アメリカにおける黒人人種差別

アメリカにおける黒人人種差別
-真の意味で自由の国へ-
福田邦夫ゼミナール 19 期 渡邊恵
【目次】
Ⅰ.はじめに
Ⅱ.黒人人種差別の歴史
(1)黒人奴隷制度
(2)独立革命
(3)奴隷制度廃止運動
(4)南北戦争
(5)南部再建と黒人人種差別
(6)優れた黒人指導者-フレデリック・ダグラス-
Ⅲ.黒人人種差別の歴史
(1)近代黒人解放運動
(2)公民権闘争
(3)黒人革命
Ⅳ.アメリカにおける黒人人種差別の現状
(1)黒人居住地域ゲットー
(2)政治進出と雇用の現状
(3)アメリカ黒人の文化―懸け橋の音楽―
Ⅴ.終わりに
392
Ⅰ.はじめに
現在、アメリカ合衆国では、総人口の 14%にあたる約 4200 万人(2008 年1)の黒人が生
活しており、黒人ミュージシャン、ハリウッドスター、スポーツ選手などの活躍が各メデ
ィアを賑わせている。更に、2008 年、アメリカ合衆国史上初の黒人大統領が誕生するまで
に至った。しかし、歴史を遡るとアメリカ黒人の歴史は「人種差別の歴史」と言っても過
言ではない。たとえ肌の色が白くても、アフリカ黒人の血が一滴でも混じっていれば「黒
人」と見なされ、社会的、政治的に差別されてきたという事実があるのだ。
遥か昔、何故黒人は人種差別されなければならなかったのか。憲法や法律によって、全
ての黒人が白人と同等のアメリカ市民としての権利を得ることができたのか。現在、アメ
リカ国内で、奴隷の子孫たち-アメリカ黒人たちの立場はどのような位置づけなのか。こ
の先、心理的に残る人種差別の現状をどう変革していけば良いのか。本稿では、黒人人種
差別の歴史を振り返りながら、黒人の権利回復及び真の意味での人種差別撤廃のあり方に
ついて考察していく。
Ⅱ.黒人人種差別の
黒人人種差別の歴史
(1)黒人奴隷制度
1619 年、20 人のアフリカ黒人が植民地労働力として、ジェームズタウン2に輸入された
が、この時すぐに黒人奴隷制度が成立したわけではなかった。イギリス本国による奴隷貿
易の奨励、原住インディアンの奴隷化の失敗、白人年期奉公人制度3への不満が募った結果
として、1641 年から黒人奴隷制度が推し進められ、次第に植民地全土にわたって法令化さ
れていった。北部の奴隷商人の利益と、より一層安価で安定性のある労働力を求める南部
のプランターの利益とが合致した結果、黒人奴隷制度は急速に発展したと言える。
本田創造は「白人年期奉公人制度から黒人奴隷制度の転換にさいして、これを催促した
事情として、黒人は、そもそも熱帯および亜熱帯での労働に適していたこと、インディア
ンとちがって、すでに農業がかなり発達した社会に住んでいたこと、肌の色が黒く逃亡し
てもすぐ見分けができたこと、さらに黒人には、白人が尊重しなければならないような法
1
U.S. Census Bureau(http://www.census.gov/compendia/statab/)参照。2009 年 12 月 16 日閲覧。
アメリカ合衆国ヴァージニア州東部に建設されたイギリス領植民地最古の開拓地で、当時のイギリス国
王の名前をとってジェームズタウンと名付けられた。
(本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書、
1991 年、18 ページ参照。
)
3 白人年期奉公人=イギリス本国で土地を奪われた農民や都市の貧窮民。アメリカ合衆国までの渡航費そ
の他全てを雇用主が負担する代わりに、彼らは、一定期間(5~7 年)植民地の主人の下で隷属的に働くこ
とを年期契約書によって約束させられた。様々な理由をつけて年期が引き延ばされることも稀ではなかっ
たが、自由人になると 1 人 130 エーカーの土地の請求権が与えられた。
(藤本武『アメリカ資本主義貧困史』
新日本出版社、1996 年、298 ページ参照。
)
2
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律上の権利は、いっさい与えなくてよかったこと、などの諸点がよくあげられる。だが、
これほど白人優越=黒人蔑視の偏見に根差した理由付けはない。黒人が、そもそも、本来
的に奴隷労働に適した人間であるというようなことは、事実に反する「神話」にすぎない4」
。
と怒りを露にして述べる。
この制度の下では、プランター達は、商品作物の生産者である黒人奴隷と生産手段であ
る土地とを独占的に私的所有していたため、黒人奴隷の労働力は徹底的に搾取され、労働
生産物(綿花、煙草、砂糖、麻、米など)は全てプランターに帰属した。その一方で、黒
人奴隷には辛うじて生きていく生活手段しか与えられていなかった。
(2)独立革命
植民地人の間にイギリス本国に対する不満が募り、彼らは、
「代表を出さずして課税され
ることはない。
」と自らの権利を主張した。ボストン、フィラデルフィア、ニューヨークな
どでは、イギリス商品不買運動が展開され、更に、職人、労働者、小市民を中心に民衆の
革命組織である「自由の息子たち」の結成により、実力行使の抵抗運動が盛んになり、1770
年、「ボストンの虐殺5」で武力衝突を経て、独立革命は開始されたのだった。
革命の目的は、重商主義に基づくイギリス本国の植民地支配を断ち切って国の独立を勝
ち取ること、植民地の生産力の発展を阻止してきた土地所有における植民地内部の近代的
諸要素を除去することであった。つまり、外圧に対する独立戦争であり、内圧に対する革
命戦争であったと言える。
独立革命は、後のアメリカ社会の近代化-アメリカ資本主義の発展において歴史的意味
があり、その成果も偉大であったが、革命の指導権を握っていたのが北部の商業資本家と
南部の大プランターだったため、結果として、これまで以上の忍従と屈従を原住インディ
アンと黒人に強いることとなった。
「すべての人は平等につくられ、創造主によって、生命、
自由そして幸福の追求を含む、ある侵すことのできない権利を与えられている6」。という、
人民主権、人民革命権、基本的人権を表明した独立宣言の作成過程において、南部のプラ
ンターたちは、北部の商業資本家たちの支持を得て、黒人奴隷貿易禁止の一条項を完全に
抹消してしまった。更に 1789 年、黒人奴隷貿易は、若干の税金を支払えば合衆国憲法によ
って保障されることになり、以前よりも大規模に再生、発展する法的基礎が整ったのだっ
た。憲法による黒人奴隷貿易の保護という事実に対して、本田創造は、
「「黒人は人に非ず」
ということを合衆国憲法が宣したことになる7」。と嘆く。
この結果、北部では自由な農業と自由な労働力に基づく社会が生まれたが、南部では奴
本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書、1991 年、36 ページ。
植民地の民衆とイギリス駐屯兵との喧嘩の結果、イギリス兵の銃弾によって植民地人 5 人が死亡、数名
が負傷した事件。
(前掲書、本田創造、43 ページ参照。
)
6 デイビット・ルー『アメリカ自由と変革の軌跡
建国からオバマ大統領誕生まで』日本経済新聞出版社、
2009 年、31 ページ。
4
5
7
本田創造『アメリカ黒人の歴史
新版』岩波新書、1991 年、48 ページ。
394
隷を動産とする制度に基づく社会が発展していった。
(3)奴隷制度廃止運動
次第に、黒人奴隷は主人である所有者の動産と化し、主人と奴隷の間に人間対人間の関
係はなくなっていった。それと共に、革命的で非妥協的な人々による奴隷の即時、無条件、
全面解放を唱える奴隷制廃止主義(アボリショニズム)が奴隷制廃止運動の基本に据えら
れるようになり、奴隷制度に反対する人々は、白人も自由黒人8も黒人奴隷も皆、真剣に奴
隷制度廃止運動に参加するようになった。ラテン・アメリカ諸国で繰り広げられた独立運
動と奴隷制度廃止、1825 年フランスのハイチ黒人共和国の正式承認、1833 年イギリス領西
インド諸島における奴隷制廃止、ヨーロッパ諸国9におけるブルジョア民主主義革命の進展
などの国際的諸状況が、アメリカの奴隷制度廃止運動に大きな影響を与えていた。
1833 年、フィラデルフィアで奴隷制反対の全国組織である「アメリカ奴隷制反対協会」
が設立され、1840 年までに地方支部 2000、会員支部 20 万人を数えるに至り、
『解放者』
『全
国反奴隷戦旗』など多くのパンフレットや定期刊行物を発行し、奴隷反対の講演会の開催、
議会に大衆的な請願運動などを行った。このような活動は、奴隷制寡頭権力から激しい抵
抗や弾圧、テロを受け、1837 年、イリノイ州オルトンで、奴隷制廃止主義者が南部派の暴
漢に襲われて殺されるという事件が起こったが、殺害者たちは罰せられず、官憲の手で釈
放されたのだった。
自由黒人人口は、独立革命直後に高い増加率を示し、綿花王国を中心とした黒人奴隷制
度の確立と共に低下傾向を示したにもかかわらず、自由黒人の絶対数は徐々に増加し、1860
年には 48 万 8070 人に至った。彼らは、奴隷制度廃止運動に積極的に参加したため、奴隷
制度強化に懸命になっていたプランターたちにとって、自由黒人の増加は奴隷財産の安全
を脅かす大きな脅威であった。1816 年、自由黒人をアフリカに送還することを目的とした
「アメリカ植民協会」が結成されたが、その本質は、黒人はたとえ自由人であっても、白
人社会の中で白人と一緒に生活することはできないという白人優越=黒人蔑視の人種的偏
見に根差したもので、その政策は黒人を隔離し追放することだったが、「植民」と「解放」
が混同され、奴隷制度廃止運動の戦列を混乱させた。このようなアフリカ送還運動に対す
る反対活動として、1817 年、リッチモンドの集会を皮切りに自由黒人による集会運動が各
地で大規模に展開され、1830 年、フィラデルフィアで黒人最初の政治結社ともいうべき「ア
メリカ自由黒人協会」が結成され、奴隷制度廃止運動はますます熱を帯びていった。
このようなことから、黒人、農民、労働者、婦人、ならびに進歩的知識人の統一的な民
主主義運動の中核であった奴隷制度廃止運動は、運動内部における立場の相違や見解の多
奴隷身分から解放された者。独占革命時に軍役に服することによって自由の身になった者、勤勉と貯え
によって主人から「自由」を購入した者、奴隷所有者によって解放された者、更にこのような合法的手段
ではなく、逃亡によって非合法的に「自由」を獲得した者など様々であった。
(前掲書、本田創造、80 ペ
ージ参照。
)
9 トルコ、ギリシア、イタリア、スペイン、フランス、ベルギー、ポーランドなど。
(前掲書、本田創造、
77 ページ参照。
)
8
395
様性にも関わらず、広範囲な奴隷制反対勢力を結集していったところに、大きな歴史的意
義があったと言える。
(4)南北戦争
1857 年、最高裁判所によって、
「黒人ならびにその子孫は、所有者の財産であって合衆国
の市民ではないこと、1820 年のミズーリ協定10は憲法違反であり奴隷財産はこの国のどこ
ででも保護されなければならないこと」という奴隷制度反対勢力にとって許し難い判決が
下された。これを機に、1852 年『アンクル・トムの小屋』の出版、1854 年カンザス=ネブ
ラスカ法成立、カンザス戦争勃発、共和党の成立、1856 年サムナー殴打事件などが起こっ
たが、これらの事件は、独立革命が植民地時代の黒人奴隷制度を廃棄できなかったことに
由来している。北部では、自由な労働を基礎にした近代的資本主義社会が、南部では、前
近代的なプランテーション奴隷制度に基づいた社会が個々に発展し、アメリカ合衆国は、
より強固な分裂状態に陥ったのだった。
1860 年 11 月、エイブラハム・リンカーンが大統領に当選したが、就任は翌年 3 月だっ
たため、この間に南部は、サウスカロライナ州を筆頭に連邦からの分離を次々に宣言し、
合衆国とは敵対関係に立つ「南部連合(コンフェデレート・ステーツ・オブ・アメリカ)」
を組織し、公然と奴隷制度を認める憲法を採決した。
1861 年、内戦勃発直後、リンカーン大統領は、奴隷制度に干渉する意図がないことを強
調し、この戦争の主要目的は、連邦統一であり、
「もしも、私が、一人の奴隷も解放しなく
ても連邦を救えるものなら、私はそうするだろう。また、もしも、私が、すべての奴隷を
解放することによって連邦を救えるものなら、私はそうもするだろう。そして、もしも、
私が、一部の奴隷を解放し他のものをそのままにしておくことによって連邦を救えるもの
なら、私はそうもするだろう11」。と述べていた。しかし、奴隷処置は深刻な問題となった
ため、1862 年、リンカーン大統領は、奴隷解放予備宣言を公布せざるを得なくなった。そ
の内容は、
「反乱諸州が翌年の 1 月 1 日までに連邦に復帰しないならば、合衆国に対し反乱
の状態にある州あるいは州の指定地域内に奴隷として所有されている全ての人々に自由を
与える。」というもので、実質的効果が限定されていたことに政府が奴隷の即時、無条件、
全面解放をためらっていたことが表われているが、1863 年、正式な奴隷解放令として 400
万人にのぼる黒人奴隷の自由を宣言した。
黒人の軍隊参加を願う気持ち、戦場での黒人の必要性から、政府は黒人の軍隊編入を承
認したが、黒人は軍籍に身をおいても給料は白人の半分ほどで、軍服、靴、銃などが支給
されない、肉体労働や雑用ばかりさせられるなど様々な差別を受けた。それにも関わらず、
黒人兵士たちは「人間」として戦える日を待ち望み、戦場では白人兵士に見られないほど
北緯 36 度 30 分のところ(ミズーリ州南沿い)に境界線を儲け、今後、新しくできる諸州に関しては、
この緯度の北側は自由州 、南側は奴隷州という取り決めを行った協定。
(本田創造『アメリカ黒人の歴史
新版』岩波新書、1991 年、110 ページ参照。
)
11 前掲書、本田創造、116 ページ。
10
396
勇敢な働きをしたのだった。
1863 年、リンカーン大統領は、
「人民の、人民による、人民のための政府」をこの地から
滅びさせぬよう、戦死者の霊に誓ったゲッティスバーグ演説を行った。翌年、リンカーン
大統領再選とジョージア進撃作戦の成功によって北部の勝利が最終的に確立し、4 年間に渡
る内戦に終わりを告げた。
(5)南部再建と黒人人種差別
南北戦争後、「黒人や貧しい白人たちを含む民衆のための民主主義を全南部に確立し、新
たな南部社会を建て直す」という大きな課題が残されたが、1865 年、リンカーン大統領の
死によって、アンドルー・ジョンソンが大統領に就任すると、各地で旧奴隷所有者による
政権復帰への動き、実質的な奴隷制度復活の企てが試みられた。サウスカロライナ州知事
のベンジャミン・ペリーは「最高裁判所は、黒人はアメリカ市民ではないとの決定を下し
ている。」と演説で公然と述べ、フロリダ州の奴隷所有者からは「解放令によって黒人奴隷
は自由の身になったと宣言されても、黒ん坊はどっちみち奴隷みたいなものだ12」。という
言葉が自然と出てくるほど白人優越=黒人蔑視の人種主義が根強い中、それまでの「奴隷
法」に代わるものとして、経済的には、黒人を強制労働や不払労働に服させると同時に、
政治的には、黒人の民主化闘争を阻止するという目的で「黒人法」が作られた。黒人は、
奴隷身分から解放されたとは言え、市民的自由も政治的諸権利も獲得していなかったのだ。
南部各地では、ジョンソン大統領の政策に反対し、黒人の自由と権利を獲得するための
大規模な大衆集会が広範囲に渡って展開され、貧しい南部の白人たちも率先してこれに参
加した。この黒人たちの大集会の精神は、共和党議会派の議会活動として表れ、ウィリア
ム・P・フェッセンデンを委員長とする上下両議院 15 名よりなる「再建合同調査委員会」
を組織し、1866 年、黒人にも白人と平等の市民的諸権利を保障するための「公民権法」を
憲法修正第 14 条によって裏打ちすることに成功し、
「解放局13」の期限延長と権限拡大を勝
ち取った。旧南部連合諸州は、連邦軍の支配下に 5 つの軍管区に分けられ、反乱を指導し
た一部白人を除いて、黒人を含む普通選挙に基づいた民主的な憲法制定会議を組織し、憲
法修正第 14 条を推進することによって連邦への復帰が認められることになり、1870 年ま
でに南部諸州は全て連邦復帰を完了した。
1870 年、憲法により黒人にも選挙権が与えられるようになり、黒人公民権侵害に対する
処罰法とも言うべき「強制法」が制定されたため、元奴隷だった南部黒人は、自国で初め
て選挙権を行使することができ、更に、州議会に選ばれて発言することができた。州政府
の各機関に黒人が進出したが、サウスカロライナ州、ルイジアナ州、ミシシッピ州では黒
人の州知事が誕生し、ワシントンの国会にも 14 人の下院議員と 2 人の上院議員が送られた。
更に、黒人たちは、市民的自由の拡大のほかに、女性の権利獲得、税制改革など南部の近
12
13
本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書、1991 年、128 ページ引用。
正式名称は、
「難民、解放民および放棄地対策局」
。
(前掲書、本田創造、131 ページ参照。
)
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代化に必要な諸問題の解決に取り組み、特に黒人を啓発するための教育問題が重視され、
公教育制度を実地すると共に黒人の高等教育機関も設立した。
奴隷制度が廃止され、国内市場として南部が解放されると、
「土地革命を遂行するよりも
南部のプランターと手を組んで、南部を北部資本収穫の場に変えていくほうが得策なので
はないか。」という産業資本家の思惑が共和党内部に浸透していった。それと同時に、「ク
ー・クラックス・クラン(KKK)14」などの暴力的な秘密結社が攻撃の先頭に立ち、旧奴隷
所有者たちの再建運動反対活動が開始された。KKK は、「解放局」の仕事を妨害し、黒人
の投票を暴力的に阻止しただけでなく、投票しようとする黒人や彼らを支持した白人の命
さえも奪うなど、絶えず暴力を煽動し、白人優越=黒人蔑視の人種的偏見を大々的に広め
て南部全体の中に定着していった。更に、1872 年、
「大赦法」の制定によって、旧南部の支
配階級に属していた人々の政治的諸権利は全面的に回復してしまった。
南部のプランターと手を組んだ北部の独占資本家は、プランターの大土地所有を温存し、
その一部を黒人や貧しい白人に借地させ、彼らを昔ながらの状態に押し留めておくことを
目的とした、刈分小作制度を最大限利用することで南部支配の新しい道を見出した。この
事態に対抗すべく、北部では「北部農民同盟」、南部では「南部農民同盟」を中心に人民党
運動が繰り広げられ、1887 年、農民や労働者からなる「全国黒人農民同盟=協同組合同盟」
が結成された。しかし、独占資本家とプランターは、黒人を何としても白人民衆から切り
離し、黒人を白人よりも一段低い地位に押し留めることこそが、自らの支配力を強固なも
のとし、黒人からは、より多くの超過剰利潤を搾取できると心得ていたため、1890 年から
南部各地で黒人選挙権剥奪が起こり、黒人の政治的諸権利が大幅に削減されていった。1875
年、「公民権法」を否定して以来、南部諸州では、交通機関、学校、レストラン、娯楽施設
などにおける人種差別と隔離が州法や市条例によって法令化され、「隔離はしても平等」と
いう矛盾した原理が打ち出されたのだった。
(6)優れた黒人指導者-フレデリック・ダグラス-
フレデリック・ダグラスは、奴隷身分から逃亡し、奴隷制廃止主義者として奴隷制度廃
止運動に勇敢に挑んだ人物である。
1824 年、6 歳の時に、彼が初めて目にした主人の奴隷に対する仕打ちが、彼の自伝に記
されている。「主人は、いつも叔母を梁に縛りつけては、身体じゅうが血だらけになるまで
彼女の裸の背中を鞭打つのでした。血まみれになった犠牲者がどんなに懇願しても、涙を
流しても、祈っても、主人の鉄のような心の血なまぐさい行為をやめさせることはできま
せんでした15」。この一文からも、奴隷制度がいかに冷酷非道なものだったのかが伺える。
14 1865 年、テネシー州プラスキーで、旧南部連合の退役軍人ネイサン・ベッドフォード・フォレストを中
心に、黒人抑圧を目的に組織された。白い布で作った装束を身にまとって、深夜、馬で疾走する彼らの姿
は、黒人を威圧するのに効果的だった。
(Yahoo!百科事典(http://100.yahoo.co.jp/)
、12 月 18 日閲覧)、本
田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書、1991 年、135 ページ参照。
)
15 本田創造『私は黒人奴隷だった
フレデリック・ダグラスの物語』岩波ジュニア新書、1987 年、42 ペ
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2 番目の奉公先の家族は、ダグラスのことをフレディーと呼び、着いたその日から、同じ
テーブルで同じ食事をして、彼を家族の一員として温かく迎えてくれた。更に夫人は、彼
に読み書きを教えてくれていたが、主人に止めるよう命令されてしまう。彼は、主人の「も
しも黒ん坊が聖書を読むことができるようになれば、そんな黒ん坊はもはや奴隷には適さ
ない。
(中略)そして、読み書きができるようになった奴隷がすることは、きまって逃亡だ!16」
。
という言葉を聞き、学ぶことは、奴隷状態からの解放-自由への道に通じているのだと確
信し、より熱心に勉強に励んだ。
1833 年、ダグラスは奴隷仕込人の下に移され、毎日、体力の続く限りこき使われ、肉体
と精神とが粉々に打ち砕かれていたが、死を覚悟で主人の暴力に対して力ずくで反抗した
ことで、過酷な奴隷生活によって消滅しかけていた自信を取り戻し、「精神的な奴隷状態」
から自らを解放し、逃亡意欲を高めたのだった。
1838 年、ダグラスは逃亡に成功し、ニューヨーク、マサチューセッツへと渡り、晴れて
自由黒人となった。彼は北部に足を踏み入れたことで、南部の奴隷制度と北部の黒人差別
は切っても切れないものであり、奴隷制廃止主義者の闘いは、両者の根絶だということを
実感した。そして、彼は、白人の奴隷制廃止主義者ウィリアム・ロイド・ガリソンによる
週間新聞『解放者』に感銘を受け、各地の奴隷制反対集会に参加するようになった。彼は、
ナンタケットで開かれた奴隷制反対集会に参加した際、壇上に立って演説するよう求めら
れ、自分自身の奴隷経験について切々と訴える演説を行った。閉会後、マサチューセッツ
奴隷制反対協会の事務局長に専従講演者として働くよう勧められ、職業的に奴隷制廃止主
義者の一員となった。
ダグラスは、自由の身となったが、逃亡奴隷としていつまた奴隷身分に引き戻されるか
わからない危険な状態であったため、自分の主人の名前や逃亡経路、その他の地名をでき
るだけ伏せて演説していた。更に、彼の正確で流暢な英語や端正な身のこなしからは、彼
が数年前まで奴隷だったということを伺わせるものがほとんどなかったため、聴衆の中に
は、彼が本当に奴隷だったのかと疑いを抱く者も現れた。1845 年、彼は、このような偏見
の目を払拭すべく、日付、人名、地名などこれまでの演説では伏せてきたことを書き記し、
初めての自伝『アメリカ黒人奴隷=フレデリック・ダグラスの生いたちの記』を出版し、
身の安全を守るため一旦イギリスに渡った。イギリスでは、一般人の間に人種的偏見がほ
とんど見られず、どこのレストランやホテルに行っても食事や宿泊を断られなかったため、
彼は、
「私の肌の色のために私を人種差別するような一切のものの完全な欠如17」。だと感じ、
初めて自分が本当に人間なのだということを実感することができたのだった。
1847 年、ダグラスは、週間新聞『北極星』を発行し、1851 年、
『フレデリック・ダグラ
ス・ペーパー』と改称し、更に版を縮小して月間の『ダグラス・マンスリー』として 1863
ージ。
16 前掲書、本田創造、56 ページ。
17 本田創造『私は黒人奴隷だった
フレデリック・ダグラスの物語』岩波ジュニア新書、1987 年、118 ペ
ージ。
399
年まで存続した。南北戦争以前、20 種類ちかくの黒人新聞があったが、彼の新聞は、奴隷
解放と人類進歩の導きとして、ひときわ目立った存在だった。
1850 年、逃亡奴隷法に対してダグラスは、
「この法律によって、奴隷制度のもとに送り返
されるくらいなら、私たちは、みな、自ら死を選ぶ覚悟ができています。‥‥いかなる法
律も、瞬時たりとも、人間の自己所有権を他人に譲渡することはできず、‥‥奴隷は、だ
れでも、奴隷制度のもとから逃亡する正当な権利をもつものである18」。と語り、この法律
を完全に無視し、あらゆる手段を講じて逃亡奴隷を援助するよう訴えた。その後、彼は、
『フ
レデリック・ダグラス・ペーパー』の中で、
「逃亡奴隷を奴隷制度のもとに送り返すことに
加担する者は、だれでも、みな人類の敵であり、たとえそのような人を殺害しても、
(中略)
神にかけて、罪にはならない19」。と激しく訴えた。彼は、各地を回って演説をするうちに、
非暴力・非抵抗主義に基づく奴隷制度廃止運動に、様々な見解や感情の相違を感じ始めて
いたため、過激な発言をするようになっていたのだ。
南北戦争が始まるとダグラスは、奴隷解放と連邦の救済が深く結びついていることを主
張し、他の黒人指導者たちと共に、黒人兵の募兵活動に奔走し、黒人たちに軍隊参加を呼
びかけた。北部で最初に編成されたマサチューセッツ第 54 連隊をはじめ、1863 年には、
59 の黒人連隊が連邦軍に所属していたが、隊内で黒人差別があったため、彼は、リンカー
ン大統領に軍隊内の黒人人種差別撤廃、特に黒人兵にも白人兵と同等の手当てを支給する
よう強く要請した。1863 年、奴隷解放宣言が公布された後も、ダグラスは黒人が白人と同
等のアメリカ人としての市民的諸権利を獲得するために、再び黒人の地位向上に献身した
が、1895 年、突然の心臓発作に襲われ、77 年の生涯に終わりを告げた。
Ⅲ.黒人人種差別の
黒人人種差別の歴史
(1)近代黒人解放運動
「ジ
アメリカの黒人人種差別制度は、
「ジム・クロウ20」として知られている。本田創造は、
ム・クロウ」について、
「合法・非合法のあらゆる手段をもって、黒人を白人からはっきり
と区別した第二級市民の地位に押しとどめ、そこに固定化することによって、(中略)たん
に黒人を搾取するためばかりでなく、労働者階級全体を搾取するためにつくりだした法制
的、暴力的、イデオロギー的なこの国の特殊な収奪体系で、肌の色の相違に根ざすたんな
前掲書、本田創造、146 ページ引用。
前掲書、本田創造、147 ページ引用。
20
1830 年頃、黒人の子供が「おいらの名前は ジム・クロウ まわれ まわれ ジム・クロウ 踊りで は
ねまわれ。
」と歌いながら遊んでいたのを見たトマス・D・ライスが、顔を黒く塗った黒人姿で、この歌と
踊りを広めたため、
「ジム・クロウ」という言葉が使われ始めた。その後、黒人に対する差別と隔離の一切
を総称して、黒人差別という意味で広く用いられている。
(本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新
書、1991 年、147 ページ参照。)
18
19
400
る人種的偏見の所産というようなものではない21」。ため、法制的には黒人差別がない地域
においても広く行き渡るのだと述べる。この一文からも、「ジム・クロウ」は、安価な労働
力をいかに効率的に使うかを重視する、現代資本主義の発想そのものであったと言える。
ブッカー・T・ワシントンは、1881 年、アラバマ州タスキーギに黒人職業教育のための
大学を創設し、
「黒人の地位や境遇の改善には黒人自身がまず腕を磨き技能を身につけ、産
業社会で白人との絆を深めながら努力をしていくことが大切であり、黒人中産階級が生ま
れれば、白人も黒人の立場を尊重しなければならなくなる。
」と考えた。1895 年、彼は、ア
トランタで開催された綿花博覧会での演説で注目され、ハーヴァード大学とダートマス大
学から名誉学位を授けられ、偉大な黒人として白人社会から手厚いもてなしを受けたが、
急進的な黒人知識人たちからは、強い反対を受けたのだった。
W・E・B・デュボイスは、
「黒人解放運動の中核は、少数の優れた黒人知識人によってお
し進められるべきである。」とする「才能ある十分の一」理論を展開し、「われわれは、完
全な人間の権利をほんの少し欠いても満足しない。われわれは、自由に生まれたアメリカ
人がもっている政治的、市民的、社会的な一切の権利を要求する22」。と高らかに訴えたの
だった。僅か 4 年でこの活動は停止したが、黒人差別制度についての関心を黒人間だけで
なく、広く白人間にも喚起し、近代黒人解放運動の先駆として大きな役割を果たしたと言
える。
1910 年、黒人に裁判の公正を保証し、経済的、社会的、政治的機会を確保して、彼らの
地位を向上させることを基本目的とした「全国黒人向上協会(NAACP)」が結成された。
この組織は、白人の自由主義的知識人が中核だったが、デュボイスは黒人で唯一役職につ
いた。更に、1911 年、黒人の都市生活の問題解決に手を差し伸べるため、「全国都市同盟
(NUL)
」が結成された。この組織は、政治行動を排して、黒人の生活実態調査を行い、職
業教育の振興や保険衛生思想の普及に努めたが、NAACP よりも慈善団体的な傾向が見られ
た。
第一次世界大戦を通じて、黒人の南部農村からの離脱、北部大都市への移住は、飛躍的
に増大し、北部の大都市を中心に黒人の労働階級が形成され始めたが、労働賃金は安く、
住宅は隔離された貧民街の一区域に押し込められるという差別を受けたため、ますます人
種差別制度への反感が強まっていった。
1994 年、白人の植民地主義と人種的抑圧とに強い憎悪を抱いたジャマイカ人マーカス・
ガーヴェイは、
「全黒人地位改善協会」を設立し、多くの黒人から支持を得た。彼は、アメ
リカ黒人に対するリンチや人種的抑圧、その他様々な差別待遇に激しい非難をしたが、権
利宣言の要は、
「アフリカをアフリカ人に返せ」というものであり、全ての黒人がアフリカ
の自由市民であり、民族自決権を持つべきであると強く主張した。このような彼の運動は、
黒人の民族感情を刺激し、黒人の魂に触れることによって、正義と市民的諸権利を獲得す
21
22
前掲書、本田創造、1991 年、147 ページ。
前掲書、本田創造、1991 年、153 ページ。
401
る積極的闘争を推し進めるための精神的風土を培ったのだった。
(2)公民権闘争
第二次世界大戦が本格化するにつれて、多種多様な人種、民族からなるアメリカ人たち
を結束させる必要性が高まってきたため、1941 年、フランクリン・D・ローズヴェルトは
大統領行政命令第 8802 号を発し、
「防衛産業や政府機関において労働者を雇う場合、人種、
心情、肌の色、出身国の違いによって差別してはいけない。
」とし、公正雇用実地委員会を
設置した。ローズヴェルトの死後、ハリー・S・トルーマンによって人種差別撤廃を目指す
公民権委員会が結成され、1948 年、軍隊内部の人種差別が禁止された。1954 年、連邦最高
裁判所は、黒人が白人の公立学校に転校を認められずに係争事件になっていた州に対して、
公立学校における黒人と白人との隔離は憲法に違反するという判定を下した。南部白人た
ちのこの判決に対する抵抗は激しかったが、黒人たちにとっては人種差別を全面的に廃止
し、公民権を完全に獲得するための第一歩だったと言える。
当時、駅の待合室、水飲み場や公園などの公共施設では、「白人専用」や「黒人専用」と
記載された表示版が掲げられ、バスの座席は、後部が黒人用、前部が白人用に分けられ、
黒人は、黒人席が満席で白人席に空席が残っている場合でも後方に立っていなければいけ
なかった。1955 年、アラバマ州モントゴメリーでは、全市をあげてバス乗車拒否運動を推
進することになり、マーティン・ルーサー・キング牧師が中心的指導者に要請されたのだ
った。白人側は、
「白人市民会議23」や「KKK」などを過激な人種主義者らを中心に、あり
とあらゆる妨害と暴力を加えて、黒人のバス乗車拒否運動を弾圧しようと躍起になった。
しかし黒人たちは、自家用車の相乗り組織を作ったり、歩いて職場に通ったりしながら、
キング牧師の指導の下、約 1 年間も非暴力による抵抗を貫き通した結果、連邦最高裁判所
は「バスの人種隔離は違憲である。
」という判決を下した。黒人民衆たちがこの運動を、ア
メリカ合衆国の理念に基づき、全てのアメリカ人が当然、享受すべき自由、平等、正義の
ための市民的権利の問題として受け止めていたことは明白である。更に、1957 年、キング
牧師の思想に基づいて、
「南部キリスト教指導者会議」が誕生したのだった。
白人と黒人の共学問題も深刻なものだった。オーザリン・ルーシーはアラバマ大学への
入学許可を勝ち取っていたが、通学初日から学生たちや「KKK」の妨害にあい、僅か 3 日
間しか登校できず、大学側は、彼女に休学を命じ、彼女が不服を申し立てると退学処分と
してしまった。また、アーカンソー州リトルロックでは、知事が州兵を動員し、黒人学生
の登校を阻止する事件が起こった。
(3)黒人革命
1960 年、ノースカロライナ州グリーンズボロの食堂で、
「黒人の注文お断り」を受けた学
23 政治家、銀行家、実業家、判事など KKK より遥かに高い社会的、経済的な階層から会員を集めた反黒
人団体。
(前掲書、本田創造、1991 年、178 ページ参照。
)
402
生たちは、大手雑貨チェーンストア店内の白人用ランチカウンターで飲食物を注文し、要
求が受け入られるまでそこに座り込みを続けるという計画を立て、実行した。彼らは、長
年に渡って行われてきた人種慣行や、白人優越=黒人蔑視に基づく南部の伝統的価値観を
打破すべく、市民的不服従を実践したのだった。この学生を中心とした抗議運動には、少
なくとも 7 万人の黒人学生と白人学生が参加し、3600 人の学生が逮捕されるに至ったが、
結局、彼らは一杯のコーヒーも受け取ることもできなかった。このような状況下で、人種
差別撤廃闘争に従事していた学生グループの包括組織である、「学生非暴力調査委員会
(SNCC)」が結成され、前述の「NAACP」、「NUL」、「CORE」、「SCLC」と合わせて、
60 年代の公民権運動を代表する五大解放組織が出揃った。
「SNCC」の活動家たちは、ラン
チカウンターへの座り込みだけでなく、人種差別をしている様々な場所24への入り込み運動
も展開した。
1961 年、
「CORE」のメンバーたちは、州境を超えて運行する長距離バスにおいて、車内
やバスターミナルなどでの人種隔離禁止が実際にどれだけ守られているかを調査するため、
ワシントンからルイジアナ州ニューオーリンズに至る長途のバス乗車運動を行った。出発
当初は、黒人が白人用の待合室や便所に入っても騒動らしい騒動は起こらず、比較的穏や
かな旅が続いたが、サウスカロライナ州ロックヒルやアラバマ州アニストンなどでは、棍
棒や鉄パイプ、タイヤチェーンなどで武装した暴徒たちが、乗客たちに暴行を加え、バス
を破壊してしまったため、彼らを乗せてくれるバス運転手を見つけることは不可能になっ
た。しかし、この運動を止めることは、非暴力が暴力に屈したこととなると考えた「SNCC」
の指導者たちは、運動を引き継いだが、彼らも暴徒たちの殴打を受け、大惨事となった。
それでもバスでの旅を続行した彼らは、ミシシッピ州ジャクソンのプラットホームに降り
立った瞬間、治安妨害と警官命令に対する不服従を理由に、全員逮捕されてしまった。二
度に渡った運動は、最終目的地のニューオーリンズには到達できなかったが、同じような
運動が南部各地で展開された結果、州際交通委員会は、
「州境を超えて運行する車両は、人
種、肌の色、信条、出身国の違いによって座席を区別してはいけない。
」という判決を下し、
州際交通における人種差別は大幅に廃止されていった。
「自由のための乗車運動」は、勝利
を収めたと言える。
リンカーン大統領による奴隷解放宣言から 100 年目にあたる 1963 年、最盛期に達した黒
人解放運動は、多くの逮捕者を出しただけでなく、キング牧師が滞在していた「SCLC」の
闘争本部に爆弾が投げ込まれるまでに発展したため、ジョン・F・ケネディ大統領は、人種
差別をなくす新しい公民権法案を議会に提出することを全国民に約束せざるを得なかった。
「仕事と自由のためのワシントン行進」では、公民権運動組織の他に、宗教、労働、市民
組織が多数加わり、黒人も白人もあらゆる階層のあらゆる人々が、リンカーン記念堂前の
広場に押し寄せ、黒人抑圧に講義するデモ行進を行った。キング牧師は、
「私には、夢があ
24
海水浴場、映画館、公園、図書館、教会、監獄など。
(前掲書、本田創造、1991 年、192 ページ参照。)
403
る。」と演説し、参加者たちは、議会と政府に対して 10 項目の要求を満場一致で採決し、
「1964 年公民権法」として制定されたのだった。この法律は、第一に、選挙時の読み書き
能力テストを禁止し、登録係員が恣意的に課す異なった投票基準、慣行、手続きなどから
黒人を保護すること、第二に、人種、誰もが肌の色、宗教、出身国を理由に、宿泊飲食な
どの大部分における差別を禁止し、全ての人が財、サービス、設備、特典、利益、便宜を
「完全かつ平等」に享受する権利を持つこと、第三に、合衆国教育局が人種共学の実地に
対して援助を行い、司法長官は適切な救済措置をすることで公教育における人種差別を排
除すること、第四に、連邦政府に平等雇用機会委員会を設置し、雇用における人種差別撤
廃を定めていた。住宅差別の禁止や低賃金制について、黒人側の要求が充分に盛り込まれ
ていないと批判する者もいたが、公民権運動の成果が総括的に集大成されたものだと言え
る。
しかし、公民権法に反対する人種主義者たちの黒人に対する暴力行為や迫害は一層増加
し、1965 年、
「アフリカ系アメリカ人統一機構」を結成し、イスラム教について理解を深め
るため、聖地メッカを旅した、黒人民族主義指導者マルコム・X がニューヨークで暗殺され
た。各地で虐殺行為が絶えない中、ジョンソン大統領が投票権法の設立を議会に求め、3200
人の群集たちは、セルマからアラバマ州モントゴメリーに向かって「自由の行進」を決行
した。また、1966 年、
「SNCC」の委員長となったストークリー・カーマイケルは「ブラッ
ク・パワー」で戦わなければならないと宣言し、各地に黒人暴動が多発し、完全雇用、住
宅、自治体組織、弾圧や暴行の禁止などを求める、
「黒豹党(ブラック・パンサー・パーテ
ィ)」が結成され、警官とも衝突するようになった。この当時のアメリカ合衆国の内情は、
1968 年、暴動調査全国諮問委員会が発表した「わが国は二つの世界-一つは白人、一つは
黒人-の、分離した不平等な社会に向かってつき進んでいる25」。という報告に端的に示さ
れていると言える。
Ⅳ.現在アメリカにおける
現在アメリカにおける黒人人種差別
アメリカにおける黒人人種差別の
黒人人種差別の現状
(1)黒人居住地区ゲットー
公民権運動は、数々の目覚ましい成果を収めたが、黒人に対する政治的、社会的差別撤
廃と諸権利獲得を主要目的としていたため、彼らの地位は全般的に向上したにもかかわら
ず、黒人と白人の経済的格差は依然として大きく、黒人内部にも階層分化が進行し、これ
まで以上に膨大な数の貧困層が生まれ、失業、貧困、社会的無秩序、隔離、家庭崩壊、住
宅と学校の劣悪化などが一層進行していった。
大都市中心部にある人種的に隔離された黒人居住地区をゲットーという。ここでは、都
25
ジョン・ホープ・フランクリン『アメリカ黒人の歴史
ージ。
404
奴隷から自由へ』研究社出版、1978 年、489 ペ
市の他の地区が受けられる公共サービスが受けられず、人々は、貧困状態に陥っているた
め、失業、犯罪、麻薬中毒、アルコール依存症、伝染病、早期死亡、自殺などが多発して
いる。この地区は、長年に渡る白人優越=黒人蔑視の人種主義思想に基づき、権力を握る
者によって、権力を持たない者を封じ込め、彼らの無力を永久普遍なものにするために作
られた、社会的・政治的・教育的、特に経済的植民地であると言える。しかし、ラジオ、
テレビ、映画、雑誌、新聞などは広く行き渡り、一方的に白人社会の価値、抱負、習慣、
様式が投入されるため、人々は、自分たち以外の者がそれほど非人間的扱いを受けておら
ず、教育や雇用機会に恵まれているということを知っている。そして、彼らは、自らの運
命を全黒人が共有している遺伝的に押し付けられた人間的劣等さだと感じ、敵意、絶望、
希望を混合させ、様々な自己の救いを求めるのである。
人種的地位の劣等さという根本的な悲しみの中で生活する人々は、「ぼくたちは、黒人で
あろうと、白人であろうと、家族をもっているんですよ!権利はまず与えられ、役立たね
ばならない。だけど、ぼくたちは、そんなふうに扱われていないんだ!もしあなたが黒人な
ら、自動的にほとんど仕事が断られる。 男・24 歳位」
「ぼくは、ぼくたちの仲間が黒人と
して威厳と誇りをもつ日がくるのを待ちわびています。そして、この時がきたら、ぼくた
ちは何でもでき、人間がするように太陽の下であらゆることを堂々とできるということ、
かれら白人が認識した、その暁には、これらすべて―情動、偉大な人びと、大統領―がや
ってくることができるでしょう。 男・19 歳26」。と嘆く。
ゲットー内の水道設備を大人数で利用すること、暖房や換気が不十分なこと、寝室が過
密状態であることなどは、伝染病や小児病を増加させ、設備の整っていない台所、電気の
接続不良、薄暗い階段などは、事故や火災を引き起こす。また、彼らには、卑しい仕事し
か与えられず、安定した仕事が得られない。この現状について、上杉忍は、
「黒人の相対的
地位は政府の統計でむしろ低下しつつあり、実際には人種的な隔離状態も解消されるどこ
ろか逆に強まっている、と日常的に感じている黒人が増えている。現に初頭中等教育にお
ける人種統合は停滞し、むしろ実質的には人種隔離が進み、人種間格差は拡大しているの
が現状である27」。と述べる。この一文からも、現在、国家全体の繁栄と社会発展から取り
残されたゲットーに住む黒人の状態は悪化していく一方だということは明らかである。
(2)政治進出と雇用の現状
1970 年代、黒人の政治的諸権利の行使、特に南部諸州における黒人有権者の登録が急速
に進んだため、裕福な黒人たちの政治進出が際立った。1990 年、ワシントンの市長選挙で
民主党の黒人女性が当選し、アメリカ合衆国史上初の黒人女性市長が誕生した。
表 1.選挙による黒人公職者の増加状況(1970-2001 年)
26
ケネス・B・クラーク『アメリカ黒人の叫び
27
Yahoo!百科事典(http://100.yahoo.co.jp/)参照。2009 年 12 月 11 日閲覧。
ダーク・ゲットー』明石書店、1994 年、6 ページ。
405
State
U.S. and state
City and county
Law
legislatures
offices
enforcement
Total
Education
1970 (February)
1,469
179
715
213
362
1975 (April)
3,503
299
1,878
387
939
1980 (July)
4,890
326
2,832
526
1,206
1985 (January)
6,016
407
3,517
661
1,431
1990 (January)
7,335
436
4,485
769
1,645
1995 (January)
8,385
604
4,954
987
1,840
2000 (January)
9,001
621
5,420
1,037
1,923
2001 (January)
9,061
633
5,456
1,044
1,928
(出所)U.S. Census Bureau(http://www.census.gov/compendia/statab/)から作成。2009 年 12 月 18
日閲覧。
1940 年、僅か 33 人だった黒人公職者は、現在、9061 人(2001 年)にまで増加した。
(表
1 参照。
)黒人公職者の増加は、公民権運動の成果を象徴的に表わしていると言えるが、公
職者全体に占める黒人の割合は、総人口比に比べると差が大きく、政治進出における白人
との不平等は歴然としている。
2008 年、民主党候補のバラク・フセイン・オバマ・ジュニアが第 44 代大統領に当選し、
アメリカ合衆国史上初の黒人大統領が誕生した。彼が黒人だということで、選挙に敗れる
という観測もあったが、伝統的に民主党を支持する東部や西部などの州だけでなく、共和
党の支持で固まっていた南部ヴァージニアやノースカロライナなど通常共和党を支持する
都市近郊の富裕な地区からも幅広く支持された。彼の大統領当選は、黒人が一人前のアリ
カ人として認められる最後の障壁を破ったという点で、世界的意義を持つ。アメリカ合衆
国は、
「すべての人は平等に作られ、創造主によって、生命、自由そして幸福の追求を含む、
ある侵すことのできない権利を与えられている。
」という平等の精神を、実践するというこ
とを世界中に証明したと言える。
かつて黒人は、圧倒的に農業に従事していたが、年々、彼らの職業は製造業やサービス
業へと変化していった。男性は、工場労働や事務、販売などのサービス業務、更に金融業
や保険業などの専門職へ広く進出していくようになった。女性は、工場、店舗、事務所な
どでの仕事、一部は知的な専門職へ進出していったが、現在も尚、ホテルの掃除、洗濯、
家政婦、福祉サービス手伝いなどが大半を占めている。
表 2.学歴別の黒人雇用者数(2008 年) 単位:1000 人
406
Race, and educational attainment
Natural
Production,
resources,
transportatio
construction
n, and
Sales and
and
material
Managerial,
Total
professional
employed
and related
Service
office
maintenance
moving
Total
126,161
49,629
18,647
29,353
12,878
15,654
Black Total
13,786
4,096
3,224
3,221
928
2,317
Less than a high school diploma
1,234
58
547
152
150
327
High school graduates, no college
4,719
584
1,467
1,100
413
1,156
Less than a bachelor's degree
4,411
1,185
927
1,335
272
692
College graduates
3,423
2,269
284
634
94
143
(出所)U.S. Census Bureau(http://www.census.gov/compendia/statab/)から作成。2009 年 12 月 18
日閲覧。
現在、サービス業に就く黒人の割合は圧倒的に多く、専門職に就く黒人の割合は極めて低
い。また、高学歴であればあるほど、専門的な仕事に就く傾向がある。(表 2 参照。
)
今後、黒人の専門職就業率を上げるため、黒人の就業教育を強化し、人種に関係なく平
等な雇用機会を与える必要があると言える。
(3)アメリカ黒人の文化―懸け橋の音楽―
1970 年代、ラップ・ミュージックは、黒人居住地区ゲットー内で行われるブロック・パ
ーティから発達し、黒人の 1 つの文化形態として、階級を問わず、非常に幅広い人気を集
めるようになった。ラップ・ミュージックのリリックには、黒人たちの人種差別、敵意、
絶望、希望を混合させた様々な想いが表現されているのである。
「朝、目覚めた時に何ひとつ変わっちゃいない
そこで自問自答をしてみるのさ
俺の人生は生きる価値があるんだろうか
それとも自ら命を絶った方がマシなのかい?
貧乏暮らしはもうたくさんだ
オマケに俺はブラックに生まれついちまった
(中略)
そろそろ俺達も立ち上がる時が来てるんじゃないのか
ブラック・パンサー創始者のヒューイがそう言ってたろ
(中略)
相変わらず誰もかれもが人種差別主義者に見えてくる
407
誤解から生じた憎しみは、人種同士の醜い争いを引き起こす
俺達がこんなに虐げられてるのは何故なのさ
きっと何処かにここよりマシな場所があるはずさ
無駄な時間を過ごすのはもう辞めようぜ
邪心を取り払えば、誰もが俺達に正当に接してくれるはずさ
(中略)
俺達が開放感に浸れるのは、互いを殺し合う時だなんて理不尽だぜ
ありのままの自分を相手にぶつけるには、それなりの勇気が要るけど
そうやって俺達は互いにいたわり合えるんじゃないのかい
誰もが神様から平等に命を授かったというのに
俺達はまだブラックの大統領誕生を目にしてないぜ
そんなの誰もが知ってることだろ、真実を隠すなよ
囚人で溢れかえった刑務所の大半がブラックなんだぜ
(中略)
世の中を俺達の力で変えていかなきゃ・・・
みんなで力を合わせて世の中を変えようぜ
まずは食事法から変えて、それから生き方を変えるんだよ
そしてお互いへの接し方を変えていこうぜ
昔のままのやり方じゃダメだって事は判ってるだろ
この世の中を生き抜く方法を俺達で考えなきゃ
(中略)
サツが俺に近づいたら、容赦なくラップをブチかましてやる
それが俺の武器代わりとなる発砲音さ
そんなのちっともクールじゃないとお前は言うかもしれないけど
お袋は俺をちゃんと育ててくれたんだ
ブラックである限り、サツどもは俺を罠にはめるだろうが
俺は決して屈しないからな
(中略)
所詮世の中なんてそんなもの
いつまで経っても変えようのないこともあるのさ・・・28」。( 2pac
changes)
上記のリリックから、法律上、人種差別が撤廃された後も、黒人たちは、迫害され続けて
きたことがわかると同時に、彼らの現状に対する絶望感と希望が入り混じった複雑な想い
を読み取ることができる。
28
Welcome To 2pac Legacy.com(http://www.2paclegacy.com/)。 2009 年 12 月 19 日 閲 覧 。
408
今は亡き 2pac は、低所得者居住地域で暮らしていたが、世間に現実を伝えるラッパーに
なることを決意し、ドラック・ディーラーなどで日銭を稼ぎながら活動を始め、1991 年、
ラッパーとしてデビューを果たした。彼の音楽は、黒人を制圧しようとする世界と彼の闘
いの記録の集大成だと高い評価を受け、多くのヒットを飛ばした。1996 年、銃弾を受け、
25 歳の若さでこの世を去った後も、若者たちに大きな影響を与え続けている。
白人ラッパーの Eminem は、極貧の環境の中で育ち、黒人文化であるヒップ・ホップに
親しみを持ったため、バトルに出場するようになった。しかし、白人である彼は、黒人ラ
ッパーたちに、
「シロのラップ」と差別を受けた様子が半自伝映画で表現されているが、実
力が認められ、今やトップ・ラッパーになった。彼の存在がきっかけとなり、白人たちの
間にもラップ・ミュージックが浸透していったと言っても過言ではない。現在、Dr.Dre や
50 Cent など、多くの黒人ラッパーたちとコラボレーションして活躍している。
2009 年、Jay-Z の作品は、第 52 回グラミー賞授賞式で 4 部門 5 つのノミネーションを
受けた。彼は、オバマ大統領が当選した際、黒人ラッパーたちと共に、『My president is
Black』という曲を作り、アメリカ合衆国史上初の黒人大統領誕生を讃えた。また、Linkin
Park や Paul Mackartny など白人ミュージシャンたちと積極的にコラボレーションし、音
楽活動において、黒人と白人の友好関係を築いていると言える。
ゲットー内で生まれた、黒人独自の文化であったラップ・ミュージックは、現在、白人
と黒人とを結ぶ懸け橋として、貧しい黒人たちに夢と希望を与え続けているのだ。
Ⅴ.終わりに
アメリカ黒人は、
「アメリカ国民」ではなく、資本主義社会の「犠牲者」だったと言える。
彼らは、肌が黒いという理由から「二グロ」や「ニガー」といった差別用語で呼ばれ、何
百年にも渡って人種差別を受け続けてきた。同じ国、同じ憲法、同じ大統領の下で暮らし
ているにも関わらず、奴隷として同じ人間とは思えないほど冷酷非道な扱いを受け、まる
で使い捨ての「モノ」のように扱われてきたのだ。この歴史的事実は、決して許されては
ならない。
アメリカにおける黒人人種差別の根源は、イギリス植民地時代の奴隷貿易と奴隷制度で
あったと言える。奴隷を「輸入」する奴隷貿易商人、奴隷の主人である南部プランターた
ち、彼らを法律によって保護するアメリカ合衆国、それぞれが自らの利益のみを貪ってい
たように感じる。しかし、冨や権力を持っているからと言って、他者の人間としての権利
を奪っても良い権利は、誰一人として持ち合わせていない。
アメリカ合衆国の歴史を振り返ると、合衆国憲法、独立宣言、奴隷解放令、公民権法な
ど、黒人の権利回復や平等を謳ったものは数多いが、文面通り、人種差別や抑圧が軽減し
ていたとは考えにくい。黒人の権利回復に繋がるものが現れると、白人優越=黒人蔑視の
偏見に囚われ、自らの利益しか頭にない奴隷寡頭勢力が、より激しく黒人差別を行い、黒
409
人の権利回復を阻止しようとする、すると黒人たちは、更に権利回復を訴える、黒人人種
差別の歴史は、この繰り返しであったと言える。
黒人たちの諦めない気持ちは、今日の彼らの権利回復や生活向上に確かに結びついてい
ると言えるが、人種差別は完全に撤廃されていない。真に万人が平等になのであれば、黒
人居住地域ゲットーは存在していないはずである。遥か昔、奴隷制度は消滅し、黒人にも
選挙権が等しく与えられている現在、何故、彼らは人種差別を受け続けなければならない
のか。その原因は、黒人人種差別の歴史の蓄積、つまり、心理的に根強く残る、白人優越
=黒人蔑視という固定観念に起因していると言える。現在、大多数の黒人が貧しい生活を
強いられているのは事実だが、黒人は貧しいという考え方は偏見だ。
アメリカ合衆国史上初の黒人大統領の誕生は、世界中の黒人たちにとって大きな意義が
あったと言える。貧しい者もそうでない者も、アメリカ国内に住む者は皆、黒人大統領の
誕生を目にして、初めて黒人が真のアメリカ市民としての権利を得たと感じただろう。更
に、自らの未来に希望の光が差したと感じたに違いない。ケネス・B・クラークは、「アメ
リカ・二グロの権利問題は、たぶん愛や憎しみに、ことばの上で没頭することによっても、
また戦略的に没頭することによっても、解決されるものではないであろう。この問題は、
ニグロおよび白人に、啓発された自己利益とか、共有された運命とか、国家存続にたいす
る現代の脅威という至上使命のような、しっかりした感情によって、より現実的に解決さ
れるであろう29」。という見解を示している。今後、黒人居住地域ゲットーで暮らさざるを
得ない黒人たちが貧困層を脱し、経済的に白人と同等の生活ができるような改革、政策が
推し進められることを期待する。また、白人たちの中に心理的に根強く残る、黒人人種差
別が解消されることを願う。
29
ケネス・B・クラーク『アメリカ黒人の叫び
ダーク・ゲットー』明石書店、1994 年、247 ページ。
410
【参考文献
参考文献・
文献・URL 一覧】
一覧】
〈文献〉
文献〉
ケネス・B・クラーク『アメリカ黒人の叫び ダーク・ゲットー』明石書店、1994 年。
猿谷要『アメリカよ、美しく年をとれ』岩波新書、2006 年。
ジュリアス・レスター『あなたがもし奴隷だったら?』あすなろ書房、1999 年。
ジョン・ホープ・フランクリン『アメリカ黒人の歴史 奴隷から自由へ』研究社出版、1978
年。
ジョン・ホープ・フランクリン、オーガスト・マイヤー『20 世紀のアメリカ黒人指導者』
明石書店、2005 年。
チャールズ・P・ヘンリー『アメリカ黒人の文化と政治』明石書店、1993 年。
デイビット・ルー『アメリカ自由と変革の軌跡
建国からオバマ大統領誕生まで』日本経
済新聞出版社、2009 年。
藤本武『アメリカ資本主義貧困史』
、新日本出版社、1996 年。
ベンジャミン・ミューズ『アメリカの黒人革命』弥生選書、1970 年。
本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書、1991 年。
本田創造『私は黒人奴隷だった フレデリック・ダグラスの物語』岩波ジュニア新書、1987
年。
〈映像資料〉
映像資料〉
エドワード・ズウィック『グローリー』ソニー・ピクチャーズエンタテイメント、1989 年。
カーティス・ハンソン『8Mile』ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン株式会社、2003
年。
スパイク・リー『マルコム X』CIC・ビクタービデオ株式会社、1992 年。
ノーマン・ジュイソン『ソルジャー・ストーリー』ソニー・ピクチャーズエンタテイメン
ト、1984 年。
〈URL〉
URL〉
月刊 News がわかる―毎日 jp(http://mainichi.jp/)。
Yahoo!百科事典(http://100.yahoo.co.jp/)
。
U.S. Census Bureau(http://www.census.gov/compendia/statab/)
。
Welcome To 2pac Legacy.com(http://www.2paclegacy.com/)。
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