仏教入門4

四国遍路開創千二百年記念
再生修行
罪業と再生
谷不惜響明星来影
苦難が無駄ではなく希望となった
1
2
三教指帰 衛門三郎伝説
再生とは
貪欲と不平等に生きる人間が
見すぼらしい僧への罪責と
子どもを失う悲しみを背負い
あるときは追い出され
あるときは尊ばれ
人間とは何かを発見し
真の人生を得ること
目次
序文 千二百年とは何か
三教指帰 弘法大師空海書
序文
亀毛先生論
虚亡隠士論
假名乞兒論
懐を寫す頌
無常を観ずる賦
生死海の賦
三教を詠ずる詩
石手寺講堂展示 空海大師伝記
弘法大師のお考え
四国遍路開創 衛門三郎伝説
新訳、衛門三郎遍路事始め
三教指帰と聾瞽指帰の意味
空海の名について
弘法大師御作三教指帰考察
蛭牙公子
うきくさ
萍
進退窮まる
谷響きを惜しまず明星来影す
阿毗私度
雲童孃と滸倍の尼
光明婆塞
三教指帰のクライマックス
ろうこ
青年弘法大師の苦悩と鬱憤
空想としての衛門三郎との関係
三教指帰の射程とその後
種々の同行二人
歩きお遍路さんの感想
感想文の遍路のきっかけ
65
74 73 73 72 71 71 70 69 68 68 67 67 66 65
77
84
3
6
6
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20
15
40 34 30 24
41
43
44
46
序文 千二百年とは何か
弘法大師空海様は二十歳の御書にこう書かれている。
もう一つ参考にしたいのは四国遍路の創始者といわれる
衛門三郎である。この荒唐無稽な物語は実は史実を伝え、
かつ遍路の含むもろもの現実苦を解明する鍵が隠されてい
る。その鍵を解くことは私たちが真に救済されることなの
憤懣や る か た な く 逸 気 を 写 す
押さえがたい二つの気持を表すのだと言われる。
である。
見すぼらしく汚い僧が弘法大師であるとはどういうことか
衛門三郎が得た御利益とは何なのか
衛門三郎はなぜ遍路に出たか
一つは出家宣言である。
もう一つは他人の血を吸って生きる者への批判である。
その書が「三教指帰」である。それこそがお大師様が四
国を遍歴して書いた書である。ならばその書を読みその真
意に戻ることこそが千二百年を記念することなのである。
衛門三郎はお大師様とわれわれの間を結ぶ橋、
お大師様は仏とわれわれの間の橋梁であり
出家の決意はこうである。
同行二人
であります。
自他兼 ね て 利 済 す
5
自他ともに救われる第三の道の選択である。即ち仏教の選
択。
先ず、西暦七九一年弘法大師十八歳の時から二十四歳の
間に書かれた「三教指帰」を読み解く。なぜならこの書こ
放浪生活を道教で示し
いつまでも困難に立ち向かわずあぐらをかく浮草のような
この書の成り立ち
そ空海大師が悪弊に従う儒教をやめ、道教的な辺土行の末
さまざまな苦を解決する実践道を仏教で示したのである。
三教指帰とは三つの教えの優劣を説くのではなく、
金儲けに奔走して他者の困窮を踏んで通る無慈悲な生き方
に、仏教を人生に選んだ経緯を書いた書であり、この人生
即ち空海大師の生き方の変更である。
三、埒の明かない道教生活に見切りをつける。石槌に修行
たと述懐。浮草のような生活は道教世界。
糞や瓦礫を投げられるが、私度僧や光明施主は親友であっ
二、四国の辺土にあてどなく浮草のように放浪。町では馬
落胆。
と吐露して四国に放浪する。
即ち儒教的競争出世を拒まれ、
項目を挙げながら、真の遍路行に迫ってみることにした。
気づいた。そこで衛門三郎再生伝説新訳として、その重要
を語る上で見逃してはならない幾つかの項目があることに
換の史実と照合することによって、この再生伝説には遍路
野宿者への非礼な対応体験から、そして空海大師の人生転
たのだが、多くの現代の遍路する人々との交流と私自身の
次に衛門三郎再生の伝説を再考する。
これはあくまでも伝説であり史実かどうかは分からな
く、以前には室町以降の旅行会社の創作ぐらいに思ってい
を儒教で示し
転換、言い換えれば起死回生の体験となった四国遍路行を
記したものであるからである。簡単に記せばこうなる。
し室戸に勤行する。谷(今までの苦しみ)響きを惜しまず
もう一つ付け加えると、以前は遍路行と仏教とは何の連関
一、一族繁栄の為に立身出世をはかり大学に行くが、官吏
明星来影すと嘆じて仏教で生きることを決断する。その意
も持たない別ものと断じていたが、そうではないのであり、
登用されず落胆して帰郷しようとするが「進退窮まった」
味は自分や一族だけが生き残るのではなく、自他兼利済=
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る。そしてその様は実は現代のリストラ世界の一時逃避や
遇で旅する。それは先の空海大師の浮草行とうり二つであ
無一文者や私度僧という宿を請い食を乞うという惨めな境
に訪れた見すぼらしい僧侶然なのである。つまり困窮者や
た彼は出奔するのでありそれは浮浪者の旅であるから最初
出る。また子どもを亡くすという悲しみを負って出る。ま
概略すると次のようなことが伝説には書かれる。
一、三郎は浮浪者を接待しないという罪を背負って遍路に
人生の隘路への転落となる。
うに人生の価値転換が起こらなければそれは徒労どころか
であるどころか有害である。衛門三郎が最後に再生したよ
単にスタンプを集めて歩いたのでは、それは仏教と無関係
遍路行はそれ自体が仏教の本質を有している。とはいえ、
ことにはならない。
ていただきたいし、私自身繋げなければ千二百年を迎えた
せめて長文によってその先の実際の辺土行や修行につなげ
ころで逆効果である。ならば本論を読んでも駄目なのだが、
れは本文を読んでいただきたい。机上の空論では書いたと
が変わるのである。では価値観の変化はどのようにか。そ
生の価値の転換である。修行して人生の目的というか人格
三、衛門三郎は再生する。改心して生き返るのである。人
の二面を持つことを暗示しているし、修行によって暗愚は
れは仏教の真実相と世俗相という一つのものが真理と虚偽
薄汚い乞食が実は弘法大師であるという二義性である。そ
ではなく尊敬して接待したという事実である。どうみても
助をしたということである。かつそれは哀れみのもてなし
必ず光明に転換することを了解している。
一昔前の姨捨山という最終福祉施設としての役割を担うか
のようなのである。
二、伝説の冒頭、三郎は強欲非道と非難される。つまり本
当は弘法大師であるが見かけは薄汚い浮浪者のような乞食
僧を受け入れず追い返してしまう。即ち接待をしなかった
という罪をかぶる。四国遍路の第一の特徴は心身の困窮者
の遍路であり、第二はその苦難の人々を四国の少なくない
人々が自宅に泊めるという善根宿や食事の接待で修行の援
7
弘法大師空海書
三教指帰 序文
いずる
文を書くには必ず理由がある。天気晴朗なれば雲出し、
人は感じて筆を持つ。老子ら諸先輩は心が動いて名作を残
ふんまん
した。彼らは賢人であり私は凡庸であり、時代も異なるが、
人としての憤懣を押さえ難く、その志を記す。
(一)
ゆえ
私は十五才で母方の叔父であり伊予親王の教師である従
あとのおおたり
ししょ
もんぜん
五位下の阿刀大足の屋敷に行き詩書・文選などを教えても
そんけい
らった。そして十八歳で大学に聴講し(た。貧乏故に雪や蛍
そんこう
を明かりとして勉学した孫康という人の熱意を思いつつも
そしん
自分は挫け、眠ってはいけないと首に縄をかけた孫敬や、
ひけん
また錐で太股を刺して目を覚ませた蘇秦らを思いつつそれ
を越えようとしたが比肩できないことに腹が立った。
そんなときである。一人の沙門に遇った。彼は私に虚空
(一) 渡辺照宏「沙門空海」によると、真魚(空海の青年時代の名)の生
家佐伯氏は「さわぐ」=さえぐ=佐伯であり、丁度ゴールドラッシュで貴
族 は と 東 北 を 侵 略 す る。 そ の 生 口( い く ち ) = 捕 虜 や 奴 隷 を 管 理 し て い
たのが佐伯氏である。「此時吾父佐伯氏。讃岐国多度郡人。昔征 二敵毛 一被
班土 一矣。母阿刀人也。(『遺誡二十五箇条』)」。真魚の佐伯氏は身分が従
二
五位か正六位であり、大学入学資格がなかったという説もある。また真魚
十八の時と三教指帰にはあり、大学の年齢制限「十三以上十六以下」に違
反し、後代の伝記では十二歳から十五歳まで国学で学んだと訂正されてい
る。これより真魚は正式には国学に入学できなかったのではないかとの説
があり、私はそれを採用したい。
8
すると、谷響き
( を惜しまず明星来影した。
ちまた
つ い に す な わ ち 朝 廷 の 権 勢 の 栄 華 や、 巷 の 金 銭 の 栄 光
は、思えば思うほど急速に色あせて、それを厭う心が起こ
国の大瀧嶽によじ登り、土佐国の室戸の崎に勤念する。
木を擦り火の起こるまではと片時も休まず修練した。阿波
と意味を暗記できる」
と。そこで大聖仏陀の言葉を信じて、
法にのっとって真言を百万遍唱えれば、一切の教えの文字
蔵求聞持の法を教えた。その経に書いてある。
「もし、秘
ば忠孝に背くことにはならない。
い深いがあるがどれも聖なる教えである。その一つに入れ
に性質を持つ。鳥が空へ飛び魚は水に沈むようにそれぞれ
る。私は思う。生きものの情はみんな違っていてそれぞれ
や親戚に感謝して背いてはならないと私を責めるのであ
廷や君主を崇めそれらに服従しろといい、孝行を説いて親
を説いてその縄で縛りつようとする。即ち忠義を説いて朝
たいりょうのたけ
(二)
(三)
おい
かめいこつじ
ほこ
きょむいんし
ひる
(四) 名前からして見るからに他人の生き血を吸う、遊び人か貴族階級を
であるから名付けて蛭牙公子を戒(める。三巻に書き留め「三
し つ が こ う し (四)
いずれの先生も論陣の盾と矛を張り、血吸い蛭のような甥
たて
兎角さんには主人の配役をたのみ、虚亡隠士さんを道教の
とかく
人を動かすのに三つの教えを説いた。それらの教えには浅
に特質がある。だから、釈迦、老子、孔子の三人の聖人は
あが
り、 山 中 に 沢 涸 れ て 煙 霞 の 佇 む さ ま を 日 々 ね が う よ う に
がいる。性格がねじれ来る日も来る日も朝
また母方の甥
から晩まで鷹狩りをして残酷であり、酒、女、というよう
はかな
おかだのうしかい
こころ
なった。絹の豪奢な着物をまとい高価な名馬にま
( たがって
やから
栄華を闊歩する輩を見てはつまらぬことにうつつを抜かす
に放蕩三昧である。自分では働かずに金を得て賭けごとを
こす
ものの儚さが思われ、また困難な中に生きている人々を見
している。しかしその様子を見ていると、その彼が悪いと
ごんねん
ては、悲しくなりその解決をさぐるのである。この栄華を
いうより彼の仲間や環境が悪いのである。
うまさけのきよなり
らいえい
貪る人々や、困難に苦しむ人々を見るにつけ、私の決心は
つな
たたず
固まっていく。風を止めることはできない。誰がいったい
この忠義孝行と甥の非行の二つの件が、日ごとに私を突
きもう
き動かす。以上の理由で、亀毛さんに儒教を語ってもらい、
あとのおおたり
えんか
この心を繋ぎとめられようか。
先生とし、假名乞兒さんには出家の趣旨を語ってもらう。
か
刀大足や味酒浄成、岡田牛養など
また、朝廷に仕える阿
ごじょう
の親戚がいて、私に人の道を示し儒教の仁義礼智信の五常
(二) この谷は意味深長である。後述したい。
(三) 原文は軽肥流水。軽は絹などでできた高級な衣服。肥は肥えた馬。
流水は水が流れるように颯爽と行く姿。今でいえばブランドの高級服を身
にまとい、ベンツやアウディ、はたまた自家用飛行機で颯爽と行く姿か。
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(五)
教指帰」と
( 名付ける。
ふんまん
ただ、憤懣やるかたない思いを書き写そうとしたものな
のでお見せするようなものではないが御覧いただきたい。
時は延暦十六年西暦七九七年二十四歳の十二月の一日
亀毛先生論
こうてい
あんへい
むしろ
兎角公は筵を広げ席をもうけて、ご馳走でもてなし食前酒
を出した。挨拶も終わり談話となる。
話題はというと兎角公の義理の甥で爵位のある貴族の蛭
牙 公 子 で あ る。 そ の 人 柄 は 無 残 な こ と は 狼 の よ う で あ り 、
暴虐なことは人食い虎のようである。教えを知らず礼儀に
よる制御ができない。勝負事に耽り鷹狩りや猟犬をけしか
けて残虐無頼である。傲慢不遜で思いつくままに行動し振
り返ることがない。良い行いによって人が助かるとか悪い
行いによって人が苦しむという思慮がないから罪を犯して
無頓着である。酒を飲んでは正気を失ない、動物を殺して
こ
おうひょう
け
先生が言う。「私はこのように聞く。智者は教えられず
愚を諭してください」。
さと
た奥義を開いて頑迷な心を目覚めさせ、警鐘を鳴らして暗
よもぎ
食 っ て は 満 腹 を 知 ら ず、 女 を 追 い か け て 常 に 寝 室 に 沈 む 。
他人はもとより親戚が病気になっても心を痛めず、初対面
そしん
こくりょうでん
亀毛先生という人がいた。生まれつき弁舌巧みで容姿端
きゅうけい
えききょう
しゅらい
ぎらい
麗である。九経三史即ち易経、書経、詩経、周礼、儀礼、
の人に配慮しない。父兄を侮り博識の翁を虚仮にする。
ふっき
くようでん
礼記、左伝、公羊伝、穀梁伝と史記、漢書、後漢書の枢要
さでん
を読破習得し、伏犠、神皇、黄帝と八卦を暗記している。
豹という人は詩
そのとき兎角公は亀毛先生に言う。「王
たしな
しゅうし
を嗜んでその土地を変え、縦之という人は書によって故郷
らいき
彼が話し始めると枯れ木に花が咲き、一言で屍に生気が戻
を教化した。実らない果実も土地を変えて陽当たりが変わ
はっけ
る。雄弁で知られる蘇秦、晏平も彼には舌を巻き、張儀、
れば実が熟し、曲がった蓬も麻とともに群生すれば叩かな
かくしょう
ちょうぎ
郭象も近づく前に声を失う。
くてもまっすぐになる。先生にお願いしたいことは、秘め
やかた
たまたま休暇の日に兎角公の館を訪問した。
亀毛先生は、
思わせる。
(五) 現在、空海自筆が残っているのは聾瞽指帰であるが、これと三教指
帰は序分と末尾の偈文以外はほぼ同内容である。
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人でさえ愚者を導くことは困難であるというのに私のよう
ともおのずから知り、愚者は教えても理解しない。昔の賢
そうはいっても表現せずに黙っていたのでは心中 憤 って
を持たないから、思いを言葉にすることもままならない。
恵は乏しく貧しい。文は名人に及ばず言葉は敵将を倒す力
本となっている。また切れない刀は砥石の助けを必要とす
邪悪を憎んで詩をつくり、それらの書籍は時代を越えて手
う人は文を起こして賭博の非道を喝破し、元淑という人は
から善に向かう者は麒麟の角のごとく稀であり、悪に溺れ
度しか現れず、愚者はごろごろしていて数えきれない。だ
の二極が働いて五体を具えた。しかして賢者は三千年に一
よくよく考えてみれば、混沌世界に清と濁とが起こり、
かくはん
いんよう
それらが入り乱れて攪拌して人類は生まれた。同時に陰陽
だく
るし、重たい車を軽やかに走らせるには油がいる。知能の
る者は龍の鱗がこぼれ落ちるように群れている。また人々
せい
ない鉄や木ですら解決の方法があるのに、情を持つ人類に
のなすことは星の数ほど多種であり、その考えは顔の数ほ
こんとん
耐えられない。少しばかり故事を並べてその一隅を示すの
いきどお
な愚者にはできない」と。
なさけ
で、他の三隅は誰かに頼もう。
たいしてどうして躊躇するのか。先生よ、今こそ心の霧を
ど多様であり、宝玉もあれば木石もある。玉と石とはそれ
いしょう
兎角公が言う。
「事件に遭遇すれば情を起こして処置す
べきだということは過去の賢人が結着済みのことである。
洗 い 流 し て 蛭 牙 公 子 の 迷 妄 を 指 南 し て、 見 て 見 な い 瞳 を
ぞれ進む道が異なり、その品位人格の個体差は歴然として
こころ
げんしゅく
真っ直ぐな道へと治させて、改心の快挙をなせ」と。
ある。各人、好むときは水に沈む石のようにとどめがたく、
時を逃さず文にするこそ重要なことである。故に韋昭とい
そう言われた亀毛先生は悩んで茫然とし、溜息をついて
天を仰いで嘆き地に伏して考え込んだ。大きく息をして少
嫌うときは水に油を落としたときのように反発する。干魚
おのおの
しらみ
4
4
よもぎ
4
4
九段階に分かれ、愚者と賢者との差は歴然として三十里も
きりん
そな
したって大笑いして言う。
「あなたが私に勧誘することは
を売れば魚の悪臭が店から去らないように、この世の空気
まれ
丁寧に三度であるからには、ご依頼を断わりがたい。小さ
が腐れば人の気も腐るが、麻の畑に混じって生えた蓬は自
うろこ
な器で海の水を計る事はなし難いが、愚かな私が辿ってき
然と真っ直ぐに伸びるように、良い場所を得れば悪い性質
ちゅうちょ
た教えの流れの痕跡を示して、瓢箪のような小瓶の中身を
も消える。黒髪に囲まれた虱は黒色となるようにともにあ
ひょうたん
そっくりお出しして概要を述べよう。但し舌足らずで、智
11
4
4
4
なつめ
るものに従って性質は磨かれる。常に棗を食べる人々の歯
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
かずして滅びゆき、周や漢の国が興隆したのは、いずれも
前人の失敗は後人の戒めとなるという美徳に習ったからで
さつりく
れいりん
が黄色であるように、人の心はその人が受ける経験によっ
ある。戒めよ、慎みあれ、蛭牙公子よ。かの伶倫という人
なんじ
りしゅ
て染まっていく。あるいは見かけは虎のようであっても中
のように耳を傾け、離朱という人のように目を使い、つつ
どうもう
身は糞尿まみれかもしれない。獰猛な獣たちは肉を見てた
しんで訓戒を聞いて汝が取る道の誤りを覚るのがよい。
ふんにょう
だ食うことしか思い浮かばないように、人であってももし
4
4
4
(六)
あさ
しそう
たけ
そうこう
(六) 昨今の国益への執着と排外主義や、競争での勝ち負けへの執着、ま
たオリンピックなどで技量や努力を楽しむのではなく国別の勝ち負けに拘
るのは、ある種の賭け事=勝負を殊更に楽しむことではないのか。
4
を主な娯楽とし、今日は行かないのかと思うほど魚介を捕
さと
も沈思熟考することがなければ獣のように獲物の肉のみを
あなたのやっていることは、上は父母を侮り、顔を合わ
せるたびに礼儀を逸脱しないということがなく、下は弱い
4
見続けて一生を終わってしまう。だから思慮深くあれ。頭
人々を見下して暴力や収奪三昧を繰り返し、人の痛みを知
4
にお盆を載せて天の真実を見ない愚かさを賢者は時を越え
るという慈悲心がない。狩りを楽しみ鳥獣を殺戮すること
4
て伝える。これこそ恥ずかしく哀しい。
獲して大海を回って漁る。終日遊び明かして殺害を好み兄
しゅうしょ
4
楚の国の名高い玉も輝きを得るには研磨を必須とし、蜀
たいえん
の国の綿も大河で洗うから名だたる綿となる。戴淵という
を殺して国王となった荘公の息子も顔負けである。深夜に
4
人は志を改めて将軍となり、周處という人は心を入れ替え
4
て忠孝の名を得た。だから玉は良く磨かれて十二両の長い
いたる勝負好みは(嗣宗という人も越えている。人が心配し
4 4
て忠告してもどこ吹く風で、いつ食事したのやらいつ寝た
4
車を映す大器となり、人は修練によって障壁を破る才能に
のやらさえ覚えていない。鏡のような明晰な働きや氷柱が
4
到る。まるい心で教えに従うときは雇われの子であっても
与える清涼な効能のかけらもないのだから、あなたの欲望
4
朝廷官吏の最高位に登用されるが、忠告を無視し頑ななと
は大きな渓谷が流れを呑み込むようにのみ尽くして限りな
4
きには帝皇の子であっても雇われの身分に落ちるのであ
くその思いだけが猛っている。
いさ
る。木は縄でたわめて真っ直ぐに矯正され、君主は諫めに
おさなご
従って聖人となると故事に聞く。上は天子に達し下は一般
いん
の幼子に到るまで、未だかつて学ばずして悟り、教えを受
か
け入れずして到達することはない。夏や殷の国は忠告を聞
12
ない。酒
( に溺れて酩酊するありさまは喉の渇いた猿もそれ
を見て恥じ入るし、走り追いかけて食らうありさまは飢え
べるのは自分を殺すようなものだという思慮深さや反省が
なかである時には自分の父母であったのだから、それを食
いやる慈悲のかけらもなく、あらゆる衆生は生まれ変わる
生きものを見てはもしも自分の最愛の子であるならばと思
獣を噛み砕くありさまは獅子のようであり、魚の類を食
べるありさまは鯨が海水ごと吸い込んでいくようである。
悟りの位を得るということを理解しない。お寺という清浄
る。一言仏を唱えても菩提の因となり、一銭を奉納しても
百銭を詰めて杖の先にぶら下げている。お寺を横切るとき
な夜な勉強するための明かり取りの蛍ではなく、飲み代の
蟹をすするような行為である。袋に溜めるものといえば夜
い。常に着想する事といえば右手に盗んだ酒を持ち左手に
学舎に欠伸をするありさまは悪賢い兎の居眠りのようで
あ り、 首 に 縄 を し 太 股 に 錐 を 刺 す 忠 告 を 全 く 意 に 介 さ な
あくび
た蛭も及ばない。あたかも蝉のようである。不飲酒の戒、
な聖域を通っているというのに悪行が反照されることがな
まなびや
午後不食の戒はどこ吹く風。昼夜を分かたず暴走する。女
いどころか、逆にうっとうしく思って教えを憎む。師が弟
4
であると見ると手当たり次第に誰にでも欲情を懐くありさ
子に繰り返し繰り返し教える懇切丁寧な愛情が甥や姪に対
4
まは登徒子という人もあきれ、その人が自分の好みともな
する愛情よりも濃いことを知らない。他人の欠点をあげつ
4
れば恋い焦がれて焼け死んだ術婆伽という人のように執心
らうことは好んで行うが、故人の名言を思い出すことはな
4
する。聖者のように性欲が起これば「これ老いたる猿類な
い。誹謗や中傷する言葉を多く語り、言葉少ないことの美
ひる
と う と し
かまくび
めいてい
り」
「これ毒蛇の鎌首なり」と観てそれを離れることなく、
徳を知らない。美徳を貶し識者を謗ることが言葉を壊し人
(七)
春の馬や夏の犬のように盛りがついて胸を焦がすのみであ
への信頼を溶解させてしまうという過ちを知らないから、
ひとこと
4
4
けな
そし
高い数学者でさえ数えられない程ごろごろしている。
ほど
す人々はあまりにも多く、命名の達人も列挙しきれず、名
いうことを察することがない。このように言葉で身を滅ぼ
あやま
で さ え 罪 と 咎 を 懺 悔 す る で は な く、 邪 な 思 い を 新 た に す
る。遊び女に走り寄って奇声を発して戯れることは大猿が
言葉というものが栄光と屈辱を決める重要なものであると
じゅつばか
小枝で遊ぶように恥ずかしい。
(七) 一切衆生は生まれ変わって父母であり子であるとして慈しむ思想は
弘法大師の終世変わらない思想である。後には「一切衆生皆是四恩。一切
衆生猶如己身。故に敢えて殺さず」の思想となる。
13
遺骸のある時は村中が歌声を慎む」と。これは他人と悲し
家に喪中があるときは臼づきの歌をやめて静かにし、村に
に寄り添い欲を離れて着飾らないのである。また言う。
「隣
いを慎む」と。これは肉親への思いが厚いので、その痛み
る舞いを質素にし、歌舞音曲を遠ざけ、深酒をせず、高笑
に言う。
「父母が病床にあるときは冠の調髪を行わず、振
いるかと思うことがないことは犬や豚と同様である。礼記
繍の豪壮な衣をはおり、貧しい人々が厳冬猛暑にどうして
や王義之や歐陽詢や欧陽通という人らも筆を投げ出して恥
う大鶏が翔けたり虎が臥せるような文字を書く鐘繇や張芝
蜀という人も口を閉じて敬礼する。書をたしなめば鴫とい
す る だ ろ う。 歴 史 の 典 籍 を 渉 猟 す れ ば、 文 学 の 南 楚 や 西
かの有名な東海という人や西河という人も舌を巻いて辞退
談を越えて名誉を残すだろう。儒教の経典を議論すれば、
は君主の過ちを正すために命懸けで諫めた話など種々の美
様々な美談を越えて名を残すであろう。また忠義において
蛭牙公子よ、もしも悪事に浸る心を入れ換えて専心して
けつるい
孝行の美徳を行えば、父母のために血涙を流した話などの
ようなものなのである。
みを共に感じて親疎を分かたないからである。疎遠な人々
じ入るだろう。弓術、戦争、農業、政治、裁判においても
また満足することなく動物の肉を食らい続けて一生百年
きんらん
を費やす姿は人ではなく獣であり、自分だけ温かな金襴刺
でもそうであり、親密なれば尚更である。だから親族に異
名を馳せるであろう。人柄の慎みあることや潔白なことに
お う ぎ し
しょうりょう
いさ
常があれば医者を迎えにやり、薬を用意する誠実な情がな
おいても一流となる。医術に心を向かわせ技術を得ようと
せいか
ければ、世の賢者哲人はこれはどうしたことかと眉をひそ
するなら、心臓を移植し胃を洗う術は、有名な扁鵲や華陀
こうけん
へんじゃく
しょうよう
しぎ
なんそ
めて冷や汗を流す。人々に憂悲苦悩があるときには共に愁
という人々を越えて奇才であるといわれるだろう。また技
しょく
え互いに安否を問い合う厚い情がなければ、どんなに察し
術の巧妙さにおいても負けない。もしもそのようにあなた
うす
の良い賢者や学識ある人であっても、心を凍らせ地にもぐ
が行うならば、大いなる流れのように広々としていること
だ
ゆがい
か
ちょうし
り隠れたいという恥の気持をもつものである。人間という
はあの有名な黄憲に等しく、森のように大なることは庾敱
おうようつう
のは形も獣や木石とは異なり情のあるものである。蛭牙公
に並ぶ。あまりに深いので人々はその深浅を測ることがで
おうむ
おうようじゅん
子はその風体は人類のようであるがその内実は、言葉を話
きず、あまりに高いのでその高低を定めることができない。
しんそ
しても意味を取れない鸚鵡や、酒飲みで意識を失った猿の
14
広がり淼淼としていて、その筆は峯のごとく青々とした樹
北者の山を築く。弁舌は泉の如く涌き出て大海のごとくに
このようにするならば、学会の議論にはかの博学弁才で
ご か
聞こえる五鹿という人の角を砕き、諸学生との論議では敗
物を離すことなく、
倒れても勉学の道具を離すことがない。
刻々念じて修練して、熱心に思慮せよ。多忙であっても書
の瞬間をどの瞬間にも負けない時間として機能させ、時々
をつけて一日を一日として充分に使って効果あらしめ、こ
枕とし、礼を襖とし、心を衣服として行ずるのが良い。気
そのような人は、良い里に家を構え、良い土地を住居と
し、道を床とし、徳をもって寝具とし、仁を席とし、義を
りあなたの踵の向きを変えるだけで選択できるのである。
官したという故事も、相手の裁量ではなくあなた次第であ
を得るために錐で太股を刺して眠気を醒まして苦学して任
すく、目を瞬きする間に成し終わる。高位の爵位の紐の色
九卿という官吏の高位に連なるがそのような必要はない。
よって最高位の三つの位に登り、自分をひけらかして三公
た め に 自 分 を 売 り 出 す 必 要 も な い。 世 の 人 々 は 運 不 運 に
太公望を求めに行ったようなことになるから、立身出世の
出向いて登用を懇願する必要もない。周の文王が草の庵に
を尋ねて仕官するように請うたように、こちらから君主に
ぎ こく
木に満ち満ちて彬彬としている。その文章は玲玲として玉
ひんひん
そんしゃく
ようよう
りゅうあん
4
4
4
せいせい
ふくぎょう
4かかと
しょうしょう
とっこう
しゃく
ししんでん
高官の青紫の衣を得るのも地面に砂を拾うがごとくにたや
ねるように満ちる。かつて魏国の文侯が向うから粗末な家
が振れるがごとく名文を連ねることはかの孫綽や司馬とい
行をその
ついに仕官が叶う。ここにおいて、親孝行の徳
まま君主に移して忠とし、誠心をもって同僚と接する。名
はんご
ふすま
う人を凌ぎ、その文の響きは金のごとく曄曄としていて、
刀を腰に提げて鏘鏘と音を響かせ、冠には玉の笏を帯に挟
べうべう
揚雄や班固という人を越えて華を連ねたようである。著書
んで済済として威風堂々とする。朝廷の宮殿である紫宸殿
れいれい
「離騒」の注釈を半日にして仕上げた劉安という人のよう
に出入りして、赤い丹の塗られた玉石を敷いた天子の庭に
お う む ふ
に即妙に書をなし、鸚鵡賦という名の漢詩を即座に詠んで
はなぞの
伏仰して拝謁する。宮殿に入るときは世間の万事を議論決
し
着するからその誉れは四方四海に満ち、紫宸殿を出でて庶
ふ
手直しすることがない。詩賦の花苑に飛翔して、文章の平
原に休息する。
は竹簡木簡に刻まれて歴史に残り、その栄誉は子々孫々に
ちっかんもっかん
民百姓を統治すれば世間の非難が静まりゆく。あなたの名
ならば彼の玄関には大量の車両が後部をぶつけ合うほど
きんらんにしき
に集まり、庭には積み重ねられた宝玉や金襴錦が店舗を連
15
えり
は他の星から離れて孤独であることを嘆き、水中の鴛鳥も
また、この世の楽しみは、連れ合いなく独り死後へ逝く
けんぎゅう
ことのないように伴侶を得ることである。天の川の牽牛星
ようか。
これこそ朽ちることのない大事である。これ以上何を求め
一行をお送りする義理を果たし極める。
払って風のように進んでいく。花嫁を迎える礼儀を尽くし、
の刺繍を施した立派な衣服はゆったりと地を撫でるように
し、汗は雨のように地に注ぐ。新婦の里へと向かうことを
ら、神輿のかきてや馬の御者は、進みもならず重いし焦る
みこし
な り、 そ の 襟 は 重 な り 合 っ て 太 陽 光 を 遮 る ほ ど で あ る か
必 ず 共 に い る こ と を 歓 ぶ。 だ か ら 詩 経 に「 七 梅 の 歎 」 が
伝わっていく。
高い爵位に安住し美名が贈られるのである。
あるし、書経に「二女の嬪」がある。人間というものは、
婚儀ともなれば同じ食事をし、互いに尊び合って、同じ
ひょうたん
すだれ
瓢箪を二つに分けた杯で乾杯し一体となる。ついに玉簾を
ししゅう
おおとり
ふさわ
にかわ
うるし
ちょう
しぐさ
じいから憂いなく、百歳までも共に楽しむ。
せりふ
あうん
あざけ
また時をみて高祖、曾祖父、祖父、父、自身、子、孫、
曾孫、玄孫の九族を集め、時々に正直、誠実、多聞の三美
けん
鳳と龍の関係は琴と瑟との関係のように仕草や台詞が阿吽
おおごと
示す紫の天蓋は空にはためいて雲がゆくように翔て、金地
きんぢ
展季という人のように女嫌いでもでなければ、連れ合いが
巻き上げて鳳のように着飾った花嫁に対面し、黄金を敷い
かけ
いるものである。この世において、子登という人のように
た床の上にてあなたは龍のように堂々の風体をなす。その
きいし
おしどり
孤独を愛するのでなければ、一双の枕を並べて就寝するも
の呼吸で相応しく、膠と漆の関係のように、その契りは切っ
つやつや
ごうごう
こび
のである。雨
( 降る日の蛾のような眉をもつ美人を姫氏のよ
う な 名 家 に 求 め、 舞 う 雪 が ご と く 揺 れ る 蝉 の 羽 の よ う に
ても切れない密接なるものである。一緒に年を重ね老いる
てんり
艶 々 と し た 髪 を も つ 姜 族 の 美 人 を 探 す の が 良 い。 婚 儀 が
ことが睦まじく、雌雄離れずに泳ぐ鰈という魚もかなわな
ひょうひょう
しとう
整えばそれを祝う車が轟々と押し寄せ、衢は一杯になる。
いだろうと笑い捨て、果ては同じ墓所に入るということに
(八)
驫 驫 と無数の馬が婚儀の知らせを携えて派遣せられ、馬
なるから、飛ぶときは必ずつがいで飛ぶという鶼の鳥を嘲
きょう
と馬が渋滞するから鳴いて躍り上がって城郭を取り囲む。
り飛ばすほどの仲の良さである。生涯にわたって仲むつま
くびす
みち
大勢の従者は右往左往し混雑して踵を踏むほどに折り重
(八) 真魚(空海大師幼少の名)は、この書を著した時は二四歳であるか
ら、ここに書く様に、連れ合いを求めたはずである。しかし彼の決断は出
家であるからその内心は忸怩たるものがあったと想像せざるを得ない。
16
わす。盃を交わすこと数限りなく並々と注がれた酒が交互
徳の友人を招待すれば万の珍味を列ね熟成の旨酒を酌み交
である。左慈という人が形を羊に変えたという故事がある
鷹のようになるのを見届けた。有り得ないことが有るもの
るまいと疑ったが、今の蛭牙公子の鳩のような心が忽ちに
たちまち
に輪を描きつつ何度も空けられる。客人は八つの楽器を調
が何のことはない。今先生の素晴らしいお教えは、狂人を
はと
べて「われ帰らん」という詩を詠み、主人はそれを留めん
して聖人に変えました。いわゆる「お酢を求めたら酒が入っ
よろず
と車の両輪に車止めをはめたり、道々の露が湿って危険だ
ていた。兎を叩いたら麞になった」というのはこのことを
虚亡隠士論
はんすう
牙公子ひとりの改心に留まらず、私にとっても終世の訓戒
し
と言ったりする。そうすると客人も日が経つにつれて帰る
言うのか。詩経や礼記を聞いて感激した人々も、今日の素
(九)
さ
思いを押しやって、夜は夜で舞踏して天下の楽しみをほし
晴らしい教えの勧誘と戒めの力に及びません。これこそ蛭
ろく そ
くじか
いままにし世の歓楽を尽くすであろう。真に悦楽である。
として何度も何度も反芻して味わいたいと思います」と。
まこと
よろしいか、蛭牙公子よ。早く愚かな執心を改めて私の
教えを専念して習いなさい。もしもそのようにするならば
親に対する孝行の美徳が身につき、君主に仕える忠義の徳
が備わる。友人を得て友に接する美徳も広がり、そのよう
であれば子々孫々に栄えるという慶びがあふれる。これこ
うえ そ
そ立身出世の肝要、
名を揚げる要諦である。
孔子が言う。「耕
ひざまず
学ぶときは綠其の中に在り」(と。
すときは餒其の中に在り、
誠にそうであろう。この格言を肝に銘じるべきである」と。
虚亡隠士という人がいた。先ほどより彼らの傍らに居た
が、見かけを愚か者に見せかけて智恵を隠して和光同人し
とうい
ぐ。傲慢にも、あたり構わず足を投げ出して胡座をかき、
あぐら
て 狂 人 の ふ り を し て い た。 蓬 の よ う に 乱 れ た 髪 は 登 徒 子
と う と し
いて言った。
「恐れ入りました。慎
そこで蛭牙公子は跪
んで仰せに従います。今後は傾聴いたします」と。
の 妻 以 上 で あ り、 ぼ ろ ぼ ろ の 肌 着 は 蕫 威 と い う 仙 人 を 凌
よもぎ
そうすると兎角公は席を降りて何度も礼をして言った。
はまぐり
「昔、雀が蛤になったという話を聞いて、そんなことはあ
(九) 耕しても飢えの恐れがあるが、学問は必ず報われるということ。
17
ほほ
す
を装っていて龍や虎に対面する驚きであった。ところが終
か。あなたの処方箋は、その登場たるや千金に値する毛皮
えてこのように言う。
「ああなんという間違った説である
法を聞くに値する人物でなければ秘法が口を閉じて内に隠
は、真の深さを思い描くことなどできないからである。秘
で き な い し、 短 い 指 で 大 海 の 深 さ を 比 較 し て 想 像 す る 人
ら、短い紐のつるべによって深い井戸の底水を汲むことは
を刻んで信頼を得てもなかなか教えてもらえない。なぜな
わってみると一寸に足らない小さな蛇のようであり小さな
れ、それを受け取る器の大きさがなければ秘法は泉の底に
にっこり微笑して頬を緩めてゆっくりと話し始め、目を据
鼠のようにちっぽけだ。
ご自身の重篤な病も治せないのに、
眠り、その存在すら見えない。このようにして時が来るの
じゅうとく
どうして他人の足の腫物を軽々しく論じるか。あなたの治
を待って開陳し、人を選んで伝えられる」と。
学んで術を得ました。私達は運良く先生にめぐり合うこと
はれもの
療方法に従えば、病を治すどころか、あなたの重病まで病
それを聞いて亀毛公は、愕然とし自分の説を振り返り、
恥ながら言う。
「先生、もしも別の説があれば、私のため
ができました。かつて邴原という人は千里を旅して求めた
そろ
むことになろう」と。
これを聞いて亀毛公らは揃って言う。「昔、漢の武帝は
さいおうぼ
ちょうぼう
こ
長生きの仙術を西王母に請うたし、張房という人は壺公に
に説いてください。私は兎角さんに言われて断ることもで
が、そのように労することもなく、彭祖という人が得たよ
がくぜん
きず軽々しく語ってしまいました。春雷は春を告げて生類
うな万年の命を得られるのです。なんと素晴らしいことで
へいげん
を啓発します。その警鐘を秘めることなく私に開示してく
しょう。幸いなことでしょう」と。
そこで三人は言われたように壇をつくりそこに上がって
誓いをして、犠牲獣の穴の前でその血をすすって血盟を立
ほうそ
ださい」
。
三人は並んで礼をして頭を地につけて隠士に頼んだ。「重
ねて教示することをお願いします」と。
かくかく
「あの赫々と燃える太陽はだれに対しても
隠士が言う。
広く輝くのに盲の人は見ないし、落雷は地響きして轟音を
ろう
鳴らすけれど聾の人は聞かない。それに比べても道教の祖
す る と 隠 士 が 答 え る。「 祭 壇 を つ く っ て 誓 約 を す れ ば、
教えの一端を少しだけ示そう」と。
こうてい
師黄帝の秘教は普通の耳をもってしては深遠で手が届かな
い。その秘法はだれかれに安易に説くわけにはいかない。
けつめい
犠牲獣の血を飲んで血盟して決意を表したり、連名して名
18
生きをする秘術はその道順や種類がはなはだ多種多様なの
で具体的に述べることはできないが、少しだけ大綱をかい
てた。そして誓いの儀式も終わって教えを請うのである。
あなた
摘んで説明しよう。
かげろう
きかく
方たち謹んで聴きなさい。
隠士が言う。「よし分かった。貴
今あなたたちに授けるのは不死の神術であり、説くのは長
生きの秘法である。あなた方の蜉蝣のような短命を亀鶴に
ろ
ば
昔、秦の始皇帝や漢の武帝は、心には仙人たらんと欲し
たが、実際の行動は俗人であった。彼らが度を越して楽し
さんらん
4
並ぶ長寿に変え、手負いの驢馬のような弱い足を空飛ぶ龍
んだ鐘や鼓などの楽器のけたたましい音は彼らの聞く力を
4
のような駿足に変え、昼は太陽、夜は月、新月には星とい
奪 い、 目 を 惹 き つ け る 金 襴 の 燦 爛 た る 衣 服 は 視 力 を 損 ね
4
うように時刻に左右されず適時自在に活動し、八人の仙人
た。また彼らは美女の紅の瞼や朱色の唇を片時も離れるこ
4
と自由に対面し、朝は渤海にある金銀の宮殿にのんびりと
とができなかった。食事には必ず大量の魚や肉を食らい、
4
遊び、夕暮れにはその東にある五岳の黄金宮殿を回遊して
その死骸は山となり流れる血は川となる。このような所行
4
夜になるまで時を忘れて悠々自適に過ごすことを可能にし
はあまりに残酷で多岐にわたり数限りないので並べ立てる
ふた
らんだい
さま
残すのは排泄物の山なのである。心と行いが違っているか
こともできない程である。彼らの仙人たらんとする思いや
4
てさしあげよう」と。
努力は雨の滴ほどの小さなものであり、彼らが結果として
つづみ
「感服しました。つづきを
亀毛公ら三人は答えて言う。
お聞かせください」と。
らただひたすら労力を浪費する。その様はまるで四角の容
かね
「この天地宇宙というものは捏ねた粘土か
隠士が言う。
ら種々のものが産み出されるように、あれもこれも同じも
器に円形の蓋をして合わせようとする愚かさであり、氷を
ぼっかい
のからできていて本来差別がなく、溶鉱炉で鉱石が溶け合
こすって摩擦によって火を得ようとする愚鈍に似ている。
こ
うように是非の判断や執着を離れていて、愛憎とは無関係
そうであるのに世間の一般人は、「帝皇のような高貴な人
しょう
の性質のものである。そうであるから天が好んで松仙人と
でさえできないことだから一般人には到底無理である」と
がんかい
喬 仙人を厚遇して長寿とし、項槖や顔回らを短命にした
思って仙術をほら吹きだとか怪しい術だと決めつける。し
こうたく
わけではない。その違いは彼ら自身が各々自身の性質を良
かしそれこそ迷妄である。かの欒太将軍や先の二人の皇帝
きょう
く保ち得たか否かなのである。その性質を養う方法や、長
19
かす
やから
ぬか
がれき
は、仙人道のなかの糟と糠であり仙人になりたがる瓦礫で
ある。深く憎むべき輩である。あなたたちは心を専ら注い
ひぼう
で術を学んで後の人に誹謗されないようにしなさい。良く
に簡単に到る。
がある。そして凡夫には千金の高い価値と見えるものも仙
どの濃い味のものを取らない。よく孝あり信あり仁あり慈
いて疲弊せず、粗野な言葉を止め、食べるものは魚や肉な
絶っている。無理に遠くを見て楽しむまず、また音曲を聴
流さない。その身は好悪の臭いを遠ざけ、その心は貪欲を
真の仙人は自分の手足で小さな虫を殺さず、肉体をもつ
かんいん
よだれ
生きものに対して姦淫を思ったり食料にしてやろうと涎を
学べば必ず先の糟糠を越え
( ていくのだから。
生きしたということを未だ聞いたことがない。これを絶つ
身の中にこのような敵が沢山ある。この敵を絶たずして長
哀しみも、これらは心身を損なうことが甚だしい。自分自
を奪う鉞である。激しい大笑いも、大きな歓喜も、怒りも、
や切れ長の眉の美人は命を切る斧であり、歌舞音曲は長寿
切り裂く剣であり、豚や魚は寿命を縮める矛であり、黒髪
あれこれの珍味である五穀は胃腸を腐らす毒であり、あ
4 4 4
はらわた
れこれの香辛料は目を突つきつぶす毒鳥であり、酒は腸を
事を離れることができれば仙人となる。
とはいえ俗人が手にしたいと願うものは、まさに道士の
4 4 4 4
厳禁するものそのものである。だからこそ俗人が愛する俗
人の目から見れば無価値であり、それらを蹴散らすことは
ことは俗人とともに生活していてはまずできない。この俗
そうこう(一〇)
あたかも塵芥を蹴るがごとくであるから、幾万の乗り物を
事や習慣や楽しみを絶ちさえすれば仙人となることは易し
行う。北極の紫宮である天門に相当する自身の鼻孔を叩い
に取り込む呼吸法は時節に適したものを緩急などの方法で
はくじゅつ
まさかり
つるぎ
擁する天子の位を草履を脱ぐように放り棄て、腰のくびれ
い。まずはこの肝要を良く理解して後に、次の薬を服しな
ちみもうりょう
にお
た美人を見ては魑魅魍魎のごとく見て関わらず、爵位や俸
ければならない。
ぞうり
祿を見ても腐った鼠の死骸のように見える。彼は静寂にし
朮、黄精、松脂、穀實などの類の仙薬は身体の病を除
白
き、蓬でつくった矢、葦でつくった矛、神の護符、呪文な
よう
て無為である。平
( 安にしてあくせくした雑事を減らし用事
なく無事である。このように生活や行いそのものを改めて
どは外敵を防ぐ。生気と死気を選別するから、生気を身体
(一一)
から後に学ぶならば、この道は右手で左手の掌を指すよう
(一〇) 糟のように取るに足らない先輩
(一一) ある種の空のような境地が説かれる。
20
ひき
わいけん
こころ
らす景色を上空より眺望して回るのである。その心は、馬
れいし
て甘露の泉水を飲むことができ、地中を掘って仙薬である
に鞭打てば天空の八極すなわち果てまで行き、意の車に油
(一二)
きゅうくう
玉石を服薬する。不老長寿の薬である霊芝や長寿の蟇蛙を
をさせば九空すなわち全ての方角へと馳せることができ
ふくりょう まつのあぶら
じく し
干したものである宍芝をわずかに食べて朝の飢えをやわら
る。太陽が照らす限りの広大な城に思いのままに光のよう
き
げ、利尿剤の伏苓や松脂からなる威僖を摂って夕べの疲れ
い
を癒す。日中には姿を隠し、夜半には眼が見えて書物を記
に達し、天帝の(宮殿に悠々と遊ぶ。織り姫を機織り星に面
こうが
会し、不死を得て昇天したという姮娥を月のなかに見る。
しる
す。地下を透視することができ、水上を遊歩する。鬼神を
軒帝を訪問して語らい、古い仙人の王喬を求めて仲間とす
かみわざ
おうきょう
従え、龍にまたがって飛び駿馬に乗って走る。刀を呑み火
る。大鵬という鳥の寝所を見て、昇天した淮犬の場所を見
けんてい
を呑み風を起し雲を起す。このような神業が可能であり、
る。星座を旅し牽牛の星に到る。気分次第で天空に仰向け
けんぎゅう
どんな望みも満たされる。
がない。寂寥として音がない。天地と
心は淡白であり慾
ともに長く存命し、太陽と月とともに久しく楽しむであろ
せきりょう
は飲み方があり、調合には術がある。もしも一家に一人が
う。なんと優れたことか。なんと広大なことか。東父と西
よく
に寝ころび、思いのままに昇降する。
これを成功させれば一族揃って仙人となって空を翔る。わ
母という仙人の話をどうして怪しむだろう。これが私が聞
また銀と金は天地の最高の精髄であり、仙人となる薬で
ある神丹、錬丹は薬のなかでも最高の霊力がある。それに
ずかに少しの薬を飲めば午後には空を飛んで天空に到達す
き学んだ霊宝の秘術である。
すべ
る。その他、護符を呑む術、生気を取り込む術、遠路を一
(一二) 私見であるが、ここに書かれる情景は世俗の栄華権勢を手中にし
て自由自在であるということを主張しているようである。儒教世界=この
世の弱肉強食の権力ピラミッドの克服がならずとも、仙人という個人の世
界でそれを手にできると豪語している。その一方でやはりそれは独りよが
りでしかないということが予感されている。
まと
歩とする術、変身の奇術など、仙術は数えきれないほど多
わられて心を苦しみに焦
世俗を見れば、人々は貪欲に纏
つな
がされ、愛欲に繋がれて精神を焼かれている。朝夕に食ら
い。
もしこの道に熟達して術を得れば、老衰の弱体は若年の
きょうじん
強靱に若返り、白髪は黒髪となって生命力を得て寿命を延
またが
ばす。死亡予定日を次々と白紙にして命は久しく続く。上
そうそう
方には蒼蒼たる空に跨がって駆け回り、下方には太陽が照
21
わねばならず四季に合わせて衣服に苦労する。浮雲のよう
はかな
に儚い富を願って泡のような財宝を集め、過分の幸福を求
めて一瞬のこの人生を満たそうとする。亀毛公、あなたが
説くことは、人生の朝にはちっぽけな楽しみに浸って天上
の真の喜びを忘れ、人生の黄昏が迫ると取るに足らない憂
いを塗炭の苦しみのように悲しむものである。短い娯楽の
時間がそれも終わらぬうちに悲しい結末が迫る。今は宰相
にら
であるが明日は下僕なのだ。始めは鼠をいたぶる猫のごと
く奢っており、終わりには鷹に睨まれた雀のように卑屈に
なる。朝露は太陽が昇れば否応なく干からび、小枝の葉が
風や霜に無力にも散らされてゆくのを忘れている。嗚呼、
4
4
4
くさぶき
る。今より以後は、このことを心にしっかり留めて精神を
懐を寫す頌 無常を観ずる賦
生死海の賦 三教を詠ずる詩
錬磨して、末永くこの言葉を味わいましょう」。
假名乞兒論
かめいこつじ
名乞兒という者がいた。素性を明らかにしない。草葺
假
の粗末な家に生まれ、戸は蝶番がはずれたので縄でくくっ
4
痛むべきかな、そのさまはよしきりという鳥のように愚鈍
た門扉とともに成長した。志は高く繁華街の諸々の誘惑を
かんなん
である。言うまでもないことであるが、私の師匠が説くこ
退けて仏道を得ようと艱難を越えて修行している。黒髪を
や
剃り落としているのでその頭は銅製の瓶のようだ。痩せて
さぎ
えさぶくろ
かめ
ととあなたが説くことの雲泥の差異。あなた方が楽しみと
脂肪がなくなり顔は土鍋と見紛うばかりである。容色がな
そ
することとわが朋友が好むこととは、どちらが優れていよ
くなり憔悴していて体つきは小さく醜い。細長くやつれた
まが
うか。その勝敗はどうであろうか」と。
脚は骨が突き出て湖畔に立つ鷺のようである。頸はやつれ
しょうすい
そうすると亀毛公、蛭牙公子、兎角公らは揃って跪いて
言う。
「私達は幸運にもあなたにお会いできて良い言葉を
て細く縮こまり筋ばかりが浮きでて泥の中にいる亀のよう
くび
聞きました。塩漬けの魚の陳列台のたまらない臭みと、香
だ。五片に割れた木の鉢を牛の餌袋のような袋に入れて常
しゅうび
と
炉の芳香程の差、あるいは醜い犨縻と美男子の子都程の差
に左の肘に掛けている。百八の珠で数珠をつくって右手に
し
を知りました。金と瓦礫は異なり、芳香と悪臭は別物であ
22
しりがい
こやすがい
4
4
4 (一三)
(一四)
(一五)
こうしつ
う ば そ く
る私度僧は切(っても切れない膠漆の無二の親友となった。
わらぐつ
4
か け て い る が、 そ の 玉 は 馬 の 鞦 の よ う に 大 き い。 朽 ち た
4
藁 沓 を 履 い て い る が、 そ れ は ど う も 道 祖 神 の お 供 え 物 を
4
また光明と(いう名のやはり勝手に在家信者を名乗る優婆塞
は、深い理解者として、施主となってあれこれを施してい
4
取ってきたらしく、牛革製の立派な靴は遠い昔に朽ちて履
4
た だ い た。 あ る 時 は 伊 予 の 金 山 出 石 寺 の 山 に 登 っ て 雪 に
4
けなくなって捨てたきりなのだろう。荷馬の手綱を帯にし
かや
4
遇って困窮した。またある時は石槌山の峯に跨がって食料
4
て い て、 犀 の 角 で つ く っ た 帯 な ど と っ く に 投 げ 棄 て て し
4
を欠いて飢えてどうしようもなかった。ある時は雲辺寺の
4
まった。がじがじの茅を編んでつくった寝袋を持ち歩いて
4
4
辺りに実家の母を(こっそりと見て決心が揺らいだが思いな
4
4
いるから、町の傍らに寝ている乞食でさえそこまでは落ち
ぶれていないぞと顔を隠し頭を伏せて恥ずかしがる。縄を
編んだ椅子を背負っているので、牢屋住まいの盗賊も膝を
抱えて天を仰いで嘆息する。口の欠けた水瓶は油売りの服
あご
のように薄汚れ、鉄輪がはずれてなくなった錫杖は薪売り
ひげ
の小枝かと思う。鼻は折れてつぶれ目はくぼみ顎が飛び出
し眼は角張っている。口はひん曲がり鬚はなく子安貝に似
ている。歯は抜けて裂けた唇は兎の口のように恐ろしく異
様である。そんなふうなので、時々、町の市場に入ってい
くと瓦礫が投げつけられ雨のように降ってくる。また船着
場を過ぎようとすると馬の糞が投げられ霧の中を行くあり
さまである。
そんなふうで見すぼらしい状態の上に追い打ちをかけて
人々には蔑まれるという苦境にありながらも、僧侶を名乗
(一三) 原文、阿毗私度。当時は僧の身分は律令で厳しく規定されていた。
私度僧とは、朝廷の許可を得ず、自分で違法に出家した抜けがけの僧であ
る。当時、公地公民で土地も人間も朝廷の私物化が進み、口分田に縛りつ
けられ、また納税や徴用を義務づけられたが、その抵抗者や自由人や租税
滞納者は、里を棄て逃亡し山野や辺境の土地、逃げて暮らした。またそも
そも狩猟民が土着していたわけだから、狩猟民は、山間や海辺や僻地へと
追いやられて隠れ住んでいた。その僻地に、逃亡者が集まったり、修行僧
が集まり、助け合って生きていたと思われる。僻地共同体、後には落人の
五家荘などもこの類になろうか。公地公民の「公」とは共同体ではなく、
時の利権者である。
(一四) 原文、光明婆塞。衛門三郎伝説の真偽はさておき、三郎と見すぼ
らしい姿の弘法大師は四国松山荏原の里に不遇の出会いをするのだが、衛
門三郎の戒名は光明院四行八蓮大居士である。光明の名は三教指帰にヒン
トを得て付けたのか。それとも真魚に宿や食事の接待を施して彼の光明発
見を後押しした実在の人がいて、彼がその三郎であったか、あるいは彼が
その後三郎の名を得てその史実を伝えたか。どちらにしても、真魚は市の
乞食も厭う程の哀れな落ちぶれた汚い姿で、四国の辺土を彷徨しつつ、光
明さんに助けられたのである。
( 一 五 ) 注 に、「 須 美 能 曳 乃 宇 奈 古 乎 美 奈 」 と あ り「 住 吉 の 海 子 女 」 か。
原文「孃」である。意味は大きな女。母親を指す。他所に「進退窮まる」
と書き、「立身出世も出来ず、かといって帰宅して父母に会うことも出来
ない」と嘆くことや、場所が讃岐の雲辺山であり、そこからは真魚の生地
23
こ
べ
老も比べ物にならない。その見かけは笑うべき姿であろう
とも、志は既に固まっていて奪われることがない。
おした。またある時は滸倍の尼を観て心が引かれたが決意
してそれを厭い離れた。
(一六)
その生活はこうである。霜を払って野菜を食う。そのあ
りさまはかつて子思という人と同じである。雪を除けて肘
が假名乞兒に言った。
ある人 (
「 私 は 師 匠 に こ の よ う に 聞 い た。 こ の 天 地 宇 宙 の 生 き も
4 4 4 4 4
のの世界で人は頂点に立つ。その中でも人の行いの美徳の
かなめ
を枕として寝るありさまは、昔に孔子が説いた訓戒に等し
ふすま
最高なるものは孝であり忠である。その他種々の美徳があ
す
4
い。 青 空 が 幕 と な っ て 天 を 覆 う か ら 家 屋 を 築 く 苦 労 が な
み
4
るが、この二つはそれらの要である。だから父母に頂いた
4
4
い。天空にさまざまに模様を描くあの雲この雲は、山々に
4
たもと
4 4
身体を損なってはならず、また君主の危機には身命を投げ
えり
4
4
懸かって囲いとなり御簾や襖もいらない。夏は気持を解き
あらわ
4
4
出さねばならない。このようにして名を立て先祖の誉れを
4
4
放って襟を広げて爽快な吹く風に向い、冬は頸を縮めて袂
4
4
顕すのであって、忠孝のいずれをも欠いてはならない。ま
4
を締めて身体の火を温める。どんぐりを食らい、粗末な野
た人生の楽しみは、豪奢な享楽と、出世して貴族となるこ
ろ
そうし
4
菜を十日に一度食らう。紙でつくった服や葛でできた衣は
とである。百年をつきあう親友に比べても妻や子を愛する
4
4
4
破れている上に寸足らずで両肩を隠すことができない。粗
気持はより深い。子路という人が出世して祝杯をあげたが、
4
かずら
末な家に寝て半粒の食にこれで良しとする。学才はあった
親の死に間に合わなかったため、心は宴にはなく逝去した
4
(一六) 明らかに、二頁の、朝廷に仕える阿刀大足や味酒浄成、岡田牛養
などの親戚を指す。原文、一多 ノ親識。
し
が放蕩に溺れた何曾という人のように、次々と食欲をかき
親の墓所にあった。曾子という人が大邸宅に住むに至った
こいあじ
4
たてる滋味を願わないし、温かな皮の衣を愛用しない。生
のは君主にひたすら仕えたからである。それに比べてあな
4
きものの王者として他の生きものを凌駕し痛めつけること
たには君主もいるし親もいるというのになぜに養わず仕え
4
を楽しみとし、雄としての性欲を満たすことを楽しみ、そ
ないのか。無駄に浮浪者の群れに埋没して、愚かにも租税
かそう
の快楽生活を延々と長寿を得るまで楽しんだというかの
や賦役を逃れた逃亡者のような輩とつきあっている。恥辱
さんらく
は
三楽の翁などはこれを見て、自分の放蕩三昧を反省して見
苦しく思って愧じ入るのである。義に厚い過去の四人の長
の屏風ヶ浦はすぐ眼下に見える場所であることからも、孃とは母である。
24
のである。それが分かっていてあなたは愚行を行う。親戚
下の大罪であり極刑に処すべきものであり主君が恥じるも
の行為だ。先祖を侮辱し、汚名は代々に残ってしまう。天
代へとつづいていく。これこそ忠である。伊尹や周公や箕
向へと補佐する。そうすれば子々孫々に栄え、名誉は次世
我が事と心得て、君主ただ一人に仕えて進言して正しい方
事にする。天下を四方の海と思い、その海すべての大事を
夏には涼を冬には暖を与えるように心がけ、夕べには寝所
とを行い、外出するときにも帰宅するときにも挨拶して、
「自宅にいるときは親の顔色に気
その人は答えて言う。
をつかって常に親を喜ばせ、真心をもってできる限りのこ
すると假名乞兒は憮
い
と謂うか」と。
思い出せば、その恩の高さは五岳に並び、深さは四水を凌
とがありませんでした。その骨身を惜しまぬ行為の数々を
も忘れず私を抱いて歩いて、常に一緒にいて私を忘れるこ
と内蔵が痛み爛れて裂けます。父母が私を育てるのに片時
として聞きました。私はたいしたものではありませんが、
き
はあなたに成り代わって恥ずかしさのあまり地に入り、赤
子や比干などの人々はその手本とすべき人である」と。
を整え、朝には安眠を気づかって、常に和顔で対面して親
ぐ。このことを骨に刻み皮膚に銘じて決して忘れません。
いいん
の他人でもあなたを見かねて目を覆うだろう。すぐにでも
を大事にする。これを孝という。虞舜や周文はこれを行っ
報恩しようという気持は果てしなく、父母の意に沿いたい
ひかん
改心して忠孝の道を取りなさい」と。
假名乞兒が答えて言う。「親を大切にし、君主をたすけ
ることが孝であり忠であること、恐れ入ってあなたの意見
て皇帝の位に登り、董永や伯喈はこれを守って美名を今に
という気持こそ最も大きい。ですから南垓の詩を詠んで恥
然として問い返した。
「何をぞ忠孝
ぶぜん
伝える。歳が四十歳ともなれば仕官の試される歳であり、
を思い、蓼莪の歌を歌って愁嘆します。孝行を尽くすとい
りんう
りく が
ただ
ただ
せんたつ
ふな
かわうそ
がい
しの
それでも獰猛な鳥や獣とは異なります。父母のことを思う
どうもう
このとき親孝行の努力をそのまま移して命懸けで忠に徹し
う林烏という鳥や泉獺という獺を思っては終日身を焼か
ぐしゅん
君主に仕え、事有る時には顔色を変えてでも君主に忠告し
れ、夜更けまで肝を爛れさせます。いつも嘆いていること
はくかい
て諫め正す。その内容は上は天文学から下は地理に至るま
は、楚の国が河を造ったときに鮒が干されて死ぬのを避け
とう
で幅広く博学を必要とする。温故知新、古きをたずねて今
ようとしたが間に合わず鮒は死んで店頭に晒された話や、
いさ
に当てはめる。また遠くの人々も近くの人々も隔てなく大
25
きさつ
呉の国の李札という人は剣を求められた時に献納しなかっ
たために君主の生前に間に合わず、やっと死後になって墓
所に剣を献上したという話であり、こうして今も何もせず
に手をこまねいていては手遅れになるということです。私
しょう
おもい
懐を寫す頌
ここに頌を作って懐をそのまま写して言う。
うね
力にたより田の畝を耕そうとすれば筋力なく
は
の両親は老いて髪は皤皤として白くなり、どんどん墓所に
故事に習い角を叩いて仕官しようとしても学識がない
は
行く日が近づいているというのに、私はというと狭量で凝
智恵がないのに着任すれば職務空転の謗りを受ける
かんげき
そし
り固まり頑頑として受け付けず授乳の恩返しをする術を未
欲ばかりが強くては徒食の烙印を押される
がんがん
だ持ちません。陽は昇り月は満ち欠けして時の過ぎ行くこ
成果のない高給取りは最も不正なるものである
いとま
らくいん
とは矢のごとくであり父母の短い寿命へと迫っています。
精勤の賞賛はただ周の国にのみ聞こえる
としょく
家の財産は底をつき、塀も屋根も傾きつつある。また二人
孔子は天性の聖者なので暇を言われる間隙なく遊説した
がんめいころう
の兄は相次いで亡くなり、幾筋もの涙が溢れて流れる。曾
私は頑迷固陋であり、そのままで何の道に従うべきか
ふた
せ
祖父や曾孫の九族は少なく私が頑張らねばと涙するばかり
進まんと欲すれば才能無く、退かんとすれば逼め有り
おお
です。憤り嘆いて昼を過ごしては夜を迎え、朝に悲愴の痛
あ
進退両つの間、何ぞ嘆息すること夥き
あ
みを生じてそのまま夕べを迎える。嗚呼なんという悲しみ。
進んで君主に仕えようとすると笛好きに琴好きになれとい
きわま
うようなもので、私の特技を好むような物好きな君主はい
4
自身を虎に与えた。このとき彼らの父母は地面に倒れるほ
異国に入って孝をなし、釈迦は過去に菩薩であったときに
たいはく
ここに頌詞をつくり終わってしばらく沈思して手紙に記
し た。「 私 は 聞 く。『 小 孝 は 力 を 使 っ て 働 い て 親 に 与 え る
4
ないし、退いて人知れず黙っておられるかというと、私の
4
が、大孝は天下国家の為に思いやりの仁徳を施して広大で
4
働きと収入を期待して待つ親がいる。進退のこれ谷れるを
まと
ある』と。この理由で、泰伯という人は髪を剃って野蛮な
(一七) き き ょ
。
歎き、起
( 居の狼狽に纏はるありさまなのです」
(一七) 谷と書いて窮まるの意味。序に谷響きを惜しまず明星来影すとあ
るが、その谷とはこの窮まることを謂うか。
26
も、刑を軽減して人を助ける徳や、先祖の墓を清掃すると
たいはく
あらわ
どの痛みを受け、親戚は天を呼ぶほどに嘆いた。泰伯や釈
のち
いうような仏が説く福徳や智恵の善根がいかに尊いかを知
4
ら みつ
4
迦は父母から頂いた尊い身体を損なって一家全員の心を傷
4
らない。あなたの説示はこのことについて言い切れていな
4
つけたのだから、あなたの説に従えばこの二人は孝行に背
4
いので後に露にしたい」と。
4
こうでい
4
いた。しかしながら泰伯は至孝の号を得て、菩薩は大覚の
4
称号を得た。ならば終極においてその道に一致すれば良い
假名乞兒はこのように手紙に書き送ってその思いを固く
うきくさ
決心して、父兄にも関わらず親戚にも近づかず、萍のよう
4
のであって、目先の局面に拘泥してはならないのである。
に風に流されて諸国を流れ歩き、蓬が場所を選ばず自生す
もくれん
き どう
は
りついには空っぽとなる。住居としている石窟の蓄えも底
よもぎ
目 蓮 尊 者 が 地 獄 の 母 の 苦 し み を 抜 き、 那 舎 長 者 が 父 母 を
るように知らない土地に転々としていたのである。
が
しんしゃく
なしゃ
餓鬼道から救ったことは寧ろ大孝であり善友であろう。私
むし
は愚かで頑迷であるが論語や仏典を斟酌して先人の遺風を
ところが天の川の無数の星も朝焼けとともにまばらに
なってついには消えていくように、内蔵の六腑も静寂とな
けんさん
いんとく( 一 九)ことごと
研鑽し尊ぶ。来る日も来る日も国家のためにまず六波羅蜜
ふくとく ( 一八)
も立ってもいられない。飯炊き釜には塵が舞い、竈の中に
(二〇)
の福徳を積ん
( で、両親にその 陰 徳 を(悉 く譲っている。こ
の六波羅蜜の智
( 恵と福徳をすべて忠孝とするのである。あ
なたは孝とは、ただ寝床をつくり、出世し、よく稼ぐとい
は苔が生えている。そこで思うのである。「わが教えであ
4
4
4
4
4
4
(二一) 奈良の平城京か長岡京か京都か。
4
4
かまど
従って満足した。不動明王なら二人の童子をお供に連れて
即ち松林を出て家々が立ち並ぶ王城の都市を(目指し、鉢を
捧げて乞食して歩き、得るものは少なくとも得るところに
(二一)
の我が身を背負って一日も早く豊かな里へ行くべきだ」と。
えにも食なくして学問は成り立たないと説く。だから飢餓
る仏教の教えには人は食によって住すといい、仏教外の教
4
をつき、体内の八万の虫が空腹を訴えるようになると居て
う労働や、身体を屈伸してお辞儀をすることは知っていて
(一八) 仏教の重要語。大乗仏教は福徳と智慧の二つを完成して悟る。福
徳とは他者に施す善行であり、この善行の累積によって菩薩は悟る者の資
格を得る。福徳が基盤となって悟りの土台が用意され、その上で智慧=正
しく選択決断する能力が身につくとする。但し各経典各宗派で解釈は異な
る。
(一九) 人知れず蔭で福徳を積むこと。
(二〇) 布施、持戒、忍耐、精進、禅定、智慧の六つ。殺さない等の十善
の戒律を守り、貪欲怒りなどの煩悩を制御して忍耐し、仏道や仕事に精進
して、他者に教えや実りを施し、そのことによる清涼を楽しみつつ仏の教
えを楽しんで禅定し、仏の正しい選択決断の智慧を身につける。
27
けつ
さ
しらみ
る諸物へ走らせている。彼らの論鋒は蜘蛛の網を兜と思い
込み、見えないほど小さな虫を騎馬として鎧を着せ、虱の
行く所だか、今日は孑として単身で仏の経文を引っ提げて
来 た。 そ し て 兎 角 公 の 館 に 到 着 し て 門 柱 に 寄 り か か っ て
皮の太鼓を打って敵陣を驚かし、蚊の旗を見せて旅団を誇
まさかり
ちみもうりょう
が (二五)
立っていた。
4 ししょう
示し、我に執(着して慢心にとりつかれた矛を立て、少しば
かりの見聞知識の剣を振り、霜のように壊れやすい肘を振
4
そこで亀毛公と兎角公が論争している場面に遭遇した。
そして彼らについてこう思った。
「亀毛公らは、雷の閃光
4
り上げて魑魅魍魎の原に戦い、私利私欲の教えを競い合っ
はかな
4
こひょう
しばたた
のように儚い命で、生まれ変わる毎に哺乳類や鳥類や魚類
4
て俗論を論じ合っている」と。
4
や種々の動物すなわち四生の形をとってこの世に生まれ
4
る。その牢獄のような身体に宿り、真実を捉えられない夢
4
いて立ってい
假名乞兒はずっと耳を傾けながら目を瞬
た。虚亡隠士たちはそれぞれ自分は正しいと思い、相手は
4
のような意識で生きている。即ち、色や形の世界、声の世
4
4
間違っていると断定するのを聞いてこう思った。「彼らの
4
(二二)
4
界、香りの世界、味覚の世界、触覚の世界、考える物事と
4
水滴のような小さな弁舌や、かがり火の小さな炎のような
4
教示ですらあのようである。いわんや私は菩薩の子である
4
いう法の世界の六つの対象物である浮世の塵に対して起こ
から虎豹の鉞を手にして彼らの蟷螂の斧を砕こう」と。
エネルギーのようなもの、風=大気のようなもの、空=容器からなると見
る。
(二五) アートマンを言うのか。自分というものが永遠不滅のものと見る
見方を非難か。弘法大師は後に述べるように各所に、私達が生まれ変わり
親子師弟関係において入れ代わりして、あるときは父であり、あるときは
子であり、どこの誰というよりは、一個の生き物として同様に生きている
ことを確認している。いわば私達が固執する自己へのアイデンティティー
の陥穽を突いて、自己たるものの真実性を暴露している。間略すれば私こ
そがという慢心のなくなるところに自他の融和、同じ生き物としての悲哀
と幸福を見通している。それは悟りの果実であり唯仏与仏の世界である。
(唯仏同士のみが交信できる果実)。
ついに智恵の剣を研ぎ、弁舌の才能を泉のように涌き出
かまきり
る十八界とい
( う意識の建物に住んでいる。真実存在ではな
ごうん (二三)
い色、受、想、行、識という五蘊の国に
( 欲望がつくり出し
(二四)
た幻の砦を築き、泡のような軍隊を地水火風の四大か(らな
(二二)
「じゅうはっかい」。感覚器官を眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、
意根と言い(この六つを六処、六入、六根ともいう)、各々の根が関わる
感覚の対象が、色、声、香、味、触、法(考える内容)であり、そこで起
こる感覚や思いが、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識であるとする。
意識を中心に存在するものを網羅したもの。その存在を確認できるものや
想定できるものの記述と分類。
(二三) 意識の存在を五つに分類する。あるいは意識の所与としての物質
存在を色とし、その感覚=受、その認識=想、意思=行、意識=識に分類
して存在を捉える。色は①私達の身体、②物質存在、③感受以前の世界、
の三種の解釈が成り立つ。詳細は仏教入門 参照。
(二四) インド仏教では物質世界は地=固いもの、水=流れるもの、火=
3
28
隠士の軍隊に堂々と対面した。自陣を出て隊を整え、敵陣
ゆっくりでもなく亀毛公の陣地に入場して怖じけず、虚亡
さ せ、 忍 耐 の 鎧 を 着 て 慈 悲 の 馬 を 走 ら せ、 急 ぐ で も な く
な脚は短いと決したし、隠士の鶴のような足も長いとは言
いうべきである。優劣は眼に見えている。亀毛の鳧のよう
ま消えていく無意味なものであり、労多くして益少なしと
ていたが、その内容は氷に刻んだり水に書くようにすぐさ
かも
に入りて我が物顔に暴れる。ここに至ってまず降伏を促す
えない。あなた方は未だに覚者の中の覚者の教えである法
げき
檄を飛ばすために名文をしたためる。敵の将軍は怖じ気づ
王釈迦の教えを聞いていない。今まさに私はあなた方に要
しん
いて引き下がり兵隊は戦意を失う。敵兵自ら頭を垂れて恭
4
きょうく
点を挙げて述べよう。秦王が持っていたという偽りを見抜
しょうこう
順を示し手を縛ってくれと降伏するから剣に血を塗る労苦
く鏡をもって真実を映し、昔、葉公が本物の龍を見て恐懼
ぎ
して気絶したというが、そのように真実の教えを見て恐れ
こ
を取る必要もない。しかし今も虚亡隠士らは自説への執着
入って自分の迷いを改めよ。皆ともに群盲象を撫でるの酔
4
があって狐疑している。
いを醒ませて、一緒に釈尊の道を学ぼう。孔子や老子は二
4
して
そこで假名乞兒は、哀れんで涙を流し頭を撫でて諭
さかずき
言う。
「盃ほどの小さな水たまりに住む小魚はついに体長
人とも私の友人であるが、あなた方の無知を憐れんで釈尊
4
千里の大魚を見ることはできない。垣根ごしに飛ぶ小鳥は
が 先 に 遣 わ し た の で あ る。 し か し な が ら 聞 く 者 の 器 量 が
ほう
ぐんもう 4
鵬という大鳥を知ることがない。このゆえに海の住人は山
劣っていたので、わずかに儒教と道教として真の教えの表
さと
の木を想像するのに、魚の形をした木を思い浮かべて不思
皮の部分を説いたのである。それらは過去、現在、未来の
つか
議がり、山の住人は魚を想像して木々を思い浮かべて怪し
や
一切の時と場所を貫くすべての世界の真理には言及してい
りしゅ
し
がる。そこで分かることは離朱という人のような優れた目
ない。だから二つの教えはそれぞれに自分の分野に限定し
み はた
を持たなければ細い毛の先端は見えないし、子野という人
4
て、それに沿って教えの御旗をはためかせて、その教義を
さと
4
のような聡い耳を持たなければどうして鐘の音を聞き分け
4
打ち鳴らしているが、それは迷いというべきであろう」と。
4
られようか。ああ、見るということと見ないということ、
4
愚かであることと愚かでないということ、なんとその隔た
隠士が答えて言う。「あなたをよくよく見ると、異世界
の人のようだ。頭には一本の毛もなく身体には多くの持ち
りの大きなことか。私は先ほどからあなた方の議論を聞い
29
物をつけている。あなたは一体どこの国のどの村の誰の子
その様は激しく辺りを蹴散らして轟々と騒がしい。
さしているが年下とはいえない。なぜならあなたと私は無
で誰の弟子か」と。
「私は欲の世界、無欲の
假名乞兒は大声で笑って言う。
世界、無物の世界という三界に家をもたず、生きものが輪
始よりこのかた、生まれては死に、死んでは生まれて、次々
あなたの雪のような白髪は老境を示しているが、私より
年取っているとはいえないし、私の髪は雲のようにふさふ
廻して生まれるところの地獄の生涯、餓鬼の生涯、畜生の
と他の生きものに成り代わりとどまることがない。そうで
るてん
生涯、阿修羅の生涯、人の生涯、天人の生涯を流転する者
あるから国とか村とか生まれとかというものをああだこう
あ し ゅ ら
である。ある時は天人となって様々な天の国を棲み家とす
4
わ
めぐ
4
4
4
(二六) 弘法大師が輪廻転生をどのように考えていたかは不明な点がある
が、先ず、私とあなたが生まれ変わり、あるいは、生まれ変わらなくても
長い人生の中で、立場や状態(序中「顧其習性、陶然所到」逆に「見支離
懸鶉、則因果之哀不休」)の異同で性格や人柄や幸不幸が変化して、私と
あなたとは、区別できない同じ生き物であることが確認される。あるいは、
自我のアイデンティティーの崩壊ないし御破算が行われ、生の本質が問わ
れる。ここから弘法大師は自他の同一価値に到達する。つまり最終詩「自
他兼利済」の事実が確実となるのである。但し、この輪廻転生の仕組みと
その想像から結論される自他同一の「皆一緒感」というものは、おそらく
真魚青年の幼少の経験から出たのであり、それが仏教教理で強化されたと
私は感じる。それにしても弘法大師は輪廻の記述を梃子として、皆一緒を
終世第一義に説き続けたと言っても過言ではないだろう。そのことと、輪
廻の虚構性や輪廻の因果観による逆差別の問題は別である。かつ輪廻説が
もたらす差別問題は新たな問題となる。
あランヤ
くにまちおや
まぼろしのごとくすむ
何 ゾ 有 二決 定 セル州 県 親 等 一 ・・・
刹 那 幻 住 ・ ・」
(二七)
「 三 界 無 家 ・・・
・。
真魚青年はたまたま今回、屏風ヶ浦に今の父母を父母として生を受けたと
いう。先に書いたが、この感覚は輪廻転生を前提としなくても得られる感
覚ではある。私達は、実存的現存在つまり気がついたらここにこのように、
例えば日本の松山に誰某として生きていることを了解していくのであり、
(二六)
るし、ある時は地獄を家とする。またある時はあなたの妻
だと決めたがる必要などどこにもない。(しかしながら、今
(二七)
えんぶだい
回、ほんのわずかな時間で(はあるが、南閻浮提という人間
子として生まれ、ある時はあなたの父母として生きる。あ
どうもう
る時は悪魔を師匠とし、ある時は異教徒を友とする。この
ようであるから餓鬼も獰猛な鳥や獣も生きとし生けるもの
はすべてある時には私であり、またあなたであり、また私
の父となり、母となり、妻となり、子となる。その生命の
さかのぼ
入れ代わって生まれ変わる営みは、始まってより今に至る
4
までその最初の起源はなく、また今より始まりに 遡 って
4
みるとき、誰が何であるという定めやどの動物が何という
定めはない。環のごとく巡り廻りながら哺乳類や魚類とい
う四つの生類に生まれて各々その生きものとして騒がしく
入り乱れてもがいている。
車輪のごとく轟々と音を立てて、
今は地獄、次は餓鬼、次は動物というように輪の上になり
下になり左になり右になり、入れ代わって生まれ変わり、
30
4
4
界のなかの太陽の登る国即ち日本国に天皇統治の時代に、
ように以前はこの真理を知らなくて迷っていた。ただしこ
の頃になって、ふとした出会いで良い先生に遇って教えを
かく
『玉藻歸る所の嶋、櫲樟日を蔽すの浦』即ち讃岐国多度郡
聞いた。そして悪行を積み重ねるからこそ、その過去の罪
よしょう
屏風ヶ浦に生まれ、いまだに居場所を得ないままに早くも
によって産み出される今生とは、あたかも酒に酔って善と
たまも よ
二十四年を過ごしたのである」と。
いうことに覚めたのである。
悪、清と濁を取り違えて幻覚に生きているようなことだと
隠士は驚いて言う。
「あなたの言う地獄とか天の宮とか
は何のことか。どうしてそのように多くの持ち物を提げて
いるのか」と。
慈悲な番人がどこからともなく涌(き出るように出現して、
罪の報いとして辛苦を与える。心構えが善いときは、金閣
とも何であろうともみんな師匠の教えの雨に浴して至福を
去に善行を積んで智恵を得た生きものたちは竜神であろう
私の師匠は釈尊である。師匠の志は最も深く、この世に
仮に八十年の寿命をもって現れ、その慈悲の心は極まると
や銀閣が突然にあちらこちらから飛来してきて集まり、こ
得て、枯れた枝を生き返らせ、将来の悟りを約束した。し
説いた。そこで大弟子の文殊や迦葉たちは釈迦の意向を諸
教えを開く印璽を与え、衆生救済するようにと弟子たちに
いんじ
文殊菩薩たちに命じて、五十六億七千万年後に弥勒菩薩に
の故に慈悲の聖なる帝王は入滅のとき、丁寧に弥勒菩薩と
分の殻に閉じこもって真の悟りの醍醐味を忘れている。こ
わず、厠の虫がその臭いことを知らないように、ずっと自
ころを知らず、三十歳で悟って仏陀となった。このとき過
の上ない喜びを与えてくれる。心を改めるのが困難である
かし福徳を積んでこなかった者たちは、何が真に尊く何が
(二八)
「行いが不善であるときは、地獄の無
假名乞兒が言う。
から天の国や地獄があるのであって、それらは固定された
(二九)
下品かが分からず、自分の今住んでいる場所こそが最高で
4
ものであったり誰かに決定されたものではなく心が変われ
4
あると固執して、自分で悪臭を発する虫が自分の腐臭を匂
4
ば生存の住所としての生まれも変わ
( る。私もあなたがたの
私が私であるということは、徐々に確定されるし、その確定の根拠は希薄
であり、どこそこのだれそれで身分がどうの収入がどうのなどの思い込み
を払拭すれば、そこに残るのは同じ生き物としての一個の主体や個体であ
る。その一個というものも他者と微妙に綿密に関わっていて、ついにはこ
の世から自分を抽出することすら不可能である。
(二八) 空海大師が輪廻をどのように解釈していたかは不明であるが、実
在というよりは心に従って映ずる世界を中心としたこの世を中心にして描
いている。
(二九) 身体と意識をいうか。例えば虎の体と虎の心。
31
て、愛馬を持たないから馬ならぬ自分に飯を食わせ、高級
これが理由で私は間髪を入れず法王釈尊の御意向を承っ
ここで假名乞兒は心の内を述べようと思案して『無常の
リンリン
賦』を詠み、『受報の詞』を示した。凛々と錫杖を振って
ていた」と。
らあなたの屋敷の門扉の所までやって来て、旅の糧を乞う
車がないから車ならぬ自分に油を差して鼓舞し、衣服を整
目を覚まさせ、鳥がさえずるような玉のような声を柔らか
国に伝え、
人々に弥勒が次の教主に即位することを告げた。
え、 道 を 選 び つ つ 昼 夜 を 分 か た ず、 弥 勒 菩 薩 が 居 ら れ る
に発して、亀毛たちに唱えて言う。
とそつてん
そび
無常を観ずる賦
都卒天に向かうところである。修行の道は厳しく、この道
には人はまばらで世俗を離れ華美はなくひとり行く道であ
りながら、この道は雄大無窮であって様々な教えが数限り
(三〇)
なく説かれており、いまだにどの経典を取りどの道を行け
ば良いのか迷うほどである。
私には幾人かの連れがい
( たが、
「 よ く よ く 考 え れ ば、 高 く 聳 え る 山 々 は 銀 河 に 届 く ほ ど
であるが、世界の終わりには業火に焼かれて灰と消える。
四 方 の 海 は 深 く 広 く 天 の 果 て ま で 達 し て い る が、 業 火 に
(三二)
煩悩と生死の汚泥に溺
( れて出られないでいる。そ
( の他の者
は馬を駆り車を走らせて既に出発した者もあった。そこで
よって数日で干上がる。広大な大地も洪水によって砕け散
(三一)
私は所持品を自分ひとりで抱えて、単身やって来たという
る。弧を描く大空も焼かれて粉々になる。のみならず八万
も雷に打たれるがごとくに忽ちに寿命が尽きる。いわんや
たちま
劫年(ともいわれる静寂を楽しむ非想天の(境涯も雷の閃光の
ごとくに短命であり、自由気ままで広々とした境地の仙人
(三四)
わけだ。ところが食料は尽き道にも迷って、恥ずかしなが
(三三) 一劫は極めて長い時間。世界が生じて滅する間が一劫。
(三四) 悟りの境地が進むと、欲の世界(欲界)→無欲の世界(色界)→
無形の世界(無色界)へと境地が進み、非想非非想という思うでも無く思
わないでもないという特別な意識の世界へと境地が進み、その境地の者は
その天(世界)に住むという。それが非想天である。その非想天の天人の
寿命は八万劫年。
(三三)
(三〇) 先に私度僧の記述あり。
(三一) ここでは生死輪廻をいうか。仏教入門2、3等で示しているよう
に、最古経典に見る限り、汚泥はカーマの汚泥=カーマパンコーとして表
現されている。カーマとは私達が自分の欲望にって物を見て、そのものを
欲しがり、そのものが魅惑的な物=欲望の対象として見えてしまうという
ことである。
(三二) この空海の記述から推測するに、真魚青年は、石槌などに逍遥し
て飢える中、私度僧に助けられ恩と同志たることを感じるのであるが、そ
のご恩返しの思いや、彼らを救いたいという思いがここに現れている。即
ち、一日も早く自分が得道して悟り、仏道に於ける身分を得て、同志とと
もに浮かばれたいという思いである。
32
となく変化して、陽炎が消え去った跡のようになくなって
体である。五蘊は偽物
( であり水に映る月の兎の姿のように
しだい
真実ではない。四大によって構成される諸物はとどまるこ
私たちの身体は金剛であるはずがなく瓦礫のように脆い身
終われば、苔むす沢となるように容色を失う。耳飾りが美
に抜け落ちていく。咲き誇る花のように美しい目も季節が
かないか分からないような虚像を追ううちに天上に飛んで
場の煙となって空に消える。細く切れ長の眉の美貌もある
に黄泉の国に沈むこととなる。豪華な車や従者や宝玉を幾
み
いく。十二因縁は私
( 達の心を誘発して四苦八苦の苦しみが
心を悩まして途絶えることがない。貪欲・怒り・無知の三
しいふくよかな耳もあっという間に風が抜ける松林のよう
よ
毒の炎は血気盛んにして昼夜を分かたず燃え盛り、鬱蒼と
に痩せ細る。死ねば朱の紅を施した美しい瞼も、その上を
もろ
した百八煩悩の藪は年中伸び盛る。風に飛ぶ塵のように脆
青虫が這い回ることとなり、丹で染めた赤い唇も息を引き
やぶ
(三六)
かげろう
ごうん (三五)
い身体は、生きものごとに定まった年齢に達すれば春の花
取 れ ば 烏 の 餌 と な る。 様 々 に 媚 び 笑 っ て 誘 惑 し た 魅 惑 も
4
しかばね
4
4
さら
ようえん
こ
ひとみ
たた
み
4
ふんぷん
4
世の美女として抱擁して愛撫を繰り返した相手である妻で
つの穴からしたたり落ちて腐臭を発して沸く。以前には絶
の風によって蹴散らされ消されてしまい、体液は人体の九
け
蘭のように芳しい匂いは北風などの八方から吹くそれぞれ
る。細く華奢な腕は雑草に埋もれて腐敗している。芬芬と
きゃしゃ
今は縦横に乱雑に乱れて藪の泥沼に流れる塵芥のようであ
ご
居ない。ふさふさと山が聳えるごとくに湛えられた黒髪も
そび
消える。珠のように光る美しい歯も朝露が消えていくよう
4
万も所有して栄華を極めているにもかかわらず、死ねば斎
が散るように粉々になる。また寿命を尽くす以前であって
屍 となって晒されるときにはその姿は既になく、これで
うっそう
もひとたび突風が吹けばかりそめの命であるから、諸々の
もかと言い寄る妖艶な姿態も、絶命して腐った今となって
もろ
生存条件を失
( って身体や意識の存在はもろともに晩秋の落
葉のようにそれぞれに散っていくのである。千金に値する
はもはや吐き気を催すだけであってそれを求めるものなど
(三七)
珠玉のこの私なる種々の特技特質は、ほんの一尺の波の前
(三五) 五蘊は注(一八)、四大は注(一九)
(三六) 無明(無知蒙昧)が因となり、その果として行(形成作用、意志)
が生まれ、次に行が因となり識(意識)が果として生まれ、順次、名色(個
人存在)、六処(眼耳鼻舌身体心などの感覚や意識を生じる場所、感覚器官)、
触(接触、関係すること)、受(感受)、愛(渇愛欲望)、取(所有)、有(生
起)、生(誕生)、老死が生じるとする説。初期仏教の次の部派仏教の時代
に説かれる。過去世の無明と行(生の享受による、死にたくない、また快
楽を得たい、恨みをはらしたいなど)が因となってその果として現世の識
名色六処触受が生じ、それが新たな愛取有を生んでこれが因となって来世
の生老死を果として生じさせるとも説く(三世両重の因果)。
(三七) 縁起
33
うに実は価値がないのである。
に受けて実在していると錯覚したが実は幻であった話のよ
生大事にしている宝の数々も鄭交という人が仙女の話を真
媚態に惹かれた後に会えば興ざめするのと同じである。後
いを忘れる行楽や、秋の湖面を愛でながらの宴会の筵を広
う に 絢 爛 た る 姿 も 焼 か れ て 消 え て い く。 も は や 死 ん で し
る。色とりどりに着飾ってひと目を惹いてやまない龍のよ
柔らかな鳳凰のような立派な身体も野犬や野鳥の糞尿とな
そりとその場から逃げる。ああ痛ましいかな。すべすべと
戚や他人ともなると肉親に顔を合わさないようにしてこっ
死んでしまえば松風がさわやかに吹いて心地よい音がし
てもそれを聞く耳は既にない。月が夜空にくっきりと浮か
げ る こ と を 期 待 で き よ う か。 嗚 呼、 哀 れ な る か な、 亡 く
あっても、ひとたび夢に天女に出会ってその人間離れした
び月光が屍の顔を可憐に照らしだすのにそれを愛でる心は
なった妻を追悼する『潘安が詩』を詠んで別れのつらさを
てい
どこに失われたか。だから知る。薄絹の高級服も求め楽し
いや増やし、育てた子の焼死を悼んだ『伯姫の引』を歌っ
かずら
4
もちろん
4
はん
まってはかつて春の花園に遊び、いずれは花が散りゆく憂
けんらん
むべきもではなく、繁茂する葛こそ常の飾りにふさわしい
て無残な気持をいよいよ深める。この無常の暴風は仙人と
め
のである。壁を赤土や白土で装飾した豪華な家の美も保た
て勿論免れ得ない。息の根を奪う死神は金持ちとか高貴で
ひさぎ
あ る と か 生 ま れ が 良 い と か に お 構 い な し で あ る。 財 力 を
ひつぎ
れることは長くないのであり、松が繁り柩を造る材料の檟
の木が生える墓場こそ永く住む場所である。
ない。延命するという仙人の薬をたとえ千両飲んだとして
ただ
うが
もってしても権勢をもってしてもこれを避けることはでき
寞とした墓所に入ってしま
仲むつまじい夫婦も兄弟も寂
えばもはや会えない。荒れた墓地の傍らに座ってかつての
も、生き返らせるという奇跡の香を百石焚いても、死の時
せきばく
親友と交わした談笑を再現することは無理である。小枝や
はひとときも待ってくれない。
4
葉が落ちて散乱する松の蔭に倒れその幹に寄り添ってひと
4
り寂しく空しく死んでいく。ひとり孤独に小鳥のさえずり
れて形を失う。その一方で魂は
死者の遺体は草の中に爛
拘束され地獄の釜に煮られて翻弄される。峻厳な刀の山に
うじむし
を伴侶として草蔭に息をひきとる。遺体には蛆虫が湧いて
投げられて血が滴り落ちる。あるいは高い槍の山に胸を穿
うごめ
蠢き次々と湧く。歯を研いだ山犬が噛み砕いて何頭も群れ
たれ、あるいは万石を積載した赤々と焼ける車両の車輪の
ふさ
ている。これを見て妻子でさえも鼻を塞ぎ後ずさりし、親
34
得ることもない。獅子や虎や狼が牙を剥き目を剥いて飛び
ない。水を飲むことも許されず万年を経ても食のかけらを
に耐え、あるいは溶けた鉄が喉に流れて片時も休むことが
あるいは沸騰する釜の湯を呑まされて熱い痛みをとこしえ
轍に踏まれ、あるいは凍てつく氷の川の深淵に沈められ、
ものを言わない。酒飲みを墓から掘り出したかのようであ
そこで假名乞兒は瓶を取り水に呪文をかけて彼らの顔に
そそ
灑いだ。しばらくして息を吹き返したが二日酔いのように
いる。
りの恐ろしさに気絶し、ある者はあまりの悲しさに悶えて
しい親や愛妻を失ったかのように煩悶する。ある者はあま
わだち
かかり、馬の頭をした鬼たちが襲撃しようと目が光ってい
り、高宗が父との死別で三年間無言であったのに似ている。
む
る。阿鼻叫喚の泣き叫ぶ声が朝な朝な虚空に響くけれど、
そのようにしばらく黙っていたが、ややあって両目から
ぬか
涙を流して、五体を地につけて額ずいて何度も礼拝して言
あびきょうかん
赦す心は夕な夕な消えていくのか、閻魔大王に懇願すれど
う。「私達は今までずっと瓦礫を大事にし、取るに足らな
ゆる
も哀れみは通らない。妻子に助けを求めようとしても便り
い楽しみに耽っていました。苦菜を食う虫がその苦さを知
か
にが
なく、財宝で許しを請うにも一片の宝玉も手許になく、逃
らず、厠に長くいるとその悪臭が分からなくなるようなも
にがな
亡しようとしても城壁が高く遮る。嗚呼なんと苦しいこと
のでした。道を知らぬ者が目隠しをして険路を進み、足を
ふけ
かな、痛ましいことかな。私がもしこの生存中に努力をし
痛めたのろまな馬を駆って暗い道を行くようなものでし
さえぎ
ない理由で先のような一つ一つの苦しみと艱難に曳いてい
た。いずれ迷いいずれ落馬することを知りませんでした。
かわや
かれるならば、何度歎き何度苦しもうとも誰の助けも求め
今たまたま慈しみ深い教えを示していただいて、自分が歩
かしょう
けんろ
られない。だからこのことを忘れないようにして努めねば
んでいた道が浅く皮相なことを知りました。臍を噛む思い
かんなん
ならない」と。
で過去の過ちを後悔し、今後は粉骨砕身して正しいことを
4
百石の梅酢が鼻に入ってむせ、
これを聞いて亀毛公らは、
にがな
ただ
苦菜が喉に入って肝が爛れたようなありさまとなった。火
行います。お願いですから慈悲深い大和尚よ、もっと詳し
4
を呑まずして腹は焼け、刀で切らずして胸を裂かれたので
く仏教の極みを教えてください」と。
4
ある。嗚咽して痛み涙が連なって流れ、胸を打たれ飛び上
假名乞兒が言う。「その通りである。善い事だ。あなた
ほぞ
がっては地面に落ちてぶつかり体が裂けて天に訴える。優
35
しょうじ
方は遠くへ行ってしまう前に戻ってきた。私はさらに生死
の苦しみの根源を説いて、涅槃という至福の果実を示そう
ができない。ありとあらゆるものを吹き出し、ありとあら
ている。四つの大地を覆って広がりその大きさは測ること
おお
世界の果てまで巡っていて、眺望すると果てしなく広がっ
で は な い か。 そ の 内 容 は 宗 公 や 孔 子 ら 儒 家 が 説 い て い な
ゆるものを束ねている。その大きな腹は巨大であり、その
ねはん
いし老子や荘子も述べていない。またその修行の成果は、
どくいつ
腹を空虚にしてあらゆる流れをその内に容れる。大鳥のよ
しょうもん
声聞や独一と呼ばれる人々の到達できないものである。も
う な 口 を 開 け て も ろ も ろ の 流 れ を 吸 い 上 げ る。 波 が 湧 き
じゅうじ
う一度だけ生まれて悟るという一生補処や十地の菩薩のみ
立って丘に登り岬を洗い互いにぶつかりあって岩を砕く。
たも
大地を打つ雷の音は来る日も来る日も押し寄せて夜な夜な
いっしょうふしょ
が到達できるものである。よく聞いてよく保て。要点を示
し大筋をかい摘んで説明しよう」と。
合わさり集積して群をなして類を産み品を分かちその数は
(三九)
うろこ
を持つ魚類である。
その奇異なるものの一つは鱗
怪々である。
夥 しくして集まる。(まさかこんなものがと思うような奇
怪なものがそこで生まれる。その種類の豊富なことは奇々
おびただ
車輪のきしむような音を連続して打つ。無数のものたちが
揃って椅子を降りて拝聴の意を表して言う。
亀毛公らは、
「ただただ心を静め耳を傾けて恭しくあなたの教えを聴く
ことに専念します」と。
まさ
に
そこで假名乞兒は心の鍵を開け言葉の泉を流して将
しょうじかい
ふ
『生死海の賦』を述べるとともに『大菩提の果』を示した。
4
が多種多様化し、禅定の中で体験された世界。(仏教入門3に詳説)
( 三 九 ) 今 日 の 科 学 の 生 命 誕 生 の 一 つ の 仮 説 で あ る 地 球 ス ー プ を 思 わ せ
る。
び波を吸えば離欲の船は呑み込まれその帆柱は砕け帆は破
ひれ
生死海の賦
4
すなわち独り占めする貪欲・怒り・無知など強欲のかた
ひれ
まりの生き物である。長い頭はくびれがなく長い鰭は端が
4
ない。鰭を挙げ尾を撃って口を張って食を求める。ひとた
4
この私達が生きている生死の海というものは、おそよ欲
(三八)
の世界・無欲の世界・無色の世界とい
( うように、あらゆる
(三八) 仏教は悟りにともなう心あるいは世界の段階として三段階つまり
欲界色界無色界を説く。欲界は欲深くその欲望によって展開する世界。欲
がなくなると色形だけの色界。もっと進んで意識が変化すると色も失われ
無色界に到るとされる。但し極初期の段階では説かれていない。修行方法
36
らって後々苦難が来ることを知らないことは、鼠や蚕が食
ぐというものがない。谷が水を呑んで飽きないがごとく食
無意識・無遠慮・無思慮であり、食いまくって心に真っ直
は沈むほど怒り狂う。泳ぎ浮かんだかと思えば深く潜り、
霧を吐くときは慈悲の船などなんのその、その舵は折れ人
れ吹き飛ばされてしまうほどの貪欲の塊であり、憤怒して
右 往 左 往 し て 自 省 な く、 次 は ど の 様 に 生 ま れ る こ と や ら 、
空を飛んでいるかと思うと大声で鳴き、目の前の出来事に
下から威嚇し、鼠や犬をつかまえては伏せて大声でわめく。
廉潔白の豆をついばんでいく。鳳凰や鸞の鳥を見つけると
の実を食いちぎるようにして芽を出させることがなく、清
の十悪の沢に飛び回る。正しいことや真っ直ぐなことは菱
偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・怒り・貪欲・邪見
ひし
らって食うものがなくなるまで食ってしまうのに似てい
どのように死ぬことやら、未来の過酷な苦しみを忘れてい
らん
る。食われるものたちを憐れむでもなく相手を思って心に
る。知るべきである。悠々と飛ぶ鳥がやがて細く見えない
つまず
かいこ
痛みを感じるでもない。悠久の時の中でやがて自分が躓き
網に引っかかって捕らえらることや、池にはとりもちと大
のちのち
痛めつけられるということを忘れ、この時ばかりの身分と
縄が仕掛けられ、弓の名人が頭を砕き、あるいは尻を貫い
むさぼ
て血を出すことを。
栄華を貪っている。
(四〇)
また獣類がある。
ば り
詈・嫉妬・自讃・放蕩・放逸・無慚・無愧・
驕慢・憤怒・罵
じゅつ
不信・不恤・邪淫・邪見・愛憎・寵愛屈辱・殺害の輩であ
というのがある。
また鳥類 (
へつら
あざむ
ののし
ひぼう
って欺き、他人を悪しざまに罵り、誹謗し、悪
他人に諂
ふいちょう
口を言い、噂を流し、大声で吹聴し、他人にへつらって悪
事をなす。道に背いてあらぬ方角へと翼を整え、高く飛ん
る。その形は似ているが心は各々異なっていて、類があり
のみ
で楽へ赴く。私はまだ死なぬとか、この世は楽しいとか、
名も違う。鋸の爪、鑿の歯を持ち、慈しみは少なく穀物を
砕かれる。それを見るものは恐怖で体が震え、怖じ気づき
れに遇うものは気力を奪われ魂を抜かれ、脳を潰され腸を
つぶ
り見て獅子のように吠えて夢のような儚い谷に戯れる。そ
のこぎり
私こそが常住であるとか、私の行いは正しいとか倒錯の境
食う。虎視眈々としていて朝露のような儚い命を遊ぶ。怒
かん
地にいるくせにそれを正当化して甲高く吹聴する。殺生・
(四〇) 空海大師は魚類、鳥類、獣類を列挙するが、その内容は、魚のよ
うな人間、鳥のような人間、獣のような人間である。逆に人間の姿をした
獣、獣の姿をした人間を思わせる。
37
恐々として地に伏す。
かくしょう
このような種々様々な獣たちが、上は天界の頂点から下
むけん
くし
たむろして櫛のように群生し、津々
は無間地獄に至るまで、
浦々に巣くっている。かの郭象の名文を集めてもこの恐ろ
しい様を表すことはできない。このようであるから、不殺
生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五戒などは小舟の
えいこう
さお
(四二)
よって棹を差して欲望を静める。(即ち精進の帆柱を立て、
禅定の帆を挙げ、貪欲や怒りや慢心に打ち負かされそうに
しちかくし (四三)
なるのに忍耐の鎧をつけ、無知や諸々の障害を取り払うの
しゃりし
(四六)
に智慧の剣をもちいる。七覚支の馬(に乗って沈没を防ぎ、
しねんじょ (四四)
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
四念処によ(って私達の気を引き贅沢や闘争の世界へと引き
4 4 4 4 4 4 4 (四五)
ずり込む魅惑物を離れ(るならば、仏の悟りの位を授けられ
て至福の果実を保障せられることは、かの舎利子が釈(尊に
悟りを約束されたように確実なことであり、かの龍女が釈
ように荒波に翻弄されて悪鬼の港へと曳航されて行き、十
善戒などは古代の華奢な竹車のように邪悪に引かれて魔や
尊に首飾りを捧げて瞬時に悟ったように釈尊と同じ至福を
(四八)
(四七)
鬼の傍らに引き連れられて、悪行を行うことだけがギシギ
得られるのである。菩薩の修行の階梯の十地の(長い道も幾
あそうぎこう
シと車輪のように音を立てている。
こうして、十地の各々で解決すべき障害物を捨てて、真実
ばくかの時間でなし遂げ、三大阿僧祇劫という
( 気の遠くな
るように長い必須の修行期間も究めることは難しくない。
この故に、より勝れる心を悪業を続けてきた一日の夕べ
の反省として起こして因となし、至福の果報を修行の暁に
を 体 得 し て 悟 り の 境 地 を 感 得 し、 煩 悩 を 智 慧 に 変 質 さ せ 、
よ
が妄想した魅惑物のピノキオワールドに苦しむこととなる。その全体像を
ブッダは大洪水と呼んだ。詳細は石手寺発行「仏教入門2&3」。
(四二) 最古の経には「見えない矢」、熱望ジャッパ、渇望タンハーと表
記される。仏教の根本は欲望と忍である。
(四三) 念、択法、精進、喜、軽安、定、行捨の七つの悟るための手だて。
(四四) 身、受、心、法の四つのイメージトレーニング。
(四五) カーマという。渇望が激流として流れるとき諸事物は魅惑物とし
て解釈され迷妄の世界を構想する。詳しくは仏教入門2参照。
(四六) 釈尊の一番弟子。
(四七) 菩薩が悟るまでに十の境地を経ていくという。階梯は段階。
(四八) 注(二七)
求めるのでなければ、誰が能くこの果てしなく広がり所在
の特定できない無辺広大な生死の海底より抜け出し、偉大
(四一)
な法身大日如来に至るであろうか。実に六波羅蜜の救助の
筏を私達が漂流している河に解
( き放ち、八正道の救助船に
(四一) 原文は漂河。ここでは三毒などによって迷いの世界・即ち生死の
)では、
海に漂うことを指示す。スッタニパータ4章⑮経(略して Sn4-15
私達の迷妄の生存は、大洪水に譬えられる。欲望という急流に押し流され
て、出会うものを手当たり次第に妄想して、自分の好悪と是非分別にって
色付けするから、出会う諸事物は自分に都合のよいカーマ=欲望の対象=
魅惑物となる。そして私達は自分ででっち上げたカーマの泥沼・即ち欲望
38
しんぞくいちにょ
生死の苦しみを涅槃の喜びに変質させるから、永遠の住居
ごんぐ
に帝王を名乗る。
求と果実が一致して真俗一如となり、心
理想と現実・欣
はあらゆるものに対して、あらゆる情況において、親疎の
(五〇)
分け隔てなく平等調和する。即ち親和と排斥・好と嫌・敵
(四九)
と味方がない。四
( つの鏡をも
( って智慧を働かせれば、賞賛
と誹謗・賛同と敵対・羨望と蔑視・優越と卑屈という優勝
4
4
4
4
4
劣敗の見方を離れる。だから生起したり消滅したりするこ
とを越えていてそれを改めようとする造作の焦りがなく、
増加と減衰を越えていて失うという哀しみがない。悠久の
(五一)
時間を越えて完全に満たされて平安であ
( る。過去現在未来
(五二)
において無為であ
( る。
(四九) 親疎なしとは、大日如来と一体化して成仏するという意味にも取
れるが、その真意は、存在の同一性というよりは、認識に於ける平等性で
には、 samo
と説示す。平等の意味であり、差別なく対等
あろう。 Sn4-15
でわだかまりなく平等なことをいう。ぶつかりあい奪い合い殺し合う人々
の各所に説かれる。
のなかにあって静まっていて平等であると Sn
(五〇) 如実空鏡、因薫習鏡、法出離鏡、縁薫習鏡。
(五一) 原文は円寂。完全に円やかに静寂。
(五二) 完全に満足していて邪な意図がない。道教の無為は無為自然。孔
子曰く、五十にして迷わず、六十にして思うところに従って則を越えず。
はあらゆる欲望や記憶
道教は各々自の性を保って自ずから然り。 Sn4-15
による好悪・恨みや再現欲を離れて、衝動や意図がないから、その成果を
期す画策・葛藤・苦闘・闘争(執着して苦を引き起こす執着努力、もがき
やあがき)がない。
てんりんじょうおう
これこそなんと偉大なことか、なんと大きなことよ。聖
けんてい
ていぎょう
き
は
天子といわれる軒帝・帝堯・伏羲らの教えは靴を履いて出
てんぽうりん ( 五三)
向くに及ばず、この世の王を武力制圧する転輪聖王も帝釈
天も梵天も釈迦が走らせる転法輪の車(の補助員にもなれな
い。天魔や外道のあらゆる非難を越えているし、声聞や独
覚が賛嘆しようとしてもその想像を越えていて及ばない。
しぐせいがん
(五四)
そうはいうものの、あらゆる衆生を救いたい・すべての
苦しみをなくしたい・すべての教えを学びたい・最高の悟
ゆえ
ひ と り ご
り を 得 た い と い う 菩 薩 の 四 求 誓 願 は 未(だ 完 遂 さ れ て お ら
ず、仏は生死の海にあって溝に沈む衆生を見て、慈悲心の
故にその一人一人がわが一人子のように見えて愛しく思え
るから狼狽し、何とかしなくてはと丁寧に考える。そこで
仏は百億の分身を百億の場所に、それぞれの衆生の顔かた
4
4
4
4
4
4
ち性格技量に応じて、その人その人の器に対して適材適所
になるようにふさわしい姿を取らせて派遣する。そのあり
(五五)
4
4
4
4
4
さまは、姿のない姿であり、形のない形であって、非相・
非形の現れ方で(ある。長く遠い久遠の悟りを完成する道の
(五三) 教えの車輪を法輪といい、それを転回するから転法輪。
(五四) 衆生無辺誓願度、煩悩無数誓願断、法門無尽誓願学、仏道無常誓
願成。真言宗では煩悩断の代わりに福智無辺誓願集とし如来無常誓願事を
加えて五大願とする。
(五五) 仏は無色界に住み、特定の形態を取らないから非相(相とは姿)。
)の第三層第五章に「悟った者は見られない、
最古の経スッタニパータ( Sn
39
りは釈尊の降臨・受胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・
集・滅・道の四諦を本体
( とする。
さて、釈尊は、世界の八方の隅々にまで教えを運ばせ、
げき
弟子を送って慈悲の檄を飛ばして人々に説法の日時と場所
入涅槃の八相を見ることが入り口であり、その道程は苦・
溢れていく。聴衆が視界を埋めつくし、喧騒は耳にその凄
て馳せ参じ、その場を震震塡塡と踏みしめるように満たし
甲高く遠くへと伝わり、無数の花びらが風に翻るように辺
子をとって響きわたる。その音は鐘を打ち鳴らしたように
を知らしめる。そうして仏は衆生が集まるのを待つ。
た群衆は押し合いへし合いして互いに踵を踏み合うほど詰
みちのり
檄を受け取った生き物たちは、あらゆる種類あらゆる素
かおかたち
性あらゆる顔貌の生きものが雲に乗って雲が広がるように
め合い、肘を縮め肩をそばめて身を細めて場所を譲りつつ、
したい (五六)
やって来る。ありとあらゆる種類の生きものが風に乗り風
互いに礼を尽くし互いに尊敬し合って、心を敬虔にして仏
しゅう
のごとくに集まる。天より来る、地より湧く。雨降るよう
の声を今か今かと心待ちにしているのであった。
ら
う
か
ば
い
4
4
4
4
4
4
せて与える。
4
4
4
いっとん
4
らん
かかと
とうろう
し
4
理を得る喜びを味あわせ、その味の中に智慧と戒律を含ま
く。そうして衆生に甘露の雨を雨降らして誘い導いて、真
いざな
け
い数を驚かす。地に満ち天に満ち、あまりにも大勢集まっ
しんしんてんてん
きらめくように燐燐爛爛としている。彼らは地響きを立て
りんりんらんらん
りを覆って連綿と連なっていく。その様子は無数の宝玉が
に、泉が湧くように。清いものも汚れるものも雲がわくよ
る
う ば そ く
げんだっば
うに煙が充満するように、地へ降り天に昇り、天に昇り地
音あり。鸞鳥のような調べが帝王の教
そのとき、仏の一
えの車輪を転回すると、同一の調べでありながら群衆それ
か
に
やしゃ
に降りる。天人なるもの・竜なるもの・夜叉・乾闥婆・阿
ぞれの異なる性質の我執を砕いて蟷螂の斧をへし折る。こ
び
ら
修羅なるもの・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦などの生きるも
の宇宙である大千世界を引き抜いてこの世の外へと投げ出
ひづめ
ご
のすべてや、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷などの弟子と
しては、須弥山を粉砕することなく小さな芥子の実に入れ
ま
信者たちは集団となって一緒にやってくる。みんなで仏を
込んで聴衆の我執で妄想された住み慣れた世界をぐちゃぐ
き ん な ら
賛嘆して合唱する声は鳥がなごやかに鳴くように天に響
ちゃに瓦解させ天地をひっくり返して真実の世界へと導
く
き、その声は太鼓の音が早馬の蹄の音のように軽やかに調
測られない」として初出。(仏教入門3参照)
(五六) 苦しみが起これば「今苦しみが起こる」と観る(苦諦)。原因が
貪欲にあればそれがその原因(集という)であると観る(集諦)。
40
そうすると衆生は皆、平安の心を得て世の太平を祝う詩
らいそ
しょうし
か
けつ
『夏の邪悪な桀王
を歌う。腹を叩いて来蘇の頌詞を歌う。
り円形にもなり、心が多種多様に耕されて、歓喜して躍り
伏せては尊敬して仰ぎ、一語一句を追って心が方形にもな
高の教えに浸ることができた。このような凄い話はかつて
上がって言う。「私達は優曇華の花に遇うように幸運にも
う ど ん げ
で笑いはじめる。假名乞兒の一言一言に感じて入って顔を
が滅ぼされたように悪政は去った。
仏来たらば太平蘇らん』
(五七)
稀有の大先生に遇うことができて、丁寧に俗世を離れる最
(五八)
と合唱して、仏の甘露に至福を得て帝の功罪を忘却す(る。
これこそ国境を越えてあらゆる国からあらゆる民族種族の
みなと
(五九)
来たりて集う湊である。情
( けありて生きるものすべてが尊
かしょう
みょうり ( 六一)
聞 い た こ と が な い し、 こ れ か ら も 聴 く こ と は な い だ ろ う 。
(六三)
得に囚われ、五つの塵に(沈んで、何度も何度も三途の川を(
渡っては地獄・人界・天界などに生まれては前世と同様に
さんず
広大なるかな、だれも比肩するものはいない。
に温かく手を引かれて身も心も安らかになった。譬えれば
(六二)
もしも不幸にして和上様に遇わなければ、永遠に名利の欲(
これこそ私の師匠の遺した教えの肝要であり、真実の一
端である。あの長寿だの空を飛ぶだのという道教の小手先
雷が轟いて地中の虫が目を覚ましたようであり、冬に陽が
び望んで和合する所であ
( る。これこそ尊きもの、これこそ
(六〇)
長じたるもの。これぞ皆の寄る辺となる中心、これぞ宗と(
の術や、
権勢と栄華の塵に人生を賭ける儒教の処世術など、
昇って氷が溶けだしたようだ。かつて聞いた周公や孔子の
すべきもの。なんと大いなるかな、大覚の英雄よ。なんと
何ぞ言うに足るものか、何ぞ高きというものか」と。
我が身の皮を剥いで紙とし、骨を削って筆とし、血を裂い
(六一) 名声地位権勢と損得快楽。仏者の最も厭うべき嫌うもの。
(六二) 色声香味触(快感)の感覚や心を快楽させるものごと。
(六三) 一説には地獄餓鬼畜生の三つの道。他説には死後に渡る川。善人
には黄金の橋が用意されており、凡人は浅瀬を渡り、悪人は難所を渡る。
えを心に刻みつけて、生死の海を渡る船と車にしたい」と。
かばね
儒教や老荘の道教の教えは何と皮相な教えか。今より後は
とどろ
生涯を繰り返して浮沈することが必定であった。今、先生
これを聞いて亀毛公らは、無常の話に怖じ気づき、生死
海の生きものの形相に自分を恥じ入り、自分の無知蒙昧や
て墨とし、髑を曝して硯として、謹んで大和上の温かい教
のこ
生類の苦と罪を哀しんだ。その後ついに甘露に触れて歓ん
(五七) 原文「忘帝功」。意訳では帝の存在を忘れる。帝が善くも悪くも
権力でもって人を助けたり民を傷つけたりするということがない。
(五八) 原文「無量國之所 二帰湊 一」。無量国には縄張りや境界がない。
(五九) 原文「有情界之所仰叢」。あらゆる生き物の頼る場所。
(六〇) 第一に大切とするもの。宗教。
41
「席に還りなさい。今まさに三つの教
假名乞兒が言う。
じゅういん
えを明らかにして、十韻の詩をつくってあなた方の歌と音
楽に変えよう」と。そして即座に詩をつくって唱えた。
三教を詠ずる詩
とばり
月光や日光が夜の暗黒を破るように、三教は無知の帳を除く
性格や欲望に多種あるから、医王は薬と処方を使い分ける
こんとん
君臣、親子、夫婦のありかたとして仁義礼智信を孔子が述べ、
これを習えば地位を競い栄華を得る
たお
老子の説は、まず道があり、道から混沌の気が生じ、混沌から
(六四)
もはや冠位栄華を(望むことはできない
三教指帰 巻の下
えいしん
(六四) 原文「何不去纓簪」何ぞ纓簪を去てざらむ。
こ の 冠 位 の 源 流 は 冠 位 十 二 階 に あ る。 聖 徳 太 子 は 和 を
もって貴しといいつつ人間に等級を持ち込んだのか。真意
は不明ながら太子後わずかに百五十年で大和朝廷の支配下
では人による人の支配が公然化した。今日土下座がもては
やされるが、そもそもの意味は畳や板の間にあがらせない
という意味であり、人種差別の食堂などへの入場拒否や座
席差別や食器の差別と同様であり、その源流が冠位にある
天地陰陽、陰陽から天地人、天地人から万物が順次生まれる変
転を説き、これに向かえば仙人となる
ことは明白であり、後の公家の特権階級化や部落差別や今
や順位というものは極力避けるのが品位というものであ
る。ならば国家による勲章褒章や学力や競技や仕事の等級
人間の品位はあるとすれば、上位とは人を差別しないこ
とであることは仏教入門2の本来の仏教に示した通りであ
仏教も後世には因果応報によって差別の温床をつくる。
差別化に抗したのが最澄大師と空海大師であったが、その
日での派遣や非正規社員の差別の基盤となる。その人間の
仏の大乗教は意味も利益も最も奥深い
なんとなれば自分と他人を兼ねて救い動物も見捨てない
春の花はやがて散る、秋の露は日の出を待たずに消える
流水は流れ去りまた次が流れ来る、風は吹いては消えまた次が
吹くきことを何度繰り返したことか
権力栄華は溺れる海であり仏の教えこそ目指す峯である
既に名利競争が苦を生むことを知ってしまった
る。専門的だが九顕十密とは品位あって差別なしの意味か。
42
捨身伝説
身分が足らず
大学へ行くが
十八才
東北侵略による
入学ができな
石手寺講堂展示 空海大師伝記
生口たちと暮らし
い
れ放浪へ
失意のままに都を離
皆一緒を祈る
あとのおおたり
十五才で叔父
の阿刀大足に
教授される
このとき貴族に
蛭牙公子を見たか
43
出世は阻まれ
禄を待つ親へ
帰郷もできない
きわま
進退の谷れり
石槌山に登り
肘を枕に
雲を壁とし
空を屋根として
どんぐりを食らい
町では瓦礫や馬糞を
諸州を彷徨うも
浮草のように
草を食らう
投げつけられること
米びつは底を尽き
見すぼらしい風体で
は衛門三郎のようだ
無二の親友となり
救われる
自分も他人もともに
親を思う気持はつのる
逃亡者の友は私の
皆一緒の平等平安を祈る
抜け人の私度僧は
お接待者であった
44
弘法大師のお考え
室戸勤念
谷響きを
惜しまず
明星来影す
生命の流れを見るに、生まれ生まれ生まれ生まれて、生
の始めを知らず、死に死に死に死んで、死の末を知らない。
いを求めあい、親子はあい親しむのに、愛のなんたるか親
のなんたるかを知らない。
ついには、強者は弱者を食い殺し、人は殺して足ること
を知らず、倉は満てども横取りはやめず、綺麗な眉に狂っ
ては和姦強姦し、他を苦しめるのみならず、自ら罪を重ね
て人が変わり苦海にもがくこととなる。
なんらよるべを持たず、心がさわぐままに行なうから、
自分を毒し、ますます自己を失う。この結果、欲望の投影
したありもしないものに血相を変え、ことの大事が過ぎて
いくのを幻想とみる。転倒夢想の世界を住居とすることに
なる。
のものは、みな、縁より生まれて自分という固定したもの
しかしながら、冬の凍りついた川氷は、春に遇えばすな
わちそそぎ流れ、金石も火をえれば溶けるように、すべて
生を好まずして生まれ、死は人の憎むところ。良くも悪
くもさまざまな苦しみの生涯を経ながら、父母も生の由来
があるわけではない。心は変化し成長していくものである。
そうすれば必ず、まだ見ぬ世界が開けてくる。
早く、良い心の展開に身を投げ入れることが大事である。
良いことを重ねれば心はますます良くなり、悪いことを
すれば一回だけと思っていても心は悪へと一歩すすむ。
ただし、心には心の変化の仕方という法則がある。
を知らず、われも死の去りゆくところを知らない。
過去をかえりみれば、はるかに暗くして始めを見ず、未
来をのぞめども、とりとめがなく終わりを尋ねることはで
きない。
このように、迷えるままに、朝な夕なあくせくと衣食の
牢獄につながれ、遠く近く走りまわっては名声利得の穴に
落ちる。さらに磁石が鉄を引くのと同じように、男女は互
45
わざわい
大悪人なり。然るに自らなす孽は逃るべきに他なし、思わ
やが
ざりき八人の男子俄かに皆悉く死に失せたり。夫れ子を思
たえ
うは人の情なれば、これ程強剛の衛門三郎も頓て地に入る
思いに堪ず、即時に邪見を翻し家を捨て身を忘れ、四国巡
謎を解く重要な手がかりが隠されている。遍路開創
思議としか言いようがないが、この伝説には遍路の
衛門三郎こそは遍路の創始者といわれる。子ども
が相次いで死んでいくことや生まれ変わりの話は不
国 を 領 せ り。 こ の 人 誕 生 の と き に 日 数 を 経 る に 左 の 手 を
の男子に生まれ来たり遂に家を継ぐ。息方と名乗り、この
両手に授け給う。それより幾許の年月を経てか、河野息利
なる哉、弘法大師一寸五分の石に衛門三郎と名を刻みつけ
四国遍路開創 衛門三郎伝説
千二百年の記念には、忘れてはならない若き弘法大
開くことなし。玆によって当山において祈願ありければ、
禮幾度いう数を知らず、時に天長八辛亥年阿州焼山寺の麓
師と三郎の苦難があったことを改めて我が心に問い
頓 に手を開かれしに件の石掌の中にありけり。
ここ
くだん
いくばく
やすかた
古来、石手寺のお弟子さんはお遍路さんが来られると右
の巻物を開いて衛門三郎の顛末を読み上げておったそう
て石手寺とぞ伝え侍りき。─
則ちその石を当山に納む。寺号を安養寺と申しけるを改め
すみやか
に病んでその身まさに終わらんとするにおよんで、不思議
なおしたい。
石手寺に伝わる巻物に衛門三郎伝説はこう書かれてい
(一)
る。(
とみ
しかる
な。
うけあなぐんえばら
その
─ 昔、 当 国 浮 穴 郡 荏 原 の 郷 に 人 あ り。 名 を 衛 門 三 郎 と
り
門三郎伝説では必ず「見すぼらしい僧が宿を乞うて、それ
鉄鉢が八つに割れたくだりが割愛されている。その他の衛
云 い け り。 其 家 代 々 富 さ か う。 然 に、 此 人 の 性 た ら く、
なみ
あ
を
この巻物には、衛門三郎の家を見すぼらしい旅の僧侶が
訪ねて一夜の宿を乞うたが、それを突きとばして僧の持つ
けんどんじゃけん
に
慳貪邪見にして、財寶を貪り悪逆無道、神を蔑し仏を嫌う
うけあなぐんえばら の
(一) 原文は以下の様式である。昔、当国浮穴郡荏原乃郷尓人阿里。名越
いいけり
その
とみ さ か ふ しかる に
せ い た ら く
けん どん じゃけ ん に
衛門三郎ト云李。其家代々富佐可。然尓、此人ノ性堂良具、慳貪邪見尓シ
を なみ
を
なり
。
テ、財寶を貪り悪逆無道、神越蔑シ仏乎嫌ウ大悪人利 ・・・
46
は有形無形の利益を得る。
が、これは比喩的表現であり、実際に遍路を修行した人々
衛門三郎伝説では、再生して人助けをする能力を得ている
②遍路は修行であり、
それによって果報があるということ。
活的に、苦難や困難にある人々。
たりした人々。総じて精神的に、肉体的に、世間的に、生
で故郷を追われたり、世間からはみ出したり、追い出され
またリストラや何かの理由で働けなくなったり、病気など
おうとしたり、過去を悔やんで自分を苛んだりする人々。
折ったり修行しようとする人。またその他、自分の罪を贖
嘆して行き場のない苦しみを癒したり、弔いのために骨を
悲嘆する人々。あるいはそれと同様に、肉親を亡くして悲
①遍路する人々は衛門三郎のように子を亡くした悲しみに
る。簡単に復習すると、
点あると指摘しているのは、仏教入門2に示した通りであ
私は以前には、この伝説の重要性には気づいていなかっ
たが、昨今ではこの中に現実の遍路の重要なポイントが三
弘法大師であり、そのことが大罪とされるのである。
を嫌った三郎は彼に辛く当たる」のである。その僧は実は
いておられる。
様は、あの世がいかようであろうとも解脱できる方法を説
教入門2&3」を見てほしい。毒矢の譬えのようにお釈迦
廻を説いた形跡はないからである。それについては拙著「仏
さて、この伝説の真偽はさておき、というのは昨今輪廻
転生を信じている人は少ないし、そもそもお釈迦さまが輪
より現実的に生きるという意味である。
現実の辺土行を明らかにしたい。明らかにするとは現実を
れ、時代を越えて代々受け継がれて今日に綿々と営まれる、
に見ることによって、弘法大師と衛門三郎によって創始さ
これらは仏教入門2に示した通りであるが、再度衛門三
郎伝説を再説して、先に意訳した弘法大師の三教指帰と共
とを示している。
幸福を受け取る感受の無能さつまり幸福から遠くに居るこ
る。何より、接待できないということがその人間の狭量や
郎はかつての自分がしたように今度は迫害されるのであ
い人間は罰が当たるということ。現実には接待しないこと
口に立ったのに三郎は冷たくあしらう。つまり接待をしな
によって傷つくのは遍路人であるが、やがて遍路に出る三
③衛門三郎伝説の冒頭、世間に疎まれる象徴としての見す
この衛門三郎こそ代々遍路の最初の人とされている。つ
まり遍路とは何かを問うとき、この伝説の中にその答えが
ぼらしい僧侶は現実的には乞食であるが、生活困窮者が門
47
あるというのである。まずは、現代訳「衛門三郎伝説」を
見てほしい。
し ど そ う
( 空 海 の 青 年 期 の 名 ) の 親 友 と し て 登 場 す る「 私 度 僧 」 も
逃亡した自称僧侶であって、政府の許可なしに勝手に僧侶
を名乗る語りのような抜け人のような存在である。当時、
各地に国府が置かれ、国司が派遣されて彼らが税金の取り
立て人や強制労働の執行人として武力を背景に君臨しつつ
あった。もともとは地方の豪族は独立していたし、それ以
強制労働を嫌った人々は、無理やり割り当てられた口分田
ていけない人々や、移住の自由を奪われ防人などの兵役や
つくってしまう。そんな時代である。税金が上がり、食っ
政権は開墾した土地を自分のものにして良いという法律を
豪奢な生活を覚えたために税金では賄えなくなった奈良の
世一身法」とか「墾田永年私財法」を覚えているだろう。
り広い田畑を持っていた。
少し日本史を勉強した方なら「三
郎という長者が住んでいた。長者というからには屋敷があ
今から千二百年も前のことである。石手寺より南へ十数
キロ行ったところに荏原という村があった。そこに衛門三
占拠された上に、耕せば自分のものになるという永年私財
されるかも知れないし、住みよい地域を朝廷や地方豪族に
家の落人などのように、逃亡者はいつ追手につかまって殺
口分田から逃げた逃亡生活は自由ではあるが、海賊に仕
立て上げられた藤原の純友や、五家荘や平家谷に逃げた平
衛門三郎の話を進めてみたい。
い辺土に住む人々がいた。このような状況を想像しつつ、
土地である。その僻地であり権力やその軍隊の力の及ばな
きる。その山間部や半島先端が辺土または辺地と呼ばれる
げて貧しいながらも呑気な生活を堂々としていたと想像で
新訳、衛門三郎遍路事始め
前には人々は自給自足の狩猟生活をしていたのだから、豪
を耕作放棄して、あるいは借金から逃げて、逃亡者となっ
法を施行されては、耕作できる土地などさらさらなく、僻
族や朝廷に支配されるのは大きなお世話である。以前同様
ていた。逃亡と書いてチョウボウと読む。それが逃亡者や
地の不毛の山間や人の来ない入り江に住むほかなかった
へんど
へ
じ
に自由な狩猟生活を望む人々は、山間部や半島の先端に逃
自由放浪人の名前である。空海大師の「三教指帰」に真魚
48
いき、川の氾濫止めにした話が伝わり、八つの塚は川の防
ことは想像できないのだが、大きな石を網を懸けて引いて
も残っている。今でこそ重信川は伏流水の川で洪水となる
墓といわれる「八つ塚」が小高く積まれて、それが八つ今
地域には「網かけ石の話」が伝わり、三郎の八人の子息の
そんな中で、衛門三郎は道後平野を流れる重信川から山
間部へ向かう荏原という里に開墾していたと思われる。そ
あった。
て、いつ飢餓に襲われるか分からない生活を選ぶことでも
人々にとって、口分田を捨てることは安定した生活を捨て
う。
えて彼らの口数も養わなければならない重圧があったろ
も時には催しただろうが、だからこそ少なくない郎党を抱
から、開墾には成功していて、一方では安定し豪奢な宴会
らない。長者のようであり庄屋のようであったというのだ
叩いて漏水を止め、枯れても枯れても苗を植え続けねばな
開墾の場所からして、三郎は字のごとく三男であったろ
つた
うか。自分で手つかずの大地を探して、蔦を払い木を切り
法が施行された。
4
(一)
①国家の許可なく僧侶になれないこと。②民衆に仏教を説いたり、
民衆と交わったりしてはならないこと。③勝手にお寺を造らないこと。な
どが説かれる。ということは、空海大師が三教指帰に書くように、本来の
仏教の目的は、自他兼利済であり自分も他人も共に救われることであり、
即ち民衆と共に歩んで民衆が救われることが仏教の教えである。仏教は貴
賤の別を問わず、貧富の別を問わず、あらゆる人々生き物に開かれている
のである。ある見方をすれば、この時代の伝教大師最澄大師も、貴賤を問
わない仏教を説いている。そうならば最澄大師も空海大師も揃って身分差
別に対する反論をしているのである。貴族社会へと移行することに抵抗し
いるともいえる。ならば、僧尼令に「民衆に交わるな」とあるのは①仏教
秘術の独占秘匿と貴族による私物化。②僧侶の大衆化による民衆の能力の
向上の歯止め。③差別社会の固定化と権力利権の独占化。これらの利権争
いとしての側面がある。この独占と私物化への抵抗と本来の姿への回帰こ
僧尼令には(、私度僧の禁止が書かれていることからも、か
そうにりょう(一)
倒し、根を切り石を堀り除いて、溝を切り水を引き、堤を
波堤のように見える。
その日、見すぼらしい僧侶は荏原の里を歩いていた。見
4 4 4 4 4
すぼらしいというのだから「養老律令七五七年」の第三の
そうすると衛門三郎こそも永年私財法よろしく自分で新
田を開墾していたのである。渡来人のもたらした水田耕作
は稲穂の実りを確実なものにして人々の生活を安定させた
が、その結果としてその果実の奪い合いが激化して、豪族
は闘争を繰り返し、その中で勝ち残ったものは国家を名乗
り盗賊と化した。また生活が安定すると人口が増えて、食
糧危機が起こり、松本清張が「砂の器」に明らかにしたよ
うに、田畑を持たない次男三男はもとより長男以外の女子
は、口分田の配給を得ることなく、路頭にさまようことと
なるのは必定であったろう。だから三世一身法や永年私財
49
(一)
を持ち歩き、はや何日も屋根の下で寝たことはなく、風体
ると伝えられるから、
「進退ここに窮まる」(と嘆く人でも
あった。今日の歩きの遍路さんがそうであるように、寝袋
そうかと諦めかけていたところ、川の向こうに明かりが見
えない。今晩もひもじい思いをしながら河原で一夜を過ご
軒先で一晩寝ることを頼んでみたがなかなか良い返事を貰
村人も嫌って食事も何日も取っていなかった。今日も何軒
も既に破れた袈裟と裾のすり減った衣が汗臭い臭いをさせ
える。少しばかり大きな屋敷だろうか。見すぼらしい僧は
の僧は私度僧であ
( っただろう。その人は実は弘法大師であ
ていただろうから、怪しく思う村人に寝入りばなを追われ
もう一軒声を掛けてみることにする。
そこへかの見すぼらしい僧が到着する。
「 怪 し い も の で は ご ざ い ま せ ん。 旅 に 困 窮 し て お り ま す。
いるのである。
寝込んでいるものもあった。そんなだから三郎は憔悴して
来る日も汗を流し続けていた。息子の何人かは働きすぎて
のである。堤を築いて多くの水を取り込みたいと来る日も
を、三郎は自分の治水努力が足りなかったと悔やんでいた
切れてせっかくの稲穂は枯れて、大勢が死んでいったこと
息子たちに愚痴っていた。というのも昨年は日照りで水が
ちはまだまだ若いのだからもっと真剣に働かないかん」と
きた衛門三郎は、疲れのためか多少いらいらして「お前た
鍬を握る手も痛み、熱中症なのかふらふらと屋敷に戻って
かの玄関に立って、少しばかりの食事を請い、また納屋か
たり、また蚊や毒虫に安眠を妨げられたりしながら体をや
(二)
つれさせていた。
そんなふうに姿形も汚くなっていたから、
そのころ太陽が照りつけ今年も不作だろうかと心配しつ
つ、ついつい一族郎党と共に早朝より夕方まで働きづめで、
そ両大師が目途としたことである。そこで、私度僧の有意義が明白となる。
即ち、私度僧とは仏教の甘露醍醐味を独占せず大衆に広く頒布し、自他兼
利済を実行する使徒なのである。そのことは三教指帰の末尾に手に取るよ
うに明瞭な表現で開示されている。
(一) 三教指帰假名乞兒論冒頭 頁に阿毗私度(私度僧)と光明婆塞(優
婆塞)が真魚青年(後の空海大師)の親友として登場している。衛門三郎
の戒名は光明院四行八蓮大居士である。これは後代に三教指帰を参考にし
て付けられた名かもしれない。衛門三郎伝説は後代のものとしても、空海
大師が語る実在としての光明優婆塞という人が居たことは間違いない。そ
の上、その人は「時に篤信の檀主たり」とあるから、彼こそが今でいう善
根宿や食事の接待をして、空海大師を歓待したことは事実である。
(二) 三教指帰に弘法大師が自分のことを書いてこう吐露している。三教
指帰は儒教道教仏教の三教の優劣を書いたと一般には言われるが大きな間
違いであり、それは彼の出家宣言の書であり、体制擁護の教えである儒教、
体制からはみ出した生き方の道教、そして唯一に体制内の特権階級も体制
外の困窮者や被抑圧者も共に救われる仏教を説く。即ち彼は体制内で大学
へ行き出世しようとするが、身分に阻まれそこから逃避する。即ち儒教で
生きようとするが、行き詰まって道教的放浪をする。しかしどちらも自分
や他人を幸福にしないことを知って仏教へと必然的に進むのでなる。その
自伝が三教指帰である。
16
50
なにとぞ一夜の宿をおめぐみくだされませんか」と、僧は
しまうのである。
無様な格好をさらし者のようにして歩いているというので
はずなのに、あたかも誰も居ないかのように、そのような
りをするから、本人は恥ずかしくて村へは下りてこれない
て見られた様相ではないので、村人は遇っても遇わないふ
服も体を覆うほど布が残ってなく、あちこちの肌が露出し
ら分からない、髪はぼうぼうで獣のような悪臭を放ち、衣
る落ちぶれて面影もなくなり、三カ月もするとどこの誰や
だったらしいが、野宿を重ねるうちに一月もするとみるみ
捨てて家を捨てて逃亡者となった男の話である。立派な男
せなくて娘を捕られ自暴自棄になって、田畑を捨てて妻も
映像となってよぎっていく。不作のために借りた借金が返
がきつかったから朦朧と考えている。そして最近の噂話が
とかしてやらねばという気も起こった。しかし一日の労働
して置いてもらえることも少ないと聞いていたから、なん
三郎は板戸ごしにその声を聞いていた。声は四十代半ば
かと思う。五十歳も後半になれば体も衰えてきて使用人と
肌の露出部分は真っ黒で土塊と見分けがつかない。それで
亡者とは見えない。ずっと野宿生活をしていると見えて、
日も暮れかけて、見ず知らずの男の夕日に照らされた顔
は赤いようにも見えるが、見るからに華奢でどうみても逃
分かるから」と思って門扉の隙間から覗いてみた。
ような感覚を覚えたが、「蝦夷の人なら一見して異民族と
して島を抜け出したと聞いていからだ。三郎は背筋が凍る
口島に集められ、その内の何人かは過酷な奴隷身分に抵抗
かと恐れられていた。彼らは生口と呼ばれほど遠くない生
か分からないという噂が立ち、その辺りに居るのではない
てこられたということである。赤ら顔の野蛮人は何をする
恐ろしいのはその侵略戦争で多くの男女が捕虜として連れ
金は貴族階級が独り占めしたという。汚い話だが、もっと
めて金泥棒に行ったという。川で取れる砂金を奪い、その
れるというので、天皇政権は兵役を強いて、軍隊をかき集
れ帰ったという野蛮人の話であった。陸奥で金が掘り出さ
さえきのいまえみし
勇気を出して言ってみた。
伯今毛人の話である。
また、こんな話も思い出した。佐
みちのく
とはいえ今毛人のことではなく、彼が陸奥の征服地から連
ある。結局、彼は誰にも相手にされなくなり、どこかの山
も歳は四十ではない。まだまだ二十歳ごろであろう。そう
ちょうぼう
奥で獣と一緒になって暮らしているというのである。三郎
直感した三郎は戸を開けていた。
いくち
は、その男が獣と一緒に洞穴で寝ている姿を思い浮かべて
51
「おいおい、まだ若いのにどうしてこの辺りをふらついて
恐怖が起こるのを感じながら、その一方ではますます若僧
わ
し
に同情していくもうひとりの自分を煙たがっていた。
「ええい、うるさいわい、この我しにどうせいというのじゃ。
いる。おかしいではないか。逃げてきたのでもあるまいし、
早く家に帰って耕せ耕せ。今の世は口分田も底を尽き、政
4
この疫病神め」。他の村人のように追っ払えばすむことだ
4
府は豪華な自分の生活を保身するのが関の山で、盗賊にで
が、なんとかしてやりたいと思うからよけいにいらいらす
4
も な る か、 自 分 で 耕 し た 土 地 を 自 分 の も の に す る か し な
る。三郎は昔からめんどうな性格である。恐怖で保身した
死ぬのではないかと、実際に朝行ってみると凍え死んだ硬
4
い。とっとと帰って、
耕してその土地を自分のものにしろ。
い気持は家族に危害を加えられないかと思うからいよいよ
見すぼらしい若僧が答えた。
「ありがとうございます。わざわざ私のために出てきてく
直した死体を埋めた事件を思い出して何でもいいから泊め
し
ださったのですね。今日も十軒ばかりお願いして回りまし
て食わしてこっそり追い出そうと考えたりする。恐怖と哀
わ
我しもそうしている」と。
たが、塀の向うから怒鳴られたり、しつこいぞと罵られ泥
れみの二つの心が、どちらが自分だか分からなくなってせ
心配を肥らせ、ここで若僧を追い払ったらどこかでのたれ
水をかけられた家もありました。働かない私が悪いのです
ろ、見すぼらしい僧が立ち去ろうとした。
なっていく。ああだこうだといらだちが煮詰まっていくこ
めぎ合うから、昼間の疲労も相まってもはやどうでもよく
」と。
が ・・・・
いぶか
しがる。
若僧が丁寧な口調でいうので三郎は訝
「こやつはどこぞの若さんかもしれん。先頃讃岐の佐伯の
4
「ご迷惑をかけたようで、済みませんでした」。
4
若いのが家出してゆくえ知れずで、見つけたら密告しろと
4
お触れが回っていると聞いた。こりゃえらいことだ」。そ
すると三郎の小さくなりかけていた方の心が反発した。
わ
「 そ の と お り。 お 前 な ん か が 来 る か ら 我 し ら 良 民 は 働 い て
ちか
4
う思い始めると、少々近しく思い始めていた三郎の気持は
も働いても天罰が下って不作になり、その上、ない米をお
4
急に冷え始める。むかし逃亡者を泊めたら「おまえは脱税
上とかいう人々の高級馬を養うためとか、御殿の瓦代とか
4
する抜け人の味方か」と役人にひどい目に叱られ年貢をつ
で、米びつから根こそぎ盗っていきやがる。朝廷なんてい
4
り上げられたことを身に刻んでいるからだろうか。三郎は
52
をやったらとっとと帰っていた」
とだけ報告したのだから。
お辞儀をして立ち去ったことを三郎は知らない。
息子は「飯
飯を僧侶に恵んだところ、見すぼらしい僧は丁寧に何度も
ぶちきれてしまった三郎は、そう言い放つと居間へ転が
り込むようにしてそのまま眠った。その後、三郎の息子が
と。
れ。おい、だれか、にぎり飯でも渡して早く帰ってもらえ」
してる。そんなことはどうでもいいが、とっととうせてく
うのは純友の反乱よろしく、どっちが泥棒なのかはっきり
くから家族や息子たちも過労鬱を病んでいった。
それから何日かはゆううつな日が続く。あのことは忘れ
ようと一生懸命働いたから、一族郎党は疲れ果てていく。
い自分になっていた。
が、ますます五十歩百歩の自分に気がついて過去を消した
家路につく。「まあ、にぎり飯をやったから、そこらの思
間に追われて生きるとは辛いことだと思いながら、三郎は
たまた詮索している。抜け人とはたいへんな生き方だ、世
てきたことを勘づかれたと思って先を急いだか。などとま
恥じているからだろうか。
から大きなお地蔵さんを建てたことを神様が知っていると
たから生き残ったことをうすうす知っていて、後ろめたさ
のときに、生き残った者たちはこっそりと米を隠して食べ
とこの先を見てしまうのである。どうしてだろうか。飢饉
心とか慈悲の心とかいうが、要はのたれ死ぬのではないか
実際に荏原の郷に行ってみると八つ塚が残っている。高
さ数メートル、幅四、五メートルの円墳で、頂上には墓石
始ということになっている。
がれてその僧を追って行くのである。この出奔が遍路の創
郎の男子八人が次々と亡くなり、強欲非道の彼も打ちひし
ると僧の持っていた托鉢の鉢が八つに割れた。翌日から三
うとう三郎は僧を突きとばす。箒で叩いたとも伝わる。す
一夜の宿を乞うた見すぼらしい僧は
伝説のお話では ・・・
実は弘法大師なのだが、その僧は七回断られ、八度目にと
今で言う過労鬱を自分が罹患し、家族にやつあたりしてい
いやりのないやつらとは違う」というように弁解してみる
翌日、衛門三郎は目覚めたが、どうも昨日よりいらいら
する。居ても立ってもむずむずして仕方がない。もう一つ
今日は農作業はお前たちでしておけと息子たちに言う
と、三郎はあの僧侶を追いかけていた。しかしもう既に何
やお地蔵さんが建てられている。「これは墓ではなく川の
の勝ちつつあった心が疼くのである。世間では思いやりの
処へ行ったものやら見当たらない。ひょっとすると家出し
53
か「お前のことを思って厳しくしている」とかというねぎ
も「もっと頑張れ」とは言っても、
「体を大事にしろ」と
か悪いとかという是非だけであり、良く働く子どもたちに
り自分の屋敷だけ建て広げ、口にすることは働きが良いと
が、根が優しい三郎だったのか、見かけには強欲非道であ
を疲弊させる。他人のことなどどうでも良いようなものだ
として他人を顧慮できなかったりした心の傷はけっこう人
なかろう。逃亡者を助け得なかったり、自分のことに汲々
はてさて、過労鬱などを持ち出したが、天災への恐怖心
と課税への恐怖心と逃亡者を匿うことへの恐怖心は嘘では
を意味しているのか。
ないものは荒唐無稽のでっち上げなのである。八つ塚は何
示している。逆にもっともらしい伝説でも、人の血が通わ
であるが、物語が荒唐無稽であっても誰かが生きたことを
は伝えられる物語の向うがわの実生活にあったというべき
三郎の心はここにはない。そんな噂の種も三郎の名前を忘
「そんなところにまだすわってたのかえ」と叱責されても
標的となっている。だから家族も彼を見下すようになった。
た三郎も、このごろは「なまけ三昧郎えもん」などと噂の
いことを何度も何度も悔いて悲しんだ。働き者で有名だっ
今は顔も見れなくなった息子たちを思い浮かべては、居な
が手につかなくなった三郎は来る日も来る日も朝な夕な、
何も衝動が起こらない。生きた屍とはこのことか。鍬や鋤
びに前へ前へと押し出していたやる気が、今は消え失せた。
命、疲れも感じずにやってきたのだ。子どもの顔を見るた
屋敷を大きくしてきたのか。何も自分ひとり暮らすのなら
れた彼は、生きがいを喪失する。何のために田畑を広げ、
なんのことはない。三郎が農作業に頑張ってこれたのは
家族を楽にさせたいと思っていたからである。子に先立た
は急にやる気をなくしていく。
ればひとたまりもない。何人かの子どもが亡くなり、三郎
らいの言葉をかけることがない三郎だったが、あの僧侶の
れ始めたころ、周りの人々の冷たい仕打ちが背中を押した
堤の跡だ」と先代俊行師匠は言われていた。史実というの
ことは気になってしかたがない。心がそこへ行ってしまう
のか、ついに三郎は家を出る。居場所もなく踏ん張る力も
三郎の出奔である。これが遍路の第一歩とされる事件で
なく悲しみだけが彼の存在であったのだから。
さんまいろう
質素でも貧乏でも良い。妻や子どもがかわいいから一生懸
と他のことがおろそかになるのが病気の始まりである。
秋口には過労はピークを迎えたのだろうか。息子がひと
りまたひとり亡くなっていった。昔のことだから病気にな
54
ぐらいである。
ある。さりとて何の当てもない。思い浮かぶのはあの若僧
さて、金子も底をついた衛門三郎はどうしたか。いやど
うもなるまい。服は破れ、裾を引きずり、体のあちこちが
安置したというのである。
ない。食事もままならない。野宿も何日も続くと体をむし
い。そうするとあっという間に金は底をついた。服も買え
どきは乞食をまねて食事を乞うてもみたがうまくいかな
子を持ち出した三郎であったが、無一文に
幾ばくかの金
なることは恐ろしく、小出しに小出しに金を使った。とき
きは瓦礫が雨のように降り注ぎ、港の市場を横切れば馬や
ていく。三教指帰の表現を借りるならば、「町を過ぎると
のとは思えない獣のようないでたちで町から町へと移動し
くなり、薄汚れた衣服や持ち物は悪臭を放ち、この世のも
露出して、露出した部分は太陽の光で墨を塗ったように黒
きんす
ばんでいく。他人が見ればその姿はいつかの見すぼらしい
魚の糞尿や腐肉をぶつけられ」(ても文句を言えないように
(一)
僧と見間違えるほどである。
うのである。そこで、三郎は「できるならば、伊予の領主
改心して遍路された。望みがあれば叶えてあげよう」と言
とになっている。その僧は実は弘法大師であって、
「良く
なっているところにあの見すぼらしい僧が現れたというこ
とはいえ気の弱い三郎はこの何日かは物乞いも出来ず、
飲まず食わずの日をつづけていた。今日は思い切って何軒
もいられない」(から出会う人には物乞いもする。
体内の八万の虫が空腹を訴えるようになると居ても立って
最 近 で は 人 目 を は ば か ら ず、 野 草 を 食 べ た り 木 の 実 を
採ったりしている。三教指帰よろしく「食糧も底をつくと、
人間離れした風体をしていた。
に生まれて、人々を救いたい」と願う。弘法大師は三郎の
か訪ねてみようとするのであった。
伝説では二十回四国を回って会えないので、逆打ちして
反時計回りに回ったら焼山寺のふもとで息も絶え絶えに
手に「衛門三郎再来」と刻みつけた石を握らせる。それか
「 お 忙 し い と 思 い ま す が、 な ん と か 食 べ 物 を 恵 ん で く れ ま
(二)
ら幾ばくかの月日が経ち、伊予の領主河野家に男子が生誕
いか。できれば何処でも良いから寝るところをあてがって
頁下段
するが、左の手を開かないので安養寺に詣でて祈願したと
(一) 三教指帰假名乞兒論冒頭
(二) 三教指帰假名乞兒論冒頭
頁上段
55
ころ手を開き、衛門三郎と刻まれたその石が出てきた。そ
こで安養寺の名を改めて石手寺とし、その石を寺宝として
21 16
をしているのだ。
なんという巡り合わせであろう。昔、自分が追い返した
見すぼらしい僧の姿と寸分違わない姿で、今は自分が乞食
とどこの家も冷たかったのである。
とか、
「お前のような働かない者にやるものはない」など
て来てくれ」と言われて洗って戻ると閂が懸かっていたり
いから出直してくれ」
とか、「薄汚いのは困る。
川で体を洗っ
ては断られ、尋ねてはまた断られ、十回ほど断られて次の
持が過去を明るくした。さて、それからというもの、訪ね
翌日、彼は早々にその家を後にした。
あの時、このお家のようにあの僧侶を泊めてあげれば良
かったのだ。ますます悔やまれたが、今度こそはという気
泊めてもらった気がして涙を流した。嬉しかったのである。
何ヶ月ぶりだろうか。なぜか三郎はあの見すぼらしい僧に
これまた不思議なことはある。夕飯をいただき、風呂に
入って、今、三郎は布団の上で寝ている。布団で寝るのは
くれまいか」
。こんな具合で七軒ほどお願いしたが、
「忙し
「ああ、このような気持で、あの若僧は門を叩き、物乞い
家へ行くとたいてい受け入れてもらえる。
気になった。それは不思議な感覚であった。何かが背中を
僧と一緒に歩いている気持になって、もう一軒尋ねてみる
気持だった。日も暮れかけたが、彼はあの見すぼらしい若
だったが、半分はやっと気持が通じたという妙に安心した
たのだ」
。そう思うとなぜか涙が出てくる。半分は悔し涙
にはどうしたら良いのかだろう」。こんなことを思うので
分からないが、要するに良い心が表に出てくるようにする
の恐れとか、さまざまな心がうごめいていて、人間なんて
一は自分本位で、その他に不安とか、世間体とか、お上へ
い人がいる。というより心の十分の一は優しくて、十分の
「 な る ほ ど、 人 間 と は こ う い う も の か。 十 人 に ひ と り は 良
かんぬき
するなどという口にできない言葉を勇気を出して語ってい
押し始めたのである。それは久しぶりの感覚であった。
ただけませんでしょうか」
。すると声がした。
場所を好んで寝床にしていた。中には魚とりや狩猟が上手
そうしているうちに、三郎は旅をする人とも出会う。た
いていはそのような旅人は海浜や山間という人里はなれた
ある。
「ちょうど、
久しぶりに風呂を入れたところじゃわい。入っ
なのがいて、いとも簡単に食事を用意するのにはびっくり
次の家を訪ね三郎は声を出した。
「たのもう。たのみたいのです。どうか今夜一晩泊めてい
ていくかな」
。
56
たり、戦争に持ち込んだりして、人殺しをやってのける。
に、ご自分の都合で荘園や領地を横取りして、相手を殺し
人々を苦しみから救い出し、幸福にするためのやり方なの
公務員の僧侶というわけだ。そもそも、老荘思想も仏教も
科学とか称するまじないを盗んでいるのだ。その担い手が
な税金をつぎこんで留学生を送り込み、長安や天竺の最新
をやらせているらしい。それをまねて中央のやつらは法外
仏教の呪法を競わせて、雨乞いだの、悪霊の封じ込めなど
ている。何やら中国ではもっぱら道教とやらの仙術とかと
が雇っている僧侶どもは災い除けのために呪術ばかりやっ
層の人々を救う真の仏陀だ」と断定した。つづけて「朝廷
の有名な行基菩薩
( を知っているだろう。彼こそ僧侶の中の
僧侶だ。彼は私度僧だが、各地に散らばる私度僧こそが下
ういかがわしい人だろうと否定すると、
「何を言うか。あ
物の釈迦の弟子だ。真の僧侶だ」と豪語する。私度僧とい
生きる。その人の素性を聞いてみればなんと「私こそが本
した。洞穴に住んで、野草を集め、魚を釣って悠々自適に
「じゃあ、ついてくるか」。
「しばらくあなたの弟子にはなれまいか」。
く我しではどうしようもない」と思ってこう頼んだ。
教えてもらうのも良いかもしない。しかし毎日の飯に事欠
もしてきた。そして、「しばらくこの男についていろいろ
三郎はくどくどしい演説を聞いていたが、仏教だの老荘
だのというなんやらまあたらしいものに触れて、わくわく
けいなことだ」。
つけて奉っている。国を挙げて、みんなで騙し合ってこっ
ざわざ大事そうに仏教だの何とか教だのとお大事な名前を
ない。当たり前のことができない世の中になったから、わ
というやつだ。これが基本だ。自分で稼ぐ。他人を傷つけ
さない、奪い合わない。知ってるだろう。不殺生、不偸盗
い。してしまった悪事を消すために仏教を悪用している。
その罪を犯しさえしなければいいのに、悪事はやめられな
も騙したり横取りしたり殺したりすることが罪なわけで、
くなって、仏教に怨霊退治をさせるというわけだ。そもそ
わ
し
(二) 三教指帰に空海大師の膠漆の執友(漆や膠のように切りなせない一
「いや、あびしど、(いやあび法師と呼んでくれ」。
(二)
とんでもないはなしだ。というわけで、本来の仏教は、殺
ところがだまし討ちをするわけだから、殺したはずの敵の
「師匠とお呼びして良いでしょうか」。
(一)
怨霊が夜な夜なやって来て罪を暴くわけだ。それで眠れな
(一) 七四九年没。始めは私度僧。後に東大寺大仏の勧進に利用され朝廷
から菩薩の称号を貰う。
57
というわけで、二人の行脚は始まった。
おそらく四国西端の佐田の岬とか、
彼らが向かったのは、
心同体の無二の親友)として阿毗私度が登場する。実在の人物であり、も
しも三郎がその時代に四国の辺地を放浪したなら、出会わないはずがない
ので、その名を冠せる。三教指帰の異本である聾瞽指帰の注に阿卑私度と
であり法に通じた者。 a-bha
なら
ある。アビ法はアビダルマ abhi-dharma
恐れなき者。否定の と
a 卑賤の卑なら劣っていないという意味。アビーラ
から名付けたなら勇猛に仏教に邁進する者の謂い(意味)である。
abhīra
阿毗の音写はアビダルマ=俱舎論=法に熟達せる者のニュアンスであり、
わざわざ注に毗を卑に換える意味は卑しくないという表現であろうか。勇
猛という意味も捨てがたい。真の行者という意味を持たせているか。ただ
しこの語は一般人には深読みできない。特に、アビと私度の組み合わせは、
私度は私度僧の私度であり、国家権力に否定される御法度の意味を激しく
持つ。それに真のという接頭語を付けるのだから真の偽物ということであ
り、世間では疎まれている私度僧こそが真実の修行者であるということを
過激に表現している。
しかしながら、行基の言い伝えが真実ならば、その当時、国家の悪政を糺
そうとする人々が跋扈し、その人々は私度僧などと呼ばれ、一つの流行と
なっていて、庶民の悪政への不満や抵抗を代弁し、権力者も留めようのな
い社会潮流としてあったのである。私度僧と唱えれば、悪政是正、庶民救
済を示し、その旗印が行基とか私度僧であったことは間違いない。そうで
なければ空海大師が、このような危険な用語をあからさまに使用し、かつ
その直筆や文章が国家権力の圧力を跳ね返して、今に伝えられるはずはな
いのである。とすれば国家権力内にも、税金を貪ったり、教えをねじ曲げ
て私利私欲に使用する輩に対しての批判と是正運動が起こっていたのであ
る。だからこそある意味で危険思想の空海大師が政界の中央へと進み得た
のである。そのことは最澄大師の一切衆生皆成仏の思想と重なり、その天
台思想も一時代を風靡する。この流れはこの後の差別社会に対して常に反
照の鏡として生き続ける。私はこの流れが河野家出身の一遍上人の「河原
や すか た
者救済」に繋がると想像する。河野家の人民救済の嫡子息方とは実は時を
超えた一遍さんではないか。実の所、四国遍歴の遍路としての流行は室町
以降と考えられ、そうすると一遍上人と時代が合って来る。
南端の足摺岬とか、室戸岬とかである。あるいは人里はな
れた山奥である。石槌山や金山や人の住めない辺地である。
彼らは狩猟したり草木や木の実を集めて生きていた。三郎
が驚いたことには、辺土には少なくない人々が暮らしてい
4
4
るということだった。海浜や山間部には一見して人影がな
いように見えたのだが、あびさんが「おーい」と叫ぶと、いっ
たいどこに隠れていたのだろうか、雲が湧くようにあちら
こちらから人が出てくる。洞穴や木の蔭から出てくるので
ある。
以前なら「なんという薄汚いやつらだ」と見下しただろ
うが、今では三郎の方がみっともない格好をしている。みっ
ともないという見方は今ではやつらの見方であって、やつ
らというのは過去の自分をさしている。三郎はそういう見
方を今では見下していて、ここの住人たちは新しい見方こ
そ、人間らしいおもむきだとみんな言うだろう。都会のや
つらの方が妙にめかしこんだり着込んだりして奇怪なので
ある。夏の衣、冬の衣、慶賀の衣、喪中の衣というように
こ
こ
奇妙な取り決めを律儀に守って、まるで裸の王様か狐の嫁
入りのようなありさまだと此処の人間は思っている。人間
は、住めば都というけれど、世間に順応して生きている。
郷に入れは郷に従えである。順応するのは良いことだが、
58
洞穴に住んで、家もなく布団もないが何も困ることはな
い。どんぐりのあく抜きを教えてもらったから、木の実を
前であって、過去は狂人なのである。
自由な今の生活が染み込んだ三郎には、今の生活が当たり
いうのは危険な思想で、野蛮で粗野で質素で何もないけど
分とかスケープゴートという。要は、当たり前とか常識と
相手の首を締め合って、世間から追い出すのである。村八
互いの首を締め合うこととなる。常識というやつが互いに
うと相手に落胆するというより、人間というものに落胆す
みたが、かつての自分がそういう野宿の者を見下した姿勢
あ、あの負け犬か。かつての風貌はどこへ行った。この阿
は荏原の名門、衛門三郎と申す」と気張ってもみたが、
「あ
りかざして「どこの馬の骨だ」と罵る。先頃までは「我し
なって出かけていくと、町のやつらは世間のものさしを振
といえは格好良いが、やはりときどきに町の生活が恋しく
こんなふうな生活は、辺土に居ればなんとかなるわけだ
が、町中ではこうはいかない。狩猟漁労の悠々自適な生活
順応していない他人様を悪しざまに言うと、世間は互いが
蓄えておいて調理すれば何とかなる。海女さん
( には海にも
ぐって海の幸を採る方法も教わった。贅沢を言わなければ
るのであった。
あ
び
を思い出して、住む世界が違うから到底理解されないだろ
呆め」と言われて、草木と貝獲りの暢気な生活を啓蒙して
し
その時その時に海や山に少ないご馳走を馳せ走って用意す
わ
れば日に一食は固い。それよりも、今日は我しが行ってく
そんなわけで、辺土の生活に味をしめながらも、都会と
の落差と軋轢に齟齬を感じながら生きていた。こんな落差
(一)
る。今日はお前が行くか。という具合で、かわりばんこに
を感じて不安になるときは、阿卑さんに仏法を求めるので
し
狩猟に出かけ、
採ってきたものは保存できるわけでもなく、
あった。心の空白というものはなかなかなくならないどこ
のんき
わ
みんなで分け合うから、なんとなく暢気である。親密さも
ろか、子を亡くし、家を失い、世間を出奔し、身一つになっ
わ
て、食っていけないときは乞食を真似たし、生きるのに必
し
湧いてきて生活も楽しい。家の塀もないし、我しの米びつ
お前の米びつということがない。
うであり、このまま死んでなるものかと思うと、阿卑さん
あ
び
行けると安心してから、人生への渇望は前よりも増したよ
死で無我夢中であったが、仲間も出来て、死なずに生きて
(一) 三教指帰には空海大師の出会った四人の中の一人に、許倍の尼、注
に古倍乃阿麻が登場する。海女ではなく、尼あるいは女であるとの説が有
力か。こべとは皺を云い、老女との説なら母を指す。こべを場所指定とす
ると不明。ここでは海女とする。
59
ね
だ
が秘匿している秘法を強請るのである。
わ
し
共に住むことが意義深いことも分かった。しかしこれが全
しみにしたい」と。こう言って三郎は単身旅をつづけるこ
てなら、我しが求めていたものではない。また会う日を楽
「阿卑さん。あなたの弟子になってから随分一緒に過ご
した。そろそろ仏法を教えてくだされ」と何度か頼んだが
ととした。別れ際、阿卑私度は言った。
おしえ
なしのつぶてである。それどころか、
一度はこう言われた。
のはあるか。満たされぬ心を満たすものは何か。遂げられ
れで渡ることが出来る。しかし、心の空隙を穴埋めするも
来る。また川を渡ろうとすれば、木を倒して橋にすればそ
「道にできた穴凹は岩を持って来てそれを埋めることが出
また三郎はとぼとぼと歩き始めた。今度は足摺岬へと。
その途中、今の金山出石寺辺りで、しばらく洞窟に住んだ。
る」と。
ところにある。他人の中にある。他人に関わるその中にあ
あるか、却って他を訪ねることかもしれない。自分以外の
「仏法は、遠くにあるのではない、自身の中にある。自分
ぬ思いを遂げるものは何か。そんな巨石や巨木がどこかに
すると先客がいて、何やら呪文を何べんも唱えている。声
「お前は、何か金科玉条なる法があって、それで心の空白
転がっていようか」と。
「あなた、阿卑法師のところで修行している荏原の三郎だ
の心の中にある。しかしながら、自分を探してもそこには
三郎はこう言われて、
「なんだ、阿卑法師は、勇猛な度
を越す優れた坊主かと思っていたが、本当は阿呆法師か。
ろう。噂は聞いている。たいそうな長者屋敷を放り捨てて
を埋めようとしているのではないか」と。そしてこうも言
天竺とかの国で古代に退治された敵蛇のアヒか。それとも
修行僧の仲間に入ったらしいな。ところで、阿卑法師には
ない。なぜなら未だ悟っていないからである。ではどこに
秘法を盗まれたくないのか。けちな奴め」と思うのであっ
何か教えてもらったか。我しなんかあいつと半年過ごした
われた。
た。そして、
ある日、
三郎はとうとうこう言い放ってしまっ
が、何も教えてくれん。けちなやつだ。何分、言い分とし
わ
し
をかけると、その私度僧らしい修行僧はこう言う。
た。
ては修行が一定の域に到達しなければ、猫に小判どころか、
び
「あなたのお蔭で質素な生活の意味深さはよくよく分かっ
泣き面に蜂らしい。傷口に毒を塗るが如しということだ」
あ
た。また一見貧相な人々の絆が深く、友情のありがたさや
60
という。
ナモーは心から帰依しますだ。アーカーシャは虚空だ。こ
し
の空っぽの宇宙だ。星や月や太陽や、この大地や風や命や
し
ようにというわけだ」と、べらべら話し続けるので、「ど
おくれよというわけだ。スバーハーはみんなで幸福になる
は眼を開け、良く見よだ。マーリブハーリは、産み出して
いうのだ。オーンは必死で拝むぞといこと。アーロークヤ
産み出す働きが、ガルバだ。ガルバーヤはガルバさんよと
わ
わ
「あなたも、教えを貰わなかったのか」と、三郎は答えた。
我しらを容れている大きな大きな容器だ。この容器の中で
し
「だが我しは拝むやり方だけ教えてもらったぞ。お前にも
我しもお前も食べ物も山も川も現れては消えていく。その
わ
教えてやってもいいぞ」
と言うなり
「ナモー アーカーシャ
ガルバーヤ オーン アーロークヤ マーリブハーリ スバーハー ナモー アーカーシャ ガルバーヤ オーン
アーロークヤ マーリブハーリ スバーハー ナモー アーカーシャ ガルバーヤ オーン アーロークヤ マー
4
4
わ
4
4
し
うしてそんな異国の言葉や意味を知っているのだ」と、聞
し
リブハーリ スバーハー 云々」と同じことを何べんも言
う。ああ、
こいつが呪文というやつだなと勝手に合点する。
わ
くと、「まあ聞け、先ずは、謙虚にならないかん。奢りの
(一)
「あなたの名前はなんというのか」と、三郎が聞くと彼は
心 を 捨 て ろ。 我 し が 生 き て い る。 我 し の 力 で 生 き て い る 。
し
「 我 し は 沙 門 だ(。 シ ュ ラ マ ナ だ。 家 な し の 放 浪 修 行 者 だ 」
我しだけが居るとか尊いとかいつまでも居るという気持を
わ
と言う。
捨てろ。なんせ、我しらはみんなこの虚空の中の一員で、
し
「さっき唸っていた、聞き慣れない言葉は呪文か」と、聞
互いに影響し合って生まれたり死んだりしている。自分で
わ
くと、沙門は堰を切ったように話し始めた。
生まれるわけでもない。かといって勝手に生まれるわけで
し
「こいつは梵天の言葉でマントラという。気持を込めて何
もない。誰かのお蔭や何かのきっかけで生まれたり死んだ
わ
度も何度も専念して唱えれば、心の中に仏が現れる。さっ
4
4
りしている。これが謙虚とういものだ。そうすると虚空が
し
4
きのは虚空蔵菩薩のマントラだ。本当のことを知らないや
わ
4
蔵 に な っ て、 良 い も の を 産 み 出 し て く れ る と い う わ け だ 。
4
つらは、のうぼうあかしゃきゃらばや、おんありきゃまり
我しは虚空のことを打ち出の小槌さまと呼んでいる。虚心
に念ずれば、そのものが産み出されるから、打ち出の小槌
4
ぼりそわかと、大和言葉で言うがそれは効き目がないぞ。
(一) 三教指帰の序に一人の沙門有り、余に虚空蔵求聞持法を呈すとある。
61
ほうしょう
「我しは行基菩薩の生まれ変わりで、弓削道鏡の(弟子だと
いうわけではないが、これでも昔、奈良の某寺で経典を読
「そのことを沙門さ
ひたすら聞いていた三郎は問うた。
んはどこで習ったのですか」と。
来ぐらいは教えてもらったろう。仏様のことだ」
。
ん。家にも居られんなって、このありさまじゃ。我しは冷
う目標がなくなって、悲しゅうて悲しゅうてどうにもなら
は自分が殺したことに気がついた。しかし家族を守るとい
気がついたら我利我利亡者で、息子にも八つ当たりしたり、
と急に心細うなって、怒鳴りつけたんじゃ。その後は、転
けなら何ともなかったが、息子や連れ合いのことを考える
み込んだことがある」と、沙門は答えた。
血漢の人殺しじゃ」と、三郎は一気に過去の針の山を駆け
だ。宝物の出生だ。宝を生むから、宝生如来ともいう。如
さて、求聞持法とやらを教わった三郎は、足摺へ向かう
途中、どこかであったような気がする男と一夜を半島で過
抜けた。するとである、聞いていた男が口を切った。
わ
し
4
わ
し
し
な 気 が し た。「 こ れ が ア ー カ ー シ ャ ガ ル バ ー ヤ か の う。
けじゃないのう」と。三郎は重たいものが削げ落ちるよう
4
働け働けで何も見えんかった。子どもたちが死んで、我し
わ
がり落ちるように、自分のことしか考えんようになった。
ごした。なぜか、三郎は自分の身の上を話したくなった。
「我しは、娘を殺しました。好きな男が出来ましたが、許
わ
(一)
「あなたは、どこから来られたのでしょう。我しは実は瀬
さんかった。うちの田んぼは山の上の方で、水汲みを日に
し
戸内の道後の近くの荏原という里から抜け出してきてしも
何時間もしても田はすぐ干上がる。粟や稗でも生きてはい
わ
うた。我しは自分の息子を殺してしもうた。それというの
ける。けど年貢は米で盗りに来る。目茶苦茶じゃ。自分ら
し
も食うのに困ってやっと我が家に辿り着いた坊さんを追い
は働かずに取り分は減らさん。まあそんなことはどうでも
し
返してしもうたからじゃ。あの日は疲れておって二つの心
え え。 娘 に は 苦 労 さ せ ま い と え え 家 に 嫁 に 行 け と 言 う て
わ
が行ったり来たりしてたのじゃが、面倒くさい気持が勝っ
やったら駆け落ちした。それっきりじゃ」と。
し
てしもうた。本心は助けたかったのじゃが、ひょっと国司
わ
に睨まれせんかと恐怖心が保身に走ってしもうた。我しだ
それを聞いて三郎は唸った。
わ し
わ し
わ し
「我しだけじゃないのう。我しだけじゃないのう。我しだ
(一)
突飛な登場と思うだろうか。道鏡は六五才で七六五年法王となる。
七七〇年左遷される。七七四年空海大師誕生。四国に放浪する十八歳の時
は、道鏡滅後二〇年であり、仏教を志す真魚にとって道鏡はよくもわるく
も影響があったことは間違いない。
62
その晩、三郎は泥海を泳ぐ夢を見た。息子をおんぶして
泥の海を泳ぐのだが、進みもしない、ただただ沈んでいく。
じた。
誰も居ない夜空に、マントラが言霊する。
わ し
しら
三郎は沙門の言葉を思い出して、虚空よ宇宙よ、我
わ
が容れものよ、我たしの宝物を示したまえと宇宙に心を放
こだま
死にもしないし浮かびもしない。息が出来ず苦しみだけが
「この果てしない容れものよ、宝を示したまえ。この果て
なんとつらいこと、なんとむごいことよ」
。
つづく。
室戸には有名な洞窟があった。いろいろな高名な私度僧
が修行したという洞穴である。三郎も先人を見習ってそこ
むには十分長い、考えるにも十分な距離である。
足摺の彼方は普陀落の都。死者の逝く観音様の世界であ
る。その海岸線は何百里を経て室戸につながっている。歩
めるのだ。そんな高揚感がなぜかあった。
ない。ぬかるみも歩んでいける。泥沼だから力強く歩を進
住居に、仲間たちが集まる。
温かいもので満たされていく高揚感にあった。彼の空白の
る。
阿卑法師が見える。沙門がいる。一夜を
て登場する。 ・・・
泊めてもらった男がいる。身の上を打ち明けあった男がい
間がみえる。共に働いた下僕と思っていた人々が友達とし
」。
ものよ、宝を示したまえ。 ・・・
そうすると、息子が見える。連れ合いが見える。一族の仲
しない容れものよ、宝を示したまえ。この果てしない容れ
でしばらく居ることにした。いつかの沙門に教わった求聞
我 し は 空 虚 で は な い。 一 人 で は な い。 人 々 と と も に あ る 。
翌日起きると、連れはとっくに出発していた。みんな苦
しみを背負いながら歩んでいくのだ。止まるわけにはいか
持法とやらをやってみることにした。
「阿卑法師が言ったのはこのことか。仏法は手元にあるが、
わ
し
三郎は思い出した。
に住んでいるということ」。
人であり、他人のことが見えるということ。他人といっしょ
自分の中を探しても見つからない。他を探せと。他とは他
おしえ
息子を失い家を失ってから空隙となっていた三郎の心は、
ナモー アーカーシャガルバーヤ オーン アーロークヤ
マーリブハーリ スバーハ ナモー アーカーシャガル
バーヤ オーン アーロークヤ マーリブハーリ スバー
ハ ナモー アーカーシャガルバーヤ オーン アーロー
クヤ マーリブハーリ スバーハ
63
浜や辺土に身を寄せて旧友と質素な生活をして時を忘れ
り、町中では追っ払われることもあり、疲れると山間や海
か乞食語り部三郎というあだ名になっていた。今までどお
僧の話しをしては、虚空の宝物の話をして回った。いつし
それからというもの三郎は、とりつかれたように自分の
ことや阿卑法師のことや辺土の自由生活者や見すぼらしい
まって休んでいかれよ」と。
れたもんじゃ。あの体験がなければのう。しばらく家に泊
たが、何軒かに一軒、必ず心優しい御仁が居られて助けら
つけられたり、馬糞を投げられたり、やっかい者扱いされ
たい。
「 我しも以前に途方に暮れて放浪したことがあって
のう、泊めてくれたり断られたりじゃった。石つぶてをぶ
どうぞ泊まっていってください」と、そしてこう付け加え
に帰りたい。そして、
あの時のもう一つの言葉を言いたい。
「あの
そして居ても立っても居られない気持になった。
時に帰りたい。あの見すぼらしい僧がやって来たあの時点
し深々と敬礼して弘法大師の身代わりとして送り出しつづ
歩きに歩いたりであるが、それを迎え自分の屋敷にお泊め
施した四国の心ある人々の誠意には頭が下がる。遍路人も
か。このような立派な墓石を見ず知らずの他国の遍路人に
岩で造られる。それでも名を刻み高さが一尺はあるだろう
たかは定かでない。他の遍路人の行き倒れの墓は小さな砂
開創というお山四国霊場の石手寺東山の麓にあり、私は住
所に求めて帰省することとなった。その墓所は室町時代に
手寺の東山の麓に埋めた。その三代後の末裔はその骸を墓
期間にして二十年弱、ついに倒れてその身を四国のこの石
後の篤志家の接待を受けつつ、四国行脚をすること約百回、
あるいは四国に行けば余生を修行に費やして来世は幸福に
居られなくなり、四国へ行けば生き延びられると聞いたか、
何が起こったか分かるだろう。事由があって若さんは家に
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
職として読経に立ち会った。どうして立派な供養塔が出来
なると聞いたか、それとも重病が治ると聞いたか、彼は道
あって深夜人知れず出奔したといえば、察しのよい人には
た。また元気になると、どうしても話したい欲求が彼を都
けた四国の民はもてなしにもてなしたりなのだ。
し
会へと走らせた。
そのもてなされた者ももてなした者もそのルーツが、根
ともがら
の良い聖人ではなく、強欲非道の三郎の輩であったらばこ
わ
伝説では二十回遍路したというが、こんなことを百回は
繰り返しただろうか。
そ、この営みは今に続いているのであろう。
やまあい
石手寺に供養塔がある。幕末期、九州か中部の嫡男が訳
64
あの人だと分かるはずもない。なのにそれどころかこれは
追い返して以来、何年も経っているわけだから、一目見て
たか意識は朦朧としてぼんやりと僧侶の姿を見ただろう。
認識とは、その人が何であるのかを直感的に知ることで
ある。息も絶え絶えの三郎だったから、熱にうなされてい
とである。
か、弘法大師が目の前に現れる。あの見すぼらしい僧のこ
三郎が息も絶え絶えになったとき、夢枕かそれとも実際に
それとも野宿生活は人間の寿命を蝕むのか。
早世であろう。
伝説では、三郎は今の霊場第十二番焼山寺の麓で息も絶
え絶えになったという。昔は人間の寿命が短かったのか、
てくる。
畳みの上で死ねる身分では既になかったのだから。
三十五であるから、やはり二十回か三十回すれば体も弱っ
と 聞 く か ら、 三 郎 が 八 人 の 子 を 持 っ て い た と す る と 歳 は
さて、衛門三郎。二十回ではなく彼もまた百回を越して
歩 い た だ ろ う か。 供 養 塔 の 主 は 二 十 歳 ぐ ら い で の 出 奔 だ
抜け人を助けたら家族もろとも同罪として奴隷にすると
か、身分を剥奪するとか、村を追放するなどとあの手この
以外の何物でもない。
人を友人とし、処罰の恐怖心を克服した者にとっては脅し
へと棄てられていた。しかしそれは都の論理であり、抜け
落人や乞食やはぐれものは、口分田からの上納米で生き
延びる権力主体からすれば秩序を乱すやっかい者であるか
としての辺土が認知されたという意味である。
く、逃亡者や抜け人や困窮者や病人が落ち延びて憩う場所
かもしれない。しかしそれは仏教の大師というものではな
このように知る人ぞ知る、遍路再生の人として、あの見す
自他兼利済の道を得た遍路人、それ空海」。
室 戸 に 起 死 回 生 し て、 谷 響 き を 惜 し ま ず 明 星 来 影 し て、
度を無二の親友として光明優婆塞に衣食の糧を接待され、
ら、「逃亡者は悪者」「はぐれ者は賤人非人」として世間外
ぼらしい僧は既に四国の救済者として名を挙げつつあった
じたともにすくう
と し、 都 会 で は 瓦 礫 糞 尿 の 雨 を 浴 び せ ら れ た が、 阿 卑 私
弘法大師だと分かるのである。弘法大師の自筆が残る三教
4
手で脅かしてくるから、その恐怖を感じる限り、都の秩序
4
指帰の話は他所に意訳したが、このとき既に空海大師のこ
4
が秩序として見える。しかし、一旦、世間を外れ大地に雲
4
とは四国にこのひとありと知られていたかもしれない。
を友達として生きる時、そんな泥棒の論理がなんになろう。
4
「立身出世に頼る親孝行の失敗と帰郷安住の二つの間に進
弱いもの同志助け合って生きることこそ秩序なのである。
4
退 窮 ま っ て、 石 槌 に 糧 を 絶 っ て 大 地 を 家 と し 青 空 を 幕 張
65
弘法大師の三教指帰はそのことを如実に力説して表してい
る。行基や弘法大師の生きざまが庶民救済として流行して
くるということは、将門や純友の乱が鎮圧され、その首謀
明星来影すと豪語したその人である。
庶民に回復させ、このように生きていいのだ、このように
その英雄としての真魚青年は弘法大師の基礎的な心象を
四国の民のみならず、貴族の豪奢な生活を横目に困窮する
す表現形態であった。
由人の助け合いである自他兼利済の生き方が息吹を吹き返
論理が確立されたかのようになっていた時代に、本来の自
生まれ、人々を救済したい。あなたをお泊めしたい」と。
三郎は答える。
「もしも生まれ変われるものであれば、伊予の領主の家に
田畑か、豪奢な暮らしか、家族か、地位か、権力か」。
い褒美はなんであろう。
弘法大師は言う。
「 三 郎 よ、 良 く ぞ 改 心 し て 辺 土 を 行 脚 し た。 あ な た の 欲 し
三郎はだから、このとき既に出来つつあった辺土伝説と
対話していた。
生きることこそ人間らしい生き方であると宣揚し、かつそ
この言葉の意味がどういう意味なのかは、私には分から
ない。弘法大師の言葉を借りるなら「自他兼利済」である。
者が斬首されるなかで、口分田制度という一種収奪泥棒の
の生き方を表舞台へと引き戻したのである。
はない、他人の財で生きる生活でもない、他人を苦しめる
ることによってのみ、三郎の果実を見ることができる。
や辺境に生きたその生活、出会った人々、行った事々を辿
この言葉の意味を知りたいなら、もう一度、衛門三郎の
生涯、特に辺土行脚を辿るしかない。三郎が、辺土の大地
自分も他人も共に救う。もう少し言うならば贅沢な生活で
四国、否、辺土に流浪するということは、困窮したとき、
人と人とが出会い、互いに痛みを知り合って助け合い、困
生活でもない。そのことは三教指帰に書かれている。
いいかた
窮から立ち上がっていくのだ、ということがひとつの言辞
となって確立しつつあったのである。
その最中に衛門三郎は死の床にあった。
だから彼も既に辺土に身を置いていて、辺土に再生を待
つ人であった。ならば臨終の夢枕に現れるのはそれを約束
する人物であり、
それは後に弘法大師といわれる人であり、
この時点では真魚青年というべき室戸で谷響きを惜しまず
66
弘法大師御作三教指帰考察
蛭牙公子
円も貰っていれば、直感的にはみんな盗っ人である。世界
的に見ればもっと現実は厳しい。為替レートや諸事のカラ
クリで珈琲豆の摘み手が得るのは末端価格の数十分の一だ
ろうか。自由主義とは貪る自由である。
分田を耕しては租税を盗られ、年に何十日も徴用されてい
過去を想像するのは難しいが、貴族が十二単を着ていて、
駿馬を駆って狩りに興じていて、その一方で岩山やジャン
三教指帰の登場人物は名前が凝っていて、名がその人物
を示している。大師が宣言しているように三教指帰執筆の
たなら、盗っ人猛々しいとはこのことであろう。
動機は二つであり、その一つが蛭牙公子の存在である。
グルのような自然林を開墾して遠い水源から水を運んで口
蛭には牙がないのに、蛭の牙というのだから面白い。
そのように三教指帰には書かれている。詳細は本文を読
んでいただきたい。
蛭とは他人の生き血を吸って生きる人々を指す。言わず
と知れた盗っ人のことである。現代も盗っ人は居る。働け
を握って政治や世間を混乱させていると言いたいのであ
の牙は、ないはずの牙だから、実力もないのに権力や役職
しかし面白がってはいられないというのは、蛭とは血吸
い蛭のこと、そのものである。
るのに働かずに生きる人々。それと働き以上に所得を得る
る。
そのように他人の血を吸って生きる蛭のような人々に腹
が立って仕方ないので書いたのが三教指帰である。その蛭
人々である。週休一日で八時間以上働いて年収二百万円の
以上が蛭の牙の公爵の説明である。
(一)
人が二千万人を(越しただろうか。そんな中で、年収五百万
の世の弱肉強食や権力者の利権を保身しようとすることへ
それは一見、弁明のようでありながら、実は忠孝を盾にこ
もう一つの執筆理由は、書かれているように忠孝の問題
である。大師が俗に言う忠孝に従えない経緯を書いている。
(一)
日 発 表 し た 2012
年 の 就 業 構 造 基 本 調 査 に よ る と、
「 総 務 省 が 12
万 人 ・・・
雇 用 者 全 体 に 占 め る 割 合 も 38.2
%
非 正 規 労 働 者 の 総 数 は 2042
年間では
ポ イ ン ト 増 加 ・・・
介
と 上 昇 し、 過 去 最 高 を 更 新。 過 去
20
16.5
万 人 の う ち、 60
歳以上が約 割
過去五年
護 を し て い る 全 国 の 557
5
・・・
% ・・・
」(二〇一三年七月
間に正規労働者から非正規に移った割合は 40.3
十二日の日本経済新聞)。
67
ないのに冠位を得て不労所得の輩である。実は蛭牙貴人と
同等の他人の力を得て生きる者が税金を貪り邸宅に住み人
の激しい怒りと批判である。その根底には、阿卑私度や光
明優婆塞への友情や愛情がある。もっと言えば、蛭牙公子
萍
うきくさ
を諭そうとすることを痛烈に批判している。
によって食い物にされている庶民への愛情がある。
いいや、真魚青年は蛭牙公子を痛烈に批判しているが、
各所で明確にしたように、
彼は輪廻を一つの譬喩としつつ、
蛭牙公子や亀毛や兎角や虚妄や自分という個々人のアイデ
ンティティーを崩壊せしめ、個々人の善悪という憎しみの
境涯を消滅させて、
生きるもの全てを愛することによって、
進 退 窮 ま っ た 真 魚 青 年 の 心 境 が 表 さ れ て い る。 忠 孝 に
よって親を安心させ養いたいという気持で一杯であるこ
固執如是。不拘父兄。不近親戚。萍遊諸州。蓬轉異境。
かかわ
らず、親戚に
かくのごとく固執するときは、父兄にも拘
うきくさ
よもぎ
めぐ
近づかず、萍のように諸州に遊び、蓬のように異境に轉る。
前に仏陀が希求した道である。仏陀も真魚青年も各々別の
と。そしてそのことを実現できない絶望。そして別の道の
その対立を越え、自他兼利済という、皆一緒に幸福になる
時代に別の道を歩むが、奪い合いや殺し合いではなく、互
模索。この間、父母にも会えず、親戚にも顔を会わせるこ
道を希求するのである。それは正に弘法大師より千二百年
いに愛し合い与え合うことを希求するという運命にあっ
とも出来ず、浮草のように諸国を転々として、蓬のように
知らない土地を巡る。これも一つの四国遍路の様相である。
た。
亀毛兎角
て登れるだけ登って快楽を貪ろうというのである。アメリ
三 教 指 帰 の 三 教 と は 儒 教、 道 教、 仏 教 を 指 す。 進 退 の
はざま
うきくさ
迫間にあぶれたのが萍のように諸国をあてどもなく流浪す
亀に毛はない。実はない教えが亀毛であるから儒教の忠
孝は批判されている。兎角の邸宅で蛭牙貴人(公子)を諭
カンドリームなどもその典型である。しかし米国人口の1
すというのも強烈な隠喩である。兎には耳がない。他人を
パーセントに満たない人々が富の
パーセントを所有して
ることである。儒教は権勢利欲の世界。儒教のルールに従っ
脅かす見せ掛けの角である。虎の威を仮る狐である。力が
99
68
る。特に貴族国家、差別国家、血筋国家、二世議員や世襲
リームは見せ掛けで、富裕層は変化しないということであ
を助けなければならない思いに駆られ、浮草はそのまま続
うであったが、飲まず食わずの仙人は、自分と家族と他人
大師も彼らと同様に、追い出され、また飛び出して、浮
草のように当てどなく放浪したのである。それは仙人のよ
いるということは何を意味しているか。実はアメリカンド
企業や富裕層の固定化が進むとき、底辺層は固定化して社
くわけもなかった。
進退窮まる
退とは、都からの帰省である。立身出世を諦めて故郷に
帰り野良仕事に専念することである。進は身分に遮られた。
れている。
進 退 の 進 は、 進 ん で 仕 官 し て 立 身 出 世 す る こ と で あ る 。
そのことよって老いた両親や斜陽の一族を助け得ると書か
会の給仕役に堕す。そのルールーをつくり、その階層や身
分を肯定し固定化するものが儒教として示されている。
(二)
その差別ルールから抜け出すものを道教で示す。
うきくさ
ちょうぼう
である。逃亡や私度僧はまさにその人々で
その表現が萍
ある。六十歳などの年齢に達すると村を追い出された姨捨
(一)
山の言い伝えや、
( ハンセン病で白眼視されて出奔した人々 (
や、何らかの理由で働けなくなった人や、代替わりして疎
しにはみ出た人々もいれば、自ら自由人を目指した人々も
退は、「私の出世と俸祿を期待している父母を思うとでき
遠になった兄弟の親戚などもその中に入るだろう。否応な
居る。言ってみれば儒教の枠組みに入りきれない人々と儒
ない」と表明されている。
だから三教指帰は実は出家の宣告書である。
の窮まりを解決する方法は出家であるということである。
が、進退窮すの状態からの解決策の表明である。即ち進退
先に大師の執筆理由の一つは蛭牙公子の存在あるいは蛭
牙公子的社会そのものであると示したが、もう一つの動機
教に生きる人々が出世の都合で追い出した人々である。
(一) 私は石手寺先達の息子さんである秋田県の方と霊場四十六番で会い
彼に、「私の村では昔老人は六十歳になると(役立たずとして)四国遍路
に行かされた(そして二度と村には帰らなかった)」という痛ましい話を
聞かされた。
(二) この話も明治初期に実際にあったことを末裔の方から聞かされ、供
養塔も確認した。また久万町の八十歳の老人から、「祖父の時代にはハン
セン病者専用の善根宿を村で設け、各患者を一週間程度看病し、その期間
が終わると次の札所へと送り出した」という話を聞いた。
69
谷響きを惜しまず明星来影す
先の進退窮まるの「窮まる」は「谷まる」と書いても良
い。
即ち進退の窮まりが響いて止まなかったと書いている。
その意味は、
進退の谷から逃げるわけにはいかないという、
瀬戸際に追い詰められた状況があったということである。
実際、大師は都に留まることが出来ず都を出る。しかし帰
つ
こ
べ
既に欲得競争の苦しみを知ったからには、どうして栄達栄
おもい
雲童孃と滸倍の尼
華を望もうか
たゆ
(一)
雲童の娘を眄ては心懈むで思を服け、或るときは滸倍の
こころ はげま
尼を観て意を策して厭い離る。雲童の娘は注に、「須美能
孃と作す。孃は大きな女、母を意味する。また尼も母の意
郷できない。文字通り進と退の迫間に困窮する。
進退の谷から逃げられないのである。大師は進退の谷を
背負って嘆息し号泣し呻吟する。その出口はあるのか。答
味ありとも。いずれかが大師の母の謂いとも取れる。
な
えは、明星来影。死ななくて済んだのである。
雲童の母ということになると、雲辺山の童の母とも推察
され、真魚青年の故郷が眺望できる雲辺山から母を偲んだ
曳乃宇奈古乎美奈」とあり、ある注は(「住吉の海子女か」
とある。滸倍の尼は注に「古倍乃阿麻」。光明院本は娘は
三教指帰の末文は将に出家の宣言である。これは父母へ
の手紙である。世間への宣戦布告である。
のではないか。須美能曳乃宇奈古乎美奈は、住みの江の海
逝く川の流れは既になく、疾風は音を立てて何度去ったこ
春の花はやがて散り、秋の露は消えていく
仏の大乗教は意味も利益も最も奥深い
なんとなれば自他を兼ねて救済して動物も見捨てない
みと、大量の経典群の獲得が可能となったと考えなければ、
金によって弘法大師の渡唐、即ち遣唐船への急遽の割り込
の一角を占めていたことは疑い得ない。瀬戸内海軍族の資
風ヶ浦であり海岸であり、船族、瀬戸内の水軍、海賊部隊
の女、棲み家の海の女か産みの女か。真魚青年の生家は屏
とか
頁
118
その快挙は説明できない。
(一) 岩波書店、日本古典文学大系
権勢や栄華は溺れるの海である
おしえ
仏の説く法こそ目指す峯である
70
は、朝廷の許可なく勝手に僧侶を名乗る者だからである。
私度という言葉が当時、使用可能だったかどうか。私度と
かある。特に、蛭牙公子とこの阿毗私度である。私度僧の
三教指帰が何時公表されたか不明であるが、権力集中が
進んでいたとすると、当然検閲されるような語句がいくつ
毗私度である。
阿毗私度は常に膠漆の執友たり。注に阿卑法師。
(二)
実に三教指帰に登場する固有名詞の人物はたったの四人 (
で あ る。 ① 雲 童 孃・ 母、 ② 滸 倍 尼 ・ 女、 ③ 支 援 者、 ④ 阿
少し範囲を拡大すると②仏教勉学の支援者であり、さらに
確定だから、先ず①彼の四国での生活支援者であり、もう
助者ということとなる。この段階では遣唐船への参加は未
という意味だから、真魚青年に希望を与えた物心両面の援
真魚青年にとって光明という名の心温かい物心両面の援
助者が居たことは疑い得ない。光明は普通に読めば「希望」
ろうか。
衛門三郎伝説の作者が三教指帰から光明の名を取ったのだ
阿毗私度
真魚青年の文章力や筆致からして、世間の大方の人々には
③上京を可能にさせる支援者であると考えられる。文中注 (
光明婆塞は時に篤信の檀主たり。注に光明能優婆塞。関
係しているかどうかは不明だが、衛門三郎の戒名は光明院
解読不可能であり、不思議な逸物であったろう。庶民には
に私度僧の社会認知を問題にしたが、以上の①②③は次の
高価な紙に書く事すら高嶺の花である。
①、真魚青年と同様の逃亡者、流浪者が居て、彼に同情し
(三) 三教指帰の注
た。その人々が真魚青年を支援した。
(三)
蛭牙公子を批判する改革精神を期待する社会運動があっ
②、行基菩薩の存在から推察すると、仏教思想にそもそも
対応を予想する。
衛門三郎伝説は三教指帰より後から書かれただろうから、
四行八蓮大居士である。衛門三郎の生まれ変わりは河野氏。
権力には御法度であったはずの私度僧を無二の親友であ
ると宣揚するからには、それだけの覚悟と意図があったの
たり、共同生活所を提供した。
光明婆塞
である。
(二) その他、伯父と一の沙門が登場する。
71
して真魚青年を送り出すこととなるのである。このような
陣の難破を機に、その再出航に併せて瀬戸内一派の代表と
持ちつつあった。そしてついには最澄勢力の遣唐船の第一
社会改革運動となってその代表者を中央に送り込む勢いを
欲望となり、既に瀬戸内の少なくない人々を巻き込んでの
迫に対する抵抗や改革運動の動向は一つの部族や集団的な
の栄華を貪ることである。
ころは、良い身分と役職を得て、良い家庭を持ち、この世
ここで儒教は忠孝を基調に説かれ、良い君主に命を投げ
出して仕え、父母を孝養することを説く。その行き着くと
の 否 定 で あ り、 自 他 と も に 救 う 道 で あ る 仏 教 を 選 択 す る 。
守り、人々を下々と見下し利権を吸い上げようとする身分
③結論は(冠位十二階に代表される差別と利権の否定と、仏
教の選択である。即ち人や寺院仏閣まで序列化して特権を
(一)
欲求の高まりや水面下の経済的動向を抜きにしては、その
③、真魚青年の再上京を考えると、②の蛭牙公子による圧
後の真魚青年の成功は説明できないのである。
次に道教は、自分自身の性質を保って、長生きを楽しむ
のであるが、肉食や飲酒や好色という享楽を退けることを
説く。そうすると儒教は体制に迎合して冠位を得て、良く
内海海軍族への資金援助の要請文である。
魚青年の出家の決意書であり、ひょっとすると一族や瀬戸
俗に三教指帰は儒教と道教と仏教の優劣を論じた思想入
門書との説明があるがそれは頓珍漢な話だ。三教指帰は真
だと批判して、浮草のように諸国を流浪するのである。そ
する。その道は蛭牙公子の他人の血を吸う血吸い蛭の世界
て国学へ冠位の道を目指すのだが、身分の壁によって挫折
に生きること示す。真魚青年は先ず忠孝の道を選び苦学し
三教指帰の意味
①冒頭真魚青年は⒈自分の不満⒉蛭牙公子問題の二つを執
の浮草の生活とは道教そのものである。しかしながら、こ
弱肉強食してこの世の栄華を貪ることであり、道教はその
筆の理由に挙げる。それは当時の貴族の特権階級構造や立
のままでは餓えて死ぬだけであると嘆息して、仏教を担い
身出世構造、また差別思想への不満を秘めている。
で都に再来するのである。それが仏教の行である。
(一) 原文、自他兼利済、 ・・・
何不去纓簪。
くだり
貪欲を否定して弱肉強食の体制から距離をとり自由気まま
②多くの部分で真魚青年の放浪を記述し、不義や親不孝を
弁明しつつ出家へと向かう理由を書き続けている。
72
擾擾の輩、速やかに如如の宮を仰げ、であり、
「擾擾つま
そもそも三教指帰は聾瞽指帰として書かれる。聾瞽指帰
こ
ねがわ
の最後は「庶幾擾擾輩、速仰如如宮」である。庶い幾くは
である。自然界を自分の名に冠するとは思えない。
を切望している。虚空蔵求聞持法の修行も庶民救済が目的
(二)
(三)
右としていて、人々特に虐げられた人々が救済されること
り私の意見に対してあれこれと反対する輩は、すぐにしか
海とは私達が弱肉強食、無
( 常のうちに苦しむ現実を言う。
空とは、その苦しみの現実を仏教によって救うことを指す
るべきところへ行け」と締めくくる。この末尾は題名や蛭
のである。秘蔵宝鑰第九住心に無自性故去卑取尊と(書かれ
る。弱肉強食の苦も、恒常不変ではなく私達の修行によっ
牙公子や亀毛、兎角の名とともに、世間を食い物にする身
分に固執する貴族という張本人とそれを擁護する儒者亀毛
シーン
三教指帰のクライマックス
て変革され苦が除かれると説くのである。
とそこから逃避するという間違った形で解決しようとする
道教者兎角を激しく指弾するものである。
空海の名について
この世のあらゆるところから、あらゆる生き物たちが雲が
一説には空は大瀧嶽の空、海は室戸の海。私なら空は石
槌山の空か。それも一理あるが、そうだとすれば、空とは
わくように集まり始めるのである。押し合いへし合い踵を
幕である。仏陀が
劇の最高潮はなんといっても最後の一
げき
衆生救済のために全世界に説教開催の檄を飛ばす。すると
人々が住む空間であり、海とはその喜怒哀楽であると考え
踏み合うほど勇躍歓喜して集まる。燐燐爛爛、震震塡塡で
(二) 生死海の賦参照
(三) 空=万物に固有の性質はないからこそ、善を行い悪を退ける。大師
の善悪の基準は各所に明確に書かれるように、「生まれ変わりして自分と
他人とは父母になり子になり平等であり、衆生は皆四恩であり、他人を観
ることなおし自分の如し」という自他平等である。自己平等や皆一緒の観
点から、殺生や偸盗などを行わないのが善=尊である。その逆に他の痛み
を知らないのが悪=卑である。
くびす
るが、それよりも空海大師は仏教から命名したのではない
か。実は大師は空海よりは遍照金剛を名乗ったと思われる
が。
海は三教指帰に書くように、生死海であろう。空は今の
ところ色即是空の空であろう。空海大師は自他兼利済や恤
均一子衆(あわれみはひとりごのあつまりにひとし)を座
73
かな
ある。そのとき仏の声がする。一つの同じ声が各々の生き
あたい
べ
伯氏。母は渡来系阿刀氏。
佐伯には直と部がある。真魚青年は佐伯 ノ直の子である。
日本書紀に「皇紀五一年八月、日本武尊が東征で捕虜にし
物にとってはそれぞれに適った教えとして聴聞されて皆悟
るのである。
さわ
さえぎ
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
れてこられ捕虜としてか奴隷として働かされたのだろうか
あり、征服され家族を殺されたりしつつ遠地に無理やり連
直である。佐伯は①騒ぐ②遮る、から起こるという説が
ノ
ある」と記される。その佐伯 ノ部の民を支配したのが佐伯
べ
た蝦夷の人々を畿内に住まわせたが騒ぐので、播磨、讃岐、
伊予、安芸、阿波に移した。この五国が佐伯部の祖の地で
きぼう
あらゆる有情がなんの差別もなく集合し、各々が自分に
合った仕方で教えを聞いて幸福になる
星であった。
これが空海大師の見た明
不仰纓簪、自他兼利済、不忘禽獣 ─
─
青年弘法大師の苦悩と鬱憤
佐伯氏は監獄の監守という立場である。瀬戸内海には奴隷
ら、騒ぎを起こすし、抵抗して反乱もしたということであ
既にみたように真魚青年の苦悩は忠孝を実行できないこ
とと蛭牙公子の横暴である。この二つは別のことではなく
を表す生口という言葉の島、生口島もある。想像は様々に
一体のものであることが分かる。特に少なくない学者が考
できるがきつい想像としては、佐伯氏は暴力で蝦夷の人々
ろう。それを総括するのが佐伯氏ということであるならば、
察するように「唯一の出世の登竜門である大学に身分差別
をこき使っていた。穏やかな想像としては、佐伯氏は佐伯
(一)
によって入学できなかった」とすると、彼の的は身分制で
や家が傾いていく」と書く。この斜陽と血吸い蛭たる貴族
たと思われる。そうすると四国放浪した真魚青年はその逃
略戦争が激化し(ている時であるから、新参の奴隷も次々と
運び込まれて状況は騒然として抵抗運動や逃亡も激しかっ
(二)
部を憐れんで守ろうとしていたが、時代はちょうど蝦夷侵
の悪行の記述とは関連している。また真魚青年の生家は佐
(二)
年、 佐 伯 葛 城 な ど を 投 入 し 大 規 模 な 掃 討 が 始 ま る。 802
年ア
789
テルイ、モレら降伏処刑。
あり、彼の忠孝を妨げるものこそ当時の制度である。(彼は
指帰に「家産澆醨、牆屋向傾。家の財産は少なくなり、塀
(一) 蛭牙公子の横暴の原因は彼の素質というよりも、環境である(陶然
所到)と書いている。真魚青年は人を憎むのではなく制度を批判する。
74
(三)
はやはり瀬戸内水軍であり、海路奥州に向かったと考えら
夷の奴隷を使って造営したとか、蝦夷から資金を調達した
亡者に辺土で出
( 会っただろう。
もしも佐伯氏と佐伯部の状況がそうだったとすると蛭牙
公子の非道の解釈も随分と変わってくる。空海大師が「自
とかいわれるが不明。
れる。佐伯氏は蝦夷侵略と新都造営の両面で活躍する。蝦
他兼利済」と明言するときの「他」とは何かである。
そうすると衛門三郎の生地は後の河野水軍の一角をなし
ている。少なくとも後の空海大師の成功の鍵となる軍資金
けである。ただし河野家というのは南北朝前後に跋扈する
空想としての衛門三郎との関係
先に佐伯部と佐伯直の問題を見たが、佐伯部が配置され
たのは瀬戸内海である。瀬戸内は古来強固な水軍の集団が
のであって、西紀七八〇年頃にはどうであったか。
が瀬戸内勢力の組合から出ているとすると、屏風ヶ浦の佐
あったと推定される。伝説では伊予の越智家と中国の越と
の関係など瀬戸内の勢力は遠く中国の福州の勢力との関係
少なくとも、屏風ヶ浦を出奔した真魚青年は知己である
河野水軍の前身のところに身を寄せようとしたことが推察
三教指帰の射程とその後
(四) 「一切衆生は皆四恩である。無明愚痴によって、その肉を欲して食
住心論の(「一切衆生皆是四恩。由無明愚痴故。愛彼血肉断
(四)
に入れ代わって平等である。この考え方は、大師の主著十
輪廻ということ、生まれ変わり生まれ変わりして我と汝
は互いに母と子・子と父、師匠と弟子・弟子と師匠、互い
伯氏と道後の河野家は膠漆の無二の友軍の関係にあったわ
も想像できる。そのことは空海大師の中国での成功の基盤
される。
さえきのかつらぎ
とも考えられる。
「七八九年佐伯葛城投
さて「西紀七八八年真魚十五歳」
入され蝦夷征伐本格化」の重なりは偶然か。そして既に佐
伯氏は朝廷の軍隊部門の雄として活躍していたが、その一
方では中央の政争に巻き込まれて、真魚の一族は冠位を落
としつつあった。そして大量に投入された佐伯葛城の軍隊
(三) 先に示したように遍路は昔辺土と言われ、辺土とは辺境の地、人の
来ない奥地や未開の地である。落人や原住民が住むところであった。原住
民からすれば、朝廷に帰属する人々は墾田永年私財法等によって土地を奪
う侵略者としてあった。
75
4
4
4
4
4
生活困窮者に親近感を持ったことが、そのまま自他兼利済
の自分の分身に出会ったことによって、私度僧や逃亡者や
や三昧戒序の「観 二法界無縁一切衆生 一猶如己身。所 二以然
の意思になったのである。また、佐伯氏として生きるとい
命根。
坐此愚痴罪故感畜生果。
若生人中時亦感二種果。
云々」
者、善人之用心先他後己。又達観三世皆是我四恩。四恩
我誰能抜済。是故発此大慈大悲心。大慈能与楽大悲能抜苦」
皆堕 二三悪趣 一受 二無量苦 一吾是彼之子也。亦彼之資也。 非
獣と(見るのではなく、同じ人間として観て、親近感を持ち、
それによって困難な状況から助けようと愛情を持ったこと
うこと、即ち蝦夷の俘囚を統率する中で、彼らを異質な禽
一
にそのまま引き継がれるし、万灯会願文に「虚空尽衆生尽
こそが、真魚青年の生の原動力となり空海大師への道を結
(一)
涅槃尽我願尽」として、即ち「自他兼利済」の願いとして
実したのである。
けちだんけんちゃく
種々の同行二人
生涯貫かれるのである。というより三教指帰に書かれるよ
うに、十八から二四歳に至る間に決断簡択した自他兼利済
こそが彼を終始生へと走らせた唯一の原動力であったと言
えよう。
それは大師の遍路体験からにじみ出るものである。
4
4
弘法大師にはいろいろな伝説があって、その中に「大師
は今も四国巡礼をされている」というのがある。高野山に
4
4
とするならば、輪廻という理論によって自他が平等に観
られるということも考慮しなくてはならないが、それより
4
4
ずっと禅定し続けているという伝説もあるが、私は四国の
4
も、進退の窮まりにあった彼が、膠漆の友である阿卑私度
4
住民だからという理由と、真魚青年の自他兼利済の決意が
4
や、光明を示してくれた生活支援者である光明優婆塞など
(一) しかしながら弘法大師著「遍照発揮性霊集」巻一の三『野陸州に贈
る歌』に戦地に赴いた友に語るに、蝦夷の人々を野蛮な人々と表現しつつ、
戦わずして殺さず平和に行ってほしいとのことを語っている。真意は如何。
そが、弘法大師の神髄であり、それは今も続く弘法大師の
いているのであるから、真魚青年の四国での苦悩と光明こ
が涅槃を得るまで活動し続ける」という万灯会の願いは続
成立した時点から、弘法大師の「この宇宙のあらゆる有情
ら う。 畜 生 を 食 ら う か ら そ の 因 縁 で 今 度 は 自 分 が 畜 生 の 果 を 感 受 す る。
」( 弘 法 大 師 全 集 第 一 輯 133
頁 )「 世 界 の 無 縁 の 一 切 の 衆 生 を 観 る に、
・・・
自分自身の如し。その理由は善人は先ず他人のことを優先するからである。
またあらゆる世界は皆我が四恩である。その四恩である偉人や衆生や父母
や有徳者が地獄餓鬼畜生に堕ちて無量の苦を受けている。私は彼らの子で
ある。また彼らの親である。私が助けなくて誰が助けようか。だから大慈
悲 の 心 を 起 こ し て 楽 を 与 え 苦 を 除 く の で あ る( 弘 法 大 師 全 集 第 二 輯 134
頁)」。「この世界の果てまで、生きるもの全てが、至福涅槃を得られるま
で私は祈り続ける(万灯会願文)」。
76
ではその同行二人の真意とは何か。
4
四国行脚として生きているのであると確信する。
4
それはまさに、二人の弘法大師が歩いているということ
を示している。一人の弘法大師は真魚青年であり、「進退
4
その四国での苦悩と光明とは、
4 4 4 4 4 4
進退窮まれり─ということと
4
窮まった」苦悩の人である。それは、先の重病者や、肉親
4
や子どもを先に亡くした悲嘆の人や、仕事を失った人や、
4
ということである。
負って四国に逃げてきた人や四国に希望を求めてきた人で
4
お遍路では、同行二人の証として、金剛杖を弘法大師そ
のものと思って一緒に歩む。つまり同行二人とは、杖と一
ある。
4
緒に歩むことである。この杖は五輪=地水火風空という宇
4
宙の構成要素が刻まれていて、遍路が行き倒れになるとこ
もう一人の弘法大師とは「谷響きを惜しまず明星来影す」
うきくさ
の弘法大師である。彼はいつまでも萍のように、逃亡して
4
の五輪杖がそのままお墓になるとされる。昔の四国遍路は
各地を転々と浮遊し続けたのではなく、再起を決心するの
4
旅籠もなく川の渡しもなく追剥が出没することもあり、決
である。苦悩の真魚青年が光明の弘法大師に生まれ変わる
4
死の旅であったことは言うまでもないし、そもそも重病を
ところに、一人でありながら二人であるという同行二人の
4
谷響きを惜しまず明星来影す
患って村を追い出されたり、何らかの理由で働けなくなっ
妙味がある。
村を何かの理由で追い出された人である。まさに苦悩を背
たり、年老いて自ら出奔したり、白眼視に耐えきれず旅に
これが第一の同行二人である。
次に、衛門三郎は子を亡くす悲嘆から仕事も出来なくな
り、あるいは三郎の家を洪水が襲って全てを失った三郎は、
とって、
「いつも弘法大師がそばにいてくれる」という仕
救いを求めて見すぼらしい僧を追いかけて辺土に出る。ま
出たりした人々も多かったから、辺土を終の住処と定めて
掛けは旅人にとって心強かったであろうか。
という設定が衛門三郎伝説である。しかし三郎が追いかけ
墓 と な る 杖 を 携 え た の で あ る。 あ る い は 心 細 い 遍 路 旅 に
しかしそれよりは、今も弘法大師が四国に居て、歩いて
おられてどこかでお会いするのだという信仰こそ、同行二
る大師という構造は、実は弘法大師の救いに鍵があるので
さに苦悩の人三郎が救いの神である弘法大師を追いかける
人の相応しい意味であろう。
77
光明を見たことの追体験として救済が成立する。つまり、
会う体験であり、一夜の宿を親切にもらうというもう一人
流浪して宿を乞うて追っ払われるというかつての自分に出
師であり、見すぼらしい僧を追い払った自責の念であり、
三郎→大師に会う→大師の起死回生の体験(=苦難の真魚
の三郎との出会いであり、三郎にとっての阿毗私度や光明
あり、弘法大師に出会うとは真魚青年が苦難の末に辺土に
→四国辺土→谷不惜響、明星
レルヲ
一
青年の「歎 二進退之惟谷
優婆塞らがいたはずである。
これきわま
来影)→自己救済、なのである。
た方々の数の同行二人を先達先輩として、その方々と共に
法大師と衛門三郎がいるのである。すなわち同行二人され
光明を見出してきたのであるから、私達には既に沢山の弘
れの旅をし、それぞれの弘法大師に出会って、それぞれの
の人その人の苦難を背負って辺土して、それぞれにそれぞ
この間に、衛門三郎を始めとして幾多の同行二人の徒がそ
青年が光明を見たように起死回生することである。しかし
実際に、娘を自殺で亡くされたお母さんは悲嘆して歩い
て遍路されたが、何度目かのお遍路の足摺岬へ行く途中に、
光明の数だけ同行二人がある。
人々と共に歩むことである。苦難の数だけ同行二人があり、
言い換えれば、同行二人とは、苦難の人々と共に歩むこ
と で あ り、 そ の 苦 難 に 負 け ず に 乗 り 越 え て い こ う と す る
するのである。
そして私達は、弘法大師と衛門三郎と阿卑私度と光明優
婆塞と、そしてもろもろの辺土の先輩たちと共に同行二人
またその後のお遍路さんにとっては同行二人とは弘法大
師とともに歩くこと、衛門三郎とともに歩くことであった。
同行二人するのである。
息子はやはり自殺されていて、その夜二人は宿所で自分の
これが衛門三郎の同行二人である。
では私達にとっての同行二人とは何かというと、衛門三
郎を真似て大師に出会う旅をすることであり、それは真魚
真魚青年が同行二人したのは、町や津で瓦礫をなげられ
る一方で、阿卑私度や光明優婆塞や雲童孃や滸倍の尼や一
身の上を語り合った。そして先日ふたりでお寺に子どもた
ひとびと
人の僧との出会いが同行二人であった。
法大師はつづいていく。
ちの供養に来られた。第二第三の真魚青年、衛門三郎、弘
同じような年頃の女性に声をかけたところ、なんと彼女の
衛門三郎が同行二人したのは、弘法大師であり、進退窮
まった真魚青年であり、谷響きを惜しまず明星来影した大
78
歩きお遍路さんの感想
お寺で無料宿泊接待の時の感想文
原文に則して個人名などは多少は変えています
部屋の安心感、布団のあたたかさにも気付けました。普通に生
活していると、これらの事はなかなか気付けないと思います。
気づいた事により何が変わるかわかりませんが、色々な事に感
謝できるようになったのは自分の中で大きな変化です。
二四才男性
一番札所の近くのコンビニでへたりこんでいた所をお接待で
コーヒーを頂いた時は感激しました。遍路小屋や善根宿を知ら
お金をかけられないので野宿は不安なことばかりです。野宿
の場所があるか、足の痛みが取れるか、大雨や強風のたびにく
今年の三月で失業し次の仕事を始める前に何かやりたいと
思っていました。
を持っているが寒い時が本当に辛かった。でもそういう時にた
いるが寒いのでどうしても丸まってねてしまう。今でこそ寝袋
を教えてもらってそこで寝た時は、暖かい満足感と部屋に泣き
なく、コンビニの蔭で段ボールにくるまって寝ていた二月頃、
じけそうになります。色々ありましたが、それ以上に沢山の方
くさんの方が支えてくれる。歩いていて四国の色々な所に「お
正 直 お 大 師 様 が ど う い う 方 な の か、「 お 大 師 様 の お 蔭 じ ゃ」
ました。寝る時に足をのぼして眠れないのが辛い。足は疲れて
お接待でカレー頂き、使われていない身体障がい者用のトイレ
の好意やアドバイスにより、助けてもらいました。今まであま
父ちゃん」
「お母ちゃん」と呼べる方々が出来ました。
二九才男性二〇一一年
り気づいていなかった、人の優しさ、あたたかさを認識するこ
とが出来、本当に良い経験ができたと思っています。同じく、
79
立ったのかとは思って居ります。私は心から感謝を致しており
夏を南相馬でたいした事は出来ませんでしたが、少しはお役に
支えてくれている全ての方々が一番の感謝です。その方の分ま
ます。私に「人の喜びは、自分の喜びになる」と教えて下さっ
という方もおられるが、何より四国のお父ちゃんお母ちゃん、
で回るという気持です。今日は泊めて頂いてありがとうござい
たのはお四国様だ、お大師様だと気付きました。亡き父母が「お
少しでも「お寺様を見せてやろう」と考えて行動に移したのが
私は近年大手術をしました。依ってリハビリを兼ねて亡き父に
のか、それとも何も変わらないのか。分かることがあるのか、
に何ができるんだろう?と改めて考えさせられた。何が変わる
時間的余裕に恵まれて遍路に来ました。色んな人と出会って
話をできる。その人たちからパワーを頂けて、自分は人のため
になると思えています。
受け取るようになっています。お遍路はこれからの人生の縮図
る内に自分を見つめ直す旅になっており、色々なメッセージを
ました。単なる旅というだけでなく、お寺や神社巡りをしてい
勤務先が倒産し妻に三行半を下されて、一人身となり、これ
からの人生をどうしようかと思ったとき、四国のお遍路を決め
五五歳男性二〇一三年
四国へ行って来なさい」と語ってくれたと思います。
ます。
「現金ないけど元気あります」。
三九歳男性
仕事をやめた、年れい、心、等々、タイミング的に行かねば!!
と思ったから。色々な人との出会い。ありがとうと心から思え
るようになった。
三七歳男性
親の供養のため。心のたるみ、体のたるみが見えてきてなお
そうと思えるようになった事。
六八歳男性二〇一三年
昨年のことでした。親不孝を絵に描いたような私でしたが、父
今は何も分からないけど、お遍路をしていること自体が良かっ
二〇一二年三七歳女性
母の位牌に見せれたことはとても嬉しく供養になったかと思い
たことであり幸せなことです。
亡き父が生前「一度八十八ヶ所を廻りたい」と申して居りま
したが、
残念なことにそれは実現出来ませんでした。時移って、
ます。
会社の仕事がなくなり無職となりました。宿での出会いは中
高年者で野宿、通夜堂、善根宿では若者が多かった。いずれに
六十二歳男性二〇一一年
た。が何を血迷ったか、東日本震災にボランティアに行ったの
しても人との出会いは最高の場所、お四国です。お接待も大阪
私はこの年齢でとても多くのことを学ばせて頂きました。私
は往時、飲み屋で「いつもボラれてる」の酔っ払いでありまし
です。正直私は自分自身が信じられませんでした。計四カ月一
80
が多い。世界の人が遍路に出てこの気持を持てば世界が平和に
では考えられない事です。出会う人がやさしい気持をもった人
です。
気軽に会話を楽しめたこともお遍路ならではの感じで良かった
全国全世界から来た人達と同じ目的を持った仲間という感覚で
三八歳男性二〇一一年
なる事は間違いない!。宗教家がもっとアピールする事。世界
遺産に全力をそそぎ多くの方がお遍路の経験者になれば良いと
思う。
憎しみの気持を自分の中で始末できるかも知れないと考えた
から。日常生活を離れて日々歩く生活を送ることで、日頃は決
してできない物事に対する見方や考え方ができる。おそらく考
え 方 や 行 動 が 変 容 す る こ と で、 こ れ ま で に な か な か 起 こ ら な
三六歳二〇一一年
一〇年勤務していた会社が倒産して失業がきっかけ。人々と
の出会い、そして人の温かさにふれ本当に心が洗われた思いで
かった結果が訪れる。それを利益と呼ぶのでしょうね。大勢の
なったと思う。
るなと思いました。
。生きていけるかな。
・・・
二六歳男性二〇一一年
心身ともに鍛え上げる為。食べる物がある有り難みを感じ、
若い男性二〇一一年
自転車日本一周。人のやさしさにたくさん出会えた。祈る時
間が増えた。すべてのお寺で泊まれたらもっと楽にお遍路でき
二年前妻を亡くして
五九歳男性二〇一一年
触 れ ら れ る。 精 神 的 に も 肉 体 的 に も 始 め る 前 に 比 べ る と 強 く
友人の影響。今まで当たり前だと思っていたことが、凄くあ
りがたいことだったのだと気づかされる。人の優しさ温かさに
二九才男性二〇一一年
人に助けられていることを実感しやすい毎日です。
す。
七一歳男性二〇一一年
生とは何か、死とは何かを明らかに知る為。多くの人々の生
活を知る為。本当の人間らしい人間が少ないこと。お寺に仏様
がいないこと。遍路道が整備されていないこと。
二二歳男性二〇一一年
東北震災支援のため一年間被災地にいました。「このままの
生き方でいいのだろうか」と考えさせられ、その答えを見つけ
ようと旅に出ました。迷いが消えました。やるべきことがはっ
きりしました。また知らず知らずに身にくっついてしまう余計
なもの(たとえば慢心であったり)を削ぎ落として歩いていま
す。素直で謙虚で飾らない自分を取り戻せそうです。
四五歳男性二〇一一年
宗教に興味が起こり自分探しに。改めて日本の風景の美しさ
を感じたり、人の温かさを感じました。道中の宿や札所では、
81
寝る場所がある有り難みを感じ、人々の優しい心遣いに感謝出
。また父の三三回忌
東日本震災のボランティアに行って ・・・
に当たり又来ました。
自分と少しは向き合う時間が持てたかな。
五五歳男性二〇一一年
さり、今では少しは仏教について語れると思っております。ほ
五八歳男性二〇一一年
来、仏教について無知だった私にも色々な方が親切に教えて下
ぼ野宿で回っており遍路開始時よりは確実に鍛え上げられてい
三二歳男性二〇一一年
昨年の震災で友人を亡くした為。
七六歳男性二〇一一年
向上したいから。志を持つ友との出会い。信仰心の薄さを改
めて知る。脱帽や礼拝などのお参り以前の問題。また諭せる人
ると思います。
病気の為、死から返ったお礼。若い時からの夢。生きている
ことのありがたさ。自己の「愚かさ」が分かってきた。四国の
のいないこと。教育の大切さを知る。先生と呼ばれる生き物の
要。慢心は死なり。人生死ぬまで精進努力。
失った。その辛さを乗り越える事と良縁成就を祈願する為に御
い改めと人に騙される事が度々あった為、それによって大金を
いと思っていましたが、お遍路を通して普段の生活も本当に沢
ています。今までは自分が一番だ、他人がどう言おうと関係な
徒歩での日本一周。今まで歩いてこれたのも地元の皆さんの
応援やお接待、同じお遍路さんの励ましがあってこそだと思っ
たり暗くて見えなかったりするから)
前はバイクで。三十年ぶり。ここのお大師様が一番近くでお
参りすることが出来、姿を見てホッとします。
(他は格子があっ
五〇歳男性二〇一一年
愚かさを知る。若き純粋な志をいつまでも持ち続ける努力が必
皆様の暖かな接待(すべてのことで)。
三五歳男性二〇一一年
祖父の供養。何度歩かせてもらっても、自分の内なるふるさ
とに帰ったような気がして、これからも自分の人生を正しく歩
んで行きたいです。宿泊させていただいてありがとうございま
した。
四〇歳男性二〇一一年
遍路を始めました。多くの出会いを得られたし心が丸く、言葉
山の人達によって支えられているんだなと感じることができま
二六歳男性二〇一三年
にもカドが取れたような感じの心境になったし、偶然が重なる
した。
先祖及び祖父母、母、仕事上の師匠、親戚、従兄、叔父、同級生、
仕事仲間、知り合いの供養と昨年交通事故に遭う(二回)事悔
ようになり、ご加護を感じます。凄く楽しい時間を過ごすこと
が出来ています。御遍路が出来て本当に有難いです。
82
五四歳男性二〇一三年
どんな時にも平気で生きてゆくことを知らされました。物事の
道理を知識ではなく体験することを思いましたし、人との出会
いによって自分を知り、親の心も自分なりに知ったことです。
二二歳男性二〇一三年
妻、つづいて父姉母が亡くなり供養の為。接待も有難いがす
れ違う声かけがたいへん力になる。山深い景色も良いし、人も
二九歳女性二〇一三年
サイクリングの途中。人とのふれ合いの大切さや自分の出来
る事は全力で困っている人に尽くそうと思えました。多くの人
「我以外皆師なり」
。
出身が仙台。震災の供養と脱原発を。突然でしたが泊まらせ
ていただいて本当に有り難うございました。とても印象に残り
の支えなしでは生きていけない事も学べました。そこで自分の
良い。今日は本当にございました。やすみ、やすみ、行きます。
ました。わたべさんにも接待やいろんなお話ありがとうござい
煩悩にも気付け改めようと思う事ができ、本当に感謝しており
ます。次は歩きで回ります。
ました。感謝をこめて。
三〇歳男性二〇一三年
日々心が洗われていくような気持になれ、大変すがすがしい
毎日です。地元の方々との交わりが自分の頑張りの源になって
二二歳男性二〇一三年
感じます。平和=幸せ。今、人の為に祈れる自分も、この四国
いるというくらい出会った人々に感謝感謝の気持でいっぱいで
歩き遍路三回目。人に優しくなれたこと。親にも。心から感
謝できるようになれた事。当たり前の生活こそが平和だと最近
の道が育ててくれたと、そう感じます。仏は人の心の中にある。
す。心が温かくなりました。今は自分が支えられている側です
が、無事結願後には今度は自分が恩返しの気持で周りの人達の
支えになっていきたいと思っております。今回は通夜堂に泊ま
二二歳男性二〇一三年
歩いている間にたくさんのことを考え、多くの人に助けても
らい、
それが自分ではできないことだらけなのだと思いました。
らせていただきありがとうございました。合掌。
泊まらせてもらったり、優しい言葉をかけてもらったり、まだ
れていってくれたり、食べ物をくれたり、道を教えてくれたり、
四国の人がとっても温かい。大阪人の自分には考えられない
ことの連続です。自転車ごと車に乗っけてくれて鶴林寺まで連
三五歳男性二〇一三年
2012.10.11
今までの自分は、優しくされたから優しくする。優しくされる
ために優しくするというものでした。しかしお遍路をしている
時に優しくしてくださる方は、何の見返りもなく優しくしてく
れます。
六五歳男性二〇一三年
母の供養です。どんな時にも平気で死んでゆくことでなく、
83
始めて三週間ぐらいですが、ここにあげきれないくらいです。
三八歳男性二〇一三年
旅が終わればまた社会復帰に向けた一歩を踏み出さねばなりま
せんが、またいつかお遍路をしてみたいと思います。
二九歳男性二〇一三年
いろいろなお接待を受け、優しさに触れる事ができました。
今度は僕が歩き遍路をされてる方に喜ばれるようなお接待をし
三年前には供養とガンの祖母の為に回り、そのとき福徳授与
祭に参加して、祖母のために念珠をもらいましたが、間に合わ
ず今回は、祖母の供養のために回り、今回も福徳灌頂に出て、
たいと思います。
日常生活の中で十善戒を意識するようになった。フットワー
クが軽くなった。
五一歳夫婦二〇一三年
そ の 念 珠 を 持 っ て 祖 母 と 一 緒 に 回 る つ も り で 行 き ま す。 ば あ
ちゃんが幸せでありますように、福徳授与して頂きうれしく思
います。
二八歳男性二〇一三年
路さんを始めたことで徐々に元気を取り戻してきました。その
の気持と活力が湧いてきます。社会で疲れ切った私の心はお遍
気さくに声を掛けて下さったり、お接待を頂く機会があり感謝
がなく、いままでの自分の生活を見直す事ができそうです。人
みてその贅沢に気づく事ができました。険しい山道を登ってい
していた事にあらためて気づく事ができました。お遍路をして
自分が今まで何不自由ない暮らしをしていたんだなと実感し
ました。手が届く距離に何でもあり、すぐに手にはいる生活を
二八歳男性二〇一三年
反面、体の方は日々の長距離( 15
~ 25
㎞)の移動により足や
肩が傷む事もしばしば。思うように歩けない日も多々あります。
のやさしさにふれる事ができ自分自身の心にも変化がみえてき
仕事に疲れ頭を空っぽにして歩きたいと思っていましたが、
会社を退職し遍路を始めました。たのお遍路さん地元の方々が
この経験は健康でいることのありがたみを感じる良い機会とな
ていると思います。
四国の接待文化に感動した。自分の為にやっているのに皆本
当に親切で助けられありがたい限り。人は一人では生きていけ
五一歳女性二〇一三年
お遍路さん同士、助け合うことがすばらしいと思った。
三七歳男性二〇一三年
る時に飲みたいと思った水がなく、汗だくな身体の夜におふろ
りました。最低限の衣食住(テント)をリュックにまとめて移
動する日々。今までの生活とは比べ物にならない程少ない物し
か手元にないのに物欲は普段の生活より少ないです。明るい時
は歩きながら景色、自然の音、出会った方々との会話などを楽
しみながら、暗くなる頃には体が疲れているのですぐ寝る生活。
この生活が今の私にとってはとても充実しています。お遍路の
84
心身両面共に満たされていくのを感じ、皆、一生に一度は(で
のもうれしい。きれいな自然の中を歩くのは心もいやされる。
ないとしみじみ実感させられる。また自分の体力がついていく
き頃の友、
同僚への思いの幾許かでも恩返しになれば幸いです。
師遍照金剛!。亡き父亡き母の追善になればと思います。又若
と思っています。体と心の続く限りこの旅を続けます。南無大
60
きれば歩きで)お遍路をすると良いと思う。
50
六二歳男性二〇一三年
計 代(人)
8 11 11 1 1 2
1 21 1
1 2 1 1 1
4
40
各欄の数字は人数。上段
年、中段
2011
1 2
外 3 1
1 1 1
年、下段
2012
年
2013
1 1
⑴
1
2 1 1 1
1 1
妻 妻
1 1
1
31
1
31
11
112
1 1 1
1 1 2 1
3 1
1
8 121 2 1
162 122
30
8 22 1
2 3 1
1
1 1
1
3 1 1 1
1
1 2
9 2 3 1
1 1
2
70
感想文の遍路のきっかけ
年齢
失業
季節労働
供養
祖父母
父母
妻夫の供養
友人
家族病気
友父の勧め
自分発見
空しくて
何となく
旅行運動
世の為
憧れ
修行
憎しみ消す
病回復お礼
案内本
震災原発
退職
20
無縁死、孤独死、明日は我身と思うようなったのがきっかけ
です。すべて無く!行く所、帰る所もない愚者です。いつまで
歩けるか、いつまで生きられるか、最後までしっかり遍路した
いと思っております。数カ月前までは車での十数回の遍路旅。
結願してもなぜか空しさを感じるだけで、また走っていました。
金もなくなり終わりにしようと何度も思いました。ある時、歩
き遍路さんにじっとしててもいかんじゃろうと言われ、不安で
したが野宿遍路をはじめたしだいです。良かったことといえば
遍路とはこういった行なのかと感じ、そして何より歩いてみて、
地域の方々にやさしい言葉、物等の接待をいただき勇気づけら
れ、これが遍路文化なのかと感じることができたことです。今
回は当通夜堂を利用させていただき感謝しております。今日雨
の様子、無理なお願いですがもう一夜お願いできませんか。
七二歳男性二〇一三年
今から十年前退職して何か残しているような気がして、何か
してみたい、大切なものを探し求める思いで始めました。ある
今、本当に有難き導きを得た
・・・
観光会社ツアーに参加して本当に八十八ヶ所に「自分の全てが
存在の全て」と感じました。
85
22
24
10
12
仏教入門
修
仏教入門1
他
お遍路について
利
仏教入門2
心を開く
なんでも悩み相談
最古のお経から
仏陀本来の仏教
おしえ
なかま
頒価五百円
12「本来の仏教」を是非お求めください
き え そ う
今までの仏 教 と は 違 う 本 来 の 仏 教 を 解 説
き え ほ う
般若心経な ど お 経 の 解 説 付
で し む こ う じんみらいさい き え ぶ つ
自分のこと
しか考えない
三帰
ぶつ
仏・苦しみのない生き方の実行者と、
ほう
法・その歩むべき教えと、
そう
ほとけ
僧・ともに歩む仲間とを、
よりどころ
心から尊敬し、依所とせん。
自分をとどめる
事を知り
自立する
ご家庭の仏様の前でお勤めをする時は、
ここで仏様の真言を唱えます
自分とは何か
を反省し
生命について
考える
三回のち金一打
利他の行
をして
自分を成長させる
弟
( 子某甲 尽未来際 帰依仏 帰依法 帰依僧 三回ずつ
で し む こ う じんみらいさい きえぶっきょう きえほうきょう きえそうきょう
弟子某甲 尽未来際 帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟)
小我が消え
大欲が生まれ
思うままに
自利利他する
御宝号
な む だ い し へんじょうこ ん ご う
南無大師遍照金剛
生死の患いを
超え
大安楽を得る
行
毎日多くの電話相談や来寺の相談がある。悩み相談で行き場のない
方など暫く寺に逗留することもある。衛門三郎再来に因んだ七転八
起再生の石を返しに来る方も多い。
阪神震災・東日本震災救援
現地への救援、県内被災者、自主避難者の交流会の立ち上げ、悩み
相談などを行う。自主避難に避難権利を。被災者・自主避難の会、
文集と要求を発行中。お送りします。
インド洋大津波災害救援
戦後 60 年を記念として念願のアジアの貧困救援を
目指す。
タイ南部少数民族カレン人から始め、タイ北部、
ビルマ少数民族奨学金、学校支援を行う。
難民キャンプ訪問
タイ南部で知り合ったカレン人と共にキャンプ支
援。ビルマに帰郷した人は殺されたと聞く。
中国四川省地震救援
平和の声を設立し、四川省奥地の太子村支援。
また引き続き高地の少数
民族支援を続ける。
現在は以下支援を継続中
中国少数民族の救援
ビルマ難民の支援
タイモーケン人孤児支援
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子宝の石
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石手寺では古来より鬼
子母神様をお祀りして
い る 御 堂( 訶 梨 帝 母 天
堂)の石を一つ頂いて
帰ると子宝に恵まれる
という言い伝えがあり
ます。
七転八起
元気再生石を持ち帰り
一年経つと思いを書き
込み七個足して八個に
し て 返 し ま す。 格 差 社
会 が 続 き ま す が、 く じ
けることなく精神を保
てば必ず光明が見える
をお送りします
と信じる。
元気石
ビルマ慰霊塔
硫黄島慰霊塔供養
鬼子母神
再生元気石
子宝石
1995 年大晦日アジア太平洋戦争敗戦50周忌に「仏教徒の戦争責任」戦争
懺悔の不殺生平和万灯会~現在
1999 年ヒロシマ平和の灯を四国霊場会で四国遍路し、石手寺で結願
2000 年1月阪神震災被災者県内在住の「希望の灯り」と合灯(震災証言)
猫八さんの話。7月長崎平和公園にて「長崎を最後の被爆地とする誓いの
火」を採火 水俣湾に慰霊供養し、「もやい直しの火」を持ち帰る。
12月ヒロシマの残り火 忘れないために心に刻むメモリアル行脚
2001 年7月1日沖縄平和の礎慰霊と採火(証言)
傷跡
2001 年10月27日 アフガン報復戦争に対して「10.27 不殺生の祈り」。
2002 えひめ丸犠牲者追悼 9、11犠牲者追悼と非戦の祈り。
祈り
2002 年7月1日 韓国侵略不殺生の祈り(懺悔と追悼非戦の誓い)
2003 3.11 イラク戦争とあらゆる戦争暴力に反対する不殺生の祈り 80 カ寺とともに
2006 年 12 月 14 日 知 覧 特 攻 隊 者 慰
霊不殺生の祈り
2007 年 6 月2日 マレー半島侵略不殺
生の祈り
2008 年 5 月7日 ビルマ国境での太平
洋戦争犠牲者追悼、ミャンマー内戦犠
牲者追悼と平和の祈り
2008 年 10 月 1 7日 四川省成都にて
成都重慶日本軍無差別爆撃犠牲者追悼
と反省と平和の祈り
2008 年 11 月 佐田岬半島特別潜水艦
戦死者 9 名追悼
2011 年 東日本大震災救援追悼
と平和
の記録
われ
仏陀の肉声 最 古 の 御 経
とど
われ
我は、相手を討とうと武器を手にするも、痛みが起こり停まりぬ
なんじ
そのゆえんは、他人を損なえば、他人に痛みあり、それを我もまた痛む
われ
そのゆえんは、敵対せば、我と汝、皆一緒の安楽のくずれるを痛む
なんじ
人々を見よ、互いにぶつかり合うを見よ、奪い合うを見よ、
われ
和のくずれて我と汝、ともに裂ける苦しみを見よ
われ
我は、この痛みを克服せり、それを語ろう
も ろ も ろ の 有 情 が ぶ つ か り 合 う、 そ れ は あ た か も 水 の 干 上 が り ゆ く 池 に 魚
たちが跳ね合うようであり、そのゆえんを知らず、われを知らず、他人を
知らず、ただただ生きようとして、ぶつかり合って、つらく怒りて、にくみ、
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うらみ、またまた、ぶつかり合う
われ
我、安らかなる所を求めしも、いずれの所も平らかならず、あらゆる方角
へとゆれ動くに、どこへ行くとも、はたまたこの世を捨てて別の世を求め、
のがれんとも、痛みなき所なし
つい
はたして、いかにしても終には、ぶつかり合うを見て絶望せり
そのときなり、もろもろの有情につき刺さる見えざる矢の見えたり
つ
もろもろの有情、あれこれの見がたき矢に衝き飛ばされて、おのおのそれ
しっく
ぞれの矢の目当てへと、疾駆して右往左往し、ぶつかり合い奪い合う
その見がたき矢を抜かば、疾駆せず、悲嘆に沈むことなし
石手寺住職加藤俊生訳
石手寺発行仏教入門2・3に詳説
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着帯安産・初参り 七
・ 五三祈願
戌の日など随時受付けます。電話等で予約して下さい。
子供さんの健康安全祈願を致します。
学業成就 合
・ 格すくう大師
混 沌 の 時 代、 学 問 を 成 就 し 大 師 の よ う に「 自 他 と も に
救い救われる真の学究を成就します。
お山四国・四十九日参り
四十九日までにお山四国をお参りすると供養になりま
す。 故 人 の 知 り 合 い で 集 ま り 故 人 を 偲 び な が ら 故 人 を
讃え見習い故人の幸福を祈ります。
すくう大師 再生厄よけ祈願
石手寺
悩み相談 再生の寺 松山市 石手2丁目9-21 執筆制作石手寺住職加藤俊生
電話 089-977-0870 HP/nehan.net 2013 年 11 月 20 日初版
年 中 行 事 表
1月1~ 5 日 大護摩供祈祷会
1月 20 日 初大師健康祈願大般若
2 月 3 日 節 分 厄 除 招 福 大 護 摩
2月 15 日 涅槃会(釈迦入滅)
4月8日 仏降誕会(花祭り)
4月 20 日 大師御影供
6月 15 日 大師降誕会
水子供養
先祖供養随時
永代供養 永代納骨受付
人形供養受付
悩み事など何でも相談電話
089-977-8155
一時逗留できます
8月 20 日 万霊平和祭万灯会
12
月
第
一
日
曜
日
自殺者供養
大施餓鬼会
10 月 20 日~ 11 月 10 日
念珠授与
福徳授与灌頂祭
たのも祭
12 月第一日曜 自死者供養
12 月 13 日 すすはらい
12 月 31 日 不 殺 生 平 和 万 灯 会
毎月20日大師お参り日並に法話等
1月 17 日 阪神震災追悼
2月 10 日えひめ丸追悼
3月 11 日東日本震災追悼
9月 11 日全暴力に反対する平和の祈り
9月 27 日ビルマ僧侶に連帯する平和の祈り
12 月 30 日メモリアルウォーク
石手寺信徒会金剛講会員募集
90
元気の出る左回り
本殿御作
弘法大師
皆一緒
薬師如来
仏 教 再 生
仏陀の肉声
最古層の経典の変遷
五仏マンダラ境内
周遊して悟りを開く
重文
不動明王
清浄奮起
三重塔重文
釈迦如来
一切所平等平安
人の痛みを知る
阿弥陀如来
慈悲の右回り
本堂重文
バワースボット
薬師如来
喜ばれる 喜 び
零
阿弥陀如来
釈迦如来
不動明王
スッタニパータからサムユッタニカーヤへ
特に
「武器を手にしての経」
が仏陀の肉声であることを示し
仏教の本質に迫る
その経にはこう書かれる
// 少水にぶつかりあう魚たちのように
無我夢中で相手を殺そうとして
恐怖が起こった //
それは
相手の痛みを知って、その痛みを仏陀も痛んだからに相違ない
これが仏陀の肉声である
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仏教入門12本来の仏教・4仏陀の肉声をお読みください
虚空蔵菩薩弘法大師
皆一緒 人の痛みを知った
今度あの方がやって来られたら今度こそ
どうぞお泊まりくださいと
ぶつかり合わず奪い合わず
与え合う
自他ともに救われる平等平安
仏教入門 4 石手寺方丈加藤俊生
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