私がもっとも敬愛する映画監督フェデリコ・フェリーニが亡くなったのは93

私がもっとも敬愛する映画監督フェデリコ・フェリーニが亡くなったのは93年10月のこと。享年73歳で
あった。イタリア政府はその生前の功績に報い国葬をもって遇した。映画監督が国葬になったのは空前
絶後である。生まれ故郷もまた哀悼の意を込めてリミニ空港をフェデリコ・フェリーニ空港と改称した。そ
の4か月後、失意の夫人ジュリエッタ・マシーナがあとを追うように亡くなった(写真上、フェリーニとマ
シーナ)。
イタリアの港町リミニに生まれたフェリーニは絵が得意で漫画家を志し、フィレンツェの新聞などに記事
やイラストを描いたりしていたらしい。映画の世界に入ると、戦後イタリア映画復活の原動力となったネ
オ・レアリズモの潮流に乗って、ロッセリーニ作品などの台本を手がけるようになった。先輩のアルベル
ト・ラトゥアーダと共同で監督した「寄席の脚光」(50年)を経て、次の「白い酋長」(52年)で本格的に独り
立ちする。そうして長編3作目の「青春群像」(53年)は早くもヴェネチア国際映画祭の銀賞を獲得した。
とくに日本をはじめ国際的に注目されたのはその次の「道」(54年)からである。愛妻マシーナが白痴の
少女ジェルソミーナを演じ、アンソニー・クィーン扮する荒くれ男の大道芸人に買われて、さんざんいじめ抜かれ捨てられるという悲
劇。しかし少女のことが忘れられなくて彼女を置いてけぼりにした町に舞い戻ってきたクィーンに町の人は少女がひとりさびしく死
んだことを告げる。少女がよく海を眺めていたという浜辺に降り立ったクィーンが砂浜に両手をついて慟哭するラストシーンが圧巻
だった。ニーノ・ロータのテーマ曲が大ヒットし、ヴェネチア映画祭の銀賞を連続受賞したばかりかアカデミー最優秀外国語映画賞
(写真上、オスカーを手にしたフェリーニとマシ-ナ)を与えられ、わが国ではキネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。
その後、カトリックの牧師を騙った詐欺師の話「崖」(55年)を撮ったあと、秀作「カビリアの夜」(57年)に至る。マシーナがローマの
しがない娼婦カビリアを演じ、結婚詐欺に会って生きる望みを失うかに思えたそのとき、明るく純朴な少女たちの自転車の隊列に
出くわし、その希望に満ちて溌剌とした姿に生への望みをつなぐ。薄幸なカビリアに言い寄り、かの女に束の間の幸せを感じさせな
がら、実際は金目当ての冷酷な詐欺師をフランソワ・ペリエが好演した。2度目のアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞したほ
か、マシーナがカンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を獲得した。
快進撃を続けるフェリーニは、マルチェロ・マストロヤンニ扮するパパラッチを通して現代ローマの享楽と退廃を描いた傑作「甘い
生活」(60年、写真下)を完成させ、ますます好調であった。カンヌ国際映画祭金賞に輝く本作は、奇蹟を起こすという少女を見よう
と集まった民衆やマスコミの狂騒に始まって、終盤の夜を徹した乱痴気パーティのお祭り騒ぎがやがてお開きとなり、一同が繰り
出した浜辺には大きな怪魚が打ち上げられており、その向こうに清らかで汚れを知らぬ少女が微笑んでいるという有名なエンディ
ングに至るまで密度の濃いドラマが展開される。
こうした長編のみならず短編でも異才ぶりを発揮した。オムニバス映画「ボッカチオ‘70」
(62年)では、デ・シーカ、ヴィスコンティ、マリオ・モニチェリといった新旧の名匠に混じって
一歩も引かず、むしろ他を圧倒する勢いで、道学者の大学教授が町なかに出現したアニ
タ・エクバーグのあられもない姿態の巨大全身広告塔に抗議し徹底抗戦するサマをコミカ
ルに描き、笑い飛ばして見せた。ことに、夜中に広告塔を抜け出した巨大なエクバーグが
堅物の大学教授を追い回すおかしさはケッサクだった。これはむろん教授の妄想に過ぎ
ないが、かくして教授は発狂する。また、E・A・ポー原作「世にも怪奇な物語」(68年)は当
時仏伊を代表する才人3人を集めた企画だが、ルイ・マル、ロジェ・ヴァディムの両人を遙
かに凌ぐ力量を見せつけ、身の毛のよだつような西洋怪談を撮り上げて見る者をおのの
かせた。
巨匠の想像力は枯渇することがない。将来の自分自身を重ね合わせたようなマストロヤンニ扮する映画監督がスランプに陥り、
次回作を前に懊悩した果てに、ようやく活力を取り戻す「81/2」(63年)でフェリーニはひとつの頂点を迎える。かくして、フェリーニは
「映像の魔術師」という尊称を賜り、20世紀映画芸術の頂点に立つ。この映画の中に監督自身の幼少期の想い出が随所に出てく
るが、それはまさに故郷リミニの回想だろう。サラギーナというホームレスの豊満な大女を少年たちが恐る恐る見に行く場面は今
や伝説と化した名場面だが、フェリーニの大女好きの起源がそこにあることは明白で、いやそれにしては愛妻マシーナが小柄な愛
くるしい女性であるのはなぜだろうと、そんなことを考えてしまった。天啓を得た主人公がさあ撮影を開始するぞ、というとき、ア
ヌーク・エーメ扮する妻(こちらはスリムな美女だ)に向かってささやくキメ台詞「人生は祭りだ、ともに生きよう」にしびれた。この映
画はモスクワ映画祭グランプリ、キネマ旬報ベストテン第1位に輝き、3度目のアカデミー最優秀外国語映画賞を受賞した。
続いて、マシーナ主演でまさしく彼女に捧げた初のカラー長編「魂のジュリエッタ」(65年)を撮る。黒澤明が初のカラー作品「どで
すかでん」(70年)でカラフルな色を多用したようにフェリーニもまた過剰ともいえる色彩を駆使してマシーナを取り巻く世界を飾り
付けた。それが一転して古代ローマの絢爛たる退廃絵巻「サテリコン」(69年)で鬼面人を驚かすように観客をたぶらかす。サーカス
好きのフェリーニが用意した極上の見せ物である。貴族の葬儀に般若心経の読経が流れるのには驚いたが、ふたりのヒッピー風
美青年が紛れ込んだ古代ローマの貴賤の風俗がおもしろい。海賊の首領が青年のうちのひとりを見初めて結婚式を挙げる場面で
は、いかにもコワモテのアラン・キュニー扮する首領が青年の横で花嫁姿になっているのも笑わせた。打って変わって、現代ローマ
を主人公とした興味尽きないスケッチ風挿話集「フェリーニのローマ」(72年)でも奇抜な見せ物を次々と繰り出した。いっぽう「アマ
ルコルド」(73年)は、第二次大戦下のリミニを舞台として少年期の懐かしい想い出にじっくりとひたるような哀歓こもる秀作だった。
しかし、次の「カサノバ」(76年)伝から急速に力の衰えが目立ち、もはや最盛期の勢いは感じられなかった。「ボイス・オブ・ザ・ムー
ン」(90年)を遺作としてその輝かしい映画人生を閉じたのであった。(2014年3月1日)