社会学Ⅱ期末小論文 近代のコーヒーハウスと現代のインターネット空間 1、 序論 この論文では、教科書第 7 章「コミュニケーション」を取り上げ、近代にはいり普及したイ ンターネットとそのコミュニケーションに果たす役割につて考察していきたいと思う。古 来コーヒーハウスが、非日常的な空間であり自由なコミュニケーションの場として機能し た、というのは教科書(p158,159)にも書かれているが、コーヒーハウスの果たした役割と、 インターネットの現代における役割には類似点が多いのではないかと感じ、このテーマを 設定した。 果たして現代におけるインターネットは、近代のコーヒーハウスと同様の空間として機能 するのだろうか。双方の類似点、相違点を中心に考えていきたい。 2、 メディアとしてのコーヒーハウス コーヒーハウスが成立したのは 17、18 世紀のことであり、コーヒーがヨーロッパで流行 したころである。コーヒーハウスはコーヒーを介した社交の場として繁栄した。ここでは 様々なパンフレットや新聞を自由に読むことができ、市民は夜遅くまで政治的な討論を戦 わせた。コーヒーハウスという物理的空間と、そこに設置された活字メディアは、その後の 市民社会の設立に際して重要な役割を担ったともいわれている。ここでメディアの定義を 「人と人とを結びつける『場』であると同時に、そのような関係性の中で意味が構築される 『場』である」(※1)とすると、すなわちコーヒーハウスは、他者が生み出した情報世界に人 を結びつけ、新しい共同体意識を育むメディアであった。 哲学者ハーバーマスは、近代の市民や貴族がコーヒーハウスまたはサロンなどで対等に 議論し合ったことを「公共圏」と呼び、その社会的な役割について言及している(『公共圏 の構造転換』) 。L.コーザーは、ハーバーマスのいう「公共圏」を「公けの世界」と表現し つつ、次のように述べる。 「コーヒーハウスは身分差を解消した。しかもそれと同時に、新 たな統合形態をつくり出した。すなわちコーヒーハウスは、共通の生活様式や共通の家系に 基づく連帯を、共通の意見に基づく連帯におきかえる役割を果たしたのである。ところで、 共通の意見が発達しうるためには、前もってつぎのような条件がなければならない。すなわ ち、第一には、人びとが相互に討論しあう機会をもつことである。つぎには、彼らが自分だ けの思想という孤立状態から引きづり出されて、公けの世界に入りこむ必要がある。それと いうのも、公けの世界においてはじめて個々の意見は他者との討論によって磨かれ、吟味さ れるからである。コーヒーハウスは、無数の個々の意見からひとつの共通の意見を引き出し て結晶化し、それにはっきりとした形を与え、安定したものとするのにあずかって力があっ た。つまり、新聞がまだ成し遂げていなかったことが、コーヒーハウスによって大規模に行 なわれたのである。 」(※2) 3、 メディアとしてのインターネット インターネットは、ネットワークのネットワークと言われている。インターネットはテレ ビ、ラジオ、新聞、雑誌、映画、広報などの既存メディアを内包し、情報や娯楽を提供する という機能と、コミュニケーションの手段を与えるという 2 つの機能がある。 インターネットの登場は、誰しもが情報を発信し受け取ることを可能とした。それまで限 られていた情報の発信者は無制限に増え、それに伴って情報量も無限に増えた。コミュニケ ーションツールとしてのインターネットに目を向けると、インターネットを介すと、人は世 界のどの場所の人とも文字や音声を通じて会話をすることができる。これはまさに、マクル ーハンのテクノロジーやメディアが「人間の身体の拡張」であるという表現に合致する(『メ ディア論』)。インターネットを介すと、同じ興味を持つ人々の集合を容易にするため、人々 はある種の共同体を形成しやすい。それはインターネット上で完結することもあるが、現実 社会に影響を及ぼす運動を生むことがある。例えば 2011 年のエジプト革命は、SNS 上のコ ミュニケーションが現実にフィードバックされることで運動の拡大や展開に大きく貢献し た。 野村一夫氏は、インターネットのこのような性質について、コミュニティ志向に支えられ たシティズンシップの存在を提示する。 「ネットワーク上に事実上のコミュニティが形成さ れて、しばしば「弱い紐帯の力」が作動する事実に着目するとき、そこに古典的なシティズ ンシップの発動を見ることができる」さらに、そこには市民運動志向があるとする。 「イン ターネットはこれまで限定されたコミュニケーション能力しかもたなかった運動主体に格 段に低コストなビッグ・メディアを提供することになった。直接的な対人関係に限定されて いた従来のネットワーキングが、社会圏や生活圏を異にする人びとにまで届く可能性がで てきた」(※3) 4、 カフェとインターネットを比較して 2、3 から、近代のコーヒーハウスと現代のインターネットには、類似点をいくつか見出す ことができる。それらはすなわち以下の点である ・同じ興味をもつ者同士が、対等な立場で集まることができる ・コミュニケーションの結果コミュニティを成立させる ・現実世界に影響を及ぼす運動、または世論を生じさせることができる しかし、ここで問題となるのは、コーヒーハウスでの繋がりが実際に対面し、手の届くよ うな範囲内に制限されることに対し、インターネットが不特定多数、より広範囲での繋が りを基盤とすることである。コーヒーハウスでは、新たな考えがうまれるとき、それは市 民たちに世界の広がりをつきつけることになる。これが国民意識を形成し、国民が生まれ たといえる。一方インターネットの場合、マクルーハンは、電子技術の発展が「国民」の 概念の存続を難しくしているという。「電信やラジオが発見されて以来というもの、また また地球は空間的に大きな部落程度に収まってしまった」と。(※4) つまりインターネットに依拠する共同体は、より大きな、すなわち現実世界での共同体 の解体という事態を生む。そのあまりの情報量の多さ、アクセスの容易さに、人々は世界 を上から見たような気分に浸ることができ、それは、自分の所属している共同体への帰属 意識を失わせうるものでもあると考えられる。 「インターネット・パラドックス」という 言葉があるが、これは、インターネットを多く利用し、ネットワーク上で新たな人間関係 を構築すればするほど、家族とのコミュニケーションや現実世界での社会関係が減少、社 会性がそがれていくという見解である。 5、 結論 コーヒーハウスとインターネットは、ともに対等な立場で人々が集い、議論することがで る。それによって成立した共同体が、社会に影響を及ぼすこともある。しかし、コーヒー ハウスが市民たちの視野を広げて啓蒙し、共同体意識が国民を形成した一方で、インター ネットは世界を小さく、身近なものにし、新たな共同体を形成するもののネットワークを 外れた世界では身近な共同体への帰属意識を失う可能性を秘めている。インターネットに よって解体される具体的な共同体例については、まだ議論の余地が残り、さらなる考察を 必要とするが、現代のインターネットは近代のコーヒーハウスの役割を引き継いでいる点 が非常に多い。他の電子機器やテクノロジーでは適うことのなかった、対等な立場で多く の人が集まり議論することができる、という点で、インターネットは現代版コーヒーハウ スとなりえるのではないかと考える。 (3014 字) ※1 池田理知子・松本健太郎『メディア・コミュニケーション論』ナカニシヤ出版 2010 p30 ※2L・コーザー『知識人と社会』高橋徹監訳 ※3 野村一夫『社会学感覚』11 培風館 1970 p22 マス・コミュニケーション論 http://socius.jp/lec/11.html 2014.7.30 最終閲覧 ※4 奥井智之「社会学」東京大学出版会 2014 p148
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