弟子たちの悲しみは喜びに変わります ヨハネ 16 章 16 から 23 節 復活節第 2 主日 2013 年 4 月 7 日 説教者:芳賀弥男 今日の御言葉は、イエスが捕えられて十字架にかけられる前の日、つまり死の前日に行なわれた弟子たちとの会話です。イエスはその夜、弟 子たちと一緒に最後の時間を過ごしていました。「その愛をあますところなく残そうとされた」(ヨハネ 13 章 1 節)イエスは、これからイエスの捕縛、 裁判、拷問と死を目の当たりにして、絶望と深い悲しみに負い散る弟子たちを案じて、彼らのために時間を費やしてくださいました。そして、彼らの 心配を取り除くために、イエスはいろいろな話をされました。今日の御言葉はその時の一つの話です。 お母さんが子供に何も言わないで外出すると、子供はとても不安に思うでしょう。泣いて大暴れするかもしれません。では「しばらく出かけてくるよ」 と一声かけるならば、少しは違いますね。しかし、子供にはそれでも不安が残ります。「しばらく」とはどのくらいの時間かな? どこに行くのかな? 子 供はいろいろ質問するかもしれません。しかし、お母さんはそれ以上、何も答えないかもしれません。小さな子供に何時に帰ってくると伝えても、 時計がまだ分かりません。また「懇談会に行ってくる」と言っても何のことかさっぱりわからないでしょう。 お母さんが出かけるのは、自分の楽しみ のためかもしれませんし、子供にとって何の役に立たない時間になるかもしれません。 出かけるときに、子供を安心させるにはどうしたら良いでし ょうか。イエスは最後の夜に、同じようなことを愛する弟子たちに言われました。しかし、母親が与えられないような慰めを与えてくださいました。 16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」 16:17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見 る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」 16:18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。 16:19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしば らくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。 16:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたが たの悲しみは喜びに変わります。 16:21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその 激しい苦痛を忘れてしまいます。 16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そし て、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。 弟子たちの聞きたいことを知った全知なる神であるイエスは、彼らを慰めるために説明してくださいました。特に 20 節の冒頭にある「まことに、まこ とに(アーメン、アーメン)」という表現は、イエスが真理を強調するときに用いられる表現です。つまり、イエスが与える喜びは正真正銘真の喜びで あるのです。 「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです」とは何を述べているのでしょうか。それはイエスがもうすぐ捕えられ、裏切られ、拷問を受 け、裁判を受け、十字架にかけられて死ことは弟子たちにとって悲劇であり、絶望的な出来事です。しかし、「世」つまり、この世を愛する人々、イ エスを愛さない人々、イエスを憎む人々にとって、イエスをなきものにしたり、生活からイエスを閉めだすことは喜びなのです。「しかし、あなたがた の悲しみは喜びに変わります」とイエスは教えてくださいました。それは真理、真実なのです。 イエスは分かりやすく「出産」のたとえを用いられました。私は男性ですから、女性の出産の苦しみと痛みについてまったく理解できません。それ は相当な激痛でしょう。しかし、それはつかの間続くだけです。それは無駄な苦しみではありません。この世にまたとない偉大な目的のために苦し んでいるという慰めがあります。そして、イエスが述べたように、子供が生まれるやいなや、その苦痛は消え去り、新しいいのちの喜び、母親になっ た喜びだけが残るのです。イエスはこれからこの世でもっとも激しい苦痛を経験します。罵声や肉体を刺し貫かれる痛みだけではなく、神のあわれ みを一切失うこと、私たちの罪の永遠の罰を一身に負って死ぬのです。しかし、それは無駄な苦しみではなく、全人類の救いという偉大な目的の ために必要な過程なのです。新しいよみがえりのいのちが与えられるために必要な苦しみです。 弟子たちの一番の心配はイエスが言った「しばらくのあいだ」とは、どのくらいの時間なのかと言うことです。それはたった数十時間のことです。三 日目にイエスはよみがえり、弟子たちの所に戻られます。その時、弟子たちはこの世が与えることのできない喜びに満たされます。死がいのちにの みこまれた、イエスが真の救い主である、イエスを信じる者は永遠に生きるなど、イエスの約束の全てが実現すると確信できる喜びです。そしてそ の喜びは、決して私たちから奪い去る物も出来事もありません。死さえもできません。 主にある兄弟姉妹の皆さん。死に直面する時に「私はしばらくのあいだ、あなたを離れるが、また戻ってくるよ」と約束できる人間がいるでしょうか。 誰もが永遠に会えないことの悲しみと絶望に苦しむのではありませんか。しかし、真の神である主は唯一「しばらくはなれるが、また戻ってくる」と言 われ、それが真理であることを強調されました。もっとも困難な苦しみから、戻ってきてくださったイエスがあなたを見捨てるはずがありません。これ も真理なのです。 また、イエスの弟子が苦しむこと、この世が喜ぶことも真理なのです。この世の中、特に日本ではクリスチャンは葬式、地域社会の関係、仕事、 人間関係、宗教的習慣など多くの点でより苦しみます。そして、この世は主なる神が望まないことを喜びとします。 私たちの罪深さは、イエスの約束を信頼しきれないこと、信頼し続けることができないこと、約束を待てないことにあります。また、この世に歩調 を合わせて生活した方が楽しく、楽に見えます。しかし、彼らには真の喜びと希望はなく、主なる神のように愛される存在もありません。苦しみの時、 イエスが与えるような慰めもありません。多くのクリスチャンはこの約束を信じられずに、楽しみと一次的な喜びを求めてイエスから離れ、イエスが 死と引き換えに勝ち取ってくださった永遠のいのちと真の喜びを無駄にします。そして、永遠に終わることのない苦しみに自らを追いやるのです。 私たちの苦しみは出産のたとえにあるように、その苦しみは「しばらく」のものです。永遠に続くものではありません。また、クリスチャンであるが故 の苦しみは、無駄ではありません。イエスは愛する弟子たちにその苦しみは必ず取り去られるようなことのない喜びに変えられると言われました。こ れも真理です。実際に、イエスの弟子たちはよみがえったイエスと再開した後、この真の喜びに満たされました。そして、この真の喜びを知らない 人たちに伝えるために、全世界に出て行きました。偽証も迫害も、偽教えも、処刑も彼らの喜びと彼らの行進を邪魔すること、取り去ることができ ませんでした。一体何億人のクリスチャンが様々な苦しみの中で、このイエスの言葉に慰められ、励まされてきたでしょう。 実際に家を離れるお母さんが、留守番をする子供に「お母さんはしばらくのあいだ、でかけてきます。でも、あなたのさみしさは無駄になりません。 お母さんが戻ってくる時、あなたは必ず想像できないような喜びに満たされます!」と約束できるならば、その子供は幸いですね。 次の御言葉は、今日のメッセージを要約しています。 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 」 (ローマ 8 章 18 節) 「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 」(2 コリント 4 章 17 節) 「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、 そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8章38,39 節) 私たちは苦しみます。病気、人間関係、仕事、障害、差別、衰え、そして死。しかし、最終的に天の御国に入るとき、悪魔も死も奪い去ることの できない本当の喜びに満たされるのです。ですから、歴史的にキリスト教は「喜びの宗教」と他の人々に評価されてきたことは正しい評価なのです。 クリスチャンとして苦しみのどん底にあり、この真の喜びが見いだせない方。この復活節に、共にイエスのよみがえりの出来事を詳しく学びましょう。 アーメン
© Copyright 2024 Paperzz