日本人が大好きな「ローマの休日」(53年)や「大いなる西部」(58年)、「ベンハー」(59)で知られるウィリア ム・ワイラー監督は少なくとも70年代の初めぐらいまで欧米の巨匠の中でも「巨匠の中の巨匠」と称された。当 時の映画事典の類では、ひときわ大きく取り上げられていた。欧州の場合はもちろん、ハリウッドにあっても巨 匠監督というのは、一般的に1本の映画に集中して企画を練り時間をかけるものだから寡作の人が多い。とこ ろが、ワイラーは多作である。おまけにジャンルにこだわらない。ジャンルにこだわらない監督はほかにもいる が、どのジャンルをも巧みにこなし、水準以上の作品に仕上げてしまう腕をもつ監督はワイラーを置いてほかに いないだろう。巨匠の中の巨匠といわれる所以である。 ところで、フランスの高名な映画評論家アンドレ・バザンがまだ20代だったころ、オーソン・ウェルズの「市民ケー ン」(41年)が第二次世界大戦後にフランスで公開され、映画好きの哲学者サルトルをはじめベテランの映画 W・ワイラー 評論家ジョルジュ・サドールなどがこぞって「稚拙な映画だ」と批判したとき、バザンはひとりこれに反論し、傑作 だと賞賛したのである。理由はグレッグ・トーランドのパン・フォーカス撮影(広角レンズを使用することによって 手前と奥の被写体を同一画面に収め、立体的な構図を生み出す撮影手法)にあった。これまでの一般的な映画表現では、手前の人物 と奥の人物が会話するとき、それぞれの人物に焦点を合わせて撮ったカットを編集でつなぐしかなかった。ところが、ウェルズとトーランド のコンビはカット割りという手法を用いず、手前と奥の人物を縦の構図でひとつのフレーム内に収めるという斬新な表現手法を編み出し たのである。バザンは映画とは現実の限りない再現だと喝破したが、パン・フォーカスによって映画は現実の再現にこれまで以上に近づ くことが可能になったというのだ。 のちに、バザンはジャン・ルノワールやワイラーが戦前から同じ手法を好んで使っていたことを知る。かくして、このふたりを至上の巨匠 として高く持ち上げたのだ。ベティ・デイヴィスとハーバート・マーシャルが共演した舞台劇の映画化「偽りの花園」(41年)は、そのトーラン ドが撮影を担当しており、舞台劇はどちらかというと平面的な構図になりがちだが、ワイラーは映画化するにあたって逆に立体的な構図 を用意したのである。そこがワイラーの才覚といえばよいか。 しかし、バザンに続くヌーヴェルヴァーグの批評家や監督たちはどうもワイラーに冷淡だった。バザンは「カイエ・デュ・シネマ」という高 級映画批評誌(実物を見たい人は滋賀県立図書館が定期購入している)を創刊したあと、J・L・ゴダールやF・トリュフォー、ジャック・リ ヴェットといった門下生を残して1958年にわずか40歳という若さで亡くなってしまう。門下生たちは、それまでただの職人監督と見下さ れていたA・ヒッチコックやハワード・ホークスといった個性的な監督を巨匠として高く評価したのに対して、ワイラーは少し割りを食った感 じがしないでもない。というのも、ワイラーは何でも器用にこなすタイプの職人肌だから一見無節操に見える。文芸もの(「黒蘭の女」38 年、「嵐ケ丘」39年、「月光の女」40年、「ミニヴァー夫人」42年)から史劇(「ベンハー」)、社会派ドラマ(「我等の生涯の最良の年」46 年、「L・B・ジョーンズの解放」70年)、スリラー(「必死の逃亡者」55年、「コレクター」65年)、西部劇(「西部の男」40年、「大いなる西 部」)、ロマンチック・コメディ(「ローマの休日」)、ミュージカル(「ファニー・ガール」68年)とあらゆるジャンルを撮っていて、しかもすべてが 水準以上の出来で、むしろ佳作、秀作だというところが追随を許さなかった。 ヌーヴェルヴァーグの連中に受けがよくないジュリアン・デュヴィヴィエについては近年かなり分 厚い研究書がわが国で出版され、日本でことのほか愛された巨匠だけに再評価の動きがある。 ワイラーに関しても、まとまった研究書を誰か書かないものか。ジョン・フォードやヒッチコック、ルノ ワールに関する研究書は数多く存在するけれど、ワイラー論はアンドレ・バザンが書いたもの以 外、あまり見かけない。おそらく論じにくいのだろう。何でも屋のワイラーを論じるにあたって、その 作品群を貫く際立った個性が見あたらないのである。 たしかに、ワイラーは興行主に多大の信頼を勝ち得た巨匠で、ヒットメーカーという強みを持っ ていたが、一方で反骨の人でもあり、また新しいことにも積極的だった。「ローマの休日」は甘い 恋愛コメディの佳作だが、その裏にはワイラーの反骨ぶりがうかがえる。先ごろ封切られた「トラン ボ ハリウッドに最も嫌われた男」(16年)にも描かれているとおり、40年代終わりから50年代半 「コレクター」 ばまで吹き荒れた赤狩り(マッカーシー旋風)で映画界を追われた脚本家ダルトン・トランボに 「ローマの休日」の脚本を書かせているのだ。クレジットではトランボの名が伏せられ、トランボの親友が名を貸した。アカデミー賞の最優 秀脚本賞を獲得し、ずっと後年トランボの手にオスカーが届けられた。ワイラーは良心的映画人の代表として赤狩り反対のデモに参加す るなど、言論や表現の自由に対する関心は人一倍強かった人だ。 また、「コレクター」というスリラーは蝶のコレクションを趣味とする青年が若い女性を拉致して監禁し、飼育するという異常心理もの だ。ヒッチコックの「サイコ」同様、風格ある巨匠が晩年に取り組むべきテーマではあるまい。おそらく周囲は眉をひそめたに違いない。英 国でもバレー映画の逸品「赤い靴」(48年)で知られるマイケル・パウェルが「血を吸うカメラ」(60年)という猟奇的なスリラーを手がけた のも同時代だ。こういうところが、ワイラーやパウェルの進取性であり、権威にとらわれない奔放さである。そういえば、舞台劇の映画化 「噂の二人」(61年)は、「ローマの休日」で世界の恋人となったオードリー・ヘップバーンと「アパートの鍵貸します」(60年)で第一線スター に躍り出たシャーリー・マクレーンを起用した問題作だった。ふたりの若い女性教員があまりに仲がよいので、それに嫉妬した女子生徒が あらぬ噂を吹聴したことから、ふたりの教員は周囲の非難の的となり、取り返しのつかない悲劇へと突き進んでいく。 ワイラーの遺作は73年度キネマ旬報ベストテン第9位に選出された「L・B・ジョーンズの解放」であった。この映画は、きわめて地味な キャストと人種差別問題を扱う内容から製作後3年を経てようやく本邦で公開された。しかし、いかにも反骨の人らしい遺作だったとい わねばならない。 (2016年8月1日)
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