メロディが奏でる異文化翻訳 1

Kyushu Communication Studies, Vol. 5, 2007, pp. 44-60
©2007 日本コミュニケーション学会九州支部
メロディが奏でる異文化翻訳 1)
宮下和子
(鹿屋体育大学外国語教育センター)
Cross-Cultural Translation along with Melodies
MIYASHITA Kazuko
(Foreign Language Center, National Institute of Fitness & Sports in Kanoya)
Abstract. This paper aims to discuss the significance of cross-cultural interpretation. In this
case, it is the translation of American song lyrics into their Japanese equivalent. The paper
introduces a textbook, Cross-Cultural Communication through Music (2006), compilation of
20 American songs. It examines the wide range of cross-cultural experiences involved in the
translation of American culture into Japanese culture, along with the melodies. One
encounters numerous difficulties when finalizing the Japanese translation. However, moving
back and forth between the two languages while accompanied by the American beat, readers
can experience a cross-cultural communication which pulls at their heartstrings. This paper
also seeks to explore the potentiality of such cross-cultural translation as a means of using
English as a communication tool—a tool which reveals the hearts and minds instilled in the
melodies.
0.はじめに∼『音楽で異文化コミュニケーション』
大学英語教育に携わった当初よりアメリカ音楽を授業に導入してきた。始めは原詩(英語)の
解釈後に曲を鑑賞し、受講生にコメントを求めていたが、やがて物足りなくなり原詩に拙訳を添
えるようになった。それは、英詩という完成度の高い異文化の芸術作品を日本語の自文化作品に
置換するという挑戦であった。また、概してアメリカン・ポップスのサウンドに酔いしれる受講生
の関心を、そのメッセージに投影されるアメリカ社会と連動する異文化としての側面にも喚起し
たい、という試みでもあった。
和訳は、可能な限り一行毎の対訳とし、メロディに沿いながら一行ずつイメージできることを
目指すが、最終訳にたどり着くにはかなりの迷いと難関が待ち受けている。日本語における男女
の言葉遣いや世代間で異なる微妙な言い回しは当然ながら、アメリカ英語が包含する宗教や人種
問題など、日本人に馴染みのうすい概念やコンセプトの解釈となるとお手上げ状態となる。それ
でも、適切な翻訳のために英語と日本語を往来する言葉の旅は、ひと味違った異文化コミュニケ
ーションの世界である。
そうしたアメリカの音楽 20 曲を、英語の原詩に対訳を添えてテキスト化した『音楽でコミュニ
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ケーション』
(初版 1997 年)は、翌年の改訂版でうち1曲を学生の作品に置き換えた。さらに 2002
年の 2 訂版では、1999 年 9 月から翌年 6 月までの、ピッツバーグ大学とウィリアム&メアリー大
学における研究とアメリカ経験を編みこんだ。さらに、2006 年には、メロディが奏でる異文化翻
訳という視座で新たに数曲を入れ替え、
『音楽で異文化コミュニケーション』
(新版)を刊行した。
本論では、アメリカ音楽とアメリカ史、音楽と日本人との関係に触れながら、
『音楽で異文化コ
ミュニケーション』
(宮下、2006;以下出典省略)に掲載した音楽 20 曲及びその他の曲目(付録
1&2参照)を例証しつつ、メロディが奏でる異文化翻訳の意義を異文化コミュニケーションとい
う視点で考察する。具体的には、一つのアメリカ音楽の異文化翻訳を、英詩から和訳という具体
性の変換プロセスにメロディという抽象性が統合された感性として捉えたい。次に、アメリカ音
楽の異文化翻訳にあたり、音楽とアメリカ、音楽と癒し、さらに音楽と日本人との関係を概観す
る。その上で、アメリカ音楽の異文化翻訳が日米の異文化コミュニケーションという視点でいか
なる意義があるかを論じ、今後の課題を展望したい。
1. 歌う異文化翻訳
1.1.心をうたう詩―具体性
詩人の長田弘は、詩集『黙されたことば』
(1997)において「『黙されたことば』は、詩という
もっとも古い心の楽器のための、無伴奏ソナタとして書かれた」
(p. 101)と述べている。つまり、
詩とは、有史以来人間に備わっている、言葉を通した楽器だというのである。人間は、心の中に
沸きあがる思いを言語化し、詩へと昇華させてきた。言い換えれば、自分の「ものがたり」を心
の楽器で演奏することによって自分自身の心とコミュニケーションをとってきたのであり、それ
は今後も変わらないであろう。たとえ選んだ言語表現が抽象的であろうと、それは具体的なパフ
ォーマンスを伴うアクティブな自己表現といえよう。
人間は自分自身の主観性と向き合い、自身の内面と対峙するとき、言葉を必要にするのではな
いだろうか。自分の心をのぞきこみ、言語化することにより、主観性が客観視されることになる
のである。日常生活では詩に無縁だった人が、恋愛や大切な人との死別などを契機に、自分の内
面を客観視する手段として詩歌をそらんじ始めるということは珍しいことではない。
『音楽で異文化コミュニケーション』の編集にあたっては、個人的主観を超え、アメリカの 19
世紀から 20 世紀と連動するアメリカ音楽の中から、アメリカの精神と魂、そして心を投影する
20 曲を選曲している。
1.2.メロディとリズム―抽象性
長田弘(1997)は、J. S. バッハ(1665-1750)を主題にして「音楽」という詩を書いた。
音楽
静けさをまなばなければならない。
聴くことをまなばなければならない。
よい時間でないなら、人生は何だろう?
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時間こそ神のいちばん尊い贈物。
老ヨハン・セバスチャン・バッハは言った。
ほんの一瞬も無駄にしてはいけない。
夜おそくまで、蝋燭の光の下で仕事をした。
心の中の音楽に聴き入って。
魂の音を、五線紙に書き写す仕事。
老ヨハン・セバスチャン・バッハにとって
音楽は労働だった。芸術ではなかった。
生きるというただ一つの主題をもつ労働だ。
充実でないなら、音楽は何だろう?
こだまをのこして、沈黙のなかに消え沈む。
よい音楽はよく生きられた人生にひとしい。
仕事のあまり失明したが、悔まなかった。
老ヨハン・セバスチャン・バッハは
ただ静かな微笑をのこして、死んだ。
(pp. 16-18)
詩が心を言語化した楽器とするならば、音楽は心の中の言葉にならない魂の音色といえるであ
ろう。つまり、詩の具体性に対し、音楽は言葉にならないメロディやリズムという抽象性という
ことになる。
聖路加国際病院名誉院長で日本音楽療法学会理事長の日野原重明 2)(日野原、湯川、2004)は、
「音楽は言葉で表現できないものを伝えるメディア」(p. 99)と言い、1958 年、米国で初めて音
楽療法(Music Therapy)を提唱したアメリカの音楽教師ガストン(Philip Guston, 1901-70)の
「もし、言葉を使うことだけで、人と人の心がコミュニケートできるならば、音楽などなかった
し、音楽が生まれる必要もなかったでしょう」(p. 61)という言葉を引用している。たとえ原詩
の意味を理解できなくても、アメリカン・ポップスに惹かれるのは、その異文化サウンドが聴き
手の魂と身体を直に揺り動かすからであろう。いわば、言葉の具体性を超えた抽象性のなせる技
といえるのかもしれない。
アメリカ音楽はアメリカ史と連動しながら発展し、進化してきたが、2001 年 9 月 11 日の同時
多発テロ直後の「アメリカ」を癒し、勇気づけたのも音楽であった。ひと月後にリリースされた、
犠牲者の為のチャリティ・アルバム『ゴッド・ブレス・アメリカ』(GOD BLESS AMERICA3))
には 15 曲のアメリカン・メロディが収録されている。一曲目はアルバム・タイトルともなった
God Bless America で、カナダ人アーティスト、セリーヌ・ディオン(Celine Dion)が約 2 年間
の沈黙を破って収録し、注目を浴びた。
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1.3.メロディと異文化翻訳―具体性と抽象性との統合(感性)
アメリカ音楽を具体性と抽象性の統合として捉えた『音楽で異文化コミュニケーション』は、
対訳という異文化翻訳に際してメロディの果たす役割を意識したものである。英詩という異文化
を自文化の日本語の詩へと翻訳するにあたっては、具体性としての英詩を素材としながらも、抽
象性の「サウンド」により実体を感じ、共感し、依存することとなった。つまり、サウンドこそ
が異文化から自文化へとリンクする、いわば架け橋となってくれたのである。
例えば、1の「遥かな祈り」
(From A Distance, 1990)の翻訳にあたっては、コーラス部分の“God
is watching us, God is watching us, God is watching us, from a distance”という繰り返しフレー
ズに、共感と和訳の両面で苦慮した。英詩が描く視覚的情景を超えた、精神的かつ宗教的世界に
圧倒されそうになったのである。宇宙空間にぽっかりと浮かぶ青く美しい地球、それを遥かかな
たから「神」が見守っているというのである。それだけに、美しいメロディと歌い手ベッド・ミ
ドラー(Bette Midler)のつややかな歌唱が生み出す、宗教的フレームに縁取られた社会的メッ
セージの息吹が、日本語への転換作業をあと押ししてくれたと思える。
2の「かけがえのない愛」
(Greatest Love of All, 1985)はアメリカの独立精神を具現化したも
のといえるが、アメリカの歌姫(Diva)の一人であり、アフリカ系アメリカ人の歌い手ホイット
ニー・ヒューストン(Whitney Houston)の存在も対訳に際して大きな推進力となった。特に、
第 3 連の最後のフレーズ、”No matter what they take from me, they can’t take away my
dignity.”は、かつての黒人奴隷の絶望的な心境を代弁しているともいえ、歌い手の力強い熱唱の
陰に切なさが痛感され、自文化への翻訳に限界が感じられた。それでも、教会のゴスペル歌手と
して鍛え抜かれたヒューストンが歌い上げる英語のフレーズを対訳していく中で、歌い手と筆者
の感性が交差するのを実感することもできた。
また、
『音楽で異文化コミュニケーション』が自文化だけの条件においても自分史を奏でる教材
となりうることを、一人のアメリカ人女性(80 歳)の以下のコメントが示している。
「『音楽で異
文化コミュニケーション』の 20 曲をたどることによって、自分の人生の多くの思い出が蘇り、心
が満たされ、かつ癒される思いがした。4)」おそらく、アメリカ史を投影する 20 曲それぞれの具
体性(歌詞)と抽象性(メロディ)が統合され、彼女の感性に届き、それまでの人生を一つの「も
のがたり」として奏でたのではないだろうか。
2.「アメリカ」を歌うアメリカ音楽
2.1.矛盾を抱えて出発したアメリカの音楽
アメリカの音楽は、清教徒が英国より持ち込んだ教会音楽(psalm)を主流としながらも、植
民地時代から先住アメリカ人やアフリカ人の異文化の音楽と接触しながら進化してきた。特にア
フリカからもたらされたものについて、奥田(2005)は「西アフリカを中心とした地域から自ら
の意思に反し、強制的にアメリカ大陸に連れてこられ、労働を強いられた黒人奴隷たちの音楽伝
統」と表現し、それが「黒人のスピリチュアルズにやがて具現し、ひいてはゴスペル音楽や、娯
楽音楽としての『ミンストレル・ショー』にあらわれ、遂にはブルーズ、ラグタイム、ジャズに
結実することになるのである。」(p. 82)と論じている。
南北戦争前のアメリカにおいて最大の大衆娯楽だった、顔を黒塗りした(blackface)白人芸人
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によるミンストレル・ショーは、黒人の生活を揶揄するところから始まった。エメット(Danniel
Decatur Emmett, 1815-1904)5)作の De Boatman’s Dance((船乗りダンス) は、バンジョーと
タンバリンをバックに陽気に歌い踊る。また、ライス(Thomas “Daddy” Rice, 1808-60)が創作
した「ジム・クロウ」
(Jump Jim Crow)6)は、田舎者の黒人が飛び跳ねるように踊るスタイルだ
った。こうして生み出されたミンストレル音楽やタップダンスは、後のヴォードビル、さらにミ
ュージカルへと進化していく。また、シンコペーションのリズムはラグタイムを生み出したとさ
れ、ラグタイム王という別名も持つスコット・ジョップリン(Scott Joplin, c.1867-1917)の「メ
ープル・リーフ・ラグ」
(Maple Leaf Rag, 1899)はその代表作である。
18 世紀後半になると黒人の人口は増加し、アメリカ革命前夜にはアメリカ全人口のほぼ 19%
を占めるようになり、1790 年の合衆国初の国勢調査では 80 万人の黒人の居住が記録され、1860
年には約 440 万人にふくれあがったという。そしてその最大の影響は、音楽だったのである(奥
田、2005)。また、アフリカ音楽の特徴はそのリズム感覚にあったが、黒人奴隷の労働歌はスピ
リチュアルズを生み出し、そのスピリチュアルズが教会での礼拝に使われ、ゴスペル音楽への道
となった。マリアン・アンダーソン(Marian Anderson, 1897-1993)が歌う「誰も知らない私の
悩み」(Nobody Knows the Trouble I See, 1947 年)は、黒人霊歌の代表歌といえる。
ポピュラー音楽の先駆者であるスティーブン・フォスター(Stephen Collins Foster, 1826-64)
は、ミンストレル・ショーの舞台を利用することにより、アメリカ初のプロのポピュラーソング
ライターとなった。ピッツバーグ近郊を出身とするフォスターの旋律について、奥田(2005)は
「イギリス・アイルランド系で 5 音階を多用した民謡風な旋律 」(pp. 97-98)という。『音楽で
異文化コミュニケーション』において 12 の「故郷の人々」
(Old Folks at Home, 1851)は、フォ
スターにとっては未知の地であった南部のスワニー川を主題にしたもので、クリスティ・ミンス
トレル座のために黒人なまりの歌詞で書かれ、空前の大ヒットとなった。
しかし、ヨーロッパの「お上品な伝統」(genteel tradition)と対極にあったミンストレル歌の
作者として紹介されることを恐れたフォスターは、わずかな金額で作家名をクリスティ(Edwin P.
Christy, 1815-62)に譲ってしまい、楽譜(sheet music)の表紙には「クリスティ作詞・作曲」
と記載されていた。レコード産業が存在しなかった当時、音楽ビジネスはピアノ演奏用の楽譜だ
けであった。一般大衆の最大娯楽であったミンストレル・ショーの舞台は、フォスターにとって
も、アメリカのポピュラーミュージックの普及にとっても必要不可欠な場だったのである。
さらに、奥田(2005)は、アメリカ以外では発生し得なかった音楽としてカントリー音楽をあ
げ、それが「ヒルビリー」からプレスリーの音楽へとつながっていくと指摘する(p. 250)。ボー
トン(2002)は『エルヴィスが社会を動かした―ロック・人種・公民権』(前田絪子訳)におい
て、ハンク・ウィリアムズ(Hank Williams, 1923-53)の言葉を以下のように引用する。
僕は、大衆を
最高の人間
と呼ぶね。なぜって、世界を構成している大多数は、大衆だ
からさ。実際に世界を動かしているのは、大衆なんだ。アメリカでも外国でも同じことさ。
彼らは僕らの歌がわかる。だから、僕らが歌う歌が、世界中に広まった。今、僕らの歌が
大流行するのも不思議はない。なぜって、僕らのような人間のほうが、教養ある知的な連
中よりも、はるかに多いんだからね。. . . 普通のアメリカ人がじっさいどんなふうなのか、
何よりも的確に伝えられるものだからさ。(p. 29)
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2.2.複雑な様相のアメリカ音楽
長田(1996)は「アメリカは歌の国だと思う。人びとのあいだに、アメリカの心をそだててき
たのが歌だ。アメリカの歌がうたってきたのは、つねに一つの主題だ。アメリカだ。そのアメリ
カとは、それぞれにとっての『私のアメリカ』だ」と述べ、アメリカの 3 つの心の歌として以下
をあげている。
1)フォスターの歌(Foster’s Songs)
2)「アメリカ・ザ・ビューティフル」(America the Beautiful)
3)「アメージング・グレース」(Amazing Grace) (pp. i-ⅳ)
1)のフォスターの歌の「アメリカ化」については、
「懐かしのケンタッキーの我が家」
(My Old
Kentucky Home, 1853)がケンタッキー州歌(1928 年)、「故郷の人々」がフロリダ州歌(1935
年)に制定されており、一人の音楽家の 2 曲がアメリカの州歌となっているのはフォスターだけ
である。さらに 1937 年にはピッツバーグ大学構内に「フォスター記念館」(Stephen Foster
Memorial)が建設され、1951 年にはアメリカ連邦議会によって、フォスターの命日である 1 月
13 日が「フォスターの日」(Foster’s Day)として決議されている。
2)の「アメリカ・ザ・ビューティフル」は 1882 年、ベイツ(Katherine Lee Bates, 1859-1929)
の詞にウォード(Samuel A. Ward)が作曲したもので、ベイツは 14,000 フィートのパイク峰
(Pikes Peak, Colorado)から見て感激したアメリカの自然の美しさを詩にしたという。これは
アメリカの大学の卒業式でもよく歌われ、
『ゴッド・ブレス・アメリカ』
(前掲)でもフランク・シ
ナトラ(Frank Sinatra, 1915-98)の歌で9曲目に収録されている。
3)の「アメージング・グレース」は 1760 年代、かつて奴隷船の船長だった英国の牧師ジョン・
ニュートン(John Newton, 1725-1807)によって作詞され、作曲者不明となっている讃美歌であ
る。これは移住した英国人とともにアメリカに渡り、讃美歌やゴスペルとしてアメリカ化してい
る。『ゴッド・ブレス・アメリカ』(前掲)ではゴスペル歌手トラメイン・ホーキンス(Tramaine
Hawkins)の歌が 4 曲目に収録されている。
長田(1997)は、チャールズ・アイヴズ(Charles Ives, 1874-1954)をテーマにし、複雑な諸
相のアメリカ音楽を背景にして次の詩を書いた。
ニューイングランドの人
音楽をバッハに学び、同時に愛すべき
「草競馬」のフォスターに学んだ。
フーガを学び、同時にラグタイムを学んだ。
ブラスバンドの響きに人生の楽しみの
音楽を、教会のオルガンの響きに
精神の悦びの音楽を、同時に見いだした。
花ひらくニューイングランドが故郷だ。
チャールズ・アイヴズの遺した
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鮮やかな音楽は、誰の音楽にも似ていない。
咳にみちた不協和音。答えのない問い。
その音楽からはアメリカの心音が聴こえる。
不抜の人の、不抜の言葉が聴こえてくる。
― 悪い音楽などありうるだろうか?
すべての音楽は、天国からやってくる。
音楽は、音楽というデモクラシーなのだ。
平凡な人生から非凡な真実をとりだすこと。
音楽は生きられた音だ。よい音楽でなくとも。
音が真実なら、うつくしい音楽だ。
(pp. 82-84)
確かに、アメリカ音楽はアメリカの民主主義と表裏一体をなして進化してきたといえるであろ
う。“Doo-dah!”の掛け声で知られる「草競馬」
(Camptown Races, 1850)や前述の「故郷の人々」
など、フォスターの黒人なまりの歌曲は同時代を投影するものであった。中村(1999)も、「プ
ランテーション・ソングこそ 19 世紀アメリカならではの新しさをもち、20 世紀の音楽につながる
ものであり、フォスターの新しさはこれらの曲に発揮されたのだから」(p. 13)と述べている。
しかし、1990 年代の PC (politically correct:政治的に公正な)時代のアメリカでは、フォスタ
ー音楽は人種差別的ということで公共の場で敬遠されたのである。それが、2001 年 4 月、アメリ
カ PBS が『アメリカの経験』(American Experience)というドキュメンタリー番組で初めてフ
ォスターを取り上げ、フォスターをアメリカ史として共有したのもアメリカのデモクラシーの一
つと言えよう。
2.3.アメリカのポピュラー音楽
奥田(2005)によると、
「20 世紀アメリカが生み出すことになるポピュラー音楽―ラグタイム
に始まり、ジャズ、ミュージカル、ムード音楽、ロック、カントリーなどの音楽―が、時を同じ
くして発達した伝達手段―レコード、ラジオ、映画、テレビ―を媒介として、世界に向けて発信
されるようになり、『アメリカ音楽』は自動的にアメリカのポピュラー音楽をさすようになった。
その理由の一つは資本力と技術力である」(p. 202)という。
『音楽で異文化コミュニケーション』には 20 世紀アメリカ社会を投影する音楽も選曲されてい
る。時代的に見ると、5 の「沈黙の音」
(The Sound of Silence, 1964)は 1960 年代のアメリカ社
会を批判している。詩は各連 7 行からなり、脚韻(rhyme)を効果的に用いているが、第 4 連だ
けは5行目の“But my words like silent raindrops fell”の fell に呼応する 6 行目は詩を伴わない旋
律のみで、次行の“And echoed in the wells of silence”へと効果的に続いている。計算されつくし
たテクニックではあるが、聴き手の感性に訴える部分でもある。
次に 15 の「ホテル・カリフォルニア」(Hotel California, 1976)は、数年後に最初のエイズが
カリフォルニアで発見されることを予言したものともいわれている。1980 年代に入り、14 の「キ
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ング・ホリディ」
(King Holiday, 1986)は、公民権運動指導者キング牧師(Martin Luther King
Jr., 1929-68)の誕生日(1 月 15 日)が、アメリカ初の民間人連邦祝日(1 月第 3 月曜日)と決
議されたことを祝福した歌で、当時としては珍しいラップであった。さらに、6の「ルカ」
(Luka,
1987)ではスザンヌ・ベガ(Suzanne Vega)が児童虐待をテーマにしているが、感情を抑えた
淡々とした歌唱とシンプルなメロディが逆に社会への警鐘を鳴らしているように感じられる。
1990 年代に入り、1 の「遥かな祈り」
(From A Distance, 1990)は、第一次湾岸戦争中の米兵を
元気づけたということで、「グラミー賞」(the Song of the Year)を受賞している。
これまで列記したこうしたポピュラー音楽だけでも、以下の奥田(2005)の主張を反映してい
るといえよう。
このような複雑な諸相を可能にしたのは、アメリカ大陸の途方も無い広さと、そこに 300
年ほどの期間に移住してきた民族の多種多様性だった。彼らおのおのが携えてきた音楽は、
音楽というものが、宗教教義や思想信条にくらべれば本質的に抽象的で、権威による統制
に屈しにくいものであるため . . . 。 新しい環境のもと、より自由な変遷を遂げることが
できたのである。(pp. 290-291)
最近では、2007 年 2 月に「グラミー賞」を受賞したカントリー女性トリオのディキシー・チッ
クス(Dixie Chicks)も注目を浴びた。ブッシュ政権がイラク戦争を開始した 2003 年 3 月、ロン
ドンでの公演中に「自分たちと同じテキサス出身であることが恥ずかしい」とブッシュ大統領を
批判したために、その後激しいバッシングを受け、音楽活動にも支障をきたした。しかし彼らは、
一度は謝罪したものの、2006 年に『回り道をして』
(TAKING THR LONG WAY ) というアル
バムを出し、その中の一曲「引き下がるわけにいかない」
(Not Ready to Make Nice)、で「私は
今も怒っている」と主張し、今回の受賞につながったという(「星条旗」、2006;
「第 49 回」、2007)。
2.4.グローバル化からトランス・カルチュラルへ
アメリカのポピュラー音楽のグローバル化は、ビジネス面のみでなく、世界的メッセージとい
う意味も持つようになっている。
『音楽で異文化コミュニケーション』において 7 の「想像してご
らん」
(Imagine, 1971)はジョン・レノン(John Lennon)、10 の「ハッピー・クリスマス」
(Happy
Xmas :War Is Over, 1971)は ジョン・レノンとオノ・ヨーコによるベトナム戦争反戦歌として
世界に訴えたものとしてよく知られている。
また、8 の「世界は一つ」
(We Are the World, 1985)は、アフリカの飢餓救済のためにアメリ
カの著名なアーティストたちが 1985 年 1 月 23 日夜、ロス・アンジェルスのスタジオに結集し、
『アフリカ支援アーティスト連合』USA (United Support of Artists) for Africa というバンド名
のもと徹夜で収録したものである。歌のレコードと収録状況を録画したビデオも無償で製作され、
売り上げは全て救済資金に当てられた。画期的ともいえる特徴の一つは、ライオネル・リッチー
&マイケル・ジャクソン(Lionel Richie & Michael Jackson)の担当した作詞・作曲からクイン
シ・ジョーンズ(Quincy Jones)が担当した合唱指揮にいたるまで、アフリカ系アメリカ人がリ
ーダーシップをとったということである。
さらに「世界は一つ」は、ポピュラー音楽の世界的貢献という視点でも意義深いプロジェクト
であった。製作ビデオの収録インタビュー(1985)におけるミュージシャンたちの言葉が印象的
である。提案者の一人、ハリー・ベラフォンテ(Harry Belafonte)の「一人ひとりが行動するこ
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とが大切」、ベッド・ミドラー(Bette Midler)の「自分のほんの気持ち(my little bit)を示し
たかっただけ」、レイ・チャールズ(Ray Charles, 1930-2004)の「参加する機会を与えられてう
れしい」、ブルース・スピリングスティーン(Bruce Springsteen)の「死にそうな人のために一
晩あけてくれ、といわれたらノーとは言えないだろう」など、
「アメリカ」という多文化社会の真
のパワーを感じさせるものである。
その後、1989 年のベルリンの壁崩壊、ソビエト連邦の解体、世界の大激動、ポスト冷戦時代を
経て、2001 年の「9.11」で世界は新たな時代に入り、アメリカのポピュラー音楽模様も多様
化している。しかし、奥田(2005)が主張するように、「過去 300 年あまりの間に、さまざまな
音楽の共存を許し、それらの触れ合いと反発の間に新しい表現法を育み、それを『アメリカの音
楽』として育ててきたこの国は、今後も巨大な実験室として、今までに増しての混沌の中から、
アメリカならではの何かを生み出していく潜在力を保っているように思われる」
(p. 292)のであ
る。
さらに、入江昭(2005)は「グローバル化がトランス・ナショナリズム(国境を越えたつなが
り)を助長すれば、やがては文明間の境界も低くなって、いわばトランス・カルチュラル(文化
の領域を超えた流れ)な動きを作り出す世界が誕生するかもしれない」(p. 205)という。事実、
アメリカのポピュラー音楽はアメリカン・デモクラシーの一つとしてアメリカの負の遺産も包含
しており、アメリカ文化の中でも最もトランス・カルチュラルな気質とベクトルを担っているよ
うに思える。
著者は 2006 年夏、イエール大学構内で日本の歌をメロディとともに英訳という逆の異文化翻
訳を体験した。「英国芸術センター」
(the Center for British Arts) 前の鋪道で、ボブ・ディラ
(Blowin’ in the Wind, 1963)をギター伴奏で歌っている
ン(Bob Dylan)7)の「風に吹かれて」
ストリート・ミュージシャンを見かけ、聴き入った。その後、
「日本の歌で知っている曲はないで
すか」と尋ねたところ、彼は少し考え、
「子供時代によく聴いていた歌だけど」とギターを爪弾き、
英語で歌い始めた。故坂本九の「上を向いて歩こう」(1961 年)だった。
聞くと、SUKIYAKI(1963 年)という英語タイトルも日本語の原題も歌詞も知らないという。
そこで、記憶をたどりながら日本語の歌詞を英訳し、歌い手の悲劇的最期も伝えた。彼は「やっ
ぱり日本の歌だったのか。子供時代の懐かしい歌について知ることができてうれしい。ありがと
う」と再演奏してくれた。半世紀前の日本のヒット曲が、21 世紀のアメリカ東部で演奏される現
場に立ち会い、
「上を向いて歩こう」がトランス・カルチュラルな存在として世界に共有されてい
ることを実感した。
3.音楽と癒し
音楽と癒しについて、主に知性に訴える精神性、魂に働きかける宗教性、心に共鳴する感性と
いう 3 つの視点で捉え、異文化コミュニケーションに果たす音楽の力を考察してみたい。
3.1.精神性
『音楽で異文化コミュニケーション』において精神性をアピールする楽曲としては、16 の「愛
のバラ」(The Rose, 1980)、2 の「かけがえの無い愛」(Greatest Love of All, 1985)、3 の「みん
(Wings beneath
な一緒なら」(If We Hold on Together , 1988)、17 の「私の翼を支える風のように」
52
my Wings, 1989)、4 の「新しい世界」(A Whole New World, 1992)をあげたい。たとえば「み
んな一緒なら」は、自立を促すとともに友情と結束を描いており、2005 年、自然の叡智をテーマ
にした『愛・地球博』の記念 CD アルバム『グローバル・ハーモニー』(GLOBAL HARMONY)
にもダイアナ・ロス(Diana Ross)の歌で収録されている。
ただ、前述したように、多くの歌詞にはアメリカ史やアメリカ社会が投影されており、詩の言
葉だけで解釈し、異文化間の違いを埋める翻訳をすることは容易ではない。それでも、複雑な諸
相をもつアメリカ音楽が持つ普遍的な精神性は確かに共感できるであろう。重要なのは、正しい
理解を得るために2つの言語と文化の間を、心と魂を携えて何度も行ったり来たりすることであ
る。
3.2.宗教性
日野原と湯川(2004)は「音楽は魂に直接働きかける力を持っている」
(p. 54)と主張するが、
宗教性のある音楽ほど魂に働きかけると予想される。
『音楽で異文化コミュニケーション』におい
て、9 の「小さな少年鼓手」(The Little Drummer Boy, 1958)8)はクリスマスの真髄をシンプル
に描いた歌といえる。その内容は、イエス・キリストの誕生を祝うための贈りものがない貧しい少
年が、代わりにドラムを叩いて贈りものにすると、赤ん坊のキリストが少年と太鼓に微笑んだと
いうものである。前述の「世界は一つ」の企画が 1984 年のクリスマスの時期に出され、翌年 1
月 23 日にプロジェクトが実行されたのも想像に難くない。
また、2.2.でも前述した 11 の「アメージング・グレース」について、奥田(2005)は、
「『讃
美歌21』、第 451 番『くすしき恵み』として歌われているが、ニュートンが意図した曲想は、は
るかに激烈な感情を宿したものだったようだ」
(p. 76)と述べている。一説によると、ジョン・ニ
ュートンが奴隷船の船長時代、船上で耳にした奴隷たちが口ずさむメロディが、その旋律のもと
だったのではないかという。
3.3.感性と音楽療法
日本音楽療法学会によると、音楽療法とは「音楽のもつ生理的、心理的、社会的働きを用いて、
心身の障害の回復、機能の維持改善、生活の質の向上、行動の変容などに向けて、音楽を意図的、
計画的に使用することをさすものとする」9)と定義づけられている。日野原・湯川(前掲)は「人
間は、言葉にならない心の動きが音楽によって流れる、という特権を持っているということでは
ないでしょうか」
(pp. 61-62)と言い、音楽療法で遭遇した奇跡の数々を述べている 10)。さらに、
「なぜ音楽は人を癒すのか」と問いかけ、
「音楽は人間の心・体・魂、全てに働きかける」とした
上で、「音楽こそ心と心のコミュニケーションに絶大な力がある」( p. 217)と強調する。
一方、湯川れい子は「和音・演奏・祈りは心の薬そのもので音やリズムやハーモニーに込めら
れたメッセージを身体全体で受け止める」
(日野原、湯川、2004、p. 76)と述べている。つまり、
精神性と宗教性が、メロディを伴うことによって人の感性に届くということであろう。
『音楽で異文化コミュニケーション』では、19 の「ヒーロー」(Hero, 1993)はその代表作と
いえ、『ゴッド・ブレス・アメリカ』(前掲)にもマライヤ・キャリー(Mariah Carrey)の透明な
歌声で 3 曲目に収録されている。また、18 の「あなたと生きて」
(In My Life, 1988)は、もとも
とジョン・レノンとポール・マッカートニー(Paul McCartney)の作品であるが、映画『フォー・
53
ザ・ボーイズ』
(For The Boys, 1991)の挿入歌として、ベトナム兵を慰問する歌手を演じるベッ
ド・ミドラーの静かな歌声が心にしみる。
20 の「何と素晴らしき世界」(What A Wonderful World, 1967)は、ルイ・アームストロング
(Lois Armstrong, 1901-1971)の歌で知られているが、ベトナムの戦場に派遣されたラジオ DJ
を主演とする映画 『グッド・モーニング、ベトナム』(Good Morning, Vietnam, 1988)の挿入
歌となった。緑の樹木に花、青い空を彩る虹の橋、赤ん坊の泣き声に託す未来への希望、行き交
う人々の交わす“How do you do?”という挨拶など、平凡ながら平和な日常生活を描ききっている。
『グローバル・ハーモニー』
(前掲)のトップをルイ・アームストロングのハスキーな歌声が飾っ
ている。さらに、ロッド・スチュアート(Rod Stuart)のアルバム『偉大なアメリカン・ソング・
ブック第 3 巻』(THE GREAT AMERICAN SONGBOOK Volume III , 2004)の 4 曲目にも収録
されており、この歌がアメリカの心の歌の一つであることが感じられる。
このように、アメリカの歌に込められたメッセージを紐解き、
『音楽で異文化コミュニケーショ
ン』の 20 曲に投影されたアメリカ史やアメリカ文化を読み取り、さらに原詩をメロディに乗せて
異文化翻訳することは、有意義な異文化コミュニケーションになりうる。それと同時に、日本人
にとって音楽とはどういう存在なのだろう、という問いが頭をもたげてくるのである。
4.日本人と音楽
4.1.西洋音楽との出会い
日本人と西洋音楽との出会いの第一の波は、16 世紀中期、キリスト教宣教師ザビエル(St.
Francis Xavier, 1506-52)がもたらした讃美歌とカトリック圏の音楽であった。その後、徳川幕
府によって 200 年以上にわたり鎖国政策が続く。第2の波はオランダからバタヴィアを経て江戸
鎖国時代の長崎・出島に到達した音楽である。そして、第3の波は 1853 年のペリー(Commodore
Perry, 1794-1858)提督の来航で、黒船の軍楽隊は讃美歌からクラシック音楽まで奏楽活動を行
い、また艦上での日米の交歓会ではミンストレル・ショーも披露されたという(笠原、2001)。
フォスターの「おお、スザンナ」(Oh, Susanna, 1848)は、「ゴールド・ラッシュ」に沸くカ
リフォルニアに向かう「49 年組」(49ers)が替え歌にしてマーチング・ソングとなり、その後太
平洋を越えて、日本、中国、インドへと渡っていった。徳川幕府の侍の中には、艦上で披露され
たこうしたミンストレル・ショーのバンジョーのリズムに合わせて踊り出す者もいたという(笠
原、2001)。1854 年、日米友好条約が締結され、幕末の混乱をへて 1868 年、日本は明治維新を
迎える。
4.2.音楽教育―文部省唱歌(唱歌)
小泉文夫と團伊球磨(2001)は日本の音楽教育について以下のように述べている。
ある民族の音楽文化は音楽だけでなりたっているものではなく、言葉だとか、身体的運動
だとか、さらには自然環境、歴史的風土、社会的習慣など、要するに、その民族の文化全
体と密接な関係の中で育ってきているはずなのに、そういうことをほとんど考慮せずに、
明治以来、西洋音楽を基本とする音楽教育が、国家的な規模で行われてきました。(p. 11)
1872 年(明治 5 年)の「学制」によって日本に近代教育制度が制定され、音楽も「唱歌」とし
54
て学校教育に導入されることになった。問題となったのは、日本の音楽の伝統音階は西洋の7音
音階の 4 音と 7 音、つまりファとシのない「ヨナ抜き長音階」に最も近く、音符化は困難だった
ということである。当時、西洋音楽の導入に関しては洋楽派と儒教派の賛否両論があり、最大の
難関は、7 音音階と 5 音音階をどう和洋折衷させるかにかかっていた(猪瀬、1994)。
1875 年、文部省は伊沢修二(1851-1917)をアメリカに留学させ、日本の音楽教育の方法を探
らせた。伊沢はマサチューセッツ州立ブリッジウォーター師範学校で学びながら、ボストン市の
公立学校音楽監督であるルーサー・メーソン(Luther Whiting Mason, 1828-96)11)にも教えを
受け、1878 年に帰国した(宮下、2005)。
とりしらべがかり
1879 年、文部省は伊沢を「御用掛」とする「音楽 取 調 掛 」を設立し、日本及び海外の伝統音
楽の研究、教科書用の選曲と編集、日本の「国楽」を生み出すための音楽教師の養成に乗り出し
た。1880 年 3 月、 伊沢は米国よりメーソンを招聘し、西洋音楽の伝習と日本人が歌いやすい音
楽教科書の編纂を求めた。メーソンは 1882 年 7 月までの約 2 年という滞在期間に、音楽師範学校
の音楽教師研修プログラムも作成した。そして、1881 年から 1884 年にかけ、伊沢修二編の文部
省検定唱歌集『小学唱歌集』全 3 巻が出版されたが、文部省の唱歌の歌詞は訳詩ではなくオリジ
ナル詩であった。特に、1881 年出版のメーソン主管による『小学唱歌集初編』は、世界各国の歌
曲や民謡で編纂され、ファとシの少ないスコットランド民謡も含まれていた。実はこの中に多く
の讃美歌が忍び込んでいたことも判明している(安田、1993)。
こうして、日本の音楽教育は、西洋音楽の旋律に日本語の歌詩を添えた文部省唱歌として始ま
ったが、作詞名は伏せられ、文部省唱歌という呼称でのみ掲載された。1885 年、音楽取調掛から
一期生 23 名が卒業し、日本の音楽教育の基礎作りを目指して全国各地に赴いた。1887 年、音楽
取調掛は東京音楽学校(後の東京芸術大学)と改名し、伊沢は初代の校長となった(宮下、2005)。
4.3.スティーブン・フォスターと日本人
フォスターの音楽がアイルランドやスコットランド民謡に源をもつことを考えると、フォスタ
ーの歌曲が文部省唱歌として導入されたのも不思議ではない。1888 年、初めて「故郷の人々」が
「哀れの少女」という邦題で『明治唱歌第 2 集』に掲載された。2 曲目は 1903 年に「主人は冷た
き土の中に」
(Massa’s in the Cold Ground, 1852)、3 曲目が 1931 年に「オールド・ブラック・
ジョー」(Old Black Joe, 1860)、4 曲目は 1935 年に「懐かしのケンタッキーの我が家」が掲載
された。
また、
「故郷の人々」は讃美歌としても歌われたが、後のオリジナル唱歌の作曲家にはキリスト
教の影響を受けた者も多く、その一人岡野貞一(1878-1941)は国文学者の高野辰之(1876-1947)
と組み、
「紅葉」
(1911 年)、
「故郷」
(1914 年)、
「朧月夜」
(同)を生み出している。猪瀬直樹(1994)
は、
「『故郷』のメロディには讃美歌の音階が忍び込んでいるのではないか」
(p. 110)と指摘する
が、ピッツバーグ大学フォスター記念館の館長ルート(Deane L. Root)博士も同意している。や
がて、1920 年代後半になると、子供向けにわかりやすい歌詞のオリジナル歌が書かれ、文部省唱
歌と区別して童謡と呼ばれた(宮下、2005)。
しかし、1931 年の満州事変から日中戦争、さらに 1941 年の真珠湾奇襲による太平洋戦争の勃
発により日本は世界大戦に突入し、フォスターの歌曲も敵国の音楽として公共の場での演奏や放
送が禁じられ、フォスター音楽も適性音楽として約 1 年半の間排除された。そして、1945 年の敗
55
戦後、アメリカの GHQ(連合軍総司令部)が日本を占領するなか、1947 年に上演された戦後初
のミュージカルは、フォスターの生涯を題材にした『マイ・オールド・ケンタッキーホーム』で
あった(杉本、1995)。
このようにフォスターの歌曲は、戦争中の分断時期を除き、明治以降一貫して日本の音楽の教
育課程に組み込まれており、いまだに小学校から高等学校までの文部科学省検定の音楽教科書に、
「故郷の人々」、「主人は冷たき土の中に」、「懐かしのケンタッキーのわが家」、「夢路より」
「夢路より」はフォスター
(Beautiful Dreamer, 1862)などが掲載されている(宮下、2005)。
自身の内面を見つめた標準語の歌で、フォスターの死後発表された。
言い換えれば、日本人にとっての音楽とは、明治の教育制度下での文部省唱歌が基盤となって
いるわけだが、実はその中に多くの讃美歌が忍び込んでいた事実を思うと、内面的特質を持った
文化といえよう。そうした事情から考えても、明治以降、学校教育制度における日本の音楽教育
は、当初導入された西洋音楽と日本古来の邦楽の間隙を埋める作業をも行っていると言えるのか
もしれない。
4.4.日本人の心の歌―外国で紹介したい日本の歌
上記の背景を念頭に、2005 年 6 月、筆者は放送大学鹿児島学習センターの社会人学生(20 代
∼70 代 45 名)に対して、外国で紹介したい日本の歌について質問してみた。その結果、最も多
かったのが「さくらさくら」で 10 人、次が「故郷」
(唱歌)で 7 人、
「赤とんぼ」
(唱歌)が 4 人
であった。続いて、アイドルグループ SMAP(Sports Music Assemble People)の歌で有名な「世
界に一つだけの花」(槇原敬之作詞・作曲・編曲、2002)が 4 人、童謡一般が 2 人で、その後に
1人ずつ、「君が代」、「仰げば尊し」
(唱歌)、「お正月」(唱歌)、「荒城の月」(唱歌:土井晩翠作
詞、滝廉太郎作曲、1901)、「五木の子守唄」(伝承歌)、「紅葉」(唱歌)、「浜辺の歌」(林古渓作
詞・成田為三作曲、1916)、
「かごめかごめ」
(童謡)、
「おかあさん」
(みちたかし作詞・作曲)、
「お
ふくろさん」
(森進一歌)、
「サトウキビ畑」
(寺島尚彦作詞・作曲、1967)、
「ソーラン節」
(民謡)
、
「おはら節」
(同)、「岸壁の母」(1954)と続いた。
また、「おじいさんの古時計」(1 人)も挙げられたが、これはアメリカ人クレイ(Henry Clay
Work, 1832-84)作による Grandfather’s Clock (1876)である。日本では 1961 年、NHK の「み
んなのうた」で紹介され、2002 年の同番組で平井堅が歌って話題となった。恐らくはそのメロデ
ィが、4.3.で論じたように、明治期の「唱歌」を礎石とする音楽教育を通して日本の音楽文
化に根付いた音調と重なることもあり、
「自文化」
(日本の歌)として受け入れられたのであろう。
列挙された歌を概観すると、ふるさとや自然の情景、家族や子供時代など、聴き手の心に、姜
尚中(2006)がいうところの「愛郷心」を思い起こさせるものが多い。実際、フォスターの「故
郷の人々」は、ミンストレルに興ずる移民アメリカ人の共感を誘っただけでなく、家族離散の運
命を余儀なくされた黒人奴隷たちの共感をも誘った。実はフォスター自身が幼くして借家住まい
となり、生涯を通して希求したものが「故郷」
(Home)だったが、同時にそれは母親であり、ま
た自分の内面世界に住み続ける「夢見る人」であった。このように「愛郷心」は時空を超えた普
遍的なものといえる。
挙げられた日本の歌で「世界に一つだけの花」は 21 世紀日本が生み出し、世界に発信した普遍
的な楽曲といえるだろう。自分という個性を肯定的に捉え、希望に満ちた歌詞が軽いタッチのメ
56
ロディで歌われ、第 76 回選抜高等学校野球大会(2004 年)の開会式の入場行進曲にも使われた。
それはまた、いまや日本人と音楽との関係が、明治以降の文部省唱歌に象徴される学校教育とい
う枠を超え、携帯電話の着メロをはじめ、多種多様な媒体を通した個人の自己表現へと変容して
いることを示している。その一方で「上を向いて歩こう」は、日本のナツメロ・ソングというジ
ャンルを超えて、スタンダードなグローバル・ソングとして世界で共有されていると言えるであ
ろう。
湯川れい子は「音楽は愛である」
(日野原、湯川、2004、p. 226)というが、音楽と同様に愛も
抽象性のひとつである。列挙された歌の数々も、聴き手にとっては、実は心に抱きしめている「愛
の記憶」を奏でているのではないだろうか。そして、2.4.で言及したイエール大学の「ボブ・
ディラン」も、数十年のときを経て自らの「愛の記憶」が、新たな異文化の味と香りを帯びて蘇
ったことであろう。
このように、日本語、英語を問わず、言語を「愛の記憶」を呼び起こすメロディとともに解釈
する意義は大きい。たとえば、
「何と素晴らしき世界」の第 5 連に、“I see friends shaking hands,
Saying, ‘How do you do?’ They’re really saying, I love you.”とある。描かれるのは、豊かな自然
と行き交う人々、そして互いを思いやる言葉である。この場面が象徴するように、あらゆるコミ
ュニケーションの本質は「愛」であり、それが言葉となり、メロディが寄り添い、奏でるのであ
る。そうしてみると、メロディが介在する異文化言語を読み解きながら自文化言語へと翻訳する
作業とは、自らの「愛の記憶」を一つの「ものがたり」として紡いでいくプロセスともいえよう。
5.おわりに∼今後の課題と展望
本論では、『音楽で異文化コミュニケーション』に掲載したアメリカ音楽 20 曲とその他の楽曲
を例証しつつ、メロディが奏でる異文化翻訳の意義を日米の異文化コミュニケーションという視
点で考察した。まず、アメリカ音楽の異文化翻訳を、英詩から和訳という具体性とメロディとい
う抽象性が統合された感性と捉えた。次に、音楽とアメリカ、音楽と癒し、さらに音楽と日本人
との関係を概観し、人間にとって音楽という存在意義を捉え直した。その上で、アメリカ音楽を
使った異文化翻訳は日米の異文化コミュニケーションという視点で有意義であることを論じた。
変容し続けるアメリカ社会と連動するアメリカ音楽は、いまなお進化し続けており、日本人に
とって今後も「アメリカ」を読み解く一つのテーマであり続けるであろう。今後の課題の一つと
して、『音楽で異文化コミュニケーション』の 20 曲の選曲法を見直し、メロディを伴う異文化翻
訳の意義をより明確にすることが必要に思える。また、
「アメリカ」を読み解く手段として、アメ
リカのさらなる「ものがたり」を紡ぎだす新たな楽曲を選曲し、アメリカン・メロディが奏でる感
性の異文化翻訳の可能性を展望したい。
註
1)
2)
本論は、日本コミュニケーション学会九州支部第 13 回大会(2006 年 9 月 16 日、福岡医療短期大学)にて口
頭発表したものに加筆したものである。二人の査読の先生方及び編集委員長の吉武正樹先生には本稿を丁寧
に読んでいただき、貴重なご意見とご指摘を頂戴した。先生方の適切なご助言に対し、心からの謝辞を申し
上げたい。
日野原重明(1911 年∼)日本基督教団所属。1995 年の地下鉄サリン事件の際、大災害や戦争の際にも機能
できる病院として設計されていた聖路加国際病院は、日野原の判断により直ちに当日の全ての外来受診を停
止して被害者の受け入れを無制限に実施し、被害者治療の拠点となった。また、2005 年 10 月 21 日、広島市
57
において指揮者の小澤征爾とともに『世界へ送る平和のメッセージ』というコンサートを行った。
GOD BLESS AMERICA- For the Benefit of the Twin Towers Fund (2001 年 10 月 16 日)
2006 年 8 月バージニア州チェサピーク市にて、Mrs. Grace McCormick の言葉から引用。
エメット率いる「バージニア・ミンストレル」が 1843 年に行ったボストン公演が、完全な形でのミンストレ
ル・ショーの初演とされる。当初の公演は北東部の都市中心であったが、ゴールド・ラッシュに伴い西部へも
進出した。エメットは後の「ディキシー」(Dixie’s Land)でも知られる。宮下(2005、p. 7)からの引用。
6) 南北戦争後 1950-60 年代まで、ジム・クロウ法(黒人差別法)として用いられた。
(バーグマン、2007、pp. 12-14)
7) 2006 年 9 月発売のアルバム Modern Times が初登場で Desire(1976)以来 30 年ぶりにヒットチャートの1
位となった。
8) 合唱団の指揮者であったハリー・シメオン(Harry Simeone: 1911-2005)が、宗教音楽作曲家のキャサリン・
デイヴィス(Katherine K. Davis: 1892-1980)とヘンリー・オノレイティ(Henry Onorati)と協同で 1958
年につくったという。
9) 日本音楽療法学会 http://www.jmta.jp/ からの引用。2006 年 7 月 2 日アクセス。
10) パーキンソン病の患者に「ワルツをかけて踊りましょう」と、踊り始めると、固まっていた体が、フワーッ
となって硬直がとれる。が、やめると 3 分くらいでまた硬くなる。また、脳卒中で 2 年間失語症の患者に、
好きだったカラオケをかけたところ「アー」と声が出て、やがて歌に言葉が乗ってきた。さらに、
「ありがと
う」などの挨拶も出るようになった (日野原、湯川、2004、pp. 63-65)という。
11) メーソンはニュー・イングランドで深い信仰にあふれた性格を育み、異教徒の世界の状況に強く心を動かされ、
宣教師になる決心をした。しかし、不幸なことに、言葉に障害を持っていたために実現できなくなった。安
田(1993、pp. 71-72)からの 引用。
3)
4)
5)
引用文献
猪瀬直樹(1994)『唱歌誕生』文藝春秋社。
入江昭(2005)『歴史を学ぶということ』講談社。
奥田恵二(2005)『「アメリカ音楽」の誕生―社会・文化の変容の中で』河出書房新社。
長田弘(1996)『アメリカの心の歌』岩波書店。
長田弘(1997)詩集『黙されたことば』みすず書房。
笠原潔(2001)『黒船来航と音楽』吉川弘文館。
姜尚中(2006)『愛国の作法』朝日新聞社。
小泉文夫・團伊球磨(2001)『日本音楽の発見』平凡社。
杉本皆子(1995)『フォスターの音楽』近代文芸社。
「星条旗と市民―ブッシュ批判の歌手を攻撃―」2006 年 9 月 9 日、朝日新聞、p. 8。
「第 49 回グラミー賞
反戦発言の歌手 5 冠」2007 年 2 月 14 日、朝日新聞、p. 29。
中村とうよう(1999)『ポピュラー音楽の世紀』岩波書店。
バーグマン、ジェームズ、M.(2007)水谷八也訳『黒人差別とアメリカ公民権運動―名もなき人々
の戦いの記録』 集英社。(オリジナル出版 2007)
日野原重明、湯川れい子(2004)『音楽力』海竜社。
ボートン、マイケル、T.(2002)前田絪子訳『エルヴィスが社会を動かしたーロック・人種・公
民権』青土社。(オリジナル出版 2000)
宮下和子(2005)
「日本人の知らないスティーブン・フォスター」
『九州コミュニケーション研究』
第 3 号、1-16。
宮下和子(2006)『音楽で異文化コミュニケーション』鹿屋体育大学外国語教育センター。
安田寛(1993)『唱歌と十字架―明治音楽事始め』音楽之友社。
Malley, H. & Golin, C. (Producer). (1985). We Are the World—The Story behind the Song
[Laser Disc]. Golin-Malley Productions.
58
付録1
『音楽で異文化コミュニケーション』
(宮下、2006)掲載曲一覧(原題と邦題)
1
From a Distance
「遥かな祈り」
2
Greatest Love of All
「かけがえの無い愛」
3
If We Hold on Together
「みんな一緒なら」
4
A Whole New World
「新しい世界」
5
The Sound of Silence
「サウンド・オブ・サイレンス」
6
Luka .
「ルカ」
7
Imagine
「想像してごらん」
8
We Are the World
「世界は一つ」
9
The Little Drummer Boy
「小さな少年鼓手」
10
Happy Xmas
「ハッピー・クリスマス」
11
Amazing Grace
「アメージング・グレース」
12
Old Folks at Home
「故郷の人々」
13
Beautiful Dreamer
「夢見る人」
14
King Holiday
「キング・ホリディ」
15
Hotel California
「ホテル・カリフォルニア」
16
The Rose
「愛のバラ」
17
Wind beneath My Wings
「私の翼を支える風のように」
18
In My Life
「あなたと生きて」
19
Hero
「ヒーロー」
20
What A Wonderful World
「何と素晴らしき世界」
付録 2
Discography (音盤一覧:掲載順)
Celine Dion (2001). God Bless America on God Bless America - For the benefit of the twin
towers fund [CD]. Sony Records International Inc.
Bette Midler (1993). From A distance on Experience the Divine [CD]. Warner Music
Manufacturing Europe.
Whitney Houston (1985). Greatest Love of All on Whitney Houston [CD]. Arista Records Inc.
Dan Emmett (1985). De Boatman’s Dance (Recorded by Robert Winans) on Recorded
Anthology of American Music [CD]. Courtesy of New World Records Inc.
Scott Joplin (1897/1996). Maple Leaf Rag on And the Beat Goes on [CD]. Sony Music
International Inc.
Marian Anderson (1947/1999) Nobody Knows the Trouble I See.『マリアン・アンダーソン 深い
川―黒人霊歌集』[CD]. BMG ジャパン。
Stephen Foster (1997). Old Folks at Home (recorded by Robert Shaw Chorale) on Stephen
Foster Song Book [CD]. Musical Heritage Society, Inc.
Frank Sinatra (1945). America the Beautiful on God Bless America.
Tramaine Hawkins (1994). Amazing Grace on God Bless America.
Stephen Foster. De Camptown Races on Stephen Foster Song Book.
59
Simon & Garfunkel (1964/1999). The Sound of Silence on The Best of Simon & Garfunkel
[CD]. Sony Music Entertainment Inc.
Eagles (1964/1990) Hotel California on Rock Super Artist Best 120 Vol. 9 [CD]. CTA.
King Dream Chorus & Holiday Crew (1986). King Holiday [record]. PolyGram Records Inc.
Suzanne Vega (1987). Luka on Solitude Standing [cassette]. Asm Records Inc.
John Lennon (1975/2000). Imagine on Music of the Millennium [CD]. Universal International
Music.
John Lennon & Yoko Ono (1972/1996). Happy Xmas on Now Christmas [CD]. 東芝 EMI 株式会
社。
USA for Africa (1985). We Are the World [CD]. PolyGram Records Inc.
Bob Dylan (1963). Blowin’ in the Wind on God Bless America .
坂本九(1961/1992)
「上を向いて歩こう」
『叙情歌愛唱歌大全集 12』(カセット)、東芝 EMI 株式
会社。
Bette Midler (1993). The Rose on Experience the Divine.
Diana Ross (1988/2003). If We Hold on Together on Global Harmony [CD]. A Universal Music
Company. Distributed by Victor Entertainment Inc.
Bette Midler (1993). Wings Beneath my Wings on Experience the Divine.
Bing Crosby (1958). Little Drummer Boy on Now Christmas.
Mariah Carrey (1993). Hero on God Bless America .
Lois Armstrong (1961). What A Wonderful World on Global Harmony .
Rod Stuart (2004). What A Wonderful World on The Great American Songbook Vol. III [CD].
J-Records.
Bette Midler (1993). In My Life on Experience the Divine.
Stephen Foster. Oh, Susanna on Stephen Foster Song Book.
Stephen Foster. Beautiful Dreamer on Stephen Foster Song Book.
SMAP(2002)
「世界に一つだけの花」
『SMAP 015 / Drink! Smap!』[CD]、ビクターエンタテイ
ンメント。
60