1962年 キューバ危機

---------- 1962 年 海外 ----------7 月 アルジェリアが独立
「アルジェリアってどこだ?」という人は地図を見る。スペインの向
かいにあって地中海に面する広い国だ。1830 年に、当時オスマン・
トルコ帝国の領地だったが、フランスの侵攻を受けて植民地になっ
た。現地の人はベルベル人=野蛮人と呼ばれた。フランスは 50 万人
の大兵力を投入して、ゲリラの抑え込みには成功したが、費用がもの
すごいものになって、フランス政府は困ってしまった。そこでアラブ
側と秘密交渉を重ねて独立を認める、フランスは立ち直った。植民地
が重荷になる良い例だ。反乱が起きなくても、植民地経営にはやっぱ
りお金がかかる。
9 月 マレーシア連邦成立
10 月 中国とインドが国境で衝突する。
10 月 「キューバ危機」が起きる。
社会主義政権のキューバに対し、アメリカは 1961 年 4 月に上陸を仕掛けるな
ど、軍事力で政権打倒を試みた。1962 年 10 月 14 日米軍偵察機がキューバに
ソ連製のミサイル基地を発見し、22 日にケネディ大統領は直接攻撃ではなく封
鎖を決定した。今後米軍が攻撃を受ければ、キューバの基地を攻撃すると宣告
した矢先の 27 日には、キューバ軍によって米軍機が撃墜される。しかしトルコ
にあるアメリカのミサイル基地を撤収する代わり
に、ソ連はキューバのミサイルを撤去せよ、と「三
方一両損」の選択をせまったことで、28 日にはソ連
がミサイル基地を撤去するという事件。
「核戦争」が
現実のものになるかもしれない恐怖に全世界は震撼
した。この事件をきっかけにアメリカとソ連の間に
直通の電話「ホットライン」を設置し、首脳は直接
に意見交換をするようになった。
安部公房が「砂の女」、高橋和己が「悲の器」を出す
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1962 年 日本 ----------2月
ロバート・ケネディーが来日し、早稲田大学で講演を行う。
ロバート・ケネディーはアメリカ大統領 JF ケネディーの実弟で、司法長官を
務めていた。早稲田大学の講堂でロバートの演説が始まると、反体制派学生た
ちが演説を妨害してきた。しかし機転を効かした応援部の学生が、全員で校歌
を歌うように誘導し、反対派学生もその波に飲み込まれた。「音楽」を司る右
脳に訴えた勝利であろう。これを興味深く見ていたロバート・ケネディーは、
2 年後再び早稲田大学を訪問し「ワセダは印象が深かった。私自身、ワセダの
卒業生のような気持ちだ。贈られたオルゴールで校歌を繰り返し聞いて、
『ミヤ
コノセイホク』が覚えて歌えるようになった」と言った。こういうところがア
ひらかた
メリカの政治家はすごいな~と感心する。彼はその後関西にも赴き、枚方では
小学校を視察している。ロバート・ケネディーは駐日大使ライシャワーの進言
で、日本とアメリカの関係改善を考えていた。1960 年の安保闘争及びアイゼンハワー
訪日中止は、アメリカ人に「日本はけしからん」と思わせ、日米間はかなり緊張状態に
あったからだ。それを受けてライシャワーは「日本との損なわれた対話」という論文を
発表している。ライシャワーは 1910 年に日本で生まれたアメリカ人で、16 歳まで日本
で過ごし、
「私は 2 つの祖国を持つ」と常々言っていたほどの、知日家だった。彼は視
野が広く、戦後日本の政権中枢の人間だけでなく、社会党や安保反対派とも対話し、日
本全体を知ろうと努力した。それぞれの国にこのような人を 100 人持つことができた
ら、どんな国とも戦争も避けることができるだろう。さて「ワセダ校歌事件」を目撃し
て感激したある青年が、1 年後のアメリカ旅行中に、ダメモトでの感想を書いた手紙を
ロバート・ケネディーに送っていた。1 週間後、司法省でロバート・ケネディーに面会
することができて「私の講演を聴いてくれてありがとう。これからは君たちの時代だ。
政治家になったら、ワシントンで会おう」という会話をかわしている。彼は、
「政
治家になっても、分けへだてなく誰にでも会おう」と決意した。その青年は 1998
お ぶ ち けいぞう
年に総理大臣になる小渕恵三だった。小渕と同時代にアメリカ大統領になり、IT
ブームを世界に広げたクリントン元大統領もまた、2014 年に早稲田大学で講演
を行っているが、高校生の時、ケネディー大統領と出会ったことが政治家へ進む
きっかけだった、と写真を見せながら話している。
11 月
LT 貿易覚書が作成され、日中で国交回復を前提にした貿易が始まる。
隣国の中華人民共和国と、後々は国交を回復する予定の日本は、戦後からずっと中国と貿易を拡大してき
たし、「政経分離=政治と経済は別物」も岸前首相からの路線だった。「外交はアメリカに従う」はあまり
評価できないが、「経済的には自主路線」を取ることは評価できる。どちらにしても、隣国と全く付き合
いがないのは、まずいからだ。日本代表と中国代表の間で、長期貿易について「LT 貿易に関する合意」
がサインされた。LT は 2 人の代表のイニシャルから来た。しかしケネディー大統領は、当時、日本の貿
易総額でたった 0.8%しかない対中国貿易でも、不快感を見せた。1972 年の「日中共同声明」が、アメリ
カにはどれだけショックだったか、わかるだろう。アメリカはいつでも、日本と中国の結びつきに警戒し
ていることを忘れてはいけない。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない