B.ピウスツキと北海道 1903 年のアイヌ調査を追跡する 井上 紘一 はじめに ブロニスワフ・ピウスツキ(1866-1918)は、久しくロシア帝国領に編入されていたリトワ ニアに生まれた民族学者である。 19 歳の時に帝都ペテルブルグでロシア皇帝暗殺未遂事件に連座して逮捕され、懲役 15 年 の刑を宣告されてサハリン(樺太)島へ流刑となった。爾来 19 年間、徒刑囚(1887-1897)、 移住農民(1897-1906) の身分のもとにロシア領極東で暮らしたのち、日本、米国、西ヨー ロッパを経由して、オーストリア帝国統治下の亡国ポーランドへ帰国した。その後、とり わけ第1次大戦の勃発以降は、スイスを中心にヨーロッパ各地を転々と流浪し、フランス のパリで客死した。自殺と伝えられるその死は、弟のユゼフ・ピウスツキが中心となって ポーランドの再興を成就する、わずか半年前の出来事であった。1 ピウスツキは、このように不本意ながらも世界一周をほぼ果たしたことになる。しかし ながら、旧ポーランドを分断して、オーストリア領ポーランドとロシア領ポーランドの間 を走る国境は遂に越えることができなかった。つまり、彼は生きて再び故郷の土を踏むこ とが叶わなかったのである。2 その意味では、誠に悲劇的な一生であった。その上、晩年の ヨーロッパ時代(1906-1918)は定職らしきものもほとんどなく、貧窮を友としてさすらい 続け、ロシア極東で従事した原住民研究の膨大な成果も、そのほとんどは未整理・未刊行 のままに終わった。 今を去る十数年前、ピウスツキがアイヌ・フォークロアを収録した蝋管がポーランドで見 つかり3、録音音声の再生をめぐって国際共同研究4が開始されたことで、彼の仕事を再評価 1 ピウスツキの生涯については、以下の邦文刊行物を参照。拙稿「ブロニスワフ・ピウスツキの 不本意な旅路」加藤九祚・小谷凱宣編『ピウスツキ資料と北方諸民族文化の研究』(国立民族学 博物館研究報告別冊 5 号 1987)所収;拙稿「ピウスツキ兄の復権を」(『朝日新聞』1983 年 7 月 21, 22 日付夕刊) ;沢田和彦「ブロニスワフ・ピウスツキの生涯と明治日本」 『ポロニカ』4 号 1994;ヴィトルド・コヴァルスキ著、井上紘一訳「ブロニスワフ・ピウスツキの遍歴:日本出国 から自殺まで」前掲誌所収。 2 拙稿「ブロニスワフ・ピウスツキの不本意な旅路」p. 45。 3 ピウスツキの蝋管に関する情報を日本へ初めて紹介したのは、アルフレッド・マイェヴィチ氏 (ポーランド・ポズナンのアダム・ミツキェヴィチ大学) 執筆の論文A. F. Majewicz, “On B. Piłsud- 11 する試みも始まった。既に3回の国際シンポジウムが、第1回は 1985 年札幌5、1991 年に は第2回がロシア・サハリン州のユジノ・サハリンスク6、そして第3回は 1999 年夏、ポー ランドのクラクフとザコパネ7において、それぞれ開催されたが、ピウスツキの業績の全面 的評価8はまだ先の話である。 ピウスツキはロシア極東在住の間に前後3回、函館に来航した事実が判明している。第1 回は 1902 年8月中旬、真岡(ホルムスク)から大泊(コルサコフ)に戻る最後の手段として、 函館へ向かう漁船に便乗して来函、3週間の滞在ののちに別便で大泊に帰還している。9 ski’s Unpublished Materials”(『北方文化研究』 11, 1977)である。蝋管録音音声の再生にかかわ る経緯については、朝倉利光・伊福部達編『ピウスツキ録音蝋管研究の歩み(昭和 58 年∼61 年) 』 (北海道大学応用電気研究所 1986)を参照。 4 共同研究を推進するために 1980 年頃、故黒田信一郎、井上紘一によって結成されたのがCRAP である。CRAPとはCommittee for Restoration and Assessment of B. Piłsudski’s Life and Workの略称で あるが、それ自体が英語でサイコロ博打を意味したため、「一か八か試してみよう」というわれ われの心情とも合致したから、これを公称とすることにした。CRAPは 1981 年、大阪の国立民 族学博物館と、蝋管を所蔵するポーランドのアダム・ミツキェヴィチ大学とを両拠点とする国際 的共同研究組織ICRAPへと発展的解消を遂げた。 5 第1回シンポジウムはICRAPの主催で、北海道大学の学術交流会館のこけら落としとして実施 された。関連の刊行物は以下の通り。Proceedings of the International Symposium on B. Piłsudski’s Phonographic Records and the Ainu Culture (Sapporo: Hokkaido University, 1985); 加藤九祚・小谷凱 宣編『ピウスツキ資料と北方諸民族文化の研究』(国立民族学博物館研究報告別冊 5 号 1987) 。 6 第2回シンポジウムはサハリン州郷土博物館主催。ピウスツキ生誕 125 周年を記念して「ベ・ オ・ピルスツキーはサハリン諸民族の研究者」というテーマのもとに実施され、次のような刊行 物が出版されている。Б.О. Пилсудский – исследователь народов Сахалина [B.O.ピウスツキはサハ リン諸民族の研究者] (Материалы международной конференции. 30 октября – 2 ноября 1991 г., тт. 1-2, Южно-Сахалинск: Сахалинский областной краеведческий музей, 1992); 村崎恭子編『サハリ ンとB.ピウスツキ』(ピウスツキをめぐる北方の旅実行委員会、札幌 1992); Linguistic and Oriental Studies from Poznań, vol. 2 (Poznań: Adam Mickiewicz University, 1995)。 7 第3回シンポジウムはB. Piłsudski and His Scholarly Heritageと銘打って、ピウスツキゆかりの地 であるクラクフとザコパネで開催され、以下のような報告集が公刊されている。Alfred F. Majewicz & Tomasz Wicherkiewicz, eds., Bornisław Piłsudski and Futabatei Shimei ― An Excellent Charter in the History of Polish-Japanese Relations (Materials of the Third International Conference on Bronisław Piłsudski and His Scholarly Heritage, Kraków –Zakopane 29/8 – 7/9 1999 // Linguistic and Oriental Studies from Poznań: Monograph Supplement 7, Poznań: Adam Mickiewicz University, 2001). 8 筆者は学術振興会科学研究費補助金(基盤研究B)による共同研究プロジェクト「ピウスツキ による極東先住民研究の全体像を求めて」(2000-2002 年)を推進中である。同プロジェクトは、 極東先住民研究に限るとはいえ、彼の業績の「全面的評価」を目指すものである。 9 Пилсудский, “Отчет Б. О.Пилсудского по командировке к айнам и орокам о. Сахалина в 19031905 гг.” [ベ・オ・ピルスツキーのアイヌとオロッコの許への出張報告(1903-1905 年)], Известия Русского комитета для изучения Средней и Восточной Азиив в историческом, археологическом и этнографическом отношениях, no. 7, стр. 20ff, СПб., 1907. 上記論文の英訳は Alfred F. Majewicz, ed., The Aborigines of Sakhalin (The Collected Works of Bronisław Piłsudski [hereafter CWBP], vol. 1, Mouton de Gruyter: Berlin & New York, 1998), pp. 193-94 に収録。但し、この時の来函は当局の許可 を得ない「違法」なもので、ピウスツキは友人シュテルンベルグ宛の手紙(Пилсудский, «Дорогой Лев Яковлевич...» (Письма Л.Я. Штернбергу. 1893-1917 гг.)[「親愛なるレフ・ヤコヴレヴィチ…」 12 第2回は 1903 年7月初旬∼10 月初旬。この折は、のちに触れるように、樺太アイヌと日本 人の混血児で、自らがロシア語の手ほどきをした千徳太郎治を日本語の通訳として同行し ている。第 3 回は 1906 年 1 月初旬10、ヴラヂヴォストク(浦塩)から友人のニコライ・マ トヴェイェフ11とともに来函。ピウスツキはこの際、19 年間住み慣れたロシア領極東を不退 転の決意をもって後にし、8ヵ月の滞日12ののちに米国経由で祖国ポーランドへ向かった。 したがって函館は経由地であり、直ちに東京方面へ旅立ったものと推定される。 ところで、この第 3 回来港の折は『北海タイムス』が「浦汐よりの珍客」と題する興味 深い記事を掲載しているので、以下にその全文を引用する。 「最近の便船にて浦汐斯徳より来朝したる二人の珍客あり。 その一[人]はビルドスキーと言ひ、波蘭人にして十九歳の時国事犯の為め西比利 亜に放流され、多くの日月を西比利亜、勘察加、サガレン等に送る内、文学の素養あ りしを以つてアイヌ語の研究を試み、頗る造詣する所あり。其の著述を懐にして来朝 し、日本に於いて之れを印刷に付して、日本の学者と共に之れを研究せんと欲する由。 又た其の一人はマトヱエフと称し、浦汐及びニコリスクにて久しき以前より新聞紙 を発行したるが、戦争中は中止し、今回再刊を試むるに付き、日本の写真其の他の材 料を蒐集し、併せて印刷の設備をも日本に於いて整ふる為め来朝したる由にて。同氏 L.Ya.シュテルンベルグ宛の書簡 1893-1917 年], стр. 201, Южно-Сахалинск, 1996)に「無断・無賃 の渡航」(зайцем)であったと記している。 10 『北海タイムス』所載記事(脚注 13 参照)による。なお、檜山真一は『馬關毎日新聞』1月 10 日付の同名記事を引いて、彼らの来日を 1905 年「11 月中旬」と記している(檜山真一「親日亡 命ロシア人ニコライ・マトヴェーエフ」原暉之編『スラブと日本』(講座『スラブの世界』8 巻), pp. 193, 210, 弘文堂 1995)が、ピウスツキはその後に一月半ほど極東ロシア(南樺太とヴラヂヴォス トク)に戻っており(沢田和彦「ブロニスワフ・ピウスツキの観た日本:東京音楽学校の女流音 楽家との交際を中心に」『スラヴ研究』№ 43, p. 205, 1996) 、第 3 回の来函はやはり 1906 年1月 初旬と考えられる。 11 Николай Петрович Матвеев (1865-1941). ペンネームはН. Амурский。引用した記事にも言及が あるように、マトヴェイェフは日本で生まれた「最初のロシア人」として著名であるが、実際は ヴラヂヴォストクで出生したとする言説もある(檜山前掲論文pp. 189−191) 。1919 年に日本へ 亡命し、神戸で没した(同前pp. 198, 208)。 12 ピウスツキの日本における事跡については以下を参照。木村毅『日本に来た五人の革命家』 恒文社 1979;安井亮平「二葉亭四迷の露文書簡その他」『文学』34(8), 1966;安井亮平「二葉亭 四迷のロシア人・ポーランド人との交渉」『文学』 43(9), 1975;和田春樹『ニコライ・ラッセル: 国境を越えるナロードニキ』上・下、中央公論社 1973;吉上昭三「ブロニスワフ・ピウスツキ、 北海道以降:シェロシェフスキの記述を中心に」加藤九祚・小谷凱宣編『ピウスツキ資料と北方 諸民族文化の研究』 (国立民族学博物館研究報告別冊 5 号 1987)所収;沢田和彦「ブロニスワフ・ ピウスツキと日本」前掲書所収;沢田和彦「ブロニスワフ・ピウスツキの生涯と明治日本」『ポ ロニカ』4 号 1994;沢田和彦「ブロニスワフ・ピウスツキの観た日本:東京音楽学校の女流音 楽家との交際を中心に」1996。 13 は函館にて生まれ、非常の日本崇拝者にて、開戦前露国の極東政策に反対し、之れが 為め発行停止の厄を蒙むりたることも一再ならずと云ふ。 」13 この記事ではピウスツキが「其の著述を懐にして来朝し、日本に於いて之れを印刷に付 して、日本の学者と共に之れを研究せん」ため来日したと伝えているが、事実、二葉亭四 迷、横山源之助、上田将らの協力を得て、彼はアイヌに関する処女作「樺太アイヌの状態」 (『世界』141906 年 7、8 月号所収)を日本において日本語で発表することに成功している。 但し、その名前が「ビルドスキー」で、「西比利亜(シベリア)、勘察加(カムチャツカ)」にも 暮らしたとあるのは、取材記者の聞き違いであろう。 さて、ピウスツキの函館来港のうちで、多少とも長期に滞在して和人やアイヌの人々と 交流を持つ機会に恵まれたのは、上記のように 1903 年の第2次来航時である。ロシア帝室 地理協会から北海道アイヌ調査の委嘱を受けて、函館で待機する同国人ヴァツワフ・シェ ロシェフスキのもとへ、ピウスツキは一月遅れて合流し、一緒に白老、平取、札幌を遍歴 した。彼等の行脚の様子は、シェロシェフスキの旅行記『毛深い人々の間で』(1927)15に 詳しいが、ジョン・バチェラーや「青森の人」飯島桂の記述にも貴重な情報が見出される。 本稿では、1903 年の北海道滞在を可能な限り再構成することを試みる。 1 函館まで ピウスツキらが暗殺を企てたとされるロシア皇帝アレクサンドル3世の死去を承け、皇太 子が 1896 年5月 14 日(露暦)にニコライ2世として戴冠した折に発布された恩赦令で、ピ ウスツキの刑期も3分の2に減刑された。16 したがって翌 97 年には刑期満了となって、上 述のように彼は「半自由民」、もっと正確に表現すると、居住を流刑地内に制限された移住 農民の身分を獲得する。しかし幸いなことに 98 年には、ロシア帝室地理協会アムール地方 13 『北海タイムス』1906 年 1 月 10 日付。記事のタイトルは、日露戦争後初のロシア人船客、と いう趣旨であろう。 14 この雑誌の発行元は東京の京華日報社。 15 Wacław Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi”. この作品は 1926 年にポーランドの文芸誌Czas (クラクフ)、Swiat(ワルシャワ) 、Wiek Nowy(ルヴフ)に並行して連載、単行本としてまとめら れたのが 1927 年。本稿では、シェロシェフスキ著作集 18 巻『雑録:旅行記・回想録』(1961 年 クラクフ刊)収録のテキストを用いる。 16 Koichi Inoue, ed., B. Piłsudski in the Russian Far East: From the State Historical Archive of Vladivostok (Pilsudskiana de Sapporo−hereafter PdS, no. 2), p. 103, Sapporo: Slavic Research Center of Hokkaido University, 2002. 文書は沿海地方ロシア国家文書館(ヴラヂヴォストク)蔵「サハリン島 軍務知事 1896 年事務調書」(ф. 1133, оп. 1, д. 1441, л. 40)。かくてピウスツキの刑期は懲役 15 年 から 10 年に減刑となった。 14 研究会博物館の管理人custodianに採用されて、サハリンを離れるチャンスをつかむも、さ まざまな難関を経て、ピウスツキがヴラヂヴォストク(浦塩)に到着して博物館管理人に就 任できたのは、99 年3月9日(露暦)17のことであった。彼はこの時、聡明なギリヤーク(ニ ヴフ)のインディン少年を連れていた。彼はこの少年を浦塩の実科学校に入れて、行く行く はニヴフの子供達の教師にしようと計画していたが、インディンは間もなく病死してしま う。18 浦塩におけるピウスツキは、博物館での職務のほかに地元紙『ヴラヂヴォストク』の編 集局や極東統計委員会の活動にも参加して、ロシア極東における知識人としても頭角を現 わし始めた。その矢先の 1902 年春、ペテルブルグのロシア帝室科学アカデミーからサハリ ン原住民の民族資料収集の仕事が提案された。19 たとえ学術的出張旅行とはいえ、10 年の歳 月を徒刑囚として過ごした「虜囚の地」へ舞い戻ることは頗る躊躇されたであろう。しか しピウスツキは、結局、科学アカデミーの委嘱を受け入れて、1902 年7月8日(露暦)、サ ハリン南端のコルサコフ(大泊)港に上陸、直ちに西海岸で樺太アイヌ集落の巡回調査に 着手する。20 ピウスツキの第1次来函は、この際の出来事21である。 日露関係が風雲急を告げる 1903 年6月(露暦)、大泊に滞在中のピウスツキは、未知の同 国人シェロシェフスキからの予期せぬ便り22に接する。その内容は、ロシア帝室地理協会と 17 А. А. Хисамутдинов, ...С Полным Забвением и Любовью...: К 125-летию со дня рождения Бронислава Осиповича Пилсудского […完璧なる忘却と愛をもって:ブロニスラフ・オシポヴィ チ・ピルスツキー生誕 125 周年に寄せて…], стр. 1, Владивосток, 1991. 但し沿海地方ロシア国家 文書館(ヴラヂヴォストク)所蔵資料(ф. 1, оп. 7, д. 444, л. 6)によると、ヴラヂヴォストク市 警察はピウスツキの到着を 3 月 13 日頃(露暦)と軍務知事に報告していた。 18 インディンは、ピウスツキのサハリン調査に同行して帰郷中の 1903 年 3 月に肺結核で死亡し た(Пилсудский, «Дорогой Лев Яковлевич...», стр. 179, 200; cf. K. Inoue, “L. Sternberg and B. Piłsudski: Their Scientific and Personal Encounters,” PdS, no. 1, pp. 137-8, 1999) 。 19 Извлечение 12 [中央・東アジア研究のためのロシア委員会「議事録抜粋」第 12 号], Известия Русского комитета для изучения Средней и Восточной Азии, no. 1, стр. 17, 1903. 20 Пилсудский, “Отчет Б. О. Пилсудского..., стр. 20-52 (CWBP vol. 1, pp. 192-221). 21 Там же, стр. 22-23 (CWBP vol. 1, pp. 193-194). ここでの記載によると、真岡発が 8 月 6 日(露暦)、 函館滞在は 3 週間に及び、大泊に戻ったのは 8 月 30 日(露暦)。ピウスツキは、真岡で知遇を得 たセミョノフ・デンビー商会の持ち船に便乗して函館に着き、デンビー親子やモリタキ夫妻の好 意で市内の名所を訪ね、日本人の日常生活にも触れることができたと記している。デンビー親子 というのは、スコットランドに生まれ、のちにロシア国籍を取得した実業家George Phillips Denbigh (1840-1913)とその長男Alfred George (1879-1953)であろう。なお、ジョージ・デンビーの 妻は長崎出身の日本女性で、その弟の森高伊助も当時函館在住のようである(清水恵「函館にお けるロシア人商会の活動:セミョーノフ商会・デンビー商会の場合」『地域史はこだて』 21, pp. 4-5, 15, 29; 1995)から、モリタキ夫妻とは森高伊助夫妻のことではなかったかと思われる。なお 清水論文によると、この当時(明治 30 年代)におけるデンビー家の住居は函館市住吉町に所在、 また長崎にあった旧デンビー邸の方は、犬山市の「明治村」に移築・保存されている (p. 23-24)。 22 “Сведения о Б. О. Пилсудском” [ベ・オ・ピルスツキーに関する情報] , Известия Русского комитета для изучения Средней и Восточной Азии, no. 2, стр. 18, 1904 (CWBP vol. 1, pp. 192-94). 15 科学アカデミーの企画した北海道アイヌ調査へ、アイヌ語とアイヌ文化研究の第一人者と して参加協力を求めるものであった。ピウスツキは直ちに受諾したようである。彼はタラ イカ(多来加)方面へ出かけるため手配してあった漁船の契約を解除して、東海岸のアイ ヌ・コタンへ赴き、「対雁アイヌ」として日本で暮らした経歴があり、したがって日本語の 読み書きにも堪能な樺太アイヌ、千徳太郎治23を通訳として雇い入れると、6月 20 日(露暦: グレゴリウス暦では7月3日)には、函館へ向けて大泊を出航している24からである。 ピウスツキは樺太アイヌの間でのフィールドワークに際し、エジソンが発明して売り出 したばかりの蝋管蓄音器を携行して、そのフォークロアを収録していたが、これを北海道 へも帯同した事実を証する文書が現存する。それは、1903 年7月7日付でコルサコフ駐在 日本領事館がピウスツキのために発行した、以下のような文言の蓄音器一式帯出証明書で ある。同文書は現在、ポーランドの古都クラクフにあるポーランド科学アカデミー図書館 古文書庫に保存されている。 「蓄音機並付属品 弐個 右ハ露人ピリスウヅスキー氏所有品ニシテ旅行 用ノ為メ携帯スルヲ證明ス 明治三十六年七月七日 在哥爾薩港 帝国領事館」25 この証明書はピウスツキのロシア出国時に発行されたと考えられるが、その日付はピウ スツキの記す大泊出航日(新暦で7月3日)と比べて4日の開きがある。齟齬の背景は判然 とせぬが、ここでは領事館記録に拠っておきたい。なお、ピウスツキ自身の記載によると、 彼が北海道調査を終えて大泊に帰港するのは、丁度3ヵ月後の9月 24 日(露暦:新暦では ピウスツキにとって、シェロシェフスキは未知とはいえ同国人、しかもその弟のアダム・シェロ シェフスキがサハリンへ流されていた(Пилсудский, «Дорогой Лев Яковлевич...»..., стр. 113, примеч. 73 на стр. 304)から、ピウスツキは弟から兄の話は聞いていたと思われる。 23 千徳太郎治には日本語の著作『樺太アイヌ叢話(全)』 (東京、市光堂 1933)がある。太郎治 の日本語読み書きの能力については、Sieroszewski, ”Kawałek Japonii” [日本断章], Wacław Sierszewski − Dzieła, tom XVIII, Varia: Szkice podróżnicze i wspomnienia, (Kraków: Wydawnictwo Literackie, 1961), str. 275 も参照されたい。 24 Пилсудский, “Отчет Б.О. Пилсудского..., стр. 29, 1907 (CWBP vol. 1, pp. 199). 25 クラクフのポーランド科学アカデミー図書館文書庫蔵 (syg. 46-48, str. 14)。原文は毛筆による 縦書き。 16 10 月 7 日)26であった。 ところで、シェロシェフスキの北海道アイヌ調査は、あたかも「瓢箪から駒」のように、 当人の意思とは関わりないところで決定され、しかも否応なくその実行を強制されたもの であった。その成立の経緯を、前記のシェロシェフスキ旅行記『毛深い人々の間で』から かい摘んで記しておこう。 そもそもW. シェロシェフスキ(1858-1945)は、ピウスツキより8歳年長のポーランド 作家。ピウスツキの死の直後に成立したポーランド共和国では宣伝相、ポーランド作家同 盟議長、文学アカデミー 総裁を歴任した著名人27であるが、この当時は、12 年に及ぶヤク ート地方流刑(1879-91)を終えて、イルクーツクにて大著『ヤクート人たち』28を擱筆、 98 年に漸くワルシャワへ戻ったばかりであった29。 ところが 1900 年には、詩人ミツキェヴィチの銅像除幕に際して行われたワルシャワでの 「労働者の堂々たるデモ行進」の組織者、ならびにデモを呼びかけた「見事な檄」の起草者の 嫌疑で、彼は再逮捕される。嫌疑はいずれも濡衣(檄文起草者の一人は、ピウスツキの年子 の弟ユゼフ・ピウスツキ)だったにも拘わらず、前の刑期満了直後に住民登録がなされたイ ルクーツクにおける「再度のお勤め」が必至となった。あわてたシェロシェフスキは、旧知 のロシア帝室地理協会副会長P.P.セミョノフ=チャンシャンスキー元老院議員に泣きつい た。元老院議員はいろいろ手を尽くしたものの事態は好転せず、イルクーツク流刑の代案 として提示されたのが北海道アイヌの調査である。30 元老院議員はその際、以下のように語 った、とシェロシェフスキは記している。 「われわれは今、極東に関心を有している。科学アカデミーと協力して、貴殿のた めにアイヌ調査団を組織しましょう。. ..貴殿はそこに 1-2 年滞在して資料を収集し、 26 Пилсудский, там же, стр. 29-30, 1907 (CWBP vol. 1, pp. 199). 吉上昭三「ブロニスワフ・ピウスツキ、北海道以降:シェロシェフスキの記述を中心に」加 藤九祚・小谷凱宣編『ピウスツキ資料と北方諸民族文化の研究』(国立民族学博物館研究報告別 冊 5 号), p. 81, 1987。 28 В. Л. Серошевский, Якуты. Опыт этнографического исследования, том I [ヤクート人たち:民 族学研究試論第 1 巻], Издание Императорского русского географического общества, СПб., 1896. (1993 年にはモスクワで復刻版刊行) 。ポーランド語版はW. Sieroszewski, Dwanaście lat w kraju Jakutów [ヤクートの国での 12 年](初版: 1900 年、2版: 1935 年ワルシャ刊、3版: シェロシェ フスキ著作集第 17 巻 1-2 分冊 1961 年クラクフ刊) 。ポーランドとサハ共和国(ヤクーチヤ)両 国は協力して、シェロシェフスキが残したロシア語草稿(ペテルブルグの東洋学研究所々蔵)を もとに続刊の第2巻を、ポーランド語とロシア語で出版する計画を進めている。 29 吉上前掲論文、p. 82。 30 Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi”[毛深い人々の間で], Wacław Sieroszewski − Dzieła, tom 27 17 その成果を纏められてはどうか。...われわれの所で本をもう1冊出版されるなら、 貴殿がヤクートに関する書物で既に経験されたように、その本のお蔭でもう一度祖国 へ戻る権利を獲得されるでしょう。 」31 つまり、シェロシェフスキは流刑か調査かの二者択一を迫られたわけで、両者が等しく 否定的な案件として対置されていた所に注目しておきたい。彼は「熟慮の末」、サハリンに いるピウスツキが協力者として参加するという付帯条件をつけて、調査の方を選択した。32 かくしてシェロシェフスキは 1902 年、モスクワから鉄路で東へ向けて出発、イルクーツ ク、チチハル、奉天、大連を経て、1903 年4月頃には長崎に上陸したと推定され33、大阪、 東京を経由して函館に着いたのは、以下に記すように6月中旬である。 2 函館にて 「1903 年6月半ば、私は、かつてイェソ[蝦夷]と呼ばれた北海道島の南岸にある 最大の港町、函館にいた。日本の小ホテル・キトに泊ったが、そこでは 1 泊 1 円で清 潔な畳敷きの小部屋が与えられた。部屋の家具調度は僅かに障子、青銅の火鉢、また 鶴の立ち姿を描いた懸け物からなる。値段がはるかに安かったので、食事も日本の料 理屋で済ませた。私は2ヵ月の日本滞在中に日本の料理にも習慣にも慣れ、また言葉 さえも身につけた。」34 まず、シェロシェフスキが函館で当初に止宿した「小ホテル・キト」であるが、私は 1997 年2月9日の夕刻、このホテルの消息を求めて市内を徘徊した。生憎の日曜のため役場を 訪ねるわけにも行かず、行き当たりばったりに訊ねて廻ったが一向に埒があかなかった。 ところが最後に立ち寄った古い蕎麦屋で、難題は一挙に氷解した。驚いたことには、私が 投宿した駅前のハーバービューホテルこそ、尋ねるホテルの後身であると言うのである。 同時にその本名が「キト旅館」であることも知った。なお、『函館毎日』(1912 年 9 月 8 日 付夕刊)所載記事「露国人類学者来る」中に、ワシーリエフ氏35が「来函し停車場前キト星 XVIII, Varia: Szkice podróżnicze i wspomnienia, (Kraków: Wydawnictwo Literackie, 1961), str. 219-220. Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi,” str. 220. 32 Op. cit., str. 220-221. 33 吉上前掲論文、p. 84。 34 Sieroszewski, op. cit, str. 221. 35 ロシアの民族学者В. Н. Васильевのことと思われる。彼は 1912 年にサハリンと北海道を訪ね、 その成果をКраткий отчет о поездке к айнам острова Иезо и Сахалина [蝦夷島とサハリンのアイ 31 18 旅館に宿泊中」とあり、名称にやや齟齬をきたすものの駅前という所在地の一致もあって、 私の確信は愈々深まった。かくて私は翌日の報告36で、シェロシェフスキの止宿した「小ホ テル・キト」が「キト[星]旅館」にほかならず、現在のハーバービューホテル敷地内の一 角に所在したと公言した次第である。 しかしこれはどうやら、私の早とちりだったようである。1902 年の増補再版として刊行 された『函館案内(全) 』には、「キト旅館」が東浜町にあって、「當港棧橋前にして四通八 達、眞に便利の位置に在り。同館は當港旅館中第一位に算へられ、所謂上流貴紳士の定宿 とする所なり。各室清洒器具能く四時の風好に適し、三層樓上眼を放てば、南部津輕の碧 峯翠岳を眺望し、脚下は巴港の湾中帆檣林立するあり。風光絶佳、當港中其比を見ず。旅 客に對し懇切と正實とは、同主人宗澤茂七氏の内規とする處なり。」37 と紹介されていた。 収録された写真を見ると確かに三階建ての和風建築で、「棧橋前キト宗澤旅館」とキャプシ ョンが入っている。したがって、函館駅前に現存するハーバービューホテル(住所は若松町 14 番 10 号)は、シェロシェフスキが止宿した「キト旅館」の後身ではありえないわけである。 ところが『函館商工名録』をいろいろ繰ってみると、「キト旅館」が少なくとも 1918 年まで は東浜町に所在する38も、1935 年以前に若松町 115 番地へ移転39している。したがって未確 認ではあるが、ハーバービューホテルの前身が、若松町へ引っ越したあとの「キト旅館」で ある可能性はまだ残されている。 当時内地からの便船は函館港に入ると水深のある沖に停泊、船客は艀で旧桟橋に上陸し ていた。40 函館港に着いたシェロシェフスキが上陸地近くの東浜町に宿を取るのは、極めて 自然であったと言えよう。しかも「キト旅館」は当時、日本郵船の指定宿だったから、ひょ っとすると彼は船内で紹介された「キト旅館」へ、上陸後直行したという可能性すら考えら れる。 彼は「小ホテル・キト」の料金を「1泊1円」と記しているが、これは頗る安い。1907 年 刊行の『最新函館案内』は、函館の「旅人宿止宿料」が外国人の場合「1 泊無食 2 円以上 3 円 ヌ調査抄報](СПб., 1914)として公刊している。 36 1997 年 2 月 10 日に国際コミュニケーション研究所が主催した函館シンポジウムで、私は「B. ピウスツキと函館」と題する報告を行った。本稿は、この時の報告に基づいて執筆。 37 小野寺一郎『函館案内(全)』p. 29, 函館工業館発行 1902。 38 函館商業会議所編『函館商工名録』(p. 191, 1918)に「キト旅館」が「東濱町 13 番地」に所 在し、所有者は宗澤茂兵衛とある。 39 函館商業会議所編『函館商工名録』(p. 201, 1935)には既に、宗澤治助所有の「キト旅館」の 住所が「若松町 115 番地」と記されていて、少なくとも 1935 年までには駅前に引っ越していた ことが判明する。 40 函館在住の写真史家、桑島洋一氏の御教示による。同様の言及は、函館駅開駅 50 年紀年行事 委員会編『函館駅 50 年の歩み』 (p. 28, 1954)にも見出せる。 19 以下」と定められていたと記している。因みに、「壹等旅人宿」の日本人向け料金は、「下等」 1 泊が 3 食つき 1 円、2 食つき 75 銭、1 食のみは 40 銭であり41、シェロシェフスキに与えら れた部屋がよし「下等」であり、また外食に関する言及があるので「無食」であったと考えら れるにしても、日本人並みの破格な待遇である。もしもこれが彼の巧みな交渉術の成果(そ の可能性は十分にある)でないとしたら、有力筋の紹介を想定する必要もあろう。なお『最 新函館案内』では、「キト宗澤」が「乗降頻繁棧橋の繁華を前にして巍然たる三層樓の一等 旅人宿」の一つに挙げられている。42 ところで、1912 年の新聞記事に見える「停車場前キト星旅館」は、越後屋を屋号とする別 の旅館であったことも判明した。この旅館も 1902 年当時は東浜町にあった43が、新聞記事 にあるように、こちらは少なくとも 1912 年以前に「停車場前」の若松町 117 番地へ移転して いる。旅館の若松町集中は、1904 年の函樽鉄道開通44と関わりがある。これを契機に、人と 物の流れが一変して、桟橋近くの東浜町は寂れ、新設された函館駅前の若松町界隈が賑わ うようになった45のである。 「キト旅館」でピウスツキの到来を待機するシェロシェフスキの一人暮らしは、予想以上に 収穫があり、艶っぽい話題にも事欠かぬ楽しい毎日であったようである。日本語を解さぬ 彼は、携帯する袖珍英和辞典を開いて、相手に伝えたい単語を指差すという方法で対話し、 不足はジェスチャーや擬態語、はたまた簡単な英単語も交えて補った。こうして誰彼構わ ず陽気に話しかける彼の周りには、いつも人の輪が絶えなかった。とりわけ旅館の「ムスメ」 (女中を意味するらしい)らとは特に打ち解けて親しくなり、際どい冗談さえ交わすように もなる。その合間には周辺の神社や芝居小屋、博物館も訪ねて、次第に日本文化にも親し んでいった。46 ある日、ヘデンストレム・ロシア領事が自ら訪れて、日露関係の緊張を理由に領事館へ 移るよう通告した。領事館へ引っ越したシェロシェフスキに対して、人々はよそよそしく 41 『最新函館案内』 (p. 74, 1907)の「旅人宿」の項。そこでは、「東濱町 13 番地」に所在する 宗澤茂七所有の「壹等」旅人宿「キト」或いは「キト旅館」が言及されている(p. 73)。いずれも 桑島洋一氏の御教示による。 42 『最新函館案内』 (p. 73, 1907)の「旅人宿」の項。 43 小野寺一郎『函館案内(全) 』(p. 30-31, 1902)。 44 『函館駅 50 年の歩み』(p. 10-18, 1954) 。函館駅が現在の場所に建設されたのが 1904 年 7 月 1 日、函館と小樽間を結ぶ函樽鉄道が開通するのは同年 10 月 15 日であった。それ以前には、1902 年竣工の現亀田駅が函館駅と呼ばれていた。 45 1935 年刊『函館商工名録』の「旅人宿」の項(p. 21)では、めぼしい旅館が既に駅前の若松 町に集中している。 『函館駅 50 年の歩み』(p. 18-19, 1954)も参照。 46 Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi,” str. 221-22. 20 振る舞うようになった。47 こうした中で、英国長老教会の宣教師ジョン・バチェラーと連絡 がついて、噴火湾岸への伝道の旅に随行できたのは、大きな収穫であった。シェロシェフ スキはまず室蘭まで汽船で渡り、室蘭の「マルイチ」旅館でバチェラーと落ち合った。48 そ の後は二人して小さな帆船で湾岸沿いに西走、上陸後は騎行で伊達門別と宇留を訪ねた。 バチェラーの信者はほとんどがアイヌの人たちだったから、この旅の中でシェロシェフス キは初めて、アイヌとその文化に親しく接する機会に恵まれた。シェロシェフスキによる とバチェラーはロシア語も解し、二人の会話は英露両語を交えて行われたとあるが、不幸 にも両者の見解はことごとく対立して49、お互いに含むところがあったようである。シェロ シェフスキに対するバチェラーの厳しい評価についてはあとで触れるが、その萌芽はこの 折に胚胎したのではなかろうか。 ピウスツキの第2回函館来港の正確な日付は不明であるが、既述の情況から7月初旬で あったと、一定の根拠をもって想定することが出来る。50 シェロシェフスキの旅行記による と、彼は函館入りした直後からピウスツキへ手紙や電報を送り、挙句の果てには送金まで して、じりじりと到着を待っていた。噴火湾への旅の直前には、サハリン島軍務知事が首 都と東シベリア総督の指示を握りつぶして、出国用旅券を発給してくれぬと訴える密書が ピウスツキから届き、シェロシェフスキは急遽、善処を求める電報をペテルブルグとイル クーツクへ送る。51 結局、これらの打電が功を奏して、ピウスツキと太郎治は前触れもなく シェロシェフスキの前に姿を現わす52ことになるが、その情景は以下のように描写されてい る。 「彼は元気溌剌で、出国旅券を交付せよというペテルブルグからの断固たる命令が サハリン島官吏の間にどんなパニックを引き起こしたかを、面白おかしく語った。. .. 《彼等はこう信じて疑わなかったのですよ。つまり、これはポーランドの陰謀だ、あ なたはシェロシェフスキではなくて、偉大な革命家である私の弟ユゼフであり、しか も私を連れ戻すためにやってきたのだ、と。...けれども彼等はもはや抗うことが出 47 Sieroszewski, op. cit., str. 222-23. Sieroszewski, “Volcano Bay” [噴火湾], Wacław Sieroszewski − Dzieła, tom XVIII, Varia: Szkice podróżnicze i wspomnienia (Kraków: Wydawnictwo Literackie, 1961), str. 205-206. 49 Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi,” str. 224-26. 50 大泊出港が 1903 年7月7日とするなら、一両日中には函館に到着したと想定される。 51 Op. cit., str. 223-24. 1903 年6月 16 日付(露暦)のシュテルンベルグ宛ピウスツキ書簡によると、 シェロシェフスキはピウスツキの北海道滞在を4ヶ月と申し入れていたという(Пилсудский, «Дорогой Лев Яковлевич...», стр. 204) 。 52 Sieroszewski, op. cit., str. 226. 48 21 来なくなって、私たちは、この通りここにいます。》」53 こうしてシェロシェフスキ、ピウスツキ、千徳太郎治の3団員からなるロシア地理協会 北海道アイヌ調査団の「結団式」が済むと、早速に調査計画の作成に取りかかった。当初 に立てた案では、和人の影響があまり及んでいない道北と道東へまず赴き、形質・文化面 での伝統的形態を押さえた上で、和人化の激しい地域へ次第に移動する計画54であったが、 ある事件を契機にその順序は逆転されることとなる。 事件の当事者の一人であるピウスツキは、次のように語る。 「全く不思議なめぐり合わせでした。路上に立ち尽くし、途方に暮れてキョロキョロ している人々が目に止まったのです。私は近づいて、《そこで何をしているのか》と アイヌ語で声をかけた。彼等はまるで落雷に遭ったかのように仰天して、呆然と立ち 尽くすばかり。女の子が泣き出す。日本人が集まってくる。そこで、アイヌたちを脇 へ連れて行き、根掘り葉掘り訊ねました。」55 函館の路上でピウスツキが出会ったのは、白老のアイヌ、シパンラム・ノムラの一行で あった。彼等が語るところによると、ある日本人の儲け話に乗せられて、ノムラ氏は妻と 数名の隣人を引き連れて大阪の博覧会56に赴いたという。彼等は約束通り、博覧会場にアイ ヌの村を設営して、3ヵ月間「熊祭」を実演したにも拘わらず、興行主の日本人は破産し てしまい、ビタ一文払わずに逐電してしまった。持ち物をすべて売り払い、辛うじて函館 にたどり着いたものの、もはや無一文。大阪以来一粒の米も口にせず、空き腹を抱えて途 方に暮れていたところに、ピウスツキが通りかかったわけである。57 彼等はアイヌの衣装を 着ていたはずだから、ピウスツキがアイヌ語で話しかけたのは自然の成り行きであったと はいえ、白人の「ニシパ」の口から発せられた流暢なアイヌ語は、彼等の度肝を抜くのに十 分であったろう。金縛りにあったような彼等の反応は、そのことを雄弁に物語る。 ピウスツキは早速、彼等に「弁当」を買い与えるとともに、ノムラ氏をシェロシェフスキ の許へ連れていった。ピウスツキの意図は、調査費から彼等の運賃や煙草銭を捻出するよ うシェロシェフスキを説得して、彼等の白老帰郷を助けることにあったが、無論、そうす れば今後の調査で彼等の協力が得られる、という思惑もあった。ピウスツキはサハリンで 53 Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi,” str. 227. Op. cit., str. 227. 55 Op. cit., str. 229. 56 第 5 回内国勧業博覧会。 54 22 の経験で「寸志を与えるならば、全身全霊をもって返礼される」ことをよく承知していた からである。結局、調査費から4円を支出することになった。ノムラ氏は、 「エイロロロイ、 ヤイライゲレ(素晴しい贈り物、有難う)」と繰り返しつつ退去した。58 調査団はまず白老を訪ねることになった。 3 白老にて ノムラ氏来訪の数日後、ロシア調査団は既に函館を出航して室蘭へ向かう汽船の船客であ った。59 室蘭からは鉄道に乗り換え、幌別、登別と乗り過ごして5駅目の白老で下車した。60 白老駅では、ノムラ氏へ到着を知らせておいたにも拘わらず、出迎えの人影はなかった。 止むをえず、北側の和人街に見つけた旅館に荷物を預けて、駅の南側にあるアイヌ・コタ ンへ宿探しに出かけた。旅館が大都市の一流ホテル並みの法外な宿賃を要求したせいもあ るが、アイヌと寝食・飲酒をともにし、可能ならばアイヌ風に身繕うという「アイヌ化」の 方針(もっとも、太郎治だけはこれに反対であったが)を貫徹させる必要もあったからで ある。61 コタンのたたずまいを観察しつつ徘徊するうちに、ピウスツキは見覚えのある婦人の顔 を認めて近づいていった。すると、向こう側からも一人の髭面の男が断固たる足取りで進 んできて、2 歩手前でしゃがみ込むや、ピウスツキの眼をじっと見すえつつ、両手をすり合 せて顎髭を撫でる「カラクテ」を始めた。ピウスツキも男に「カラクテ」を返した。かく て初対面の挨拶が済むと、両人は歩みよって暫し対話を続けた。この男はノムラ氏の兄で あった。62 そのあとでピウスツキは旧知の婦人(ノムラ氏の妻、ネンタシク)の許に歩み寄って、「カ ラクテ」を交わした。彼女によると、兄と彼女は駅に出迎える予定だったが、駅に着いた時 は列車が既に出発したあとで、お客さんは下車せずに去ったと教える者すらいたという。 57 Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi,” str. 228-29. Op. cit., str. 229. 59 『北海タイムス』所載記事「室蘭船客」(1903 年8月8日付)は、8月5日入港の肥後丸の乗客と して「露国セラセフスキー、ピルフスキー」を記録している。ポーランド姓の片仮名表記としては 頗る正確であり、記者は音声を聞いて綴ったものであろう。但し千徳太郎治への言及はない。これ によって、彼らは8月5日、室蘭に到着した事実が確認される。したがって、以下に展開される 白老到着当日の挿話も、同日の出来事にほかならない。 60 Sieroszewski, op. cit., str. 233. 61 Op. cit., str. 230-31.彼らの函館から白老までの旅と到着直後の白老滞在については、本書所収の マイェヴィチ論文も参照されたい。 62 Op. cit., str. 232-33. 58 23 そしてノムラ氏は、客人に鮮魚を振る舞うため、隣人と漁に出ていて留守であった。63 やがて調査団の一行は、ノムラ宅の大きなチセへ招じ入れられた。64 翌日からは自らの「方 針」通りに、彼等はここでノムラ家と寝食をともにすることになる。 ノムラ氏が漁から戻ったのは、その夜更けのことである。65 シェロシェフスキの旅行記は、白老とその周辺の風物やアイヌの生活をつぶさに記録して いて実に興味深い。66 シェロシェフスキ、ピウスツキの両人は、ノムラ氏という得難い仲介 者を得て順調にアイヌ調査を進めて行く。太郎治も甲斐がいしく自分の仕事をこなした。 しかしピウスツキは自らのアイヌ語能力を駆使して、アイヌの人々とは直接アイヌ語で対 話したようである。彼の話す樺太方言を北海道のアイヌがどの程度理解できたか、また彼 は北海道方言をどこまで解しえたかは定かでない。だが彼には、話し相手の胸襟を容易に 開かせるという特技もあって、程なくアイヌの人々の信頼を一身に集めるようになる。シ ェロシェフスキは、のちに執筆したピウスツキ追悼文の中で、アイヌの人々が彼に対して は「長年住みついたヨーロッパ人が漸く知るような儀礼へ密かに招じ入れ、異国の人には 明かさぬ秘儀を教え、歌を歌い、最大の機微に属する物語を語り、お守りや神像の撮影を 許し、秘蔵品を売ったり贈ったりした。」67 と証言している。 ピウスツキのこの特技はアイヌのみならず、和人に対しても遺憾なく発揮された事実を 伝える記録がある。 1903 年 8 月 11 日、「青森の人」飯島桂は友人の生田とともに便船にて函館を発ち、翌 12 日午前4時、室蘭に着く。二人はそこで汽車に乗り換え、アイヌを「見る」ためとて、ま ず登別に到り、ついで列車を乗り継いで「十一時十分白老停車場に下車し、直に白老アイ ヌ古譚野村芝蘭(シマンラン)を訪問す。」68 「余等或るアイヌの家に到るや、外国人屋外に散歩せしものの如し。余等を見るや、 グウドマウニング、と共に屋内に案内す。余等又辞ぜずして共々入る。此人はポウラ 63 Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi,” str. 229-30. Op. cit., str. 234. 65 Op. cit., str. 235. 66 Op. cit., str. 236-64. 私は、アイヌ研究に従事するポーランドの留学生、マジェナ・ティムチョ さん、マウゴジャタ・ザヨンツさんと一緒に、シェロシェフスキ作品「毛深い人々の間で」の日 本語訳を試みた。いずれ邦訳を刊行する計画である。なお、英語版 (マイェヴィチ訳) は『ピウ スツキ著作集(CWBP)』第3巻、そしてロシア語訳は『ピウスツキ遺産研究所通報 (Известия Института наследия Бронислава Пилсудского)』の近刊号に、それぞれ収録される予定である。 67 Sieroszewski, “Bronisław Piłsudski” [ブロニスワフ・ピウスツキ(追悼文)], Rocznik Podhalański, str. xvi, Zakopane-Kraków, 1921. 68 飯島桂「北海道紀行」『博物学雑誌』40 号(明治 36 年9月号) p. 17, 1903。 64 24 ンド、の人類学者にして、ブロニシローブ、ピルスツーシキイと云ふ。多年樺太のア イヌに就き研究したる人にて、能くアイヌ語に通ぜりと。其他仏、独、伊ポウランド 語に通ぜりと。屋内には同国人にして同国地学会及人類学会の助手ウエ[・]エリ、セ ロシユフスキイ、と云ふ人居たり。此人は未だ克くアイヌ語には通ぜざる様子なり。 然れども独、仏、英に通ぜり。何れも上衣をぬぎ、日本の単衣を纒ひ、ポンチ絵の如 き姿にて研究し居たり。余等を遇するや最も丁寧に、又余等の旅行は如何なることを 研究せしやを問はれたり。閑あらば宜敷アイヌ宅に同宿して交話なさんと。余等は同 宿することとなせり。」69 飯島と生田は野村芝蘭を訪ねてきたわけだが、それとは露知らぬピウスツキが両名を直 ちにチセ内へ招き入れて、自分同様の居候にしてしまうあたりは、その面目躍如である。 ピウスツキが弁える言語に英語は含まれぬから、最初に一人で応対した折は、飯島らとは 仏独語のいずれかで対話したのであろう。これまでの話からも予感されるとおり、野村芝 蘭(シマンラン)とシパンラム・ノムラは同一人物である。その事実は以下の記載からさ らに明白となる。 「午后より一里余のシヤツタイ[社台]と云ふ所のアイヌの事跡を研究に行かんと。 同アイヌ宅には外人二人の外に樺太アイヌ一人居たり(通弁なり)。同宅は白老アイ ヌ古譚の頭ならん野村シバラン、と云ふ、本春東京横浜及名古屋まで見物したりと云 へり。午后一時の時音と共に外人二人、樺太アイヌ及生田生、余と都合五名にて出発 し、途中植物甲虫などを採集しつつ社台に到る。ウエ[・]エリ、セロシユフスキイ氏 は甲虫にも熱心なる人なり。同氏は又写真も巧みなり。」70 正午近くに初対面を果たしたばかりの5人が、1時間後には連れ立って社台へ向かう。 これはピウスツキたちが予め立てていた計画に、飯島らが相乗りしたものであろう。飯島 はシェロシェフスキの行動に興味を抱き、それを的確に書き留めているが、彼が植物や昆 虫の標本採集に熱中して、時には子供たちに小銭を与えて収集してもいたこと、またカメ ラと映画撮影機が彼の担当である事実は、旅行記中にも散見される。71 69 飯島桂「北海道紀行其二」『博物学雑誌』42 号(明治 37 年 1 月号) p. 36, 1904。句読点は一 部、引用者が追加した。以下同様。 70 飯島桂「北海道紀行其二」 p. 36-37。 71 例えば、植物・昆虫採集についてはSieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi,” str. 223、またカメラ や映画撮影機に関しては、同じくstr. 253 を参照。 25 「胆振のアイヌ古譚にては、社台は最も古き所にして、アイヌ研究に適せせりと。 三時頃同地に着し、田村弥吉と申すアイヌの宅に休む。同宅は余程開化したるアイヌ にして、名及家の構造も日本流なり。掛時計あり。娘は入墨をせず。ブロニシローブ、 ピルスツーシキイ氏は克く、アイヌ語に通ぜるを以つて先づ入り昇席し、自ら納めあ る所のマコモのむしろを取り出し、板の間に延べ、余等の昇席せざるを促せり。同家 には娘一人にて、其他の老人等は皆かくれたる模様なりき。然るに其の娘は非常に活 発にして、能く外人と談話をなせり。名を、ヤナと云ふ。ヤナとはアイヌ語にて魚を 取る道具なりと。ブロニシローブ、ピルスツーシキイ氏先づヤナ嬢に命じて湯を沸か さしめ、持参したる、ミルク、香茶、パン等を出して、飲食す。」72 社台の田村弥吉は、シェロシェフスキの旅行記に登場するサレッテではないだろうか。 彼はそこで「学識豊かな」「知ったかぶり」と評されていて、和人文化にかぶれ、和風の家 屋に住み、和人女性を娶って子供たちとも日本語で会話し、「学識」の象徴として、抜群の 視力にも拘わらず素通しレンズの眼鏡をかけた人物73として、やや揶揄気味に描かれている。 飯島の記述は、ピウスツキの立ち居振る舞いを詳細に活写しているところが貴重である。 「午後六時半、白老アイヌ野村シバラン方に帰る。アイヌ庭隅に浴湯場を作り、余等 を優待す。夜食はアイヌの手になりたる料理を食したり。味噌汁、及鯛の甘煮と、漬 物の代りに梅干を着けたり。鯛の甘煮の如きは、アイヌは一種の油を入るる故に悪し き臭あり。此のみは余等の能く口にせざる所なり。夜食了つて、ブロニシローブ、ピ ルスツーシキイ氏、大なる貯音機を取り出し、樺太アイヌの諺歌を聴歌せしめられた り。最と面白く異様の感ありたり。...夜十時頃、寝に就く。寝具などは立派なる夜 具なりき。余等外人及樺太アイヌの五名、炉の周囲に伏したり。アイヌ夫妻は室隅の むしろにて取り囲みたる中に入りて伏したり。 」74 1903 年8月 12 日は実に長い一日であった。夕刻に彼等は野村宅に戻り、風呂をつかい、 アイヌ料理に舌鼓を打って、とどのつまりがピウスツキによる蝋管蓄音器の試聴会であっ た。やがて、民族を異にする7人、すなわち北海道アイヌ二人、樺太アイヌ一人、和人お よびロシア国籍のポーランド人各二人ずつは、大きなアイヌ・チセの中にそれぞれの場所 72 飯島桂「北海道紀行其二」 p. 37。 Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi,” str. 253-54. 74 飯島桂「北海道紀行其二」 p. 38。 73 26 を得て安らかに就寝した。それは、この日に実現された理想的な「諸民族の共存」を締め くくるにふさわしい、象徴的な情景であった。 そして飯島桂の記録もまた、前記の『北海タイムス』の記事と同様に、日付を欠くシェ ロシェフスキ旅行記の叙述に時間の刻印を押すものであった。別言すると、同記録はシェ ロシェフスキ、ピウスツキ、千徳太郎治の3名が、1903 年8月 12 日には間違いなく白老に いたという事実を裏書きする、極めて得難い「歴史記録」なのである。 4 平取へ シェロシェフスキの旅行記に話を戻そう。 白老での調査を一段落させた「ロシア」調査団の一行は平取へ向かった。白老から「ハヤ キ」(早来であろう)までは列車で行き、そこで1泊。その日のうちに鞍付の乗馬と案内人 を雇い入れて、翌早朝、山間の道を騎馬で出発した。途中、鵡川河畔にて1泊。こうして、 白老を出て三日目に平取に到着した。75 平取では長老のペンリと知り合った。シェロシェフスキは彼を、これまで自分が出会っ た中では最も毛深い人物と評して、その容貌を仔細に描写している。76 だが平取滞在は決し て平穏ではなかった。彼等「ロシア人」に対する官憲の監視は既に白老から始まっていた77が、 日露関係の険悪化に伴って一層強まり、平取では遂にその頂点に達した。ある日、60 キロ 先の白老から駆けつけた野村氏は、彼等をロシアの密偵として殺害する計画ありという恐 るべき噂について注進した。彼等もこの知らせには動揺するも、調査を中止する気はさら になく、釧路か根室方面へ調査地を移すことを考えていた矢先、函館のロシア領事からの 至急便が届けられた。そこには、大使館の訓令により、直ちに調査を中止して東京へ戻る べきことをお伝えする、とあった。78 旅行記の末尾は次のように結ばれている。 「そこで、落胆するブロニスワフに対して、私は次のように語りかけた。 《やはり...ロシアと日本の戦争だ。戦争はポーランドに何をもたらすのだろう か。》」79 75 Sieroszewski, “Wśród kosmatych ludzi,” str. 264-65. Op. cit., str. 266. 77 Op. cit., str. 247-50; 252. 78 Op. cit., str. 273-74. 79 Op. cit., str. 274. 76 27 平取を後にしたロシア調査団は、次節に見る如く札幌へ赴いてバチェラーと会ったのち、 函館に向かったようである。 5 ジョン・バチェラーの証言 「アイヌの父」とも称されたジョン・バチェラーの仕事をめぐっては、功罪相半ばするさま ざまな論評が公刊されており、また近年には、欧米人によるアイヌ物質文化の収集活動に おいて彼の果たした重要な役割が注目されるようにもなったが、本稿では、バチェラーが シェロシェフスキとピウスツキをどのように見ていたか、というテーマに限定して考察を 試みる。 バチェラーは 1927 年、東京の文録社から『ジョン・バチラー自叙傅:我が記憶をたどり て』と題する自伝を刊行するが、その第十八章三節「珍客来る」は彼等二人の話に終始し ており、「珍客」とはすなわち、シェロシェフスキとピウスツキにほかならない。以下は三 節の全文である。 「明治三十六年(一九〇三)の秋、Sieroshevski(セリオセフスキ)と云ふお方が突 然私を訪ねて来ました。此のお方はポーランドの人ですが、露西亜の政治に就いて或 る思想の為、国事犯罪者となつてシベリヤのヤクツ人の中に送られて、九ヶ年間其処 に住つた人でした。然しもう許されたと云つて私の家へ来たのです。共にアイヌ部落 を巡回したいと云ふ事で旅行免状も持つてゐましたので、早速承知致しまして直ぐ巡 回を始めました。 仲々の学者で面白い人でして、共に歩く間、ヤクツ人種とアイヌ人種とを比較的に 語つて私に話しますので実に面白く、一日も一時間の如く早く過ぎ去る思ひが致しま した。此の Sieroshevski(セリヲセフスキ)さんは実に立派な双眼鏡を持つて方々の 景色を見ていましたが、後で聞くとそれは遠眼鏡でなく、双眼鏡の形に造られた写真 機械だと解りまして、私は実に驚きました。 丁度其の時、いよいよ露西亜と日本の問題が難かしくなつて来たので直ぐ札幌に帰 りました。其の後、間も無くもう一人の Pilsvdski(ピルズツキ)と云ふポーランド 人が来て、少時く泊まりました。このお方も永い間、露西亜の国事犯罪者でもう許さ れたと云つて Sieroshevski(セリオセスキ)を訪ねて来たのです。此の方は樺太のア イヌの子供の為に学校を持つていると云ひました。二三日此処に居て函館へ参りまし たが、其後二人共見えませんでした。ずつと後の昨年(一九二六)の春、一人の露西 亜の人に会つて聞きますと、其の二人のお方は St. Petersburgh より命を受けて北海 28 道に来たのだと申しました。多分露西亜の間者ではなかつたかと思いますが、今は二 人とも最早死んで居ないので聞く事が出来ません。 此の二人がもう汽車で札幌を発つといふ時、Sieroshevskiは窓から頭を出して私を 呼んで斯う申しました。『バチラー様、貴方、もういいかげんに早く此の北海道をよ して他へいらっしゃいませ』と申しましたから、『それは何故ですか』と聞きますと 唯『危いから』とだけ申して、其の訳を一寸も云ひませんでした。今思えば、日露戦 争が近いと分かつていたから、そういつたのだと思われます。然し私が札幌に居ると 何の為危ないか考へると、どうも少しも分かりません。可笑しな事です。」80 以上のバチェラー証言が、本稿の記述とは齟齬を来している点について触れておきたい。 まず冒頭の、シェロシェフスキとの出会いは「秋」でなくて「初夏」、シベリア流刑の期間 も「九ヶ年」ではなくて「12 年」である。もっとも老年期の著者が「記憶をたどりて」執筆し ているのだから、この程度の事実誤認は止むを得ぬかもしれない。しかもバチェラーは、 シェロシェフスキが(札幌の?)バチェラー宅を訪ねたと記すが、室蘭の旅館で落ち合ったと いうシェロシェフスキの方が、情況からしてより説得力がある。 第3段落のピウスツキとのかかわりでは、札幌のバチェラーの許へピウスツキが一人で 来て数日泊まった、とあるところが問題含みである。シェロシェフスキの旅行記による限 り、彼等はいつも団体行動を取っており、しかも札幌を訪ねたという記載は見当たらない。 したがって、唯一考えられるのは、旅行記に記載された出来事のあとで、平取からの帰路 に、彼等は三人そろって札幌に立ち寄ったという可能性である。もしバチェラーの記述が 正しいとすれば、その際にはピウスツキのみがバチェラー宅に泊めてもらったということ になろうか。事実、最後の段落では、札幌を去る二人をバチェラーは駅頭に見送っている から、この可能性は大いにありうる。ところでバチェラーは、千徳太郎治の存在について 全く言及していないが、特記には値せずとして看過されたのであろうか。それとも、実際 に会う機会がなかったのだろうか。 因みに、1903 年 9 月 17 日付の『小樽新聞』は「波蘭人の土人研究」と題して、以下のよう な記事を掲載している。 「波蘭クワフー街に住むウヰスキー氏は本道に於ける土人の状態研究として来道 80 一昨日札幌豊平館に投宿し 道廳に出頭して農園、博物館一覧の儀を願い出てしが 氏は日高國沙流地方に於て 土人の熊送り舞踊りの類を活動写真に撮影し 『ジョン・バチラー自叙傅:我が記憶をたどりて』pp. 288-290, 文録社 1927。 29 携帯し 来たりたる由」 1903 年9月 15 日に沙流地方から来札したポーランド人で、映画撮影機でアイヌの熊送り や舞踊を記録したとあれば、「ロシア」調査団の一行を措いてほかにはありえぬであろう。 したがって、彼らは9月 15 日、先に推測したとおり平取から札幌に直行したことが窺える。 しかも、この際に取材を受けたのが、サハリンから来たピウスツキではなくて、「クラクフ」 という町に住む「シェロシェフスキ」(「ウヰスキー氏」という聞き取りは秀逸である)だった ことも、また自ずと明らかである。シェロシェフスキは(太郎治とともに?)「豊平館に投宿 し」、ピウスツキの方は、その理由は定かでないが、バチェラーの記すようにバチェラー宅 に、「少時(しばら)く」(「二三日」)「泊」めてもらうことになったものと推察される。してみ ると彼らの札幌滞在も、高々2−3 日という短期間だったのではなかろうか。 また誠に些末な事柄ながら、バチェラーは 1927 年の時点で「今は二人とも最早死んで居 ない」と記しているが、その半可通ぶりは糾弾に値する。確かに、ピウスツキは 1918 年に 亡くなっているものの、シェロシェフスキの方は脂の乗った作家として、また既述の通り 大臣などの要職も歴任して健在であった。奇しくも同じ 1927 年には、その旅行記『毛深い 人々の間で』の刊本初版81が発表されてもいる。そもそもバチェラーに第三節を執筆させた 動機とは、一体、何だったのだろうか。 バチェラーの言説を通して感ぜられるのは、彼等二人に対する全般的なシニシズムであ る。その源泉がもし民族的ないしは宗教的な偏見や職業的なライバル意識でないとしたら、 彼がさり気なく差し挟んだ「多分露西亜の間者ではなかつたか」という認識に逢着するよ うに思われる。バチェラーと彼等の間には言語上の障壁がほとんどなかった(ピウスツキ とはアイヌ語で対話した82)から、バチェラーは彼等の北海道アイヌ調査の成果も十分に承 知していたはずである。しかも自叙伝執筆の時点で、彼がピウスツキのアイヌ研究業績に 通じていたことも疑いの余地がない。83 これらに対するバチェラーの完全な沈黙は、その軽 81 脚注 15 を参照。 バチェラーは自著の『アイヌ英和辞典』第2版(John Batchelor, An Ainu-English-Japanese Dictionary, Tokyo: Iwanami-Syoten, 1926)第 I部「文法」第 1 章「序文」p. 3 に次のような証言を 残している。”In 1912 there appeared Mr. Bronislaw Pilsudski’s little brochure “Materials for the study of the Ainu language and folklore,” to which I have already referred. I met this gentleman in Sapporo several years ago and the only language we could properly converse in was Ainu! He in Saghalien and I in Yezo.” (下線は引用者) 83 前掲書同頁の脚注 1 はピウスツキの主著『アイヌの言語・フォークロア研究資料』(1912)に言 及して、”It is a very interesting brochure of 242 pages. I have embodied some of his traditions in this Grammar for purpose of comparison.”と記すばかりか、第 2 章「文献」(pp. 3-7)でも、バチェラー の所謂「小さな仮綴本」所載の「アイヌ研究書目」(B. Piłsudski, Materials for the Study of the Ainu Language and Folklore, pp. xxiii-xxv, Cracow, 1912)をそのまま転載していて、その末尾にはピウ 82 30 視、無視、黙殺を意味する84のであろう。 翻って、この「二人のロシア人」は、バチェラーの「直感」したとおり、ロシアのスパイ だったのであろうか。開戦の前年に相手国へ送り込まれた調査団は、諜報活動を目的とす ると疑われても致し方あるまい。またロシアの地理協会と科学アカデミーに、その意図が 皆無だったとも考えにくい。しかもシェロシェフスキは、既述のように「流刑」か「調査」 かの二者択一を迫られて、前者を避けるため後者を選んだという経緯もあった。「調査」は、 刑罰の一種と見做されたわけである。したがって、シェロシェフスキがアイヌ調査に加え て、情報収集の密命も負わされることは、大いにありえたであろう。 しかしながら、ロシア当局者が元流刑囚の、しかもロシア帝国に対する忠誠心の乏しい ポーランド人に、本気で諜報活動の使命を託すこともまた考えにくい。シェロシェフスキ はこの辺の微妙なバランスを慎重に読み、「熟慮の末」この仕事を引き受けたものと思われ る。一方、ピウスツキには権力に対する負い目は一切なく、いつものように「善意の同伴 者」85 として、純粋に自らの興味から来道したはずである。 スツキの労作 11 篇も収録されている 84 バチェラーが 1927 年に公刊した自伝中で、ピウスツキの業績について一切口を閉ざしている 事実は、脚注 82-83 にみえるように、その前年の時点でそれに精通していることが明らかだけに、 彼のピウスツキに対するスタンスをさらに不可解なものとする。 85 1887 年3月の「皇帝暗殺未遂事件」におけるピウスツキの「善意の同伴者」ぶりについては、 拙稿「ブロニスワフ・ピウスツキの不本意な旅路」(加藤九祚・小谷凱宣編『ピウスツキ資料と 北方諸民族文化の研究』1987)p. 57-63 を参照。 31
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