18世紀なるものから離れて 身体論の地平 クレオール再考

日本フランス語フランス文学会 2 0 0 9 年度秋季大会
特
別
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1 1 月 8 日(日)
特別講演会 10:00∼11:30
C棟 3 階 301 大教室
司会:中地義和(東京大学)
John Edwin Jackson(Université de Berne)
Mythe et histoire dans la poésie moderne: l'exemple de Baudelaire
Cet exposé est une réflexion sur le statut du mythe dans la poésie de la modernité. Ce statut est un statut de crise, dans la mesure où une poétique du mythe
renvoie implicitement à une saisie stable, quasi anhistorique, de la réalité alors que ce qui insiste depuis le début du XIXe siècle, c’est au contraire la conscience
toujours plus aiguë d’une historicité de cette généralité. Après un préambule historique, qui s’arrêtera notamment sur les deux figures décisives que furent
Friedrich Hölderlin, pour l’Allemagne, et Gérard de Nerval, pour la France, l’exposé se concentrera sur Baudelaire dont seront analysés notamment deux
grands poèmes, « Le Cygne » et « Les Petites Vieilles ».
Il n’y a qu’à peine une poétique du mythe chez Baudelaire. Ce qu’on rencontre chez lui, c’est au contraire la tension permanente entre une utilisation très
riche de figures mythiques (ainsi par exemple la figure d’Andromaque, la veuve d’Hector, dans « Le Cygne » ) et toutes sortes de procédés allégoriques qui
attestent pour leur part une conscience très vive de l’histoire. Ainsi, si, au premier vers du poème, le temps d’Andromaque (temps du mythe) est interpellé
comme tel, le retour du poème à son présent se met-il au service d’une saisie purement historique de ce Paris auquel les travaux du baron Haussmann sont en
train de donner un nouveau visage : « le vieux Paris n’est plus » comme le dit un hémistiche ultérieur. De même, dans « Les Petites Vieilles », le mythe d’une
palingénésie faisant du cercueil des vieilles femmes un « nouveau berceau » se heurte-t-il très vite au constat désolé de cette réalité parisienne où ne surnage
que « la forme de la boîte où l’on met tous ces corps » et où les « Èves octogénaires » sentent peser sur elles la « griffe effroyable » d’un Dieu impitoyable.
ワークショップ
第1会場
12:45∼14:15
C201
ソシュールと 19 世紀―自筆草稿への新たな視点
コーディネーター:阿部宏(東北大学)
パネリスト:松澤和宏(名古屋大学)、金澤忠信(香川大学)
弟子の手によって編纂されたフェルディナン・ド・ソシュールの『一般
言語学講義』について、これが彼の言語思想を正確に反映するものである
のかどうか様々な議論が行われてきた。いわゆるソシュール文献学であ
る。しかし、1996 年ソシュール家から大量の自筆草稿が発見され、ここ
には、一般言語学概念、特に意味論に関する彼の生成途上の種々の考察、
ドレフュス事件など当時の社会・政治問題に関する記述など、従来のソシ
ュール像に変更を迫るような内容が含まれていた。このソシュールの新手
稿の分析に基づきながら、『一般言語学講義』以前のソシュール、つまり
19 世紀および世紀転換期のソシュールの思考の軌跡を辿り、ソシュール
文献学の新たな可能性について模索してみたい。具体的には,主として以
下の3点に注目してみたい。「ソシュールと 19 世紀の言語学」
、
「ソシュ
ールの政治的言説」、「ソシュールと主体概念」。
第3会場
C202
身体論の地平
コーディネーター:小倉孝誠(慶應義塾大学)
パネリスト:石井洋二郎(東京大学)、塚原史(早稲田大学)
身体は自然と文化、現実と想像力が遭遇する場である。それをめぐって
は医学、哲学、社会学、歴史学、美術史など、さまざまな知が分析のまな
ざしを向けてきた。人間を描き、そのドラマを語る文学においても、身体
が重要なテーマになることは言うまでもない。では医学書で記述され、哲
学で論じられ、美術作品で表現されている身体と、文学テクストで語られ
る身体はどのように違うのか。本ワークショップでは、文学における身体
表象の多様性に迫ってみたい。
石井は、文学研究において「身体」が「心理」に付随する二次的な要素
として抑圧されてきたのはなぜかを問いかける。塚原は、トリスタン・ツ
ァラのダダ宣言や、アンドレ・ブルトンの自動記述のテクストに依拠しつ
つ、言語独自の身体性は存在するかという問題を再考する。小倉は、近代
文学において病んだ身体がさまざまに、時には過剰なまでに意味づけされ
てきたことを論じる。
身体論は広大な領域であり、あらゆる時代の文学に関連する。聴衆の積
極的な発言や質問を歓迎し、双方向の刺激的なワークショップをめざした
い。
第2会場
B202
18世紀なるものから離れて
コーディネーター:辻部大介(福岡大学)
パネリスト:逸見龍生(新潟大学)、寺田元一(名古屋市立大学)、
阿尾安泰(九州大学)
18世紀は啓蒙の世紀として、よく知られています。そして、19世紀
から現代に至る流れを準備したとも言われています。
しかし、そうした継承の側面だけを強調するとき、多様と言われる18
世紀の知の相貌をはっきりとつかむことはできるでしょうか。直線的な発
展図式に基づく連続性の神話から離れて事態を具体的に考えてみる必要
があるでしょう。
18世紀の知の総決算ともいうべき『百科全書』にいかなる言語戦略が
こめられていたのか?また化学、生理学への関心の高まりを支えるものと
は何であったのか?そして、現在ではほとんど論じられることのない、当
時のベストセラーである『オナニスム』とはいかなる本だったのか?そう
した問題を論じる中で、新たな18世紀像の可能性について考えてみたい
と思います。
第4会場
B201
クレオール再考
コーディネーター:砂野幸稔(熊本県立大学)
パネリスト:恒川邦夫(一橋大学名誉教授)、管啓次郎(明治大学)
、
塚本昌則(東京大学)、中村隆之(明治大学非常勤)
クレオールという思想的構えが、注目を集めたのは 1990 年代のことだ
った。それは、カリブ海人の新しいアイデンティティ戦略であると同時に、
ナショナルな呪縛から解放され、多様なるものの関係性へと眺望を開く思
想として、「ほとんどドゥルーズ、ガタリの『リゾーム』以来の肯定性の
輝き」(細見和之氏)を放つものだった。
その後シャモワゾーやグリッサンらの著作が相次いで紹介され、それま
で言語学などの専門用語にすぎなかったクレオールという語は、いまでは
日本語のなかでも一定の市民権を得ている。
しかし、それとは裏腹に、この語は近年かつての輝きを失っているよう
にも見える。
はたしてクレオールという思想は、しばしばわれわれが踊らされてきた
風俗としての思想のひとつにすぎなかったのだろうか。
一過性の流行、あるいは文学史の短い一時代として整理してしまうには
惜しいこのクレオールという思想に、グローバル化というアメリカ一極集
中の強迫観念にほころびが目立ち始めたいま、当初の高揚感からも反発か
らも、ある程度冷静な距離を置いて見ることが可能になる時間をおいて、
もう一度光を当ててみたいと思う。