2015年 5月 13日 私 の 出 会 つた 40年 前 の メヒコと現 在 の 姿 (1) 作成 :株 式会社メ tiコ ンサル テ ィング ハ リスコ州貿易投資 日本事 務所 瀧澤 寿美雄氏 発行 :み ずほ銀行 直投支援部 iヨ 1975年 初夏、私 は生 まれて初 めて飛行機 に乗 ってメ Lコ に向かった。今 か ら 40年 前で、 日塁交換留学生 の選抜試験に運 よく合格 し、大学三年時に 10か 月間メキシ ヨ州 の州都 であ る トルー カに住む機会 に恵 まれ た。 当時 としては画期的な大型 の国費留学制度で 、 日本か らは経団連加盟の企 業か ら推薦研修生 70名 と一般公募枠の学生 30名 の計 100名 がメ ヒコ に旅立 った。月額 の奨学金 は当時 3,000ペ ソ、 日木 円で 75,000円 支給 され 、三食付 きの一 般家庭 のホームスティで暮 らす ことにな つた。 40年 前のメ ヒヨ と現在 の メキシ コは ど う違 うのか、 どこが変わ っていないのかは興味 の 尽 きな いテーマ である。親 日国、治安 の悪 さ、不衛生、食 習慣 、時間に無頓 着 な ど話題 に は事欠かな いが 、メキ シ コをまだ知 らない方に 40年 前 の メ ヒコ と今 のメキシ ヨを対比 して 話す ことは、 これか ら ビジネ ス でメ ヒコ と関わ り合 い を持 つ 方 に とっては役 に立つの では ないか と思 う。 まず初 めにお 断 りに /て お きたいのは 、 ここで は国名 をメキシ ヨ とは言わず 、 スペ イ ン語 読み の 「メ しコ」 と表 す こと。私が最 t)影 響 を受 けたメキシ ヨに関す る本 の一つ に 「メ ヒ コ と日本人 第 二世界で考 え_る 」(石 田雄著 1973年 東大出版会 )が あるが、この本 の タ イ トル に 「メ ヒヨ」 の表記があ ったのが強烈であったので、国名 をメ ヒコに統一す る。 日本航空からAeroMexicO、 そして全 日空も さて、 日本 とメキシ ヨ間 を結ぶ航空路 か ら当時 と現在 の比較か ら始 めよ う。 メ ヒコ と日 本 の時差は 15時 間 (冬 季 )で あるが、当時は 日本航空が成 田とメキシ コシテ ィをバ ンクー バー経 由で就航 し、給油時間を含 めて 15時 間ほどかか った 。唯 一の直行便 で 、週 二便 しか な くいつ も満席であった。私 は幸運 に走 )、 初 めて乗 つた飛行機 が この初 の就航便 に搭乗す ることがで き、 しか も美 しいスチ ュワーデ ス を 目の前にす る座席 であったの を記憶 してい る。 現在 では、 アエ ロメ ヒコが週 4便 、 ドリーム ライナー といわれ るボーイ ング 787の 新鋭 機 で成 田とメキシ コシテ ィを直行便で結んで いて快適 である。行 きはノンス トップで 12時 間 ほ どだが 、帰 りはモ ンテ レイ経 由で給油 、待 ち時 間 があるため 17時 間 ほ どかかるのが Lン 烈 0 岬 фΨ 難 点 で あ る。 シテ ィー を夜 遅 く出発 し、 モ ンテ レイ は真夜 中で 、成 田到 着 が翌 日早 朝 にな る。 メ ヒ コ政 府 は 日本 人観 光 客 を さ らに増や す た め 日本政府 に航 空会社 の 乗 り入れ を要請 中 で あ るが 、 日本 の航 空会社 が検討 中 との こ とだが具 体的 な発 表 はまだな い。 全 日空 は 2015 年 6月 よ り成 田― ヒュー ス トン線 を新規就航す るこ とにな って いて、 メ ヒ コ中央高原地 区 に行 き来す る 日本人 ビジ ネ スマ ンに とって は利 便性 が 増 す た め 、直行便 が 就航 す るまで は この便 で ヒュー ス トンまで 行 き、 コー ドシ ェア してい るユ ナイテ ン ドに乗 り換 え、 中央高 原 に 日系企 業 が 多数進 出 してい る レオ ン 、 ア グア ス カ リエ ンテ ス 、 ケ レタ ロや グア ダ ラハ ラに スムー ズ に行 け るこ とにな る。 ちなみ に 、 メキ シ ヨ シテ ィ にあつた 日本航 空系列 のホテル 日航 メキシ ヨは、2012年 ハ イ ア ッ トリー ジ ェンシー に名 称 変更 され たの は、非 常 に残 念 な こ とで あ る。 全 日空 が メ ヒ コ に乗 り入 れ た場 合、 ホテル も経 営 して くれ る と 日本 人 と して は うれ しい。 全 日空 の メ ヒ コ をゲ ー トウエ イ とす る中南米戦略 に注 目 したい。 「 両思 いJの 友好国に 親 日国 メヒコの「 片思 い」から 二 番 目に、メ ヒ ヨの規 日度 は変 わ らな いのか ど うか を見てみ よ う。 メ ヒ コが 本格 的 に 日 本 に ラブ コール を送 つ た の は、実 は 1972年 まで遡 る。当時 の 大統領 で あ つ た エ チ ェベ リア 大統領 の訪 日が発表 され 、 6週 間連続 で 「グラン・ハ ポ ン (大 日本 )」 と題 す る 日本 を費美 す る特 集 番組 がテ レビで 報道 され た。 この大 統 領 の訪 日には政治 的 な大 きな意 味合 い が あ つた 。 す なわ ち、反 米感情 の 投射 と しての 「親 日」 で あ る。 米 国 へ の経 済的依存 が あま り に も大 き く、また、 1845年 メ ヒ コ領 で あ っ たテキサ ス が 米国 に合併 され た歴 史 を持 つ メキ シ ヨ人 の 米 国 に対す る感 情 は複雑 で あ る。 米 国 には ヒスパ ニ ックが 多数 住 んでい るが 、そ の マ ジ ョ リテ ィー は メキシ コ系 ア メ リカ人 で 、彼 らに言 わせ る と故郷 に 帰 っ て きた だ けで あ る とい う感覚で あ る。 メ ヒ コ政府 の この大胆 な外 交政策 は 、結 局 の ところ 、規 日国 メ ヒ コの 日本 に対す る 「片 思 い 」 で しか なか つた 。 これ を証 明す る数値 が あ る。 日本 人 とメキ シ ヨ人 を 100名 ず つ 交換す る留学制度 は 1970年 に始 ま つ たわ けだが 、そ の応募 の 競争率 を見れ ば明 らかで あ る。 日本 は 2倍 、 メ ヒコはなん と 10倍 で あ つ た。 日本 は メ と コ と戦火 を交 えて い な い うえ、歴 史的 な友 好関係 が あ るた めメキ シ コ人 は 日本及 び 日本人 を美化 して 考 える傾 向が あ る。 40 年 前 は 、 日本人 を見れ ば東洋 人イ コール 中国人 とい う捉 え方 で 「チ ー ノ」 と言 われ た もの だが 、今 では 日本 人 と ビジネ ス 交流 の あ るメキ シ ヨ人 に 、「東洋 人 の 中で 日本 人 をす ぐに見 分 け られ るか 」 と聞 くと、「なかで も洗練 され てい るの は 日本 人 だ。 私 は 日本 人 が 好 きだ」 と答 える。 メキシ ヨ人 の 日本最 員 は今 で も変 わつて い な い。 両国 の友好度 の深 さを象 徴す る話 を しよ う。在 日メキシ ヨ大使 館 の所在 地は永 田町で、 斜 め向かい に都 立 日比谷高校 があ り、実は、大使官邸 の真裏 には衆議院議員議長 と参議院 議員議長公 邸 がある。欧米先進 国 の在 日大使館 が港 区に多 くある ことを考 える と、 この立 地は破格 の扱 いで ある。 一 方 、在 メキ シ ヨ 日本大使 館 は どこにあるか とい えば 、 シテ ィーの 目抜 き通 りで ある Paseo de la Refoェ 四aの 一等地 にあ り、道路 を挟んで反対側 は米 国大使館 である。中央高原 に 日本企業が多数進 出 し、なかで もそ の数 が最 も多 い グアナ フア ト州 の最大都市 である レ オ ンに来年初 めには 日本総領事館 が開設 され るとい うことで ある。 日本 とメ ヒコの友好 関係 は一 層深 ま り、メ ヒコの 「片思 い 」 か ら両国 の 「両思 い 」 の相 思相愛 の域 に達 しつつ あるか もしれない。 参考文献 ︵ 日本語文じ 書名 ・記事夕fトル 著作 ・執答 ・編集 ﹃メヒ ョと日本 と 石田 雄 ﹁ アステカ貴族の青年が みた支倉使節二園野﹄ 林屋永吉 ﹃ 畳 畳 〓・ s 甲摯繰基モたメキショ詩人 ホセ ・フアン・タブラにダの日本理添﹄ 田辺厚子 ﹃ 日水丸冊掛中ロドリゴ 。 ﹁ アロビベロ 一六〇九年﹄JT品苗竪金承四理査プロジ エクト倉U ﹁ メキショヘ最初に渡 つた日本人たち二団雰﹄林屋永吉 ﹃マヤ神話・ポポ ル ・ブ フ﹄ ﹃メキ シ ョの雁硬﹄ 轡 盤 音舎傘金面鮮螢〓 一九七三年 岩波書店! ■ 九七五年八月号︶ にが閥は版 一九七八年 晃洋書房 一九八〇年 青土社 一九八〇年 雄松螢出版 一九八二竿 現代企画室 ︲一九人ぶ奪 PMC出版 一九九〇年 PMC出版 一九九Q守 岩波書店! 全 九九七年七月尋︶ アドリアン ・レシー ノス宿針戦 泳懲辱全昼ユヤ 中央公論新社 三〇〇 一年 日本伊代 新評論 一あ〇 二年 アウ レリオ ・アシアイン/設 直/細野 虫養囲じ 二〇〇四年 ﹃ 物語 メキショの歴史 太陽の国の英傑たち﹄ 大垣貴志郎 中公新春 二〇〇八年 〇〇四年 ﹃ メキシヨの百年 二 営?﹂ 0一 0権力者の列伝﹄ エンリケ ・クラウセ 大垣貴志郎命じ 現 代企画室 二 コ郭代メキ シ ヨ 論桂査 力ぼこと塩の 一九九二年 ﹃ 十九世紀におけるメキシヨと日本﹄ マリアエレナ ・オタ ・ミシマ ﹃ メキシヨの外変政策 ︲メキショ 盆思堅≧ モデ スト ・セアラ ・バスクス 藤田宏邸 ︺ 需 ﹃ 芭蕉の詩学﹄︵﹃ユリイカし オクタビオ ・パス 野谷文昭 倫じ 留アイアス ・ヨパルビアス日本旅行記﹄ デイアス ・コバルビアス ヽ 大垣貴志郎・ 坂東省二a捕じ ﹃ メ飛メキシヨ甲査四密選 エンリーケ ・コをアス 古屋葉刃・ 米国臣棄去 一 好 眺客番じ ・寮
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