主 日集会 2014.6.29 「イエスの肉を食べ、血を飲む」とはどういうことですか んだわけでもなかった。主イエスが述べておられるのは、カルバリの十字架において主が私たちのために死なれた ことの価値を、信仰によって自分自身に取り入れないかぎり、救われることは決してない、という単純なことであ ふくい んしよ ヨハネ福音書6:52-59 じん った。私たちは、主を信じ、受け入れ、信頼し、主を自分自身のものとしなければならない。 ひと にく わたし あた た 6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を 私 たちに与えて食べ い たが ぎ ろん あ させることができるのか」と言って互いに議論し合った。 かれ い つ ひと こ にく 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉 た ち の を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 にく た ち の もの えいえん も お 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終 ひ ひと わりの日にその人をよみがえらせます。 にく しよくも つ ち の た ち の もの うちにとどまります。 ちち つか ちち い た もの 6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者 い も、わたしによって生きるのです。 てん くだ き ふ そ た し 6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなもの た もの えいえん い ではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」 おし かいどう The〔one〕 eating of me zwh.n aivw,nion( kavgw. life eternal, and I the flesh pi,nwn and drinking avnasth,sw auvto.n th/| will raise up him in the mou to. of me the ai-ma blood e;cei has evsca,th| h`me,ra|) last 主の「肉を食べ」、その「血を飲む者は」だれでも「永遠のいのちを持って」いる、と記されている。同一の事柄に んだ人の「よみがえり」のことを指している。 (4)わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わた しの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります(55-56節) 主イエスの「肉はまことの食物」であり、その「血はまことの飲み物」である、というのは、一時的な有用性し かないこの世の食べ物や飲み物と対比をなしている。主イエスの死の価値は永久である。信仰によって主にあずか 主と主を信じる者の間には極めて親密な結びつきが生じる。主の「肉を食べ」、その「血を飲む者」は主の「うち にとどまり」 、主もその人のうちにとどまってくださる。これほどの近しさや親密さは他にはあり得ない。 (6:54)ギリシャ語・英語/行間訳 trw,gwn mou th.n sa,rka kai. ことがはっきりわかる。47節には、「わたしを信じる者は永遠のいのちを持ちます」と書かれている。54節では、 る人は、永遠に続くいのちを受けるのである。 はな 6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。 o` この54節を47節と比較すると、主の肉を食べ、その血を飲む、ということは、主を信じる、という意味である なのである。主を信じるすべての人が「終わりの日に」よみがえる、というのは、もちろん、主イエスを信じて死 かれ 6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼の い にその人をよみがえらせます(54節) 等しいものは、互いに同一なのである。主の「肉を食べ」、その「血を飲む」ということは、主を信じるということ もの 6:55 わたしの肉はまことの 食 物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 にく (3)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日 day. 実際の食物を口にする時、自分の存在そのものの中に私たちはその食物を摂取する。そしてそれが私たちの一部 と化す。主イエスを自分の贖い主として受け入れる時、私たちも主の中にとどまる(継続的に住まう)のである。 (5)生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わた しによって生きるのです(57節) 主はここで、ご自身とご自身を信じる者の間に存在する密接なきずなを、別の例で説明された。その例とはご自 【祈りながら考えよう】 (1)53節は、パン裂きの制定のことを言っているのではないとどうして分かりますか。 身と父なる神との間の結びつきである。生ける御父は主イエスをこの世に遣わされた「生ける父」という表現は、 いのちの根源であられる父を意味する。この世に人間として来られたイエスは、御父によって、すなわち御父を存 在の理由として生きておられた。主のご生涯は、父なる神とのこの上ない親密な一致と調和の上に成り立っていた。 (2)6章54節と47節を対比して読むと、どういうことが分かりますか。 神こそ主のご生涯の中心であり、また周囲との境界線であった。主が志したのは、父なる神に占有されることであ (3)主イエスと私たちキリスト者との「密接なきずな」を何に例えて語られましたか。 った。主はこの世に人として来られた。しかし、この世は主が肉体をもって現れた神であることに気づかなかった。 【解 説】 (1) すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせること ができるのか」と言って互いに議論し合った(52節) 主は世から誤解を受けたが、主と御父とは1つであった。主と御父は限りなく親密な交わりの中におられた。実はこ れこそが、主イエスを信じる者の姿である。信者はこの世に住み、世から誤解を受け、憎まれ、しばしば迫害を受 ける。しかし、主イエスに信仰と信頼を置くゆえに、主によって生きるのである。信じる者のいのちは主のいのち と密接に結合している。そして、このいのちは永遠にまで続くのである。 ユダヤ人たちは相変わらず、目に見える文字通りのパンと肉という面から考えていた。彼らの思いはこの世の域 を出なかった。霊的な真理を教えるために、主イエスが目に見えるものを例に用いておられたことに気づかなかっ (6)これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありま た。そこで、ただの「男」にすぎないのに、どうやって自分の「肉」を他人に食べさせるというのか、と議論した。 せん。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂 (2)イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、ま たその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません(53節) イエスは、彼らが考えていることや言っていることを正確に理解された。そこで、もしご自身の「肉を食べ」ず、 「その血を飲まなければ」、自分の内側に「いのち」を持つことはない、と厳粛に警告された。 これが主の晩餐(パン裂きの集会)で使われるパンやぶどう酒を指すということはあり得ない。主がパン裂きの で話されたことである(58-59節) 58節は57節の主のことばを要約しているようである。主は「天から下って来たパン」である。主は父祖たちが 荒野で食した「マナ」にまさるお方である。マナの有用性は一時的なものであり、この世だけのものであった。し かし、キリストこそは、主を食するすべての者に永遠のいのちを与える神のパンなのである。 群衆はイエスとその弟子たちを追って、ガリラヤ湖の北東部から「カペナウム」にまで来ていた。どうも、群衆 は「会堂」でイエスの姿を見つけたらしい。主がいのちのパンという説教を彼らに語られたのもそこであった。 集会を制定されたのは、ご自身が裏切られる夜のことであり、その時、主のおからだはまだ裂かれず、血はまだ流 されていなかった。弟子たちはパンとぶどう酒にあずかったが、文字通りに主の肉を食したわけでも、その血を飲 -1- -2-
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