見知らぬ観客34

小品ながら忘れられない作品というものがある。オットー・プレミンジャー監督の「バニー・レー
クは行方不明」(65年)はそんな映画だ。
題名が簡潔に内容を表し、語呂もよくてしゃれている。原題もそのままで、「バニー・レーク・イ
ズ・ミッシング」だ。映画のタイトルはヒッチコックが好んで使った名デザイナーのソール・バスが
担当し、直線と幾何学模様の織りなすモダンで粋なセンスが充満していた。舞台は霧深きロンド
ンということになっているが、イヴリン・パイパーの原作(ハヤカワのポケット・ミステリから刊行)
はニューヨークが舞台のアメリカ・ミステリだ。プレミンジャーがおどろおどろしいゴシックロマン的
なイメージを求め、ニューヨークからロンドンに変更したらしい。
オリヴィエ(左)とリンレー
アン(キャロル・リンレー)はシングルマザーという設定で、ひとり娘の幼いバニーと兄のスチー
ブン(ケア・デュリア)の3人でニューヨークからロンドンへ転居してきたことになっている。勘のよい観客なら「なぜ兄が」というところ
でまずひっかかるものがあるはずだ。異国へ着いての初日、保育園に預けたはずの娘が迎えに行ってみると姿がない。アンは保
育園とその周辺を探し回る。しかも、アンがバニーを預けたという保育園の職員(料理人)はその日のうちに辞めていて、保育士も
誰もそんな女の子は見たことがないと取りつく島もない。アンはバニーが失踪したと警察に届ける。そこで登場するロンドン警視庁
の警部(ローレンス・オリヴィエ)がアンに事情を聞くうちに、どうも精神的に不安定というか、バニーがいなくなったことでパニックに
陥っているのはわかるのだが、様子が尋常ではないので腑に落ちないことが多いと感じる。実をいうと、これまでバニーは一瞬たり
とも画面に映らない。これがプレミンジャーの仕掛けた罠で、すべてアンの説明や証言にしかバニーは登場しないのである。徐々
に、警部の頭の中に疑惑が形成される。果たして、バニーという女の子はそもそも存在するのかという疑問。兄のスチーブンもバ
ニーを探すふりをしているようで、何だかぎごちない。兄は何かを隠していて妹をかばっているように見える。しかも、アンが未婚で
あることもわかってくる。こういうところの思わせぶりな伏線がうまい。
海外での評論をネットで読むと、プレミンジャーは原作の大詰めが気に入らず、うるさく注文をつけて脚本を何度も手直しさせた
らしい。脚本を担当したのはジョンとペネロープのモーティマー夫妻で、ジョンは前年にジャック・クレイトン監督、デボラ・カー主演
のホラーの秀作「回転」で台本(ダイアローグ)に参加している。しかも、「回転」の原作が同じイヴリン・パイパーだと気づいた。私の
当て推量だが、プレミンジャーは題材がおもしろい割に構成がへたくそだと感じて、
同じ原作者の「回転」をまっとうな作品に仕上げたジョン・モーティマーの腕を原作者
より信用して起用したのではないか。実際、モーティマーの代表作はといえば、その
後に担当したピーター・イェーツ監督の秀作「ジョンとメリー」だから、その実力はか
なりのものである。監督の不満は原作に真実味が感じられないということだったよう
だ。たしかに、この映画はどこまで真実で空想なのか、バニーばかりでなく物語自身
がどんどんミッシング状態になって、道筋が見失われていくのである。もちろん、そ
れは観客を迷路に誘い込むような、プレミンジャーの仕組んだ抜け目のないトリック
といえる。わざとらしい作り物の典型でもあるミステリだからこそ、いかに本当らしく
見せるかが作者の腕前である。優れた職人であったプレミンジャーはそうした点にこだわったのだろう。
この映画が公開される少し前に、ヒッチコックはサイコ・ホラーの傑作「サイコ」を発表し、結末を伏せるために観客の途中入退場
を禁止するという前代未聞の公開方式を採用してマスコミを賑わせた。今ではシネコンの通常の上映方式となっているが、当時は
考えられないやり方だった。ヒッチコック同様、進取の気性のあるプレミンジャーはさっそくこれを真似て興行的に成功している。
それから、反骨の人でもあるプレミンジャーが舞台をロンドンに変えたこともよかったと思う。ハリウッド映画ではなく、純然たるイ
ギリス映画として製作され、イギリスの伝統的な町並みや建造物がロケ地に選ばれているし、脚本も撮影も主たる出演者もイギリ
ス人ということが作品の風格に影響しているように感じる。プレミンジャーは名前でわかるとおりオーストリアの出身で、戦前にドイ
ツに併合された故国を逃げ出してハリウッドに渡った渡米組の代表的な名匠である。同じような境遇のビリー・ワイルダーが最後ま
でドイツなまりの抜けない怪しげな英語を使いながらもハリウッドの名物男として愛されたのとは対照的に、その親友だったプレミ
ンジャーは映画倫理コードに抵触しそうな題材をわざと選んでは当局に睨まれるというお騒がせ男だった。
巨匠の域に達した人が晩年に扱う内容としては如何にも常軌を逸した「四大顰蹙映画」と私が秘かに呼ぶ作品があって、それは
ヒッチの「サイコ」、ウィリアム・ワイラーの「コレクター」、マイケル・パウェルの「血を吸うカメラ」とプレミンジャーの本作にほかならな
い。しかも、かくいう私はこの4本がことのほか好きと来ているのだ。つまり、この4人の巨匠には外面を繕うつもりなど毛頭無いとい
う反骨の気概を感じないわけにはいかない。ヒッチなどは「サイコ」を撮るといった途端、周囲からさんざん諫められ、巨匠が今さら
なぜそんなゲテモノ映画を撮るのかとまでこき下ろされた。「ローマの休日」で日本ではことのほか人気の高い巨匠ワイラーとてそ
うだったと想像される。「コレクター」は蝶の収集家の若い男が若い女性を拉致、監禁して結局死に至らしめ、仕方なくまた次のコレ
クション(女性)を物色するため街に車を走らせるところで終わるというとんでもない内容だった。「血を吸うカメラ」は、クラシックの
巨匠指揮者カール・ベームの息子が主演するという鳴り物入りで公開された作品で、8ミリマニアの青年が娼婦を殺してその殺害
場面をカメラに収めては悦に入るという異常心理ものだ。いずれの作品も精神に何らかの問題を抱えた若者の狂気をテーマとして
おり、無道徳(アモラル)もしくは反道徳(イモラル)の方向を目指している。ちょうど60年代初頭のこの頃は映画倫理コードの変わり
目というか、いろいろな道徳的自主規制が大幅に緩和された時期である。その先陣を切るような、4巨匠の少年のような冒険心に
感心する。 (2014年10月1日)