇アルス・アンティクァとアルス・ノーヴァとの関連 ◆アルス・アンティクァ ◆アルス・ノーヴァ ◇マドリガル ◆十四世紀のイタリア古マドリガル ◆十六世紀のイタリア新マドリガル 4 ◆イギリス のマドリガル ◇オルガヌム organum ◇ディスカントゥス discantus ◇フォーブルドン fauxbourdon、fauxbordon ◇中世からバロックに至る迄の対位法の変遷 ◇通奏低音(basso continuo) ◇十二~十九世紀に盛えた音楽合唱様式 ◆ア・カペルラ a cappella ◆ミサ ◆コラール ◆モテット ◆パッション(受難曲) ◆オラトリオ ◆アリア ◆カンタータ ◆中世におけるシャンソンの移り変わり ◆リート ◆多声 的リート ◇バロック時代における器楽形式 ◆トッカータ ◆フーガ ◆プレリュード(前奏曲) ◆ファンタジア ◆ソナタ ◆ バロック・ソナタ ◇バロック音楽の作曲家とその作品 ◆パレストリーナ ◆ラッソ ◆モンテヴェルディ ◆シュッツ ◆リュリ ◆パーセル ◆A・スカルラッティ ◆クープラン ◆ラモー ◆D・スカルラッティ ◆コレルリ ◆ヴィヴァルディ ◆タルティーニ ◆バッハ ◆ヘンデル ◇ルネッサンス音楽 ◇バロックの概念 ◇バロックの芸術 ◇ヨーロッパ諸国に於けるバロック音楽 ◇バッハ及びヘンデルの音楽を通して観たバロック音楽の芸術性 ◇「マドリガーレ」と、ドイツの多声部曲ないしフランスやフランドルのシャ ンソンとの相違点 ◇バロック音楽の流れ ◇バロック音楽の背景 ◆歴史的背景の概略◆バッハと社会◆宗教史的考察◆ ◇バロック音楽の流行 ◆現代音楽の空白を埋める◆バロックブームへの反省 ◇グレゴリオ聖歌 Cantus Gregorianus〈羅〉 、Canto gregoriano〈伊〉 、Gregorian chant〈英〉 ,Gregorianischer Choral 〈独〉、Chant grégorien〈仏〉 中世音楽芸術の発展は、当時の音楽の唯一の保護者であるキリスト教教会のおかげである。初期 5 のキリスト教徒は、詩篇誦、即ち詩篇の朗読をキリスト教の礼拝に取り入れた。この詩(psalmody) は、キリスト教徒の集会に伴ってローマ入りし、又後にはヨーロッパの他の国々に広まった。そ して、ローマ・カトリック教会は、それを今日まで保存してきた。カトリック教会の伝統的な単 旋律聖歌は、今日グレゴリオ聖歌と呼ばれている。最近まで、グレゴリオ聖歌は、中世初期のロ ーマの音楽家たちの手で作曲され、書き直されたものと、一般には信じられてきた。しかし最近 の発見の結果、此の意見の修正が必要になった。イーデルソン(Idelson 1882-1938) [注ⅰ]が ユダヤ教の旋律を綿密に研究した結果、今ではグレゴリオ聖歌の無数の旋律と非常に似ており、 一部には全く同じものさえあるという驚くべき事実が明らかにされた。この関係から、現代グレ ゴリオ聖歌と呼ばれているもののかなりの部分は、カトリック教会がそれを受け継いだ古代ヘブ ライの教会音楽の遺物に他ならない。という結論が出てくる。しかしグレゴリオ聖歌の源は、古 代ユダヤの聖堂音楽ばかりではない。古代ギリシャの音楽芸術も、種々の形で名残をとどめてい る。 [注ⅱ] [注ⅰ: たぶん「イデルゾーン」 、ないし「イーデルゾーン」 〈Abraham Zevi Idelson〉 。彼は、ラトヴィ ア出身の音楽学者、作曲家。初期西洋音楽とユダヤ音楽を含むオリエント音楽との関わりを明らかにする 研究で功績がある。Thesaurus of Oriental Hebrew melodies,10 vols.(1914-1932)はアマゾンで入手 可能。 ] [注ⅱ: 「室内合唱団」がグレゴリオ聖歌と関わったのは、1970 年六月、1980 年定演、1994 年定演の三 回あります。 ] ♪Gregorian Chant・Dies Irae ♪Gregorian Chant・Alleluia, In die ◇アルス・アンティクァとアルス・ノーヴァとの関連 〈アルス・アンティクァ Ars Antiqua〉 十三世紀音楽 「古い技術〈芸術〉」の意味。十四世紀の理論家たちが十三世紀末のケルンのフランコ 〈Franco de Colonia〉、およびペトルス・デ・クルーチェらの音楽を、自己の時代の音楽 (アルス・ノーヴァ=新しい技術〈芸術〉)と区別して呼んだ。今日では広義に解して、ノ ートルダム楽派〈Notre Dame School〉(現在まで名前が伝わっているのは、レオニヌスと ペロティヌスのみ)も含む十三世紀の音楽全般を意味する。オルガヌム(organum)、クラ ウスラ(clausula) 、モテット(motet)、コンドゥクトゥス(conductus)などが作曲され[注 ⅰ]、その技法はテノールのカントゥス・フィルムス(グレゴリオ聖歌によったもの、或い は自作のもの)を中心とし、これに1ないし3の声部を付加して多声化してゆくものだっ たが、この場合、全体が同時に作曲されるのではなく、まずテノール、次に第二声部(duplum) 、 次に第三声部(triplum)と順次に積み重ねられていった。 [注ⅱ] 強拍部には協和音(同 度、8度、5度)のみ配された[注ⅲ]が、強拍部における三和音の使用が目立つ。ただし 経過音、倚音(いおん)として、2度、7度が無制限に使用され、連続 2 度の用例も少な 6 くはない。またリズムは特有な定型モードに従い、イゾリトミッシュ、ホッケット (hoquetus)などの独特なリズム形が用いられ、そのためフランコらの努力によって定量記 譜法が発達した。 [注ⅳ] [注ⅰ: クラウスラ、モテット、コンドゥクトゥスは、基本的なオルガヌムにさまざまなアイディアを 盛り込んで変形発展させた、いわばオルガヌムの副産物です。つまり、中世の単旋律聖歌が、作曲家の創 意工夫を得て、複旋律のオルガヌムへと進化し、さらに歌詞が長く引き延ばされたり、その旋律がメリス マ化したり、定型のリズムを付与されたりして、さまざまな副産物を生みました。その過程で、1度・4 度・5度・8度のピタゴラス協和音程に、3度、6度のふくらみのある柔らかい音程が加わり、ルネサン スのポリフォニーへと展開していく音楽史の流れを押さえておくことが重要で、この1963年の冊子を 貫く一方の大黒柱となっています。細部の説明はまだまだ多くを補完しないと理解できないことではあり ますが、とうじの編集子の方々が、バロック前史としての、中世~ルネサンス音楽史をひととおり概観し ておこうと考えたことは、 「炯眼」というべきでしょう。 ] [注ⅱ: 現代的な意味の「作曲」と比べると、当時は一般にたいへん時間のかかるデスクワークだったと 云われています。 ] [注ⅲ: ここで協和音というのは「完全協和音程」のことで、ピタゴラス音律で言うところの、1度、 4度、5度、8度の四つ。音程の固定をせざるを得ない、一般的な鍵盤楽器上では、等分平均律であれ、 不等分平均律であれ、どのような実用的調律をほどこしても、(1度と8度を除いて)、4度、5度をとも に純正に保つことはできません。演奏中も音程を演奏者の意思に従って、自由に微調整できる楽器や声楽 ではじめて実現可能な音程です。注釈の詳細は、このあとの「オルガヌム」の項目で述べます。 ] [注ⅳ: 十三世紀のアルス・アンティクァは、 「古い芸術」という意味ですが、それまでのグレゴリオ聖 歌に代表される「単旋律」聖歌の域を脱して、複数声部〈多声部〉からなる複旋律聖歌となっているとこ ろは、時系列的に云えば「新しい」時代の音楽です。複数旋律ならではの「和声」という観念が発生する ことも大切。後の項目で述べられる「オルガヌム」なども、こうした意味で重要です。また、この時代を 西洋音楽の発展史的観点から、いっそう重要視すべきなのは、声部の数が、二声からさらに、三声、四声 へと拡大し、オルガヌムもいっそう複雑化したことです。ルネサンス音楽の基礎項目を着々と準備してい たと云えます。 ] ★アルス・アンティクァ(Ars Antiqua) ♪レオニヌス〈1150-1219〉 ・organum a due voci・Codex Manesse ♪ペロティヌス〈1160-1230〉 ・Viderunt omnes ♪Ars Antiqua 作者不詳・O Mitissima ♪Ars Antiqua・ 〈アルス・ノーヴァ Ars Nova〉 十四世紀音楽 アルス・アンティクァ(古い技術〈芸術〉 )といわれた十三世紀フランスの音楽と区別して、 十四世紀初頭のフランス、イタリアの音楽(フィリップ・ド・ヴィトリ〈Philippe de Vitry〉 、 ジョヴァンニ・ダ・カッシア(Giovanni da Cascia)、ヤコポ・ダ・ボローニャ〈Jacopo da 7 Bologna〉 )等を「新しい技術〈芸術〉」という意味で、アルス・ノーヴァと呼んだ。最初ヴ ィトリ著の記譜法理論書(1322)の表題としてかかげられた語[注ⅰ]だが、十四世紀初頭 のみならず、後半のマショー(仏) 、ランディーニ〈Francesco Landini/Landino〉 (伊)等 を経て、ダンスタブル(英) 、デュファイ(勃)に至る全十四世紀音楽の技法や表現などの 新傾向を意味するようになった。即ち、この時代の音楽は技法的には、昔のカントゥス・ フィルムス中心の構成をはなれ、2拍子および切分音の重用による、柔軟なリズム(それ にともなう記譜法の改良) 、ゆるやかな歌謡的な旋律線、曲中の一時的カデンツの重用、他 声部の伴奏による一声部の優位、垂直関係における3度、6度の重用などを特長とし、バ ラード、ロンドー、ヴィルレー(以上フランス) 、マドリガル、カッチャ、バッラータ(以 上イタリア)などの俗謡(フランス語、イタリア語)を歌詞とした世俗曲がさかんに作曲 された。ミサ、モテット等の教会音楽作品も少なくはないが、しかしアルス・ノーヴァ音 楽は全体的に世俗化、人間化、表現化、感覚化の傾向がいちじるしく、1300年代ルネ サンス期芸術にふさわしい前近代的な表現を示している。 [注ⅰ: Philippe de Vitry, “Ars nova notandi”(1322)『計量音楽の新技法』 、直訳は「ノーテーシ ョンの新しい技法」 (A new technique of writing) ] ★アルス・ノーヴァ(Ars Nova) ♪Ars Nova: Philippe de Vitry: ♪Ars Nova: Francesco Landini: Sequentia: Motets and Chansons Questa fanciull’, Amor ♪Ars Nova・Guillaume de Machaut(1300-1377) ・Kyrie(Messe de Nostre Dame) ◇マドリガル~イタリアの古・新マドリガルの比較、イギリスのマドリガ ル マドリガーレ madrigale〈伊〉 、マドリガル madrigal(英)、マドリガル madrigal〈独〉 イタリアで起こった多声歌曲の形式。詩形に忠実な十四世紀のタイプと、より自由で音楽 的に豊かな十六世紀~十七世紀の初期のタイプのふたつがある。両者は本来が牧歌的叙情 詩であるマドリガーレを歌詞とする点では共通であるが、作曲手法と形態についてはほと んど関連がない。 〈十四世紀のイタリア古マドリガル〉 中世末期のイタリア・マドリガル 十四世紀のマドリガルは三行の詩句三つ(或いは二つ)に、リトルネルロと称する終結詩 句二行が付加された詩形(3+3+3+2)を用いる。その詩には、文字通り牧歌的な叙 情的なものが多く、2声(或いは3声)の複音楽として処理されるが、詩句の部分は、同 一の音楽をくりかえし、リトルネルロにだけ異なった音楽が付されるから、音楽的には全 体として、A-A-(A)-B の形をとる。この形式は十四世紀前半にとくに愛用され、 ヤコポ・ダ・ボローニャ(Jacopo da Bologna) 、ジョヴァンニ・ダ・カッシァ(Giovanni da 8 Cascia)等の愛すべきマドリガル作品を生んだが、この世紀の後半に入ると、バッラータ [ballata] [注ⅰ]の隆盛に押されて、次第に衰退し、十五世紀に入って消滅する。 [注ⅰ: バッラータの作曲家として知られるのは、Landini、Andrea da Firenze、Bartolino da Padova、 Johannes Ciconia、Antonio Zaccara da Teramo、Arnold de Lantins、Guillaume Dufay] ♪Madrigale・Jacopo da Bologna・Fenice fu' et vissi pura et morbida ♪Madrigale・Giovanni da Cascia[Firenze] ・Appress’ un fiume ♪Ballata・Francesco Landini・Cara mie donna 〈十六世紀のイタリア新マドリガル〉 ルネサンス期のイタリア・マドリガル 十六世紀の新しいマドリガルは従って前代の古マドリガルとは何の関連もなく生まれたも のである。ここでは前代のような形式上の厳格な規定はなく、模倣手法を重用して複音楽 的に処理され、 「洗練され発達したフロットーラ」ともいうべき音楽形態をとる。まず15 00年代に入り、イタリア在住のフランドル出身の作曲家たち(ヴィラールト、アルカデ ルト等)によって3~4声の半ホモフォニー・半ポリフォニーの自由模倣合唱曲として発 達した。この時代には宮廷的な洗練された音楽趣味をもちながらも、その表現は内輪で抑 制されていたが、次代のパレストリーナ、チプリアーノ・デ・ローレ、アンドレア・ガブ リエリ、デ・モンテの時代に入ると、声部数も増大し(4~6声部) 、模倣手段も複雑とな り、表現力も強まって、歌詞の表出をも志した。また世俗マドリガルとならんで、宗教マ ドリガルも現れた。さらに十六世紀後半から十七世紀初頭にかけて、マレンツィオ、ジェ ズアルド、モンテヴェルディ等のマドリガル作品において、音階法、歌詞の音画的表出、 劇的色彩的効果に異常な表現力を示すこととなった。とくにモンテヴェルディ以後には、 極端な劇的傾向をたどり、通奏低音を伴って、協奏様式、及び表現様式を採用し、カッチ ーニは、器楽伴奏による独唱用マドリガルが現れて、歌劇アリアと同様な表現を追求した。 また、マドリガルを劇音楽に転用する試みが行われ、オラーツィオ・ヴェッキ Orazio Vecchi (1550-1605)のマドリガル歌劇「ランフィパルナッソ L’Amfiparnaso」 (パルナッソス山 巡り)などは、歌劇の形式にも重要な影響をもたらした。 ♪madrigale・Adrian Willaert・King’s Singers・Vecchie letrose・ ♪madrigale・Jacques Arcadelt (1505-1568)・マドリガル集・第一巻・Il bianco e dolce cigno ♪madrigale・G.P. da Palestrina・Pro Musica Antiqua Milano・I vaghi fiori ♪madrigale・Cypriano de Rore・Hugues Cuenod・Vergine Pura ♪madrigale・Cypriano de Rore・Ensemble Douce Memoire・Beato mi direi ♪madrigale・Andrea Gabrieli・Musica figurate・Caro dolce ben mio 〈alto and cembalo〉 ♪madrigale・Luca Marenzio・Cantiam la bella Clori ♪madrigale・Carlo Gesualdo・マドリガル集・第七巻・五声・Concerto Italiano・Moro, lasso, al mio duolo ♪madrigale・Claudio Monteverdi・Voices of Music・Damigella tutta bella 9 〈イギリスのマドリガル〉 イタリア以外にマドリガルが栄えたのはイギリスである。最も古い実例には 1564 年以前の 作とされるリチャード・エドワーズの “In going to my naked bed” がある。しかし本 来イタリアに起こったマドリガルが、イギリスの風土と社会に根を下ろす有力な刺激にな ったのは 1588 年の ニコラス・ヤング(Nicholas Yonge)編による英語訳のイタリア・マ ドリガル曲集「アルプスの彼方の音楽」 (Musica transalpina)の出版である。この中には、 とうじのイタリアの一流の作曲家の曲に英訳の歌詞をつけ加えたものに加え、イギリス・ マドリガルの最初の大家バードの作品二曲が含まれる。ついでエリザベス朝末期の音楽の 興隆期にあたって、マドリガルは歌詞としての英語の性格と、イギリス国民の気質に応じ た国民的芸術に作りかえられ、貴族及び市民の社会に広く歌われた。その輝かしい記録は、 1601 年、モーリーを中心に、ブル、ダウランド、ウィールクス、ウィルビー(1574-1638) など、とうじの二十三人の作曲家による 25 作品を集めてエリザベス女王に捧げられた有名 な「オリアナの勝利」 (The Triumphs of Oriana)である。しかし、過去のポリフォニック な音楽の伝統と、ルネサンス的な市民社会の基礎の上に築かれたマドリガルの芸術は、母 国イタリアにおいてもそうであったように、イギリスでも長続きはしなかった。ステュワ ート王朝の絶対主義的支配の下に、ほぼ 1630 年を境として、イギリスのマドリガルは急速 に衰微し、一層気楽なホモフォニックな形式である「グリー」(glee) [注ⅰ][注ⅱ]がこ れに代わった。 [注ⅰ: イギリスではこのあと 1642 年に清教徒革命がおこり、以後、1660 年の王政復古まで、しばら く音楽の荒廃状態が続きます。曲種としての「グリー」は、1600 年代の中頃に登場(”Select Musicall Ayres and Dialogues” 1652)し、十八世紀にイギリスの世俗合唱曲のジャンルとして認められるまでになる。 楽式的・様式的には種々雑多なものが含まれ、中にはかつてのマドリガルを再版したものをグリーと呼ん でいるものまであります。後年、音楽旅行で知られるかのチャールズ・バーニーが、その『音楽史』History of Music(1776~1789)のなかで、ジャンルとしての「グリー」をやわらかく定義しています。いわく、 「楽しく陽気な歌詞による 3 声部以上の歌曲。全声部が同時に始まり同時に終わり、同じ言葉を歌う。も しフーガや模倣が使われて、単純な対位法よりも細工の細かい作品であれば、むしろマドリガルに近い・・・」 。 [注ⅱ: 私たち「室内合唱団」の歴史は、職人芸的な音の構築芸術を指向して、有名メロディのみに意 識が拘泥されがちな、カラオケ的・集団ユニゾン的「歌声運動」から離れ、ホモフォニックよりもポリフ ォニック、 「グリー」よりも「マドリガル」や「モテット」を求め、ついに対位法と和声法とポリフォニー の世界遺産である、ルネサンス・バロック音楽にたどりついた歴史と言ってよいでしょう。おそらくは、 本音としてのアカペラ衝動を、ルネサンス曲によって、又、器楽との共同作業をバロックの受難曲やカン タータなどによって満たすようになったと思われます。英国音楽社会史における、マドリガルからグリー への変遷のちょうど逆を行く精神過程をたどったとも云えましょう。 ] ★イギリス・マドリガル楽派(English Madrigal School) ♪English madrigal・John Farmer・King’s Singers・Fair Phyllis 10 ♪English madrigal・Thomas Morley・King’s Singers・Now is the month of Maying ♪English madrigal・John Dowland・The Consort of Musicke・Come again, sweet love doth now invite ♪English madrigal・Thomas Weelkes・Hark all ye lovely saints above ♪English madrigal・John Wilbye・Second set of Madrigals 1609・No.27 O wretched man ◇オルガヌム Organum Organum はラテン語で「道具・器具」などの意味。音楽史では、九世紀から十三世紀の時代 の初期の多声音楽。それぞれの時代により、かなり異なった形態をとっていて、一律には 定義しがたいが、グレゴリオ聖歌旋律に、ひとつ、或いはそれ以上の対声部を付加した多 声楽曲といえよう。この場合、曲頭から曲尾まで厳格に平行進行を守るもの(下記譜例 1) と、中間部のみ平行進行をとり、曲頭・曲尾は斜進行を用いて、同音に始まり同音に終わ るもの(下記譜例 2)とがあった。そして、この2声オルガヌムを、それぞれオクターブ重 複して同声とすることも許されていた。これらは「平行オルガヌム」(parallel organum) と呼ばれる。世界最古のオルガヌムは『ムシカ・エンキリアディス(895)』(Musica enchiriadis)に記述されているもので、上声部(主声部 Vox principalis)に、グレゴリ オ聖歌旋律をおき、その四度或いは五度下に一音符対一音符で、下声部(オルガヌム声部、 或いは付加声部 Vox organallis) が平行進行するものである。 [注ⅰ] [注ⅱ][注ⅲ] このような形のオルガヌムが、西洋音楽史の記述にあらわれる最初の多声部楽曲であ るが、その起源については、多くの学説が提出されているだけで、未だ明らかではない。 ただし多声部歌唱が『ムシカ・エンキリアディス』以前から広く行われていたことは、こ の書以前のいくつかの文献が暗示しているし、また『ムシカ・エンキリアディス』の著者 も、 「人々は習慣的に多声部歌唱をオルガヌムと呼んでいる」と述べている点から明らかで ある。 [『音楽大事典』 (平凡社) ] [注ⅰ: 「アルス・アンティクァ」の項目でも触れましたが、これら二声部間の音程は、古代のピタゴ ラス音律以来、完全協和音程(純正音程)と言われているもので、1度、4度、5度、8度の四つです。 1度は同じ音。8度はオクターブ関係の音です。4度は「ド-ファ」 、5度は「ド-ソ」の関係。ただし現 11 代の鍵盤楽器の基本調律である「等分平均律」の場合、鍵盤上には完璧な完全協和音程は、1度と8度以 外は存在しません。調律を経験された方ならわかると思いますが、一定の原則にしたがって、完全協和音 程を「崩す」ところに現代の「等分平均律」が成立しているからです。四つの完全協和音程は、ふたつの 音を同時に鳴らした時に、いわゆる「うなり」がゼロになり、人間の耳に「一本の響きとして統一的に聞 こえる程度」を基準に定められたものです。二声部の合成音から「うなり」が消え、完全に一本に統一し て聞こえるというのが、オルガヌムを支配している音楽美学です。ピアノでとりあえずオルガヌム譜を弾 いてみても、そのサウンドは近似的・擬似的なものに止まります。古典調律といわれる不等分平均律(ミ ントーン、ベルクマイスター、キルンベルガーなどなど)でも本質は同じで、これらは、なんとかして純 正音程ないし純正音程の可及的近似値を鍵盤楽器上で実現したいという「理念」をあらわしたもので、鍵 盤楽器ゆえの本質的欠陥をすべて解決できるものではありません。年末恒例の「紅白歌合戦」も完全協和 音程という観点では、微妙にズレた音の世界に終始しています。どこで妥協するかという現代的問題もは らみますが、和声の純正度を高めたいのだったら、合唱練習にピアノなどの鍵盤楽器は不適切ということ になります。 ] [注ⅱ: 鍵盤楽器としての調律を整理しておくと、①実験的理念的なもの(ピタゴラス律、純正律) 、② ミーントーン系(meantone: ジャヌカンやウィラールトとほぼ同世代のルネサンス期のピエトロ・アー ロン Pietro Aron〈Aaron〉(1489-ca.1545)の考案したものがよく知られていますが、プレトリウス、シュ ニットガー、クープラン、ラモー等がさまざまな改良型を提唱しています。)、③ウェル・テンペラメント 系(well-temperament: ごくおおざっぱに云えば、ピタゴラスとミーントーンの混合です。ヴェルクマ イスター、ジルバーマン、ナイトハルト、キルンベルガー、ヴァロッティ、ヤング等がさまざまな試みを しています。 ) 、④12等分平均律(equal-temperament: 歴史的には西洋でも東洋でも提唱されています。 西洋ではシュッツの誕生した 1585 年に、ステヴィン(Stevin 1548-1620)が “On the Theory of Music” において、初めて数学的に説明したとされています。日本では、和算家の中根元圭が、1 オクターブを 12 乗根に開き 12 平均律を作る方法を『律原発揮』 (1692)という書物に発表しています。いずれの方法で調 律するにせよ、感覚に立脚し人により微妙な好みの差が出ます。 「物理的数学的客観性」 、 「人間の脳の価値 観と受け止め方の個性差」、そして「楽器による響き方の個性差」。この三者の弁証法的関係の上になりた つのが調律です。ですからあまり理論的に傾きすぎるのも考えもののところがあります。昨今は、 「チュー ニング・メーター」という文明の利器がありますので、とくに調律法の訓練をうけなくても、しろうとに それなりの調律ができる時代になりましたが、それでも人によって、そして楽器によって結果がちがって くるのが面白い。メーターと結果の間に、人間が介在すると、一対一の対応関係が成立しないのです。 [注ⅲ: 等分平均律はすぐれた工夫ですが、オクターヴ以外の鍵盤上の音程をすべて微妙にずらした結果、 実際の演奏でその破綻がわかるのは、近代オーケストラとの共演による「ピアノ協奏曲」の場合です。和 音でも旋律でも、ピアノが管弦からずれた調子はずれの音楽を奏でていることは、多くの人が気づいてい ます。 ] ♪Leonin(1135-1201) ・organum duplum〈二声のメリスマ・オルガヌム〉 (定旋律が下声部にある例) この二声のオルガヌム Alleluia は、上記ふたつの基本的譜例よりもさらに進んで、下声部の定旋律は歌 12 詞がそうとうに長く引き延ばされ、約 1 分間の歌唱で Alleluia という言葉は一回しか出てこない。歌詞が Allelu まで進むと、残りの大半は -lu-音のまま引き延ばされ、-ia-音は最後の二音とともに歌われるの みである。その間、上声部[対位声部]は、なかなか華麗なメリスマのフレーズを歌う。次の「ディスカ ントゥス」の項目で触れられている「メリスマ・オルガヌム」と言うべきものになっています。 出だしは 八度の完全協和音程、最後から二番目の音符で、2度の不協和音程が登場しますが、現代的な視点からい うと、なんとも云えぬ美しい響きとなっています。最後は二つの声部が同じ音へと「解決」して終わりま す。 ♪Anonymous・organum・Ensemble Discantus・Alleluia・Ave Maria これも中世[11~12 世紀]の、二声のオルガヌム。上の Leonin のものに比べると、二つの声部ともにか なりよく変化しよく動いています。その他、♪Alleluia justus ut palma ♪Pérotin - Viderunt Omnes [4 声のオルガヌム] ◇ディスカントゥス Discantus discant〈英〉 、descant〈英〉 、Diskant〈独〉 、déchant〈仏〉 Discantus はラテン語で「分離する」という意味。十三世紀ごろの音楽理論書にあらわれ る術語[注ⅰ]。ヨハネス・デ・ガルランディア[注ⅱ]によれば、 「ディスカントゥスとは、 韻律的リズム(モーダル・リズム→モドゥス)の原則に従い、等長の時価で進む各声部の 落ち合いである」 (『計量音楽論』 )と説明されている。これはとうじの作曲習慣に従えば、 モテット、オルガヌム等に見られる。各声部が縦にそろった作曲様式(ファミリア・スタ イル・・上記譜例 1、2 のスタイル) [注ⅲ]を意味し、 聖マルシャル楽派(Saint Martial School) 〈十二世紀〉や、ノートルダム楽派〈十三世紀〉のレオニヌスの二声のオルガヌムに見ら れるような、長く引き伸ばされたテノール[注ⅳ]に対する対位声部が華麗なメリスマを歌 うスタイル(メリスマ・オルガヌム、又は保続音オルガヌム)とは異なるものである。尚、 十三~十四世紀にかけての音楽理論書では、この術語はしだいにテノールの定旋律に対す る対位声部の書法[注ⅴ]と、協和、不協和の原則を説明する意味に代わっていくが、この 意義の変化は歴史上、対位法の成立と成熟の過程に平行する。十七~十八世紀のイギリス の音楽理論書では、ディスカントという言葉が、尚、対位法の原則とその実践を指示する 意味に使われている場合がある。 [注ⅰ: 語源的には、「他の声よりも上の方の声」、ないし「他の声から分離した声」。基本的意味では、 四度ないし五度の平行オルガヌムは、ディスカントゥス様式の典型例ということになります。最低声部で あるテノールにグレゴリオ聖歌の定旋律をおき、上声部がテノールとほぼ同じペースで進行する形式。た だし時の経過とともに、discantus にはさまざまな意味が付与されていき、現代では、検索をしてもサイ トごとに意味合いがずれていることもよくあります。ここでは深追いはせず、例えば、サイトの「まうか め堂」などをのぞかれることをすすめます。ディスカントゥスについての論文が紹介されています。 ] [注ⅱ: ヨハネス・デ・ガルランディア Johannes de Garlandia[十三世紀の理論家]。『計量音楽論』 13 De mensurabili musica の著者。 [注ⅲ: 「縦にそろった」とは、各声部の言葉の数、言葉のシラブル数、音符の数がすべてひとしく、 すべてが同時進行していく、譜例 1 や 2 の様式。 ] [注ⅳ: テノールとは、 「長く引き延ばす音」という意味のラテン語テノルに由来します。 ] [注ⅴ: 定旋律を置くテノール声部に対する対位声部を、 「定旋律から分離独立した」という意味でディ スカントゥスと言いました。つうじょうディスカントゥスはテノールの上のアルト(アルトゥス)に置か れました。またそれより上の最高音声部を置くと、テノール(定旋律) 、アルト(ディスカントゥス)に継 いで第三の声部という意味で、トレブル(treble)といい、ボーイソプラノが担当したことから、イギリ スでは、最高音声部を担当するボーイソプラノ(boysoprano) をトレブルと呼ぶ習慣ができました。treble は triple などとも語源を同じくする「3」の意味を含む単語です。 ] ◇フォーブルドン fauxbourdon、fauxbordon 〈◆フォーブルドン〉 Faux-bourdon は元来、 「偽りの低音」 (false bass〈英〉、falso bordone〈伊〉 、falscher Bass 〈独〉 )を意味するフランス語(faux bourdon)であるが、この言葉の用例は多様で、今日 まで諸説が行われている。最も厳格な意味では、トレブル(treble) [第三の音域:最高音 域のこと]に定旋律を有し、六の和音[三和音の第一転回形][注ⅰ]の連続を主体とした 十五世紀フランスの作曲技法を指す。 [注ⅱ] ただし、広義には、外形が大陸のフォーブル ドン技法に酷似した English discant を含んでいる。次の段落で説明することにします。 [注ⅰ: 「六の和音]とは、ごく簡単に言うと、ピアノの鍵盤で、例えばハ長調の三和音ドミソを、順 列組み合わせに変更を加えて、低い方からミソドと押さえた和音で、ドミソの和音に対して、第一転回形 といいます。三度音程と六度音程を含むのが特徴。下の譜例1の第一小節は、八分音符のところを縦ぞろ いでみると、ふたつとも「六の和音」になっています。 ] [注ⅱ: 言葉をかえて典型例を示すと、フォーブルドンは、下記譜例 1 のように、定旋律を最上声部に おいた三声体の楽曲で、つうじょう中間声部は、最上声の定旋律に対して完全四度下を即興的に平行進行 して行きます。中間声部は上声と下声の二声部が書かれた譜面を見ながら入れていく即興なので、ふつう は記譜されません。また記譜された上声部と下声部は、典型例ではオクターブ八度または六度音程になっ ています。十五世紀のデュファイ(ca.1400-1474)や、バンショワらのブルゴーニュ楽派が多く用いたこ とで知られています。下記譜例 1 はデュファイの例 Ave maris stella 音源例は→ここ こうした音源例 で実際の演奏を聴くと、フォーブルドンが、博物館でしか花咲かない六百年前のひからびた遺物ではなく、 十分現代空間の中で、美しい生命力を持った書法であると実感いたします。 ] 譜例 1 フォーブルドンの書法[Dufay]~上中がおおむね完全四度。上下がおおむね八度や六度 14 〈◆フォーブルドンに類似したもの〉 English discant ~ イギリスでは早くから3度を協和音程として扱う傾向があり、大陸と はきわだった対照をなしていた。すでに「ジメル」 (gymel, gimel, gemell) [注ⅰ]と呼ば れる「3度平行」の技法に、この傾向ははっきり示されていたが、十三世紀末にはウスタ ー(Worcester)写本には「6の和音の連続」を用いた例がある。大陸では、オルガヌムを 代表として、まだ完全協和音程(1 度、4 度、5 度、8 度)と、その並行進行を主体とする 作曲法が行われていた十四世紀に、イギリスでは「6の和音の連続」の技法がきわめて愛 好された。これは記譜された単旋律の定旋律を下声部(テノール)とし、これにもとづい て、その6度又は8度上の上声部(トレブル treble)と、3度又は5度上の中声部(ミー ニ mene)を即興的に歌う、一種の視唱法で、結果的にすぐれたもので(ママ) 、この手法はデ ィスカントゥス・スプラ・リブルム(Discantus supra librum) 〈=descant “above the book” 〉 の名で知られ、フランス語のフォーブルドンに当たる。 譜例 2 上二行がフォーブルドン、三行目が Discantus supra librum 英語「ファーバードン」 (faburden)は、この様な作曲法自体よりも、定旋律から即興的に 視唱された新たな旋律を意味する場合が多かった。上の譜例 2[特に二行目と三行目]が示 すように、現象的にはその形態がフォーブルドンと類似しているため、十五世紀の理論家、 ライオネル・パゥアー(Leonel Power)や、チルストン(Chilston; Pseudo-Chilston)の 文献に基づいたフーゴー・リーマン(Hugo Riemann)の誤解以来、フォーブルドンは14 15 00年以前にイギリスで成立した作曲技法で、これが十五世紀初頭に大陸へ移されたとい う説が近年まで認められ、6の和音の連続を主体とした作曲技法一般にフォーブルドンと いう名称が与えられてきた。[注ⅱ] しかし、現在ではブコフツァー(Manfred Bukofzer)やベッセラー(Heinrich Besserer) の研究によって、厳密な音楽上の概念としては、上記の様なテノールの定旋律に基づくイ ギリスの即興的ディスカント技法と、本来の大陸の[作曲技法としての]フォーブルドン とは区別され、前者はブコフツァーによって特にイングリッシュ・ディスカント(English discant)と名付けられている。 [注ⅲ] [注ⅰ: ジメル(gymel)は、ラテン語 cantus gemellus(双子の歌)に由来し、イギリスの中世におけ る二声部作曲法の様式。実体は、譜面に記載する文字通りの作曲というよりも、即興的歌唱。ユニゾンで はじまった単声部の歌が一時的に分離して、高い声部ができ、二声部となる。両声部は、主に三度(また は六度)の音程を持続的に維持しつつ、それぞれ別々の歌を歌う。最後はふたたびユニゾンとなって両声 部は統一される。ジメルは、十三世紀にイギリスで好まれたようで、いわゆる English descant の先駆け をなすものとされる。記譜されたものは 1430 年ごろのものが残されている。寄附された 13 世紀に大陸で は一般に回避されていた「3度音程」が、イギリスで既に好んで使われていることが重要。 ] [注ⅱ: Hugo Riemann, Geschichte der Musiktheorie im IX.-XIX. Jahrhundert. Berlin, 1898] [注ⅲ: Manfred Bukofzer, Geschichte des englischen Diskants und des Fauxbourdons nach den theoretischen Quellen. Strasbourg, 1936] ◇中世からバロックに至る迄の対位法の変遷 ふたつ以上の異なった旋律が同時に歌われるという現象は、原始民族や、東洋のヘテロフ ォニーやドローン、4度から5度の並進行による中世のオルガヌムにすでにみられるが、 独立的な多声部変法(ママ)の理論としての対位法が成立するのは、十四世紀のアルス・ノ ーヴァの時代のことである。十世紀までのオルガヌムは、4度、5度の並進行による、い わゆる「並行オルガヌム」に限られ、十世紀初頭の理論書『ムシカ・エンキリアディス(音 楽論文集) 』 [注ⅰ]に、わずかに三全音回避の手法がみられるにすぎないが、十一世紀にな ると、並進行に反進行が代わり、4度、5度以外に3度の使用が混入される。十二~十三 世紀のアルス・アンティクァの時代になると、声部交換や、反復模倣の手法が導入されて、 各声部の独立性は増大し、また厳格模倣に基づく最初のカノン(「夏は来たりぬ」)も現れ るが、この時代にはまだ5度、4度が優位を占め、3度、6度の使用は弱拍のみに許され た。十四世紀初頭から十五世紀初頭にかけて、この新しい様式の時代になると、完全協和 音程の並行は禁じられて、3度、6度が優位を占め、それまでは比較的無関心に扱われて いた音の垂直的関係が、不協和音の処理に関連して、強く意識されるようになる。また楽 曲構成の面においても、定量記譜法の完成に伴って、各声部が独立的に導入される模倣様 式が確立し、これが次第にネーデルランド楽派[フランドル楽派] [注ⅱ]の、通模倣様式 16 によるモテットへと導かれる。十五世紀に入ると、ダンスタブル、デュファイ、バンショ ワ等の作品の中で、ポリフォニー様式が確立され、対位法理論の面でも、ティンクトーリ ス(Johannes Tinctoris)の『対位法の技術(1477)』(Liber de arte contrapuncti)が 現れて、協和音、不協和音の分類や、不協和音の処理に関する理論が成立する。これまで の線的対位法によるポリフォニーは十六世紀になって、パレストリーナとオルランド・デ ィ・ラッソの中に、その集積を見いだし、いわゆるパレストリーナ様式の成立をみる。対 位法理論の面からみると、この時代には和音の充実や、模倣対位法の成長が見られるが、 とくに不協和音の処理において前世紀との間に注目すべき相違がある。すなわち前記ティ ンクトーリスの理論では、不協和音の3度下降が許容されているが、パレストリーナ様式 では不協和音の処理はさらに厳格になり、ノータ・カンビアータ(nota cambiata)[交換 音]を除いて、不協和音はすべて順次進行で導かれる。また掛留(けいりゅう)による強 拍での不協和音はすでに以前から用いられていたが、それが協和音との対照的効果を意識 して用いられたのは、やはりこの十六世紀になってのことであり、不協和音に詩的表現の 手段としての役割を与えたのも、この時代に初めて見られる特徴である。理論の面では、 ツァルリーノをはじめ、ポルタ、ナニーニ等が対位法理論に大きな貢献をなし、ヴィチェ ンティーノやツァルリーノにすでに各種の二重対位法に関する記述がみられる。前述のよ うに、模倣的対位法はオケゲムや、オブレヒト等の十五世紀ネーデルランド楽派[フラン ドル楽派]のモテットの中に完成されたが、器楽の隆盛と共にこれがリチェルカーレを生 み、これはさらに十七世紀の間にフーガへと発展する。以上の、パレストリーナを頂点と する線的対位法は教会旋法によるものであるが、ルネサンス末期からしだいに調性感が発 生し、バロックに入ると、元来、純粋に各声部の横の流れに関する理論であった対位法も この影響を受け、J.S.バッハの中に頂点をなした和声的対位法が成立する。十八世紀 にはパレストリーナ様式にもとづくフックスの『パルナッソス山への階段』(Gradus ad Parnassum 1725)と、バッハ様式に基づくキルンベルガーの理論書『通奏低音教程』 (Grundsätze des Generalbasses) 、或いは『純正作曲の技法』 (Die Kunst des reinen Satzes in der Musik)が現れて、現在に至るまで対位法教程における二つの系統をなしている。 [注ⅰ: 『ムシカ・エンキリアディス』の成立年代については、不明な点が多いのですが、日本でおよそ 『源氏物語』が完成する頃までには成立していたとされています。 ] [注ⅱ: かつて使われていた「ネーデルランド楽派」という用語の「ネーデルランド」は、その銘々上、 オランダ北部(プロテスタント圏)と南部(カトリック圏)の両方を含んでしまいます。たしかにこの楽 派には、オランダ出身者もいますが、その多くは南フランドルで生まれ、音楽的修養を積み、ルネサンス 時代にヨーロッパを席巻するほどの一大勢力となりました。主にカトリック圏の教会・宮廷との関わりが 重要なので、プロテスタント圏であるオランダ北部を含まない、より正確な概念として、オランダ南部・ ベルギー西部・フランス北部地域を含む「フランドル」(英語では Flanders)を援用した「フランドル楽 派」という用語が使われるようになりました。 ] ♪John Dunstable・Veni Sancte Spiritus 17 ♪Guillaume Dufay・Missa l’Homme Arme, Kyrie ♪Gilles Binchois・Jamais Cant〈器楽〉 ♪Gilles Binchois・Adieu m’mour et ma maistresse ◇通奏低音(basso continuo) 語義と記譜法の見地からすると、元来は「継続的な低音」を意味するイタリア語で、basso continuo からできた用語。この低音旋律に基づいて、伴奏者は和音を即興的に補足しなが ら演奏した。低音の上、または下に和音を表示する数字が記されることが多いので、数字 付低音(figured bass)とも呼ばれる。数字は低音の上、または下に記されたが、音階固 有の三和音の基本位置(3~5の和音)は原則として数字がなく、第一転回(1st Inversion) 、 第二転回(2nd Inversion)はそれぞれ 1st Inversion = 6、2nd Inversion = 6/4 で示さ れ、数字を伴わない♯♭は、三度音の半音変化を、また数字の横に記された♯・♭は、そ の音程の半音変化を示す。数字は 9 を超えないのを原則としたが、初期の時代には複雑音 程を示すために、10 などが用いられる。カヴァリエーリ(Cavalieri)には 18 を用いた例 もみられる。また伴奏が和声を欠いて単声で行われる箇所は ts(tasto solo)で示された。 下の譜例のへ音記号の数字付き譜面〈左手〉は、例えば、ト音記号の譜面〈右手〉のよう に「即興的に」読まれたのであった。チェンバロやオルガンの右手の和音の不要な際には、 バスだけを単音で奏すべき指定として数字0(ゼロ)、又は tasto solo と記され、和音 が必要な部分には、accorda(和音) 、tutti(全員で)、con accompagnato(上声をつけて) などの文字をもって指定した。当時の比較的大編成の合奏の中でもクラヴィーアの左手だ けは休むことがなかったから、即ち通奏(連続) [continuo]といわれたのである。 譜例 協奏曲の通奏低音 コレッリのコンチェルト・グロッソの具体化例〈リアリゼー ション〉 ◇十二~十九世紀に盛えた音楽合唱様式 ◇十二~十九世紀に盛えた音楽合唱様式 ◆ア・カペルラ a cappella ◆ミサ ◆コラール オラトリオ 18 ◆モテット ◆パッション(受難曲) ◆ ◆アリア ◆カンタータ ◆中世におけるシャンソンの移り変わり ◆リート ◆多声的リ ート 〈◆ア・カペルラ a cappella〉 イタリア語である。 「礼拝堂風、聖堂風に」「聖堂のために」などの意。In chapel〈英〉 (一) 広義には、聖俗を問わず、無伴奏または楽器が声と同じに動く合唱曲。 (二) 狭義には、ルネサンス期にジョスカン・デ・プレ、パレストリーナらによって作ら れた無伴奏ポリフォニー体の教会合唱曲。この用法がふつうである。ただし、以前考えら れていたように、中世期、ルネサンス期の音楽が全て無伴奏だったわけではなく、十四世 紀~十五世紀の世俗曲などはむしろ楽器を伴うのが原則だった。 ★ア・カペルラ a cappella(ア・カペラ、ア・カッペッラ) 〈◆ミサ〉 (一)概念 ローマ・カトリック教会の中心的典礼。現行公教要理によると、ミサ聖祭とは、パンとぶ どう酒との外観のもとにましまし給うイエズス・キリストの御体と御血とを聖父に捧げる 祭と説明されている。その本質は新約の犠牲たる十字架上のキリストの犠牲そのものの現 在化にあり、たんなる追憶的記念や模倣的反復ではないと考えられている。ミサ挙式のた めの祈祷文、賛美の歌、その他のうちの五つの通常文、すなわち、①キリエ(求憐曲)、② グローリア(栄光の聖歌) 、③クレド(信経)、④サンクトゥス(聖頌)およびベネディク トゥス(福頌) 、⑤アニュス・デイ(神羔誦)の全部、または大部分をひとまとめに作曲(編 曲)したものをつうじょう「ミサ曲」という。 (二)ミサ曲の様式史 グレゴリウス大教皇の時代には、典礼文はことごとくグレゴリオ聖歌旋律で歌われたので あろう。八世紀~九世紀のポリフォニー技法が教会音楽に取り入れられたが、それはまず 聖務日課の部分のみに適用され、ミサ曲に適用されたのは十二世紀のことで、固有文とく にグラドゥァーレの中の先唱者 cantor(ラテン) 、precenter(英) 、Vorsänger(独) 、chanteur (仏)が歌うべき部分の音楽的修飾からはじまった。サン・マルシャル修道院、パリのノ ートル・ダム大聖堂の楽書に伝わるクラウスラ〈clausula〉 、オルガヌムなどはこれである。 これらの修飾は半ば即興的になされたが、あるものは記譜せられて今日に伝わった。聖歌 隊全員が唱和すべき部分は、グレゴリオ聖歌旋律のユニゾンで歌われた。十四世紀には、 この部分も修飾が加えられ、器楽を加えることもはじまった。やがて五通常文をまとめて 作曲することがはじまった。[注ⅰ] [注ⅰ: ミサの説明としては、引用が簡単に失しているので、右も参照しておいてください。 →ミサ曲] 〈◆コラール〉 19 ルターの宗教改革の基本指導観念。人はただ、信仰によってのみ sola fide 神の前に義と せられ、罪を許されて神の国に入ることができるというところにある。文才、楽才にめぐ まれたルターは、この根本観念から、信者が礼拝にあたって自ら歌うべき歌[賛美歌、コ ラール集]を、若干の友人の助力によって、次のような方法で作った。 歌詞は(ⅰ)聖者、特に詩篇の一部をドイツ語の詩にすること。 (ⅱ)ローマ・カトリック 教会の典礼文を自由にドイツ語訳すること。(ⅲ)宗教的民謡の転用。(ⅳ)世俗民謡の中 の単語を最小限度に宗教的単語で置き換える方法(コントラファクトゥム)。(ⅴ)新作、 または旋律は、グレゴリオ聖歌の編曲、接合。宗教的民謡の転用。世俗民謡の転用。新作、 1524 年の Dr. Martin Luther's Deutsche Geistliche Lieder を手始めとして、つぎつぎ と出版され、彼の存世中すでに七集に及び、35 のコラールを自作。26 は他をわずらわした。 [注ⅰ] [注ⅱ][注ⅲ] [注ⅰ: 日本語での受け止め方としては、中期から後期にかけてのドイツバロックにおいて盛んに使わ れたルター以来のプロテスタント教会における「ドイツ語聖歌]を意味するのが一般ですが、おそらくバ ッハとの結びつきが圧倒的に大きく影響していることと思われます。ドイツ語では、もちろんその意味も ありますが、もう少し一般的にカトリック教会にも敷衍して使われていて、例えば、グレゴリオ聖歌も、 ドイツ語では Gregorianischer Choral といいます。つまりカトリック、プロテスタントの区別なく、教 会で信徒・会衆がそろって歌う賛美歌類をドイツ語では choral と言うわけです。 ] [注ⅱ: 初期のルター派のコラールは、グレゴリオ聖歌にならった単旋律でしたが、次第に和声付がな されて4声体や5声体のものが増加。ドイツでは中期バロック以降、北ドイツのブクステフーデ、南ドイ ツのパッヘルベルなどに代表されるオルガンの名手たちが、ドイツ特有のオルガン楽派とも重なって、器 楽曲や声楽曲の分野で、さかんにコラール変奏曲を作り、その伝統がバッハに流れ込みました。 ] [注ⅲ: ドイツでは、現代に至るまで、この一般信徒・会衆用の賛美歌集が E.K.G.〈エー・カー・ゲー〉 の題名で出版されています。Die Lieder des Evangelischen Kirchen Gesangbuches「プロテスタント教会 賛美歌集」のような意味です。 ] ★コラール 〈◆モテット〉 motetus〈羅〉 、motet〈英・仏〉 、Motette〈独〉、mottetto〈伊〉 ラテン語 movere[動く]や、古フランス語 mot[言葉] に由来するといわれる。十二世 紀から近代にかけて行われた教会合唱音楽。原則としてカトリック教会典礼のためのラテ ン語無伴奏合唱曲と定義しうるが、時代により地域によって、その形態に変化があり、世 俗的なもの、独唱用のもの、器楽伴奏によるものなどがあって、一様の定義は下し難い。 [注 ⅰ] 中世のモテットは、1200年頃、アルス・アンティクァの初期にフランスで始まっ たと思われる。最初は、オルガヌムにおいて、グレゴリオ聖歌の一節を複音楽的にパラフ レーズすることから始まった。つまり、テノールがグレゴリオ聖歌の旋律(カントゥス・ フィルムス)を幅広く歌い、その上に対声部が付加されるものだったが、次第に発展して、 20 二声から三声へと進み、各声部がそれぞれ異なったリズムと歌詞を持つようになり、遂に は上声部にフランス語恋愛歌などが歌われた。十四世紀アルス・ノーヴァの時代に入ると、 さらに変化を生じ、定型リズムの原理が応用されて、ギヨーム・ド・マショーらのすぐれ たモテット作曲を生み、またイギリスやブルゴーニュでも盛んに行われた。 [注ⅱ] 十五世 紀に入ると、前代の複合歌詞とテノールのカントゥス・フィルムスは廃れて、全声部が同 一の歌詞を歌うことになり、グレゴリオ聖歌旋律を最上声部に置くモテットさえ現れた。 また、器楽伴奏による独唱モテットも行われたと思われる。特に十五世紀後半~十六世紀 のネーデルランド楽派[フランドル楽派]の時代に入って、モテットはミサと共に重要な 楽曲形式となり、ラテン語宗教歌詞による4~6声部無伴奏合唱曲の形態をとり、特にジ ョスカン・デ・プレの通模倣様式のモテット作品において、ルネサンス的完成をみせた。 [注 ⅲ] [注ⅰ: ドイツ語圏では「モテッテ」 、英語圏では「モテット」 、フランス語圏では「モテ」といいます。 英国では宗教改革との関連で、英国国教会でラテン語が使えなくなった関係で、同種の英語歌詞のものを、 アンセム〈anthem〉と呼ぶようになりました。ドイツでは初期バロックの時代に、シュッツがラテン語歌 詞の Cantiones Sacrae(1629)、ドイツ語歌詞の Geistliche Chormusik(1648)を出版していますが、ど ちらも実質的に「モテット集」です。 ] [注ⅱ: 古い時代の、すなわちアルス・アンティクァや、アルス・ノーヴァの時代の世俗的ポリフォニ ーについては、概念を区別するために、 「モテトゥス」とラテン語で表記し、ルネサンス以降の教会音楽の ポリフォニーは「モテット」と表記するようにしている専門家もいます。 ] [注ⅲ:今日に至る五十年間の「室内合唱団史」との関連で、伝統を形成する端緒となった重要曲種の「初 回演奏年」をチェックしてみました。まず、①第二期(1961)の「マドリガル集」 。Monteverdi と Lassus から計五曲とりあげています。7 期、8 期、10 期、12 期がこれに続きました。次に②第四期(1963)の「バ ッハ」 。バッハ初体験は、第二代常任指揮者が提案した「ニ長調のマグニフィカート」 。5 期、6 期、8 期、 9 期、10 期、11 期、14 期・・・・51 期。多少途切れた時もありますが、平均すると五十年間で毎年一曲 半を歌っている計算になります。③第七期(1966)の「ルネサンスミサ」 [ 「マルチェリ」パレストリーナ] 。 バッハどうよう、初体験後はまるで狂ったように(笑)毎年のように歌いつづけます。 「マルチェリ」は第 二代常任指揮者の提案でした。④第九期(1968)の「ルネサンス・モテット」 。ミサを長編小説に擬すれば、 ラテン語のモテットは短編小説になるでしょうか。あるいは極端に、短歌的小宇宙とも云えるところがあ ります。曲が数分と短いだけ、全体の構成や変化のさまなど、短時間のうちに鳥瞰図がえられます。歌う 者、聴く者の双方を疲れさせずに、音楽に没頭させることができます。その意味ではポピュラー音楽系的 に刺激の多いジャンルです。数曲の選曲により変化の豊富なコンサート枠をつくることができます。 「室 内合唱団」は、これで、①②③④という「枠」で満たされ、他のジャンルがはじき出されてしまいます。 結論は一年間をすべてルネサンス・バロック・プログラムで通すという 10 期の選曲となってあらわれまし た。⑤第十一期(1970)の「シュッツ」。これが 「室内合唱団」五十年間では、バッハに続く骨太の伝統 を形成します。 ★モテット 21 ♪ギヨーム・ド・マショー[岩手県立不来高等学校]Felix Virgo(けがれなき御母) ♪ギヨーム・ド・マショー[Gothic Voices]三声のモテット 〈◆パッション(受難曲)〉 聖金曜日(受難日、受苦節) 、あるいは聖週(受難週、受苦節)に演奏する。キリストの受 難の音楽で、二つの流れを引く。すなわち、ひとつは中世の受難劇の名残。この直系は中 欧のオーベルアメルガウ[オーバーアマガウ Oberammergau・・ドイツ・バイエルン州最南 部]の山村に残る。[注ⅰ] しかし、これはページェント風のもので、音楽は付加物。ふ たつめは、これよりも古く、すでに四世紀ごろに行われていたらしい。聖週〈受難週〉に 教会で行われた風習である。すなわち、キリストの受難の事蹟を、いくらか劇的要素を加 えて朗読したり、暗誦したりする。これが八世紀頃には、司祭が特定の福音書から受難の 物語を詠み、キリストの言葉だけをグレゴリオ聖歌で歌う。これが明らかに今日の受難曲 の直接の源をなす。十二世紀に至って、三人の神父が役を受け持ち、物語役〈テノール〉、 キリスト〈バス〉 、群衆〈アルト〉の如く分担した。いずれもグレゴリオ聖歌をもととして いるので、チェルペ等は、これを「グレゴリオ受難曲」と分類している。十五世紀になる と、対位法的技術がようやく進歩してきたから、ア・カペルラの複旋律的合唱を用いたり、 これを主にした受難曲が生まれてきた。その中には独唱者の叙唱の原型とも言うべき抑揚 をつけた朗読がまじり、いくらか劇的要素を強めた「ドラマティッシェ・パシオン」 〈dramatische Passion〉もある。 [注ⅰ: オーバーアマガウのキリスト受難劇] ★受難曲 〈◆オラトリオ〉 オラトリオ(Oratorio) 〈ラテン語〉は、各国共通語で、日本語で「聖譚曲」などとも訳す。 宗教的[・・・]道徳的性格を持つドラマチックなリブレット(台本)を、ソロ、コーラ ス、オーケストラのために作曲したものを言うが、二十世紀では、自由な性格のオラトリ オも生まれた。演奏会場、あるいは教会で、舞台装置、衣装、演技等を伴わずに純粋に音 楽的に演奏されるのが通例である。初期のオラトリオの中にはオペラと同様に、衣装や舞 台装置を伴って上演されたものもあるが、 [・・・・読取不能・・・・]が特色である。 他方、バッハなどに見られる宗教的カンタータとの相違は、作品の規模がいっそう大き く、リブレットがドラマティクな内容においていっそう変化に富み、一貫していることで ある。しかし、現代では、オラオリオとカンタータとの差はほとんどつけにくくなってい る。 オラトリオの性格をもつ初期の劇音楽の例としては、典礼劇、神秘劇がある。とくに十 四世紀~十五世紀の神秘劇の場合、いわゆる、ゴシック風の見せ物的要素がつよく、本来 のオラトリオの精神とは一致しないものであった。オラトリオの正当な起源は、聖僧フィ 22 リッポ・ネーリが十六世紀後半に、ローマの聖ジロラモ・デラ・カリタ寺院の祈祷所(オ ラトリオ)で、オラトリオの集会をはじめた時に遡る。この集会は信徒の教化を目的とし、 聖書の朗読、説教のほか、ラウダなどの詠唱を内容としていた。オラトリオの真の伝統を 開いたのは、ジョヴァンニ・フランチェスコ・アネーリオの「美しき魂の劇」 (Teatro armonico spirituale)である。この作品は洗練されたマドリガルのスタイルの合唱とソロの部分を 交替させた作品で、ソロのパートには既に語り手があらわれている。尚、当時の注目すべ き作品としては、もう一つ、マッツォッキの「聖マリア、マッダレーナの嘆き」があり、 リプレットは、それまでのラテン語を離れて、俗語のイタリア語で書かれている。[注ⅰ] [注ⅰ: 広くオラトリオ、受難曲をも含めた近代音楽劇、すなわちオペラの発生史を扱った研究として、 やや古いが、避けては通れないのが、ロマン・ロランの学位請求論文『近代叙情劇の起源』 (Les Origines du théâtre lyrique modern, 1895) 。 『近代音楽劇の起源』として、みすず書房から翻訳が出ています。副 題は「リュリおよびスカルラッティ以前のヨーロッパにおけるオペラの歴史。 ★オラトリオについては、右も参照のこと。 →オラトリオ 〈◆アリア〉 aria(伊) 、air(英) 、Arie(独) 、air(仏) 器楽の作品の叙情的な主題がアリアと呼ばれることもあるが、[注ⅰ] ふつうの意味にお けるアリアは、オペラ、オラトリオ、カンタータなどの中にあらわれる独唱、或いは二重 唱のための声楽曲の形式である。楽曲形式としてのアリアの基本的な性格は、それが前後 の音楽的な関連、又は前後のドラマティックなシチュエーションの中で、はじめてその完 全な機能を果たす点である。 [注ⅰ: バッハの「管弦楽組曲第三番」BWV 1068 の中の〈G 線上のアリア〉 、ゴルトベルク変奏曲の最初 と最後のテーマ、ヘンデルの「水上の音楽」の組曲ヘ長調 HWV 348 など。 ] なお、アリアはその歌詞の表出する気分、テンポの相違などによって、幾種類かに分類 されるのが通例であるが、次に伝統的な分類の一例をあげておく。 ・アリア・カンタービレ [優しい情緒をもつ。特に優美なアリア。] ・アリア・ディ・ポルタメント [自由に装飾的に歌い得る長い音符をもつアリア。] ・アリア・ディ・メッゾ・カラッテレ [文学的にもドラマティックにも特に特徴はないが、 まじめな快い気分をもつアリア。 ] ・アリア・パルランティ及びアリア・アジタータ [語るような口調のテンポの速いアリア。 はげしい感動を伝えるのに敵する。 ] ・アリア・ディブラヴーラ [歌手の発声能力を最大限に示すために異常な速度や幅広い音 域を特徴とする。 ] こうした、アリアの諸形式は十八世紀のナポリ派によって開拓され、十九世紀にも声楽 23 的な興味の中心的な地位を占めるが、ヴァーグナー以後、音楽とドラマの一層緊密な融合 が企てられるに従って、次第にアリオーソ的なパッセージに退化し、現代の劇音楽から全 く姿を消すに至った。 〈◆カンタータ〉 cantata(伊・英・仏) 、Kantate(独) 「歌われるもの」という意味で弾奏せられるソナタと対をなす言葉。一貫した内容をもつ 歌詞をいくつかの楽章に分けて作曲した声楽曲。歌詞は聖俗を問わないし、また全曲独唱 のものも、合唱のものもあり、又、独唱、合唱、重唱を交え用いたものもある。伴奏は種々 の楽器でなされるオラトリオに比べて小型で、叙事的傾向が弱い。しかし、十九世紀以後、 この二つの形式の区別は困難になった。 十八世紀以前におけるカンタータ(イタリア・フランス・ドイツ) (a) イタリア この国はこの楽式の故郷である。1600年前後、スティレ・ラプレゼンタティーヴォ (stile rappresentativo)[注ⅰ] のレチティーヴォ(recitivo)からアリアが分化しつ つある時、カッチーニ(Giulio Caccini)、ペリ(Jacopo Peri)らがこの形式の最初の試 みをした。それは同じゲネラルバス(通奏低音)を反復し、その上に異なった独唱旋律を おいたもので、まだカンタータとは呼ばれなかったが、ペリの後年のこの種の作品には、 器楽リトルネルロ(Ritornèllo)が導入されて、形式上の一進歩を見せた。ラージ、ペルテ ィ(Giovanni Pietro Berti)、サンチェスらの試みの間にカンタータの名ができた。これ は大体1640~50年である。ルイージ・デ・ロッシ(Luigi de Rossi) 、ジャコモ・カ リッシミ(Giacomo Carissimi) 、チェスティ(Antonio Cesti)に至って、独唱の他に全曲 二重唱、全曲三重唱のものもつくられるに至り、歌詞はもっぱら世俗的、旋律は華麗で当 時の家庭・宮廷音楽の「花」であって。かつてのマドリガーレを駆逐した。ナポリ楽派[注 ⅱ]の諸作曲者も好んでカンタータを作り、独唱のものは、レチタティーヴォ~アリア~レ チタティーヴォ~アリアの形式をとり、オペラのアリアとならんで名人芸発揮のために使 われた。イタリアではチェンバロが伴奏楽器として用いられる場合が多く、興味の中心は 全く歌声部にある。 [注ⅰ: スティレ・ラプレゼンタティーヴォ。十六世紀後半の初期イタリアオペラの中で開発された歌 唱形式で、語りよりは音楽表現的で、歌ほどには旋律的ではないもの。おそらくは、フィレンツェの「カ メラータ」のメンバーによって考案された初期バロックのドラマティックなレチタティーヴォ様式。正確 な定義は難しいが、単純な和声進行を基礎にして、旋律が自由にうごきまわるといった特徴。参照 : Amarilli mia bella(Caccini)] ♪Sigismondo D’India Infelice Didone スティレ・ラプレゼンタティーヴォを理解するための好例。純 粋な「語り」にしては、チェンバロの音程に乗って音楽的に語っている。しかし、ふつう考える意味での 24 「歌」ないし「アリア」とは言えない。ちょうど両者の中間。 [注ⅱ: A・スカルラッティ、ペルゴレーシ、チマローザなど、十七世紀末~十八世紀前半に、ナポリを 中心にして活動していた一連の作曲家たちと、その音楽様式。イタリア・オペラの発展に大きな貢献をな した。アリアを中心に、激しい感情表現に特徴。時代的にはバロックであるが、むしろロココに近い様式 感。ダ・カーポ・アリアや、イタリア風序曲などの形式を生み出した。 ] ♪Luigi Rossi・Lascia speranza ohimé ♪Giacomo Carissimi・Audite omnes quodquod estis ♪Antonio Cesti・Tito: Aria di Polemone, Berenice, ove sei? (b) フランス シャルパンティエは、初めてカリッシミ(Carissimi)の影響のもとに、フランス語の歌詞 によるカンタータを作り、1705 年~1730 年は、その最盛期であった。フランス語オペラの 作曲家として名をなしたラモー(Jean-Philippe Rameau)にも名作がある。この頃には、 レチタティーヴォ~アリア~レチタティーヴォ~アリア~レチタティーヴォ~アリア、の 形のものが多く、重唱のものはフランスではほとんど作られなかった。この時代のフラン スのカンタータもイタリアと同様、ほとんど世俗カンタータであった。 (c) ドイツ この国では、この形式は全面的に教会音楽に用いられたため、他の国には見られぬ形式を 作り出すことになった。シュッツ(Schütz)は各種のカンタータを 1629 年に Symphoniae Sacrae と題して出版。その後、合唱の導入が盛んになり、オーケストラに重要な役割を与 え、コラール旋律を定旋律にしたコラールカンタータも作り出された。そして、これらの 試みはバッハの教会用カンタータに集中した。コラールカンタータは、 (1)全曲各楽章コラール旋律と歌詞をもつもの。 (2)一部分、歌詞が創作せられ、コラールでないアリアなどに仕上げられたもの。 (3)一部分だけにコラールを用いたもの。 の三種類がある。 バッハの教会用カンタータは説教の前、または後に、長大な曲は前後に分けて歌唱された。 この様にドイツでは教会カンタータが重用されたが、しかし世俗カンタータも存在し、バ ッハ自身も 40 曲にあまる世俗カンタータを作曲している。特に有名な世俗カンタータは、 国王即位、都市記念日などの公的儀式、或いは、結婚式、葬式などの私的儀式のために、 一種の「機会音楽」として作曲されるのがふつうだった。 ★カンタータ ♪Heinrich Schütz・Symphoniae SacraeⅠ(1629) ・Fili mi, Absalon SWV 269 〈◆中世におけるシャンソンの移り変わり〉 25 十一世紀になると、騎士や貴族出身の詩人(トルバドゥール、トルヴェールと呼ばれる音 楽家)たちが現れた。彼らはみな騎士であったが、詩人と作曲家も兼ねて武勲詩(シャン ソン・ド・ジュスト)や、物語歌などを書き、また歌った。トルバドゥール(Troubadour) は第一回十字軍の頃(1096~99)南部フランスのプロヴァンス地方に現れ、オック語 Langue d'Oc(南フランスの地方語)によって作詞をした。その影響を受け、十二世紀末になって、 北フランスに現れたのがトルヴェール(Trouvère)であり、彼らはオイル語 Langue d'oïl (北フランスの地方語)を使った。武勲詩の傑作として今日伝えられている「ローランの 歌」 (La Chanson de Roland)は、およそ 80 篇を数える武勲詩の中で最も古いものの一つ であり、十字軍の遠征を歌った素朴で簡潔な叙事詩であるが、フランスの愛国心と共に封 建騎士の名誉やキリスト教の熱情が表現されている。これら中世のシャンソンの特質は、 単旋律音楽(モノディ)であり、この時代の俗楽をもって、フランス音楽の起源を形づく るという見方もある。 ♪中世のシャンソン〈トルヴェール〉 十六世紀になると、別の形式のシャンソンが現れた。多声的シャンソンがこれである。 すでに十四世紀後半にギョーム・ド・マショーは、伴奏声部付きの新しいタイプのシャン ソンをはじめたが、これは詩の形式においては、ヴィルレー、ロンドーなどの形を受け継 ぎながら、音楽的技法にはモテットの形を導入した芸術的歌曲であって、彼はこれらをシ ャンソンバラードと呼び、十六世紀の多声的シャンソンの先駆をなすものであった。この 傾向は十五世紀にブルゴーニュ楽派のデュファイ、バンショワ等を経て、ネーデルランド 楽派[フランドル楽派]に属するオケゲム、オブレヒト、及びジョスカン・デ・プレ、ハ インリヒ・イザークらに受け渡され、本格的な対位法音楽となった。十五世紀後半からヨ ーロッパの音楽界はネーデルランド楽派[フランドル楽派]の支配するところとなってい たが、この楽派の音楽家たちは、フランスの寺院宮廷にも奉職して、その音楽を広め、フ ランス音楽に非常な影響を及ぼした。その特色は、模倣の手法を用いた教会旋法による線 的対位法作曲技法であり、純粋なポリフォニー(多声音楽)の原理に立って技巧が複雑に なった。もともと教会音楽の中で作り出された、この作曲技法を駆使した世俗音楽が盛ん に十六世紀には作り出されたが、この時代のシャンソンもまさにその一つで、多声的シャ ンソン、又はフランス・シャンソンと呼ばれた。これは中世とは全く異なった合唱による シャンソンである。前記の作曲家に続いて、この楽派の最後に現れたフランスの無伴奏合 唱シャンソンの代表的な作曲家クレマン・ジャヌカン(Clément Janequin, ca.1480-1558) は、シャンソンを複雑な対位法から解放し始めた最初の作曲家で、「鳥の歌」(Le Chant des Oyseaulx)、「戦争」(La Guerre : La bataille de Marignan)等、多くの優れた作品を書 いたが、それらの作品は民謡とは違ったクラシック音楽とも言うべきものであり、今日い われているシャンソンというものとはかなり性質を異にしている。つまりジャヌカンの作 品では、いずれも歌詞に応じて曲の組み立てをするというよりも、むしろ楽曲の構成法が 優先していて、それらはまだ、いずれも対位法に基づいているのである。 26 ♪chanson・Johannes Ockeghem・Qu’es mivida, preguntais ♪chanson・Josquin des Prez・la Belle se siet ♪chanson・Heinrich Isaak・Fortuna desperate: nasci, pati, morri. ♪chanson・Clément Janequin・La bataille ♪chanson・Clement Janequin・Le Chant des Oyseaulx 〈◆リート Lied〉 ミンネゼンガー 〈Minnesänger〉 、 及びマイスタージンガー〈Meistersinger〉時代(1250-1550) 。 ミンネゼンガーによるリート(ミンネザング Minnesang)は、歌詞は恋愛を主題としたもの や、牧歌風のもの、又、処女マリアを賛美したものなどが多く、旋律は教会旋法によるモ ノディ(単旋律)であった。イエナ写本(Jenaer Liederhandschrift) 、及びコルマール写 本(Colmarer Liederhandschrift)には、ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイ デ〈Walther von der Vogelweide(ca.1170-ca.1230)〉や、ナイトハルト・フォン・ロイ エンタール〈Neidhart von Reuental(1180-1240) 〉など、多くの有名なミンネゼンガーの 曲が収録されており、またマイスターゲザング Meistergesang(マイスタージンガーの歌) としては、ミヒャエル・ベーハイム(1416-1474) 、ハンス・ザックス(1494-1576)などの 歌が残っており、ことに、アーダム・プッシュマン Adam Puschmann(1532-1600)の Gründlicher Bericht des deutschen Meistergesanges und der Tabulatur(1574)は重要 な文献として知られている。 ★ミンネゼンガー〈現代のミンネゼンガー選手権(ドイツ) 〉 ♪ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ(Under der linde 菩提樹の下で) ♪ナイトハルト・フォン・ロイエンタール〈So blossen wir den anger nie gesahen〉 〈◆多声的リート〉 オスヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタイン〈Oswald von Wolkenstein(1377-1445)〉 や、ミュンヒ・フォン・ザルツブルク(1400)等が、十四世紀フランスの範例にならった 最も古い多声的リートを作曲した。十五世紀のこの種の民謡は、「グローガゥアー歌曲集」 などに収録されている。 (ボリフォニックなものばかりでなく単旋律のリートも含まれてい る) 。ポリフォニーの取り扱いに於いて進歩したリートは、十五世紀末からアーダム・フォ ン・フルダ、ハインリヒ・フィンクなどに見られ、又、成熟した作品は、イザーク、ホー フハイマー、シュトルツァー、ゼンフル(彼のクォドリペットはとうじ流行った民謡がた くさん引用されていて重要。 )などの作品に求められる。中でも、イザークの「インスブル ックよ、今そこ我は去りなん」 (Innsbruck, ich muß dich lassen)は、この時期の最も傑 出したリートとして名高い。十六世紀の末には、二人の大家、レオンハルト・レヒナー、 及びハンス・レオ・ハスラーが、この形式にドイツ風の深みと、 「世紀末の洗練」とを与え たが、ヨハン・ヘルマン・シャインによって多声的リートの発展は終わった。 27 ♪Oswald von Wolkenstein (c.1420) - Wol auf - gesellen - an die vart ♪Oswald von Wolkenstein・Ensemble für frühe Musik Augsburg - Vil lieber grüsse süsse ♪Heinrich Isaac・Innsbruck, ich muss dich lassen ♪Adam von Fulda・Ensemble Stimmwerck・Ut queant laxis ◇バロック時代における器楽形式 ◇バロック時代における器楽形式 ◆トッカータ ◆フーガ ◆プレリュード(前奏曲) ◆ファンタジア ◆ソナタ ◆バロッ ク・ソナタ 〈◆トッカータ〉 toccata 触れるという意味のイタリア語トッカーレ〈toccare〉に由来。 十七世紀~十八世紀前半に前世であった器楽形式。とくに鍵盤楽器〈organ、cembalo〉音 楽の形式。その構造は器楽形式中最も自由なものの一つであるが、その特徴を指摘すれば、 豊富な幅広い和音と、速い音符による経過句という異なる二つの要素を交代に連鎖して使 用することである。さらに模倣様式によるフーガ的な部分の加わった例が多い。その他、 明確な主題を設定せずに、音型反復を多く使用すること。又、伸縮性のある自由な速度な どの性格もあるといえよう。トッカータは、その自由な構造の示すように、元来即興的要 素の強いもので、とくにオルグ〈オルガン〉や、チェンバロの試奏に用いられることが多 く、これはバッハのトッカータにもその名残をとどめている。また歌手にピッチを与える ための導入的なトッカータはイントナツィオーネ〈intonazione〉とも呼ばれた。 ♪toccata・J.J.Froberger・Robert Hill・Toccata C Dur ♪toccata・J.J.Froberger・Blandine Verlet・Toccata No.11 28 〈◆フーガ〉 fuga〈伊〉、遁走曲〈日〉 フーガは一つの主題、 (時には、二重フーガ、あるいは三重フーガと言って、二つ、あるい は三つの主題)が、各声部或いは各楽器に定期的・規律的な模倣反復を行いつつ、特定の 調的法則を守って成る楽曲であり、或いは声楽と器楽を合わせた楽曲ともなるのであり、 あらゆる対位法的技法を含んで展開するが、調的には、一つの調を基盤にして、それの関 係調(近親調) [注ⅰ]がその原調を修飾しながら、大きな調的終止形〈カデンツ〉を形成 するものである。 [注ⅰ: 関係調の中で最も重要なものは、近親調(related key)といわれる次の六つである。①属調 (dominant key)元になる調の完全五度上の調。C-Dur に対する G-Dur。c-moll に対する g-moll。②下属 調(subdominant key)元になる調の完全四度上の調。③並行調(relative key)元になる調と調号が同じ 調。C-Dur に対する a-moll の関係。④属調並行調。文字通り、属調の並行調。C-Dur に対する e-moll、又 a-moll に対する C-Dur という関係。⑤下属調並行調。下属調の並行調。⑥同主調(parallel key)元にな る調と主音が同じ調。 ] フーガが有する旋律的要素は、主題 subject〈主唱〉、応答〈応唱〉、対主題(主題或いは応 答の対位的副主題)の三つである。なお、主題の集結の延長としてのコーダも、旋律的要 素となりうる。 フーガを和声部〈ママ〉に分析すれば、①「提示部」、②「嬉遊部」(ディヴェルティスマ ン divertissement) (挿入部とも) 、③「追迫部」 (ストレッタ stretta/stretto) 、④「保 続音部」の四つが挙げられる。 ①提示部(Exposition)は、「主題」(subject, dux)と、それを五度或いは四度関連に模 倣する「応答」(answer, comes)の継続的導入と、そのそれぞれと共に流れる対主題 (countersubject)とにより形成されるが、一般に主要提示部と呼ばれる原調の提示部(主 音度と属音度の調の間のみに交流[注ⅰ])、副提示部と呼ばれる関係調の提示部(直接の関 係調、或いは下属音度、及びその直接の関係調) 、時には主要提示部を逆に示す対提示部な どであるが、これらの提示部は、主題類の全面的提示をもって必ず保調的である。 [注ⅱ] ② それに対して喜遊部は、これらのいくつかの提示部を連結するための部分[注ⅲ]であり、 従って、それは必ず転調的であり、手法として各旋律的要素の一部をとって、それを各種 の音度(おんど) [degree]に、反復模続せしめる。③追迫部(ストレッタ stretta/stretto) は提示部及び嬉遊部が相互に展開して原調の属音度に到達し、それが主音度に落着するの であるが、その様な終結のための主音度の上に起こるものであり、それは原調を十分に確 認しつつ、主題類の継次的導入を逐次近接せしめる。 [注ⅳ] なお、そこには各種の対位法 的技法、たとえば拡大、縮小、転回、逆行などの技法を適宜配合せしめる。④保続音部は 追迫部直前の属音度に、或いは、追迫部の最後の終止のための主音度に、それぞれ見られ ることがあるもので、調的に原調を強く印象せしめるためにあり、保続音そのものは主と 29 して低音に置かれている。 こうしたフーガの書式は各声部[少なくとも二声部以上]が独立し、相互に対位的に並 流しつつ進むのであり、対位法的要素が最も純粋に発揮される楽曲ということができる。 フーガはこの様な内容を備えて作られるのであるが、楽曲としては、この骨格に基準を置 きながら、より自由に音楽的に展開し、芸術的な音楽構成作品の相貌を示すものである。 しかし、フーガ形態の完備は近代のものである。すなわち、古くは十四世紀のジャン・ド・ ミュリス、或いは十五世紀のオケゲム(Ockeghem)の頃からその萌芽が見られ、その後、 変遷の結果、十七世紀に次第に整備されてきて、バッハ及びヘンデルによって初めて大き く開花したものである。特にバッハの名は不滅である。彼は無数のフーガを残して、 「フー ガの技法」という楽曲では、フーガ的技法のあらゆる可能な面を悉く書きつくしている。 ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス等は、フーガの発展に逸することができ ない名であり、又楽曲の中に、フーガ的技法が局部的に活用されていることは近世の楽曲 を含めて数多く認められるところである。 [注ⅰ: 主音度、すなわち主音の度数とは、一度のこと。属音度、すなわち属音の度数とは、五度のこ と。現代ピアノのハ長調の白鍵上では、たとえば、ドとソ、レとラ、ファとド、ソとレ等のこと。 ] [注ⅱ: 「保調的である」とは、最初に示された主題の調性を全体として維持する]という意味。 ] [注ⅲ: 「これらのいくつかの提示部を連結するための部分」とは、フーガの曲中、複数回登場する提 示部と提示部の間をつなぐ役割ということで、提示部~嬉遊部~提示部~嬉遊部~提示部・・・という構 造になります。提示部で示された主題のメロディーが、次の提示部までしばらく使われない「余興」 (divertissement)的な部分なので、 「嬉遊部」と言われます。 ] [注ⅳ: 「主題類の継次的導入を逐次近接せしめる」とは、表現は難儀晦渋ですが、要するに、主題類、 つまり主題と応答を時間的に切迫させ、主題が終わらないうちに応答をいれ、応答が終わらないうちに主 題をいれるというように、間髪を入れず、全声部に次々と提示するということです。 ] ♪フーガの分かりやすい実例 「小フーガ」ト短調・BWV 578 [わかりやすくないかも知れません・・・ (笑) ] ★フーガ 〈◆プレリュード(前奏曲)〉 前奏曲は本質的に器楽に属しており、時代と共にその形をいろいろに変えている。本来は 導入的性格を持った楽曲であったが、しかしそれだけに止まっていない。 〈1〉 前奏曲の起源は十六世紀のリュート音楽に発したが、イタリア人たちは曲を演奏す る前に、演奏者が即興するいくつかの楽句を、イントナツィオーネ〈intonazione〉と呼ん でいた。これは「調音」の意味であり、演奏者は自分の楽句の和音を調べてみることによ って、作品の調性を決定した。これはリュートからクラヴサン[チェンバロ]や、オルガ ンに移り、十七世紀ごろには前奏曲となった。そして、この時代には舞踏組曲の冒頭に置 かれた、舞曲形式によらない曲の形をとった。 〈2〉 前奏曲に確固とした構造を与え、その意味を確定することに大きな貢献をしたのは、 30 J.S.バッハである。そして特にこれをフーガと結びつけることにより、彼は「前奏曲とフ ーガ」という極めて芸術的な形式を生み出した。バッハは様々な型の前奏曲を書いている が、二声部にて展開するような前奏曲、そしてしばしば、二部形式(組曲のもつ舞曲形式) をとるものや、模倣形式を主体とする二声ないし三声の前奏曲や、様々な形における(密 集または分散などの)和声様式の前奏曲や、高度な対位法的技術を用いた前奏曲や、一つ ないし二つの主題による大規模な前奏曲などがある。 〈3〉 さらに和声様式の時代に入ると、歌劇や楽劇などの導入的な楽曲として、前奏曲が 用いられた。この場合には、いうまでもなく、管弦楽が用いられている。 〈4〉 以上のように、前奏曲は、他の楽曲と組み合わされてきたが、しかし、特にショパ ンによって、それは自由な形式による独立的な小曲としても書かれた。これを数多く組曲 とすることによって、形式としても内容としても、はなはだ高度な音楽となった。この場 合にはいわゆる導入的意味は失われ、自由な器楽曲となっている。従って、それの内容に 対し、明確な定義を与えることは困難である。このような前奏曲は、ショパンやドビュッ シーの作品によってよく知ることができる。 〈◆ファンタジア(幻想曲)〉 ソナタやフーガなどのような、厳格な構想を持たない自由な楽想の展開する幻想的な曲の こと。幻想曲は広範な内容を含んでおり、およそ次の五種に分けられる。 〈1〉 即興演奏を楽譜に書きとめた場合、および、その様な感じのバッハの「半音階的幻 想曲」や、モーツァルトのピアノ曲「幻想曲・ニ短調 K 397」 、ベートーヴェンのピアノ曲 「幻想曲・作品 77」などはこの主のファンタジアの例である。 〈2〉 ロマン派の性格的な小曲(キャラクター・ピース)。夢想的な気分や、むら気な幻想 によるロマンティックな内容の曲で、ブラームスの「幻想曲集」二巻・作品 116 などがこ の例。ショパンの「ヘ短調・作品 49 はソナタ形式によっている。 〈3〉 自由な形式による特殊なソナタ。ベートーヴェン「幻想曲風ソナタ」作品 27 の二曲 は、通常のピアノソナタとは違って、著しく幻想的であり、ことに二番嬰ハ短調のソナタ は、そのロマンティックな緩徐楽章(第一楽章)によって、「月光ソナタ」として名高い。 〈4〉 オペラのポプリの一種。オペラの主な旋律を接続するばかりでなく、その接続部に 即興的な自由処理が行われることが多い。リストの「ドン・ジュアン幻想曲」はこの種の 例である。 〈5〉 十六世紀から十七世紀の自由な器楽曲の一形式。この形式はリチェルカーレなどと 同じく、多かれ少なかれ、対位法様式で作られており、近代的な意味でのいわゆる幻想的 気分は含まれない。すなわち、当時の形式感では、ファンタジアは、厳格に対位法的なリ チェルカーレに対して、その自由な変種として理解されていたからである。最初、ファン タジアは、リュートの曲として始められた。リュートはその楽器の特性ゆえにモテット風 のリチェルカーレを演奏し難かったので、楽器に適した自由な応用形として発展させたの 31 が、ファンタジアだった。鍵盤楽器用のファンタジアはリチェルカーレの即興演奏として の性格をおびた。 〈◆ソナタ〉 sonata〈伊・英〉 Sonata〈独〉 sonate〈仏〉 [注ⅰ] 古典派以後、器楽曲の最も重要な地位をしめている形式の名。数個〈三~四〉の独立した 楽章からなり、個々の楽章とその配列は、性格や形式の上で一定の型があって、全体は楽 想や調性を通じて強い内的な統一を持っている。ソナタはこの様に多様な変化や、対比に 富みながら、緊密な統一的構成を示すことを特色としている。しかし、このような現在の 定型は、バロック時代に於ける様々な変遷の後、古典派において確定したもので、初めは、 単に多楽章の室内楽的器楽曲の名称として用いられていた。現在でもソナタという言葉は、 広狭二様の観念を持っている。すなわち、ふつうのソナタという名称は、独奏や重奏の為 の楽曲に用いられている。 (例えば、「ピアノソナタ」「ヴァイオリンソナタ」「チェロソナ タ」 「フルート、ヴィオラとハープの為のソナタ」など。この際、ある一つの楽器とピアノ の二重奏の為のソナタは、 「ヴァイオリンソナタ」などの様に、ピアノを略して呼ぶ習慣が あり、その楽器一個だけの場合には特に「無伴奏」という言葉を付ける。 ) しかし、交響 曲や、四重奏曲、三重奏曲、二重奏曲など、多くの室内楽、或いは協奏曲(この場合多少 変化しているが)などは、名称の如何によらず、それぞれの演奏母体の為のソナタと見な すことができる。 (例えば、交響曲は「オーケストラの為のソナタ」など・・・) この 様なソナタは楽式としてあらゆるジャンルの器楽曲の中で最も重きをなしている。 [注ⅰ: もともとラテン語・イタリア語の sonare「音が鳴る」に由来し、イタリア語の sonata が「演 奏されるもの」「作品」「器楽曲」などの意味で一般化した。バロック時代に使われるようになった「教会 ソナタ」 「室内ソナタ」のソナタと、古典派以降に有名になったソナタとは全くの別物。古典派のピアノソ ナタを指して、 「奏鳴曲」と訳されることがある。 ] ソナタの楽章構成は、急(アレグロ)~緩(アダージョ)~急(スケルツォないしメヌ エット)~急(アレグロ)の四楽章がふつう正規の構成と考えられているが、古典派のピ アノソナタの多くや、協奏曲のほとんどでは三楽章(ふつうメヌエット楽章を省略)構成 で、二楽章や、まれには一楽章、或いは五楽章以上などというものも見受けられる。また 各楽章の速度と性格の配列もさまざまな変形がある。定型の確定がハイドン、モーツァル トに負うところが大きかったのに対し、変形の開拓はベートーヴェンの創意に多く与って いる。特に唯一の性格的楽章である第三楽章で、組曲の名残である舞曲、メヌエットの代 わりに非舞踏的なスケルツォを用いたのは彼以後のことである。調関係は必ずしも一定し ていないが、古典曲のソナタでは、第一楽章・主調~第二楽章・近親調〈多くは下属調か 属調。主調が短調の場合は長調〉~第三楽章・主調~終楽章・主調〈短調では同主長調が 多いが、三楽章制では主調〉の形をとる例が最も多い。個々の楽章に用いられる楽式も一 定の習慣があって、第一楽章はソナタ形式 [注ⅰ]、第二すなわち緩徐楽章はリード形式 32 〈多くは複合三部形式〉 、あるいはソナタ形式、時に変奏曲形式、第三楽章はメヌエット~ トリオ~メヌエット、又はスケルツォ~トリオ~スケルツォの三部形式、終楽章はロンド 形式またはソナタ形式〈或いは時に変奏曲形式のことも・・・〉の形がふつうである。な お二十世紀には、これらの形式上の約束に全く拘束されない、自由な形のソナタも現れて いる。 [注ⅰ: 全体が「急・緩・急・急]という四楽章から構成されるソナタの形式と、楽典で言う「ソナタ 形式」とは意味が違うので注意。 「ソナタ形式」は、古典派ソナタの中の、多く第一楽章や終楽章で使われ る楽曲の形式。古典派の、交響曲や、独奏協奏曲、弦楽四重奏においても、どうように第一楽章や終楽章 で、 「ソナタ形式」がよく使われる。 ] 〈◆バロック・ソナタ〉 ソナタという言葉は、本来イタリア語で「鳴り響く楽曲」〈canzoni da sonare; canzon suonata〉といった意味で、「楽器で演奏される歌」と言ってもよい。それは「声で歌う楽 曲」〈canzon cantata〉に対立する言葉であった。十六世紀の後半から十七世紀にかけて、 器楽が声楽から独立し始めた頃に、こうした新しい器楽曲と呼ぶ名称もそれらの一つであ って、従って、形式などについても、もちろん確たる規定はなかった。ソナタという名称 を楽曲の標題として初めて用いたのはクローチェ(Giovanni Croce)や、A・ガブリエリ (Andrea Gabrieli)などと考えられるが、おそらく一つの思いつきとして用いられたもの であろう。[注ⅰ] カンツォーナという名称は、最初声楽作品をオルガン用に編曲したも のを呼んでいたのであるが、しだいにこれを原曲とする器楽曲となっていった。ソナタは 初めのうちは、カンツォーナと組曲との混合のような形をとっていたが、ガブリエリにお いては、両者の区別はそれほど重要視されていなかった。またプレトリウスによれば、金 管楽器によって奏される多楽章器楽曲をソナタと名付けている。 [注ⅱ] [注ⅰ: Andrea Gabrieli, “Sonate a 5 istromenti” (1586) ] [注ⅱ: Michael Praetorius, “Turm Sonate” ] この様にソナタも、いろいろな他の形式と同じように、あいまいな概念のもとに、ある種 の器楽曲に名付けられた名称として出発したのである。十七世紀の初めにおいてソナタは 一つの発展を遂げたが、1617 年、マリーニ(Biagio Marini)は、その作品の標題にシンフ ォニアという名称をつけているが、これはヴァイオリンのための独奏ソナタであった。ま た二つのヴァイオリンと通奏低音のための三声部ソナタ(trio-sonate)は、1613 年、ロッ シ(Luigi de Rossi)によって、また 1615 年、メルーラ(Tarquinio Merula)によって書 かれた。さらに、1625 年には、加工された冒頭楽章をもつ舞踏組曲としての「室内ソナタ」 (sonata da camera)が登場する(ローゼン・ミュラーなど)。そして 1650 年頃からドイ ツの作曲家たちは 1610 年頃から栄え始めたパルティータの第一章に、ソナタあるいはシン フォニアを盛んに置くようになった。パルティータは古典組曲の一種であるが、変奏の観 33 念が含まれ、組曲を構成する各曲が同一楽想の変奏に基づいていることが少なくない。こ のような絶対音楽的傾向の強い多楽章形式の楽曲の冒頭楽章にソナタという名称が使用さ れたことは、ソナタのその後の発展と照らし合わせて興味深いことである。それから少し 後には、ソナタという名称の楽曲は、舞踏の観念が全く排除されている多楽章の組曲を意 味するようになったが、このことはソナタの発展にとって非常に重要な意味を持っている。 即ち、多楽章形式であるということ。舞踏的特徴を捨てて、著しく抽象化されたというこ と。この二点はソナタの性格を規定していく上に重要な因子となったものである。これと 同じ頃、即ち 1670 年頃、イタリアの作曲家たちは、 「教会ソナタ」 〈sonata da chiesa〉と 「室内ソナタ」 〈sonata da camera〉を区別して書いていたが、前者はフーガ様式をとるこ とにおいて、より抽象的であり、後者は舞踏組曲の形をとることにより、より具体的であ った。しかし両者共に一般に四つの楽章からできており、かつ遅い楽章と速い楽章とが交 代するという様な点において、共通する特徴を持っていた上に、相互に影響しあっていた ので、次第に一つのものとなっていった。そしてこれらの曲はヴァイオリンと通奏低音の ために書かれることが多かった。イタリアにおけるこの努力もまた、ソナタの発展におい て見逃すことのできない貢献をしているが、特に四楽章からなる多楽章形式であるという ことと、速度の変化によって、楽章間の対照を作り出すということが、ソナタの重要な特 徴となっていった。以上の歴史によって明らかなように、ソナタはその当初においては、 主としてイタリアを中心に発展してきたのである。しかし、それが漸次抽象的な傾向をと るに及んで、その後ドイツ中心に移っていったことは興味深い。 ◇バロック音楽の作曲家とその作品 ◇バロック音楽の作曲家とその作品 ◆パレストリーナ ◆ラッソ ◆モンテヴェルディ ◆シュッツ ◆リュリ ◆パーセル ◆A・スカルラッティ ◆クープラン ィーニ ◆ラモー ◆D・スカルラッティ ◆コレルリ ◆ヴィヴァルディ ◆タルテ ◆バッハ ◆ヘンデル パレストリーナ ラッソ モンテヴェルディ 34 シュッツ リュリ 〈◆パレストリーナ〉 Palestrina〈ca.1525-1594〉 [注ⅰ] ローマ近郊のパレストリーナに生まれたので、Giovanni Pierluigi da Palestrina〈パレ ストリーナのジョヴァンニ・ピエルルイジ〉と呼ばれ、略してパレストリーナとして知ら れるようになった。彼は早くから才能を示し、ローマのサン・ピエトロ寺院や法王庁など に勤務したのち、1571 年以後、サン・ピエトロ寺院の楽長をし、その間、多くの教会音楽 を書いた。彼はローマの先輩たちの伝統を受け継いだが、一層多くのネーデルランド楽派 〈フランドル楽派〉の影響を直接に受け入れ、しかも、そういうものを自分の個性に従っ て醇化し、極度に純粋で超地上的なものに変えた。その作品中もっとも重要なのは教会音 楽、とくにそのミサ曲である。九十四曲あり、何れもパレストリーナ独自の崇高な単純性 を示し、古今のミサの中で最も優れたものと言われ、後世に著しい影響を与えた。 その様式の特徴は、第一に和音に基づいていて、しかも対位法で動いている。換言すれば、 対位法で書いてあるが、和声的な基礎の上に立っている。次に各声部は専ら、一音符対一 音符で和声的に動いている。第三に[・・・・読取不能・・・・]バスは、多くは円滑な 音階的接続進行(二度進行)の方法に従っていて、その上に穏和な三和音を作っている。 第四は、音階はなおも教会音楽を主としているが、マドリガーレの作曲家たちが好んでい るような官能的な半音階的進行を極度に避けて、柔和な全音階的進行を重んじている。第 五に、和音は三和音とその変化様式を主としていて、不協和音をできるだけ避け、用いる としても短い音符として、かつ目立たぬように円滑に動いていて、全体として単純で明白 である。最後に第六として、詞は原則として、一綴りに対し一音を当て、無用な装飾を避 け、簡明を志している。 このような様式がふつう「パレストリーナ様式」と呼ばれている。 [注ⅱ] 【主要作品~パレストリーナ】 「法王マルチェルスのミサ」(Missa Papae Marcelli)、モテトゥス「お〃賛美すべき交わ り」 「アヴェ・マリア」 「美しきイエス」など。オッフェルトリウム「バビロン河の辺にて」 (Super flumina Babylonis)他。マドリガル「いまぞ行かん」「お〃輝かしき光よ」「愛し きヘブライ人」など数百曲。その他、マニフィカート、讃歌、詩篇歌など、多数の宗教曲 がある。 [注ⅰ: パレストリーナは明らかにルネサンスを象徴する代表者ですが、時代的にはその生涯の後半期 は、バロック時代と重なるところもある。 「室内合唱団」の四期先輩の方々は、おそら無視できない作曲家 として、この作曲家紹介の項目の中に入れたのでしょう。次のラッソも、バロックへの移行期的な性格の 作品をつくってますが、その本体はやはりルネサンスです。 ] [注ⅱ: パレストリーナの 「室内合唱団」初演はもっとも早く、1960 年の第一回定演の第一曲目でし た。このときは、ミサブレヴィスからの部分抜粋でした。パレストリーナおよびルネサンスミサを火がつ いたように歌いだすのは、第七回定演の「マルチェルスのミサ」以降です。→ここを参照。 「ミサ・ブ レヴィス」の「室内」再演は、半世紀あまりを過ぎた(五十一年後の)2011年「六月演奏会」 。この時 35 は、省略なしの通し演奏をしました。 ★作品一覧を見るには、パレストリーナ簡易作品表(made by K.Umezawa) ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Palestrina in the Choral Public Domain Library (ChoralWiki)などを参照。 〈◆ラッソ〉 Lasso(ca.1532-1594) イタリア語では、オルランド・ディ・ラッソ(Orlando di Lasso)、ラテン語では、オルラ ンドゥス・ラッスス(Orlandus Lassus)。表記としては近年、Orlande de Lassus や Roland de Lassus なども使われている。日本語も、ラッソ、ラッソー、ラッススなどの表記があ る。 十六世紀には、ローマ楽派のパレストリーナに匹敵する大家、オルランド・ディ・ラッソ がドイツで強烈な作曲をしていた。ラッソはフランドル(現ベルギー・エノー州・モンス) 出身であるが、1556 年以来、ミュンヘンにて、バイエルン公の宮廷音楽家をつとめ、1563 年に楽長に昇格し、モテット、マドリガーレ、ヴィラネルラ〈villanella〉[注ⅰ]、シャ ンソンなど、多面的な作品を作り、豊かな創作力と強烈な様式を示した。パレストリーナ と同じように、当時の全体の芸術様式を摂取し、これを充実させ、又和声的進行と模倣対 位法をよく融合させたが、パレストリーナの様な単純な崇高を志さないで強烈な劇的な力 を示し、截然(せつぜん)たる対比を重んじて不協和音を多く使用し、主観的な感情を示 した。ラッソは、そのモテットでは、新しい教会音楽の一つの進路を示し、そのマドリガ ーレでは、官能的な愛の崇高な歌い手となり、そのヴィラネルラでは、即興的な仮面喜劇 の先駆者となり、そのシャンソンでは剽軽(ひょうきん)に浮世の喜びを喜んでいる。ラ ッソはパレストリーナと共に、ルネサンス音楽の最大の作曲家として、あるいは又、ゴシ ック音楽の最後の代表者として、音楽史上に光り輝く頂点をなした。 [注ⅱ] [注ⅰ: ヴィラネラ、ヴィッラネッラとも。 「田舎の歌」 「田園の歌」 。ナポリで起こった南イタリア風の民 衆的合唱曲。 ] ♪ヴィラネルラの実例 ♪ヴィラネルラの実例 [独特の楽しさに満ちあふれています。 ] 【主要作品~ラッソ】 2000 曲以上と言われている。 ◆ミサ曲[60 曲余りが現存] ミサ「美しきアンフィトリット」 Missa Bell “Amfitrit” altera、ミサ「ぶどう酒ミサ」Missa ad imitationem Vinum bonum[自作の世俗モテット” Vinum bonum”による]、ミサ「その口にわれに口づけを授けたまえ」Missa Osculetru Me [ヴェネツィア楽派の複合唱様式で作曲]など。◆モテット[530 曲余りが現存] 「バビ ロンの河の辺りにて」 (Super flumina Babylonis)、 「おお良きイエスよ」(O bone, Jesu) 、 「我いかなる時も主をほめたたえん」(Benedicam Dominum)など。◆マニフィカート[100 曲余りが現存] 。◆マドリガル[約 200 曲] 「マトナの君よ」Matona, mia cara(1581) 、 「山彦の歌」O la, o che bon eccho(1581)、 「ある日、私が窓辺に独りいた時」(Standomi 36 un giorno) 。◆ドイツ語歌曲(リート) [約 90 曲] 「僕はきれいで素敵な女の子を知って る」 (Ich weiß mir ein Maidlein) 、 「こんなにうまい酒」(Der Wein, der schmeckt mir so wol')。◆ヴィラネルラ[約 175 曲] 。◆シャンソン[約 150 曲] 「冷たく暗い夜」 (La nuict froide et sombre)、「君に会いたい」(J’ay de vous voir)。◆その他、カンツォーナ・ フランチェーゼ、◆その他、ミサの固有文につけた楽曲、聖務日課のための楽曲、ヌンク・ ディミッティス、リタニア、アンティフォナ、レスポンソリウム、イムヌス、受難曲、レ クツィオ、ラメンタツィオなど。 [注ⅱ: 「室内合唱団」のラッソ(ラッスス)初演は、モンテヴェルディ同様にかなり早い時期に行わ れていて、1961 年の第二回定演でした。マドリガルが二曲歌われています。1. Matona, mia cara 2. Echolied →ここを参照。 ] ★作品一覧を見るには、オルランド・デ・ラッスス簡易作品表(made by K.Umezawa) ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Orlando di Lasso in the Choral Public Domain Library (ChoralWiki)などを参照。 〈◆モンテヴェルディ〉 Monteverdi(1567-1643) クラウディオ・ジョヴァンニ・アントニオ・モンテヴェルディ(Claudio Giovanni Antonio Monteverdi) 北イタリアのクレモーナに生まれ、マントーヴァの領主ゴンザーガ家の宮廷歌手およびヴ ィオール奏者として仕え、1602 年までに宮廷楽長となる。1613 年に破格の給料条件で、ヴ ェネツィアのサン・マルコ教会の楽長に招請される。この間、多くのマドリガーレ等を書 いたが、とくにオペラに力を注ぎ、フィレンツェのオペラが劇的な力に欠けているのを不 満として、 自分の作品には劇的な生命を与えた。彼はまず 1607 年の「オルフェオ」 (L’ Orfeo) で劇的な力を示すことに成功した。この作品は、なおフィレンツェの叙唱様式に従ってい るが、独唱と合唱を劇的に用い、不協和音を大胆に使って未曾有の劇的効果をあげた。又 原始的ながらも一種の序曲や独立的器楽曲なども使っている。この管弦楽は継続バスの楽 器を主としていながらも、弦を重んじ、編成を著しく拡大している。その翌年の「アリア ンナ」は、いっそう劇的になった様であるが、その楽譜の大部分は失われてしまった。モ ンテヴェルディは、その後の多くの作品では劇的な力をいっそう増し、又性格描写も行っ たし、弦のトレモロやピチカートなどを盛んに使って、新しい感激的な「昂奮様式」を興 じた。オペラ以外では、彼はグレゴリオ聖歌の用法をその純粋な形で再確立し、極めて多 数のミサやモテットを作曲した。又彼のマドリガルは、その様式の作品の中の最高峰とし て現在においても、高く評価される。 [注ⅰ] 【主要作品~モンテヴェルディ】 ◆オペラ[少なくとも 18 曲作曲] : 歌劇「オルフェオ」 〈L’Orfeo〉 (1607 初演)、歌劇「ア リアンナ」 〈L’Arianna〉 、歌劇「ウリッセの帰還」 〈Il ritorno d’Ulisse in patria〉 (1641) 、 歌劇「ポッペアの戴冠」 〈L’incoronazione di Poppea〉 (1642)。このうち今日まで完全に 37 残っているのは「ウリッセ」と「ポッペア」の二つ。他は断片的に現存。ウリッセとはユ リシーズのこと。◆その他の大作品: 「 タ ン ク レ デ ィ と ク ロ リ ン ダ の 闘 い 」〈 Il Combattimento di Tancredi e Clorinda〉、「聖母マリアの夕べの祈り」〈Vespro della Beata Vergine〉 (1610) 、 「音楽の諧謔」 〈Scherzi Musicali〉 (1632) 、 「倫理的、宗教的な森」 〈Selva Morale e Spirituale〉 (1640)◆ミサ曲: ミサ「四声の無伴奏ミサ」 〈Missa a 4 voci da cappella〉 (1650) 、ミサ「その時に」〈Missa In illo tempore〉 (1610) 。◆モテット: エ ルサレムよ主を讃えよ(Lauda Jerusalem, Dominum) 、主に向かいて新しき歌を歌へ(Cantate Domino canticum novum)、「主を恐れる者は幸いなり」(Beatus vir qui timet Dominum)。 ◆マドリガーレ[おびただしい数のマドリガーレがある]: 「わが心よ!そなたを見つめ ているうちに」 (Cor mio, mentre vi miro !)、「波はささやいていた」 (Ecco mormorar l’ onde) 、 「私を死なせてください」 (Lasciate mi morire)、 「天と地」 、 「熱情」 、 「西風よ帰れ」、 「おお春よ」などなど・・・。 [注ⅰ: 「室内合唱団」のモンテヴェルディ初演は、かなり早く、1961 年の第二回定演のマドリガル でした。1. Cor mio,mentre vi miro! 2. Crudel, perche mi fuggi! 3. Ecco mormorar l’onde 以上三 曲を歌っています。→ここを参照。 ] ★作品一覧を見るには、クラウディオ・モンテヴェルディ簡易作品表(made by K.Umezawa) ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Claudio Monteverdi in the Choral Public Domain Library (ChoralWiki)などを参照。 〈◆シュッツ〉 Schütz(1585-1672) Heinrich Schütz〈独〉 、自筆署名では Henrich Schütz としている。ラテン語名 Henricus Sagittarius プロテスタント教会のための偉大な音楽家として、バッハ以前に活躍した。彼はザクセン 〈Sachsen〉の人で、バッハやヘンデルよりもちょうど百年前にうまれ。ヘッセン・カッセ ルの領主の合唱隊児童として音楽を学んだあと、ヴェネツィアに行って、新しい複合唱様 式を吸収した。その結果は、一方では最初のオペラ「ダフネ」となって現れたが、他方で は、数多くのガブリエリ風の合唱曲として、プロテスタント教会音楽の一頂点を築きあげ た。シュッツの曲は大胆でもあり、鋭くもあって、バッハに与えた影響も少なくない。彼 はバッハ以前の最大の教会音楽作曲家として高く評価されている。 [注ⅰ] [主要作品~シュッツ] ◆イタリア語によるマドリガーレ集第一巻(1611)。◆ダヴィデの詩篇第一巻(1619)。◆ 復活祭オラトリオ(1623) 。◆カンツィオネス・サクレ (1625)。◆ダヴィデの詩篇第二巻 (1628; 1661)。◆シンフォニエ・サクレ第一巻(1629)。◆ムジカーリッシェ・エクセク ヴィエン〈ドイツレイクエム〉(1636)。◆クライネ・ガイストリヘ・コンツェルテ第一巻 (1636)。◆クライネ・ガイストリヘ・コンツェルテ第二巻(1639)。◆シンフォニエ・サク レ第二巻(1647)。◆ガイストリヘ・コーアムジーク(1648)。◆シンフォニエ・サクレ第三 38 巻(1650)。◆十二の宗教歌(1657)。◆クリスマス・オラトリオ。◆十字架上の七言。◆マ タイ受難曲、ルカ受難曲、ヨハネ受難曲。◆白鳥の歌〈Psalm 119, Jubilate, Magnificat〉 。 ◆歌劇「ダフネ」 、バレエ「オルフェウスとエウリディーチェ」 [注ⅰ: 「室内合唱団」のシュッツ初演は 1970 年の第 11 回定演、 「ドイツ語マニフィカート」Deutsches Magnificat, 1671, SWV 494 でした。以後、五十年間でシュッツはバッハに次ぐ、 「室内合唱団」人気作 曲家となっています。→ここを参照。 ] ★作品一覧を見るには、ハインリヒ・シュッツ簡易作品表(made by K.Umezawa) ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Heinrich Schütz in the Choral Public Domain Library (ChoralWiki)などを参照。 〈◆リュリ〉 Lully(1632-1687) もともとフィレンツェ生まれのイタリア人で、Giovanni Battista Lulli だったが、十四歳 のときにフランスに行き、最初はギース大公妃アンヌの下男として奉公。才能を認められ て正式に音楽教育を受ける。1661 年にフランス国籍を取得して、ジャン=バティスト・リ ュリ(Jean-Baptiste [de] Lully)と名乗った。おどろくべき奇才を発揮して立身し、つ いにルイ十四世の寵愛を一身に集めて、多くのオペラを作り、熱狂的な人気を博した。そ れらの作品は、フランス語をよく生かし、合唱を重んじ、ダンス曲を多く用いて、舞台効 果を出し、又新しい序曲を用いた。この序曲はフランス式序曲又はリュリの序曲と呼ばれ るもので、スカルラッティのイタリア式のもののように、三部形式で出来ているが、構成 はその反対で、緩~急~緩となっていて、中央部にはフガートを用いることが多かった。 【主要作品~リュリ】 作曲の分野は多岐に渡る。 ◆バレ(ballet) 。◆劇中曲。◆コメディ・バレ(モリエールがリュリと共同してつくりあ げた喜劇と音楽と幕間の踊りを融合させた新しいジャンル)~『はた迷惑な人たち』、『ジ ョルジュ・ダンダン』 、 『プルソーニャック氏』その他多数。◆叙情悲劇〈tragédie lyrique〉 (フランス語歌劇)~歌劇『アルセスト』 (Alceste)、歌劇『テセウス』 (Thésée)その他多 数。◆ディヴェルティスマン~『平和の牧歌』(Idylle sur le Paix):ラシーヌの台本。 ◆牧歌劇(エグログ)~『ヴェルサイユの洞窟』 。◆舞踏悲劇~『プシシェ』 。◆牧歌劇(パ ストラル)~『アムールとバッカスの祭典』。◆宗教曲[グラン・モテ]~Jubilate Deo、 Miserer、Te Deum その他。 [プチ・モテ]~Aima Christe、Ave Coeli、Dixit Dominus そ の他。◆器楽曲~クラヴサン曲『愉しき夢』 『アルマンド』などなど。 ★作品一覧を見るには、リュリ作品一覧表(List of compositions by Jean-Baptiste Lully)〈英語〉或 いは Umezawa ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Jean-Baptiste Lully in the International Music Score Library Project などを参照。 39 パーセル A・スカルラッティ クープラン ラモー D・スカルラ ッティ 〈◆パーセル〉 Purcell〈1659-1695〉 ヘンリー・パーセル〈Henry Purcell〉 ウェストミンスター生まれ。テムズ河左岸。 イギリス音楽史上最大の音楽家。パーセルはイギリスの誇ることのできる真の天才で、イ ギリス人は誇らしげに「イギリスのモーツァルト」と呼んでいる。パーセルの作風は、明 快で、美しく流れる当時のイタリア音楽に基礎を置き、高雅にして、明澄、清純な美しさ に輝いている。オペラ『ディドとエネアス』は叙情に徹した名作と云うべきで、殊に最後 の「ディド別れは絶唱の一つである。多くのアンセムはいずれも感動的な美しさを持ち、 この時代の様式の純粋な結晶である。 [注ⅰ] 【主要作品~パーセル】 ◆歌劇~『ディドとエネアス』、 『アーサー王』、『妖精の女王』、『インドの女王』、『テンペ スト』など。◆劇付随音楽~『アブデラザール、またはムーア人の復讐』、『パリの虐殺』 その他多数。◆疑作の舞台音楽。◆器楽作品~『3 声のファンタジア』、『イン・ノミネ』、 『4 つのパヴァーヌ』 、 『3 声のソナタ集』、 『4 声のソナタ集』 。◆チェンバロ曲~『エア・ト 長調』 、 『全音階によるグラウンド』 、◆オルガン曲~『詩篇第 100 篇に基づくヴォランタり ー』 。◆アンセム~主よ、われらの罪を思い出したもうことなかれ Remember not, Lord, our offences, Z.50, 神よ、汝はわが神なり O God, thou art my God, Z.35, 主に感謝せよ O give thanks unto the Lord, Z.33 など。◆サーヴィス~晩祷式「ヌンク・ディミッティス」Evening Service : Nunc dimittis b-flat Major, Z.230-8, 主に向かいて新しき歌を歌へ Evening Service : Cantate Domino, Z.230-9, マニフィカートとヌンク・ディミッティス Evening Service : Magnificat and Nunc dimittis, Z.231 など。 [注ⅰ: 「室内合唱団」のパーセル初演は、1979 年。20 期の六月演奏会でした。1. 主よ、われらの罪 を思い出したもうことなかれ Remember not, Lord, our offences, Z.50 /2. 神よ、汝はわが神なり O God, thou art my God, Z.35 の二曲を歌っています。→ここを参照。 ] ★作品一覧を見るには、パーセル作品一覧表(List of compositions by Henry Purcell) 〈英語〉 或いは Umezawa ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Henry Purcell in the International Music Score Library Project などを参照。 40 〈◆A・スカルラッティ〉 Scarlatti(1660-1725) アレッサンドロ・スカルラッティ(Alessandro Scarlatti)はバロック期のイタリアの作 曲家。 ナポリ派の開祖。オペラ作曲家。彼の曲の特色として次の様な事柄を挙げることができる。 ①あまり劇的でないが、叙情的で美しい旋律を何よりも重んじたこと。②カンタータに用 いたような三部形式のアリアを用いたこと。③美しい旋律を印象づけるため、ほとんど一 節ずつ繰り返すこと。④民衆的要素を出したコミックな場面のリアリスティックな対話。 そうした場面に用いられた「ナポリ六度」で和声づけられたシチリアーノ風のリズム。そ して彼は、室内カンタータ(500 曲以上を作曲)を本当に成熟させた。オペラに用いられた のと同様の改革的手法(伴奏付きの叙唱や三部形式のアリア)を用いて、カンタータを無 比の頂上に高めた。 [注ⅰ] 【主要作品~A・スカルラッティ】 ◆オペラ~Gli Equivoci nell’amore(1679) 、L'Honestà negli amori(1680) 、Pompeo(1683) 、 La Rosaura(1690)、Pirro e Demetrio(1694)、Teodora(1697)[初めてリトルネロを使 う] 、Eracles(1700) 、L'Amor volubile e tiranno(1700) 、Mitridate Eupatore(1707) 、 La Principessa fedele(1712) 、Tigrane(1715) 、Telemaco(1718) 、Marco Attilio Regolo (1719) 、Griselda(1721) 。◆オラトリオ~Agar et Ismaele esiliati(1684) 、Christmas Oratorio(1705 頃) 、S.Filippo Neri(1714)などなど。◆ミサ曲~「聖セシリアのミサ」 St Cecilia Mass(1721) 、 「クレメンス十一世のミサ」などなど。◆モテット[約 100 曲] ~「われらが救済者なる神に向かいて喜べ」Exultate Deo, adjutori nostro。◆室内楽曲 [注ⅰ: 「室内合唱団」のA・スカルラッティ初演は、1991 年、32 期の六月演奏会でした。われらが 救済者なる神に向かいて喜べ Exultate Deo, adjutori nostro, psalm 81 を歌っています。→ここを参照。 ] ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Alessandro Scarlatti in the CPDL、および、Alessandro Scarlatti in the IMSLP などを参照。 〈◆クープラン〉 Couperin(1668-1733) フランソワ・クープラン(François Couperin) はフランスバロックの作曲家。またオルガ ン、クラヴサン[注ⅰ]の大家。とくにクラヴサンの大家として名を知られる。多くの音 楽家、とくにクラヴサン音楽家を輩出した名家系の中で最も優れた才能を持っており、「大 家」 (de grand)と言われた。[注ⅱ] 1713 年に五つの組曲からなる「クラヴサン曲集第 一輯」を出版。彼の名はこれによって全ヨーロッパに知られ、音楽史上不朽のものとなっ た。すなわち、そのクラヴサン組曲には、標題音楽風な、しかし徹底的に繊細で鋭敏なも のが少なくない。それがために彼をして、「クラヴサン音楽の最大の大家の一人」と言わし めるのである。 [注ⅰ: クラヴサンはチェンバロのこと。clavicembalo〈伊〉 、clavecin〈仏〉、Cembalo 〈独〉 、harpsichord 41 〈英〉のように国によって、また言語によって、多種多様な言い方がされています。バロック音楽が今を 盛りと花開いている 2011 年現在の日本では、おおむね「チェンバロ」が標準語。ちなみに日本でのオーセ ンティックなチェンバロ製造は 1960 年代の後半から徐々にはじまり、今や欧米に肩を並べるほどの、かつ アジア圏で唯一の生産国になっています。 「室内合唱団」が初めてチェンバロをコンサートで使用したのは 1974 年の六月演奏会でした。 ] [注ⅱ: Couperin le grand(大クープラン) 。 ] ★チェンバロ ★チェンバロの歴史 ★作品一覧を見るには、フランソワ・クープラン簡易作品表(made by K.Umezawa) 、或いは、wikipedia の List of compositions by François Couperin など・・・。 ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、François Couperin in the Werner Icking Music Archive [WIMA] 、或いは François Couperin in the International Music Score Library Project[IMSLP] 、さらに François Couperin in the Choral Public Domain Library[CPDL] (ChoralWiki) などを参照。 〈◆ラモー〉 Rameau(1683-1764) ジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau)は、フランス・バロックの作曲家・ 理論家。生地ディジョン〈Dijon〉には傑れた教師がいなかったので、自分で和声と作曲の 基礎を勉強し、クレルモン=フェラン〈Clermont-Ferrand〉、ディジョン、リヨン〈Lyon〉 などでオルガン奏者をつとめ、その間に有名な理論書『和声論 Traité de l'harmonie』 〔1722〕 、 『音楽理論の新体系』〈Nouveau système de musique théorique〉(1726)を完成した。『和 声論』の中で、彼は初めて和音における「転回」の法則を述べ、三度の堆積による和音構 成の体系を発展させ、そして基礎低音による和音連結の原理を確立した。作曲家としての 彼は、1733 年にオペラ『イポリットとアリシー』を書き、それに続くオペラやバレでフラ ンスオペラ史上、リュリの後継者としての地位を確立した。彼のオペラ作品は、リュリの 作品に比較して、音楽的性格づけ、表現的な旋律、豊かな和声、多様な転調、個性的な器 楽法などの点で、明らかに一歩進めたものとなっている。 【主要作品~ラモー】 ◆歌劇(叙情悲劇)~『イポリットとアリシー』、『カストールとポリュックス』、『ダルダ ニュス』 、 『ゾロアスター』など。◆オペラ・バレ~『伊達なインド人』 (Les Indes galantes) 、 『エベの祭、またはオペラの才人』 (Les d'Hébé, ou Talents lyriques)など。◆カンター タ~『メディア』 、『オルフェ』、 『テティス』、『忠実な羊飼い』など。◆宗教曲~グランモ テ「主こそ我らが避難所なり」、グランモテ「主がシオンの繁栄を回復された時」、グラン モテ「叫び疲れて力は失せ」など。◆クラヴサン曲~『キュピー』、『歓喜』、『軽はずみな 女』その他多数。 ★作品一覧を見るには、ジャン=フィリップ・ラモー簡易作品表(made by K.Umezawa)など。また wikipedia 42 の Rameau に list of works として Bouissou と Herlin による作品番号付きの一覧があります。 ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Jean-Philippe Rameau in the Werner Icking Music Archive[WIMA] 、或いは Jean-Philippe Rameau in the International Music Score Library Project[IMSLP] 、 さらに Jean-Philippe Rameau in the Choral Public Domain Library[CPDL] (ChoralWiki) などを参照。 〈◆D・スカルラッティ〉 Scarlatti(1685-1757) Domenico Scarlatti 父、アレッサンドロに学び、十九歳の時、ナポリでオペラ編曲者として鬼才を示した。1709 年ナポリで、イタリアの代表的ハーブシコード(チェンバロ)奏者および、オルガン奏者 としてヘンデルと技を競い、オルガンではやや劣ったがハーブシコードでは遜色なく名声 をあげた。六百曲以上のハープシコードのソナタは、音楽史上、多声様式又は数字付き低 音の書法から離れ、近代の歌唱的様式を採用した点で重視されるのみならず、表現内容、 手法においても近代の礎石となった。イタリアのヴァイオリン音楽、舞踏曲、スペインの 民族音楽の要素をソナタに取り入れ、南欧的表現を獲得したと言われ、手法も斬新で自由 に両手の交叉、三度、六度の走句、八度以上の跳躍、分散和音の反進行などを駆使した。 [注 ⅰ] 【主要作品~D・スカルラッティ】 ◆歌劇~『シルヴィア』 、 『ナルシサス』 。◆宗教曲~『スタバト・マーテル』その他。◆チ ェンバロ曲~『ソナチネ』などなど六百曲以上。 [注ⅰ: 「室内合唱団」の D・スカルラッティ初演は、2003 年、44 期の六月演奏会でした。ほまれに かがやく使徒の群れ Te gloriosus を歌っています。→ここを参照。 ] コレルリ 〈◆コレルリ〉 ヴィヴァルディ タルティーニ バッハ ヘンデル Corelli(1653 -1713) アルカンジェロ・コレルリ(Arcangelo Corelli)はイタリアの作曲家、ヴァイオリニスト。 姓はコレッリ、コレリのようにも書かれる。 ヴァイオリン奏者、作曲家。ヴァイオリン奏法における彼の功績は、用弓法を系統立てた こと。和弦(弦楽器による和音)の演奏を取り入れたこと、合奏協奏曲の様式を創ったこ 43 と。その作風はイタリアバロックに立つ高貴な古典主義である。彼の教会ソナタでは、単 音楽(単旋律)の技法と対位法を巧みに融合し、変化と調和をよく保つことに努めた。例 えば、第一楽章を時には模倣的に取り扱い、時には和声的に書き、第二楽章には多くフー グを用いた。1680 年に、管弦楽のソナタから協奏曲を初めて書いた。その最初の作品が「十 二の大協奏曲」と言われている。しかし、彼のはまだ形式が余りはっきりせず、半ば組曲 風で、また半ばソナタ風の多楽章のものだった。 【主要作品】 トリオソナタ(教会ソナタ)作品 1(全 12 曲、1681)、トリオソナタ(室内ソナタ)作品 2 (全 12 曲、1685) 、トランペットと 2 つのヴァイオリン、通奏低音のためのソナタ ニ長 調(WoO4) 、トリオソナタ(教会ソナタ) 作品 3(全 12 曲、1689)、トリオソナタ(教会 ソナタ) 作品 4(全 12 曲、1694) 、ヴァイオリンソナタ 作品 5(全 12 曲、ニ短調の『ラ・ フォリア』を含む。1700) 、合奏協奏曲集 作品 6(全 12 曲、ト短調の第 8 番は『クリスマ ス協奏曲』として有名) 、シンフォニア(WoO1)、ソナタ(WoO2) 、2 つのヴァイオリン、チ ェロと通奏低音のためのソナタ(WoO5 - WoO9、1714) ★作品一覧を見るには、アルカンジェロ・コレルリ簡易作品表(made by K.Umezawa)など。 ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Archangelo Corelli in the Werner Icking Music Archive [WIMA] 、或いは Archangelo Corelli in the International Music Score Library Project[IMSLP] な どを参照。 〈◆ヴィヴァルディ〉 Vivaldi(1675-1741) Antonio Vivaldi アントニオ・ヴィヴァルディは、イタリアのヴァイオリン奏者、作曲家。 1703 年、聖職に入る。彼は多作家であって、その作品全部が同一水準にないことはたしか であるが、彼の器楽曲と協奏曲の大部分は、まだ手稿のまま残っている。彼はヴァイオリ ン音楽、殊に協奏曲に決定的な影響を与えた作曲家で、コレルリ以来の主要な作曲家であ る。併し、コレルリに見られるような対比に欠け、生硬な衒学主義が過分で、僧臭と教師 臭とが耳につき、世俗的な甘さが欠けていると評されている。しかし、厳格な対位法、落 ち着いたリズム的感覚に充たされた主題、甘味のない高貴な叙情が彼の音楽の要素である。 バッハが彼の協奏曲を鍵盤楽器の為に編曲したことはよく知られている。バッハのヴァイ オリン協奏曲は彼の形式によっている。 [注ⅰ] [注ⅰ: 「室内合唱団」のヴィヴァルディ初演は、1974 年、15 期の六月演奏会でした。学生指揮者・ 日光三代治さんの指揮で、イスラエルの民はエジプトを出て In exita Israel を歌いました。→ここを参 照。 ] 【主要作品~ヴィヴァルディ】 ★作品一覧を見るには、アントニオ・ヴィヴァルディ簡易作品表(made by K.Umezawa)など。 ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Antonio Vivaldi in the Werner Icking Music Archive [WIMA]、或いは Antonio Vivaldi in the International Music Score Library Project[IMSLP]、さら 44 に Antonio Vivaldi in the Choral Public Domain Library[CPDL] (ChoralWiki) などを参照。 〈◆タルティーニ〉 Tartini(1692-1770) ジュゼッペ・タルティーニ(Giuseppe Tartini)は、イタリアのバロックの作曲家・ヴァ イオリン奏者。 1709 年、僧としてパドヴァ大学で神学と文学を修めるかたわら、フェンシングの剣闘士で もあり、二十歳にならぬうちに恋人エリザベッタ・プレマゾーレと結婚。ために僧職をや める。ほとんど独学であるが、コレルリ派の影響を受け、そのヴァイオリンの演奏技巧に おいて、これを凌駕するに至った。彼は新しい用弓技巧の確立者であるが、左手の技巧も 非常に達者で、じっさいに聴いた人は、その音と表現との美しさに驚嘆した。彼は、レグ レンツィ、ステファーニ、コレルリの一団のバロック古典派と、ヴィーンの大家たちとの 間に位置し、理念的音楽の把握に優れた、伝達者である。 叙情的な優雅な性格を表しているト短調の「ヴァイオリン・ソナタ第十番」は、アッシジ (Assisi)時代に夢の中で弾いたという曲をそのまま写したものとも伝えられる。有名な 「悪魔のトリル」をはじめとする約 250 曲のヴァイオリンと低音楽器のソナタ、二つのヴ ァイオリンと低音楽器のソナタ、ヴァイオリンと弦楽合奏の協奏曲などに、その主な作品 を見いだすことができる。 ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Giuseppe Tartini in the International Music Score Library Project[IMSLP] 、さらに Giuseppe Tartini in the Choral Public Domain Library[CPDL] (ChoralWiki) などを参照。 〈◆バッハ〉 Bach(1685-1750) ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)は、ドイツ中央部、チューリ ンゲンの町アイゼナハ(Eisenach)の音楽的な家庭に生まれた。このバッハ家は代々二百 年にわたって五十人以上の優れた音楽家を輩出している。中でも父親の従兄弟、すなわち 彼の伯父であるヨハン・クリストフ(1642-1703)は優れた音楽家で、ゼバスティアンにも大 きな影響を与えている。バッハ九歳の 1694 年に母エリーザベトと死別。続いて翌年、父ア ンブロジウスを失い、幼くして孤児となる。両親と死別してからは、オールドルフ(Ohrdruf) に移り、長兄ヨハン・クリストフによって育てられる。ここでクラヴィーア、その他の楽 器や作曲の初歩を教えられる。オールドルフの五年間は、バッハの音楽的成長に重要な意 味を持っている。十五歳の 1700 年、リューネブルク(Lüneburg)の僧院学校の給費生にな って自立しながらも研究を続ける。 優秀なオルガン奏者ベーム、ラインケン、リューベックなどに学び、またフランスの音楽 にも触れて啓発される。1703 年、ヴァイマール宮廷のヴァイオリン奏者になる。1707 年、 22 歳でミュールハウゼンのオルガン奏者になる。この年の十月十七日、最初の妻、マリー ア・バルバラと結婚。1708 年、23 歳でミュールハウゼンを辞し、ヴァイマールの合奏長に 45 転じる。1717 年 32 歳で、ケーテンの領主レオポルト侯の宮廷楽長ならびに室内楽長 (Director derer Cammer-Musiquen)になり、音楽好きの領主に非常に重んじられたが、 ここでの音楽はほとんど世俗的なものであったことから、次第に教会音楽への情熱を抑え ることが出来なくなってくる。バッハ 35 歳の 1720 年、七月三日に妻バルバラが急死する。 翌年十二月にアンナ・マグダレーナと再婚。1723 年、38 歳でケーテンの宮廷楽長を辞し、 ライプチッヒのトマス学校の合唱隊長(Thomaskantor)兼ライプチヒ市音楽指揮者になる。 この地で眼病を得て死ぬまで、二十七年間その職にとどまった。そして 65 歳の 1705 年、 目の手術に失敗し、七月二十八日死去。尚バッハには最初の結婚によって七人、再婚によ って十三人、合計二十人の子供が生まれている。しかし、その半数は生まれてまもなく亡 くなり、一人は二十代で世を去っている。バッハが「生まれつきの音楽家」と誇っただけ あって、残った子供たちも音楽の才能に優れ、とくに次男カルル・フィリップ・エマヌエ ルと、末子ヨハン・クリスティアンは、作曲家として大成し、とうじ彼らの名声は父親を しのぐほどのものだった。 バッハの作風や内的考察は他の箇所にゆずり、ここでは彼がバロック音楽を完成させたこ と、彼の音楽が至高の域にまで達したということだけに止めて、その音楽を見てみようと 思う。 ◆教会カンタータ 約二百曲が現存する。多くは合唱を主とし、これに独唱や重唱を配 し、器楽(主として管弦楽)の伴奏を持っている。しかしまた、独唱を主としたカンター タもある。いずれにせよ、形式や楽器編成や様式において、一つとして同じものはない。 二、三例をあげると、第四番「キリストは死の絆につきたまえり」、十九番「いさかいは起 れり」 、五十六番「われよろこびて十字架を担わん」 (独唱カンタータ) 。バッハはルター以 後の最大の説教者であると言われているほど、この教会カンタータに於いて、キリストと 神について考え、それを適切に表出している。 ◆世俗カンタータ 現存するものは、二十数曲。教会の礼拝以外の目的で書かれたもの だ。領主や知人たちの結婚祝いや、誕生祝いなどに書かれた。そして、その多くが歌詞を 変えて教会音楽に転用されている。最も有名な曲のひとつが「コーヒー・カンタータ」で 知られる第二百十一番「そっと黙って、おしゃべりめさるな」である。 ◆モテット 現存する六曲は、いずれも聖書や賛美歌(コラール)のドイツ語歌詞によ っている。第一番「主に向かいて新しき歌を歌わん」を幼少のモーツァルトが聴いていた く感動した。 ◆オラトリオ 教会の三大祝日、復活祭、昇天祭、クリスマスのためにそれぞれ一曲ず つのオラトリオを残している。復活祭オラトリオ「急ぎ走りて来れ」は、三曲中でやや劇 的な構成を示す。昇天祭オラトリオ「その御口に主を讃えよ」は、かなり大規模な教会カ ンタータに他ならない。最も優れたものは「クリスマス・オラトリオ」である。 ◆受難曲 現存二曲。ここで彼は未曾有の力強い、[・・・・読取不能・・・・]作品を 46 出している。1723 年に「ヨハネ」 、1729 年に「マタイ」を作曲している。どちらも信仰と 人間性と敬神の高い精神を、最高の緊張をもって表出している。とくにマタイ伝によるも のは、大力作で、歴史が知る最大の芸術の一つに数えられている。 ◆ミサ 「ロ短調ミサ」は、キリエ、グローリア、クレード、サンクトゥス、アニュスデ イというカトリックのミサ通常文の全てを含み、受難曲やオラトリオとならんで、バッハ の宗教音楽の最高峰に数えられている。パレストリーナの作品のように、超絶的ではなく、 著しくプロテスタント化されてはいるが、崇高で荘厳で純美な[ママ]名作となっている。 ◆マニフィカート(聖母マリアの頌歌) 第一稿は変ホ短調で、ライプチッヒ初年の 1723 年に書かれた。その後、1728~31 年頃に、これを改作して、現在演奏されている形の第二 稿を完成した。第一稿と同じく、合唱・独唱・オーケストラの為のものであるが、最後の グローリアを除けば、全曲がラテン語訳聖書中のマリア讃歌を歌詞とし、楽器法を変え、 調もニ長調に改めた。その結果うまれたのは、きわめて簡潔で引き締まった作品であり、 ラテン的とも云うべき明澄な形態感と、 「ブランデンブルク協奏曲」にも似た明るさと、喜 びに溢れた表現を特徴としている。 私たち「早大室内合唱団」では、来る十二月十日の定期演奏会の最終ステージにおきまし て、このバッハの「マニフィカート」を全曲演奏いたします。是非御来場下さって、偉大 なるバッハの芸術の一端でも御理解いただきたいものです。 [編注: このときの演奏会のようすが以下の写真です。この中に、この冊子『バロック音楽』を編集 された方々がそろっているというわけです。この演奏会が「室内合唱団」最初のバッハ体験となりまし た。 ] 第4期定演・神田共立講堂・1963.12.10. Magnificat, D-dur, BWV 243, J.S.Bach ◆オルガン曲 バッハのオルガン曲は、コラールに基づくものと、そうでないものに大 別され、後者には多くの「前奏曲(トッカータ、幻想曲)とフーガ」が含まれる。 ◆クラヴィーア曲 「平均律クラヴィーア」は、全 2 巻(BWV 846-893)とも、鍵盤楽器 のための二十四のフーガと、その各々の前につけた前奏曲を集めたもので、十九世紀の音 楽家ハンス・フォン・ビュウローが言ったように、 「ピアノ音楽の旧約聖書」とも云うべき 47 ものである。その他のクラヴィーア曲としては、 「インヴェンション」、 「ゴールドベルク変 奏曲」 、 「イタリア協奏曲」 、 「フランス組曲」 、 「イギリス組曲」、 「ドイツ組曲」 [ママ] [注ⅰ] 、 「パルティータ」などがあるが、 「フーガの芸術」 [注ⅱ]は、「平均律クラヴィーア」と共 に、バッハの最も主要なフーガ作品として認められている。 [注ⅰ: 「ドイツ組曲」という作品は存在しませんが、かつて、「パルティータ」のことを、「フランス 組曲」や、「イギリス組曲」にならって、「ドイツ組曲」と呼ぼうとした動きがあったことは事実です。そ の方が売れるからという、「出版上の便宜」にすぎませんが、バッハ本人とは関係ありません。もっとも、 現在まで、この通称が一般化したという話もありません。上の原文では、 「ドイツ組曲」と「パルティータ」 が重複しているのは、いわばトートロジーです。 ] [注ⅱ: いっぱんに「フーガの技法] (BWV 1080)という曲名で人口に膾炙している曲のことです。 ] ◆弦楽曲 ヴァイオリン用(BWV 1001-1006)とチェロ用(BWV 1007-1012)の無伴奏の 組曲が各々六曲もあって絶対無比の名曲となっている。「音楽の捧げ物」(BWV 1079)は最 も有名である。 ◆協奏曲 全てヴィヴァルディの形式に従っているが、それよりも、より自由で内容も 充実している。三曲のヴァイオリン協奏曲(BWV 1041-1043)、六曲の「ブランデンブルク 協奏曲」 (BWV 1046-1051) 、十四曲のチェンバロ協奏曲(BWV 1052-1065) 。 ★作品一覧を見るには、ヨハン・セバスティアン・バッハ簡易作品表(made by K.Umezawa)など。 ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Johann Sebastian Bach in the Werner Icking Music Archive[WIMA] 、或いは Johann Sebastian Bach in the International Music Score Library Project[IMSLP] 、 さらに Johann Sebastian Bach in the Choral Public Domain Library[CPDL](ChoralWiki) などを参 照。 〈◆ヘンデル〉 Händel/Handel(1685-1759) ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル Georg Friedrich Händel〈独〉 [或いはジョージ・フリ デリック・ハンデル George Frideric Handel〈英〉 ]は、ドイツ生まれでイギリスに帰化し た作曲家。 バッハとは違って、その家系には音楽家はいない。しかしバッハと同じドイツの中産階級 から僅か一カ月前後して、生地も百粁(キロメートル)の近さのハレ(Halle)に生まれた。 父親の希望によって大学で法律を学んだが、1703 年に大学の勉強を終えると同時に、ハン ブルクに行き、オペラ劇場でヴァイオリンを演奏し、作曲をした。1706 年、イタリアに渡 ってヴェネツィア派のイタリア歌劇の長所を併せて新作歌劇「ロドリゴ」を発表し、この 好評がハノーファーの司教を動かして、1710 年にハノーファーの宮廷楽長の地位を得た。 その年のうちに、休暇を得てロンドンに旅した。彼はロンドンが好きになってしまったの で、一寸ハノーファーに帰ったが、その方の仕事はうやむやにしたまま、再たロンドンに 舞い戻って歌劇作品の発表を続けた。此の事がハノーファー公を怒らせてしまったのは当 然だった。ところが 1714 年にイギリスのアン女王が崩じたので近親たるハノーファー公が 48 ジョージⅠ世としてロンドンへ乗り込んで来たのでヘンデルの立場はまずいものとなって しまった。そこで宮廷にいた友人たちは、1715 年の夏、ジョージⅠ世がテームズ河で船遊 びをした時、ヘンデルに音楽船を出させ、彼はその上で「水上の音楽」という二十五曲の 小品からなる新作管弦楽曲を演奏して、漸く国王の怒りを鎮め、それ以後は宮廷作曲家と して、年金を与えられるようになったという。1726 年イギリスに帰化した。ヘンデルは交 際が下手で、事毎にロンドンの小うるさい上流人や文筆家、歌手たちからいじめられ、た めに二度の破産をしている。1751 年から彼は眼疾にかかり、1753 年には全く盲目となった が、活動をやめず、1759 年 4 月 6 日にコヴェントガーデン座における「救世主」 (メサイヤ) の上演に臨み、その八日後の 4 月 14 日に逝去した。彼は堂々たる風貌と体格の所有者で、 性格は快活、正直で頑固で独立的であった。仕事には熱情を持ってぶつかり、迫害に対し ては恐れることなく反撃した。彼は一生結婚せず、仕事だけに全生命を燃焼させた。彼の 音楽は当時のあらゆる様式を集めた天性の美しさ崇高さを示しているか、表面的な精緻さ を目標とせず、内面的な大きさを求めた。彼の音楽には充実した雄渾な力が漲っている。 これは他の人のほとんど企て及ばぬ特質であろう。 【主要作品~ヘンデル】 歌劇は音楽的には傑出しているが、当時の様式に従って劇的展開がなく、セリフもまずい ため、今日舞口には乗せられていないが、ただ歌劇「セルセ」の中の歌曲「ラルゴ」のよ うに、演奏会で独唱曲として歌われたり、音楽を[・・・読取不能・・・]して戻す例は ある。 ◆聖譚曲~『救世曲(メサイヤ) 』 、 『エジプトにおけるイスラエル人』、 『ユダヤ・マカベウ ス』、 『サウロ』 、『サムソン』、 『ヨシュア』、『ソロモン』、『エフタ』などがある。豊かな旋 律、巧みな対位法、立派に組み上げられた和声に依って独唱、合唱、管弦楽を自由に駆使 し、力と熱と叙情味に満ちた劇的な効果を作り上げている。管弦楽には『水上の音楽』、 『花 火の音楽』、『合奏協奏曲』の他に、各種の協奏曲があり、器楽曲にはハーブシコード(チ ェンバロ)用の組曲三つ、ヴァイオリン奏鳴曲六つ、その他追複曲、奏鳴曲、三重奏曲な どがある。 ★作品一覧を見るには、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル簡易作品表(made by K.Umezawa)など。 ★とりあえずネットで見られるフリーの楽譜は、Georg Friedrich Händel in the Werner Icking Music Archive[WIMA]、或いは George Frideric Handel in the International Music Score Library Project [IMSLP] 、さらに George Frideric Handel in the Choral Public Domain Library[CPDL] (ChoralWiki) などを参照。 ◇ルネッサンス音楽 音楽上でのルネッサンスの大切な特徴は、中世の「祈りの音楽」に代わって、生活の楽し みとしての音楽が劇やその他の催しと結びついて大きく浮かび上がってきたことである。 49 十 四 世 紀 の フ ラ ン ス 最 大 の 作 曲 家 ギ ヨ ー ム ・ ド ・ マ シ ョ ー Guillaume de Machaut (ca.1300-1377)は、音楽史上最初の技巧家であった。この人の三声の世俗歌曲に「わが 終わりはわが初めにして、わが初めはわが終わりなり」 (Ma fin est mon commencement. Et mon commencement ma fin)というたいへん奇抜な曲がある。逆行カノンの三声のロンドー という形式になっていて、40 小節からなる三声の現代譜におきかえて説明すると、上の二 つの旋律は、第一小節から四十小節までの音符のラインをちょうど互いに逆にした構造に なっています。片方が、ドレミファソであるとすれば、他方は、逆のソファミレドという わけです。第三の旋律は、第一小節から中間の二十小節まで歌い、二十一小節からは、そ れまでの二十小節[イロハニホヘト]を正確に逆行するかたち[トヘホニハロイ]で歌わ れます。一音符ずつ後戻りして振り出しにもどるというわけです。恐ろしく技巧的ですが、 全体に美しい流れがあって、少しも不自然に感じられない点がなお更に素晴らしい。人々 が音楽の、このような複雑な技巧を楽しむようになったのは、やはりルネッサンスの精神 の現れと受け止めることができます。 [注ⅰ] [注ⅰ: マショー「わが終わりはわが初め」の楽譜は、ここ。言葉だけで曲の構造を説明するのは、わか りにくいので、楽譜を印刷して、それを見ながら、解説文を読むのがベターだと思います。説明をかんた んに言い換えてみると、上の二つの旋律は、片方の全 40 小節が 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 という音符の配列 でできているとすると、もう片方は全 40 小節が、10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 という逆の配列になっています。 一番下の第三声部は、ちょうど中間点の 20 小節目が終わると、21 小節からは、1 ~20 小節までの音符を、 ちょうど逆行していく音符の配列になっています。 ] 以下に小節数を半分にして、全体の構造を示してお きます: 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01 演奏音源はネット上にいくつかありますから、Machaut や、歌詞の ma fin est などで検索してみてくだ さい。 ] 続く十五世紀の初めに入ると、音楽の中心地は、ネーデルランド[フランドル]や、そ の頃のブルグンド公国の都のあったディジョン(Dijon)に移る。時代はジャンヌ・ダルク を生んだ百年戦争たけなわの頃である。イギリス生まれのすぐれた作曲家ジョン・ダンス タブルが大陸に広く足跡を残したのも、百年戦争が影響している。ダンスタブルが、イギ リスから持ってきた甘く美しい和声感は、マショーをはじめ大陸の作曲家の技巧的な作風 と結びついて、そのあとに続くネーデルランド楽派(フランドル楽派)の多声音楽の基礎 を作ったのである。 ネーデルランド楽派(フランドル楽派) [注ⅰ]の作品のうち、第一に重要なのは、宗教 音楽のミサ曲やモテットである。そしてそれに継ぐのが器楽伴奏付きの独唱歌曲や多声の 50 歌曲であった。「新芸術」 (アルス・ノヴァ)の時代に世俗歌曲が豊かな花をほころばせた あと、もういちど宗教音楽が返り咲くのは、不思議に思えるが、この時代のミサ曲やモテ ットは、宗教的というよりは、君主や貴族が自らの宮廷や礼拝堂を豊かな音楽で飾る為に 作曲を依頼することが多かったのである。 続く十六世紀は、十五世紀の間にいくらか遠のいた感のあるヒューマニズムの影響が、 音楽の上に真に開花する時期である。この世紀には、器楽が起こった。そして新しい世俗 歌曲や舞曲も栄えて、華やかな宮廷の結婚式から、つつましい市民の集まりまでが、豊か な音楽の響きにつつまれる。 [注ⅰ: 21世紀の現代では、「ネーデルランド楽派」という言い方はしません。誤りではないにせよ、 適切でないという批判を受けて、 「フランドル楽派」という用語に切り換えられています。ルネサンスのヨ ーロッパを席巻したフランドル楽派は、例外もそれなりにありますが、主としてカトリック圏を中心に広 がりました。オランダの北半分はプロテスタント圏でしたから、地理学的にオランダ全土を含む「ネーデ ルラント」という用語は、ルネサンス音楽に関しては相応しくないというわけです。 「室内合唱団」がこの 冊子をつくった1963年時点では、まだこのことが通説になっていない時期でしたので、 「ネーデルラン ト楽派」という用語が使われていました。 ] ◇バロックの概念 現在ふつうに用いられている意義においては、 「端正なルネッサンス美術に対する十七世紀 および十八世紀初期の非古典的な感覚的効果をねらう絵画的な動感にあふれた美術様式」 を指す。 語源は、諸説あるが、歪んだ球や真珠を意味するスペイン語 “barrueco”、ポルトガル語 “barroco”、イタリア語 “barocco” のいずれかに由来するというのが有力な説である。 また「バロック」とは、本来フランス語で中世以来一般的ではないが、時折用いられた言 葉であるとも云われている。これは、この呼び名が美術の上で、次第に広まるようになっ たのは、フランスであったので、その方が自然な解釈だとみなすようになったからである。 いずれにせよ、その意味は「不整形で、理筋が通らない」という悪口として用いられてい る。 なぜそういう悪名としてこの呼び名が美術の上に生まれてきたかというと、十六世紀末ご ろからイタリアの建築様式が著しく様相を変えて、十五~十六世紀の整然とした秩序から 脱して、次第に入り組んだ複雑な形体を示し、起伏の多い面や、躍動する曲線の交錯を重 ねてきた。一見してルネッサンスの静かな秩序を破りはじめてきたことが目に見えてきた。 これは建築様式にかぎらず、彫刻にも絵画にも次第に出現してきた。十七世紀にもなると、 それがいよいよ募って国外へも波及する勢いを示した。これを見てとった十七世紀フラン スの美術界は大きく反発して、このような勢いがイタリアから入ってきては困るといって、 強い抵抗をはじめた。近頃のイタリアの風態は目に余るものがある。見るに耐えぬ不格好 51 な悪趣味が流行してきたが、あれは鼻持ちならぬ「いかもの」で、これこそバロックであ ると叫んだのである。こうしたフランス人がレジスタンスとしてイタリアの当時の美術を 罵倒したことに始まると言うのである。 年代としては、 後期ルネッサンスとロココとの中間、 大体 1580 年から 1715 年頃とされる。 はじめて「バロック音楽」の概念を、その論文”Barockmusik”(1919)で体系的に論じた のは、ドイツのクルト・ザックスであるが、音楽史では、ほぼ 1550 年から 1750 年、より 厳密には、1600 年から 1740 年頃に至る音楽芸術の様式を云い、技巧的には「通奏低音時代」 の概念でおよそ一致する。音楽上のバロックは美術より後れてはじまる。初期バロックの 明瞭な楽人としては、ジョヴァンニ・ガブリエーリ(1554/7-1612)、モンテヴェルディ (1567-1643)があげられる。音楽上でも、やはりイタリアに始まり、ハスラー、シュッツ、 プレトリウス、スヴェーリンクなどを通じて、ドイツがそれを受け入れ、最後の深みと高 みにまで導いたのであり、バロック音楽は大バッハによって完成の域にまで達した。ヘン デルもその功労者の一人と云えるが、ヘンデルにおいては、さらに次の時代への移行をも 示しているところがある。 ◇バロックの芸術 現代の美術学者の考えるバロックの内容は、純視覚的面では十九世紀後半のそれと大差な いのであるが、精神史的要素が加わって来た点でかなり変わってきている。この観点から、 ルネッサンス様式が解体してバロック様式が生成する 1525 年以後の六十年間を、マニエリ スムの時代として取り扱っている。バロックとマニエリスムの相違点は、前者には自然の 積極的肯定があり、宗教的情熱さえも、自然肯定と結びついて官能的性質を有しているの に対して、後者は精神が自然から遊離した一種のインテレクチュアリズム(主知主義)で あることにある。そして、この両者の背後にあるものは、流動的生成の世界観である。人 間中心のルネサンスの世界観に対して、バロックの世界観は宇宙中心で、人間を自然的存 在となし、変転生成する世界の中に小さな存在として人間を見るのである。人間は大自然 の中では昆虫と大して変わらない。ただ人間の理性に頼るか、あるいは教会の教える神に 頼るかによって、上述の二面が生じるのである。それ故にバロックの美術家は対象を流転 して止まらざる周囲の世間との関係に求め、バロックは絵画において最も適した表現手段 を見いだしたのである。これがバロック美術が、建築、彫刻においても絵画的であると云 われるゆえんであろう。絵画的であるということは、誰でも認めているバロック芸術の最 も著しい特性である。 この他、バロック美術の特性としては、空間と量体との錯綜性、豊かなどう動感、著しい 明暗の対比流動性、官能性、力の相剋、古典的見地からの装飾の過剰、感覚的幻惑などを あげることができるが、これらの特性の全てがバロック美術にみられるわけではなく、最 も重要なのは、バロック的世界観と絵画的ということである。 52 ◇ヨーロッパ諸国に於けるバロック音楽 ◇ヨーロッパ諸国に於けるバロック音楽 (ⅰ) イタリア (ⅱ) フランス (ⅲ) ドイツ (ⅳ) イギリス (ⅴ) スペイン (ⅵ) フランドル 1600年前後を境にして音楽のスタイルに大きな変化があらわれて来た。情熱的に何か を突き破って外に出ようとする意欲、きちんと整った外観よりも、人の感情に直に訴えか ける性質が、新しいバロック音楽の目立った特徴になった。ルネッサンス音楽を振り返っ てみると、宗教音楽のミサやモテットにしても、多声歌のマドリガルにしても、それぞれ のジャンルを代表する芸術作品はみがきぬかれた複旋律音楽の手法で書かれていた。こう した曲では寄せては返すさざ波のように、いくつかの声が重なり合って進み、作品全体の 上には、いくらかの冷やかな、理想化された輝きがみなぎっていた。しかし歌詞の意味の 微妙なニュアンスや個人的な感情をあらわそうとしても、それにはどうしても無理があっ た。これに代わって゛新しい時代のチャンピオンになったのがモノディ様式である。モノ ディとは一本の旋律を器楽の伴奏でささえる手法で、これにより、歌詞の気分や歌い手の 感情の変化を敏感に受け入れることができた。もしルネッサンスの複旋律音楽の美しさを 幾本もの旋律を織りなす美しいレース模様に例えるとするならば、モノディの美しさは悲 しみの淵から喜びの頂きにかけられた一筋のきらめく条であった。ほとんど旋律とも聞き 取られぬような悲哀の表現から、抑えきれぬ喜びのほとばしりまで、この作曲技法なら自 由に表現できた。この時代の音楽文化を担ったのは貴族、大商人、高位聖職者などで、そ の生活感情がバロック音楽に端的に現れ、国粋主義、保守的傾向、擬古義、アカデミズム、 尊大さ、知的音楽観となっている。 (ⅰ) イタリア ルネッサンス時代の豪華な宮廷音楽劇と人文主義の影響による古代復興の運動がモノディ を吸収して、まずフィレンツェで劇的色彩の強いオペラの発生となる。 [注ⅰ] アリオー ソ、アリア、レチタティーヴォなどの楽式をつくりだした。ラウダを用いた宗教音楽劇は、 オペラ音楽の影響を受けつつ、オラトリオに成長し[注ⅱ] 、マドリガーレなどの重唱歌曲 は表現豊かな独唱カンタータに変形した[注ⅲ] 。フィレンツェやマントヴァ[注ⅳ]にお けるオペラの隆盛は、1620年以後はローマが中心となり、その二十年後からはヴェネ ツィア楽派[注ⅴ]が中心となる。全体としては、一時オルガンとチェンバロの音楽が盛 んになり、声楽の様式、楽式と関係の少ない純器楽形式のいくつかをつくりだしたが、ヴ ァイオリンの完成後は、これが楽器の王者となり[注ⅵ]、コレルリやヴィヴァルディに代 表されるような弦楽合奏を枢軸とする諸演奏形態の楽式がつくりだされた。バロック時代 の末にはイタリアオペラは技巧的な声楽を中心とする様式に変わり、これがヨーロッパ各 53 地に広まった。そしてこの時代後半に、オペラの中心はA・スカルラッティやペルゴレー ジに代表されるナポリ楽派に移る。またオペラ・ブッファもこのような情勢に支配されて 成長した。 [注ⅰ: フィレンツェ楽派において、 「カメラータ」と言われる研究会的集まりから、スティレ・ラプレ ゼンタティーヴォ形式が生まれる。 ] [注ⅱ: カリッシミ、ストラデッラなど。 ] [注ⅲ: ロッシ、カリッシミなど。 ] [注ⅳ: モンテヴェルディ。 ] [注ⅴ: カヴァルリ、チェスティーなど。 ] [注ⅵ: 北イタリアのポローニャ楽派は、クレモナが近いという地理的背景も手伝って、ヴァイオリン を中心とする合奏曲を多く生み、バロック時代のソナタやコンチェルトなどの器楽の発展に寄与。ヴィタ ーリ、トレッリ、コロンナなど。コレルリも最初はボローニャで学んでいる。 ] (ⅱ) フランス この国は重商主義に裏付けられた絶対主義政治の本場であり、国粋主義、アカデミズムの 傾向が著しく、イタリアのオペラの進出に対抗して宮廷バレの伝統を守り通して、リュリ などに代表される、フランス風オペラを創出する一方、オペラ・コミックも生んだ。リュ ートやクラヴサン音楽は、この国で独特の方向に発展し、早くからロココ的傾向をあらわ した。これはこの楽器が宮廷人のもて遊びものであったことと、フランス人の具象的なも のへの愛着のあらわれである。ヴェルサイユ楽派の教会音楽は、イタリア風の華麗とフラ ンス風の荘重との混合である。 (ⅲ) ドイツ カトリックの南ドイツは、早くからヴェネツィア楽派の影響で領主たちの宮廷ではイタリ アオペラが上演されたが、十七世紀後半に起こった、ラインハルト・カイザーに代表され るハンブルクオペラは、市民階級を地盤とする宮廷オペラに対する独自なものであった。 北ドイツはブルゴーニュ、フランドルの諸作曲家のポリフォニー技法を受け継いだ。しか しドイツ全体としては社会的に停滞状態にあり、特に北部は三十年戦争の災いをうけて、 後進性著しい状況を呈していたが、貴族と大都市住民の上層部、そしてプロテスタント教 会が熱心に音楽を求めたため、十七世紀中頃から急速に進歩しはじめた。この発展の初め にハインリヒ・シュッツが位置しており、バッハ、ヘンデルに至ってバロック音楽の集大 成的結実がなされた北ドイツでは、コラールが作曲家にさまざまの刺激を与え、又古い典 礼劇の伝統を残す宗教音楽、イタリアのカンタータをドイツ風に改良したもの(M・プレト リウス) 、豊富なオルガン曲(シャイト、プクステフーデ、フローベルガー、パッヘルベル などなど) 、そして、主として小規模合奏で奏される舞踏組曲(シャインなど)や、単声の リート(アルベルトなど)といった多数の種類のものが作られた。 (ⅳ) イギリス 十六世紀から十七世紀にかけて、イタリアのマドリガルを移入して、マドリガルを流行さ 54 せ、またヴァージナル音楽の大流行を見た。多くのヴァージナりスト[ヴァージナル演奏 家]を生む。この他、エア、あるいは、簡単な各種合唱曲[マドリガル、グリー等]が楽 しみのために供給され、一般の音楽水準はかなり向上し、マドリガリストと言われる多く のすぐれたマドリガル作曲家を生んだ。一方、この国には従来から、ローズやグローなど の「マスク」があって、このマスクとイタリアから移入されたオペラが交流した結果、特 色ある音楽劇がつくられたが、リュリの影響を受けたパーセルの後は、もっぱらイタリア、 ドイツ出身の音楽家を迎えることに熱心になった。 (ⅴ) スペイン この国の民族性がバロック的に傾いたため、はやくも十六世紀のうちに、オルガン曲[カ ペソン]や、宗教音楽に独特のものを作り上げ、またリュートなど、サラセン文化の影響 を受けた世俗音楽もあったが、貴族がイタリア趣味に走ったため十七世紀中頃から、スペ イン的特色は薄まる。 (ⅵ) フランドル かつてヨーロッパ各地に音楽家を送り、又都市の音楽文化を誇っていたが、この時期に入 ると共に衰微の傾向を増し、かろうじてルネッサンス期の巨匠スヴェーリンクの弟子によ って、オルガン音楽分野だけは指導的立場を維持したが、それも長くは続かず、ドイツに とって代わられた。 ◇バッハ及びヘンデルの音楽を通して観たバロック音楽の 芸術性 ◇バッハ及びヘンデルの音楽を通して観たバロック音楽の芸術性 第一:装飾の巨大なマッス 感情の充溢 第二:デザインの完全な統一 第三:英雄的人格性 第四:力の 第五:単純な文芸復興の線を壮大に伸張し湾曲を多くせんとする傾向 建築、彫刻における「バロック性」をヴェルフリンの研究から総合してみるに 第一:装飾の巨大なマッス 第二:デザインの完全な統一 第三:英雄的人格性 第四:力の感情の充溢 第五:単純な文芸復興の線を壮大に伸張し湾曲を多くせんとする傾向 この五項目に大別できるであろう。 [注ⅰ] [注ⅰ: ハインリヒ・ヴェルフリン・Heinrich Wölfflin(1864-1945)は、スイスの美術史家。ブルクハ ルトの弟子。学位論文「建築心理学序説」。1915 年に代表作『美術史の基礎概念』(Kunstgeschichtliche Grundbefriffe)を刊行。十六世紀~十七世紀の美術史におけるルネサンス様式とバロック様式の差異を、 55 五つの対比的特徴から説明した。 「室内合唱団」版『バロック音楽』 (1963)では、その有名な五つの「対 比」 [①線的 - 絵画的、②平面 - 深奥、③閉 - 開、④多数性 - 統一性、⑤明瞭 - 不明瞭] には正面切 っては触れていないが、以下の文面の中に、そこはかとなく引用されています。建築絵画[そして譜面な ど]の具体例を目の前にしないと、以下の引用文だけでは、理解は難しいと思われます。 ] もちろん、専門的には建築の正面型の問題があり、大体窓の線によって三層に分割された 装飾のかたまりからできているのですが、そうした問題に触れずとも、装飾の巨大なマッ スを窓の線で切るという方式は、あきらかに急速に目に訴えるのに最も効果的である。す なわち、デザイン(型)が全体として直ちに効果を持ち、同時に細部は実に静かな関係を 保っているのである。これは直ちに音楽そのものの性格と思われる。音楽は、時間の流れ の後にはただ全体としてのみ認識されるが、その構成部分はそれ自身種々な楽しみと喜び を与えるものだ。ことにバッハのフーガの如く、細部の細かい変化は全く平静に、外部的 にはまるで変化なきが如く見え、あたかも同じ類型が繰り返されているようでいて、全体 が大きなマッスとなっている音楽性と少しも違わない。このバロック芸術の音楽的性格を、 もう少し明らかにするために、古典的デザインを持った「文芸復興期」の絵画(例えばフ ラァエロ)と、絵の方で最もバロック的であると考えられるエル・グレコのものを比較す ると、ラファエロの方は、その描かれたものを理解するのに、ある時間の長さが必要であ る。フランス人が「一目で」という言葉をよく使うが、ラファエロの方はそうはゆかぬが、 エル・グレコの方は「一目で」その意図と動きがわかる。ラファエロでは描かれた人物各 自が優美で、ゆっくりしたリズムを持ち、その周囲には豊かな空白をもつ space があるけ れども、グレコの方は、空白のないほど人物が集まり、各人物のジェスチュアは生々とし て、しかも劇的で、私たちの目は画面をゆっくりたどる必要もなく端的に絵にぶつかるだ けで、人物の態度が全てを語ってくれるのである。ヘンデルは、音楽の「端的性」を強調 したとロマン・ロランは言っている。つまり音楽ははじめから終わりまで聴いてじっくり 考えなければ理解できぬようなものでなければダメだというのだ。音楽は音の結合して流 れるところのどこをとっても美しく聴く者にはっきり感受されなければならぬと言うので ある。一見して美がわかるためには、どうしても部分の完全な美とデザインの完全な調和 を要す、と同時に精密な観察と自然の記憶とから直接とってくることが必要で、ミケラン ジェロの彫刻の実に精密な設計と、バッハの音楽のそれとはどうしても同一の軌道をゆく ものという外はないのである。 これが第二の特性たる「デザインの統一」ということなのである。エル・グレコにしろ、 ルーベンスにしろ、自然に対する強い sensibility を持ち、絵のデザインの中心は、自然 への真実性ということがバロックの大きな特性だが、バッハにしろ、ヘンデルにしろ、自 然の機構をそのまま音楽的として認めた点で共通であった。ことに、バッハは音楽の自然 性を紙の自由意志の表現として、自己の音楽を神への僕(しもべ)としていたのである。 おそらく音楽形式の中でカノンほどデザインの統一を要求したものはないと思うが、異な 56 った声が互いに追いつ追われつして奏される、この簡単でしかも最も厳格な模倣の形式こ そ、完全な統一力の支配する法則であった。 第四の「力の感情の充溢」という特性は、ここに詳細にお話しするまでもなく、バッハ やヘンデルの作品を聴けばわかるが、「対位法」という形式そのものが主題と応答句からな っている。これを「大胆」と「忠実」という言葉で抽象し得ると思うが、この「新しいも のを開く力」と「旧きものを守る力」とがひとつの統一に向かって進む音楽形式が、ただ ひとつの主題の展開変容に美を求めた単音法の音楽より、力強いものとなることは、音楽 のみでなく社会思想の上においても明らかな事実である。私はバロック時代の芸術家、ベ ルニーニにせよ、エル・グレコにせよ、ルーベンスにせよ、或いは又バッハ、ヘンデル、 スカルラッティ、クープランなど、すべて非常に勤勉家で、芸術のためにすべてを犠牲に して顧みなかったところの、あのたくましい力の充溢がうまれたのだと思うのである。 最後に第五の「単純な文芸復興の線を壮大に伸張し湾曲を多くせんとする傾向」である が、これは建築・絵画・彫刻の方では、線のマッス、細かい装飾的線の偉大な業績という 専門的問題となるのだが、これはバロックの古典的性格ともいうべき特性であって、あた かも日本の絵画が線の芸術であり、西洋のそれが面の芸術であると言われると同じアナロ ジイに適合するもので、複音法の音楽は単音法の音楽より線を重んじたものであることは、 バッハの「変奏曲」と、シューベルトの「変奏曲」とを比較して考えてみれば大体わかる であろう。前者を線画とすれば、後者は油絵である。バッハは従来までの複音法の線を極 度にまで発展させ、それを複雑なものにした。それが彼の「フーガ」である。私はバッハ の「フーガ」形式ほどバロック芸術の通有性を全部捕らえたものはないと思う。「フーガ」 形式の表象する精神的意味について少し述べるならば、 「遁走形式」は、対位法の極点で二 つ以上の声があらかじめ定まった時間の間隔をおいて発展する形式で、全部の声が出そろ う「表出」と、そのつぎに「エピソード」という詩的な部分と、それから複雑な「展開」 と、最後に「終止部」と・・・。これだけの段階を持っている、いわば最小の構成成分を もって、最大の複雑性と多様性とを得ようとする努力の現れなのである。 以上、主にバッハとヘンデルの音楽を通じて、バロック音楽の芸術性について述べたも のである。 ◇「マドリガーレ」と、ドイツの多声部曲ないしシャンソ ンとの相違点 ~「マドリガーレ」は、同時代のドイツの多声部曲や、フランスやフランドルのシャンソ ンとどこが違うのか~ (1) 定旋律や民謡の旋律を基礎にする古い手法は捨てられている。楽曲の基礎には、 古くから親しまれた旋律は用いられず、作曲家は新しい旋律を自分で作り出そうと努力す 57 る。 (2) 絵画的な描写に大きな興味が流れている。このことは、ある程度までは、古いネ ーランド[フランドル]派のモテットや、シャンソンにも行われた。しかし、マドリガー レのテキストに用いられた新しいイタリアの詩の絵画的な性質は、詩人たちと描写の腕を 競い、詩の意味を音楽に描き表そうとする新しい意欲を作曲家に起こさせた。 (3) バロックの特徴のひとつ、ハーモニーの新しい処理。色彩の効果や、光と影のた わむれ、一つの色合いから、他の色合いへの静かな推移、さまざまな色調の混和などに対 する深い興味から、偉大なイタリアのマドリガーレ作曲家たちは、一千年もの間、あらゆ る芸術音楽のゆるがぬ基礎であった中世教会旋法の全音階的な厳しさから離れ、いわゆる 半音階的和声の方向へ移って言った。 ◇バロック音楽の流れ ◇バロック音楽の流れ ◆初期バロック ◆中期バロック ◆後期バロック ◆初期バロック この時代は、和声的なイディオムに関して云えば、調性感が確立される以前の時期に属し、 旋法的和声と、ドラマチックな情緒を表現するための自由な和声の結合が顕著である。こ のような、「トニカ」 〈tonica〉[注ⅰ] に向かう指向性を欠くハーモニーと、その背後に 流れる表出意欲は、我々に初期バロックのスタイルの特徴である、息をつかせない持続的 な緊張感を感じさせる場合が少なくない。楽曲形態に関しては、器楽曲の分野では、個々 の「動機」を展開した短いセクションの累積からなる多節形式、声楽曲の分野では、通奏 低音に支えられたアリオーソ的なソロの形式が、支配的な地位を占める。なお、ルネッサ ンスの芸術との相違点として、異質なソノリティ(響き)どうしの結合による協奏的効果 の追求、及び支配的な声部における[読取不能]性の優位が、この時代の音楽的スタイル の特色をなしている。 [注ⅱ] [注ⅰ: イタリア語 tonica、ラテン語 tonicus、英語 tonic、ドイツ語 Tonika、フランス語 tonique な ど。日本語では「主音」ないし「主和音」を意味する。音階上の、 「ド」の音、ないし「ド・ミ・ソ」から なる三和音。 ] [注ⅱ: 微妙な境目の線引きには本質的な困難がありますが、主要な音楽家としては、カッチーニ、G. ガブリエリ、スヴェーリンク、プレトリウス、モンテヴェルディー、フレスコバルディ、シュッツ、シャ イン、シャイト、クリューガー、カリッシミ、フローベルガー、ルイ・クープラン、ケルルなど。 ] ◆中期バロック この時代は、やがて(長調・短調の)「調性感」が完全に確立される後期バロックへの過渡 58 期をなし、和声の進行には機能和声的な論理が顕著になると同時に、楽曲形態は、しだい に相対的、或いは連関的な構造をとるようになる。初期バロックのアリオーソ的な声の線 は、アリアとレチタティーヴォに分化し、また楽器の主題は、しだいに性格的なイディオ ムを展開しはじめる。 [注ⅰ] [注ⅰ: 微妙な境目の線引きには本質的な困難がありますが、主要な音楽家としては、リュリ、シャル パンティエ、マラン・マレ、フローベルガー、ケルル、バッヘルベル、ブクステフーデ、ベーム、ダウラ ンド、パーセル、コレッリ、フランソワ・クープラン、アレッサンドロ・スカルラッティ。](初期と中期 で重ねてある作曲家もいます。 ) ◆後期バロック この時代は理論的にも、実践的にも、「調性」が確立された時代であるが、ホモフォニック な作曲法では、コンティヌオ・ホモフォニー、ポリフォニックな作曲法では、装飾(華麗) 対位法様式とよばれる特徴的な様式が成立する。コンティヌオ・ホモフォニーは、バスが 楽曲の構造的要素としての生命を保持し、その上に、和声の連鎖が築かれる点に特質があ り、華麗対位法様式は、調性を基礎とした構築感と、急速な和声的リズムによる、華麗な 累積的効果を特徴とする。器楽曲の分野では、変奏曲の分野を除いて、これまでは、性格 的な動機又は音型の断片的展開にとどまっていた楽曲のセクションは、この時期に入って 楽章にまで発展し、又声楽曲の分野では、十分に展開された「ダ・カーポ・アリア」の形 式が支配的となる。しかし、楽章の範囲内では、なお単一の主題と気分が支配的であり、 その展開は、主として和声的リズムとテラス状のダイナミックス[注ⅰ] による継続的展 開の技法に依存している。 [注ⅱ] [注ⅰ: 「テラス状の」強弱とか、 「テラス状の」ダイナミックスという比喩は、バロック音楽の対比的 構造を説明するのに時々使われている。チェンバロやオルガンの手鍵盤が段々畑状になってますが、一段 目に対して、二段目を小さな音、音色のちがった音などのために使うことがあります。これがバロック的 な対比効果なのですが、この対比は、合唱やオーケストラを二カ所に分けて配置した場合にも使われます。 こうしたイメージを称して「テラス状の」という言葉が使われます。ネットの音楽解説につぎのようなも のがありました。パーセルのオペラの書法は、≪複合唱によるテラス状の強弱が立体的に描かれる。これ はバロック音楽の大きな特徴の一つで、オルガンによる第一鍵盤と第二鍵盤を使い分けて強弱の対比を合 唱や器楽合奏で管弦楽+合唱を2群に分けてやった。これは以後の時代でもオペラやオラトリオで多用さ れる。舞台裏と舞台上の立体的な掛け合いは、大きな効果を生んでいる。≫(国本静三) [注ⅱ: 主要な音楽家としては、ヴィヴァルディ、ドメニコ・スカルラッティ、サンマルティーニ、ペ ルゴレージ、ラモー、テレマン、ヴァイス、ヘンデル、バッハ。 ] ◇バロック音楽の背景 ◇バロック音楽の背景 59 ◆歴史的背景の概略 ◆バッハと社会 ◆宗教史的考察 ◆歴史的背景の概略 バロック音楽の時代背景をなすものは、経済的には、前期商業資本主義から、コルベール (仏)に代表される重商主義を経て、産業革命の前夜に至る発展があり、政治的には、絶 対主義王権の成立から啓蒙君主主義への移行を伴っている。またバロック楽器は、反宗教 改革の運動とほぼ並行して起こり、三十年戦争を通じて、カトリックとプロテスタントの 二分野の対立を深め、ドイツプロテスタントの内部では、さらに後期バロックに至って正 統派と敬虔派が、相異なる音楽文化を育成したことが認められた。一般精神史上では、ル ネッサンスに芽生えた人間中心の世界観を基底として、デカルトからライプニッツに至る 合理主義的思潮の展開がある。 総括的にみれば、バロック的な音楽を生んだ社会と、その文化は基本的には、権威と秩 序の意識を中心としていたということが出来る。云うまでもなく、次のロココ時代への過 渡期をなす後期バロック時代には、敬虔主義、さらに広くは、啓蒙主義の名の下に、人為 的、超越的権威と秩序が現実的または観念的に否定され、それに代わってブルジョア的市 民生活の感情とモラルが文化の中心となった。したがって、バロック時代は人間的な思考 の自由が、宗教的、政治的権力と共存し、むしろそれを肯定し、合理化しようとした時代 ということができる。そしてバロック音楽といえば、圧倒的に宮廷音楽であり、この時代 が、伝統的な宗教音楽の最後の開花を見た時代ということが、以上のことから説明される。 ◆バッハと社会 【自由都市】 バッハが生活を送った町々は、その人口も五千人ぐらいのもので、村とは 違って、工業を営む職人が住んでいて、ふつうささやかな緑の森や牧場にとり囲まれてい た。狭い街路をはさむ四階から五階の家々が薄暗く窮屈なときには、町の人々は城壁の門 をくぐって、外側に出て行けばよかった。そこには、森や野原が広がっていて、散歩には 何の不自由もなかった。ただ毎日暮らしており、仕事にいそしんでいる家屋は必ずしも快 適な生活条件を備えてはいなかった。人口が増すにつれて、平屋も二階三階となり、しか も、一階より二階の方が、また三階の方が、という風にせり出してくる。そのため、狭い 石畳の街路が、上の方では、いっそう狭くなるか、陽もろくにさし込まないような暗い街 路になり、薄暗い家にならざるを得ない。夕暮れになると、もうすっかり暗くなる家の中 では、蝋燭を灯すのであるが、それも余り明るくはないから、早く寝てしまう習慣がひろ く行われていた。そして、朝は早く起きて仕事を始めるのである。しかし、だからといっ て、七世紀八世紀の町の生活が陰気だったというのではない。明るく快適ではなく、いさ さか非衛生的であったとしても、家内の居心地など決して悪くはなかった。窓はふつうカ ーテン、ことにバッハの故郷であるザクセン地方ではレースの麻のカーテンをつけていた し、春ともなると窓辺には白や赤の花を植えた細長い鉢を飾った。冬には、白い陶器のタ 60 イルに、さまざまな絵を焼き付けて飾った巨大な暖炉に薪をくべて、部屋の中を暖めて、 楽しい団らんを結ぶことも出来たのである。家具とか、寝床とか、寝具なども美しく趣の あるものだったし、ことに服装は、現代のように画一的でなく、郷土の特色のある典雅な 衣装に誇りをもっていた。職人たちは職人たちで、その職業ごとに組合の制服が決められ ていて、美しくかなり派手な色彩のものを、儀式のとき、祭日ののときに着用するのであ るが、公式の行列を組むときなど、組合の旗を掲げてねり歩く姿は、目もさめるような美 しさだった。 この時代の町は、市とよばれ、いろいろな程度の差はあるが、中世以来の自治権を持っ ており、その度合いが高い場合には自由都市などと呼ばれた。バッハが最後に後半生の二 十七年間を送ったライプチッヒは、中程度の自治権を持ったいわゆる地方都市であるが、 それでも町の人事のことは、自治権をもっている市参事会が決定し、また市長が責任を持 つことになっていた。その自治権とか、市参事会とか、市長とかは、どういうものであっ たのだろうか。町の人は主として商人や職人たちからなっているが、その人々は職業別に 組合を作っていた。音楽家も同じ位置にあった。秩序のある毎日の仕事に携わっており、 麻の教会の鐘と共に始まり、夕の教会の祈りの鐘と共に終える労働にいそしんでいた。そ の労働は規則によってこまごまと定められた軌道に乗せられており、それぞれの個人の自 由な活動は認められていなかった。だが、この商人や職人たちの組合は、選出母体となっ て、市参事会を選ぶことが出来る。また、市参事会は互選によって市長を選挙する。この 市長が市政を自治的に司っており、その自治権は現在の地方自治体よりはるかに強いもの で、ほとんど半独立の国家であった。バッハはライプチッヒの市長に対し、そこのトマス 学校の楽長兼聖歌隊長就任に際して、契約書に署名しているが、それは市長の許可なしに はライプチッヒを去ることは出来ないとか、かなり多くの仕事をなさなければならないと か、なかなか厳重なものである。 【絶対君主の宮廷】 バッハは、いく人かの貴族につかえていたことがある。ことにプロ イセンの絶対君主であったフリードリヒ大王の前では、あの「音楽の捧げもの」を演奏し て面目をほどこしている。これらの宮廷はとうじのドイツを何百もの小領域に分割してい た地方的な中小の絶対君主に治められていた小国家の首都におかれていた。この小国家は、 昔ながらの中世風の国家から、かなり近代の国家に近づきつつあった。それは中世国家の 最後の形である絶対君主の国家であり、ルイ十四世の華やかな王朝と、その宮廷の雰囲気 を小型にしたものである。そこでは君主の力が強くなったが、それは中世以来の貴族たち の力がそれだけ弱められたということであり、またそれに伴って、少しずつ農民たちや、 職人たちの社会的地位が高められたということであった。バッハの仕えていたザクセン地 方に併存していた小国家もまたそのような国家であった。バッハは、とうじの農民たちの 様に、奴隷に近い農奴ではなく、自由な市民の出身であった。天分を備えた偉大な音楽家 であったし、自由な市民であったので、フリードリヒ大王からかなり丁重に迎えられたの であった。しかし、それは職人たちに対する待遇よりもいくらかよかった程度かと思われ 61 るし、ヘンデルが、大王の高圧的な態度にその招請を断ったという話や、バッハがその余 りに性急な招請に、旅の服装をかえることが出来なかったというのも、とうじの雰囲気を 察する為に役立つであろう。君主と臣民のこういう関係が、バッハの宮廷に仕える生活に 与えられた一つの枠であって、それは決して自由でのびのびしたものではなかった。 ◆宗教史的考察 宗教改革は、1517年、ウィッテンベルク教会の扉に、九十五カ条の抗議文をかかげた マルチン・ルターによってその発端を開かれる。ルターの不朽の功績のひとつに、プロテ スタントのコラールがある。コラールはドイツ国民の気質と、プロテスタント教会の宗教 的内容に、驚くほど適合した宗教的民謡であった。ルターは非常に音楽を好み、すぐれた 歌手であり、作曲にもかなりの腕を持っていたが、音楽が新しいプロテスタントの運動を 進めて行く上にどんなに役立つかをよく心得ていた。1555 年にアウクスブルクの宗教和議 が結ばれ、カトリックか新教(ルター派)かを選択する権利が諸侯に認められるほどに、 新教プロテスタンティズムは組織と地位を確保し、将来に渡る長い繁栄を約束される迄に 成長した。 さて、トレントの大宗教会議(1545-1563)によって、その統一的立場と方針を確立した カトリック教会はプロテスタンティズムを一掃することはもはや問題にならなかったので、 彼らがこれ以上発展するのを阻み、その力の拡張に対抗することにもっぱら努めた。折し も、十六世の後半、新しいイタリア音楽、ヴェネツィア派の複合唱様式の目覚ましい成功 があり、ついで十七世紀には、イタリアの協奏様式が生み出したオペラ、カンタータなど の劇音楽の様式と、ソナタ、コンチェルト、カンツォーネ、リチェルカーレなどの器楽様 式の出現があった。そして、この新しいイタリア音楽は、ヨーロッパ中の至る所で成功を 収めたのである。 ローマでカトリックの反宗教改革運動を指揮した賢明な手腕にたけた為政者たちがこれ を利用しないはずはなかった。特にジェスイット教団は、あらゆる手段を用いて、イタリ アの美術と音楽、つまりカトリックの芸術の普及を推進した。モンテヴェルディや、フィ レンツェの作曲家たちの、古典的な神話やドラマに基づくオペラの着想は、教訓的、カト リック的な傾向を持つ寓話劇や、宗教劇に作り替えられ、このようにして、いわば「洗礼 された」オペラがオラトリオと呼ばれた。こうしてカトリック教会の反宗教改革に伴うバ ロック的教会音楽が、はなばなしく展開された。一方、三十年戦争の終わる頃から、ルタ ー派の教会音楽では、その二大潮流たる、正統主義と神秘主義が、音楽発展の方向を与え、 シャイン、シャイト、シャッツらが、新しいイタリアの様式を取り入れて、プロテスタン ト教会音楽を発展させた。さらに下って、バッハの時代になると、プロテスタント内部に おける諸潮流が、正統主義と敬虔主義において鋭く対立する。こうして、当時あらゆる生 活を支配していた教会内部では、カトリックとプロテスタント、プロテスタント内部では、 ルター派とカルヴィン派、ルター派の内部では正統派と敬虔派のごとく、排他的な争いが 62 絶えない状態になっていった。 他方、反キリスト教的な啓蒙思想が次第にヨーロッパ精神の根底をゆるがしめ、やがて 敬虔主義も、啓蒙運動も、ともに教会の典礼的根拠の完全な崩壊に協力する。音楽の、民 衆との結びつきは、十六世紀の人文主義、十七世紀の貴族的個人主義によってひき離され てしまう。敬虔主義はいちどは民衆的な教会賛美歌を復活させるが、個人と会衆との有機 的結合は発展させられない。バッハの後期作品は、なんら民衆的音楽ではなく、高度に精 神的なものを要求する芸術であると云える。しかも啓蒙運動は、教会の教えに対して「自 然的神学」や、「自然宗教」をもって代用し、かくして、教会音楽の核心も失われていく。 バッハに至るまで教会音楽は、音楽史における不可欠の要素であったが、以後、プロテス タント音楽文化において、教会音楽は、第二次、第三次的存在となる。こうしてプロテス タント教会は、文化や政治における指導的地位からほとんど永久的に追放されてしまうの である。バッハはプロテスタント音楽のみならず、バロック的カトリック音楽の遺産をも 総合するのであるが、すでに彼の晩年において、プロテスタント精神はもはや、生気を失 い、ためにバッハは、プロテスタント的伝統を終焉する記念碑のごとく見えるのである。 ◇バロック音楽の流行 ◇バロック音楽の流行 ◆現代音楽の空白を埋める ◆バロックブームへの反省 ◆現代音楽の空白を埋める バロック音楽の流行は、その後下火になるどころか、ますます大きな高まりを見せてきた。 この春のバロック音楽の世界のめぼしいできごとといえば、まずドイツ・バッハ・ゾリス テン、イ・ムジチ、ザーグレブといった世界一流のバロック・アンサンブルの来日である。 ついで六月はじめにはバロック演奏の理論と実際の大家シェック博士が、わが国の専門的 な演奏団体である東京バロック音楽協会と共演し、今月(七月)は、エーマン指揮の総勢 三十名のウェストファーレン・ドイツ合唱団が、シュッツやバッハの宗教音楽の名曲をた ずさえて大挙来日している。[注ⅰ] [注ⅱ] 一方、レコード・ショップの店頭をのぞけば、ここでもランパルの吹くバッハのフルート・ ソナタ集、イ・ムジチの来日記念盤、クーロー指揮シュトゥットガルト室内管弦楽団の合 奏音楽などが、フルトベングラーやカラヤンに伍してベスト・テンに進出し、クラシック・ ファンの固定層をかかえたFM放送では、この春から毎朝、バロック音楽の帯番組さえ登 場してきた。 どうしてこんなにバロック音楽が聞かれるのか、その蔭になにか人為的なからくりでもと、 頭をかしげたくなるのも無理はない。その疑問に対して、この春、二度目に来日したドイ ツ・バッハ・ゾリステンの統率者ビンシャマンの示唆にとむ言葉を思い浮かべてみよう。 63 彼は、ヨーロッパでは第二次大戦に手痛い打撃を受けた国ほど、戦後のバロック熱の高ま りが著しいと云う。なるほど、ドイツ、イタリアの二国、それに日本を加えてみれば、戦 時中の異常に押しひしがれた体験が、逆にロマン主義音楽への宿酔いをいちはやく目覚め させる契機になったと云えぬでもない。 ロマン派音楽にも、それなりにすぐれた実質があることは謙虚に認めるとしても、新しく 目覚めた世代は、それこそ音楽のアルファでありオメガであるという考えには強く反発す る。彼らが要求するのはみずからの主体性を放棄せずに、喜ばしく参与できる触発的な想 像のエネルギーにみちあふれた音楽か、さもなければ思考と情緒の流れを無理じいせず、 背後から支持してくれる音楽である。しかし、こうした要求に対して、現代の前衛的な音 楽が、必ずしもピタリとするとは限らない。 面白いことに、バロック音楽の世界的な流行は、一つには、こうした意味で現代が音楽に 要求するものを、現代音楽の内部で適切にみたすレパートリーが未確立であるという逆説 からきている。つまり現代的な音楽が、その機能の面では必ずしも現代的でないという空 白を埋めるものである。 もちろん、今から二百年以上前の音楽は、一部の語法については古い。だが、大多数のロ マン派音楽、いや、現代の音楽の一部にさえ見られる、ひとりよがりの個性の強調から来 る船酔いめいた気分は持っていないし、この時代の音楽家たちが、あらゆる厳しい社会制 約の中で切り開いた高度の普遍性と確実な素材支配の職人技、音楽そのものに寄せた充溢 (じゅういつ)した喜びも忘れてはなるまい。 一方、その演奏には、リズムとテンポのとり方、旋律の装飾、和声の充填(じゅうてん)、 そのほか多くの面で、十九世紀以後のレパートリーには見られなぬほとばしる創造の行為 が要求される。バロック演奏のもっとも高いレベルでの本質は、その意味ではジャズに近 い。ムード音楽プラス即興演奏の新鮮味、それに加えておしつけがましいところがない健 康な普遍性と、その背後に秘められた水晶の肌合いに似た芸術的な実質。それが、現代を とおして見たバロック音楽の見取り図である。 このような見取り図が、一般のファンの中に十分に意識された形でとらえられているかど うかは別として、いわゆるブームがどうやら一時の流行にはとどまりそうもない成行を見 せてきた現在、すべての音楽関係者は、事態の客観的な分析と把握から、多くのものを学 ぶべきではないかと思う。 (服部幸三・東京芸術大学助教授・朝日新聞〈1963年7月〉 より抜粋) [注ⅰ: エーマン指揮による、ヴェストファーレンドイツ合唱団の公演は、1963年7月6日、東京 新宿の厚生年金会館ホールで行われ、ジョスカン・デ・プレのミサ、シュッツの詩篇曲、バッハのモテッ ト1番、3番。フーゴー・ディストラーの現代曲モテットが歌われました。東京で開催されていた国際音 楽教育会議に併せての来日で、わずか一回のみの演奏会でしたが、朝日新聞が夕刊でとりあげ、波紋は、 バロックブームのさなか、ブームの喧騒とはまたちがって、静かに確実にひろがりました。淡野弓子を筆 頭に、ヴェストファーレンへの留学生が相次ぎ、その中には、後年の「室内合唱団」第三代常任指揮者、 64 鈴木仁先生の若き日の姿もありました。ある意味、1974~2000の鈴木先生時代の 「室内合唱団」 は、エーマン的サウンドに学びながら、東京カテドラルの中で、 「室内合唱団」的ルネバロを育てていっ た28年間だったと言うことができるでしょう。 ] [注ⅱ: エーマンの来日した 1963 年(第四期)と、リヒターの来日した 1969 年(第十期)のあいだの 足かけ七年間に、 「室内合唱団」は大きく変遷し、草創期からはおそらく想定外の合唱団に生まれ変わる ことになります。とうじもいまも大学合唱団としては希有の存在と云えます。 ] ◆バロックブームへの反省 最近は「バロック・ブーム」だとしきりにいわれる。たしかにここ一・二年ほどの間に、 バロック音楽を専門とする外国の弦楽合奏団、合唱団、グスターフ・シェックのようなフ ルート奏者の来日が相つぎ、日本のバロック研究団体も、めざましい活躍をみせている。 それらがいつも満員に近い聴衆動員に成功している事実は、たしかに注目に値する。 日本でバロック音楽が一般の関心をひきはじめたのは、昭和三十一年(1956)に、 ミュンヒンガー指揮のシュツットガルト弦楽団[ママ]が来日して以来のことであろう。そ の翌年の夏には、NHKシンフォニーホールの番組で、日本の一流の演奏者による「バロ ック音楽特集」を放送している。 当時は二、三年もすれば、バロック熱はさめるかと思われたのが、いまやますますしり上 がりにブーム化しつつあるのはなぜだろうか。 「バロック音楽」とはおよそ1600年前後から1750年頃までの様式をさすが、こ の時代にはそれ以前のルネッサンス時代の教会旋法から脱して、近代的な長調や短調が確 立し、最初のオペラが成立し、とくにドイツではオルガン音楽を中心とするプロテスタン ト宗教音楽の花が咲いた。 社会的には、絶対主義王権の下で市民社会が文化や芸術にあこがれを持ち、権威と自由、 信仰と合理主義が奇妙に共存した時代でもあった。これらの背景や、とうじ特に複雑であ った宗教界の事情がバロック音楽をゆたかな実り多い内容のものにしたといえるであろう。 ところで、現代の日本人がこのような「バロック音楽」からいったい何を求めようとす るのであろうか。まず日本で、 「バロック音楽」という場合、その実体はほとんど器楽合奏 曲にかぎられていることに注意する必要がある。たしかにそのすがすがしいひびきには、 古典派音楽における精神内容の重圧もないし、ロマン派音楽におけるあまりにも人間臭い 個性の燃焼もみられない。同じく感覚的なものであっても、現代音楽のようにむずかしい 音もないからとりつきやすいし、ひとたび忘れ去られ、近年再発見された新鮮な素材とい う点にも魅力がある。 実際、バロック音楽には「初演」にひとしいものがザラにあるようだ。まず、そんなこ とからバロック音楽に大方の関心が集まっているのだろうが、ここには一歩誤ると純音楽 を捨てて軽音楽に走る傾向に似た、受動的な享受や、先物買いの俗物性がひそんでいるこ とに注意する必要があるだろう。 65 その危険が日本で特に強い理由は、前にもあげたように、バロック音楽の三つの柱、す なわち、オペラ・宗教音楽(オルガンを含む)・器楽(主に協奏曲)のうち、日本のブーム はほとんど第三のものだけで形成されていることにある。 ヨーロッパでは、まずいたるところにバロックの建築と美術があり、昔から今に至るま でバッハのオルガン曲やカンタータは、日常の精神生活の糧なのである。また近年スカル ラッティ、ヘンデルその他バロックのオペラの復活上演も欧米ではさかんである。 これらは日本には皆無にひとしいから、当時の人々の信仰や思想、宮廷生活や市民生活 の具体的イメージを一切ぬきにして、ただ蒸留水のような協奏曲を、ムード音楽として楽 しんでいる傾向がある。 なおさかのぼって、ヨーロッパにおけるバロック世俗音楽復興のきっかけを考えるなら、 それは現代音楽の作曲様式の変化から起こったのである。第一次大戦直後、後期ロマン派 の病的なまでに感情過多な、まだ自壊寸前の巨大なオーケストラへの反発から、 「バロック にかえれ」の運動がおこり、ストラビンスキー、ヒンデミットらが陣頭に立って、ネオ・ バロック風な曲を多く書きはじめた。 演奏や学問研究は、むしろそれにつづいて盛んになっていった。その半世紀にわたるバ ロック復興の歴史の上に、第二次大戦後になって、前記のシュツッツガルト合奏団や、ヴ ィルトゥオージ・ディ・ローマ合奏団、イ・ムジチ合奏団などが生まれて、埋もれた協奏 曲の再生をおこないつつあるのだ。 我々はその歴史的経過をすべて飛び越え、最後の結果的産物からバロック音楽へのきっか けをつかんだ。明治以来の西洋の文物輸入の原則がここでも適用されたわけだ。 この上は、我々もバロック音楽をより広く、多角的に、積極的に享受する方向に進むべ きではなかろうか。日本の音楽家もすがすがしい協奏曲だけでなく、とりつきにくいであ ろう宗教音楽やオペラを手がけて、まだほとんど知られていないバロック音楽の全体像を 紹介してほしいものである。 ( 『朝日ジャーナル』1963 年 9 月 8 日号より抜粋。) 66 編集後記 1963年 藤井 宏(1963) 展示参加は初の試みで、不安もありましたが、団員の皆さんの御協力をもって無事発表の 段階に至ったことに対し厚くお礼申し上げます。夏休み前から大きな方針をたてて、まが りなりにもなんとかここまでやってきましたが、まあ大体予定の七分通りのできだと思い ます。 【企画編集】 藤井宏(4期責任者) ・小沢昭雄(4期楽譜)・堀内彩子(4期楽譜) 【孔版】 小林康宏(3期) 、西野進一(4期) 、高橋将己(4期) 、三友功(4期) 、根岸卓子(4期) 、島 田徹(5期) 、小林登世子(4期) 、橋口勲(5期) 、西村東亜治(6期) 、川端純子(6期)、酒井保夫(6 期) 、二瓶誠子(6期) 【印刷】 永田博之(4期) 、橋口勲(5期) 、木坂嘉英(5期) 、埴原三鈴(5期) 、西川知子(5期) 、佐 藤マサ子(6期) 【サークル紹介】 飯塚隆一(3期) 、小林登世子(4期) 、大谷明子(4期) 、井本健一(5期) 、埴原三 鈴(5期) 、西川知子(5期) 【資料提出】 角脇稔子(5期) 、東村孝子(5期) 、井本健一(5期) 、石谷邦子(5期)、井元しのぶ(5 期) 、森高史子(5期) 、安藤武彦(6期) 、涌井康雄(6期)、吉村毅元(6期) 、 その他の諸君の御協力を得ました。厚くお礼を申し上げます。 そして最後に、早稲田祭準備のために場所を提供してくださった三友君に感謝します。(藤 井 宏(ふじい・ひろむ) ・記) 昭和三十八年(1963年) 藤井さん 小沢さん 67 片岡さん 企画編集委員 四期生の声 片岡さん 三友さん 高橋さん 片岡さん 吉澤さん ―復刻版上梓への感謝― 片岡 靖夫(4期) 山下 豊様、第 4 期生の片岡靖夫です。4 期の責任者である藤井さんが中心になって纏め た『バロック音楽』 (1963)の復刻版・校正刷りを送付いただき誠にありがとうございまし た。これを拝見してびっくりするとともにうれしい気持ちで一杯です。まず、編集委員で 12期生の山下さんや、14期生の日光さんご自身がまったくご存じない世代が作った、 48年も前の学園祭の一冊子に、大変なエネルギーを注がれて復刻版を起こして下さった ことです。そして,全文をプリントアウトして、読んでいくうちに,まず,とうじの冊子 には参考文献や引用文献がまったく示されていないことに気づき,もしそれがしっかり示 されていたらすごいことだったと思いましたが,このことについて山下さんは, 「音楽辞典 類の文章の切り貼り的な冊子ですが、このような大がかりなものをつくる熱意とチームワ ークに敬意を表したいと思います」 、とお書きになっていますが、この一文に救われた気持 ちです。山下さんたちは,さらに編注を各所に挿入してくださり,この冊子に新しい価値 を付与してくださいました。 私は技術部門だったので,文献収集等に直接関わっていませんでしたが,責任者の故・ 藤井さん、及び楽譜係の小沢さんと堀内さん(現・片岡)が中心になってマネージメント の幹部達が長期間、かなり熱を入れて文献調査と資料集めをしていたのを懐かしく思い出 しています。冊子作成とともに,大学祭では,バロック音楽に関するかなりの量の資料や 写真,あるいはバロック音楽を想起させる創作抽象絵画などの展示をしたことも思い出し てきました。その展示を見た、 「室内」の草創期の方々からほめられたり,かなりきつい 批判を受けたりしたことも,今では懐かしく思い出します。我々同期の人で,このときの 展示会場の写真を持っている人がいるかもしれません。自分たちがしなければいけないこ 68 とを代わってしていただきましたことに,深く感謝申し上げます。これから冊子をしっか り 読みたいと思います。 (2011/01/08 記・かたおか・やすお・4期・テノール・学生指揮 者・愛知県在住) ―世代を超えたOB会精神― 三友 功(4期) お正月明けの1月7日付で標題の冊子の復刻版(校正刷り)をお送りいただきありがとう ございました。まだ詳しく読んでいないのですが、末尾の「復刻版あとがき」を読んで、 山下さん、日光さんはじめご関係の皆さんのご尽力に感謝いたします。そのうえ、50年 前にはとても考えられなかった昨今の情報技術を充分に活用して関連情報を盛り込んだ充 実したものにしてくださったことに感服しました。鬼籍に入ってしまった藤井君、小沢君 も「俺たちの時代にこんなことができたら---」と、皆さんの仕事にきっと喜んでくれてい ると思います。同期会の枠を超え、面識のない世代どうしの交流ができ、これがほんとう のOB会精神なのだと感じ入っている次第です。 (2011/01/23 記・みとも・いさお・4期・ テノール・外政・大阪府在住) ―藤井宏君と私― 高橋 将巳(4期) 私が 「室内合唱団」に入団したのは一年の五月頃(1961 年)と記憶しています。当時幾 つかのサークルを覘き、まだ決めていなかった私に、政経一年H組唯一の女性根岸(現・ 吉澤)さんが声をかけてくれました。彼女とは帰宅する方向が同じというよしみで入団勧 誘を受け、合唱団には結局4年間籍を置くこととなりました。高校まで合唱の経験も無く 不安感もありましたが、卒業迄続けられたのは同期仲間の藤井宏(ヒロム)君との同居生活 が大きく関わったのだと思います。それは二年時と三年時の二年間にわたるものでした。 藤井君の合唱経験がどの程度だったか覚えていませんが、一年間社会人を経験した後に 大学に入学した彼から学ぶことは多々ありました。私は当時東京で働いていた兄と共に赤 羽で暮らしていましたが、2年になる時にその兄が仙台に帰郷することになったのです。 そんな時、藤井君が大学近くに下宿を探していると聞きつけ同居を提案したところ、彼も その方が安上がりだと同意してくれ、文学部奥の戸山町で一緒に下宿することになりまし た。同期の三友君の伝手で入居した部屋は4畳半で、宿舎には同じ部屋が他に5室ありま した。引越しには合唱団仲間が何人か手伝いに来てくれ、早速、その夜に酒を飲みながら 遅くまで歌を唄い、家主の叔母さんから早々にお叱りを受けることとなりました。 宿舎には我々を含め5大学の男性4名・女性4名が入居し、炊事場・トイレは共用でし た。藤井・高橋組の得意料理は、鯵の空揚げ・野菜炒め・カレーライスといったところで 69 しょうか。時々女性陣から手ほどきも受けました。私と彼とは毎月各々が夕食費用として 3,000円程度?を決められた壺に入れ、そこから毎日必要分を取出していました。私 は「きっちり型」 、彼は「おっとり型」で、丁度良いコンビだったのではないかと思います。 当時合唱団は大学から正式の認可を受けておらず、大学に近い我々の宿舎が3年の時に は部室代りにも使用され、結局一部屋を借り増しまでしました。単なる部室ではなく溜ま り場的存在にもなりました。ここを頻繁に訪ねて来た某君 1 は、後に向かい部屋の某嬢と 結婚することになりました。また某君 2 は我々の部屋に立寄り、時間をつぶした後、近く の公衆電話から5時頃(?)日本女子大の寮に電話をかけていました。(当時の女子大の寮 では自習時間(?)なるものがあり、一定時間以降でないと外部電話を受け付けないと か・・・。 ) 藤井君は 好奇心旺盛というか研究熱心な男でした。「ウェストサイド物語」を演奏する 時には私と先ず映画を見に行く、また次回演奏会に佐藤眞の「蔵王」が内定した時には東 北出身の私と蔵王に初めてのスキーに出かけました。3年の春過ぎでしたでしょうか、早 稲田祭で演奏だけでなく研究成果の展示発表をしてはどうかと相談を受けました。これも そんな彼の性格からして当然のことだったと思います。責任者の藤井、楽譜係の小沢・堀 内(現・片岡)の三人が中心になってバロック音楽研究資料をまとめ上げてくれました。 今回12期の山下さん、14期の日光さんがその復刻版を完成してくれたことを、彼はど んなにか喜んでいることでしょう。 その早稲田祭から一カ月後、定演直前の 1963 年11月23日、とうじの常任指揮者・池 田先生は練習途中で「皆の気持ちが乗っていない、今日はやめよう」と言われ、練習は異 例の形で中止となりました。その日の朝、ケネディ大統領の暗殺が報じられたばかりでし た。帰宅する仲間の何人かは練習場に近い我々の部屋に集まったのですが、皆から出る言 葉はありませんでした。 社会人となって18年後の夏頃(1983 年) 、東京の同期の友人から下関勤務の私に電話が あり、藤井君が重篤な病で甲府市郊外の施設に入院していると告げられました。直ぐ甲府 に駆け付けましたが、痛み 苦しむ彼に私の声が届いたのかどうかは判りません。結果的に それが彼との別れとなってしまいました。 意外とテレ屋の彼は今頃黄泉の国で、「おいおい、断りもなしに好き勝手なことばかりを 書くなよ」とでも言っているかもしれません。完。 (2011/02/14 記・たかはし・まさみ・4 期・ベース・会計・兵庫県在住) ―ひとりごと― 片岡 靖夫(4期) 「室内合唱団」はすごい合唱団だった,ということを卒業後の45年間思い続けてきま した。現在の職場である大学で、ある時期に、学生と一緒に「合唱団」と「シンフォニッ 70 クバンド」 (吹奏楽団)を立ち上げました。この2つの音楽クラブの顧問として、クラブの あり方を学生に話す時は, 「室内」の音楽に対する真摯な取り組みの精神が基本になって います。このうち、合唱団の方が全日本合唱連盟の合唱コンクール全国大会に出場した時, その審査委員のお一人が池田明良先生(第二代常任指揮者)だったのにはびっくりしまし た。また,この「合唱団」と「バンド」が創設20周年と30周年の記念演奏会を開催し た時は合同演奏でカール・オルフの「カルミナブラーナ」を演奏したのも, 「室内」でこ の曲を歌った時の感動が忘れられなく,学生にこのような大曲の演奏を経験して欲しいと 思ったからです。来年3月に、この大学を退職しますが,この二つのクラブのおかげで長 い教員生活を豊かに過ごすことができました。それは 「室内合唱団」で本物の音楽活動が できたこと、正しい音楽指導を受けたこと、そして素晴らしい同期の友人、先輩、後輩と 音楽を共有できたからだといつも思っています。 (2011/02/16 記・かたおか・やすお・4期・ テノール・学生指揮者・愛知県在住) ―思い出すままに― 片岡 彩子(4期) 私が在団したのはほぼ半世紀(!)も前のことになります。記憶の彼方に去っていたこ とが、今回突然光りを浴びて浮かび上がってきました。早稲田祭の展示、そして『バロッ ク音楽』という冊子の製作。室内合唱団での数々の思い出はすぐに蘇りますが、これらの 事については全く思い出すこともなく忘れておりました。 思い出せる事と申しますと・・・・・ 午後の図書館の光景です。バロック音楽について調べることになった私は音楽史に関する 本を探し出し、必要な事柄をノートに書き写していました。高窓から射し込む秋の日差し、 静けさに淀んだような図書室の空気。パソコンもコピー機もなかった当時、調べて書き写 すのが精一杯で、そこから研究、考察、論評などを加えてまとめ上げるのが本来の冊子作 りなのでしょうが、それだけの才能も知識もなく、短時日に仕上げることに半ば必死だっ たと思います。当時の「室内」の溜まり場だった「ガッカン」[現在の小野梓記念館のとこ ろにあった(旧)学生会館]二階の奥まったテーブルに集まり、持ち寄った原稿を「はも る」編集の方達が原紙切りやガリ版刷りなど分担して協力して下さいました。大勢の方の 手作業により冊子『バロック音楽』は出来上がったのです。 71 ピアノ・片岡彩子さん・第二回定演(1961) ・九段会館 もう一つのなつかしい記憶は、早稲田祭前夜のことです。明朝までに展示を仕上げなけ ればならず、何人もの人達が徹夜で準備に当たりました。下宿生や寮生の多かった4期生 の中で少数派の自宅通学だった私は、大学に泊まり込んでの作業という事自体が嬉しく、 親友のT子さんと一緒にそこに参加しました。模造紙にマジックで展示物の仕上げを書い ていましたが、明け方近く外が白々と明るくなり始めた頃とうとう睡魔に勝てず、机に伏 して沈没しておりました・・・・ 今回室内合唱団50周年に当たり、優秀な後輩の方々が大変なお力を注いで、復刻版と いう形で過去に眠っていた冊子を蘇らせて下さいました。私達にとって思いもかけないこ とでしたが、こうしたものに光りを当てて下さいましたことに深く感謝いたします。改め て見直しますと、かなりな量の物を作っていたことに驚きました。企画編集を担当された 藤井さん、小沢さんがご存命でしたらこの冊子にまつわるもっと多くのことを語って下さ ると思うのですが、返すがえすも残念です。 もう一つ付け加えますならば、私達4期の時のプログラムにバロック音楽ということで 初めてバッハの「マニフィカート・ニ長調」を選曲して下さったのが第二代常任指揮者・池 田先生でした。今から十年位前のことでしょうか、名古屋で合唱コンクール中部大会が開 かれた時に、審査員の一人として先生がおいでになり、たまたま会場のお手伝いをしてい た私は終了後の懇親会で直接先生にお会いする機会を得ました。めがねをかけ、昔と変わ らずにこやかな笑顔でいらっしゃいました。その池田先生も2009年末に他界され、当 時のお話を伺うこともできなくなってしまいました。まだ早すぎるお別れだったことをと ても残念に思います。 とりとめのない思い出話になりましたが、この度の山下さん、日光さんをはじめ実行委 員会役員の方々のご尽力に改めてお礼を申し上げ、また室内合唱団の更なる発展をお祈り しております。 (2011/03/01 記・かたおか・あやこ・4期・アルト・楽譜・団内ピアニスト・ 愛知県在住) ―徹夜で仕上げた早稲田祭― 吉澤 卓子(4期) 72 「バロック」の展示会をやったころの思い出を書くようにという依頼をいただいたのに、 早稲田祭に歌ったことしか覚えておらず、私は会報係だったので、技術の方々達だけで進 めて、全くタッチしなかったと思っていましたが、アルバムを開いてみると、「徹夜で仕上 げた早稲田祭」の見出しで、展示の前で四人一緒に写っている自分を見つけてびっくりし ました。どうやら、内容には関われないので、展示やガリ版切りなどはやっていたようで、 すこしほっとしました。 徹夜で仕上げた早稲田祭 (写真提供 吉澤卓子) 右端・筆者、その左隣が片岡彩子さん 当時部室がなかったので、会報「はもる」も、ガリ切は自宅で、印刷は、とうじ文学部 の裏手にあった藤井宏さんと高橋将己さんの共同下宿に、彼らの都合も考えず押しかけて、 たぶんインクであちこちを汚したりして、だべったり、愛唱歌をハモったり、長居したり、 よく、二人が切れることなく、心地よく使わせてくれた、と今では思いますが、その前か ら、代々の責任者が大学の近くに居て、部室代わりに使わせてもらっていたので、当たり 前のように思っていた節があり、まして下宿なので遠慮は全く無かったと思います。 授業の合間には、暇さえあれば、現在の小野梓記念館のところにあった旧学生会館[下記 写真]の中二階の溜まり場に行き、おしゃべりはもちろんのこと、その時々の曲や「コ-リ ューブンゲン」などを、親切な先輩に辛抱強く一緒に歌ってもらったり、帰りの電車の中 でも楽譜をひろげ、練習したり、暗譜したり、歌うことが好きなだけで、音楽のことを何 もわかっていない自分に、合唱することの喜びを教えてくれ、夢中にさせてくれたのが「室 内」でした。と同時に友人やハイキングや旅行など、大学時代の思い出の大部分をくれた のも「室内」でした。 73 旧学生会館 バロックの冊子には、 「早大室内合唱団」とありますが、当時大学に部として認可されず、 部室もなかった「室内」でしたが、早稲田の文連に入り、のちに正式名称が、 「早稲田大学 室内合唱団」から「早稲田大学・日本女子大学室内合唱団」[下記編注]になったのは、早 大生だった自分としては、ちょっとさびしい気もしましたが、同じ部員でありながら、長 い間宙ぶらりんの状態で置かれていた女子大の方々のことを思えば、当然のことと納得し たのを覚えています。 (2011/03/24 記・よしざわ・たかこ・4期・アルト・会報・埼玉県 在住) [今と同じ笑顔のみなさま~48年前] 片岡さん (学生指揮者) 三友さん (外政) 高橋さん (会計) 片岡さん (楽譜) 吉澤さん (ハモル) [編注] 14期定演時(1973)から「早稲田大学・日本女子大学」を冠するようになりました。 74 早稲田祭 バロック音楽研究 展示会場にて (写真提供 三友功) 昭和38年(1963)11月 後列左から、島田(5)、岩沢(4)、八木(6)、芳賀(6)、木坂(5)、福光(3)、飯塚(3)、木谷(3)、堀内(4)、 小林(4) 中列左から、高山(1) 、三友(4) 、高橋(4)、 [レコード]、奥村(5)、藤井(4)、板倉(4) 、井本(5) 、小沢(4)、 中柴(5) 前列左から[女性四人]角脇(5)、松丸(5)、東村(5)、中野(4)、 [男性二人]八星(3) 、堀江(1) ・・・苗字 は全て旧姓 75 早稲田祭 演奏会場(大隈講堂)にて(写真提供 三友功) 昭和38年(1963)11月 76 復刻版編集委員の声 『バロック音楽』 (1963)を読んで 2011年 日光三代治(14期) 1963年といえば東京オリンピックの前年。表紙のデザインもどこか五輪マークを思 わせます。高度成長のリフト・オフに成功し、第2段に火が入ろうかという時期。先進国の 背中が見え始め、いよいよアドレナリン全開という時代の熱気が、この小冊子からも感ぜ られます。折からの「バロックブーム」 。しかし「ブームに乗ったもの」と捉えられるのは おそらく不本意でありましょう。 「こんな音楽があったのか」という、いわば隠れていた秘 密の花園を発見したような新鮮な驚きが、日本人にとってはほとんど未知であったバッハ 以前の西洋音楽に対する諸先輩の芸術的・知的渇望を触発したのだと思います。そして「バ ロック」の向こうには合唱音楽の黄金時代があり、数知れぬ名曲が未だ人知れず埋もれて いる。それらを自らうたってみたい、他人にも知らしめたい、という意欲に導かれた、力 の入った労作だと思いました。青年らしいちょっと背伸びをしたところが見受けられるの は、まあ、微笑ましいところですが(失礼) 。 私の現役時代もバロックブームと言われておりました。ブームと言うにはいささか長過 ぎ、そろそろ定着した頃と言えるでしょうか。私の入団は1971年、考えてみれば19 63年からわずか8年しか経っていないのですね。その間に「室内」の演奏会のスタイル は随分変わりました。古楽ではできるだけ過去のスタイルを再現するという風に・・・草 創期の演奏会では本来オーケストラないし器楽アンサンブルで伴奏をつけるべきところが ピアノなどの代替楽器でなされていますが、欧米から多くの演奏団体が来日するようにな ると(これも経済発展の賜物でしょう) 、学生と言えども「本格」を求めたいという欲求が 当然生じ、短時日のうちに進化していったように思えます。1969年の第10回定演で のカンタータ106番は、今思えば日本の古楽界の草分けの方々の共演を得た学生団体と しては画期的なものだったのですね。 この後「室内」はルネサンス・バロックへの傾斜を一層強め、現在に至るわけですが、そ の流れに向かわせたのはこの小冊子に感じられる「熱気」と同じ「美の探究への思い」だ と言ってよいと思います。ルネサンス・バロック時代の合唱音楽はほとんど無尽蔵の金鉱脈。 大学の4年間は実に短い。ならばこれに集中してもよいのではないか、と。振り返れば当 時の我々はそんな感じであったかなと思います。 (2011/02/12 記・にっこう・みよじ・14期副学生指揮者・15期正学生指揮者) (五十周年記念行事・実行委員会・復刻版編集委員) 77 復刻版あとがき ~よろず屋さんから専門店へ~ 2011年 山下 豊(12期) 現役世代の合唱団員たちは、まだこの世に生れていない1963年(昭和38年)とい う年をどのように想像するのでしょうか。2011-1963=48年。ほぼ半世紀前で す。私も含めて年長者にとっても、もはや仮想現実となってしまった過去でありますが、 意識だけはあっという間に「とうじ」に遡ります。遠いようで近いようで・・・。過去と 現在は錯綜します。 現役世代にとって半世紀とは、昭和の太平洋戦争(1941~)の時代から明治の日清 戦争(1894~)をふりかえるほどに遠い昔になります。 「冊子」の内容はいまもむかし も、複雑で難解な音楽史であり、楽理の世界ですが、耳に伝わるバッハの曲、パレストリ ーナの曲が難解ということはないでしょう。 「美」は直観ですから。その同じ作曲家、同じ 作品が、とうじどのように扱われ、見られていたのか・・・、「玉手箱」をのぞき見るスリ ルを実感できるのは、とうじを知っている世代よりもむしろ、知らない若い世代なのかも 知れません。 さて、この冊子(1963)の製作のいきさつは上で四期の方々が詳述しておられるので、 そちらにゆずりますが、 「実践」(practice)として、ただ歌うだけでなく、リベラルアー ツ(liberal arts)の一学科として、「自由七科」(septem artes liberales)の一角を占 めていた音楽を、知的「思弁」 (speculation)の対象として、「よく考え」 、 「合唱にまつわ る何らかの研究成果を展示発表する」ことに意味を見いだした藤井さんの炯眼とリーダー シップ、その趣旨を周囲がうけとめて共同作業を立ち上げたのはすばらしいことだと思い ます。最高学府でこそ可能な「知的な合唱団」という方向性は、 「よく行い、かつよく考え る」ことを理想としていた第二代常任指揮者が大いに望んでいたことでした。 ふだんあまり話題にはならないのですが、四期生は、昭和 16 年から 17 年の太平洋戦争開 戦期に誕生した世代です。 「室内」の草創期世代も含めて、おおむね父親がちょうど徴兵年 齢にかかって戦地に赴く年代。広東や満州から命からがらひきあげてこられた方々、東京 をはじめとする大空襲の記憶をお持ちの方、学童疎開や縁故疎開で山中に難を逃れた方々 も中にはおられることと思います。昭和17年生れを基準とすれば、戦後学制改革の新体 制の中で、昭和 24 年(1949)に小学校入学、東京に焦土のおもかげが消えたと言って いい昭和 30 年に中学。このあと日本は未曾有の高度経済成長時代に突入します。多感な 13 歳の学齢に達した四期生たちもこの頃から、ラジオ放送や、急速に普及していた高音質か つステレオのLPレコードを通じて、「シュトゥットガルト管弦楽団」「ドイツ・バッハ・ ゾリステン」 「イ・ムジチ」などによるバロックの音を耳にしはじめます。昭和 36 年(1961) に大学入学。衣食足りて、文化活動に精を出すゆとりを持った世代で、戦後陸続と創設さ 78 れた全国の大学合唱団を早い時期に支えました。 〈編注〉 日光さんも書いておられますが、 そんな時代の熱気を四期生ははらんでいるようにみえます。 〈編注: 早大混声(1949) 、コール・フリューゲル(1949)、慶応日女コルメロ(1950) 、中央混 声(1951)、明治混声(1951)、慶応混声(1952) 、東大柏葉会(1952)、青学 GH(1954) 、一ツ橋 津田塾ユマニテ(1958) 、早大日女室内(1960) 、東大混声ユリゼン(1961) 、法政アカデミー(1962) 、 東北大混声(1962) 、東工大混声(1963) 、立正大グリー(1964) 、混声合唱団コール・ポリフォ ニー(1965)〉 「冊子」はバロックを標榜しながら、目次の項目を中世、ルネサンスにまで遡らせてい ますが、これは、バッハやヴィヴァルディの協奏曲にばかり終始するとうじの皮相なブー ムへの警鐘であるとともに、現在の「室内」のレパートリーの範囲をみごとに予告してい ます。全体を子細に読ませていただくと、辞典・事典類をはじめとして、諸文献を丹念に あつめ、全員で協力分担し、手書きで写し取ったものであることがわかります。中には、 字がきたなくて読み取りできない(笑)ところや、引用元の解説じたいが晦渋で要領を得 ぬものになっているもの(笑) [ディスカントゥス,フーガなどなど・・・]を、微笑まし くもそのまま筆写しているところもありますが、耳がとらえた音楽を「知・情・意」の三 方面から探求しようとする当時の学生の観念的「熱情」に鑑み、当局もまた、真のオリジ ナリティの帰属の問題については、ご寛容のほどを願いたく思います。第4期が定演で歌 ったバッハ「マニフィカート・ニ長調・BWV 243」を契機として、 「室内合唱団」は、「よろ ずやさん」から次第に「専門店」に向けて舵を切り、以後毎年のようにバッハを演奏する 時代に入っていきます。 今回の「復刻」にあたり、所々に青字の「編注」を入れ、また「リンク」を貼り、理解 への手助けとしました。とうじの方々の、汗と油にまみれた努力もあらためて報いられる のであれば、編集子の望外の慶びとするところであります。物故された藤井さん、小沢さ んへの哀悼の表明になればとも思います。最後に、大切に保存されていた『バロック音楽』 の冊子をご寄贈いただき、復刻版編集のきっかけをつくってくださった六期の八木庄三さ ん(六期テノール・外政・福岡県在住)に実行委員会を代表して感謝申し上げたいと思い ます。 今次大震災から三カ月あまり、現役諸君の「六月演奏会」の日に (五十周年記念行事・実行委員会・復刻版編集委員・山下 豊 記) 平成二十三年(2011年)六月二十四日 Addenda 【戦後簡易バロック音楽史かいつまみ】 ★1956年、ミュンヒンガー率いるシュトゥットガルト管弦楽団が初来日。ドイツ・バ 79 ッハ・ゾリステンや、イ・ムジチとともに、戦後復興日本を席巻したバロックブームの牽 引役となる。 ★ 1 9 6 0 年 、 ヴ ィ ン シ ャ ー マ ン が 、 ド イ ツ ・ バ ッ ハ ・ ゾ リ ス テ ン ( Die Deutsche Bachsolisten)を結成。 ★1961年、四期生が大学入学。 「室内」入団。 ★1961年、指揮者ミシェル・コルボをリーダーとして、ローザンヌ声楽アンサンブル 結成。合わせて古楽器とモダン楽器を適宜使い分ける器楽アンサンブルも結成。息の長い 団体で、2000 年代にはさかんに来日公演をしている。 ★1962年、ドイツで、コレギウム・アウレウム合奏団結成。古楽器オーケストラの草 分けのひとつ。 ★1962年、ビルトゥオージ・ディ・ローマ、初来日。 ★1962年、ヴィンシャーマンをリーダーとするドイツ・バッハ・ゾリステン初来日。 シュトゥットガルト管弦楽団、イタリアのイ・ムジチとともに、バロックブームの牽引役 となる。 ★1963年、四期生が三年生となり、幹事学年として「室内」を率いる。 ★1963年、ザグレブ室内合奏団、初来日。 ★1963年、ウィルヘルム・エーマン率いる「ウェストファーレン・ドイツ合唱団」 (Westfälische Kantorei)が初来日。ジョスカン、シュッツ、バッハなどの作品が強い印 象を与える。戦後のシュッツ・ルネサンスの担い手の一人。この時期に来日合唱団が、シ ュッツや、ジョスカン・デ・プレを歌うというのは、希有なことでした。 ★1963年、イ・ムジチが初来日。 ★1964年12月8日、東京カテドラル落成。 【1963年・ないないづくし】 現在あって、昭和38年(1963)とうじなかったものを羅列してみます。「もはや戦後 ではない」と経済白書にうたわれたのが昭和31年(1956)のことですが、以後、「高 度経済成長」と「所得倍増計画」の上げ潮にのって、1961年以降14年間にわたって 毎年の経済成長率はなんと平均9.6パーセント。少なくとも都内では、毎日が時代の最先 端にいるような気分でいたというのが生活実感です。そんな時代でも以下に羅列したよう なものがまだなかったのです。そのあと日本が都市インフラにおいて、いかに肥大化した かということがわかります。 NHK大河ドラマのカラー放送/紅白歌合戦のカラー放送/カセット/CD・DVD/ビ デオ/デジカメ/フロッピーディスク/PC/携帯/ペットボトル/ファックス/コピー 機/コンビニ/ファミレス/高層ビル/新宿副都心(→とうじは広大な浄水場の池でした。 ) /臨海副都心(→とうじはごみ処理場と干潟の海でした)/さいたま市/新交通博物館(鉄 80 道博物館)/横浜みなとみらい/新幹線/埼京線/湘南新宿ライン/成田エクスプレス/ つくばエクスプレス/京葉線/北総線/りんかい線/ディズニーランド/八景島/横浜ベ イブリッジ/レインボーブリッジ/湾岸高速/外環/中央環状線/東名・中央・東北・常 磐・関越・東関/武蔵野線/ゆりかもめ/第三京浜/環七/環八/地下鉄東西線(とうじ 銀座線・丸ノ内線・日比谷線以外の地下鉄はありませんでした。 )/ジャンボジェット(7 47)/成田空港/東京モノレール羽田空港線/自動改札/パスモ・スイカ/エキナカ/ 巨大家電店(→ヨドバシカメラはまだ藤沢写真商会という渋谷区の小さなカメラ屋さんで した。 )/恵比寿ガーデンプレイス/スタジオアルタ/109/渋谷東急本店/Bunka mura/オーチャードホール/サントリーホール/東京芸術劇場/初台オペラシティ/ すみだトリフォニー/紀尾井ホール/東京国際フォーラム/王子ホール/浜離宮朝日ホー ル/北トピア/府中の森芸術劇場/パルテノン多摩/カザルスホール/青木洋也/東京カ テドラル/学生会館(新)/リーガロイヤルホテル東京/馬場口交差点/ビッグボックス /古楽器/ゲーム機/PC巨大メーカーとしてのNEC(無線機器や半導体、電球、蛍光 灯、家電製品のメーカーでした。 )/大量の海外旅行者・大量の海外留学生(→高すぎて行 けない。→円ドルの交換レートが360円の時代で、ハワイ九日間の旅行が180万円ぐ らいかかったと言われています。一般庶民は鎖国状態どうようの日本列島の中に囲われて いました。海外からの著名音楽家の来日は神の顕現のように思われ、万難を排し、貯金を 使い果たしても行ったものでした。 (笑) ) 1963年・世界と都内および近郊にまだあったもの(今はない) お化け煙突(千住火力発電所)/ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)/蒸気機関車/ 交通博物館(神田)/都電の路線網/トロリーバス/木造の焦げ茶色の電車/オート三輪 車/淀橋浄水場(西新宿→現在の新宿副都心)/食品デパート「二幸」(アルタの場所)/ 新宿角筈の電停/渋谷から246沿いの東急玉電/改札で切符に挟みを入れる駅員さん/ ホームにたくさんいる駅員さん/(旧)丸ビル/(旧)新丸ビル/中央郵便局旧局舎(丸 の内)/恵比寿駅前のサッポロビール工場と専用の貨物駅/日本電気(→現在のNEC) /新日本電気(→現在のNEC)/BG(business girl には別の意味合いがあるという批 判をうけて東京オリンピック前に廃止され、OLに変更)/モノクロ放送の紅白歌合戦/ 八郎潟(往時琵琶湖に次ぐ面積を誇る日本第二位の湖だった。1963年とうじすでに干 拓がはじまっていた。 )/謄写版印刷機/テレックス/両国駅から発車する蒸気機関車の列 車/ベルリンの壁/谷津遊園/船橋ヘルスセンター/多摩テック(2009年閉園)/す ずらん保育園( 「室内」発祥の聖地)/中野名画座/高田馬場パール座/八重洲スター座/ 佳作座(飯田橋)/文芸座(池袋)/東急名画座(渋谷)/東急文化会館(渋谷)/日比 谷映画/芸術座(日比谷)/みゆき座(日比谷)/並木座(銀座)/安倍球場(戸塚球場) /早稲田大学旧図書館(2号館)/旧学生会館/房総西線(現内房線)/房総東線(現外 房線)/九段会館(2011年営業停止)/千代田公会堂/神田共立講堂(1976年貸 81 し出し停止)/都市センターホール(1996年閉館)/旧杉並公会堂/国立大学の授業 料年額一万二千円/ 1963年・事件・出来事 三井三池炭鉱爆発事故(死者 458 人)、吉展ちゃん誘拐事件、国鉄鶴見事故(死者 161 人)、 松川事件全員無罪、吉田岩窟王50年目の無罪判決、草加次郎事件、狭山事件、ケネディ 大統領暗殺、バナナの輸入自由化(それまでは一般家庭では易々と買えない高級野菜だっ た。)、タッパーウェアがヒット商品となる、黒四ダム完工、全国初の歩道橋が大阪駅前 に設置される、名神高速道路開通、首都高速が部分開通、日米間テレビ宇宙中継実験に成 功、NHK大河ドラマ『花の生涯』、テレビアニメ『鉄腕アトム』『鉄人28号』、ビー トルズ Please Please Me がイギリスで初の一位。旋風が吹き始める、茨城県東海村で日 本初の原子力発電に成功、テレシコワが世界初の女性宇宙飛行士として飛行、レイチェル・ カーソンが『沈黙の春』を著して環境問題を指摘、坂本九「上を向いて歩こう」が全米ヒ ットチャートの一位、映画「アラビアのロレンス」「007 は殺しの番号」日本公開、NHK の映像ルポルタージュ「新日本紀行」放映開始、小津安二郎死去、夏目鏡子(漱石夫人) 死去、女性会社員を意味する和製英語BG(business girl)が英語文化圏では「売春婦」 の意味合いを持つことから、NHKが放送禁止指定。 (以上、http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1963.html より転記しました。) 82 新学生会館(戸山キャンパス) 2001 年 7 月 26 日 竣工 (撮影 2008 年 10 月 写真提供 山下 豊) 10階15号室 83
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