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。 ブラジル日系農村
近くの町から日帰りで行こう
ッy
スモ による地域活性化
ルラール
.~T^K
主要
日系農協
所在地
パラナ州
⑥①
パラナ州
サンパウロ州
主
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(
4
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.
クリチパ市
3
サンパウロ州
パラナ州
コロニア所在地
①アダマンチーナ市
②ミランドポリス市アリアンサ移住地
③アルパレス・マシヤード市
④イビウナ市
富 ⑤ジャ レス市
c:⑥バストス市
⑦マリリア市
⑧リンス市
⑨アチバイア市
(Jr'⑩グアタパラ市
⑪モジ・ダス・クル ゼス市
⑫イタペチニンガ市
⑬ヴァルゼン・ G.パウリスタ市
⑭カッポン・ボ二一卜市
⑮グアピアラ市
⑩サン・ミゲ ル・アルカンジョ市
。 ⑪タツイ市
⑩ビラール・ド・スル市
⑩レジス卜口市
ごおいさつ
ブラジル日系コロニアガイドブック
2008年は移民 100周年にあたり、ブラジル各地で祝い事
が繰り返された 。特にブラジルにおける日系人の農業の発
展に於ける貢献が広く紹介され、賞賛された。当センター
が存在するグァタパラは奇しくも笠戸丸移住者の 781人の
うち 88人の配耕先であり、他の配耕地と異なり、多くが
踏み止まったがため、第二陣の旅順丸移住者の後続もあっ
た。それで現在、当時の移住者の子孫は皆無にもかかわら
ず、グァタパラこそ日本移民の原点であると主張する方は
多い o
果たして、ここに 100周年特別記念事業として、 6300本
のブラジル在来樹種を植林し、「日本ブラジル 100年の森 J が当センター内に造成
された。 6 月の起工式の折には両国の J A T A K 関係者、来賓、各地と地元の
移住地の代表、友人 200名により 100種類の木が植えられて、新しい 100年を目
指しての出発を祝った 。 10月には環境保護と経済林業との両立を目指す、山添源
二氏提案の多目的造林の本格的試験林として、またその一部は戦後農業移住者を
代表する、かつての「コチア 青年」や地元移住者たちの出会いの場所として、植
林祭も行なわれた 。 またその後の訪問者たちによる記念植樹など、まさに植樹の
果たす役割は大きい 。将来にはその価値は観光資源ともなり、本来伐採利用され
る時期に差し掛かるとき、再検討が余儀なくされることが予想される。
さて、当センターの情報部の研究員である田中規子氏がまとめたコロニア・ガ
イドブックは各移住地を観光地として光を当てた紹介書であり、時節がら的を射
た企画であった。
J A T A Kの使命は南米の日系農家の支援にあるが、この小冊子の読者が旅行
心を掻き立てられて、グリーン・ツーリストとして農家と接触することにより、
双方の得る満足度は決して低くはないはずである 。
コロニア・ガイドブックが日本からの旅行者、ブラジル圏内のコロニアの皆様
にお役に立てれば無上の 喜 びとするものです。
2009年 3月 26日
JATAK 農業技術普及交流センタ一
広瀬哲洋
所長
r
コロ=アヘ待こう
りやすい形で紹介し、広くコロニアに興昧を持ってもらうことである 。 1908年笠
戸丸移民からはじまった日本人移民の歴史は 、 ブラジルの農業に大きな影響を与
え
、 貢献してきたといわれている 。 初期移民は、コーヒー農園の労働者として導
入されたが、徐々に土地を買い、独立 し、農村部や奥地に日系移住地=コロニア
を形成してきた 。 そうしてコロニアの人たちは、農業を発展させていった 。 また
歴史が進むにつれ農業のみならず、他産業へも進出する者を生み出し、いまやブ
ラジルの日系人人口は 150万人ともいわれるまでに成長した 。 日系移民は農業か
らはじまり、ブラジルに広く裾野を広げて定着 し、様々な分野で活躍しているの
である 。
しかしながら、この日系社会の原点ともいえる各地の農村コロニアはいまどう
なっているのだろうか 。 ブラジルの農業を支えてきたコロニアは、どんな農業を
行っているのか、そしてどういった歴史を経験してきたのか 。 そうしたことを
100周年を期に振り返ってみた 。
各地のコロニアでは、あるところでは果実生産を伸ばし、柿やブドウ、リンゴ
などブラジルではほとんど生産されていなかったものを大量に生産するように
なった 。 さらにはデコポンといったような高級果実を生産したり、ランなどの高
級な花井類、また大規模な穀類生産地帯に成長したところもある 。 こうした農業
の現状を知ってもらい、ブラジル国内外に広く流通する農産物に、日系農家が深
く関わっていることを知っていただきたい 。
そしてその現場であるコロニアは、日系人独自の技術や文化、思想を持ち、そ
してブラジル文化と融合しながら町や農業を発展させてきたと思う 。 これはコロ
ニアの建築物や街並みにも表れている 。 なかには日系移民の歴史を伝える博物館
を持つ町もある 。
こうしたコロニアヘ是非とも足を運んでいただきたい 。 コロニアの田園風景や
街並みのなかに昔の日本人の足跡を確認していただきたい 。 そうすれば日本人が
この国でどのように町をつくってきたのか、どのように農業を育ててきたのかを
思い描くことができるだろう 。 そしてその成長の果実である新鮮で瑞々しい農産
物を、コロニアで子にしていただきたいのである。
ブラジル日系コロニアガイドフック
この冊子を作った目的は、日系コロニアの歴史や現状、農業への取り組みを解
がJ
ドチ
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サンパワロ州
アリアンサ 偉人が率いた移住地
アjしパレスマッシヤード 初期移民の魂ガ眠る町
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9
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7
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0
3
2
3
4
3
6
3
8
イビウナ 自然豊ガな酒養地
バストス ブラジル 1の卵の里
1マリリア 野磁の盛んな町
1 リンス ノロエステ練移住地の歴史を残す
1ジャーレス 広大な牧場地帯
1グアピアラ 野菜・果実の名産地
Iアチパイア 涼やかな花の町
グアタパラ 第一回日本人移民の足跡残す
モジ・ダス・ク J
しーゼス サンバウ口近郊最大の読菜供給地 鼠
アダマンチーナ サトウキヒの町
イタベチニンガ のどかな牧場の広がる
ヴア J
しジヱン・ G ・パ アーティチヨークの産地
カツポンボニート 手作り・新鮮野菜の直売所
サン・ミゲル・ア J
し力ンジヨ フドウの首都
I
1
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タツイ 音楽の町
ピラー J
し・ド・ス J
し 高級ブランド果実の護地
レジストロ お茶で栄えた町
アマゾナス州
4
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工フィジェニオ・デ・サーレス
アマゾン中流の読菜・鶏卵供給墓地
4
2 パラー州
4
2
•
アグ 0コォレストリーによる熱帯祭実の産地
トメアス
パイーア州
J
K サJ
しパドー J
し近郊腹業
ジユアゼイロ
.
ブドウ輸出量ブラジル 1の町
南マットグロツソ州
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ヴア J
しゼア・アレグレ
5
2
ナビライ
ドラードス
大豆・メイズ生産地・・・セラード農業
セラード地帯の養鶏産地 口
綿花栽指と製糸工場で拓けた町 田 悶
5
4 ミナス州
5
4
5
6
5
8
6
0
6
1
さ
サンゴタ J
しド セラード開発の成功例
ツルボランジャ 果樹団地 自 圃
ピラポーラ サンフランシスコ河濯溜果樹因性
ベルジーゼス コーヒー栽培の最適地
モンテカルメロ 香ばしい高品質コーヒー
E
喜
一
+キジタ@カタワーナ州
6
2
6
4
力ノイーニャス
サンジヨアキン
穫子蕗鈴薯とマテ慈の産地 .
リンコ 87ジを湾てたDl] .
ラナ州
6
6
6
8
7
0
ロンドリーナ 援沃殺結倉地帯 ・
・
-田
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ポンタグロッサ
72
カスト口
アサイ
7
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般類と野菜の大規模産地
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パ Jしマス
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回目.
アリアシザ移住地
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サンパウロ州
• SP
ミランドポリス市
アリアンサ移住地
アリアンザ移住勉
•
サンパウ口市
ミラ ン ドポ リス市
・人口 25,849人
(1
BGE2008推計)
・面積 920km'
永田調胸像
アリアンサ移住地生みの親
アリアンサ移住地は(同盟の意味)ミランドポリス市
内からマレシャル・ロンドン街道を北に向かった 20km地
点にある 。 ミランドポリスはサンパウロ州の北西で、サ
ンパウロ市から 582km、南マット・グロッソ・ド・スル州
境近くに位置する 。
ブラ拓の 4大 移 住 地 の 一 つ ア リ ア ン サ は 、 最 初 か ら
ブラ拓が造成したのではな
元ホテル裏の小屋
い。 そ の 前 に 、 信 濃 海 外 協
会や富山県、鳥取県などの海外移住協会及び力行会な
どによって創立されたものであったが、運営管理に問
題があったため、 1931年 既 に ア リ ア ン サ 移 住 地 の 隣 接
地 を 購 入 し て い た プ ラ 拓 に 移 管 さ れ た 。 こうしたいき
日本人の古い農家
さ つ で ア リ ア ン サ 移 住 地 は ブ ラ 拓 第 4番 目 の 移 住 地 と
して生まれた 。
1924年に信濃海外協会が購入した土地約 5,300haが第
一 アリアンサの始まりで、第二 アリアンサの発足は 1926年、鳥取県が購入した信 j
農協
会の隣接地約 2,900haと、信 i
農協会が買い足した約 l,900haとなる 。 この年、富山県
も土地約 3,150haを購入し、村造りの第 一 歩を踏み出し
た。さらに信濃協会も 4,100haの隣接地を買いたし第三
アリアンサの誕生となる 。それから、熊本県もヴィラ・ノ
ヴァに土地を購入して農家を移住させている 。
アリアンサ移住地にはファゼンダ・アリアンサ農協が
あ る。 1939年、原綿の集荷からさらに精綿工場の経営を
目的に創立された 。 いまでは日系では 2番目に 古 い農協
である 。 販売部門はなく、飼料加工と消費部門だけにと
どまっている。この地域では、 フェイジョン豆 、 互腐用
組合事務所
アリアシザ穆住地
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樹)、マンゴ一、肉牛、鶏卵、
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凡
マカダミア(ナッツ)、パイ
コナッツ、ゴム、バナナ な
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s市行きのパスが
どが生産されている。この
ように移住地を縦断する
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出ている。E
パイン
と、街道から色んな作物が
社
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a社。所
要時間約 9時間
次々と見受けることが出来る。移住地以外では、近年サ
ト ウ キ ビ 栽 培 が 他 生 産 物 や 牧 草 地 に と っ て か わ り 急激に
増加している。
. バ "".~'
入植祭(毎年 7月ごろの
第1
土 日曜日)
│ゆとごろのどごろのどごろのどごろのどごろのと2ろ
│
アリアンサ農協
.弓場農場
曾(
1
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8・1
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共同生活社会。日本や
アリアンサ日伯文化体育協
南米各国での芸術ツ
会
アで知られる弓場農
宮(
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村バレー団(小原明子
ぺ
ν
代表)。多くの人たちが
ィラ ・パレッ 上苓
ここ弓場コミュニティで
の生活体験に訪れる。
アリアンサから 40KM。チエテ
移住地も、戦前フ、ラ拓によっ
て創設された移住地。町には
資料館もある。 8月には盛大
に盆おどりも催される。
自イペー(弓嶋農渇会堂裏)
.ペレイラ・パレット移民資料館
L.
.
.
.
.区象主:二 弓吋 輔
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1
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~孟~ニ_ . 唱~.~・
「偉大なるチエテ河にかかるつり
9
5
7年 4月の新聞
橘』と報じる 1
「ベレイラ・パレット移民資料館にて撮
車
三
」
1
9
3
5年にブラ拓がつくった橋の
模型 f
ペレイラ・パレッ卜移民資料館j
橋が沈むチエテ河
副掴
闇
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1 ー± 士
アリアンザ移住地
サンパウ口市バスターミナル
B
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a Fundaから毎日 2本
ン、ブドウ(イタリア)、コ
サンパウロ州
-Informa霊園・・
大 E、メイズ、グアヴァ(果
アルバレス・マシヤード
AlvaresMachado(SP)
ザンパウロ州アルパレス・
• •
SP
ァルパレス
マシヤード市
サンパウ口市
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守守』ヂ宇古マ有望E 哩 圃 圃 圃 圃 圃 圃
市
招魂祭の行われる日本墓地ー歴史遺産
推 計)
一
一
、晶司匝S アルパレ ス ・マシヤードはサンパウロ市から 553k m、近隣の奥ソロカバナ線の雄都ブレ
シデンテ・プルデンテ市からは 13kmの地点に位置する。古くか ら、ブラジル日系社会では H
プ
F
本人墓地の招魂祭 として知られている 。戦前移住者の中には福岡と長崎出身のカトリック信
者が多くいる 。
9
1
6年にマノエル・フランシスコ・デ・オリベイ
当地は、 1
ラがこの地帯の土地を購入、伐採して屈を構えたので近辺に
9
1
7年には邦人移民が入植
住んでいた人達も集まりだした。1
している 。初期移民のなかでも 星名 謙 郎 と 小 笠 原 尚 衛 が 有
名である 。星名はハワイ、北米と転じブラジルへとやってき
た。最初期の邦人紙である「週間南米」を発行、他にもコー
ヒー栽培者への低利融資を日本から引き出す運動を成功させ
中村神父
ている 。星名は 1
9
1
8年にプレジョン植民地を売 り出した。動きを同じくして、北海道開拓で
0名を呼び寄せ当地の開拓を行った。
財をなした小笠原は当地を見聞した後、日本からー族 5
1919
年にソロカバナ線鉄道が到達し駅名をブレジョンと名づけられ、 1
9
2
1年住民の要望で
マ・ブ・オリベイラは駅近辺の土地を分譲したので急に村落 となった。同年に外│政府はフラ
ンシスコ・アルパレス・マシヤード・エ・パスコンセロスに敬意 を表して駅名をアルパレス・
マシヤードに変更した。
この地方は馬鈴薯、コーヒ一、落花生,ハッカ、綿花、養蚕の新興地帯であり、多くの日
9
3
6年に設立 されたアルパレス・マシヤード産組と 1
9
4
0
本人が活躍していた。日系組合は 1
年に誕生したプレシデンテ・プルデ、ンテ産組という三つの地域組合があった。
コロニア全般に悪条件が重なった第二次大戦中の 1
9
4
3
年、コチア産組がこの地方に進出して
きたのは、そこに在住する日本人農業者の庇護ということの他に、綿花と落花生の生産拡大
という大目的によるものだった。ハッカは“敵性産業"と陰口を叩かれ、日本人仲買商は積
極的な買い付けをせず生産者は売りさばきに困っていたのであった。
南伯アルタ・ソロカパナ農協は購買事業を 主力として営農資材屈 とスーパー マーケットを
運営している 。近隣に中都市プレシデンテ・プルデンテ市があり、小規模な“プレジデンテ・
アルバレス・マシヤード
Alva
陪
・
-.m'.I ヨ
・
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ニャ、アテモヤ、マンゴー が生産されている 。サ ン パ ウ ロ 市
場への果実出荷は奥ソロカパナ生産者団体を通じて行ってい
る。また、 コーヒ一、サトウキビ、牧畜 の生産地帯でもある 。
サンパウ口市バスターミナル
B
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aFundaから毎日 1本
あるが、各市停車などで所要
時聞が9時間。プレシデンテ ・
ゆとごろのどごろのどごろのどごろのとごろのどごろ│
プルデンテ市まで直行で行き
乗り換えれば 7時間半で到
着できる。パス会社は
Andorinha
、
力ViacaoM
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。
招魂祭が毎年行われている。 1918年に最初の日本人が埋葬さ
車で行くと 6時間半。
れ
、 1919年最初のミサが行われた。 1921年に墓地になり、招
•
魂祭は 1922年から行われている。現在ではこの墓地は歴史遺産
に指定されている。
日本人墓地での招魂祭
(
7月第2日曜 日)
-モンセニョール DOMINGOS中村記念館
日本人移民の最初のカトリック
宣教師。 1865年長崎で生まれ
南伯ア )
"
9.ソロカパナ農協
神学校卒、 1897年に奄美大島
審(
18)3273-1303
で 26年閣のミッシヨン。 1923
年ブラジルのサントス港に着陸
したときは 59歳だった。ブレジョ
ン植民地を拠点として、サン・
パウ口、リオ・デ・ジヤネイ口、
~:r石魂』アルヴァレス ・ マッ
中村神父記念館
パラナ、マット・グ口ッソ、ミナ
シヤード 開拓五 十周 年記念
誌 1968年
ス・ジヱライス州の遠い道のりを厭わず、福音の奉仕と人々の回
心と魂の救いのために何百の村落をめぐる。 1940年に 3月 14
日アルパレス-マシヤードで生涯をとじた。
参考文献
ParoquiaSaoj
o
s
eホームページ
日本人の歴史アルパレス-マシヤード Joao
PauloSuzuki着。移民 100周年委員会発行
日系社会ではあまり知られていないが、当市生まれの松浦敏明オ
スカル氏は南米では著名な天文学者である。サンパウ口総合大
学教授、リオ・デ・ジャネイ口の天文博物館理事、イピラプ工ラ
のプラネタリウム理事、ブラジル天文学誌編集長を歴任した。現
在でも研究を続け国内外の講演や学会に出席している。
中村神父記念館の織の教会
ド富岡
-日本人墓地
ザンパウロ州アルパレス・マシャ l
プルデンテ近郊都市"が成り立ち、野菜や果実の販売が軌道
に乗りつつある 。生 産 物 は 果 実 が 中 心 でブドウ、カキ、ピン
5 Machado(
SP)
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i白na(
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)
ザンパウロ州
イビウナ市
イビウナ文協
マレットコルフ場
イビウーナ市は、サンパウ口市から 6
8
f
廿1の地点にあり、古
くは日系人の馬鈴薯の一大生産地として知られた。冷涼な気候
と起伏の激しい地形が大型農業には不向きな地帝だが、サンパ
ウロ市に近く小農園や別荘としてはむしろ歓迎され分譲化が進
んでいる 。特に、イツパラランガ湖水は景色もよく、州都サン
4
1
'
¥ウ口市民の憩いの別荘地として発展の一途をたどっている。
宇野兎 1
6
仰年代のイピウーナは、広大な原始林に覆われていた。沿
市のシンボルである高台のボン・
‘画面白軒性気候はこの一帯に過多 な降雨量をもたらし、 一年中濃霧 ジェズス礼拝堂
に覆われて日の目をみるこ とは少なかった。 それ故インデイ
オたちはこの地をウーナ(暗い)と呼んでいた。 1
7
1
0年、マノエル・デ・オリベイラ・カル
7
6
0年に子息が教会堂を建立
パリョがボルトガル国王から一区画の土地を付与され、その後 1
した尉囲に、板や土壁の家が建って村落を形作るようになり、当時そこを通る馬追いや旅人
達の一時的な滞在所として重宝がられるようになった。
当時ミ ナスには金が産出して急激に発展した。その運搬手一段として馬の需要が急増したの
で、リオ・グランデ・スル州の草地(パンパ)に野生化した馬の群れが生息しているのを捕
獲してミナス州に送り込んだ。続々と送られていく馬群に刺激されたウーナの開拓者の何人
かが、原始林を切り開いて牧場となし馬を飼育した。言い伝えによると良い馬が産出したと
のことである 。 メイズその他を栽培して馬と共にミナスに輸出した。
9
3
2年で、当時サンパウロ市モルンビー植民地で、いわゆる鹿
.
.
.
.
.
.
.
. イビウーナの日本人草分けは 1
う年に重り、
m.孟畠足島村で馬鈴薯作りをしていた前田重森、芳彦兄弟と岩川仁太郎である 。その後 19&
宅謹m7
サンパウロ近郊の各地から新地を求めて馬鈴薯生産者達が入植。新興団地ウーナ(後のイビウー
一 ナ)にコチア組合が事業所を開設したのは 1941年、すでにほ)名近い馬鈴薯生産者が活躍して
いた。この前後から馬鈴薯専業農家も単作への不安を感じ トマト、キャベツ、ニンジン、ピー
マン、カボチャ、キュウリ、花キャベツなどの野菜と養鶏を取り入れて営農の多角化を図った。
1
9
4
7年頃、ちょうど戦後のパニックから抜け出て精神的な落ち着きを取り戻し始めるのと
歩調を合わせるかのように、日本人農業者の問に新しい動きが見え出した。サンパウ口外│の
奥地から近郊へあるいは北パラナの新天地へ向かつての移動である 。その主たる動機は「勝
ち負け騒動からの逃避」であったといわれる。イビウーナにも近郊の便利さと冷涼な気候を
求めて次々と入植し、当時の主要作物であったトマト、馬鈴薯を栽培し始めた。
1
9
5
0年代に入ると近親呼び寄せ、コチア産組単独青年、 )
J行会、県人会呼び寄せ、他国よ
・
.
.
E
司
F
イビヲーナ
Ibiuna(SP)
-・・ヨヨ・・・
.交通手段
ている。パス会社は Cometa
社。所要時間約 2時間、車
であった。さらには花井栽培
へとつながっていった。コチ
果てしなく続〈潅灘野菜畑
ア産組解散後にサンパウロ州
イビウーナ農協 (CAISP) が設立され、設備野菜、葉野菜を
で 1時間 15分
。
.イベント
7月)
脅すき焼きの夜 (
大規模生産してスーパーに卸している。
イビウーナ市は宮崎県串間市と姉妹都市である。日清ラー
メン 工場も当地にある 。
-日系団体
実イビウーナ文化協会
,
1
de
'
;2ろのどごろ似ろのどごろ悦ごろ似ろ
宮(
1
5
)
3
2
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1
1
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*イビウーナ農協 (CAISP)
宮(
1
5
)
3
2
4
1
1
4
0
1
-ボン・ジェスース礼拝堂 (CapelaBomJesusdaPrisao)
1028年に市内の一番高い所に建てられた唯一の歴史を物語
る礼拝堂
・見晴らし台 (MirantedaFigueira)
市内から 4キ口、面積 19.
500m。
・イツパラランガ湖 (RepresadeItupararanga)
長さ 40kmlこ及ぶ湖。レジャー
施設があり家族で楽しめる。
・古谷パーク
観光農園
・ヤクルト球場
ベースボールアカデミーの練習
イツパラランガ湖
場にな っている。現在生徒は
旧コチアイビウーナ畿協開設
記念碑。故井上中央会会長書
45名で、シア卜 J
[
"
マリナズ
やボストンなど欧米のクラブチムにも卒業生を輩出している。
日本ではヤマハ、大学には臼鴎大学、富士大学などに留学生
.参考文献
を送っている。毎週日曜日に
合イピウーナ文化協会創立
50周年記念誌『イピウーナ
は練習試合を見学できる。
日系人発展史』碁石博文編
・浄土宗日伯寺
集(イビウーナ文化協会発
行・ 1999年)
主に州南西部地方の日系人
信徒が通っている。
ヤクルト E
事場
イピウナ市
サンパウ口市パスターミナル
T
i
e
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eから毎日 4本パスが出
ビウーナをブラジル屈指の競
菜生産へともりあげてきたの
ザンパウロ州
りの再移住など戦後移住者、
草分けの人達、戦後奥地より
の移住者もここへ集まり、イ
。
Bastos(SP)
バストス市
(
1BGE
20
04推計)
・面積 170.4km2
卵祭りの盆踊り
バストス市はサンパウロ市より 5
5
0kmに位置し、サンパウロ州の中央東から西方向の
.
.
.
.
.
,
.やや中央を貫くパウリスタ線の中心にある 。
J
'-iJ.F~ このバストス移住地はチエテ、
トレス・パーラス(現パラナ州アサイ市)とともに、海外
、~l移住組合連合会の梅谷専務のプロジェクトに基づいて建設された 。 1928年に移住地の地権が
購入され、 1
9
2
9年に現地会社である「ブラジル拓殖組合」設立 と同時に約 2
9,
OOOhaの名義
が海外移住組合連合会から変更された。直ぐに日本から移住者を受け入れると同時に、ブラ
ジル在住の移民にも分譲地の購入を進めた。そうした努力で約 1
8,
000haの農園が日本人に
よってできた。余った土地には日本人以外の農家にもチャンスを与え、入植させたので漸次
国際性を帝びていった。
・・
日系社会では、バストスは「移民の故郷」
ともいわれているが、これはブラ拓移住地
a Mを指した敬称と恩われる 。
E
書l
u
1全国的には、 「養麹の里Jとして有名で、そ
司.,.. ~れに 養蚕、ポンカン、ライチ などでも知られ
ており、これらの果実はブラジルではバス
トスで最初に栽培が始まった。 5
0年前まで
は商庖の看板はほとんど日本語で書かれて
いた。いまでは、 サトウキビ畑 が市全体を図
んでいる 。
従来から、バストスの人たちは子弟教育
に熱心であったので、政界、学界,
ライチ
法界を含み英才が多く輩出している 。鉱山
・ エネルギー
相や政府系ペトロプラス石油会社の総裁を務めた植木茂彬氏も当地出身で、また数名の日系
市長が生まれている 。
バストス市には南伯パヌトス、バストス養鶏、バストスの養鶏主体の 3農協がある 。この
中でバストス農協はコチア、南伯、両中央会が解散後は日系最古の活動農協となる 。コーヒー
バストス
Bastos(SP)
設立 された。今では、ブラジル全土というよりは、製糸に関
しては世界でも知られる企業に発展した。
.
.
.
.
入
日本との交流は、三重県熊野市と北海道遠軽市の両姉妹都
サンパウ口市パスターミ
市の友好交流を市と日系文化体育協会で行っている 。
l
M
ごろのどごろぬとごろのどごろぬとごろのどごろ
-山中三郎記念バストス地犠史料館
バストス移住地や
日本人移民の歴史
にかかわる資料・
物品を中心に収
蔵・展示されてい
る史料館。水野龍
ナル BarraFundaから毎
日 4 本のパスが出てい
る。パス会社は Expresso
deP
r
a
t
a社。所要時間 7時
I
間4
0分
。
、《
卵祭り
毎年 7月に開催され、同
時期に行われる大同窓会
ではバストス生まれが故
郷に帰ってくる。
による笠戸丸航海
日誌、 8
0
0
0枚を超
える移民関係写真
史料など、他では
みられない貴重な
収蔵品がある。
-プラ拓製糸工揚
卵祭り
バストス日系文化体育協会
音
量(
1
4
)3
4
7
8
1
6
1
8
バストス養建農協
宮(
1
4
)
3
4
7
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0
3
4
バストス農協
宮(
1
4
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0
2
2
南伯バストス農協
寄付 4
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1
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0
7
ザンパウロ州バストス市
・.m'ollllf
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1
宝
週
・
・
・
産業の衰退に伴って、養鶏や養蚕が導入されブラタク製糸が
四ロ
Marilia(SP)
マリリア市
197.342人
(
1BGE-2004推計)
・面積 1
1
7
0.0
8
k
m
'
マリリア市
ノロエステ鉄道とソロカバ鉄道とは、サンパ ウロを西に、
やや平行しつ つ縦断するが、これら 2鉄道の聞に挟まれた中
間地帯を貫くのが、パウリスタ延長線である。この地帯はサ
ンパウロ州内でも新聞の地域に属し、日本人入植も初期より
も中期の移住者が主になっている 。この延長線随一の雄都が
・
マリリア市である 。同線のバストス移住地はここから 100km
.
.
.
.
・‘先 にある。サンパウロ市からは 426凶lである 。
J
a
p
a
nf
e
s
t
a
2聖!J1923年マリリアに最初に入植したのは、ポルトガル系家族
司
・Vで、それから数年後にはパウリスタ鉄道が隣のラシオ (Lacio) 駅までに到達した時、当地
の駅に命名が必要となり、鉄道会社はそれまで ABC順に名前を付けてきたので、次は“M"
となり、いろいろ提案されたが満足な名前があがらず、ベント・デ・アブレウ氏が船でヨー
ロッパに航海中、たまたま読んで、いる本の名“M
a
r
i
l
i
ad
eD
i
r
c
e
u
"と言うことで「マリリア市」
となった。
邦人による 最初の入植は 1926年頃からである 。マリリア市内というよりも、近郊に大小約
60の入植地がつ くられた。
この地帯の開発は、あたかもサンパウロ州の綿花栽培のブーム期と、コーヒー樹植え付け
l
1
iU
限解除の時期と 合致したため急速に発展し、 マ リリアは綿花の中心地とな った。 しかし、
この地帯は砂質土壌が多いために、表土の流失が早いのと 、いま一つは土壌中の有機質分解
を急速にする亜熱帯特有の条件も作用して、従来のような粗放的農業では、地力の急激な減
退を免れなか った。従って、この地帯の日系人農家は移動性に富み、鉄道の延長工事につれ
て奥の未開地をめざして移転するもの、北パラナ地方に流れる 者が相次いだ。
南伯組合が出張所を開設したのは 1952年
、 鶏卵、コーヒ一、綿を主要生産物として扱って
きた。中央会解散後、組合が経済面だけでなく、日系人の交流や技術向上の場所であったこ
ともあり、数十名の有志がリスクを負い再建に向かつて団結した。購買事業だけに絞って営
農資材庖を開設
、 組合員への必要資材に加えて、牧畜飼料、増加し始めた小農園や別荘地の
マリリア
Marilia(SP)
マ リリ ア市は 中都市であり、 近隣のパウル市場もあること
か ら、組合員の 生産物 も地域販売 に対応す るため多様化して
イ、桃、ポンカン、マラクジャ、マンゴー、アボカド、スイ
カ、野菜 な ど生産さ れて いる
。 それ に牧畜 もあ る。マ リリア
市は 東広 島市と姉妹都市を結んでいる。
l
のどごろのと2ろのとごろのどごろのどごろぬとお│
.マリリア市歴史委員会
歴史の研究と史料を集め 般
にも公開している。
.笹崎工業
南米ーのアルミサッシ(窓枠,
戸)工場で全国の 50%以上占
有
。
サンベン卜寺院:マリリアでー番
古い教会
.西村農学校 /JACTO工業 (農機具製造)
25km先のポンペイア市にある。
.ボスケ・ムニシパル公園
20haの中に 100種類の木が
植わっている。400年以上の木
もみられる。
サンパウ口市バスターミナル
B
a
r
r
aFundaから毎日 13本
パスが出ている。パス会社は
ExpressodeP
r
a
t
a社。所要
時間 6時間半
.イベ ト
,日本祭り (JapanF
e
s
t
)マ
リリア日系クラブ主催で毎年
4月に開催され 3日間で7万
人動員。今年度はマリリア大
学と共同でアグリビジネス市
場を設けて優良牛、羊、牧場
犬や農機具の展示、先生と
生徒が牧場管理-法律などに
ついての講座-指導を行う。ア
リアンサの弓場j札ー団も初め
て参加する。
7
.
.スタ・ジュリーナ (
7月)
春祭り (
9月)盆おどり、
マリリア文協主催。
すスイカ祭り (10月)
弘、8ゃ[1:
1
体
*マリリア日伯文化体育
協会
宮 (
14)3413-1889
.ファゼンダ・フロレスタ
農場
騎乗、キャンピンク
守、プール、家
庭料理、宿泊など。
今ヲ去五綴
ポスケ・ムニシパル公園
食南伯マリリア農協
宮 (
14)3454-8010
3433-4975
南伯マリリア a
mの営底資材l
高
マりリア市役所
本願寺
マリリア市
きた。今では コーヒ一、メイズ、フェイジョン豆、ラッカセ
・
・
m
1
'
m
l
璽
璽
型E・
・E
ザンパウロ州
必需品も扱 ってい るユニ ークな資材屈 に成長し た。
Lins(SP)
-人口 8
1,982人
(1
BGE200
8推計)
・面積 5
7
1,442km2
日本風街並みのリンス
リンス市はサンパウロ州の北西部に位置し、サンパウロ市
封道を通ってマレシャル・ロンド
からはカステロ・ブランコ f
nの地点にある 。 ノロエステ鉄
ン街道に入る、総距離 455kr
道は、パウル市を起点とし、マット・グロッソ州を横断して
ボリビア国が終点となる。その州境までの 5α)k mを/ロエ
ステ地方と称し、占くは H本人農家が最も大量に集団した地
方であつた。現副市長は H系人のケイコ.オパラ.クリモリ
リンス.セント口-古建築
~以以(K c i
k
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o仙
0bara K
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汀
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rI川
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日削
込
.1'
勾
!J当市の起源は 則
1
9
凶O
ω
4
年カか、らバウル駅を起点とするノロ工ステ
可~町不糠線鉄道工事が始まり、 1908 年に第一回笠戸丸移民が到達した
が、駅ゃあたり 一帯は未開発の処女林に覆われ、インジイオ
が居住するに過ぎなかった。土地も所有者はいても正確な境
界が判明せず、全く混沌たる状態であった。 1911年、初めて
公定測量が行われ、境界線を作って土地の販売を開始し、開
拓に着手するとともに居住者もあちこちに点在するように
なった。
このノロエステ線上の両隣市にコロニアで有名な平野植民
J
也(カフェランジャ 1915年)、そして上士家(プロミッソン
プロミッソン 上塚周平公園
1918年)植民地がある。平野植民地は、マラリアのために多
くの入植者が倒れて逝った「悲劇の植民地」として、またヒ
塚植民地は、「移民の父」と称えられている上塚周平氏の創
設した植民地として、ブラジルの日本移民史上欠くことの出
来ない植民地である 。
1916年、パルボーザ植民地に最初入植した日本人は、第二
同移民の熊本県人 6家族、続いて 5家族、 1918年にはウニオ
よ塚周平の墓
リシス
L
i
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暗 (
SP)
.
w
設した。その後、日系人の入
サンパウ口市パスタミナル
B
a
r
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aFundaから毎日 2本
パスが出ている。パス会社は
ExpressodeP
r
a
t
a社。 J
¥
スでの所要時間は 7時間、車
で 6時間。
植は盛んになり、 1
9
3
5年頃の
最盛期には 20以上の植民地
が開拓されて 2,
000家族にも
4・・』重したといわれる 。
量差~~昌 コチア産組の事業所が開設
可・・Vされたのは戦後間もない 1
9
4
6
販売に困難をきたしたので、
喝べ !
農畜産品評会
(毎年 6月末から 7月初め)
ラン展ー Exposi
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叫主00
叩 尚no主
(
5月 A
コチア産組に販売と飼料の原料の確保を要請した。その後生
催)
年で、 2
8家族が 3
0
0羽養鶏を
始めたが、その当時奥地の住
民は白卵を食べる習慣がなく
産していたコーヒー、落花生、メイズ、果実、読菜、馬鈴薯
などが加わっていった。
ョ
中央会解散後リンス地域農協 (
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O
A
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N
S
)が設立され、営農
資材・園芸屈とスーパーマーケットを開設。スーパーは組合
員の生産物や婦人部の手芸品、加工食品が優先的に販売され
ている 。果実と読菜はリンス市や中都市のパウル市などに販
1
.も
*リンス慈善文化体育協会
宮(
1
4
)
3
5
2
2
・
3
8
5
5
リンス地織農協
奮(
1
4
).
3
5
2
2
6
4
2
2
売していることから、生産物も多様化してきている 。ナス、
キュウリ、カボチャ、トマト、ピーマン、マンコ ー‘アテモ
ヤ、シャカトウ、パイナップル.コーヒ 一、肉牛などが生産
されている 。
l
のどごろのどごろのどごろのどごろのどごろのとごろ I
.リンス総合大学都市
.温泉:石油探索中の鉱泉
.近隣プロミッソン市の湖
チエテ河を堰き止めて出来た湖。
釣1
)とレジャーを家族と楽しめ
る
。
.リンス文協の移民資料館
開覧希望者は自前にリンス文協
リンス文協史料室
に連絡が必要。
.
.
リ
『 ンス入植 60・70周年記
念誌
』 リンス連合文化協会
1
9
7
6年・ 1
9
8
6年サンパウ
口新聞 1
9
9
6年 1
1月 2
3日
ザンパウロ州リンス市
・
・
圃
血
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司
・
・
・
・
ン植民地に香川県人 4家族が
入植し、それぞれ植民地を開
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)
ジャIレス市
•
サンパウ口市
-人口 49
.681人
(
1
B
G
E
2
0
0
8推計)
・薗積 3
6
9
k
m
'
エタノールブームで鉱大するサトウキピ畑に立ち向かう牧織地帯
ジャーレス市は、サンパウロ州の北西に位置し、州、│
都から
・・
-園町田璽曹型置圃
約 600kmの地点にある。従来、 陸稲、綿、コーヒ一、その他
雑穀、義務などで栄えた地方だが、最近では、サトウキビや
h大豆栽培へと変わってきた。
i品J.~!l 当地方はサンパウ ロ 州の中で最も新しい市で、 1940年に初め
4
司~て伐採がはじまり、ヤシの葉を覆った小屋が建ち、入植者逮の
要望に応じて中央広場に質素な十字架が建てられた。翌年の
1
9
4
1年には大きな十字架に変わりジャ ーレスが誕生した。最初
から、将来市が発展する潜在力を考慮した合理的で整然とし た
薗がなされていた。市制は 1
9
4
8年に認められた。
1
9
8
0
年代半ばに入植していた日系農家が始めた ブドウ栽指
高利潤をあげるのを見て非日系も続いた。 有利なこと
は、同地方のブドウの収穫期が 8月から 10月であることで、
ブラジル東北部(バイア州、ペルナンブコ州)は収穫も終わ
.交通
サンJ
I
.
ウ
口
市パスターミナル
BatraFundaから毎日 9本
パスが出ている。パス会社は
I
t
a
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y社。
所要時間約 9
時間。
.日系団体
*ジャレス目伯文化体育
協会
宮(
1
7
)
3
6
3
2
・
3
2
7
1
女甫伯ジャレス畿協
宮(
17)3632
・1
245
り、サン・ミゲール・アルカンジョ地方はまだ収穫に遠く、
いわゆる端境期に当たるため高価格となった。
同時期に、ブドウとともに注目されたのが歴史の浅い マン
ゴー栽培だったが、ブドウと同様に数年間でサンパウロ州各地
9
9
0年代には生産過剰となり打撃をもろに受けた。
に広まり、 1
同地には南伯ジャ ーレス農協とジャーレス生産者総合農協
がある。南伯は主力を飼料加工と購買事業に絞っている。組
合員は ブドウ、カボチャ、オレンジ、野菜、肉牛を生産とし
9
9
3年、南伯農協ブドウ生産者
ている。ジャ ーレス農協は、 1
グループが輸出目的とそれに必要な冷蔵庫設置の融資を受け
るために設立した。いまは、 20名の生産者で ブドウ、オレン
ジ、野菜の売買を行っている。
甫伯ジャレス.協.務所
夕、,ビァ, DC
!
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Guapiara(
S
P
)
ザンパウロ州 グアピアラ市
~
・
面
積
2
0
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5
7人
(1
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0
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7年推計)
1
6
4
1k
m'
傾斜の多い農村風景
・
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.m,
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‘画面S グ、アピアラ市はサンパウロ州の南西部に位置する激しい起
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#
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犬地帯で、気候も冷涼なことから急傾斜でのトマト栽培とモ
5
5
k
r
n、
モの生産地として知られている。サンパウロ市から 2
0
0
k
r
n
カッポン・ボニー卜市からは 36km、パラナ州、│境までは 1
と近い地点にある。曲がりくねったこの街道には石灰岩を搭
載した大型トラックがボトランチン工場開を頻繁に行き来し
m
司
・
、
‘
.
,
.
u
ている。
1902年には集落の形体となってカッポン・ボニート市の行
政区となりサン・ジョゼー・ド・グァピアラと名付けられた。
1916年にはサンパウロ
パラナ聞の街道が開通してグ、アピア
サンパウ口市バスターミナル
Barra Funda から
Transpen社のパスで力ッポ
ン-ボ二一卜市に行き乗り換
える。力ッポン ・
ボ二 卜
ま
で4時間。またはソ口力パ市
で ExpressoAmarelinho
社に乗り換える。
ラ管轄区域を横断し出すと急発展していった。 1938年最初の
日本人移民グループが入植してからは農産物の大生産につな
がって、当地方の農業発展に大きく貢献した。
南伯グァピアラ畠協
コチア産組カッポン・ボニート事業所が開設されたのは
宮(
1
5
)3547-1218
1917年で、この頃から当地にトマト栽培の新地を求めて H系
人が徐々に増えてきた。 1960年代にはコチア産組、南伯組合
がともに事業所を設置しでからは営農活動も活発化し栽培技
術も向上し優良生産の増加となった。
この地方は激しい起伏地形からブラジル人小中農家は メイ
ズとフェイジョン豆、
トマト、ピーマンなどを生産してい
る
。 H系人は 締、モモ、スモモなど果樹栽培が主力となって
いる。
!のどごろのとあのとごろのどごろ
-洞窟 (
G
r
u
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aAnaconda)
m
ごろのどごろ
南伯グ 7 ピアラ厳協
1
夕、アピアラ二世協会
宮
(
1
5
)3547-1109
A
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S
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市
ア
門
チ
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市
ン
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アチパイア宮山
アチパイア市は、サンパウロ市とミナス・ジェライス州都
若道から、カ
べロ・オリゾンテ市を結ぶフェルノン・ジアス f
ンタレイラ、ジュケリ山脈を乗り越えた所である。“花の都"
と呼ばれるに相応しい空気は清澄で、保養地に最適なことか
ら別荘が立ち並んでいる。大都会サンパウロ市からわずか
6
5
k
mの近距離ということから、週末や連休となると常態人口
~レが倍に膨れ上がるといわれる。
・~"!l
・
可F
アチゾキイア市ー後方1
立ベトラ・グランデ
ブラジルの歴史を語る上で忘れることが出来ないのはパン
二
デイランテス(先頭で旗を掲げる者)である。サンパウロを
拠点に、金や宝石を求めて、インディオたちと交戦しながら
奥地へと突き進んでいった。このアチパイアにも、パンデイ
ランテスとカトリック神父が乗り込 λできて教化に努め、最
6
6
5年 6月 2
4日がアチパイアの誕生日と
初のミサをあげた 1
なった。この小教会が建立された場所は、山聞から湧き出る
清水を集めた谷川を見下ろす高台で、インディオはその辺を
アチパイアと称していた。ツピ一語で「昧の良い水」とか「清
増えるコンドミニアム別荘地
、流れJ で、それが起源となって市名になった。
9
3
6年頃である。当時の日本人近郊農業者の多く
この地域に日本人が入植し始めたのは、 1
は馬鈴薯が主力であった。馬鈴薯は連作を嫌う作物なので、つぎの栽培地を物色していた日
系農業者は、アチバイアの冷涼な気候条件に魅かれ次々と入植した。その後、土地の疲幣や
機械化の時代になると、機械力をフルに利用する馬鈴薯は、より広い土地を要求するように
なった。かくして、生産者達は他地方に移るか、残って別の作物を主力にするか、いずれか
の道を選んだ。
このように、日系農業生産は、馬鈴薯から始まり果樹、野菜、養鶏、花斉へと、単作型、果
樹あるいは花と養鶏を組み合わせた多角経営方式が多くなっていった。今では、 花
子
与 が農業
アチバイア
Atibaia(SP)
I
・
司
Fサンパウロ近郊の同業者の問で横の連絡機関の設立が提唱さ
れ、「アチバイ ア花井生産者協会 ープロフロール」が創立され
た。これは、技術向上、 情報交換、政府機関からの支援、協
力を目的としている。また、花祭りという 一大イベントの合
法的開催を 目的とする団体としてアチパイア文協から分離独
立し、オルトランジヤ協会が結成された。現在 では、 バラ、ユ
リ、トルコ結使、ジプソタンゴ、アスター;ガーベラとラン
類の輸出が盛んである。
日系の南伯アチバイア農協は、営農資材事業が主力で、組
合員の生産物である 果樹(桃、スモモ、イチゴなど) は庭先
販売か兄弟農協の南伯グランデ -サンパウロを通じて販売さ
れている 。営農資材l
古が順調 なのは、年々増加している別荘
と関連している 。
ぽごろのどごろのどごろ似ろ似ろのどごろ│
・
・
:
r
m
;
'
!
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璽
哩
型E・
・E
.交通
サンパウ口市パスタ ミナル
T
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e駅から 4
0本以上のパス
が毎日出ている。(!(ス会社
A
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i
b
a
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aとB
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a
g
a
n
c
a社)。所要
時間は 1
時間 1
5分、車の場
0分程度。
合は 5
.イベント
花祭り Jが毎年 9月開
催され、十万人以上の観客
を動員する一大イベント。日
系団体のオル卜ランジャ協会
主催
*r
-日系 E
自体
肯7
チパイア日伯文化体育
協会
宮(
1
1
)
4
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1
3
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6
3
7
1
*オ ル ト ラ ン ジ ャ 協 会 /
アチパイア花舟生産者協会
.ペドラ・グランデ
ペドラ・グランデ
はアチパイア市に
隣接しているマン
チケイラ山脈の
宮(
1
1
)
4
4
1
3
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3
7
1
女アチバイア南伯嵐協
宮(
1
1
)
4
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1
1
0
6
6
0
高台の標高
1
4
5
0メトルで
「大岩」と呼ばれ
る土場所。ここでは
ウイ ング -ライ
ダ が 盛 ん。見
晴らしも良く、近
頂上からの見晴らし
隣のプランガサ・
パウリス夕、ピラ力イア、ジュンジ
アイ、ナザレの各市が見える。
-アチパイアは保養地から観光
都市になり、休養施設や娯楽
設備が郊外に多 くあり、 釣り、
ペドラグランデ
散歩、サイクリング、登山
などが楽しめる。
アチパイア目伯文化体育協会、オ
ルトランジャ協会、アチパイア花
丹生産者協会共有のモダンな会館
.参考文献
世『ブラジル・ ペルの旅』今
井今朝春編集 K
Kワールド
フォトプレス発行 (
1
975年)
合 『アチパイア文協五十年
史』水野昌之編集アチパイ
2
0
0
5
ア目伯体育協会発行 (
年)
ザンパウロ州アチパイア爾
~‘Uの 主流になっている。
'三主呈 1981年、花子千産業が急激に発展し、隆盛を誇って いた時、
認
。
Guatapara(SP)
ザンパウロ州グァタパラ市
•
グァタパラ市
ー
サンパ雪口市
(
1B
G
E
2
008推計)
・面積 4
1
2,637
k
m'
ブラジルーの運畑
'~~!J グァタパラ市はサンパウロ市より約 280km に位置する 。 こ
司
.
,
.
.
c
の地域は 1908年第一 回のブラジル移民船笠戸丸で i
度伯した
7
8
1人の日本人移住者のうち 88人が配耕された 6つの農場の
うちのひとつ、 ファゼンダグ、アタパラのあった士也士或である 。
ファゼンダ・グァタパラは、イタリア人実業化モルガンテ氏
が政府から土地の無償譲渡を受け、マルチーニョ・プラード・
ジュニオール氏がコ ー ヒー農場を創設したことからはじまる 。
000ha、最盛期にはコーヒー 2
1
1万本か ら 30万
総面積 1万 5,
1800 年代末に建てられたコー
ヒ一線選所後。
俵のコーヒーを生産し、耕地内に鉄道の引込み線をも設置し、
南米ー の模範農場と言われたという 。ここには主にイタリア移民が導入されたが、後に日本
人も労働者として導入され、笠戸丸移民が入植したのであった。農場主はコーヒー輸出会社
も経営していたが、コーヒーは 1
9
6
0年代までで姿を消している 。 1
9
0
0年代に何度か人手に
9
9
0年代半ばにファゼンダク、アタパラは製糖工場、パルプ会社らに売却され、今ファ
渡り、 1
ゼンダグァタパラ跡はサトウキピ畑の中にひっそりと作まいを残すのみである 。
現在のグ、アタパラ移住地は、戦後海外移住事業団(現 J
I
C
A
) が創設し、 1
9
6
2年に第一回移
民が入植した移住地である。地域の日系団体であるグァタパラ農事体育文化協会に属する日
系家族は 1
1
0戸あり、日系農家が取り組む産業は主に 養鶏である 。養鶏農家が 20戸
、 ニンニ
ク農家 3戸
、 シメジ農家 3戸
、 米農家 3戸、その他 レンコンを作っている農家もいる 。 また、
含有量を希望に応じて増量できるプロポリスをつくる農家も
いる 。
グァタパラには、旧コチア産業組合の事業所があったが、 1
田4
年にコチア 中央会が崩壊してからすぐに新たに組合を立ち上げ、
2
0
戸の養鶏家でク、アタパラ農業協同組合を組織している。組合で
は 1日当り平均 2
2
,
f
i
l
lダースの卵を出荷しており、 主にリベイロ
ン・プレット市など近隣の中都市をマーケットに活動している。
水稲
ダ?タバラ
Guatapara(SP)
り、グァタパラはブラジルーのレンコンの産地である。 1
月から
・
・
- 曹
司
・
・
2月にかけて、湿地に蓮の花が一斉に咲く様は見事で、早朝蓮の
花が咲き始めるのをみようとサンパウロから訪れる人も多い。
ゆ
と2ろ
のどごろのどごろみと2ろ
ぬ
と2ろのどごろ│
.グァタパラ文協会館前
小泉元首相「感動の碑J:2004年、時の首相だった小泉元首
相が来伯時、ク。ァタパラ上空をヘリコプターで通過する予定で
あったのが、突然着陸し移住者の大歓迎を受けたのに感激したと
いう。後に小泉元首相が、「感動」と書いた揮事を文協に送った
のがきっかけでこの「感動の碑」が建立された。
I
n理由T
@交通
サンパウ口市パスタミナル
T
i
e
t
eから 1時間に 1本以上、
a
r
l
o
s
)
サン・力ル口ス (SaoC
行き(J"ス会社 Cometa、
EmpresaC
r
u
z
)のパスがあ
るoサン・カル口スからリベイ
口ン・プレッ卜 (Ribeirao
Preto) 行き(1,ス会社
EmpresaC
r
u
z
)のパスに乗
り換え、モンブー力
(Mombuca) で下車。モン
ブー力で下車してから移住地
までは 3kmである。
.グァタパラ墓地
r
r.石魂碑」初期移民の遺骨、遺品を改葬している慰霊碑
0
・ブラジルホタル
11 月~ 12月頃、雨季の初めごろには、ブラジルホタル(コメツ
-ィヘント
貴入植祭(毎年 7月ごろの第
1
土 日曜日)
キムシの仲間)が群舞する様が見られ
e
7
ア
F
.
、
タ
,
,
グ
線
ナ
ア
ジ跡
モ駅
ー
る
0
・旧ファゼンダグァタパラ跡
サトウキビ畑の中にファゼンダグァタパ
ラ跡がある。 1800年代後半に作られ
たコヒ精選所跡、労働者の街につ
くられた グァタパラ映画館跡 、邸宅跡
などがある。道も悪く、サトウキビ畑の
中にあるため地元の案内人無しには入
・ 5系 E
遺体
れない。
・グァタパラ
駅跡
パウリスタ線駅跡
モジアナ線とパ
ウリスタ線の交
差する駅だった。 1908年第
回笠戸丸
移民の降り立った駅跡。
~ヲR ‘ ~
.n
.
.
l
面
竺竺ー竺-ー竺田園
画轟
グァタパラ映画館跡
• I
P
T
D
A
J
A
T
A
K
日系農家支援のために 2001年に作られた農業試験場。現在多
目的造林による「日本・ブラジル 100年
の森」造成中。
グアタパラ入植祭
会 グアタパラ展事文化体
育協会
宮(
1
6
)3973-0088
合グ ァ タ パ ラ 農 業 協 同 組
合
宮(
1
6
)3973-0011
宮(
1
6
)3973
・0
021
肯
I
P
T
D
A
J
A
T
A
K
宮(
1
6
)3973-1005
.参考文献
『号進われらの 20 年 史
1962~ ~ 1
982ク。アタパラ農
事文化体育協会編 1984年
ザンパウロ州グアタバラ市
低湿地が広がるグァタパラでは、 レンコン栽培 も行われてお
宅!J・ダス・クルーゼス
MogidasCruzes(SP)
i
v
.
、
、
d1
,
,
テ
エ
ス
フ
ワ
ヤ
フ
フ
の
E
h
v
リ
y
ア
・
,
モジ・ダス・ クルlゼス市
サンパウ口市
モジ・夕、ス ・クルーゼス市はサンパウロ市とリオ ・デ ・ジャ
ネイロ市を結ぶヅットラ街道か並行するアイルトン ・セナ街
道から南に入ったイタペチ山脈の一角に位置する。距離は約
58kmで、近郊都市の中では 一番大きな面積を有している。ブ
ラジル最大の疏菜生産地として、サンパウロ、 リオの二大市
場を持つ恵まれた近郊農業地帯で、商業、工業面でも発展し
ている。
日系人もあらゆる部門で活躍している。当市の前
ブラジルーのキノコ生産地
"'-"'1'市長は日系人の安部順二氏で二期 8 年 (2000 年~ 2
0
0
8年)を務めたばかり。
.~丙E 市の起源は、 50 年史によると 1560 年とされ、ポルトガル人探検家によって駐屯地がおかれ
‘ ・ ; た としている 。凶0
1年、ここを拠点として入植達と敵対していたインディオ部族が完全に減
びた段階で、サンパウ口、モジ聞の道路が建設された。開通後はサンパウロからの住民が増
え続け集落が形成された。また、探検家、パンデイランテスが金鉱を求めて奥地に行く往来
の拠点とした。その後、まだポルトガル領時代の 1
6
1
1年に“サンタ ・アンナ ・デ・モジミ リ
ン市"として名付けられ、 1
6
6
2年に「モジ ・ダス ・クルーゼス」と改名された。1
8
0
0年代に
入るとリオ州境から始まった新興産業のコーヒー栽培が盛んになり、ここのパライーパ河流
域まで押し寄せてきた。
ミナスの産金で儲けた者、砂糖農場主、奴隷貿易関係者などは競ってコーヒー栽培へと奴
隷を伴って原生林に入り、密林を伐採すると 一斉に火を放ち開拓してきた。こうして奴隷を
使用して開拓したのであるが、奴隷は主に東海岸のモザ‘ンピークから連れて来られていた。こ
の奴隷制を生んだのは、社会的地位を優位にするためとも言われた。奴隷の導入はブラジル
した 1
8
2
2年以後も続き、奴隷輸入禁止年の 1
8
5
0年に奴隷制は終わった。
この地域に農業従事者として最初入植した日本人は鈴木重利氏(秋田県出身)で 1
9
1
9年と
9
3
1年には「モ
、うことである。その後、サンパウロに近いこともあり日本人が増えてきて、 1
ジ農産出荷組合」が、 1
9
3
3年には「モジ ・ダス ・クルーゼス産業組合」が創立され農業の指
導的役割を果たした。近郊農業は馬鈴薯から始まり、野菜、果樹、養鶏 ,花井となっていく。
今では、都市化が進んで、アイル トン ・セナ街道経由であれば 1時間でサンパウロにいけ
る。むしろ、それはモジの近郊農業確立に有利に働いており、それを着実に捉えた農業者は
。
号~・ダス・クルーゼス
M g
idasCruzes(SP)
-・・
も大幅に拡大している。日系
.交通
の生産者の数は減ったが、い
サンパウ口市パスタミナル
T
i
e
l
eから 30分ごと出てい
る。パス会社は Passaro
Marron社。所要時間 1時間
15分
。
まだに生産量ではモジ農業界
の大半を押さえている。移住
地も各々の集団地を構成、 多
種多様な読菜、果樹(柿)、花
サンパウロ花丹設協販売所
などを生産している。
現在では日系農協は 2000年に創立された「サンパウロ花井
-イベント
レジャのフラワー
* アJ
,
j :この地
フェスティバ J
農業協同組合」があり、主に ファーレ、カトレア、赤ポイン
セチア、シクラメン、アジサイ、オンシジュームなどを生産
している。
域の花共生産者が加入して
いる汎ヅッ卜ラ花丹生産者協
の
ど2ろのどごろゆとごろのどごろのどごろのどごろ
.モジ・ダス・クルーゼスの日本公園
日本人移民 100周年を記念して造られた。
面積は 2
1万 5千雨 、L
二の中には四つの;也、歩道、子供用のプレ
1
会が主催。毎年9月開催さ
れるこのイベン卜には 10万
人以上の観客を動員してい
る
。
グランド、第 1回日本人移民を乗せた“笠戸丸"の模型などがあ
肯秋祭り:モジ・ダス・ク
る。開園は火曜~日曜目の 8 時~ 1
8時
。
.花の社=モジ ・ダス・クルゼス市イタペチ区の観光農園(経
営 者 芳 賀 七 郎 TEL
(11)4724-9616)
モジ市から 25km、車で 30
分、サンパウ口市からは 50
分の所要時間と立地条件
の良い場所にある。地域活
ルゼス文化体育協会主催
の当市最大規模の日系イベ
ン卜。毎年4月開催され八万
人近く来場。日本文化の展
示や体験コナ、農作物
の品評会、灯篭流しなど。
性化を目的として設立した
農園の面積 24haI
こは、 2
千本のパウメイラ (
ヤシ
科
)
、 3千本の様々な果樹、
クワレズメイラの花
2,
500本の花井とその他
2,
500本の様々な木が植
えられ、年間通じて様々な花が楽しめる。その他 3階建ての建物
1
4
0
0
r
r
iには、松の問、竹の問、梅の聞があり、会議、イベント、
、 6月
、 9
県人会の集会、祭典などの会場に使われている。 3月
月、 11 月末~ 1
2月初めの年四回“ラン祭り"を開催している
.イタペチ山脈のアイルトン・セナ街道から見るのどか
な農村風景
0
・日系堀井ホテル・ゴルフ渇
.お茶製造工場 (CasaraodeCha) 歴史的なお茶製造工場。
.8系[11本
官モジ・ダス・クルーゼ
ス文化体育協会
if(11)4791・2022
*サンパウロ花丹生産者
農協
i
f
(1
1)
4795-9300
.参考文要求
肯 『イタペチ山脈は見てい
た』イタペチ日本人会編集
発行 1993年
ザンパウロ州モジ・ダス・クルlゼス市
.m,
.
!
ill@!ヨヨ・・・
事業を発展させて、営農規模
Adamantina(SP)
SP
• •
・
面
積
アダマンチーナ市
サンパウ口市
-人口 33.497人
(
1BGE2000推計)
4
1
1km'
アダマンチーナ市
アダマンチーナ市はサンパウ口付│西部に位置する。サンパ
ウロ市から 577km、同線のバストスから 45kmの地点にある 。
・
・
・I
当地にはアルコール製造工場もあることから近辺はサトウキ
4
Mビ畑になった。
I
f
主
主
主
19
幻年最初の住民となったのが外│各地で、植民地を造成して
可~い る農拓殖移民会社 (CAIC) の従業員達だった。彼らは間も
なく開通するツッパン市とアダマンチーナ聞の道路に沿った
土地の区画と道路づくりに従事したのだった。
C
A
I
C社の計画
は小面積に区分し広大な土地をなくすということでー│天画を
24.2haとした。 1939年から売り出され,この頃から日系人も
土地を求めて入植し、コーヒーの植え付けがはじまった。
1946年にはコーヒーと穀物が大量生産されるようになり、
特にコーヒー栽培熱が過熱したせいて、人口も急激に増加した。
1949
年に市制が制定され翌年にはパウリスタ鉄道線が到達し
・
・E血
.
l
i
l
'
i
i
i
m
軍
司
・
・
・
・
.交通
サンパウ口市バスターミナル
BarraFundaから毎日 7本パ
スが出ている。(J'iス会社
ExpressodeP
r
a
t
a)所要
時間 8時間 40分
-イベント
*緑の展 (EXPOVERDE)
環境・農畜産展示会一3日間
月開催
で 2万人動員 9
合口デオ (RODEIO)4日間
で 2万人動員 6月
て教会、警察署、診療所、学校、電気、舗装などの市として
の基礎づくりが行われた。ちなみにアダマンチーナ市と命名
されたのはパウリスタ鉄道の規定により、汽車が停止する場
所に姐C順の名前を付けていて、「アダマンチーナ」は女性名
ら始まった。
1955年、日本人の農家が増えたために、コチア産業組合ア
ンチーナ事業所が開設した。当 時はコーヒ一、綿花、落
花生が主要生産物だ‘った。増産に伴いソロカパナ線やパウリ
-日系団体
貴アダマンチーナ文化体
育協会
宮(
18)3521-1146
貴アダマンチーナ総合鹿
協
寄付 8
)3502-3000
スタ線の組合員が出荷するマルチノポリス市に精綿工場、ア
ダマンチーナにはコーヒー選別機と落花生油工場と次々に設
置された。 1966年コチア産組の中央会に組織替えしたときに
は、コチア聖西単協の本部の所在地にもなった。
現在は 1965年に設立された地元のアマンダチーナ総合農協
(
C
A
M
D
A
)がコーヒー専門組合として始まったが、 牧畜とメイ
ズ、サトウキビ栽倍 を中心に、各地に支所を開設しており、取
扱事業は飼料加工と購買が主体となっている。
果てしなく広がるサトウキビ畑
イタベテ=シ刻、
Itapetininga(SP)
サンパウ口市
・人口 12
5
.411人
(
1BGE-2000推計)
・面積 1
.7
9
2,034km'
1
都市に近い牧 1
・
-
厄単3ィタペチニンガはサンパウ
司
・
.
.
.,ロ州、│南部に位置する中都市
.交通
で、州都サンパウロ市から
サンパウ口市パスタミナル
T
i
e
t
eから毎日 1
5本、土日
1
9本パスが出ている。パス
会社は Cometa社、所要時
間 2時間 1
5分
。
1
7
0
k
r
n
、また、ソロカパ 68km
、
カンビーナス 139km、ピラシ
カーパ 112kmと各中都市にも
近く、農業、工業、商業と 三
拍子そろって発展してきた。 この地方は平坦で山もないセ
~~ラード地帯(サバンナ)である 。
.民主."!J 最初の集落ができたのは、 1
7~ 1
8世紀にかけてパンデイ
・
可vヲンテス、トロペイロまたは馬・ラパを売買とする商売人達
が停泊地としたイタペチニンガ(ツッピー ・グアラニ語で板
石の意味)川の畔だった。1750年頃から開発が始まり市制が
d甥 曹
歪
ヨ
・
・
・
.
m
l
t
j
i
l
l
@
t
制定されたのは 1855年のことであった。
・田司圃' 日系人がこの地方に入植し始めたのは戦争間近い 1
9
3
9年か
Vら 1
9
4
1年頃で、連作の難しい馬鈴薯の適地を求めてサンパウ
、
.
圃
ロ近郊の各地からやってきて馬鈴薯産地を形成すると 1943
年
にコチア産組が事業所を開設した。その後、馬鈴薯生産者達
はメイズ、フェイジョン豆を中心に危険な単作から多角経営
を図っていった。馬鈴薯栽培の土地も少なくなり他地方にも
-イベント
貧農畜産展 (
4月末から5月
初め)
.日系団体
イ
タ ペチニンガ文化体育協会
密(
1
5
)3271
3
7
4
8
南伯イタペチニンガ農協
2(15)
3272
・
4157
E盈量匝E昌 国 軍 極 圏
伊
.
FishingPark
水上スキー、ポート、釣り、レ
ストラン
事業を拡張して行った生産者も多くいた。
1~削年代に入ると農業振興策により豊富な農業融資もあり、
日系人の中小農生産者も増えてきて果樹、疏菜栽培が進んだ。
このころ南伯組合もイタペチニンガに進出してきた。今はコ
チア、南伯両組合中央会もなく 「
汎イタペチニンガ地域野菜・
柿生産者協会」を設立 して技術向上と 情報交換を行っている。
d
当地方の生産物は牧畜を始め、 大豆、メイズ、フェイジョ
ン豆、馬鈴薯、柿、アテモヤ、リンゴ、スモモ、モモ、一般
.市立環境公園 (Parque
野菜など大都市サンパウロや近隣の中都市の消費市場に向け
EcologicoSaoFranci
sco
二面積 35ヘクタ
deAssis)
て多様化してきている 。
ル
ザンパウロ州 イタベチこンガ甫
・
.
イタペチニンガ市
,
.
,t
fシ・夕、ラシデ
ヴ
.
,
闘
VargemGrandePaulista(SP)
SP
ヴアルゼン・グランデ市
サンパウ口市
.
グランデ市'
ヴ 7ルセンー
国士舘緩祭り
3・
サンパウロ市から、南西に通ずるラボーゾ・タパレス
街道 46km地点、パンデイランテス街道との別れ目の周
辺を俗に、ヴアルゼン・グランデ地方という 。この地が
知られているのはサン・ロッケやイビウーナ;
方面に向か
うには街を必ず横切らなければならない 。
最近ではサンパウロ市に近いことから、サンパウロ市
民が娯楽場、釣り掘り、小農園、別荘などに出かけるた
~Iiめ、週末や連休には車の洪水となる 。
I;.;J"!J ヴァルゼン ・グランデ地方にも、
国士舘の体育館
1
8世紀の初期から 1
9
可
・
・
I
I
"
'
世
t紀にかけてリオ ・グランデ ・ド・スル州からの馬、
l
綴馬を連れてこの細道を往来したは
9
1
4年、州の水道局が水源地を
ずなのに、なぜかそれらしい宿場的な集落の形成はない。 1
造成するために集めた労働者達が定住したので村落となった。それまでは、地味豊かであ
りながら僅かに散在した土着人が、メイズ、マンジョカ芋、フェイジョン Eなどを作って
いたに過ぎない。また、ヴァルゼンと呼ばれようになったのは、この辺の谷間にある湿原
地 (ヴァルゼア)からだと言われている。
この地方に日本人の草分けが入植したのは、近隣のコチア市でコチア産組が創立された
2年後の 1
9
2
9年であった。その後、サンパウロ近郊から農業者が移ってきて、 1
9
3
3年に
はヴァルゼン・グランデでは既に日本人会が結成されていたが、明神造会長を先頭にほ本
人会の手で肥料、農具、円用品などを扱う雑貨広に似た倉庫が開設されていた。
コチア産業組合はこの倉庫を引き取り、組合員の最
大の地域として 1935年コチア地方倉庫第一号となっ
91
:6年からは事業所となって運輸サービスが始ま
た
。 1
りヴアルゼンとサンパウロ市場の聞を馬鈴薯や競菜を
積んだトラックが定期的に走るようになったが、その
後他の地域にも拡張されていった。
1
9
5
7年のコチア事業報告書にはコチア青年移民導入に
より生産拡張となっている。現在、同地方での生産は疏
直売ラン
ヴ?ルゼシ・夕、ラシデ
VargemGrandePaulista(SP)
培が主力と
.'通
サンパウ口市バスターミナル
B
a
r
r
aFundaから)¥スが出てい
る。パス会社は DanubioAzu
l
土
と ExpressoRegionalf
士。
f
また、 Pinheiros区で Cotia市
行きのパスが数多く出ている
ので乗り換えると早く着く。
パスでの所要時間は 1時間
時間、連休は渋
半。車で約1
j
帯する。
なった 。特 産
物として
ア ー アイ
チョーク(ア
ルカショフ
ラ)の生産が
続いている。
コチア産組
中央会解散
後、ヴ、ァルゼ
アーティチョーク(アルカショフラ)
C
O
O
P
E
R
V
A
G
) が設立され、飼
ン・グランデ ・パウリスタ農協 (
料工場とスーパーマーケットを運営している 。
.
1
'
国土舘サクラ祭り
l
M
ごろのと2ろのどごろのどごろのどごろのどごろ
-国士銀
隣市サン・口ッケにある国士舘大学の施設をブラジル日本文化福
祉協会(文協)が譲り受け、現在では剣道、マレッ卜ゴルフ、ボーイ
.
.慮協婦人部 (ADESC)の
1
定期市 (毎月一回)
b
τ,
f
l
l
i
尋
ヴァルゼン・グランデ・
パウリスタ農協
スカウトなどに活用されている。桜祭 1
)は毎年 7月初め頃開催され
力ウカイア ・ド・アルト、イビウーナ、マイリンキ、ヴァルゼン・グラ
ンデ各文協と ADESC農協婦人部、サンパウ口・ラン協会、コチ
2
(
1
1)
4
1
5
8
・1
0
2
2
ヴァルゼン・グランデ
文化体育協会
宮(
1
1
)4
6
1
1
0
9
2
9
ア青年連絡協議会、マレットゴルフ協会が共催。一日五千人を動
員、サンパウ口市から近いことから年々増えている。
農協スーパー. ADESC農協婦人部
の定期市はこの前で行われる
i
f
,
J
*ヴァルゼン ・グランデ日
w
0年史』ヴァルゼ
系植民地 5
ン -グランデ日系植民地 5
0
年史刊行委員会発行 (
1
9
81
年)
ザンパウロ州ヴアルゼン・グランデ市
・
・
・
血
1
i
l
'
i
i
"
i
'
m
軍
司
・
・
・
・
菜と花井栽
。Bonito(SP)
Capa
.
・
カツポンボニl ト市
サンパウ口市
カッポンホfニー卜市
カッポン・ボニート市中央公園
カッボン・ボニート市はサンパ
ウロ市から南西 2
2
2
k
mに位置する o
カッポン・ボニートの語源は、土着
民ツピ一語で「森林に困まれ孤立
した場所」を指す「カカフoア」から
来たものである 。 そして岡市の出
身者を指す言葉は「カッボン・ボニ
~ ンセ」となる 。
1
i
J
J
.
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I17世紀の終わりごろ、同地域の
‘
.
.
.
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金 がパンデイランテス(奥地探検
隊)によって最初に発見され、現在
のカッポン・ボニート市から 3
6
k
m
カッポン・ボニート農協直売所
地点、パラネパネマ河岸辺に金採
7
2
1年には同地区は鉱業区に設定され、金の採掘が盛んに行
掘人による集落 が生まれた 。1
われた。しかし 1800年代にはこの地域の金は枯渇し、産金地はミナスジェライス州に移っ
て、金採掘人は同地を放棄して移動していった。残ったパンデイランテス、金採掘人の末
E
883年にはカッポン・ボ
商によって集落が維持され、彼らによって農畜産がはじめられ、 1
哩 恒 一ト市として寸法区に指定された。
. . ) . 岡市への最初の日本人移住者 は
、 1935年頃転入してきた伝夫妻である 。 その後 1930年
、岨.,{~ 末 に馬鈴薯 生 産者がサンパウロ近郊からこの地域に移住してきた 。 戦前のこの地域の日
本人は、サンパウロ近郊で馬鈴薯を生産していた農家が西ヘ西へと栽培地を移動してここ
へ入植してきたのである。馬鈴薯は連作障害があるため、栽培地を移動せざるを得なかっ
た。そしてトマト栽培も戦前から日本人が取り組んだ作物であり、馬鈴薯とトマトはサン
パウロ市近郊から西へと産地が移動していったのであった 。
そうしたことからカッポンボニートにもコチアの事業所が開設されたのは 1947年で、主
に馬鈴薯 とトマトを扱う事業所であった 。 カッボンボニートには今もパタテイロと呼ば
れる馬鈴薯大生産者が地域の農業者として活動しているが、栽培地はゴイアス州のほう
。
Capa Bonito(SP)
ヘ移動させている。その
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亙
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也フェジョン豆、メイ
今では穀類生産地帯に
含まれる。また小規模な
野菜生産者もおり、ヤー
コンなど薬用植物の生
産・加工に取り組む農家
種子馬鈴薯 ミニチューパ
もいる。
A
T
A
Kが農協に直売所設置を支援し、
地域の活性化のために J
組合員の野菜を直売するほか、農協婦人部の加工品や手工
芸品を販売している 。カッポンボニート農協では、婦人部
の活動も活発で、毎月第一金曜日の夜は、農協内でフェイ
ラ・デ・ルア(月の市場)が聞かれ、盛況である 。
のどごろのど2ろのどごろのどごろのど2ろのどごろ│
-アルベス滝 (
CachoeiradosAlves)
80メートルの高さの滝。
日 3 本パスが出ている。
パス会社は TRANSPEN 。
所要時間約 4時間。
.イベント
貴フエイラ・デ・ルア (
月
の市場)力ッポンポ二一
卜農協内。カッポン・ボ
二一卜農協婦人部実施。
毎月第一金曜日。夜 6時ご
ろから開催。うどん、鮫
子、ビーフンなどの出屈
がある他、地域の農産物、
手作り加工食品、手芸品
等が直売されている。
.コンシャス川、アルマス川 (
RiodasConchas/Riodas
Almas) では力ヌ ーを楽しめる。
-日系団 体
*カッポン・ボニート文化
体育協会 (ACECB)
W(15)3542
・1
139
宵カッポン・ボこート農業
協同組合 (CACB)
宮(
15)3542-1280
.参考文献
創 立 50 周 年 記 念 誌
力ッポンポ二一卜文化体
育協会 Emilia Yumiko
Miyada 2002年
アルベス滝
カツボンボニlト市
.交通
サンパウ口市パスターミ
ナル BarraFunda から毎
ズなどの栽培も大きく、
ザンパウロ州
ヵ・~I民シ -1民=ート
-Sゲール・アルおシジョ
SaoMiguelA陀 anjo(SP)
市
ロ
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b市
、
一
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紅
サア
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杭.
↑
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・
パ
ザン・ミゲlル
・
サン・ミゲール・アルカンジョのブドウ
:
,
.サン・ミゲール ・アルカンジョ市といえばサンパウロ市か
南西方向の 200km地点に位置し、ゆるやかな正陵地帯であ
る。同地は馬鈴薯が主作物であったが、 1950年のイタリアブ
ドウ導入によって、いまでは「ブドウの首都」と呼ばれてい
る。 ここに市制が布かれたのは 1889年で、すでに町の様相
をなし広場、小さなお寺、瓦の家まであった。それまではイ
ペチニンガ市の 一区域でフレゲジアと呼ばれていた。
~・・・
見事なブドウ園
コロニア ・ピニヤール移住地、別名“福井村"はサン ・ミ
芳 一ル・アルカンジョ市内からピラール・ド・スルに向かつて約 20km地点に位置する。第
二次大戦後の移住ブーム期に、福井県は独自に県民移住者による移住地造成を計画した。隣
接地には 1950年代末から南伯組合、東山不動産、パンデイランテ組合が、サンパウロ近郊
0~ 15haほどの移住地を次々と開設していたため、たちまち日系
農業者向けに、 一区割り 1
農業者が増加していった。
植民地の購入面積 720haを平均lOhaの60区に区分した。造成には海外移住事業団が担当し、
1
9
6
2年末から入植がはじまっている 。当初は福井県下からの移住者だけの移住地の発想だっ
たが、日本の好景気以後は日本全国やブラジル移住者にも呼びかけてやっと満植となった。
営農していくためには栽培技術の指導が必要であったため、折よく 1959年に隣接ピラ ー
ル ・ド・スルに移住地を造成し、出張所を設置していた南伯組合に移住地の運営、営農技術
指導を委託した。組合は支所を設置し要望に応えたが、全入植者が南伯組合に加入すること
を条件とした。いまでは購買事業を主力として、周辺のブラジル人農家も加入して事業拡大
している 。
現在移住地では、 ブドウ(イタリア、ルビー、ブラジル,紅
高)、アテモヤ、ネクタリン、金星(デコポン)、ビワ など果
実を中心とした生産。増収と年間の労働配分を考慮して一部
-・邑a・‘. . ~三 -圃 I ~目畠1"1 ーo:-::m・・量・・ E 量.
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且:
. れ彊
司与,
では野菜のハウス栽培がはじまった。
サン・ミゲール・アルカンジョ市内にはコチア産組の事業
所があったが、中央会解散後、馬鈴薯及びブドウ生産者が中
日系人の手作りカッシャツサ
ー
ザシ・ミゲール・アルおシジョ
SaoMiguel釦'Canjo(SP)
交ぷ
ソ口力パ市から毎日 8本J¥
'
ス
が出ている 。パス会社は
8reda社。所要時間 2時間
続して運営している。
移住地が福井県出身が多
いことから、サン・ミゲール・
アルカンジ ョ市と福井県が
姉妹都市提携している 。
20分
アテモヤ
│のどごろのど2ろのどごろのどごろぬとごろのどごろ
.イベ L ト
骨ブドウ祭り
毎年2 月 ~3月開催
-コロニア・ピニヤール移住地農村図書館
日本語の本が誰でも借りることが出来る。
-州立カーロス・ボテリョ自然公園
理
哩盟晶
田
智
日系 E
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本
回
合サン・ミゲール・アル
カンジョ文化協会
宮
(
1
5
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2
7
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南伯サン・ミゲール・ア
ルカンジョ農協
宮(
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)3
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7
9
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2
1
1
ザンパウロ州ザン -ミゲ1ル・アルカンジョ市
-・・目立盟宜型産.
t
心になり、有限会社を設立し
営農資材庖、スーパー屈を継
Tatui(SP)
2・
サン パウロ市か らカ ステロ・
プランコ街道の 1
2
5
k
m地点から
イタペチニンガ市に向かつて 9
k
mの所に タツイ市が位置す る
。
この地域では古 くからレ ンガ工
場が散在し、また、事故死 した
アイルトン・セナの牧場があ る
ことで知られている。同市は音
楽活動の盛んな市 としても知 ら
れている 。いまでは岡市はピ ラ
シカーバ方面から増加してい っ
たサトウキピ畑にすっかり取り
4・・世固まれている 。
.
:
.
u
:
百E タツイに初めて足跡を残した
古い街並みを残す市内側工湖
、~(のは 、 南に宝石を探しに行くパンデ イ ランテス達だった 。 彼らは ソロカ パ川と タツウ列 11 (
現
パレイラ 区)が合流する付近に散在するインジイオ部族を追放しながら進んだのであった。タ
ツイは「ツッピー・グアラニ語」で“Tatu川の水"が起源と 言われている。 1
6
0
0年代の初め
頃から探検隊や修道僧たちの動静はあったが、実際に多くの人たちが集まり村落となったの
.
.
.
.
.
.は 1
81
0年に南米最初の製鉄所が設けられてからだ。
能 誼 この地方に独立した戦後移住の馬鈴薯栽培者が入植 してきたのは 1
9
6
0
年から 1
9
7
0年で、パ
可E
語"
トロ ンのほとんどがコチア産組組合員であった。馬鈴薯栽培者は各地から集ま ってきた安住
に甘んじない人達で、条件さえ良ければ土地や家屋を処分して他に移動する人達だが、今で
は数名が老いた両親や進学期の子供がいるため家族をタツイに残し、年聞を通じて馬鈴薯を
生産でき る魅力のある地方に事業を移した。それがミナス・ジェライス州のウベラパ近辺と
サンゴタルド、ゴイアス州のクリスタリーナ、パイア州のシ ャパーダ・ジア マンチーナ方面
である。
コチア産組がサンパウロ州内最後の事業所を開設したのは 1
9
8
2年で組合員数は少なかっ
タツイ
Tatui(SP)
会解散後はタツイ地域農協
.ネ
を 1995年に創立した。その
サンパウ口市パスターミナル
Barra Fundaから毎日 12
後、土地の確保や気候変化で
本
、 土日1
7本パスが出てい
馬鈴薯栽培が難しくなって
.
'
る。)¥'ス会社は Comela社。
きた事から全組合員が他の
所要時間 1時間 40分。
州で栽培している 。農協事務
戸庁はそのままタツイに残し、
生産地に販売人を駐在させ
ブラシリア、リオ・デ・ジャ
ネイロ、ベロ・オリゾンテ、
;
γ 野外音楽堂のコンサー
ト
音楽の町
ボルト・アレグレなどに出荷している 。
.演劇音楽学校
(Conservalorio
公園の野外音楽堂で楽しむ市民
Dramalico e
Musical)
盛んな演劇活動を支えるテアト口
-滋野農場.養鶏場,柑橘類
公園で手工芸品を販売
タツイ・モトクロス
チャンピオンカップ 3月
. ,
!,
.
.
.
.
i
!
ll
.
.
'
タツイ文化体育協会
曾(
15)3251-3806
暫氾 タ ツ イ 地 峨 農 業 協
同組合
•
曾(
15)3251-4215
『コチア青年移住 30周年
養鎗ー滋野厳 1
1
史] 1985年
ザンパワロ州タツイ市
-・・田Rm宜空軍f
.
たが、 馬 鈴 薯 生 産 量は多く、
有数の事業所であった。中央
P
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)
••
ピラ1ル・ド・ スル市
サンパウ口市
ビラール
ド・スール市
豊富な果実をそろえた直売会
監 査 当 ピラール・ド・スル市はサンパウロ市の西南西約 1
2
0
k
mI
こ位置する。ピラール・ド・スルが
司~iJ始 まったのは 1850 年で、南から馬や眠馬(らば)の背に 150kg の荷物を振り分けに背負わせ
百数十頭の輸送行進隊、狩猟者、金宝石探しの者達が往来していた街道に、ミナス・ジェラ
イス州からきた家族達が「古い石」と呼ばれる場所で、干し肉を叩き潰したり、獲った動物
の皮をなめすのに使った。これらの作業のことをピラールと呼んだ。
ピラール・ド・スルに日系人 3家族が入植したのは第二次世界大戦の終戦直後の 1
9
4
5年 9
月のことだ、った。この頃は、日系社会が戦争勝ち組み、負け組みの大騒ぎ、で動揺していた。こ
のような混乱の中に決然と新開拓地に挑戦された鹿児島県出身の長浜栄蔵、東郷善造、山畑
国司の 3氏は見上げた農魂と言うべきである。
入植後、 トマト、馬鈴薯の適地として注目をされて以来、新地を求めて次々と入植してき
9
5
0年代末頃からサンパウロ近郊の野菜、果樹栽培者を受け入れる為に、南伯農協、パ
。1
ンデイランテ農協、東山不動産が植民地を造成した。戦後、戦前移民の人々が視察にきて忽
ち満植となった。戦後移住者に対しては、海外移住事業団(現 J
I
C
A
) から有利な土地購入融
資があり、たやすく入植することできた。
現在農業団体では、南伯ピラール・ド・スル農
∞o年にパウリスタ柿生産者協
協が購買事業を主力として安定した経営を行っているのと、 2
会 (
A
P
同)が設立された。当会の活動は、柿を中心とした営農栽培技術の情報交換を主目的
としている。また、販売を有利にするため、
APPC貿易会社を併設して、 柿、ブドウ をカ
ナダと米国に輸出している。将来的には、 アテモヤ も可能性のある果物と思われる。日本向
けの輸出は果実の熱処理が必要だが、処理場を設置するには多額な投資となることやら複雑
な手続きのため、今後の諜題として検討している 。
この地方では、 綿、ブドウ、スモモ、モモ、アテモヤ、ビ
、銀杏、金星(デコポン)、ポンカンなどの果実に施設野菜
(キュウリ、ピーマン.トマト)、養鶏などに加えて、 メイズ、
フェイジョン豆 など多様な農産物を生産されている。市場も
カンビーナス、ソロカパ、イタペチニンガ、サンパウロなど
各大中都市に近くあらゆる面で恵まれているといえる。
立地もサンパウロに近いこと、年中を通して様々な果実が収
畑で鼠食。 Turismo r
u
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lでの圃
場案内にて。
ビヲール・ド・スル
Pilardosul(SP)
も取 り 組み始め 、今後 も 地域の果実 を P
Rし
、 ブラン ド力を 高
める ためにも農村観光を 行っていく 意欲を 見せて いる。
のどごろのどごろのどごろのどごろのどごろのどあ│
.近辺を一回りすると、あらゆる生産物が見られる
.柿生産者協会
2008年 12月 20目、初めて
)
を
農村観光 (TurismoRural
・
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.交通
サンパウ口市パスターミナル
Barra Funda から Breda
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パス会社でピラル
時
に行けるが、所要時間は3
間位。本数が少ないので、
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ス会社でソ
こ
口力パ市(一時間 15分) I
行き乗り替えた方が良い。車
では 2時間。
-イ ベシト
実施した 。 フジミドリ
貴 ピラール・ド・スル農畜
(Fujimidori)、べ二イズ
産展 (
3月)
(
B
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u
)、 ピ オ ネ (
P
i
o
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)
ブドウベニイズ
金星(デコポン)
などブラジルでは珍しい日本の
品種のブドウを全国に先駆け
て栽培しており、これを大々
的に売り出すのを目的として
実施した。サンパウ口市からピ
ラール・ド・スルまで大型パス
できた観光客らは、文協から
はパンに分乗して農場を見学
見事な柿が聾ぶ柿の品評会
した。その後 APPCはブドウ
の新品種やモモ、スモモなど
の試食会、直売会を行った。
今後もこうした農村観光
(
TurismoR
u
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l
)を続けて地
Rしたい考え
域のフルーツを P
巳
ピエダーデ柿祭り (
5月)
ザ ン パ ウ ロ 州 ピ ラlル・ド・ スル甫
穫できること な どから、 A
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陀 は農村 観 光 (
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)に
・日系図体
安ピラール・ド・スル文化
体育協会
宮(
15)3298-1160
*パウリスタ柿生産者協
会 (APPC)
寄付 5)3278・3589
安南伯ピラール・ド・スル農
協
宮(
1
5
)3278-1144
.参考文献
女 『ピラール・ド・スル邦人
入植発展史 1945~ 1995
年~ 1995年
※市役所ホームページ
地 25年史 1960年 12月
.ピエダーデ市
*ピラール-ド-スルから約
40KMのピエダーデ市でも柿
)
(
5月)が行われている。
祭1
女益田農場栗ひろい (
1月)
益田農場栗ひろい (
1月}
下
京│
スモモ
Registro(SP)
SP
•
レジスト口市
サンパウ口市
レジスト口市.
5
3,7
5
2人
(
1BGE2008推計)
・面積 7
42km1
レジスト口日伯文化協会
位 回 レジストロが集落の様相をきたしたのは、
司
・
.
.
.
.,
ポ ルトガル領時代にリベイラ河上流で採取さ
れる金鉱や下流のイグアツぺ港と往来する蒸
気船の荷物を登録(レジストロ)し、税金を徴
収する事務所を開設してからだ。
レジストロと言えば日本移民史でも最も古
、歴史を持つところ 。 サンパウロ市からパラ
ナ州の州都クリチーパに向かつて海岸山脈を
下って数十 k m先の 192km地点のリべイラ
河畔に位置する 。 青 柳郁太郎の東京シンジ
*
畑
ゲートの現地会社ブラジル拓殖会社によって 1913年に桂、レジスト口、セッテ・パーラ
スという植民地が開拓された。その後、海外興業株式会社
(
K
K
K
K
)がブラジル拓殖会社を
吸収合併し、以後は海外興業株式会社の子によって植民地経営されるようになった。現在
でも
K
K
K
Kの倉庫がリベイラの河畔にみることができる 。K
K
K
Kはここに南米ーの精米所を
設置し、サンパウロ外│最大の米の産地であったが、米価の下落で営農が行き詰まったため
米作は下火になり、コーヒー栽培へと移った。
一方サントス港から南西に走るジ ュキア線沿線への入植は第一回 (1908年着)、第三回
(
1
9
1
0年)などの、初期移民の沖縄出身者が多く、コーヒー園から転じてサントス港湾や鉄
道敷設工事で働いた。ジュキア線開通とともに、その沿線に定着し農業に従事する 。この地
方の日系社会の発展は、これら沖縄移民に負うものである 。
これらの地帯は、海岸に沿って海岸山脈が横たわって奥地とへだたり、高温多湿の気候
は、バナナ栽培の最適地としてジュキア線を中心に栽培が広がり、 1930年頃にはリベイラ
川流域一帯に 産地が拡大していった。
1922年から、お茶の栽培を始めていたレジストロの岡本寅蔵氏が 1934年にセイロン島
で入手したアッサム種が栽培されると急激に栽培面積が広がり、この地方の紅茶はブラジ
ルの圏内市場をほぼ独占するまでに成長したのである 。現在は Yama Tea 製茶工場と天
谷製茶工場から、チリ、ボリビア、 USA、中近東、イギリスに輸出されている 。
レジストロ
Registro(SP)
-・・皿E璽宜里聖里圃・・
ウロ州 大や J A T A Kと提携して地域活性化 を図るなど、
.交通
環境への配慮もしている 。
サンパウ口市バスターミナル
B
a
r
r
aFundaから毎日 1
2本
地域には、 バナナ、お茶、野
菜 などにアサイ相s
子 , モモヤシのパルミットなどの商品
の生産量が増加 している。その他花子午のアンス リウムも栽
倍適地である 。牧畜も盛んで 乳牛、肉牛、水牛 を飼育し乳
加工も行っている。
パスが出ている。 パス会社は
I
n
t
e
r
s
u
l社。所要時間はパス
で約3時間半、乗用車で2時
間半。但し、連休は交通量が
多 く 時間通 り には ~ ¥
かない
。
│のどごろのどごろのどごろのどごろのCごろのどごろ
E
.イノ¥ノ ト
脅すし祭り (
5月)
-日本移民樽物館
元海外興業 (
KKKK)の精米所
世盆踊り (
8月)
脅灯篭流し (
1
1月)
*農業展 (
1
1月)
。
内設置にされ、入植当時から
使用された用具などが展示さ
れている。
.レジスト口日伯文化協会
日本風の近代的な建物。 日本
語講座も設けて、日系人、ブラ
噂物館
日本移民1
ジル人に文化の継承の役割をしている。レジスト口市と岐阜県中津
川市は姉妹都市提携しているので取次を行っている。
・市中には中津川公園.仏
教寺、鳥居、カトリック教
1
0
2
5年日本側の寄付を
会 (
得て建設)
l
1
l
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I
司
砂
8
.
幽玄な灯篭流し
系団体
・郊外には 1928年建設の
育レジスト口目伯文化協会
聖公会
.ブラジルの代表的造形家
0
0周年
豊田豊氏の日本移民 1
•
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[]
宮(
1
3
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8
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241
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.
l
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.
b
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リベイラ河,可緑の鳥居
を記念、した抽象的造形作品が、
市内の庭園や中央道路の七か
所に設置され市民や観光客の目を楽しませている。作品名は“太
陽の正門、自由への道のり、お茶の王線、永遠の輝き、宇宙の
カギ、未来の使者と愛と平和"となっている。制作には精米所と
製茶工場の機械部品を使用し
たユ二クな作品 。豊田氏は
1931 年山形県に生まれ、
1
9
5
8年にブラジル移住。
安レジス卜口市役所
宮(
1
3
)
3
8
2
8
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0
0
-参考文献
W
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E
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O
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s
!レジストロ
です。』レジスト口白伯文化
協会、 2
009年。
サンパウロ州 レジストロ富山
2
0
0
4年に設立されたレジス トロ地域農業生産者協同組合
は、植林を取り入れ、アグロフォレストリー通じてサンパ
・
4
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%
:
7
1・デ・ザーレス 0
E価ger
官i
odeSales(AM)
AM
マナウス富山
マナウス市 、
エフィジェニオ・デ
サーレス移住地
-人口 1592,555人
エ
(
1BGE2004推計)
フ
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0
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-面積 11
ジ
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壬
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巨大なアマゾン河
.:~:w-...1I
デ‘届逼函S エフィジエニオ・デ・サーレス移住地はマナウス市よりイタコチアラに抜ける街道沿
ザ
ーート約 40kmに位置する 。マナウスと 言えば 1800年代半ば頃、天然ゴム採集産業で栄えた街と
L
して有名である 。ブラジル東北部からもゴム産業の恩恵に与ろうと、多くの人がこのアマゾ
芸
ン河中流の街にやってきた。ゴム産業には英国企業の参加もし、地域の急激な発展に 貢献し
住
た。当時は市の電気、水道や下水道の整備、それからマナウス港開港、電車の導入、これら
勉
は圏内のどの市にもまだ導入されていなかったがマナウス市には導入されていた。また、ゴ
ム産業黄金期には、裕福な家庭の子弟はヨーロツパで勉学していた。マナウス市の著名な建
築物、アマゾナス劇場、市立市場、税関、裁判所などはこの頃建てられ、材料もヨーロッパ
~から 取り寄せていたという 。
..a~ 事盟‘
曹曹理司F当移住地はアマゾナス州、│政府が造成した移住地であるが、日本政府が日本人導入の許可
司ーを得、1958年から 1961年の 3回に渡って日本人移民を導入した。 1959年に設立された任意
組合マナウス農業協同組合 (1964年エフィゼニオ・デ・サーレス農業協同組合として認可)
では、マナウス市内でフェジョン、赤丸甘日大根などの野菜を販売していたが、 1960年代
前半に導入された胡椴栽培で農家経営はさらに発展した。1962年には初めて胡材置を収穫、最
盛期には生産量 200tに達し北米、ヨーロツパヘ輸出していた。しかしトメアスー移住地同
様、病害が蔓延したため生産量が減少し、 1977年には胡椴価格低迷の影響をも受け、つい
に胡椴栽培に終止符を打った。
一方マナウス港は 1967年に自由貿易港となり、工業団地が造成されるにつれ、マナウス
市の食糧需要も増大し、 当移住地の読菜、養鶏産業もそれと共に成長した。 また、 1965年
にはマナウスーイタコチアラ問 280kmの道路が舗装されたこ
とも当移住地の営農に大きく貢献し、移住地は競菜、養鶏、
果実を中心としたマナウス市近郊農業として発展した。1990
年代には、ププーニャ榔子からパルミット生産に乗り出し成
功を収め、マナウス市場におけるパルミット販売を独占する
に至った。アメリカへの輸出にまで乗り出したが、衛生面の
基準変更に対応しきれずパルミット生産は下火になってし
I~)" ミット
Zフ4'%:_・デ・ザーレス
マナウス市は工業都市としてのみならず、アマゾン観光の
中心地として世界的に脚光を浴びており、当移住地では観光
らも近く、道路の状況も良いので、今後は農村観光 (Turismo
Rural) も伸びる可能性を秘めている。
.交通
ー
アマゾナス州都マナウス市か
ら工フィジェ二オデ-サーレ
ス移住地行きのパスが出て
い
る
。
合農業協同組合
.アマゾナス
宮
(
9
2
)
3
2
4
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1
1
4
0
Amazonas)
面盃薗‘書量ぷ語l
'
.
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1
1
1906年に建て
られた。
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・
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・
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・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
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.サン・セパ
スチャン教会
(
lg
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adeSao アマゾナス劇場
・. ~ 司-
エフィジェこオ・デ・サーレス総
合憲協
Sebastiao)
1
888年に建設された教会
r
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j
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・コンセイソン教会 (
lg
Matriz de N.
Sra. da
.参考文献
安 『天圏歩み 20年の譜
Conceicao)1
695年に建設さ
1
9
5
8
1
9
7
8
J工フイゼ二オ・
れた最初の教会
デ・サーレス植民地 2
0年誌刊
.植物園 (
JardimB
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o)
マナウス港
.マナウス市公設市鳩
(
MercadoM
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c
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a
l)
.マナウス港
(
P
o
r
t
odeManaus) イギリス
人が造成した。 1902年に落
成。
.ソリモンヱス河とネグロ
河の合流地点
黄色いソリ
モンエス河と黒いネグ
口河が合流する地点では、 2つ
の河が交じ り合わず延 々と流
れていく様子が見られる
。
ソリモンエス河とネグロ河の合
流地点
行委員会 1
9
8
3年
女 『天圏第二部その後の
十年譜 1
9
7
9
1
9
8
8
J工フィ
ジ工二オ・サーレス自治会 3
0
年誌刊行委員会 1
9
9
1年
l レス移住勉
・税務署
(
Alfandega)
44・デ・サ
劇場 (
Teatro
エフィジエニ
.日系団体
町
宮工フ行ノ¥二オ・デ・サ寸/二嚇
マナウス市
産業にも目を向ける農家もみられる。当移住地はマナウスか
・
・
・
- I n f盟宜型産E
アマゾナス州
まった。しかし、当移住地ではマナウス市ヘ鶏卵、読菜 を供
給しており、都市近郊型農業として存続している。
E価g
白百 i
odeSales(AM)
~
•
Tome-Acu(PA)
トメアスi市
機 qな樹木と果樹によるアグロフォレストリーの庭
3
0
k
mに位置する 。アマゾン地域におけ
・副謡曲, トメアスー市はアマゾン河河口の街べレン市より約 2
、る最初の日本人入植地はトメアスー市(当初はアカラ)である 。 1
9
2
7年、鐘ヶ淵紡績株式会
社が母体となって南米拓植株式会社(以後南拓と略す)を設立し、アマゾンへの日本人によ
る開拓を 目指した。当初はカカオなど熱帯産品の生産、輸出拠点とするはずだ、ったが、カカ
オ栽培の失敗、風土病など様々な困難に会い、拓植事業は頓挫する 。 日本人移住者をトメア
スーヘ送り込み、移住事業を行った南拓は、経営困難から事業を縮小し、ついに 1
9
3
5年移住
,
1
0
4人のうち実に77%が退耕して南部な
者を残して撤退した。これに失望した入植者らは、 2
4伺鴨量三他地方に移って行った。 この 間の事情は角 田房子の名「アマゾンの歌」に詳しい。
、
.
.
-置・・ 南拓が業務縮小の際に閉鎖したカスタニヤ ールの試験場に、東南アジア原産の胡椴の苗が2
本
厚
手 っていた。1
9
3
3年に南拓社員白井牧之助がシンガポールから購入してきた 2
0本の苗のうちで
残ったものだった。これを、居合わせた加藤友治、斎藤円治氏に 1本ずつわけたのが、後にパ
ラー州最大の経済作物となって行く。移住者は当初野菜、米作りを
が到来した。この時期、胡椴栽培が急速に拡大したのだが、最も価
LA・咽調司
K
にトメアスーで広がり始めたところヘ第 2
次大戦の影響で東南アジ
アの胡椴産地が打撃を受けたために価格が高騰し、胡淑栽培ブーム
函盈彊固
E
7
‘圃U
人の農家が胡椴の栽培に成功し、徐々
中心に営農していたが、この 2
格が高かったころ、胡械は黒いダイヤと呼ばれたという。
9
6
0
しかし胡搬のみのモノカルチャーは、病害の蔓延を招いた。 1
年代後半から胡搬の病害に悩まされ、他作物への模索が始まった。 1
9
6
0年代後半からトメア
スー組合は、中南米のみならず、東南アジアまで出かけていき、経済生産可能な熱帯作物の模
9
7
0年代末には、パパイヤのハワイ品種の導入、マラクジャ栽培を導入し産地
索に奔走した。 1
化に成功し、 一時はサンパウロまで出荷していた。が、これらの作物はよりサンパウロ市場に
いサンパウロ近郊や東北部に産地が移り、次第にトメアス ーでの生産は下火になった。
他作物導入の試みは続き、 後にはマンゴスチン、ドリアンまで取り寄せ、試験的に栽培を試
、一部の農家はべレン市やサンパウ ロに出荷し ている。ゆえにトメアスーでは世界中から取
り寄せられた様々な熱帯果実が栽培されており、トロピカルフルーツが楽しめるところでもあ
る。農家の庭先には、珍しい熱帯果樹や作物が見られる 。
。
官merAc
:u (PA)
トメア浪
パラ州州都べレン市からト
アサイ などの熱帯果肉を輸出する
メアス一行きのパスが出てい
ようになった。2005年は日本へア
る。途中河を渡るため渡し舟
サイ果肉を 500 t輸出している。
に乗らなければならない。し
トメアスー農業協同組合は、
かし近年トメアスーまでの道
FoodexJ
a
pa
n
2008年に参加し、 ブ
路が舗装され、べレンートメ
ラジルブースに出展した。また近
アスー聞は車で 3時間程度
年は、ジユースや果肉のみなら
で行けるようになった。
ず、熱帯果実のジャムやゼリーな
~ど の商品も開 発し販売している 。
E歪歪亘ヨ そ の 他、トメアス ー農 業 の 特 徴
クプアスーの木とその果実
可吾面語性 してア グ ロフォレスト リー を 欠 くこと はできない 。トメア
スーの日系人は、病害を防ぐ方法を模索する中でモノカル
チャー栽培が著しい土壌流失を招いたことが病害 の 一つの原
因という結論に到達し、樹木作物との混作=アグロフォレス
トリー=立体農業へと行き着いた 。 このアグロフォレスト
リーへの取り組みは、卜メアスー農業の特徴であり、トメア
スー農業は世界的に先駆的なアグロフォレストリーの事例と
なった。今では熱帯果実の生産地として有名なだけでなく、
アグロフォレストリーの実践地として著名になり、多くの研
.' 、川、
フェスタ・ジュニーナ・
ニッケイ (
6月)
.FestaF
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c
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c
a
(
6月)
Festa501e50m(7月)
'
運動会 (
7月)
盆踊り (
7月)
AgroExpo(7月末 ~8月)
入植祭 (
1
1月)
'
.
,
t
"
トメアス一文化趨業振興
協 会 (ACTA)
究者も訪れている。
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似/宮 (
9
1
)3734
・1
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宮 (
9
1
)3734
・1
062
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r(91)37341367
・
芦トメアスー総合廃業協同
-トメアス一日本人移民資
組 合 (CAMTA)
料館
宮 (
9
1
)3734-1345
トメアスー移住地の歴史、アマ
ゾン移住の歴史がわかる。
・移民の森
トメアス初期移民の家を再現
している。
宮 (
91)3734-1319
ウニヴェルサル 1号模型:資料館
・トメアスー総合農業協同
組合
ジュース工場
.日本人墓地
・ゴルフ場
胡搬の農園を利用して創った
ゴルフ場。トメアスーの人達が
会員になり自ら経営している。
ゴルフ場
トメアス移民の家:移民の森
トメアスi務
-通
場 を 建 設 し 、 今 で は クプアス一、
h一
つ鮒
-IDl'ilii宣立軍 t
.
1980年 代 後半に は、熱帯果 実 生
産を支えるため組合でジュース工
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包
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ー J・タピシ%"キ穆信也
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サルパドール市
ジュセリーノ ,
クピシェッ移住地
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,
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パ
ド
ル
マ ッタ ・デ
市
サンジ ョアン市
・人口 33,
842人
ジ
(
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8推計)
2
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-面 積 670km'
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ルパドール市ペロウリーニヨ帥
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2重両E
内面Fマ ツ タ ・ デ ・ わ ジ ヨ 叶 は
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邸
パイーアチ│、│州都サルバドールか
網l
手
ら 56km北北東に位置し、その市
整
内にジュセリーノ・クビシエツキ
量
移住地(以下 JK移住地と略す)は
ある。マッタ・デ・サンジョアン
市は1
549年に生まれ、 1551年に
はガールシア・ダビラが海岸の高
い場所に要塞城を築き、パイーア
港に近づく船の監視と防衛を
担った 。特にポルトガルから独立
宣言した時期には、侵略を防ぐた
め大きな役割を果たした。市民は
グラヴィオラ
質素、陽気、歓待的で、黒人、イ
ンディオらが生み出したカポエイ
ラ、サンバなどの伝統を代々引き
継いで伝えている。
この JK移住地は、時の大統領の
名前をとってジュセリーノ・クビ
9
5
9年 1月
シエツキと命名され、 1
に創設された。州都サルパドール
及びフェーラ・デ・サンターナ市
を中心とした地域への生鮮食料の
供給地として、連邦及び州政府が
計画した共営移住地である。移住
地計画の際、他の地域の日本人農
家が大きな貢献をしていることを
ハヤトウリ
!
i2包リー J・タビシ:t"キ移住.
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バイア州
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聖
里
圃
・
・
知り、日本人農家
による農業振興を
- がし た。
.;J~事望,.
-主ヨ,日本からの計画
一 自営移民は 、 1
959
-イベント
脅フェスタ・ジュニーナ
年から 1
962年の 4
年間に 109家族が
薬用植物ノニの果実
入植し、その他現
地入植者、
ザルバドl ル市 ジュセリlノ・クビシエツキ移住勉
.交通
サルパドール市パスターミナ
ルからマッタ・デ・サンジョア
ン行きのパスが出ている。
計るべく移住を促
ドミニカからの再移住者などがこの移住地に
入植した 。
現在この移住地には移住地創設と共につくられた JK移住
地農業協同組合があり、日系人がリーダーとなって地域の農
業をリードしている。作物はサルパドール市の需要に見合っ
(
F
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aJ
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)
*カレタス (Caretas)
奴隷時代からのお祭 I
Jで
、
紙粘土で仮面を作り、グルー
プで踊る。
女J
K移住地の盆踊り (
8月
)
女J
K移住地の運動会(1月
)
た野菜、花丹、観葉植物、パパイヤ などである 。最近は新品
種のパイナップル導入や、 ノニなど薬用植物の生産もはじめ
ている。今ではマッタ・デ ・サンジョアンの海岸は、別荘地
になっており、別荘地に来る人々に有機野菜など付加価値の
高い農産物を販売しようと、生産に取り組んでいる。
.日系団体
*ジュセリーノ・クビシェッキ
移住地蔵業協同組合
宮(
7
1
)3664
・1
046/1008
同とおばあのとごろのどごろのどあのとあのとごろのどごろのどあ
l
サルパドール市
.市民公園 (Parquedacidade)
市民の憩いの場で力ポ工イラ、民族踊りの場所があ
る
。
.ペロウリーニョ広場
.ボンフィン教会 (
I
g
r
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adoSenhordoBonfim)
.バーハ要塞 (Fo巾 deSantoAntoniodaBarra)
.海水浴場 (PraiadoFo巾 Almbassai,Costado
・
i
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g
o
)
Sauipe,D
JK植民地の農村観光 (TurismoR
u
r
a
l
)
有機質栽培で一般にも開放されている。ここには天理
教や生長の家道場がある。近辺には観光農園も多く
ある。
.料理
B
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odeP
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edoSouza
海産物のムケ力
(Moquecadef
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sdoMar)
園
Juazeiro(BA)
ジュアゼイ口市
ジュアゼイ口市
•
サルパドール市
3
7,6
27人
-人口 2
(
1B
GE2008推計)
-面積 63
8
9.6
2
3
k
m2
年中生産可能な濯灘ブドウ銭培
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i
lジユアゼイロ市は、州都サルバドール
司
・
.
.
.
.
.か~ ら南南西に 500km 内陸に位置し、ペルナ
ンブーコ州ぺトロリーナ市との州境に位
置する。ジュアゼイロ市とぺトロリーナ
市の問にはサンフランシスコ河が流れて
おり、橋を渡ると隣の州である。この付近
一帯は、カーチンガと呼ばれる乾燥気候
で、冬の日中気温は 30度を越すが、夕方
になると乾いた風は冷気を帯び、就寝時
には薄い毛布が必要になるほどである。
昼間の直射日光は痛いほど強いのに、夕
カーチンガの植物は常に乾燥状態だが短期間の雨期
には一帯に緑色になる
方になると涼しくサンフランシスコ河畔
は夕涼みが気持ちょい。このように昼夜の激しい気温差と、 異 常 に 乾 燥 し た 空 気 が
カーチンガの特徴である。
.サンフランシスコ河濯澱農業プロジェク卜
こうした気候は高品質のブドウ栽培に向いており、 ジュアゼイロ市はサンフランシス
コ河の水を利用した濯獄設備が整ったブド
ウ産地として有名である。ジュアゼイロ市
の開発は、 1970年代なかばサンフランシ
スコ河流域開発プロジェクトによって進め
られた。大規模濯減施設を設置し、販売農
地区画には護瓶施設が設置された。その一
つがクラサ地区であり、かつてコチア産業
組合が進出し、果樹団地を造成したので
あった。クラサ地区にはサンフランシスコ
)11 から 700 馬力 X5 本(実際の使用は 2~
3本)のポンプで汲み上げ配水し、途中 350 川から水を汲み上げる大ポンプを備えている
~~アゼイロ
Juazeiro(BA)
し、水の配管は全長
.交通
ペルナンブ コ州都レシッフ工
市からぺ卜口リーナ市行きの
飛行機が出ている
O
O
k
mにも及ぶ。
この地域の日系移住
は、サンパウロ州、パ
ラナ州からブドウ栽培
を目的に移動してきた
人達である。 1976年に
ジュアゼイ口腹協
クラサ地区に入った日
系農家が多数いた。 当初はメロンを栽培し 、品質も量も高
いものが出来たため 1986年にはオランダヘ輸出していた。
が、現在はブドウ栽培に移行し、ブドウはヨーロツパやア
メリカにも輸出されている 。 ジュアゼイロ農協でも、大型
の冷蔵施設を備え、ブドウ輸出を行っている 。 ジュアゼイ
ロ農協から輸出されているブドウは、
トンプソン、フェス
.イベント
肯ジZ アゼイロカーニバル
(
臼mavaldeJ岨 z
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o
)2月
貧困際濯灘虚業展ーフェ
FENAGRI平 e
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ナグリ (
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d
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) 7月
*民俗芸能祭 (
Semana
doF
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e
) 8月
ティバル、クリムソン、イタリア、イタリアムスカットな
.日系団体
どの品種で、ブラジルから輸出されるブドウが 51,213 t
合ジュアゼイ口腹業協同
組 合 曾(
74)3612
-5468
(
A
g
ri
anua12007より 。干しブドウを含む 2005年の輸出量。
)
に対し、ジュアゼイロ農協から輸出されているブドウは
10,
503 t (2005年輸出量)で、実にブラジルブドウ輸出量
パイア州 ジコアゼイ口市
圃圃園田町iiIf::t百 t
.
馬力のポンプが中継
肯サンフランシスコ河流
織目伯文化体育協会
の 20%以上をジュアゼイロ農協のみで占めている 。
!のどごろのどごろぬとごろのどごろぬとごろのどごろのどごろのどごろのどごろ
l
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-ォルラ・フルピアル船 (
1
fu
v
i
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)アメ
リ力のミッシツシピ河
を運行していた小蒸気船を買い、
サンフランシスコ河で始めて運行
(
J
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a間)させた。現
在は河岸でレスト
ランと軽飲食庖
として利用されている
。
.サンフランシスコ河御物
館 (
MuseudeSaoF
r
a
n
c
i
s
o)
・プレジデンテヅットラ構
(
Ponle Presidente Dulra)
1950年開通。現在拡張工事を
行っている。
.ソブラジーニョ人造湖
南米一大きな人造湖。展望台の
景色は見事。
サンフランシスコ河
園
Oourados(
MS)
•
•
カンポ・グランデ市
ドラードス市
-人口 1
8
1,8
6
9人
・
面
積
1-
(
1BGE200
7推計)
4
0
8
6,387km'
ドラードス市内の日本庭園
a
・
・
ド・.-歪'~1I
h
ス
、..,ドラードス市は、州都カン
ボグランデ市より南に約
225kmに位置する 。いまやこ
こも大豆を中心とした穀物
の一大生産拠点である 。
この地域に白人が入植す
る前は、インディオのテレ
ナとカイワ方矢が住んでいた。
注目すべきはこの子孫は今
でもインディオの中でも最
大の人数を抱えている。
1861年パラグアイとの戦争
で軍隊が駐屯し、 19世紀末
にはリオ・グランデ・ド・ス
画面量室ヨ
.白、、、、昼γ
.
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二二三二τ二τE
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六五人
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園田園子
、!!...~
..t
亀 冒
大豆畑
ル州、ミナス・ジェライス州、サンパウロ州から新天地を求めて家族が入植し始めた。そ
して土地が肥沃なことが伝わり 1882~ 1
924年間にマテ・ラランジェイラ (CompanhiaMate
Laranjei
r
a
) 会社がマテ茶の独占的に栽培に従事するようになった。同時期に牧場造成も
始まり、ノロエステ鉄道も 1904~ 1914年にレール敷設工事を行ったので、地域が急激に
発展し、 1935年市制が制定される 。 1943年にはドウラードス植民会社が創立され、
50,
O
O
O
h
a
. の土地分譲が始まると 。各地からブラジル人、外国人が入植した。特にここへ
d耳哩訟に植 した日本人はコーヒー栽培に従事した。
可~.松原移民
1950年代、コーヒー栽培を中心とする農業開発が進められ、松原植民地の入植も 1953年
に第一次移民を迎えたのである 。松原植民地は、松原安太郎が当時の大統領、ゼットリオ・
バルガスと友好関係があったことから生まれた。当時、バルガス大統領の選挙活動に、経済
的支援を惜しまなかった松原氏に 4,
000家族の移民導入権を付与したのであった。当 時、日
ドラードス
Dourados(MS)
状態にあり、 1953
・
-
年和歌山県が移
住に呼応したの
也
であった。この I
方には日本人会
はなかったが、新
移民が来ること
から日本人会を
結成し、歓迎した
.交通
サンパウ口市パスタミナル
BarraFundaから毎日 4本
¥
ス会社は Motta.
出ている。 J
所要時間は直行便で 13時
間
。
-イベント
合魚 祭 (Festadop
e
i
x
e
)
という 。しかしながら現地への入植は、まず原始林の中の道
3月
をひらくことから始められ、数ヶ月を要してやっと入植地ま
禽運 動 会
での 20kmの道を完成させ、区画割をくじできめて入植した。
食農畜産展 (EXPOAGRO)
開拓は困難を極め、また地下水が深く水不足に悩まされた
5月
女 ドイツ祭 (FestaAlema)
10月
世田;本祭 (JapanFesta)
1
1月
という 。しかし、戦争経験者が多く、意思が強く団結して開
拓にあたった。1950年代コーヒー栽培が中心であったが、 60
年代から 70年代にかけて霜害 にあい、 75年の大霜害では移
転者もたくさん出た。しかしながら 70年代後半には、 大豆
5月
000 t、メイ
など穀類への転換を果たし、いまでは大豆 17,
ズ 12000 t、綿 3,000 t
(2005年)を販売するコパセント
ロ農協が地域農業をリードしている 。コパセントロ農協も、
元コチア傘下の南マットグロッソ単協であったが、 1994年
再組織し再出発を果たし
ている 。機械化畑作農業
ドラードス Japan Festa
としては規模は大きい方
ではないが、組合員参加
が充実しており、農協へ
-日系図体
の結束力は固い。またこ
安 ドラードス日本人会
の地域では、日本語教育
も熱心で、日本語モデル
宮(
6
7
)3421・9701
コパセントロ農協のサイロ
校もある。
肯ラランジャ・リマ日伯
文化協会
宮(
6
7
)3414
・1
136
のどごろのどごろのどごろのど2ろぬと2ろのどごろ I
.ドウラードス歴史博物館 (MuseuHistoricodeDourados)
・アンテノール・マルティンス公園 (Parque Antenor
M
a
r
t
i
n
s
)
・ィンディオ部落 (ComunidadeIndigena)
・日本語学校
*共栄日本人会
密
(
6
7
)3489-1230
*グ口リア・デ・ドラー
ドス日本人会
宮
(67)3446
・1
568
*松原日本人会
宮(
6
7
)3673-6001
トラ!トス市
コパセント口農協
司
・
Inform型R
マりト・クロッソ寄ト・スーは印刷州
本も戦後の混乱
VarzeaAlegre(MS)
•
カンポ・グランデ市
バルゼア
アレグレ移住地
-人口 1
0,3
7
5人
(
1
BGE2008推 計)
・面積 2
8
4
9
k
m'
/(
1
1
.
ゼ ~ ~)レ ゼア・アレグレ農協の選卵所
ア~‘
C
司 . , .州都カンボ・グランデ市から西ヘ、牧場地
帯を一直線に横切って、国道 2
6
2号線を行くと、
レ
4
5
1
叩1
1
也点にバルゼア・アレグレ移住地がある 。ち
移
なみに、その 2
6
2号線をそのまま行けば、数時間
;
.
e
J
で有名な大湿原パンタナールに入り、やがてボ
リビアとの国境の街コルンバに至る 。 この移住
地は小野田寛朗さんが入植し牧場を経営してい
・
・
、
ることで知られている。テレノス市まで 20kmと
4
2ンパウ ロ市は 1,似31
仰とな っている。
ノロエステ鉄道の駅
可
・
・V
・ ;~. :t'.,.1I
テレノスと呼ばれようになったのは、この
地方に住んでいた インデイオ部族からである 。 1914年にノ ロエ ステ鉄道の駅が設置さ
れたが、後に市に発展するとは誰も予想してはいなかった 。 1934年、テレノス植民地
に入植する者がいないことから、州政府は土地を無償、営農用道具、 2年間の維持費
を与える奨励策を打ち出した 。 結果として、 97家族が入植、入植者のほとんどがヨー
ロッパ人だったが、中に日本人が一家族いた 。 また、これとは別に日本人 18家族がサ
ロブラ植民地を造成しコーヒーや雑作栽培を
始めた o
..a~ 事望‘
司 司F
パルゼア・アレグレ移住地は、 1957年邦人
自営農受入地として旧日本海外移住振興株式
会社が、購入造成した移住地である 。入植は
1959年から開始され山口県人が多い 。移住
地のなかにはパルゼア・アレグレ総合農業協
同組合 (CAMVA) が飼料工場と卵選別場を設
置して養鶏組合員に応じている。農協事務所
移住創設記念砲
,
,.
VarzeaAlegre(MS)
は カ ン ポ ・グ ラ ン デ 市 に 移 し 卵 販 売 も 岡 市 以 外 に 、 コ ル
-・11m'間開閉摩守-
ンバ(ボリビア国境)、マット ・グ ロ ッ ソ 州 ロ ン ド ノ ー ポ
リスとクイアバ市に販売所を設けている。
この地方では 鶏 卵 の他、 オレンジ、メイズ、フェイジョ
ンE な ど が 生 産 さ れ て い る 。 牧 畜 は 全 国 で も 盛 ん な 所 な
の で 屠 畜場 、 飼 料 工 場 も あ る 。
のどごろ~ろ悦ごろのどごろのどごろ批判
.観光農園
大都市力ンポ・グランデ市に近いことから多くの観光農園が散在
している。
・ブラジル農牧研究試験場公社 (EMBRAPA)
1612km2の広大面積
・プロジェクト・パクー (
P
r
o
j
e
t
opacu)
天然魚繁殖・養魚場
・川釣湯
.交通
サンパウ口市パスタミナル
BarraFundaから毎日 9本
CampoGrande市行きのパ
スが出ている。パス会社は
M
o
t
t
a社から6本、
Andorinha
社から 3本。所要時間は約
13時間。
-イベント
島
ヲ市の誕生 (
A
n
i
v
e
r
s
a
r
i
o
5
daC
i
d
a
d
e
)工芸青空市場 (
月)
-日系間体
貴パルゼア・アレグレ目
伯体育文化協会
音
量(
6
7
)33844193
*パルゼア・アレグレ鹿協
力ンポ・グランデ事務所
宮(
6
7
)3383-1732
*カンポ・夕、ランデ市の
フェイラ=戦前移民がノ口
工ステ鉄道工夫となり力ンポ
グランデ周辺まで移り住んだ
ことから、沖縄移民が多い。
そのためフェイラでは、名物
沖縄ソパが食べられる
カンポグランデ市近辺で魚釣り
-パンタナールの観光
パンタナル独特の野生動物が見られる
.参考文献
食 『移住地概要』国際協力
事 業 団 昭 和 58年度版
マット・クロッソ -ド・ス1ル州バルゼア・アレクレ移住地
I'
j 也、ア事アレダレ
・クロッソ・ .
ト・スl ル組問ナピライ市
•
•
カンポ・グランデ市
ナビライ市
闘
的
(
1BGE20
05推計)
・ 面 積 3163km2
っE
E-- ロ の 9
グ州ららやに
かか模年
⋮
ぺ乱デ市規位
マ位ンウ市、
南にラー司
は部グパリ 1 る
市南・り弘見
イの阜、十ン;ら
ラ 州 11h 一か
ビソン川札面
h
'与ノ ツ ヵ 一 心 仙 口
物
刷
部
釈
新
協
唱
M
コ周司, ロ 都 民 部 人
-人口 4
4,828人
入植が始まったとは思えな
・・
a
-・・田1m.;宜里震翌圃・・
市入口にあるツカーノ鳥の襖型
いほどに発展した。この年、
r
.Y
o
k
i
oS
h
i
n
o
z
a
k
i氏も入植し
日本の大学を卒業した青年 D
ている。この地には、以前先住民のインジオ ・ガラニス族が
住んでいた。 1
9
5
8年にカアラポ市の行政区、 1
9
6
3年には市
-交通
州都力ンポ
・ グランデ市から
o
l
t
a社。所要
毎日一本、 M
時間約 5時間。サンパウ口市
パスタミナルから直通のパ
スが出ている。
.イベント
*牧畜産展 (EXPONAVI)
4月末から5月初め
制が設けられた。
1
9
7
9年、日系人 2
7綿花栽培者家族が中心に設立したコパス
ル農協(南マット・グロッソ農業協同組合)はわずか数年で、
数百家族の組合員を擁する大組織に発展、同州の綿生産の中
心的存在となった。そのリーダーは創立からず、っと理事長を
続けている神谷栄氏のような戦前準二世や戦後一世の日系人
4
.日系団体
負ナビライ日伯文化協会
宮(
6
7
)
3
4
6
1・1732
*コパスル農 (COPASUL)
宮(
6
7
)3
4
0
9
1
2
3
4
・阻止ちである(神谷氏の亡父の呼び寄せ移民の独身青年)。
司
f
i
.
.
l
3
I 在は、組合員は 10日家族で日系人はわずか 5%だが、全理
事は日系で占めている 。事業も 多角化を進める中で大夏
、 小
EZ
ヨ盛畳立宣盛畳立宣堕彊
麦、メイズ、フエイジョン が伸びている。ここでも サトウキビ
銭箱が始まり、組合員の中に
.コパスル麗協の綿糸工
喝
も多角経営として、エタノー
ル工場と契約栽培をした。農
協は、生産物の付加価値とし
て精綿工場設置だけにとどま
らず、州政府のパック ・アッ
プを得て綿糸工場を建設し組
合員や地域に還元している。
コパスル農協神谷栄理・と製糸
工1
1
ベルジーゼス
Perdizes(MG)
人口 13,38
.
5
t
人
斗JBGE
20
0
5
j
量計)
~
収穫前のコーヒ一
・
・
・
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I
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'
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"
軍
司
・
・
・
・
司恒・IWペ ル ジ ー ゼ ス は 州 都 べ
一 口・オリゾンテ市から西に
向かつて 424kmの地点に位
置し、サンパウロ市から
620kmとなる 。ブラジルで最
もコーヒー栽培の適地とい
われるアルトパラナイーパ
・面 積 2446.05km2
ペルジーゼス農協
~血 方の中にある 。
.;::r~.1I
、画面白│
司市が生まれたのは、 1800年代初めに裕福な農場主フラ
ンシスコ・ぺレイラ・シャピエル氏が小教会建設に土地を
提供してか らと言われる 。1875年には、アラシャ市の行政
区となり、 1938年に市として昇格した。
この三角ミナスのセラード地帯にあるペルジーゼス団地
は
、 1985年に北パラナのロンドリーナ地方の、コチア産組
-交通
サンパウ口市パスタミナル
Ti
e
t
e
から毎日一本、
Araxa
行
きが出ている。パス会社は
C
o
n
t
i
n
e
n
t
a
l
G
o
n
t
i
j
o.
A
庁要時間
7時間半。ペルジーゼスには
Araxaで地域パスに乗れば
良い。
.イベント
貧農産晶評会
.日系団体
宵ペルジーゼス鹿協
宮(
3
4
)3663
・1
267
の若い組合員たちが、霜害のないこの地に、北パラナの
コーヒー園の再現を企図して、自ら土地を選び造成した。
総面積 2.500haで
、 42区分(1区画が平均 50ha) で、│司数
・
.生産者が入植し てすぐに苗木を定植し た。
‘
ー
・
岨Fコチア組合は団地造成 に必要 な手続き 、インフラの整
4
0)
.
二
・
:
r
.
.
.
:
.
.
.
;
I
・
i 賄などで側面協力し、同年 5月 にペルジ ーゼスにモンテ・
カ ル メ ロ 事 業 所 の 支 所 を 開 設 した 。 中央会解散後、
1995年 に ペ ル ジ ー ゼ ス 農 協 を 創 立 し 販 売 、 購 買 事 業
を行っている 。 現 在 の 躍事 長 は ブ ラ ジ ル 人 で 支 配 人 を
はじめ職員 も全員ブラジル人となっている 。
この地方では、 コーヒーのほか、大 E、メイズ、フエ
イジョン E、キビ、マンジョ力、馬鈴薯、コメ な ど が 生
産 さ れ て い る 。 牧 畜 でも 10万 頭 以 上 の 牛 を 飼 育 し て
いる。
E~Jr.ìt略週ち:r.,略~~'f"略'冒
-歴史的小数会
.考古学発鋸調査場
ここでは、昔の足跡となる、
焼き物、磨かれた石、割れ
物、埋葬していた棺桶、骨な
どが発掘されている
・ノーパ・ポンテ湖
レジャー
ミナス・ジヱライス州 ベルジlゼス市
ベルジー な 市
コタルド
SaoGotardo(
M G)
32,1
45人
(
1BGE2008推 計)
856km2
アルトパラナイーパ農協の穀物サイロ
:
・
1
:
ミナス・ジェ
ライス州都べロ
オリゾンテ市か
ら約 270km、サ
ンパウロ市から
は 740kmに位置
し、道路は全て
舗装され交通事
情は比較的良好
である。この辺
りの地形は
シャツパドンと
呼ばれる平坦地
で、標高は
し 150m~ 1,190
m と高いため、
年間平均気温が
ニンニクの濯灘
20Cと比較的冷
0
j
京な気候である。平坦な地形を生かして大規模な機械化農業が行われており、 大豆、ト
ウモロコシ.小麦、コーヒー などが生産されている o また野菜類の生産も盛んで、 ニ
ンニク はブラジル
e
の生産地で、その他馬鈴薯、 ニンジン、玉ねぎ なども生産されて
いる。また ライチ、アボガド、アテモヤ などの果実類の生産もあり、その他温帯作物
も多く生産されている o
この地域はサンフランシスコ河とパラナ河に注ぐ河川の水源地であり、分水嶺になってお
り、水も豊富にある。この豊富な水を使って、多くのピボットセントラル(濯概施設)が
稼動しており、この地域を空から見るとピボットセントラルによって描かれた大きな緑の
円をいくつもみることができる。
ザシ・ コタルド
一
可‘回円寺チ目始されたセラード開発が発端である。セラードとは、.熱
帯サバンナ気候で、 1
9
7
0年代に国家的開発として取り組ま
れるまで不毛の地帯と考えられていた。しかしこのセラー
ド開発の成功によって、ブラジルの農業生産力は飛躍的に
拡大し、世界の食糧庫としても注目を浴びるまでになった。
よる「北ミナス開発計画」が始まり、それに続いて 1
973年
コチア産業組合による ipADAP計画(アルトパラナイーパ
開発計画)
Jがサン・ゴタルゴ市含む周辺の 4つの市で開始
9
7
4年の入植と同時に地方倉庫を開設した。初年度
され、 1
は 24名の組合員により、 2000haの大豆が生産された。こ
の PADAP計画には、北パラナの農家子弟が多く入植してい
る
。 PADAP計画の成功により、今では多くの日系農家が住
んでいる。 2000年代初めからアルトパラナイーパ地域で
は、サン・ゴタルゴ市の人口が最も増加している。これは
地域の農業が、穀類だけでなく野菜、果実類の生産も盛ん
で
、 一年を通して農作業があり、雇用が増加したことによ
る。いまやブラジルの穀類、野菜の大生産地としての地位
を確立している。
人参収穫
面
菌f
i
玉ねぎ収穫
.交通
サンパウ口市バスターミナル
T
i
e
t
eからサン・ゴタルドヘ直
行のパスが出ている。パス会
ネ
土I
d
:Continental-Contijo。
.イベント
貴 FENACEN- 1
997年か
ら始まった農村シンジケー卜
主催の人参祭り。 7月開催
8
.
系団体
貴アルトパラナイーパ農
協 (COPAOAP)
宮(
3
4
)
3
6
7
1
6
2
1
2
サン・ゴタルド市
サン・ゴタルゴにおいては、ミナス・ジェライス州政府に
,
-m
.
l
i
l
lt
:
I
o
f
:t
.
ミナス・ジエライス州
.局長留置 サン・ゴタルゴ市に日系人が入植したのは、 1
970年代に
SaoGotardo(MG)
畠関 ・
Turvorandia(MG)
ツルボランジャ市
人口 3715人
(
1BGE2005推計)
・ 面 積 228km'
早生リンゴ EVA種
@
マンチケイラ山脈を越え
てミナス州の南部に日本人
農業者が進出し始めたのは
戦後間もない頃のことだが、
今日でも大きい集団地はな
いにしても数家族ないしは
十数家族のささやかなコロ
ニアがあちこちで見られ、い
ずれも特異な立地条件をう
まく利用して農業面での成
.
・
・
・
・
・
1
1
~~..-......開
ι.
二
っ
極詮矯:一川
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ア不都野跡同
三
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5
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詩
「
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げ
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一
門
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♂
…
I
一
…
1
一
内
1
e
、
でいヅなIil令官(ふさ.時?・
託児
州
州
州
仲
附
肘
│
i
戸一」ふヤヤ
拘
内
州
私
鳥
匂
.
供
対
主
ぷ
正刷
内
'
輔巨炉司帽"
品責をあげている。
@
パドスール生産団地入口
パドスール生産団地はミナス州政府がたてた疏菜・果実生産計画で濯 j
慨を利用した生産性
の高い集約栽培によって、疏菜と果実を州都べロ・オリゾンテへはじめ、サンパウロとリオ
の消費市場一年中供給しようという構想であった。これ
を具体化するのにコチア産組中央会の協力を求め、両者
の協定によって 1975年に作成されたプランが PADSULで
000haの土地に 40家族を入植させ
ある。最終目標は、 2,
ることであり、第一期 (
1
9
7
8年)、第二期 (
1
9
8
2年)、第
三期 (
1
9
8
5年)と三段階に分けて実施された。
第一期は PADSUL1と呼ばれもので、ミナス州南西部に
位置するツルボランジャ郡に 953haの土地を購入、 1978
年 8月から 9月にかけて 20家族が入植した。サンパウロ
デコポン
ツルボラシジャ
Turvorandia(MG)
l
.
ji
1It:tö'l.!f.'cI!
t.~_.
オリゾンテ
.交通
を結ぶフェ
ス国道
BR381号 線
に沿ったカ
レアスの町
から北西方
面に 19km
入った所に
Alegreで乗り換えてツルボ
ランジャヘ行く。サンパウ口
市から車で約 4時間。
スモモの収穫
ある。
生産団地は州都ベロ・オリゾンテ市から 450km、サンパ
ウロ市から 270km、 リ オ ・ デ ・ ジ ャネイロから 400kmと
.日系団体
*スル・デ・ミナス農協
宮(
3
5
)3242-5116
ブラジル 三 大 市 場 の 中 心 部 に あ る が 、 い ず れ の 消 費 市 場
へ も 遠 距 離 と な っている 。 ツ ル ボ ラ ン ジ ャ 市 は 生 産 団 地
から約 10km。
1995年 に ス ル ・ デ ・ ミ ナ ス 農 協 (CASM) を 生 産 団
地 内 に 設 立 ( コ チ ア 系 ) し 、 柿 、 夕、
アバ、スモモ、ア
-参考文献
*コチア産業組合中央会
『営農団地案内 J 1986年
テモヤ、リンゴ(早生)、デコポン、アボガド を 生 産 し
ている 。
見事なスモモの鈴なり
生産が始まった早生リンゴ
ツルボランジャ市
サンパウ口市パスタミナル
T
i
e
t
eから PousoA
l
e
g
r
eまで
Braganca社から 4本
、
T
r
a
s
u
l社から 1
時間毎にパス
が出ている。 PousoA
l
e
g
r
e
までは約 3時間半。 Pouso
ルナンジア
ミナス・ジヱライス州
-m
市とべロ・
••
ビラポl 一ヲ市
サンフランシコ河に架るマレシャル・エルメス橋
Pirapora(MG)
o
-人口 5
0,269人
(
1BGE2000推計)
・ 面 積 551.04km'
EUl長彊 リオ・アマゾーナス、リオ・パラナとともに、ブラジ
司・・.,.
;レの三大河川に数えられるリオ・サンフランシスコは、
アマゾン、セラードと並ぶ農業開発の三大フロンティア
のひとつでもある。
ピラポーラ市はこのサンフランシスコ河の沿岸にある。
大市場の州都べロ・ホリゾンテ市からは 3
2
:
3
k
mで、営農
団地は市内から国道 3
6
5号に沿ってモンテス・クラーロ
スに向かう 18kmの地点にある。当市は、釣り場と知られ、
サンフランシコ河
また乗船がピラボーラとバイア州、│ジュアゼイロ市問
.
.
.
叫
.371kmを往復していることで有名 である。
.仁川~ 歴史上では、インディオのカリリス部族が海岸から白人が接近することを恐れたのと近隣
可~め 他部族の迫跡を逃れるために、サンフランシスコ河をさかのぼって住み着いたといわれ
る。現在、河の急流前にあるカリリス広場がインディオ部落のあった所といわれている。そ
の後 1800年代半ば、ガリンペイロ(金や宝石採掘者)、漁師、牛飼、冒険家たちが次々とわ
ら小屋を作り定住してきた。開拓者達は収入を得るため
に、とれた魚を乾燥させて街道を往来するトロペイロ達
(馬や螺馬に荷物のせ輸送する隊)と取引していたロ
1
8
7
1年から蒸気船が往来し始めた。ブラジル中央鉄道
は王政時代に計画されていたリオ・デ・ジャネイロとパ
ラ州べレン市聞が到達したのは 1922年で、中央南部との
唯
a
の交通通信手段として、長年利用され当地方の発展
4・・脳こ 大きく貢献した。
E
三ヨ匹ヨ
ピラポーラに日系人が進出したのは、 C
O
D
E
V
A
S
F(サンフ
、 - ち ンシスコ河流域開発公社)の濯概システムが完成した翌
年の 1
9
7
9年、コチア産組が選考したサンパウロ、パラナ
州から 1
5人の若い農業者が入植した。最初は、一人当た
り、平均 44ヘクタールの生産規模に、 メロン、マモン、パ
教会跡
ビラ誠一ラ
P
i
r
a
p
o
r
a(MG)
4本、G
o
n
t
i
j
o社。所要時間
約 6時間。サンパウ口市バス
ターミナルT
i
e
t
eからべ口オリ
ゾンテ行きとポン・
ジェズス ・
'
¥
(BomJesusDa
ダ・ラ J
本命の主産物のブドウ
Lapa-Ba-BA
)
のパスが出て
おり
、 ピラポラも通過する。
農す
協め
一を
ラす
ポ業
ラ事
系つ
ピて
υ
口U H析し
たを
1、
ざ関
fl
1
べ口オリゾンテ行きは 1日1
本、ボン-ジェズス ・ダ ・
ラ
パ行きは 1日 1本、いずれも
G
o
n
t
i
j
o社から出ている。所
用時間は出発時間により 7
のどごろのとあのとごろ悦あのとごろのとお│
時間 30 分 ~ 8 時間 15 分。
-イベント
脅太陽まつり
(
7月)
食民族祭り (
8月)
* ピラポーラ河釣り祭り
(
9月)
-サンフランシスコ河と乗船
.魚料理
.船や魔除け面の模型細工
-日系団体
ピラポーラ腹業協同組合
宮(
3
8
)3741-2050
ミナス・ジヱライス州 ピラポl ラ市
.;;f
州都べ口
・ オリゾンテ市から
設耀
え ナ
前 け
岬 U
ボイ九 そ培て物?、アが私企ウ
カエイ と栽ウ産ルイ種い央川
λ
フス なて ド 主ダナ高て中
、リ し ブ も イ 、 組 れ ア 孔
F
3
一 、さチ配る
、ンウ とはでて
イヤヨユ ぎ命在しビラ産コ白い
パチジキ 繋本現とルガ生はて
・
・
・
・
1
i
i
L
i
I
i
i
i
官T奄
ヨ
ヨ
・
・
・
・
・
MonteCarmelo(MG)
モ
ン
ヲ
・
-人口 45,819人
カ
(
1BGE2008推計)
I
¥
'
・
・ 面 積 1353.677km2
6-F
ポけセン同 で 一 一 園 崎
市
a a
‘・・園開車内外で最 も注目されているコーヒーの特別産地はミ
ナス州でも三角ミナス及び近くの幅印刷、長さ 220kmの
アルトパラナイーパ地方である 。モンテ・カルメロはこ
の中に位置している 。州都べロ・オリゾンテ市から西に
一 向か つて 484km地点でゴイアス州境に近い。
・
;
:.
:
(
.
.
.
.
.
司
・
.
.
.
.当,市の歴史では、
1840年代に、パンデイランテス(旗
を掲げる者)達が海から遠いこの地に、何か軽くて輸送
しやすく 売買あるいは交換できる物を探し求め、道を切
り開きながら到達した。彼らは、この地域のパガジエン
川で洗濯女がダイアモンドを発見したことを言いふらし、
各地から多くの冒険家ゃならず者達を集めたので、川べ
りに集落ができた。パンデイランテス達も家族を呼んで
たわわに実るコーヒー
定住させるのに見つけたのが、二つの小 1
1
1がある場所で、
水が豊富で清く、この集落を“カールモ・ド・パガジェン"と呼んだ。その後、カルメル会
の修道士がこの地方にやってきて、
Eがイスラエルの“Monte
Carmel" (Carmelとはアラ
ブ語で神のブドウという意味)によく似ているので名づけられた。
セラード地方(サバンナ地帯)のコーヒーはブラジル全体の年間生産量の 3割以上を占め、
パラナ州と比較しでも生産性が高い。また、香り、風味、コク、粒の大きさと、と、れを取っ
ても他州のコーヒーに劣ることはない。従って、値段も他州より 二、三割高となっている 。
なぜ、そのような優れたコーヒーが生産されるのかと言うと、収穫に雨が降らないことが一
番の要因である。それと、コーヒーが開花してから収穫するまでの期間が、他州に比べると ー
か月程度遅れるために,実の充実性も全然ちがう 。
1972年より北パラナの若い日系農業者グループが霜のない地方でのコーヒー栽培を目
宅ンテ・カルメロ
MonteCarmelo(MG)
而 官T
.交通
ウベンランジア (Uberlandia)
がコチア組合員の子弟
であり、親は北パラナ各
地でそれぞれ営農を続
け、新天地での飛躍を期
生産されたコーヒーの品等審査
..a~ 事望‘
・
司
F¥
そ して、
1978年初め、モンテ・カルメロ市内に、職員一
人のささやかながら最初の事務所を開設した。この地域のカ
フェー栽培は今では、各人が数十万本から百万本を栽培し、
それ以
モンテ・カルメ口市
して息子たちを送り込
むのだった。
までサンパウ口市パスタミ
ナル Barra Fundaから
Eucatur社のパスが出てお
り、ウベランジアからモンテ・
力ルメ口行きのパスに乗り換
える。ウベランジアから 2時
間おきにモンテ・力ルメ口行
きのパスが出ている。 Tieteか
らは NacionalExpresso社か
らパスが出ている。
t保有する者もいる 。その上、ほとんどのコーヒー農
園に謹概設備が設置されており、日本及び外国からの視察訪
問が絶えない 。
今思えば、開墾し苗木を定植してから最初の収穫が始
まる前の、一番苦しい時期に短期労働者達が市内でスト
行列を行ったのがウソみたいだ。日系人パイオニアが
.日系団体
育モンテ・カルメロ農協
(COOPERMONTE)
宮
(34)3842
・2
745
雷(
3
4
)
3倒 2・5510
コーヒー を一大産業に成長させ地域の発展に大きく 貢献
したことは評価されている 。
中央会解散後に設立されたモンテ・カルメロ農協
(COOPERMONTE) は、日系人を真似てコーヒー栽培を始めた
ブラジル人の中、小農家を加入させ経営の安定化を図っ
た。組合員の多角化に伴い、 大 H
.メイズの販売も始めた。
また、当地方では、瓦、レンガ、焼き物工芸品、皮革
などの工場がある。
“あのとごろのどごろ悦ごろのどごろ附ろ悦ごろのどごろのどあ
-コーヒー圃の花が
真っ白に咲く時期
(
9月"-1
1月)
-大型潜水憾と収穫織
の作業状況
(
5月 "-8月末ごろ)
.焼き物工芸品
真っ白に咲いたコーヒーの花
近くの町には由緒ある教会も多い
ミナス・ジエライス州
・
・ mrn 軍
司
・
・
・
・
的にモンテ・カルメロに
入植した 。彼ら、すべて
I
Canoinhas(
S
C
)
カ
カノイー
.ニャス市
フロリアノ
ポリス市
・人口 5,500人
ヤ
・ 面 積 1.143,6km'
ノ
イ
(1
BGE20
08推計)
言
ヵノイ一二ャス市
ー
; 長当 カノイーニャス市はサン
・
司V
タ ・カタリーナ州、│の北部で
パラナ川│との境界に位置し
ている 。
このあたりは、アラウカ
リア(パラナ松)の原生林地
帯だったので、木材、製材業
が栄えた 。 その伐採後の土
地はほとんど放置されてい
た。そんな地帯に、いくつか
....
魁 )農業地帯が出現する 。
・;主主~.亙 この地が誕生したのは、
可~町 888 年で“サンタ・クルス・
カノイーニャス農協の種子馬鈴薯ミニチュバ
デ・カノイーニャス"と呼ば
9
1
1年にクリチパプス市から独立し市制がおかれた。翌年にコンテスタード戦争
れた 。 1
9
1
6年に終わるまで戦争の中心地となった。 1
9
3
0年頃、サンパウロ市からリ
が始まり 1
オ・グランデ・ド・スル州聞の鉄道に連結され、サンフランシスコ・ド・スル港ともつ
ながり一挙に経済大革命となった。早くから多民族を受け入れたので、イタリア、
ド
イ
Af撃証人 ウクラニア、 日本人移民で市民が構成 されてい る。
. . .コチア産組は馬鈴薯生産で始まった。それだけに種イ モの確保には常に苦労してきている。
、過値段 のカノイーニャ スは 1
9
62年に 、日系種 イモ生産者が新しい適地を探して歩き回った結果
で、このようにして農業地帯が生まれ地域の発展に貢献してきた。
9
8
3年で、それまではクリチパ事
コチア産組の事業所が開設 されたのは、ずっと後の 1
業所に所属していた。主な理由は、種イモ生産者は土地がなくなると他に移動するのが
当たり前だったからだ。このように、種イモの需要は減つてはいるが、いまだに続けて
生産が出来るのは気象条件の素晴らしさと、土地の確保が容易だったからである 。
1
9
8
4年から、組合は本格的な設備投資を始め、冷蔵倉庫建設、種子馬鈴薯ミニチュー
カJイーエャス
Canoinhas(SC)
-・・~喧ヨ・・・
ア中央会解散後に創立され
た 組 合 で 、 購 買 事 業 と 種イ
モ、馬鈴薯、大豆、メイズ を
-イベント
合マテ茶祭り (FESMATE)
2年ごと9月に開催される。 2
万人以上の観客を動員。
生産している。隣州で馬鈴
薯とリンゴを生産している
.臼系団体
組合員もいる。また、地域の
合カノイーニャス鹿協
宮(
47)3624
・2
566
主要生産物として、 マテ茶、
タバコ、アメリカ松 の合板
が輸出されている。
l
M
ごろのどごろのどごろのどごろのどごろにお│
-マテ茶工湯とたばこ栽培
-パール・ダス・プラッカス (
車 プレート -パー)
2万 9千枚のナンバー・プレートのコレクション。ギネス・ブックに
記録されている。
.オウロ・ベールデ展示場公園
自然 j
也、ミ二動物園、広大な緑園
.ペドレイリンニャ水浴場
m
面積9万6千 の中に滝、キャンプ場、レジャー設備、ドイツ人事
業家が製造する手工業ビール。
カノイーニャス農協
カノイl ニャス市
-交通
サンパウ口市パスターミナル
T
i
e
t
eから毎日 2本のパスが
出ている。パス会社は
Reunidas社。所要時間約 9
時間半。
ノイーニャス農協は、コチ
サンタ・カタリiナ州
バのラボラトリー設置、穀
物サイロ購入を行った。カ
SaoJoaquim(SC)
SC..フロリアノ
サ
. 'ポリス市
サン・ジョアキン市
ン
ジ
ヨ
ア
キ
ン
4
・
h
‘面画面Fサンジョアキン市は、サンタカタリーナ州の州都フロリアノポリスから南西 2
3
6
k
mに位置
ー する。フロリアノポリスからラージェス (
L
a
g
e
s
) を通過しサンジョアキンに入る道と、フ
ロリアノポリスからツバロン (
T
u
b
a
r
a
o
) まで南下し、サンジョアキンに上がっていく道と
がある。ツバロンから行くと、 リオ・ド・ラストロ山脈 (
S
e
r
r
ado R
i
o do R
a
s
t
r
o
) の急
な断崖絶壁を登っていかねばならない。しかもこの辺りはいつも霧が立ち込め、幸か不幸か
道路からすぐの崖は良く見えないことが多い。崖を上り詰めると視界が開け、ほどなくリン
ゴ園が続く道に入っていき、サンジョアキンに到着する 。
,
3
6
0
mで、ブラジルで最も寒く、冬には降雪もある 。地域住民
サンジョアキン市は標高 1
はドイツ移民、イタリア移民、ポルトガル移民、アフリカ移民、日本移民など多民族で構成
1'まいである。
されていて、街はヨーロッパ風の 1
歴史的には 1
7
5
0年、サンパウロとリオグランデドスルの農場主がサンジョアキンの土地
8
7
3年にはサンジョアキン協会区の住民が増え、 1
8
8
7年にはラージェ
を所有していたが、 1
d由里h示から独立してサンジョアキン市となった。
-事司・ この地に日本人が移住してきたのは、 1
9
7
4年のことである。当時コチア産業組合の組合
司崎・W
員数名は、リンゴ団地造成に乗り出しており、組合でもその計画を推進していくことになっ
9
7
4年は、リンゴ団地造成による入植者第一号
た。 1
量四
がサンジョアキンに入植した年である。第一号は細
9
昏圏
直
井健志、続いて清水、西森、桶口らが入植した。
またこれら先人のコチア組合員の貢献のみなら
'
1
:
:
-
ュ
τ
目
面
i
I
:
!
'
l
ず、リンゴ団地造成のために農水省青森県農業試験
I
C
A専門家として派遣された後沢博士の功
場から,J
績は大きい。後沢博士は、世界的に有名な品種と
なったフジを作出した研究者であった 。後沢博士は
e
4単品
同
園
1
9
7
2年から 77年にかけてブラジルに滞在し、リン
ゴ栽培を指導した 。今ではサンジョアキンは、ブラ
ジルーのリンゴ産地に成長し、地域及び州はリンゴ
生産で潤っている 。
岡 田圃
画=司司
後沢博士の功績を記念した胸像。 Epagrit
式
験場内
J
ザン惨ジ語?キン
SaoJoaquim(SC)
〈乙,~,
チア組合であった
サンパウ口市バスターミナル
が
、 1994年 に 中 央
会は解散し、新た
に 80数 名 で 組 合
を再組織した。一
致団結して組合再
J
近代的なリンゴ選果場
建にあたり、当時
T
i
e
t
eから毎日 1
本ラージェス
市行きのパスが出ている。パ
ス会社は Catarinense所要
時間 12時間半。サン・ジョ
アキン市まで 78kmあり地域
パスに乗り換えてし 1
。
く
のリンゴ選呆施設、冷蔵施設に加え、新たな投資のもと
に近代的なリンゴ選呆場、冷蔵施設も備えるまでに成長
した。
1 へもト
肯 リンゴ祭り
サンジョアキンは、
リンゴ産地 ブ ラ ン ド を 不 動 の も の に
( 4 月末 ~5
月初旬) 50年以上の歴史を
しただけでなく、今はリンゴ以外の新作物や他部門との多
持つお祭り。 1952年に初めて
角経営も視野に入れている。 ブ ル ー ペ リ ー 栽 繕 に 取 り 組 む
サンジョアキンで農産 EXPO
ワ イ ン作 り に 取 り 組 む グ ル ー プ も あ る 。 サ ン
が行われた。その後、1
956年
ジョアキンに行ったら、リンゴだけでなく、ワインも楽し
にリンゴ祭りとなった。その頃
むことができる。
はまだリンゴは商品生産には
組合員や、
至ってお らず、生産は少な
│ゆとごろのどごろのとごう的。
ごろのどごろのとお
978年│
こ、国内のリ
かった。 1
ンゴ祭りとして承認された。
禽雪祭り
-サンジョアキンアート博物館 (
MuseudeArtesdeSao
Joaquim)
日系肉薄
・歴史博物館 (
MuseuH
i
s
t
o
r
i
c
oM
u
n
i
c
i
p
a
l)
世サ ン ジ ョ ア キ ン 農 協
.サン・ジョアキン農協内サンフジ直売屈
。 サンジ、ヨアキン農協
組合員の女性が作った組織がサンフジである。サンフジでは、サン
奮(
4
9
)233-0012
,
.
.
.
.
.
.
圃
・
・
、
ジヨアキン農協の規格外リンゴを使って様々なリンゴ加工品を作って
直売している。なかでもリン
コ。
ジ、
ユースは格別の一品で
ある。直売庖にはリンゴのお
菓子
、 リンゴジャム、ケーキ
などがあり、その他に手芸
bL
協
育
体
文
ン
日
河
キ
ア
4R A
一
品
サンタカタリーナ州農業試
サ
・雪景色
・エパグリ (
EPAGRI)
ン
品も販売している。
サンフ ジ直売庖
験場。後沢博士など、リン
ゴ生産に貢献した偉 人の像がある。
.滝や湖もあり、キャンプ地もある
宮
(
4
9
)233-0879
サンタ・カタリlナ州 サン・ジョアキン市
-Infonn璽 璽 -
リンゴ生産を成
長させたのは旧コ
Londrina(PR)
•
ロンドリーナ市
-人口 5
0
5,1
8
4人
(
1BGE2008推計)
園面積 1
6
5
08
0
9
k
m
'
,
収穫前の小麦畑
パラナ州ロンドリーナ市は、州都クリチ
バ市より北に 3
8
3
k
mに位置する。クリチパ
からパスに乗ってロンドリーナに向うと、
パラナ州南部は山が多く、北に行くと E陵
地帯に変わっていくのがわかる 。緩やかに
波打つ地形に、整然と作物が植えつけられ
た美しい田園風景の中に街がある。ここは
ブラジルでも有数の肥沃な土壌を湛えた農
業地帯である 。また、ロンドリーナ市は地
方発展の拠点としてパラナ州および南伯 3 収穣時の大豆
州にも重要な役割を担っている。人口では
...-..州内第二の大都市、南伯では 3番目の都市であり、多くの日系人が住んでいる。
ロンドリーナ市を中心にした北パラナ地域は、 1
9
3
2年サンパウロ州同コーヒー植付け制
山富ヨ週
・
可F 限令に端を発し、サンパウロ州から移動してきた移住者らによって開発されてきた。サンパ
ウロ州コーヒー植付け制限令の少し前、 1
9
3
0年に英国シンジケート「北パラナ土地会社」が
ロンドリーナ以西の土地を売り出し、このことがこの地域を小さなロンドン二ロンドリーナ
と言わしめ、市の名前の由来となったという。
1
9
3
0年代前半からこの地域にサンパウロ州から日本人が流れ込み、自作農として独立し
ていった。戦前からの移民は、コーヒー栽培に従事していたが、 1
9
5
0年代からイタリアブ
ドウを中心とする果実栽培が盛んになり、 7
0年代にはブ
ラジルでも有数の産地に成長し、新品種「ルビーオクヤ
マ」も日本人によって開発された。
また 1
9
6
0年代から 70年代にかけては、度重なる霜害
によってコーヒー栽培は衰退し、かわって大立
、 トウモ
ロコシなどの穀類に作物が急速に拡大した。1
9
7
0年代に
は既に西部パラナの穀類生産の重要な基点となり、 8
0年
にはコチア産業組合は巨大なサイロと倉庫を建設してい
インテグラーダ鹿舗のサイロ
ロンドリ叫す
会魚
ラナ穀類生産の一大
サンパウ口市パスターミナル
9
9
4年
拠点となり、 1
B
a
r
r
aFundaからロンドリーナ
コチア産業組合解散
0数本
行きのパスが毎日 2
後も事業所が参加し
出ている。パス会社は
て組合を再組織し、
G
a
r
c
i
a、ExpressoKaiowa
現在はインテグラー
ダ農協と名前を変
・
・
.m'.WUmI
逗E
リーナ周辺は、北パ
トウモロコシの収穫
え、組合員数 5
0
0
0名
以上を有する最大の日系農協に成長した。また、近隣の標高
と OuroBrancoの3社があ
る。所要時間は出発時間に
より 6時間半から 7時間 5
0
分
。
の高い地域では、柿生産にも取り組むなど、小農家は果実生
産にも取り組んでいる。ロンドリーナ周辺の主な生産物は、
I
ロンドリーナ国際演劇
コーヒ一、メイズ、小麦、綿、ラミー、フェイジョン E、ラッ
カセイ、コメ、サトウキビ、大里、果実 と野 菜 などである。
祭 (
F
e
s
l
i
v
a
lI
n
l
e
r
n
a
c
i
o
n
a
l
このようにロンドリーナ近辺は戦前からの農業の歴史も古
deL
o
n
d
r
i
n
a
) 毎年行われて
く、隣のローランジャ市には日本移民資料館もある。農業の
いる。
ロンドリーナ音楽祭
歴史と日系移民の歴史を感じることができる美しい田舎町で
ある。
(
F
e
s
l
i
v
a
lde Musica de
L
o
n
d
r
i
n
a
)
EXP. A CEL(6月)文
のどごろのどごろのどごろのどあのとごろのどごろ│
協主催農畜産展。日本文化
の紹介。 4日間で 3万人動員
-ロンドリーナ美術博物館 (MuseudeA
r
t
edeL
o
n
d
r
i
n
a
)
・ロンドリーナ歴史博物館 (MuseuH
i
s
l
o
r
i
c
odeL
o
n
d
r
i
n
a
)
u喜朗録
・池田大作環境公園 (ParqueE
c
o
l
o
g
i
c
oD
r
.DaisakuI
k
e
d
a
)
パラナ日伯文化体育協
・トミナカガワ公園 最後の笠戸丸生存者であった故中川卜ミ
さんを記念して作られた公園。故中川卜ミさんは、 2
0
0
6年 1
0月
A
1
0
0歳で他界された。
*イ ン テ グ ラ ー ダ 農 協
Z玄
宮(
4
3
)3
3
2
4
・
6
4
1
8
宮(
4
3
)3
2
9
4
7
0
0
1
.はちみつ
日系人が経営するケキ屋さん。甘すぎず、とてもおいしい。
eNELSON
パン屋。日本と大差ないレベルのパンを売っている。
直売
}
¥
ヶ掛川口、/いhjudナ沼
・-
た。以後、ロンド
L給 路 d
r
iれ .
.
'
l
i(
PR)
バラナ州 ポンタ・グロッザ爺
悶
・
PontaGrossa(PR)
PR
ポンタ
グロッサ市 ・ .
クリチーパ市
3
11
,1
06人
(
1BGE2008推計)
・面積 2063,697km2
文協前の綴並木
l
.
!L
是正週
ポンタ ・グロッサ市は南パラナのカンポ
可司...ス
. ・ジェライス中央高原の中にある 。、│
州都ク
リチーパ市から 117kmの地点にパラナ州奥地
の最大の工業都市として知られている 。 1
8
世紀初めに、この高原に人達が住みだしたの
は1
7
0
4年、サンパウロの二人の有力な貴族
が治まるまで待機に必要な施設が川に沿って
作られた。
1
9
5
0年末、カストロからやや遅れて当地方
への日系 j
馬鈴薯生産者達(コチア産組組合
員)の進出がはじまり、カストロと共に馬鈴
薯の最盛期を迎える。さらに大豆栽培へと移
行する。この時期に当地方の農業形態を飛躍
的に促進し、大型化したのが、当時ブラジル
政府がうちだした穀物栽培への積極的な奨励
策であった。表土流出の防止を主目的とする
不耕起栽培がアメリカから導入した。日系で
最も早くから取り入れたのは南パラナのポン
タ・グロッサの穀物生産者達である。
コチア産組中央会解散後、 1
9
9
5年にはポ
広大な大豆畑
がし
口通
違過
イを
ぺ町
トこた
ロの
が未墾の大面積をポルトガル国王から付与さ
れたことと、牧畜に必要な牧草が豊富にあっ
た為と 言われる.この様に、リオ・グランデ・
ド・スルから大群の牛や螺馬を引き連れて消
費市場のサンパウロ、ミナス州に向かう通り
道となった。トロペイロス達の宿泊所、動物
の肥育、休ませる小牧場、あるいは川の氾濫
lI
司
説ンタ・夕、時ツザ
豆、小麦、メイズを生産して
いる。果樹栽培への経営多
角化を研究している。パラ
ナグァ港が 170kmと近く、他
国籍企業が進出して巨大な
鴨川 ・ │
司I
ア曹
ポンタ ・グロッセンセ獲協の巨
大なサイロ。
搾油工場やサイロを建設し
た。矯磨化成も進出して松ヤ ニ を生産 している。播磨化成
の本社がある兵庫県加古川市はパラナ州マ リンガ市と姉妹
都市提携を結んでいる。
ぬとごろのどごろのどごろのどごろのどごろのどごろ│
ヨ
ョ
・
・
.ml.jiii@t
.交通
サンパウ口市バスターミナル
B
a
r
r
aFundaから毎日 5本パ
スが出ている。パス会社は
P
r
i
n
c
e
s
adosCampos
社。所
要時間約9
時間、車で7
時間。
ボンタ・グロッサ市
方の主要生産物である、 大
・
・
-
パラナ組問
ンタ・グロッセンセ農協が
設立され、組合員達は当地
PontaGrossa(PR)
.イベント
*黒生ビール祭り
合ドイツ移民祭 (Munchen
f
e
s
t
)1
0万人の観客動員
女ポンタ・グロッサ農畜
工展示会
-日系団体
合ポンタ・グロッサ日伯
文化体育篇会
曾(
4
2
)
3
2
2
4
・
5
3
6
0
-ビラ・ベーリャ州立公園
クリチー J'iからポンタ ・
グロッサ市
ヘ向かう B
R
3
7
6を東ヘ 80kmほ
ど行ったところ。長い年月の聞に
風雨のよって侵食された砂岩が、
奇岩群となって野外美術館の彫
刻のように立ち並ぶ。
.市内観光 教会、博物館、劇
場、駅など歴史的な建物
ポンタ・グロッサ文協でも 2008
年の移民 100周年を祝った。
青ボンタ・グロッセンセ
農 協 窓(
4
2
)3
2
2
9
2
5
5
2
園
Palmas(PR)
パルヤス市
•
パルマス市
-人口 3
4,7
8
3人
(
1BGE2000j
量計)
・面積 1
6
91
.7
5km2
カンポス高原
パルマス市はパラナチ|州、|者'~クリチパ市より約
381kmに位置する。パルマス市は、標高の最も高い
ところでし 340m、市街地で 1,160m、ほぼ 1,100m
~1 , 200mの波状丘陵が続き、パラナ州でも最も気
温の低い士也域である。
クリチバより凶道 BR4 76を西南西に進んでい
くと、山がちな地形の中を進んでいくのだが、パル
マス付近にくると緩やかな草地が広がっていくの
がみてとれる。そして丘の上には白い風力発電用
風車がゆっくりと羽をまわし、ブラジルとは思え
ないような高原の牧草地が広がっている 。 筆者は
長く北海道に住んでいたが、この風景は道北や道
東を急に思い起こさせ、まったくサウダージに
..-“自ってしまったものだった。
1}ヨ当 パルマス市は、パラナ州でも古い町のひとつで
カンポス./旬以ンセス農協のパッキングハウス
司 - 院あるが、 1960年代製材ブームで商業が発達するま
であまり開発の進められなかった地域であった。パルマス地方の産業は、自然放牧による牧
畜と、パラナ松などの森林資源を利用した製材業であったが、近年は合板が製材に取って替
わるようになり、製材業は合板企業へと転換した。
製材業が斜陽化する少し前、 1970年代半ばにサンパウロ州で種芋を生産していた日本人
農業者が、種芋生産に適した気候を求めてこの地にやってきた。最初の日本人は、阿部コウ
ゾウ、井戸川マサヨシ、下坂テルトの 3人で、 1974年のことであった。当時コチア産業組
合ではリンゴ生産団地の適地を傑しており、パルマスは冷涼な気候から円をつけられてい
た。が、結局リンゴ団地はサンジョアキンに設定され、パルマスには種子生産者が入植した
のであった。そしてコチアの事業所(グアラブアーヴァ事業所所属の出張所)が 1977年パ
ルマス市に設置され、馬鈴薯を取り扱っていた。
その後 1986年に組合員の l人がリンゴの試作にも着手し、コチア産業組合にさらなるリン
I
¥
.
J
.
.マ
ス
Palmas(
P
R
)
-・・ヨヨ・・・
方の最も標高の高い草原
@交 i
地帯にリンゴ団地を造成
サンパウ口市 パスターミナ
ルT
i
e
t
eから 1日に 2本パ
ルマス行きの直通パスがあ
る。レイ卜もある。パス会社
R
e
u
n
i
d
a
sT
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n
s
p
o
r
t
e
。所要
時間約 1
2時間。
し、最初の植付けを 1
9
8
9
年に開始した。以後、リン
ゴの増産が図られていっ
たわけだが、パルマス農
協もコチアの傘下であっ
リンゴの瞬定枝を使ったインテリア
家具
たことから、 1
9
9
4年の解散以後再組織を遂げている。パルマ
ス農協の場合は、サンジョアキンと違って後発産地であり、
解散当時まだリンコゃ栽培が軌道に乗ってなかったことから非
常に苦労して組合運営を行ってきた。果実の遠隔産地にとっ
ては生産物を長期保存しておく冷蔵庫や、品質を均質化させ
イベン
*エキスポ・パルマス 2
年おきに実施されている。次
回は 2010年 3月か 4月頃
の予定。
るために選果施設が必要となるが、当時まだパルマス農協に
はそれがなかった。しかし組合員による積立金で 2
003年に
パッキングハウスを設立している 。
現在は リンゴガラ が 2,1
8
8t、フジが 1,
708t、合計 3,
800
tあまりのリンゴを農協では販売している 。また、パルマス
ではリンコ守の努定枝を使って、インテリア家具を作る企業を
組合員が起こしている。地域の合板企業の利用と、高齢者、
障害者にも出来る雇用を創出し、リンゴの努定枝という廃材
を利用することから、環境に優しく地域に根付いた企業を目
指している 。 そしてリンゴ蔚定枝のアクセサリ 一、写真た
て、 インテリア家具材 を商品として提供している。
-日系図
脅パルマス日本人会
(
Associacao C
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合力ンポスーパルメンセ
ス農業協同組合
宮(
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)3
2
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2
2
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6
1
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"
考
文
*JATAK
報告書
ぬとごろのとお悦あのとあのとごろのどごろ│
.夕、ルッタ公園 (
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aG
r
u
t
a
)
岩盤から落下する小さな滝があり、岩の隙聞が洞窟になっている。
1843年j¥
'
}レマスの集落がインディオの攻撃を受けたとき、この滝
を中心に攻防戦が展開された。インデ、
イオは撃退され、後年洞窟
の中に聖女口-}しデスの像を杷り、戦いの記念にしたとし l
う。(参
考文献より引用)
・風力発電用風車
-インディオ指定保護地区 (
R
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)
パルマスからアベラルド・ルス (
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)にかけての
2,
944ha。
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レ
マ
ス
地方とパルマス農協」中野
1
1
鼠夫
パラナ州パルマス浴
ゴ団地の造成を提言し実
現に至る。 1
9
8
8年この地
Castro(PR)
パラナ州 カスト口市
6,5496人
(
1
BGE2007推計)
・面積 つkm'
市の中央公園から町を望む
カストロはパラナ州、│の南部に位置し、州
都 クリチーパから 159km、サンパウロ市か
ら440kmの地点にある。 18世紀の初め、こ
の地方にはインディオが住んでいた。
牧草
が豊富なことから、南からサンパウロに向
かう数百頭の馬や螺馬に荷物を乗せた卜ロ
ペイロス集団の通り道になった。この地に
は、イアポ川があって雨が降るとよく川が
氾濫するので、トロペイロ達も頻繁に宿泊
を余儀なくされた。一方ポルトガル王室も
パラナ松
未開墾地を希望すれば、誰にでも与えたの
で小教会が建ち、だんだんと定住し集落化していった。
1933年に、市内から 15kmの所にドイツ移民のテーラ・ノヴァ(新しい土地という意味)
移住地が造成され、牛乳、メイズ、大豆を生産している 。 ここには、移民史料館、 1937年
に建てた教会がある 。また 1951年から 1954年にはオランダ移民のカストロランダ移住地が
できた。移民たちはトラクタ一、農機具、牛などを持参し、カストロランダ組合を創立し
た。移住地は市内から 6km地点に位置し、特徴のある建物、民族踊り、料理、 言葉など、独
の文化を取り入れている 。
日系人の入植は 1950年代の後半、サンパウロ市近郊からコチア 産組の馬鈴薯栽培者が新
を求めて、南パラナはこのカストロにやって来た
G
彼らは、最初種イモの生産を試みた
が、これはうまくいかず、やがて夏場の消費用馬鈴薯に転向した。当時、他に夏場の馬鈴薯
生産地 がなかったこと、この地の冷涼な気温、豊富な新地が適したことなどが幸いして、急
速に発展、大型生産者が排出する 。
これに刺激されて、多くの生産者が息子(二世)やコチア青年を連れて入植したので、カス
トロは“パタタ(馬鈴薯)王国時代"を築いた。馬鈴薯栽培は“博打農業"ともいわれ、非
常にハイリスク ・
ハイリタ ーンの農業形態であった。それゆえ早くから穀物栽培の導入や同
じカストロにあるオランダ組合員のケースを参考に、土地を買って穀物と酪農の組み合わせ
おストロ
Castro(PR)
み.e量
サンパウ口市パスターミナ
コチア産組解散後の、
ルBarraFundaから毎日 2本
1996年にはウニオン・カス
トレンセ農協を創立し馬鈴
のパスが出ている。パス会社
植林事業:苗床
は PrincesadosCampos
薯、大豆、小麦、メイズを生
社。所要時間約 7時間。
産している 。 馬鈴薯加工に
e,
(
,ヘン
リスクを最小限
度に留めるためにフライド
h
収穫祭り =4月末 から 5
ポテトの工場との契約栽培
月初め ドイツ系の民族踊
1
)、音楽、ドイツ料理など。
だけにしている。また、サイ
ロの燃料である ユーカリ の
オランダ女王の日
(
5
安定供給に組合員が植林事
月)女王の誕生 日を祝って
業を立ち上げた。
料理市。
す牛乳祭り (
A
g
r
o
l巴i
t
e
)
当地方では、 メイズ、大
亘、フェイジョン豆、罵鈴
8月=伝統あるお祭り。乳牛
薯、小麦、カラスムギ、乳牛、
の取引、トラクタ競争。
肉牛、豚、鶏などを生産
e
飼
育している。この他、南米最
大の農業用石灰を生産。
柏の木
ぬとごろのとごろのとごろのどごろのどごろ
口 内
カストロ文化体育協会
1
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f
(
4
2
)3
2
3
2
2
2
3
9
ウニオン・カストレン
セ農協
宮
(
4
2
)323343
84
曾(
4
2
)3
2
3
3
4
0
6
7
-オランダ移
民のカストロ
ランダ移住地
オランダ風製粉
所、移民記念館
.ドイツ移民
のテーラ・ノ
ヴァ移住地移
民資料館、教会
現在ブラジルーの製粉所だが、オランプラに建
設中のものが完成すると一位の座をゆずること
になる
eCanyon
Guartela州立公園
.コチア滝カストローチパジ聞の 20km地点にある。岩からの滝
下りが楽しめる。
ウニオン・カストレンセ農協の新サ
イロ
カストロ古川
ができた。
関しては、
パラナ州
・
-.ml.]i..t:til翌
週
・
・
・
を図り、安定化を目指した
農家は営震を継続すること
Assai(PR)
ー ネ ットメロン
・
:
:
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.
:
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1
I
'
.
1
I
‘圃.., アサイは 1
9
3
2年にブラ拓(ブラジル拓殖組合)が開設し
こトレス ・ハーラス移住地である。他のブラ拓移住地との
違いは、直来日本移民ではなく、在伯日本移民を呼び寄せ
て移住地を開発した 。 日系人農家でこの地方に最初入植し
たものは近隣のジャタイジンニョからの日本人グル ープで、
引き続き入植したサンパウロ州奥地で独立農や借地震を経
営したことのある経験者が多かったことから、数年間で農
・
-.ml, ヨ
ヨ
・
・
・
j
j
l
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'
f
.交通
サンパウ口市パスターミナ
ルT
i
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t
e駅から毎日一本、
(パス会社 o u r0
Branco)。所要時間 7時間
20分
。
場経営に目覚ましい成果をあげた。彼らは、サンパウロ州
の原始林が著しく減少し、 1
9
2
8年のサンパウロ州でのコー
ヒ一作付け制限が布かれると、新天地を求め作付け制限の
ない北パラナの開発に乗り出し、日本人農家がなだれのよ
うに移動してきたのである 。
旧ブラ拓移住地の中で最も優れた成績を今日まで持続し
ているのは、 言 うまでもなく
テーラ・ ロッシャ土壌(旧
火 山地帯で肥沃)でコ ー ヒ一、綿、穀物、果樹などの栽培
.イベント
合農産品評会
.日系団体
育アサイ文化連合会
宮
(
4
3
)3262-1447
禽南伯ロンドリーナ趨協
雷
(
4
3
)3262・1106
に適しているからだ。 この地名はアサイランドと東洋的に
呼ばれた。 1
9
3
4年には トレス・バーラス産業組合が設立さ
938年にはブ
れて移住地の上記の生産物を販売し始めた。1
ラ拓精綿工場ができ、これを産業組合が賃貸契約で経営し、
移住地の建設は軌道に乗った。急激な発展によって、 1
9
5
9
年にはコチア 産組が事業所開設
その後南伯産組も続い
た。事業拡大に1'1"い精綿工場、サイ ロ、綿糸工場設置へと
発展していった。
現在アサイには、 インテグラーダ農協(コチア産組解散後
の農協、本部 ロンド リー ナ市)支所と 南伯ロンドリーナ農協
がある 。販売事業はインテグラ ーダが穀物 (大豆、メイズ、小
.参考文献
女 『トレス・パラス移住
地』トレス・パラス青年連
盟帝国書院
麦、綿}、南伯 が果実を扱っている 。果実はイタリアブドウ、
* ~トラ
スモモ、リンゴ (早生のエヴ ァ種
)
、 ネットメロンなどが生産
地 25年史] 1960年 1
2月
されている。
ス ・パラス移住
おわりに...
ラジル日系コロニアガイドブック
2006
年に実施したブラジル日系農協調査の結果から得た結論として、果実類の団地やセラードなどの穀類
年の 2大日系組合の崩壊後も成長していたが、全日系農協のうちの 3
分の l
を占めるサンパウロ
の団地は 1994
市近郊 (300km圏内)の農協は他の地域の日系農協と比較して事業規模が小さいという特徴があることがわ
かった。そうした近郊の日系農協やコロニアは、花井、野菜、果実類など集約的な農業を行っており、主に園
内市場向けの農産物を生産していた。こうした圏内マーケットをターゲットにしている農家は、農産物価格は伸び
悩み、資材価格は上昇するという傾向のなかで徐々に利益率が低下していくという問題に直面している。大豆
など輸出商品は国際相場で価格が決まり、金融危機までは価格は上昇基調にあった。そしてそれに引っ張られ
て、肥料や農薬の価格も上がってし、く。こうした状況が続けば、近郊農業の衰退が懸念される。
ところでブラジルは貧富の差が大きいとはいっても、サンパウロ市内にはそれなりに中間層が存在する。中間層
をどのあたりと考えるかは難しいところだが、例えばサンパウ口市内には最低賃金の 5
倍 -10
倍のサラリーをもらっ
ている人口は、約 73万 人 (
2000年 IBGE)、10倍 -15倍のサラリーをもらっている人口は 33万人足らずい
て、しかもサンパウロのサラリー別人口区分から見ると最も厚い層をなしているのである。そして 5倍 -10倍
,
302レアル、 10倍 -15倍層は 2,
093レアルと推計し、これらの層が 1
ヶ
のサラリー層の平均手取り収入は、 1
月に支出するレジャー費をおよそ 80レアル -200レアル程度と推測した。こうした人達は、 1回のレジャーにつ
きこの程度の予算で土曜、日曜いったいどこでレジャーにいそしんでいるのだろうか。映画つショッピング?それと
も近くの海岸?常々私はサンパウロ市内に、中間層が楽しめるレジャーが少ないと感じていた。こうした都市中間
TurismoR
u
r
a
l
)を提供し、農村との交流を通じて地域農業を理解
層に手軽に楽しめるグリーン・ツーリズム (
を促し、農産物の価値を知ってもらうことはできないだろうかと考えたのである。
そこで思いついたのが日系コロニアへのグリーン・ツーリズム (TurismoR
ural) であった。 日系コロニア
にはどこもブラジル農業に貢献し、地域農業を発展させてきたという素晴らしい歴史があり、それをもグリーン・
ツーリズムの付加価値とすることはできないだろうか。そして、日系コロニアに観光客を誘致し、直接農産物を
買ってもらうことができれば、直接の経済効果もあるし、観光客が来ることは、間接的な経済効果も大きいといわ
れている。
そうしたことから、簡易な日系コロニアの農業や歴史、地理、見所、行き方などを書いた冊子をつくってみて
はどうかと考えたのである。さらには、今後、農業ビジネスで訪れる皆様がブラジル日系農協・農業を理解する
上で活用願えれば幸甚である。そうしてこの冊子が各コロニアの皆様が各々の地域を見直し、活性化のきっか
けとなればと願っている。
年に農協調査を実施したコロニアのみを掲載したが、今度はもっと多くのコロニアについて
また、今回は 2006
も掲載していきたいと考えている。是非とも皆様からも情報、ご意見、ご感想をお寄せいただければと思う。今後
とも日系コロニアの皆様、読者の皆様にはご指導ご鞭縫を賜りたくお願い申し上げます。
なお冊子の作成には,沢山の方々のご支援ご協力を頂いた。ご支援ご協力を頂いた皆様に心より感謝申し上
げます。
2009年 3月
IPTDAJATAK情報部
P43アサイの房、クブアス、ウ二
南伯ロンドリーナ農協
ウ
.
工J
l
サjレ1号模型、ゴルフ場
ド
ウ
パウリスタ柿生産者協会(浦田正弘) P32ブ
インテグラーダ農協
P
1小
麦
、 P66、P6
7トウモロコシ
芳賀七郎
上村ネリオ
P30力ッポン
社
ピラポーラ市マンスーjレ
ポ二一卜農協直売
所
、 P31フエイラ デ・ルア、コン
シャス川
P
lジヤツ力、向上 3枚
、 P7上2枚
、
大野和則
P16リンスーセント口古建築、 P17
リンス文協資料室、 P22水稲
金子記志子
P14J
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nF
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a
力ノイ一二ャス農協
同
2力ノイニャス市、 P63力
ノ
イ
P61コーヒーの花
小島アナ
P
5
1沖縄ソパ
コパスル農協
P
5
2
:
:
:
]
!¥
スJ
l-農協新本部建物
コパセント口農協
P48、P49
近藤保彦
P
2
1ベドラゲランデ
下回勝久
P
5
1魚釣り
-農産物アイコン
P25クワレズメイラの花
福淳一興
P
5
、
目 P59
P38レジストロ文協、 P39灯篭流
し、鳥居、造形作品
ポンタ・グ口ツサ日伯文化体育協会・ P68桜、大豆、
P69ポンタ・ゲ口、ノサ移民 1
0
0周年
山下治
P32ブ
ドウ
山団結彰
P42アゲロフ方レス卜リ
山本晃輔
二ャス農協、マテ茶とヲ!(コ、馬鈴薯
興相太平
P74ネットメ口ン
表3
運動会、 P15マリリア本願寺、
P3日
お茶、 P43トメアス移民の家
横尾悦子
P44ベロウリ一二ヨ広場、 P45海岸
AcervoPECB
P33力n
ロ
ス ボテーリヨ州立公園
入口、森林遠景
EpitacioPessoa
P33力Jl口スーボテーリヨ胸川象
FabioColombini
P
1、P33フィゲイヨ
RicardoMartins
P33、P75卜ッ力ナ
前中美樹
-参考・引用文献・
『ブラジル移民の手引き』
コチア産業組合編家の光協会出版、 1959年
『コチア産業組合中央会 60年の歩み』
コチア産業組合中央会、 1987年
『コチア青年移住 30 年史~ 1985年
『ブラジル日本移民戦後移住の 50年
『農業雑誌アグロッナッセンテ』
『移民の生活の歴史
1953 - 2003J ブラジル二ツポン移住者協会、 2004年
ナツセ ンテ出版社
ブラジル日系人の歩んだ道』
『二国間農協連携促進事業平成 18年 度 事 業 報 告 書
『地球の歩き方
2002 ~ 2003年版』
『サンパウ口便利帳
半田知雄
1970年
JATAK全国拓植農業協同組合連合会、平成 1
9年 3月
地球の歩き方編集室、 2002年
2005/2006!
,
ショー工イ出版社、 2005年
各市役所ホームページ
IBGEホ ー ム ペ ー ジ
圃企画・製作・編集
IPTDA-JATAK情報部
圃発行印刷
2009年 3月 31 日
・印刷製本
nippakgraphics
r
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afagundes246s
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l
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al
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(
1
1
)
3
2
0
84863
ブラジル日系コロニアガイドブック
圃写真提供者一覧・
稲田洋一
隼趨鈎寵鶴
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目
系
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目
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コ
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マリリア (14)リンス (
1
6
)
サン・ゴタルド (54)ペルジーセ:ス (53)
レジス卜口 (38) トメアスー (42)
トメアスー (42)
ロンドリーナ (
6
6
)モンテ・カルメ口 (
6
0
)
ド(8)
ココナッツ
ブ‘
匹孟』
'
!
I
お茶
一
サン・ミゲール ・アルカン ジ ヨ(32)
アサイ (74)カスト口 (72)
ポンタ・ グロッサ(68)ロンドリ ナ(66)
図圃・圃
6
)
アリアンサ移住地 (
ツルボランジヤ (56)
クァタパラ (22)ペルジーゼス (53)
ロンドリーナ (66)
アチパイア (20)
カスト口 (72)
サトウキビ
レジス卜口 (38)
ア ダ マ ン チ ナ (26)
アルパレス・マ ッシヤード (8)
ジャ
レス (18)ハストス (12)
アチハイア (
2
0
)モジ・ダス・クルゼス (
2
4
)
ドラードス (48)ナビライ (52)
ヴァ Jレジェン・ G./¥ウリスタ (28)
ロンドリーナ (66)グァタパラ (22)
イビウナ (10)
グァタパラ (
2
2
)モジ・ダス・クルゼス (
24
)
アルパレス・マ yシヤード (8)
モジ・ダス・クルーゼス (24)
シャカトウ
1
6
)
リンス (
B彊周回冒・・・・Eマリリア (14)ピラポ
ラ (58)
イタペチ二ンガ (
2
7
)ピラル・ド・スル (
3
6
) 水牛
レジス卜口 (38)
ツルボランジヤ (56)
アチパイア (20)イタベチニンガ (
27
)
ロンドリーナ (66)
ピラール・ド・スル (
36
)
E
カ
Zカ冨オ璽司・E
・
F
・ ジャーレス (
1
8
)リンス (
1
6
)ピラポーラ (
5
8
トメアス (42)
観葉植物
トメアスー (42)
マリリア (14)サン・ゴタルド (54) ゴム
闘慰留 ‘l
ジ
ャーレ
ス(
1
8
)ヴ7附
果実
ド
ス (48)
ナビライ (52)サン・ゴタルド (54)
ピラール・ド・スル (36)
戸
「
6
)ド
ラ
アリアンサ移住地 (
リンス (16)イタ ペチニンガ (
27
)
サン・ゴタルド (
5
4
)ツルボランジヤ (
5
6
)E
イチゴ
ク
アルパレス ・マッシヤード (8)
ヴァルゼン・ G ・パウリスタ (28)
アルパレス・マッシャ
アテモヤ
口
ア
ガ
イタペチニンガ (
2
7
)力ッポン・ボ二一ト (
3
0
)
ツルボランジヤ (56)アサイ (74)
議菜
巴
イビウ ー ナ (10) ジャーレス (18)
タツイ (
3
4
)
マリリア (
1
4i
モジ田ダス・クル ゼス 2
4i
J
K移住地 (
4
4
)
イタペチニンガ (
27
)
ペ ル ジ ゼ ス (53)
ヴァルゼン・ G ・パウリスタ (28)
キャッサバ
ペ ル ジ ゼ ス (53)
力ッポン・ポ二一卜 (30)
リンス (16)ピラポーラ (58)
サン・ミゲル・アル力ンジヨ (
3
2
)
銀杏
ピラール・ド・スル (36)
ピラール・ド・スル (36)
.
・
.
.アリアンサ移住地 (6)ツルボランジヤ (56)
クプアスー.
サーレス (
40)
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Z遺 書 置:
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z
,
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建卵
工フィジエ二オ・デ
工フイン工ニオーデーサ レ
ス(
(
u
)JK 移住地 ~~<:
アリアンサ移住地 (6)
トメアスー (42)
イ少ペチニンガ (
27
) ドヲードス (48)
卜メアスー (42)JK移住地 (
4
4
)
ナヒライ (52)サン・コタルド (54)
アリアンサ移住地 (
6
)バストス (12)
ベルジーゼス (53)モンテ・力ルメ口 (60)
グァタパラ (22)タツイ (34)
アサイ (
74)ポンタ・タロッサ (68)
工フィジェニオ・デ・サ
ロンドリーナ (
6
6
)力ノイ一二ヤス (
6
2
)
レス (40)
ヴアルゼア・アレ グ レ移住地 (50) 玉ねぎ
サン・ゴタ jレ
ド (54)
隼
Eヨ贋宮司・・・・・ カノイーニャス (62)
デコポン
アルパレス・マ yシヤード (
8
)
「有 サン・ミゲール・アルカンジョ (
3
2
)
ナス
ジャーレス (
1
8
)
サン・ミゲル・アルカンジヨ (
32
)
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)ジュアセイロ (
4
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)
ビラポーラ (
5
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)アサイ (
7
4
)
アリアンサ移住地 (
6
)7)レパレス・マyシヤード (
日
) プJレーペリー
サン・ジョアキン (64)
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1
8
)リンス (
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)レジスト口 (
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バストス (12)マリリア (14)
「
アリアンサ移住地 (6)
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マリリア (14)
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…
(54)
マラクジャ
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(
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サン・ゴタルド (54)クァタパラ (22)
アルパレス・マッシヤード (8)
サン・ミゲ
マリリア (14)リンス (16)
ル・アルカンジョ (32)
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4
4
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一 一 アリアンサ移住地 (6)
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ピラポーラ (58)
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ヴァルゼア・アレグレ移住地 (50)
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サン・ゴタルド (54)ペルジ
レジス卜口 (38)
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)ツルポランジャ(
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)サン-ゴタルド (54)
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グァピアラ (
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マ リリア (14)ロンドリーナ (66)
ヴァルゼア・アレクレ移住地 (50)
イタペチニンガ (
27
)ツルポランジャ (56)
ピラポーラ (58)ペルジーゼス (53)
アサイ (74)パルマス (70)
カスト口 (72)
サン・ジョアキン (64)
ドラードス (48)ナヒライ (52)
グ ァタパラ (22)
サン・ゴタルゴ (
5
4
)ロンドリーナ (
6
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)
ドラードス (48)ナビライ (52)
ポンタ・グロッサ(
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)力ス卜口 (
7
2
)アサイ (
7
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)
アサイ (74)ロンドリーナ (66)
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イベント .
11
ブラジル日系コロニアガイドブック
JK移住地 (
4
4
)
ジュアゼイ口 (46)
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タツイ (34)
緑の展示会 (EXPOVERDEj
アダマンチーナ (26)
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花祭り
アチバイア (
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ピラポーラ河釣り祭
ピ ラ ポ ラ (58)
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マテ茶祭 (FESMATE)
ニャス (
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マリリア (
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レゼンーグランデ (28)
人部の定期市
カッポン・ボニート (30)
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イタペチニンガ (
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バストス (12)
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Jパレスーマッシヤード (8)
ペルジーゼス (53)
アサイ (62)
ポンタグ口ッサ (68)
ポンタ・グロッサ農畜産展
ポンタグロッサ (68)
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口ンドリーナ (68)
雪祭り
野外音楽堂のコンサ卜
サン・ジョアキン (72)
タツイ (34)