冤罪の原点「帝銀事件」の再審開始と平沢貞通氏の

日本の「戦後」はいまだ終わっていない!
冤罪の原点「帝銀事件」の再審開始と平沢貞通氏の無実の実現を!
「平沢貞通氏を救う会」事務局長 片島紀男
獄中で無実を訴え再審を請求をする平沢氏
(仙台拘置所面会室にて)
当初、細菌化学兵器の研究開発と実
験を行っていた戦前の旧陸軍の部隊
の出身者に捜査は絞り込まれたが、
米軍の介入によって捜査は打ち切ら
れ、その後、毒物の知識も経験もな
い一人の民間人である画家が容疑者
として逮捕された。それが、平沢貞
通氏である。
平沢貞通氏は、長期間わたる拘禁
ののち、検事の強制誘導によって
「自白」を強いられ、何の物的証拠
もないまま、その「自白」が唯一の
証拠となって事件の犯人にされてし
まったのである。戦前から続く、
「自白」を証拠の女王とした旧刑事
訴訟法による最後の犠牲者となった
のである。また、時の権力が事件の
真相を暴くことなく闇に葬るための
生けにえとなったのである。
まま17年が過ぎている。この間、
再審請求の理由を審理・検証してい
た裁判官が変わるなど、司法当局の
不誠実な対応には疑問を持たざるを
得ない。
無実を叫びながら無念の獄死を遂
げた平沢貞通氏の死から来年で丸2
0年、帝銀事件の発生から再来年で
60周年を迎える。
帝銀事件だけではない。米軍(G
HQ)の占領下に起きた下山・三
鷹・松川事件も真相はいまだ謎のま
まである。
日本の戦後出発の原点である占領
時代を解明するためにも、帝銀事件
の真相解明は不可欠の課題である。
そして無念の獄死を遂げた平沢貞
通氏の無実を晴らし、国家によって
奪われた平沢氏の人権を回復するこ
とは、様々な悲惨な事件が相次ぐ今
日、人命と人権の尊重が叫ばれる時
代の要請でもある。
わが国は、1945年8月の敗戦
から凡そ7年間(1952年4月独
立)、連合国、実質的にはアメリカ
軍の占領下に置かれていた。
現在のイラクがそうであるように、
戦後憲法の価値は何よりも平和と
その占領の時代は、戦後日本の方向
基本的人権にある。
性を決定付ける重要な時代であった。
にも拘わらず、無実でありながら
「平和憲法」が定められる一方で、
謂れなき罪を着せられる冤罪事件は
日米軍事同盟の強化、アジアにおけ
今も後を絶たない。
る反共の砦として位置付けられた。
あたかも戦前の戦争国家が生き続
平沢貞通氏は第一審公判冒頭で犯行を否認
そして現在の日本がある。
けているかのように、司法権の独立
そうした米軍占領下のわが国で、
平沢貞通氏は初公判以来、自白を の現状は危機に瀕している。戦後6
当時、奇怪で残忍な凶悪事件が相次 否認し、最高裁で死刑が確定した後 0年経った今こそ、警察と検察、裁
いだ。
も一貫して犯行を否定しつづけ、9 判所の姿勢が強く問われている時代
次第に米ソの対立(東西冷戦)が深 5歳で獄死するまで39年間、獄中 はないのである。
まる中、終戦から3年目の1948 から無実を叫び続けた。その間、法
(昭和23)年に起きた「帝銀事
務大臣が35名変わったが、誰一人
件」、翌49年に起きた三大鉄道謀 として平沢氏の死刑執行に判を押す
略事件といわれる「下山・三鷹・松 ものはいなかったのである。
山事件」がそれである。
それらの事件の背後には常に米軍
平沢貞通氏の死後、養子の武彦氏
の影が見え隠れし、わが国の警察・ が死後再審請求を申立て、再審開始
検察の捜査への介入も見られた。
になってしかるべき数多くの新証拠、 無実を叫び95歳で獄死した平沢氏の仮通夜
中でも、東京・椎名町で起きた銀 新証言を東京高裁に提出しているが、 左から森川澄子、遠藤誠弁護士、平沢武彦
行員大量毒殺事件「帝銀事件」は、 いまだに東京高裁は結論を出さない
■事務局長・片島紀男(かたしま・のりお)プロフィール
1940年東京生まれ。’63慶應義塾大学法学部卒業後、NHK入局。佐賀局、福岡時代には、九州・沖縄の近現代史の人物を描く番組など
に取り組む。’84年に東京転勤以後、教養番組、特集番組を担当。日本、アジアの現代史を一人の人間および群像で描くドキュメンタリー番
組を作り続け、 異色のこだわり派ディレクター として知られる。現在、「放送人の会」会員。TV番組『ドキュメント東条内閣極秘記
録』は、『東条内閣機密記録』(東京大学出版会)、同『埴谷雄高・独白「死霊の世界」』は同名図書(NHK出版)、同『戦後史の謎・三
鷹事件』は『三鷹事件−1949年夏に何が起きたのか』(NHK出版)、同『吉本隆明がいま語る・炎の人三好十郎』は『三好十郎傳・悲
しい火だるま』(五月書房)として刊行されている。