関東学院大学文学部 紀要 第116号(2009) 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートが もつ今日的意味について 藤 原 怜 子 要 旨: 2009年のニューイヤー・コンサートで一石を投じたバレンボイムのウィーン 伝統音楽の見直しについて、その歴史的意味を考察する。シュトラウスの時代 にはなかったウィンナ・ワルツのリズム上の魅惑的な溜めはどのように醸成さ れたのか。ウィーンの舞踏文化とクラシック界の現状を探りながら、ウィーン の人々にとって、あるいは観光客にとって、そしてメディアの向こうにいる世 界中のファンにとって、振り撒かれる魅力の根源に迫る。 毎年選出される新たな世界的指揮者のなかで、古楽出身のアーノンクールが 目指す真のウィーン伝統音楽の再生は、多くの人々に刺激を与え、その成果が 期待されるところである。甘く美しくなりすぎたウィンナ・ワルツに新たな解 釈が加わることによって、新生ウィーンの音楽が生れる日は近い。 キーワード: ウィンナ・ワルツ、バレンボイム、楽友協会、アーノンクール、伝統の創出 はじめに 2009年のニューイヤー・コンサートDas Neujahrskonzert der Wiener Philharmoniker 1 )は、バレンボイムDaniel Barenboim 2 )の初指揮で興味深 く思われたが、全体的に地味な印象で、もの足りなさを感じた人々も多か った。ウィーンっ子と、世界中のテレビの向こうにいる自称ウィーン通が 〈悦〉にいって〈ほろ酔い気分〉に浸れるような、近年のやや行き過ぎた趣 向の数々を出来れば避けたいという、むしろ「こだわり」の演出となった。 69年間の歴史が築き上げたこのコンサートの〈ならわし〉3 )を最小限に踏襲 しながら、中東和平・世界平和を願う同氏の冷徹な視線を感じさせるもの だった。ハイドンの《告別》などを含む曲目の選定 4 )が例年とはかなり違 って、ウィーンのローカル色についてのやや否定的な考え方が窺えた。ウ ― 171 ― 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートがもつ今日的意味について ィーン音楽特有の創造物・浮遊するようなリズム感からくる〈ほろ酔い気 分〉を鎮めて、ドイツ・オーストリア音楽の伝統的なバランス感覚を全体 に絡めようとしたのは、このコンサートを真に世界レベルにゆり戻そうと する親心でもあったろうか。 1 )「音楽の都」ウィーンのワルツと舞踏会 ウィーンの音楽がひとつの色に染まっていったのは、いつの頃からだろ うか。ウィーン古典派・ビーダーマイヤー Biedermeier 期の巨匠たちとウィ ンナ・ワルツやオペレッタの人気作曲家の歴史がいくら詳しく論じられて も、まだまだウィーンが別の顔をみせるのは、音楽が必ずしも作曲家のも のではないということを裏付ける。市民、庶民、ウィーンっ子の日常的な 音楽生活に音楽と舞踊の色濃い歴史が染み付いているのが、彼らの誇りで ある。また、観光が国の大きな資源となって、彼らはこの種の自文化に対 する意識を高め、深くその伝統を見つめなおし、新たな創造性を付け加え ていった。このように、観光への視座は、都市文化を自ら変えていく原動 力になったと思われる。 ウィーンが「音楽の街」であるのは、多くの音楽家の活動が必ずしもウ ィーンというコンテクストの中で成り立っていたからではない。むしろ、 ウィーンという街が、これらの音楽家やその活動というコンテクストのう えに成り立っていた、つまりウィーンのイメージが音楽家たちに関するス トーリーや歴史物語を背景に捉えられる構造になっていたということであ ろう。 「そしてそのような形で、ウィーンの街の背景に音楽家にまつわるス トーリーをまとわせる役割を果たしてきたのが、まさに〈観光〉だった」5 )。 観光都市ウィーンが、世界に印象付けるエピソードを、コンサートの響き に乗せて売り出していく戦略は、時に行き過ぎた様相をみせる。だが、今 回のバレンボイムのような指揮者の出現によって、ニュートラルな状況に 引き戻され、多くの関係者が反省を促されていると感じたのではなかろう か。 ウィーンが「音楽の都」と呼ばれるもう一つの要因が、ヨハン・シュト ラウス Johann Strauß や、ヨーゼフ・ランナーJosef Lanner などに代表される 6) 1820〜40年代の ウィンナ・ワルツの音楽と華やかな舞踏会の文化である。 ビーダーマイヤー様式 7 )は、オーストリアのみならずドイツでも、似たよ ― 172 ― 関東学院大学文学部 紀要 第116号(2009) うな社会・文化的な傾向を生んだが、舞踏文化に関する限り、それ以降も 多民族・多文化の街ウィーンならではの音楽環境が大いに影響し、衰退す ることなく今日までその姿をとどめている。 ウィーンでは年末から 3 月半ばまでの間に、世界的に知られる「オペラ 座舞踏会 Opernball」を始めとする舞踏会シーズンが訪れ、約300に上る舞 踏会がウィーンの冬に彩りを添える。 「オペラ座舞踏会」は、もともとハプ スブルク家の行事として行われてきたが、19世紀を通してハプスブルク帝 国が衰退する中においても舞踏会にかけるウィーン市民の情熱は決して衰 えることがなかった。1832年の統計では、20万人以上がワルツやポルカ 8 ) を踊っていたという。これは、当時のウィーン市民の半数にあたり、カー ニバル期間中にはなんと772の舞踏会が催されていたのである。注目される のは、その年社交界にデビューする「デビュタント」たちで、純白のドレ スを着ることが許されるのは、一生に一度のデビューのときだけなのであ り、華やかな話題に包まれる。しかし今日では旅行者にも参加の機会が与 えられ、かねてのような伝統の意味合いは失われつつある。 しかし、今日でも年間舞踏会カレンダー(Ballkalender 2009/2010)に登 場する有名なものだけでも30あまり見られるが、その中心は、かつて皇帝 が舞踏会を催したホーフブルクHofburg 王宮のホールで、最も人気の高い 憧れの場所になっている。ここではまず、毎年大晦日の夜から元旦にかけ て開催される「皇帝舞踏会 Kaiserball」に始まり、法服をフロックコートに 、狩猟家が一斉射 替えた法律家がゲストを迎える「法曹舞踏会 Juristenball」 、カフェハウス経営者が 撃でゲストを歓迎する「狩猟協会舞踏会 Jägerball」 催す香り豊かな「カフェ舞踏会 Kaffeesiederball」、さらには深夜まで、女 性の側から踊りを申し込むのが習わしになっている学生団体ルドルフィー ナの「仮面舞踏会 Rudolfina Masked Ball」等々、多種多様な舞踏会が伝統の 環のなかで繰り広げられる。他にも、冬の最中に「花の舞踏会 Blumenball」 が開かれる市庁舎は、いち早く春の花園となり、ウィーン・フィルのホー ムである楽友協会大ホールでは、同オーケストラがオープニングの曲を演 奏する「Ball der Wiener Philharmoniker」が開かれる。優雅なユーゲン ト・シュティール Jugendstil のコンツェルトハウスの「ボンボン舞踏会 Bonbon Ball」では、着飾った淑女とチョコレートが甘い一夜の主役とな り、子供向けの催しでも有名な「マジシャン舞踏会 Ball der Magier」では、 世界各国からイリュージョンに長けた芸人達が集い、見事なテクニックで ― 173 ― 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートがもつ今日的意味について 幻惑の世界を披露する。そして現代の最先端の問題にいどむ「エイズ撲滅 運動のための Life Ball」が市庁舎前でトップアーティストを集めて盛大に 行われる、等等、ウィーンの舞踏会は主催者もスタイルも個性豊かに多彩 である。 このようにウィーンには「オペラ座舞踏会」や大晦日の「オープンエア ー舞踏会」などウィンナ・ワルツを楽しみ、伝統音楽 9 )として育む機会が 数知れずあった。12月31日には、ウィーンの旧市街は、おそらく世界一華 やかな舞踏会ホールに変身する。美しい空の下で、何十万人もの人々が共 に祝い、年越しを迎えるのである。100軒もの屋台が賑やかに出店し、食事 と飲み物を自由に楽しむ事が出来る。バンドによる生演奏やDJによるディ スコ、ポップス、ミュージカルやオペレッタ等の音楽プログラムが次から 次へと間断なく演奏され、雰囲気は最高潮となる。深夜、シュテファン寺 院の塔にあるオーストリア最大の鐘「プンメリンDie Pummerin」10)が新年 の訪れを告げると《美しき青きドナウ》のワルツが流れウィーンの旧市街 は舞踏会場へと早変わりし、軽やかなワルツの調べに乗せて65万もの人々 がステップを踏みながら新たな年の幕開けを祝う。元旦には、市庁舎前で 恒例の「二日酔いの朝食 Kater Früstück」が供され、また、ウィーン伝統の カフェハウスのディグラスやラントマン等でも、朝7時あるいは 7 時半から 朝食のサービスがある。昨夜の町の賑わいとはうって変わって、たまに雪 もちらつく静かな午前中、11時からORF/オーストリア国営放送でウィー ン・フィルのニューイヤー・コンサートの様子が会場に設置された大型ス クリーンに同時中継され、ウィーンはさらに幸せな時間を共有するのであ る。 今では世界中に衛星中継されているこのコンサートの華麗な映像と響き は、その年に選ばれた旬の指揮者が演ずる軽妙洒脱なパフォーマンスと、 世界中の音楽ファンに贈られるちょっとした「話題」と「メッセージ」に 乗せて、円熟した舞踏文化の伝統ならではの芳醇な魅力を振りまく。古典 だのクラシックだのと、堅苦しいことはすべて忘れて、舞踏音楽の軽快な 魅力に身を委ね、上質の酒を口にしたようなほのかな興奮に包まれる瞬間 である。ニューイヤー・コンサートの約70年に及ぶ歴史は戦中戦後の暗い 影を背負いながらも、徐々に現在のウィーン色を醸成し、繁栄の時代を象 徴する観光都市ウィーンの文化的シンボルとして、世界に名を馳せる存在 となった。 ― 174 ― 関東学院大学文学部 紀要 第116号(2009) 世界の代表的オーケストラの一つであるウィーン・フィルWiener Philharmoniker が、この時期ばかりは、ウィーンというローカルな都市の文化伝 承を担う存在として機能してきた。ウィーン・フィルの演奏するウィンナ・ ワルツのあの独特のリズムと雰囲気は、他のオーケストラでは絶対に真似 ができない、といわれる。それはシュトラウス以来連綿と続いているウィ ーン固有の文化の証であり、国際化・グローバル化の波のなかにあっても、 内外の多くの人々に支えられて今日まで毎年続けてこられた理由のひとつ である。アンコール曲としてウィーン音楽の象徴ともいうべき《美しく青 きドナウ》が必ず登場し、最後の《ラデツキー行進曲》では観客も手拍子 で演奏に加わり、ともに新年を祝うという趣向である。ウィーンっ子の百 年一日のようなこの〈ならわし〉の保持と全員参加を大事にするこの感性 10) こそが、「音楽の都」を生み出した原動力である、と言われてきた。 だが、こうした卓越した技巧と微妙な感性の産物である独特で魅惑的な リズムのありようが、19世紀からずっとウィーンの人々によって伝承され てきた古き良き伝統音楽文化の遺産のひとつだ、というのは、実は安直な 12) 伝統音楽は外からの〈まなざし〉によって、つねに新た 誤解にすぎない。 な伝統の地平に立つのであって、文化の創造的変容を経て、伝統文化は作 り変えられ、さらに根付いていくものなのである。バリ島などのケースと 同様にウィーン市民のしたたかな柔軟性こそが、長い伝統の連鎖を生み出 す牽引力となったのである。 2 )ウィーン・フィルの活動と軌跡 ウィーン・フィルは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団の精鋭メンバーによ って構成され、楽団員による自主運営を特徴としている。その始まりは、 1842年 3 月28日にドイツの作曲家オットー・ニコライ Otto Nicolai の指揮の もとに行われた「フィルハーモーニッシェ・アカデミー」のコンサートだ とされている。47年にニコライが去ったのち、一時期、活動が中断された が、60年にカルル・エッケルトKarl Eckert によって定期演奏会のシリーズが 開始され、これがウィーン・フィルのコンサートとして現在まで続いてい るが、完全会員制で、しかも世襲の規約をもつため、チケットの入手が最 も困難なものとされている。さて、1870年には、今も本拠地として使われ ているムジークフェラインWiener Musikverein 大ホールが完成し、黄金色の ― 175 ― 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートがもつ今日的意味について 13) ホールは華やかに開場の日を迎えた。 やがて1900年には、パリ万国博覧会 での公演のために、マーラー Gustav Mahler とともに初の国外公演を行い、 知名度を上げた。その後、ワインガルトナー Edler Felix Paul Weingartner von Münzberg、フルトヴェングラー Wilhelm Furtwängler、クレメンス・ クラウス Clemens Heinrich Krauss などの大物がウィーン・フィルの指揮者 を務めた。1933年以降は、専任指揮者を置かず、客演指揮者制をとってい る。現在も時代を代表する指揮者たちが指揮台に上がり、専任指揮者を置 かない伝統は続いているが、67年にはカール・ベーム Karl Böhm に、83年 にはカラヤンに名誉指揮者の称号を与えている。また、83年にはレナード・ バーンスタイン Leonard Bernstein を名誉会員としている。定期演奏会のほ か、ニューイヤー・コンサートやザルツブルク音楽祭への出演が恒例の活 動として加えられた。海外への演奏旅行も盛んに行い、オーストリアの文 化輸出の一翼を担っている。使用楽器は国立歌劇場が所有するもので、ウ ィーンの伝統を守りながら、現在も高い演奏水準を保ち、世界最高のオー ケストラの一つとしての評価は揺るがない。 それでは、ニューイヤー・コンサートの歩んだ道とはいかなるものであ ったのか。今日言うところの〈ウィーン風〉音楽の伝承はいかなる経緯を 辿って形成されたのだろうか。さて、そのスタート時点での状況は想像を 超えた厳しいものであり、初めてコンサートが行われた1939年当時、ヒト ラーのドイツ併合によって、 「オーストリア」という国名すら地図上にない 14) 第二次世界大戦の真只中、ウィーン・フィルの存続にまで危 状況であり、 15) そのような状況下で「ワルツ王」を輩出 機が迫った苦難の時代であった。 したシュトラウス・ファミリーのワルツだけを曲目として、楽友協会の大 ホールでコンサートを行うことは、音楽的な意味はさておき、オーストリ ア国民の政治に屈服せず自文化を守り抜く堅い決意の表明として大きな意 義を示すものとなった。 通称「黄金の間」と呼ばれる大ホールは、ウィーン・フィルの定期演奏 会の会場として、また世界一音響の良い美しいホールとして知られており、 内部は、音響上最も効果が高いとされる木造で、各所に金箔と彫刻が施さ れている。床は二重構造になっており床下には共鳴箱を持ち、すぐ横の地 下にあるウィーン川の大きな坑道がもう一つの共鳴胴の役割を担っている。 天井は中吊りにされ、やはり共振するような構造になっている。今では 200年以上弾き込まれたヴァイオリンの名器にたとえられるほど艶やかで豊 ― 176 ― 関東学院大学文学部 紀要 第116号(2009) 潤な響きを提供し続けており、世界各地で新設される音楽ホールのお手本 になっている。ホールの厳密な寸法は、長さ48. 80メートル、幅19. 10メート ル、高さ17. 75メートルで、安定した直方体の基本構造と躍動的な細部が融 合している。壁と天井はリズミカルに区切られ、フォルムと色彩がスリリ ングな相互作用を示す。アウグスト・アイゼンメンガーAugust Eisenmenger 制作の天井画では、9 つの画面にアポロと 9 人のミューズが描かれ、脇の 画面には天才芸術家が配されている。天井画のブルーの基調は、壁面を支 配する黄金とともに色彩による対位法を構成する。同様に魅力的なのは、 フランツ・メルニツキー Franz Melnitzky 制作のシンプルな白い彫像群であ る。パイプオルガンやバルコン席扉上部を飾る屋根構造に配されたエレガ ントなペアの女性像は無造作にゆったりと身を横たえ、1 階客席を取り巻 いて直立するカリアティード Karyatide(女性柱像)と見事な対比をなして いる。こうした装飾に取り巻かれて、音響芸術の代表者たる作曲家たちの 胸像が台座の上に堂々と据えられている。上部にはアーチ型の窓が並び、 ここから差し込む自然光も、ハンゼン Theophil von Hansen が創造した色彩 のハーモニーに生命を与える。なお、客席は1744の座席と300の立ち見席を 擁し、音楽学生のために廉価な空間を提供し続ける。 一方、ウィーン楽友協会 Gesellschaft der Musikfreunde in Wien は、1812 年に当時の音楽愛好家・後援者たちによって設立され、その目的は、 「演奏 会の企画・開催」、「音楽遺産の収集保存」、「音楽学校の運営」であった。 しかし、音楽学校は学生の増加に伴う運営経費不足のため、1909年に国の 配下に置かれることとなり、やがてウィーン国立音楽大学となった。現在 は、残りの 2 つの目的を継承し運営されている。ゴールデンザール(大ホ ール)は、上記の通り、現代の名ホールのひとつであるが、ブラームス、 ブルックナーさらにはマーラーなどが自作の初演を行ったという栄光の歴 史を誇る歴史的名所でもある。この他、ブラームスザール(小ホール)が あり、主にリサイタルや室内楽用として多用されている。この 2 つのホー ルは単なる貸しホールだけではなく、協会が独自に企画運営する自主コン サートを中心に年間のプログラムが組まれている。ホールでコンサートが ない場合は、リハーサル、レコーディング、ビデオ収録や在ウィーンのオ ーケストラの定期コンサートなどに使われる。協会設立以来、収集されて いる楽聖たちの手稿をはじめとする多数の音楽遺産は、協会資料室と図書 館に保存されており、世界主要 5 大音楽資料館に数えられている。特に直 ― 177 ― 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートがもつ今日的意味について 筆楽譜、書簡、肖像画や世界最古と言われる協会の古文書類はクラシック 音楽界の至宝とまで評価されている。世界各地から音楽家、作曲家、音楽 学者たちがこの資料室を頻繁に訪れており、コンサートの開催や歴史的音 楽学の研究には不可欠の存在となっている。 ヨハン・シュトラウス 2 世も自らこの大ホールでウィーン・フィルを指 揮していた。マーラーが宮廷オペラのレパートリーに《こうもり》を取り 上げた時、シュトラウス 2 世は少なくとも序曲の棒だけは自分自身で振る ことを承諾し、数多く催された彼の記念祝典の際には、国立歌劇場のオー ケストラだけではなく、ウィーン・フィルを指揮することもあった。もち ろん、これは特例であって、彼が指揮棒を持つのは、自らの新作の初演を 末弟のエドゥアルト・シュトラウスEduard Straus 16)率いるシュトラウス楽 団で行う時に限られていた。つまり、シュトラウス 2 世は、34人からなる このオーケストラの規模に満足し、その編成に合わせて作曲したのであり、 現在のような「交響的」編成による演奏は、効果的ではあるものの、作曲 家自身がイメージしていたものよりもずっと大掛かりで、表現性の枠を大 幅に超えたものとなった。シュトラウス王朝の作品を演奏するというウィ ーン・フィルの「伝統」は、実際には20世紀最初の30年余りの間に出てき たものといえる。クレメンス・クラウス17)が、このようなプログラムを生 み出したことで、ウィーンをはじめ、ザルツブルク音楽祭でもごく稀にワ 18) ポルカがブルックナーやブラームスの交響曲と並ぶ「真摯 ルツや行進曲、 な音楽」19)として扱われるようになり、以後、必要とされる完璧な解釈を 加えて、華やかなレパートリーとして注目を浴びる存在となった。 しかし、本当にシュトラウスが望まれるようになったのは、第二次世界 大戦後のことである。つまり、彼の音楽は世界に向けて発信される一つの メッセージとなり、ウィーン・フィルが客演した際には、少なくともアン コール曲としていつも歓声と喝采の中で披露されたのである。また、テレ ビに登場する以前は、ムジークフェラインの大ホールで大晦日に演奏され、 常にクラウスの指揮で行われていた。クラウスは、優雅で上品なオースト リアの音楽家として振る舞い、こうしたコンサートをある意味で独占する 存在になっていた。会場にはウィーンの社交界の面々がこぞって訪れ、今 では味わうことができなくなってしまった独特の雰囲気を湛えていた。当 時、テレビ中継のための時間制限がなかった時代には、聴衆は作曲家が生 きていた時代のように自在な繰り返しを楽しみ、随時リクエストすること ― 178 ― 関東学院大学文学部 紀要 第116号(2009) ができたし、演奏家もどんな解釈が最も〈うける〉のかを即座に敏感に感 得できる場ともなっていた。新年らしい雰囲気の会場を飾る美しい花々は 1980年以来、イタリアのサンレモ San Remo 市から贈られることが伝統とな っているが、当時はもちろん派手な装飾もなく、人気のための最大限の譲 歩といえば、指揮者が《ラデツキー行進曲》の際にただ一度だけ制帽をか ぶるぐらいのことであった。 クラウスが亡くなると、主催者でもあったウィーン・フィルは急遽後任 を探すという難題にぶちあたり、当時有能なコンサート・マスターで知ら れたヴィリー・ボスコフスキーWilli(Wilhelm)Boskovsky 20)に白羽の矢を 向けた。 〈弾き振り〉でその後絶大な人気を博し続けたボスコフスキーはこうして 指揮者となった。彼はきわめてウィーン的なヴァイオリニストで、若い頃 には保養地の楽団で演奏した経験もあり、その後、何年にもわたって理想 的なニューイヤー・コンサートの指揮者として注目を浴びた。彼は弓で指 揮をしながら、まるでヨハン・シュトラウスの再来のように演奏をし、テ ンポやデュナーミクなどに関してはオーケストラの同僚たちとまさに一体 化したスマートなものだった。もちろん、彼には著名な大指揮者が持つ重 厚な権威といったものはなかったが、そのかわりに親しみ易さと、上質な 〈ウィーン風〉の心地よさといったものを身上とした。しかし、時にはもっ と厳しい規律や毅然たる指導性があってもよいのではないかという声があ ったのも確かである。ことさらにローカリティを強調したり、強烈な個性 を打ち出したりすることのない、中庸を得た上品な音楽作りに定評があり、 特にウィーン・フィルを振ったときはその美音が素直に引き出されている。 そのため大きく名前が取りざたされることは無いものの、長年にわたって 安定したファンに支持されてきたのである。 ところが、そこにテレビ局がやってきて、この年の変わり目のシュトラ ウス・コンサートを、まずはオーストリアの、次にヨーロッパの、ついに は世界のイベントに仕立て上げてしまった。そして、楽団員すべてがこの コンサートで味わう心地よさのために、外からのあらゆる批判に耳を貸そ うとしなくなった。 ボスコフスキーが健康上の理由でこの役割を退くまで、この体制と雰囲 気は続いたのであるが、彼は次第に、シュトラウス・ファミリーの最後の 音楽家であるエドゥアルト・シュトラウス(シュトラウス兄弟の末弟の息 ― 179 ― 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートがもつ今日的意味について 子)率いるオーケストラの仕事で余生を送りたい、と考えるようになって おり、この時点で、ウィーン・フィルは再び決断を迫られた。そして、以 後はこの大晦日と新年のコンサートの指揮者を、ウィーン・フィルの他の 定期公演と同等に位置づけることに決定した。つまり、オーケストラと親 密な関係にあり、同時にオーケストラにも積極的にプラスになる国際的な 水準の指揮者にその都度依頼することにしたのである。 1959年にヨーロッパの 9 つのテレビ局を通じて最初の中継映像が配信さ れて依頼、この演奏会はウィーンで行われるウィーン市民たちの行事であ ることを超えて、全世界的なメディア・イベントへの道を辿っていくこと になったのである。 このような中で、次の国立歌劇場の音楽監督に決まっていたローリン・ マゼール Lorin Maazel が、ワルツの指揮者として迎えられた。しかも彼は、 かつて有能なヴァイオリニストであったことを証明してみせたのである。 彼がウィーン生まれではないことを気にする者、しない者、あるいはそれ にこだわる姿勢を隠す者など喧しいなかで、マゼ−ルはワルツの演奏に際 して、楽団員たちがリードするテンポとデュナーミクを素直に受け入れる 賢明さを持ち合わせており、まずは無難な門出となった。それに続いたク ラウディオ・アバド Claudio Abbado やリッカルド・ムーティ Riccardo Muti もまた歌劇場と契約をしていた指揮者であり、そのため、ウィーン・フィ ルとは特別な関係を保っていた。当然彼らの活躍も国際的に話題を集める ことになったが、彼らも名声を汚すことなく〈ウィーン風〉音響に馴染み、 無難に乗り切ったのである。 さらに世界中に強振するような話題を振りまき、しかも、大きな興奮を 呼んだのは二人の指揮者による 3 回のコンサートであった。カルロス・ク ライバー Carlos Kleiber が指揮をした 2 回のプログラムは、いまだにそれを 凌ぐものはないと喧伝する強烈なファンたちのおかげで不滅のコンサート となった。それは、かつてないような旋回し滑るような速いテンポに乗っ て、濃厚な音楽を提供し、体験した誰もが決して忘れることはないと賞賛 を惜しまなかったのである。 そして、ヘルベルト・フォン・カラヤンHerbert von Karajan によるコンサ ートも特別の意味をもった。一度だけこのコンサートを指揮したいという 彼の個人的な希望は、ザルツブルク生まれのカラヤンにとっては自分のル ーツへの回帰のようなものであった。そして、抜きん出て活力のある整然 ― 180 ― 関東学院大学文学部 紀要 第116号(2009) たる映像美は、彼のいわゆる「芸術的遺産」をさらに豊かにするものとな った。このコンサートもカラヤンの意向を十分に取り入れて撮影され、彼 の映像シリーズの最後に収められているのである。この時のコンサートも、 裏話として話題に事欠かなかった。カラヤンは病気で指揮ができるかどう か危ぶまれていたが、ズービン・メータ Zubin Mehta が「代役」としてウ ィーンに待機することを条件に実行されることになった。しかし、カラヤ ンは最後の力をふりしぼるまでもなく、少ない動きと当を得た解釈をワル ツに施すことで決してウィーンを裏切らなかった。かくして彼もまた自分 自身の、彼ならではの記念すべきシュトラウス・コンサートを実現したの である。 3 )メディア・イベントとなったコンサートの今日的意味 カラヤンとクライバー以降はまた、様々な顔ぶれの指揮者が順番に登 場した。みな、オーケストラの評価に沿った「重要な」指揮者ばかりで ある。それはまた常に、これらの指揮者がその後、ウィーン・フィルの指 揮台に立つということを意味していたのである。もう一度ムーティ、もう 一度マゼ−ル、それから〈ようやく〉ニクラウス・アーノンクールNikolaus Harnoncourt 21)の出番となった。そして、国立歌劇場の音楽監督に就任・ 続投することが決まった小澤征爾 22)の登場である。ウィーン国立歌劇場の 運命を共に決定していく日本人音楽家は、ウィーン・フィルにとって、ヨ ハン・シュトラウスやヨーゼフ・シュトラウスの作品を演奏するコンサー トの指揮者として、等しく相応しいのかという疑問が一切なかったとは言 い切れない。そして、放映後に発売されたDVDの姿を見ると、彼の生真面 目さ・硬さが今まで継承されてきた〈ウィーン風〉の柔軟さ・たおやかさ を押しやり、潔癖なまでの細やかな指揮振りがこのコンサートを気軽に楽 しむ人々に一抹の違和感を覚えさせたのも事実であった。翌年、日本人の 多くの期待に反して、小澤の再登場は実現しなかった。つまり、近年大方 の聴衆にインプットされた〈ウィーン風〉のしなやかで軽やかな酔い心地、 つまり独特のローカル色豊かなリズム感が醸し出す独特の雰囲気が希薄で あったという評価が強くあったのも確かである。 さて、1953年に「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスConcentus Musicus Wien」というアンサンブルを創設し古楽演奏で不動の地位を築いた ― 181 ― 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートがもつ今日的意味について アーノンクールがその次のコンサートの指揮者にすでに決まっていたのに は、二つの理由があった。彼のコンサートは学術的にも芸術的にも異議を 挟む余地の無い現代最高の指揮者であるという高い評価を得ていたこと、 そして、それに伴い販売成績が過去最高を記録していたからである。とい うのも、このイベントには大きな経済的効果が見込まれており、彼らはコ ンサート自体では通常の報酬しか手にしないが、その録音契約による収入 は莫大となる。そして、このコンサートによってウィーン・フィルは世界 中で認知され、ウィーン・フィルのメンバーがいくつもの小さいアンサン ブルを組んでヨハン・シュトラウスのプログラムを携えて行う海外ツアー は、まさにニューイヤー・コンサートの賜物であり、常に大きな経済効果 をもたらすのである。例えば、ウィーン・フィルの首席奏者のみで構成さ れている「ウィーン・リング・アンサンブル」が、ニューイヤー・コンサ ートの直後に日本やアジア諸国を訪れると、単なる名声以上に熱狂的な歓 迎を受け、大きな追加収入を生みだしたし、 「アンサンブル・ウィーン」の 場合も、ほぼ同様であった。こうした例は枚挙にいとまがない。つまり、 「20世紀後半のウィーン・フィル」 、 「ムジークフェライン」 、 「ヨハン・シュ トラウス」 、にとって、ニューイヤー・コンサート以上に世界の耳目を集め、 真摯でありながら同時にポピュラーでもある魅力的な形態はなかった、と いうことである。この形態が〈発明〉され、 〈創られた伝統〉の響きを提供 することになった新たな歴史の始まりは、まさに〈ウィーン風〉の音楽に とって最も幸福なことに数えられるであろう。 しかしそれは、ニューイヤー・コンサートが「国際化」によって地域性・ ローカル色といったものを失ってしまったということではない。 「音楽は国 境を越える」 、あるいは「音楽に国境はなし」といった、いささか言い古さ れた表現のなかには、 「西洋」が、そしてその中心としての「ウィーン」が 自らを他から差別化された世界の中心として位置づけようとする強烈な自 負が潜んでいるのであり、その意味で、一見「グローバル化」にみえるこ の動きは、ウィーンのローカル・アイデンティティーの強化と表裏一体に なっているという点に注目すべきである。ニューイヤー・コンサートは、 ウィーンのローカルな文化伝承を世界に宣伝すると同時に、それを普遍的 な価値をもつものとして世界にアピールするための絶好の装置となってい るのである。23) そして、大切なことはこのコンサートに興味を示し、雰囲気を充分に楽 ― 182 ― 関東学院大学文学部 紀要 第116号(2009) しむ余裕をもったファン層の存在である。つまり、日本におけるクラシッ ク界の聴衆と同様に、激動の20世紀の音楽史を体感し、大きな戦争体験の 後の沈滞するムードとアメリカ実験音楽の過激な洗礼の狭間で、ビートル ズを初めとして急成長するポップス業界との折り合いをつけた中高年齢層 の存在である。これらの聴衆は生真面目な中にもポップな感覚で、世界の 音楽や文化を大枚はたいて享受できる階層だということである。時には外 国から招聘した世界一流のオペラやコンサートを鑑賞し、外国旅行の際に は高級ホテルに滞在して国立オペラ座やコンサートホールの特等席に足を 運ぶリッチな階層なのである。国際的な音楽の土俵の上に、ウィーンを位 置づける常識をしっかり持ち合わせた階層でもある。新年に一般には入手 困難な楽友協会のシートを持ち得るご当地の人々と優雅な観光客、そして 世界中のテレビの前に座ってお屠蘇気分で「馴染みの隣人」の晴れ着を観 察する外国人たちである。 しかしながら、 〈ウィーン風〉なコンサートは、確実に新たな時代に入っ た。観光人類学的なウィーン研究も一般的になって、ウィンナ・ワルツの リズムの〈溜め〉をいまさら、19世紀以来の伝統だなどと、思う客もいな くなった。楽屋の裏話もすべてオープンになっていく時代に、ローカル・ アイデンティティーの保持は困難になった。ましてや、野球のトレードと 同様にオーケストラの団員も国際的に自由に移籍可能となった今、そこに しか無いという響きや音楽性は、無理にでも創り上げない限り、保持され るはずもない。故意であれ偶然であれ注目を集める響きの癖や歪みなどは、 単に他とは異なる歌い方の雛形であり、ひとつのモデルとして、外向きに 価値を持ちうる限りにおいて踏襲されていくだけなのである。 先述の通り、ウィーンは「古楽」アンサンブルから出発したアーノンク ールによる真の、いいかえれば〈新しくて旧い〉ウィーン音楽を追及する という厳しい指標に基づいて、磐石の態勢を取りつつある。いかにベルリ ンやミラノなど外来の勢力が襲いかかろうと、 〈ウィーン風〉の維持を基底 に、堅固な音楽そのものを世界に示すことに今のところ成功している。軽 さも艶やかさも、その音楽の本質を卑しめるものとはならない。ウィーン 風音楽の重くしたたかな「内容」そのものが揺るぎなき価値を示し、控え めながら「土地の風味」を感じさせる本物の「音楽」が他を圧倒するので ある。 今年の新年はバレンボイムの指揮によって、ウィーン気質の固着した雰 ― 183 ― 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートがもつ今日的意味について 囲気が影をひそめた。公正な音楽の共通語によって、正々堂々と語り合お うとする態度は分からぬではない。しかし、 〈ウィーンに酔う〉 、 〈酔いしれ る〉ということへの歯止めが掛けられたという思いが、大勢のウィーン・ 24) ファンを少々嘆かせたのも事実である。 注 1 )2009年プログラム ―第 1 部― 1 .喜歌劇《ベネチアの一夜》序曲[ベルリン版] (ヨハン・シュトラウス 2 世 作曲) 2 .ワルツ《東洋のおとぎ話》作品444 (同上) 3 .《アンネン・ポルカ》作品117 (同上) 4 .《速達ポルカ》作品159 (同上) 5 .ワルツ《南国のばら》作品388 (同上) 6 .ポルカ《百発百中》作品326 (同上) ―第 2 部― 1 .喜歌劇《ジプシー男爵》序曲 (同上) 2 .喜歌劇《ジプシー男爵》入場行進曲 (同上) 3 .《宝のワルツ》作品418 (同上) 4 .《スペイン風ワルツ》 (ヨーゼフ・ヘルメスベルガー 作曲) 5 .《ザンパのギャロップ》作品62a (ヨハン・シュトラウス 1 世 作曲) 6 .《アレクサンドリーネ・ポルカ》作品198 (ヨハン・シュトラウス 2 世 7 .ポルカ《雷鳴と電光》作品324 作曲) (同上) 8 .ワルツ《天体の音楽》作品235 (同上) 9 .ポルカ《ハンガリー万歳》作品332 (同上) 10.交響曲第45番《告別》から第 4 楽章 (ヨーゼフ・ハイドン 作曲) [アンコール] ポルカ《別に怖くはありませんわ》作品413 (ヨハン・シュトラウス 2 世 ワルツ《美しく青きドナウ》作品314 《ラデツキー行進曲》作品228 (ヨハン・シュトラウス 1 世 作曲) (同上) 作曲) 2 )ダニエル・バレンボイム(1942年生まれ)は、ニューイヤー・コンサートの 指揮台から、中東和平実現を呼びかけた。恒例となっている新年の挨拶で「世 ― 184 ― 関東学院大学文学部 紀要 第116号(2009) 界平和と中東での正義の実現を望む」と発言、コンサートは計約70カ国で放 送、うち50カ国で生中継された。同氏はアルゼンチン出身のユダヤ人で、現 在の国籍はイスラエル。 3 )この演奏会ではアンコールとして演奏される 3 曲のうち、2 曲目に《美しく 青きドナウ》 (ヨハン・シュトラウス 2 世)を、最後の曲に《ラデツキー行進 曲》 (ヨハン・シュトラウス 1 世)を演奏するのがならわしになっている。ま た《美しく青きドナウ》の冒頭が演奏されると一旦拍手が起こり演奏を中断、 指揮者およびウィーン・フィルからの新年の挨拶があり、再び最初から演奏 を始めるのもならわしである。新年の挨拶はその年の指揮者により色々な趣 向で行なわれる。 4 )ニューイヤー・コンサートの曲目の選定はヨハン・シュトラウス協会会長や シュトラウス研究家など「シュトラウス一家の権威」が集まって行われてい る。そこで決まった提案を指揮者とウィーン・フィルに送付し、この両者で 検討される。この際、ポピュラーで取り上げられる回数の多い曲となじみの ない曲やニューイヤー・コンサート初登場の曲を出来るだけ交互に演奏する プログラムになるよう吟味される(指揮者によっては、その慣習が破られる こともある)。 5 )渡辺裕・増田聡ほか『クラシック音楽の政治学』青弓社 2005年、28頁 6 )同上、34頁。 7 )藤原怜子「ビーダーマイヤー期前後のウィーン市民の音楽生活」関東学院大 学人文研究所報第34号、 8 )ポルカの先駆者といえる人物はヨーゼフ・ランナーだが、ウィーンでのポル カ・ブームの火付け役となったのは、シュトラウス 2 世である。彼は、さま ざまなタイプのポルカを作曲しているが、いずれも舞踏会の場面にふさわし く、優雅でゆったりとした雰囲気のものから、テンポの速い、粋でおきゃん な風情のものまで多様である。ポルカの登場によって、ウィーンの舞踏会に 新しい彩と活気がもたらされた。横井雅子『音楽でめぐる中央ヨーロッパ』 三省堂 1998年、229頁。 9 )必ずしもウィーンの特産物ではなく、ウェーバーの《舞踏への勧誘》 (1819) が雛形となっているといわれている。加藤雅彦『ウィンナ・ワルツ ハプス ブルク帝国の遺産』日本放送出版協会、2003年、34頁。 10)ポマリンともいう。大聖堂の展望台の下に、プンメリンと名づけられた巨大 な鐘をつるした鐘楼がある。プンメリンは、もともと、ウィーンを包囲して いたオスマントルコ軍が残していった大砲を鋳潰して造られたというが、第 二次大戦末期の大聖堂の火災で焼け落ちてしまい、その後1951年に造り直さ れている。窪 明子『オーストリアの祝祭と信仰』第一書房 頁 ― 185 ― 2000年、179 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートがもつ今日的意味について 11)前掲、渡辺裕・増田聡ほか『クラシック音楽の政治学』、34頁。 12)ウィーン・フィルを中心にウィンナ・ワルツのリズムには独特の訛りがある といわれてきた。すなわち 3 拍子の 1 拍目と 2 拍目の間隔が詰まり(短くな り)、その分 2 拍目と 3 拍目の間隔が長くなる演奏法で、さらにウィーン・ フィル独特の甘いヴィブラートを加え、極端に速い 1 拍子感覚で刻まれるワ ルツ奏法は、シュトラウス没後半世紀近く経った頃から登場したものである。 つまり、シュトラウス自身は通常のワルツ同様均等な 3 拍子で、出演料の多 少等によって大小さまざまなバンドを組んで、その場に応じてさまざまな楽 器編成に編曲して演奏していたという。 13)ハンス・リヒター(1843〜1916)は、1875年から1900年まで宮廷オペラの楽 長であり、また1875年から1898年までウィーン・フィルの楽長でもあった。 ウィーン・フィルの名声の基盤を創ったのは、このリヒターである。カミロ・ シェーファー著 楽之友社 早崎えりな・西谷頼子訳『ハプスブルクの音楽家たち』音 1997年、235頁。 14)オーストリア併合 Anschluss 1938年 3 月、ヒトラーがオーストリアをド イツに併合した事件。3 月12日、ドイツ軍は国境をこえてオーストリアに侵 攻。併合は無抵抗のうちに強行された。 15)この最初のニューイヤー・コンサートに聴衆として立ち会ったフランツ・マ イラー(現ヨハン・シュトラウス協会会長)の回想によれば、この演奏会は 異様な空気に包まれていた。人々は、クラウスが意識的にオーストリアの文 化として提示したシュトラウスの音楽のなかに「もはや存在していなかった オーストリアという国の存在を感じ取ろうとした」のであった。渡辺裕・増 田聡ほか『クラシック音楽の政治学』37頁。 16)シュトラウス 3 兄弟の末弟エドゥアルトは、兄の死後「復讐」(F. エンドラ ー)に出る。彼は1901年 2 月、父が創設して以来70年以上も続き、彼自身30 年間指揮してきたシュトラウス・オーケストラを、アメリカ公演中に解散し た。それに続いて彼は、1907年10月、常軌を逸するさらなる「復讐」を行う。 父親以来シュトラウス一家が作曲し、あるいは編曲して、オーケストラの演 奏に使用してきたスコアを全部、ウィーンの二つの陶器工場の窯炉で処分し たのである。焼却された楽譜の総量は、包みにして2547個、枚数にして70万 枚から100万枚にもおよんだという。加藤雅彦 2003年、219頁。 17)歴代指揮者名と担当年 ● クレメンス・クラウス(1939,1941〜1945,1948〜1954) ● ヨーゼフ・クリップス(1946,1947) ● ヴィリー・ボスコフスキー(1955〜1979) ● ローリン・マゼール(1980〜1986,1994,1996,1999,2005) ● ヘルベルト・フォン・カラヤン(1987) ― 186 ― 関東学院大学文学部 紀要 第116号(2009) ● クラウディオ・アバド(1988,1991) ● カルロス・クライバー(1989,1992) ● ズービン・メータ(1990,1995,1998,2007) ● リッカルド・ムーティ(1993,1997,2000,2004) ● ニコラウス・アーノンクール(2001,2003) ● 小澤征爾(2002) ● マリス・ヤンソンス(2006) ● ジョルジュ・プレートル(2008,2010(予定) ) ● ダニエル・バレンボイム(2009) 18)シュナイデライトのいうように「オーストリアのミリタリー・マーチは、行 進曲よりも実際にはダンスに適している」 。フランク・ミラーは「ラデツキー 行進曲のトリオは、古いウィーン民謡のメロディーを引用している。曲の冒 頭のリズムを別とすれば、このマーチは本来、威風堂々とは関係の無い、楽 しく心を弾ませる曲である」とのべている。ウィーン革命とマーチについて。 加藤雅彦 2003年、86〜98頁。 19)「ウィンナ・ワルツ」が響き始めた時期は、ハンスリックの音楽美学などで は、とうてい整理のつかない「E音楽」 (真面目な音楽)と「U音楽」 (娯楽音 楽)が交差し、融和する時代であった。加藤雅彦、2003年、43頁。 20)彼の人柄と音楽性についての暖かい記述が読める。前田昭雄『ふたたび ィーンはウィーン』音楽之友社 ウ 2002年、225頁。 21)アーノンクールは1929年、オーストリアの由緒ある貴族の家に生まれた。第 二次世界大戦後の混乱の中、プロのチェロ奏者へと成長し、ウィーン・ガン バ・カルテット、ウィーン交響楽団での活動を経て、1953年に自らのヴィジ ョンに基づく古楽演奏団体「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」をア リス夫人と共に立ち上げた。モンテヴェルディからモーツァルトまでの時代 を中心に演奏する団体として育成し、自ら蒐集した歴史的楽器や楽譜によっ て、次々と 作品 を再発見していった。1957年の公開演奏会デビューから 現在に至るまで、演奏会やレコーディングを通じて、多くの作品にこれまで とは全く異なるアプローチで迫り、その斬新な成果は楽壇に大きな影響を与 えた。また、知られざる作品を、徹底的な探求に基づいて発掘した功績は大 きい。最近のウィーンの伝統音楽への深い洞察にも注目が集まる。 22)小澤のニューイヤー・コンサートに臨む姿勢は厳しかった。12月28日・29日 の午前、午後とも徹底的なリハーサルを行い、ここで小澤とウィーン・フィ ルの間で丁々発止のやりとりがあった。まだ会場の飾り付けの充分にできて いない30日のコンサートは、上々の出来であった。31日のジルヴェスター・ コンサート、2002年 1 月 1 日のニューイヤー・コンサートは、「はたして小 澤がウィーン・フィルを相手にオール・ワルツ・ポルカ・プログラムを充分 ― 187 ― 観光都市ウィーンのニューイヤー・コンサートがもつ今日的意味について にこなせるのか」という危惧を完全に払拭した。新聞各紙とも大きな見出し で「日本風? いやウィーン風」などと褒め称えた。ONTOMO BOOK『小 澤征爾とウィーン』音楽之友社、2002年10月、野村三郎=文 14頁。 23)前掲、渡辺裕・増田聡ほか『クラシック音楽の政治学』40頁。 24)ニューイヤー・コンサート2009年のCDは、オーストリアで 4 万枚以上売上 げがあり、ダニエル・バレンボイムとウィーン・フィルの楽団長クレメンス・ ヘルスベルク、そしてORF代表としてラインハルド・スコリックがルーカ ス・バルヴィンスキー(デッカ/ユニバーサル・ミュージック・オーストリ ア)より「ダブルプラチナ賞」を受け取った。DVDはオーストリアで約 1 万枚 が売れ、「ゴールド賞」を受賞した。 ― 188 ―
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