夏の夜の夢

~無意識の世界から来る恐怖感~
1
はじめに
突然だが、ピーター・ウェアー監督の『トゥルーマン・ショー』
(1998)という映画をご存知
だろうか?これは生まれながらにして自分の人生をテレビ番組として利用されてきた男の話だ
が、私は『夏の夜の夢』を読んで、まずこの話が頭に浮かんだ。初めはなぜだかわからなかった
が、講義が進むに連れて次第にそれらの共通点が見えてきた。
..
その共通点とは、鑑賞・必読後の私の感覚である。
『トゥルーマン・ショー』を観た後も『夏
..
の夜の夢』を読んだ後も、私はとてつもなく「不思議な感覚」に陥ったのだ。自分は現実にいる
.
はずなのに、夢の中にいるような気持ちになったのである。私は現実の世界から、その映画の主
. ......
人公やテキストの 4 人の恋人たちが、もうひとまわり外の世界の何者かに操られているのを見
ていた。そして彼らが無意識のうちに騙されているのを、
「あ~、この人たち操られている。可
哀そうに…。」と思いながらも、同時に彼らを滑稽に思いながら鑑賞していた。
しかし私はそれらを見終った後に、「私ももしかしたら彼らのように無意識のうちに何者かに
操られているのかもしれない」という「恐怖感」に苛まれたのである。それがなぜ恐怖なのかと
いうと、それが自分では気づかない「無意識の世界」で生じていることだからである。私は今、
誰にも操られてはいないと思っているけれども、例え操られているとしてもそれは自分にとって
は「無意識の世界」だから、いくら注意しても気付きようがない。現に、4 人の恋人たちも自分
たちは必死で恋をしているつもりなのに、実際は妖精たちに操られていたのである。これほど恐
...
ろしいことはない。しかし必読後、私は実際そのような「夢の中にいるような不思議な感覚」に
陥ってしまったのである。
ということで、今回は『夏の夜の夢』の「夢」について考察してみたいと思う。この「夢」が
我々に与える不思議な感覚はどこからくるのか、その要素をいくつか取り上げてみたい。
目次
はじめに:動機
序章:テーマ設定
第一章:夢とは
第二章:夢と森
第三章:夢と「夜・月・水」
第四章:夢と恋愛
第五章:夢と五感
第六章:夢と eyes
4人の恋人たちを妖精が外から操り、
第七章:夢と眠り
その恋人たちや妖精をみて私たち人間は嘲る。
第八章:夢と無意識
そしてそんな私たちをみて、
終章:まとめ
シェイクスピアが外から笑っているのだとしたら―――。
おわりに:レポートを終えて
参考文献
2
※本稿の章は漢数字で、またテキストの章は算用数字で表記している。
序章
「夢」というのは、注目すべきテーマの一つである。なぜなら、
「夢」という言葉はこのテキ
ストの『夏の夜の夢』のタイトルの一部でもあるからだ。そのような理由から、
「夢」をテーマ
に取り上げることは意義のあることだと思う。
よって本稿では、
『夏の夜の夢』の「夢」をテーマに取り上げ、私が必読後に感じた「夢の中
にいるような不思議な感覚」にとらわれた原因を探求していくことにする。私がここで述べる
「夢」の言葉の定義は、
「睡眠中にもつ幻覚、そして目覚めた後には幻のように思えるもの」と
する。(夢については第一章で詳しく述べる。)
.
ではここで、私の「夢」のテーマに対する仮説を設定しておきたい。私は、他の誰でもなくシ
.......
ェイクスピアがこの話に「夢」という要素を用いて描いたからこそ、この不思議な感覚は生まれ
たと考えている。それはつまり、シェイクスピアの文才に起因している。彼は夢を非常によく理
解しており、それを上手く生かす方法を知っていた。彼は、ただ単に「夢」を持ち出したわけで
....
はない。夢とまた別のものを組み合わせるという手法を用いて、「夢の神秘性をさらに引き出し
ていた」のである。
ゆえに、今回は「夢と○○」という形で全八章の構成をとることにする。第一章では本稿にお
ける「夢」について定義する。そして第二章から第八章までは、項目配列でそれぞれ「夢」と関わる
7つの要素を取り上げ、それらがどのように『夏の夜の夢』の「夢」の神秘性を引き立てている
のかについて論じる。そうすることで、このテキストにおける「夢」の神秘性が、シェイクスピ
アの文才によってどれほど引き出されているのかについての理解を深めたいと思う。そして終章
では「夢」というテーマでまとめ、最後にレポートを終えての反省を述べることにする。
第一章:夢とは
では、
『夏の夜の夢』の「夢」について定義したいと思う。本稿における「夢」の対象は、
「テキ
ストの登場人物が森の中で体験した出来事全て」である。また、登場人物の対象は、妖精という
外の世界から操られていた「4 人の恋人」と「職人のボトム」である。
しかし普通は、「夢」であったことは「夢」が醒めてから気づくものである。なぜ「夢」を観たこと
に気がつくのかというと、目が醒めたときに「夢」のなんらかの余韻が残っており、それを目覚め
た後も感じるからである。以下に、恋人たちのその余韻の部分、つまり「夢の中にいるような不
思議な感覚」を引きずっている箇所を引用する。
DEMERIUS
These things seem small and undistinguishable,
Like far-off mountains turned into clouds.
HERMIA
Methinks I see these things with parted eye,
When everything seems double.
3
HELENA
So methinks;
And I have found Demetrious, like a jewel,
Mine own, and not mine own.
DEMETRIUS
Are you sure
That we are awake?
It seems to me
That yet we sleep, we dream. (Act4, SceneⅠ,184-191)
これらからわかるように、彼らは森から出た後、「なぜだかわからないけれど、何か不思議な
感じがするなという感覚」を持っている。この不思議な感覚は彼らが森の中で「夢」をみていたこ
とを証明するものになる。
よって本稿では、この不思議な感覚を持つに至った経緯にある「森の中での出来事」を「夢」
と呼ぶことにする。
<4 人の恋人たちの意識>
<場面>
宮廷
:
↓
森の中
現実にいる状態
↓
:
「夢」をみている状態
↓
↓
森を出てた後:
目が醒めて、不思議な感覚になった状態
↓
「夢」をみたのではないかと感じている状態
第二章:夢と森
このテキストは、初めは宮廷の場面から始まり、次第に森の中に入っていく。ではその森とは
.
.....
いったいどういうところだったのだろうか。日本人の私が森を想像すると、ある程度傾斜のある
入り組んだ山を想像してしまいがちだ。よって例え迷ったとしても、とにかく下へ下へと進んで
行けば、いつかはふもとにたどり着けるだろうと考えるのが普通である。
....
しかし、シェイクスピアが生まれ育ったのは英国であり、彼の意識化にあったのも英国の森だ
といえる。そして、松岡和子氏によれば英国の森は「平ら」だという(河合隼雄,121-126)。「平ら
である」ということはつまり、傾斜がないゆえに我々にはその森がどこまで続くのかわからない
ということである。前に行っても後ろに行っても森なのだ。いや、もうどちらが前で後ろかもわ
からないかもしれない。それはまるで終わりのない砂漠を歩いているようなもので、森の木々や
植物がさらに我々に混乱や錯覚を与えるゆえに、なおさら質が悪い。
つまり、このテキストで想像すべき森は、日本の森ではなく英国の森なのである。日本の森の
ように傾斜しているから、単に下ればふもとにたどり着けるという安易に考えてはいけない。英
4
国の道の中で道に迷ったら最後、あてもなくただひたすら歩き続けなくてはいけないのである。
これらのことから、そのような行けども行けども森だというような「果てしのない感覚」が、「夢」
の神秘性をさらに引き出していたのだと考えることができる。
第三章:夢と「夜・月・水」
話が進むに連れ辺りはだんだんと暗くなり、とうとう場面は「夜」になる。ローマでは、真夜
中以前に見る夢はただの夢であるが、以降の夢は正夢であるらしい。(鈴木、189) さらにこのこ
とはイングランドではよく知られている言い伝えのようであるから、シェイクスピアにも当ては
まるだろう。ということは、昼間でなく夜の森を恋人たちがさまよっていることも、いかにも正
夢であるかのような思いにさせる意図が含まれていたと考えることができるのである。
そして、夜になると登場するのが「月」である。月というのは、満ち足り欠けたりするものであ
るがゆえに「あやふやなもの」の象徴であるといわれる。(Glassco,63) このことは、月が<無
節操>を表しているとして『イメージ・シンボル事典』に表記されている。その例文を引用する。
O, swear not by the moon, the inconstant moon, That monthly changes in her
circled orb, Lest that thy love prove likewise variable.
月にかけて誓ってはいけ
ません。不実な月はひと月ごとに満ち足り欠けたりするもの、あなたの会いもそ
のように変わりやすいものになります。
(『ロミオとジュリエット』2, 1、下線部筆
者)
このことから、月は変わりやすいものの象徴であることが言える。もちろん、
「変わりやすい
もの」とは、不正確性を意味し、正確なものよりも信頼性が薄い。よって、人々の気持ちに不安
を抱かせると同時に、夢の中にいるような気持ちにさせるとも言える。
さらに、
「月」にはもう一つ重要な意味が秘められている。それは<魔術>である。それが表れ
ているものを次に引用する。「All the simples that have virtue under the moon. 月夜に集めた効
き目の強いあらゆる薬草(『ハムレット』4,7) 」これも上著に「<魔術>の2. 月光の下で摘んだ
薬草が、一番強い薬効を持つ」ものの例として挙げられている。
さて、よく考えてみると、「夜」という言葉はこの作品のタイトルの一部にもなっている。つま
.
り 4 人の恋人たちは、
「あやふやなもの」の象徴である「月」が昇るこの夜に「夢の世界」に入る。
ゆえに、「夜と月」は彼らの「夢」に神秘性を与えている要素の一つとなっているといえよう。
それからもう一つ言えば、「水」も「あやふやなもの」の要素のひとつである。なぜなら、水は物
事を常に違った形で映し出すからである。鴨長明の『方丈記』の一節、「行く川の流れは…」で
も、「万物は常に流行し、同じものは一つもない」ことの例えとして「水」が使われているように、
「水」は月と同様に、移り変わるものの象徴なのである。そして、
『イメージ・シンボル事典』
にも、
「7 . 水はその容れ物の形をとることから、不安定、順応性を表す」とあるし、また「17. 虚
偽、気まぐれを表す」として、
「She was false(=faithless) as water. 水のように浮気だった(『オ
5
セロー』5,2)」が例として挙げられている。
講義で観た映画の中でも、「水」がしばしば登場した。例えば、ヘレナが自分の顔を水に映し
てみる場面がそうである。また 4 人の恋人たちがけんかをしている最中にも浅い池が近くにあ
ったし、2 幕の冒頭にパックが妖精たちと水を掛け合うシーンもあった。
このように、このテキストの「森の場面」には夜、月、水という「夢」の神秘性を助長し、
「あ
やふやなもの」を象徴する要素がふんだんに使われているのである。
第四章:夢と恋愛
以下は、第 5 幕のシーシアスのせりふからの引用である。
THESEUS
I never these lovers speak of.
These antique fables, nor these fairy toys.
Lovers and madmen have such seething brains,
Such shaping fantasies, that apprehend
More than cool reason ever comprehends.
The lunatic, the lover, and the poet
Are of imagination all compact: (Act5, SceneⅠ, 2-8)
この文面からも明らかなように、シーシアスは恋をしている恋人たちのことを、
「想像の世界」
にいるゆえに理性で物事を考えることができなくなっていると述べている。
「想像の世界」とは
つまり「夢の世界」とほぼ同義といってよいから、シーシアスによれば、「恋すること」=「夢を
見ること」なのだといえる。
さらにテキストの最後の方で、4 人の恋人たちはまるで夢をみているようだ、というようなこ
とを言っている。第一章でも引用したが大事な箇所のため再び以下に引用する。
DEMERIUS
These things seem small and undistinguishable,
Like far-off mountains turned into clouds.
HERMIA
Methinks I see these things with parted eye,
When everything seems double.
HELENA
So methinks;
And I have found Demetrious, like a jewel,
Mine own, and not mine own.
DEMETRIUS
That we are awake?
Are you sure
It seems to me
That yet we sleep, we dream. (Act4, SceneⅠ,184-191)
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彼らの「ような」のフレーズの繰り返しからも読み取れるように、4 人とも「夢の世界」(森
の場面)から「現実の世界」(宮廷の場面)に戻ってきたにもかかわらず、今自分たちが「夢の世
界」にいるような気持ちになってしまっている。まだ「夢の中にいる不思議な感覚」を引きずって
いるのである。
では、なぜ彼らはそれほどまでに「夢の世界」にどっぷりと浸かってしまったのか。たとえば、
....
メンバー構成を変えて、彼らのうち一人だけが神秘の象徴である「森の世界」に入っていっても
同様のことが起こるのか。答えは No であろう。
...........
その「夢の中にいる不思議な感覚」の要因は、ただ彼らが森の中に迷い込んだからと言う理由で
は物足りない。恋する「4 人が一緒」に森の中に迷い込んだからこそ、彼らの「夢」は一層「夢
の世界」に入り込んだのである。つまり、彼らが恋愛をしていたからこそ、彼らが森の中で過ご
した「夢」の世界の神秘性が高まったといえるのだ。
第五章:夢と五感
以下に、五感が狂ったボトムのせりふを引用する。
BOTTOM
The eye of man hath not heard, the ear of man hath not seen, man's
hand is not able to taste, his tongue to conceive, nor his heart to report what my
dream was! (Act4, Scene Ⅰ, 204-207)
目で→聞く、耳で→見る、手で→味わう、舌が→考える、心臓が→伝える。これらからわかる
ように、ボトムは視・聴・嗅・味・触の 5 つの感覚が全て狂っている。これは何を意味してい
るのかというと、森の中に入って妖精に魔法をかけられたボトムは、
「夢の世界」に入ったこと
で五感を狂わせてしまったということだ。
「夢の世界」は五感を狂わせる――。このことは他にも例を挙げることができる。例えば第一
章では「夢と森」について述べたが、この森というのも五感を狂わせる一つの要素になっている。
.....
そこでも述べたように、森は平らで右も左もわからなくなるので場所の感覚が狂ってくる。これ
..
は我々の視覚を狂わせる。また、第二章で「夢と夜」についても述べたが、これも森と同様のこ
..
とがいえる。つまり、夜になると今度は逆に視覚に頼ることができない。よって、普段は視覚で
..
判断しているものを嗅覚で判断しようとするのである。また、これだけでも普段の感覚とは違う
のに、人間、目を閉じると想像力が一層膨らむ。(注 1) よって夜は暗い分、想像力が豊かになる。
このように、シェイクスピアは登場人物の五感を狂わすことで、いかにも彼らが「夢の世界」
に迷い込んだような神秘的な感覚を私たち読者にも味合わせているのである。
第六章:夢と eyes
「目」は「夢」と密接に関わっている。なぜならば、人は大概ものを「目」によって判断するからで
ある。特にこれが書かれたルネッサンス期には科学など存在しなかったから、科学的な論理より
7
も目で見えるものから物事が「真実」か「偽り」かどうかを判断しなければならなかったにちがい
ない。(『イメージ・シンボル事典』の eye のイメージとして、4. 判断とある。) そしてさらに、
目は愛の象徴でもあるのだ。その証拠に、
『ヴェニスの商人』にも"It is engendered in the eye." 浮
気心は目で生まれる。(3,2)とある。
しかしこのテキストでは、その唯一の判断基準である「目」に、パックが「キューピットの花」
とも言われる三色スミレの花の汁を恋人たちに塗りつけるのである。つまりそれは、物事の判断
を掌る「目」に魔法がかかって、人間の判断基準、恋愛する心を、根本から奪い去ってしまうこと
を意味している。当然、恋人たち自身はそのことに気がついておらず、彼らは一生懸命恋愛して
いるつもりなのだが、実は全て魔法という外からの力によって操られているのである。
そのような恋人たちの中の、
『「操られている」という意識はないけれどどこか不思議な感じが
するという感覚』が、「夢をみる」ということなのだ。さらに前にも述べたように、夜になって辺
りが暗くなると、人は視覚に頼ることができないから、その夢見心地な感覚は一層募る。
このように、「目」も「夢」の神秘性を引き立てることに一役買っているのである。
第七章:夢と眠り
これは前項の話とも多少重なってくるが、「夢」があれば当然「眠り」がある。そしてそのことを
裏付けるように、このテキストでもト書きに“sleep”という文字が多く書かれている。
ではここで、
「眠り」について科学的に考察してみようと思う。科学とは無縁のシェイクスピ
アの時代にはミスマッチのように思うが、次章の「夢と無意識」の話にも繋がるので敢えてここ
で述べておくことにする。
8
まず、眠りにはレム睡眠とノンレム睡眠がある。竹内由美氏によれば、レム(REM)とは、睡
眠時に閉じたまぶたの下で眼球が急速に動くこと=Rapid Eye Movement の略であり、浅い眠り
..
...
のことである (注 2) 。そしてレム睡眠のときに人は夢を見
.
るという。
では、
「夢をみる」とはどういうことなのだろうか。
夢に対して世界で始めて科学的なアプローチをしたのはご
存知フロイトである。彼によると、夢とは「人間の無意識の
.......
中に閉じ込められ抑圧された願望が、形を変えて表れたも
の」であるらしい (注 3) 。
次に、フロイトの考える「夢」をみる経緯の図を借用する。(注 4)
この図からフロイトは、「夢」とは「無意識」から生まれたものであると説いていることがわか
る。確かに、これは 20 世紀初頭以降の考えであるし、無論シェイクスピアの時代にはなかった
考えである。しかし、私たち現代人は科学の中で生きているのであり、フロイト、そしてそれに
続いたユングの夢理論は、現代にも根強い影響を与えていることは誰にも否定できない。
よって彼らの説を用いて言えば、我々の「夢」は「無意識の中に抑圧されたものの表れ」という
..
ことができる。そしてそれと同時にその「夢」をみている「眠り」の間は、我々は「無意識」の中
にいるということが可能なのである。
9
第八章:夢と無意識
前項では、フロイトの理論を用いて「夢」が「無意識」から生まれたものであることを述べた。
実は、この「無意識」からくる感覚は、私が『はじめに』のところで述べた「恐怖感」と深く関
係しているのではないか、というのが私の考えである。その「恐怖感」とは「私ももしかしたら
彼らのように無意識のうちに何者かに操られているのかもしれない」というものである。
そこで、その「恐怖感」というものをさらに掘り下げてみる。すると私の感じたこの感覚は、
恋人たちの中の、『「操られている」という意識はないけれどどこか不思議な感じがするという感
覚』に近いといえる。なぜなら、私がこのレポートに取り組もうとしたきっかけが、まずは 4
人の恋人たちと同じように「夢の中にいるような不思議な感覚」に陥り、それゆえにその後「何
者かに操られているかもしれない、という恐怖感」に襲われたからであったからだ。つまり、私
も 4 人の恋人たちと同様、
「夢の世界」に引きずり込まれてしまったようである。
<4 人の恋人たちの意識>
<場面>
宮廷
:
①現実にいる状態
↓
森の中
↓
:
②「夢」をみている状態
↓
↓
森を出てた後:
③目が醒めて、不思議な感覚になった状態
↓
④「夢」をみたのではないかと感じている状態
<過程>
<私の意識>
テキストを読む前:
①現実にいる状態
↓
↓
読んでいるとき
:
↓
読み終わった後
②「夢」をみている状態
↓
:
③目が醒めて、不思議な感覚になった状態
↓
④「夢」をみたのではないかと感じている状態
↓
⑤何者かに操られているのではないかという「恐怖感」
その「恐怖感」は、もちろんシェイクスピアの「夢」に対する理解ゆえの文才に起因している。
私も 4 人の恋人たちも、シェイクスピアの描く「夢の世界」にとらわれてしまったといえるだろ
う。しかし、私にとってそれが一種の「恐怖感」と映ったのはなぜか。それはそのシェイクスピ
アの世界が、私たち観客の外側、つまり「無意識」に入り込んだからではないだろうか。
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そのような意味でも、シェイクスピアの作品は“Darwinism”に近いということができよう。
Darwinism は 19 世紀以降に始まった思想だが、それが我々社会に与えた影響の一つに life force
(生命の力)というものがある。それは、
「我々個人の存在を どこかで 大きな力が 動かしてい
る」という考え方である。この意識は私が『はじめに』の部分で述べた、
「我々を 無意識のうち
に 何者かが 操っている」と非常に近い意味を持っている。
『夏の夜の夢』では、4 人の恋人たちが「無意識」の間に妖精たちに操られていた。それを大
きく捕らえれば、シェイクスピアの世界に操られていたのである。まさに劇中劇のそのまた劇中
劇である。そして私もそのシェイクスピアの世界に操られていた一人だったのだ。
「人間たちの世界」を「私た
ち観客」が外側から見ていた
が、そんな「私たち」を「シ
ェイクスピアの世界」がまた
外側から取り囲んでいるので
ある。
11
終章
本稿では、
『夏の夜の夢』の「夢」について述べてきた。序章では、シェイクスピアが夢とま
....
た別のものを組み合わせるという手法を用いて、「夢の神秘性をさらに引き出している」という仮
説を設定した。それを証明するために、第一章で「夢」の定義を述べ、第二章から第八章までは項
目配列で『夏の夜の夢』の「夢」を引き立てている要素について一つずつ考察していった。具体的
には、夢と森、「夜・月・水」、恋愛、五感、eyes、眠り、無意識の 7 つである。これらにより、
それぞれの要素がこのテキストの夢の神秘性をさらに引き出していることがわかった。また第八
章では、Darwinism のことも取り上げながら、テーマ設定の動機となった私の「何者かに操ら
れているような恐怖感」が「無意識 (夢の世界)」と深い関係があることも述べた。
これらのことから、シェイクスピアは「夢」を引き立ている要素を多く用いて、
『夏の夜の夢』
の世界に我々読者を引き込んでいたことがよくわかった。そしてそのシェイクスピアの「夢の世
界」は「無意識」の領域ゆえに、私は「何者かに操られているような恐怖感」を感じていたのであ
った。以上が本稿の結論である。
おわりに
反省は主に二つある。まず一つ目は、テーマ設定についてである。今回は「夢」をレポートのテ
ーマとして掲げた。しかし、「夢」というテーマからしてとても抽象的なものだったために、自分
で定義を設定しなければならなかった。それが苦労した点である。また、このテキスト自体が空
想の世界なので、論の中で用いる言葉にすべてに感覚的な要素が含まれていた。例えば、恋愛、
不思議な感覚、夢、恐怖感…などである。それらについての読み手と書き手の意識が共通してい
る保証はないので、どれだけ読み手に伝わるように書けるかという点が最大の難関になった。
2 点目は論の展開の仕方についてである。論は、ふつう進むに連れて内容を掘り下げていくも
のだと思っていたが、今回は項目配列を用いての論になったので、最終的に個々の章を一つの論
にまとめることができたのかが疑問である。
シェイクスピアの良さは一読しただけではわからない。第一に、500 年も昔の人物で、地理的
には日本とは地球儀の間反対にあるイギリスの話なのだから理解できるはずがない。しかし、そ
れでもシェイクスピアと我々には共通点があるのだ。同じ人間であり、恋もすれば嫉妬もする。
挫折もすれば怒りもする。それでも生きていかなければならない――。
だから我々の間には必ず通じるところがある。今回のレポートに取り組んでいてそれがだんだ
んとわかってきた。いくら自分とかけ離れた存在で未知の作品であったとしても、その作品や作
家と自分の共通点を見つけてみる。そうすると、そこから新たな何かが生まれてくる。特に今回
のシェイクスピアなどは未知の部分が大きかった分、得られたものも大きかった。
以上、その得られる喜びのために、今回の反省を今後のレポートに生かしていきたいと思って
いる。
12
参考文献
阿刀田高.シェイクスピアを楽しむために.新潮社.2000.
Glassco, Bruce (光野多恵子:訳).夏の夜の夢.東京:ニュートンプレス.1997.
河合隼雄・松岡和子.快読シェイクスピア.1999.
河合祥一郎.シェイクスピアは誘う.小学館.2004.
マルカム・ブラッドベリ.現代アメリカ小説Ⅱ.銀月堂.2001.
小田島雄志.(シェイクスピア)の遊びの流儀.講談社.2005.
柴田稔彦.シェイクスピアを読み直す.研究社.2001.
鈴木敏夫.イメージ・シンボル事典.大修館書店.1984.
関戸衛.シェイクスピアがわかる。
.朝日新聞.1999.
関戸衛.夏の夜の夢.朝日新聞.1999.
シェイクスピア(福田恒存:訳).夏の夜の夢・あらし.新潮社.1971.
高橋康也.シェイクスピアハンドブック.新書館.2004.
(注 1) 外山滋比古.
(注 2) All About.(2003.9.9).レム睡眠とノンレム睡眠.
(http://allabout.co.jp/health/sleep/closeup/CU20030822/).2005.12.20 取得.
(注 3) Dinos.夢の研究.(http://community.dinos.co.jp/special/iyasu/).2005.12.20 取得.
(注 4) Think Quest.フロイト・無意識への旅.
(http://contest2002.thinkquest.jp/tqj2002/50416/top.htm) .2005.12.20 取得.
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