第10章 預言書 神の言葉は特定の人間にかかわり、その人をと らえ

第 10 章 預言書
神の言葉は特定の人間にかかわり、その人をと
らえ、その人生を変えることによって、彼を預言
者とし、民族全体の運命を方向づけた。
「イスラ
けんちょ
エルの宗教はその歴史において最も顕著な美しい
花を咲かせた。それが預言者の宗教である」と
聖書学者関根正雄は言っている。
右の図は 12 預言者の半分を描いたものである。
預言者たち
キーワード
前期の預言者 政教一致 アブラハム、モーセ、士師、エレミヤ
後期の預言者 政教分離 イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、12 預言者
預言者は神の霊をうけ、神の口となり、神を代弁した。この意味で
アブラハム、その子イサク、ヤコブという族長たちは預言者といえる。
モーセ、12人の士師たち、そしてサムエルまでを初期の預言者と言う。
彼らはとても個性的で人格的で魅力あるリーダーシップをもち、宗教
的指導者であるとともに、政治的指導者であった。すなわち「政教一
致」のリーダーであった。彼らは夢、幻を見て、預言した。
しかし、やがて王国が誕生すると、王が政治的な役割をにない、預
言者は宗教的役割を分担するようになる。
預言者は王の政策を支持し、
また批判する立場に立つ。
「政教分離」の預言者を後期の預言者と言お
う。くりかえすと、前期の預言者は王の役割
かね
兼ねた。後期の預言者は祭政分離の立場から純粋に預言を語る。
「前期
の預言者」についてはすでに6,7,8章でのべているので、本章は「後期
の預言者」を取り上げよう。
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第 10 章 預言書
後期の預言者 サウル、ダビデ、ソロモンの3代の王によってイスラエルは史上最
盛期を迎えた。その国も、ソロモン王の子たちによって南北両王朝に
分裂し、やがてバビロンの強大な帝国支配のもとに滅ぼされ、50 年に
及ぶバビロン捕囚の時代を迎える。聖書の思想はこの民族的な苦難を
通して形成された。後期の預言者とは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエ
ルの 3 大預言者である。それにつづく 12 預言者はそれぞれの時代の問
題の解決に立ち向かった。後期の預言者たちは、王国が進む方向を間
違わないように助言した。また、バビロンへ捕囚に際しては、神に選
かいこ
ばれた民族を回顧し、捕囚の苦痛にも関わらず、神の愛の不変と過去
の栄光を想起し、民を励ました。
しもべ
主の僕 民族復興の手本はまず「ダビデ王」であった。ダビデは戦争に強く、
からだつきも精神も、
また人間的にも魅力のある国民的英雄であった。
人々はダビデ王の再来を期待した。しかしながら、バビロン捕囚はこ
くだ
しもべ
の夢を砕いた。このあとダビデとは正反対の「主の僕」の思想が新し
たいとう
しもべ
へ
く台頭し、主の僕は4つの段階を経て姿をあらわしてくる。
1 , 預言者イザヤ ―聖なる神―
イザヤ書は預言書の中で最大であり、66 章ある。書かれ
た年代捕囚前から、捕囚中、また解放後に及んでいることを考えると、
1人の預言者によるものではなく、少なくとも第1イザ
ヤから第3イザヤまで、3人によって預言されたと考え
られる。
第1イザヤは、民族的・国家的危機の中で働いた。
王の政治的判断が誤れば国を滅ぼしてしまう。人の数や軍
と
事力に頼らず神により頼めと説く。
第2イザヤは、亡国と捕囚いう民族的苦難を共にした。
彼はバビロン捕囚の民の中にいて、苦難の意味と神の民の
さば
歴史について語り、捕囚の 50 年間、裁きではなく、慰めと
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預言者イザヤ
第 10 章 預言書
解放の希望を説いた。
第3イザヤは捕囚から解放後活躍した。イスラエルに帰還し、国の再
たも
建が急務となった。しかし、政治的独立を保ちえない彼らはユダヤ教
団を設立してこの中に「神の国」という理念を追求することになる。そ
のシンボルとなるエルサレム神殿の再建物語である。
次にイザヤ書の内容を見よう。
イザヤの預言 (イザヤ書 1 ∼ 39 章)
わ
イザヤとは「神は我が救い」という意味である。紀元前770年代にエ
ルサレムで生まれ、20 才の頃、預言者としての召命を体験した。それ
から 701 年まで 40 年以上にわたって活動し、イスラエルの歴史に大き
そくせき
な足跡を残した。彼は正義と公平が行われることを強く求め、貧しい
ふはい
者を犠牲にする道徳的腐敗と、その政治を批判した。彼は王の前にた
ち、内政また外交政策に対する助言と批判を行った。
しょうめい
イザヤの召命 - 神の聖と人の汚れ (イザヤ書 6 章)
「ウジヤ王の死んだ年」
(742 年)、この年イザヤは預言者に召し出さ
つばさ
れた。そのとき、6つの翼をもつ天使セラピムが神殿の中を飛び交い、
神の支配を賛美し、
「聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は
しきい
もとい
ふるい
全地に満つ」と呼ばわり、
「敷居の基が震い動いた」。イザヤは神に出
会い、召命を受けたとき身震いするような体験をした。
イザヤが出会った神は「聖なる神」であった。
「聖」は区別する。分
かつという動詞からくる。世俗的なものと聖なるものとを区別する。
けが
きよ
聖なる神は汚れた者から自分を分かつ、そのような存在として聖い神
である。
ほろ
けが
くちびる
わざわいなるかな。わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れた唇のもので、
汚れた唇の民の中に住むものであるのに、
わたしの目が万軍の主なる神を見た
のだから」
(イザヤ書 6:5)
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第 10 章 預言書
聖なる神に出会うということは、
自分の汚れを知ることを意味する。
「わたしは汚れたものであるのに聖なる神を見た。わたしは汚れた民の
きよ
中に住んでいる」。自分だけが聖くなって、あの人たちは汚れていると
いうのではない。汚れた唇の民の中に住んで、自分も汚れた民の一員
としてその責任をおわなければならない。すると「セラピムの一人が
火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手にたずさえ、
わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れた」
(イザヤ書6:6)そ
の火で汚れた唇を焼いて、清くされた。すなわち、イザヤは汚れた唇
のものであったけれども、清められて、神の言葉を語るものに任命さ
れた。
主の言われる声を聞いた。
『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれの
ために行くだろうか』
。そのときわたしは言った、
『ここにわたしがおります。
わたしをおつかわしください』
(イザヤ書 6:8)
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」はと言っ
て召命に答えるイザヤは積極的で男性的性格といわれる。反対に「あ
あ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよい
か知りません」
(エレミヤ1:6)
。と答えたエレミヤは、自分は若者で未
熟者あり、預言者としての使命はふさわしくなく、また耐えられない
という。同時代を生きた控え目なエレミヤと比べると、イザヤは自ら
おお
進んで、召命に答える雄々しさを持っている、岩のように頑強な思想
がその特徴である。
預言 神によりたのめ
イザヤに起こった第1の事件は、シリア・エフライム戦争である。南
王国ユダの王ウジヤが死んだ年、
紀元前742年は戦争の緊張の中にあっ
た。強大なアッシリア帝国に対して立ち上がった反アッシリア同盟軍
が南王国ユダに参加をすすめた。しかし、南王国ユダは参加しなかっ
たので、反アッシリア同盟軍は、アッシリアと戦う前に、南王国ユダ
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第 10 章 預言書
ちんあつ
ふる
を鎮圧しようとして進軍してきた。この知らせはユダを震え上がらせ
た。イザヤはエルサレムの防備と水道を検査しているアハズ王のとこ
ろに来て会見した。イザヤは王に言った。彼らは神に勝つことはでき
けいそつ
ない。王は軽率な行動をせず、静かにして神に信頼しなさい。しかし、
若年のアハズ王はシリア・エフライム同盟軍の侵攻をおそれた。彼は
ふんがい
イザヤの忠告を拒否し、アッシリアに援助を求めた。イザヤは憤慨し
た。そのアッシリアによって国は滅ぼされるとイザヤは預言した。民
が受ける悲惨、損失、内乱を思い起い、目覚めるようにという。アッ
シリアから吹く嵐によって国は根絶されると。
北王国イスラエルの滅亡
イザヤに起こった第2の事件は、北王国イスラエルの滅亡である。
イザヤの外交理念は、神に信頼し中立を守る事であった。あなたがた
は主にたち返るならば、救われ、力を得る。イザヤはこの立場からエ
ジプトとの軍事同盟を非難した。武力に頼ることは、神が救うという
全能の神に対する反逆である。エジプトの援助を期待するのは妄想で
あり、最後には捨てられるのだ。愚かな政策を転換せよと命じる。預
言のとおり、701 年アッシリア王セナケリブが侵攻してきた。
ふく
民族的危機の中で、イザヤは神に信頼し、アッシリアに服すことを
すすめた。幸い首都エルサレムだけは侵攻をまぬがれた。軍が引き上
きょうき
げきど
げたとき、民は狂喜した。しかしイザヤは激怒した。アハズ王はアッ
みつ
シリアに服し貢ぎ物を送るようになり、国民は2重の税金を負担しな
ければならなくなった。
第2イザヤ
イザヤ書 40 ∼ 50 章
捕囚地バビロンで活動するイザヤを「第2イザヤ」という。第2イザ
ヤは 540 ∼ 530 年の 10 年間活動した。捕囚の後期になるとバビロンを
滅ぼすペルシャが台頭してくる。捕囚の50年間は世界の支配がバビロ
ンからペルシャ帝国へと移行する激動の時代でもあった。第2イザヤ
は失意と落胆の中にいる捕囚民に慰めの言葉を語って励ました。
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第 10 章 預言書
慰めの預言
第2イザヤは審判ではなく、慰めを
語る。
「慰めよ。わたしの民を慰めよ」
せいは
(40:1)
。バビロン帝国を制覇したペル
シャ王クロスによって、やがてユダヤ
人は解放される。その解放の希望とイ
スラエルの復興がくり返し預言された。
そうにゅう
ここに「僕の歌」が挿入される。神は、
捕囚民の苦役
つか
その僕であるユダヤ人を捕囚地バビロンに送り、
世界宣教に遣わした。
こういう新しい歴史理解が展開される。
慰めよ。わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心
に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役のときは今や満ち、彼女のとがは償われ
た、と罪のすべてに倍する報いを主の御手からうけた、と(イザヤ書 40:1,2)
しついらくたん
捕えられてバビロンで失意落胆の中にいる人たちに対して、イザヤ
うるわ
の預言は変わっていく。
「人はみな草ではないか。その麗しさは野の花
のようだ」
。その草も盛んなときがあればしぼんでしまうときがある。
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」。
しもべ
僕の歌
しもべ
僕とは主の僕、すなわち、神の僕という意味で、それは捕囚にとら
われたイスラエル民族を指していた。やがて一人の個人を指すように
しもべ
なり、メシア待望となっていく。次に見る、4つの歌は「僕の歌」と
あと
よばれ、新しいメシア像が段階的に発展した跡を見ることができる。
しもべ
僕の歌 第 1 歌
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼
の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわ
ちまた
あし
らず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心
を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。(イザヤ書 42:1 ∼ 4)
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第 10 章 預言書
待ち望むべきリーダーは、ダビデ王のように軍事的・政治的指導者、
人間的魅力があって宗教的にも強い指導性を持っている人、そういう
考え方が伝統的になされてきた。しかし、それは亡国と捕囚によって
くだ
ほうが
砕かれた。この歌にはその萌芽が見られる。それに代わって「彼は叫
ちまた
ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」という人物像を示している。
しもべ
とうしん
僕は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことな
く、裁きを導き出して確かなものとする」。苦難を耐える人物像であ
あし
あし
る。この葦はパスカルが「パンセ」のなかで人間は「考える葦である」
というように引用している。
しもべ
僕の歌 第2歌
島々よ、わたしに聞け、遠い国々よ、耳を傾けよ。・・・主は、母の胎にあっ
たわたしを、御自分の僕として形づくられた。主はこう言われる。わたしはあ
なたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連
れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの
救いを地の果てまで、もたらす者とする。 (イザヤ書 49:1 ∼ 6)
第2歌で、主の僕は一個人ではなく、イスラエル民族全体をさしてい
る。神は主の僕イスラエルを遠くバビロンの地につかわし、主の栄光
かがや
はずかし
をバビロンの地に輝かせた。実際には、捕囚の辱めの中にある人々が、
せつり
主なる神の摂理をどれほど理解しただろう。しかし、心ある人にはか
すかな灯火が消えることなく、失意と落胆によって消えいりそうなイ
スラエルを国々の光とし、神の救いを地の果てにまでもたらす。
しもべ
僕の歌
第3歌 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉
を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き
従うようにしてくださる。・・・わたしは逆らわず、退かなかった。打とうと
ほお
する者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さ
あざけ
さばき
ずに嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲り
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第 10 章 預言書
とは思ない。見よ、主なる神が助けてくださる。
(イザヤ書 50:4 ∼ 9)
第3歌は僕の忍耐が歌われる。
捕囚の苦しみの中で彼らが学んだのは
忍耐である。また忍耐を可能にする信仰と希望と愛である。何が人間
にとって根源的な力であるか。それは忍耐を可能にする信仰ではない
か。確かにダビデのような強さ、魅力、輝かしさ。これらは力である。
しかし、そのような人物はまれにしかいない。むしろ弱さの中で耐え
つばき
る力こそ、人には必要である。
「あざけりと唾を受けても、主なる神が
助けてくださるからわたしはそれをあざけりとは思わない」
。
しもべ
僕の歌 第4歌
見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつ
そこ
て多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見
おもかげ
けいべつ
えず、もはや人の子の面影はない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの
痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を
軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわた
したちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打た
れたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの
とが
背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
こ
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷に
。 (イザヤ書 52:13 ∼ 53:6)
よって、わたしたちは癒された。
第4の歌は思想の完成を示している。すなわち、彼はわたしに代
だいしょう
しょくざい
わって苦しみ、わたしは平安を得ているという代償思想、または「贖罪
思想に変わったことである。初めは、彼自身の罪と、とがのために神
の刑罰を受けて、打たれ、苦しんでいるのだと思っていた。そのよう
けいべつ
な人をわたしは軽蔑していた。しかし、よく見ると、その病と傷は、わ
たしの罪の身代わりとなり、わたしに代って苦しんでいることが分
かった。そのおかげでわたしたちは今日平安であり、その打たれた傷
だいしょう
によって癒されている。この代償思想があとでイエス・キリストの十
なぞ
かぎ
字架の謎を解く鍵となって新約聖書に受け継がれている。
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第 10 章 預言書
第3イザヤ バビロン帝国を滅ぼしたペルシア帝国によって、イスラエルの捕囚
民は解放された。第3イザヤは、祖国に帰還した人たちの中で活動す
る。第3イザヤの主題は「解放」と「再建」である。
イザヤは預言して言う。
起きよ。光を放て。あなたの光が望み、主の栄光があなたの上に上ったから (60:1)
。
ろんちょう
イザヤの預言の論調はさらに次のように展開する。
ほろぼ
捕囚からの解放の預言は成就した。バビロンを滅して新しく台頭し
たペルシャ王キュロスが捕囚民を解放したのは、紀元前 539 年の事で
あった。しかし、捕囚民の全てが祖国イスラエルに帰還したのではな
い。第2イザヤがユダヤ民族全体を神の僕とし、神の民とそうでない
異邦人と区別したのに対し、第3イザヤは主なる神に対して敬虔な人
と、そうでない人との区別をした。
第3イザヤは捕囚から解放された神の民イスラエルの復興を主題と
する。
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する」
。この場
合、神殿再建に参加する人によって新しい天地が開かれる。また安息
日が重んじられ主なる神を礼拝する新しい民が生まれる。
「花嫁が花婿
を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる」
(62:5)
。
イザヤ書と新約聖書におけるイエス イエスは一連の癒しの奇跡の後、イザヤ書を引用して次のように
言っている。
見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたし
の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を
聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折ら
100
第 10 章 預言書
ず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」
(マタイ 12:17
∼ 21)。
マタイ福音書は、イエスが主の僕としての自覚をもっていたと解釈
している。すなわち、イエスはイザヤの預言の中に自分を見、その預
かんがん
言が成就したとみている。また次のような、エチオピアの宦官の話が
ある。
(使徒言行録 8:26-)
かんがん
エチオピアの宦官
エチオピアの宦官が、エルサレムから帰る途中馬車の中で聖書を読
んでいた。そこへピリポが通りかかり、聖書の謎を解きあかす。エチ
オピアの宦官はイザヤ書の「主の僕」のところまで読み進んで、その
なぞ
とさつば
謎に直面していた。すなわち「彼は、羊のように屠殺場に引かれて行っ
た。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑し
められて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語
れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ」(使徒 8)。ピリポ
はこの聖句から説き起こしてイエスのことを宣べ伝えた。するとエチ
オピアの宦官は聖書の全体を理解するにいたった。ここに初期キリス
ト教の聖書理解がよくあらわされている。キリスト教は旧約聖書をイ
エス・キリストを預言している書物と位置づけて重んじ、新旧約聖書
を「正典」と定めている。キリスト教はイエスこそ旧約聖書が預言す
るメシアであると解釈している。
2 , エレミヤ書
エレミヤは前書のイザヤとほぼ同時代を生きた。イザヤが堅固な思
想家であるのに対して、エレミヤは情感豊かな詩人である。
「わたしの
はらわたよ、はらわたよ。わたしはもだえる。心臓の壁よ、わたしの
もく
心臓はうめく。わたしは黙してはいられない」
(4;19)
。祭司の村アナ
トテに生まれ、祭司となった。預言が聞かれず、国が滅びることは悲
101
第 10 章 預言書
しいことである。彼は悲しみの預言者とも言われる。
3 , 哀歌
あいとう
バビロンに連行された同胞達を哀悼するとともに、このようになっ
ざんげ
たイスラエルの罪を懺悔する。「貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚と
いこ
なって行き、異国の民の中に座り、憩いはえられず、苦難のはざまに
追いつめられてしまった」
(1;3)
。1から4章までがヘブル語22のアル
ファベットで始まり、いろは歌のかたちをとっている。この技巧的な
あいとう
形式がなおさら哀悼の意をあらわしている。
4 , エゼキエル書
エゼキエルは紀元前 589 年にイスラエルか
ら捕囚の第一陣としてバビロンに連行された。
本書は捕囚前期の作品である。エゼキエルは
まぼろし
「幻」によって神意を示された。それはユダヤ
教神秘主義と新約聖書の黙示録に大きな影響
を与えている。
エゼキエルの幻
とりわけ谷間に散在する枯れた骨を見たエゼ
キエルは、その骨がつながって肉をまとい皮をつけていく夢を見る。
か
「枯れた骨の谷」
(37 章)の幻は、イスラエルの解放と祖国復興を預言
している。また復活思想のさきがけをなしている。イスラエルは国の
滅亡の中で神の息を吹き込まれて、再び立ち上がる。
5 , ダニエル書 ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカド
ネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。
(ダニエル 1;1)
102
第 10 章 預言書
バビロンの王は捕囚民の少年の中か
ら「体に難点がなく、容姿が美しく、
何事にも才能と知恵があり、知識と理
解力に富む、
・・・少年を何人か連れて
来させ、カルデア人の言葉と文書を学
ばせた」
。
バビロンの英才教育を受けさせて、
獅子の洞窟に投げ込まれたダニエル
むく
純粋無垢な幼い魂にバビロンの精神文化を注ぎ込むのである。
彼らは、
王が食べるものを食べ、王の子が着るものを与えられた。名前もバビ
ロン風に改めさせた。成長すると、奴隷として敵対する同胞のあいだ
に立って、民族間の紛争を静めてくれると期待された。王は、違った
民族、異なった宗教、他の文化をもつ人々を、自分たちに取り込む同
化政策をとった。選ばれた少年達は王と同じ食物、同じ衣服、同じ教
育を受けた。しかし、ダニエルは、一つの決心をした。王が与える食
べ物、肉食と酒を断り、菜食を貫いた。彼らは「神の口から出る食物
によって養われた」のである。他の少年達とくらべて、ダニエル達は
ふと
最も美しく太っていた。
王の夢を解く ネブカドネツァル王は地上の最高権力を自分のものにした。けれど
も強大なその王が、たった一度の夢で、心を揺さぶられ、眠る事も出
来ない悩みをかかえこんだ。王の夢は次のようであった。
「一つの大きな像が王の前に立っていた。その像は頭が純金で、胸と
両腕が銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足の一部は粘土」であった。
おこ
地上の国家は興っては亡び、ついに粘土で出来たような国になる。
実際、バビロン帝国は純金のような時代と思われた。次にペルシア、ギ
おこ
リシャ、ローマという国が興った。それらは、銀、銅、鉄、粘土にた
とえられ、最後は分裂して力をなくしていくローマが粘土であらわさ
ゆめと
れている。ダニエルの夢解きの結果は、王にとっては好ましいもので
はなかった。けれども、不安で眠れないほどの王の悩みをダニエルは
103
第 10 章 預言書
解いたのである。地上の国は滅びる運命にある。王はダニエルが解き
あかした夢によって、自分が何者であるかを知らされた。人は人で
あって、神ではない。王だからといって、自分を神とする自己神化が、
どんなに不安と孤独の原因となるかを知らされた。ネブカドネツァル
王は、捕囚のダニエルにひれ伏したくなるような気持ちになり、心の
やすらぎを与えられた。
捕虜の一人であったダニエルが、こうして王に用いられ、王の片腕
のように頼りにされ、国の総督に立てられた。ダニエルの出世は多く
の人の妬みを買い、策略に会うが、そのなかに道を開いていく。捕囚
けっさく
文学の傑作の一つである。
104
第 10 章 預言書