ドイツ語現在完了形の歴史的変化

2003 年 12 月
九州大学提出博士論文
(2004 年 3 月
博士(文学)取得)
ドイツ語現在完了形の歴史的変化
嶋﨑啓
序
……………………………………………………………………………………………………1
第1章
完了形成立の基礎
1. 過去分詞の意味
……………………………………………………………………4
………………………………………………………………………………7
1. 1 現代ドイツ語の過去分詞
1. 1. 1 過去分詞形成の原理
……………………………………………………………………7
………………………………………………………………………8
1. 1. 1. 1 過去分詞における「変化」
…………………………………………………………8
1. 1. 1. 2 過去分詞における「働きかけ」
……………………………………………………9
1. 1. 1. 3 「変化」を表し「働きかけ」を表さない他動詞
1. 1. 1. 4 過去分詞形成可能な動詞の意味の図式
1. 1. 1. 5 過去分詞の時間論
……………………………………………13
…………………………………………………………………15
1. 1. 1. 6 「受動の分詞」としての非過去的な過去分詞
1. 1. 1. 7 能動を表す他動詞の過去分詞
1. 2 ゴート語の過去分詞
2. haben の意味
……………………………………18
……………………………………………………20
………………………………………………………………………21
…………………………………………………………………………………31
3. ゴート語の sein/haben + 過去分詞
第2章
…………………………………11
古高ドイツ語の完了形
…………………………………………………………34
………………………………………………………………39
1. 『オトフリート福音書』以前の完了形
……………………………………………………40
1. 1 『イシドール』の完了形 sein + 過去分詞
………………………………………………40
1. 2 „Exhortatio“ の完了形 haben + 過去分詞
………………………………………………40
1. 3 『タチアーン』の完了形
…………………………………………………………………41
1. 3. 1 『タチアーン』の sein + 過去分詞
……………………………………………………41
1. 3. 2 『タチアーン』の haben + 過去分詞
…………………………………………………49
1. 4 『オトフリート福音書』以前の完了形(まとめ)
2. 『オトフリート福音書』の完了形
…………………………………………………………55
2. 1 『オトフリート福音書』の sein + 過去分詞
2. 2 『オトフリート福音書』の haben + 過去分詞
2. 2. 1 hat + PP
……………………………………54
……………………………………………55
…………………………………………58
……………………………………………………………………………………59
2. 2. 2 その他の haben + 過去分詞
……………………………………………………………66
3. 完了形 haben + 過去分詞の成立
……………………………………………………………69
3. 1 受動形の sein + 過去分詞と完了形
3. 1. 1 Benveniste の説
………………………………………………………69
…………………………………………………………………………70
3. 1. 2 ゴート語の受動形
………………………………………………………………………71
3. 1. 3 『イシドール』の受動形
………………………………………………………………79
3. 1. 4 『タチアーン』の受動形
………………………………………………………………81
3. 1. 5 『オトフリート福音書』の受動形
3. 2 外部からの影響
……………………………………………………95
……………………………………………………………………………104
3. 3 完了形 haben + 過去分詞の成立(まとめ)
4. 『ムスピリ』の完了形
…………………………………………106
……………………………………………………………………106
5. ノートカーの完了形
第3章
………………………………………………………………………107
中高ドイツ語の現在完了形
1. 過去分詞の動詞の種類
………………………………………………………129
……………………………………………………………………132
1. 1 動詞 sein の完了形(ist gewesen 等)
…………………………………………………133
1. 2 動詞 haben の完了形(hat gehabt 等)
…………………………………………………138
1. 3 過去分詞の動詞の種類と「文法化」
…………………………………………………139
2. 現在完了形の意味機能
……………………………………………………………………141
2. 1 完了後の結果状態の存続を表す現在完了形
2. 2 事態の継続を表す現在完了形
2. 3 経験を表す現在完了形
…………………………………………141
……………………………………………………………142
……………………………………………………………………148
2. 4 基準時との間接的な関連を表す現在完了形
2. 5 非過去を表す現在完了形
…………………………………………………………………154
2. 6 現在形と対比的に用いられる現在完了形
2. 7 過去形と並置される現在完了形
3. 過去完了形の意味機能
…………………………………………151
……………………………………………156
…………………………………………………………157
……………………………………………………………………160
4. 現在完了形と共起する時間副詞類
………………………………………………………164
4. 1 発話時(直前)を表す時間副詞類
……………………………………………………164
4. 2 継続・反復を表す時間副詞類
……………………………………………………………166
4. 3 不定の過去を表す時間副詞類
……………………………………………………………167
4. 4 近接する特定の過去を表す時間副詞類
4. 5 過去完了形と共起する時間副詞類
5. 中高ドイツ語の過去形
………………………………………………168
……………………………………………………169
……………………………………………………………………172
5. 1 完了後の結果状態の存続を表す過去形
5. 2 継続・反復を表す過去形
5. 3 経験を表す過去形
………………………………………………175
…………………………………………………………………176
…………………………………………………………………………177
5. 3. 1 経験を表す現在完了形と同等の過去形
……………………………………………177
5. 3. 2 経験を表す過去完了形と同等の過去形
……………………………………………182
5. 4 非過去を表す現在完了形に準ずる過去形
……………………………………………185
5. 5 中高ドイツ語の過去形(まとめ)
6. 受動の sein +過去分詞と完了形
7. 法助動詞+完了不定詞
……………………………………………………185
………………………………………………………186
……………………………………………………………………191
7. 1 法助動詞の現在形+完了不定詞
…………………………………………………………191
7. 2 法助動詞の接続法1式+完了不定詞
…………………………………………………193
7. 3 法助動詞の接続法2式+完了不定詞
…………………………………………………193
7. 4 法助動詞の過去形+完了不定詞
…………………………………………………………195
7. 5 法助動詞+ sein 受動の不定詞
…………………………………………………………199
7. 5. 1 法助動詞の現在形+ sein 受動の不定詞
……………………………………………199
7. 5. 2 法助動詞の接続法1式+ sein 受動の不定詞
………………………………………201
7. 5. 3 法助動詞の接続法2式+ sein 受動の不定詞
………………………………………201
7. 5. 4 法助動詞の過去形+ sein 受動の不定詞
第4章
初期新高ドイツ語の現在完了形
1. 過去分詞の動詞の種類
…………………………………………………207
……………………………………………………………………208
1. 1 受動 werden +過去分詞の完了形
1. 2 法助動詞の完了形
……………………………………………202
………………………………………………………210
…………………………………………………………………………214
1. 2. 1 法助動詞の現在完了形
………………………………………………………………215
1. 2. 2 法助動詞の過去完了形
………………………………………………………………216
1. 2. 3 法助動詞の完了形の接続法2式
1. 2. 4 法助動詞+完了不定詞
……………………………………………………216
………………………………………………………………219
1. 2. 4. 1 法助動詞の現在形+完了不定詞
…………………………………………………219
1. 2. 4. 2 法助動詞の過去形+完了不定詞
…………………………………………………220
1. 2. 4. 3 法助動詞の接続法2式+完了不定詞
2. 現在完了形の意味機能
……………………………………………222
……………………………………………………………………225
2. 1 事態完了後の結果状態の存続を表す現在完了形
……………………………………226
2. 2 継続を表す現在完了形
……………………………………………………………………226
2. 3 経験を表す現在完了形
……………………………………………………………………227
2. 4 基準時との間接的な関与を表す現在完了形
2. 5 非過去を表す現在完了形
3. 過去完了形の意味機能
…………………………………………229
…………………………………………………………………230
……………………………………………………………………231
4. 現在完了形と共起する時間副詞類
………………………………………………………233
4. 1 発話時(直前)を表す時間副詞類
……………………………………………………234
4. 2 継続・反復を表す時間副詞類
……………………………………………………………235
4. 3 不定の過去を表す時間副詞類
……………………………………………………………236
4. 4 近い過去を表す時間副詞類
………………………………………………………………237
4. 5 特定の過去時を表す時間副詞類
…………………………………………………………237
4. 6 過去完了形と共起する時間副詞類
5. 過去形の意味機能
6. sein/haben の省略
……………………………………………………239
…………………………………………………………………………240
……………………………………………………………………………240
7. 南ドイツにおける過去形の消失
…………………………………………………………243
第5章
…………………………………………………………256
現在完了形の過去と現在
1. 会話文中での過去形と現在完了形の出現頻度比
2. 現在完了形の意味機能の歴史的変化の概観
3. 現代ドイツ語の現在完了形 3)
………………………………………257
……………………………………………258
……………………………………………………………259
4. 現代ドイツ語の過去形における基準時
…………………………………………………264
5. 現代の方言における過去形と現在完了形の分布
………………………………………265
用例出典
…………………………………………………………………………………………267
参考文献
…………………………………………………………………………………………269
序
ドイツ語の現在完了形の歴史は、大まかに言えば、「過去時制化」の歴史と呼ぶことが
できる。すなわち、ある事態が完了したあとの現在における結果としての状態(以下「結
果状態」という表現を用いる)を表していたものが、単なる過去を表すようになったとい
う歴史である。
この歴史について本論が明らかにしたことで特に重要なのは次の三点である。
まず第一は、現在完了形の haben +過去分詞は受動の sein +過去分詞と連動して成立
したという事実である。この連動についてはすでに Benveniste (1966) が指摘しているが、
その後の研究では等閑視された。本論は Benveniste
の指摘の中にある誤りを挙げ、そこ
では触れられなかった点にも言及しつつ、haben +過去分詞を受動の sein +過去分詞と連
動させて捉える見方そのものは正しかったことを実証した。
第二の主要点は、中高ドイツ語の現在完了形は現代英語のそれに類似する意味機能を獲
得していたという事実である。これまでの研究では中高ドイツ語の現在完了形は過去時制
化の通過点に過ぎないと見なされ、その意味機能にはほとんど注意が向けられなかった。
本論は、中高ドイツ語の現在完了形が単なる通過点ではなく、独立した一段階と見なされ
ねばならないことを初めて明らかにした。
そして主要な第三の点は、現在完了形の過去時制化は初期新高ドイツ語期に行われるが、
それでもなお現在完了形は単独で物語を形成できるような「語りの時制」にはなっていな
いという事実である。(この状況は現代ドイツ語においても続いている。)初期新高ドイ
ツ語期には受動の werden +過去分詞や法助動詞 (Modalverben)
による現在完了形が可能
になり、現在完了形形成可能な動詞の制限はほぼなくなる。それにも拘わらず、現在完了
形が「語りの時制」にはなっていないことは、南ドイツにおける過去形の消失が現在完了
形の発達によるものではないことを意味する。
現在完了形の過去時制化は様々な言語に見られる。類似する現象として形式的にも地理
的にも近いのは、フランス語の複合過去である。avoir/être +過去分詞によって構成される
この形式は、現代フランス語において単純過去の役割を果たすものになった。ロシア語の
過去形も一種の過去分詞を起源とし、本来、過去の事態の完了したあとの結果状態を表す
ものであった。この形式は通常の動詞のように人称変化せずに、分詞としての形容詞的特
性に従って主語の性・数を示す語尾変化をする。日本語の過去を表す「~た」も「~た
り」に由来し、これは古語において事態の完了したあとに残る現在の状態を表していた。
さらに、ドイツ語内においても、強変化動詞の過去形は印欧語の完了過去 (perfectum) に
由来すると言われ、これが本来、現在の結果状態を表していたことは、können
等の法助
動詞および wissen 等、一部の動詞の現在形から分かる。このいわゆる過去現在動詞は、
形態的には強変化動詞の過去形でありながら、意味的に現在形として固定化され、新たに
弱変化の過去形を形成した。それに対し、それ以外の強変化動詞の過去形は単なる過去時
制と化した。ドイツ語の強変化動詞過去形の過去時制化と、現在完了形の過去時制化を類
似現象と見なすならば、歴史が繰り返したと言える。
一般に、haben/sein +過去分詞からなるドイツ語の現在完了形の通時的発展は、総合的
(synthetisch) 構造から分析的 (analytisch) 構造への移行現象の一つと見なされる。例えば、
-1-
ラテン語において「私が愛される」は amor の一語によって総合的に表されるのに対し、
フランス語においては je suis aimé のように複数の単語によって分析的に表現される。あ
るいは、ドイツ語の名詞の格変化が、もともと名詞それ自体の語尾変化によって表されて
いたのに対し、現代語では付加される冠詞等によって示されるようになったことも同様の
現象である。この観点に従えば、ドイツ語において、過去形という一語の語形変化によっ
て表されていた「過去」が、現在完了形という複数の構成素からなる形式によって表され
るようになったということができる。しかし、見落としてならないのは、現在完了形はそ
の成立時において、時間表現として過去形と等価ではなかったという事実である。現在完
了形の成立時において過去形はすでに過去時制としての機能を持っていたが、 haben/sein
が現在形である現在完了形は、あくまで現在形の一変種であった。従って、ドイツ語の現
在完了形の通時的展開を、単に総合的構造の衰退に伴う分析的構造の増加の一例と見なす
だけでは不十分である。そこでは是非とも意味的変遷を考慮しなければならない。
ドイツ語の現在完了形の過去時制化が他の言語にも見られる類似現象と本当に言えるの
か、そこに非可逆的で一方向的な規則があるのか、そしてそれは本当に繰り返される現象
であるのかを知るためには、まず事実としての現象そのものが明確に示されねばならない。
筆者の関心は確かに現在完了形の過去時制化の原因にあるが、本論の考察の中心はあくま
で現象の解明である。そのために、多くの用例を提示することにも重点を置いた。筆者は
本論で、従来の研究では言われなかった現在完了形の歴史の筋道を示したつもりであるが、
その資料的な価値を高めることも重視した。
ドイツ語史の時代区分については、古高ドイツ語 (Althochdeutsch)
年 、 中 高 ド イ ツ 語 (Mittlhochdeutsch)
を 750 年から 1050
を 1050 年 か ら 1350 年 、 初 期 新 高 ド イ ツ 語
(Frühneuhoch- deutsch) を 1350 年から 1650 年、新高ドイツ語 (Neuhochdeutsch) を 1650 年
以降とした。この時代区分はそれ自体ではあまり意味を持たないが、調査対象とした資料
のうち最も大きな比重を占めるものが9世紀、13 世紀初頭、1500 年頃のものであり、そ
れを分けるためにこの時代区分を用いた。現今のドイツ語史研究ではこの古典的な時代区
分が有効であるのか疑問視されるかもしれないが、現在完了形の歴史を考察するためには、
この区分で特に問題はないと思われる。
調査資料として用いたテクストは、ゴート語や古高ドイツ語についてはキリスト教関連
の文書の翻訳、中高ドイツ語や初期新高ドイツ語については文学作品が中心であるが、そ
れ以外に手紙や証文、都市年代記、口語テクスト等も使用した。このように雑多なテクス
トを使用したのは、第一に、残された資料の種類が時代によって限定されており、テクス
トの種類を統一できなかったためである。その結果、一つの歴史として本来つながらない
ものを強引に「通時」として結びつけた恐れがある。しかし、こうした多様なテクストを
用いたことによって、どこで最初に現在完了形の過去時制化が起こったのかが明らかにな
り、テクストの種類を統一した場合よりも正確に現在完了形の歴史の全体像を把握するこ
とができたと思われる。
以下、各章の概要を示す。
第1章では主として、完了形の成立の基礎となる過去分詞の意味が考察される。過去分
詞の基本的な意味は、その動詞が表す事態における変化あるいは働きかけが完了したあと
の状態である。過去の意味や他動詞における受動の意味はそこから派生的に生じる。「受
-2-
動の過去」は派生的な意味であるので、過去分詞は「能動」や「現在」といった「受動の
過去」以外の意味を表すこともある。過去分詞の基本的意味およびそこから生じる多様な
意味は、現代ドイツ語においても、完了形が成立していないゴート語においても根本的に
変わらない。この章ではまた、完了形成立の前提として、haben の意味が「所有」に限定
されるのではなく、haben は「対格目的語で表されるものが主格主語で表されるものの利
害関係の中にある」を表すことが示される。
第2章では特に、古高ドイツ語において haben +過去分詞がいかに完了形として用い
られるようになったかが考察される。その際に、過去分詞が単に対格目的語の表すものの
状態を規定する修飾語であるという見方は、この形式が完了形になるための説明として不
十分であることが示される。そこにはさらに、受動の sein +過去分詞の能動形化という
視点が必要である。
第3章では特に、中高ドイツ語において現在完了形が現代英語の現在完了形と同等の意
味機能を獲得したことが示される。通常、完了形発達の研究においては、中高ドイツ語の
完了形はのちの完了形の発達への通過点としか見なされないが、この時代の完了形は一つ
の独立した段階として他の時代の完了形とは区別されねばならない。
第4章では、現在完了形が初期新高ドイツ語期に入って初めて gestern「昨日」のよう
な過去を表す時間副詞を共起させることが可能になり、この時点で過去時制化されたこと
が示される。ただし、現在完了形は過去時制化されてもなお「語りの時制」ではない。
第5章では、補足として現在完了形の使用頻度の通時的な変移や、現代語における現在
完了形の用法、過去形の古い用法の残存、方言差の問題などが取り扱われる。
なお、用例の文字には技術的な理由から変更を加えた箇所がある。ローマ字化されたゴ
ート語のテクストで通常 h と v を融合させた形で表される文字は hw という分離した形
で表した。初期新高ドイツ語で a, o, u の上に小さな e をのせる文字は ä, ö, ü で表した。
他に、上に載せるべき文字や記号が右にずれている場合がある。
また、用例のあとに示される数字は、用例の文の始まりの位置ではなく、完了形や受動
形については過去分詞の位置を、過去形や現在形についてはその動詞の位置を示す。
略号については以下の通りである。
Mt = マタイ福音書; Mc = マルコ福音書; L = ルカ福音書; J = ヨハネ福音書; R = ローマ人
への手紙; 1 Kor = コリント人への第一の手紙; 2 Kor = コリント人への第二の手紙; Eph =
エペソ人への手紙; Gal = ガラテヤ人への手紙; Phil = ピリピ人への手紙; Kol = コロサイ人
への手紙; 1 Th = テサロニケ人への第一の手紙; 2 Th = テサロニケ人への第二の手紙; 1
Tim = テモテへの第一の手紙; 2 Tim = テモテへの第二の手紙; Tit = テトスへの手紙
praes./präs. = 現在; perf. = 現在完了(完了過去); prät. = 過去; pluq. = 過去完了(全分過
去); imperf. = 不完了過去; aor. = アオリスト;
pass. = 受動; med.= 中動;
conj. = 接続法; imperat. = 命令法;
part. = 分詞; adj . = 形容詞; nomen = 名詞;
nom. = 主格; acc. = 対格; gen.= 属格; abl. = 奪格; m. = 男性; f. = 女性; n. = 中性; sg. = 単数;
pl. = 複数
-3-
第1章
完了形成立の基礎
本論の主題はドイツ語の現在完了形の意味が歴史的にどう変化したかを明らかにするこ
とである。しかし現在完了形は過去完了形とともに成立し、発展していった。従って、現
在完了形の成り立ちを考察する際には、過去完了形も対象に含める。以下、現在完了形と
過去完了形の両者を指す言葉として「完了形」という用語を用いる。
完了形の原初的意味についての説明としては以下の Paul (1968: 136 f.) の説明が標準的
である。
ゲルマン語が被った動詞形態の大きな損失は、部分的には統語的結合によって補われた。
能動の現在完了形および過去完了形に対する補充は、動詞 haben と sein の現在形およ
び過去形の結合によってなされた。sein を用いて完了相自動詞の現在完了形は形成され
た。自動詞完了相の過去分詞は〔……〕結果を表した。それで er ist gefallen「彼は倒れ
た」の元来の意味は、er liegt infolge eines Falles da「彼は転倒の結果そこに横たわって
いる」である。しかし、それからさらに意味の推移が生じ、この書き換えは、ある事象
の作用がもはや持続していない場合でも、その事象が生じたということを表すのに用い
られるようになった。かくして、すでに我々の文献伝承の始まりから存在するこの結合
は、印欧語の完了過去 (Perfektum) の二つの機能を併せ持つのである。/ のちに消失す
る同義語 eigan1)と本来同等の haben
を用いた現在完了形は、まず他動詞によって形成
される。そこで生じたことは、ロマンス語において生じたことと同じであった。つまり、
ich habe das Buch gefunden「私はその本を見つけた」は、もともと、ich habe das Buch
als ein gefundenes「私にはその本が見つけられたものとしてある/見つけられたものとし
て持つ」を意味する。すなわち、本来、他動詞の過去分詞にあるべき受動の意味が基底
にあるのである。それゆえ、古高ドイツ語にはまだ、過去分詞の語尾変化と目的語の性
・数・格の一致が見られる。sie eigun mir ginomanan lioban druhtîn mînan「彼らは私から
我が愛する主を奪った」(Otfrid) を参照。しかし、早い時期に無語尾の形が一般化され
た。それと軌を一にして、もとの意味が薄れていく。同時にここにおいても、元来、現
在における結果を表していたものが、過去の事象の表現になったのである。(下線筆
者)
Paul の説明を引くまでもなく、完了形の構成素である haben/sein と過去分詞が、もと
はそれぞれ自律的意味を担っていたということは当然予想できる。問題は、その構成素の
組合せが何を意味したかということである。完了相自動詞において、er ist gefallen「彼は
倒れた」の元来の意味が、er liegt infolge eines Falles da「彼は転倒の結果そこに横たわっ
ている」であったということには特に疑問はない。この構成素の組合せの意味は、過去分
詞 gefallen が「倒れている(倒れた結果その倒れた状態にある)」を表すということから
必然的に導き出される。それに対し、haben +過去分詞の意味はそれほど明瞭ではない。
ich habe das Buch gefunden「私はその本を見つけた」が、もともと、ich habe das Buch als
ein gefundenes を表したとすると、その場合の「私」ich と「本」Buch とはどのような関
係にあるのか。一般に、ich habe das Buch と言う場合には、「私はその本を所有してい
-4-
る」を意味する。しかし、ich habe das Buch gefunden と言う場合には、少なくとも現代語
においては、「本」が「私」の所有物であるとは言えない。完了形成立の時点で haben
+過去分詞の haben は「所有」を意味したのだろうか。Behaghel (1989: 271 f.) は次のよ
うに説明する。
これらの書き換え〔sein +過去分詞、 haben +過去分詞〕は、最初、状態を表した。し
かし、この状態は、通常その背後にある事象から生じるので、状態表現は、その事象の
表現になった。er ist gestorben「彼は死んだ」はもともと単に、er ist ein Gestorbener「彼
は死んだ者である」であった。er hat es gefunden「彼はそれを見つけた」は er hat, er
besitzt es als gefunden「彼はそれを見つけられたものとして持つ、所有している」を意
味していた。従って、haben (eigan) はまず受動の分詞を形成することが可能な動詞、す
なわち他動詞とのみ共起可能であり、実際、初めは主語の所有物とみなされうる目的語
が存在する場合にしか現れない。他のあらゆる書き換えはそれに倣ったものである。
fand とは別に habe gefunden という書き換えが現れたことによって、ich sah とは別に
ich habe gesehen が現れた。そしてのちには ich dankte, schlief とは別に ich habe gedankt,
ich habe geschlafen
も現れた。 ich habe gesehen
のタイプの例は、文献上では、
„Exhortatio“ の偶然の例を除くと、ich habe gefunden のタイプと同時期に現れた。それに
対し、属格や与格を伴う動詞や格支配のない動詞ではその書き換えはもっと新しい。
上の Behaghel の説明は、「er hat es gefunden は er hat, er besitzt es als gefunden(彼はそ
れを見つけられたものとして持つ、所有している)を意味し」、この形式が「初めは主語
の所有物とみなされうる目的語が存在する場合にしか現れない」と言うのだから、 haben
が「所有する」を意味することに疑問の余地はない。尤もここで Behaghel が haben を
besitzen と言い直しているのは、単にこの形式が初めは対格目的語を必ず伴ったというこ
とを言いたいためであって、haben の意味が besitzen の意味に限定されるとは厳密に考え
ていなかったかもしれない。しかし haben
の意味が「所有」に限定されるか否かは完了
形の原初的意味を知る上で重大な問題であり、是非明らかにしなければならない。
なお、問題を明確化するために、上の Behaghel の説明における明らかな論理的誤りを
ここで指摘しておきたい。それは、haben が「所有」を意味するがゆえに haben +過去分
詞が他動詞の過去分詞によってのみ形成可能であったと説明している点である。確かに
haben が「所有」を意味するならば、対格目的語を伴うことは必然である。しかし、その
対格目的語はあくまで haben
の目的語であって、過去分詞の目的語ではないのだから
(過去分詞は対格目的語を修飾している)、過去分詞が他動詞の過去分詞に限定されるこ
とにはならない。過去分詞が他動詞の過去分詞のみであるのは、過去分詞そのものの形成
制限によるのであって、そこに目的語があるためではない。
また、Behaghel と Paul 両者に共通する不明瞭な点もある。それは、haben +過去分詞
における過去分詞の表す事態の動作主が、いかにして文の主語者と一致したかということ
である。Paul の ich habe das Buch als ein gefundenes という解釈も、Behaghel の er hat, er
besitzt es als gefunden という解釈も、「見つける」finden という行為の動作主が誰なのか
ということについては何も言っていない。これらの解釈では、理論的には、「他人が見つ
-5-
けたものを持っている」という意味になる可能性もある。いかにして動作主=文主語とな
ったのかという問題は、haben + 過去分詞が完了形として成立する上で、極めて重要な問
題である。
いずれにしても、現時点で明らかなことは、初めは、haben, sein, 過去分詞それぞれが
自律的意味を担い、それを組み合わせた形式は、それぞれの構成素の持つ意味の総和以上
のものは表さなかったということである。従って、まずその構成素それぞれの意味を明確
化し、その上で、改めて問題点を提示したい。
1. 過去分詞の意味
ここでは完了形成立以前の段階での過去分詞の意味を考察する。資料としてはゴート語
を取り上げる。 2) ゴート語は、東ゲルマン語に属す言語であり、西ゲルマン語に属すドイ
ツ語とは系統が異なる。しかし、結論を先に述べれば、過去分詞の形成の仕方や意味にお
いて、ゴート語と古高ドイツ語以降の現代語までのドイツ語との間には根本的差異は認め
られない。従って、ゴート語を資料として用いることは、完了形が成立する以前の過去分
詞の意味を知る上で有効である。ただし説明を分かりやすくするために、まず現代ドイツ
語の過去分詞の意味を考察し、それに基づいてゴート語の過去分詞の意味を確定したい。
1. 1 現代ドイツ語の過去分詞
一般に現代ドイツ語の過去分詞は、次の Duden-Grammatik (1995: 189 f.) のように、その
動詞の相と自他の別によって、次の 3 種に区分される。
3)
i) 完了相自動詞の過去分詞(die untergegangene Sonne「沈んだ太陽」, das in Fäulnis
übergegangene Fleisch「腐敗状態へ移行した肉(腐り始めた肉)」)
ii) 完了相他動詞の過去分詞(ein gebundenes Buch「製本された本, ein gefülltes Fass
「満たされた樽」)
iii) 非完了相他動詞の過去分詞(der gehasste Feind「憎まれている敵」, das geliebte Kind
「愛されている子」)
残る非完了相自動詞は過去分詞を形成しない(例えば das geschlafene/gespielte Kind は不
可。ibd., 190 を参照)。4)
上の例の日本語訳からも分かるように、自動詞の過去分詞は能動、他動詞の過去分詞は
受動を表し、また、完了相動詞の過去分詞は、その動詞の表す事象の完了したあとの結果
として残る状態を、非完了相動詞の過去分詞は、その動詞の表す事態そのものが継続して
いる状態を表す。これを表にすると、次のようになる。
完了相
非完了相
自動詞
能動・結果状態
-
他動詞
受動・結果状態
受動・事態継続
-6-
表で欠落している非完了相自動詞の過去分詞の箇所は「能動・事態継続」を表すべき部分
であり、それは現在分詞によって表される。ただし、言うまでもなく、現在分詞は他動詞
によっても形成される。
さて、上の Duden-Grammatik
による過去分詞の分類には説明不十分のところがある。
例えばこの分類では、すべての非完了相他動詞が(自律的意味を持つ)過去分詞を形成す
るとは限らないことが示されていない。例えば、haben は非完了相他動詞として er hat ein
Kind(彼には一人子供がある)と言うことができるが、das/ein/sein gehabte[s] Kind などと
は言えない。5) der gehasste Feind が可能である以上、非完了相他動詞には過去分詞の形成
可能なものと不可能なものの2種が存在することになるが、その理由は上の分類では明ら
かではない。そして何よりも、この3種類の過去分詞の間の連関をこの分類は説明しない。
そもそもゲルマン語の過去分詞は、強変化動詞のそれは -eno-, -ono- (-no-) を動詞語根
に、弱変化動詞のそれは -to-
を動詞語根および現在幹に付加することで形成された動詞
的形容詞 (Verbaladjektivum) と考えられている(Wilmanns 1922: 14 f.を参照)。 すなわち、
それ自体が過去という時間や能動・受動の区別を表すものではなかった。そうした区別は、
過去分詞の持つ統一的意味から派生的に生じたものである。そこで、その過去分詞の統一
的意味を示したい。
1. 1. 1 過去分詞形成の原理
まず結論を述べれば、過去分詞は基本的に、その動詞の表す「変化」あるいは「働きか
け」が完了していることを表す。なおここで問題になる過去分詞は、過去分詞それ自体が
自律的意味を持つものであり、それは名詞付加語的用法が可能なものに限定される。完了
形や受動形(werden + 過去分詞)に用いられる過去分詞は、現代ドイツ語においては、
sein, haben, werden と結びついた形で完了形や受動形としての意味をなしており、最早過
去分詞のみを切り離して意味を抽出することはできないからである。
1. 1. 1. 1 過去分詞における「変化」
「変化」とは、「対象」がある状態・場所から別の状態・場所に移ることである。「対
象」は、自動詞の場合、それを用いた能動文において主格で表され、他動詞の場合、それ
を用いた能動文において対格で表される。典型的な例を挙げれば、自動詞 sterben は、能
動文の主格主語で表されるものが「生きている」状態から「死んでいる」状態に移ること
を意味し、その過去分詞 gestorben
は「死んでいる」を意味する。また、他動詞 öffnen
は、能動文の対格目的語で表されるものが「閉じている」状態から「開いている」状態に
移ることを意味し、その過去分詞 geöffnet は「開かれている」を意味する。
ここで過去分詞が能動・受動の区別とは本質的に無関係であることが理解される。中心
にあるのは「変化」が完了しているということであり、その対象が自動詞では主格で、他
動詞では対格で表されるために、結果として能動と受動の区別が生じるのである。アリス
トテレス(『自然学』202 b 20 f.)は、「教えることは学ぶことと、また能動は受動と、
-7-
厳密には同じことではなく、ただこれらがそれに属するところのそれすなわちその当の運
動が、同一なのである」と言う。言い方を逆にすれば、過去分詞においては、能動と受動
が区別されるが、「変化」(アリストテレスにおける「運動・キネーシス」)という意味
では同一なのである。従って、影山 (1996: 140 f.) の言う「能格動詞」、すなわち、自他
両用で、自動詞の主語が他動詞の目的語になる動詞においては、過去分詞が能動なのか受
動なのかという区別は意味を失う。例えば、 brechen「折る、折れる」は能格動詞である
が、この過去分詞 gebrochen は「折れている」という状態を表すのであり、それが自発的
に折れたのか(能動)、外からの力によるものなのか(受動)という区別を特に表さない。
「変化」の中には「生成」「消滅」も含まれる。つまり、「生成」は「存在していない
状態」から「存在している状態」へ移る「変化」、「消滅」はその逆の「変化」である。
従 っ て 、 自 動 詞 の werden「 な る 」 , entstehen「 生 じ る 」 , geschehen「 起 こ る 」 ,
verschwinden「消える」等や、他動詞の (ein Haus) bauen「(家を)建てる」, (einen Brief)
schreiben「 (手紙を )書く」 , verlieren「失う」等はここに含まれる。例えば einen Brief
schreiben において「手紙」は「書く」という行為の結果「生成」され、ein geschriebener
Brief は「書かれた手紙」を表す。
また、知覚を表す動詞、例えば、 sehen「見る」 , hören「聞く」等も同様に「変化」を
表す動詞である。この場合、知覚の対象が知覚物として知覚者へ移ることを表す。例えば、
er sieht ein Buch「彼は一冊の本を目にする」においては、対格で表される「本」が知覚物
として、知覚者である「彼」に移ることを表す。その際、知覚者自身、つまり主格で表さ
れるものも「知覚していない状態」から「知覚している状態」に移るということがいえる
が、それは問題ではない。他動詞の場合、それを用いた文において主格で表されるものが
「変化」するかどうかは問題にならない。
1. 1. 1. 2 過去分詞における「働きかけ」
過去分詞を形成する動詞における「働きかけ」とは、それを用いた能動文において主格
で表されるものから対格で表されるものに向けられる働きかけのことである。「働きか
け」が向けられる対象は、能動文で対格で表されるものに限られるので、ここで問題にな
る動詞は他動詞だけである。
一般に、「変化」を表す他動詞は同時に「働きかけ」をも表す。すなわち、能動文の主
格で表されるものが対格で表されるものへ「働きかけ」を行うことによって「変化」が生
じる。例えば、er öffnet die Tür「彼はドアをあける」においては、「彼」が「ドア」に
「働きかけ」を行った結果、「ドア」は「閉じている」状態から「開いている」状態に移
る。
しかし逆に、「働きかけ」を表すものが必ず「変化」を表すとは限らない。例えば、er
schlägt einen Hund「彼は犬を叩く」や die Mutter streichelt die Katze「母は猫を撫でる」に
おける schlagen, streicheln は、主格で表されるものから対格で表されるものへの「働きか
け」を示すが、その「働きかけ」によって、「犬」や「猫」がどのような「変化」をする
のかは語彙的に示さない。重要なのは、主格で表されるものが「働きかけ」を発するとい
うことであり、対格で表されるものがそれを受けてどのような影響を受けるかということ
-8-
ではない。
勿論、この種の動詞の過去分詞が前置詞句や副詞などを付加することによって「変化」
を表す場合もあり、その場合は当然、名詞付加語的過去分詞を形成する。
(1) Unmittelbar vor dem Unglück war der Bub in einen in Richtung Tor geschlagenen Ball
gegrätscht. (Süddeutsche Zeitung 01.07.1996, IDS)(その少年がゴールに向かって打たれた
ボールに飛びかかった直後、不幸は起こった)
上の例では、前置詞句 in Richtung Tor によって場所の移動の着点が表され、schlagen が
「変化」の動詞になる。問題は、そのような前置詞句・副詞なしに「働きかけ」の動詞が
過去分詞を作るかということである。Paul Celan の詩に次のような一節がある。
(2) der ungeküßte / Stein einer Klage / rauscht auf, / vor Erfüllung (Paul Celan: Wir, die wie
der Strandhafer Eahren, in N'we Awiwim,)(接吻されなかった/嘆きの石が/ざわめきはじめ
る、成就の前で)(中村朝子訳)
これは詩の言語であり、「嘆きの石」が接吻を受けていないということには特別な意味が
込められているであろう。しかしこういう過去分詞は用法として特殊なのであろうか。結
論を述べれば、「働きかけ」を表し、「変化」を表さない他動詞も過去分詞を形成するこ
とが可能である。
(3) Aber auch der Teich vor dem Grün des achten Lochs verlangt einen mutigen Schlag zur
Fahne, denn jeder halbherzig geschlagene Ball rollt unweigerlich ins Wasser. (Süddeutsche
Zeitung, 14.09.1995, IDS)(しかし、8 番ホールのグリーン手前の池も旗に向かって勇敢
に打つことを要求する。というのは、中途半端な気持ちで打たれたボールは必然的に水
の中へ転げ落ちていくからである)
(4) Nur so, indem es den Schmerz bagatellisierte, konnte das geschlagene Kind sein Leiden
aushalten. (Süddeutsche Zeitung 18.07.1998, IDS)(ただ、痛みを軽く考えるということに
よってしか、殴られた子供は自分の苦しみに耐えることができなかった)
(5) Es sei erwiesen, daß geschlagene Kinder später häufig selbst Gewalt anwendeten, erklärte
die Organisation. (Süddeutsche Zeitung 26.09.1997, IDS)(殴られた子供はのちに自分で暴力
を振るうということが証明されたと、その団体は説明した)
「働きかけ」は表すが、「変化」は表さない動詞には lieben「愛す」, hassen「憎む」,
verachten「軽蔑する」等、感情を表す動詞も含まれる。
(6) Er glaubte, den Verstand zu verlieren, als er mit schmerzendem Rücken und seiner ebenfalls
verletzten Frau, aber ohne seine geliebten Kinder, von Sanitätern in einen Transporter gedrängt
wurde. (Mannheimer Morgen 25.08.1989, IDS)(彼は、自分が痛む背中を抱えて、同じよう
に傷ついた妻と一緒に救急隊員に搬送車に押し込められた際に、自分の愛する子供たち
-9-
がいないと気づいた時、自分が正気を失うと思った)
この場合、対象に向かう感情が「働きかけ」である。こうした感情が対象に向けられる
「働きかけ」であることは、die Eltern lieben die Kinder「両親は子供を愛す」を名詞句に
した場合に、die Liebe der Eltern zu den Kindern「両親の子に対する愛」のように、能動文
の対格名詞句が zu で導かれる前置詞句に置き換えられることにも示される。なお、こう
した感情を表す動詞においても、「働きかけ」=「感情」が対象に向けられた結果、対象
がいかなる影響を受けるかということは語彙的に示されない。
1. 1. 1. 3 「変化」を表し「働きかけ」を表さない他動詞
上で、一般に「変化」を表す他動詞は öffnen「あける」のように、「働きかけ」を同
時に表すと述べたが、「変化」は表すが、「働きかけ」は表さない他動詞も存在する。例
えば、 bekommen「受ける」は、主格で表されるものから対格で表されるものへの「働き
かけ」なしで、対格で表されるものが主格で表されるものへ移動するという「変化」を表
す。また verlieren「失う」は「働きかけ」なしで、対格であらわされるものが主格で表さ
れるものの場所から離れるという「変化」を表す。
こ こ で 、 こ の 種 の 他 動 詞 が 名 詞 付 加 語 的 過 去 分 詞 を 形 成 で き る の か を 考 え る と、
bekommen においてはそれが不可能であるのに対し、 6) verlieren においては可能である。す
なわち、der (von Hans) bekommene Brief「(ハンスによって)受け取られた手紙」は不適
格であるのに対し、die verlorene Zeit「失われた時間」は可能である。
(7) „Wegen den drei Pfennig“, schimpft ein Mann über den Aufwand und seine verlorene Zeit
beim Schlangestehen. (Mannheimer Morgen 07.12.1989, IDS)(「3 ペニヒのために」と、あ
る男は、長蛇の列に並ぶことよる浪費と自分の失われた時間のことで罵る)
bekommen と verlieren の差がどこから生じるのかは必ずしも明らかではない。一般に、
bekommen は werden 受動(werden +過去分詞)も形成しない。すなわち、der Brief wird
von Hans bekommen と言うことはできない。しかし、その点では、verlieren も同じであり、
die Zeit wird verloren と言うことはできない。 7) 従って、werden 受動の形成の可否は、名詞
付加語的過去分詞の形成の可否と一致しないのであり、werden
受動が形成できないから
過去分詞が形成できないとは言えない。さらにまた、 bekommen
と意味的に近似する
empfangen, erhalten, gewinnen 等は名詞付加語的過去分詞を形成することができる。
(8) die Frau muß das empfangene Geld versteuern. (Mannheimer Morgen 04.04.87, IDS)(その
女性は受け取った金に対して税を払わねばならない)
(9) Zurückzahlen müsse aber niemand zuviel erhaltene Gelder. (Mannheimer Morgen
25.03.1996, IDS)(しかし誰も余計に受け取った金を払い戻す必要はない)
(10) Damit darf der 26 Jahre alte Kanadier seine am Sonntag gewonnene Goldmedaille behalten.
(Mannheimer Morgen 13.02.1998, IDS)(それでその 26 歳のカナダ人は日曜日に獲得した
- 10 -
金メダルを保持することが許される)
bekommen と empfangen, erhalten, gewinnen との違いは、「働きかけ」が皆無であるか、そ
れとも僅かでも認められるかという差にあるのかもしれない。gewinnen
の語義は „durch
eigene Anstrengung etwas Wünschenswertes erhalten“ (Duden, Deutsches Universal Wörterbuch)
( 下 線 筆 者 ) で あ り 、 そ れ 自 体 に 「 働 き か け 」 が 意 味 的 に 内 包 さ れ て い る 。 ま た、
empfangen, erhalten は「受ける」という意味以外に、それぞれ「(人を)迎える」「維持す
る」という意味を持ち、そこには何らかの対象に対する「働きかけ」が認められので、同
じ「受ける」という意味でも、「働きかけ」をまったく含意せず「受ける」という意味を
表す bekommen とでは、「働きかけ」の度合が異なるということが考えられる。
しかしこのように考えても、verlieren と bekommen の違いは不明である。この二つの動
詞はどちらも「働きかけ」を特に含意しない。そうすると、「手に入れる」と「手放す」
という事態そのものに、現実界での有意義性という点で何らかの差異があるのだろうか。
例えば、「手に入った」ものよりも「手放した」ものの方が意味があるというように。し
かしこのような説明は不十分であり、この問題は未解決のまま残される。
しかしいずれにしても、bekommen のような例はあるとしても、「変化」を表し「働き
かけ」を表さない他動詞は基本的に名詞付加語的過去分詞を形成すると考えてよいと思わ
れる。例えば、すでに述べたように sehen
等の知覚動詞は「変化」を表す他動詞に属す
と考えられるが、この知覚という「変化」が、知覚者の対象に対する「働きかけ」によっ
て引き起こされるのかということには曖昧さがある。この点に関連して、 Helbig/Buscha
(1999: 71/170) は、sehen, hören empfinden 等の知覚動詞、glauben, vermissen, verstehen 等の
8)
認識を表す動詞、そして brauchen, lieben, hassen 等の一般的関係 (allgemeine Relation) を
表す動詞の主語は動作主ではなく、半動作主 (Demi-Agens) であると言う。つまり、これ
らの動詞においては、主格で表されるものから対格で表されるものへの「働きかけ」は、
あるとも、ないとも言えるということである。そして、この動作主性(すなわち、「働き
かけ」)の度合いの微妙な違いから、Helbig/Buscha (ibd., 170) は、受動文の形成の可否に
区別が生じると言う。
(11) Die Sonnenfinsternis ist von uns gesehen worden.(日食は我々によって見られた)
(12) (*) Der Unfall ist von uns gesehen worden.(事故は我々によって見られた)
上の (11) が完全に文法的な文であるのに対し、(12) が半文法的 (halbgrammatisch) である
のは、(11) の sehen が「観察する」という行為を表し、「我々」が動作主であるのに対
し、(12) の sehen は「偶然目にする」という動作主性の弱い行為を表し、「我々」が半
動作主であるからだと彼らは説明する。しかし、過去分詞の形成という点では、能動文の
主格主語が動作主であるか否か、すなわち、その動詞が「働きかけ」を表すか否かという
区別は、実はあまり有効ではない。以下の例を比較されたい。
(13) Der Künstler verzichtet hier auf die traditionellen Mittel, eine Bildtiefe zu suggerieren,
zugleich verrät diese Arbeit, wie sicher Cezanne damals eine Fläche rhythmisch zu gliedern
- 11 -
wußte, wie er mit wenigen Grün- und Blautönen die von ihm gesehene Welt in Malerei
verwandelte, ohne sich der Natur auszuliefern. (Mannheimer Morgen 19.01.1989, IDS)(芸術家
はここで、像の奥行きを暗示するという伝統的手法を放棄する。と同時にそうすること
で、セザンヌがその頃、いかに確かに一つの平面を律動的に区分することができたか、
彼が自然に自らを埋没させずに、いかにわずかな緑と青の色調によって自分の見た世界
を絵画に転換したかということが明らかになる)
(14) allein auch heute hatten sie bereits viele Felsen gesehen, die alle den nämlichen Anschein
gehabt hatten wie die gestern gesehenen (Stifter 55)(しかし今日も彼らはすでに、すべて昨
日見たのと同じ姿の岩をたくさん見ていた)
(15) er bekommt von einer der verflossenen Gattinnen den nie zuvor gesehenen Sohn
aufgezwungen (Die ZEIT 07.06.85, IDS)(彼はかつての妻の一人から、以前には会ったこ
とのない息子を押しつけられる)
(16) Die Wände der leeren, schwarz ausgeschlagenen Kleinen Bühne des Salzburger
Landestheaters bilden die vor Jahren bestaunten, jetzt oft kopierten Fenster, die oft gesehenen
Rahmen (Süddeutsche Zeitung 27.07.1998, IDS)(ザルツブルク州劇場の空虚で黒幕を張っ
た小舞台の壁は、数年前には賛嘆され、今ではよく真似される窓を、つまりよく人の目
にする枠を形作っている)
上例のうち、 (13)においては、対象に対する「働きかけ」が認められるかもしれないが、
(14)-(16)においてはそれはほとんど認められない。しかしどちらの sehen も名詞付加語的
過去分詞を形成する。
あるいは、verlieren と同様、「働きかけ」がなく、「変化」を表す動詞として、「記憶
の脱落」を意味する vergessen「忘れる」を挙げることができるが、これも名詞付加語的
過去分詞を形成することが可能である。
(17) Ich erinnere an das neue Drama, für das die klassische Lehre von der Einheit von Zeit und
Handlung längst wie ein vergessenes Märchen klingt (Gadamer 11)(新しい演劇を思い出して
もらいたい。それと比べると、時間と筋の統一という古典的教説は忘れられた童話のよう
に思われる)
このように、「変化」は表すが、「働きかけ」は表さない他動詞は、bekommen のよう
な例外はあるが、基本的に名詞付加語的過去分詞を形成することができると考えられる。
1. 1. 1. 4 過去分詞形成可能な動詞の意味の図式
「変化」も「働きかけ」も表さない動詞は、名詞付加語的過去分詞を形成しない。自動
詞で過去分詞を形成するものは「変化」を表すものに限られる。他動詞の場合、「変化」
と「働きかけ」のいずれかを表すことが過去分詞形成のための条件となる。これをまとめ
ると、次のように区分することができる。
- 12 -
タイプ 1
「変化」を表す自動詞
sterben, einschlafen, verblühen 等。「変化」を表さない leben, wohnen, schlafen, blühen 等
の自動詞は不可。 9)
タイプ 2
「変化」か「働きかけ」のいずれかを表す他動詞
(「変化」も「働きかけ」も表さない haben, kosten (z.B. „das kostet 2,- DM“), wissen,
10)
können 等は過去分詞を形成しない。 )
タイプ 2-a
「変化」と「働きかけ」の両方を表す他動詞
過去分詞形成可能な動詞の大半はここに属す。öffnen, legen, setzen, töten, zerstören,
schreiben, 等。
タイプ 2-b
「変化」を表さず、「働きかけ」を表す他動詞
schlagen, treten, streicheln, lieben, hassen, verachten 等。
タイプ 2-c
「変化」を表し、「働きかけ」を表さない他動詞
verlieren, empfangen, erhalten, vergessen 等。ただし、bekommen, kriegen は不可。
すでに述べたように、sehen のようにタイプ 2-a、タイプ 2-c の両方に属す場合もある。
以上の「変化」「働きかけ」を図式化すると次のようになる。
タイプ 1
「変化」を表す自動詞
A
X
(A
Y
は「変化」する対象で、能動文で主格で表される。X は「変化」前の状態・場所、
Y は「変化」後の状態・場所)
タイプ 2-a
「変化」と「働きかけ」の両方を表す他動詞
B
Z
A
X
(A
Y
は「働きかけ」を受け「変化」する対象で、能動文において対格で表される。X
は「変化」前の状態・場所、Y は「変化」後の状態・場所。B は「働きかけ」を発
するもので、能動文において主格で表される。Z は「働きかけ」)
- 13 -
タイプ 2-b
「変化」を表さず、「働きかけ」を表す他動詞
B
Z
A
(A は「働きかけ」を受ける対象で、能動文において対格で表される。B は「働きか
け」を発するもので、能動文において主格で表される。Z は「働きかけ」)
タイプ 2-c
「変化」を表し、「働きかけ」を表さない他動詞
B
A
X
Y
(A は「変化」するもので、能動文において対格で表される。X は「変化」前の状態
・場所、Y は「変化」後の状態・場所。B は能動文において主格で表される)
このように図式化すると、タイプ 1、タイプ 2-a、タイプ 2-c が
A
X
Y
という形を共有し、タイプ 2-a、タイプ 2-b が
B
Z
A
という形を共有するというように、互いに関連し合うことが分かる。
1. 1. 1. 5 過去分詞の時間論
1. 1. 1 で述べたように、過去分詞はその動詞の表す「変化」あるいは「働きかけ」が完
了していることを表す。ここで 1. 1 で挙げた Duden-Grammatik (1995: 189) の分類に立ち
戻ると、当該の動詞が完了相であれば過去分詞は結果状態を、非完了相であれば過去分詞
は事態継続を表すということであった。この完了相、非完了相という区別を、上で挙げた
過去分詞形成可能な動詞の意味の分類で考えると、「変化」を表す自動詞のすべてと、
「変化」を表す他動詞のほとんどは完了相である。従って、「変化」を表す動詞の過去分
詞は、「変化」の完了を表すという意味で、gestorben「死んだ」のように、過去における
- 14 -
事態の結果としての状態を表す。タイプ 2-a の「変化」と「働きかけ」の両方を表す他動
詞においては、「変化」は「働きかけ」が行われた結果生じるのであるから、「変化」の
完了は「働きかけ」の完了でもある。従って、 geöffnet「あけられた」においては、「あ
く」という「変化」の完了とともに、「あける」という「働きかけ」の完了も表される。
また、タイプ 2-c の「働きかけ」を表さず、「変化」を表す他動詞においては、「変化」
を表す自動詞と同様、過去分詞は「変化」の完了を表し、verloren は「失われた」を表す。
タイプ 2-b の動詞のように、「変化」を表さず、「働きかけ」を表す動詞は、基本的に
それが表す事態の時間によって完了相と非完了相に区別される。すなわち、瞬時的な事態
を表す schlagen は完了相であり、継続的事態を表す streicheln, lieben 等は非完了相である。
これらの動詞の過去分詞は「働きかけ」の完了を表すので、瞬時的事態であれば、過去に
おける事態の完了を表す。ここで「結果状態」という言葉を用いることはできない。「変
化」が存在しない以上、変化の結果も存在しないからである。 geschlagen「打たれた」に
おいては、あくまで「働きかけ」の完了が表されているだけであり、その結果がいかなる
ものかは明らかではない(上例 (3)-(5) を参照)。また、streicheln, lieben のように継続的
事態を表す動詞の過去分詞は事態の継続を表す。なぜなら、表される事態が継続的である
ため、「働きかけ」の完了している状態はその事態の継続を意味するからである。従って、
gestreichelt, geliebt
は「撫でられている」「愛されている」を表す。アリストテレス
(『形而上学』1048 b 18 f.)11)は次のように言う。
限りを有するような諸行為のいかなるものも〔それ自身が〕目的ではなく、目的と相関
的であるような事柄に属するのであるから、こういったものは行為とはいえない。ある
いは少なくとも、完全な行為ではない。目的ではないのだから。目的が内に内在してい
るようなものこそが、行為なのである。/ 例えば、ひとは見ていると同時に見てしまっ
ているし、思惟しつつあると同時に思惟してしまっている。しかし、学びつつあるとと
もに学んでしまっている、とはいえないし、健康になりつつあるとともに健康になって
しまっている、ともいえない。 /
ひとは善く生きつつあると同時に善く生きてしまっ
ているのであるし、また、幸福であると同時に幸福になってしまっているのである。も
しそうでないとしたら、贅肉を取って減量する行為の場合と同じように、いつかは終止
しなければならないだろう。しかし実際にはそうではなく、生きているとともに生きて
しまっているのである。(下線筆者)
アリストテレスのこの説明は、その行為自体が目的ではない「健康になる」のようなキネ
ーシス的行為と、その行為自体を目的とする「見る」のようなエネルゲイア的行為の区別
を述べたものであって、ドイツ語の過去分詞の分類にそのまま適用するわけにはいかない。
しかしここには、非完了的・継続的事態における「働きかけ」の完了が、なぜ事態の継続
を表すのかという問いに対する答えの示唆が含まれている。すなわち、「変化」と「働き
かけ」の両方を表す動詞においては、「働きかけ」は「変化」を目的として行われるのだ
から、「変化」が実現化して完了した時点で「働きかけ」も終結する。それに対して、
「変化」を表さずに「働きかけ」を表す動詞においては、「働きかけ」自体が目的である
ので、もしその「働きかけ」が継続的であれば、「働きかけ」が実現化して完了する場合
- 15 -
には、その「働きかけ」は終結せずに持続することになる。この場合、「完了」=「終
結」ではなく、「完了」=「継続」となる。まさしくアリストテレスの言うエネルゲイア
的行為のように、 gestreichelt, geliebt においては、「撫でられている」と同時に「撫でら
れてしまっている」、「愛されている」と同時に「愛されてしまっている」のであり、そ
れは「現在進行形と現在完了形とが同時的な過程」(『形而上学』304)である。
ただし、これらの事態は永久に持続するとは限らず、一時的なものとして終結すること
はありうる。その場合は、geschlagen「打たれた」と同様、gestreichelt, geliebt も「撫でら
れた」「愛された」という過去における事態の完了を表すことになる。
(18) ,EINE BLUTIGE SCHEIDUNG‘ hat Prinz Charles seiner einst geliebten Diana angedroht
(Süddeutsche Zeitung 13.05.1996, IDS)(「流血の離婚」をすると言ってチャールズ皇太子
は、かつて自分の愛したダイアナを脅した)
「変化」を表すほとんどの他動詞は基本的に完了相であるが、「変化」が継続するよう
な事態を表す動詞もあり、その過去分詞は geliebt「愛されている」と同様、事態の継続
を表す。例えば、 quälen「苦しめる」は、能動文で対格で表されるものを「苦しくない」
状態から「苦しい」状態へと移す「変化」を表すが、その「変化」が持続して「苦しめら
れ続ける」という可能性がある。
(19) Nachts haben sie am Bett ihres von Juckreiz gequälten oder panisch um Luft ringenden
Kindes gewacht (Süddeutsche Zeitung 28.11. 1998, IDS)(夜には、かゆみに苦しめられ、パ
ニックに陥ったようにあえぐ子供のベッドについて、彼らは寝ずに見守った)
上の (19)
では、「彼ら」が「寝ずに見守る」あいだ、「かゆみ」は「子供」を「苦し
め」続けている。このような場合、「変化」を表す他動詞は非完了相であり、その過去分
詞は事態の継続を表す。
また逆に、geliebt がつねに「愛される」を表すとは限らず、一時的な事態として「愛さ
れた」という過去の事態の完了を表す場合があるように、 gequält
も「苦しめられてい
る」ではなく、下例 (20) のように過去における事態の完了である「苦しめられた」を表
す場合もある。
(20) Eindeutig steht fest, daß den damals gequälten und verachteten und heute geprellten (und
immer noch verachteten) Frauen und Männern eine menschenwürdige Wiedergutmachung
gebührt. (Frankfurter Rundschau 09.05.1997, IDS)(明らかに言えることは、当時は苦しめ
られ 、軽蔑されて、今日では打ちひしがれ、 (依然として軽蔑されている )男女には、人
間らしい補償が与えられてしかるべきだということである)
以上、過去分詞における完了の表す時間についてまとめると、「変化」においても「働
きかけ」においても、その完了が過去における事態の完了=終結を意味するのか、現在に
おける事態の継続を表すのかという区別は、その動詞が表す現実界での時間的長さによっ
- 16 -
て決まる。すなわち、「変化」あるいは「働きかけ」が一時的なものであれば事態の完了
を、継続的なものであれば事態の継続を表す。「働きかけ」のみを表す他動詞においては、
「打つ」のような行為は現実界において一時的なものなので、その過去分詞は過去におけ
る事態の完了を表す。それに対し「愛する」のような行為は現実界において継続的なもの
なので、その過去分詞は現在における事態の継続を表す。しかし「愛する」という行為も
現実界において一時的な場合もありうるので、その場合には、過去分詞は「打たれた」と
同様、過去における事態の完了=終結を表す。逆に、「打つ」のような行為も反復という
一種の継続的行為となる可能性もあり、その場合は、過去分詞は「打たれている」という
事態の継続を表すことになる。また、一般に「変化」は瞬時的に生じるので、「変化」を
表す動詞の過去分詞は過去における事態の完了の結果を表す。しかしその「変化」が
quälen
のように継続的であれば、過去分詞は事態の継続を表す。しかしさらにその
quälen も一時的なものであれば、「打たれた」と同様、「苦しめられた」という過去にお
ける事態の完了=終結を表すのである。
いずれにしても、完了=終結なのか、完了=継続なのかという区別は、その表現が現実
界でのどのような時間を持つ事態を表すのかによるのであり、完了相動詞が非完了相動詞
として用いられることもあれば、またその逆もある。そして、過去分詞は単に「完了」を
表すだけである。
1. 1. 1. 6 「受動の分詞」としての非過去的な過去分詞
完了相他動詞の過去分詞が、事態の完了したあとの状態「~された、~してある」を表
さず、「~される」という未来、あるいは特定の時点に結びつけられない、非過去的・未
来的・無時間的受動を表すように見える場合がある。
(21) Erinnere ich mich an etwas, was ich gestern erfahren habe, so habe ich eine
Phantasievorstellung von dem gestern erfahrenen Vorgang (Husserl 18)(私が昨日経験した
ことを思い出す場合、私は昨日経験された〔自分が経験した〕出来事についての想像の
観念を持つのである)
(22) Die Melodie nehmen wir wahr. Es ist eine Folge von Wahrnehmungen: 1) mit Beziehung
auf [...] 2) mit Beziehung auf die mit den schrittweise gegebenen Tönen auch „erlebten“
zeitlichen Verhältnisse. Sie werden erlebt, indem die geänderten Inhalte, die von den
vergangenen Tönen herrühren, in der Weise der Vergangenheit aufgefaßt werden (Husserl 18)
(旋律を我々は知覚する。それは知覚の連続である。すなわち、1)
て。2)
〔……〕に関連し
次々と与えられる音とともに「体験される」時間的関係に関連して。この時間
的関係は、過ぎ去った音に起因する内容の変化が過去というあり方で統覚されることに
よって体験される)
erfahren や erleben はいずれも完了相他動詞であり、意味的にも近似しているが、上の(21)
の過去分詞 erfahren
が「(昨日)経験された」という過去の事態を明確に表すのに対
し、(22) の erlebt は特定の時点に結びつけられない無時間的事態「体験される」を表す。
- 17 -
勿論、後者の erlebt も、あくまで「体験された」という過去の事態を表すと解釈するこ
とは可能である。つまり、「知覚の連続」が生じた時点においては、すでに「時間関係」
の「体験」は行われていたという意味で相対的過去の事態を表すというように。しかし、
あとに続く sie werden erlebt という文が同じ事態を指し、その事態が無時間的であって、
特に相対的過去を意味しないとすれば、問題の過去分詞 erlebt
は特に相対的過去を表す
わけではなく、単に無時間的事態を表すと考える方が自然である。
さらに非完了相他動詞の過去分詞も非過去的・無時間的事態を表すことが可能である。
(23)Der Neujahrsgruß aus dem Epheserbrief aber bleibt bei dieser Aufforderung zu einem Leben
in Liebe nicht stehen, sondern er benennt auch das, was uns liebesfähig macht, nämlich daß wir
geliebte Menschen sind, von Gott geliebte Menschen.(エペソ人への手紙から引いた新年の
挨拶は、しかし愛の中にある生活をこのように要求するに留まらず、我々に愛を可能に
するもの、つまり我々が愛される者であること、神によって愛される者であることをも
彼は挙げる)(Mannheimer Morgen 31.12. 1997, IDS)
このような非過去的・無時間的過去分詞は、他動詞においてしか現れない。すなわち、
自動詞において、例えば、ein gestorbener Mann が「〔これから〕死ぬ男」を表すことは
ない。「死ぬ男」は現在分詞によって ein sterbender Mann と言わねばならない。完了相
他動詞の過去分詞が「~された」ではなく「~される」を表し、非完了相他動詞の過去分
詞も「~されている」のみならず「~される」を表すとすれば、現在分詞は「~する」お
よび「~している」を表すのだから、結局、他動詞の過去分詞は、「能動」の現在分詞に
対する「受動」の分詞としての機能を果たすということができる。
(24) Das Ticken der Uhr - die akusitische Großaufnahme gewissermaßen -, in der richtigen
Beziehung zu den Vorgänge der Handlung verwendet, vermag im Film fast unerträgliche
Spannung oder Erwartung zu erzeugen. Die zufallende Tür läßt das Endgültige einer
Entscheidung besonders eindringlich werden, das vom Sturmwind aufgerissene Fenster kündet
erschreckende Geschehnise an(時計のカチカチという音- いわば大写しにした音響効
果とでも云ったようなもの-が劇の筋の或る打ってつけの箇所に用いられると、映画
などでは、ほとんど息の根もとまらんばかりの緊迫感、ないし期待感を生ぜしめる。扉
がバタリとしまる音は、何か恐ろしい問題にハッキリとした決着がついたことを暗示す
るのに特に有効である。突風のために窓がパッと開くということは、何か恐ろしいこと
が生じたという表現には持って来いである)(Z. 1940, 関口 1962, 第 3 巻: 571)
上の訳文は関口自身によるものであるが、
12)
これを修飾関係をドイツ語に合わせて訳せば、
die zufallende Tür は「バタリと閉まる扉」、das vom Sturmwind aufgerissene Fenser は「突
風によってパッと開かれる窓」となる。いずれにしても、 aufgerissen は「パッと開かれ
た」という過去の事態ではなく「パッと開かれる」という非過去的・無時間的事態を表し、
現在分詞 zufallend「バタリと閉まる」と並置して用いられていることから分かるように、
能動の分詞としての現在分詞に対する「受動」の分詞の機能を果たしている。
- 18 -
このような非過去的・無時間的事態を表す過去分詞および現在分詞を含めてその意味を
表にまとめると、次のようになる。
完了相
非完了相
現在分詞
能動・未来/非過去
能動・事態継続/非過去
自動詞過去分詞
能動・結果状態
-
他動詞現在分詞
受動・結果状態/非過去
受動・事態継続/非過去
またこれを、意味に基づいて表にすると次のようになる。
過去の事態の結果状態
現在の動作継続
非過去的・無時間的事態
能動
完了相自動詞の過去分詞
非完了相動詞の現在分詞
現在分詞一般
受動
完了相他動詞の過去分詞
非完了相他動詞の過去分詞
過去分詞一般
このように見ると、他動詞の過去分詞は単に「受動」分詞であって、それが表す時間は
過去なのか非過去なのか特に表さないという見方もできる。しかし、 das aufgerissene
Fenster はやはり「パッと開かれた窓」を表すのが基本であり、上例 (24) のように非過去
的・無時間的に「パッと開かれる窓」を表す用法はあくまで文脈に依存していると考える
べきであろう。なぜなら、他動詞においても自動詞においても過去分詞の形成法において
は形態論上の差異がなく(すなわち、sterben - gestorben/werfen - geworfen のように同一の
形態素および母音交代等によって形成される)、完了相自動詞の過去分詞は決して非過去
的・無時間的な事態を表すことはなく、常に過去の事態の結果状態を表すからである。し
かし、上のような過去を表さない「受動」の分詞としての完了相他動詞の過去分詞の存在
は、完了形の原初的意味の考察において無視することはできない。
1. 1. 1. 7 能動を表す他動詞の過去分詞
上で見た過去分詞以外に、他動詞でありながら、受動ではなく能動を表す特殊な過去分
詞が存在する。例えば、 erfahrener Arzt
は「経験豊富な、熟達した医師」を意味する。
erfahren は本来、知覚動詞と同様、対格で表されるものが主格で表されるものに移動する
という意味で「変化」を表す他動詞である。従って、過去分詞 erfahren は gesehen と同
様、受動の「経験された」を意味するのが自然である。
(25)
Erinnere ich mich an etwas, was ich gestern erfahren habe, so habe ich eine
Phantasievorstellung von dem gestern erfahrenen Vorgang (Husserl 18)(私が昨日経験した
ことを思い出す場合、私は昨日経験された〔自分が経験した〕出来事についての想像の
観念を持つのである)(= (21))
それに対して、erfahrener Arzt は gestorben「死んだ」のように「変化」を表す自動詞の過
去分詞のような能動の意味を持つ。このように、本来「変化」の自動詞ではない場合でも、
- 19 -
その行為を完了した時点でその行為者がその「変化」の内容がいかなるものか、社会的に
認知されるような「変化」を果たすと見なされる場合には、能動の過去分詞が形成される
と考えられる。
(26) Es muß überhaupt weit mehr noch Allgemeingut werden für Lehrlinge, Gesellen und
Meister im Handwerk, für alle Arbeiter, gelernte und ungelernte in der Fabrik (Bichsel 73)(そ
もそもそれはさらになお、手工業の徒弟、職人、親方にとって、工場のすべての労働者、
熟練した者にとっても熟練していない者にとっても、共有財産にならねばならない)
他にも、geschworener Richter「宣誓した裁判官」、gedienter Soldat「退役軍人」(以上、
Paul 1968: 77 f. より)、studierte Frau「大学出の女性」等の例が挙げられる。Paul は、
gelernt が「熟練した」を表すのは、lernen と lehren の混同によるかもしれないと言うが、
意味的に近似する studierte Frau「大学出の女性」のような例を見ると、lernen と lehren
の混同を想定する必要はなさそうである。いずれにしても、これらの例は、過去分詞が本
来、能動・受動の区別とは無関係であることを示す。そして、gesehener Mann が同じよう
に「見た男」にならないのは、「見る」という行為の完了によって行為者に生じる「変
化」が、特定の意味を持つものとして社会的に認知されないためであろう。もしも「見
る」という行為を行ったか、まだ行っていないかが社会的に特別の地位を示す事柄ならば、
gesehen も能動の「見た」を表すことはありうると思われる。
もう一つ考えられることは、再帰動詞との関連である。例えば üben「訓練する」は、
Klavier üben「ピアノを練習する」のような他動詞の用法以外に、jn. üben「ある人を訓練
する」のような他動詞の用法や、sich üben「自らを訓練する」という再帰的用法を持つ。
そして geübt「熟達した」は、jn. üben のような他動詞の過去分詞の可能性とともに、再
帰動詞 sich üben の過去分詞である可能性もある。自動詞は sich müde laufen「走って(自
分が)疲れる」のように「変化」を表す再帰動詞の用法が可能な場合があるが、もし
lernen を Deutch lernen のような他動詞ではなく自動詞と見て、これが自動詞の再帰動詞
としての用法として sich lernen「学んで(自分が)熟練する」を意味することがあると仮
定すれば、sich üben から geübt が作られるように、gelernt 「熟練した」が作られるのは
不自然ではない。
1. 2 ゴート語の過去分詞
現代ドイツ語の過去分詞の分類に基づき、ゴート語の過去分詞を分類する。13)
タイプ 1
「変化」を表す自動詞
14)
過去の事態を表すもの
frawaurþans(駄目になった)(2 Tim 3, 8)(< frawairþan 駄目になる)(κατεφθαρμένος = part.
perf. pass. < καταφθείρω 駄目にする)
gaqumans(来た)(L 5, 17; 8, 4)(< gaqiman 来る)(L 5, 17: συνεληλυθώς = part. perf.; L 8,
- 20 -
4: συνιόν = part. praes. < σύνειμι 一緒にいる)
garunnans(走って集まった)(Mc 1,33)(< garinnan 走って集まる)(επισυνηγμένος
¹
= part.
perf. pass. < επισυνάγω
¹
集める)
gaþaursans(萎えた)(Mc 3, 1; 3) (<gaþairsan 枯れる)(εξηραμμένος
¹
= part. perf. pass. <
ξηραίνω 枯らす)
inrauhtiþs(激した)(J 11, 38)(< inrauhtjan 激する)(εμβριμώμενος
¹
= part. praes. <
εμβριμάομαι
¹
憤激する)
qumans(来た)(Mc 9, 1; J 6, 51 usw.)(< qiman 来る)(Mc 9, 1: εληλυθώς
¹
= part. perf; J 6,
51: καταβάς = part. aor.)
urrisans(甦った)(2 Tim 2, 8)(< urreisan 甦る)(εγηγερμένος
¹
= part. perf. pass. < εγείρω
¹
起
こす)
usgaggans(出た)(Mc 7, 30)(< usgaggan 出る)(εξεληλυθώς
¹
= part. perf.)
uswahsans(大人になった)(J 9, 21; 23)(< uswahsjan 大人にる)(uswahsans ist = ηλικίαν
¨
εχει
à 適齢を持つ)
uskijans(発芽した)(L 8, 6)(< uskeinan)(φυείς 生え出た = part. aor. pass. < φύω 生む)
waurþans(生じた)(Mt 11, 21; 23; Mc 5, 14; 6, 26; L 8, 34; 9, 7; Phil 2, 7; 8 usw.)(<
wairþan 生じる)(Mc 5, 14: γεγονώς = part. perf.; L 8, 34: γεγενημένος = part. perf.; Mt 11,
21; 23; Mc 6, 26; Phil 2, 7; 8: γενόμενος = part. aor.; L 9, 7: γινόμενος = part. praes. <
γίνομαι)
非過去の事態を表すもの
diwans(死ぬべき)(1 Kor 15, 53; 54; 2 Kor 5, 4)(< diwan 死ぬ)(θνητός 死ぬべき =
adj.)
galeikaiþs(気に入る)(R 12, 1; 2)(< galeikan 気に入る)(ευάρεστος
¹
気に入る = adj.)
タイプ 2
タイプ 2-a
「変化」か「働きかけ」のいずれかを表す他動詞
「変化」と「働きかけ」の両方を表す他動詞
過去の事態を表すもの
afairziþs(迷った) (< afairzjan 迷わせる)(αστοχήσας
¹
¤ = part. aor. < αστοχέω
¹
迷う)
afdauiþs(虐待された)(Mt 9, 36) (< *afdojan 虐待する)(εσκυλμένος
¹
= part. perf. pass.)
afhlaþans(積み重ねられた)(2 Tim 3, 6)(< afhlaþan 積む)(σεσωρευμένος = part. perf.
pass.)
afleitans(離縁された)(L 16, 18)(< afletan 解放する)(απολελυμένος
¹
= part. perf. pass.)
afsatiþs(離縁された)(Mt 5, 32) (< afsatjan 排除する)(απολελυμένος
¹
= part. perf. pass.)
aliþs(肥えた)(L 15, 23; 27;30)(< aljan 肥育する)(σιτευτός 太らされた = adj.)
aljaleikoþs(他の形で等しく表された、比喩的な)(Gal 4, 24)(< alajleikon 他の形で等し
く表す)(αλληγορούμενος
¹
= part. praes. pass.)
anabudans(命じられた)(L 17, 9; 10)(< anabiutan 命じる)(διατχθείς = part. aor. pass.)
- 21 -
anafulhans(伝えられた)(Mc 7, 9)(< anafilhan 伝える)(παράδοσις 伝えられたこと =
nomen)
anamahtiþs(暴力を加えられた)(2 Kor 7, 12)(< anamahtjan 暴力を加える)(αδικηθείς
¹
=
part. aor. pass.)
ananiwiþs(新しくなった)(Kol 3, 10)(< ananiwjan 新しくする)(ανακαινούμενος
¹
= part.
praes. pass.)
andbahtiþs(為された)(2 Kor 3, 3)(< andbahtjan 為す)(διακονηθίς = part. aor. pass.)
andhuliþs(覆われていない)(1 Kor 11, 5)(< andhuljan 覆いを取る)(ακατακάλυπτος
¹
覆い
のない = adj.)
atgibans(渡された、委ねられた)(J 6, 65; 19, 11)(< atgiban 渡す、委ねる)(δεδομένος =
part. perf. pass.)
bibundans(包まれた)(J 11, 44)(< bibindan 包む)(περιεδέδετο = pluq. pass. < περιδέω 巻き
つける)
bigitans(認められた)(Phil 2, 8)(< bigitan 見出す)(ευρεθείς
¨
= part. aor. pass.)
bimaitans(割礼を受けた)(1 Kor 7, 18; Gal 6, 13)(< bimaitan 割礼する)(περιτετμημένος =
part. perf. pass.)
bisauliþs(汚れた)(Tit 1, 15)(< bisauljan 汚す)(μεμιαμμένος = part. perf. pass.)
biskabans(髪を剃られた)(1 Kor 11, 5)(< biskaban 剃る)(εξυρημένος
¹
= part. perf. pass.)
biwaibiþs(〔服を身に〕まとった)(Mc 14, 51)(< biwaibjan 巻きつける)(περιβεβλημένος =
part. perf. pass.)
biwundan(くるまった)(L 2, 12)(< biwindan 巻きつける)(εσπαργανωμένος
¹
= part. perf.
pass.)
botiþs(益を受けた)(Mc 5, 26)(< batjan 益を与える)(ωφεληθείς
¹
= part. aor. pass.)
daupiþs(洗礼を受けた)(L 7, 30)(< daupjan 洗礼する)(βαπτισθείς = part. aor. pass.)
digans(土を捏ねて作られた)(2 Tim 2, 20)(< digan 土を捏ねて作る)(οστράκινος
¹
粘土製
の = adj.)
fauragahaitans(前もって約束された) (2 Kor 9, 5)(< fauragahaitan
前に約束する )
(προκατηγγελμένος = part. perf. pass.)
fauragaredans(前もって定められた) (Eph 1, 11)(< fauragaredan 前もって定める )
(προορισθείς = part. aor. pass.)
faurqiþans(許された)(L 14, 18; 19)(< faurqiþsan 許す)(παρη,τημένος = part. perf. pass.)
fodiþs(育てられた)(L 4, 16)(< fodjan 育てる)(τεθραμμένος = part. perf. pass.)
frabauhts(売られた)(R 7, 14) (< frabugjan 売る)(πεπραμένος = part. perf. pass.)
frahunþans(囚われた)(L 4, 19)(< frahinþan 捕らえる)(αιχμάλωτος
¹
囚われの = adj.)
framaþiþs(離された)(Kol 1, 21)(< framaþjan 離す)(απηλλοτριωμένος
¹
= part. perf. pass.)
fraqiþans(呪われた)(Mt 25, 41; J 7, 49) (< fraqiþan 呪う)(Mt 25, 41: κατηραμένος = part.
perf. pass.; J 7, 49: επικατάρατος
¹
¤
呪われている = adj.)
frawardiþs(腐った)(1 Tim 6, 5)(< frawardjan 腐らせる)(διεφθαρμένος = part. perf.
pass.)
frawaurpans(追い散らされた)(Mt 9, 36)(< frawairpan 投げ捨てる)(ερριμμένος
¹
= part.
- 22 -
perf. pass.)
frawulwans(引き離された)(2 Kor 12, 2; 4)(< frawilwan 引き離す)(αρπαγείς
¨
= part. aor.
pass.)
gaain[an]aiþs(分けられた)(1 Th 2, 17)(< gaainan 分ける)(απορφανισθείς
¹
= part. aor. pass.
< απορφανίζω
¹
孤児にする)
gaarmaiþs(憐れみを受けた)(1 Kor 7, 25)(< gaarman 憐れむ)(ηλεημένος
¹
= part. perf.
pass.)
gabairhtiþs(明らかにされた)(2 Kor 11, 6)(< gabairhtjan 明らかにする)(φανερωθείς =
part. aor. pass.)
gabaurans(生まれた)(J 9, 32; Gal 4, 29)(< gabairan 生む)(J 9, 32: γεγεννημένος = part.
perf. pass.; Gal 4, 29: γεννηθείς = part. aor. pass.)
gabugans(曲げられた)(Mc 5, 4)(< gabiugan 曲げる)(eisarnam bi fotuns gabuganaim 足に
曲げられた鉄で: πέδαις 足かせで)
gabundans(つながれた、結ばれた)(Mc 11, 2; 4; 15, 7; L 19, 30; J 11, 44; 18, 24)(<
gabindan つなぐ、結ぶ)(δεδεμένος = part. perf. pass.)
gadrabans(掘られた)(Mc 15, 46)(< gadraban 掘る)(λελατομημένος = part. perf. pass.)
gafrisahtiþs(写し取られた)(2 Kor 3, 7)(< gafrisahtjan 写し取る)(εντετυπωμένος
¹
= part.
pef. pass.)
gahamoþs(〔服を〕着た)(1 Th 5, 8)(< gahamon 〔服を〕着せる)(ενδυσάμενος
¹
= part.
aor. med.)
gahuliþs(覆われた)(Mt 10, 26; L 9, 45; 2 Kor 4, 3; 3) (< gahuljan 覆う)(Mt 10, 26; 2 Kor
4, 3; 3: κεκαλυμμένος = part. perf. pass.; L 9, 45: παρακεκαλυμμένος = part. perf. pass)
gakunnaiþs(知られた)(Gal 4, 9)(< gakunnan 知る)(γνωσθείς = part. aor. pass.)
gakusans(認められた)(R 14, 18; 2 Kor 10, 18 usw.)(< gakiusan 適切か試す)(δόκιμος 試
験済みの、確かな = adj.)
galagiþs(〔獄に〕入れられた)(L 2, 12; Sk 3, 2 = J 3, 24) (< galagjan 置く)(L 2, 12:
κείμενος = part. praes. < κε^ιμαι 横たわっている、ある; Sk 3, 2: βεβλημένος = part. perf.
pass. < βάλλω 投ずる)
galaisiþs(教えられた)(1 Th 4, 9)(< galaisjan 教える)(at guþa uslaisiþs 神に教えられた:
θεοδίδακτος 神に教えられた = adj.)
galaþoþs(召された)(1 Kor 1, 24)(< galaþon 招聘する)(κλητός = adj.)
galausiþs(解放された)(L 1, 74)(< galausjan 解放する)(ρυσθείς
¸
= aprt. aor. pass.)
gamalwiþs(打ちひしがれた)(L 4, 18)(< gamalwjan 押しつぶす)(συντετριμμένος = part.
perf. pass.)
gamanwiþs(準備された)(L 6, 40; R 9, 22; 2 Kor 9, 3; 2 Tim 2, 21; 3, 17)(< gamanwjan 準
備する)(L 6, 40; R 9, 22: κατηρτισμένος = part. perf. pass.; 2 Kor 9, 3: παρεσκευασμένος =
part. perf. med.; 2 Tim 2, 21: ητοιμασμένος
¸
= part. perf. pass.; 2 Tim: εξηρτισμένος
¹
= part. perf.
pass.)
gamaurgiþs(切りつめられた)(R 9, 28)(< gamaurgjan 切りつめる)(συντετμημέυος = part.
perf. pass.)
- 23 -
gameliþs(書かれた)(Mt 8, 17; Mc 12, 10; 15, 28; L 4, 17; 18, 31; 20, 17; J 6, 31; 45; 10,
34; 12, 14; 16; 15, 25; R 10, 11; 1 Kor 15, 54; 2 Kor 3, 2; 3; 4, 13)(< gameljan 書く)(Mt 8,
17: ρηθείς
¸
= part. aor. pass.; Mc 12, 10; 15, 28; R 10, 11: γραφή 書物 = nomen; 2 Kor 3, 2; 3:
εγγεγραμμένος
¹
= part. perf. pass.; 他: γεγραμμένος = part. perf. pass.)
ganaitiþs(侮辱された)(Mc 12, 4) (< ganaitjan 侮辱する) (ητιμωμένος
¹
= part. perf. pass.)
ganasiþs(救われた)(Eph 2, 5; 8)(< ganasjan 救う)(σεσωσμένος = part. perf. pass.)
ganawistroþs(葬られた)(Kol 2, 12)(< ganawistron 葬る)(συνταφείς = part. aor. pass.)
ganohiþs(満足した)(Phil 4, 11)(< ganohjan 満足させる)(αυτάρκης
¹
満足している =
adj.)
gapaidoþs(〔服を〕来た)(Eph 6, 14)(< gapaidon 〔服を〕着せる)(ενδυσάμενος
¹
= part.
aor. med.)
garaþans(数えられた)(Mt 10, 30) (< garaþjan 数える)(ηριθμημένος
¹
= part. perf. pass.)
gasaihwans(見られた)(L 9, 31)(< gasaihwan 見る)(οφθείς
¹
= part. aor. pass.)
gasaliþs( 供 物 と し て 供 え ら れ た ) (1 Kor 8, 10)(< gasaljan
供物として供える)
(galiugagudam gasaliþs 偶像に供えられた: ιερόθυτος
¸
神に供えられた = adj.)
gasatiþs(立てられた、定められた)(L 7, 8; R 13, 1; Eph 1, 11)(< gasatjan 立てる、定め
る)(L 7, 8: τασσόμενος = part. praes. pass. < τάσωσ 職につける; R 13, 1: τεταγμένος = part.
perf. pass.; Eph 1, 11 hlauts gasatidai wesum 〔神の〕分け前に与るよう定められた:
εκληρώθημευ
¹
= aor. pass. < κληρόω くじで定める、割り当てる)
gaskapans(作り出された)(Eph 4, 24)(< gaskapjan 作り出す)(κτισθείς = part. aor. pass.)
gastrawiþs(広げられた)(Mc 14, 15)(< gastraujan まき散らす)(εστρωμένος
¹
= part. perf.
pass.)
gasuliþs(根づけられた)(Eph 3, 18)(< gasuljan 根づける)(τεθεμελιωμένος = part. perf.
pass.)
gasupoþs(味付けられた)(Kol 4, 6)(< gasupon 味付けする)(ηρτυμένος
¹
= part. perf.
pass.)
gaswikunþiþs(明らかになった)(2 Tim 1, 10)(< gaswikunþjan 知らせる)(φανερωθείς =
part. aor. pass.)
gataihans(知らされた) (L 2, 26; 18, 14)(< gateihan
告げ知らせる )( L 2, 26:
κεχρηματισμένος = part. perf. pass.; L 18, 14 garaihtoza gataihans より正しいと認められた:
δεδικαιωμέυος = part. perf. pass. < δικαιόω 正しいと思う)
gatandiþs(焼き印を押された)(1 Tim 4, 2)(< gatandjan 焼き印を押す)(κεκαυστηρισμένος
= part. perf. pass.)
gatarhiþs(印づけられた、難のある、悪名高い)(Gal 2, 11; Mt 27, 16)(< gatarhjan 印づけ
る)(Gal 2, 11: κατεγνωσμένος = part. perf. pass.; Mt 27, 16: επίσημος
¹
= adj.)
gatarniþs(奪われた)(1 Tim 6, 5)(< gatarnjan 奪う)(απεστερημένος
¹
= part. perf. pass.)
gatewiþs(選択により定められた) (2 Kor 8, 19)(< gatewjan
選択により定める )
(χειροτονηθείς = part. aor. pass.)
gatulgiþs(堅固な)(Kol 1, 23; 2 Kor 1, 6)(< gatulgjan 固くする)(εδραιος
¸
¤ = adj.)
gaþwastiþs(確固とした)(Kol 1, 23)(< gaþwastjan 固くする)(τεθεμελιωμένος = part. perf.
- 24 -
pass.)
gawaliþs(選ばれた)(Mc 13, 20; 22; 27)(< gawaljan 選ぶ)(εκλεκτος
¹
= adj.)
gawasiþs(〔服を〕着た)(Mt 11, 8; Mc 1, 6; 5, 15; L 7, 25)(< gawasjan 〔服を〕着せる)
(Mt 11, 8; L 7, 25: ημφιεσμένος
¹
= part. perf. pass.; Mc 1, 6: ενδεδυμένος
¹
= part. perf. med.;
Mc 5, 15: ματισμένος
¸
= part. perf. pass.)
gawaurhts(作り出された)(Eph 3, 18)(< gawaurkjan 作り出す)(ερριζωμένος
¹
= part. perf.
pass.)
gaweihaiþs(浄められた)(2 Tim 2, 21)(< gaweihan 浄める)(ηγιασμένος
¸
= past. perf.
pass.)
gawigans(動かされた)(L 6, 38)(< gawigan 動かす)(σεσαλευμένος = part. perf. pass.)
gibans(与えられた)(Mc 6 ,2; 2 Kor 8, 1; Gal 2, 9; Eph 3, 7; 2 Tim 1, 9)(< giban 与える)
(Mc 6 ,2; Gal 2, 9; Eph 3, 7; 2 Tim 1, 9: δοθέις = part. aor. pass.; 2 Kor 8, 1: δεδομένος =
part. perf. pass.)
haitans(招かれた)(L 14, 17; 24)(< haitan 呼ぶ)(κεκλημένος = part. perf. pass.)
inliuhtiþs(明るく照らされた)(Eph 1, 18)(< inliuhtjan 明るく照らす)(πεφωτισμένος =
part. perf. pass.)
insaians(中に蒔かれた)(Mc 4, 15)(< insaian 中に蒔く)(εσπαρμένος
¹
= part. perf. pass.)
insandiþs(送られた、遣わされた)(L 7, 10; 19, 32; J 9, 7)(< insandjan 送る、遣わす)(L
7, 10: πεμφθείς = part. aor. pass.; L 19, 32; J 9, 7: απεσταλμένος
¹
= part. perf. pass.)
laisiþs(教えられた)(J 6, 45)(< laisjan 教える)(διδακτός = adj.)
manwiþs(準備された)(Mt 25, 41) (< manwjan 準備する)(ητοιμασμένος
¸
= part. perf.
pass.)
meriþs(伝えられた)(Kol 1, 23)(< merjan 伝える)(κηρυχθείς = part. aor. pass.)
miþfrahunþans(一緒に捕らえられた) (Kol 4, 10)(< miþfrahinþan
一緒に捕らえる )
(συναιχμάλωτος = adj.)
miþushramiþs(一緒に十字架にかけられた)(Mt 27, 44; Mc 15, 32)(< miþusframjan 一緒に
十字架にかける)(Mt 27, 44: συσταυρωθείς = part. aor. pass.; Mc 15, 32: συνεσταυρωμένος =
part. perf. pass.)
niujasatiþs(新たに置かれた、新たに信者となった)(1 Tim 3, 6)(< satjan 置く)(νεόφυτος
= adj.)
qiþans(言われた)(Mt 27, 9; L 2, 21)(< qiþan 言う)(Mt 27, 9: ηθείς
¸
= part. aor. pass.; L 2,
21: κληθείς = part. aor. pass.)
rodiþs(語られた)(L 1, 45; 2, 18)(< rodjan 語る)(L 1, 45: λελαλημένος = part. perf. pass.;
L 2, 18: λαληθείς = part. aor. pass.)
saians(蒔かれた)(Mc 4, 20)(< saian 蒔く)(σπαρείς = part. aor. pass.)
þiuþiþs(祝福を受けた)(Mc, 11, 9; 10; L 1, 42) (< þiuþjan 祝福する)(ευλογημένος
¹
= part.
perf. pass.)
þraihans(細い)(Mt 7, 14) (< þreihan 迫る)(τεθλιμμένος = part. perf. pass.)
ufargutans15)( 溢 れ る ほ ど 注 が れ た ) (L 6, 38)(< ufargiutan
(υπερεκχυννόμενος
¸
= part. praes. pass.)
- 25 -
溢れるほど注ぐ)
ufarhauhiþs(あまりに高慢になった)(1 Tim 3, 6)(< ufarhauhjan あまりに高慢にする)
(τυφωθείς = part. aor. pass.)
ufarmeliþs(上に書かれた)(Mc 15, 26)(< ufarmeljan 上に書く)(επιγεγραμμένος
¹
= part.
perf. pass.)
ufbauliþs(高慢になった)(2 Tim 3, 4)(< ufbauljan 膨らます、高慢にする)(τετυφωμένος
= part. perf. pass.)
ufdaupiþs(洗礼を受けた)(L 3, 21; 7, 29)(< ufdaupjan 洗礼する)(βαπτισθείς = part. aor.
pass.)
ufgaurdans(〔帯を〕締めた)(Eph 6, 14)(< ufgairdan 〔帯を〕巻く)(περιζωσάμενος =
part. aor. med.)
ufkunnaiþs(認められた)(2 Kor 6, 8)(< ufkunnan 認める)(αληθής
¹
= adj.)
unandhuliþs( 覆 い が 取 ら れ て い な い ) (2 Kor 3, 14)(< andhuljan
覆いを取る)
(ανακαλυπτόμενος
¹
= part. praes. pass.)
unbeistjoþs(発酵していない)(1 Kor 5, 7)(< beistjan 発酵させる)(αζυμος
à
= adj.)
unbimaitans(割礼されていない)(Eph 2, 11)(< bimaitan 割礼する)(ακροβυστία
¹
@ 無割礼の
者 = nomen)
ungakusans(不適切と認められた)(2 Kor 13, 5 usw.)(< gakiusan 適切か試す)(αδόκιμος
¹
=
adj.)
unliugaiþs(結婚していない)(1 Kor 7, 11)(< liugan 結婚する)(αγαμος
à
= adj.)
unþwahans(洗われていない)(Mc 7, 2)(< þwahan 洗う)(ανιπτος
à
= adj.)
unuslaisiþs(学のない)(J 7, 15)(< uslaisjan 教える)(μεμαθηκώς = part. perf. < μανθάνω 学
ぶ)
usfulliþs(満ちた)(J 16, 24: 17, 13)(< usfulljan 満たす)(πεπληρωμένος = part. perf. pass.)
ushramiþs(十字架につけられた)(1 Kor 1, 23; Gal 3, 1)(< ushramjan 十字架につける)
(εσταυρωμένος
¹
= part. perf. pass.)
uslukans(開かれた)(2 Kor 2, 12)(< uslukan 開く)(ανε
¹ %γμένος = part. perf. pass.)
uslutoþs(惑わされた)(1 Tim 2, 14)(< usluton 惑わす)(απατηθείς
¹
= part. aor. pass.)
usqisiþs(殺された)(Mc 9, 31)(< usqistjan 殺す)(αποκτανθείς
¹
= part. aor. pass.)
ustauhans(完成された)(L 4, 2; J 17, 23; 1 Kor 13, 10; 2 Tim 3, 17)(< ustiuhan 完成する)
(L 4, 2: συντελεσθείς = part. aor. pass.; J 17, 23: τετελειωμένος = part. perf. pass.; 1 Kor 13,
10: τέλειος = adj.; 2 Tim 3, 17: αρτιος
à
= adj.)
uswaurpans(投げ出された)(J 12, 42)(< uswairpan 投げ出す)(us synagogein uswaurpans
会堂から追い出された: αποσυνάγωγος
¹
会堂から除名された = adj.)
wairþoþs(値をつけられた) (Mt 27, 9) (< wairþon 値をつける)(τετιμημένος = part. perf.
pass.)
wasiþs(〔服を〕着た)(Mt 11, 8) (< wasjan 〔服を〕着せる)(φορούς@ = part. praes.)
継続的事態を表すもの
afagiþs(不安になっている)(Phil 1, 28)(< afagjan 不安にする)(πτυρόμενος = part. praes.
pass.)
- 26 -
anahabaiþs(〔病気に〕かかっている)(L 4, 38; 6, 18)(< anahaban とらえている )( L 4,
38: συνεχόμενος = part. praes. pass.; L 6, 18: οχλούμενος
¹
= part. praes. pass.)
anakunnaiþs(読まれている)(2 Kor 3, 2)(< anakunnan 読む)(αναγινωσκόμενος
¹
= part.
praes. pass.)
anapraggans(苦しめられている)(2 Kor 7, 5)(< anapraggan 圧迫する)(θλιβόμενος = part.
praes. pass.)
balwiþs(苦しんでいる)(Mt 8, 6)(< balwjan 苦しめる)(βασανιζόμενος = part. praes.
pass.)
fraisans(試みにあう)(Mc 1, 13; L 4, 2)(< fraisan 試みる)(πειραζόμενος = part. praes.
pass.)
gauriþs(悲しんでいる)(2 Kor 2, 2)(< gaurjan 苦しめる)(λυπούμενος = part. praes.
pass.)
hafans(抱えられている)(Mc 2, 3)(< hafjan 抱える)(αιρόμενος
¹
= part. praes. pass.)
haitans(呼ばれている)(L 6, 15; 19, 2; J 9, 11)(< haitan 呼ぶ)(L 6, 15; 19, 2: καλούμενος
= part. praes. pass.; J 9, 11: λεγόμενος = part. praes. pass.)
haldans(飼われている)(Mt 8, 30; Mc 5, 11; L 8, 32)(< haldan 飼う)(βοσκόμενος = part.
praes. pass.)
innwaurpans(中に入れられている)(J 12, 6)(< innwairpan 中に放り込む)(βαλλόμενος =
part. praes. pass.)
kauriþs(苦しんでいる)(2 Kor 5, 4)(< kaurjan 重荷を背負わす)(βαρούμενος = part. praes.
pass.)
namniþs(呼ばれている)(L 7, 11; 9, 10; 1 Kor 5, 11; Eph 2, 11; 11)(< namnjan 呼ぶ)(L 7,
11; 9, 10: καλούμενος = part. praes. pass.; 1 Kor. 5, 11: ονομαζόμενος
¹
= part. praes. pass.; Eph
2, 11; 11: λεγόμενος = part. praes. pass.)
talziþs( 指 導 さ れ て い る 、 懲 罰 を 受 け て い る ) (2 Kor 6, 9)(< talzjan
教育する)
(παιδευόμενος = part. praes. pass.)
usagiþs(恐れている)(Mc 9, 6)(< usagjan 恐れさせる)(εκφοβοςέ
ã
= adj.)
非過去の事態を表すもの
afagiþs(不安になる)(Phil 1, 28)(< afagjan 不安にする)(πτυρόμενος = part. praes. pass.)
afdauþiþs(殺される)(2 Kor 6, 9)(< afdauþjan 殺す)(θανατούμενος = part. praes. pass.)
afmauiþs(無気力になる、疲れる)(Gal 6, 9)(< *afmojan 無気力にする)(εκλυόμενος
¹
=
part. praes. pass.)
afslauþiþs(不安になる)(2 Kor 4, 8)(< afslauþjan 不安にする)(εξαπορούμενος
¹
= part.
praes. pass.)
afwagiþs(動かされる)(Kol 1, 23)(< afwagjan 動かす)(μετακινούμενος = part. praes.
med.)
andbahtiþs(なされる)(2 Kor 8, 19; 20)(< andbahtjan 行う)(διακονούμενος = part. praes.
pass.)
andbitans(脅かされる)(2 Kor 4, 8)(< andbeitan 脅かす)(απορούμενος
¹
= part. praes.
- 27 -
med.)
andnumans(受け取られる)(1 Tim 4, 4)(< andniman 受け取る)(λαυβανόμενος = part.
praes. pass.)
biliþans(見捨てられる)(2 Kor 4, 9)(< bileiþan 見捨てる)(εγκαταλειπόμενος
¹
= part. praes.
pass.)
bilaibiþs(残される)(1 Th 4, 15)(< bilaibjan 残す)(περιλειπόμενος = part. praes. pass.)
bimaitans(割礼を受ける)(Gal 5, 3)(< bimaitan 割礼する)(περιτεμνόμενος = part. praes.
pass.)
faurlagiþs(前に置かれる)(L 10, 8)(< faurlagjan 前に置く)(παρατιθέμενος = part. pares.
pass.)
fragistiþs(滅びる)(2 Kor 4, 9)(< fragistjan 滅ぼす)(απολλύμενος
¹
= part. praes. pass.)
gaaggwiþs(逼迫する)(2 Kor 4, 8)(< gaaggwjan 攻め立てる)(στενχωρούμενος = part.
praes. pass.)
gabrukans(裂かれる)(1 Kor 11, 24)(< gabrikan 裂く)(κλώμενος = part. praes. pass.)
gadrausiþs(倒される)(2 Kor 4, 9)(< gadrausjan 倒す)(καταβαλλόμενος = part. praes.
pass.)
gagahaftiþs(結び合わされる)(Eph 4, 16)(< gagahaftjan 結び合わせる)(συμβιβαζόμενος =
part. praes. pass.)
gagatiloþs( 組 み 合 わ さ れ る ) (Eph 2, 21; 4, 16)(< gagatilon
組み合わせる)
(συναρμολογούμενος = part. praes. pass.)
galagiþs(置かれる、入れられる)(Mt 6, 30)(< galagjan 置く)(βαλλόμενος = part. praes.
pass.)
gasaihwans(見られる)(2 Kor 4, 18; 18; Kol 1, 16)(< gasaihwan 見る)(2 Kor 4, 18; 18:
βλεπόμενος = part. praes. pass.; Kol 1, 16: οπατος
¸ V
= adj.)
gaskeiriþs( 訳 さ れ る ) (Mc 5, 41; 15, 22; 34)(< gaskeirjan
翻訳で説明する)
(μεθερμηνευόμενος = part. praes. pass.)
gaswinþiþs(強くされる)(Kol 1, 11)(< gaswinþjan 強くする)(δυναμούμενος = part. praes.
pass.)
gawasiþs(〔服を〕着る)(2 Kor 5, 3)(< gawasjan 〔服を〕着せる)(ενδυσάμενος
¹
= part.
aor. med.)
laisiþs(教えられる〔人〕)(Gal 6, 6)(< laisjan 教える)(κατηχούμενος = part. praes.
pass.)
miþkauriþs( 一 緒 に 苦 し め ら れ る ) (Phil 3, 10)(< miþkaurjan
一緒に苦しめる)
(συμμορφούμενος 同じ形をとる = part. praes. pass.)
namniþs(呼ばれる)(Eph 1, 21)(< namnjan 呼ぶ)(ονομαζόμενος
¹
= part. praes. pass.)
qiþans(言われる)(L 18, 34; 2 Th 2, 4)(< qiþan 言う)(λεγόμενος = part. praes. pass.)
saians(蒔かれる)(Mc 4, 16; 18)(< saian 蒔く)(σπειρόμενος = part. praes. pass.)
þraihans(圧迫される)(2 Kor 4, 8)(< þreihan 圧迫する)(θλιβόμενος = part. praes. pass.)
unbilaistiþs(追いつけない、捉えがたい)(R 11, 33)(< *bilaistjan < laistjan あとを追う)
(ανεξιχνίαστος
¹
= adj.)
- 28 -
unfairlaistiþs( 見 極 め が た い ) (Eph 3, 8)(< *fairlaistjan < laistjan
あとを追う)
(ανεξιχνίαστος
¹
= adj.)
ungasaihwans(見えない)(2 Kor 4, 18; Kol 1, 15; 16; 1 Tim 1, 17)(< gasaihwan 見る)
((μη)Ü βλεπόμενος = part. praes. pass.; Kol 1, 15; 16; 1 Tim 1, 17: αόρατος
¹
= adj.)
unusspilloþs(語り尽くせない)(R 11, 33; 2 Kor 9, 15)(< usspillon 表現し尽くす)(R 11,
33: ανεξερεύνητος
¹
= adj.; 2 Kor 9, 15: ανεκδιήγητος
¹
= adj.)
ungawagiþs(動かされない)(1 Kor 15, 58)(< gawagjan 動かす)(αμετακίνητος
¹
= adj.)
ushafans(上げられる)(2 Kor 10, 5)(< ushafjan 上げる)(επαιρόμενος
¹
= part. praes. pass.)
ushauhiþs(上げられる)(Mt 11, 23; L 10, 15)(< ushauhjan 上げる)(υψωθείς
¸
= part. aor.
pass.)
usluknans(開かれる)(Mc 1, 10)(< uslukan 開く)(σχιζόμενος = part. praes. pass.)
uswagiþs(動揺する)(Eph 4, 14)(< uswagjan 動揺させる)(κλυδωνιζόμενος = part. praes. <
κλυδωνίζομαι 翻弄される)
uswalugiþs(あちらこちらに追いやられる)(Eph 4, 14)((< uswalugjan あちらこちらに追
いやる)(περιφερόμενος = part. praes. pass.)
wagiþs(揺らぐ)(Mt 11, 7; L 7, 24)(< wagjan 揺り動かす)(σαλευόμενος = part. praes.
pass.)
wrikans(迫害される)(2 Kor 4, 9)(< wrikan 迫害する)(διωκόμενος = part. praes. pass.)
タイプ 2-b
「変化」を表さず、「働きかけ」を表す他動詞
過去の事態を表すもの
fraihans(質問された〔人〕)(L 17, 20)(< fraihnan 質問する)(επερωτηθείς
¹
= part. aor.
pass.)
usbluggwans(さんざん鞭打たれた) (2 Kor 11, 25)(< usbliggwan
さんざん鞭打つ )
(wandum usbluggwans was 鞭でさんざん打たれた: ερραβδίσθην
¹
= aor. pass. < ραβδίζω
¸
鞭
で打つ)
継続的事態を表すもの
frakunþs(軽蔑されている、取るに足らない)(2 Kor 10, 10)(< frakunnan 軽蔑する)
(εξουθενημένος = part. perf. pass.)
gasakans(非難されている)(L 3, 19)(< gasakan 非難する)(ελεγχόμενος
¹
= part. praes.
pass.)
mikiliþs(尊敬されている)(L 4, 15)(< mikiljan 尊敬する)(δοξαζόμενος = part. praaes.
pass.)
非過去の事態を表すもの
andsakans(反対される)(L 2, 34)(< andsakan 反対する)(αντιλεγόμενος
¹
= part. praes.
pass.)
þiuþiþs(誉め讃えられるべき)(2 Kor 1, 3)(< þiuþjan 誉め讃える)(ευλογητός
¹
= adj.)
- 29 -
ungafairinoþs(非難されない)(1 Tim 3, 10; 5, 7; 6, 14; Tit 1, 7)(< gafarinon 非難する)(1
Tim 3, 10; Tit 1, 7: ανέγκλητος
¹
= adj.; 1 Tim 5, 7; 6, 14: ανεπίλημπτος
¹
= adj.)
タイプ 2-c
「変化」を表し、「働きかけ」を表さない他動詞
過去の事態を表すもの
fralusans(失われた)(L 15, 4; 6; 24; 32)(< fraliusan 失う)(απολωλώς
¹
= part. 2 perf. <
απόλλυμι
¹
滅びる)
非過去の事態を表すもの
fralusans(失われる)(J 6, 27)(< fraliusan 失う)(απολλύμενος
¹
= part. praes. med. <
απόλλυμι
¹
滅ぼす)
いずれのタイプにも属さないもの
他動詞で受動ではなく能動、過去における完了した事態を表すもの
drugkans(酔っている)(1 Kor 11, 21; 1 Th 5, 7; 7)(< drigkan 飲む)(1 Kor 11, 21 drugkans
ist: μεθύει = praes. 酔っている; 1 Th 5, 7 þaiei drugkanai wairþand: οι¸ μεθυσκόμενοι = part.
praes. 酔った者; 1 Th 5, 7 drugkanai wairþand: μεθύουσιν = praes. 酔っぱらう)
与格目的語を取る自動詞で受動、過去における完了した事態を表すもの
uskusans(拒絶された〔人〕)(1 Kor 9, 27 usw.)(< uskiusan 〔ある人に対し〕拒絶する)
(αδόκιμος
¹
検査に不合格の = adj.)
過去現在動詞で、変化も働きかけも表さず、受動で現在における状態を表すもの
kunþs(知られている)(L 2, 44; J 18, 15; 16)(< kunnan 知っている)(γνωστός = adj.)
以上の分類から、ゴート語の過去分詞は現代ドイツ語の過去分詞と基本的に同じ意味を
持つことが分かる。現代語にない用法を示すものとして、変化を表す自動詞で非過去の事
態を表す diwans「死ぬべき」、 galeikaiþs「気に入る」や、与格目的語を取る自動詞の過
去分詞で受動を表す uskusans「拒絶された」や、変化も働きかけも表さない過去現在動
詞の過去分詞で受動の現在の状態を表す kunþs「知られている」のような例もあるが、そ
れらはあくまで特殊な例と言ってよいだろう。 drugkans「酔っている」のように他動詞の
過去分詞で能動を表す例は、1. 1. 1. 7 で見たように現代ドイツ語にも存在する。
いずれにしても、分類された過去分詞のうち、量的に中心をなすのは、変化と働きかけ
の双方を含意する他動詞から作られ、受動の過去の事態を表す過去分詞である。しかし、
時間という観点から見ると、継続的事態を表すものや、非過去的事態を表す例も少なくな
く、完了形の haben + 過去分詞が本当に「~を~された状態で持つ」というような意味
から発展したのかが考えられねばならない。
- 30 -
2. haben の意味
本章の冒頭で述べたように、haben の意味が「所有する」に限定されるのかは完了形の
原初的意味を知る上で重要な問題である。結論を先に述べれば、haben は besitzen と同義
ではない。Benveniste (1966: 194 f.) は haben, have, avoir のような動詞について次のように
言う。
avoir は他動詞の構造を持つ。が、それにもかかわらずそういうものではない。それは
疑似他動詞である。 avoir の主語と目的語との間には、観念が対象に向かいそれを変え
ると考えられるような他動的関係は存在しえない。〔……〕我々のように avoir を持つ
言語で avoir の示す関係を最も普通に表現するのは、反対に、動詞 avoir の文法的目的
語を主語にした être-à である。
つまり、haben には sein が内包され、A hat B (A = nom., B = acc.) は「A には B がある」
と読み変え可能だということである。この haben と sein の関係は、「折る」「折れる」の
両方に用いられる brechen のような動詞における他動詞的用法と自動詞的用法の関係や、
öffnen「開ける」、sich öffnen「開く」のような他動詞と再帰動詞の関係と類似している。
しかし、Benveniste (ibd.: 198) は haben (avoir)と sein (être) の違いについては次のように
述べる。
avoir が状態動詞と定義されるべきだとすると、同じく状態動詞で、状態動詞以外の何
物でもない être と、avoir はいかなる関係にあるのか。助動詞としての使用においてそ
れらが相補分布をなすならば、語彙的位置においてもそうであると仮定することができ
る。それらは確かにどちらも状態を表すが、同じ状態ではない。être は être するものの、
つまり、あるものであるものの状態である。avoir は avoir するものの、つまりあるもの
がそれにあるところのそれの状態である。違いはこうして明らかになる。それが結び付
ける二項の間に、être は同一性という内在関係を作り上げる。それは同一体の状態であ
る。反対に、 avoir が結び付ける二項は別々のもののままである。二項の間の関係は外
的であり、所属的と定義される。それは所有される物と所有する者との関係である。
ここで問題なのは、A hat B (A = nom., B = acc.)
における A と B の関係である。
Benveniste はこれを A が所有者 (possesseur)、B が被所有物 (le possédé) という所有関係に
帰している。しかし、haben (avoir) の意味を「所有」に限定することは、通常の意味での
「所有」を考える限り、誤っている。通常言われる「所有」(Besitzen, possession) とは、
「A が B を所有する」という場合に、「A にとって B が自由にできるものである」とい
うことであり、A
は B
の支配者、上位者である。この意味で「所有」を考える限り、
haben は「所有」の意味に限定されない。
そのことを Brinkmann (1971: 412 ff.) で見たい。彼はまず、hast du den Brief abgeschickt?
= ist der Brief abgeschickt?; heute haben wir schönes Wetter = heute ist schönes Wetter という
sein と
haben のパラフレーズを示し(但し、それぞれの後の文では人間の関与がないと
- 31 -
いう違いがある)、A hat B (A=nom., B=acc.) において A は所有代名詞で表される(例え
ば、Ich habe Gäste - Meine Gäste)と述べた上で次のように説明する。(ibd.: 414)
Wir hatten schönes Wetter - Ich habe keine Zeit - Ich habe Sorgen.
人間が手に持つわけではない現象(天気、時間、心配事)は、haben によってそれがそ
の人間にあるということが認められる。だからと言って、その現象がその人間の所有物
とは言えない。はっきり言えることは、せいぜい、その現象がその人間の一部を成す、
その現象がその人間の(利害関係の)領域((Interessen-) Sphäre)にあるということぐら
いである。文法的主語の周囲には haben によってある領域が作り上げられるのである。
このように、A hat B (A=nom., B=acc.) における A と B の関係を「所有」関係に限定する
ことは不適切である。Banveniste の言う「~には~がある」という読み替えは有効である
が、その関係を「所有」に限定してはならない。そして、このような「所有」以外の意味
は haben の特殊な意味ではない。例えば、ごくありふれた ich habe eine Schwester のよう
な例における haben は「所有」を意味しない。そしてこの haben の用法は昔から存在す
る。
(27) þaiei galaubjandans haband fraujans (Gotische Bibel: 1 Tim 6,2)(信仰する主人を持つ
者達)
(28) dû habês hême hêrron gôten (Hildebrandslied: 47)(あなたは故郷によい主人がいる)
(29) ni habu gomman (Tatian: 87, 5)(私に夫はありません)= J 4, 17: non habeo virum
(30) ni haben man, mittiu das uuazzer giruorit uuirdit, der mih sente in den uuiuuari (Tatian 88,
2)(水が動かされる時に、私を池に入れてくれる人が〔私には〕 い ない) = J 5, 7:
hominem non habeo, ut cum turbata fuerit aqua mittat me in piscinam
(31) habent Moysen inti uuizogon: horen sie (Tatian 107, 4)(彼ら〔金持ちの兄弟〕にはモ
ーセと預言者たちがある。それに聞き従えばよい)= L 16, 29: habent Moysen et
prophetas: audiant illos
(32) einan fater haben uuir, got (Tatian 131, 17)(私たちにある父は一人、神だけである)
= J 8, 41: unum patrem habemus, deum
(33) ir habet simbulun thurftigon mit îu, inti thanne ir uuolet, mugut in uuola tuon: mih ni
habet ir simbulun (Tatian 138, 5)(あなた達にはいつも貧しい人が一緒にいる。あなた達
が望めば、その人たちに慈善を施すことができる。私はいつもあなた達の所にいるわけ
ではない)= Mc 14, 7: nam semper pauperes habetis vobiscum [...] me autem non sempeer
habebitis
(34) uuir ni habemes cuning ni si then keisur (Tatian 198, 4)(我々には皇帝以外に王はいな
い)= J 19, 15: non habemus regem nisi Cesarem
A hat B においては、Brinkmann の言うように、B は A の「(利害関係の)領域」
(Interessen-) Sphäre にある。その「関係」の具体的内容は、上の ich habe eine Schwester の
タイプの例のように、対格自体が表す場合もある。しかしそれは対格を規定する語によっ
- 32 -
て示される場合もある。
(35) Richtige Verbrecher lesen keine Detektivromane, sie haben es auch nicht nötig (Alewyn
343)(本当の犯罪者は探偵小説は読まない。彼らはそれを必要としてもいない)
上の例では、対格 es を規定する語として nötig が用いられ、それが主格主語 sie との利
害関係の具体的内容を示す。このような例も古くから可能であった。
(36) alle habent Iohannem samaso uuîzagon (Tatian 123, 2)(皆にとってヨハネは預言者の
ようなものである)(124, 6 も同様)= Mt 21, 26: omnes enim habent Iohannem sicut
prophetam
上例では対格 Iohannem を規定する語として samaso uuîzagon「預言者のように」が用い
られている。
ここで完了形 haben + 過去分詞の原初的意味もある程度明らかになったと思われる。
すなわち、ich habe einen Brief geschrieben は原初的意味においては「私にとって一通の手
紙が書かれたものとしてある」を意味したであろうということである。16) 当然、この場合、
「手紙」が所有物である必要はない。しかし、この場合でも手紙を書いたのが誰なのかと
いう点は依然として不明である。この問題は古高ドイツ語期の haben + 過去分詞の具体
例を見て考察せねばならない。
3. ゴート語の sein/haben + 過去分詞
ゴート語における sein (wisan) + 過去分詞、haben (haban) + 過去分詞は完了形として独
自の意味を担うものではなく、 構成素の sein, haben, 過去分詞それぞれの自律的意味を
保っていた。
まず sein (wisan) + 自動詞の過去分詞の例を挙げる。
(37) uswahsans ist (J 9, 21; 23) (uswahsans < uswahsjan 大人になる)(彼は大人である)=
ηλικίαν
¸
εχει
Ã
(適齢期を持っている=成人している) = aetatem habet (適齢期を持っている
=成人している)
(38) so baurgs alla garunnana was at daura (Mc 1,33)(garunnana < garinnan 走って集ま
る)(町中の人が門の所に走り集まっていた)= επισυνηγμέ
¹
ηνÕ (επισυνηγμενη = 完受分 <
επισυναγω 集める、ηνÕ = imperf. < ειμί)
¹ = erat congregata (erat = imperf. < sum, congregata =
過去分詞 < congrego 集める)
次に haben (haban) + 過去分詞の例を挙げる。
(39) sa skatts þeins þanei habaida galagidana in fanin (L 19,20)(galagidana < galagjan 置
く)(私が袱紗の中にとっておいて持っていたあなたの宝)= ειχον
å
αποκειμένην
¹
(ειχον
å
=
- 33 -
imperf. < εχω,
Ã
αποκειμένην
¹
= part. praes. < αποκειμαι
¹
保管されている) = quam habui
repositam in sudario (repositam = part. perf. < repono 取っておく)
(40) habai mik faurqiþanana (L 14, 18; 19) (habai = imperativ < haban, faurqiþanana <
faurqiþan
許す )(私を 許されたものと見なしてください 〔失礼させてください〕) =
εχε
à με παρητημένον (εχε
à = imperativ < εχω,
Ã
παρητημένον = part. pass. perf. < παραιτέομαι 勘
弁してもらう) = habe me excusatum (habe = imperativ < habeo, excusatum = part. perf. <
excuso 弁護する)
(41) þata rodja in manasedai, ei habaina fahed meina usfullida in sis (J 17,13) (habaina = conj.
praes. < haban, usfullida < usfalljan 満たす)(〔彼らが〕私の喜びを自身の中で満たされ
た〔完全な〕状態で持つように、私はこのことをこの世で語る)= ίνα
¸ εχωσι
Ã
τηνì χαράν
τηνì εμην
¹ ì πεπληρωμένην (εχωσι
Ã
= conj. praes. < εχω,
Ã
πεπληρωμένην = part. pass. perf. <
πληρόω 満たす) = ut habeant gaudium meum impletum in semet ipsis (impletum = part. perf.
< impleo 満たす)
(42) in liutein liugnawaurde jah gatandida habandane swesa miþwissein (1 Tim 4, 2)
(gatandida < gatandjan 焼き印を押す, habandane = part. praes. < haban)(嘘をつく人々、自
分の良心が 焼き印を押された状態にある 人々の偽善において) = κεκαυστηριασμένων
τηνì ιδίαν
¹
συνείδησιν (κεκαυστηριασμενων = part. pass. perf. < καστηριάζω 焼き印を押す, τηνì
ιδίαν
¹
συνείδησιν = acc. 自分の良心 この対格は「焼き印が押される」箇所を表す対格。
特に「持つ」に当たる語なし) = cauteriatam habentium suam conscientiam (cauteritatam =
part. perf. < cauterio 焼き印を押す, habentium = part. praes. < habeo)
ゴート語の haben + 過去分詞において注目すべきことは、(39)と(40)のように過去分詞
の表す事態の動作主が文の主語と一致する例も存在するが、 (41)や (42)のように、動作主
が主語以外のものになる例も存在するということである。こうした例は、完了形よりも、
むしろ英語の have による受動やドイツ語の bekommen 受動との連関を示す。このように
ゴート語の haben + 過去分詞が現代ドイツ語の完了形とは異なるのは、haben と過去分詞
が意味的に独立している結果である。従って、次のような haben + 自動詞の過去分詞の
例も可能であった。
(43) was jainar manna gaþaursana habands handu (Mc 3, 1) (gaþaursana < gaþairsan 枯れる,
habands = part. paes. < haban)(そこに萎えた手を持つ人がいた)(auch Mc 3, 3)
また(40)は、過去分詞の表す事態の動作主が文の主語と一致するが、haben
が命令形であ
る。この意味は「~された状態にあるようにせよ」であり、ここでも明らかに haben
過去分詞の自律性が認められる。
- 34 -
と
注
1)
古高ドイツ語においては、動詞 eigan も haben と同様に過去分詞と結びついて完了形
を形成した。eigan の意味は haben とほぼ同じである。eigan + 過去分詞の完了形が用いら
れるのは文献上では 11 世紀までである。
2)
本稿で資料として取り扱うゴート語は、Wulfila によってギリシア語新約聖書からゴー
ト語へ4世紀に翻訳されたと言われるゴート語聖書である。但し、写本は 500
年前後の
ものと言われており、その写本の際に Wulfila の言語がそのまま移されたかどうかは定か
ではない。従って、言語的には 4・5 世紀頃のものと見るのが妥当である。しかしいずれ
にせよ、ゲルマン語の中で、この時代のまとまった文書としてはこれをおいて他にはない。
(英語やドイツ語ではせいぜい 8 世紀以降のものしかない。)
3)
ただし、この Duden-Grammatik の分類は、おそらく Paul (1968: 79 f.) の記述を下敷き
にしている。
4)
新高ドイツ語においては、非完了相自動詞である sein の過去分詞 gewesen が名詞付
加語として用いられることがある。
Die kleinste Veränderung auf dem Schreibtisch, die Beseitigung eines dort seit jeher vorhanden
gewesenen Schmutzflecks, das alles kann stören (Kafka 257)(机の上がほんの少し変わったり、
ずっと前からそこに存在していた汚点が消されたりすること、そのすべてが〔クラムの〕
気に障るのです)
Beschränken wir uns auf adäquat gegebene Inhalte, die zugleich also als die zeitlischen
Gegenstände apperzipiert sind, so kann der Unterschied zwischen jetzt seiendem A und
gewesenem A im Erlebnis nicht liegen in Inhaltsmomenten, die sich mit A verknüpfen (Husserl
39)(適切に与えられ、従って同時に時間的対象として知覚されるような内容に限定すれ
ば、今存在する A と体験の中にあるかつて存在した A との間の違いは、A と結びつく内
容的契機にあるのではない)
しかし gewesen がドイツ語の文献上初めて現れるのは、12 世紀であり、それは完了形の
形の中でであった。名詞付加語として、すなわち、単独で自律的意味を持つものとして
gewesen が用いられるようになるのは、筆者の知るかぎりでは初期新高ドイツ語以降であ
り、他の一般的過去分詞の形成とは歴史的順序が逆である。従って、名詞付加語の
gewesen は例外として扱われる。
5)
ただしゴート語には haban (= haben) の過去分詞の例が、名詞付加語ではないが、存在
する。
qaþ þaim siponjam seinaim ei skip habaiþ wesi at imma in þizos manageins (Mc 3, 9)(〔イエス
は〕彼の弟子たちに、自分のために群衆に対し船が 保たれて いるように言った) (habaiþ
wesi = προσκαρτερηÍ« = Luther: er sprach zu seinen Jüngern /Das sie jm ein Schifflin hielten
しかしこの haban
は「保つ」という「働きかけ」を表す動詞であり、単に「持ってい
る」という意味ではない。後述するように「働きかけ」を表す動詞は付加語的過去分詞を
形成することができる。
6)
ただし、IDS (Institut für Deutsche Sprache) のコーパスから、次のような例を検索するこ
とができた。
- 35 -
Die CDU will die erst kürzlich bekommenen 135 Seiten bis zum Dienstag durcharbeiten.
(Mannheimer Morgen 06.03.1999, IDS)(CDU は最近ようやく入手した 135 ページを火曜ま
でに読みこなすと言う)
Nach Abwägung aller zur Kenntnis bekommenen Gegebenheiten (Mannheimer Morgen
27.04.2000, IDS)(知ることができたあらゆる状況を鑑みると)
Als erstes möchte ich klarstellen, daß ich ein kürzlich bekommenes Verwarnungsgeld anstandslos
bezahlt habe (Mannheimer Morgen 30.12.1997, IDS)(まず第一に私が明らかにしたいのは、
最近手にした戒告金を私が即座に支払ったということである)
しかし、これは発見できたという程度で、数はきわめて少ないので、bekommen は基本的
に、自律的意味を持つ過去分詞を形成しないと見るべきであろう。なお本論の以下の部分
で示される通り、empfangen, erhalten, gewonnen 等は同じコーパスから多数の用例が検索さ
れる。それ対して、「働きかけ」の度合いの低さという点で bekommen
に意味的に最も
近い kriegen の名詞付加語的過去分詞の例は皆無であった。
7)
ただし、die Zeit geht verloren と言うことはできる。
8)
上で述べたように、lieben, hassen 等、感情を表す動詞は、単に「関係」を表すのでは
なく、主格で表されるものから対格で表されるものへの「働きかけ」を含意すると考える
べきである。
9)
ただし、Helbig/Buscha (1999: 589 f.) によると、laufen のような場所の移動を表す無接
頭辞の自動詞は、下例 (a) のように、そのままの形では名詞付加語の過去分詞を形成しな
いが、(b) (c) のように、副詞的な要素を付加すれば、それが可能になると言う。
(a) *der gelaufene Junge
(b) der nach Hause gelaufene Junge(走って家に帰った少年)
(c) der sehr schnell gelaufene Junge(非常に急いで走った少年)
上の (a) が名詞付加語的(すなわち自律的意味を持つ)過去分詞を形成しないのは、それ
が場所の移動を表すとはいっても、起点、着点のいずれも不明であるため、筆者の言う意
味での「変化」を表さないからである。それに対して (b) が可能なのは、移動の目的地が
示されることで(nach Haus)、「変化」を表すからだと言うことができる。問題は、な
ぜ (c)
が可能なのかということである。このような非変化の自動詞が行為の様態( sehr
schnell)を補足することで過去分詞形成が可能になる理由は今のところ不明である。ただ
し、このような自動詞の過去分詞はゴート語には存在しない。
10)
ただし、次のような例は存在する。
das gehabte Leben, in das viele Erinnerungen zurückführen (Frankfurter Rundschau, 03.02.1997,
IDS)(多くの記憶がそこに戻っていくこれまでに積んできた人生)
in 13 Jahren gehabte Mühen (Mannheimer Morgen, 22.06.1998, IDS)(13 年間でなされた苦
労)
しかしこのような例は特殊な例外と見てよい。また、ゴート語にはこの種の用例は存在し
ない。
11)
ここでは訳語の適切さのため藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』岩波新書、1980、175 f.
から引用する。
12)
関口の訳がこのように規定関係を逆転させているのは、これが「錯構」を説明するた
- 36 -
めの例だからである。「錯構」は名詞付加語的過去分詞のみならず、名詞規定一般(関口
1962, 第 3 巻: 568)に関わる問題である。「錯構」とは、簡単に言えば、規定するもの
と規定されるものとの関係が形式と意味の間で逆転することを指す。例えば、mißbrauchte
Amtsgewalt (ibd., 532) は文字通り「濫用された職権」を表す場合もあるが、「職権濫用」
を表す場合も多い。この後者が錯構であり、形式的には mißbraucht が Amtsgewalt を規定
しながら(すなわち、いかなる Amtsgewalt かということを mißbraucht が規定している)、
意味的には「職権」が「濫用」を規定する(すなわち、いかなる「濫用」かということを
「職権」が規定している)という逆転が生じている。なお、「錯構」を表す名詞付加語的
過 去 分 詞 が い つ も 非 過 去 的 ・ 無 時 間 的 事 態 を 表 す と 言 う わ け で は な い 。 mißbrauchte
Amtsgewalt
は錯構の意味においても「職権が濫用されたこと」という過去的事態を表す
場合もある。
13)
用例は Gering (1874: 299 ff.) に基づく。語尾変化形は男性・単数・主格形に統一した。
*は具体例が存在しないことを示す。なお、ゴート語の過去分詞は wisan + PP, wairþan +
PP の形でギリシア語の現在完了、アオリスト、不完了過去等に対応するものとして用い
られる例が少なくないが、これらは過去分詞の時間的意味が特定し難い。例えば、die Tür
wurde geöffnet のような例はドアが「開けられたものになった」を意味するのか「開けら
れるものになった」を意味するのか特定することは難しい。従って、これらは分類の対象
から除外し、基本的にギリシア語の分詞や形容詞に対応する例を対象とする。
14)
Gering (1874: 300 f.) が自動詞の過去分詞として挙げているのは、qumans, gaqumans,
usgaggans, garunnans, waurþans, frawaurþans, galeikaiþs, diwans の 8 例である。urrisans,
uskijans, uswahsans は彼は挙げていない。また、gaþaursans や inrauhtiþs は自動詞の過去分
2
詞か他動詞の過去分詞か明確ではない。Die Gotische Bibel ( 1919) に添付のゴート語・ギ
リシア語辞典では、これらは自動詞であるが、Gering (1874: 301) は、inrauhtjan は他動詞
と見なしている。
15)
ufargutans
はギリシア語の現在分詞に対応しており、過去を表すのではなく、非過去
を表すと見なすべきかもしれない。しかし、並列する gawigans は完了分詞に対応してい
るので、取り敢えず過去を表すものに含めた。
gibaid, jah gibada izwis, mitads goda jah ufarfulla jah gawigana jah ufargutana gibada in barm
izwarana (L 6, 38)(与えよ、そうすればあなた達に与えられる。たっぷりの、あふれる
ほどの、押し動かされた、注ぎすぎるほど注がれる量があなた達の懐の中へ与えられる)
(gawigana = σεσαλευμέυου = part. perf. pass. n. sg. acc. < σαλεύω「揺り動かす」; ufargutana =
υπερεκχυννόμευου
¸
= part. praes. pass. n. sg. acc. < υπερεκχύννω
¸
「あふれるほど注ぐ」
16)
筆者とは異なる意味で、完了形 haben + 過去分詞の haben が「所有」を意味しないこ
とを述べたものとして Zadorozˇny (1974: 382 ff.) が挙げられる。彼は、haben における
「besitzen の意味は古ゲルマン語における二次的な意味であり、ようやく次第に発展して
いった」(ibd. 382) のであり、haben は besitzen の意味以外に「自動詞的意味的変種および
感情の面で特に強く強調された意味的変種というもっと広い意味、すなわち主語がある
(中動的)活動を行った後にある状態」(ibd. 383) を意味していた。「その際に主語の関
心はそれが行った行為の結果に特に強く現れる。これがまさにゲルマン語の haben と過去
分詞の組み合わせの起源である」(ibd.) と言う。「中動的活動」mediale Tätigikeit とは、
- 37 -
過去分詞は本来能動・受動の区別を表さない、つまり誰が行ったのかを表さないというこ
とである (ibd. 67 f.)。ところで彼が haben が besitzen 以外の意味を持つ例として挙げて
いるのはゴート語の haben (haban)+不定詞である (ibd. 383)。この「~することになって
いる」という未来の事態を表す形は、彼が挙げている例にも見られるように対格目的語の
ない自動詞の不定詞によっても形成される。このことから彼は haben
が対格目的語では
なく過去分詞と直接結びつき、過去分詞が主語の感情に関わる状態を表すと考えている。
これに対し筆者は haben +過去分詞の目的語は過去分詞ではなく対格名詞であると考え
る。
- 38 -
第2章
古高ドイツ語の完了形
古高ドイツ語( 750-1050 年)の完了形が質的・量的に大きな転換を迎えるは『オトフ
リート福音書』(870 年頃)である。そこでまず『オトフリート福音書』以前の完了形を
考察する。
1. 『オトフリート福音書』以前の完了形
1. 1 『イシドール』の完了形 sein + 過去分詞
8世期末の『イシドール』1) には haben (habên/eigan) + 過去分詞の形は存在しない。能
動の sein (wesan) + 過去分詞は次のような例が見られる。
(1) chiuuisso nu, ibu dhea sibunzo uuehhono fona daniheles zide uuerdhant chizelido, buuzssan
einigan zuuiuun ist dhanne archennit, dhazs dher allero heilegono heilego druhtin nerrendo christ
iu ist langhe quhoman (456)(今や確かに、その七十週がダニエルの時代から数えられれ
ば、すべての聖人の中の聖人である主、救済者キリストがキリストが既にずっと前に来
ているということは、一つの疑いもなく分かっている)= que scilicet LXX ebdomade, si
a tempore danielis numerentur, procul dubio sanctus sanctorum dominus iesus christus olim
uenisse cognoscitur(明らかにダニエルの時代から数えられれば七十週で、疑いなく聖人
の中の聖人、主イエス・キリストがずっと前に来たことが知られている)
(2) dhanne ist nu chichundit, dhazs fona dhemu almahtigin fater dhurah inan ist al uuordan,
dhazs chiscaffanes ist (100)(全能の父から彼を通して一切は生じ、創造されたというこ
とが今や知られているからである)= quando a patre per illum cuncta creata esse noscuntur
(父から彼によって一切は創造されたことが知られている)
(3) see adam ist dhiu chilihho uuordan so einhuuelih unser (306)(見よ、アダム〔人〕は我
々のある一人と同じようになった)= ecce adam factus est quasi unus ex nobis
ラテン語との対照で目を引くのは、(1) では ist quhoman (= ist gekommen) が uenisse
(venisse) という完了不定法に対応するものとして用いられていることである。ゴート語の
sein (wisan) + 過去分詞では sein と過去分詞それぞれに対応するギリシア語およびラテン
語の単語があり、しかも過去分詞の表す事態の動作主が文の主語と一致しない例が存在し
た。それに対し、この例では完了不定法一語に対応するものとして sein + 過去分詞が用
いられているという点で、ゴート語とは異なる。
1. 2 „Exhortatio“ の完了形 haben + 過去分詞
ゴート語には少なくとも形としての haben + 過去分詞の用例は存在した。ドイツ語に
おいては8世紀の文献には haben + 過去分詞の形そのものが現れない。haben + 過去分詞
が初めて現れるドイツ語の文献は、80? 年の „Exhortatio“
- 39 -
2)
である。
(4) ir den christanun namun intfangan eigut (4)(あなた達はキリスト教徒の名を受け入れ
た)= qui christianum nomen accepistis (accepistis = perf. < accipio 受け入れる)
ここでも、上の『イシドール』の(1) sein + 過去分詞の例と同様の現象が見られる。すな
わち、この例ではラテン語の対応箇所が accepistis という完了過去(現在完了 perfectum)
一語である。
1. 3 『タチアーン』の完了形
1. 3. 1 『タチアーン』の sein + 過去分詞
830 年頃成立の『タチアーン』3) の能動の sein (wesan) +過去分詞のうち、まず sein が
現在形の用例(ist + PP)を挙げる。
(5) her suihhit îu: fior taga biliban ist (135, 24)(彼〔死んだラザロ〕は臭くなっています。
四日間〔そこに置かれたまま〕留まっていますから)= J 11,39: iam fetet, quadriduanus
enim est (「四日間〔そこに〕ある、四日目である」) = Luther: er stinckt schon / denn er
ist vier tage gelegen
(6) ih bim alt, inti mîn quena fram ist gigangan in ira tagun (2, 8)(私は年を取っており、私
の妻もその日において先に 進んでいる 〔年を取っている〕) = L 1, 18: uxor mea
processit in diebus suis (perf. < procedere 前進する) = Luther: ich bin alt / vnd mein Weib ist
betaget
(7) uuanta arstorbana sint thie thar suohtun thes knehtes sela (11, 1)(その子の魂をねらって
いた者たちは死んだのだから)= Mt 2, 20: defuncti sunt enim qui querebant animam pueri
(perf. < defungi 終える、死ぬ) = Luther: Sie sind gestorben / die dem Kinde nach dem leben
stunden
(8) gebet uns fon îuuueremo ole, bithiu uuanta unseru liohtfaz sint erlosganu (148, 5)(私たち
にあなたたちの油をいくらか下さい。私たちのランプは消えてきています)= Mt 25, 8:
date nobis de oleo vestro, quia lampades nostre extinguntur (extinguntur = pass. praes. <
extingere 消す) = Luther: [...] Denn vnsere Lampen verlesschen
これらのうち、 (5)を除いてすべてラテン語の完了過去(現在完了)に対応するものとし
て sein + 過去分詞が用いられている。また、その(5)もルター訳では現在完了形である。
その(5)では ist biliban (= ist geblieben) という形が現れている。bleiben については、現
代の学校文法において、移動や状態変化を表さないにも拘わらず、完了形の助動詞として
sein が選択されることが例外的事例として説明されるが、もともと bilîban (= bleiben) は
「止まる、中止する、死ぬ」という状態変化を表す動詞であった。従って、ここでも「止
まって、そのままそこにある」が表されており、sein + 過去分詞が用いられることには何
ら問題はない。後に挙げる『オトフリート福音書』の(92)(102)(107)でも wesan + biliban
- 40 -
が現れるが、そこでは「死んでその状態にある」が表されており、 bilîban
はやはり状態
変化動詞である。
最後の(8)はラテン語の現在に対応し、他の例とは意味的に異なる。sein + 過去分詞の最
も自然な意味は、過去の事態の完了後にその結果状態が持続しているということである。
しかしこの例は「これからランプが消える」という未来の事態を表す。実際、ルター訳で
は現在形 verlesschen で表されている。これは、ラテン語の完了過去を単純に sein + 過去
分詞に置き換えた結果と見ることもできるが、前章のゴート語の過去分詞の分類で示した
ように、過去分詞は非過去の未来的事態を表す場合もあり、自動詞の過去分詞でさえ、
diwans「死ぬべき」、 galeikaiþs「気に入る」のように非過去の例が存在したので、ここで
も「ランプはこれから消えるものである」という意味で sein + 過去分詞が用いられてい
ると考えられる。あるいは、sein の現在形は常に発話時現在の状態を表すとは限らず、未
来の状態を表すことも可能であるので、4) これは「ランプは消えたものにこれからなる」
という意味を表すものとして用いられているかもしれない。
次に sein が過去形の例 (was (= war) + PP) を挙げる。
(9) after thiu thô argangana uuarun ahtu taga, thaz thaz kind bisnitan vvurdi, uuard imo
ginemnit namo Heilant (7, 1)(八日が過ぎて、その子が割礼を受けるべき時になって、そ
の子に救世主という名が与えられた)= L 2,21: et postquam consummati sunt dies octo, ut
circumcideretur puer, vocatum est nomen eius Ihesus (perf. pass. < consummare 完了する) =
Luther: Vnd da acht tage vmb waren / das das Kind beschnitten würde / Da ward sein Name
genennet Jhesus
(10) thu giburgi thisu fon spahen inti uuisen inti intrigi siu luzilen. zisperi fater, uuanta iz so
uuas gilihhet fora thir (67, 7)(あなたはこれらのことを知者・賢者に隠し、幼い者たち
に現しました。確かに父よ、それはあなたの前で好ましいことでありました)= Mt 11,
25/26: abscondisti hæec a sapientibus et prudentibus et revelasti ea parvulis. etiam pater, quia sic
fuit placitum ante te (fuit = perf. < esse; placitum < placere 気に入る) = Luhter: Denn es ist
also wolgefellig gewesen fur dir
(11) in themo finftazehenten iare thes rihtuomes Tiberii thes keisores [...] uuas giuuortan gotes
uuort ubar Iohannem Zachariases sun in thero vvuostinnu (13, 1)(皇帝ティベリオの統治 15
年目に〔……〕神の言葉が荒野にいるザカリヤの息子ヨハネの上に生じた)= L 3, 1/2:
Anno quintodecimo imperii Tiberii Cæsaris [...] factum est verbum dei super Iohannem
Zacharie filium in deserto (perf.) = Luther: [...] Da geschach der befelh Gottes zu Johannes
Zacharias son / in der wüsten
(12) uuas giuuortan tho in sambaztag afteren eriren, mit thiu ther heilant fuor ubar sati,
ababrachun hungerente sine iungiron thiu ehir (68, 1)(また、次の安息日に起こったことだ
が、救世主が畑地を通った時、空腹の彼の弟子たちが穂を摘んでいた)= L 6, 1: et
factum est in sabbato secundo primo, cum transiret Ihesus per sata, vellebant esurientes
discipuli eius spicas (perf.) = Luther: Vnd es begab sich auff einen Afftersabbath / das er
durchs Getreide gieng [...]
(13) uuas tho giuuortan in anderemo sambaztage thaz her gieng inthie samanunga inti lerta (69,
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1)(また、他の安息日に、彼〔イエス〕が集会所に入り教えるということが起こった)
= L 6, 6: factum est autem et in alio sabbato ut intraret in sinagogam et doberet (perf.) =
Luther: Es geschach aber auff einen andern Sabbath / das er gieng in die Schule [...]
(14) uuas tho giuuortan in then tagun, gieng in berg beton (70, 1)(また、その頃起こったこ
とだが、〔イエスは〕山に祈りに行った)= L 6, 12: factum est autem in illis diebus, exiit
in montem orare (perf.) = Luther: Es begab sich aber zu der zeit / das er gieng auff einen Berg
zu beten
(15) giuuortan uuas tho in themo afteren tage, gieng zi imo man (92, 2)(また次の日に起こ
ったことだが、彼〔イエス〕の所へ一人の男がやって来た)= L 9, 37/Mt 17, 14: factum
est autem in sequenti die, accessit ad eum homo (perf.) = Luther: Es begab sich aber den tag
hernach [...]
(16) thaz uuas zi thiu giuuortan thaz uuarin gifultiu thiu giscrip thero uuizzagono (185, 9)(こ
れは預言者たちの書が満たされるために生じた)= Mt 26, 56: hoc autem factum est, ut
implerentur scripture prophetarum (perf.) = Luther: Aber das ist alles geschehen / das erfüllet
würden die Schrifft der Propheten
(17) uuarun tho giuuortan friunta Herodes inti Pilatus in themo tage: sie uuarun er untar
zuuisgen fiianta (196, 8)(ヘロデとピラトはその日に親しくなった。彼らは以前は互いに
敵対していたのだが)= L 23, 12: facti sunt amici Herodes et Pilatus in ipsa die, nam antea
inimici erant ad invicem (perf.) = Luther: Auff den tag wurden Pilatus vnd Herodes freunde
mit einander / Denn zuuor waren sie einander feind
(18) tho erdbibunga uuas giwortan michil: gotes engil steig fon himile (217, 1)(そこで大き
な地震が起こった。神の使いが天から降りてきた)= Mt 28, 2: terræ motus factus est
magnus, angelus enim domini descendit de celo (perf.) = Luther: es geschach ein gros Erdbeben.
Denn der Engel des HERRN kam vom imel her ab
(19) inti uuas tho giuuortan, mittiu her in uuihta, eruueiz fon in (244, 2)(そして起こったこ
とだが、彼〔イエス〕は、彼ら〔弟子たち〕に祝福を与えながら、彼らから離れていっ
た)= L 24, 51: et factum est, dum benediceret illis, recessit ab eis (perf.) = Luther: Vnd es
geschach da er sie segenet / schied er von jnen
(20) tho tag uuas giuuortan, gihalota zi imo sine iungiron (70, 2)(日が生じた時〔夜が明け
ると〕、〔イエスは〕自分の弟子たちを自分のもとに呼んだ)= L 6, 13: et cum dies
factum esset, vocavit discipulos suos (conj. pluq.) = Luther: Vnd da es tag ward / rieff er
seinen Jüngern
まず(9)の例では、ラテン語の完了過去に対して was + PP が用いられている。これまで
の例から見れば、ここで予想される形式は ist + PP である。この食い違いは、あとに続く
主文との関連によるかもしれない。すなわち、主文の uuard imo ginemnit namo Heilant
「その子に救世主という名が与えられた」に対し、時間的に先行するという意味で sein
の過去形が用いられたという考えが成り立つ。ラテン語では主文も vocatum est というよ
うに完了過去である。
(11)-(20)はすべて uuas giuuortan (= war geworden) で、(20)を除きすべてラテン語の
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factus est に対応する。factus est は完了過去(現在完了)なのだから、ここでも ist + PP
が予想されるが、実際には was + PP が用いられている。ルター訳と比較しても、これら
の例で特に過去完了形的な意味(ある過去の時点よりも前の事態を表す)が表現されてい
るわけでもなく、 (17)などは後続する文の方が前時を表すので(「親しくなった」のは
「敵対していた」時よりも後)、時間意味論的にここで was + PP を用いるのはなおさら
不自然である。さらに、上の『イシドール』では例 (2)や (3)のように、 factus est
が ist
wordan (= ist geworden) であったのだから、なぜここで was + PP が用いられるのか不思議
に思われる。
そもそも factus est
は自動詞 fieri「なる」の完了過去であるだけではなく、他動詞
facere「作る、なす」の受動の完了過去でもあり、ドイツ語で対応する形は様々であった。
その対応をまとめて示すと次のようになる。
factus est = 自動詞
ward
(= wurde)
自動詞
ward (gi-)wortan
(= wurde geworden)
自動詞
was (gi-)wortan
(= war geworden)
他動詞受動
ist gitân
(= ist getan)
他動詞受動
ward gitân
(= wurde getan)
他動詞受動
was gitân
(= war getan)
まず werdan (= werden) の過去形が用いられる具体例を挙げる。
(21) uuard thô, so siu gihorta heilizunga Mariun Helisabeth, gifah thaz kind in ira reue (4, 2)
(そして起こったことだが、マリアの挨拶を彼女エリザベツが聞いた時、子が彼女の胎
内で喜んだ)= L 1, 41: et factum est ut audivit salutationem Mariae Elisabeth, exultavit
infans in utero eius(78, 1 = Mt 13, 53 も同様)
それに対し、次の例では tuon (= tun) の受動形 5) に対応する。
(22) sambaztag thuruh man gitan ist, nalles man thuruh then sambaztag (68, 5)(安息日が人の
ために作られたのであり、人が安息日のために〔作られたの〕ではない)= Mc 2, 27:
sabbatum propter hominem factum est, et non homo propter sabbatum = Luther: Der Sabbath
ist vmb des Menschen willen gemacht / Vnd nicht der Mensch vmb des Sabbaths willen
(23) thaz algaro gitan ist, thaz uuari gifullit thaz thar giquetan uuas fon truhtine thuruh then
uuizagon (5, 9)(これはすべて、主によって預言者を通して言われたことが満たされる
ために、なされたことである) = Mt 1, 22: hoc autem totum factum est, ut adimpleretur
quod dictum est a domino per prophetam = Luther: Das ist aber alles geschehen / Auff das
erfüllet würde / das der Herr durch den Propheten gesagt hat
(24) thiz ist ther fon demo ih iu quad, thie dar after mir quementi ist, fora mir gitan ist, uuanta
her er mir uuas (13, 8)(この人は、「私のあとに来る人は、私より前にいたのだから、
私の前に〔ある、優れた者として〕生まれた」と私があなた達に言った人である)= J
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1, 15: qui post me venturus est, ante me factus est, quia prior me erat = Luther: Dieser war es /
von dem ich gesagt habe / Nach mir wird komen / der vor mir gewesen ist / denn er war ehe
denn ich
(25) uuanta euua thuruh Moysen gigeban ist, geba inti uuâr thuruh Heilant Christ gitan ist (13,
9)(というのは、立法はモーセによって与えられたが、恩恵と真理は救世主キリストに
よって生まれたからである)= J 1, 17: qiua lex per Moysen data est, gratia et veritas per
Ihesum Christum facta est = Luther: Denn das Gesetz ist durch Mosen gegeben / Die Gnade
vnd Warheit ist durch Jhesum Christ worden
(26) oba thie quad gota ci den gotes uuort gitan ist (123, 8)(その人たちに神の言葉が行わ
れた、その人たちを神と呼んだとしたら)= J 10, 35: si illos dixit deos ad quos sermo dei
factus est = Luther: So jr die Götter nennet / zu welchen das wort Gottes geschach
(27) ziu ist forlust therra salbun gitan? (138, 4)(何のために香油の無駄遣いが行われたの
か)= Mc 14, 4: utquid perditio haec ungenti facta est? = Luther: Was sol doch dieser vnrat?
(28) mit thiu gitan uuard mihhil hungar in alleru erdu (78, 7)(全土で大飢饉が生じた時)=
L 4, 25: cum facta est famis magna in omni terra = Luther: da eine grosse Thewrung war im
gantzen Lande
(29) gitan uuard tho, mit thiu her thisu quad, arheuenti stemma sum uuib fon thero menigi
quad imo (58, 1)(そこで起こったことだが、彼〔イエス〕がこのように話していると、
ある女が群衆の中から声をあげて彼に言った)= L 11, 27: factum est autem, cum haec
diceret, extollens vocem quaedam mulier de turba dixit illi = Luther: VND es begab sich / da er
solchs redet / Erhub ein Weib im volck die stimme / vnd sprach zu jm
(30) inti uuard tho gitahan, mittiu gientota ther heilant thisu uuort, fuor fon Galilea (100, 1)
(そして 起こった ことだが、救世主がこれらの話を終えると、ガリラヤから離れた) =
Mt 19, 1: et factum est, cum consummasset Ihesus sermones istos, migravit a Galilea = Luther:
VND begab sich / da Jhesus diese rede volendet hatte / erhub er sich aus Galilea
(31) uuard tho gitan thaz arstarp ther betalari (107, 22)(そこでその乞食が死ぬということ
が起こった)= L 16, 22: factum est autem ut moreretur mendicus = Luther: Es begab sich
aber / das der Arme starb
(32) thaz uuard gitan, thaz uurdi arfullit thaz dar giquaedan uuas thuruh then uuizogon
quedentan (116, 4)(これがなされたのは、次のように言う預言者によって言われたこと
が実現されるためであった)= Mt 21, 4: hoc autem factum est, ut inpleretur quod dictum est
per prophetam dicentem = Luther: Das geschach aber alles / Auff das erfüllet würde / das
gesagt ist durch den Propheten / der da spricht
(33) in mitteru naht ruoft uuard gitan (148, 3)(真夜中に呼び声が起こった)= Mt 25, 6:
media autem nocte clamor factus est = Luther: ZVr Mitternacht aber ward ein geschrey
(34) inti sliumo heil gidan uuard der man (88, 3)(そしてすぐにその人は癒された)= J 5,
9: et statim sanus factus est homo = Luther: Vnd also ward der Mensch gesund
上の tuon の受動形で興味深いのは、ラテン語の逐語訳的な ist gitan (= ist getan) ばかりで
はなく、(28)-(34)のように、ward gitan (= wurde getan) という形が見られることである。そ
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してこれと連動するように、自動詞としての factus est が ward wortan (= wurde geworden)
の形で表される例が見られる。6)
(35) tho iz aband uuortan uuard, quam sum man otag (212, 1)(晩になって、ある金持ちの
男がやって来た)= Mt 27, 57: cum sero autem factum est, venit quidam homo dives
(36) thuruh sina forohta erbruogite uuarun thie hirta inti uurdun uuortan samasa tote (217, 4)
(番人たちは彼〔天使〕への恐れから驚愕し、死人のようになった)= Mt 28, 4: prae
timore autem eius exterriti sunt custodes et facti sunt velut mortui
ward wortan は逐語的に考えれば、「なった状態になった」を意味するので、奇妙な形で
あるが、これが ward gitan の gitan を wortan に置き換えたと考えれば、それほど不思議
な形ではない。この例は実際『イシドール』にも見られる。7)
(37) araughemes saar azs erist, huueo ir selbo gotes sunu dhurah unsera heilidha in fleisches
liihe man uuardh uuordan (384)(私たちはまず第一に、いかに神の息子である彼〔イエ
ス〕自身が我々の救済のために肉体となって人に なった かを示す) = manifestantes
primum quia idem filius dei propter nostram salutem incarnatus et homo factus est(第一に、
いかに神の息子その人が我々の救済のために受肉し人になったか明らかにして)
(38) see dher in sion uuard chiboran endi dher in dheru selbun burc uuard uuordan allero
odhmuodigosto (417)(見よ、彼〔神の子〕はシオンで生まれ、彼はその同じ町ですべて
の中で最も低い者になった)= ecce qui nascitur in sion et qui in ipsa ciuitate factus est
humillomus(見よ、彼はシオンで生まれ、彼はその同じ町で最も低い者になった)
(39) endi uuardh uuordan druhtines uuort zi nathane quhedendi (618)(そして神の言葉がナ
タンに言うようにして生じた)= et factum est uerbum domini ad nathan dicens
hear quhidit, huueo got uuard man chiuuordan christ gotes sunu (375)(ここでは、いかに神
が人、神の息子キリストになったかが語られる)= quia christus filius dei deus homo
factus est(いかに神の息子キリスト、神が人になったか)
(40) man, bidhiu huuanda got uuard man chiuuordan (424)(人間の男〔とここで言われる
のは〕、神が人間になったからである)= uir, quia homo factus est
このように、受動の factus est が逐語訳的な ist gitân のみならず、ward gitân でも表さ
れ、そこから自動詞形の ward (gi-)wortan という一見奇妙な形が生まれた。そしてさらに、
受動の was gitân という形も用いられる。
(41) alliu thuruh thaz vvurdun gitan inti ûzzan sin ni uuas uuiht gitanes thaz thar gitan uuas (1,
2)(すべてのものはそれ〔言葉〕によって作られた。そして作られたもののうち、それ
なしには何も作られなかった)= J 1, 3: omnia per ipsum facta sunt et sine ipso factum est
nihil quod factum est = Luther: Alle ding sind durch dasselbige gemacht / vnd on dasselbige
ist nichts gemacht / was gemacht ist
8)
(42) bistu eino elilenti in Hierusalem inti ni uorstuonti thiu dar gitan uuarun in thesen tagon?
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(225, 1)(あなたは一人エルサレムに異国人としていて、この三日の間になされたこと
を知らないのですか)= L 24, 18: [...] non cognovisti quae facta sunt in illa his diebus? (perf.
< facere/fieri) = Luther: Bistu allein vnter den Frembdlingen zu Jerusalem / der incht wisse /
was in diesen tagen drinnen geschehen ist?
後に問題になるが、was gitân が factus est に対応する形で用いられる理由は、ist + PP が
「~されている」という結果状態を表すだけではなく、「~される」という、いわゆる動
作受動的な意味をも表しうるからである。ist + PP が「~される」を表すとすれば、was +
PP
は「~された」という動作受動の過去を表すことになる。そしてここで、なぜ factus
est が was (gi-)wortan に対応するのかが分かる。すなわち、ward gitân からの類推で ward
(gi-)wortan が生まれたように、was gitân からの類推で was (gi-)wortan が生まれたのであ
る。
以上、factus est に対応するドイツ語の類推関係を示すと次のようになる。
ist gitân(結果状態)
ward gitân
→ 自動詞形 ward (gi-)wortan
was gitân(動作受動の ist gitân の過去形) → 自動詞形 was (gi-)wortan
いずれにしても、was
+ PP は、ラテン語の全分過去(過去完了)に対応するものとし
ては用いられない。
一方、先に挙げた ist + PP はおおよそラテン語の完了過去に対応する。ただし注意しな
ければならないのは、ラテン語のすべての完了過去が ist
+ PP に対応するわけではない
ということである。例えば次の例では、(7)と同様 defungi「死ぬ」の完了過去が現れるが、
対応するドイツ語は過去形である。
(43) min dohter nu arstarb (60, 2)(私の娘が今死にました)= Mt 9, 18: filia mea modo
defuncta est (perf. < defungi 死ぬ) = Luhter: Meine Tochter ist jtzt gestorben
ラテン語の完了過去は意味的に英語の現在完了形よりも現代ドイツ語の現在完了形や現代
フランス語の複合過去に近く、単に過去の事態を表す時制として広く用いられる。実際、
新約聖書のウルガータでも地の文で完了過去が用いられ、そのような箇所が過去形に対応
するのは不思議ではない。しかし、次のように現在における結果状態を表し、ist + PP が
用いられてもおかしくない箇所の多くが過去形で表される。
(44) gisaz thie thar tot uuas inti bigonda sprehhan [...] gifieng tho alle forhta, inti mihhilosotun
got sun quedante: bithiu mihhil uuizago arstuont in uns (49, 5)(死んでいた者がすわり、話
し始めた。〔……〕皆は恐れを抱き、神の息子を称えて言った。「大いなる預言者が私
たちの間に現れた」)= L 7, 16: [...] quia propheta magnus surrexit in nobis (perf. < surgere
現れる) = Luhter: [...] Es ist ein grosser Prophet vnter vns auffgestanden
(45) thû bist mîn liobo sun, in thir gilîcheta mir (14, 5)(お前は私の愛する息子、お前のこ
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とが私には気に入った)= L 3, 22: tu es filius meus dilectus, in te complacuit mihi (perf. <
complacere 気に入る) = Luther: Du bist mein lieber Son / an dem ich wolgefallen habe
(46) ni curet ir forhten luzzil euuit, uuanta gilihheta iuuaremo fater iu zi gebanne rihhi (35, 3)
(お前たち小さな群よ、恐れるな。お前たちの父はお前たちに国を下さる気持ちになっ
ているのだから)= L 12, 32: nolite timere pusillus grex, quia conplacuit patri vestro dare
vobis regnum (perf. < conplacere 気に入る) = Luther: FVrchte dich nicht du kleine Herd /
Denn es ist ewrs Vaters wolgefallen / euch das Reich zu geben
(47) senu min kneht then ih gicos, min giminnoto, in themo uuola gilihheta minero selu (69, 9)
(見よ、これが私が選んだ私の僕、私の魂に気に入った私の愛する者)= Mt 12, 18:
ecce puer meus quem elegi, dilectus meus, in quo bene conplacuit animæ meæ (perf. <
conplacere 気に入る) = Luther: Sihe / Das ist mein Knecht / den ich erwelet habe / vnd mein
Liebster / an dem meine Seele wolgefallen hat
(48) obar stuol Moyses sâzun scrîbera inti Pharisei (141, 1)(モーセの椅子の上に聖書学者
とパリサイ人がすわっている)= Mt 23, 2: super cathedram Moysi sederunt scribe et
Pharisei (perf. < sedere すわる) = Luther: Auff Moses stuel sitzen die Schrifftgelerten vnd
Phariseer (praes.)
(49) ni curi mih ruoran: noh nu ni arsteig ih zi minemo fater (221, 6)(私に触れるな。今は
まだ、私は私の父の所へのぼっていない)= J 20, 17: [...] nondum enim ascendi ad patrem
meum (perf. < ascendere のぼる) = Luther: Rüre mich nicht an / denn ich bin noch nicht
aufgefaren zu meinem Vater
(50) noh nu ni quam min zit (45, 2)(まだ私の時は来ていない)= J 2, 4: nondum venit
hora mea (perf. < venire 来る) = Luther: Meine stunde ist noch nicht komen
(51) min zit ni quam noh nu, iuuar zit simblon ist garo [...] min zit nist noh nu erfullit (104, 2)
(私の時はまだ来ていない。あなた達の時は常に用意されている。〔……〕私の時はま
だ満たされていない)= J 7, 6-8: tempus meum nondum advenit, tempus autem vestrum
semper est paratum [...] meum tempus nondum impletum est (perf. < advenire 到着する) =
Luther: Meine zeit ist noch nicht hie / Ewer zeit aber ist allewege [...] meine zeit ist noch nicht
erfüllet(praes.)
最後の(51)では、後に続く文が ist erfullit という受動の sein + 過去分詞であるので、同形
の能動の ist koman が用いられてもよさそうであるが、過去形の kam が現れている。
was + PP はラテン語の全分過去に対応するものとしては用いられないと述べたが、で
はラテン語の全分過去は何に対応するのかと言えば、それは過去形である。次のような過
去における事態の結果状態を表し、意味的に was
+ PP が用いられるのが適切と考えら
れる箇所でも、過去形が用いられる。
(52) tho suohtun sie inan zi gifahanne, inti neoman ni santa in inan sina hant, bithiu noh thanne
ni quam sin zit (104, 9)(彼らは彼〔イエス〕を捕らえようとしたが、誰も彼に手をかけ
なかった。まだ彼の時が来ていなかったからである)= J 7, 30: querebant ergo eum
adpraehendere, et nemo misit in illum manus, quia nondum venerat hora eius (pluq. < venire 来
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る) = Luther: Da suchten sie jn zu greiffen / Aber niemand leget die hand an jn / Denn seine
stunde war noch nicht komen
(53) uuas noh thanne iu theru steti thar ingegin imo quam Martha (135, 18)(〔イエスは〕ま
だ、マルタが彼を迎えに来た場所にいた)= J 11, 30: erat adhuc in illo loco ubi occurrerat
ei Martha (pluq. < occurrere 出迎える) = Luther: war noch an dem ort / da jm Martha war
entgegen komen
(54) quam tho uuib fon Samariu sceffen uuazzar. tho quad iru der Heilant: gib mir trinkan. sine
iungoron giengun in burg, thaz sie muos couftin (87, 2)(その時サマリアの女が水を汲みに
やって来た。そこで彼女に救世主は「飲ませてくれ」と言った。彼の弟子たちは、食べ
物を買いに町に行っていたのである)= J 4, 7/8: venit mulier ds Samaria [...] dicit ei Ihesus
[...] discipuli enim eius abierant in civitatem [...] (pluq. < abire 立ち去る) = Luther: Da kompt
ein Weib von Samaria wasser zu schepffen. Jhesus spricht zu jr / Gib mit trincken. Denn seine
Jünger waren in die Stad gegangen
(55) ih fant min scaf thaz dar uoruuard (96, 2)(私は、消えていた私の羊を見出した)= L
15, 6: inveni ovem meam quae perierat (pluq. < perire 消滅する) = Luther: ich habe mein
Schaf funden / das verloren war
結局、過去形は過去の事態一般を表す形であったので、現在における結果状態も、ある過
去の時点における結果状態も表すことができた。
1. 3. 2 『タチアーン』の haben + 過去分詞
まず haben (habên) の現在形 + 過去分詞(habêt (= hat) + PP)の例を挙げる。
(56) sela, habes managiu guot gisaztiu in managiu iar (105, 2)(魂よ、〔あなたは〕多くの
財産を長年分蓄えている)= L 12, 19: anima, habes multa bona posita in annos plurimos
(habes = praes. < habere; posita = pp. n. pl. acc. < ponere 置く) = Luther: Liebe seele / du hast
eine gorssen Vorrat auff viel jar
(57) fimf talenta saltostu mir, senu nu andero fimui ubar thaz haben gistriunit (149, 4)(5 タラ
ントあなたは私に預けましたが、ご覧下さい、今や〔私は〕その上にさらに 5〔タラン
ト〕儲けました)= Mt 25, 20: V talenta tradidisti mihi, et ecce alia quinque superlucratus
sum (perf. < = superlucrari 余計に儲ける) = Luther: Du hast mir fünff Centner gethan / Sihe
da / ich habe da mit andere fünff Centner gewonnen
(58) iogiuuelih thie thar gisihit uuib sie zi geronne, iu habêt sia forlegana in sînemo herzen (28,
1)(女を見て彼女に情欲を起こす者は誰でも、すでに自分の心の中でその女を犯してい
るのである)= Mt 5, 28: omnis qui viderit mulierem ad concupiscendum eam, iam moechatus
est eam in corde suo (perf. < moecahri 姦通する) = Luther: Wer ein Weib ansihet jr zu
begeren / Der hat schon mit jr die ehe gebrochen in seinem hertzen
上の例のうち、ラテン語の対応箇所は、(56)では habere + 過去分詞であるが、(57)と(58)
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では完了過去である。
例(58)は発話時から見て過去の事態を表す例ではない。無時間的・未来的事態を表す例
は sein + 過去分詞にも存在したが(上例(8))、ここでは過去分詞が未来を表すとは考え
られない。なぜなら、この例は未来的な不特定のある時点から見て過去に「犯す」という
事態がすでに生じているという完了性が表されているからである。ここでの無時間的・未
9)
来的意味は haben が担っている。 このような例は現代語でも可能である。
Wenn aber Sordini auch nur den geringsten Vorteil gegenüber irgend jemandem in Händen hat,
hat er schon gesiegt (Kafka: Das Schloss 66)(しかしゾルディーニは誰かに対してどんな
小さな有利であってもそれを手中に収めさえすれば、それでもう勝利しているのだ)
いずれにしても、この例 (58)においてもある事態が生じた結果状態が表されている点では
他の二例と異ならない。
次に haben の過去形 + 過去分詞(habêta (= hatte) + PP)の例を挙げる。
(59) phigboum habeta sum gipflanzotan in sinemo uuingarten, inti quam suochen uuahsamon
in themo boume (102, 2)(無花果の木をある人が自分のぶどう畑に植えておいた。そし
て木になっている実を探しにやって来た)=L 13, 6: arborem fici habebat quidam
plantatam in venea sua, et venit quaerens fructum in illa (habebat = imperf. < habere;
plantatam = pp. f. sg. acc. < plantare 植える) = Luther: Es hatte einer ein Feigenbawm / der
war gepflanzt in seinem Weinberge / vnd kam vnd suchte Frucht daruff
(60) senu thin mna, thia ih habeta gihaltana in sueizduohhe (151, 7)(ご覧下さい、私が手ぬ
ぐいにとっておいたあなたの 1 ミナです)= L 19, 20: ecce mna tua, quam habui
repositam in sudario (habui = perf. < habere; repositam = pp. f. sg. acc. < reponere とってお
く) = Luther: sihe da / hie ist dein Pfund / welchs ich habe im Schweistuch behalten
これらの例では上の(56)と同様、ラテン語の対応箇所が habere + 過去分詞である。これは
裏を返せば、habêta + PP がラテン語の全分過去と対応するものとしては用いられないと
いうことである。この点で habêta + PP は was + PP と同じである。
他に haben
が命令形の例(下例(61))と接続法現在(接続法 I 式)の例(下例(62))が
ある。
(61) thorph coufta ih inti nôtthurft haben ih ûzziganganne inti gisehen iz: ih bitu thih, habe mih
gisihhorotan (125, 3)(地所を私は買いました。それで行ってそれを見なければなりませ
ん。お願いですから、私を許された者と見なして下さい〔失礼させて下さい〕)= L 14,
18: villam emi et necesse habeo exire et videre illam: rogo te, habe me excusatum (habe =
imper. praes. < habere; excusatum = pp. m. pl. acc. < excusare 容赦する) = Luther: Jch habe
einen Acker gekaufft / vnd mus hin aus gehen / vnd jn besehen / Jch bitte dich entschüldige
mich (125, 4 も同様)
(62) thisu sprihhu ih in mittilgarte, thaz sie haben minan gifehon giuultan in in selben (178, 5)
- 49 -
(彼ら〔弟子たち〕が私の喜びを彼ら自身の中で満たされた〔完全な〕状態で持つよう
に、私はこれらのことをこの世で言う)= J 17, 13: hæc loquor in mundo, ut habeant
gaudium meum impletum in semetipsis (habeant = conj. praes. < habere; impletum = pp. n. sg.
acc. < implere 満たす) = Luther: [ich] rede solches in der welt / Auff das sie in jnen haben
meine Freude volkomen
これら二例は、前章のゴート語の haben +
過去分詞の例として挙げられた(40)(41)( 34
頁)と全く同じ箇所の同じ用法を示している。つまり (62)では過去分詞の表す事態の動作
主が文の主語ではなく、また(61)では haben が命令形であり、いずれにおいても haben と
過去分詞がそれぞれ自律的意味を持つ。
habêt + PP (= hat + PP) は、上例(57)と(58)ではラテン語の完了過去に対応するものとし
て用いられるが、ist + PP の場合と同様、すべてのラテン語の完了過去が haben の現在形
+ 過去分詞で表されるわけではない。10) ラテン語の完了過去は基本的にドイツ語の過去
形に対応し、現在時における結果状態を表し、habêt + 過去分詞を用いてもおかしくない
箇所でも多くは過去形が用いられる。11)
(63) bringet fon then fisgon thie ir nu gifiengut (237, 2)(あなた達が今捕った魚をいくらか
持ってきなさい)= J 21, 10: afferte de piscibus quos prendedistis nunc (perf. < prendere 捕
る) = Luther: Bringet her von den Fischen / die jr jtzt gefangen habt
(64) thu gihielti then guoton uuin unzan nu (45, 7)(あなたはよいワインを今まで取ってお
いた)= J 2, 10: tu autem servasti bonum vinum usque adhuc (perf. < servare 貯蔵する) =
Luther: Du hast den guten Wein bisher behalten
(65) quad ther hilant: ni slahes, ni huoros [...] tho quad imo ther iungo: alliu thisu gihielt ih fon
minera iugundi (106, 3)(救世主は「殺すな、姦淫するな〔……〕」と言った。若者は
「そのすべてを私は若年の頃からずっと守っています」と言った)= Mt 19, 20: [...]
omnia hæc custodivi a iuventute mea (perf. < custodire 守る) = Luther: [...] Das habe ich alles
gehalten von meiner Jungent auff
(66) thiu thu gigarauuitas, uues sint thiu? (105, 3)(お前が準備したものは、誰のものにな
るのか)= L 12, 20: quæ autem parasti, cuius erunt? (perf. < parare 準備する) = Luther: wes
wirds sein / das du bereitet hast?
(67) seno mîn tagamuos garuuita ih (125, 6)(さあ、私は昼食の準備をしました)= Mt 22,
4: ecce prandium meum paravi (perf. < parare 準備する) = Luther: Sihe / meine Malzeit habe
ich bereitet
(68) nist thir iz sorga thaz min suester liez mih einun ambahten? quid iru thaz siu mir helphe
(63, 3)「私の姉妹〔マリア〕が私一人に給仕をさせているのがあなたには気にならない
のですか。彼女に私を手伝うように言って下さい)= L 10, 40: non est tibi curae quod
soror mea reliquit me solam ministrare? (perf. < relinquere 放っておく) = Luther: fragestu
nicht darnach / das mich meine Schwester lesst alleine dienen? (praes.)
(69) gihornessi gihoret ir inti ni furstantet, inti gisehente gisehet inti ni gisehet. githiket ist herza
thesses folkes, inti orun suarlihho gihortun inti iro ougun bisluzun (74, 6)(あなた達は聞く
- 50 -
ものを聞いても理解せず、見て見ても見ない。この民の心は覆われており、そして耳は
聞き難くなっており、彼らの目は閉ざしている)= Mt 13, 14/15: incrassatum est enim cor
populi huius, et auribus graviter audierunt et oculos suos cluserunt (audierunt = perf. < audire
聞く; cluserunt = perf. < cludere 閉ざす) = Luther: Mit den Ohren werdet jr hören / vnd
werdet es nicht verstehen / vnd mit sehenden Augen werdet jr sehen / vnd werdet es nicht
vernemen. Denn dieses volcks Hertz ist verstockt / vnd jre Ohren hören vbel / vnd jre Augen
schlummern (praes.)
(70) ih uorstuont iuuih, uuanta ir gotes minna ni habet in iu (88, 13)(私はあなた達のことが
分かっている。というのは、あなた達は自分たちの中に神の愛を持っていないからであ
る)= J 5, 42: cognovi vos, quia dilectionem dei non habetis in vobis (perf. < cognoscere「知
る」) = Luther: ich kenne euch / das jr nicht Gottes liebe in euch habt (praes.)
(71) her offano sprihhit, inti sie ni quedent imo niouuiht. eno ni forstuotun zi uuare thie
heroston thaz thiz ist Christus? (104, 7)(彼〔イエス〕は公然と話し、彼らは彼に何も言わ
ない。ひょっとして、役人たちは、彼がキリストであることを実際知っているのではな
いだろうか)= J 7, 26: ecce palam loquitur, et nihil ei dicunt. numquid vere cognoverunt
principes quia hic est Christus? (perf. < cognoscere 知る) = Luther: [...] Erkennen vnser
Obersten nu gewis / das er gewis Christus sey? (praes.)
(72) ist mîn fater thie mih diurit, then quedet ir thaz her îuuar got si, inti ir ni furstuont inan; ih
uuârlihho uueiz inan (131, 24)(私に栄光を与えるのは私の父であり、あなた達がそれが
あなた達の神であると言っている人である。あなた達はその人を知らない。私はその人
をまさしく知っている)= J 8, 54/55: [...] non cognovistis eum; ego autem novi eum
(cognovistis = perf. < cognoscere「知る」; novi = perf. < noscere 認識する) = Luther: Es ist
aber mein Vater / der mich ehret / welchen jr sprecht / Er sey ewer Gott / Vnd kennet jr nicht /
Jch aber kenne jn (praes.)
(73) fremiden ni folgent, oh fliohent fon imo, uuanta sie ni uuestun stemma fremidero (133, 7)
(よその人たちには〔羊たちは〕ついていかず、逃げていく。彼ら〔羊たち〕はよその
人たちの声を知らないからである)= J 10, 5: [...] quia non noverunt vocem alienorum (perf.
< noscere 認識する) = Luther: [...] Denn sie kennen der Frembden stimme nicht (praes.)
(74) so mihila zit bin ih mit iu, inti ir ni forstuontut mih. Philippus, therde mih gisihit gisihit
then fater (163, 2/3)(こんなにも長い間私はあなた達と一緒にいるのに、あなた達は私
が分かっていない。ピリポよ、私を見る者は父を見るのである)= J 14, 9: [...] non
cognovistis me. Philippe, qui vidit me vidit et patrem (perf. < cognoscere 知る) = Luther: So
lang bin ich bey euch / vnd du kennest mich nicht? Philippe / wer Mich sihet / der sihet den
Vater (praes.)
(75) thisu duont sie, uuanta sie ni uuestun minan fater noh mih (171, 3)(そんなことを彼ら
がするのは、彼らが私の父も私も知らないからである)= J 16, 3: haec facient, quia non
noverunt patrem neque me (perf. < noscere 認識する) = Luther: solchs werden sie euch
darumb thun / das sie weder meinen Vater noch mich erkennen (praes.)
(76) quad in: ziu stet ir allan tag unnuze? quadun imo: uuanta nioman unsih gileita (109, 1)
(〔主人が〕彼らに「お前たちはどうして一日中無為に立っているのか」と言った。彼
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らは彼に「誰も我々を雇っていないからだ」と言った)= Mt 20, 6/7: dicit illis: quid hic
statis tota die otiosi? dicunt ei: quia nemo nos conduxit (perf. < conducere 雇う) = Luther: [er]
sprach zu jnen/ Was stehet jr hie den gantzen tag müssig? Sie sprachen zu jm / Es hat vns
niemand gedinget
(77) ni fand ih so mihilan giloubon in Israhel (47, 6)(私はイスラエルでこれほど大きな信
仰を見たことがない)= Mt 8, 10: non inveni tantam fidem in Israhel (perf. < invenire 見出
す) = Luther: solchen glauben hab ich in Jsrael nicht funden
(78) noh ir thaz lasut thaz Dauid teta (68, 3)(あなた達はダヴィデがしたことを読んだこ
とがないのか)= L 6, 3: nec hoc legistis quod fecit David (perf. < legere 読む) = Luther:
Habt jr nicht das gelesen / das Dauid thet(68, 4 = L 6, 3 も同様)
(79) eno ni lâsut ir in giscribun (124, 5)(あなた達は聖書の中で読んだことがないのか)=
Mt 21, 42: numquam legistis in scripturis (perf. < legere 読む) = Luher: Habt jr nie gelesen in
der Schrifft
(80) ni lâsut îr in Moyseses buohhun ubar then thorn (127, 4)(あなた達はモーセの書の中で
茨について〔次のように言われているのを〕読んだことがないのか)= Mc 12, 26: non
legistis in libro Moysi super rebum (perf. < legere 読む) = Luther: Habt jr nicht gelesen im
buch Mosi / bey dem pusch
(81) uuo theser buohstaba uueiz, mittiu er sie ni lerneta? (104, 4)(この者〔イエス〕は、聖
書を学んだこともないのに、どうしてそれを知っているのだろうか)J 7, 15: quomodo
hic litteras scit, cum non didicerit? (conj. pef. < discere 学ぶ) = Luther: Wie kan dieser die
Schrifft / so er sie doch nicht gelernet hat?
また、habêta + PP (= hatte + PP) はラテン語の全分過去(過去完了)には対応しないと
述べたが、ではラテン語の全分過去が何に対応するかと言うと、それはやはり過去形であ
る。意味的にある事態の生じた結果状態を表し、habêta + PP で表されてもいいような箇
所も多くは過去形で表される。
(82) ih fant thie dragmam thie ih uorlos (96, 5)(私は失っていた銀貨を見出した)= L 15,
9: inveni dragmam quam perdideram (pluq. < perdere 失う) = Luther: ich habe meinen
Grosschen funden / den ich verloren hatte
(83) tho quad her themo ther inan ladota (110, 4)(そして彼〔イエス〕は自分を招待した
人に言った)= L 14, 12: dicebat autem et ei qui se invitaverat (pluq. < invitare 招待する) =
Luther: Er sprach auch zu dem / der jn geladen hatte
(84) thiz quadun sine eldiron, uuanta sie forhtun thie Iudeon: iu tho gieinotun sih thie Iudaei,
oba uuer inan Christ biiachi, uz fon theru samanungu uuari (132, 13)(彼〔かつて盲人だった
男〕の両親がこのように〔息子の目が開いた理由が分からないと〕言ったのは、ユダヤ
人たちを恐れていたからであった。すでにユダヤ人たちは、彼〔イエス〕をキリストと
認める者は集会所から追い出されると、意見を一致させていた)= J 9, 22: haec dixerunt
parentes eius, quia timebant Iudaeos: iam enim conspiraverant Iudaei [...] (pluq. < conspirare
一致する) = Luther: Solchs sagten seine Eltern / den sie furchten sich fur den Jüden / Denn die
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Jüden hatten sich schon vereiniget [...]
(85) gieng tho ther thio fimf talenta intfieng inti uuorahta in then inti gistriunita andero fimui.
so sama therde zuuua talenta intfieng gistriunita andero zuua. ther thia einun intfieng gieng inti
gruob in erda inti gibarc scaz sines herren (149, 2)(5 タラント受け取った者は行って、そ
れを働かせて、別に 5 タラント儲けた。同じく、2 タラント受け取った者は別に 2 タラ
ント儲けた。1 タラント受け取った者は、行って、地面に穴を掘り、自分の主人の金を
隠した)
= Mt 25, 16-18: abiit autem qui V talenta acceperat et operatus est in eis et lucratus est alia
quinque. similiter et qui duo talenta acceperat lucratus est alia duo. qui autem unum acceperat
abiens fodit in terra et abscondit pecuniam domini sui (pluq. < accipere 受け取る)
= Luther: Da gieng der hin / der fünff Centner empfangen hatte / vnd handelte mit den
selbigen / vnd gewan andere fünff Centner. Desgleichen auch der zween Centner empfangen
hatte / gewan auch zween andere. Der aber einen empfangen hatte / gieng hin / vnd machete
eine Grube in die erden / vnd verbarg seines Herrn geld(149, 4/5/6 も同様)
(86) senu thô sterro then sie gisahun in ostarlante forafuor sie (8, 5)(すると、彼ら〔東方の
賢者たち〕が東方で見た星が彼らの先に立って行った)= Mt 2, 9: et ecce stella quma
viderant in oriente antecedebat eos (audissent = conj. pluq. < audire; viderant = pluq. < videre
見る) = Luther: Vnd sihe / der Stern den sie im Morgenland gesehen hatten / gieng fur jnen
hin
(87) quam Maria Magdalenisga inti ander Maria inti Salomæ zi themo grabe, truogun thiu sio
gigarauuitun thia biminzsalbun (216, 2)(マグダラのマリアと別のマリアとサロメとが、
墓へ行った。彼女たちは自分たちの 用意していた 薬草入りの香油を持っていった) =
Mt 28, 1/Mc 16, 1/L 24, 1: venit Maria Magdalene [...] ad monumentum portantes quae
paraverant aromata (pluq. < parare 用意する) = Luther: [...] trugen die Specerey / die sie
bereitet hatten
1. 4 『オトフリート福音書』以前の完了形(まとめ)
『オトフリート福音書』以前の完了形の特徴は次のようにまとめられる。
① ist + PP, habêt + PP (hat + PP) はラテン語の完了過去(現在完了)に対応するものとし
て用いられる場合が多い。ただし、ラテン語の完了過去の多くはドイツ語の過去形で表さ
れる。
② was + PP (war + PP), habêta + PP (hatte + PP) はラテン語の全分過去(過去完了)に対応
しない。ラテン語の全分過去は、ドイツ語の過去形で表される。
③すべての sein/haben + PP は過去分詞が形成可能な動詞の過去分詞からなり、構成素の
sein, haben, 過去分詞それぞれが自律性を失ってはいない。
④ haben + PP において、過去分詞の表す事態の動作主が文の主語ではない例はほとんど
ない。唯一の例外は上例(62)であるが、それも英語の have 受動のような意味ではなく、
過去分詞が純粋な形容詞と見なされるような例である。( (62)では、他人が「満たす」
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(gifullen) わけではなく、過去分詞 gifullit は単に「満たされた=完全な」を意味する。)
2. 『オトフリート福音書』の完了形
ドイツ語の完了形の歴史は 870 年頃成立の『オトフリート福音書』12) において第一の転
換点を迎える。すなわち、haben と過去分詞それぞれの自律性が失われ、haben + 過去分
詞という組合せ自体が一つの意味を担う例が現れる。ここにおいて初めて haben + 過去
分詞は「完了形」と呼べるものになる。
2. 1 『オトフリート福音書』の sein + 過去分詞
全用例において過去分詞として現れる動詞を示すと次のようになる(括弧の前の数字は
用例数)。
queman (kommen)
7 (I, 16, 17; II, 3, 26; II, 3, 36; II, 7, 45; II, 7, 67; III, 9, 1; IV, 3, 1)
irstân (auferstehen)
4 (IV, 37, 28; V, 4, 47; V, 7, 60; V, 11, 37)
bilîban ((tot) bleiben)
3 (III, 23, 48; 50; *55)
werdan (werden, geschehen)
2 (*II, 2, 31; II, 7, 44)
furifaran (vorübergehen)
*(I, 4, 51)
githîhan (gedeihen)
*(II,4, 22)
gikeren (zurückkehren)
(V, 25, 3)
giliggen (liegen)
(III, 23, 49)
gimiaren (ankommen)
gisuîchan (weichen)
ingân (entgehen)
*(V, 25, 2)
(IV, 12, 58)
*(V, 3, 17)
in(t)fliahan (entfliehen)
(V, 15, 25)
irqueman (erschrecken)
(III, 26, 46)
irwerdan (verderben)
(III, 10, 25)
irwintan (umkehren)
(V, 4, 47)
計 27
(* は Erdmann 1973: 226 に挙がっていない例)
まず sein (wesan) が現在形の例(ist + PP)を挙げる。
(88) uns sint kint zi beranne ju daga furifarane (I, 4, 51)(我々には子供を生むにはすでに
日が過ぎ去っています〔年を取りすぎた〕)
(89) thaz wort theist man wortan, iz ward hera in worolt funs joh nu buit in uns (II, 2, 31)(人
となった言葉は、この世に来る用意ができて、今我々の中に宿っている)
(90) thiu salida ist uns wortan, thaz wir nan eigun funtan: fon Nazaret then gotes sun, nu ist er
queman herasun (II, 7, 44/45)(至福が我々に生じました。私たちが彼、すなわちナザレ
の神の息子を見出したという至福が。今や彼はここに来ているのです)
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(91) thu bist [...] herasun queman druhtines sun, bist kuning ouh githiuto therero lantliuto (II, 7,
67)(あなたは主の息子としてここに 来た のです。あなたは明らかにこの国の民の王で
す)
(92) er: ist Lazarus bilibaner (III, 23, 50)(彼、ラザロは死んだのだ)
(93) gizeli worton thinen then bruadoron minen, thaz habes thu irfuntan theih bin fon tode
irstantan (V, 7, 60)(私が死から甦ったことをあなたが見つけたと、あなたの言葉で私
の兄弟たちに伝えなさい)
(94) er ist fon hellu irwuntan joh uf fon tode irstantan, ni thurfut ir nan riazan; ja was iuz er
giheizan (V, 4, 47)(彼〔イエス〕は黄泉の国から引き返し、死から甦ったのだ。あなた
方は彼のことで泣くことはない。それはあなた方にすでに言われていたことだ)
(95) selben Kristes stiuru joh sinera ginadu bin nu zi thiu gifierit, zi stade hiar gimierit; bin nu
mines wortes gikerit heimortes (V, 25, 2/3)(キリスト自らの案内と慈悲によって今私はそ
ちらに導かれ、この岸にたどり着いた。今私は自分の著作において帰路を戻ってきた)
13)
(96) thanne woroltkuninga sterbent bi iro thegena, in wige iogilicho dowent themanlicho: so sint
se alle geirrit, thes wiges gimerrit, ther in thera noti thar imo folgeti; joh fallent sie ginoton fora
iro fianton, untar iro hanton sprron joh mit suerton; sie sint in alathrati fluhtig thera dati,
irqueman thero werko fluhtigero githanko (III, 26, 46)(もし現世の王たちが自分の従士の
代わりに死ねば、戦いにおいてつねに勇敢に死ぬとしても、彼〔王〕に従わねばならな
い者たちは皆、惑わされ、戦いに傷つけられる。そして彼ら〔従士たち〕は敵たちの前
で、敵たちの槍と剣による力に屈して、倒れるのは必然である。彼ら〔従者たち〕はそ
の行いに即刻逃走する。逃げ出す考えをもつほど敵たちの所業に驚愕して)
(97) ih ni bin [...] gisentit hera in worolt in, ni si theih gidue githiuti thie mines fater liuti; iro ist
filu irwortan, ni sint ouh noh nu funtan; ih quam bi theru noti, theih thie gisamanoti (III, 10,
25)(私はただ我が父の民をまとめるために、この世に遣わされたのだ。彼らの多くは、
今見出されなければ、 破滅してしまう 。私は彼らを何としてでも集めるために来たの
だ)
『オトフリート福音書』にはラテン語原典が存在したと推定されるが、それは失われたた
め、ラテン語との対照で意味を確定することはできない。しかし文脈から判断すると、上
例のうち (96)と (97)を除いてすべて「~した結果、今その結果の状態にある」という原初
的意味で ist + PP は用いられている。
(96)は Erdmann (226) において sein + 過去分詞の例として挙げられているが、sein はむ
しろ形容詞 fluhtig「逃げている」を述語としており、過去分詞 irqueman「驚愕した」は
副詞的に用いられているように思われる。もしこの過去分詞が sein の述語であるとして
も、この例は「~になった結果、その状態にある」という過去における事態の結果状態で
はなく、無時間的・未来的事態を表す。(97)では過去分詞が sein
の述語であるが、これ
も明らかに無時間的・未来的事態を表す。この種の用法についてはすでに、『タチアー
ン』の例(8)のところで説明した( P.41 参照頁)。
次に sein (wesan) が過去形の例(was + PP)を挙げる。
- 55 -
(98) si kundta thar sos iz was, thaz in thiu fruma queman was (I, 16, 17)(彼女〔アンナ〕は
そこでことの次第、すなわち自分たちに救いが来たことを告げた)
(99) sie kundtun thar then liutin, thoh si es tho ni ruahtin, thaz in was queman herasun ther
gotes einigo sun (II, 3, 26)(彼ら〔シメオンとアンナ〕はそこで人々に、人々がそのこと
に注意を払いはしなくとも、神の唯一の息子が彼らのところへ やって来た ことを告げ
た)
(100) ther liut tho geiscota thaz thaz druhtin thara queman was (III, 9, 1)(人々はそこで、主
がそこにやって来たことを聞き知った)
(101) gihorta tho ther liut thaz thaz druhtin Krist thara queman was, quam tho thara ingegini
mihil woroltmenigi (IV, 3, 1)(民衆は、主キリストがそこにやって来ていることを聞き、
それで多くの群衆がそこへおしかけて来た)
(102) sie wantun druhtin meinti, er sinan slaf zeinti; er solbo meinta avur thaz thaz er tho
biliban was. det er ofan in tho sar wio bi nan gilegan was thaz war. „ih wille iu iz zellen“,
quad er, „er: ist Lazarus bilibaner. [...]“ (III, 23, 48-50)(彼らは、主が彼〔ラザロ〕の眠り
をさして言っているのだと思った。彼〔主〕はしかし、彼〔ラザロ〕がその時死んでい
ると言ったのである。そこですぐに彼〔主〕は彼らに、彼〔ラザロ〕が実際どうなって
いるのか明らかにした。「私はあなた方に言おうと思う」と彼〔主〕は言った。「彼、
ラザロは死んだのだ」)
(103) ni habat er in thia redina ni si ekord einlif thegana; ih meg iz baldo sprechan: ther zuelifto
was gisuichan (IV, 12, 58)(彼〔イエス〕は十一人の従士しか考慮の対象としなかった。
私は勇気を持って次のように言うことができる。十二人目は離反したのであった)
(104) ni duemes thie so thie rietun thie thie knehta miattun mit scazzu joh mit worton, thie
selbun ewarton, mit spenstin ginuagin, thaz sies ni giwuagin, theiz ni wurti irfuntan thaz druhtin
was irstantan (IV, 37, 28)(彼ら〔司祭たち〕と同じことをしないようにしよう。すなわ
ち、彼らは協議して兵卒たちを金銀と言葉で買収し、多くの惑わしによって、主が甦っ
たことが明らかになったなどと兵卒たちが思わないようにした)
(105) sus lokota er mit minnon thie drutmennisgon, sus io thesen datin, thaz sie nan irknatin;
thaz fon in wurti funtan thaz er was selbo irstantan, joh sie giwisso ouh westin thaz er stuant
fon then restin (V, 11, 37)(こうして彼〔イエス〕は愛をもって愛する者たちを喜ばせた。
すなわち、彼ら〔愛する者たち〕が自分を認識するように、自分が甦ったことが彼らに
発見されるように、そして自分が安息の場〔墓場〕を離れて来ていることを彼らがはっ
きり知るように、彼らに行うというやり方で)
(106) sprach er odo deta waz, thaz was al githiganaz (II, 4, 22)(彼は完璧であることを言っ
た、あるいは行った)
最後の(106)の githigan (githîhan = gedeihen「成長する」の過去分詞)は単なる形容詞と見
なすべきかもしれないが、いずれにしてもすべての例が「~になった結果、その状態にあ
った」という原初的意味を表す。14)
他に sein
が接続法現在(I
式)の例(下例(107)(108))や、接続法過去(II 式)の例
- 56 -
(下例(109)(110))があるが、これらも原初的意味から離れるものではない。
(107) thoh er nu biliban si, farames thoh thar er si; zi thiuz nu sar giligge, thoh er bigraban
ligge (III, 23, 55)(彼〔ラザロ〕が今死んでいるとしても、彼のいるところに行こう。
たとえ彼が埋葬されるということが変わらない事実であるとしても)
(108) gib, druhtin, io ther segan sin in allon anahalbon min [...] mit thiu si ih io thuruh not al
umbizirg biseganot, thaz fiant sih ni mende, er stat in mir io finde; mit thiu si ih io bifangan joh
fianton ingangan, bifolahan sinen seganon joh allen gotes theganon (V, 3, 17)(主よ、主の幸
福が私のそばにいつでもありますように。私がいつどこでも幸福であり、敵が私の中に
活動の場を見つけて喜ぶことのないように。私がいつも守られて敵から逃れていて、主
の幸福と神のすべての従士たちにあずけられてありますように)
(109) sie wurtun al giruarit, in muate gidruabit, want er deta mari, thaz druhtin queman wari (II,
3, 36)(人々は心を強く打たれ、心中乱された。というのも、彼〔洗礼者ヨハネ〕が、
主が来たということを告げたからである)
(110) er thrittun stunt nan gruazta, wat er in imo buazta thaz er er ju in war min so thiko
lougnitasin; ther thria stunton jahi, so thiko inflohan wari; thia mina zalti hiar, so zam, ther er
so sero hintarquam (V, 15, 25)(彼〔イエス〕は三度目に彼〔ペテロ〕に呼びかけた。そ
れは彼〔ペテロ〕がかつて実際同じ回数彼〔イエス〕を否認したことを償わせたのであ
る。否定したのと同じく三度承認し、ここで愛を告白することに対し、それは正当なこ
とであったが、彼〔ペテロ〕はひどく驚いた)
2. 2 『オトフリート福音書』の haben + 過去分詞
全用例において過去分詞として現れる動詞を示すと次のようになる。
findan (finden)
8 (I, 1, 8; I, 18, 28; II, 7, 27; II, 7, 44; II, 7, 55; III, 5, 1;
V, 7, 44; V, 23, 265)
gimeinen (bestimmen, beschließen)
4 (I, 5, 39; I, 5, 57; III, 13, 23; *V, 19, 1)
giheizan (verheißen, verkünden)
2 (V, 23, 47; V, 24, 3)
firnemen (vernehmen)
2 (III, 12, 21; III, 20, 88)
giweizen (beweisen)
2 (III, 7, 57; V, 23, 61)
bisperren (absperren)
2 (Lud. 73; II, 4, 8)
beran (gebären)
(I, 12, 13)
bithenken (bedenken)
(I, 1, 23)
bikleiben (fest machen)
(I, 5, 39)
binagalen (vernageln)
(Lud. 72)
firlâzan (verlassen)
(I, 18, 11)
firmeinen (mitteilen)
(I, 1, 82)
firslintan (verschlucken)
(V, 23, 265)
firsuelgan (verschlucken)
(V, 23, 266)
- 57 -
firwirken (verwirken)
*(III, 17, 13)
giavarôn (wiederholen)
(IV, 31, 30)
gibergan (verbergen)
(V, 23, 266)
gibilidôn (vorbilden)
(III, 3, 21)
gibintan (binden)
(I, 1, 8)
giduan (tun)
(III, 18, 36)
gieinôn (vereinigen)
(IV, 1, 2)
gifâhan (fangen)
*(V, 13, 10)
gihaltan (halten)
(III, 7, 54)
gihôren (hören)
(IV, 19, 67)
gilochôn (lindern)
(V, 20, 76)
gimanagfaltôn (vervielfältigen)
(IV, 6, 48)
gineman (entreißen)
(V, 7, 29)
gisculden (verdienen)
(V, 20, 71)
gisprechan (sprechen)
(I, 25, 11)
gizeigôn (zeigen)
(III, 3, 3)
gizeinen (zeigen)
(I, 1, 82)
gizellen (zählen, erzählen)
(IV, 15, 55)
irdeilen (urteilen)
(I, 5, 57)
irfindan (auffinden)
(V, 7, 60)
irfullen (erfüllen)
(V, 20, 71)
irsuachen (erforschen)
(V, 7, 11)
ubarkoborôn (überwältigen)
(IV, 31, 30)
ubarstigan (übersteigen)
(I, 4, 53)
ubarwinnan (bewältigen)
(I, 1, 76)
ubarwintan (überwinden)
(V, 14, 14)
計 54 (* は Erdmann: 228 f. に挙がっていない例)
『オトフリート福音書』の haben + 過去分詞がそれまでの haben + 過去分詞と異なる
点は、まず第一に、量的に haben + 過去分詞が sein + 過去分詞を上回るということであ
る。従って、単に量的に見ても haben + 過去分詞は新たな段階に踏み込んだと言える。
しかしこれまでの haben + 過去分詞との最大の違いは、何よりも、対格目的語が存在し
ない例が現れるということである。もし ich habe das Buch gefunden がもともと「私には
その本が見出された状態である」を意味していたとすれば、当然、過去分詞によって修飾
されるべき対格目的語がなければならない。この欠落がいかにして生じたかが問題である。
2. 2. 1 hat + PP
まず haben (habên/eigan) が現在形の例(hat + PP)を考察する。
次の例では『タチアーン』における上例 (62)と同様、過去分詞の表す事態の動作主が文
- 58 -
の主語と一致しない読みが可能である。(「この国」が「生む」とは言えない。)
(111) niuwiboran habet thiz lant then himilisgon heilant (I, 12, 13)(この国には天の救世主
が新しく生まれている)
上のような例は haben
と過去分詞がそれぞれ自律性を保っていることを示す。しかし、
この種の例は『オトフリート福音書』には他に存在せず、他の例はすべて過去分詞の表す
事態の動作主が文の主語と一致する。そのうち、まず、従来の用例から出現の予測が可能
な、原初的意味を保持した例を挙げる。
(112) sie eigun mir ginomanan liabon druhtin minan, thaz min liaba herza, bi thiu ruarit mih
thiu smerza (V, 7, 29)(彼らは私から私の愛する主、私の愛しい心を奪ったのです。それ
で私は痛みに襲われているのです)
(113) thoh habet therer thuruh not, so druhtin selbo gibot, thaz fiant uns ni gaginit, thiz fasto
binagilit; simbolon bisperrit (Lud. 72/73)(しかしこの人〔ルートヴィヒ・ドイツ王〕は
何としてでも、主が命じた通り、敵が我々を襲わないようにと、この国をかたく守り、
いつも閉ざしている)
(114) iz dunkal eigun funtan, zisamane gibuntan (I, 1, 8)(〔多くの民族は〕それ〔民族の
名を高める文学〕を不思議なやり方で創造し、まとめ上げている)
(115) Thar ist lib ana tod, lioht ana finstri, engilichaz kunni joh ewinigo wunni. wir eigun iz
virlazan (I, 18, 11)(そこ〔楽園〕には死なき生、闇なき光、天使の血統、永遠の歓喜が
ある。我々はそれから離れた)
(116) thar nirstirbit man nihein, bi thiu ni wirdit ouh in war thaz man nan bigrabe thar; odo
iawiht thes man thar bige thes zi tode gige, zi themo thionoste; sie sint thar al gidroste. then tod
then habet funtan thiu hella joh firsluntan, diofo firsuolgan joh elichor giborgan (V, 23,
265/266)(そこ〔彼岸〕では誰も死ぬことはない。それゆえ実際そこでは人がその人を
埋葬するということも起こらない。あるいはそこでは死に関わること、その勤めに関わ
ることに人が従事することもない。彼らはそこでは皆安心してよい。死を黄泉の国はつ
くりだしたが、またそれをのみこみ、深く嚥下し、そして未来にわたって隠してしまっ
た)
(117) iz habet ubarstigana in uns jugund managa (I, 4, 53)(それ〔高齢〕が私たちの中で
多くの若さを凌駕しています〔=高齢で若さを失った〕)
(118) sie sint filu redie sih fianton zirrettine; ni gidurrun sies biginnan, sie eigun se
ubarwunnan (I, 1, 76)(彼ら〔フランク人〕は敵から身を守る備えが十分である。敵た
ちは敢えて戦いを起こしはしない。〔もし起こせば〕フランク人は敵たちを制圧してし
まう)
『オトフリート福音書』における haben + 過去分詞の一つの特徴は、対格目的語の表
すものの物理的変化ではなく、抽象的事態を表す例が多いということである。そのような
例においては、対格目的語が表すものの状態は、確かに存在するかもしれないが、「ドア
- 59 -
が開いている」のように具体的に目に見えるような状態ではない。そのため表現の重点は、
現在の状態よりもむしろ、何が行われたのかという過去の行為に移される。これは haben
+ 過去分詞が状態表現から過去表現へと発展する第一歩である。
(119) nist liut thaz es biginne, thaz widar in ringe: in eigun sie iz firmeinit, mit wafanon
gizeinit (I, 1, 82)(彼ら〔フランク人〕に逆らって戦うことを始めるような民族はいない。
彼らにフランク人はそのことを分からせ、武力で示した)
(120) bi thiu habet uns iz selbo got hiar forna nu gibilidot, natura in uns ni fliehen joh zi ebine
giziehen (III, 3, 21)(それゆえ主自らそれを我々にここで今前もって比喩的に示したので
ある。すなわち我々の中にある自然が失われることなく、平等へと向うことを)
(121) sie eigun thaz giweizit, bi hiu man sie korbi heizit (III, 7, 57)(彼ら〔神の僕たち〕は、
なぜ人がそれを籠と呼ぶのか示した)
(122) thes habet er ubar woroltring gimeinit einaz dagathing, thing filu hebigaz, zi sorganne
eigun wir bi thaz (V, 19, 1)(そのことに関し、彼〔主〕は全世界に対して一つの審判の
日を定めている。それは非常に重大な審判であり、我々はそれに対して心配せねばなら
ない)
(123) si erhuggent Kristes wortes joh liobes managfaltes, biginnent thara io flizan (er habet in iz
giheizan) (V, 23, 48)(彼ら〔神の従士たち〕はキリストの言葉と多様な愛とを思い、そ
れを目指して努力する。-彼〔キリスト〕はそれを与えることを彼らに約束した)
(124) giwerdo uns geban, mit thines selbes mahtin, wir unsih muazin bliden mit heilegon thinen;
mit in wir muazin niazan, thaz habest thu uns giheizan, thesa selbun wunna thia wir hiar
scribun forna (V, 24, 3)(主よ、あなた自身の力によって、我々があなたの聖者たちとと
もに喜び、彼らとともに享受できるように我々に与えることをお許し下さい。すなわち、
あなたが我々に与えると約束したもの、つまり、我々が前にここで言及した歓喜を)
(125) eigun iz giweizit thie martyra man heizit, thaz thar in anawani ist harto manag sconi; joh
offonotaz iro muat thaz thar ist harto manag guat (V, 23, 61)(殉教者と人が呼ぶ者たちは、
確かに彼岸には非常に多く美しいものがあることを証明した。また、彼らの勇気は、彼
岸に非常に多くよいものがあることを明らかにした)
(126) in tho druhtin zelita, want er se selbo welita, manota sie thes nahtes managfaltes rehtes. er
habet in thar gizaltan drost managfaltan fon sin selbes guati, so sliumo so er irstuanti (IV, 15,
55)(主は彼ら〔弟子たち〕を自ら選んだので、彼らにその夜、様々な正しい行いにつ
いて語り、彼らに注意を喚起した。彼〔イエス〕は彼らにそこで、すぐに自分は甦ると
いう彼自身の善性による大いなる慰めを教えた)
(127) ir eigut iz gisculdit, willon min irfullit; ih lonon iu es thare mit liebu zi alaware. ir
gibuaztut mir in war thurst inti hungar, in hus mih ouh intfiangi, theih wallonti ni giangi; ir ni
thultut thuruh got thaz ih giangi nochot, ir eigut ouh thuruh got siuchi in mir gilochot; ob ih in
karkare was, ir biriwetut thaz (V, 20, 71/76)(あなた方はそれ〔世の始めに用意された国を
受けること〕に値することを行い、私の意志を満たしたのだ。私はあなた方にまさしく
愛によってそれに報いる。あなた方は実際私の乾きと飢えを癒し、また私がさすらい歩
かずにすむように私を家に迎えてくれた。あなた方は神のために私が裸で歩くことを忍
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ばなかった。あなた方はまた神のために私の病気を和らげてくれた。私が獄にいる時に
は、あなた方はそれを嘆いてくれた)
(128) wizist thaz thiz wib firworaht habet ira lib; bifangan ist si in thrati in huares undati (III,
17, 13)(この女は死罪に値する罪を犯したのですよ。彼女は姦通の犯行の最中に捕らえ
られたのです)
(129) nu thie ewarton bi noti machont thaz girati, joh Kristes todes thuruh not ther liut sih habet
gieinot; biginnent frammort wisen wio sie inan firliesen (IV, 1, 2)(司祭たちは協議せざるを
えなくなり、また民衆は何としてもキリストが死ぬことで意見が一致しているので、司
祭たちはさらに、いかにして彼〔イエス〕をなきものにするか、指示する)
(130) thia ginada ouh, druhtin, dua in mir mit mahtin, thia thu in thina guati themo scachere dati.
ih bin, druhtin, ana wan filu harto firdan; ih haben inan giaforot joh suntono ubarkoborot (IV,
31, 30)(主よ、あなたが自身の善を目指してその罪人に与えた慈悲を私にも力強くお与
え下さい。主よ、私は確かに極めて罪深い。私はその罪人と同じことを行ってきました。
そして罪において彼を上回っています)
対格目的語の表すものが物理的変化ではなく、抽象的事態を表す典型は、動詞が知覚動詞
などの心的活動を表す場合である。15)
(131) ir hortut [...] thaz ungimah, wio er widar gote sprach; ni bithurfun wir in wara nu
urkundono mera. waz er selbo hiar nu quit, thaz eigut ir gihorit (IV, 19, 67)(あなた方は、彼
が神に逆らって言った不当な言葉を聞いた。我々には実際もはやこれ以上の証人は要ら
ない。今ここで彼自身が何を言うのか、あなた方は聞いたのだから)
(132) sie in thar tho zelitun, wio sie iz firnoman habetun (III, 20, 88)(彼ら〔もと盲人の両
親〕はそこで彼ら〔ユダヤ人たち〕に、自分たちがそれ〔盲人だった息子が見えるよう
になったこと〕をどう理解しているか語った)
(133) eigun sie iz bithenkit, thaz sillaba in ni wenkit, sies alleswio ni ruachent, ni so thie fuazi
suachent (I, 1, 23)(彼ら〔ギリシア人・ローマ人〕は、音節が自分たちに欠けることの
ないよう配慮した。彼らはただ韻脚が求める通りになるように注意する)
知覚動詞の中でも『オトフリート福音書』では findan (= finden) による haben + 過去分詞
の例が最も多い。
(134) ih haben iz funtan in mir, ni fand ih liebes wiht in thir (I, 18, 28)(私はそれ〔故郷〕
を自分の中に見出した。私はあなたの中には何らの愛も見出したことはない)
(135) in thir haben ih mir funtan thegan einfaltan, ther ouh unkusti ni habet in theru brusti (II,
7, 55)(あなたの中に私は、その胸に悪意を抱くことのない純粋な従士を見出した)
(136) gizeli worton thinen then bruadoron minen, thaz habes thu irfuntan theih bin fon tode
irstantan (V, 7, 60)(私が死から甦ったことをあなたが見つけたということを、あなたの
言葉で私の兄弟たちに知らせなさい)
(137) hiar mugun wir instantan (thaz eigun wir ouh funtan), thaz quement ummahti fon suntono
- 61 -
suhti (III, 5, 1)(ここで我々は次のことを理解することができる-そのことに我々は実
際気づいているのだが-すなわち、無力というものは罪の病から来るということを)
(138) eigun [...] liobo man, thia fruma uns funtan filu fram [...] selbon druhtinan Krist (II, 7,
27)(親愛なる人よ、〔私たちは〕まさしく私たちにとっての救いを 見出しました 、主
キリストその人を)
(139) then Moyses [...] io sageta, joh alt giscrib uns zelita - thiu salida ist uns wortan, thaz wir
nan eigun funtan: fon Nazaret then gotes sun (II, 7, 44)(モーゼがかつて言い、古い書物が
我々に語った人、すなわち、至福が我々に生じました。私たちが彼、すなわちナザレか
ら出た神の息子を見出したという至福が。)
上例の (138)や (139)には『タチアーン』に対応する箇所があり、表現もほとんど同じで
あるが、そこでは過去形が用いられていた。それぞれに対応する箇所は次の通りである。
(140) uuir fundumes Messiam (Tatian 16, 4)(私たちはメシアを見出した)= invenimus
(perf.) Mesiam (J 1, 41) = Luther: Wir haben den Messias funden
(141) then Moyses screib in thero evvu inti in uuizagun, uuir fundumes, Heilant Iosebes sun fon
Nazaret (Tatian 17, 2)(モーセが律法に書き、預言者が書いた人を私たちは見出した、ナ
ザレから出たヨセフの息子である救世主を)= [...] invenimus (perf.), Ihesum filum Ioseph
a Nazareth (J 1, 45) = Luther: Wir haben den funden / von welchem Moses im Gesetz vnd die
Propheten geschrieben haben/ Jhesum Josephs son von Nazareth)
対応するウルガータのラテン語は完了過去、ルター訳でも現在完了形であり、『オトフリ
ート福音書』の hat + PP は『タチアーン』のそれよりも現代語の現在完了形に近づいて
いることが窺われる。
『オトフリート福音書』の hat + PP が原初的意味から離れていることは、しかし何よ
りも対格目的語が現れない例が存在することに認められる。
(142) thu thes girates wiht ni weist thaz selbo druhtin wilit meist. habet er gimeinit, mit mir
thia worolt heilit (III, 13, 23)(おまえは、主自らが最も強く望む神意をまるで理解してい
ない。主は私によって世界が救済されることをお定めになったのだ)
(143) wio meg iz io werdan war, thaz ih werde suangar? mih io gomman nihein in min muat ni
birein. haben ih gimeinit, in muate bicleibit, thaz ih einluzzo mina worolt nuzzo (I, 5, 39)(ど
うして私が妊娠するなどということが起こりうるのでしょう。誰も男の人が私の意識に
上ったこともないのに。私は、自分が一人で自分の人生を過ごすと決心し、心に固く決
めているのです)
(144) nist in erdriche thar er imo io instriche [...] fliuhit er in then se, thar giduat er imo we [...]
thoh habet er mo irdeilit joh selbo gimeinit, thaz er nan in beche mit ketinu zibreche (I, 5, 57)
(彼〔悪魔〕が彼〔神〕から逃れることができる場所など地上にはありません。彼〔悪
魔〕が海に逃げても、そこで彼〔神〕は彼〔悪魔〕を苦しめます。いずれにしても、彼
〔神〕は、地獄で鎖を使って彼〔悪魔〕を破滅させるという判決を、彼〔悪魔〕に下し、
- 62 -
自ら決心するのです)
(145) thoh habet er uns gizeigot, joh ouh mit bilide gibot, wio wir thoh duan scoltin, oba wir iz
woltin (III, 3, 3)(彼〔主〕は我々に、もし我々がそれ〔至福〕を望む場合にどう行動す
べきかを示し、かつまた具体例を用いて命じた)
(146) laz iz sus thuruh gan, so wir eigun nu gisprochan (I, 25, 11)(今私が言った通りに、
行われるようにして下さい)
(147) Abraham ther maro ther ist dot giwaro, thie forasagon guate thie sint ouh alle dote [...]
bistu nu zi ware furira Abrahame? ouh then man hiar nu zalta joh sie alle tod bifalta? bigin uns
redinon, wemo thih wolles ebonon, wenan thih zelles ana wan, nu gene al eigun sus gidan? (III,
18, 36)(あの有名なアブラハムは事実死んだ。優れた預言者たちも皆死んだ。それであ
なたは実際アブラハムに勝るのか。今ここで挙げた、その人々〔アブラハムや預言者た
ち〕は皆死神によって死んだではないか。あなたが誰に自分をなぞらえようというのか、
自分を誰と見なしているのか、私たちに話して下さい。彼ら〔アブラハムや預言者た
ち〕は皆そうした〔死んだ〕というのに)
ただし気をつけねばならないことは、対格目的語がない上例においても、 (142)-(145)では
副文、例(146)では so という接続詞的副詞、(147)には sus という副詞が存在し、それら
が目的語の役割を果たしているということである。しかしそれでも、過去分詞がその副文
や副詞を直接修飾しているとは言い難いので、haben と過去分詞の自律性は失われ、haben
+ 過去分詞というひとまとまりで一つの意味を担うものになっていることは間違いない。
しかし、上例の(125)(131)(134)(145)(下に再掲)では、hat + PP が過去形と並列して用
いられている。
(125) eigun iz giweizit thie martyra man heizit, thaz thar in anawani ist harto manag sconi; joh
offonotaz iro muat thaz thar ist harto manag guat (V, 23, 61)殉教者と人が呼ぶ者たちは、確
かに彼岸には非常に多く美しいものがあることを証明した。また、彼らの勇気は、彼岸
に非常に多くよいものがあることを明らかにした)
(131) ir hortut [...] thaz ungimah, wio er widar gote sprach; ni bithurfun wir in wara nu
urkundono mera. waz er selbo hiar nu quit, thaz eigut ir gihorit (IV, 19, 67)(あなた方は、彼
が神に逆らって言った不当な言葉を聞いた。我々には実際もはやこれ以上の証人は要ら
ない。今ここで彼自身が何を言うのか、あなた方は聞いたのだから)
(134) ih haben iz funtan in mir, ni fand ih liebes wiht in thir (I, 18, 28)(私はそれ〔故郷〕
を自分の中に見出した。私はあなたの中には何らの愛も見出したことはない)
(145) thoh habet er uns gizeigot, joh ouh mit bilide gibot, wio wir thoh duan scoltin, oba wir iz
woltin (III, 3, 3)(彼〔主〕は我々に、もし我々がそれ〔至福〕を望む場合にどう行動す
べきかを示し、かつまた具体例を用いて命じた)
(125)では eigun giweizit「証明した」が過去形の offnota「明らかにした」と、(131)では過
去形の hortut「聞いた」が eigut gihoroit「聞いた」と、(134)では過去形の fand「見出し
た」が haben funtan「見出した」と、(145)では habet gizeigto「示した」が過去形の gibot
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「命じた」と並列的に用いられている。これは hat + PP で表される事態が過去形によっ
ても表されうることを示唆する。例えば上例 (122)(下に再掲)に対し、同様の事態が
(148)では過去形で表されている。
(122) thes habet er ubar woroltring gimeinit einaz dagathing, thing filu hebigaz, zi sorganne
eigun wir bi thaz (V, 19, 1)(そのことに関し、彼〔主〕は全世界に対して一つの審判の
日を定めている。それは非常に重大な審判であり、我々はそれに対して心配せねばなら
ない)
(148) thaz selba urdeili thaz worolti ist gimeini; er selbo iz sus gimeinta joh jungoron sinen
zeinta (V, 20, 3)(その判決、それは世界に共通のものである。彼自らそれをそのように
決定し、また自分の弟子たちに語った)
実際、過去の事態は現在時との関与が強い場合でも、多くは過去形によって表される。
(149) wanta thiu min ougun nu thaz giscowotun, thia heili thia thu uns garotos (I, 15, 17)(私
の目はあなたが私たちに用意した救いを今見ましたから)
(150) nu lazit thu mit fridu sin [...] mit dagon joh ginuhtin thinan scalc, druhtin; wanta thiu min
ougun nu thaz giscowotun, thia heili thia thu uns garotos, er thu worolt worahtos (I, 15, 17)
(主よ、あなたはあなたの僕〔である私〕を生涯、十分に、安らかにして下さいます。
というのは、私の目は今、あなたがこの世をつくる前にあなたが私たちに準備した救済
を見たからです)
(151) nu will ih scriban unser heil, evangelino deil, so wir nu hiar bigunnun, in frenkisga
zungun (I, 1, 114)(さあ、私は、我々が今ここで取りかかった、我々の救済、福音書か
ら取り出した部分をフランク語で書こう)
(152) ih scal thir sagen, min kind, then hion filu hebig thing, theih mithon ouh nu westa: thes
wines ist in bresta (II, 8, 14)(我が子よ、私は今しがた知ったことなのですが、新郎新婦
にとって重大なことをあなたに言わねばなりません。ワインが彼らにはないのです)
(153) inti thu ni hortos hiar in lante fon themo heilante, ist thir unkund ouh nu thaz wio diuri
forasago iz was (V, 9, 23)(あなたはこの土地であの救世主のことを聞いていないのです
か。また、それがどんなに貴い預言者であったか、あなたはいまだに知らないのです
か)
(154) Abraham ther maro ther ist dot giwaro, thie forasagon guate thie sint ouh alle dote [...]
bistu nu zi ware furira Abrahame? ouh then man hiar nu zalta joh sie alle tod bifalta? (III, 34,
36)(あの有名なアブラハムは事実死んだ。優れた預言者たちも皆死んだ。それであな
たは実際アブラハムに勝るのか。今ここで 挙げた 、その人々〔アブラハムや預言者た
ち〕は皆死神によって死んだではないか)
(155) inti thu ni hortos hiar in lante fon themo heilante [...] joh wio nan ouh irqualtun, zi tode
nan firsaltun thie unse heroston joh alle these furiston? wir wantun thes giwisso [...] er unsih
scolti irlaren thes managfalten wewen [...] thiu thing wir hiar nu sagetun joh thir ouh hiar
gizelitun, wizist thu thaz ana wan (V, 9, 37)(あなたはこの土地であの救世主のことを聞い
- 64 -
たことがないのですか。そして私たちの主君たちとすべての首長たちがどのように彼を
痛めつけ、死に至らしめたのかを。私たちはきっと彼が私たちをこの大きな苦しみから
解放してくれるだろうと固く信じていました。そういうことを私たちはここで今話して
いたのであり、また、あなたが確実にそれを知るように、あなたにもここで教えたので
す)
(156) bi thiu ward thi ih nu sageta, thaz Joseph sih irburita (I, 11, 25)(そういうわけで、私
が今語ったように、ヨセフが出立することになった)
(157) siu fuart er, noh ni dualta, in lant thaz ih nu zalta (I, 19, 17)(彼ら〔イエスとマリア〕
を彼は、私が今挙げた土地に、躊躇することなく連れていった)
(158) thu sprahi in war nu so zam, thu ni habes gomman (II, 14, 51)(適切に、あなたは今、
自分に夫がないと言った)
(159) thinu wort nu zelitun, thaz man thir er ni sagetun (II, 14, 56)(あなたの言葉は今、人
がかつてあなたに言ったことがないことを語りました)
(160) Gregorius ther guato er spuntota iz gimuato, joh filu scono in war min, so ist giwonaheit
sin; iz Augustinus rechit joh filu keleino inthekit, ther uns harto manag guat offan scono giduat.
sie thiz bede gruazent joh uns iz harto suazent; thesses thi ih nu hiar giwuag, es ist uns follon
thar ginuag (V, 14, 30)(敬虔なグレゴリウスはそれを、彼がいつもそうするように、本
当に心地よく、非常に美しく解釈した。非常に多くの善を我々に示すアウグスティヌス
は、それをとても優美に解釈し、明らかにしている。彼ら二人はそれを我々に訴えかけ、
極めて飲み込みやすくしてくれる。今ここで私が述べたことについては、それでまった
く十分なのである)
(161) thie haltent wort minaz, mit willen thaz irfullent thaz minu wort in zellent - ni
forahten sie then wewon; nirsterbent sie in ewon, ni wirdit in thaz ungimah, so ih hiar mithont
gisprah (III, 18, 24)(私の言葉を守り、私の言葉がその者たちに語ることをすすんで実
行する者たちは、苦しみを恐れることはない。彼らは永遠に死なない。彼らには不当な
ことは生じない。そのように私は丁度今話していたのだ)
(162) gistirri zaltun wir io, ni sahun wir nan er io (I, 17, 25)(私たちはずっと星の計算をし
てきましたが、その星を見たことはかつてありません)
(163) ja gisparatos avur thu then guaton win unz in nu (II, 8, 51)(しかしあなたは今までそ
のよいワインを確かにとっておいた)16)
このように、hat + PP はもはや構成素それぞれが意味的に分離不可能な一つの意味単位を
なすものになっていたが、それでも、過去表現の中心は依然として過去形であった。
なお、 (118)(144)は、発話時現在から見て過去に行われた事態ではなく、ある不特定の
未来時から見て過去の事態を表す。この種の例については、すでに『タチアーン』の例
(58)のところで説明した。
17)
2. 2. 2 その他の haben + 過去分詞
『オトフリート福音書』には、haben + 過去分詞としては他に haben が過去形、接続法
- 65 -
現在(接続法 I 式)、接続法過去(接続法 II 式)、不定詞のものがある。haben が過去形
の例は以下の通りである。
(164) zalt er in sum siban we; in einemo ist zi vilu, le; sie habetun avur thuruh not iz sus
gimanagfaltot (IV, 6, 48)(彼〔イエス〕は彼ら〔パリサイ人・律法学者たち〕にそのよ
うに七つの災いを語った。ああ、一つの災いの中にすでにあまりにも多くの災いが含ま
れているというのに。彼らはしかし結局それをこのように倍加していた)
(165) ther man ther thaz suachit thes er harto ruachit: thar er es mithont mista in war, er kerit,
suachit avur thar. thiz wib ouh thaz hiar sitota - si iz al irsuachit habeta; ni suachit thar
thes thiu min, luaget avur tho tharin (V, 7, 11)(強く気にかけるものを探す人は、たとえ先
刻実際にそれを見つけ損なったとしても、そこにまた戻り、探す。この女〔マグダラの
マリア〕もここでそうした。それを十分調べ尽くしていたにも拘わらず、それでも彼女
は探し、その〔穴〕の中を偵察した)
(166) ther stad bizeinot lusti thes sines libes festi, thia er ginam in sina hant, tho er tod
ubarwant; ther se bizeinot dati joh worolt unstati [...] thar warun mit githuinge thie jungoron noh
tho inne, sie scolta ruaren noh tho mer thaz selba woroltlicha ser. thaz habeta mit then mahtin
ther ewinigo druhtin ubarwuntan, thaz ist war; bi thiu stuant er tho in stade thar (V, 14, 14)
(岸は彼〔主〕の生の欲求の堅固さを示す。それを彼は死を乗り越えた時に手にした。
海は行いと現世の不定を示す。その〔海の〕中に弟子たちがいたのは必然であり、彼ら
をさらに現世の苦しみが襲うことは当然であった。それ〔現世の苦しみ〕を力によって
永遠の主は超越していた。それは事実である。それゆえ彼は岸に立っていたのである)
(167) so sliumo si tho thaz gisprah, si sar io widorort bisah; thar sah si druhtin stantan joh
habeta inan funtan. si wiht thoh sin nirknata joh giwisso wanta, theiz in alawari ther gartari
wari (V, 7, 44)(彼女〔マグダラのマリア〕はそう言うやいなや振り返って見た。そこ
に彼女は主が立っているのを見た。彼を見出していたのだ。しかし彼女は彼を認識せず、
きっと園丁だろうと思いこんだ)
また、haben が接続法現在の例が一例存在する。
(168) nu [...] ni helet mih wio ir firnoman eigit mih, nu si bi mih so zellent, so harto
missihellent (III, 12, 21)(では私に隠さずに言いなさい、あなた方が私をどう理解してい
るのか。私について人々がそのように語り、甚だしく考えが異なっているとすれば)
また、haben が接続法過去の例は次の二例である。
(169) er thahta odowila thaz, thaz er ther duriwart was, er ingang therera worolti bisperrit selbo
habeti (II, 4, 8)(彼〔悪魔〕は、彼〔イエス〕が門番であり、この世の入り口を自ら塞
いでいると、考えたかもしれない)
(170) er stuant in themo stade thar tho thes morganes sar, thanana er tho zi in sprah thar er sie
fisgon gisah, oba iro thehein wiht habeti thes in in weidu zaweti, friunton ouh zi nuzzin,
- 66 -
gifangan mit then nezzin (V, 13, 10)(彼〔イエス〕は朝岸に立って、その場所から、彼ら
〔弟子たち〕が漁をしているのを見て、兄弟たちの糧になる獲物になるようなものを何
か誰か網で捕らえたかと言った)
以上、haben が過去形や接続法の例は、haben が現在形の例と用法において特に異なると
ころはない。つまり基本的に過去に生じた事態の結果状態が表されているが、 (165)-(167)
のように、結果状態が具体的に目に見えるものではない、抽象的な事態を表す例が見られ
る。
ほかに haben が不定法の例が一例ある。
(171) so war so iz io zi thiu gigeit thaz min gilicho iz ni firsteit: in buah sie iz duent zisamene,
gihaltan thar zi habanne; thaz man iz lese thare gihaltan io bi jare (III, 7, 54)(我が同輩がそ
れ〔神の教え〕を理解しないことが実際にあるわけだが、彼ら〔神の僕たち〕は、それ
をそこによく保っておくようにと、本の中にそれを集める。人がそれをそこに保たれた
状態で長年にわたりずっと読めるようにと)
この例は、形の上から言えば完了不定詞であるが、現代語の完了不定詞のように過去の事
態を表すものではない。これは「保たれている状態で持つ」を意味し、haben と過去分詞
が自律性を持って使われている。
なお、前節で過去の事態の現在における結果状態は依然として過去形によっても表され
たと述べたが、同様に、現代語であれば過去完了形で表されるような事態の多くも過去形
によって表される。
(172) joh hiaz er sie ouh giwisso bringan thero fisgo thie sie tho thes fartes gifiangun mithontes
(V, 13, 36)(彼〔イエス〕は、彼ら〔弟子たち〕が先ほど捕ったばかりの魚も彼らが確
かに持ってくるよう命じた)(Vgl. Luther: Spricht Jhesus zu jnen / Bringet her von den
Fischen / die jr jtzt gefangen habt (J 21, 10))
(173) sin iagiwedar zilota, joh funtun al so er sageta (IV, 9, 11)(〔ペテロとヨハネの〕二人
それぞれがそれを目指すと、彼〔イエス〕が言ったとおりに見つけた)(Vgl. Luther: Sie
geingen hin / vnd funden / wie er jnen gesagt hatte (L 22, 13))
(174) tho screib er, theiz ther liut sah, so thiu muater giprach (I, 9, 26)(そこで彼〔ザカリ
ヤ〕は、人々の見ている中、母親〔エリザベツ〕が言った通りに書いた)(II, 9, 47; II,
11, 58 も)
(175) tho fuarun liuti thuruh not, so ther keisor gibot, zi eigenemo lante filu suorgente (I, 11,
19)(そこで人々は、皇帝が 命じた 通りに、仕方なく自分の土地へ大いに気をもみなが
ら帰っていった)(II, 9, 50; II, 11, 50; III, 24, 87 も参照)
(176) thes namen westun sie ouh giwant, hiazun inan heilant, so ther engil iz gizalta int in iz
zeigota, er si zi theru giburti thes kindes haft wurti (I, 14, 5)(その名前は彼ら〔マリアとヨ
セフ〕には周知のことであり、彼女〔マリア〕がその子を身ごもる前に、天使が告げ、
彼らに示した通りに、彼〔その子供〕を救世主と名付けた)
- 67 -
(177) yrkanta tho ther fater sar theiz thiu zit was in war, thaz imo iz druhtin so giliaz, thia
selbun ganzida gihiaz (III, 2, 36)(その時その父親はすぐに、それが主が彼に認めて、
〔息子が〕治ることそのことを 約束した 時間であることを知った) (Vgl. Luther: Da
mercket (Prät) der Vater / das vmb die stunde were / in welcher Jhesus zu jm gesagt hatte /
Dein Son lebet (J 4, 53))
3. 完了形 haben + 過去分詞の成立
haben + 過去分詞が完了形として一つの意味単位をなすためには、解決されねばならな
い問題が二つある。
その第一は、過去分詞の表す事態の動作主が文の主語と一致するという問題である。 18)
動作主=文主語は、haben + 過去分詞という形式から必然的に生じる結果ではない。ゴー
ト語には例(42)(34 頁) のように英語の have 受動のような例が存在したが、その種の例
は古高ドイツ語には皆無である。19)
第二に、時間的意味の問題である。haben + 過去分詞のほとんどすべての例は過去にお
ける事態の結果状態を表すが、過去分詞は継続的事態や無時間的・未来的事態も表す場合
があるので、理論的には haben + 過去分詞が結果状態以外の意味を持つ可能性があった
はずである。この可能性と現実とのあいだの溝がなぜ生じたのか考えねばならない。
ここで結論を先取りすると、haben + 過去分詞は受動の sein + 過去分詞との連動で生ま
れたということである。この点が理解されれば、上の二つの問題も解決され、かつ、なぜ
『オトフリート福音書』において対格目的語のない例が現れたのかも明らかになる。
3. 1 受動形の sein + 過去分詞と完了形
Kuroda (1999: 54)
は haben +
過去分詞はもともと「受益的・静的・結果構文」
benefaktive stative Resultativkonstruktion であったと言う。「受益的」とは、動詞 haben に
おいては主語に、目的語に対する「受益格」という意味役割が割り当てられるということ
である。つまり、haben を用いた表現においては、主語が目的語から何らかの利害を受け
る立場にある。「静的・結果」とは、過去分詞がある事態の結果状態を表すということで
ある。「静的・結果」は過去分詞が対格目的語を修飾するのだから、その対格目的語の静
的・結果状態のはずである。ところが、『オトフリート福音書』には対格目的語のない例
(上例(143)-(147)を参照)が現れる。この点について Kuroda (ibd.: 59) は、ゴート語や
『タチアーン』の haben + 過去分詞においては主語が目的語との間で受益関係にあるが、
『オトフリート福音書』では主語は動詞句全体の表す事態との間で受益関係にあるように
構造的解釈転換(strukturelle Umdeutung)が生じたと説明する。ここで過去分詞の独立化
が起こり(『オトフリート福音書』では過去分詞のほとんどが対格目的語に従う語尾変化
をしない)、対格目的語は haben
の目的語ではなく過去分詞の目的語になり、主語は目
的語とではなく動詞句と対置される。その結果、主語は状態変化の結果とではなく事態の
完了と関連づけられるので、対格目的語のない例が現れると言う。
この説明では、過去分詞がなぜ対格目的語の状態を表すものから主語の行為を表すもの
- 68 -
になったのかが、「構造的解釈転換」という一言で片づけられており、具体的には説明さ
れていない。この不十分さは、完了形としての haben + 過去分詞の成立を haben + 過去
分詞という形のみから説明しようとしたことによる。Kuroda (ibd.: 128 ff.) は受動の sein +
過去分詞に並列するものとして受動の(英語の have 受動のような)haben + 過去分詞を
想定しており、能動完了形の haben + 過去分詞と受動の haben + 過去分詞のどちらも
haben + 過去分詞という形から同じように生じたと考えているようである。しかし、完了
形の haben + 過去分詞を受動の haben + 過去分詞と関連づけると、どうしても動作主の
問題で「構造的解釈転換」が必要になり説明が曖昧になる。
完了形の haben + 過去分詞はむしろ直接的には受動の sein + 過去分詞との連動で生ま
れた。そのことはすでに Benveniste (1966) が説明している。
3. 1. 1 Benveniste の説
Benveniste (1966) による完了形 haben + 過去分詞の成立についての説明を筆者なりに要
約すると、次のようになる。haben
には sein で置き換え可能な意味がある。すなわち A
hat B (A は主格、B は対格)は「A には B がある」と読み替えることができる。ところ
でゴート語には受動の sein + 過去分詞が発達していた。例えば es ist geschrieben のような
用例が多数存在し、これは「それは書かれてある」という状態のみならず「それは書かれ
た」という過去の事態をも表していた。そうすると完了形 haben + 過去分詞は容易に生
じることになる。例えば er hat es geschrieben は「彼にはそれが書かれたという事実があ
る」であり、これは「彼はそれを書いたという行為を持つ」つまり「彼はそれを書いた」
となる。
この説の最も優れた点は、完了形の haben + 過去分詞の成立を受動の sein + 過去分詞
と結び付けたことにある。現代ドイツ語の文法書で、 es ist geschrieben
と er hat es
geschrieben の間に、どちらにも「それが書かれてある」という含意があるという関連を指
摘したものはあり、またゲルマン語において受動の sein + 過去分詞が haben + 過去分詞
に歴史的に先行したことを説明したものはあるが、haben + 過去分詞の歴史的成立を sein
+ 過去分詞との意味的連関から直接説明しているものは他にない。
但しこの説にも問題点がある。Benveniste (ibd.: 200) は、「完了形は、その行為者を行
為完了の所有者として表」し、「完了形はまさに、特に印欧諸語の中では、所有を表す状
態の形である」と言う。また、「アルメニア語では、habet aedem (彼は家を持っている)
を表すのに nora tun ē、逐語的に言えば『彼の (nora) 家が (tun) ある(ē)』と言う。他動詞
の完了でも同様に、実詞の代わりに分詞を用いて nora teseal ē、逐語的に言えば『彼の、
見られたが、ある』と言い、それで habet visum (彼は見た) を表わす」(ibd.: 201)と説明
する。言わんとするところはつまり、er hat ein Buch における ein Buch を過去分詞に換え
たのが完了形だということである。ところが、少なくとも高地ドイツ語の haben + 過去分
詞においては、対格名詞の代わりに過去分詞が置かれたような例(つまり対格名詞がなく
過去分詞のみが用いられる例)ははじめは現れない。過去分詞は、対格名詞に従って語尾
変化する場合があることからいっても、初めは対格名詞の修飾語であり、haben の目的語
は過去分詞ではなく対格名詞であった。20)
- 69 -
Benveniste が完了形の haben + 過去分詞を受動の sein + 過去分詞と関連づけたことは
正しかった。その際、動詞 haben が sein の他動詞形であることを考えれば、haben の目
的語は過去分詞ではなく対格名詞であっても haben + 過去分詞が完了形になることは自
然に理解される。
3. 1. 2 ゴート語の受動形
受動の sein + 過去分詞と haben + 過去分詞の関係を考えるための準備としてまず、ゴ
ート語の受動形を概観しておきたい。
ゴート語には現在形にのみ語尾変化等による総合的な( synthetisch)受動形が残ってお
り、それは現在における継続的事態、未来の事態、無時間的事態などを表した。
(178) framuh þan þaim dagam Iohannis þis daupjandins und hita þiudangardi himine
anamahtjada (Mt 11, 12)(洗礼者ヨハネの時からこれまで天の王国は襲われ続けてい
る)= βιάζεται (praes.) = Luther: [...] bis hie her / leidet das Himelreich gewalt
(179) blindai ussaihwand, haltai gaggand, þrutsfillai gahrainjanda, baudai gahausjand, naweis
urreisand, unledai wailamerjanda (L 7, 22)(盲人が見、足萎えが歩き、らい病者が清めら
れ 、耳しいは聞き、死者は甦り、貧者は 福音を聞かされている ) = καθαρίζονται
/
ευαγγελίζονται
¹
(praes.) = Luther: Die Blinden sehen / die Lamen gehen / die Aussetzigen
werden rein / die Tauben hören / die Tödten stehen auff / den Armen wird das Euangelium
geprediget
(180) allai auk gasatjanda faura stauastola Xristaus (R 14, 10)(というのも皆キリストの審
判者の椅子の前に置かれるのだから)= παραστησόμεθα (fut.) = Luther: Wir werden alle
fur den richtstuel Christi dargestellet werde
(181) ustiuhada all þata gamelido þairh praufetuns bi sunu mans (L 18, 31)(人の息子に対し
て預言者たちによって書かれたことはすべて実現されだるろう)= τελεσθήσεται (fut.) =
Luther: es wird alles volendet / das geschrieben ist durch die Propheten / von des menschen
Son
(182) sahwazuh saei hauheiþ sik silba, gahnaiwjada, iþ saei hnaiweiþ sik silba, ushauhjada (L
18, 14)(自らを高くする者は誰でも低くされ、しかし自らを低くする者は高くされる)
= ταπεινωθήσεται / υψωθήσεται
¸
(fut.) = Luther: wer sich selbs erhöhet / der wird ernidriget
werden / Vnd wer sich welbs ernidriget / Der wird erhöhet werden
(183) sweþauh ei ufarassau izwis frijonds mins frijoda (2 Kor 12, 15)(あなた方を愛するこ
とで私がもっと愛されなくなるとしても)= αγαπ^ωμαι
¹
(praes.) = Luther: wiewohl ich euch
fast seer liebe / vnd doch wenig geliebet werde
(184) gaweihada auk þairh waurd gudis jah bida (1 Tim 4, 5)(というのは〔神の被造物のす
べては〕神の言葉と祈りによって浄められるからである7)= αγιάζεται
¸
(praes.) = Luther:
Denn es wird geheiliget durch das ‹wort› Gottes vnd gebet
それに対して、過去形の受動形は欠如していたので、複数の語を組み合わせる分析的な
- 70 -
(analytisch)形、すなわち、wisan (= sein) の現在形、wairþan (= werden) の過去形、wisan
の過去形と過去分詞を組み合わせた形 ist + PP, warþ (= wurde) + PP, was (=war) + PP で表
された。
ist + PP, warþ + PP, was + PP とギリシア語との対応関係をまとめると次のようになる。
ゴート語
ギリシア語
ist + PP
現在形
現在完了形
warþ + PP
アオリスト
不完了過去形
was + PP
過去完了形
現代ドイツ語の ist + PP, wurde + PP, war + PP の用法から見て自然に思われるのは、ist +
PP と現在完了形、warþ + PP とアオリスト、was + PP と過去完了形の対応である。まず
その自然な対応関係の例から見ておく。
ist + PP は多くの場合、過去における事態の結果状態を表し、ギリシア語の現在完了形
に対応する。
(185) izwis atgiban ist kunnan runa þiudangardjos gudis (Mc 4, 11)(あなた達には神の王国
の秘密が知るべきものとして与えられている)= δέδοται (perf.) = Luther: Euch ist gegeben
das Geheimnis des reichs Gottes zu wissen
(186) in witoda hwa gameliþ ist? (L 10, 26)(律法にはどう書かれているのか)= γέγραπται
(perf.) = Luther: Wie stehet im Gesetz geschrieben?
(187) gabundans is qenai, ni sokei lausjan; galausiþs is qenai, ni sokei qen (2 Kor 7, 27)(あ
なたが妻に結ばれているならば解こうとするな、妻から解かれているならば妻を求める
な)= δέδεσαι / λέλυσαι (perf.) = Luther: Bistu an ein Weib gebunden / so suche nicht los zu
werden / Bistu aber los vom Weibe / so suche kein Weib
(188) hauhiþs im in þaim (J 17, 10)(私は彼らにおいて高められた)= δεδόξασμαι (perf.) =
Luther: ich bin in jnen verkelret
warþ (= wurde) + PP は、現在における状態よりも過去の事態が表現の中心になるような
アオリストに対応する。
(189) gaswalt þan jah sa gabeiga jah gafulhans warþ (L 16, 22)(それからまたその金持ち
も死んで葬られた)= ετάφη
¹
(aor.) = Luther: Der Reiche aber starb auch / vnd ward
begraben
(190) jah matidedun jah sadai waurþun allai; jah ushafan warþ, þatei aflifnoda im gabruko,
tainjons twalif
(L 9, 17)(そして〔多くの者は〕食べ、皆満腹になった。そして取り上
げられる〔集められる〕と、彼らにはかけらが 12 籠分残った)= ηρθη
Ó
(aor.) = Luther:
Vnd sie assen vnd wurden alle sat. Vnd wurden auffgehaben / das jnen vberbleib von Brocken
- 71 -
/ zwelff Körbe
(191) wait þana swaleikana mannan [...] þatei frawulwans warþ in wagg jah hausida unqeþja
waurda (2 Kor 12, 3/4)(私はそうした人を知っている。〔その人が〕楽園へ引き取られ、
言われえない言葉を聞いたことを知っている)= ηρπάγη
¸
(aaor.) = Luther: ich kenne
denselbigen Menschen [...] Er ward entzücket in das Paradis / vnd höret vnaussprechliche wort
was (= war) + PP は基本的に過去における結果状態を表し、過去完了形に対応する。
(192) brahtedun ina und auhmisto þis fairgunjis ana þammei so baurgs ize gatimrida was (L 4,
29)(〔会堂にいた全ての人は〕彼〔イエス〕を、彼らの町が 建てられている 山の頂へ
連れて行った)= ωκοδόμητο
¹«
(pluq.) = Luther: füreten jn auff einen hügel des Berges / dar
auff jre Stad gebawet war
(193) sah atwaurpans was du daura is, banjo fulls (L 16, 20)(彼〔ラザロ〕は、腫れ物だら
けでその人〔金持ち〕の玄関に 伏していた ) (atwarpans < atwaipan
投げ捨てる ) =
εβέβλητο
¹
(pluq.) = Luher: der lag fur seiner Thür voller Schweren
次に現代語ドイツ語から見て不自然に思われる対応の例を見る。まず ist + PP がギリ
シア語の現在形に対応する例である。
(194) þairh þo gaþlaiht þizaiei gaþrafstidai sijum silbans fram guda (2 Kor 1, 4) (我々自身
が神によって慰められるその慰めによって〔我々が苦しんでいる人を慰めることができ
る〕)= παρακαλούμεθα (praes.) = Luther: mit dem trost / da mit wir getröstet werden von
Gott
(195) at wisandin auhumistin waihstastaina silbin Xristau Iesu [...] in þammei jah jus
miþgatimridai sijuþ du bauainai gudis in ahmin (E 2, 22)(最高の存在であるイエス・キリ
ストが隅石である場所、そこではあなた達が霊の中の神の住まいになるよう共に建てら
れる場所において)= συνοικοδομε^ισθε (praes.) = Luther: da Jhesus Christus der Eckstein ist
[...] Auff welchen auch jr mit erbawet werdet / zu einer behausung Gottes / im Geist
(196) aþþan dishabaiþs [im] us þaim twain
21)
(Phil 1, 23)(それで私は二つのものによって
捕らえられている〔苦しめられている〕)= συνέχομαι (praes.) = Luther: Denn es ligt mir
beides hart an
これらの例は「~される」といういわゆる動作受動的意味および「~されている」その継
続的事態を表す。ist + PP が「~される」を表すことは、wisan (= sein) と過去分詞の両方
の意味から可能である。すなわち、まず wisan
の現在形は現在における状態だけではな
く、「~になる」という未来の状態も表すことが可能である。
(197) jabai nu sunus izwis frijans briggiþ, bi sunjai frijai sijuþ (J 8, 36)(それで、もし息子が
あなた達に自由をもたらすならば、本当にあなた達は自由になる)= εσεσθε
Ó
(fut.) =
Luther: So euch nu der Son frey machet / so seid jr recht frey
- 72 -
また、前章で見たように過去分詞は「~された」という結果状態のみならず「~される」
という未来的事態をも表すことが可能である。従って、ist
が未来を表すとすれば「~さ
れたものになる」という意味になり、また過去分詞が未来を表すとすれば「~されるもの
である」という意味になり、どちらの場合も動作受動的意味が導き出される。いずれにし
ても、ist + PP が動作受動的意味を持つことは、英語の受動形 be + PP が同様の意味を表
すことを考えればそれほど不自然ではない。また、「~されている」という継続的事態は、
過去分詞が継続的事態を表すことが可能なのだから、ist + PP によって表されるのは自然
である。なお、現代ドイツ語では継続的事態も wird + PP で表される。これは、werden +
過去分詞がいわゆる「受動形」として文法化された結果と考えられる(第4章「1.1 受動
werden +過去分詞の完了形」および嶋﨑 2000 を参照)。
ist + PP はギリシア語のアオリストにも対応する。その場合、以下の例におけるルター
訳から分かるように、そのアオリストは単に過去の事態を表すのではなく、過去の事態の
結果の現在における状態を表すことが多い。
(198) hausideduþ þatei qiþan ist þaim airizam (M 5, 21)(祖先たちにおいて次のように言わ
れていることをあなた達は聞いた)= ερρέθη
¹
(aor.) = Luther: Jr habt gehört / das zu den
Alten gesagt ist
(199) iþ ainhwarjammeh unsara atgibana ist ansts bi mitaþ gibos Xristaus (E 4, 7)(しかし私
たちの誰にでもキリストの恵みのはかりに従って恩恵が与えられている)= εδόθη
¹
(aor.)
= Luther: Ejnem jglichen aber vnter vns ist gegeben die Gnade / nach dem mass der gabe
Christi
(200) jus auk du freihalsa laþodai sijuþ (G 5, 13)(すなわちあなた達は自由のために召さ
れたのだ)= εκλήθηντε
¹
(aor.) = Luther: JR aber [...] seid zur Freiheit beruffen
アオリストに対応する ist + PP の中には、ルター訳で現在完了形で表されるものもある。
(201) jah auk paska unsara ufsniþans ist faur uns Xristus (1 Kor 5, 7)(というのはまた、私
たちの過越の子羊であるキリストは私たちのために屠られたのだから)= ετύθη
¹
(aor.) =
Luther: Denn wir haben auch ein Osterlamb / das ist Christus / fur vns geopffert
(202) jaþ-þatei ataugids ist Kefin [...] þaþoruh gasaihans ist managizam þau fimf hundam
broþre suns (1 Kor 15, 5/6)(そして〔キリストは〕ケパに示され〔……〕さらに 500 人
以上の兄弟に一度に見られた〔ことを私は伝えた〕)= ωφοθη
Ó
/ ωφοθη
Ó
(aor.) = Luther:
Vnd das er gesehen worden ist von Cephas [...] Darnach ist er gesehen worden von mehr denn
fünffhundert Brüdern auf ein mal
確かに上の (201)はルター訳で現在完了形に対応するとはいっても、現在における結果状
態を表すと考えられなくはない。しかし (202)は意味的にも、また、あとに続く類似する
事態を表す部分が þaþoroh þan ataugida sik Iakobau (1 Kor 15, 7)「さらにそれから〔キリ
ストは〕ヤコブに自身を表した」= ’ώφοθη というように(再帰動詞の)過去形で表され
- 73 -
ていることからも分かるように、明らかに現在における結果状態よりも過去における事態
そのものを表現している。しかし、アオリストに対応する ist + PP が過去の事態を中心
に表現する場合は少なく、多くの場合は結果状態を表す。結果状態ではなく単に過去の事
態を表す場合には、上で見たように多くは warþ + PP が用いられる。
一方、warþ + PP がギリシア語の現在完了形に対応する場合もある。
(203) unte anahweilaiþs warþ aha is fram allaim izwis (2 Kor 7, 13)(というのは、彼〔テ
トス〕の精神があなた達皆によってなだめられたからである)= αναπέπαυται
¹
(perf.) =
Luther: Denn sein Geist ist erquicket an euch allen
(204) Xristau miþushramiþs warþ, iþ liba nu ni þanaseiþs ik, iþ libaiþ in mis Xristus (G 2, 20)
(私はキリストと共に十字架に架けられた。今やもう私は生きていない、私の中でキリ
ストが生きているのである)= συνεσταύρωμαι (perf.) = Luther: Jch bin mit Chriso
gecreutziget. Jch lebe aber / doch nu nicht ich / sondern Christus lebet in mir
これらは、状態受動的表現を動作受動的に相 (Aspket)
の変換をして表現した例と見るこ
ともできる。しかし、ルター訳では ist + PP で表され、また(203)に先行する箇所では
inuþ-þis gaþrafstidai sijum (2 Kor 7, 13)(こうして私たちは慰められた)= παρακεκλήμεθα
(perf.) = Luther: DErhalben sind wir getröstet worden というようにギリシア語の現在完了形
がゴート語で ist + PP で表されていることから考えると、ゴート語の warþ + PP が ist +
PP と同じ意味で用いられていると考える方が自然である。実際、ゴート語の過去形は単
に過去の事態を表すだけではなく、過去の事態の結果状態も表すことができた。つまり、
wairþan の過去形は「~になってその状態にある」という結果状態を表すこともできた。
従ってその warþ を用いた warþ + PP も結果状態を表すことができたのである。
また、ギリシア語の現在完了形に対応する warþ + PP は現在時から見て過去ではなく、
不定の時から見て過去の事態、すなわち相対的な過去を表す場合がある。
(205) jabai Satana usstoþ ana sik silban an gadailiþs warþ, ni mag gastandan (Mc 3, 26)(もし
サタンが互いに立ち向かい、分裂したならば、〔サタンは〕立ち行くことができない)
= μεμέρισται (perf.) = Luther: Setzet sich nu der Satan wider sich selbs / vnd ist mit jm selbs
vneins / So kan er nicht bestehen
(206) bimaitans galaþoda warþ hwas, ni ufrakjai; miþ faurafillja galaþoþs warþ hwas, ni
bimaitai (1 Kor 7, 18)(割礼された状態で召された者は、伸ばして上に被せるな。包皮を
持った状態で召された者は、割礼を受けるな)= κέκληταί (perf.) = Luther: Jst jemand
beschnitten beruffen / der zeuge keine Vorhaut. Jst jemand beruffen in der Vorhaut / der lasse
sich nicht beschneiten
(207) jabai gagga, sandja ina du izwis. jah qimands is gasakiþ þo manaseþ bi frawaurht jah bi
garaihtiþa jah bi staua; bi frawauht raihtis, [þata] þatei ni galaubjand du mis; iþ bi garaihtiþa,
þatei du attin meinamma gagga, jah ni þanaseiþs saihwiþ mik; iþ bi staua, þatei sa reiks þis
fairhwaus afdomiþs warþ (J 16, 7-11)(もし私が行けば、私は彼〔慰める人〕をあなた達
に送る。その人が来ると罪について、正義について、裁きについてこの世を非難する。
- 74 -
罪についてというのはつまり、私に対して信仰しないということである。また正義につ
いてというのは、私が私の父の所へ行き、それからあなた達が私を見ないということで
ある。裁きについてというのは、この世の支配者が断罪されているということである)
= κέκριται (perf.) = Luther: So ich aber gehe / wil ich jn zu euch senden. Vnd wenn der selbige
kompt / der wird die Welt straffen / vmb die Sünde / vmb die Gerechtigkeit / vnd vmb das
Gerichte. Vmb die Sünde / das sie nicht gleuben an mich. Vmb die Gerechtigkeit aber / Das ich
zum Vater gehe / vnd jr mich fort nicht sehet. Vmb das Gerichte / das der Fürst dieser welt
gerichtet ist
これらについては過去形が相対的な過去を表すことができたことから説明される。現代ド
イツ語においては相対的過去は一般に現在完了形によってのみ表されると思われがちだが、
現代語においても過去形によって表されることが可能である(「第5章 4. 現代ドイツ語
の過去形における基準時」を参照)。つまり、過去形 warþ はある不定の時点から見て過
去の事態を表すことができるので、warþ + PP も相対的過去を表すことが可能だというこ
とである。なお (206)には、「割礼された状態で召された」の「召された」も galaþoda
warþ という warþ + PP で表されているが、そのギリシア語対応箇所は現在完了形ではな
く、εκλήθη
¹
というアオリストである。
warþ + PP は不完了過去形に対応する場合もある。不完了過去形が過去における継続的
事態を表すとすれば、warþ
の「~になった」という語義に合わない。しかし実際に不完
了過去形に対応する warþ + PP を見ると、次のように、事態の継続性は明瞭には表され
ていない。
(208) jah gamarizidai waurþun in þamma (Mc 6, 3)(そして〔会堂に来ていた者たちは〕
彼〔イエス〕に憤激した〔つまずいた〕)= εσκανδαλίζοντο
¹
(imperf.) = Luther: Vnd sie
ergerten sich an jm
(209) þai anahabaidans fram ahmam unhrainjaim, jah gahailidai waurþun (L 6, 18)(汚れた霊
に取り憑かれた者たちも癒された)= εθεραπεύοντο
¹
(imperf.) = Luther: die von vnsaubern
Geisten vmbgetrieben wurden / die wurden gesund
ただし次の例は文脈から見て継続的事態を表す。
(210) aþþan faginoda in fraujin mikilaba, unte ju hwan gaþaihuþ du faur mik fraþjan, ana
þammei jah froþuþ; aþþan analaitidai waurþuþ (Phil 4, 10)(さて私は主において、あなた
達がすでに私を思うことにおいて育ったことで、大いに喜んだ。実際あなた達はその人
〔 私 〕 の こ と を 思 っ て い た が 、 し か し あ な た 達 は 妨 げ ら れ て い た ) = ηκαιρεισθε
¹
Í
(imperf.) = Luther: JCH bin aber höchlich erfrewet / in dem HErrn / das jr wider wacker
worden seid / fur mich zu sorgen / wiewol jr allweg gesorget habt / Aber die zeit hats nicht
wollen leiden
確かにこの例も、「あなた達はその人〔私〕のことを思ったが、思うたびに妨げられた」
- 75 -
と解せば、その事態は反復的ではあるとしても、事態そのものが間断なく持続するような
継続的なものではないと見ることもできる。しかし、先行する「あなた達は私のことを思
っ(てい)た」の「思っ(てい)た」は、ギリシア語で εφρονεˆιτε
¹
という不完了過去形で表さ
れており、warþ + PP も継続的事態を表すと考える方が自然である。従ってこれは、語義
的に説明のつかない例である。
しかしこのような例外はあるが、warþ + PP は基本的に継続的事態を表さないと言って
よい。過去における継続的事態はむしろ、語義的により適した was (= war) + PP で表され
る。
(211) iþ Iesus , ahmins weihis fulls, gawandida sik fram Iaurdanau jah tauhans was in ahmin in
auþidai dage fidwor tiguns, fraisans fram diabulau (L 4, 1/2)(またイエスは精霊に満たされ
て、ヨルダン川から去り、荒野で 40 日霊によって引き回され、悪魔によって試みられ
た)= ηγετο
Ó
(imperf.) = Luther: JHesus aber / vol heiliges Geistes / kam wider von dem Jordan
/ vnd ward vom Geist in die wüsten gefüret / Vnd ward vierzig tage lang von dem Teufel
versucht22)
(212) iþ nu, sai, andbundanai waurþum af witoda, gadauþnandans in þammei gahabaidai
wesum (R 7, 6)(しかし今や、私たちが留められていた律法から私たちは解放され、そ
れ〔律法〕において死んだ)= κατειχόμεθα (imperf.) = Luther: Nu aber sind wir vom Gesetz
los / vnd jm abgestorben / das vns gefangen hielt
(213) biþeh þan nehwa was daura þizos baurgs, þaruh sai, utbaurans was naus (L 7, 12) (それ
から,彼〔イエス〕は町の門に近づいた。すると見よ,死者が運び出されるところであ
った) = εξεκομίζετο
¹
(imperf.) = Luther: Als er aber nahe an das Stadthor kam / Sihe / da trug
man einen Todten heraus
現代ドイツ語では過去における継続的事態は wurde + PP で表される。これはすでに述べ
たように、werden + 過去分詞が受動形として文法化された結果である。語義的には sein
が状態を表すのだから、継続的事態は sein + 過去分詞で表されるのが自然である。
was + PP はしかし、アオリストに対応する場合もある。これは次のように結果状態が
表されていれば問題はない。
(214) unte ni nauhþanuh was ahma sa weiha ana im, unte Iesus nauhþanuh ni hauhiþs was (J 7,
39)(すなわち精霊はまだ彼ら〔イエスの信者〕のもとになく、イエスはまだ 上げられ
ていなかった)= εδοξάσθη
¹
(aor.) = Luther: Denn der heilige Geist war noch nicht da / denn
Jhesus war noch nicht verkelret
しかし次のような例は明らかに結果状態ではなく、また継続的事態でもなく、「~され
た」という、いわゆる動作受動的意味を表す。
(215) quam Iesus fram Nazaraiþ Galeilaias jah daupiþs was fram Iohanne in Iaurdane (Mc 1, 9)
(イ エ ス は ガ リ ラ ヤ の ナ ザ レ か ら 来 て , ヨ ハ ネ か ら ヨ ル ダ ン川 で 洗 礼を 受 け た ) =
- 76 -
εβατίσθη
¹
(aor.) = Luther: Jhesus aus Galilea von Nazareth kam / vnd lies sich teuffen von
Johanne im Jordan
(216) þanuh þan in menoþ saihstin insandiþs was aggilus Gabriel fram guda in baurg Galeilaias
sei haitada Nazaraiþ (L 1, 26)(そして 6 ヶ月後に天使ガブリエルが神によってナザレと
呼ばれるガリラヤの町に送られた)= απεστάλη
¹
(aor.) = Luther: Vnd im sechsten mond /
ward der engel Gabriel gesand von Gott / in eine stad in Galilea / die heisst Nazareth
(217) biþe usfulnodedun dagos ahtau du bimaitan ina, jah haitan was namo is Iesus (L 2, 21)
(彼に割礼を施すべき 8 日が完了して、彼の名がイエスとつけられた)= εκλήθη
¹
(aor.)
= Luther: da acht tage vmb waren / das das Kind beschnitten würde / Da ward sein Name
genennet Jhesus
このような用法が可能なことは、ist + PP が「~される」という動作受動的意味を表すこ
とから理解される。すでに上の(194)(195)において ist + PP が動作受動的意味を表すこと
を見たが、その sein を過去形にしたものがここでの用法である。
was + PP は現在完了形に対応する場合もある。これは語義的にはかなり不自然な対応
に見える。
(218) akei þan sa us þiujai bi leika gabaurans was, iþ sa us frijai bi gahaita (G 4, 23)(しかし
奴隷女からの者は肉によって 生まれた が、自由な女からの者は約束によって〔生まれ
た〕)= γεγέννηται (perf.) = Luther: Aber der von der magd war / ist nach dem Fleisch
geboren / Der aber von der Freien / ist durch die Verheissung geboren
(219) iþ þata du sitan af taihswon meinai aiþþau af hleidumein nist mein du giban, alja þaimei
manwiþ was (Mc 10, 40)(しかし私の右あるいは左に座ることは、準備のできた人に
〔与えられる場合〕を除いて、私の与えることではない)= ητοίμασται
¸
(perf.) = Luther:
Zu sitzen aber zu meiner Rechten vnd zu meiner Lincken / stehet mir nicht zu euch geben /
sondern welchen es bereitet ist
これらは語義的に言えば、was + PP ではなく、ルター訳のように ist + PP で表す方が自
然であろう。しかし上で見たように、was + PP は動作受動的アオリストに対応するので、
ここでも was + PP は「~された」という動作受動的意味で用いられていると考えられる。
最終的にゴート語の受動 ist + PP, warþ + PP, was + PP の時間的・アスペクト的意味は
次のようにまとめられる。
ist + PP: 結果状態「~された、されている」、動作受動的「~される」、継続的事態
「~されつつある、~されている」
warþ + PP: 動作受動的「~された」、結果状態「~された、されている」
was + PP: 結果状態「~されていた」、動作受動的「~された」、継続的事態「~され
つつあった、~されていた」
ここで確認しておきたいことは、wisan (= sein) + 過去分詞は基本的に結果状態を表すが、
- 77 -
動作受動的な意味や継続的事態を表すことも可能であるということと、結果状態は warþ
+ PP によっても表されたということである。もし完了形の haben + 過去分詞が受動の
sein + 過去分詞との連動で生じたとすれば、どのような意味を表す sein + 過去分詞が完
了形の haben + 過去分詞の出現と関連するかが問われる。この点に注意して、以下で古
高ドイツ語の受動形を考察したい。
3. 1. 3 『イシドール』の受動形
古高ドイツ語にはゴート語に見られるような総合的形式の受動形はもはや存在しない。
従って、受動形はすべて wesan (= sein) あるいは werdan (= werden) と過去分詞の組合せ
によって表される。その際、『イシドール』の受動の ist + PP はラテン語の現在形に対
応する場合が多い。
(220) mit so mihhiles herduomes urchundin ist nu so offenliihho armarit, dhazs christ gotes
sunu er allem uueraldim fona fater uuard chiboran (96)(非常に権威ある証拠によって、神
の息子であるキリストがあらゆる世代に先んじて父から生まれたことは、今や非常には
っきりと明示される)= tali igitur auctoritate ante omnia secula filius a patre genitus esse
declaratur
(221) dhanne ist nu chichundit, dhazs fona dhemu almahtigin fater dhurah inan ist al uuordan,
dhazs chiscaffanes ist (100)(全能の父から彼を通して一切は生じ、創造されたというこ
とが今や知られているからである)= quando a patre per illum cuncta creata esse noscuntur
(222) so dhar auh after ist chiquhedan (179)(またさらにそのあとでこのように言われて
いる)= sic enim subiungitur
(223) so sama so auh araughit ist in isaies buohhum eochihuueliihhes dhero heideo sundric
undarscheit (317)(同様に各イザヤの書において位格の別の違いが示されている)= in
esaia quoque sub propria cuiusque persona distinctio trinitatis [...] ostenditur
(224) dhar ist auh offanliihhost chisaghet huueo dhero iudeo quhalm after christes chiburdi joh
after sineru martyru quheman scholdi (440)(そこではまた極めて明らかに、ユダヤ人の没
落がキリストの誕生後および彼の殉難後生じることになっていたかが 言われている) =
post aduentum eius et post mortem futura iudeorum excidia ibi certissime manifestantur
(225) buuzssan einigan zuuiuun ist dhanne archennit, dhazs dher allero heilegono heilego
druhtin nerrendo christ iu ist langhe quhoman (454)(すべての聖人の中の聖人である主、救
済者キリストがキリストが既にずっと前に来ているということは、一つの疑いもなく分
かっている)= procul dubio sanctus sanctorum dominus iesus christus olim uenisse
cognoscitur
(226) hear ist araughit dhazs iesus ist druhtin (549)(ここにイエスが主であることが示され
ている)= ubi ostenditur dominum esse iesum
(227) dhiz ist chiuuisso in dhemu hebræischin chiscribe sus chiquhedan (552)(このことは確
かにヘブル人への手紙の中でこのように 言われている ) = hec enim in Hebreo sic
habentur
- 78 -
(228) in dhes chiriihhun ›ardot uuolf mit lambu‹, joh dher chiuuon uuas fona dheru chiriihhun
nama ardhinsan. innan dhiu ir chiuuoruan ist, mit dhem unbalauuigom ist siin samuuist (678)
(彼の教会には「狼が羊とともに宿る」、教会から獲物を取るのを常とする者が。その
者が教会へと回心すれば、罪なき者とのその者の共生が成る)= in cuius ecclesia ›habitat
lupus cum agno‹, ille utique, qui solebat ab ea rapere praedam. dum ad eam conueritur, cum
innocentibus commoratur
これらの例がいわゆる動作受動的意味を持つのか、結果状態を表すのかはあまり明確に判
定できない。しかし、結果状態を表すとしても、「過去に~された結果、その状態が残
る」という明瞭な結果状態を表すようには見えない。それに対し、次のようにラテン語の
現在形と完了過去の両方が ist + PP で表される場合、その現在形に対応する ist + PP も
結果状態を表すと考えられる。
(229) spahida dhes gotliihhin fater huuanan findis? dhiu chiholan ist fona manno augom, joh
fona allem himilfleugendem ist siu chiborgan (112/113)(神である父の知恵をあなたはどこ
から見つけるのか。それは人の目からは隠されており、すべての空飛ぶものから隠され
ている)= sapientiam dei patris unde inuenies? latet enim ab oculis hominum et a
uolucribuscaeli absconsa est
実際、ist + PP が完了過去に対応する例は他にもある。
(230) in dhemu nemin cyres ist christ chiuuisso chiforabodot, fora dhemu sindun dheodun joh
riihhi chihneigidiu in ghilaubin. in andra uuiis ni uuardh eo einic in israhelo riihhe cyrus
chinemnit (162-163)(クロスの名にはキリストが確かに預言されている。彼の前に民と
国々は信仰において服従させされた。他にはかつて決してイスラエルの国においてクロ
スという名が挙げられたことはない)= in persona enim cyri christus est prophetatus, ubi
ei subiugate sunt gentes in fide et regna; preterea, quia nullus in regno israhel cyrus est dictus
(231) druhtines uuordu sindun himila chifestinode endi sines mundes gheistu standit al iro
meghin (278)(主の言葉で天は確固としたものになり、彼の口の息でその万軍は成って
いる)= uuerbo [...] domini celi firmati sunt et spiritu oris eius omnis uirtus eorum
一方、ラテン語の完了過去が ward + PP に対応する場合もある。
(232) dhiu uurza dhera spaida huuemu siu uuard antdechidiu? (115)(知恵の根本、それは誰
に明かされたのか)= radix sapientie cui reuelata est
(233) sus quhad dher gomo, dhemu izs firgheban uuard (211)(このように、それが託され
た人は言った)= dixit uir, cui constitutum est
(234) uuala nu auh huues mac dhesiu stimma uuesan nibu dhes nerrendin druhtines? ir almahtic
got sih chundida uuesan chisendidan fona dhemu almahtigin fater. so chisendit uuard chiuuisso
zi dheodum after dheru sineru gotnissa guotliihhin (227)(さあ、今やこの声が救世主以外の
- 79 -
誰のものだと言えるだろうか。全能の神は全能の父によって送られた者であることを示
した。このように確かに栄えある神性に従って民に送られたのだ)= age nunc cuius sit
hec uox nisi saluatoris, qui omnipotens deus a patre omnipotente missum se esse testatur?
missus est autem ad gentes post gloriam deitatis
(235) meinida dher forasago chiuuisso in dheru christes lyuzilun, huuanda ir uns uuard chiboran,
nalles imu selbem. huuanda chiuuisso, dhazs ir man uuardh uuordan, unsih hilpit, endi bidiu
uuard ir uns chiboran. sunu auur uuard uns chigheban, huues nibu gotes sunu? (394/395)(預
言者がキリストの小ささ〔小さなキリスト〕において確かに言わんとしたのは、彼が我
々のために生まれたのであり、彼自身のためではないということ、彼が人となったこと
が確かに我々の助けになるということ、そしてそれゆえに彼は我々のために生まれたと
いうことである。しかし神の息子でないとしたら、誰の息子が我々に与えられたのか)
これらの ward + PP においては ist + PP の場合よりも過去の事態に表現の中心が置かれ
ていると考えることもできるが、最後の(235)の uuard chigheban (= wurde gegeben) などは、
現在における状態を表すので、むしろ ward + PP も結果状態を表すことができたと見る
べきであろう。結局、『イシドール』の ist + PP は動作受動的に用いられるか、あるい
は結果状態を表すが、結果状態は ward + PP によっても表された。
3. 1. 4 『タチアーン』の受動形
『タチアーン』においても ist + PP はラテン語の現在形に対応し、動作受動的意味を
表す場合がある。
(236) thu bist giheizzan Cephas (16, 4)(あなたはケパと呼ばれる)= J 1, 42: tu vocaris
Cephas (praes. pass. < vocare 呼ぶ) = Luther: du solt Kephas heissen
(237) thanne thu tues tagamuos odo abandmuos, ni curi giladon thine friunt noh [...] min odo sie
thih abur uuidarladon, inti ist thir gilonot (110, 4)(あなたが昼食や夕食の会を行う時には、
あなたの友人も〔……〕も招いてはならない。よもや彼らがあなたを招き返して、あな
たに返礼がなされるかもしれないからである)= L 14, 12: cum facis prandium aut cenam,
noli vocare amicos tuos neque [...] ne forte et ipsi te reinvitent et fiat tibi retributio (fiat = conj.
praes. < fieri なる; retributio 返報 ) = Luther: So lade nicht deine Freunde [...] Auff das sie dich
nicht etwa wider laden / vnd dir vergolten werde
(238) ther in inan giloubit nist furtuomit (119, 11)(彼〔人の子〕を信ずる者は裁かれな
い)= J 3, 18: qui credit in eum non iudicatur (praes. pass. < iudicare 裁く)
また ist + PP が動作受動的意味を表す場合があることは、次のような未来形に対応する
例においてはもっと明らかである。
(239) ther ist mihhil inti thes hoisten sun ist genemnit (3, 5)(彼は大いなる者となり、最高
者の息子と呼ばれるだろう)= L 1, 32: hic erit magnus et filius altissimi vocabitur (pass. fut.
- 80 -
< vocare 呼ぶ) = Luther: Der wird gros / vnd ein Son des Höhesten genennet werden23)
(240) ther thir zilosit einaz fon then minnistun bibotun inti lerit so man, minnisto ist giheizan in
himilo rihhe. thie thar tuot inti lerit, thie ist mihhil giheizan in himilo rihhe (25, 6)(最も小さ
い掟のうちの一つを破り、そのように人に教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれる。
それを行い、教える者は、天国で最も大きい者と呼ばれる)= Mt 5, 19:qui ergo solverit
unum de mandatis istis minimis et docuerit sic homines, minimus vocabitur in regno caelorum.
qui autem fecerit et docuerit, hic magnus vocabitur in regno caelorum (fut. pass. < vocare) =
Luther: Der wird der kleinest heissen im Himelreich [...] Der wird gros heissen im Himelreich
(241) salige sint thie thar sint sibbisame, uuanta sie gotes barn sint ginemnit (22, 14)(平和的
な人々は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるからである)= Mt 5, 9: beati pacifici,
quoniam filii dei vocabuntur (fut. pass. < vocare 呼ぶ) = Luther: Selig sind die Friedfertigen /
Denn sie werden Gottes kinder heissen
(242) in themo mezze thie ir mezzet, ist iu gimezzen (39, 4)(あなた達が計るはかりで、あ
なた達は計られるのである)= Mt 7, 2: in qua mensura mensi fueritis, metietur vobis (fut. <
metiri 計る) = Luther: mit welcherley Gerichte jr richtet / werdet ir gerichtet werden
(243) ni curet sorgente uuesan, vvuo odo uuaz ir antvvurtet odo uuaz ir quedet; iu ist thanne
gigeban in thero ziti uuaz ir sprehhet (44, 13)(いかに何を答え、何を言うか思い煩うな。
あなた達が何を言うかは、その時、あなた達に与えられる)= L 12, 11: nolite solliciti
esse, qualiter aut quid respondeatis aut quid dicatis; (Mt 10, 19) dabitur enim vobis in illa hora
quid loquamini (fut. pass. < dare 与える) = Luther: So sorget nicht / wie oder was jr antworten
/ oder was jr sagen solt (Mt 10, 19) Denn es sol euch zu der stunde gegeben werden / was jr
reden solt
(244) fon hinana sint fimui ziteilte in einemo huse, thri in zuei inti zuene in thriu uuerdent
ziteilit (44, 22)(これから一軒の家の中で五人が分けられる。三人対二人、二人対三人
に分けられる)= L 12, 52: erunt enim ex hoc quique in domo una divisi, tres in duo et duo
in tres dividentur (erunt = fut. < esse; divisi = pp. m. pl. nom. < dividere 分ける; dividentur =
pass. fut. < dividere) Denn von nun an / werden fünf in einem Hause vneins sein / drey wider
zwey / vnd zwey wider drei
(245) kind thesses rihhes sint furuuorphan in thiu uzarun finstarnessi, thar ist vvuoft in ceno
stridunga (47, 7)(その国〔イスラエル〕の子供たちは外の闇の中へ放り出され、そこで
嘆きと歯ぎしりが行われるだろう)= Mt 8, 12: filii autem regni eicientur in tenebras
exteriores, ibi erit fletus et stridor dentium (fut. pass. < eicere 投げ出す) = Luther: Aber die
Kinder des reichs werden ausgestossen in das finsternis hinaus
(246) thurah mih oba uuer ingengit, ther ist giheilit, inti inget inti uzget inti findit fuotrunga
(133, 10)(私を通って入る者は救われる。そして入ったり出たりして、食物を見出すだ
ろう)= J 10, 9: per me si quis introierit, salvabitur, et ingredietur et egredietur et pascua
inveniet (fut. pass. < salvare 救う) = Luther: So jemand durch mich eingehet der wird selig
werden / vnd wird ein vnd aus gehen / vnd weide finden
(247) sliumo after arbeiti thero tago sunna uuirdit bifinstrit, inti mano ni gibit sin lioht, inti
sterron fallent fon himile, inti megin himilo sint giruorit (Tatian 145, 19)(その時の苦しみ
- 81 -
のあとすぐに日は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天体の諸力は揺り動か
される)= Mt 24, 29: statim autem post tribulationem dierum illorum sol obscurabitur, et luna
non dabit lumen suum, et stelle cadent de cæle, et virtutes cælorum commovebuntur
(obscurabitur = fut. pass. < obscurare 暗くする; commovebuntur = fut. pass. < commovere 動
かす) = Luther: Bald aber nach dem trübsal der selbigen zeit / werden Sonn vnd Mond den
schein verlieren / vnd die Sterne werden vom Himel fallen / vnd die kreffte der Himel werden
sich bewegen
(248) giuuelih boum thie thar ni tuot guotan uuahsmon, ist abafurhouuan inti in fuir gisentit
(41, 7)(よい実をつけない木はすべて、切り倒され、火の中へ入れられる)= Mt 7, 19:
omnis arbor quæ non facit fructum bonum, excidetur et in ignem mittitur (excidetur = fut. pass.
< excidere 切り倒す; mittitur = praes. pass. < mittere 投げる) = Luther: Ein jglicher Bawm /
der nicht gute früchte bringet / wird abgehawen / vnd in Fewr geworffen
(249) so uuar gipredigot uuirdit thiz euangelium in alleru uueralti, ist giquetan inti thaz thisu
teta in ira gimunt (138, 6)(この福音が述べ伝えられる所では、この女のしたことも彼女
のことを忘れないために語られるだろう)= Mt 26, 13: ubicumque predicatum fuerit
evangelium in toto mundo, dicetur et quod haec fecit in memoriam eius ( fut. pass. < dicere 言
う) = Luther: Wo dis Euangelium geprediget wird in der gantzen Welt / da wird man auch
sagen zu jrem Gedecchtnis / was sie gethan hat
また、ist + PP が動作受動的意味を持つことは、次のように wirdit (= wird) + PP と並列的
に用いられる例からも明らかである。
24)
(250) uuirdit giselit then heriston thero biscofo inti then buocharin, inti sie selent inan thioton, in
ist giscinfit inti uuirdit bifillit inti anagispiuuan inti arhangan (112, 1)(〔人の子は〕祭司長
と聖書学者たちに引き渡され、彼らは彼を異邦人たちに引き渡し、〔彼は〕彼らに嘲ら
れ、 殴られ 、唾をかけられ 、吊るされる )= Mc 10, 33: tradetur enim principibus
sacerdotum et scribis, (Mt 20, 19) et tradent eum gentibus, (L 18, 32/33) et inludetur et
flagellabitur et conspuetur et crucifigitur (tradetur = fut. pass. < tradere 引き渡す; inludetur =
fut. pass. < inludere 侮辱する; flagellabitur = fut. pass. < flagellare 鞭打つ; conspuetur = fut.
pass. < conspuere 唾を吐きかける; crucifigitur = praes. pass. < crucifigere 十字架にかける)
= Luther: Vnd des menschen Son wird vberantwortet werden den Hohenpriestern vnd
Schrifftgelerten vnd (Mt 20, 19) [sie] werden jn vberantworten den Heiden (L 18, 32/33) vnd er
wird verspottet vnd geschmehet vnd verspeiet werden / vnd sie werden jn geisseln vnd tödten
(最後だけ羅=現)
(251) thanne sint zuene in accre: ein ist ginoman inti ander ist forlazzan. zua sint malenti in
ein: ein ist ginoman inti ander uuirdit forlazzan. zuei sint in einemo bette: ein ist ginoman inti
ander ist forlazzan (147, 4)(二人の男が畑にいれば、一人が受け入れられ、もう一人は
残される。二人の女が一緒に粉をひいていると、一人は受け入れられ、もう一人は残さ
れる。二人の男が一つのベッドにいると、一人は受け入れられ、もう一人は残される)
= Mt 24, 40: tunc duo erunt in agro: unus assumetur (L 17, 35) et alter relinquetur. (Mt 24,
- 82 -
41) due molentes in unum: una assumetur et una relinquetur. (L 17, 34) duo in lecto uno:
unus assumetur et alter relinquetur (assumetur = fut. pass. < assumere 引き受ける;
relinquetur = fut. pass. < relinquere 残す) = Luther: Denn werden Zween auff dem felde sein /
Einer wird angenomen / Vnd der ander wird verlassen werden25) (Mt 24, 41) Zwo werden
malen auff em müle / Eine wird angenomen / Vnd die ander wird verlassen werden (L 17,
34) in derselbigen nacht werden zween auff einem Bette ligen / Einer wird angenomen / Der
ander wird verlassen werden
このように ist + PP が「~される」を表すので、was + PP はその過去形という意味で
「~された」という動作受動的意味を持つ。26)
(252) tho siu thiu gisah, uuas gitroubit in sienmo uuorte (3, 3)(彼女〔マリア〕はそれを見
て、彼〔天使〕の言葉に不安になった)= L 1, 29: quae cum vidisset, turbata est in
sermone eius (perf. pass.< turbare 不安にする) = Luther: Da sie aber jn sahe / erschrack sie
vber seiner rede
(253) êr thiu zisamane quamin, uuas siu fundan sô scaffaniu fon themo heilagen geiste (5, 7)
(彼ら〔マリアとヨセフ〕が一緒にならない内に、彼女〔マリア〕が聖霊によって身ご
もったことが見出された〔明らかになった〕)= Mt 1, 18: antequam convenirent, inventa
est in utero habens de spiritu sancto (perf. pass. < invenire 見出す) = Luther: ehe er sie heim
holet / erfand sichs / das sie schwanger war von dem heiligen Geist
(254) sliumo ufarsteig fon themo uuazzare. senu thô aroffonota uuarun imo himila, inti gisah
gotes geist nidarstigantan lichamlichero gisiuni samaso tubun (14, 4)(すぐに〔イエスは〕水
から上がった。すると、見よ、彼〔イエス〕に天が開かれて、そして神の霊が鳩のよう
な形を見せて下ってくるのを〔彼は〕見た)= Mt 3, 16/L 3, 22: confestim ascendit de aqua.
ecce aperti sunt ei cæli, et vidit spiritum dei descendentem corporali specie ut columbam (perf.
pass. < aperire 開ける) = Luther: steig er bald her auff aus dem Wasser / Vnd sihe / da thet
sich der Himel auff vber jm
(255) thô ther heilant uuas gileitit in vvuostinna fon themo geiste, thaz her vvurdi gicostot fon
themo diuuale (15, 1)(そして救世主は、悪魔によって試されるために、霊によって荒野
へ導かれた)= Mt 4, 1: tunc Ihesus ductus est in deserto a spiritu, ut temptaretur a diabulo
(perf. pass. < ducere 導く) = Luther: DA ward Jhesus vom Geist in die Wüsten gefürt / Auff
das er von dem Teuffel versucht würde
(256) sie tho uzgangante fuorun in thiu suin, inti mit mihhilu ungirehhu thaz cutti uuas
biskrenkit in then seo, zua thusunta, inti uuarun bithemphit in then seo (53, 10)(それら
〔悪霊〕は出て、豚に入った。そして激しく乱れて、二千匹もの群は湖の中へ落ち、湖
の中へと窒息した)= Mt 8, 32: at illi exeuntes abierunt in porcos, (Mc 5, 13) et magno
impetu grex precipitatus est in mare ad duo milia, et suffocati sunt in mare (precipitatus est =
perf. pass. < precipitare 突き落とす; suffocati sunt = perf. pass. < suffocare 窒息させる) =
Luther: [...] Vnd die herd stürtzte sich mit einem sturm ins meer / Jr war aber bey zwey tausent
/ vnd ersoffen im meer
- 83 -
(257) zi iro nihheineru gisentit uuas Helias nibi in Sarepta Sidoniæ zi uuibe uuituvvun (78, 7)
(エリアは、シドンのサレプタの寡婦を除いて、どの女にも遣わされなかった)= L 4,
26: ad nullam illarum missus est Helias nisi in Sarepta Sidoniæ ad mulierem viduam (perf. pass.
< mittere 送る) = Luther: zu der keiner ward Elias gesand / denn allein Sarephtha der Sidoner
/ zu einer Widwe27)
(258) tho quad iru [...] inti uuas tho giheilit iro tohter fon dero ziti (85, 4)(そこで〔イエスは
……と〕言った。すると、彼女の娘はその時から治った)= Mt 15, 28: et tunc ait illi [...]
et sanata est filia illius ex illa hora (perf. pass. < sanare 健康にする) = Luther: Da antwortet
Jhesus / vnd sprach zu jr [...] Vnd jre Tochter ward gesund zu der selbigen stunde
(259) in fierzug inti in sehs iaron gizimbrot uuas thiz tempal, inti thu in thrin tagon aruuekis
thaz? (118, 1)(46 年かかってこの宮は建てられたのに、あなたは三日でそれを再建する
のか)= J 2, 20: XL et VI annis ædificatum est templum hoc [...] (perf. pass. < aedificare 建
築する) = Luther: Dieser Tempel ist in sechs vnd vierzig jaren erbawet [...]
(260) giengun thô ûz sine scalca in uuega inti samanotun alle thie sie fundun, ubile inti guote,
inti gifulto uuârun thio brûtlofti sizentero (125, 11)(そこで彼〔結婚式を催した王〕の従者
たちは通りに出て、見つけた人は、悪人も善人もすべて集めた。それで結婚式場は出席
者で一杯になった)= Mt 22, 10: et egressi sunt servi eius in vias, congregaverunt omnes quos
invenerunt, malos et bonos, et impletae sunt nuptiae discumbentium (perf. pass. < implere 満た
す) = Luther: [...] Vnd die tische wurden alle vol
(261) gibrohanemo goz ubar sin houbit linentes, inti salbota sine fuozi inti suarb mit ira locon,
inti thaz hus uuas gifullit fon themo stanke thera salbun (138, 1)(〔マリアは壺を〕割って、
横になっている彼〔イエス〕の頭に注ぎ、彼の足に塗り、自分の髪の毛で洗った。そし
て家は香油の匂いで満たされた)= Mc 14, 3/Mt 26, 7/J 12, 3: [...] et domus impleta est ex
odore ungenti (perf. pass. <implere「満たす」) = Luther: [...] das Haus aber ward vol vom
geruch der Salben
(262) thio dar garauuo uuarun ingiengun mit imo zi theru brutloufti, inti bislozzano uuarun thio
duri (148, 6)(準備のできていた女たちは彼〔花婿〕と一緒に結婚式場に入った。そし
て戸は閉められた)= Mt 25, 10: quae paratæ erant intraverunt cum eo ad nuptias, et clausa
est iannua (perf. pass. < claudere 閉じる) = Luther: welche bereit waren / giengen mit jm hin
ein zur Hochzeit / Vnd die thür ward verschlossen
(263) tho uuarun erhangan mit imo zuene thioba (205, 1)(そこで彼〔イエス〕とともに二
人の泥棒が十字架にかけられた)= Mt 27, 38/Mc 15, 27: tunc crucifixerunt cum eo duos
latrones (perf. < crucifigere 十字架にかける) = Luther: Mt 27, 38: da wurden zween Mörder
mit jm gecreutziget; Mc 15, 27: sie creutzigeten mit jm zween Mörder
(264) senu tho lahan thes tempales zislizzan uuas in zuei teil fon obanentic zunzan nidar. inti
erda giruorit uuas, inti steina gislizane uuarun, inti grebir uurdun giofanotu (209, 1/2)(見よ、
その時、天の幕が上から下まで二つに裂かれた。そして地は揺り動かされ、石は裂かれ、
墓は開かれた)= Mt 27, 51/52: et ecce velum templi scissum est in duas partes a summo
usque deorsum. et terra mota est, et petre scissæ sunt, et monumenta aperta sunt (scissum
est/scissæ sunt = perf. pass. < scindere 引き裂く; mota est = perf. pass. < movere 動く; aperta
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sunt = perf. pass. < aperire 開ける) = Luther: Vnd sihe da / Der Furhang im Tempel zureis in
zwey stück / von oben an / bis vnten aus. Vnd die Erde erbebete / Vnd die Felsen zurissen /
Vnd die Greber theten sich auff
(265) bistu eino elilenti in Hierusalem inti ni uorstuonti thiu dar gitan uuarun in thesen tagon?
(225, 1)(あなたは一人エルサレムに異国人としていて、この三日の間になされたこと
を知らないのですか)= L 24, 18: [...] non cognovisti quae facta sunt in illa his diebus? (perf.
pass. < facere なす/perf. < fieri なる) = Luther: Bistu [...] der nicht wisse / was in diesen tagen
drinnen geschehen ist?
(266) uuarun gileittit andre zuene ubile mit imo, thaz sie uuarin erslagan (202, 1)(他の二人
の悪人も彼〔イエス〕とともに、処刑されるために引かれた)= L 23, 32: ducebantur
autem et alii duo nequam cum eo, ut interficerentur (impef. pass. < ducere 引く) = Luther: Es
worden aber auch hin gefurt zween ander Vbeltheter [...]
(267) eruueiz fon in inti uuas braht in himil (244, 2)(彼〔イエス〕は彼ら〔弟子たち〕か
ら離れ、そして天に導かれた)= L 24, 51: reccessit ab eis et ferebatur in caelum (imperf.
pass. < ferre 運ぶ) = Luther: schied er von jnen / vnd fuhr auff gen Himel
(268) uuard tho gitan thaz arstarp ther betalari inti uuas gitragan fon
engilon in barm
Abrahames (107, 2)(そして起こったことだが、その乞食が死に、天使たちによってアブ
ラハムのふところに運ばれた)= L 16. 22: factum est autem ut moreretur mendicus et
portaretur ab angelis in sinum Abrahae (conj. imperf. pass. < portare 運ぶ) = Luther: es begab
sich aber / das der Arme starb / vnd ward getragen von den Engeln in Abrahams schos28)
sein + 過去分詞はしかし、上のように動作受動的意味を示す一方で、次のように継続的
事態を表す場合もある。29)
(269) min kneht ligit in huse lamer inti ist ubilo giuuizinot (47, 2)(私の僕が家で中風で寝て
おり、ひどく苦しんでいる)= Mt 8, 6: puer meus iacet in domo paralyticus et male
torquetur (pass. praes. < torquere「苦しめる」) = Luther: mein Knecht ligt zu Hause / vnd ist
Gichtbrüchig / vnd hat grosse qual
(270) blinte gisehent, halze gangent, riobe sint gisubirite, toube gihorent, tote arstantent,
thurftige sint gipredigot (64, 3)(盲人は見え、足萎えは歩き、らい病人は清められ、耳し
いは聞き、死者は甦り、貧しき者たちは福音を聞かされている)= L 7, 22: cæci vident,
claudi ambulant, leprosi mundantur, surdi audiunt, mortui resurgunt, pauperes evangelizantur
(mundantur = praes. pass. < mundare「清める」; evangelizantur = praes. pass. < evangelizare
福音を伝える) = Luther: Die Blinden sehen / die Lamen gehen / die Aussetzigen werden rein
/ die Tauben hören / die Tödten stehen auff / den Armen wird das Euangelium geprediget
(271) queme zi mir alle thie giarbeitite inti biladane birut (67, 9)(あなた達、苦労させられ
ている者、重荷を背負わされている者は皆、私の所へ来なさい)= Mt 11, 28: venite ad
me omnes qui laboratis et onerati estis (praes. < laborare 苦労する) = Luther: KOmpt her zu
Mir / alle die jr müheselig vnd beladen seid
(272) min tohter ubilo fon themo tiuuale giuueigit ist (85, 2)(私の娘が悪鬼によってひどく
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苦しめられている)= Mt 15, 22: filia mea male a demonio vexatur (praes. pass. < vexare 苦
しめる) = Luther: Meine Tochter wird vom Teufel vbel geplaget
(273) thu intfiengi guotiu in thinemo libe inti Lazarus so sama ubiliu: nu ist theser gifluobrit,
thu bist giquelit (107, 3)(あなたは生きている時によいものをもらい、ラザロは同じく
悪いものをもらった。今はこの者〔ラザロ〕が慰められ、あなたは苦しめられている)
= L 16, 25: [...] nunc autem hic consolatur, tu vero cruciaris (consolatur = praes. < consolari
慰める; cruciaris = praes. pass. < cruciare 拷問に処す) = Luther: [...] Nu aber wird er
getröstet / Vnd du wirst gepeiniget
(274) fallent in munde suertes inti uuerdent hafte geleitit in alla thiota, inti Hierusalem ist
gitretan fon thioton io unz gifulto uuerdent ziti thiotono (145, 13)(〔ユダヤ人たちは〕剣の
刃に倒れ、あらゆる民のもとへ引かれ、そしてエルサレムは、異邦人の時が満たされる
まで、異邦人たちに踏みにじられ続ける)= L 21, 24: cadent in ore gladii et captivi
ducentur in omnes gentes, et Hierusalem calcabitur a gentibus donec impleantur tempora
nationum (ducentur = fut. pass. < ducere 引く; calcabitur = fut. pass. < calcare 踏む) = Luther:
vnd sie werden fallen durch des Schwertes scherffe / vnd gefangen gefürt vnter alle Völcker.
Vnd Jerusalem wird zutretten werden von den Heiden / bis das der Heiden zeit erfüllet wird
(275) mit thiu her tho nahita phortu theru burgi, senu arstorbaner uuas gitragan (49, 2)(彼
〔イエス〕が町の門に近づいたところ、見よ,死者が運ばれるところであった)= L 7,
12: cum autem appropinquasset portæ civitatis, ecce defunctus efferebatur (imperf. pass. <
effere 運び出す) = Luther: Als er aber nahe an das Stadthor kam / Sihe / da trug man einen
Todten heraus
(276) abande giuuortanemo eino uuas her thar. thaz skef in mittemo seuue uuas givvorphozit
mit then undon: uuas in uuidaruuart uuint.(晩になって、彼〔イエス〕は一人そこ〔山〕に
いた。〔弟子たちの〕船は湖の真ん中で波に 揺り動かされていた 。風が逆向きであっ
た)= Mt 14, 23/24: vespere autem facto solus erat ibi. navicula autem in medio mari
iactabatur fluctibus; erat enim contrarius ventus (imperf. pass. < iactare 揺り動かす) = Luther:
am abend war er alleine daselbs. Vnd das Schigg war schon mitten auff dem Meer vnd leid not
von den Wellen / Denn der wind war jnen wider
(277) her biuuanit uuas Iosebes sun (14, 1)(彼〔イエス〕はヨセフの息子と考えられてい
た)= L 3, 23: putabatur filius Ioseph (imperf. < putare 見なす) = Luther: [Jhesus] ward
gehalten fur einen son Joseph
(278) der dar erist ingisteig aftter giruornisse thes uuasseres, heil uuas uon so uuelichero suhti
uuas bihabet (88, 1)(水がかき回されたあと最初に入った者は、いかなる病気にかかっ
ていても、治った)= J 5, 4: qui ergo primus descendisset post motum aquae, sanus fiebat a
quocumque languore tenebatur (imperf. pass. < tenere 支配する) = Luther: Welcher nu der
erste / nach dem das wasser beweget war / hin ein steig / der ward gesund / mit welcherley
Seuche er behafftet war
(279) iro ougun uuarun bihabetiu, thaz sie inan ni uorstuontin (224, 3)(彼ら〔二人の弟子〕
の目はとらわれていたので、彼〔復活したイエス〕に気づかなかった)= L 24, 16: oculi
autem eorum tenebantur, ne eum agnoscerent (pass. imperf. < tenere 保つ、支配する) =
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Luther: Aber jre augen wurden gehalten / das sie jn nicht kandten
(280) her thiob uuas, inti sehhil habenti thiu thar gisentidiu uuarun truog siu (138, 3)(彼〔ユ
ダ〕は泥棒であり、財布を持って、渡されるものを持ち運んでいた)= J 12, 6: [...]
loculos habens ea quæ mittebantur portabat (imperf. pass. < mittere 渡す) = Luther: er war ein
Dieb / vnd hatte den Beutel / vnd trug was gegeben ward
(281) her lerta in iro samanungu inti uuas gilobot fon allen (17, 8)(彼〔イエス〕はその〔地
方の〕集会所で教え、すべての人に賞賛された)= L 4, 15: ipse docebat in sinagogis
eorum et magnificabatur ab omnibus (imperf. pass. < magnificare 賞賛する) = Luther: er
lerete in jren Schulen / vnd ward von jederman gepreiset
しかしまた、ist + PP はラテン語の完了過去に対応し、結果状態を表す場合もある。
(282) sô ist giscriban thuruh then uuizzagon (8, 3)(こう預言者によって書かれている)=
Mt 2, 5: sic enim scriptum est per prophetam (perf. pass. < scribere 書く) = Luther: Denn also
stehet geschrieben durch den Propheten
(283) thaz ist arrekit: mit uns got (5, 9)(これ〔インマヌエル〕は、神は我々とともにと
解されている)= Mt 1, 23: quod est interpretatum: nobiscm deus (perf. pass. < interpretari
解する) = Luther: Das ist verdolmetschet / Gott mit vns
(284) giu ist accus gisezzit zi vvurzulun thero boumo (13, 15)(すでに斧は木の根に置かれ
ている)= Mt 3, 10: iam enim securis ad radicem arborum posita est (perf. pass. < ponere 置
く) = Luther: Es ist schon die Axt den Bewmen an die wurtzel gelegt
(285) uue iu thie thar gisatote birut, bithiu uuanta ir hungeret (23, 2)(満腹しているあなた達
は禍だ。あなた達は飢えるからである)= L 6, 25: Væ vobis qui saturati estis, quia
esurietis (perf. pass. < saturare 満足させる) = Luther: Weh euch / die jr vol seid / Denn euch
wird hungern
(286) giu sint mino turi bislozano, inti mine knehta sint mit mir in camaru, ni mag arstanten inti
geban thir (40, 2)(すでに私の戸は閉じられており、私の子供たちは私とともに寝室に
いる。私は起きてあなたにあげることはできない)= L 11, 7: iam ostium clausum est, et
pueri mei mecum sunt in cubili, non possum surgere et dare tibi (perf. pass. < claudere 閉じる)
= Luther: die Thür ist schon zugeschlossen / vnd meine Kindlin sind bey mir in der Kamer / ich
kan nicht auffstehen / vnd dir geben
(287) uuone mit uns, uuanta iz abandet inti intheldit ist iu ther tag (228, 2)(私たちとともに
宿泊なさい。夕方になろうとして、すでに日は傾いているのだから)= L 24, 29: mane
nobiscum, quoniam advesperascit est et declinata est iam dies (perf. pass. < declinare 折り曲げ
る、傾ける) = Luther: Bleib bey uns / Denn es wil abend werden / vnd der tag hat sich
geneiget
(288) iuuares houbites har allu girimitu sint (44, 20)(あなた達の髪の毛はすべて数えられ
ている)= Mt 10, 30: vestri autem et capilli capitis omnes numerati sunt (perf. pass. <
numerare 数える) = Luther: Nu aber sind auch ewre hare auff dem Heubt alle gezelet
(289) euua thuruh Moysen gigeban ist, geba inti uuâr thuruh Heilant Christ gitan ist (13, 9)
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(律法はモーセによって 与えられた が、恩恵と真理は救世主キリストによって なされ
た)= J 1, 17: lex per Moysen data est, gratia et veritas per Ihesum Christum facta est (data
est = perf. pass. < dare 与える; facta est = perf. pass. < facere なす/perf. < fieri なる) =
Luther: das Gesetz ist durch Mosen gegeben / Die Gnade vnd Warheit ist durch Jhesum Christ
worden
(290) ih ni bin Crist, uzouh bim gisentit furi inan (21, 5)(私はキリストではなく、彼の前
に送られたものだ)= J 3, 28: non sum Christus, sed quia missus sum ante illum (perf. pass.
< mittere 送る) = Luther: [das ich gesagt habe /] Jch sey nicht Christus / sondern fur jm her
gesand
(291) uuanta bithiu bin ih gisentit (22, 4)(というのは、私はそのために送られたのだか
ら)= L 4, 43: quia ideo missus sum (perf. pass. < mittere 送る) = Luther: Denn da zu bin ich
gesand
(292) ni forhti thu thir, Zacharias, uuanta gihorit ist thin gibet (2, 13)(恐れるな、ザカリヤ、
あなたの祈りは聞き入れられたのだから)= L 1, 13: ne timeas, Zacharia, quoniam exaudita
est deprecatio tua (perf. pass. < exaudire 聞き届ける) = Luther: Fürchte dich nicht Zacharia /
Denn dein gebet ist erhöret
(293) fon thero giboran ist Heilant (5, 4)(彼女〔マリア〕から救世主は生まれた)= Mt. 1,
16: de qua natus est Ihesus (perf. < nasci 生まれる) = Luther: Von welcher ist geboren Jhesus
(294) uuar ist ther thie giboran ist Iudeno cuning? (8, 1)(ユダヤ人の王として生まれた人は
どこにいるのか)= Mt 2, 2: ubi est qui natus est rex Iudeorum? = Luther: Wo ist der
newgeborne König der Jüden?
これらの例を見る限り、ist + PP は『タチアーン』と『イシドール』のいずれにおいても
結果状態を表す場合があり、両文献の間で特に差異は感じられない。しかし、『イシドー
ル』には haben + 過去分詞の例はなく、『タチアーン』にはそれがあり、その hat + PP
がラテン語の完了過去に対応する形で用いられるとすれば、『イシドール』と『タチアー
ン』のあいだで結果状態を表す ist + PP に違いはないのか考えねばならない。一つの違
いとして挙げられるのは、『タチアーン』の ist + PP には、次のように時を示す副詞を
伴う例が見られるということである。
(295) nu ist giberehtot mannes sun (159, 8)(今、人の息子は栄光を受けた)= J 13, 31:
nunc clarificatus est filius hominis (perf. pass. < clarificare 明るくする) = Luther: Nu ist des
menschen Son verkleret
(296) giboran ist îu hiutu Heilant (6, 2)(あなた達のために今日救世主が生まれた)= L 2,
11: natus est vobis hodie salvator = Luther: Euch ist heute der Heiland geborn
(297) thaz hiutu gifullit ist thiz giscrib in iuuaren orun (18, 4)(あなた達の耳に入ったこの
書の言葉は今日満たされた)= L 4, 21: quod hodie impleta est hæc scriptura in auribus
vestris (perf. pass. < implere 満たす) = Luther: Heute ist diese Schrifft erfüllet fur ewern ohren
nu「今」や hiute「今日」といった副詞は事態が生じたあとに残る状態の時点を示す。そ
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の意味ではこれらの例は単に結果状態を表すだけである。しかしこれらの副詞の表す時間
は、「栄光を受ける」「生まれる」「満たされる」という事態の起こる時点をも含む。時
間副詞のない上例 (282)-(294)においては、あくまで現在における状態に表現の焦点が置か
れるが、これらの例においては、過去の事態そのものにも焦点が当てられるという二重性
が生じる。
現在における状態が明確ではない、次のような例の出現も同じ観点で理解される。
(298) senu nu niouuiht uuirdic tode ist imo gitan (197, 3)(死に価するようなことは何も彼
においてなされていないのだから)= L 23, 15: ecce nihil dignum morte actum est ei (perf.
pass. < agere 行う) = Luther: vnd sihe / man hat nichts auff jn bracht / das des todes werd sey
(299) ther thie tuot uuar thie quimit zi liohte, thaz uuerden giohhonotu sinu uuerc, uuanta siu
fon gote sint gitanu (119, 12)(真理を行う者は光に来る。自分の行いが、神によってな
されたものであることが、明らかにされるために)= J 3, 21: qui autem facit veritatem
venit ad lucem, ut manifestentur opera eius, quia a deo sunt facta (perf. pass. < facere なす) =
Luther: Wer aber die warheit thut / der kompt an das Liecht / das seine werck offenbar werden /
Denn sie sind in Gott gethan30)
(300) inti nu ubar thisiu alliu thritto tag ist hiutu thaz thisiu gitan sint (225, 3)(そして何より
も、今日はこうしたこと〔イエスが十字架にかけられたこと〕がなされて、三日目なの
です)= L 24, 21: et nunc super haec omnia tertia dies est hodie quod haec facta sunt (perf. <
facere なす/fieri なる) = Luther: Vnd vber das alles / ist heute der dritte tag / das solchs
geschehen ist
(301) ih uueiz thaz ir then heilant ther dar arhangan ist suochet. nist er hier: her arstuont (217,
5/6)(あなた達が 十字架にかけられた 救世主を探していることを私は知っている。彼は
ここにはいない。彼は甦ったのだ)= Mt 28, 5/6: scio enim quod Ihesum qui crucifixus est
quæritis. non est hic, surrexit enim (perf. pass. < crucifigere 十字架にかける) = Luther: Jch
weis / das jr Jhesum den gecreutzigten suchet / Er ist nicht hie / Er ist aufferstanden
これらの例は、現在における何らかの状態を表すと思われるが、それがいかなるものかは
明らかではない。たとえば (301)においては、現在十字架にかけられているという状態が
あるわけではない。ここで表現されているのは「十字架にかけられる」という事態が過去
に確かに生じたという事実である。この種の例は『イシドール』には見られなかった。
ここで受動と能動の関係を考えると、ist + PP が動作受動的意味を表したり、継続的事
態を表す限り、その能動形は現在形で表すことができる。しかし、ist + PP が状態表現と
して用いられるとすると、それに対応する能動表現は現在形でも過去形でも表せない。勿
論、過去形が現在における結果状態を表す場合はあり、その例は上例 (63)-(81)で見たよう
に少なくない。しかし過去形は、現在における結果状態を特別に表す形ではなく、過去の
事態一般を表現する形式なので、上例 (82)(87)で見たように過去完了的な、過去における
結果状態をも表すこともできる。従って、過去形は「現在」における結果状態を特別に表
す形ではない。
この場合、ist + PP が純粋に結果状態における状態のみを表現するならば、それに対応
- 89 -
する能動表現を作る必要性は高くない。なぜなら、純粋な状態表現においてはその状態を
担うものが焦点化されるが、ist + PP においてその状態を担うものが主格主語で表される
ことによって、その要件は満たされているからである。勿論、sein と haben の関係に基
づいて類推的に、純粋な結果状態を表す hat + PP が形成される可能性はつねにあるが、
それは強い必要性によって生まれるものではないので、ゴート語の例のように限定された
ものになるだろう。それに対し、上の (295)-(301)のように、ある事態が確かに生じたこと
を表現の中心に置くような特殊な結果状態を表す形が受動形に生じると、そこでは事態に
も焦点が置かれるので、その事態を引き起こす動作主を主語にした能動形を作る心理的必
要性が生まれる。これが『タチアーン』においてラテン語の完了過去に対応する hat + PP
が出現する理由である。この場合、ある特殊な受動形に対応する能動形が必要だという意
味で hat + PP が用いられるので、その主語が事態の動作主であることは当然であり、
Kuroda (1999: 59) の言うような「構造的解釈転換」を設定する必要はない。
なお、sein が過去形である was + PP が結果状態を表す場合、下例(319)のような例外は
あるが、ほとんど純粋な状態表現として用いられる。
(302) mit thiu uuas gimahalit thes heilantes muoter Maria Iosebe, êr thiu zisamane quamin,
uuas siu fundan sô scaffaniu fon themo heilagen geiste (5, 7)(救世主の母マリアがヨセフと
一緒になる前、 婚約していた 時、彼女は精霊によって妊娠しているのが分かった) =
Mt 1, 18: cum esset desponsata mater Ihesu Maria Ioseph, antequam convenirent, inverta est in
utero habens de spiritu sancto (conj. pluq. pass. < despondere 婚約させる) = Luther: Als Maria
seine Mutter dem Joseph vertrawet war / ehe er sie heim holet / erfand sichs / das sie
schwanger war von dem heiligen Geist
(303) thô Herodes gisah uuanta her birogan uuas fon then magin, balg sih harto (10, 1)(ヘロ
デは博士たちに騙されていたことを知って、激しく怒った)= Mt 2, 16: tunc Herodes
videns quoniam illusus esset a magis, iratus est valde (conj. pluq. pass. < illudere 騙す) =
Luther: DA Herodes nu sahe / Das er von den Weisen betrogen war / ward er seer zornig
(304) tho quam her zi Nazareth, thar her uuas gizogan (18, 1)(そして彼〔イエス〕は自分
が育てられたナザレに来た)= L 4, 16: et venit Nazareth, ubi erat nutritus (pluq. pass. <
nutrire 育てる) = Luther: VND er kam gen Nazareth / da er erzogen war
(305) so her then buoh inteta, fant thie stat thar giscriban uuas (18, 2)(そこで彼〔イエス〕
が本を開くと、次のように書かれた箇所を見つけた)= L 4, 17: et ut revolvit librum,
invenit locum ubi scriptum erat (pluq. pass. < scribere 書く) = Luther: Vnd da er das Buch
rumb warff / fand er en Ort / da geschrieben stehet
(306) thanne gitiurit uuard ther heilant, tho gihugitun thaz thisu uuarun giscriban fon imo (116,
3)(救世主が栄光を受けたとき、〔弟子たちは〕それが彼について書かれたものである
ことに思い至った)= J 12, 16: quando glorificatus est Ihesus, tunc recordati sunt quia haec
erant scripta de eo (pluq. pass. < scribere 書く) = Luther: da Jhesus verleret ward / da dachten
sie dran / das solchs war von jm geschireben
(307) mit thiu her gihorta thaz Iohannes giselit uuas, fuor in Galileam (21, 11)(彼〔イエス〕
はヨハネが引き渡されたことを聞くと、ガリラヤに行った)= Mt 4, 12: cum autem
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audisset quod Iohannes traditus esset, secessit in Galileam (conj. pluq. pass. < tradere 引き渡
す) = Luther: DA nu Jhesus höret / Das Johannes vberwortet war / zoch er in das Galileische
land
(308) inti nidarsteic regan inti quamun gusu inti bliesun uuinta inti anafielun in thaz hus, inti iz
ni fiel, uuanta iz gifestinot uuas ubar stein (43, 1)(そして雨が落ち、洪水が来て、風が吹
き、その家を襲ったが、それは倒れなかった。というのはそれは石の上に基礎づけられ
ていたからである)= Mt 7, 25: et descendit pluvia et venerunt flumnina et flaverunt venti et
inruerunt in domum illam, et non cecidit, fundata enim erat supra petram (pluq. pass. < fundare
基礎づける) = Luther: Da nu ein Platzregen fiel / vnd ein Gewesser kam / vnd webeten die
Winde / vnd stiessen an das Haus / fiel es doch nicht / Denn es war auff einen Felsen
gegründet
(309) thar uuarun steininu uuazzarfaz sehsu gisezitu after subernessi thero Iudeono (45, 4)(そ
こに石の水瓶が六つユダヤ人の清めに従って置かれていた)= J 2, 6: erant autem ibi
lapidee hydrie sex positæ secundum purificationem Iudeorum (pluq. pass. < ponere 置く) =
Luther: Es waren aber alda sdchs steinern Wasserkrüge gesetzt nach der weise der Jüdischen
reinigung
(310) uuas thar cruft, inti stein uuas gisezzit ubar sia (135, 23)(そこには穴があり、石がそ
の上に置かれていた)= J 11, 38: erat autem spelunca, et lapis superpositus erat ei (pluq.
pass. < superponere 上に置く) = Luther: Es war aber eine Klufft / vnd ein stein darauff gelegt
(311) nist er hier: her arstuont, sosa her quad: quaemet inti gisehet thia stat uuar trohtin gilegit
uuas (217, 6)(彼〔救世主〕はここにはいない。彼が言っていたように、彼は甦った。
行って、主が置かれていた場所を見なさい)= Mt 28, 6: non est hic, surrexit enim, sicut
dixit: venite et videte locum ubi positus erat dominus (pluq. pass. < ponere 置く) = Luther: Er
ist nicht hie / Er ist aufferstanden / wie er gesagt hat. Kompt her / vnd sehet die stet / da der
HErr gelegen hat
(312) tho uuib thiu habeta geist unmahti hahtuzehen iar, inti uuas nidargineigit noh zi
thuruhslahti ni mohta ufscouuon (103, 1)(そこにある女が病気の霊を 18 年わずらっていて、
体が曲がっていて、全く見上げることができなかった)= L 13, 11: mulier quae habebat
spiritum infirmitatis annis decem et octo, et erat inclinata nec omnino poterat sursum respicere
(pluq. pass. < inclinare 曲げる) = Luther: ein Weib war da / das hatte einen Geist der
kranckheit achzehen jar / vnd sie war krum / vnd kunde nicht wol auffsehen
(313) ni uuas thie geist gigeban, uuanta ther heiltant ni uuas noh thanne gidiurisot (129, 6)
(救世主はまだその時栄光を 受けていなかったので、御霊が 与えられていなかった) =
J 7, 39: non enim erat spiritus datus, quia Ihesus nondum fuerat glorificatus (erat datus = pluq.
pass. < dare 与える; fuerat = pluq. < esse; glorificatus = pp. < glorificare 栄光を与える) =
Luther: Denn der heilige Geist war noch nicht da / denn Jhesus war noch nicht verkleret
(314) uuizagota thaz ther heilant sterbenti uuas furi thiota. inti nalles ecrodo furi thiota, oh thaz
thiu gotes kind thiu thar uuarun cispreitiu gisamanoti in ein (135, 30)(〔大祭司は〕救世主
が民のために死ぬことになると預言した。単に民のためだけではなく、散らばっている
神の子たちを一つに集めるために)= J 11, 51/52: prophetavit quia Ihesus moriturus erat pro
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gente. et non tantum pro gente, sed ut filios dei qui erant dispersi congregaret in unum (pluq.
pass. < dispergere 散乱させる) = Luther: weissaget er / Denn Jhesus solte sterben fur das
Volck / vnd nicht fur das volck allein / Sondern / das er die kinder Gottes / die zustrewet
waren / zusamen brechte
(315) bigonda thuuahan fuozzi sinero iungirono inti suuerban mit themo sabane themo her uuas
bigurtit (155, 2)(〔救世主は〕自分の弟子たちの足を洗い、自分が腰につけていた布で
拭き始めた)= J 13, 5: coepit lavare pedes discipulorum et extergere linteo quo erat
precinctus (pluq. pass. < praecingere 前に帯をする) = Luther: hub an den Jüngern die Füsse
zu Waschen / vnd trucknet sie mit dem Schurze / damit er vmbgürtet war
(316) uuarun tho iro ougun gisuaretiu, inti ni uuestun uuaz sie imo antuurtitin (182, 5)(その
時彼ら〔弟子たち〕の目は重くなっていて、彼〔救世主〕に何と答えるか分からなかっ
た)= Mc 14, 40: erant enim oculi eorum gravati, et ignorabant quid responderent ei (pluq.
pass. < gravare 重くする) = Luther: Denn jr augen waren vol schlaffs vnd wusten nicht / was
sie jm antworten
(317) thiu mit diu gifullit uuas uznemente inti bi stedu sizente arlasun thie guoton in faz, thie
ubilon uzvvurphun (77, 3)(〔網が〕一杯になるとそれを引き出し、〔人々は〕浜に座り
よいものを選んで入れ物に入れ、悪いものを投げ捨てた)= Mt 13, 48: quam cum
impleta esset educentes et secus litus sedentes elegerunt bonos in vasa, malos autem foras
miserunt (conj. pluq. pass. < implere 一杯にする) = Luther: Wenn es aber vol ist / so zihen sie
es eraus an das Vfer / sitzen vnd lesen die guten in ein Gefess zusammen / Aber die faulen
werffen sie weg
(318) quamun zi imo inti vvurdun gitoufte; noh thanne ni uuas Iohannes gisentit in carcari (21,
2)(〔人々が〕彼〔ヨハネ〕の所へ来て、洗礼を受けた。ヨハネはまだ獄に送られてい
なかった)= J 3, 23/24: adveniebant et baptizabantur; nondum enim missus fuerat in carcerem
Iohannes (missus = pp. m. sg. nom. < mittere 送る; fuerat = pluq. < esse) = Luther: sie kamen
dahin / vnd liessen sich teuffen / Denn Johannes war noch nicht ins Gefengnis gelegt
(319) tho gisehante sine ebanscalka thiu dar uuarun gitruobta uurdun thrato, inti quamun inti
sagetun iro hêrren alliu thiu gitaniu uuarun (99, 4)(彼の同僚の僕は見て、非常に悲しみ、
来て自分たちの主人に 行われたことをすべて話した) = Mt 18, 31: videntes autem
conseivi eius quae fiebant contristati sunt valde, et venerunt et narraverunt domino suo omnia
quae facta fuerant (facta = pp.; fuerant = pluq. < esse) = Luther: DA aber seine Mitknechte
solchs sahen / worden sie seer betrübt / vnd kamen / vnd brachten fur jren Herrn alles das sich
begeben hatte
was + PP が事態を焦点化するような結果状態を表さないことは、habêta (= hatte) + PP が
ラテン語の全分過去(過去完了)に対応しなかったことにおそらく関係する(上例 (59)
(60))。勿論、受動の was + PP は、上のようにラテン語の全分過去(およびその接続
法)に対応する場合が少なくない。しかし、それが状態性を強く表す限りにおいては、そ
れに対応する事態に焦点を当てるような能動表現を作る必要はなく、habêta + PP が用い
られても原初的意味に留まることになる。従って、もし全分過去に対応する habêta + PP
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の例が存在していたとしても、それはあくまで状態表現であった可能性が高い。
ではなぜ、ist + PP および habêt (= hat) + PP には事態そのものに焦点が当てられる用法
が生まれ、was (= war) + PP および habêta (= hatte) + PP にはその用法が顕著に見られない
のだろうか。一つの仮定として考えられることは、ist + PP および habêt + PP は、ある事
態が生じたことが確かであるという「確定性」を表す表現として用いられたのではないか
ということである。その際、「確定性」は「現在」において最早動かしがたいという意味
で発話時現在と強く結びつく。そのため、ist + PP および habêt + PP は was + PP および
habêta + PP よりも早い時期に、事態を焦点化する用法を獲得したのではないかと考えら
れる。
以上、ist + PP における特殊な結果状態を表す用法の成立が、ラテン語の完了過去に対
応する hat + PP の出現を促したことを述べた。これは現在においてその事態が確かに生
じたということを明示化するという用法である。しかし、誤解を避けるために述べなけれ
ばならないのは、同じ用法は ward + PP によっても可能であったということである。
(320) saligu thiu thar giloubta, uuanta thiu uuerdent gifremitu thiu thar giquetan vvurdun iru
fon truhtine (4, 4)(主によってその女に語られたことが実現されると信じたその女は幸
いだ)= L 1, 45: beata quae credidit, quoniam perficientur ea quae dicta sunt ei a domino =
Luther: o selig bistu / die du gegleubt hast / Denn es wird volendet werden / was dir gesagt ist
von dem HERRN
(321) theser min sun toot uuas inti arqueketa, foruuard inti funtan uuard (97, 4)(この私の息
子は死んでいたのに生き返った。失われたのに見つかった)= L 15, 24: hic filius meus
mortuus erat et revixit, perierat et inventus est = Luther: dieser mein Son war tod / vnd ist
wider lebendig worden / Er war verloren / vnd ist funden worden (97, 8 = L 15, 32 も同様)
(322) eno ia uurdun zeheni giheilte, inti uuar sint thie niuni? (111, 3) (十人が癒されたので
はなかったか。九人はどこにいるのか)= L 17, 17: nonne decem mundati sunt, et novem
ubi sunt? = Luther: Sind jr nicht zehen rein worden? Wo sind aber die neune?
(323) thiz uuîb uuard nu bifangan in ubarhiuui (120, 2)(この女は今、姦淫中に捕らえられ
た)= J 8, 4: haec mulier modo deprehensa est in adulterio = Luther: Dis Weib ist begriffen
auff frischer that im Ehebruch
つまり、ist + PP が上で述べた特殊な結果状態を表す唯一のものとして確定していたわけ
ではない。しかしすでに述べたように、過去形は過去一般を表す形式である。従って、
ward + PP は基準時が現在に置かれるとは限らず、過去のある時点に置かれることも可能
であり、次のような過去のある時点から見てさらに過去の事態を表すこともできた。
(324) alle thi thaz gihortun uuarun thaz vvuntoronte inti fon ðêm thiu giquetanu vvurdun zi im
fon ðêm hirtin (6, 5)(これを聞く者は皆、彼らに羊飼いたちによって言われたことによ
って驚いていた)= L 2, 18: omnes qui audierunt mirati sunt, et de his quae dicta erant a
pastoribus ad ipsos = Luther: alle / fur die es kam / wunderten sich der Rede / die jnen die
Hirten gesagt hatten31)
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(325) tho sume fon then uuarton quamun in thia burg inti sagetun then heroston thero
heithaftono alliu thiu dar gitan uurdun (番兵のうちの数名が都に行き、大祭司たちに行
われたすべてを話した)(222, 1)= Mt 28, 11: quidam de custodibus venerunt in civitatem et
nuntiaverunt principibus sacerdotum omnia quae facta fuerant (facta = pp.; fuerant = pluq. <
esse) = Luther: da kamen etliche von den Hütern in die Stad / vnd verkündigeten den
Hohenpriestern / alles was geschehen war
従って、ある事態が生じたことが「現在」から見て確定的であることを示す形としては、
ist + PP の方が ward + PP よりも適当だと言える。ただしそれでも、ist + PP は動作受動
的事態あるいは継続的事態を表すと解される可能性もあるので、ist + PP と ward + PP の
使用には揺れが残り続ける。
最後に『タチアーン』における受形動と能動形の対応関係をまとめて示す。
受動
ist + PP
was + PP
能動
動作受動・継続的事態
現在形
純粋な結果状態
habêt + PP
事態が焦点化される結果状態
habêt + PP
動作受動・継続的事態
過去形
純粋な結果状態
habêta + PP
ward + PP
過去形
3. 1. 5 『オトフリート福音書』の受動形
『オトフリート福音書』においても、sein + 過去分詞は動作受動的意味で用いられる場
合がある。32)
(326) nist si so gisungan, mit regulu bithuungan: si habet thoh thia rihti in sconeru slihti (I, 1,
35)(それ〔フランク語〕はそのように〔ギリシア・ローマの詩のように〕 歌われ ず、
韻律で制せられることもないが、しかし、それは美しい簡潔さという端正さを備えてい
る)
(327) in gotes gibotes suazi laz gangan thine fuazi, ni laz thir zit thes ingan: theist sconi fers sar
gidan (I, 1, 48)(神の命令の甘美の中へと足が歩んでいくようにしなさい。その時を逃
してはならない。そうすれば、美しい韻文が即座に作られる)
(328) in buachon ist nu funtan: thaz wort theist man wortan, iz ward hera in worolt funs joh nu
buit in uns (II, 2, 31)(書物の中に今や次のことが見出される。すなわち、人となった言
葉は、この世に来る用意ができて、そして今我々の中に宿っているのだ)
(329) iro ist filu irwortan, ni sint ouh noh nu funtan; ih quam bi theru noti, theih thie
gisamanoti (III, 10, 25)(彼ら〔我が父の民〕の多くは、今見出されなければ、破滅して
しまう。私は彼らを何としてでも集めるために来たのだ)
(330) hiar ist ana funtan thaz er hiar ward biscoltan, joh er iro worto interet ward hiar harto (III,
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19, 13)(この箇所では、彼〔イエス〕が罵られ、また言葉でひどく辱められたことが見
て取れる)
(331) laz sia [...] duan thiu werk thiu si bigan, thaz siu iz nirfulle nu thiu min; ni muaz si, sih
bigraban bin (IV, 2, 32)(彼女〔マルタの妹のマリア〕が始めた行いを、そのまま彼女
にさせておきなさい。彼女はそれを行わずにはいられないのだから。私が葬られれば、
彼女はできないのだ)
(332) ther mit giloubu thaz giduat, thaz si imo gikerit sinaz muat: nist themo ser bizeinit noh
leides wiht gimeinit; ther avur thes ni wartet, in theru ungiloubu irhartet: theist ju sar gimeinit,
thaz themo ist giwisso irdeilit (II, 12, 82/84)(自分の心が彼〔イエス〕に向かうように信
仰を持って行う者には、苦しみを与えるようには決められず、また悲しみを与えるよう
に定められ はしない。それ対し、それを守らず、不信仰に留まる者には、即座にそれ
〔苦しみや悲しみ〕を与えることに定められ、確実にそれを課すことが決せられる)
(333) iu ist salida gimeinit in thiu ir herza reinaz eigit; ir sculut io mit sulichen ougon selbon
druhtin scowon (II, 16, 21)(あなた方が清らかな心を持つならば、あなた方には幸福を与
えることが定められる。あなた方はそのような目でいつでも主その人を見るだろう)
(334) thanne woroltkuninga sterbent bi iro thegena, in wige iogilicho dowent theganlicho: so
sint se alle geirrit, thes wiges gimerrit, ther in thera noti thar imo folgeti; joh fallent sie
ginoton fora iro fianton, untar iro hanton sprron joh mit suerton (III, 26, 41)(もし現世の王た
ちが自分の従士のために死ねば、戦いで勇敢に死ぬとしても、彼〔王〕に従わねばなら
ない者たちは皆、惑わされ、戦いに乱される。そして彼ら〔従士たち〕は敵たちの前で、
敵たちの槍と剣による力に屈して、倒れることになる)
(335) iz ward allaz io sar, soso er iz gibot thar, joh man iz allaz sar gisah, sos er iz erist gisprah.
thaz thar nu gidan ist, thaz was io in gote sos ist, was giahtot io zi guate in themo ewinigen
muate (II, 1, 42)(すべては、最初に彼〔神〕が命じた通りに、すぐに生じた。すべて彼
が最初に言った通りであるのをすぐに人は見た。作られてそこに今あるものは、〔今〕
あるようにかつて神においてあったのであり、永遠の心において善として考え出された
ものであった)
(336) ja kundt er uns thia heili, er er giboran wari (I, 6, 18)(彼〔イエス〕は、生まれる前
に我々に救済を知らせた)(conj.)
ただし、これらの例は結果状態を表すと見なせなくもない。
sein + 過去分詞はまた、継続的事態を表す場合もある。33)
(337) sih Abraham giguatta joh druhtine ouh giliubta, wanta er was gihorsam; bi thiu ist er
gieret nu so fram (I, 3, 14)(アブラハムは自分が善良であることを示し、主に愛された。
何故なら、彼は従順だったからである。それゆえ、彼は今非常に敬われている)
(338) nist thiu minna sumirih kreftin anderen gilih [...] thia wir heizen karitas. gilobot ist si
harto Paules selbes worto, sines selbes bredigon, thiu karitas so ih thir redinon; lobot sia giwaro
ther bredigari maro filu managfalto sines worto (V, 12, 81)(まこと、この愛は他の諸力とは
比べものにならない。それを我々はカーリタースと呼ぶ。それ、すなわち、私があなた
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に話しているカーリタースは、パウロ自身の言葉によって、彼自身の教えによって、強
く賞賛されている。それをこの説教者〔パウロ〕は非常に多彩に自分自身の言葉で賞賛
している)
(339) adeilo thu es ni bist wio in buachon siu gilobot ist, wio mihil gimuati sin allo thio iro
guati (V, 23, 123)(あなたは、それ〔兄弟愛、すなわちカーリタース〕が書物において
いかに賞賛されているか、その慈善すべてがどれほど心地よいものか、知らない)
(340) er ist gilobot harto selben Kristes worto in buachon zi ware (Hart. 37)(彼〔アベル〕は
キリスト自身の言葉で書物の中で実際賞賛されている)
(341) si birit sun zeizan, ther ofto ist iu giheizan; thie buah fon imo singent, wioz forasagon
zellent (I, 8, 25)(彼女〔マリア〕は愛らしい息子を生みます。その息子のことはあなた
方に何度も予告されていることです。書物が彼について、預言者たちがどう語っている
のか、歌っています)
(342) ir ni giloubiet thoh thiu halt thaz ist iu ofto gizalt; giwisso ni birut ir thero ih irwellu zi
mir (III, 22, 19)(あなた方はそれでもなお、あなた方に何度も語られていることを信じ
ない。あなた方は確かに私が私に従う者として選び出す者ではない)
sein + 過去分詞はしかし、結果状態も表す。その場合、すでに『タチアーン』でも見ら
れたように、現在における状態が明瞭ではなく、むしろ過去における事態が表現の中心に
置かれる例が見られる。
(343) nu ist druhtin Krist gidoufit, thiu sunta in uns bisoufit; thaz unsih io sangta, er al iz thar
irdrangta (II, 3, 53)(今や主キリストは洗礼を受けた。そして我々のなかにある罪は沈め
られて消えた。それはかつて我々を沈没させ、そこにあるすべてを溺死させたものであ
った)
(344) „sehet“, quad er „nu then man: firdamnot ist er filu fram! ir sehet sina unera, waz wollet
ir es mera? biscoltan ist er harto joh honlichero worto, ouh sinero undato girefsit filu thrato; er
ist“, quad „bifilit, mit thornon ouh bistellit [...]“ (IV, 25, 14)(彼〔ピラト〕は言った。「こ
の者を見よ。この男は十分に罰を下されている。お前たちは彼の受けた恥辱を見ている。
これ以上何を望むのか。彼はひどく、そして侮蔑の言葉で罵られ、そしてその悪行につ
いて激しく非難された。彼は」と〔ピラトは〕言った。「打たれ、いばらの冠を着けさ
せられている)
(345) si nan sar irkanta so er then namon nanta, thaz si garo er firliaz unz er sia wib hiaz. so ist
themo gotes drute gisprochan zi guate, Moysese in ware, themo wizodspentare. „ih [...] weiz
thih bi namen [...]“ (V, 8, 35)(彼女〔マグダラのマリア〕は、彼〔イエス〕がその名前を
呼ぶや、彼を認識した。それは、その前に彼が彼女を「女よ」と呼んだ時には、彼女に
できなかったことだった。神の愛する者、すなわち立法者であるモーゼにも同じように
〔名前によって〕話された。すなわち、「私はあなたを名前によって知っている」と)
(346) inti thu ni hortos hiar in lante fon themo heilante [...] joh wio nan ouh irqualtun, zi tode
nan firsaltun thie unse heroston joh alle these furiston? wir wantun thes giwisso [...] er unsih
scolti irlaren thes managfalten wewen [...] thiu thing wir hiar nu sagetun joh thir ouh hiar
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gizelitun, wizist thu thaz ana wan - nust thritto dag theiz ist gidan (V, 9, 38)(あなたはこ
の土地であの救世主のことを聞いたことがないのですか。そして私たちの主君たちとす
べての首長たちがどのように彼を痛めつけ、死に至らしめたのかを。私たちはきっと彼
が私たちをこの大きな苦しみから解放してくれるだろうと固く信じていました。そうい
うことを私たちは今ここで話していたのであり、また、あなたが確実にそれを知るよう
に、あなたにもここで教えたのです。今がそれがなされた三日目なのです)
(347) ouh wiht thu thes nirknaist thaz niuenes gidan ist in thesen inheimon? (V, 9, 19)(あな
たはこの居住地で最近なされたことも知らないのですか)
最後の (347)では niuenes「最近」という副詞が用いられており、現在における状態よりも
過去の事態そのものが表現の中心にあることが明らかである。
上例のうち (345)は、状態性が不明瞭というだけではなく、主語が主格名詞の形で表さ
れないという点でも注目すべき例である。『オトフリート福音書』における haben + 過
去分詞の最大の特徴は、対格名詞のない例が現れるということであった。その中には、過
去分詞が(345)と同じく gisprochan (= gesprochen) の例があった(下に再掲)。
(146) laz iz sus thuruh gan, so wir eigun nu gisprochan (I, 25, 11)(今私が言った通りに、
行われるようにして下さい)
これを (345)と比較すると、使われている過去分詞が同じであるだけではなく、どちらに
も so という副詞(もしくは接続詞的副詞)がそれぞれ目的語あるいは主語として用いら
れている。ここで、so ist gesprochen のような受動形をもとにして so haben wir gesprochen
のような能動形が作られると考えれば、対格名詞のない haben + 過去分詞の出現は自然
に説明できる。34)
実際、対格名詞のない haben + 過去分詞の他の例に対しても、対応する主格名詞のな
い sein + 過去分詞が存在する。例えば上例(142)(下に再掲)の habêt gimeinit (= hat
gemeint) には下の(348)の ist gimeinit が対応する。
(142) thu thes girates wiht ni weist thaz selbo druhtin wilit meist. habet er gimeinit, mit mir
thia worolt heilit (III, 13, 23)(おまえは、主自らが最も強く望む神意をまるで理解してい
ない。主は私によって世界が救済されることをお定めになったのだ)
(348) thes namen westun sie ouh giwant, hiazun inan heilant, so ther engil iz gizalta int in iz
zeigota, er si zi theru giburti thes kindes haft wurti. ist wola so gimeinit, wanta er then liut
heilit; ther engil kundt iz er tho sar, joh gispunot ist ther namo thar (I, 14, 7)(その名前は彼ら
〔マリアとヨセフ〕には周知のことであり、彼女〔マリア〕がその子を身ごもる前に、
天使が告げ、彼らに示した通りに、彼〔その子供〕を救世主と名付けた。彼が民を救う
が故に、まさしくそう決められたのである。それは天使がすでに告げたことで、名前は
そのように解される)
あるいは、(144)(下に再掲)には、irdeilit (= geurteilt) と gimeinit (= gemeint) の二つの過
- 97 -
去分詞が用いられているが、下の (349)のように、同じ二つの過去分詞が同時に用いられ
る主格名詞のない sein + 過去分詞も存在する。
(144) nist in erdriche thar er imo io instriche [...] fliuhit er in then se, thar giduat er imo we [...]
thoh habet er mo irdeilit joh selbo gimeinit, thaz er nan in beche mit ketinu zibreche (I, 5, 57)
(彼〔悪魔〕が彼〔神〕から逃れることができる場所など地上にはありません。彼〔悪
魔〕が海に逃げても、そこで彼〔神〕は彼〔悪魔〕を苦しめます。いずれにしても、彼
〔神〕は、地獄で鎖を使って彼〔悪魔〕を破滅させるという判決を、彼〔悪魔〕に下し、
自ら決心するのです)
(349) in buachon ist irdeilit joh alleswio gimeinit. thar ist gibotan harto selben gotes worto,
thaz man imo iogilicho thiono thiono forahtlicho (II, 4, 94)(書物の中では違うように判断さ
れ、決定が下されている。そこでは、厳格に神自身の言葉を守って、いつでも畏怖の念
を持って神に仕えることが命ぜられている)
同様に(147)(下に再掲)の eigun gidân (= hat getan) に対しても、下の(350)のように主格
名詞のない ist gidân の例が存在する。35)
(147) Abraham ther maro ther ist dot giwaro, thie forasagon guate thie sint ouh alle dote [...]
bistu nu zi ware furira Abrahame? ouh then man hiar nu zalta joh sie alle tod bifalta? bigin uns
redinon, wemo thih wolles ebonon, wenan thih zelles ana wan, nu gene al eigun sus gidan? (III,
18, 36)(あの有名なアブラハムは事実死んだ。優れた預言者たちも皆死んだ。それであ
なたは実際アブラハムに勝るのか。今ここで挙げた、その人々〔アブラハムや預言者た
ち〕は皆死神によって死んだではないか。あなたが誰に自分をなぞらえようというのか、
自分を誰と見なしているのか、私たちに話して下さい。彼ら〔アブラハムや預言者た
ち〕は皆そうした〔死んだ〕というのに)
(350) so wemo ir [...] giheizet, ir sunta mo bilazet [...] ist mina halbun sar gidan; then ir iz avur
wizet, in sunta ni bilazet - theist ouh festi ubar al ana theheinig zwifal (V, 11, 13)(あなた
方がその罪を許すとあなた方が約束する者には、それですでに私の側でも〔罪を許すこ
とが〕なされているのである。一方あなた方がその罪を許さぬとあなた方が咎める者た
ちには、そのことは疑いの余地なく絶対に確定したことなのである)
また(145)(下に再掲)の habêt gizeigot (= hat gezeigt) に対しては、同じ過去分詞ではない
が、同様の意味を示す gizeinit/gizeinot および bizeinit による主格名詞なしの sein + 過去
分詞の例が見られる(下例(351)-(353))。
(145) thoh habet er uns gizeigot, joh ouh mit bilide gibot, wio wir thoh duan scoltin, oba wir iz
woltin (III, 3, 3)(彼〔主〕は我々に、もし我々がそれ〔至福〕を望む場合にどう行動す
べきかを示し、かつまた具体例を用いて命じた)
(351) mit thiu ist gizeinit mannon, sih untar in io minnon, joh ouh thiu minna [...] si io zi
druhtine meist (V, 12, 65)(これによって人々に示されているのは、自分たちの間で互い
- 98 -
に愛すること、そしてまたその愛が主に対してつねに最も強いことなのである)
(352) ist uns hiar gizeinot in bethen io thuruh not, in ubili inti in guati, unserero zuhto dati.
(Hartm. 117)(ここでは、我々がどう成育していくべきかが、悪と善の両方において強
調的に我々に示されている)
(353) mit thiu ist thar bizeinit, theiz imo ist al gimeinit in erdu joh in himile inti in abgrunde
ouh hiar nidare. (V, 1, 27)(それによって示されていることは、それ〔十字架の木〕には
地と天と、そして奈落とこの下界にある一切のものが定め、割り振られているというこ
とである)
そもそも主格名詞のない sein + 過去分詞はすでに『イシドール』に現れていた。ここに
その一部を再掲する。
(222) so dhar auh after ist chiquhedan (179)(またさらにそのあとでこのように言われて
いる)= sic enim subiungitur
(224) dhar ist auh offanliihhost chisaghet huueo dhero iudeo quhalm after christes chiburdi joh
after sineru martyru quheman scholdi (440)(そこではまた極めて明らかに、ユダヤ人の没
落がキリストの誕生後および彼の殉難後生じることになっていたかが 言われている) =
post aduentum eius et post mortem futura iudeorum excidia ibi certissime manifestantur
従って、対格名詞のない haben + 過去分詞の例の出現は、もともと可能であった主格名
詞のない受動の sein + 過去分詞に対する能動形として形成されたと考えれば、最も自然
に 説明される。
同様の対応は抽象的事態が表される例にも見られる。36) haben + 過去分詞が抽象的事態
を表す場合があるということは、表現の重点が状態から事態そのものへと移行するという
意味で重要であった( P.59 参照頁以下を参照)。中でも (123)(下に再掲)には、下の
(354)のように、直後に同様の事態を sein + 過去分詞が表す箇所が続く。
(123) si erhuggent Kristes wortes joh liobes managfaltes, biginnent thara io flizan (er habet in iz
giheizan) (V, 23, 48)(彼ら〔神の従士たち〕はキリストの言葉と多様な愛とを思い、そ
れを目指して努力する。-彼〔キリスト〕はそれを与えることを彼らに約束した)
(354) thes thigit worolt ellu thes ih thir hiar nu zellu, thiz scal sin io thes githig ther wilit
werdan salig; thaz ist in thar in libe giheizan zi liebe, zi droste in iro muate mit managemo
guate (V, 23, 55)(私がここで今あなたに語るものを全世界が請い求める。それはつねに、
幸福になりたいと願う者の救いであるだろう。それを与えることは彼らに、彼岸の生に
おいて、多くの慈悲による愛と心の慰めに至るものとして、約束されている)
他の抽象的事態を表す例についても、同様の対応を示す sein + 過去分詞が見られるので、
ここでまとめて挙げておく。
(120) bi thiu habet uns iz selbo got hiar forna nu gibilidot, natura in uns ni fliehen joh zi ebine
- 99 -
giziehen (III, 3, 21)(それゆえ主自らそれを我々にここで今前もって比喩的に示したので
ある。すなわち我々の中にある自然が失われることなく、平等へと向うことを)
(355) „waz ist“, quad er, „so hebigaz, thaz ir mih suahtut bi thaz? [...]“ siu so heim quamun, es
wiht ni firnamun zi niheineru heiti, waz er mit thiu meinti. [...] er wolta unsih leren, wir unsan
fater eren, joh thia muater tharmit; bi thiu ist iz hiar gibilidit (I, 22, 60)(「あなた方が私をそ
ういう理由で探したということがそんなに重大なことでしょうか」と彼〔イエス〕は言
った。彼ら〔イエスの両親〕はそれで家に帰ったが、彼が何を言わんとしたのかまった
く見当がつかなかった。彼は我々に我々がその父母を敬うべきだということを教えよう
としたのだ。そのことがここではこのようにして比喩的に示されているのである)
(356) thaz ist uns hiar gibilidot, in Kriste giredinot: gibadost thu tharinne, er widar thir io winne
(II, 3, 57)(ここで我々に比喩的に示され、キリストにおいて語られていることは、彼
〔敵〕があなたに対し暴力的であろうとも、そこ〔イエスが洗礼を受けること〕で〔同
時に〕あなたが沐浴するということなのだから)
(357) thie jungoron in wara bizeinont racha mara, joh iro zueio loufa dat filu diafa. these selbun
dati bizeinont zuene liuti: thie Judeon giwaro joh folk ouh heidinero. wio sie datun widar got,
hiar ist iz gibilidot: gidougno, so ih thir redion, in thesen evangelion (V, 6, 5)(この弟子たち
は実際周知の事態を示している。そして彼ら二人が〔イエスの墓に〕走ったことは極め
て意味深長な行為を意味している。この行為そのものが二つの民族を意味している。す
なわち、ユダヤ人と異教徒の民である。彼ら〔二つの民族〕が神に対してどのように振
る舞ったのか、それがここでは比喩的に示されているのである。私はあなたに語るが、
それはこれらの福音書においては秘せられていることなのである)
(121) sie eigun thaz giweizit, bi hiu man sie korbi heizit (III, 7, 57)(彼ら〔神の僕たち〕は、
なぜ人がそれを籠と呼ぶのか示した)
(358) iz ist filu feizit (harto ist iz giweizit) mit managfalten ehtin (I, 1, 67)(それ〔フランク
の国〕は-それははっきり証明されていることだが-様々な財によって生産力に富
んでいる)
(122) thes habet er ubar woroltring gimeinit einaz dagathing, thing filu hebigaz, zi sorganne
eigun wir bi thaz (V, 19, 1)(そのことに関し、彼〔主〕は全世界に対して一つの審判の
日を定めている。それは非常に重大な審判であり、我々はそれに対して心配せねばなら
ない)
(359) sehsu sint thero fazzo, thaz thu es weses wizo, thaz worolt ist giteilit, in sehsu gimeinit
(II, 9, 20)(その容器は六つあるが、それは、この世が六つに別れ、定められていること
を、あなたが知るためである)
(360) mit thiu ist thar bizeinit, theiz imo ist al gimeinit in erdu joh in himile inti in abgrunde
ouh hiar nidare. (V, 1, 27)(それによって示されていることは、それ〔十字架の木〕には
地と天と、そして奈落とこの下界にある一切のものが定め割り振られているということ
である)
- 100 -
(124) giwerdo uns geban, mit thines selbes mahtin, wir unsih muazin bliden mit heilegon thinen;
mit in wir muazin niazan, thaz habest thu uns giheizan, thesa selbun wunna thia wir hiar
scribun forna (V, 24, 3)(主よ、あなた自身の力によって、我々があなたの聖者たちとと
もに喜び、彼らとともに享受できるように我々に与えることをお許し下さい。すなわち、
あなたが我々に与えると約束したもの、つまり、我々が前にここで言及した歓喜を)
(361) si birit sun zeizan, ther ofto ist iu giheizan; thie buah fon imo singent, wioz forasagon
zellent (I, 8, 25)(彼女〔マリア〕は愛らしい息子を生みます。その息子のことはあなた
方に何度も予告されていることです。書物が彼について、預言者たちがどう語っている
のか、歌っています)
(362) ein man ist uns giheizan joh scal ouh Krist heizan, uns duit sin kunft noh wanne thaz al
zi wizanne (II, 14, 75)(一人の男の人のことが私たちに予告されており、その人はキリ
ストと呼ばれることになっています。いつかその人が来れば、すべてを知らせてくれま
す)
(363) sun bar si tho zeizan, ther was uns io giheizan (I, 11, 31)(彼女〔マリア〕はそこで、
我々にすでに予告されていた愛らしい息子を生んだ)
(364) er ist fon hellu irwuntan joh uf fon tode irstantan, ni thurfut ir nan riazan; ja was iuz er
giheizan (V, 4, 48)(彼〔イエス〕は黄泉の国から引き返し、死から甦ったのだ。あなた
方は彼のことで泣くことはない。それはあなた方にすでに言われていたことだ)
(126) in tho druhtin zelita, want er se selbo welita, manota sie thes nahtes managfaltes rehtes. er
habet in thar gizaltan drost managfaltan fon sin selbes guati, so sliumo so er irstuanti (IV, 15,
55)(主は彼ら〔弟子たち〕を自ら選んだので、彼らにその夜、様々な正しい行いにつ
いて語り、彼らに注意を喚起した。彼〔イエス〕は彼らにそこで、すぐに自分は甦ると
いう彼自身の善性による大いなる慰めを教えた)
(365) want ira anon warun thanana gotes drutthegana, fordoron alte, zi salidon gizalte (I, 11,
28)(というのは、彼ら〔ヨセフの家族〕の先祖、祖先は、そこを出自とする、神の愛
する勇士であり、天福にあずかる者に数えられていたからである)
(366) lis thir Matheuses deil, wio ward ein horngibruader heil; in Lucases deile, wio zehini
wurtun heile. thar sint ouh gizalte bettrison alte, ummahtige man; thie heilt er al so gizam (III,
14, 67)(マタイの箇所を読め。いかに一人の癩病人が癒されたか。ルカの箇所では、い
かに十人の癩病人が癒されたか〔が描かれている〕。そこにはまた、年取った寝たきり
の無力な者たちが描かれている。彼〔イエス〕は彼らをしかるべく癒したのだ)
(367) sar io thia wila so liaz er sela sina in sines selben fater hant, so er quad hiar fora, theist
gizalt (IV, 33, 26)(〔すでに「詩篇」で〕語られていることを彼〔イエス〕がここで言
うやいなや、彼はその魂を自分自身の父の手に委ねた)
(368) mit fiuru sie nan brantin, mit wazaru ouh irqualtin, odo ouh mit steinonne: mit wiu
segenotis thu thih thanne? uns ist fruma in thiu gizalt joh segan filu managfalt, salida zi libe,
thaz scado uns hiar ni klibe (V, 1, 13)(彼らが彼〔主〕を焼き、水あるいは石で苛んだと
したら、あなたはどうやって十字を切ることができるのか。我々にはそのこと〔イエス
が迫害されたこと〕によって、害悪がここで我々に付きまとわないように、恩寵、極め
- 101 -
て多彩な至福、命の救済が提示されているのである。)
(369) ih weiz sie filu harto thahtun thero worto, thiu in thar warun meista thes sines todes drosta,
fon Maysese selben joh forasagon allen, wio iz tharana ist al gizalt, er todes duan scolta
ubarwant (V, 10, 12)(私は知っているが、彼ら〔弟子たち〕は、彼らにとって彼〔イエ
ス〕の死についての最大の慰めとなる言葉について、しかと考えた。その言葉、すなわ
ち、モーセその人およびすべての預言者たちによって、彼〔イエス〕が死を乗り越える
ことになっているということが、そこでどのように 描かれている かという言葉につい
て)
下に再掲した(129)は、再帰動詞による haben + 過去分詞の例であるが、下の(370)(371)を
見ると、それが sein + 過去分詞の主格名詞を対格の再帰代名詞にすることによって形成
されることが分かる。
(129) nu thie ewarton bi noti machont thaz girati, joh Kristes todes thuruh not ther liut sih habet
gieinot; biginnent frammort wisen wio sie inan firliesen (IV, 1, 2)(司祭たちは協議せざるを
えなくなり、また民衆は何としてもキリストが死ぬことで意見が一致しているので、司
祭たちはさらに、いかにして彼〔イエス〕をなきものにするか、指示する)
(370) bi thiu birun wir nu gieinot, er niwan kuning zeinot (I, 17, 26)(それで私たちは、それ
〔その星〕が新しい王を示すのだと、意見が一致したのです)thie Judeon meid er tho bi
(371) thaz thuruh then michilan haz, wanta sie warun thuruh not sines tothes gieinot (III, 15, 2)
(その大きな憎悪のために彼〔イエス〕はユダヤ人たちを避けた。というのも、ユダヤ
人たちは選択の余地なく彼〔イエス〕の死で意見が一致していたからである)
また、『オトフリート福音書』の haben + 過去分詞は、知覚動詞などの心的活動を表す
動詞の過去分詞による例があるという点が重要な特徴であったが(上例 (131)-(139))、そ
の種の過去分詞は sein + 過去分詞にも見られる。
(372) uuanta thaz ist funtan, unz wir haben nan gisuntan, thaz wir leben, so ih meinu, mit frewi
joh mit heilu (Lud. 79)(というのは、我々に壮健な彼がいる間は、思うに、我々は喜び
と至福をもって生きられるということが明らかだからだ)
(373) sie nirknatun noh tho thaz theiz er sus al giscriban was, theiz sus al er was funtan thaz er
scolta irstantan (V, 5, 18)(彼ら〔弟子たち〕は、すでに書かれていたことであったが、
彼〔イエス〕が甦るはずだということが 明らかだ ということをまだ理解していなかっ
た)
(374) ni forihti thir, biscof, ih ni teru thir drof; wanta ist gibet thinaz fon druhtine gihortaz, joh
altquena thinu ist thir kin berantu (I, 4, 28)(恐れるな、祭司よ、私はあなたに何の害も与
えはしない。あなたの祈りは主によって聞き入れられたのだから。そしてあなたの老妻
はあなたに子供を生む身となった)
(375) er al iz umbithahta joh fastor gistatta (giwaro ist thaz bithenkit), theiz elichor ni wenkit
(II, 11, 52)(彼〔イエス〕はそれ〔三日で建てなおすと言った、肉体を意味する神殿〕
- 102 -
をがっちり固め、もっと堅固に作り上げた。-それは注意深く熟慮されたことである
-それゆえそれは未来にわたって揺るぎない)
また、『オトフリート福音書』には haben が不定詞の haben + 過去分詞(形式的に言え
ば完了不定詞)が存在したが(下に再掲)、現代ドイツ語の完了不定詞のように過去の事
態を表すものではなかった。これも、下のような不定詞 sein による sein + 過去分詞と対
応する。
(171) so war so iz io zi thiu gigeit thaz min gilicho iz ni firsteit: in buah sie iz duent zisamene,
gihaltan thar zi habanne; thaz man iz lese thare gihaltan io bi jare (III, 7, 54)(我が同輩がそ
れ〔神の教え〕を理解しないことが実際にあるわけだが、彼ら〔神の僕たち〕は、それ
をそこによく保っておくようにと、本の中にそれを集める。人がそれをそこに保たれた
状態で長年にわたりずっと読めるようにと)
(376) ili thu zi note, theiz scono thoh gilute, joh gotes wizod thanne tharana scono helle; thaz
tahrana singe, iz scono man ginenne; in themo firstantnisse wir gihaltan sin giwisse (I, 1, 40)
(それ〔フランク語による歌〕が美しく鳴り渡り、神の掟がそこで美しく響き、そこで
人がそれを美しく歌い、声にし、我々が確かに理解の中に 保たれる 〔正しく理解でき
る〕ことを何としても目指しなさい)
以上、haben + 過去分詞が sein + 過去分詞に基づいて形成されたことを述べたが、注意
しなければならないのは、『オトフリート福音書』においても、現在における結果状態は
ist + PP だけではなく、ward + PP によっても表されたということである。ただし、その
数は多くはない。
(377) ist thiz kind iuer, ther blinter ward giboraner? (III, 20, 82)(これが盲人として生まれ
たお前たちの子供か)Vgl. J 9, 19: hic est filius uester, quem uos dicitis quia caecus natus
est? (perf.) = Luther: Jst das ewer Son / welchen jr saget / er sey blind geboren?
(378) zi thiu quam ih hera in worolt joh ward giboran ouh zi thiu theih suslih thulti untar iu;
theih urkundi sare gizalti fona ware, thaz ih ouh warlichu thing gibreitti in thesan woroltring (IV,
21, 30)(そのために私はこの世に来て、そしてあなた達のもとでこのように耐えるため
に、真理について証拠をまず語るために、また真の事柄をこの世に広めるために生まれ
た) (Vgl. J 18, 37: ego in hoc natus sum, et ad hoc ueni in mudum, ut testimonium
perhibeam ueritati (perf.) = Luther: Jch bin dazu geboren / vnd in die welt komen / das ich die
Warheit zeugen sol)
3. 2 外部からの影響
完了形 haben + 過去分詞はドイツ語内で自発的に成立したのではなく、外からの影響
を受けて生じたということは多くの研究者によって言及されている。その際中心になるの
はラテン語からの影響であるが、それは大きく分けて二つに区別される。その一つは、
- 103 -
Grimm (1898: 179 f.) のように、古典期のラテン語にすでにあった habere + 過去分詞が俗
ラテン語を話すロマンス語族によってゲルマン人に伝わったという考えである。もう一方
は、Eggers (1986: 80 f.) のように、それまで現在形と過去形しか持たなかったゲルマン語
族がラテン語の完了過去や全分過去を訳すために作られたのが sein + 過去分詞および
haben + 過去分詞という考えである。Grimm 説においては、影響を受けて作られたのは
haben + 過去分詞のみであるが(sein + 過去分詞はゲルマン語内ですでに発達していた)、
Eggers 説においては haben + 過去分詞と sein + 過去分詞の成立のあいだに特別な差はな
い。また、Grimm 説では、影響を与えたのは俗ラテン語という話し言葉であるのに対し、
Eggers
説では、キリスト教関係の文書のラテン語が翻訳作業を通じて影響を与えたとい
うことになる。前者では habere + 過去分詞という形そのものが haben + 過去分詞という
形と連動するが、後者では、ラテン語においては、受動形はともかく、能動形の完了過去
および全分過去は形態的に総合的形式なので、形式面の直接の影響はないという違いもあ
る。
一方、Caro (1896: 401 f.) のように、古英語の habban + 過去分詞の起源は民衆語にあり、
ラテン語からの影響によらないという考えもある。しかしこの場合も、民衆レヴェルでの
ロマンス語族とゲルマン語族の接触があったことを考えると、民衆語において habban +
過去分詞が成立したとしても、Grimm の説が否定されることにはならない。
ここで筆者の意見を述べると、たとえ Grimm や Brinkmann (1965) の言うように、ラテ
ン語では habere + 過去分詞が古くから使用されていたとしても、ラテン語の habere + 過
去分詞は諸ロマンス語になって初めて時制になったのだから、ゲルマン語がロマンス語か
ら一方的に影響を受けたと考えるよりも、むしろ、ロマンス語もゲルマン語との接触によ
って、avoir + 過去分詞等を発展させていったと見る方が自然であるように思われる。
以上は外国語からの影響についてであるが、Grønvik (1986) の言うように、例えば古ザ
クセン語はこの形を高地ドイツ語よりも早く発達させていたことを考えると、ゲルマン語
内での影響も考慮すべきかもしれない。確かに古ザクセン語の 830 年頃成立の『ヘーリア
ント』37)には、870 年頃成立の『オトフリート福音書』にはない hebbian (= haben) + 過去
分詞の例が見られる。(以下の例の hebbian はすべて過去形である。)
(379) siu habde ira drohtine wel githionod (506)(彼女は自分の主によく仕えていた)
(380) the habda at them uuîha sô filu wintro endi sumaro gilibd (466)(彼は多くの年月を宮
で過ごしていた)
(381) thiu frî habdun
@
gegangen te them gardon (5795)(女達はその園に来ていた)
(382) habdun thea liudi an tuê mid iro gilôbon
@ gifangan (3900)(その人々は自分たちの信仰
で二つの方向に向いていた〔信仰において一つの方向を向いていなかった〕)
上の(379)は与格目的語(ira drohtine)を伴う例であり、(380)-(382)は目的語がまったくな
い自動詞の過去分詞による例である。これらの過去分詞は基本的に自律的意味を持つもの
としては形成されないものであり、haben + 過去分詞という組合せが一つの意味を担う。
また、受動の sein + 過去分詞との対応も考えにくい。従って『ヘーリアント』は時期的
に遅く成立する『オトフリート福音書』よりも haben + 過去分詞を発達させていたので、
- 104 -
古ザクセン語が高地ドイツ語に影響を与えたということは十分に考えられる。
一方、これらの考えとは違い、すでに挙げた Benveniste(本章 3. 1. 1 )のように、外
部からの影響はなくともゲルマン語はこの形を発達させる要素を持っていたという考えも
ある。つまり、ゴート語においてすでに受動の sein + 過去分詞が発達していた以上、sein
と haben の関係から haben + 過去分詞は必然的に生じるという考えである。
今のところ、外部からの影響の問題について判断を下すことは筆者にはできない。しか
し、一つ言えることは、一方からの影響は他方からの影響を排除しないということである。
つまり、話言葉のロマンス語からの影響、書き言葉のラテン語からの影響、他のゲルマン
語からの影響等は、どれかに限定されるのではなく、場合によっては、そのすべての影響
を受けたということもありうる。その意味では、もし haben + 過去分詞が Benveniste の
言うように外からの影響がなくとも生じうるものであるならば、影響を受ければなお一層
生じやすかっただろうとも言える。この問題については今後の課題としなければならない。
3. 3 完了形 haben + 過去分詞の成立(まとめ)
完了形としての haben + 過去分詞の成立の道筋は次のようにまとめられる。
受動形が欠けていたゲルマン語ではそれを分析的形式によって作られねばならなかった。
その形式は sein + 過去分詞および werden + 過去分詞であった。そのうち ist + PP は過去
の事態が焦点化されるような特殊な結果状態を表す用法を発達させた。受動形にあるその
用法を能動形でも表す必要性から haben + 過去分詞が用いられるようになった。そこで
haben が用いられるのは、haben における対格目的語が sein において主格主語になるとい
う haben と sein の対応関係からである。haben + 過去分詞はそれ自体で生じたのではな
く、受動の sein + 過去分詞のある一部の用法に対応する能動形として作られたので、主
格主語は必然的に事態の動作主であり、また、時間的意味においても事態が焦点化される
ような特殊な結果状態という意味に限定されていた。また、対格名詞のない haben + 過
去分詞も主格名詞のない sein + 過去分詞に基づいて形成されたと考えれば自然に理解さ
れる。
4. 『ムスピリ』の完了形
『ムスピリ』 38)の成立年代は確定していないが、9世紀後半の作である可能性があるの
で参考のために用例を挙げる。『ムスピリ』には sein + 過去分詞の例はないが、次の二
つの haben + 過去分詞がある。(383)では haben が現在形、(384)では haben が過去形であ
る。
(383) denne der paldet der gepuazzit hapet, denner ze deru suonu quimit (99)(贖罪した者は、
裁きを受けに来るときも、心安らかでいられる)
(384) dar scal er uora demo rihhe az rahhu stantan, pî daz er in uuerolti [eo/er] kiuuerkot
hapeta (36)(そこで彼は、自分が現世において行ってきたことについて、支配者の前に
- 105 -
立って弁護せねばならない)
これらの例においては haben
と過去分詞がそれぞれ自律的意味を持つというよりは、
haben + 過去分詞という組合せが一つの意味を担う。その意味で『タチアーン』の用法よ
りも『オトフリート福音書』の用法に近いと言える。ただしこれらの例においても受動の
sein + 過去分詞との対応は想定可能である。また、過去表現の中心は依然として過去形
であり、次のように(384)と類似する事態も過去形で表される。
(385) uuanit sih kinada diu uuenaga sela: ni ist in kihuctin himiliskin gote, uuanta hiar in
uuerolti after ni uuerkota (30)(不幸な魂は恵みを願うが、その魂は天の神の配慮に与ら
ない。なぜならこの現世でそれに応じて行わなかったからである)
(386) der hapet in ruouu rahono uueliha, daz der man er enti sid upiles kifrumita (70)(彼〔悪
魔〕は落ち着いてすべての行いを知っている。その者がかつてそしてのちに悪事を行っ
たことを)
(387) dar scal denne hant sprehhan, houpit sagen, allero lido uuelihc unzi in den luzigun uinger,
uuaz er untar desen mannun mordes kifrumita (93)(そこでは手が語り、頭が話すだろう。
四肢すべてが小指に至るまで、その者が他の者のあいだでどんな凶行を 行った か話
す。)
5. ノートカーの完了形
紀元 1000 年頃に活動した修道士ノートカー(952-1022)の文書には多数の sein/haben +
過去分詞の例が見られる。sein + 過去分詞については、『オトフリート福音書』との大き
な違いはみられない。また haben + 過去分詞についても、その時間的意味は、翻訳とそ
の注釈を並記するという形式から必ずしも明確ではない。しかし、過去分詞として用いら
れる動詞の種類という点で『オトフリート福音書』の haben + 過去分詞とは明らかな違
いが見られる。その意味でノートカーの完了形は古高ドイツ語の最後というよりも中高ド
イツ語の出発点である。
ノートカーの文書には、自動詞の過去分詞による haben + 過去分詞の例が多数見られ
る。例えば、weinôn (= weinen)「泣く」の過去分詞による例がある。
(388) mîn oûga ist truôbe . fore dînemo zorne. dîn zorn furhtendo . habo ih keweinôt sô filo .
daz iz truôbe ist (Psalm 6,8)(私の目はあなたの怒りの前でかすんでいる。あなたの恐ろ
しい怒り。私は、それ〔目〕がかすむほどたくさん泣いた)
(389) ih nehabo niêht in gemeitun sô uîlo geuuêinot (Psalm 6, 10)(わたしはむなしくそれほ
どたくさん泣いたことはない)
これらの例には sô filo/uîlo「それほどたくさん」という「泣く」という行為の量的限定を
表す副詞的表現が用いられている。39) その点では、sô vilo ist geweinôt「それほどたくさん
涙が流された」というような受動の sein + 過去分詞はまったく考えられないわけではな
- 106 -
い。しかし、weinôn
はそれ自体では自律的意味を持つ過去分詞を形成しない動詞であり、
その種の動詞の過去分詞による例は『オトフリート福音書』には存在しなかった。
また、次のような自動詞の例もある。
(390) vuanda ih unschuldig pin ! uuider saulem unde absalonem . unde ih rehto mit in geuaren
habo (Psalm 7, 9)(というのは、私はサウルやアブサロムに反して潔白なのだから。そ
して私は正しく彼らに対して振る舞ってきた)
(391) daz oûgtost dû mir . so uuîo ih nû sus missefarin habe (Psalm 50 (51), 8)(あなたは、
私が今こうしてどんな過ちを犯したか私に示した)(conj.)
この例にも rehto「正しく」や sus「こうして」という副詞があり、これが『オトフリー
ト福音書』の(147)(下に再掲)のような用法から発展してきたことが窺われる。
(147) Abraham ther maro ther ist dot giwaro, thie forasagon guate thie sint ouh alle dote [...]
bistu nu zi ware furira Abrahame? ouh then man hiar nu zalta joh sie alle tod bifalta? bigin uns
redinon, wemo thih wolles ebonon, wenan thih zelles ana wan, nu gene al eigun sus gidan? (III,
18, 36)(あの有名なアブラハムは事実死んだ。優れた預言者たちも皆死んだ。それであ
なたは実際アブラハムに勝るのか。今ここで挙げた、その人々〔アブラハムや預言者た
ち〕は皆死神によって死んだではないか。あなたが誰に自分をなぞらえようというのか、
自分を誰と見なしているのか、私たちに話して下さい。彼ら〔アブラハムや預言者た
ち〕は皆そうした〔死んだ〕というのに)
この『オトフリート福音書』の例が受動の sus ist gidan (= so ist getan) に基づくことはす
でに述べた。その意味ではノートカーの例も sein + 過去分詞との対応はまったく考えら
れないことはない。しかし、ノートカーの例の過去分詞は自律的意味を持つものとしては
形成不可能であり、その点で大きな違いがある。
また、与格目的語を伴う例もある。
(392) nu habent siê dir ubelo gedanchot . daz sîe êine under allen . dih ne-uuellen bechennen
(Psalm 76 (77), 21)(今や彼らはすべての民の中で唯一あなたを認めようとしないという
形であなたに悪く報いた)
ここでも ubelo「悪く」という副詞があり、 ubelo ist dir gedanchot (= übel ist dir
gedankt/gelohnt) のような sein + 過去分詞が想定不可能ではないが、この例の過去分詞も
自律的意味を持つものとしては形成不可能である。
他に次のような自動詞の過去分詞による haben + 過去分詞の例があるが、これらには
副詞的表現はなく、sein + 過去分詞との対応はほとんど考えられない。
(393) vuir eîgen gesundot sament unseren forderon (105 (106), 6)(私たちは私たちの先祖と
一緒に罪を犯した)= peccauimus cum patribus nostris
- 107 -
(394) heîle mîne sêla . uuanda ih dir gesundot habo (Psalm 40 (41), 5)(私の魂を癒して下さ
い。私はあなたに対し罪を犯したのですから)= sana animam meam quoniam peccaui tibi
(395) vnde daz unreht habet kelogen im selbemo ze frêison . nals mir (Psalm 26 (27), 12)(そ
して不正は彼〔サウル〕自身に危険へ導く嘘をついた。私にではなく)= et mentita est
iniquitas sibi
(396) diê mih arbeiteNT . diê habent mir geiteuuîzzot an diû . daz sîe tageliches chedeNT .
uuâr ist dîn Got (Psalm 41 (42), 11)(私を苦しめる者たち、彼らは毎日「お前の神はどこ
にいる」と言って私に非難を浴びせた)= exprobrauerunt mihi qui tribulant me . dum
dicuNT mihi per singulos dies . ubi est deus tuus?
(397) er ne-habet uns niêht mite geuaren ! nâh unseren sundon . noh ne-lonota uns hâh unseren
unrehten (Psalm 102 (103), 10)(彼〔主〕は我々の罪に従って我々に対して振る舞わなか
った。また我々の不義に従って我々に報いなかった)= non secundum peccata nostra fecit
nobis . neque secundum iniquitates nostras retribuit nobis
従って明らかに haben + 過去分詞が一つの意味単位として機能し、従来過去分詞を形成
しなかった動詞によっても作られるようになっていたことが分かる。
さらに意味的な面で、次のような例にも注意を向けねばならない。
(398) sîd ir in ferchoren habent . uuer gibet danne fone syon . daz hêilhafte sî israel? (Psalm
13, 7)(あなた達は彼〔神〕を蔑んだのだから、誰がシオンからイスラエルの救いとな
るものを与えてくれるのか)
(399) dû habest unsih ke-halten fore unseren âhtaren (Psalm 43 (44), 8)(あたなは私たちを
私たちの迫害者から守ったてくれた)= saluasti enim nos ex affligentibus nos
これらの例の過去分詞は名詞付加語としては過去の事態の結果状態ではなく、継続的事態
を表すものであり、もし haben と過去分詞が自律的意味を保持していれば、その haben +
過去分詞も基本的に継続的事態を表すはずである。また、これらには対応する sein + 過
去分詞が想定可能であるが、その sein + 過去分詞はやはり継続的事態を表す。しかしこ
れらの例は明らかに過去の事態を表しており、それは haben + 過去分詞の各構成素の意
味の合計からは類推できないばかりでなく、sein + 過去分詞の意味からも類推できない。
ここで haben + 過去分詞が単に一つの意味単位をなすだけではなく、その意味が過去表
現になる明確な傾向が生じていたことが分かる。
この傾向は次のような haben が不定詞の例からも見て取れる。
(400) vuanda so furnomes ne-uuirt dero armon . sô man iro nû uuânet cot fergezen haben . unz
siê fone sundigen sus kedrucchet uuerdent (Psalm 9, 19)(というのも、貧しい者が罪人によ
ってこのように圧迫を受けている間、貧しい者のことを神が忘れていると人が思うよう
には、貧しい者たちは決して忘れられはしない)
(401) tîa ze gehônenne mit andermo unliumende . zigen sie mih umbe des ambahtes minna . daz
mûot pesmîzen haben mit kalstre (Boethius: De consolatione Philosophiae 28, 18 (= I, Prosa
- 108 -
4))(それ〔重大な罪状、罪状の重さ〕を他の誹謗によって誤魔化すために、彼ら〔告
訴人〕は私を、出世欲のために良心を魔術によって 汚した と断じた) = quam uti
fuscarent admixtione alicuius sceleris . mentiti sunt polluisse me conscientiam sacrilegio . ob
ambitum dignitatis (perf. inf. < polluere 汚す)
これらは形式的に完了不定詞であるが、『オトフリート福音書』の (171)のような haben
と過去分詞が自律的意味を保持した完了不定詞とは異なり、意味的にも過去の事態を表す
「完了」不定詞である。そのことはラテン語の対応箇所 (polluisse)
がある(401)では特に
明らかである。
以上、ノートカーにおいては haben + 過去分詞が自律的意味を持つ過去分詞を形成し
ない動詞からも形成され、受動の sein + 過去分詞との関連を持たず、過去表現として一
つの意味単位をなすものとして機能していることを述べた。しかし注意が必要なのは、過
去表現の中心はあくまで過去形であり、現在における結果状態を表す場合でも用いられた
ということである。そのことは次のように habêt + PP が過去形と並列的に用いられる例
から分かる。
(397) er ne-habet uns niêht mite geuaren ! nâh unseren sundon . noh ne-lonota uns hâh unseren
unrehten (Psalm 102 (103), 10)(彼〔主〕は我々の罪に従って我々に対して振る舞わなか
った。また我々の不義に従って我々に報いなかった)= non secundum peccata nostra fecit
nobis . neque secundum iniquitates nostras retribuit nobis
(402) vnde machota er ungeflecchoten mînen uueg. der mîne fuoze getân habet snelle samo so
hirzes (Psalm 17 (18), 33/34)(そして彼〔主〕は私の道を全きものにした。彼は私の足を
鹿のそれのように早いものにした)= et posuit inmaculatam uiam meam . qui perficit pedes
meos
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注
1)
„Der althochdeutsche Isidor“
セヴィリャの司教 Isidorus によってラテン語で書かれた神
学論文を8世期末に古高ドイツ語で翻訳したもの。言語は南部あるいは中部フランケン語。
2)
„Exhortatio ad plebem christianam“『平民キリスト教徒に対する鼓舞』
成立は9世紀初
頭、80?年。言語はバイエルン語。
3)
„Tatian“
成立は 830 年頃。2世紀に Tatianus が新約聖書福音書の各所をつなぎあわせ
てイエスの伝記にまとめ、それをシリア語で著した Diatessaron (福音書)のラテン語訳
をフルダの修道院の僧侶達が古高ドイツ語に翻訳したもの。つまり、シリア語で書かれた
もののラテン語訳を古高ドイツ語で訳すという二重の翻訳である。写本のラテン語部分は
ウルガータからのものであるが、Tatianus の Diatessaron そのものはウルガータ成立以前に
ラテン語に訳されていたので、そのウルガータ以前のラテン語訳から古高ドイツ語に訳し、
写本でウルガータに改めている可能性もある。古高ドイツ語の翻訳の言語は東フランク語。
4)
次の例は sein の現在形が未来を表す。
ther ist mihhil (3, 5)(彼は大いなる者となるだろう)= L 1, 32: hic erit magnus (fut. < esse)
thoh uuidaro minnot iuuara fianta inti tuot in uuola inti uuehsal gebet niouuiht auruuanenti, inti ist
iuuar mieta mihhilu, inti ir birut kind thes hohisten (32, 8)(しかしあなた達の敵を愛し、彼ら
に親切にし、何も期待せずに貸しなさい。そうすれば、あなた達の報酬は沢山であり、あ
なた達は最高者の子となるだろう)= L 6, 35: verumtamen diligite inimicos vestros et bene
facite et mutuum date nihil disperantes, et erit merces vestra multa, et eritis filii altissimi (fut. <
esse)
thiu thu gigarauuitas, uues sint thiu? (105, 3)(お前が準備したものは、誰のものになるの
か)= L 12, 20: quæ autem parasti, cuius erunt? (fut. < esse)
vvuo quidistu: ir birut frige? (131, 13)(あなたはどうして「あなた達は自由になる」と言う
のか)= J 8, 33: quomodo tu dicis: liberi eritis? (fut. < esse)
oba ther sun iuuih arlosit, thanne birut ir uuarlihho frige (131, 15)(もし息子があなた達を自由
にすれば、あなた達は本当に自由になるのである)= J 8, 36: si ergo filius vos liberaverit,
vere liberi eritis (fut. < esse)
oba her slafit, thanne ist er heil (135, 6)(彼〔ラザロ〕が眠っているのなら、彼は助かるで
しょう)= J 11, 12: si dormit, salbus erit (fut. < esse)
bithiu thu in luzilemo gitriuui uuari, bist giuualt habenti obar zehen burgi (151, 5)(お前は小さ
なことに忠実であったので、お前は 10 の町の支配権を手にする)= L 19, 17: quia in
modico fidelis fuisti, eris potestatem habens supra X civitates (fut. < esse)
hiutu bistu mit mir in paradiso (205, 7)(今日あなたは私と一緒に楽園に入る)= L 23, 43:
hodie mecum eris in paradiso (fut. < esse)
5)
受動形とはいっても、ルター訳から分かるように、意味的に受動と断定できるとは限
らない。
6)
uuard gitân が factus + esse の全分過去(過去完了)に対応する例もある。mit thiu her
uuard giuuortan zuelif iaro, in ûfstiganten zi Hierusalem after thero giuuonu thes itmalen tages,
gifulten tagun mit thiu sie heim vvurbun, uuoneta ther kneht Heilant in Hierusalem (12, 2)(彼
- 110 -
〔イエス〕が 12 歳になった時、彼ら〔両親〕は祭の習慣に従ってエルサレムに上り、日
が満ちて〔その日が終わって〕彼らが帰った時、救世主である少年はエルサレムに留まっ
た)= L 2, 42/43: cum factus fuisset annorum duodecim, ascendentibus illis in Hierusolymam
secundum consuetudinem diei festi, consummatisque diebus cum redirent, renansit puer Ihesus in
Hierusalem
7)
『イシドール』にはさらに、ward wortan が effectus est の訳として用いられている例
や、ward wortan 以外の ward + 自動詞の過去分詞の例もある。
dhuo ir sih selban aridalida endi scalches farauua infenc, uuordan uuardh chihoric untaza zi tode
(230)(その際彼〔イエス〕はおのれ自身を低くし、僕の姿をとり、死ぬまで従順な者に
なった)= quando exinaniuit se ipsum et formam serui accipiens effectus est oboediens usque ad
mortem(その際彼はおのれ自身を低くし、僕の形をとって、死ぬまで従順な者になっ
た)
after dhem sibunzo uuehhom ist hear offono araughit ziuuare [...] dhazs dhiu burc hierusalem
aruuostit uuardh endi ghelstar joh salbunga bilunnan uurdun (469)(七十週の後、都市エルサ
レムが荒廃させられ、供犠や塗油が中止になったことは、ここで明らかに示されている)
(bilinnan 止む) = post LXX enim ebdomadas [...] ostenditur [...] ciuitatem hiersalem in
exterminatione fuisse et sacrificium unctionemque cessasse(すなわち七十週の後、都市エルサ
レムが壊滅の中にあり、供犠や塗油が中止になったことが明らかにされる)
hueeo auh fona abrahames samin uuardh quhoman druhtin iesus christus (555)(いかにアブラ
ハムの子孫から主イエス・キリストが出現することになったか)= quod autem ex semine
abraham futurus esset dominus iesus christus(またアブラハムの子孫から主イエス・キリス
トが現れることになったこと)
8)
この例には三つの factus est が現れているが、最初の factus est (facta sunt) は vvurdun
gitan (= wurden getan) に対応している。
9)
次のように haben の現在形が未来を表す例が存在する。
oba thu uuolles thuruhthigan uuesan, far, forcoufi thiu thu habes inti gib thiu thurftigon, inti
thannæ habes treso in himile (106, 3)(もしあなたが完全になろうと思うなら、行って、自
分の持っているものを売り、貧しい人に与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つ
だろう)= Mt 19, 21: si vis perfectus esse, vade, vende quae habes et da pauperibus, et habebis
thesaurum in caelo (fut. < habere)
obar suhtige legent sie henti, inti sie habent uuola (243, 4)(病人の上に彼ら〔信者〕が手を置
くと、その人たちは健康になるだろう)= Mc 16, 18: super egrotos manus inponent, et bene
habebunt (fut. < habere)
10)
例えば、上例 (57)と同じような意味を表す次の例では、完了過去が sein
の現在形 +
現在分詞に対応している。
zuua talenta saltostu mir, senu andero zuua gistriunenti bin (149, 5)(gistriunenti = 現在分詞)(2
タラントあなたは私に預けましたが、ご覧下さい、ほかに 2〔タラント〕私は 儲けまし
た)= Mt 25, 22: duo talenta tradidisti mihi, ecce alia duo lucratus sum = Luther: Du hast mir
zween Centner gethan / Sihe da/ ich hab mit denselben zween ander gewonnen
11)
ラテン語の完了過去がドイツ語の過去形に対応するのは、完了過去を過去形に機械的
- 111 -
に置き換えた結果ではない。なぜなら、下例 (72)では、二つの完了過去のうち、一つ
(novi)は現在形(uueiz)に対応している。ほかにも、(74)の後続する文中(vidit が現在
形 gisihit に対応)や、
nu furstantemes thaz thu diuual habes (131, 23)(今我々は、あなたが悪鬼につかれているこ
とが分かった)= J 8, 52: nunc cognovimus quia demonium habes (perf. < cognoscere「知る」)
= Luther: Nu erkennen wir das du den Teufel hast
などのように完了過去が過去形に対応する例が存在する。また、ラテン語の現在形が過去
形に対応する次のような例も存在する。
sie breitent iro ruomgiscrib inti mihilosotun radon inti uuollent gangan in iro gigarauue (141, 3)
(彼ら〔聖書学者やパリサイ人〕は自分の経札の幅を広くし、服の総を大きくしている。
そして長衣を着て歩きたがる)= Mt 23, 5/Mc 12, 38: dilatant enim philacteria sua et
magnificant fimbrias et volunt ambulare in stolis (praes. < magnificare「大きくする」) =
Luther: Sie machen jre Denckzedel breit / vnd die Seume an jren Kleidern gros [...]
12)
„Otfrids Evangelienbuch“
成立は 870
年頃。フルダ修道院の僧侶オトフリート(Otfrid
von Weißenberg) が古高ドイツ語で書いたイエスの伝記。言語は南ライン・フランケン語。
13)
gikêren は他動詞の可能性もある(すなわち状態受動)。例えば thank es gote filu fram,
ni ker iz ufan thesan man (Ⅲ, 20, 107)(そのことについては大いに神に感謝せよ。それをあ
の男に帰するな)のような例がある。ただし[si] kerta tho mit worte zi diafemo antwurte (Ⅱ,
14, 74)(〔彼女は〕そこで言葉でもって意味深い返答に向かった〔意味深い返事をし
た〕)のように kêren 自動詞の例もある。
14)
(102)には現代語の liegen に相当する giliggen の過去分詞が用いられているが、もと
もと giliggen は「横になる、ある状態になる」という状態変化を表すことも可能であった
ので、ここでもその意味の過去分詞が現れていると考えられる。
15)
Benveniste (1968: 87 f.) は、underdtand, discover, realize, notice, see のような意味を表す
動詞は、これらが habere + 過去分詞に用いられると、過去分詞の表す事態は主語の内部
での感覚的および知的活動であるので、その動作主は habere の主語と必然的に一致し、
また過去分詞は、その事態の結果の所有者である主語の属性を表すことになるという点で、
フランス語の複合過去等の形成に重要な役割を果たしたと述べる。また Carey (1990: 375
f.) は、同様の役割を担った動詞として tell, explain, say のような伝達動詞をそこに追加し
ている。
16)
(163)は過去における事態の現在における結果状態というよりは、過去から現在に続く
継続的事態を表す( (162)も)。しかし、継続的事態を表す動詞の過去分詞は過去の事態
ではなく、継続的事態を表すのが自然なので(「第1章 1. 1. 1 .5 過去分詞の時間論」を
参照)、ここでも haben + 過去分詞が用いられる可能性は十分にあるはずである。実際、
『タチアーン』の上例(60)では継続的事態が haben + 過去分詞で表されている。さらに、
下例(171)も参照。
17)
Brinkmann (1965: 37) は(118)を過去の事態の現在における結果状態を表す例と考えて
いるが、文脈から無時間的・未来的事態を表すと見なすべきと思われる。 (144)について
は、Brinkmann (1965: 41) も無時間的・未来的事態を表すと考えている。
18)
ここで過去分詞自体にその事態の動作主が文主語になる属性があるか分詞構文におい
- 112 -
て検証してみたい。
①過去分詞 + 主格
過去分詞が主格主語を修飾する場合、その過去分詞の表す事態の動作主は文の主語には
ならない。
gimanot in troume fuor in teil Galiee (Tatian 12, 4)(夢の中で注意を受けて、彼〔ヨセフ〕は
ガリラヤ地方に行った)= Mt 2, 22: admonitus in somnis secessitin partes Galiee (part. perf.
pass. m. sg. nom. < admonere 注意を与える)
her ofto mit fuozthruhin inti mit ketinun gibuntan zibrah thie ketinun inti thio fuozthruhi
giminnirota (Tatian 53, 4)(彼〔悪霊につかれた者〕は何度も足枷と鎖で縛られたが、鎖を
裂き、足枷を引きちぎった)= Mc 5, 4: sepe compedibus et catenis vinctus disrupisset catenas
et compedes comminuisset (part. perf. pass. m. sg. nom. < vincire 縛る)
gicnusit in erda uualzota scumenti (Tatian 92, 4)(〔癲癇の子〕は地にくずおれ、泡を吹い
て転げた)(giknusit < giknusen 投げ出す、うち砕く)= Mc 9, 20: elisus in terram volutabatur
spumans (part. perf. pass. m. sg. nom. < elidere 打ち砕く)
her tho gifraget fon then Phariseis [...] tho antlingita her (Tatian 140, 1)(彼〔イエス〕はパリ
サイ人たちに〔……〕と尋ねられて、彼は彼らに答えた)= L 17, 20: interrogatus autem a
Phariseis [...] respondit eis (part. perf. pass. m. sg. nom. < interrogare 尋ねる)
riuuua gileitit uuidarbrahta thie drizzug pfenningo then heroston thero heithaftono inti then alton
(Tatian 193, 1)(後悔に駆られて、〔ユダは〕銀貨 30 枚を大祭司と長老たちに返した)=
Mt 27, 3: poenitentia ductus retulit XXX argenteos principibus sacerdotum et senioribus (part. perf.
pass. m. sg. nom. < ducere 引く、導く、駆り立てる)
もし過去分詞が主格主語を修飾する場合に、過去分詞の表す事態の動作主が文の主語にな
るような例が存在すれば(例えば、一番上の例が「夢の中で注意して、ガリラヤ地方に行
った」を意味するような場合があれば)、そこからの類推で haben + 過去分詞において
も動作主=文主語になる用法が生まれる可能性もあるだろうが、実際にはそのような例は
存在しない。つまり、ich habe das Buch gefunden の gefunden が仮に ich の状態を表すこ
とがあっても、「見出された私がその本を持つ」を意味するだけで、「私が見出した」と
いう読みは決して生まれない。従って、主格を修飾する過去分詞の用法は完了形 haben +
過去分詞の成立とは関係しない。
②過去分詞 + 対格
haben + 過去分詞と同様、過去分詞が対格目的語を修飾する形として、知覚動詞 + 対格
目的語 + 過去分詞がある。この形においては、過去分詞の表す事態の動作主は文の主語
と一致しない。
inti quamun thô ilente inti fundun Mariun inti Ioseben inti thaz kind gilegitaz in crippea (Tatian 6,
4)(そこで〔羊飼いたちは〕急いで行き、マリアとヨセフと飼い葉桶に寝かされた子供を
見出した)= L 2, 16: et venerunt tunc festinantes et invenerunt Mariam et Ioseph et infantem
positum in presepio
lis forasagon altan, thar findist inan gizaltan (Otfrid I, 23, 17)(昔の予言者の言葉を読みなさい。
そこには彼のことが語られているのをあなたは見つける)
知覚動詞以外の動詞が文の本動詞として用いられる場合、過去分詞は一種の分詞構文を
- 113 -
形成する。その際、過去分詞の表す事態の動作主が文の主語である場合とそうでない場合
の両方がある。まず動作主=文主語の例である。
her tho bifanganan heilta inan (Tatian 110, 1)(彼〔イエス〕は彼をつかんで治した)= L 14,
4: ipse vero adpraehensum sanavit eum (part. perf. pass. m. sg. acc. < adpraehendere つかむ)
inan gifanganan vvurphun uzan themo uuîngarten (Tatian 124, 3)(〔農夫たちは〕彼〔主人の
息子〕をつかまえて、ぶどう畑から放り出した)= Mt 21, 39: adprehensum eum eiecerunt
extra vineam (part. perf. pass. m. sg. acc. < adprehendere つかむ)
thie andere gifiengun sine scalca inti mit harmu giuueigite arsluogon (Tatian 125, 7)(他の者た
ちは、彼〔結婚式を催した王〕の従者をつかまえ、 虐待して打ち殺した) = Mt 22, 8:
reliqui vero tenuerunt servos eius et contumelia affectos occiderunt (part. perf. pass. m. pl. acc. <
afficere 働きかける)
intfangana spunga fulta sia ezzihes (Tatian 208, 3)(〔ある者が〕海綿を受け取り、それを酢
で満たした)= Mt 27, 48: acceptam spongiam implevit aceto (part. perf. pass. f. sg. acc. <
accipere 受け取る)
leittun inan gibuntanan in frithof (Tatian 192, 3)(〔大祭司や長老たちは〕彼〔イエス〕を縛
って、総督官舎へ引いていった)= Mt 27, 2/J 18, 28: adduxerunt eum vinctum in pretorio
(part. perf. pass. m. sg. acc. < vincire 縛る)
inan gibuoztan forlazzu (Tatian 197, 3)(〔私は〕彼に贖罪させて放免する)= L 23, 16:
emendatum ergo illum dimittam (part. perf. pass. m. sg. acc. < emendare 正す、体刑を課す)
then heilant tho bifiltan saltan in (Tatian 199, 13)(〔ピラトは〕救世主を鞭打って、その彼
を彼ら〔ピラトの兵士〕に引き渡した)= Mt 27, 26: Ihesum autem flagellis cesum tradidit
eis (flagellis 鞭で; cesum = part. perf. pass. m. sg. acc. < caedere 打つ)
mih scal man [...] gifahan, ufan kruzi hahan, bispiuan joh bifiltan joh heistigo biscoltan (Otfrid
III, 13, 6)(私を人は捕らえ、十字架の上にかけるだろう。唾をかけられ、打たれ、ひどく
罵られた私を)
erda hialt uns tho in war, scazzo diuroston thar, dreso thar giborgan unz sunnun dag in morgan
(Otfrid IV, 35, 42)(地面は私たちのためにそこで本当に、最も価値ある宝、宝物〔イエス
の死体〕を日曜日の朝まで隠して保った)
wio se scoltun fahan, zi herizohon ziahan, gibuntan furi kuninga thie sine liobun thegana (Otrid
IV, 7, 18)(どのように彼らが彼の愛する従士たちを捕らえ、縛った状態で領主たちのもと
へ、王たちの前へ引いていくか〔イエスは語った〕)
nam er tho selbo thaz brot, bot in iz gisegnot, gibot thaz sies azin (Otfrid IV, 10, 9)(彼〔イエ
ス〕はそのパンを自ら取り、それを祝福して彼らに差し出し、それを彼らが食べるように
命じた)
次は動作主≠文主語の例である。
her ingieng in thaz gotes hus inti brot fora gote gisaztu nam inti az (Tatian 68, 3)(彼〔ダヴィ
デ〕は神の家に入り、神の前に供えられたパンを取り、食べた)= L 6, 4: intravit in
domum dei et panes propositionis sumpsit et manducavit (gen. < propositio 前に置くこと)
leittun thô thie buochara inti Pharisei uuîb in ubarhiuui bifangan (Tatian 120, 1)(そこで聖書学
者とパリサイ人が姦淫で捕らえられた女を連れてきた)= J 8, 3: adducunt autem scribae et
- 114 -
Pharisei mulierem in adulterio deprehensam (part. perf. pass. f. sg. acc. < deprehendere 捕らえ
る)
so thaz heri tho gisaz, thaz brot gisegonotaz az (Otfrid III, 6, 35)(それで一群の人々はそこで
座り、その〔イエスによって〕祝福されたパンを食べた)
量的に見ると、動作主=文主語になる場合の方が多い。従って、知覚動詞以外の動詞が
本動詞になる場合、対格目的語修飾の過去分詞が表す事態の動作主は文の主語と一致する
傾向があると言えそうである。この傾向が同じように対格目的語を伴う haben + 過去分
詞においても、動作主=文主語になる一つの契機を与えたということは十分に考えられる。
もう一つ確認しておきたいことは、これらの例の過去分詞はほとんど、過去における事
態の結果状態を表すということである。唯一の例外は、上例 (Otfrid III, 13, 6) の bifilt (<
bifillen 鞭打つ) で、これは変化を表さない動詞なので、過去分詞はあとに残る結果状態を
表さない。しかし、これらも過去における事態を表すという点では他の例と同じであり、
継続的事態や無時間的・未来的事態を表す例は皆無である。
③過去分詞 + 与格
ラテン語には奪格 + 分詞による絶対奪格の用法があり、それが『タチアーン』におい
ては与格 + 分詞の分詞構文によって表される。
furlazenen menigin quam in hus (Tatian 76, 3)(群衆を解散して〔イエスは〕家に帰った)=
Mt 13, 36: dimissis turbis venit in domum (part. perf. pass. f. pl. abl. < dimittere 解放、解散す
る) = Luther: DA lies Jhesus das Volck von sich / vnd kam heim
上例では「解散された群衆でもって」という表現をとることによって「群衆を解散して」
を意味する。(このラテン語の奪格 + 分詞に基づく与格 + 過去分詞には、自動詞の過去
分詞からなるものもある。abande giuuortanemo brahtun imo manage diuuala habente (Tatian
50, 1)(夕方になると、〔人々は〕彼〔イエス〕の所へ悪鬼を身に持つ者たちを大勢連れ
てきた)= Mt 8, 16: vespere autem facto (part. perf. < fieri なる)(80, 1; 81, 1; 158, 1 も同
様); morgane iu tho giuuortanemo stuont ther heilant in stediu (Tatian 236, 1)(すでに朝にな
った時、救世主は岸に立った)= J 21, 4: mane autem iam facto(189, 1 も同様))この構造
はルター訳では上例のようにほとんどの場合、分詞ではなく主文の形で表される。
与格 + 過去分詞においては動作主=文主語になる場合が多い。
furlazaneru thero menigi steig in berg eino beton (Tatian 80, 8)(群衆を解散して、〔イエス
は〕一人祈るために山に上った)= Mt 14, 23: dimissa turba ascendit in montem solus orare
(part. perf. pass. f. sg. abl. < dimittere 解放、解散する)
her tho arstantanti allen forlazanen folgeta imo (Tatian 20, 2)(すると彼〔税金取〕は立って、
すべてを捨てて彼〔イエス〕に従った)= L 5, 28: et surgens relictis omnibus secutus est eum
(part. perf. pass.n. pl. abl. < relinquere 捨てる)
in tho forlazenen, mittiu iu tho uuas abandzit, gieng uz fon thera burgi (Tatian 118, 4)(彼らをあ
とに残して、すでに夕方になっていたので、〔イエスは〕都を出ていった) = Mt 21,
17/Mc 11, 11: relictis illis, cum iam vespera esset hora, abiit foras extra civitatem (part. perf. pass.
m. pl. abl. < relinquere 残す)
imo furlâzanemo fuorun (Tatian 126, 3)(彼〔イエス〕をあとに残して、〔パリサイ人たち
は〕去った)= Mt 22, 22: relicto eo abierunt (part. perf. pass. m. sg. abl. < relinquere 残す)
- 115 -
sine iungiron alle imo forlazzanemo fluhun (Tatian 185, 10)(弟子たちは皆、彼〔イエス〕を
見捨てて逃げた)= Mt 26, 56: discipuli omnes relicto eo fugerunt (part. perf. pass. m. sg. abl. <
relinquere 残す)
vvuntun anagitanen giengun samiquekemo furlâzanemo (Tatian 128, 7)(〔強盗たちは〕傷を
負わせて、半死半生の者を残して去った)= L 10, 30: plagis inpositis abierunt semivivo
relicto (inpositis = part. perf. pass. f. pl. abl. < inponere ある人にあることを引き起こす; relicto
= part. perf. pass. m. sg. abl. < relinquere 残す)
in forlazzanen gieng abur (Tatian 182, 6)(彼ら〔弟子たち〕を残して、〔イエスは〕また行
った)= Mt 26, 44: relictis illis iterum abiit (part. perf. pass. m. pl. abl. < relinquere 残す)
bislozanen thinen turin beto thinan fater in tougalnesse (Tatian 34, 2)(自分の戸を閉めて、隠
れた所にあるあなたの神に祈りなさい)= Mt 6, 6: clauso ostio tuo ora patrem tuum in
abscondito (part. perf. pass.n. sg. abl. < claudere 閉じる)
giofnotomo sinemo munde fintis scaz (Tatian 93, 3)(その〔釣った魚の〕口を開けると、お
前はお金を見つける)= Mt 17, 27: aperto ore eius invenies staterem (part. perf. pass. n. sg. abl.
< aperire 開ける)
thie accarbigengon gifanganen sinen scalcun anderan filtun, anderan arsluogun, anderan steinotun
(Tatian 124, 2)(農夫たちは彼〔主人〕の使用人をつかまえて、ある者を殴り、ある者を
打ち殺し、ある者を石で打った)= Mt 21, 35: agricolae adprehensis servis eius alium
ceciderunt [...] (part. perf. pass. m. sg. abl. < adprehendere つかむ)
her tho allen uzaruuorphanen, ginomanemo fater inti muoter thes magatines inti then mit imo
uuarun, gieng in thar thaz magatin lag (Tatian 60, 14)(彼〔イエス〕は皆を外に追い出して、
少女の父親と母親と、そして自分と一緒にいる者を受け入れて、少女が横になっている所
へ入った)= Mc 5, 40: ipse vero eiectis omnibus assumpto patre et matre puellæ et qui secum
erant et ingreditur ubi erat puella iacens (eiectis = part. perf. pass. m. pl. abl. < eicere 追い出す;
assumpto = part. perf. pass. m. sg. abl. < assumere 受け入れる)
inphanganen tho fimf brotun inti zuein fiscun scouuota in himil (Tatian 80, 6)(そして五つのパ
ンと二匹の魚を受け取ると、〔イエスは〕天を見た)= L 9, 16: acceptis autem quinque
panibus et duobus piscibus respexit in celum (part. perf. pass. m. sg. abl. < accipere 受け取る)
her uuidaruuarb intfanganemo rihhe (Tatian 151, 4)(彼〔高貴な人〕は国を授かって帰って
きた)= L 19, 15: rediret accepto regno (part. perf. pass. n. sg. abl. < accipere 受ける)
thie heroston thero heithaftono intfanganen silabarlingon quadun (Tatian 193, 4)(大祭司たちは
銀貨を受け取って、言った)= Mt 27, 6: principes autem sacerdotum acceptis argenteis
dixerunt (part. perf. pass. m. pl. abl. < accipere 受け取る)
intfanganemo uuazzare uuosc sino henti fora themo folke (Tatian 199, 11)(水を受け取って、
〔ヘロデは〕自分の手を民衆の前で洗った)= Mt 27, 24: accepta aqua lavit manus coram
populo (part. perf. pass. f. sg. abl. < accipere 受け取る)
sie tho intfanganemo mietscazze tatun so sie uuarun gilerte (Tatian 222, 4)(彼ら〔兵士ら〕は
そこで金を受け取り、教えられた通りにした)= Mt 28, 15: at illi accepta peccunia fecerunt
sicut erant docti (part. perf. pass. f. sg. abl < accipere 受け取る)
ginomanemo Petro [...] bigonda sih truoben (Tatian 180, 4)(〔イエスは〕ペテロ〔……〕を
- 116 -
連れていくと、悲しみ始めた)= Mt 26, 37: adsumto Petro [...] coepit contristari (part. perf.
pass. m. sg. abl. < adsumere 受け入れる)
ther eristo ginomanero quenun arstarb (Tatian 127, 2)(長男は妻を娶って、死んだ)= Mt 22,
25: primus uxore ducta defufnctus est (part. perf. pass. f. sg. abl. < ducere 娶る)
gihalatero menigi mit sinen iungoron quad in (Tatian 90, 5)(弟子たちと一緒に群衆を呼んで、
〔イエスは〕彼らに言った)= Mc 8, 34: convocata turba cum discipulis suis dixit eis (part.
perf. pass. f. sg. abl. < convocare 召集する)
gihaloten tho suntar giuuelihen sculdigon sines herren quad themo eristen (Tatian 108, 3)(そこ
で〔管理人は〕自分の主人の債務者を一人ずつ呼び出して、最初の者に言った)= L 16,
5: convocatis itaque singulis debitoribus domini sui dicebat primo (part. perf. pass. m. pl. abl. <
convocare 召集する)
gihaloten tho sinen zehen scalcon gab in zehen mnas (Tatian 151, 2)(〔高貴な人は〕十人の自
分の僕を呼んで、彼らに 10 ミナ与えた)= L 19, 13: vocatis autem X servis suis dedit illis X
mnas (part. perf. pass. m. pl. abl. < vocare 呼ぶ)
gihalotemo uualtambahte frageta inan (Tatian 212, 5)(〔ピラトは〕兵長を呼んで尋ねた)=
Mc 15, 44: accersito centurione interrogavit eum (part. perf. pass. m. sg. abl. < accessere 呼ぶ)
gisamonoten allen ther iungoro sun elilentes fuorin uerra lantscaf (Tatian 97, 1)(すべて〔の財
産〕を集めると、年下の息子は遠い国へと外へ行った)= L 15, 13: congregatis omnibus
adolescentior filius peregre profectus est in regionem longinquam (part. perf. pass. n .pl. abl. <
congregare 集める)
gisanten sinen herin furlos thie manslagon (Tatian 125, 8)(〔結婚式を催した王は〕自分の軍
隊を送って、殺人者たちを滅ぼした)= Mt 22, 7: missis exercitibus suis perdidit homicidas
illos (part. perf. pass. m. pl. abl. < mittere 送る)
gibuntanen sinen fuozin inti hentin sentet in in thiu ûzorostun finstarnessu (Tatian 125, 11)(彼
〔礼服を着ていない者〕の足と手を縛って、その者を外の闇の中に出せ)= Mt 22, 13:
ligatis pedibus eius et manibus mittite eum in tenebras exteriores (part. perf. pass. m pl. abl. <
ligare 縛る)
Maria habenti salbfaz salbun fon narthu gitana diura, inti gibrohanemo goz ubar sin houbit
linentes (Tatian 138, 1)(マリアはナルドから作られた高価な香油の壺を持って、〔それ
を〕割って、横になっている彼〔イエス〕の頭に注いだ)= J 12, 3/Mc 14, 3/Mt 26, 7:
Maria ergo habens alabastrum unguenti nardi spicati pretiosi, et fracto effudit super caput Ihesu
recumbentis (part. perf. pass. n. sg. abl. < frangere 砕く)(この例には過去分詞が修飾すべき与
格名詞がない。ラテン語においても奪格名詞がない。意味的に、その前に現在分詞の目的
語として現れる salbfaz salbun = alabastrum「香油壺」の与格形および奪格形が省略された
ものと見なされる。)
her tho foruuorphanemo sabane naccot floh fon in (Tatian 185, 12)(彼〔捕らえられたイエス
についてきた若者〕は布を投げ捨てて裸で彼ら〔若者を捕らえようとした者たち〕から逃
げた)= Mc 14, 52: at ille reiecta sindone nudus profugit ab eis (part. perf. pass. f. sg. abl. <
reicere 投げ返す)
uoruuorpfanen silabarlingon in thaz tempal thana fuor (Tatian 193, 3)(〔ユダは〕銀貨を宮に
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投げ出して去っていった)= Mt 27, 5: proiectis argenteis in templo recessit (part. perf. pass. m.
pl. abl. < proicere 投げ出す)
ubarhabanen sinen ougon in sie intteta sinan mund, lerta sie (Tatian 22, 7)(彼ら〔弟子たち〕
に向けて自分の目を 上げて 、〔イエスは〕自分の口を開いて、彼らに教えた) = L 6,
20/Mt 5, 2: elevatis oculis in eos aperiens os suum docebat eos (part. perf. pass.m. pl. abl.
<elevare 上げる)
uferhabanen ougon in himil zi themo fater quad (Tatian 177, 1)(〔イエスは〕目を天へと上
げて、父に言った)= J 17, 1: sublevatis oculis in cælum ad patrem dixit (part. perf. pass. m. pl.
abl. < sublevare 持ち上げる)
riob man quementi giboganemo kneuue betota inan (Tatian 46, 2)(癩病人が来て、膝を曲げて
〔ひざまづいて〕彼〔イエス〕に願った)= Mt 8, 2/Mc 1, 40: leprosus veniens genu flexo
adorabat eum (part. perf. pass. n sg. abl. < flectere 曲げる)(106, 1; 200, 2 も同様)
gieng zi imo man nidargiuualzten cneuuon (Tatian 92, 2)(彼〔イエス〕の所へある人が膝を
下に折って〔ひざまづいて〕やって来た)= Mt 17, 14: accessit ad eum homo provolutis
genibus (part. perf. pass. n. pl. abl. < provolvere 前へ転がす、倒す)
nidargilegiten kneuuon fiel in sin annuzi (Tatian 181, 1)(〔イエスは〕膝を下に置いて〔ひざ
まづいて〕うつむいて倒れた)= L 22, 41/Mt 26, 39: positis genibus procidit in faciem suam
(part. perf. pass. n. pl. abl. < ponere 置く)
unmanage unmahtige anagilegiten hanton giheilta (Tatian 78, 6)(少しの病人を、手を当てて治
した)= Mc 6, 5: paucos infirmos inpositis manibus curavit (part. perf. pass. f. pl. abl. < inponere
当てる、あてがう)
nidargihelditemo houbite santa then geist (Tatian 207, 6)(頭を垂れて、〔イエスは〕息を放
出した〔死んだ〕)= J 19, 30/Mt 27, 50: inclinato capite emisit spiritum (part. perf. pass. n. sg.
abl. < inclinare 傾ける)
uferhabenen sinen hentin uuihta in (Tatian 244, 2)(〔イエスは〕自分の手を挙げて彼ら〔弟
子たち〕に対して祝福した)= L 24, 50: elevatis manibus suis benedixit eis (part. perf. pass. f.
pl. abl. < elevare 揚げる)
gizunfti gitanera mit then uurhton fon tagelone santa sie in sinan uuingart (Tatian 109, 1)(〔主
人は〕労働者たちと日当の契約をして、その者たちを自分のぶどう園に送った)= Mt 20,
2: conventione autem facta cum operariis ex denario diurno misit eos in vineam suam (part. perf.
pass. f. sg. abl. < facere 行う)
注目すべきは、この用法に知覚動詞や発話動詞の過去分詞による例が多く現れるという
ことである。知覚動詞は目に見えるような具体的変化を表さず、単なる名詞の付加語とし
てはそれほど多く用いられないものである。それが与格分詞構文では比較的容易に用いら
れ、haben + 知覚動詞の過去分詞という形を生む一つの契機になったとすれば、haben +
過去分詞が状態表現から過去表現になるという問題において重要な意味を持つ(本章
P.59 参照頁を参照)。
fundanemo thanne einemo diuremo merigrioze gieng inti furcoufta ellu thiu her habeta inti coufta
then (Tatian 77, 2)(高価な真珠を一つ見つけると、〔商人は〕行って、持っているものす
べてを売って、それを買った)= Mt 13, 46: inventa autem una pretiossa margarita abiit et
- 118 -
vendidit omnia quæ habet et emit eam (part. perf. pass. f. sg. abl. < invenire 見つける)
ni fundanemo sinemo lichamen quamun (Tatian 226, 2)(〔イエスの墓に行った女たちは〕彼
〔イエス〕の体を見つけられず、帰ってきた)L 24, 23: non invento corpore eius venerunt
(part. perf. pass. n. sg. abl. < invenire 見つける)
giuahun uuarlicho thie iungoron gisehenemo trohtine (Tatian 232, 4)(弟子たちは主を見て本当
に喜んだ)= J 20, 20: gavisi sunt ergo discipuli viso domino (part. perf. pass. m. sg. abl. < videre
見る)
senu tho al thiu burg gieng ingegin themo heilante, inti gisehanemo imo inti then man sizzentan
fon themo thie diuuala uzgiengun, giuuatitan inti heilemo muote zi sinen fuozin, inti forhtun inti
batun in thaz her fuori fon iro entin (Tatian 53, 12)(すると町中の人が救世主の所へやって来
て、彼を見て、そして悪鬼が出ていった人が服を着て正気になって彼〔イエス〕の足下に
座っているのを見て、恐ろしくなり、自分たちの土地から出ていくように彼〔イエス〕に
頼んだ)= Mt 8, 33/L 8, 35: [...] viso eo [...] (part. perf. pass. m. sg. abl. < videre 見る)
imo gisehanemo furifuor (Tatian 128, 8)(彼〔強盗に襲われた者〕を見て、〔司祭は〕通り
過ぎた)= L 10, 31: viso illo praeterivit (part. perf. pass. m. sg. abl. < videre 見る)
Herodes gisehanemo themo heilante uuas thrato giuehenti (Tatian 196, 4)(ヘロデは救世主を見
て、非常に喜んだ)= L 23, 8: Herodes autem viso Ihesu gavisus est valde (part. perf. pass. m.
sg. abl. < videre 見る)
ther hunteri inti thie imo uuarun bihaltenti then heilant, gisehenemo erdgiruornessi inti then dar
uuarun, forhtun in thrato (Tatian 210, 1)(百卒長、および彼と救世主を見張っている者たち
は、地震とそこで生じたことを見て、非常に恐れた)= Mt 27, 54: [...] viso terre motu et his
quæ fiebant, timuere valde (part. perf. pass. m. sg. abl. < videre 見る)
thaz tho gihortemo ther heilant quad in (Tatian 56, 4)(これを聞いて救世主は彼らに言った)
= Mc 2, 17: hoc audito Ihesus ait illis (part. perf. pass. m. sg. abl. < audire 聞く)
ther heilant tho gihortemo uuorte quad themo furisten thero samanunga (Tatian 60, 11)(救世主
はその言葉を聞いて、教会堂長に言った)= Mc 5, 36: Ihesus autem audito verbo ait
archisinagogo (part. perf. pass. n. sg. abl. < audire 聞く)
uueistu thaz the Farisei gihortemo uuorte sint bisuuichana? (Tatian 84, 7)(パリサイ人が〔あな
たの〕言葉を聞いて腹を立てていることを知っていますか)= Mt 15, 12: scis quia Pharisei
audito verbo scandalizati sunt? (part. perf. pass. n. sg. abl. < audire 聞く)
then gihorten thie iungoron uuntrotun thrato sus (Tatian 106, 4)(これらのことを聞いて、弟子
たちは非常に驚いた)= Mt 19, 25: auditis autem his discipuli mirabantur valde (part. perf. pass.
n. pl. abl. < audire 聞く)
furstantanemo iro ueihhane quad ther heilant (Tatian 126, 2)(彼ら〔パリサイ人〕の悪意を知
って、救世主は言った)= Mt 22, 18: cognita autem nequitia eorum Ihesus ait (part. perf. pass.
f. sg. abl. < cognoscere 知る)
また「言う」のような発話を表す動詞の過去分詞による例もあり、これは『オトフリート
福音書』において、haben + 過去分詞の対格目的語のない用法(上例(143)-(146))がその
種の動詞からなるものであったという点で重要である。
thesen giquetan gieng stigenti zi Hierusalem (Tatian 138, 15)(これらのことを言って、〔イエ
- 119 -
スは〕エルサレムに上っていった)= Mt 20, 17: et his dictis abiit ascendens Hierosolimam
(part. perf. pass. n. pl. abl. < dicere 言う)
immine giquetanemo uzgiengun tho after giuuonun in berc oliboumo (Tatian 166, 5)(〔イエス
と弟子たちは〕賛美歌を唱和して、習慣に従ってオリブ山へ出かけた)= Mt 26, 30/L 22,
39: ymno dicto exierunt secundum consuetudinem in montem Oliveti (part. perf. pass. m. sg. abl.
< dicere 発言する)
一方、与格 + 過去分詞には、過去分詞の表す事態の動作主が文主語にならない例もあ
る。
gifulten tagun mit thiu sie heim vvurbun, uuoneta ther kneht Heilant in Hierusalem (Tatian 12, 2)
(日が満ちて〔その日が終わって〕彼ら〔イエスの両親〕が帰った時、救世主である少年
はエルサレムに留まった)= L 2, 43: consummatisque diebus cum redirent, renansit puer
Ihesus in Hierusalem (part. perf. pass. m. pl. abl. < consumare 完了する)
uzaruuorphanemo diuuale sprah thie stummo (Tatian 61, 5)(悪鬼が追い出されると、唖が話
し始めた)= Mt 9, 33: eiecto demone locutus est mutus (part. perf. pass. m. sg. abl. < eicere 追
い出す)
gitaneru arbeiti inti ahtnessi thuruh thaz uuort sliumo uuirdit bisuihhan (Tatian 75, 2)(言葉のた
めに苦労や迫害が加えられると、すぐにつまづく)= Mt 13, 21: facta autem tribulatione et
persecutione propter verbum continuo scandalizatur (part. perf. pass. f. sg. abl. < facere 行う)
sliumo framgieng thie dar uuas tot, gibuntan hanton inti fuozin mit strengin inti sin annuzi mit
sueizduohu gibuntan (Tatian 135, 26)(すぐに死んでいた者が、手と足を縄で縛られて、顔
を手ぬぐいで縛られて出てきた)= J 11, 44: statim prodiit qui fuerat mortuus, ligatus pedes et
manus institis, et facies illius sudario erat ligata(この例ではラテン語の奪格 + 分詞に基づか
ない。hanton「手」および fuozin「足」が与格であるが、過去分詞が与格形に語尾変化し
ていない。対応するラテン語は ligatus (= part. perf. pass. m. sg. nom. < ligare「結ぶ」)、
pedes (m. pl. nom.「足」)、manus (f. sg. nom.) である。また、並列する「顔を縛られて」
の部分では、過去分詞は同じく語尾変化がなく、 annuzi「顔」は主格または対格であり、
それに対応するラテン語は、facies erat ligata (facies f. sg. nom.「顔」; erat = imperf. < esse;
ligata = part. perf. pass. f. sg. nom. < ligare「結ぶ」)で「顔は縛られていた」という文であ
る。)
同様の例は『オトフリート福音書』にも見られる。
duron so bisparten stuant er untar mitten thes selben dages thritten (V, 11, 3) 戸は閉じられてい
たにも拘わらず、彼〔イエス〕はその三日目にその〔弟子たちの〕間に立った
wio er selbo quami [...] bisparten duron thara zi in joh stuant thar mitten untar in (V, 12, 14) い
かにして彼〔イエス〕は、戸が閉じられていたのに彼ら〔弟子たち〕の所へやって来て、
彼らの間に立ったのか)
しかし、与格分詞構文においては過去分詞の表す動作主が文の主語になる例の方が圧倒的
に多い。勿論この用法は、ラテン語の奪格 + 分詞に従っているだけなので、与格分詞構
文はドイツ語においては特殊な人工的な用法かもしれない。しかし、与格分詞構文が形成
される場合には、その動作主の第一候補として文主語が選択されるのが自然であるという
ことは言えるだろう。それが haben + 過去分詞の完了形としての成立に何らかの影響を
- 120 -
与えたことは考えられる。
以上、知覚動詞以外の動詞が本動詞になる場合の対格 + 過去分詞の分詞構文および与
格 + 過去分詞という分詞構文においては、過去分詞の表す事態の動作主が文主語と一致
する傾向が見られることが確認された。ただし例外もいくらか存在し、haben + 過去分詞
との関係はある程度想定できるが、決定的と言えるほどではない。
19)
(62)や (111)は過去分詞の表す事態の動作主=文主語ではないが、過去分詞は形容詞と
して用いられており、have 受動のような受動の意味はない。
20)
勿論、haben の目的語が過去分詞ではなく、対格名詞 + 過去分詞になる可能性がない
わけではない。例えば、ゴート語には haben + 不定詞が「~することになっている」と
いう未来の事態を表した。これが haben + 対格名詞 + 不定詞の形を取る場合、haben の
目的語は対格名詞ではなく、対格名詞 + 過去分詞と見なすことが不可能ではない。
þoei habaidedun ina gadaban (Mc 10, 32)(彼を見舞う〔彼にこれから生じる〕こと)
sa auk habaida ina galewjan (J 6, 71)(というのは、その男は彼を裏切ることになっていたの
である)
このような例を見ると、haben + 対格名詞 + 過去分詞という構造においても、haben の目
的語が対格名詞 + 過去分詞となる可能性はあると言える。しかしゴート語の haben + 不
定詞には、対格名詞を伴わない自動詞の不定詞による haben + 不定詞の例もある。
þarei im ik, þaruh sa andbahts meins wisan habaiþ (J 12, 26)(私がいる所に私の従者もいるだ
ろう)
もし haben + 過去分詞において haben の目的語が対格名詞 + 過去分詞であるとすれば、
haben + 不定詞と同様に、対格名詞のない自動詞の過去分詞のみを用いた er hat gekommen
のような例が現れてもよさそうであるが、そのような例は古高ドイツ語には1例もない。
この場合、すでに er ist gekommen のような用法が存在していたことは、er hat gekommen
が現れないことの理由にはならない。er hat gekommen は gekommen が目的語なのだから、
「来たという経験を持つ、来たことがある」を意味し、ist gekommen は「来て今そこにい
る」ことを表すというように、意味的な違いが生じるので、er ist gekommen の存在は er
hat gekommen の出現を何ら妨げない。従って、haben + 過去分詞において haben の目的語
が過去分詞や過去分詞 + 対格名詞である可能性は否定される。
21)
im (= bin) はテクストに補足されたものであり、これが ist + PP の例とは言えない可能
性がある。
22)
ルター訳では「40 日」が「試みられた」にかかっている。
23)
同じ vocabitur という未来の受動形が wird + PP に対応する箇所もある。
uuirdit ginemnit gotes barn (3, 7)(神の息子と呼ばれる)= L 1, 35: vocabitur filius dei =
Luther: wird Gottes Son genennet werden
24)
sein + 過去分詞が動作受動的意味を持つことは、
sie uuanent thaz sie in iro filusprahhi sin gihorte (34, 3)(彼ら〔異教人〕は多くしゃべれば聞
き届けられると思っている)= Mt 6, 7: putant enim quia in mutliloquio exaudiantur (conj.
praes. pass. < exaudire 聞き届ける)
のように sein (wesan) が接続法の例や、
bidiu gilimfit inan uaran zi Hierusolimam inti manegiu thruoen uon then alton [...] inti arslagan
- 121 -
uuesan inti dritten tage arstanten (90,4)(彼〔イエス〕がエルサレムに行き、長老〔……〕達
によって大いに苦しめられ、 打ち殺され 、三日目に復活することが必然であること) =
quia oprtet eum ire Hierusolimam et multa pati a senioribus [...] et occidi et tertia die resurgere
(inf. praes. pass. < occidere 打ち殺す)
のように sein が不定詞の例、さらに命令や要求、目的等を表す次の例にも認められる。
uuaret iu thaz ir iuuar reht ni tuot fora mannun, thaz ir gisehan sit fon in (33, 1)(あなた達は、
人から 見られる ために、人の前で善行をしないように気をつけなさい) = Mt 6, 1:
adtendite ne iustitiam vestram faciatis coram hominibus et videamini ab eis (conj. praes. pass. <
videre 見る)(34, 1 も同様)
ni tuo trumbun singan fora thir, so thie lihhazara tuont in dingun inti in thorphun, thaz sie sin
gierete fora mannun (33, 2)(偽善者たちが集会所や町中でするように、自分の前にラッパ
を吹き鳴らすことをするな。彼らは人前で尊敬されるためにそうするのだ)
= Mt 6, 2: ut honorificentur ab hominibus (conj. praes. pass. < honorificare 尊敬する)
si giheilagot thiu namo (34, 6)(あなたの名が清められますように)= Mt 6, 9: sanctificetur
nomen tuum (conj. praes. pass. < sanctificare 神聖にする)
ni curet tuomen, thaz ir ni sit furtuomte; soso ir in tuome tuoment, so uuerdet ir gituomte. ni curet
furnidaren, thaz ir ni sit furnidarite (39, 1/2)(裁くな。あなた達が裁かれないように。あな
た達が裁きにおいて裁くように、あなた達が裁かれるのだから。断罪するな。あなた達が
断罪されないように。)= Mt 7, 1/2: nolite iudicare, ut non iudicemini; in quo enim iudicio
iudicaveritis, iudicabimini. (L 6, 37) nolite condemnare, et non condemnabimini (iudicemini =
conj. praes. pass.; iudicabimini = fur. pass. < iudicare 裁く; condemnabimini = fut. pass. <
condemnare 有罪判決を下す)
alliu iro uuerc tuont sie thaz siu sin gisehaniu fon mannon (141, 3)(彼ら〔聖書学者とパリサ
イ人〕のする行いのすべてが、自分たちが人から見られるためのものである)= Mt 23, 5:
omnia vero opera sua faciunt ut videantur ab hominibus (praes. pass. < videre 見る)
noh ni sit giheizane meistara (141, 8)(あなた達は先生とも呼ばれるな)= Mt 23, 10: nec
vocemini magistri (conj. pras. pass. < vocare 呼ぶ)
ni si gitruobit iuuuer herza noh ni forhte (165, 6)(あなた達の心が不安にならないように。
そしてまた恐れないように)= J 14, 27: non turbetur cor vestrum neque formidet (conj. praes.
pass. < turbare 不安にする)
thiz sprah ih iu, thaz min gifeho si gifullit (168, 1)(このことを私があなた達に言ったのは、
私の喜びが満たされるためである)= J 15, 11: haec locutus sum vobis, ut gaudium meum
impleatur (conj. praes. pass. < implere 満たす)
thiz sprah ih iu, thaz ir ni sit bisuuihan (171, 3)(このことを私があなた達に言ったのは、あ
なた達が躓かないためである)= J 16, 1: haec locutus sum vobis, ut non scandalizemini (conj.
praes. pass. < scandalizare 躓かせる)
ih thia fagari thia du mir gabi gab in [...] thaz sie sin thuruhfremit in ein (179, 2)(あなたが私
に与えた栄光を、私が彼ら〔信者たち〕に与えたのは〔……〕彼らが一つになって完全な
ものになるためです)= J 17, 22/23: [...] ut sint consummati in unum (conj. perf. pass. <
consummare 完成する)
- 122 -
thaz uuas zi thiu giuuortan thaz uuarin gifultiu thiu giscrip thero uuizzagono (185, 9)(これは預
言者たちの書が満たされるために生じた)= Mt 26, 56: hoc autem factum est, ut implerentur
scripture prophetarum (conj. imperf. pass. < implere 満たす)
sliumo uzgieng bluot inti uuazzar. thaz giscrib uuari gifullit (211, 4)(すぐに血と水が出た。そ
れは聖書の言葉が満たされるためであった)= J 19, 34/36: continuo exivit sanguis et aqua. ut
scriptura impleatur (conj. praes. pass. < implere 満たす)
then heilant tho bifiltan saltan in, thaz her uuari erhangan (199, 13)(〔ピラトは〕救世主を鞭
打って、彼が十字架にかけられるために、彼を彼ら〔ピラトの兵士〕に引き渡した) =
Mt 27, 26: Ihesum autem flagellis cesum tradidit eis, ut crucifigeretur (conj. imperf. pass. <
crucifigere 十字架にかける)
uuarun gileittit andre zuene ubile mit imo, thaz sie uuarin erslagan (202, 1)(他の二人の悪人も
彼〔イエス〕とともに、処刑されるために引かれた)= L 23, 32: ducebantur autem et alii
duo nequam cum eo, ut interficerentur (conj. imperf. pass. < interficere 殺す)
これはすでに本論 P.40 参照頁で述べたように、過去分詞が未来的事態を表すことか、あ
るいは、ist が現在における静的状態のみならず、未来の状態を表すことに基づく。ist が
未来を表す具体例を挙げておく。
ther ist mihhil (3, 5)(彼は大いなる者となるだろう)= L 1, 32: hic erit magnus (fut. < esse)
salige birut ir, mit thiu iu fluohhont inti hazzont iuuih man [...] giuehet in themo tage inti blidet,
uuanta bithiu iuuar mieta ist ginuhtsam in himilon (22, 17)(人があなた達を罵り、憎む時、あ
なた達は幸いである。〔……〕その日には欣喜雀躍しなさい。あなた達の報酬は天に十分
にあるのだから)= Mt 5, 12: quoniam merces vestra copiosa est in caelis (praes. < esse) =
Luther: Es wird euch im Himel wol belohnet werden
thoh uuidaro minnot iuuara fianta inti tuot in uuola inti uuehsal gebet niouuiht auruuanenti, inti ist
iuuar mieta mihhilu, inti ir birut kind thes hohisten (32, 8)(しかしあなた達の敵を愛し、彼ら
に親切にし、何も期待せずに貸しなさい。そうすれば、あなた達の報酬は沢山であり、あ
なた達は最高者の子となるだろう)= L 6, 35: verumtamen diligite inimicos vestros et bene
facite et mutuum date nihil disperantes, et erit merces vestra multa, et eritis filii altissimi (fut. <
esse) = Luther: So wird ewer Lohn gros sein / vnd werdet Kinder des Allerhöhesten sein
si thin uuillo, so her in himile ist, so si her in erdu (34, 6)(あなたの意思が実現しますように、
天においてそうであるように、地においてもそうなりますように)= Mt 6, 10: fiat
voluntas tua, sicut in cælo et in terra (conj. praes. < fieri なる)
thanne ir fastet, ni curet uuesan soso thie lihhazara sint gitroubte (35, 1)(あなた達が断食する
時には、偽善者たちが辛そうにしているように、 して はならない) = Mt 6, 16: cum
ieiunatis, nolite fieri sicut hypochritæ tristes (inf. < fieri なる)
uuis subri (46, 3)(清くなれ)= Mt 8, 3: mundare (imper. praes. pass. < mundare 清める)
uuesa dir so du uuili (85, 4)(あなたが望むとおりに、あなたになれ)= Mt 15, 28: fiat tibi
sicut vis (conj. praes. < fieri なる)
thiu thu gigarauuitas, uues sint thiu? (105, 3)(お前が準備したものは、誰のものになるの
か)= L 12, 20: quæ autem parasti, cuius erunt? (fut. < esse)
vvuo quidistu: ir birut frige? (131, 13)(あなたはどうして「あなた達は自由になる」と言う
- 123 -
のか)= J 8, 33: quomodo tu dicis: liberi eritis? (fut. < esse) = Luther: Wie sprichstu denn / Jr
solt frey werden?
oba ther sun iuuih arlosit, thanne birut ir uuarlihho frige (131, 15)(もし息子があなた達を自由
にすれば、あなた達は本当に自由になるのである)= J 8, 36: si ergo filius vos liberaverit,
vere liberi eritis (fut. < esse)
oba her slafit, thanne ist er heil (135, 6)(彼〔ラザロ〕が眠っているのなら、彼は助かるで
しょう)= J 11, 12: si dormit, salbus erit (fut. < esse)
bithiu thu in luzilemo gitriuui uuari, bist giuualt habenti obar zehen burgi (151, 5)(お前は小さ
なことに忠実であったので、お前は 10 の町の支配権を手にする)= L 19, 17: quia in
modico fidelis fuisti, eris potestatem habens supra X civitates (fut. < esse)
hiutu bistu mit mir in paradiso (205, 7)(今日あなたは私と一緒に楽園に入る)= L 23, 43:
hodie mecum eris in paradiso (fut. < esse)
niomannen ni bliuuet noh harm ni tuot inti sit giuago iuuara lîbnara (13, 18)(誰も苦しめず、危
害を加えず、おのれの生計で満足しなさい)= L 3, 14: neminem concutiatis neque calumniam
faciatis et contenti estote stipendiis vestris (imperativ fut. < esse)
uueset ir thuruhthigane (32, 10)(あなた達は完全になりなさい)= Mt 5, 48: estote ergo vos
perfecti (imperativ fut. < esse)
25)
ルター訳には L 17, 35: et alter relinquetur の部分が欠けているので、Mt 24, 40: Vnd der
ander wird verlassen werden を補った。
26)
was + PP が動作受動的意味を持つことは、was が「~であった」のみならず「~にな
った」をも意味しうることに基づく。その具体例を挙げておく。
so sie tho gistigun in skef, bilan ther uuint, inti sar uuas thaz skef zi lante zi themo sie fuorun (81,
4)(彼ら〔イエスとペテロ〕が船に上がると、風は止んだ。そしてすぐに船は彼らが向か
っていた場所に着いた)= Mt 14, 32/J 6, 21: cum adscendissent in naviculam, cessavit ventus,
et statim fuit navis ad terram quam ibant (perf. < esse)
der dar erist ingisteig aftter giruornisse thes uuasseres, heil uuas uon so uuelichero suhti uuas
bihabet (88, 1)(水がかき回されたあと最初に入った者は、いかなる病気にかかっていても、
治った)= J 5, 4: qui ergo primus descendisset post motum aquae, sanus fiebat a quocumque
languore tenebatur (imperf. < fieri なる ) = Luther: Welcher nu der erste / nach dem das wasser
beweget war / hin ein steig / der ward gesund / mit welcherley Seuche er behafftet war
27)
これに続く同じ完了過去受動の箇所は ward + PP になっている。
nioman iro gireinit uuard nibi Neman ther Syr (78, 8)(シリア人ナアマンを除いて誰も清め
られなかった)= L 4, 27: nemo eorum mundatus est nisi Neman Syrus (pass. perf. < mundare
「清める」) = Luther: der keiner ward gereiniget / denn alleine Naaman aus Syrien
28)
最後の (266)-(268)はラテン語の不完了過去(およびその接続法)に対応するが、内容
から見て動作受動的意味が表されていると判断される。
29)
下例のうち(280)は反復的事態という意味で継続的事態を表す。また(281)は、意味的に
必ずしも継続的と言えるか曖昧であるが、対応するラテン語は不完了過去である。
30)
この例は、基準時(第3章の冒頭を参照)が現在ではなく、未来に置かれる未来完了
的な意味を持つ。しかし、その未来における状態の曖昧性という意味では、基準時が未来
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にあっても同じであり、ここに含めた。
31)
同じ dictum erat が was + PP で表される次のような例があり、ward + PP が過去完了的
に用いられていることが裏付けられる。
sie thô gisehente forstuontun fon ðêmo uuorte thaz im giquetan uuas fon ðêmo kinde (6, 5)(そ
こで彼らは見て、子供について自分たちに言われた言葉について理解した)= L 2, 17:
videntes autem cognoverunt de verbo quod dictum erat illis de puero hoc = Luther: Da sie es aber
gesehen hatten / breiteten sie das wort aus / welchs zu jnen von diesem Kind gesagt war
32)
sein + 過去分詞が動作受動的意味を持つ土台は、過去分詞が未来的意味を持つか、あ
るいは、sein (wesan) が未来的意味を持つことにある。sein が未来的意味を表す例を挙げ
ておく。
thes githuingnisses thes worolt thultit thanne, les; giwisso thaz ni hiluh thih: theist zitin allen
ungilih! sie sint thanne in wewen, in arabeitin seren, thaz er ni ward io sulih fal, ouh iamer werden
ni scal (IV, 7, 31)(ああ、そうなれば〔終末の反キリストの時代になれば〕世は圧迫に耐
える。確かに私はあなたに隠しはしない。それはあらゆる時代とは異なっている。そうな
れば彼らは苦痛、艱難の中に 置かれる 。そのような没落はかつて起こったこともなく、
〔今後〕起こることもない)
then fater, druhtin, einon then laz unsih biscowon [...] so ist uns alles ginuag (IV, 15, 28)(主よ、
ただ父を私たちに見せて下さい。そうすれば、私たちは完全に満足するのです)
ih duan [...] so thu quist, thoh thu es wirdig ni sist: bist hiutu thu zi ware mit mir saman thare (IV,
31, 24)(あなたがたとえそれにふさわしくないということがあろうとも、私はあなたが言
う通りにする。すなわち、あなたは今日私と一緒にそこ〔天国〕に入る)
ih irstantu [...] so ih thritten dages toter bin (IV, 36, 8)(私は死者になって三日目に甦る)
thoh quement iu thio mahti, giwalt joh gotes krefti, thio bigit iu mit mir meist ther selbo heilogo
geitst; so birut mir urkundon mit mihilen redinon, mit kreftigera henti in ellu woroltenti (V, 17,
10)(しかしあなた方に力、権力、神力が来る。それらをあなた方に私によって最大に聖
霊自らが与える。そうなれば、あなた方は私にとって世の果てまで説得力ある力強い証人
となる)
thes er iu ward giwahinit, tho ward irfullit thiu zit, thaz saliga thiu alta thaz kind tho beran scolta.
gihort iz filu manag friunt joh aller ouh ther lantliut, warun sie sih frewenti theru druhtines gifti.
tho geiscotun thie maga thia druhtines ginada, tho zemo antdagen sar so warun se alle samant thar.
sie quamun al zisamane, thaz kindlin zi sehanne (I, 9, 1-7)(sih frewenti sîn = sich freuend sein;
samant sîn = zusammen sein)(すでに言及されたことだが、その時、天福に与った老女〔エ
リザベツ〕が子を生むべき時が満たされた。それを多くの縁者およびすべての土地の人々
は聞き、主の恩恵を喜んだ。その時、親類たちは主の恩寵を聞き知り、彼らは皆、八日目
にすぐにそこに集まってきた。彼らは皆、その子を見るために集まってきた)
gistuatun sie tho scowon in then fater stummon, sie warun bouhnenti, wio er then namon wolti (I,
9, 24)(bouhnenti sîn = durch Zeichen andeutend sein)(彼ら〔エリザベツ、ザカリヤの親類縁
者〕は父親〔ザカリヤ〕が黙っているのを見て、彼〔ザカリヤ〕が〔子供の〕名前をどう
したいのか合図で尋ねた)
nist man ther noh io wurti, odo ouh si nu in giburti, od ouh noh werde in alawar, nub er sculi
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wesan thar (V, 20, 24)(すでに生まれた者、今生まれつつある者、またこれから生まれる
者のうち、そこ〔最後の審判の席〕に行かないですむような者はいない)(inf.)
al sit iz brieventi zi mineru henti (I, 11, 18)(brieventi sîn = schriftlich verzeichnend sein)(私が掌
握できるように、それ〔税金のためにすべての人が故郷で登録を受けること〕を文書で記
録せよ)(imperativ)
ist thiu akus ju giwezzit, zi theru wurzelun gisezzit, ouh harto gislimit themo then si rinit. nist
boum nihein in worolti, nist er fruma beranti, suntar siu nan suente inti fiur anawente; bi thiu
buazet iuih sliumo, ouh mannilih sih riwo, joh harto nemet gouma, thaz ir ni sit thie bouma (I, 23,
56)(斧はすでに研がれ、根元に置かれており、それが触れるものに対して、鋭く磨き上
げられている。実を結ばないのに、それ〔斧〕が切り捨てず、火に向けられないような木
は世界に存在しない。だから、すぐに懺悔しなさい。誰もが悔い改めるよう。またしっか
りと気をつけなさい。あなた方がその木にならないように)(conj.)
33)
以下の例のうち、(341)(342)は反復という意味で継続的事態を表す。
34)
主格名詞を伴う ist gesprochen の例を挙げておく。
thiz ist gisprochan allaz sus (thir sagen ih fon ther akus, ni wane theih thir gelbo): druntin ist iz
selbo (I, 23, 63)(これはすべて次の意味で言われているのである。-私はあなたに斧に
ついて語っているが、私があなたを騙しているとは思ってはならない。-すなわち、そ
れは主自身であるということである)
thiu tunicha thiu guata, bi thia ther los suanta, thaz si alang mit giwurti gihaltinu wurti; theiz wari
so gisprochan, ni wurti wiht firbrochan, thaz iro nihein ni wari thaz wiht ira firzari (IV, 29, 17)
(その下着はよいものであり、そのために籤が〔持ち主を〕決めたのは、それが無傷なま
ま喜びを持って保たれ、〔すでに聖書で〕そのように言われていたように、何ら裂かれず、
それを消失することが何もないようにするためである)(conj.)
また類似の意味を表す ist giredinôt (= ist geredet) の例も挙げる。
was liuto filu in flize, in managemo agaleize, sie thaz in scrip gicleiptin, thaz sie iro namon breittin
[...] iz ist al thuruh not so kleino giredinot (iz dunkal eigun funtan, zisamane gibuntan) (I, 1, 7)
(自分たちの名を広めるために、それを文字にとどめようと努め、大いに努力した民族は
多かった。それはまったく厳密なやり方で語られている。-〔多くの民族は〕それ〔民
族の名を高める文学〕を不思議なやり方で創造し、まとめ上げている。-)
thaz ist uns hiar gibilidot, in Kriste giredinot: gibadost thu tharinne, er widar thir io winne (II, 3,
57)(ここで我々に比喩的に示され、キリストにおいて 語られている ことは、彼〔敵〕が
あなたに対し暴力的であろうとも、そこ〔イエスが洗礼を受けること〕で〔同時に〕あな
たが沐浴するということなのだから)
35)
主格名詞を伴う ist gidân の例で、上例(346)(347)以外のものを挙げておく。まず「な
された」という抽象的事態を表す例である。
gidan ist es nu redina, thaz sie sint guate thegana, ouh gote thiononti alle joh wisduames folle (I, 1,
111)(今や、彼ら〔フランク人〕が優秀な戦士であり、また皆神に仕える英知に満ちた者
たちであることについての話がなされた)
mag mih [...] les! gilusten weinonnes, ser joh leid ubar wan ist mir harto gidan (V, 7, 22)(ああ、
泣きたくなるのも無理はありません。考えられないほどの苦しみと悲しみがきびしく私に
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加えられたのです)
ob iz zi thiu thoh gigeit thuruh mina dumpheit: thia sunta, druhtin, mino ginadlicho dilo, wanta [...]
iz nist bi balawe gidan (I, 2, 21)(しかしもし私の愚鈍によってそうなる〔キリストの物語
をうまく表現できない〕場合には、主よ、我が慈悲深き方がその罪を消して下さいますよ
うに。なぜなら、それは悪意によってなされたことではないのですから)
ther avur wola wirkit, er alleswio iz bithenkit: er lazit scinan siu ana wan, siu sint mit druhtine
gidan (II, 12, 96)(それに対し、それとは異なるような考えをして、しかるべく行動する
者は、疑いなくそれら〔の行動〕が明るみに出るようにする。それら〔の行動〕が神にあ
ってなされたからである)
so wemo ir [...] giheizet, ir sunta mo bilazet [...] ist mina halbun sar gidan; then ir iz avur wizet,
in sunta ni bilazet - theist ouh festi ubar al ana theheinig zwifal (V, 11, 13)(あなた方がそ
の罪を許すとあなた方が約束する者には、それですでに私の側でも〔同じことが〕なされ
ているのである。一方あなた方がその罪を許さぬとあなた方が咎める者たちには、そのこ
とは疑いの余地なく絶対に確定したことなのである)
purpurin giwati druag er tho bi noti, thurnina corona: gidan was thaz in hona (IV, 23, 8)(彼〔イ
エス〕はその時強制されて紫の上着といばらの冠を身につけていた。それは嘲りのために
なされたことであった)
最後の例は sein が過去形の例である。また、上例のうち (I, 2, 21) (II, 12, 96) (V, 11, 13)
の例は、未来完了的事態を表す。他に、ist gidân が「作られた」という具体的結果が残る
事態を表す例も挙げておく。(最後の例は sein が過去形である。)
thaz thar nu gidan ist, thaz was io in gote sos ist (II, 1, 41)(そこに今作られてあるものは、
〔今〕あるようにかつて神においてあった)
theist algiwis, nalas wan, theiz thuruh inan ist gidan (II, 2, 19)(まったく空想などではなく、
確実至極であることは、それ〔世〕が彼によって作られたということである)
es wiht ni quam imo ouh in wan, theiz was fon wazare gidan (II, 8, 40)(それ〔ワイン〕が水
から作られたものだとは彼〔結婚式に参加していた首長〕には思いもつかなかった)
er deta al thaz gidan ist, joh gibit in alla thia wist, thoh ni habeta er nu, les! mera thes githigines!
(IV, 16, 7)(彼〔イエス〕は、作られて存在するすべてを作った。そしてその糧となるも
のすべてを彼ら〔弟子たち〕に与える。それにも拘わらず、ああ、彼に従う者はそれ以上
いなかった)
なお ist gidân が「作られる」という動作受動的意味を表す例は、すでに(327)で挙げた。
36)
勿論、この sein + 過去分詞と haben + 過去分詞の対応は、具体的結果の残るような事
態が表される場合にも見られる。その一例を挙げる。
(112) sie eigun mir ginomanan liabon druhtin minan, thaz min liaba herza, bi thiu ruarit mih thiu
smerza (V, 7, 29)(彼らは私から私の愛する主、私の愛しい心を奪ったのです。それで私
は痛みに襲われているのです)
bineman: wio meg ih wizzan thanne, thaz uns kind werde? int uns ist in ther elti binoman unz in
enti (I, 4, 56)(どうして我々に子供ができるなどということを私が理解できるでしょうか。
年を取ってそういうことは私たちからすっかり奪われたというのに)
deta si in sar mari thaz er firstolan wari (V, 5, 2)(彼女〔マリア〕は彼ら〔弟子たち〕に、
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彼〔イエスの遺体〕が盗まれたことを告げた)(V, 5, 16 も同様)
37)
„Heliand“
成立は 830 年頃で、言語は古低ドイツ語の中の古ザクセン語 (Altsächsisch)。
イエスの生涯を物語にした叙事詩。作者は無名の僧侶と考えられている。
38)
ザルツブルクの大司教アーダルラム(Adalram, 836 年没)がルートヴィヒ・ドイツ王
(876 年没)に贈ったラテン語の筆者本の余白に書き込まれたもので、世界の終末と最後
の審判を描いた叙事詩。言語はバイエルン語。
39)
同様のことは『ヘーリアント』の(380)にも言える。そこでは sô filu wintro endi sumaro
「多くの冬と夏〔年月〕」が用いられている。
- 128 -
第3章
中高ドイツ語の現在完了形
この章で明らかにしたいことは、現在完了形の意味機能が中高ドイツ語期に現代英語の
現在完了形のそれに類似する段階に達していたということである。すなわち、 13 世紀初
頭の文献に現れる現在完了形は、完了後の結果存続(これは古高ドイツ語にすでに現れて
いる)、「~しつづけている」のような事態の継続、「~したことがある」のような経験、
あるいは語彙的ではない間接的な基準時(以下の説明を参照)との関連を表すことが可能
であり、また、共起する時間副詞類においては、「今」のような発話時、あるいは発話時
直前、「これまでずっと」のような発話時までの持続的時間、「かつて」のような不定の
過去時、「今日」のように発話時に近接する特定の過去時を表すものは可能であるが、
「昨日」のような発話時から切り離された特定の過去時を表すものは現れない。
ここでこうした現在完了形の意味機能を表現する装置として、Reichenbach (1947: § 51)
による英語の時制記述を導入したい。これは、発話時 (point of speech: Sprechzeit)、事態
時 (point of event: Ereigniszeit)、基準時 (point of reference: Referenzzeit) の三つの時間の組
合せによって各時制形式を規定するもので、現在完了形は発話時=基準時、事態時<基準
時と規定される(A < B は A が B よりも前にあることを表す)。
E
S, R
(E = 事態時, S = 発話時, R = 基準時)
では、中高ドイツ語の現在完了形の各用法を同じように図式で表すとどうなるか。まず、
「事態完了後の結果状態の存続」は、英語で someone has broken her doll「誰かが彼女の
人形をこわした」のような表現で「人形」が基準時(=発話時)において「こわれたまま
の状態」にあることを意味する (Leech 1994: 39)。これは次のように表される。
E
S, R
ここでは E「こわす」の完了後の結果状態「こわれている」が S = R まで持続すること
が表されている。この場合、結果状態が残っていることが重要であり、E が具体的にどの
時点に置かれるかは問題ではない。
また事態の継続は、we've lived in London since last September「私たちは去年の 9 月から
ロンドンに住んでいる」のような表現で「住む」という事態が基準時(=発話時)まで持
続していることを意味する (ibd. 36) 。これは次のように表される。
E
S, R
ここでは E「住む」という事態そのものが S = R まで持続することが表されている。こ
の場合、E の開始点は明らかである必要はない。
経験とは、have you ever been to America?「あなたはこれまでアメリカに行ったことが
- 129 -
あるか」のような表現において基準時(=発話時)までのどこかの時点に「アメリカに行
く(いる)」という事態が存在するかどうかを問題にすることを言う。これは次のような
表される。
E
S, R
ここでは、S = R までのいずれかの時点に E「行く(いる)」という事態の時点が存在す
ることが表されている。この場合、E が具体的にどこに置かれるのかは明らかでなくとも
よい。
最後に、基準時との間接的な関連とは、I've had a bath「私は風呂に入った」のような表
現において基準時との、語彙的ではない、何らかの関連が認められることを言う。すなわ
ち、この表現において基準時(=発話時)における状態は必ずしも明らかではない。一つ
の可能性として「風呂に入ったので今綺麗だ」という状態があるということが考えられる
が、このような状態は look at you! you've just had a bath and now you're filthy「ちょっと。
あなたは風呂に入ったばかりだというのにもう汚れているじゃないの」のように裏切られ
る可能性がある (柏野 159)。しかしこの場合も、現在完了形の文は、基準時(=発話
時)における「汚れている」という状態に対する発話者の感情(ここではおそらく不満)
の根拠を表す。そういう意味で基準時(=発話時)との関連は間接的ながら保たれている。
これは次のように表される。
E
S, R
ここでは E「風呂に入る」という事態が S = R と何らかの関連を保つことが表されてい
る。
このように各用法を図式化してみると、すべて事態時と発話時との関係で表すことがで
き、基準時 R は必要なのかということが問題になる。基準時を用いるべき一つの理由は
これによって過去完了形との連動が表されるということである。
過去完了形は事態時<基準時<発話時と規定される。
E
R
S
すなわち、過去完了形が表す「過去の過去」は R という過去時の前に E という過去時が
あることを意味する。そしてこのように R を導入することで、現在完了形と過去完了形
がどちらも E < R という共通点を持つことが示される。
基準時を用いるべきもう一つの理由は、現在完了形が未来完了形的な意味で用いられる
場合があるからである(例えば、morgen hat er es geschafft「明日には彼はそれをすませて
いる」)。これは次のように図式化される。
- 130 -
S
E
R
この場合、発話時とは異なる基準時が必要となる。このように、基準時を導入する方が現
在完了形を統一的に規定できる。ただし、現在完了形において発話時=基準時となるのは、
未来を表す副詞句や文脈がない場合のいわばデフォルト値である。未来完了形的な意味で
現在完了形が用いられる場合は発話時<基準時となるので、厳密には、現在完了形は事態
時<基準時、基準時は発話時より前ではない(E < R, ¬ R < S, (¬ は否定記号))と表され
るべきである。
なお柏野 (ibd. 171 f..) は、上に挙げた各用法には「現在との関連性」という点で強弱の
段階があると言う。すなわち、「現在との関連性」は「完了後の結果状態の存続」 1)「事
態の継続」「経験」の順で弱くなる。この「現在との関連性」の段階は現代英語の共時的
な面から言われていることであるが、興味深いのは、ドイツ語の現在完了形の通時的発達
もこの順で進んでいったと推定されるということである。すなわち、まず完了後の結果状
態の存続の用法が生じ、そこから継続の用法が生まれ、さらに継続の用法から経験の用法
が発達した。ただし、柏野においては「現在との関連性」という観点でこれらの用法の段
階を規定しているが、ドイツ語の現在完了形の歴史的発達においては単純に「現在との関
連性」が強いものから弱いものへと発達していったとは言えない。それは結果論であり、
具体例を見る際にはその意味的連動にも注意を向ける。
以下、中高ドイツ語の現在完了形における過去分詞になる動詞の制限について述べた上
で、具体的な例を挙げて現在完了形の各用法を考察する。用例の出典の年代は、『ウィー
ン版創世記』Wiener Genesis が 11 世紀後半、『ロラントの歌』Rolandslied や『皇帝年代
記』Kaiserchronik, 『ローター王』König Rother が 12 世紀後半、『ニーベルンゲンの歌』
Nibelungenlied, 『トリスタンとイゾルデ』Tristan und Isold (引用では Tristan と略す), 『パ
ルツィヴァール』Parzival が 13 世紀初頭、『異教の姫』die Heidin, 『パリの学徒』Schüler
von Paris が 1300 年頃である。
1. 過去分詞の動詞の種類
Grønvik (1986: 30 f.) は、 haben + 過去分詞の発展は過去分詞を形成する動詞の種類に
よって六段階に分けられると言う。それを以下に示す。
第 1 段階
完了相他動詞
第 2 段階
不完了相他動詞
第 3 段階
目的語のない絶対的用法で用いられる他動詞
第 4 段階
属格や与格を補足語とする自動詞
第 5 段階
補足語なしの不完了相自動詞 (schlafen, weinen, sündigen 等)
第 6a 段階
完了相自動詞(北ドイツ)
第 6b 段階
高地ドイツ語地域では sein + 過去分詞が優勢であったので、完了相自動詞
- 131 -
による haben + 過去分詞は形成されない。
そして Grønvik は、9 世紀初頭の『平民キリスト教徒への鼓舞』Exhortatio において第 1
段階に (ibd.: 35)、870 年頃の『オトフリート福音書』で第 3 段階に (ibd.: 36)2)、1000 年頃
のノートカーにおいて第 4、5 段階に達した (ibd.: 37) と言う。
まず上の発展段階の区分における問題点を指摘したい。上の区分では、第 2 段階で不完
了相他動詞による haben + 過去分詞が形成されたことになっているが、その実例は示さ
れていない。おそらく Grønvik
は、plagen「苦しめる」が geplagt「苦しめられている、
苦しんでいる」を作るように、不完了相他動詞がゴート語においてすでに自律的意味を持
つ過去分詞を形成していた (ibd.: 11) ので、過去分詞が存在する以上、haben + 過去分詞
も形成可能であったと判断したと思われる。しかし実際には、『オトフリート福音書』ま
での haben + 過去分詞は、前章で見たように、事態が焦点化される特殊な結果状態を表
す受動の ist + PP に対応する能動形として形成されたので、不完了相他動詞からは基本
的に作られなかった。これが最初に出現するのは、ノートカーの firkiosan (= verachten),
(gi-)haltan (= halten)(前章「5. ノートカーの完了形」を参照)による例においてであり、
これは上の区分で言えば、weinôn (= weinen), dankôn (= danken), sundôn (= sündigen) 等の自
動詞による例が現れる第 5 段階に当たる。
しかし、ではノートカーにおいてすべての不完了相他動詞による haben + 過去分詞が
可能になったのかと言えば、それも間違いである。例えば、haben
の過去分詞を用いる
haben +過去分詞 (hat gehabt 等) はノートカーには見られない。haben は基本的に不完了
相他動詞であるので、不完了相他動詞の中で、firkiosan (= verachten) のように haben + 過
去分詞の例がノートカーに現れるものと、haben のようにその例がまだ見られないものに
分けられることになる。後者がいつ現れたのかということは上の区分では示されていない。
haben は、現在完了形が一般的な過去表現として用いられる現代語においても過去形が
よく用いられる動詞に属す。上の発達段階の区分は haben + 過去分詞についてのものだ
が、sein +過去分詞も合わせて考えると、過去表現として過去形がよく用いられる動詞に
は、ほかに sein や受動の werden + 過去分詞の werden や法助動詞も含まれ、これらの完
了形(ist gewesen, ist getan worden, hat tun können 等)もノートカーには現れない。結局、
haben + 過去分詞に限らず、過去形がよく用いられる種類の動詞一般の完了形がノートカ
ーよりも後の中高ドイツ語期の文献に現れるということである。
法助動詞の完了形は中高ドイツ語期にはまだ現れない。受動の werden +過去分詞の完
了形もわずかな例を除いて、頻出するようになるのは初期新高ドイツ語期からである。従
って、ここでは動詞 sein と haben の完了形の例がどのように現れたかを見ていきたい。
1. 1 動詞 sein の完了形(ist gewesen 等)
Oubouzar (1974: 25 f.) は、「継続相動詞の完了形の形成は、13 世紀初頭においてもなお
例外である」と言い、その例として『ニーベルンゲンの歌』における動詞 sein の完了形
を挙げる。その際、『ニーベルンゲンの歌』の sein の完了形は全部で 4 例しかなく、そ
のうち 3 例は接続法であり、また、3 例は過去分詞 gewesen が genesen と韻を踏むために
- 132 -
用いられており、特殊なものであったことを強調している。しかし、Grønvik (1986: 44 f.)
も指摘するように、sein の完了形は(現在完了形ではなく、過去完了形等の形でではある
が)12 世紀の後半にはすでに現れており、13 世紀初頭においてはすでにそれほど珍しい
ものではなかった。(11 世紀後半の『ウィーン版創世記』Wiener Genesis などにはまだ現
れない。)
12 世紀後半の文献に現れる sein の完了形は次のようなものである。
(1) si waren da zedem zagele alle gerne gewesin (Rolandslied 3998)(彼らはみな部隊の最後
尾に残りたかった)
(2) Clêmens der junchêrre, der behielt wol sîn lêre, wande er dâ vor was gewesen, sô wir an
den buochen hôren lesen, drîe tac unt drîe naht daz er mazzes niene pflac (Kaiserchronik 1908)
(若い貴族のクレーメンスは、我々が書物で語るのを聞くところでは、その前に三日三
晩、何も食事をせずにいたので、彼の教えをよく受け入れた)
上の 2 例はどちらも過去完了形であるが、現代語の過去完了形の多くの場合に表される
「過去の過去」ではなく、「いつづけた」「ありつづけた」という継続的事態が表されて
いる。中高ドイツ語の完了形には継続的事態を表すものが多く、それが古高ドイツ語まで
の完了形との違いである(現代ドイツ語でも継続的事態を表す完了形は多くないので、現
代語との違いでもある)。また、上の (1)は願望を表す例であり、願望は中高ドイツ語期
から接続法 2 式による完了形によって表されることが多くなる。
12 世紀後半の文献に現れる最初の sein の現在完了形は次の『ローター王』の例である。
(3) sie nimit michil wunder, daz du so manige stunde in desseme houe heves gewesen vnde sie
ne woldis nie gesen (König Rother 1983 (1991))(彼女はあなたがこんなにも長いこと宮廷
にいて、彼女に会おうとしなかったことにとても驚いている)
この例は sein + gewesen ではなく haben + gewesen の形をとっている。これは、低地ドイ
ツ語では sein が完了形を作る際に助動詞として sein ではなく haben が用いられる傾向が
あり(Grimm (1898: 188) を参照)、『ローター王』が低地ドイツ語的語形を混在させる
文献であるためだと考えられる。ただし、この例も継続的事態を表すことに変わりはない。
13 世紀初頭の文献には sein の完了形の例が多く見られる。まず現在完了形の例を挙げ
る。中心的な用法は、以下に示すように、依然として継続的事態である。
(4) si möhte jedoch erlangen daz ich bin ir gevangen alsus lange hie gewesen (Parzival 327, 5)
(私が彼女の捕虜としてこんなに長くここにいつづけていることは、彼女には退屈だろ
う)
(5) [Isot] kan des ouch billiche vil nach den tagen und nach der vrist, als si derbi gewesen ist
(Tristan 7850)(〔イゾルデは〕彼女がそれ〔学芸〕に携わってきた期間から見ると相当
よくできる)
(6) wir ensin iemer beide der liebe unde der triuwe staete unde niuwe, diu lange und alse lange
- 133 -
vrist so reine an uns gewesen ist (Tristan 18306)(そうすれば、長いこと、こんなにも長い
間私たちのもとにあり続けた愛と忠実を変わらず新たに持ち続けるだろう)
(7) ich weiz wol, daz der guote muot, der dem so lagne unrehte tuot, biz er mit übele unvrühtic
wirt, daz der noch erger übel birt, dan der ie übel ist gewesen (Tristan 17894)(善良な心が、
長らく不当な扱いを受けて、悪の実を結ぶまでになると、ずっと悪かったものよりさら
に悪い実を結ぶことを私は知っている)
また、次のような例は単に過去の事態を表すものと見ることもできるが、あくまで継続的
事態を表すものと見なすことも不可能ではない。
(8) ich weiz wol, ir ist vil gewesen, die von Tristande hant gelesen; und ist ir doch niht vil
gewesen, die von im rehte haben gelesen. (Tristan 131)(私はよく知っている、トリスタン
のことを物語った者は沢山いたが、彼のことを正しく物語った者は多くはいなかったこ
とを)
(9) ir ist und ist genuoc gewesen vil sinnic und vil rederich (Tristan 4724)(彼らの中には非常
に賢く能弁な者が沢山いるし沢山いた)
また、次の例のように反復的事態を表す場合も、継続的事態に近い用法と見ることができ
る。
(10) ich bin ouch dicker da gewesen, da schallen unde hohvart mit solher rede getriben wart
(Tristan 6436)(私は、ほらと傲慢がそのような言い方で示される場に何度も立ち会って
きた)
以上の例は継続的事態を表す sein の現在完了形、あるいはその変種と見ることができ
るが、13 世紀初頭の文献には他の用法で用いられた sein の現在完了形が見られる。その
一つが次の「経験」を表す次の(11)である。
(11) wan ich die stat erkenne und bin ouch eteswenne mit koufliuten hie gewesen (Tristan 8839)
(というのも私はこの町を知っており、ここへ商人たちとかつて一度来たことがあるか
らだ)
「~したことがある」という「経験」の用法においては、基準時(=発話時)までの時間
の中に、ある事態が存在することを表すという意味では基準時との関連を保つが、継続的
事態の場合のような事態の基準時への直接的関連は認められない。その意味で経験の用法
は現在完了形が過去時制化する一つの契機と考えられる。
さらにこの時期の sein の現在完了形の中には、基準時(=発話時)との関連が曖昧で、
もはや間接的としか呼べないような例もある。3)
(12) aber als ich gesprochen han, daz si niht rehte haben gelesen, das ist, als ich iu sage,
- 134 -
gewesen (Tristan 148)(しかし、彼らが正しく語らなかったと私が言ったのは、私はあな
た方に言うように、次のようなことであった)
(13) nu gebarten si zehant, rehte alse der tot ist gewesen und von dem tode ist wider genesen
(Tristan 10785)(すると彼らはすぐに、まるで死んでいて、死から生き返った者のよう
に振る舞った)
(14) wâ sît ir hînt gewesen? (Parzival 250, 12)(あなたは昨夜どこにいたのですか)
特に上の (14)には hînt「昨夜」という特定の過去を示す時間副詞が共起しており、表され
る事態は明らかに基準時(=発話時)との関連を弱めている。ただし、 hînt「昨夜」は
hînaht 「この夜」の意味であり、基準時(=発話時)と近接する過去を表すという意味で、
gestern「昨日」のような発話時から切り離された過去を表す時間副詞とは区別される。
他に 13 世紀初頭の文献における sein
の完了形には、過去完了形の例、助動詞の sein
が接続法の例、完了不定詞の例が見られる。まず過去完了形の例を挙げる。
(15) swaz der Hiunen mâge in dem dsal was gewesen, der enwas nu deheiner dar inne mê
genesen (Nibelungenlied 2008)(フン族のうちその広間に居残った者は、誰もそこで助か
ってはいなかった)
(16) al weinde tâten clagen schîn, die mit dem künec dâ wârn gewesen (Parzival 348, 9)(王
〔リプパウト〕のもとにいたすべての者は泣き嘆いた)
(17) nu daz der herre Riwalin wol und nach grozen eren sin wol driu jar itter was gewesen und
haete wol hin heim gelesen ganzliche kunst ze ritterschaft [...] so greif er Morganen an (Tristan)
(リワリーン殿が首尾よくその偉大な名誉の通り 3 年騎士であり、騎士としての完全な
術をすっかり身につけた後、彼はモルガーンを攻撃した)
(18) der ritter unde der amis was er gewesen manege wis und ouch ze manegem male (Tristan
13128)(彼〔ガンディーン〕は色々な面で何度も彼女〔イゾルデ〕の騎士であり、かつ
崇拝者となっていた)
(19) ouch was vroun Lûneten rât ninder dâ bî ir gewesen (Parzival 253, 11)(ルーネテ夫人の
勧め〔敵と再婚すること〕が彼女〔ジグーネ〕に有効であったことはなかった)
(20) nu vuogete diu lucke und daz vertane stucke und waren alse einbaere, als ob ez ein dinc
waere, als ouch gewesen waren innerhalp zwein jaren (Tristan 10085)(その際、その刃こぼ
れした箇所と忌まわしいかけらはくっつき、2 年もさかのぼらぬときにそうであったよ
うに、一つの物であるかのように一つになった)
(21) in diu venster gein dem luft was gebettet mangem wunden man [...] der was bî den vîenden
gewesen (Parzival 19, 30)(風にあてるために窓に負傷者のためのベッドが置かれていた。
〔……〕彼らは敵の中にいたのである〔戦ったあとであった〕)
上の (15)-(18)は継続的事態あるいは反復的事態を、 (19)は経験を表し、(20), (21)は基準時
との関連が間接的であり、いわゆる「過去の過去」を表す例と見ることができ、現在完了
形の場合と同じような用法が認められる。
今度は助動詞の sein が接続法の例を以下に挙げる。
- 135 -
(22) und wære sîn tûsent stunde noch alse vil gewesen, und solt' der herre Sîfrit gesunder sîn
gewesen, bî im wære Kriemhilt hendeblôz bestân (Nibelungenlied 1126)(もしそれ〔宝〕が
千倍あったとしても、もし王者ジーフリトが健やかであったなら、クリエムヒルトは何
も手にせず彼のもとにとどまっただろう)
(23) waere er ir aller kint gewesen, sin leit enwaere in allen nie naher gegangen, danne ez gie
(Tristan 7382)(もし彼〔トリスタン〕が彼ら〔国の民〕の子であったとしても、彼の苦
しみがそのときほど彼ら皆の胸にこたえることはなかっただろう)
(24) dri süne, waere ich gewesen bi in, daz eteslicher under in drin iezuo wol ritter waere
(Tristan 4133)(三人の息子は、もし私が彼らのもとにいたなら、そのうちの一人は今き
っと騎士になっているだろうに)
(25) waere Tristan hir gewesen, uns enwaere niht ze dirre vrist so misselungen, alse ez ist
(Tristan 14122)(もしトリスタンがここにいたら、このとき我々はこのように失敗して
いないだろう)
(26) waer ich senfte alse ein ander man gewesen, ine waere niemer genesen (Tristan 9231)(も
し私がほかの男のように柔であったら、もう助かってはいないだろう)
(27) waere er von ere gewesen, ern waere niemer genesen (Tristan 16145) (もし彼〔トリス
タン〕が青銅でできていたとしても、決して生き延びてはいなかっただろう)
(28) ja waeren s'alle samet gewesen, der künic, der si uz sande, sin rat von dem lande, die
boten gouche unde soten, waeren s'also gewesen boten (Tristan 8624/8628) (もし彼らがその
ような使者だったとしたら、それを送った王も、助言をした国の者も、使者も皆すべて
馬鹿で間抜けだったことになろう)
(29) mîn hêrre der grâf Wertheim waer ungern soldier dâ gewesen (Parzival 184, 5)(私の主君
ヴェルトヘイム伯もここで傭兵ではありたくなかっただろう)
(30) haeten s'ieman suo z'in zwein an die geraden schar gelesen, so waere ir ungerade gewesen
(Tristan 16856)(もし彼ら〔トリスタンとイゾルデ〕が偶数の固まりをなす自分たち二
人に誰かを選んで加えていれば、彼らは半端な奇数になっていただろう)
(31) Kyôt der meister wîs diz maere begunde suochen in latînschen buochen, wâ gewesen
waere ein volc dâ zuo gebaere daz ez des grâles pflaege unt der kiusche sich bewaege (Parzival
455, 2)(賢い詩人キオートは、純潔を心に決めて聖杯を守るにふさわしい民がどこにい
たのかと、ラテン語の書の中に探した)
(32) in vrâgt der vürste maere, welh sîn ruowe waere des nahtes dâ bî im gewesen (Parzival
169, 8)(立派な領主は彼に、昨夜の休息はどうであったか尋ねた)
そして最後に完了不定詞の例を挙げる。
(33) und wære sîn tûsent stunde noch alse vil gewesen, und solt' der herre Sîfrit gesunder sîn
gewesen, bî im wære Kriemhilt hendeblôz bestân (Nibelungenlied 1126)(もしそれ〔宝〕が
千倍あったとしても、もし王者ジーフリトが健やかであったなら、クリエムヒルトは何
も手にせず彼のもとにとどまっただろう)(= (22))
- 136 -
(34) ich wæne uns ungelîche hînat sî gewesen (Nibelungenlied 652)(昨夜私たちは互いに違
う状況にあったと私は思う)4)
(35) da wolden genuoge vil gerne sin gewesen als er (Tristan 3707)(それで多くの人は非常
に強く彼のようにありたいと思った)
以上の例から 13 世紀初頭には動詞 sein の完了形はそれほど特殊な形式ではなくなって
いたことが確認できる。
1. 2 動詞 haben の完了形(hat gehabt 等)
Oubouzar (ibd. S. 37) によれば、sein と同じく継続相動詞である動詞 haben の完了形
(hat gehabt 等) は、13 世紀初頭の『ニーベルンゲンの歌』には存在せず、14 世紀初頭の
Heidin 『異教の姫』に 1 例見つかる (下の用例(36)) 。確かに、『ニーベルンゲンの歌』
だけでなく、筆者が調べた『トリスタン』や『パルツィヴァール』、さらに 13 世紀後半
のコンラート (Konrad von Würzburg) の諸作品にも動詞 haben の完了形は現れない。5) 文
学作品に haben の完了形が現れるのは、Oubouzar の言うように 14 世紀初頭以降のようで
ある。以下、(36)(37)が現在完了形、(38)が過去完了形の例である。
(36) der hât umb dich grôze nôt gehabet und vil bœser zît (Heidin6) 1222) (彼はお前のため
に多大の苦難と苦渋の時を味わった)
(37) sit so groze freude wir han gehabt an lebene, so wil ich wegen ebene min leben zu diner
7)
not und wil mit dir sterben tot (Schüler von Paris 514) (私は人生においてそんなにも大き
な喜びを手にしたのだから、その私の命をあなたの苦しみと等しくし、あなたとともに
死にましょう)
(38) waz si freuden het gehabt, damit ir herze was gelabt von hunger senlicher ger, nu lief es
allez widerker (Schüler von Paris 303)(彼女が喜びとして手に入れ、それによって彼女の
心が求めてやまない渇望から癒されたものが、今やすべて逆のものになった)
文学作品にはこのように haben の完了形は 1300 年頃までは現れないが、下の例が示す
ように、実用散文である証文 (Urkunde) には 13 世紀中の文献にその存在が確認できる。
(下例以外に Originalurkunden Nr. 95, 151, 172, 215, 222, 226 等も参照。)
(39) alse von vnses alden herren tiden vnse alderen gehat hebbet (Originalurkunden Nr. 2:
1227)(我々のかつての市参事会員の時代より我々の父祖が保ってきたように)
(40) [ich] han daz Lehen iezu zwai iare in miner gewalt gehabt (Originalurkunden Nr. 23:
1252-1254)(私はその封土をこれまで二年間自分の支配下に置いてきた)
(41) verderfenisse schülden inde schaden die vonse brüdere beide arme inde richgen hie vormalis
haint gehat (OU Nr. 53: 1261-1269)(我らが兄弟が、貧しき者富める者どちらもが、かつ
て受けた害、罪過、損害)
(42) von der stöss wegen · so wir mit dem erwirdigen in got Abt Eberharten vnd mit dem
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Gotczhus ze Stain sant Benedicten ordens gehebt habind (Originalurkunden Nr. 108: 1267)(我
々がシュタインの聖ベネディクト会の尊敬すべき修道院長エーベルハルトとその聖堂と
間で持った衝突のために)
従って、動詞 haben の完了形は 13 世紀中には実用散文の世界で用いられ始め、1300 年以
降に韻文の文学作品にも用いられるようになったと言える。その意味で、haben の完了形
は中高ドイツ語期中の 14 世紀には、かなり広く使用されていたと推定できる。ただし、
明らかに動詞 sein の完了形の使用より遅れていることも確かである。この時期の差の理
由は明らかではない。
1. 3 過去分詞の動詞の種類と「文法化」
ここで完了形を形成する動詞の種類と文法化の関連について述べておきたい。文法化
(Grammatikalisierung)とは、Meillet (1912) を端緒とする術語であり、自律的な意味を持
つ言語表現が時を経て、その語彙的意味を失い、ある文法範疇の機能を担うようになるこ
とを言う。8) 例えばフランス語 „pas“ の元来の意味は「一歩」「歩み」であるが、„ne ...
pas“
の形で「否定」という文法範疇を表す構成素となり、この形ではその元来の意味を
失った。ドイツ語の完了形について言えば、少なくとも『タチアーン』においては、その
構成素である haben/sein と過去分詞のそれぞれが自律的・語彙的意味を有し、その構成素
を分解して解釈することが可能であったが、現代ドイツ語の „er hat in Deutschland
gewohnt“ のような表現においてはもはや、haben (あるいは sein) と過去分詞を分離して自
律的意味を求めることはできない。それでは、ドイツ語の完了形はいつ文法化されたのか。
この点について Oubouzar (1974) は「継続相動詞の完了形の形成は、13 世紀初頭におい
てもなお例外である」(ibd. S. 25) と言い、「haben + 過去分詞の形式の第二の重要な上昇
は 15 世紀と 16 世紀初頭の間に生じる。この時期にこの動詞形の完全な文法化がなされた。
そのことは、法助動詞に対する完了形の形成 (hat/het tuon mügen, 44 例) に示される」(ibd.
S. 81) と結論づける。そしてこの Oubouzar の調査結果と見解を要約して Ebert (1978: 59)
は「haben + 過去分詞の形式の発展の道のりは数世紀を越える。〔……〕〔11 世紀以降
の〕数世紀の間 haben + 過去分詞の形が継続相動詞において現れることはまれであり、
haben のその形式 (hat gehabt) や法助動詞のその形式 (hat tun wollen) は 16 世紀になって初
めて頻出するので、この時代になってようやくこの構造が完全に文法化されたということ
ができる」と述べる。さらに、この Oubouzar および Ebert の見解を踏襲した記述は、
Betten (1987: 105) にも見られる。
能動の sein + 過去分詞がいつ文法化されたかについては Ououzar は明確には言及して
いない。しかし、上で見たように動詞 sein の完了形 (ist/war gewesen 等) が 13 世紀初頭
の Nibelungenlied には、特殊な形でしか現れないと説明し (ibd. S. 25 f.)、また「動詞
haben と sein に対しては、すでに 15 世紀の初頭にいくつもの例が見られたが、16 世紀に
なって初めて本当に数が多くなる」(ibd. S. 52) と述べているので、sein + 過去分詞も 1500
年頃までは完全には文法化されていなかったと考えていたと推測される。
haben + 過去分詞、sein + 過去分詞のいずれにおいても、「完全な文法化」の時期が初
- 138 -
期新高ドイツ語期であるならば、中高ドイツ語期の完了形はまだ不十分にしか文法化され
ていなかったことになる。しかし、haben + 過去分詞が完了形として文法化された時期を
15 世紀から 16 世紀の初頭に置く Oubouzar の根拠は、法助動詞による完了形の形成が可
能になったことである。つまり現代ドイツ語で haben + 過去分詞を形成する動詞の制限
がなくなり、ほぼすべての動詞から完了形を形成することが可能になったということがこ
の形式の文法化の証拠である。この基準は適切であろうか。
ある表現が文法化に至る段階として例えば Heine (2003: 579) は次のような3段階モデ
ルを提示する。
第1段階
文法化のために新たに使用される言語表現 A が存在する。
第2段階
その表現が第2の使用パターン B を要求し、それによって A と B の間に曖昧
性が生じるという影響が出る。
第3段階
最終的に A は消失する。つまり B のみが残る。
これを完了形に当てはめると、第1段階は本動詞であった sein/haben
ついて完了形として用いられ始める段階、第2段階は sein/haben
形の助動詞としても用いられる段階、第3段階は sein/haben
が過去分詞と結び
が本動詞としても完了
が最早本動詞としては用い
られず、専ら完了形の助動詞としてのみ用いられる段階ということになる。そして、もし
このモデルで最終段階の第3段階を「完全な文法化」の段階と見なすならば、 sein/haben
は現代ドイツ語においても本動詞としても用いられるので、15, 16 世紀は勿論、現代にお
いても完了形はまだ「完全な文法化」には達していないことになる。つまり、過去分詞と
して使用される動詞の制限解除が「完全な文法化」の基準とはならない考え方も可能だと
いうことである。
実際、何をもって「完全な文法化」と認定するかという基準の決め方によってその時期
はどのようにでも変わる。例えば、上のモデルで「曖昧性」がなくなった時期を「完全な
文法化」の時期と見なし、英語の have 受動やドイツ語の bekommen 受動のように haben
+過去分詞において文主語と過去分詞の事態の動作主が一致しないことを「曖昧性」と見
るならば、そのような例は古高ドイツ語から皆無であるので、haben +過去分詞は古高ド
イツ語期にすでに「完全に文法化」されていたことになる。
あるいは、構成素の自律的・語彙的意味への還元が不可能であることを「完全な文法
化」と呼ぶならば、『オトフリート福音書』の haben + 過去分詞にはすでに haben と過去
分詞を分離して意味を解釈することが不可能な例が存在し、自律的意味を持つと解釈不可
能な過去分詞の例はノートカーに見られるので、やはり古高ドイツ語期末期か中高ドイツ
語期には haben + 過去分詞は完了形として文法化されていたということも可能であろう。
尤も、構成素の自律的意味への還元が不可能な例しか存在しないことによって「完全な文
法化」の時期を認定するならば、現代語においても完了形はまだ「完全な文法化」に至っ
ていないと言うこともできる。
おそらく Oubouzar は、現代語と同レベルに達したことを「完全な文法化」という言い
方で表したのだと思われるが、いずれにしても、ここで中高ドイツ語において完了形が
「完全な文法化」に達していたとか、いなかったとか言うことにはあまり意味がない。む
- 139 -
しろここで主張したいことは、中高ドイツ語期の現在完了形は現代英語の現在完了形と類
似する意味を獲得していたということである。これは現在完了形が「単なる過去表現」へ
と意味を拡張する際に、その前段階として英語の現在完了形に相当する意味を表す時期が
存在するという仮説を導く。そしてこの仮説は、より広い言語一般において、現在完了形
的な表現が現代英語の現在完了形のような意味を表す段階を経た上で初めて過去表現へと
発展するという仮説の可能性を示唆する。勿論、この仮説の妥当性は他の言語との比較対
照の上でなければ論ずることはできないが、この仮説は言語における現在完了形の過去時
制化という一般的問題を取り扱う際の一つの指標になると思われる。
2. 現在完了形の意味機能
中高ドイツ語の現在完了形は「完了後の結果状態の存続」「事態継続」「経験」「基準
時との間接的な関連」といった用法を持つと述べたが、それらの具体的な例を以下で見て
みたい。
2. 1 完了後の結果状態の存続を表す現在完了形
事態が完了したあとにその結果状態が基準時(=発話時)まで残っていることを表す現
在完了形は、古高ドイツ語において完了形の成立の時点で完了形の中心的用法として用い
られた用法である。これは現代語においてもなお使用されており、中高ドイツ語でもこの
用法の例は珍しくない。
(43) du hâst sus manec vingelîn an dînen lîp gebunden (Parzival 123, 22)(あなたはそんなに
もたくさんの指輪を体に結びつけている)
(44) hort der Nibelunge beslozzen hât sîn hant (Nibelungenlied 774)(彼〔ジーフリト〕の手
はニベルンクの宝を保有している)
(45) ich hân erkant von kinde die edelen künege hêr (Nibelungenlied 1147)(私はその高貴な
妃のことを子供の頃から知っている)
(46) als ich von kinde han vernomen (Tristan 18656)(私が子供の頃から聞いて知っている
ように)
(47) uns ist komen Sîfritm der helt ûz Niderlant; in hât mîn bruoder Gunther her ze Rîne
gesant (Nibelungenlied 549)(ニーデルラントの英雄ジーフリトが我々の所へやって来た。
私の兄グンテルが彼をこのラインへ遣わしたのだ)
この用法には発話時直前の事態の完了を表すものも含まれ、中高ドイツ語には「今」を表
すような副詞と共起する例が多く見られる。
(48) same hat er nu getan mines segines (Wiener Genesis 2406)(同じように彼〔ヤコブ〕
は今私の祝福をした〔騙して奪った〕)
(49) nu ich gelebet hân daz daz min sun Ioseph noh nist tôt nieht (Wiener Genesis 5013)(今
- 140 -
私は我が息子ヨセフがまだ死んでいないことを聞き知った)
(50) nu hân ich wol erfunden diu degenlîchen werc, daz ir von wâren schulden muget landes
herre wesen (Nibelungenlied 500)(今私は、あなたがまさしく領主になりうるほどの勇ま
しい働きをとくと知りました)
(51) nu habt ir'z vür war vernomen, daz hie zesamene waeren komen under einem helme
ieweder sit vier ritter oder vier riter strit (Tristan 6897)(今あなた方は、どちらの側も一つ
の兜のもとに四人の騎士、あるいは四人の騎士の戦隊がここに集まったと確かに 聞い
た)
(52) nu han ich rede genuoge von guoter liute vuoge gevüegen liuten vür geleit (Tristan 823)
(今や私は優れた人々の技量について礼儀正しい人々に十分話をした)
(53) waz ich noch her gelebt hân, sô rehte unmügelîch gehôrt ich klage nie mêre, als ich nû hân
vernomen (Nibelungenlied 2336)(私がこれまでどんな経験をしてきたとしても、今私が
聞いたほどの尋常ではない嘆きを私は聞いたことがない)
(54) dise hunde, disen hirz und dise liute, die verlos ich hiute. nu han ich s'aber vunden
(Tristan 2779)(これらの犬、この鹿、これらの人々を私は今日見失ったが、今それを見
つけた)
(55) nu habet ir al min dinc vernomen (Tristan 3122)(今やあなた達は私についてすべて聞
きました)
(56) nu habet ir mir wic vür geleit, dar zuo bin ich noch unbereit (Tristan 6405)(今あなた達
は私がまだ準備していない戦いを私に申し出た)
(57) dise niuwe meisterschaft, als wir nu ze hove sin komen, die habe wir gar von ime
genomen (Tristan 3291)(この新しい技量、私たちは今宮廷に来たが、それを今彼から学
んだ)
(58) die sint nu, vrouwe, komen (Nibelungenlied 509)(彼らは今やって来た)
(59) nu ist mir liebe daran geschehen (Nibelungenlied 790)(今それで私に対し親切がなされ
た〔それは私にとって嬉しいことだ〕)
(60) min ader brast, da gieng ez van. diu ist kume iezuo verstanden (Tristan 15217)(私の血
管が破れてそこからそれ〔血〕が出たが、今何とか止まった)
2. 2 事態の継続を表す現在完了形
上の完了後の結果存続を表す現在完了形においては、基準時(=発話時)まで持続する
のは結果の状態であり、事態そのものではない。それに対し、中高ドイツ語の現在完了形
には過去分詞の動詞の表す事態そのもののが基準時まで持続することを表す用法が非常に
多く見られる。
(61) hast du auer noch ieht gehalten des ich scule walten? (Wiener Genesis 2406)(それでも
あなたは私が持つべき〔祝福の〕何かをまだ保持してはいませんか)
(62) er scol alles des leides irgezzen des er sich nu lange hât frezzen (Wiener Genesis 4903)
(彼〔ヤコブ〕は、これまでずっと苦しんできた苦痛をすべて忘れることになる)
- 141 -
(63) got hât zorn behalten gein in alze lange dâ (Parzival 493, 28)(神は彼らに対しあまり
にも長く怒りを保ち続けている)
(64) hât noch ir schœner lîp behalten iht der zühte, der si wol kunde pflegen (Nibelungenlied
771)(あの美しい人〔クリエムヒルト〕は、かつてよく保っていたたしなみをまだ保っ
ていますか)
(65) swelh priester sich hât sô bewart daz er dem kiusche kan gegeben, wie möht der
heileclîcher leben (Parzival 502, 20)(自分の純潔を彼〔神〕に捧げることを守り続ける司
祭は、それ以上に神聖な生活を送ることができるだろうか)
(66) ez machet trûric mir den lîp, daz alsô mangiu heizet wîp [...] daz die gelîche sint genamt,
des hât mîn herze sich geschamt (Parzival 116, 12)(こんなにも多くの女が「女」と呼ばれ
るのは私には悲しいことだ。〔……〕それらの人が等しく〔女と〕名づけられているこ
とを私の心は恥ずかしく感じてきた)
(67) alles mînes trôstes des bin ich eine bestân (Nibelungenlied 2329)(私は私の助けとなる
ものすべてがない状態にある)
この事態の継続を表す現在完了形に関して注目すべき点が二つある。その一つは、この
用法が古高ドイツ語には多くは見られなかったということである。過去分詞はゴート語以
来、非完了相の継続的事態を表す他動詞からも形成可能であったので、理論的にはこの用
法の haben +過去分詞は古高ドイツ語に現れてよいはずであった。しかし前章で述べた
ように、完了形は事態が焦点化される特殊な結果状態を表す形式として発達したので、事
態そのものが持続することを表す用法は初めは現れなかったと考えられる。
この用法は次のような例がもとになって拡大したと考えられる。
(68) der chaiser ist hie gesezzen siben unt mere (Rolandslied 3746)(皇帝はここに七年以上
座している)
上の (ge-)sitzen
は「坐る」という完了相動詞としても「坐っている」という非完了・継
続相動詞としても用いられた。これが完了相動詞である限り、上の例は結果状態の存続を
表すが、これが非完了相動詞と解釈されれば、事態継続を表す用法の例ということになる。
前章で見たように、すでに古高ドイツ語には lig(g)an (現代語の liegen「横たわってい
る」に相当するが、この時代は「横たわる」「死ぬ」を意味した) による完了形の例が見
られるが、このような動詞が非完了相としても用いられるようになるのに伴って、その完
了形が事態継続を表すと解釈されるようになったと考えられる。その意味で、上で見たよ
うに、この時代に sein の完了形 (ist gewesen 等) が表れ、それが最初は事態継続を表すも
のであったということも、上の (68)のような例からの類推によって生じたと考えれば、自
然に理解できる (Grønvik 1986: 43 f. を参照)。
いずれにしても、完了形が事態完了後の結果状態しか表さないとすれば、過去分詞とし
て用いられる動詞は、ノートカーに見られたように、非完了相動詞の場合があるとしても、
その数は多くなく、基本的に完了相の動詞に限定されるが、継続的事態を表す完了形は非
完了相の動詞の過去分詞から作られるので、この用法が発達した中高ドイツ語の完了形に
- 142 -
はこれまで用いられなかった多くの動詞が現れた。例えば次のような例がそれに当たる。
(69) dv hast gote wol gedienet (Rolandslied 941)(あなたは神によく仕えてきた)
(70) sît daz ich alêrste iuwer gesinde wart, sô hân ich iu mit triuwen gedienet (Nibelungenlied
1283)(私が最初にあなたのお供になって以来私はあなたに忠実に仕えてきた)
(71) wir suln in langer dienen, den wir alher gevolget hân (Nibelungenlied 699)(我々はこれ
まで従ってきた人々に今後も仕えるのだ)
(72) underwise in ouch dar an: die mir habent gedienet her, daz er mich an den gewer einer
bete und keiner me (Tristan 7477)(また彼〔ルーアル〕に次のようにするよう言ってくれ。
つまり、私にこれまで仕えてきた人々に報いることで、彼が私のたった一つの願いを叶
えることになると)
(73) sus gewan ich in mit noeten an diz selbe cleine schiffelin und so vil spise dar in, daz ich ir
han biz her gelebet (Tristan 7595)(こうして私は苦労してこの小舟と、私がこれまで生き
ることができただけの食糧を彼らから手に入れた)
(74) er'n sol des niht engelten, hab' ich Prünhilde iht getân. daz hât mich sît gerouwen
(Nibelungenlied 894)(私〔クリエムヒルト〕がプリュンヒルトに何かしたとしても、彼
〔ジーフリト〕がそれを償うにはあたらない。それ以来私はあのことを後悔している)
(7) ich weiz wol, daz der guote muot, der dem so lagne unrehte tuot, biz er mit übele unvrühtic
wirt, daz der noch erger übel birt, dan der ie übel ist gewesen (Tristan 17894)(善良な心が、
長らく不当な扱いを受けて、悪の実を結ぶまでになると、ずっと悪かったものよりさら
に悪い実を結ぶことを私は知っている)
つまり事態の継続を表す完了形は、過去分詞として用いられる動詞の種類の拡大を促した
と言える。
事態の継続という用法における第二の注目点は、この用法が現代ドイツ語ではそれほど
多くは見られないということである。単に基準時までの事態の継続を表すためには、現代
ドイツ語では多くの場合、現在形(基準時が過去にあれば過去形)を用いる。つまり、こ
の用法は、ドイツ語の完了形の歴史において中高ドイツ語期から初期新高ドイツ語期まで
という限定された時期にのみ多用されたということである。このことは、現在完了形が結
果状態を表す用法から単なる過去表現へと意味の拡張を果たす過程が一直線の意味拡張と
は見なされないという重大な結論を導く。すなわち、中高ドイツ語の現在完了形は現代語
のそれに至る単なる通過点ではなく、別個の一つの段階として取り扱わねばならないとい
うことである。
以下、この用法に関するいくつかの注意点を挙げる。
まず、事態の継続を表す現在完了形は her「これまで」や lange 「長らく、ずっと」等
の副詞を伴う場合が多い。
(75) ouch hânt ir alten mâge noch her daz selbe getân (Nibelungenlied 1148)(彼らの近親の
者は昔からずっとこれまで同じことをしてきた)
(76) nu habt ir uns, edel Rüedegêr, allez her geseit, ir woldet durch uns wâgen die êre unde
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ouch das leben (Nibelungenlied 2148)(高貴なリュエデゲール、あなたはこれまでずっと
私たちに、私たちのために名誉と命を賭けるつもりだと言ってきた)
(77) nu daz diu guote marschalkin [...] des suns ze kirchen solte gan, von dem ich her gesaget
han, si selbe in an ir arm nam (Tristan 1960)(立派な主馬頭夫人が、私がこれまで述べて
きた 息子のために教会へ行かねばならなくなったとき、彼女は彼を自らその腕に抱い
た)
(78) wir zwei wir haben liep unde leit mit solher gesellekeit her unz an dise stunde braht
(Tristan 18325)(私たち二人はこれまで、この時まで喜びも苦しみもこうして一緒に担
ってきた)
(79) der getriuwe Rual [...] der michel triuwe und ere hat mit dir begangen unze her (Trisan
5145)(あなた〔トリスタン〕に対し忠誠と名誉をこれまで示してきたルーアル)
(80) der unz her gevrumet hat daz laster und daz ungemach, daz disen zwein landen ie
geschach (Tristan 6470)(これまで両国〔コンウォールとイングランド〕に生じた恥辱と
屈辱を今まで引き起こしてきた〔モーロルト〕)
(81) nu nemet in iuwer sinne, wie luterliche minne wir haben geleitet unze her (Tristan 18273)
(私たちがこれまでどれほど純粋な愛を抱いてきたか覚えておいて下さい)
(82) iuwer kiel und iuwer liute [...] sint mit micheler not her unze an dise naht beliben (Tristan
10731)(あなたの船にいる人たちはこれまでの今夜まで大いに苦しみながら留まってき
た)
(83) wie het ich daz verdienet [...] des mîn vater lange mit êren hât gepflegen, daz wir daz
solden vliesen von iemannes kraft (Nibelungenlied 112)(私の父が名誉を持ってずっと守っ
てきたものを、私たちが他人の力によって失うような目に会わねばならないことがどう
してあるだろうか)
(84) die ich von herzen minne und lange hân getân, diu ist mir noch vil vremde
(Nibelungenlied 136)(私が心からずっと慕い、そうし続けている姫はまだ私にとって他
人だ)
(85) wie habt ir sô verkêret die vrœlîchen sit, der ir mit uns nu lange habt alher gepflegen?
(Nibelungenlied 154)(あなたが私たちとともにこれまでずっと保ってきた陽気な振る舞
いをどうして変えたのでしょうか)
(86) ich hân ûf êre lâzen nu lange mîniu dinc unde hân in volkes stürmen des besten vil getân
(Nibelungenlied 2028)(私はこれまでずっと名誉に自分をかけてきた。そして民族の戦い
で多くの最高のことをなしてきた)
(87) dâ wart vil voller dienest mit grôzem vlîze getân, sô man ze hôhzîten lange hât gepflegen
(Nibelungenlied 805)(そこで、人が祝宴においてずっと行っているように、十分な給仕
が入念に行われた)
(88) ist iht des under disen geschehen, des ich mich lange han versehen, wie ligent s'alsus
danne? (Tristan 17520)(私がずっと恐れていたことがもしこの者たちのあいだで起こっ
たいたとすれば、どうして彼らはこのように寝ているのか)
(89) ich hân dich doch sô lange mit grôzem jâmer gesehen (Nibelungenlied 1246)(私はあな
たをとても悲しい気持ちでずっと見てきた)
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(90) ich han lange vil anclich und vil ange mine marschandise in armeclicher wise durch dinen
willen her getriben (Tristan 4336)(私はこれまで長いことあなたのために注意深く熱心に
慎ましくではあったが商売を行ってきた)
(91) nimet mich immner wunder [...] daz er dir sô lange den zins versezzen hât (Nibelungenlied
825)(彼〔ジーフリト〕が こんなにも長い間 貢ぎ物を 怠ってきた ことは不思議なこと
だ)
(92) sô nemt ez hînte als wirz gedolt hie lange hân (Parzival 190, 4)(私たちがここで長いこ
と耐えてきたように、あなたも今夜は我慢して下さい)
(93) er hât uns nu vil lange lützel dienste getân (Nibelungenlied 724)(彼〔ジーフリト〕は
私たちにもう長いこと奉仕していない)
(4) si möhte jedoch erlangen daz ich bin ir gevangen alsus lange hie gewesen (Parzival 327, 5)
(私が彼女の捕虜としてこんなに長くここにいつづけていることは、彼女には退屈だろ
う)
(6) wir ensin iemer beide der liebe unde der triuwe staete unde niuwe, diu lange und alse lange
vrist so reine an uns gewesen ist (Tristan 18306)(そうすれば、長いこと、こんなにも長い
間私たちのもとにあり続けた愛と忠実を変わらず新たに持ち続けるだろう)
(94) der stolze künec Hardîz hât mit zorne sînen vlîz nu lange vaste an mich gewant (Parzival
65, 5)(誇り高い王ハルディースはこれまで長らく執拗な怒りを私に向けてきた)
(95) ich han iu nu lange ergeben beidiu leben unde lip (Tristan 18298)(私はあなたにこれま
で長いこと命も体も捧げてきた)
(96) wir haben manegen sûren tac mit nazzen ougen verclaget (Parzival 190, 1)(私たちは多
くの辛い日を目を涙に濡らして嘆いてきた)
(97) ich hân gedienet mîniu jâr nâch lône diesem wîbe (Parzival 202, 6)(私は生涯報酬を求
めてこの女性に仕えてきた)
事態継続の現在完了形においては、通常、表される事態が基準時まで続き、それがまだ
終結していないことが表される。しかし中には、その事態の継続が基準時の直前で終結し、
基準時にはその事態は存続していない場合もある。
(98) sin meister und sin arzat, der sin biz her gepflegen hat, der hat in uz der pflege gelan
(Tristan 7754)(彼〔トリスタン〕をこれまで世話してきた医者の先生も彼の世話を止め
た)
(99) lât uns an im dienen, daz er ie hât begân an uns vil grôze triuwe und an manegem andern
man (Nibelungenlied 2262)(彼〔リュエデゲール〕が私たちや多くの他の者たちに非常な
忠実をずっと示してきたことに対し、彼に報いさせて下さい)(注・リュエデゲールは
すでに死んでいる)
(100) sus bin ich eine sider geswebet mit marter und mit maneger clage wol vierzic naht und
vierzic tage, swar mich die winde sluogen, die wilden ünde truogen wilent her und wilent hin.
und enkan niht wizzen, wa ich bin (Tristan 7596)(こうして私はその後一人で、風と荒れる
波が私を時にこちら時にあちらへと押しやり運ぶまま、苦痛と悲嘆の中で約 40 昼夜漂
- 145 -
っていた。それで私は自分がどこにいるのか分からない)
事態継続の用法に連動する用法として事態の反復を挙げることができる。次の例は事態
継続と事態反複が連動することを示す例である。
(101) ouch han ich dise lere niht vil manegen tac getriben und zware ich bin derbi beliben
under malen kume siben jar oder lützel mere (Tristan 3671/3672)(私はその教えに多くの日
々従事してきたわけではなく、実際、せいぜい七年か、もっと短い間、時折そうしてい
た)
事態の反復を表す現在完了形は dicke「しばしば、たびたび」のような副詞を伴う場合
が多い。
(102) daz habet ir dicke vernomen (Tristan 13048)(そのことはあなた達は何度も聞いてい
る)
(103) durch daz han ich im dicke mit manegem lüggem blicke, mit herzelosem munde betrogen
sine stunde (Tristan 13992)(そのために私は何度も多くの嘘のまなざしと心のこもらぬ口
で彼〔トリスタン〕の時間を費やさせた)
(104) ich han doch dicke daz gelesen (Tristan 19432)(私は何度もそれを読んだ)
(105) sô wil ich jagen rîten bern unde swîn hin zem Waskenwalde, als ich dicke hân getân
(Nibelungenlied 911)(それで私は何度もやってきたように、ワスケンの森へ熊や猪を狩
りしにいこうと思う)
(106) ich han iuch an dem libe so dicke gesundert (Tristan 16567)(私はあなた達の体をこ
れほどたびたび引き離しておいた)
(107) iuwer süeze blicke han ich gescheiden dicke und enkan doch an iu beiden der liebe niht
gescheiden (Tristan 16572)(あなた達の甘い見つめ合いを私はたびたび引き離してきたが、
それでもあなた達二人の愛を引き離すことはできない)
(108) ich hân dicke prîs bezalt und manegen ritter ab gevalt (Parzival 135, 3/4)(私は何度も
勝利の誉れを勝ちえ、多くの騎士を打ち倒してきた)
(109) sol ich alle vrist [...] dem lieben namen genade sagen, der mir so dicke hat gegeben
wunne unde wunneclichez leben (Tristan 19039)(私に何度も歓喜と喜ばしい命を与えてく
れたその愛らしい名に永遠に感謝を述べよう)
(110) ez ist an manegen wîben vil dicke worden scîn, wie liebe mit leide ze jungest lônen kan
(Nibelungenlied 17)(愛の喜びが最後には苦しみで報いられるかもしれないことは多くの
女においてもう何度も明らかになっている)
(111) des snîdet in kein wâfen; daz ist dicke worden scîn (Nibelungenlied 100)(それでどん
な武器も彼を切ることない。それは何度も明らかになっている)
(112) dâ ich dicke bin erbeizet und dâ man mich hêrre heizet, dâ heime in mîn selbes hûs, dâ
wirt gevröut vil selten mûs (Parzival 184, 29)(私がいつも馬から下り、人が私を主人と呼
ぶ我が家では、ねずみが喜ぶことはない)
- 146 -
(113) wîp sint immer wîp: werlîches mannes lîp hânt si schier betwungen: in ist dicke alsus
gelungen (Parzival 450, 5)(女はいつでも女だ。どんな豪勇の男も女はすぐに征服してし
まう。そうして女は何度も成功してきた)
(10) ich bin ouch dicker da gewesen, da schallen unde hohvart mit solher rede getriben wart
(Tristan 6436)(私は、ほらと傲慢がそのような言い方で示される場に何度も立ち会って
きた)
(114) mich hât der ber und ouch der hirz erschrecket dicker denne der man (Parzival 457, 26)
(人間よりも熊や鹿の方が私を驚かせることが多かった)
(115) ahi [...] daz ir ze minen dingen so mit arge sprechende sit der noete, der ich ze maneger
zit durch iuwer minne erliten han (Tristan 9861)(ああ、私があなたへの愛のために何度も
被ってきた苦しみについて、あなたがそのように悪意を持ってお話しになるとは)
(116) ich han [...] mit herzelosen ougen, mit lügelichem munde dicke und ze maneger stunde an
in gewendet minen vliz niuwan durch den itewiz (Tristan 13985)(私は心のこもらぬ目と嘘
の口で何度も数多く、ただ非難を避けるために彼〔トリスタン〕に気を遣ってきた)
(117) man hat den zins nu manegen tac von hinnen und von Engelant z'Irlanden ane reht gesant
(Tristan 6267)(人々はこれまで長い間当地とイングランドからアイルランドへ正当な理
由なく貢ぎを送ってきた)
(118) ich han iu hundert tusent stunt vriundes gebaerde vor getan durch die liebe, die ich han
ze dem, edn ich da lieben sol (Tristan 14776)(私は、私が愛すべき人に対する愛のために、
何十万回あなたに対して親しい態度を取ってきた)
(119) ouch hân ich sît von tage ze tage vürbaz erkennet niuwe clage (Parzival 252, 26)(私は
あれからまた日々新たな嘆きを覚えている)
事態反復の用法においても、事態継続の場合と同様、反復される事態が基準時の前で終
結している場合がある。
(120) wer wîset nû die recken sô manege hervart, alsô der marcgrâve vil dicke hât getân
(Nibelungenlied 2260)(今や誰が、辺境伯がたびたびしてくれたように武士たちの多くの
行軍を導くのか)(注・辺境伯リュエデゲールはすでに死んでいる)
2. 3 経験を表す現在完了形
過去の事態は古高ドイツ語以来、過去形によって表されてきた。従って、現代ドイツ語
では通常、現在完了形によって表される「~したことがある」「~したことがない」とい
う「経験」も従来は過去形で表された。それは主として、完了相動詞(および非完了相動
9)
詞が接頭 ge- の付加によって完了相動詞化したもの )の過去形によって行われ、その状
況は中高ドイツ語期においても続いていた。しかし一方、現代語で行われるように、現在
完了形によって「経験」を表すことは、中高ドイツ語期にはかなり一般的になっている。
(121) nu nim dinen pogen der dich selten hat petrogen (Wiener Genesis 2238)(あなたを裏切
- 147 -
ったことのない弓を取れ)
中高ドイツ語における「~したことがない」という経験の否定を表す現在完了形の特徴
は、否定辞として selten が用いられることが多いということである。selten は本来「滅多
に~しない」を意味するが、中高ドイツ語でこれが現在完了形で用いられると、「一度も
~しない」を表す。
(122) ich hân doch selten vrouwen wâpenroc an gesehen tragen (Parzival 270, 4)(私は婦人が
そのような軍衣を着ているのを見たことがない)
(123) ich hân iu selten iht verseit (Nibelungenlied 2151)(私はあなた方の願いを拒んだこと
はない)
(124) mîner muomen man Gandîn hât in gevüeret selten ûz (Pazival 50, 2)(私の伯母の夫ガ
ンディーンはそれ〔錨の紋章の盾〕を携えて出陣したことはない)
(125) ir sult noch hie bestân; wand ich sô lieber geste selten hie iht gewunnen hân
(Nibelungenlied 1688)(あなた方はなおここにとどまって頂きたい。というのも、私はこ
れほど好ましい客をここで迎えたことがないのです)
(126) nu wol mich dirre geste [...] daz mir koment ze hûse dise recken hêr, den ich noch vil
selten iht gedienet hân (Nibelungenlied 1648)(私がまだ役に立ったことのない立派な武士
が私の家に来るとは、私には嬉しい客だ)
(127) nu hân ich selten hie gesezzen bî deheinem man (Parzival 438, 20)(私はここでは男の
人のそばに坐ったことはない)
(128) ez ist selten wîbe mêr geschehen in slâfe kumber dem gelîch (Parzival 104, 18)(眠りの
中でこれほどの不安が女の身に起こったことはない)
(129) daz ist mir selten worden kunt (Parzival 130, 16)(そのようなことは私は味わったこ
とはない)
(130) gestrichen varwe ûf daz vel ist selten worden lobes hel (Parzival 551, 28)(肌に塗った
色は賞賛されたことはない)
(131) ich zeig' iu einen wirt, daz ir ze hûse selten sô wol bekomen birt in deheinem lande
(Nibelungenlied 1638)(私はあなた方に、あなた方がいかなる国でもこれほどよく迎えら
れたことはないというほどの主人を紹介しよう)
(132) deheiner hovereise bin ich selten hinder in bestân (Nibelungenlied 1788)(どんな宮廷へ
の旅にも私は彼ら〔グンテルたち〕につかずに居残ったことはない)
selten は dicke「しばしば、たびたび」の否定形である。だとすると、selten による経験の
否定の用法は、上で見た事態反復の用法の否定形として生まれたと考えることができる。
すなわち、「~することがこれまでたびたびあった」の否定形が「~することがこれまで
ほとんどなかった」→「~することがこれまでないのが普通であった」→「~することが
これまで一度もなかった」を表すというような意味の連関を経て、selten が経験の否定を
表すのに多用されるようになったと考えられる。
現在完了形が selten
以外の否定辞によって経験の否定を表す場合も、上で見た事態継
- 148 -
続の用法との連動が窺われる。経験の否定を表す否定辞として selten 以外には nie も用
いられる。(現代語から見れば、nie は経験の否定を表す中心的な副詞のように思われる
が、中高ドイツ語には selten ほど多く用いられない。)
(133) wir haben in aller wîle mêre nie gesehen geste hie sô gerne (Nibelungenlied 1184)(私
たちは他のあらゆる時にここでこれほど喜んで客と面会したことはない)
(134) wande ich in manegen zîten nie gesehen hân sô bitterlîch erzürnet sô manegen ritter guot
(Nibelugenlied 1986)(というのは、私はこれほど多くの優れた騎士がこれほど激しく怒
っているのを長い間見たことがないので)
(135) daz ist mir nie geswichen in aller dirre nôt (Nibelungenlied 2185)(これ〔剣〕はこの
苦境のあいだ中私に背いたことはない)
(136) im hât der künic Etzel nie sô liebes niht vernomen (Nibelungenlied 1714)(エッツェル
王はこれほど喜ばしいことを聞いたことがない)
nie は ie「これまでずっと」の否定形である。つまり、nie による経験の否定の用法は、
「これまでずっと~してきた」の否定形として「これまでずっと~してこなかった」「こ
れまでずっと~しない状態が続いてきた」→「これまで~したことがない」を表すという
ような意味連関から生じたと考えられる。
また、次のような例も事態の継続と経験の用法が連動していることを示す例と見なすこ
とができる。
(137) ie noch hat nieman vernomen, waz er welle an gan (Tristan 8898)(これまでまだ誰も、
彼〔トリスタン〕が何にとりかかろうとしているのか聞いていない)
(138) ichn hân michs niht genietet, als ir mirz, vrouwe, bietet, mîns lebens mit sölhen êren
(Parzival 33, 21)(女王様、あなたが私にお示しになっているほどのものを、私は生涯そ
れほどの名誉をもって味わったことはありません)
(139) [ir] habet an ir noch niht erkant, daz wider ir eren müge gesin (Tristan 18392)(〔あな
たは〕彼女〔イゾルデ〕の名誉に反するようなことをまだ彼女に認めていない)
(140) ich hân sô lieber geste harte wênic noch bekant (Nibelungenlied 1410)(私はそれより
好ましい客とまだ知り合ったことはない)
(141) swaz ich noch her gelebt hân, sô rehte unmügelîch gehôrt ich klage nie mêre, als ich nû
hân vernomen (Nibelungenlied 2336)(私がこれまでどんな経験をしてきたとしても、今私
が聞いたほどの尋常ではない嘆きを私は聞いたことがない)
(142) wirn sehen si noch baz z'ende gan, swaz du biz da her hast getan, daz ahte wir ze nihte
(Tristan 3070)(我々がそれ〔自分たちとは違う技〕をもっとよく最後まで見なければ、
君がこれまで何をしてきたとしても、それを我々は決して重視しない)
(143) habt ir si ie gesehen, des sult ir mir, Hagene, der rehten wârheite jehen (Nibelungenlied
83)(もしお前が彼らを これまでに見たことがある のなら、ハゲネよ、その本当のこと
を私に言ってくれ)
- 149 -
しかし、中古ドイツ語の経験を表す現在完了形には、事態の反復や継続の用法との連動
が強くは認められない例も存在する。
(144) ich hân ouch ê versuochet sam sorclîchiu dinc (Nibelungenlied 2030)(私は同様の危険
を以前にもおかしたことがある)
(145) ich wil kêren in diu lant. ich hân ouch ê ein teil gevarn (Parzival 8, 9)(私は諸国へ赴
くつもりだ。私は以前にも少し旅をしたことがある)
(146) ich hân iuch ê gesehen (Parzival 258, 5)(私はかつてあなたに会ったことがある)
(147) wan ich die stat erkenne und bin ouch eteswenne mit koufliuten hie gewesen (Tristan
8839)(というのも私はこの町を知っており、ここへ商人たちと かつて一度来たことが
あるからだ)(= (11))
(148) ichne hân ir keinen ê gesehen (Parzival 83, 22)(私は以前に彼らの誰にも会ったこと
がない)
(149) deheinen mînen dienest hân ich in widersaget (Nibelungenlied 2160)(私は彼らにいか
なる奉仕も拒んだことはない)
(150) ine hân iu niht verseit (Nibelungenlied 156)(私はあなたに背いたことはない)
(138) ichn hân michs niht genietet, als ir mirz, vrouwe, bietet, mîns lebens mit sölhen êren
(Parzival 33, 21)(女王様、あなたが私にお示しになっているほどのものを、私は生涯そ
れほどの名誉をもって味わったことはありません)
(151) ine han sin selbe niht gesehn (Tristan 4732)(私は彼〔フェルデケのヘインリヒ〕に
会ったことはない)
このような経験の用法の拡大は、現在完了形の過去時制化という点で重要な役割を果た
す。すなわち、こうした「経験」は「基準時(=発話時)までの経験」を意味するという
点で確かに基準時との関連を保持するが、その関連はもはや直接的なものものではない。
事態完了後の結果存続の用法では、過去分詞がその基準時における状態を表す。この場合、
過去分詞自体が語彙的にその状態を明示する。事態の継続を表す用法においては、過去分
詞自体が語彙的に事態の継続を表すとは言えない例が現れる(例えば ist gewesen
等。
gewesen という過去分詞は元々自律的意味を持つものとしては形成されず、完了形の中で
初めて用いられるようになった)。しかしこの場合でも、基準時までその事態が持続する
という意味で基準時への事態の直接的関連は保たれている。それに対し、経験を表す用法
においては、最早、基準時に直接つながる状態や事態は存在しない。従って、経験の用法
における基準時への関連の弱化は現在完了形の過去時制化という点で他の用法よりも先進
性を示す。
2. 4 基準時との間接的な関連を表す現在完了形
中高ドイツ語の現在完了形には、さらに、時間表現としてほとんど単に過去を表すと思
われるような例が存在する。
- 150 -
(152) sol Artûs dâ von prîs nu tragen, daz Kai durch zorn hât geslagen ein edele vürstinne
(Parzival 221, 20)(ケイエが怒りから一人の高貴な公妃を殴ったことによってアルトゥ
ースが名誉を受けることがあるだろうか)(注・「殴った」時点は 151
節で、ずっと
以前のことであり、その物理的痕跡が発話時点で残っているわけでもない)
(153) ôwê wer hât dich geslagen? (Parzival 276, 4)(ああ、誰がお前を殴ったのか)
(154) ich hân ouch manege tjoste getân vor dem berc ze Fâmorgân (Parzival 496, 7)(私はフ
ァーモルガーン山の麓でもたくさんの一騎打ちを行った)
(155) dâ bin ichz diu magt diu dir ê kumber hât geclagt, und diu dir sagte dînen namen
(Parzival 252, 11)(私は、かつてあなたに悩みを訴え、あなたにあなたの名前を言った
娘です)
(156) saget an [...] wie habet ir vertriben sit iuwer stunde und iuwer zit (Tristan 14947)(お前
がそのあとどのように自分の時間を過ごしたのか言ってくれ)
(157) svare ist uns getroumet, leider niemen uns iz skeidet (Wiener Genesis 3881)(私たちは
いやな夢を見たが、残念ながら誰もそれを私たちに解き明かしてくれない)
(158) vil gern' ich iuch gesehen hân (Nibelungenlied 1656)(私はとてもあなた方に会いたか
った)
(13) nu gebarten si zehant, rehte alse der tot ist gewesen und von dem tode ist wider genesen
(Tristan 10785)(すると彼らはすぐに、死んでいて、死から生き返った者のように振る
舞った)
(14) wâ sît ir hînt gewesen? (Parzival 250, 12)(あなたは昨夜どこにいたのですか)
(159) dô dir got vünf sinne lêch, die hânt ir rât dir vor bespart. wie was dîn triuwe von in
bewart an den selben stunden bî Anfortases wunden? (Parzival 488, 26)(神はお前に五感を与
えたが、それはお前に助言を怠ったのか。お前がアンフォルタスの傷を目にした際、ど
うしてその五感によってお前の誠実な心が起こらなかったのか)
(160) sô tiwer ist wol mîn man, daz ich in âne schulde niht gelobet hân (Nibelungenlied 819)
(私の夫はとても高貴な方なので、私は彼を理由なく賞賛しなかった〔賞賛したのは当
然である〕)
(161) ez ist an sînem lîbe al mîn vreude gelegen (Nibelungen 1055)(私の喜びのすべては彼
にかかっていた)
(162) hie ist von tjost gelegen Segramors ein strîtes helt, des tât gein prîse ie was erwelt. du
taete ez ê Keie wart gevalt (Parzival 305, 2)(ここで、ずっとその行いが栄誉を受けるほど
卓越した勇猛な戦士であったゼグラモルスは一騎打ちで倒れた。あなたはそれをケイエ
が倒される前に行った)
この用法の一つの源泉は、古高ドイツ語以来見られる完了形の用法、すなわち、完了後の
結果状態が物理的に目に見えるようなものではなく、抽象的な過去分詞によるものである。
(163) vmbe daz hat got des gedaht daz er mich here fure gesentet hât (Wiener Genesis 4868)
(それゆえ神はそのことを考えた。すなわち、彼は私を先にここに遣わされたのだ)
(164) ich getuon noch den degenen, als ich hân ê getân (Nibelungenlied 885)(私がかつてや
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ったようにあの戦士たちにやってやる)
(165) vor allen mînen mâgen sult ir die krône tragen alsô gewalteclîche, als ir ê habt getân
(Nibelungenlied 1086)(すべての我が一族の前でお前は以前そうしたように王冠を戴くの
だ)
(166) ein wîp die ich ê genennet hân, hie kom ein ir kappelân (Parzival 76, 1)(私が前に挙げ
た婦人、その人のもとから司祭がやって来た)
この場合、過去分詞の表す結果状態自体が抽象的であるので、基準時における状態も具体
的ではなく、過去における事態が焦点化されやすい。
しかし、中高ドイツ語には、過去分詞の語彙的意味から考えれば結果状態の存続を表す
と思われるような例が結果状態を表さない場合がある。
(167) heim ze mînem hûse ich si geladet hân, trinken unde spîse ich in güetlîchen bôt und gap
in mîne gâbe (Nibelungenlied 2159)(私は彼らをわが館に招き、懇ろに酒肴をふるまい、
引出物を贈った)(注・「わが館」は話し手のいる場所にはなく、招かれた者がそこに
今いるわけでもない)
(168) ez ist dem künege Artûs ûf sînen hof unt in sîn hûs sô manec werder man geriten
(Parzival 152, 9)(アルトゥース王の宮廷や館には多くの優れた者たちが馬でやって来
た)(注・「王の宮廷・館」に「優れた者たち」がいるわけではない)
こうした用法の拡大には、経験の用法の拡大が大きく関与していると思われる。上で述べ
たように、経験の用法においては依然として基準時への関連は完全には失われてはいない
が、その関連は具体的な状態や事態ではないからである。
(147) wan ich die stat erkenne und bin ouch eteswenne mit koufliuten hie gewesen (Tristan
8839)(というのも私はこの町を知っており、ここへ商人たちと かつて一度来たことが
あるからだ)
しかし、こうした基準時への関与が曖昧な用法においてもなお、基準時への関与がまっ
たくないわけではない。
(169) ir sult gedenkenm des mir swuor iuwer hant: swenne daz vrou Prünhilt kœme in diz lant,
ir gænet mir iuwer swester. war sind die eide komen? ich hân an iuwer reise michel arbeit
genomen (Nibelungenlied 608)(あなたが手で誓ったことを思い出して下さい。プリュン
ヒルト妃がこの国に来れば、あなたは私にあなたの妹を下さるということでした。その
誓いはどこへ行ったのでしょう。私はあなたの旅行ではたくさん苦労を したのです)
上の (169)では、「私はあなたの旅行ではたくさん苦労をした」という文は、「グンテル
にその妹のクリエムヒルトとの結婚を認めさせる」ということの理由を表す。そういう意
味で基準時への関連は保たれている。
- 152 -
2. 5 非過去を表す現在完了形
すでに古高ドイツ語にも現れていたが(第2章の例 (58)(118)(144) を参照)、現在完了
形が過去ではなく、無時間的・未来的事態を表す場合がある。これは未来完了形的な現在
完了形と呼ぶことができる。これは多くの場合、「~すれば~したことになる」のような
条件と帰結の形を取るが、現在完了形はその条件部と帰結部のどちらにも現れうる。
(170) diu nie gegruozte recken, diu sol in grüezen pflegen, dâ mit wir haben gewunnen den vil
zierlîchen degen (Nibelungenlied 289)(武者に挨拶をしたことのない女に挨拶させる。そ
れで我々はあの立派な勇士を手に入れたようなものだ)
(171) dâ habt ir mîner swester vil liebe an getân (Nibelungenlied 547)(そうしたらあなたは
姉をたいそう喜ばせることになる)
(172) sô hâstu mînen willen sô rehte verre getân (Nibelungenlied 1151)(そうしたらあなた
は私の願いを非常にきちんと果たしたことになる)
(173) wirdet der dîn man, sô hâstu mînen willen mit grôzen triuwen getân (Nibelungenlied 612)
(彼〔ジーフリト〕がお前の夫になれば、お前は私の意志を忠実に 果たしたことにな
る)
(174) welt ir für si gân, ir habt mîner muoter willen gar getân (Nibelungenlied 1452)(もしあ
なたが彼女〔ウオテ〕の前に参上するとしたら、あなたは私の母〔ウオテ〕の意志をき
ちんと行ったことになる)
(175) ist daz ich under wegen si vier tage oder dri, zehant enbite min nime [...] so han ich eine
daz wip verzinset mit dem libe (Tristan 8725) (もし私が三、四日行ったままということに
なれば、即座に私を待つことはやめよ。そうすれば私一人だけがその女のために命を捧
げたことになる)
(176) wiltu, so han ouch ich'z getan (Tristan 10652)(あなたが望むなら、私もそれを行
う)
(177) daz er wol möhte rîten in Etzelen lant, daz rieten im die besten, die er dar under vant, âne
Hagen eine. dem was ez grimme leit. er sprach zem künige tougen: «ir habt iu selben widerseit
[...]» (Nibelungenlied 1458)(彼〔グンテル王〕がエッツェルの国に赴くのがよいとその
場にいる最も優れた者たちは彼に勧めた。ただ一人、それをひどく苦痛に思うハゲネを
除いて。彼〔ハゲネ〕は王に密かに「あなたは自分自身と戦うことになる」と言った)
(178) der gibe ich dir swie vil du wilt. da mite han ich dir wol gespilt (Tristan 3736)(それ
〔服や馬〕をあなたが望むだけあげよう。そうすれば私はあなたを十分に楽しませたこ
とになる)
(179) wirt disem unsaeligen man, der nie saelde gewan, disiu saelege maget, so ist im elliu
saelde ertaget, diu ime odr dekeinem man an einer maget ertagen kan (Tristan 9786)(この幸
福の娘が幸福を手に入れたことのないこの男のものになるとすれば、彼あるいはとにか
く男に現れうる、娘によってもたらされる幸福のすべてが彼に現れたことになる)
(180) sol si in danne minnen [...] sô ist iu aller êrste von schulden sorgen geschehen
- 153 -
(Nibelungenlied 1205)(もし彼女〔クリエムヒルト〕が彼〔エッツェル〕と結婚するよう
なことがあれば、まずあなたにきっと憂いが生じることになる)
(181) bistu dir selbem also holt und hast du muot, als du solt unde als du mir hast verjehen, daz
han ich schiere an dir gesehen (Tristan 4478)(あなたが自分に忠実であるならば、また、
あなたが持つべき通りの、あなたが私に誓った通りの心をあなたが持つならば、それを
私はすぐにあなたに見るだろう)
(182) lat mich also lange leben, daz ich iu antwürte müge geben. da nach habt ir mich schiere
erslagen (Tristan 12797)(私があなた達に答える間、私を生かしておいて下さい。そのあ
とは、あなた達はすぐに私を打ち殺せます)
(183) swaz ûf der erde gein iu deheines strîtes pfligt, dem habt ir schiere an gesigt (Parzival
291, 12)(この世の何があなたに戦いを行うとしても、あなたはそれにすぐに勝ってし
まう)
(184) wîp sint immer wîp: werlîches mannes lîp hânt si schier betwungen: in ist dicke alsus
gelungen (Parzival 450, 5)(女はいつでも女だ。どんな豪勇の男も女はすぐに征服してし
まう。そうして女は何度も成功してきた)
(185) hât iu in den landen iemen iht getân, daz hilfet er iu rechen (Nibelungenlied 1917)(もし
あなた方の国で誰かが何かしでかしたら、彼〔エッツェルの息子〕はあなた方がその報
復をする手伝いをする)
(186) und ist aber ez also getan, daz mir in dirre jares vrist gelücke niht geschehen ist, so
muget ir iuch min wol bewegen (Tristan 7462)(しかしもし、今年中に幸運が私に見舞われ
ないということになったら、あなたは私をあきらめてもよい)
(187) über dise siben naht sô künd' ich iu diu mære, wes ich mich hân bedâht mit den mînen
friunden (Nibelungenlied 1450)(七晩過ぎて、私が私の親族と協議したことの内容をあな
たに伝える)
(188) sô man den namen gelesen hât, vor ir ougen si zergât (Parzival 470, 29)(人がその名前
を読むと、それ〔文字〕は目の前から消える)
(189) und alse ir wider komen sit, so lone in also riche (Tristan 7438) (そしてあなたが帰っ
たら、彼らにたっぷりと報酬をやってくれ)
(190) swer sich dienstes gein grâle hât bewegen, gein wîben minne er muoz verpflegen
(Parzival 495, 7)(聖杯への奉仕を決意した者は、女性への愛を放棄しなければならな
い)
(191) so vüeget ir daz, daz ir e vil tougenliche dar sit komen (biz daz han ich urloup genomen)
(Tristan 1561-1562) (そうしたら、私が別れの許しを得るまでに、その前にこっそりそ
こへ来るようにして下さい)
(192) swâ man saget daz von dir diu craft erzeiget ist an mir, daz du mich hâst betwungen, sô
ist dir wol gelungen (Parzival 198, 11/12)(もしあなたが、私を打ち負かしたという力が
あなたにあると私のことで認められると人が言えば、あなたは成功したことになる)
前章(49 頁)で述べたように、この用法における未来性は sein/haben
の現在形が未来
的な意味を持ちうることに由来する。ただし、ここで注意すべきことは、これらの完了形
- 154 -
が事態の完了を表すということである。完了形が事態の完了を表すのは当たり前のことだ
と言う人がいるかもしれないが、この時代、完了形は事態の継続を表す用法も発達させて
いた。もし未来を表す sein/haben の現在形からこの用法が生まれたとしたら、「~し続け
るだろう」「~し続けていれば」のような未来における事態の継続を表す用法も可能なは
ずである。そのような例が存在しない理由は明確ではないが、完了形が未来的な意味で用
いられる場合、それは事態完了後の結果状態の存続の用法の変種だということは確実であ
る。通常の結果状態の存続の用法との違いは、基準時が発話時と一致せずに、発話時以後
の未来に置かれるということだけである。
なお、未来完了形的とも言えないような非過去を表す現在完了形の例もある。
(193) ist hie kein ritter wert, des ellen prîses hât gegert (Parzival 318, 3)(ここにはその闘志
が誉れを求めるようなすぐれた騎士はいないのですか)
(194) nu sît ir alze vruo geriten von mir trôstelôsen man (Parzival 178, 6)(今あなたはあまり
にも早く希望のない私から馬で去っていこうとしている)
ただし、上の (193)は「求め続けている」という事態の継続を表す例かもしれない。 (194)
においても、まだ「馬に乗って行く」という事態は行われていないが、「行きつつある」
という事態の継続の変種として用いられている可能性はある。
2. 6 現在形と対比的に用いられる現在完了形
現在と過去を対比的に表現する場合、現在形と過去形を用いることができる。
(195) diu liehte Isot daz ist ein kint von gebaerden und von libe, daz kint noch maget von wibe
als lustic unde als uz erkorn nie wart noch niemer wirt geborn (Tristan 8260)(輝くイゾルデ
は態度においても容姿においても、女からこれほど優美でえり抜きの男の子も女の子も
生まれたこともなく、これからも決して生まれないような子である)
しかし中高ドイツ語では、過去形の代わりに現在完了形を用いる場合も少なくない。
(196) als uns diu warheit ie hat gesaget und hiute seit, der haete vier manne craft (Tristan 6877)
(確かな言い伝えがこれまでも言い、現在も言っているように、彼〔モーロルト〕は四
人力であった)
(197) swer iu tuot oder hât getân, dâ biute ich gegen mînen schilt (Parzival 24, 26)(あなたに
〔これから〕危害を加え、〔過去に〕加えた者すべてに私は盾をかざして戦う)
(198) ich han von in zwein vil gedaht und gedenke hiute und alle tage (Tristan 12200/12201)
(私は彼ら二人のことを色々考えたし、今日毎日考えている)
(199) diu wunderlîchen underbint, diu du uns vür zelst und hâst gezalt (Tristan 3066)(あなた
が我々に示し、また示した驚くべき違い)
(200) ich sihe und han biz her gesehen so manegen schone redenen man (Tristan 4840)(私は
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能弁な人をとても多く見ているし、またこれまで見てきた)
(201) diu gebet ir unde habet gegeben ze schalken und z'eigen (Tristan 6082)(あなた達は彼
ら〔自分の子供〕を従僕と奴隷として捧げようとし、また捧げてきた)
(202) ouch hat diu liebe einen site, da si sich allermeiste mite verwirret und verworren hat
(Tristan 13831)(また恋愛には一つの特性があり、それによって恋愛は混乱し、また混
乱してきた)
(9) ir ist und ist genuoc gewesen vil sinnic und vil rederich (Tristan 4724)(彼らの中には非常
に賢く能弁な者が沢山いるし沢山いた)
勿論、この用法で現在完了形を用いる場合、現在完了形は上の (196)に見られるように、
単なる過去ではなく、事態の継続や反復を表す場合が多い。その意味で、過去形とは異な
る機能を持つものとして現在完了形が用いられていると思われるかもしれない。しかし注
意しなければならないのは、事態の継続や反復は過去形によっても表すことができたとい
うことである。
(203) wîpheit, dîn ordentlîcher site, dem vert und vuor ie triwe mite (Parzival 116, 13)(女な
るもの、お前のあるところには、〔今も〕誠実がついているし、ずっとついてきた)
従って、この用法で現在完了形が用いられるのは、単に過去形とは異なる表現として現在
完了形が用いられたというのではなく、現在完了形がそれまで過去形が用いられた場面で
使用されるようになったという「侵食」を意味する。
2. 7 過去形と並置される現在完了形
並列する複数の過去の事象を一方は過去形で、もう一方を現在完了形で表すこともある。
まず、まったく同じ動詞が過去形と現在完了形で現れる例を挙げる。
(204) wir suln iu sagen mære, waz iu enboten hât Gunther unde Prünhilt [...] unt ouch, waz
vrou Uote, iuwer muoter, her enbôt (Nibelungenlied 746)(我々はグンテルそしてプリュン
ヒルト様がおことづけになった趣をあなた方にお伝えします。〔……〕そして母后ウオ
テ様のおことづけになったことも)
(205) ich swuor iu, edel wîp, daz ich durch iuch wâgte êre unde ouch den lîp. daz ich die sêle
vliese, des enhân ich nicht gesworn (Nibelungenlied 2150)(お妃様、私はあなたに名誉や命
を賭けるとは誓いましたが、しかし魂を捧げるとは誓いませんでした)
(206) Etzel uns boten sande [...] daz wir zuo z'im solden rîten her in daz lant, ouch hât uns
manigiu mære mîn swester Kriemnilt gesant (Nibelungenlied 1727)(エッツェルは、我々が
この国に来るようにと遣いを送った。我が妹のクリエムヒルトも我々に色々な知らせを
送ってきた)
(207) «[...] wer hât daz getân?» er sprach «daz tet Else [...]» (Nibelungenlied 1625)(「誰がや
ったのだ」〔とグンテルは尋ねた」〕彼〔ハゲネ〕は「やったのはエルゼです」と言っ
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た)
(208) ich hân ouch manege tjoste getân vor dem berc ze Fâmorgân. ich tet vil rîcher tjoste
schîn vor dem berc ze Agremontîn (Parzival 496, 7-9)(私はファーモルガーン山の麓でもた
くさんの一騎打ちを行った。アグレモンティーン山の麓ではたくさんの輝かしい一騎打
ちを行った)(= (154))
また、次の各例は用いられる動詞自体は異なるが、表される事態は同じことを表す例であ
る。
(209) in sluogen schâchære, Hagen hât es niht getân (Nibelungenlied 1046)(彼〔ジーフリ
ト〕を打ち殺したのは盗賊であり、ハゲネはそんなことはしていない)
(210) sîne swester Alîzen gap im der künec von Gascôn: sîn dienst hât vor enpfangen lôn
(Parzival 67, 26)(自分の妹のアリーツェをガスコーネの王は彼に妻として与えた。つま
り大公の奉仕は前もって報酬を得たのだ)
(211) swaz die recken alle in strîte hânt getân [...] swaz si striten nâch êren, daz ist gar ein
wint unz eine an Sîvriden (Nibelungenlied 228)(すべての武士が戦いで何を行ったとして
も、彼らが名誉を求めて何を勝ち得たとしても、それは一人ジーフリトと並べるととる
に足りない)
(212) swaz dâ hât begangen von Metzen Ortwîn [...] dâ tet iuwer bruoder die aller grœzisten
nôt (Nibelungenlied 231)(メッツのオルトウィーンが何を行ったとしても、あなたの兄
は最大の損害を与えた)
(213) gedenket wol dar an, daz ich iu guot unde leben an iuwer ere han ergeben unde
enpfienget mich also (Tristan 10219/10220)(私が財産と命をあなたの名誉にかけてあなた
に委ね、〔あなたが〕そのように私を引き受けたことをよく思い出して下さい)
(214) wenne oder wie kom dirre Franzois in diz lant? wer hât den stolzen her gesant? (Parzival
37, 17/18)(このフランス人はいつ、どうしてこの国に来たのか。誰がこの誇り高い者
を送りこんだのか)
(215) swâ man sluog oder stach, swaz des gein mir ist geschehen, swer mîne varwe wolde
spehen, diu waene ich ie erbliche von slage oder von stiche (Parzival 299, 20)(どこで人が剣
で打ち槍で刺し、そのことで私に対して何が生じ、誰が私の顔色を見ようとしたときで
も、私はそのような剣や槍の攻撃で青ざめたことはない)
これらの例においても現在完了形が単なる過去表現として用いられるというわけではな
く、むしろ過去形が発話時との関連を持つ場合でも使用されていたと見るべきであろう。
しかし、現在時との関連が強い場合に現在完了形が用いられることが多くなると、その分、
過去形の使用は制限されることになる。次の例においても現在完了形は、事態の継続や反
復、結果状態の存続など、あくまで現在完了形の用法で用いられているが、過去形を用い
てもよさそうな箇所にも現在完了形が現れており、現在完了形による過去形の侵食が見て
取れる。
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(216) diz weiz ich wol, wan ich was da. ich han ouch in der wilde dem vogele unde wilde, dem
hirze unde dem tiere über manege waltriviere gevolget unde nach gezogen und aber die stunde
also betrogen, daz ich den bast noch nie gesach. min arbeit und min ungemach daz was ane
aventiure. ich vant an der fossiure den haft und sach die vallen; ich bin ze der cristallen ouch
under stunden geweten; ich han den reien getreten dicke dar und ofte dan. ine gerouwet aber
nie dar an. und aber den esterich da bi [...] den han ich so mit triten zebert [...] ouch han ich
an die liehten want miner ougen weide vil gewant und han mich oben an daz goz [...] mit
blicken vil gevlizzen, miner ougen vil verslizzen an der gezierde dar obe [...] diu sunnebernde
vensterlin diu habent mir in daz herze min ir gleste dicke gesant. ich han die fossiure erkant
sit miner eilif jaren ie und enkam ze Curnewale nie (Tristan 17100-17138)(私がこのことをよ
く知っているのは、そこへ行ったことがあるからだ。私も荒れ地で鳥や猟獣、牡鹿や牝
鹿を多くの森林中追い、探し回ったが、時間を空費して、大したものも見つけたことは
ない。私の苦労と苦しみは幸運を得なかった。私は洞窟で留め金を見つけ、掛け金を見
た。私は水晶〔の寝台〕のところへも何度も行った。私は何度も輪舞のステップを踏ん
でそこへ近づき、またそこから離れた。が、私はそこで休んだことはない。しかしその
近くの床は足で踏み荒らした。〔……〕私はまた、何度も明るい壁に目の楽しみを振り
向け、上の継ぎ目に目を向けるよう努め、上の飾りを見るのに目をすり減らした。〔…
…〕陽光の射す窓は何度も私の心の中にその輝きを送った。私はその洞窟を十一の年か
らずっと知っているがコンウォールへ行ったことはない)
また、13 世紀の証文 (Urkunde)
には次のような定型文書化された表現がよく見られれ
るが、これは (217)(218)のように現在完了形で書かれることもあれば、 (219)(220)のように
過去形で書かれることもある。
(217) daz ist geschehen nah kristes gepurt MCCLXXVI jar on sant Moricen tag
(Originalurkunden 290: 1276)(これはキリストの生誕後の 1276 年聖モーリッツの日に行
われた)
(218) so hab wir den oftgnanten / dem apte vnd der samnvnge von zwetel / disen prief gegeben
ze einem vrchunde mit vnsern insigelen verinsigelt · von Christes geburtte vber Tovsent iar zwai
hvndert iar in dem ain vnd ahzigestem iar / des nahsten mæntages vor sant Elsbeten tak
(Originalurkunden Nr. 487: 1281)(それで我々は、何度も名を挙げた大修道院長および修
道院ツヴェテルの一同に、この文書を我々の印章で封印された証文としてキリスト生誕
後 1281 年聖エリザベトの日の直前の月曜日に渡した)
(219) Diz geschach nah vnserz herren gebvrt / tusent iar vnd zwai hvndert iar Sibinzig iar in
dem Nv'nden iar / an Sante Pantaleonis tac (Originalurkunden Nr. 389: 1279)(これは我らが
主の生誕後 1279 年の聖パンターレオンの日に行われた)
(220) Dirre brif wart gegeben von gotdes geburte dusent Vnd zweihundert / eines Vnd ahzic iar
/ an deme mantage Vor deme Nontage (Originalurkunden Nr. 469: 1281)(この文書は神の生
誕後の 1281 年昇天祭の前の月曜日に渡された)
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これも現在完了形による過去形の侵食を表す例と言えるだろう。
3. 過去完了形の意味機能
過去完了形の意味機能は現在完了形のそれに準ずる。まず最も基本的な事態完了後の結
果状態の持続を表す例を挙げる。
(221) er hal si sît vil lange, daz er ir hete brâht, unz daz si under krône in sînem lande gie
(Nibelungenlied 684)(彼〔ジーフリト〕はそれからずっと、彼女〔クリエムヒルト〕が
彼の国で王冠を戴くようになるまで、彼女に持ってきたものを彼女に隠し続けた)
(222) dô nam der helt guot den gêr, den si gescozzen im hete durch den rant (Nibelungenlied
458)(そこで勇敢な英雄〔ジーフリト〕は彼女が彼の盾を貫いた槍を取り上げた)
(223) dô riten allenthalben die wege durch daz lant der drîer künege mâge, die hete man besant
(Nibelungenlied 566)(やがて召集を受けた三人の王の家来たちが国中あらゆる方向から
馬で駆けつけた)
(224) dô sprâchen dâ die wîsen, die hetenz baz gesehen (Nibelungenlied 593)(もっとよく見
て知っている経験豊かな者たちは言った)
(225) leit âne mâze sah man die alle haben, die mit im komen wâren von Libelunge lant
(Niebelungenlied 1071)(彼〔ジーフリト〕とともにニベルングの国からやって来た者た
ちが皆激しい苦しみを抱いているのを人々は見た)
また、現在完了形の場合と同様、事態の継続を表す例も存在する。
(226) [si] hete ime weinnent an gelegen unz er ire sculde hate uergeben (Wiener Genesis 1080)
(〔エヴァは〕彼〔アダム〕が彼女の罪を許すまで泣いて彼を責め続けた)
(227) er hete ime lange gedienot (Wiener Genesis 2733)(彼〔ヤコブ〕は彼〔ラバン〕に長
らく仕えていた)
(228) sît si der hôhen verte heten nu gegert, härmîne vederen die dûhten si unwert
(Nibelungenlied 365)(彼らはそのとき高邁な旅を望んでいたので、おこじょの毛皮でも
不足と思われた)
(229) er understuont ir vrâge, der si hete gedâht (Nibelungenlied 684)(彼〔ジーフリト〕は
彼女〔クリエムヒルト〕が考えていた問いを避けた)
(230) Infrit unde Hâwart in den riten. ir heten die von Rîne vil stolzlîche erbiten
(Nibelungenlied 1878)(インフリトとハーワルトは馬に乗って試合に入った。彼らをライ
ンの者たちは堂々と待っていた)
(231) diu vrouwe hete getragen ein kint, daz in ir lîbe stiez, die man ân helfe ligen liez.
ahzehen wochen hete gelebt des muoter mit em tôde strebt (Parzival 109, 2)(女王は一人の子
供を身ごもっていて、それが彼女の体の中で動いた。その子は 18 週生きていて、その
母は死と戦っていた)
(232) da mite haete er wol driu jar vil lobes und eren bejaget (Tristan 18707)(そうして彼は
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ゆうに三年の間多くの賞賛と名誉を勝ち得ていた)
(233) der was der küniginne meister unde gesinde und haete si von kinde gewitzeget sere an
maneger guoten lere (Tristan 7711)(彼は王妃の先生でありかつ従者で、彼女を子供の頃
から様々なよい教えを与えて教育してきた)
(234) diu was ir einegez kint, und haete alle ir vlizekeit sit des tages an si geleit, daz s'iht
gelernen kunde mit handen oder mit munde (Tristan 7722)(彼女〔娘のイゾルデ〕は彼女
〔母のイゾルデ〕の唯一の子であり、彼女〔母〕は、彼女〔娘〕が手や口で学習できる
ようになった日からそのすべての熱意を彼女に向けてきた)
この事態の継続を表す用法においては、現在完了形の場合と同様、基準時の前に事態が
終結している場合がある。
(235) da sciet von maneger nôt, der si dâ truog in herzen und lange het getân (Nibelungenlied
281)(そこで、彼女を心に抱き、またずっとそうし続けてきた者は多くの悩みから離れ
た)
(236) des er da vor ie haete gert, des was er alles do gewert (Tristan 18223)(彼〔マルケ
王〕が以前ずっと望んでいたものを彼はすべて与えられていた)
また、事態の反復を表す例もある。
(237) swer den strît dâ hüebe, sô wære dâ geschehen, daz man den zwein gesellen der êren
müese jehen, wan siz in stürmen hêten vil dicke wol getân (Nibelugenlied 1793)(誰が戦いを
起こしたとしても、この二人〔ハゲネとフォルケール〕に名誉を認めねばならないこと
になっただろう。というのは彼らは戦闘でそのようなことを何度も行ってきたからであ
る)
(238) ouch haete er daz e males dicke wol vernomen, wie schoene und wie vollekomen Isot sin
swester waere (Tristan 7285)(また彼〔トリスタン〕は、彼〔モーロルト〕の妹のイゾル
デがいかに美しく完璧であるかを前に何度も聞いていた)
また、経験を表す過去完了形の例も存在する。
(239) man sach in mit herlichen siten vor aller der herschefte stan. er haete ouch e alsam getan
(Tristan 4050)(人々は彼〔ルーアル〕がとても礼儀正しく高貴な人々の前に立っている
のを見た。彼はかつて同じようにしたこともあったのである)
(240) der hete in manege mîle dâ vor gevourt: er brâhte in dar (Parzival 55, 1)(彼は彼〔ガ
ハムレト〕を何マイルも以前案内したことがあった。その彼が彼〔ガハムレト〕をそこ
へ連れてきた)
経験の用法は事態の継続や反復の用法と連動している。次の例は事態継続と経験の用法
の中間に属すような例である。
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(241) si het in manigen zîten sô lieber mære niht vernomen (Nibelungenlied 554)(彼女〔ク
リエムヒルト〕はこのように嬉しい知らせを長らく聞いたことがなかった)
(242) im was in manigen zîten niht sô lieber mære komen (Nibelungenlied 1641)(彼〔リュエ
デゲール〕にこれほど嬉しい知らせは長いこと来たことがなかった)
経験の否定が表される場合、用いられる中心的な否定辞は selten
である。しかしそれ
以外に nie, (noch) niht 等も用いられる。
(243) daz het in wirt deheiner dâ vor vil selten getân (Nibelungenlied 1660)(そのようなこと
を以前に主人と呼ばれる者が彼らに行ったことはなかった)
(244) die heten in manegen stürmen vil selten sich gespart, des brâhten si wol innen die
Guntheres man (Nibelungenlied 2281)(彼らは多くの戦いにおいて自分を惜しむことはな
かった〔思い切り戦った〕。それを彼らはグンテルの臣下の者たちに分からせた)
(245) er hete solhen dienest vil selten ê getân, daz er bî stegereife gestüende helde mêr
(Nibelungenlied 398)(彼〔ジーフリト〕は他の勇士の鐙の側に立つというような奉仕を
かつてしたことはなかった)
(246) sie sâhen die vil gerne, die si nie heten bekant (Nibelungenlied 277)(彼らは自分たち
がまだ見たことのない婦人たちに会いたかった)
(247) done het man von liuten sô grôzen jâmer nie gesehen (Nibelugenlied 2241)(人々のこれ
ほど大きな悲嘆を人は見たことがなかった)
(248) der künic in erloubte, (des was noch niht geschehen) ob si wolden gerne froun Prünhilde
sehen, daz si für si solden mit sînem willen gân (Nibelungenlied 1485)(王は、それはまだ実
現していなかったが、彼らが王妃プリュンヒルトに会いたいのであれば、彼の意志にお
いて彼らが彼女の前に罷り出てもよいと彼らに許した)
(249) die muosen in des jehen, daz si zer werlde hêten bezzers niht gesehen (Nibelungenlied
370)(人々は彼らに、自分たちはこの世でこれほど上等なもの〔服〕を見たことがない
と認めた)
さらに現在完了形の場合と同様、基準時への関与が曖昧な例も見られる。この場合、過
去完了形は単なる「過去の過去」に近いものを表すと言える。
(250) der wirt dô ze tische mit sînen gesten saz. man bât Sîfride sitzen, als er het' ê getân
(Nibelungenlied 802)(王は客たちとともに席に着いた。ジーフリトには彼が以前にした
のと同様に〔以前座ったのと同じ席に〕座るよう勧められた)
(251) Hagen im diente gerne; er hete im ê alsam getân (Nibelungenlied 1201)(ハゲネは彼
〔リュエデゲール〕に喜んで奉仕した。彼〔リュエデゲール〕は彼〔ハゲネ〕にかつて
同じようにしたのであった)
(252) do erholt' ouch sich dort Hagene, der ê was zetal komen von dem stiche nider an daz graz
(Nibelungenlied 1610)(そこで、前に突かれて草に倒れていたハゲネも立ち直った)
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未来完了形的な現在完了形に対応するような過去完了形も存在する。これは過去におけ
る未来完了形的な過去完了形と見なすことができる。通常の過去完了形の事態時は、それ
を取り囲む過去形(副文であれば主文の過去形、主文であれば前後の過去形)の事態時よ
りも前である。例えば、次の
(225) leit âne mâze sah man die alle haben, die mit im komen wâren von Libelunge lant
(Niebelungenlied 1071)(彼〔ジーフリト〕とともにニベルングの国からやって来た者た
ちが皆激しい苦しみを抱いているのを人々は見た)
においては、過去完了形の「やって来た」という事態は過去形の sah「見た」という時点
よりも前である。それに対し、この用法では、過去完了形の事態時はそれを取り囲む過去
形の事態時よりもあとである。
(253) swer ir minne gerte, der muose âne wanc driu spil an gewinnen der frouwen wol geborn.
gebrast im an dem einen, er hete daz houbet sîn verlorn (Nibelungenlied 327)(彼女〔プリュ
ンヒルト〕の愛を求める者は、確実に三つの競技でその生まれの高い女王に勝たねばな
らなかった。その者がその一つにでも失敗すれば、首を失うことになった)
通常の現在完了形においては基準時が発話時と一致する。それに対し、未来完了形的な現
在完了形においては、基準時が発話時以後の時点に置かれ、事態時が発話時よりもあとに
なる。それと同様、通常の過去完了形においては基準時はそれを取り囲む過去形の文の示
す時点に置かれるが、この用法では基準時がそれを取り囲む過去形の示す時点よりもあと
の時点に置かれる。その結果、事態時は基準時よりは前であるが、それを取り囲む過去形
の文の事態時よりはあとになる。
この過去における未来完了形的な過去完了形の例において目につくのは、schiere「すぐ
に」のような副詞を伴う場合が多いということである。
(254) er spranc im hin engegene: dô het Sigestap verlorn von dem videlære vil schiere dâ daz
leben (Nibelungenlied 2284)(彼〔フォルケール〕は彼〔シゲスタプ〕に跳びかかった。
するとシゲスタプはその楽人によってすぐに命を失った)
(255) der schilt vil gar zerbrast. sich hete gerne errochen der vil hêrlîche gast. dô was
gestrûchet Hagene vor sîner hant zetal. von des slages krefte der wert vil lût' erhal
(Nibelungenlied 986)(盾は完全に砕けた。優れた客〔ジーフリト〕は報復したかった。
そこでハゲネは彼の腕力の前にくずおれた。打撃の力によって岸辺は音高く反響した)
(256) si huop sîn schœne houbet mit ir wîzen hant. swie rôt ez was von bluote, si het in schiere
erkant (Nibelungenlied 1011)(彼女〔クリエムヒルト〕はその白い手で彼〔ジーフリ
ト〕の美しい頭をもたげた。それがどんなに血で赤くなっていても、彼女はすぐに彼だ
と分かった)
(257) dô reit zuo sînem wîbe der recke vil gemeit. schiere hete Hagene dem künige geseit, wie
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er gewinnen wolde den tiwerlîchen degen (Nibelungenlied 915)(そこで自分の妻の所へ恐れ
を知らぬ武士〔ジーフリト〕は馬で向かった。すぐにハゲネは王〔グンテル〕にどうや
って自分がその卓越した戦士を討ち取るつもりか話した)
(258) ez leite sine vare an rede und an gebare ze iegelichen stunden und haete ouch schiere
ervunden die liebe an den gelieben zwein (Tristan 14266)(彼〔小人のメロート〕はあらゆ
る機会に話と態度で追跡し、すぐに愛し合う二人の恋愛関係を見つけ出した)
(259) nu er den helm ze sich gewan [... ] daz er [...] mit der hant den satel ergreif, nu haete in
ouch Tristan erzogen (Tristan 7046)(彼〔モーロルト〕が兜をつけ、手で鞍をつかんだそ
のとき、トリスタンも彼に追いついた)
この schiere「すぐに」という副詞によって基準時がその前にある過去形の示す時点の直
後に置かれ、その時点で事態が完了していることが表される。これは事態の即時完結性を
表すための修辞的な用法ということができる。10)
4. 現在完了形と共起する時間副詞類
上で見たように、中高ドイツ語の現在完了形には基準時(=発話時)との関与が曖昧な、
単なる過去を表すかのような例も存在する。しかし、現代英語の現在完了形と同様、基準
時(=発話時)から切り離された特定の過去を表す時間副詞を伴う例は見られない。
(260) ich kom gestern, hiute bin ich hie worden hêrre überz lant (Parzival 49, 20)(私は昨日
やって来て、今日この国の君主になった)
上の (260)では、hiute「今日」は現在完了形とともに用いられているが、 gester(n)「昨日」
は過去形の文に現れている。gestern
のような発話時から切り離された特定の過去を表す
時間副詞を用いる場合、その文は過去形でなければならない。
(261) gester umbe den mitten tac, do sturm unde wint gelac, do erkante ich berge unde lant
(Tristan 8829)(昨日の正午頃、嵐と風が止んだとき、私は山と陸を認めた)
中高ドイツ語の現在完了形と共起する時間副詞類は「今」のように発話時そのもの、あ
るいはその直前を表すもの、「これまでずっと」のように発話時までの持続的時間を表す
もの、「かつて」のように不定の過去時を表すもの、「今日」のように発話時と近接する
特定の過去時を表すものに限定される。
4. 1 発話時(直前)を表す時間副詞類
中高ドイツ語の現在完了形は事態完了後の結果状態の存続を表すことができる。この用
法で共起する最も中心的な時間副詞は、発話時を表す nu「今、今や」のようなものであ
る。11) この場合、その時間副詞は結果状態の時間を指すことも、事態そのものの時間を指
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すこともある。まず nu が結果状態の時間を指す例を挙げる。
(262) nu ist ez Sîfride leider übel komen, daz uns die trankappen het der helt benomen unt daz
im muose dienen allez ditze lant (Nibelungenlied 1120)(勇者〔ジーフリト〕が我々から隠
れ蓑を奪い、この国全体が彼に仕えねばならなくなったことが今やジーフリトにとって
残念ながら不幸となった)
(263) wie hât nu mîns ankers ort in riuwe ergriffen landes habe (Parzival 92, 13)(今やいかに
私の錨の先端は苦しみのうちに投錨地に至ったことか)
(264) an der nu ist verweiset vil maniger juncvrouwen lîp, kint der edeln fürsten, diu si gezogen
hât (Nibelungenlied 1194)(彼女〔ヘルヒェ〕の〔死〕によって今や、彼女が育てた高貴
な君主の子である多くの姫は孤児になった)12)
この場合、nu は基準時(=発話時)を指す。それに対し、nu が事態そのものの時間を指
す場合、nu は基準時ではなく事態時を指すことになる。この場合、nu は発話時そのもの
というよりは、発話時直前の時間を指す。
(48) same hat er nu getan mines segines (Wiener Genesis 2406)(同じように彼〔ヤコブ〕
は今私の祝福をした〔騙して奪った〕)
(49) nu ich gelebet hân daz daz min sun Ioseph noh nist tôt nieht (Wiener Genesis 5013)(今
私は我が息子ヨセフがまだ死んでいないことを聞き知った)
(50) nu hân ich wol erfunden diu degenlîchen werc, daz ir von wâren schulden muget landes
herre wesen (Nibelungenlied 500)(今私は、あなたがまさしく領主になりうるほどの勇ま
しい働きをとくと知りました)
(58) die sint nu, vrouwe, komen (Nibelungenlied 509)(女王様、彼らは今やって来ました)
ただし、nu
が発話時そのものと発話時直前のどちらを指すかを区別するのは難しい場合
が多い。
(265) nu hât gar ein ende genomen der gemach (Nibelungenlied 2258)(今や安息は終わりと
なった)
(266) nu habet ir mir erbunnen aller mîner man (Nibelungenlied 2330)(今やあなた達は私か
ら私の家来をすべて奪った)
(267) nu hat got unser aller not genaedecliche an iu bedacht, daz er iuch uns her wider hat
bracht (Tristan 18643)(今や神は我々のあらゆる苦しみを慈悲深くお考えになって、神は
あなたを私たちのところへ戻して下さった)
(268) Tristan der hat nu swert genomen und ist ze richer linge komen mit ritterlicher werdekeit
(Tristan 5085/5086)(トリスタンは今や刀礼を受け、騎士の品位を備えて大きな幸福に至
った)
(269) nu bin ich komen, da Isot ist (Tristan 19020)(今や私はイゾルデのいる所に来た)
(270) nu ist er komen ze witzen (Nibelungenlied 1798)(今や彼〔ハゲネ〕は知恵を身につ
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けた)
(271) deist aber allez nu beliben an einem guotn ende (Tristan 4338)(それはしかし今やよい
結末に終わった)
(272) nu han ich mich bewegen dar und stat mir al min muot dar zuo, daz ich al sinen willen
tuo (Tristan 5792)(今や私は、彼の意志をかなえるよう決心し、そういう方向に気持ち
が向いている)
(273) nu habet ir ez gar erkant, daz mir an ime gewerren kan (Tristan 14198)(今やあなたは
彼よって私が損害を受けるかもしれないことがよく分かったでしょう)
(274) daz ich iuch nû gesehen hân, daz ist zen vreuden mir gewant (Nibelunenlied 1814)(私
が今あなた方に会えたことは私には喜ばしいことだ)
(275) nu habet ir iuwer vriheit iuwern vinden geleit ze vüezen und ze handen mit zinslichen
schanden (Tristan 6076)(今やあなた達は貢物をするという屈辱によって自分たちの自由
を敵の足と手のもとに置いた〔自由を敵に渡した〕)
(276) unser aller saelekeit diu was ein lützel uf gestigen und ist nu wider nider gestigen
(Tristan 5832)(我々すべての幸福は少し高まって、今やまた沈んだ)
(277) nu Tristan der ist ze vride komen (Tristan 8897)(今やトリスタンの身は安全になっ
た)
4. 2 継続・反復を表す時間副詞類
上の 2. 2 で見たように、事態の継続や反復を表す現在完了形には her「これまで」、
lange「長らく、ずっと」、 dicke「しばしば、たびたび」等の時間副詞を伴う場合が多い。
ここでは一例を再掲するに留める(他例については 2. 2 を参照)。
(87) dâ wart vil voller dienest mit grôzem vlîze getân, sô man ze hôhzîten lange hât gepflegen
(Nibelungenlied 805)(そこで、人が祝宴においてずっと行っているように、十分な給仕
が入念に行われた)
継続を表す lange のような時間副詞が現在完了形に用いられる場合、それが事態そのも
のの継続ではなく、結果状態の持続を表す場合もある。
(278) ich hân vernomen lange von Kriemhilde sagen, daz si ir herzeleide wolde niht vertragen
(Nibelungenlied 1960)(クリエムヒルトについて、彼女がその心痛を我慢する気がないと
いうことを人が言うのを私はずっと前から聞いている〔聞いてから長い〕)
「~以来」のような意味を表す副詞も事態の継続を表す現在完了形に共起することがあ
る。
(74) er'n sol des niht engelten, hab' ich Prünhilde iht getân. daz hât mich sît gerouwen
(Nibelungenlied 894)(私〔クリエムヒルト〕がプリュンヒルトに何かしたとしても、彼
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〔ジーフリト〕がそれを償うにはあたらない。それ以来私はあのことを後悔している)
(過去完了形の上の(233)も参照)
しかしこの種の副詞も、結果状態の持続を表す現在完了形とも共起しうる。
(45) ich hân erkant von kinde die edelen künege hêr (Nibelungenlied 1147)(私はその高貴な
妃のことを子供の頃から知っている)
4. 3 不定の過去を表す時間副詞類
中高ドイツ語の現在完了形は ê「かつて、以前に」、 vor「前に」等の不定の過去時を
表す時間副詞を伴うことができる。13)
(148) ichne hân ir keinen ê gesehen (Parzival 83, 22)(私は以前に彼らの誰にも会ったこと
がない)
(166) ein wîp die ich ê genennet hân, hie kom ein ir kappelân (Parzival 76, 1)(私が前に挙げ
た婦人、その人のもとから司祭がやって来た)
(279) ich vuor von lande über mer mit einem heinlichen her und kam vil vrideliche her in disiu
riche, als ich e males han getan (Tristan 6399)(私はかつて行ったように、個人的な一隊
とともに国から海を越え、平和的にこの王国へやって来た)
(164) ich getuon noch den degenen, als ich hân ê getân (Nibelungenlied 885)(私がかつてや
ったようにあの戦士たちにやってやる)
(165) vor allen mînen mâgen sult ir die krône tragen alsô gewalteclîche, als ir ê habt getân
(Nibelungenlied 1086)(すべての我が一族の前でお前は以前そうしたように王冠を戴くの
だ)
(155) dâ bin ichz diu magt diu dir ê kumber hât geclagt, und diu dir sagte dînen namen
(Parzival 252, 11)(私は、かつてあなたに悩みを訴え、あなたにあなたの名前を言った
娘です)
(280) man hat uns doch hie vor gezalt, gewalt hoere wider gewalt und craft wider crefte
(Tristan 6419)(暴力には暴力が、力には力が用いられねばならないと以前我々に言った
者がある)
(281) daz houbet kusten s'und die hant, diu in liute und lant haete gemachet undertan, als ich hie
vor gesaget han (Tristan 7180)(その〔死んだモーロルトの〕頭と、前に私が言ったよう
に、人々と国を彼女ら〔母と娘のイゾルデ〕に従わせるようにしたその手に、彼女らは
口づけをした)
(282) alse ir uns habt vor benant, als helfe iu got ze dirre not (Tristan 15728)(あなたが先刻
我々に述べた通りに神がこの危機にあなたを助けて下さるように)
(283) sîn dienst hât vor enpfangen lôn (Parzival 67, 28)(彼の奉仕は〔その奉仕の〕前に報
酬を受けた)
(11) wan ich die stat erkenne und bin ouch eteswenne mit koufliuten hie gewesen (Tristan 8839)
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(というのも私はこの町を知っており、ここへ商人たちとかつて一度来たことがあるか
らだ)
不定の過去と発話時現在を表す二つの時間副詞類を伴う例も存在する。
(284) wan bi minen tagen und e hat man so rehte wol geseit von werltlicher zierheit, von
richem geraete (Tristan 4601)(というのは、私の生きるこの時代においても、かつても、
世俗の装飾や高価な装備について人は語っているので)
(285) sage mir bi den genaden, alse ich dir nu unde e males han getan (Tristan 9511)(私が今
と以前に行ったような慈悲にかけて私に言っておくれ)
この場合、現在完了形と二つの時間副詞の組合せが、上の 2. 6 で見た、現在完了形が現
在形と対比的に用いられる場合と同じような表現効果を生む。
4. 4 近接する特定の過去を表す時間副詞類
中高ドイツ語の現在完了形は特定の過去時を表す時間副詞を伴うことも可能である。た
だし、それは発話時現在と近接するものに限られる。
(286) daz wir gestriten haben hiute mit unzalhaftem liute (Rolandslied 5555)(それで私たち
は今日無数の人々と戦ったのだ)
(287) ich hân deheinen vergen hiute hie gesehen (Nibelungenlied 1568)(私は今日一人の渡
し守も見ていない)
(288) mîn wât ist bluotes naz. von ander manne wunden ist mir geschehen daz, der ich alsô
manegen hiute hân erslagen (Nibelungenlied 1956)(私の甲冑は血で濡れている。他の人間
の傷で私にそうなったのであり、私はそうした人間を 今日 それほど多く 討ち取った の
だ)
(289) ir habt erliten hiute vil grôzen ungemach (Nibelungenlied 1977)(あなたは今日とても
ひどい苦難を被った)
(290) ine gesach nie videlære so hêrlîchen stân, als der degen Volkêr hiute hât getân
(Nibelungenlied 2007)(勇士フォルケールが今日行ったほどに、楽人が立派に立ち向かう
のを私は見たことがない)
(291) der rât enzæme niemen wan einem degene, den uns mîn junger herre hiute hât getân
(Nibelungenlied 2012)(我らが若き主君が今日我々に行った助言は戦士にのみふさわしい
ものだろう)
(292) ich kom gestern, hiute bin ich hie worden hêrre überz lant (Parzival 49, 20)(私は昨日
やって来て、今日この国の君主になった)(= (260))
(293) wie ist iu hînt gelungen? (Nibelungenlied 648)(昨夜はどんな結果になりましたか)
(294) mir ist getroumet hînte von angestlîcher nôt (Nibelungenlied 1509)(私は昨夜不安で恐
ろしい夢を見た)
- 167 -
(295) wâ sît ir hînt gewesen? (Parzival 250, 12)(あなたは昨夜どこにいたのですか)(=
(14))
(296) wand wir iuch niulîche haben vrô gesehen (Nibelungenlied 1764)(先刻我々はあなた
が朗らかなのを見たのに)
上の (292)-(295)では、 hînt(e)「昨夜」という一見、発話時現在から切り離された特定の過
去時を表す副詞が用いられているが、上の 1. 1 の例(14)についての説明で述べたように、
hînt(e)
は「この夜」の意味であり、hiute「今日」と同様あくまで発話時現在に近接する
時間を表すものとして用いられている。
13 世紀の証文には次のような表現がよく見られると上で述べたが(2. 7 を参照)、そ
こでは現在完了形は特定の時点を指す時間副詞句を伴う。
(297) daz ist geschehen nah kristes gepurt MCCLXXVI jar on sant Moricen tag
(Originalurkunden 290: 1276)(これはキリストの生誕後の 1276 年聖モーリッツの日に行
われた)(= (217))
e
e
(298) Daz ist geschehen nah v nsers herren Pvrt · v ber tavsent iar · vnd zwei hvndert iar ·
sibenzich iar vnd andem Nivntem iar (Originalurkunden Nr. 378: 1279)(これは我らが主の生
誕後 1279 年に行われた)
(299) so hab wir den oftgnanten / dem apte vnd der samnvnge von zwetel / disen prief gegeben
ze einem vrchunde mit vnsern insigelen verinsigelt · von Christes geburtte vber Tovsent iar zwai
hvndert iar in dem ain vnd ahzigestem iar / des nahsten mæntages vor sant Elsbeten tak
(Originalurkunden Nr. 487: 1281)(それで我々は、何度も名を挙げた大修道院長および修
道院ツヴェテルの一同に、この文書を我々の印章で封印された証文としてキリスト生誕
後 1281 年聖エリザベトの日の直前の月曜日に渡した)(= (218))
しかし、これも時間副詞類の指す時間は、発話時現在を包含する時間である。すなわち、
これらの文書が書かれた時が、まさに時間副詞句によって示される時と一致する。従って、
この場合も発話時から切り離された特定の過去時を表すものではない。
次の例の in zwein und zweinzec stürmen「二十二回の戦闘の中で」のような副詞句は、
それ自体は時間表現ではないが、一種の時間副詞的な機能を果たすものと言えるかもしれ
ない。その意味では発話時から切り離された特定の過去時を表す例に準ずる表現と言える。
(300) in zwein und zweinzec stürmen hân ich in gesehen (Nibelungenlied 1796)(二十二回の
戦闘で私は彼〔ハゲネ」を見た)
ただし、これも「複数の戦闘」を意味するという点ではあくまで事態の反復を表す例と見
なすこともできる。
4. 5 過去完了形と共起する時間副詞類
- 168 -
過去完了形が事態の継続や反復を表す場合、現在完了形の場合と同様、 lange「長らく、
ずっと」や dicke「しばしば、たびたび」のような時間副詞が用いられる。
(227) er hete ime lange gedienot (Wiener Genesis 2733)(彼〔ヤコブ〕は彼〔ラバン〕に長
らく仕えていた)
(237) swer den strît dâ hüebe, sô wære dâ geschehen, daz man den zwein gesellen der êren
müese jehen, wan siz in stürmen hêten vil dicke wol getân (Nibelugenlied 1793)(誰が戦いを
起こしたとしても、この二人〔ハゲネとフォルケール〕に名誉を認めねばならないこと
になっただろう。というのは彼らは戦闘でそのようなことを何度も行ってきたからであ
る)
事態の継続を表す場合、数値的に具体的な期間を表す副詞句が共起する場合もある。
(231) diu vrouwe hete getragen ein kint, daz in ir lîbe stiez, die man ân helfe ligen liez.
ahzehen wochen hete gelebt des muoter mit em tôde strebt (Parzival 109, 2)(女王は一人の子
供を身ごもっていて、それが彼女の体の中で動いた。その子は 18 週生きていて、その
母は死と戦っていた)
過去完了形と共起する時間副詞類の中で最も出現頻度の高いものは、 ê「かつて、以前
に」や vor「以前に」のように不定の過去時を表す副詞である。これは事態完了後の結果
状態の存続、事態の継続や反復、経験の用法、基準時への関与が曖昧な用法等、様々な用
法に用いられる。
まず、事態完了後の結果状態の存続を表す過去完了形に共起する例を挙げる。
(301) der herre der hiez lîhen Sîvrit den jungen man lant unde bürge, als er het ê getân
(Nibelungenlied 39)(王〔ジゲムント〕は若い王子ジーフリトに、かつて自分が行ったよ
うに国と城を与えさせた)
(302) besunder gruozte er Hagenen: den er het ê bekant (Nibelungenlied 1657)(彼〔リュエ
デゲール〕はハゲネには特別に挨拶をした。彼〔ハゲネ〕を彼は以前に知っていた)
(303) der haete ouch e von ime vernomen vil manlicher dinge und vil seltsaener linge (Tristan
1576)(彼〔ギラーン公〕も彼〔トリスタン〕の多くの勇敢な活躍や非常な成功のこと
を前に聞いていた)
(304) von dem het der künec Lac dâ vor enpfangen solhen solt, den der vallende an der erde
holt (Parzival 73, 23)(彼〔キルリルカヤク〕からラク王は以前に、転落する者が地上で
拾うような報酬を受けていた)
(305) [si] triben ir senemaere von den, die vor ir jaren von sene verdorben waren (Tristan
17186)(〔トリスタンとイゾルデは〕自分たちの時代よりも前に恋のために滅んだ人々
の恋物語を語った)
(306) [Tristan] lief vil ebene uf dem spor, als Urgan was geloufen vor (Tristan 16092)(〔トリ
スタン〕はウルガーンが先刻逃げ去った通りにその跡をつけていった)
- 169 -
また、事態の継続や反復を表す用法においてもこの種の副詞が用いられることがある。
(2) Clêmens der junchêrre, der behielt wol sîn lêre, wande er dâ vor was gewesen, sô wir an
den buochen hôren lesen, drîe tac unt drîe naht daz er mazzes niene pflac (Kaiserchronik 1908)
(若い貴族のクレーメンスは、我々が書物で語るのを聞くところでは、 その前に 三日三
晩、何も食事をせずにいたので、彼の教えをよく受け入れた)
(236) des er da vor ie haete gert, des was er alles do gewert (Tristan 18223)(彼〔マルケ
王〕が以前ずっと望んでいたものを彼はすべて与えられていた)
(238) ouch haete er daz e males dicke wol vernomen, wie schoene und wie vollekomen Isot sin
swester waere (Tristan 7285)(また彼〔トリスタン〕は、彼〔モーロルト〕の妹のイゾル
デがいかに美しく完璧であるかを前に何度も聞いていた)
また、経験の用法においてもこの種の副詞は用いられる。
(245) er hete solhen dienest vil selten ê getân, daz er bî stegereife gestüende helde mêr
(Nibelungenlied 398)(彼〔ジーフリト〕は他の勇士の鐙の側に立つというような奉仕を
かつてしたことはなかった)
(243) daz het in wirt deheiner dâ vor vil selten getân (Nibelungenlied 1660)(そのようなこと
を前に主人と呼ばれる者が彼らに行ったことはなかった)
また、基準時への関与が曖昧な例においてもこの種の副詞は用いられる。
(307) ich weiz wol, daz er kunde do unde z'aller stunde ze kampfe und ouch ze vehte nach
ritteres rehte sinem libe vil wol mite gan. er haete es e so vil getan (Tristan 6520)(彼〔モー
ロルト〕がいつでもどこでも一騎打ちで戦いでも騎士にふさわしく自分の行き方をまっ
とうしたことを私はよく知っている。彼はかつてそのようなことを多く行っていた)
(308) er gedâhte langer mære, diu wâren ê geschehen (Nibelungenlied 1757)(彼〔エッツェ
ル〕はかつて起こった色々な事柄を思い出した)
(309) diu vrouwe wolde ez an sich legen, als si dâ vor hete getân (Parzival 111, 26)(女王は
以前そうしたようにそれを身につけようとした)
(250) der wirt dô ze tische mit sînen gesten saz. man bât Sîfride sitzen, als er het' ê getân
(Nibelungenlied 802)(王は客たちとともに席に着いた。ジーフリトには彼が以前にした
のと同様に〔以前座ったのと同じ席に〕座るよう勧められた)
(239) man sach in mit herlichen siten vor aller der herschefte stan. er haete ouch e alsam getan
(Tristan 4050)(人々は彼〔ルーアル〕がとても礼儀正しく高貴な人々の前に立っている
のを見た。彼はかつて同じようにしたこともあったのである)
(240) der hete in manege mîle dâ vor gevourt: er brâhte in dar (Parzival 55, 1)(彼は彼〔ガ
ハムレト〕を何マイルも以前案内したことがあった。その彼が彼〔ガハムレト〕をそこ
へ連れてきた)
- 170 -
こうした基準時への関与が曖昧な例における注目点は、その「かつて」や「以前に」を
意味する副詞の表す時点が必然的に事態時を指すということである。一般に過去完了形が
時間副詞類を伴う場合、その時間副詞類は事態時と基準時のどちらを指すことも可能だと
言われる。例えば、現代語で er war um 8 Uhr ins Zimmer gegangen と言う場合、「8 時」
は「部屋に入る」という事態時を表す場合と「部屋の中に入って、そこにいる」という基
準時の両方を指すことができる。それに対し、基準時への関与が曖昧な過去完了形におい
ては、基準時における状態が不明瞭であるので、時間副詞は事態時を指すしかない。
他に特定の過去時を表す時間副詞類が共起する場合もある。この場合も、基準時への関
与が曖昧であるかどうかによって、二義性の有無が決まる。
(310) er was zuo Meljanze komen dâ vor ame dritten tage (Parzival 383, 28)(彼はメルヤン
ツの所へ三日前に来ていた)
(311) ze rehter messezîte die künige wâren komen. si heten aber ir swester under hende
genomen. jâ rieten si ir ze minnen den künic von Hiunen lant (Nibelungenlied 1250)(丁度ミ
サの時間に王たちはやって来た。彼らは再びその妹〔クリエムヒルト〕を説得しようと
した。つまり彼らは彼女にフン族の王と結婚するよう勧めた)
(312) Isot was [...] des morgens in desm touwe geslichen zuo der ouwe und was da von
erbrunnen (Tristan 17574)(イゾルデは朝方露の中、水辺へ忍んで行ったので、そのため
にほてっていた)
(313) mit vil grôzen êren [...] wonten si mit ein ander unz an daz sibende jar, die zît diu
küneginne eines suns was genesen (Nibelungenlied 1387)(彼ら〔エッツェルとクリエムヒ
ルト〕は大きな名誉を持ってともに暮らし七年目に達した。その時王妃〔クリエムヒル
ト〕は一人の息子をもうけた)
(314) er lief da er was erbeizet des âbents (Parzival 247, 8)(彼〔パルツィヴァール〕は自
分が昨晩下馬した所へ駆けよった)
(315) nu hete daz sprinzelîn ervlogen des âbents drî galander (Parzival 550, 28)(はいたかが
夜に三羽のとさかひばりを飛びながら捕らえていた)
(316) daz tet Else: der het uns nähten bestân (Nibelungenlied 1625)(それをやったのはエル
ゼです。奴は夜分に我々に抵抗したのです)
上の (310)-(313)においては基準時における事態完了後の結果状態の存続が認められるので、
時間副詞類の指す時間は、(文脈上すべて事態時を表すように思われるが)事態時、基準
時のいずれかは完全には決定できない。それに対し、 (314)-(316)のように基準時への関与
が曖昧な場合、時間副詞類は事態時を指す。
5. 中高ドイツ語の過去形
中高ドイツ語期には現在完了形や過去完了形が発達し、様々な場面で用いられるように
なった。しかし、依然として現代語であれば現在完了形や過去完了形を用いるような場合
- 171 -
に過去形が使用されることが少なくない。例えば、次の例では「過去の過去」の事態が一
方は過去形で、他方は過去完了形で表されている。
(317) Tristan hiez im bringen dar, daz er im e bereiten bat. nu daz lac allez an der stat wol
gemachet unde beret, als er in haete vor geseit (Tristan 2999/3002)(トリスタンは、調える
よう前に頼んでおいたものを自分のところに持ってこさせた。今やそれらはすべて、彼
が彼らに前に行った通りにしつらえられ、調えられてそこにあった)
あるいは、次の例では hete「持っていた」以外の過去形はすべて「過去の過去」を表し、
そこで過去完了形は用いられていない。
(318) hort den aller meisten, den ie helt gewan, âne die es ê pflâgen, hete nu der küene man,
den er vor einem berge mit sîner hende erstreit, dar umbe er sluoc ze tôde vil manigen ritter
gemeit (Nibelungenlied 722)(それをかつて守っていた者以外では、勇士がこれまでに手
に入れた最大の宝を今やその勇猛な男〔ジーフリト〕は持っていた。それを彼はある山
の麓で自らの手で勝ち取ったのであった。そのために彼は多くの有能な騎士を打ち殺し
た)
実際、次のように、「過去の過去」が表される多くの場合に過去形が用いられる。
(319) er mant' in sîner triuwe, wes er im verjach, ê daz er Prünhilde dâ heime in Îslande sach
(Nibelungenlied 607)(彼〔ジーフリト〕は彼〔グンテル〕がプリュンヒルトにその故国
イースラントで会う前に自分に誓った約束を果たすよう促した)
(320) do gedâhtes' an diu mære [...] diu si dâ Hagenen sagete (Nibelugenlied 920)(そこで彼
女〔クリエムヒルト〕は自分がハゲネに言った話を思い出した)
(321) ouch wart von in diu gâbe ze hove niht verdeit, die in gab her Sîfrit (Nibelungenlied 773)
(彼ら〔使者〕によってジーフリト王が彼らに与えた贈り物のことも話されずにはおか
なかった)
(322) diu vrouwe vrâgte ouch nâch dem sper, daz Gahmurete gab den rê (Parzival 111, 20)(女
王は、ガハムレトに死をもたらした槍のことも尋ねた)
(323) dô sâhens' in dem schiffe riechen das bluot von einer starken wunden, die er dem vergen
sluoc (Nibelungenlied 1566)(彼らは、彼〔ハゲネ〕が渡し守を打ち殺した際に生じた大
きな傷から血が湯気を立てているのを見た)
(324) sie gedâht' ouch maniger leide, der ir dâ heime geschach (Nibelungenlied 1391)(彼女
〔クリエムヒルト〕は、故郷で自分に起こった大きな苦しみのことも考えていた)
(325) die vil arme wâren, die wurden rîche genuoc (Nibelungenlied 1059)(とても貧しかった
者も十分裕福になった)
(326) mit kusse minneclîche si hât ûf uns verkorn, daz wir ir ie getâten, ê si von hinnen reit
(Nibelungelied 1460)(彼女〔クリエムヒルト〕はここを去る前に優しい口づけで、我々
が彼女にかつてひどい目に会わせたことについて我々を許した)
- 172 -
(327) nu harpfete er ouch michel baz, dan er ie da vor getaete (Tristan 7821)(そのとき彼も
これまでに行ったよりもずっとうまく竪琴を奏でた)
(328) den scaz den hiez er balde füeren unde tragen dâ in dâ vor dâ nâmen die nibelunges man
(Nibelungenlied 98)(彼はその宝をニベルンクの家臣たちが前に取り出してきた場所へす
ぐに運ばせた)
(329) der was sô minneclîche gevar, daz er entslôz ir herze gar, ez waere ir liep oder leit: daz
beslôz dâ vor ir wîpheit (Parzival 23, 28)(彼はあまりにも素晴らしい姿をしていたので、
彼女が好むと好まざるとに拘わらず、彼は彼女の心を開いた。その前は女らしさがそれ
〔彼女の心〕を閉ざしていたのだが)
(330) diu vrouwe dô begunde, daz si dâ vor niht kunde, beidiu zabeln und wuofen, in slâfe lûte
ruofen (Parzival 104, 25)(女王はそのとき、その前にはできなかったことだが、転げ回
ってわめき、大声で叫びだした)
(331) si heten noch gesmîde, daz man dâ vor reit bî Sîfrides zîten (Nibelungenlied 1268)(彼女
たちは、以前ジーフリトの存命中に人が馬につけた装飾品をまだ持っていた)
(332) den sînen vîanden wart daz kunt getan, ir goldes gerte niemen, daz si dâ buten ê
(Nibelungenlied 316)(彼らが前に提供した黄金をこちらは誰も要求しないということが
敵に伝えられた)
(333) des ê der künic gerte, daz wart mit vlîze getân (Nibelungenlied 573)(王が前に望んで
いたことが入念に行われた)
(334) sît brâht' er an ein lougen die vil hêrlîchen meit ir ungefüeges willen, des si ê jach
(Nibelungenlied 676)(やがて彼〔ジーフリト〕は高貴な姫〔プリュンヒルト〕を彼女が
前に言った不当な意志の否定へと導いた)
(335) do gedâhte vremder mære der snelle degen guot, diu im ê dâ sageten diu wilden merwîp
(Nibelungelied 1574)(そこでその勇ましい強い武士は、前に異界の水の精の女が彼に言
った奇妙な話を思い出した)
(336) aber seite er iegelichen do in der gelegenheite, als er den boten e seite (Tristan 7664)(し
かし彼〔トリスタン〕は誰に対してもその状況について 前に 使者に 言った 通りに言っ
た)
(337) dô speheten mit den ougen, die ê hôrten jehen, daz si alsô schœnes heten niht gesehen sô
die vrouwen beide (Nibelungenlied 592)(この二人の姫ほど美しいものを見たことがない
という話を前に聞いていた者たちはそのときその目で見た)
(338) die wunden vluzzen sêre, alsam si tâten ê (Nibelungenlied 1045)(傷口は以前にそうな
ったのと同様に〔殺害時と同様に〕激しく血を噴いた)
(339) die zwêne stuonden hôher, Volkêr und Hagene, wand' ez im ê gelobten die küenen degene
(Nibelungenlied 2207)(フォルケールとハゲネの二人は退いた。その勇敢な戦士たちは彼
〔リュエデゲール〕に前にそれを誓っていたからである)
(340) ob si ê ie getruogen deheiniu rîchen kleit, der wart zuo z'ir verte vil manigez nu bereit
(Nibelungenlied 1269)(彼女たちが以前いつもどんな高価な服を身に着けていたとしても、
今彼女らの旅のためにそれがたくさん用意された)
(341) mit gelübde dô dannen schiet den ê sîn hôchvart verriet (Parzival 215, 17)(誓いをして
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かつてその傲慢が不幸に陥れた男は去った)
(342) die ê dâ sêre klageten, des wart nu michel mê (Nibelungenlied 1045)(前に人々はひど
く嘆いていたが、今やその嘆きがもっと激しくなった)
(343) dô si nu nâch in kômen, die dort striten ê (Nibelungenlied 1621)(彼らのあとから、前
にあちらで戦った者たちがやって来たとき)
(344) diu ê hiez magt, diu was nu wîp (Parzival 45, 24)(かつて娘と呼ばれていた者が今や
妻となった)
(345) die geste sêre râchen, daz in ê geschach (Nibelungenlied 2003)(客たちは、かつて自分
たちの身に生じたことに対し、激しく報復した)
(346) dort hielt ouch Hiutegêr, aldâ im ê der prîs geschach (Parzival 37, 12)(あそこにヒュー
テゲールが待ちかまえていた。そこは かつて 武勇の誉れが彼の身に 起こった 場所だっ
た)
(347) dô gie si mit in beiden, dâ si ê dâ saz (Nibelungenlied 352)(彼女〔クリエムヒルト〕
は彼ら二人とともに自分が前に座っていたところに行った)
(348) diu was vil wol bekant, geheizen Zeizenmûre: vrou Helche saz dâ ê und pflag sô grôzer
tugende (Nibelungenlied 1332)(それ〔城〕は非常に有名で、ツェイツェンムーレ〔トレ
イゼンムーレ〕という名であった。そこにかつて王妃ヘルヒェが居城していて、大きな
徳を行った)
(349) si gewunnen maniger künde, die in vil vremde wâren ê (Nibelungenlied 1315)(彼らは
以前は自分たちの知らなかった多くの人と知り合いになった)
過去形は前章で見たように、過去一般を表すので、基本的に過去に関するあらゆる用法
で用いられた。この時代に現在完了形や過去完了形が獲得した様々な用法は、依然として
過去形から失われてはいなかった。
5. 1 完了後の結果状態の存続を表す過去形
完了形の基礎的な用法である事態完了後の結果状態の存続はこの時代も過去形で表され
えた。これには、結果状態が発話時現在に続くことを表す場合と、結果状態が過去に置か
れる基準時まで続く場合の二つがある。前者は現在完了形的な過去形であり、後者は過去
完了形的な過去形と呼ぶことができる。
まず過去形が、発話時現在まで結果状態が続くことを表す例を挙げる。
(350) jâ verlôs ich ein den besten (Nibelungenlied 1233)(私は最高の男性を失ったのだか
ら)
(351) jâ fuort' ich von lande des mînen alsô vil, daz wirs ûf der strâze haben guoten rât
(Nibelungenlied 1279)(私は国からとても多くの財貨を持ってきたので、旅中の蓄えも十
分だ)
(352) man ladete her ze lande drîe degene, die heizent mîne herren, und bin ich ir man
(Nibelungenlied 1788)(三人の戦士を人はこの国へ招いたが、その人たちは私の主君であ
- 174 -
り、私はその家臣である)
(353) mich riuwet daz harte sêre, daz ich kom in diz lant (Nibelugenlied 444)(私はこの国へ
やって来たことを後悔している)
次に、過去に置かれる基準時まで結果状態が続くことを表す過去形の例を挙げる。
(354) Sîvrit der muose füeren die kappen mit im dan, die der helt vil küene mit sorgen gewan
ab eime getwerge, daz hiez Albrîch (Nibelungenlied 336)(ジーフリトは、勇猛な英雄が苦
労してアルプリーヒという名の侏儒から手に入れたマントを携えていかねばならなかっ
た)
(355) dô frumte er er Hiunen vil manegen helt tôt mit einem scharpfen swerte, daz gab im
Rüedegêr (Nibelungenlied 1969)(彼〔ゲールノート〕はリュエデゲールが彼に与えた鋭
い剣でフン族の多くの勇士を殺した)
5. 2 継続・反復を表す過去形
事態の継続や反復も過去形によって表される場合がある。これも上の結果状態の存続の
場合と同様、現在完了形のように発話時現在まで事態が継続・反復することが表される場
合と、過去完了形のように過去に置かれる基準時まで事態が継続・反復することが表され
る場合の二つがある。
まず発話時現在まで事態が継続・反復する過去形の例を挙げる。
14)
(356) nu hân ichz allez hie, des ich ie dâ gerte in allen mînen tagen (Nibelungenlied 632)(今
や私は自分が生涯ずっと望んできたものすべてを手に入れる)
(357) des ie mîn wille gerte, daz sol nû verendet sîn (Nibelungenlied 1503)(私の意志がずっ
と望んできたことが今果たされるのです)
(358) dar nâch ie ranc mîn herze, wie wol ich daz verendet hân (Nibelungenlied 538)(私の心
がずっと求めてきたものを私がいかにうまく果たしたか)
(359) den hân ich hinne, des cleinoet ich sider truoc, sît Orlius tjost in sluoc (Parzival 439, 28)
(この私のそばにその人はいる。私はオリルスがその人を一騎打ちで倒して以来、ずっ
とその方の指輪を身につけてきた)
(360) nu hiezen wir ie recken: wie verliese wir den lîp, suln uns in disen landen nu verderben
diu wîp (Nibelungenlied 443)(我々はこれまでずっと武士と呼ばれてきた。もし我々をこ
の国で今女が滅ぼすとしたら、何と我々は生きる意味を失うことか)
(361) jâ wæne ez von helden mit solhem willen ie geschach (Nibelungenlied 1823)(思うに、
それ〔戦い〕は勇士によっていつでもそのような〔正々堂々とした〕意志を持って行わ
れてきた)
(362) er'n hât uns niht getân niwan guot und êre; man sol in leben lân [...] er was ie getriuwe
und tet vil willeclîche daz (Nibelungenlied 868)(彼〔ジーフリト〕は我々にただ益となり
名誉となることだけをしてきた。彼を生かしておかねばならない。〔……〕彼はいつも
- 175 -
忠実であり、喜んでそうしてきた)
(363) ich was ie getriuwe (Nibelungenlied 989)(私はいつも忠実であった)
(364) wan ine gesach in manegen tagen nieman, den ich erkande (Tristan 3967)(というのは、
私は長い日々自分が知っている誰にも会っていないからだ)
(365) nu wande ich allez e, daz diz vertane maere durch schimpf gesprochen waere (Tristan
13882)(私はこれまで、そのような忌まわしい話は悪ふざけで言われていると思ってき
た)
次に、過去に置かれる基準時までの継続・反復を表す例を挙げる。
(366) iu was ie strîten wol sô leit daz ir der vluht begundet (Parzival 417, 24)(あなたはずっ
と戦いがあまりにも苦痛だったので、逃亡をしていた)
(367) er leit ouch von ir minne dicke michel arbeit (Nibelungenlied 137)(彼〔ジーフリト〕
も彼女への愛のために何度も苦難に耐えねばならなかった)
(368) daz stuont alsô daz Artûs ze Nantes, dâ er dicke saz, niht dorfte hân gebûwet baz
(Parzival 548, 26)(それ〔館〕は、アルトゥースが、自分が何度も滞在したナントにも、
それ以上によいものを建てる必要がないほどのもの〔それほど立派〕であった)
5. 3 経験を表す過去形
過去形は経験を表すこともあり、この場合も現在完了形のように発話時現在までの経験
を表す場合と、過去完了形のように過去に置かれる基準時までの経験を表す場合の二つが
ある。この種の例はとても多いので、現在完了形的な例と過去完了形的な例を分けて示す。
5. 3. 1 経験を表す現在完了形と同等の過去形
まず、現在完了形のように発話時現在までの経験を表す過去形のうち、「~したことが
ない」という経験の否定を表す例を見る。
(369) ich wil uf die gnade din, des ich nie began, beginnen (Tristan 2367)(私はあなたの御慈
悲を頼りに、やったことのないことをしようとしている)
(370) ich entuo daz eine dar zuo, deiswar daz ich noch nie getete (Tristan 4861)(私は本当に、
一つのこと、まだしたことのないことをするしかない)
(371) ez enweiz nieman disen list in disem künecriche hie. sone gehorte in ouch genennen nie
von kunden noch von gesten (Tristan 2818)(この王国では誰もそのような技を知らない。
そんな名を呼ぶのを土地の者からもよその者からも聞いたことはない)
(372) von bezzerm pirsgewæte gehôrt ich nie gesagen (Nibelungenlied 952)(私はこれ以上に
素晴らしい狩衣のことが言われるのを聞いたことがない)
(373) er was doch mässenîe alhie alsô daz dehein ôre nie dehein sîn untât vernam (Parzival 160,
11)(彼はこの宮廷の家臣であり、誰の耳も彼の悪行を 聞いたことがない ような人であ
- 176 -
った)
(374) an dem selben man da verliuse den ich zwene veter an: in unde den ich nie gesach
(Tristan 4377)(その同じ人において私は二人の父を失うのだ。この人と私が会ったこと
のない人とを)
(375) nu wizzet, daz ich geste sô gerne nie gesach (Nibelungenlied 731)(私があの人たちほ
ど喜んで客に会ったことはないことを御承知下さい)
(376) ine gesach mit küniges wîbe nie sô manegen man, die swert enhende trüegen, alsô
strîteclîchen gân (Nibelungenlied 1773)(私は王妃に随いてこれほど多くの男が手に剣を持
ち、このように戦いに赴くように歩くのを見たことがない)
(377) ine gesach nie videlære sô hêrlîchen stân, als der degen Volkêr hiute hât getân
(Nibelugenlied 2007)(勇士フォルケールが今日行ったほどに、楽人が立派に立ち向かう
のを私は見たことがない)
(378) ine gesach nie helde mêre sô zãgelîchen stân (Nibelungenlied 2026)(私は、勇士がこれ
ほど愚図愚図しているのを見たことがない)
(379) dar ist ein mîle oder mêr, daz ich gesach nie burc sô hêr mit aller slahte rîchheit (Parzival
250, 13)(それは 1 マイルかそれ以上離れたところで、私はあらゆる類の豪華さを持つ
あれほど壮麗な城を見たことがない)
(380) ine gesach ûf vehten nie helde gerner komen (Nibelungenlied 2131)(勇士がこれほど勇
んで戦いに向かうのを私は見たことがない)
(381) alsô grôzer krefte nie mer recke gewan (Nibelungenlied 99)(これ以上の力をほかの戦
士が獲得したことはない)
(382) ez gewan küniges tohter nie rîcheite mêr, danne der mich Hagene âne hât getân
(Nibelungenlied 1276)(ハゲネが私から奪った以上の財宝を王の娘が手に入れたことはな
い)
(383) wande ich von wîbes minne nie bezzer vriunde gewan (Nibelungenlied 1402)(私は一人
の女との結婚によってこれ以上の親戚を得たことはない)
(384) wand' ich nie gast deheinen sô rehte leiden gewan (Nibelungenlied 2002)(というのは、
私はこれほど不快な客を得たことはないのだ)
(385) wirt disem unsaeligen man, der nie saelde gewan, disiu saelege maget, so ist im elliu
saelde ertaget, diu ime odr dekeinem man an einer maget ertagen kan (Tristan 9786)(この幸福
の娘が幸福を手に入れたことのないこの男のものになるとすれば、彼あるいはとにかく
男に現れうる、娘によってもたらされる幸福のすべてが彼に現れたことになる)
(386) alsô hôher gîsel gewan nie künec mêr (Nibelungenlied 250)(これほど高貴な人質を他
の王が得たことはない)
(387) nie man deheiner vrouwen noch mêre freuden benam (Nibelungenlied 1209)(人が誰か
女からそれ以上に喜びを奪ったことはまだない)
(388) nie sô manegen gîsel man brâht' in ditze lant, sô von sînen schulden nu kumt an den Rîn
(Nibelungenlied 238)(今彼〔ジーフリト〕のおかげでラインへやってくるほど多くの人
質を人がこの国に連れてきたことはない)
(389) sprichet aber ieman daz, daz zorn ungebaere under so gelieben waere, binamen da bin ich
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sicher an, daz der nie rehte liep gewan (Tristan 13038)(愛し合う者に怒りはふさわしくな
いと言う者があるとすれば、その者は本当の愛を経験したことがないと私は絶対に確信
する)
(390) war umbe velschet ir die, diu nie valsch wider iuch begie? (Tristan 18396)(あなたは何
故、あなたに対して不実を行ったことのない彼女〔イゾルデ〕を悪く言うのか)
(391) daz getâten uns noch degene her zuo disen landen nie (Nibelungenlied 158)(異国の戦
士が我々のこの国へ来てそんなこと〔攻め入ること〕をしたことはまだない)
(392) dô er den lintrachen an dem berge sluoc, jâ badete sich in dem bluote der recke vil gemeit,
dâ von in sît in stürmen nie dehein wâfen versneit (Nibelungenlied 899)(彼〔ジーフリト〕
が山の麓で竜を打ち殺したとき、その疲れを知らぬ武士はその血を浴びて、それでそれ
以降戦いでいかなる武器も彼を傷つけたことはない)
(393) dâ liegent inne pfelle breit, ganze, die man nie versneit, und manec tiure samît (Parzival
11, 17)(その中には、広くて傷のない、まだ人が鋏を入れたことのない絹布と高価なビ
ロードがたくさん入っている)
(394) nie vriunden baz enbôt sô getriuwiu mære deheiner slahte man, als iu der herre Sîfrit und
ouch sîn vater hât getân (Nibelungenlied 770)(ジーフリト様とその父君が行ったほどに真
心のこもった消息を親戚に伝えさせた方はいません)
(395) diu nie gegruozte recken, diu sol in grüezen pflegen (Nibelungenlied 289)(武者に挨拶
をしたことのない女に挨拶させる)
(396) ich wæn' ie ingesinde sô grôzer milte gepflac (Nibelungenlied 41)(私が思うに、かつ
て家臣がこれほど大きな慈善を行ったことはない)
(397) jane gediente Sîfrit nie alsolhen haz, daz er dar umbe solde verliesen sînen lîp
(Nibelungenlied 866)(ジーフリトは、そのために命を失わねばならぬような憎しみに値
する行為をしたことはない)
(398) daz sich noch nie gehabten deheine liute baz, danne si sich gehabent beide, ir sult wol
wizzen daz (Nibelungenlied 1442)(二人〔エッツェルとクリエムヒルト〕は今ある状態よ
りよい状態にあったことはないと私はあなたに申し上げます)
(399) nie man gesaz von sîner tjost, sîn prîs hât vil hôhe kost, sô milter lîp gesouc nie brust, sîn
site ist valscheite vlust (Parzival 328, 25)(彼と一騎打ちして鞍に留まった者はなく、彼の
名声は多大の出費によるもので、これほど気前のよい者が母の乳房を吸ったことはなく、
彼の生き方には不誠実のかけらもない)
(400) so geriten hovereise noch helde sorclîcher nie (Nibelungenlied 1089)(勇士がこれほど
気苦しい宮廷への旅を馬に乗ってしたことはまだない)
(401) helde nie gefuoren in deheiniu rîche baz nâch alsô grôzen êren (Nibelungenlied 1537)
(勇士がこれ以上によくそれほど大きな名誉を求めてどんな国へも行ったことはない)
(402) daz lant gestuont nie baz, noch sô vrô fir liute (Nibelungenlied 1437)(国がこれ以上よ
い状態にあったことはなく、また人々もこれほど喜んでいたこともない)
(403) ine wart in minem muote so vro nie, alse ich iezuo bin (Tristan 10541)(私は今ほど心
が喜んだことはない)
(404) nie keiser wart sô rîche, der wolde haben wîp, im zæme wol ze minnen der rîchen
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küneginne lîp (Nibelungenlied 49)(妻を持とうとして、その高貴な王女の愛を得るにふさ
わしいほどにはどんな皇帝も富裕になったことはない)
(405) gedenket an daz, daz ich iu gerne diene und noch nie wart gehaz (Nibelungenlied 893)
(私があなたに喜んで尽くし、まだ敵意をいだいたことのないことを考えてください)
(406) ez geschach ze dirre werlde nie leider manne mêr (Nibelungenlied 2332)(この世でこれ
よりつらいことが人に起こったことはない)
(407) daz mir nie leider geschach, dan mir geschehen ist dar an (Tristan 14556)(それによっ
て私に生じたこと以上につらいことが私に生じたことはないこと)
(408) ir zam nie hôhgezîten baz (Nibelungenlied 736)(彼女〔クリエムヒルト〕にはその祝
宴以上にふさわしいものはない)
(409) ez enwart nie vrouwen leider an liebem manne getân (Nibelungenlied 997)(夫のことで
婦人がこれ以上につらい目に会わされたことはない)
(410) ez enwart noch nie an helden wirs von friunden getân (Nibelungenlied 2183)(勇士に対
して親族によってこれよりひどいことが行われたことはまだない)
(411) ich sol iu helfe bringen her in diz lant von ûz erwelten recken, die iu noch nie wurden
bekant (Nibelungenlied 479)(私はあなた達がまだ知らぬ選り抜きの戦士を助太刀にあな
た達のこの国へ連れてこよう)
(412) jane konde niht gesîn in dirre werlde schœner deheines küniges wîp (Nibelungenlied
1150)(この世でいかなる王妃も〔クリエムヒルトより〕美しいことは ありえなかっ
た)
(413) mir enkunde an disen zîten nimmer lieber geschehen (Nibelungenlied 1313)(近頃私に
これ以上に嬉しいことは起こりえなかった)
過去形も現在完了形も経験の否定を表すことが可能だが、両者には二つの違いがある。一
つは、現在完了形において最も一般的な否定辞は selten
であったのに対し、過去形にお
いては nie だということである。
もう一つの違いは、過去形における経験の否定は、ある事物の属性を表すために用いら
れる場合がほとんどだということである。
(407) daz mir nie leider geschach, dan mir geschehen ist dar an (Tristan 14556)(それによっ
て私に生じたこと以上につらいことが私に生じたことはないこと)
上の例においては、その出来事が最もつらいことであったということを表す。これは事物
を形容詞の最上級で属性表現する場合に近い用法である。現在完了形にもこの種の例がな
いわけではない。
(138) ichn hân michs niht genietet, als ir mirz, vrouwe, bietet, mîns lebens mit sölhen êren
(Parzival 33, 21)(女王様、あなたが私にお示しになっているほどのものを、私は生涯そ
れほどの名誉をもって味わったことはありません)
(140) ich hân sô lieber geste harte wênic noch bekant (Nibelungenlied 1410)(私はそれより
- 179 -
好ましい客とまだ知り合ったことはない)
しかし、現在完了形にはそれとは異なる例も見られる。
(123) ich hân iu selten iht verseit (Nibelungenlied 2151)(私はあなた方の願いを拒んだこと
はない)
(124) mîner muomen man Gandîn hât in gevüeret selten ûz (Pazival 50, 2)(私の伯母の夫ガ
ンディーンはそれ〔錨の紋章の盾〕を携えて出陣したことはない)
(127) nu hân ich selten hie gesezzen bî deheinem man (Parzival 438, 20)(私はここでは男の
人のそばに坐ったことはない)
過去形は古高ドイツ語においては経験一般を表すことが可能であったが、中高ドイツ語で
は、経験の用法は制限され、もはや事物の属性表現としてしか用いられなくなったのかも
しれない。
否定ではない経験が過去形で表される場合もある。
(414) diu ist mir vor in allen, die ich noch ie gesach (Nibelungenlied 656)(彼女〔クリエムヒ
ルト〕は私には、私がこれまでに会ったすべての婦人にまさる)
(415) alles des ich je gesach [...] sone gert ich niht mêre hinnen ze tragene niwan jenes schildes
dort an jener want (Nibelungenlied 1698)(私がこれまでに見たもので、あそこの壁にかか
った盾以上に持ち去りたいと思ったものはない)
(416) sô hilf' ich dir der reise [...] mit der besten wæte, die riter ie getruoc (Nibelungenlied 63)
(私は、騎士が これまでに着た 最上の衣装を調えることであなたの旅の手伝いをしま
す)
(417) ich wil selbe wesen tiwerr, danne iemen habe bekant deheine küneginne, diu krône ie her
getruoc (Nibelungenlied 829)(私はこれまで王冠を戴いた女王として誰かが知っている者
の誰よりも高貴なつもりだ)
(418) dar zuo gît man iu spîse, die besten die ie gewan in der werlt künec deheiner
(Nibelungenlied 1468)(さらにあなた方には、この世で王と呼ばれる者がこれまで手に入
れた最高の食事が出される)
(419) ich kum' schiere widere unt bringe iu tûsent man der aller besten degene, der ich ie künde
gewan (Nibelungenlied 480)(私はすぐに戻り、私がこれまで手に入れた最高の名だたる
武士千人をあなた達のもとへ連れてきます)
(420) welt ir immer gewinnen edel wîp, die hœhsten unt die besten, die künic ie gewan, sô
nemt die selben vrouwen (Nibelungenlied 1144)(あなたが高貴な女性、王と呼ばれるもの
がこれまで手に入れた最高にして最上の女性を手に入れようというのであれば、その妃
をもらいなさない)
(421) jâ verlôs ich ein den besten, den ie vrouwe gewan (Nibelungenlied 1233)(実際私は女が
これまで得た最高の男を失った)
(422) ez hât durch iuwer minne, vrouwe, her gesant ein der aller beste, der ie küneges lant
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gewan mit vollen êren oder krône solde tragen (Nibelungenlied 1217)(十分な名誉をもって
王国をこれまで手に入れ、あるいは王冠を戴くことになった最高の人が、妃よ、あなた
の愛を得るために使いをよこしたのだ)
(423) der sitzet bî der strâze und ist der beste wirt, der ie kom ze hûse (Nibelungenlied 1639)
(彼〔リュエデゲール〕は街道沿いに住み、これまで家を構えた最高の主人だ)
(424) so brechet ir minem herren unde mir iuer triuwe und iuwern eit und alle die sicherheit, diu
under uns allen ie geschach (Tristan 6337)(それではあなた達は私の主君と私に対しあな
た達の忠義と誓い、我々のあいだでこれまでに成り立ったすべての確約を破ることにな
る)
ここにおいても事物の属性表現として用いられる例がほとんどである。
過去形の場合も経験の用法は事態の継続や反復の用法と連動している。
(425) ine gesach sô gerne nie boten in langen zîten, denne ich iuch hân gesehen (Nibelungenlied
1456)(私があなたに会ったほどに喜んで使者に長いこと会っていない)
(426) mir kômen in allen wîlen sô rehte liebe geste nie (Nibelungenlied 784)(これほど嬉し
い客が私に訪れるということは長らくなかった)
(427) ich waen dîn ors dicke gaz ze Munsalvaesche baz dan hie. du noch ez ze wirte nie kômt,
der iuwer gerner pflaege (Parzival 485, 14)(私は思うに、お前の馬はムンサルヴェーシェ
で、ここよりも上等のものを食べることが多かっただろう。お前も馬も、お前たちをこ
れほど進んでもてなす主の所へは来たことがない)
ただし、過去形はもともとそれらすべての用法が可能だったので、完了形の場合のように
事態の継続・反復から経験へという一方向の意味連関があるとは考えられない。
5. 3. 2 経験を表す過去完了形と同等の過去形
過去形は、過去完了形のように過去におかれる基準時までの経験を表す場合もある。こ
の場合も上の現在完了形的な経験を表す過去形と同様、事物の属性表現として用いられる
場合がほとんどである。
(428) do si daz vremde jageliet gehorten und vernamen, si erschraken unde erkamen vil
innecliche sere, wan ez da vor nie mere da ze hove wart vernomen (Tristan 3229)(彼らはそ
の聞き慣れぬ角笛の曲を聞いて心から驚いた。というのは、それは宮廷では以前に聞か
れたことがなかったからである)
(429) er was von dem herre unde man, von dem sin vater nie niht gewan (Tristan 5622)(彼
〔トリスタン〕は、その父がそこから何も得ることのなかった人〔モルガーン〕の主人
でありかつ臣下であった)
(430) er truog in sîme sinne ein minneclîche meit, und ouch in ein diu frouwe die er noch nie
gesach (Nibelungenlied 132)(彼は心に一人の愛らしい乙女を思い、また彼を、彼がまだ
- 181 -
会ったことのないその一人の女も心に思った)
(431) dâ wart ir bekant vil manic site vremede, den si ê nie gesach (Nibelungenlied 1341)(そ
こで彼女は以前には見たことのない習俗をいろいろ知った)
(432) si kunte sich mit gâbe, dem der si nie gesach (Nibelungenlied 1366)(彼女〔クリエムヒ
ルト〕は、彼女を見たことがない人に贈り物でもって自分のことを知らせた)
(433) man gesach an helden nie sô hêrlich gewant (Nibelungenlied 72)(これほど見事な勇士
のいでたちを人が見たことはなかった)
(434) vroun Jeschûten muot verjach, schoener tjost si nie gesach (Parzival 262, 25)(エシュー
テ夫人の心は、自分はこれほど素晴らしい一騎打ちを見たことがないと認めた)
(435) jâ gap der vrouwen hant, daz man sô gôzer milte mêre nie gesach (Nibelungenlied 1127)
(勿論女王〔クリエムヒルト〕の手は人がそれほど大量の施しを見たことがないほど与
えた)
(436) Parzivâl der wîgant ein cleinez vingerlîn dâ kôs, daz si durch arbeit nie verlôs (Parzival
438, 2)(勇士パルツィヴァールは小さな指輪に気がついた。それは彼女が苦難によって
も決して外すことがなかったものだった)
(437) sô milten kamerære gewan noch küneginne nie (Nibelungenlied 518)(そのように鷹揚
な財務官を女王はいまだ持ったことはなかった)
(438) ein wâfenhemde sîden daz leit' an diu meit, daz in deheinem strîte wâfen nie versneit
(Nibelungenlied 429)(姫はどんな戦いにおいても武器が切りつけたことのない絹のかた
びらを身に着けた)
(439) ouch gap nie deheiner zuo sîn selbes hôhgezît sô manigen rîchen mantel (Nibelungenlied
1369)(また誰も自分の祝宴にこれほど多くの高価なマントを 与えたことはなかった )
(440) nie gelebte Prünhilt deheinen leideren tac (Nibelungenlied 847)(プリュンヒルトはこれ
以上に侮辱的な日を経験したことはなかった)
(441) künec unde künecriche dien gelebeten nie so lieben tac (Tristan 7239)(王も王国もこれ
ほど嬉しい日を経験したことはなかった)
(442) nie getruogen mœre sô manic rîche gewant (Nibelungenlied 778)(それほど沢山の素晴
らしい衣装を馬が運んだことはなかった)
(443) genuoge in rîcher wæte giengen vor dem sal, die nie dâ vor getruogen sô hêrlîchiu kleit
(Nibelungenlied 516)(そのような晴着を以前には着たことのない人が大勢立派な服を着
て広間の前を歩いた)
(444) boten nie getruogen alsô hêrlîch gewant (Nibelungenlied 1182)(使者と呼ばれる者が
これほど立派な服を着たことはなかった)
(445) dô næten sich die recken in alsô guot gewant, daz nie helde mêre in deheines küneges lant
ie bezzer kleider brâhten (Nibelungenlied 1852)(そこで武士たちは、勇士がこれまでどん
な王国にもこれ以上によい服を持ってきたことはないほどによい衣装に身を包んだ)
(446) die spilgesellen beide dien geschieden sich e males nie mit solher marter alse hie (Tristan
18365)(この愛し合う二人がこれほどつらい思いをして以前分かれたことはなかった)
(447) Tristan stuont allez ze stete, daz er doch nie da vor getete. sine kam e males zuo z'im nie,
ern gienge verre gegen ir ie (Tristan 14682/14683)(トリスタンはその場に立ちすくんだ。
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そんなことを彼は以前にはしたことはなかった。彼が彼女を遠くから迎えることなく彼
女が以前に彼の方に向かって行ったことはなかった〔彼女が彼の方に向かえば彼は必ず
彼女を迎えた〕)
(448) alsô grimmeclîchen ze flühten Hagen nie gelief noch in der werlde vor deheinem man
(Nibelungenlied 982)(逃げるのにこれほど恐ろしい勢いでハゲネはこの世で誰の前から
も走り出したことはなかった)
(449) ez gefuoren nie hêrlîcher fürsten spileman (Nibelungenlied 1433)(王の楽人がこれ以上
立派に行進したことはなかった)
(450) Hildebrant der alte Wolfharten vallen sach; im wæne vor sînem tôde so rechte leide nie
geschach (Nibelungenlied 2298)(老将ヒルデブラントはウォルフハルトが倒れるのを見
た。私が思うに、彼の死ぬ前にこれほど辛い目が彼に起こったことはなかった)
(451) ich wæne in an der verte nie sô sanfte geschach (Nibelungenlied 1661)(私が思うに、
旅において彼らがこれほど穏やかになったことはなかった)
(452) ein wirt bî sînen gesten schôner nie gesaz (Nibelungelied 1817)(主人と呼ばれる者が
これ以上に立派に客の傍らにすわったことはなかった)
(453) sô rehte grimmer verge der kom dem Tronegære nie (Nibelungenlied 1560)(これほど怒
りっぽい渡し守がトロネゲの人〔ハゲネ〕に現れたことはなかった)
(454) irn kômen hôher boten nie (Nibelungenlied 1226)(彼女〔クリエムヒルト〕のところ
にこれより高位の使者が来たことはなかった)
(455) küener videlære wart nie dehein (Nibelungenlied 1834)(これより勇敢なヴァイオリン
奏者があったことはなかった)
(456) jâne wart den Sahsen geriten schedelîcher nie (Nibelungenlied 177)(ザクセン側はこれ
ほど手痛く襲撃されたことはなかった)
(457) ez enwart nie degenen noch mêre geurloubet baz (Nibelungenlied 318)(武士がこれほ
ど丁寧に別れの挨拶を送られたことはかつてなかった)
(458) ez enwart nie bote enpfangen deheines fürsten baz (Nibelungenlied 562)(どんな領主の
使いもこれよりよく迎えられたことはなかった)
(459) ez enwart nie geste mêre baz gepflegen (Nibelungenlied 689)(客がこれ以上厚くもて
なされたことはなかった)
(460) es enwart nie suone mit sô vil trähen mê gefüeget under vriunden (Nibelungenlied 1115)
(これほどたくさんの涙によって親族の間で和解が結ばれたことはなかった)
(461) jâ wart vremder geste baz gepflegen nie (Nibelungenlied 801)(確かに異国の客がこれ
以上によくもてなされたことはなかった)
(462) ze so grôzem antpfange [...] wart nie sô vil der vrouwen bî ein ander gesehen
(Nibelungenlied 583)(このような盛大な出迎えの際にこれほど多くの女性が相並んで見
られたことはなかった)
(463) jane wart nie grœzer solden mêr ûf vîende getân (Nibelungenlied 2130)(これ以上の恩
賞が敵を倒すために与えられたことはなかった)
(464) des kunde der künic Etzel nimmer vrœlîcher wesen (Nibelungenlied 1387)(そのためエ
ッツェル王はこれ以上に喜ぶことはありえなかった)
- 183 -
(465) von Marroch ûz dem lande und ouch von Lybîan die aller besten sîden, die ie mêr gewan
deheines küneges künne, der heten si genuoc (Nibelungenlied 364)(モロッコやリビアの国の、
王族と呼ばれるものがこれまでに手に入れた最上の絹を彼らは十分に持っていた)
(466) si hete nâch liebem vriunde die aller grœzisten nôt, die nâch liebem manne ie mêr wîp
gewan (Nibelungenlied 1105)(彼女〔クリエムヒルト〕はこれまで女が愛する男に向けて
抱いた最大の苦しみを愛しい愛人〔ジーフリト〕に向けて抱いていた)
(467) unt wære des niht geschehen, sô müese man von schulden dem edeln recken jehen, daz er
wære ein der beste, der ie ûf ors gesaz (Nibelungenlied 723)(そうでなかったとしても、人
は当然その高貴な武士〔ジーフリト〕に、彼がこれまでに馬に乗った人間の最高の者で
あると認めねばならなかっただろう)
5. 4 非過去を表す現在完了形に準ずる過去形
上で見たように、現在完了形は未来完了形のように未来や不定時における完了を表すこ
とができるが、それは過去形においても可能である。
(468) er mac si wol ergetzen, swaz si leides ie gewan (Nibelungenlied 1215)(彼女〔クリエム
ヒルト〕がいつどんな苦しみを被ったとしても、彼〔エッツェル〕は彼女の苦しみを埋
め合わせることができる)
(469) sîn riuwe hât sô kurzen zagel, daz si den driten biz niht galt, vour si mit bremen in den
walt (Parzival 2, 21/22)(その〔人に対する不誠実な心の〕誠実はあまりに短い尻尾しか
ないので、それが虻のいる森に入ったら、三度刺されたことに対して反撃できない)
(470) diz maere, der daz ie gelas, der erkennet sich wol, daz der nam dem lebene was
gehellesam (Tristan 2018)(この話を読んだことのある者は、その名前がその人生にふさ
わしいものであったことがよく分かる)
(471) der ermant vil dicke den man, der ie ze liebe muot gewan, beidiu liebes unde guotes
(Tristan 4766)(それ〔小夜啼鳥の歌〕は恋心を抱いたことのある者に喜ばしいこととよ
いことの二つを思い起こさせる)
(472) swanne er daz erringet, daz er den zwivel waren weiz, swes er sich ie da vor gevleiz ze
pirsene uf die warheit, daz ist im danne ein herzeleit vor allem herzeleide. diu voderen beide,
diu im e beswaereten den muot, diu diuhten in danne guot (Tristan 13802)(彼〔疑いを抱く
者〕がその疑いが本当であると知ることになってしまうと、彼がどんなにそれまで真実
を求めて努力してきたとしても、それが彼には何にも勝る心痛となる。そして彼の心を
以前苦しめていた二つもの〔疑念と不信〕を彼はその方がましだったと思うだろう)
この用法は古高ドイツ語においても可能であったが、中高ドイツ語ではかなり制限され、
用例はそれほど多くないように思われる。
5. 5 中高ドイツ語の過去形(まとめ)
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現在完了形や過去完了形の発達にも拘わらず、中高ドイツ語の過去形は従来持っていた
機能をまだ失ってはいない。このことは、完了形の発達と過去形の衰退の関連について重
大な結論を導く。すなわち、過去形が衰退した結果、それを補完するために完了形が発達
したのではなく、完了形の使用の拡大によって侵食という形で過去形の使用が制限されて
いったのである。ドイツ語においては過去形の衰退が進み、 1500 年頃には南ドイツで過
去形は消失する(Lindgren 1957 を参照)。この過去形の衰退と消失の問題は次章の「7.
南ドイツにおける過去形の消失」で述べるが、中高ドイツ語までの過去形の衰退は完了形
の発達によって引き起こされたのであり、その逆ではないことをここで確認しておく。
6. 受動の sein +過去分詞と完了形
前章で述べたように、もともと完了形は受動の sein +過去分詞と連動する形で生まれ
た。中高ドイツ語でもこの関連は保たれており、次のように受動の sein +過去分詞と自
動詞の完了形の sein +過去分詞が一つの sein を介して並置されることがある。
(473) diu ross bereitet wâren unt für Bechelâren komen (Nibelungenlied 1327)(馬が用意さ
れ、ベヒェラーレンの門前に来た)
(474) knappen, die des pflâgen, wârn wol gecleidet und geriten (Parzival 10, 11)(世話をする
小姓たちはよい身なりをし、馬に乗っていた)
(475) daz ist erstorben unde begraben, swenne ir von hinnen keret (Tristan 5826)(あなたが
ここから去れば必ず、それ〔我々の命〕は死んで、葬られる)
15)
この時代、受動の完了形(ist worden getan 等)は、下の例のように存在しないわけでは
ないが、ほぼ皆無と言ってよいほどにしか現れない。
(476) nu was ez ouch über des jâres zil, daz Gahmuret geprîset vil was worden dâ ze
Zazamanc (Parzival 57, 29)(今やガハムレトがツァツァマンクで大いに賞賛されて一年
以上月日が経っていた)
従って、依然として完了形に対応する受動形は sein 受動である。次に挙げた例の各組は、
類似の事態を一方は sein 受動で、他方は完了形で表したものである。
(477) waz ist hie getân? (Nibelungenlied 2242)(ここで何が行われたのか)
(478) wie ist daz geschehen? (Nibelungenlied 1764)(どうしてそういうことが起こったの
か)
(479) daz si den tumben dienten, als in was ê getân (Nibelungenlied 32)(彼らはかつて自分
たちになされたように元服を受ける侍童たちを世話した)
(301) der herre der hiez lîhen Sîvrit den jungen man lant unde bürge, als er het ê getân
(Nibelungenlied 39)(王〔ジゲムント〕は若い王子ジーフリトに、かつて自分が行ったよ
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うに国と城を与えさせた)
(480) dô zôh man in mit vlîze; daz was von schulden getân (Nibelungenlied 716)(そこで人々
は彼〔ジーフリトの子〕を心を込めて育てた。それは当然のこととして行われた)
(481) [er] rihte under krône unz an daz zehende jâr, daz diu vil schœne vrouwe einen sun gewan.
daz was des küneges mâgen nâch ir willen ergân (Nibelungenlied 715)(〔彼、ジーフリト
は〕王として統治すること十年目に達し、美しい妃は一人の息子を得た。それは王の一
族にとって意志に沿って起こったことだった)
(482) dem sint die wege von kinde her zen Hiunen wol bekant (Nibelungenlied 1419)(彼〔ハ
ゲネ〕にはフン族の国への道が子供の頃からよく分かっている)
(483) ich hân erkant von kinde die edelen künege hêr (Nibelungenlied 1147)(私はその高貴
な妃のことを子供の頃から知っている)(= (45))
(484) ich bin mit micheler not vil manegen übelen wec geslagen in disen swaeren ahte tagen
(Tristan 8825)(私はこの辛い一週間大いに苦しみながら多くの難儀な海路を押し流され
てきた)
(485) sus bin ich eine sider geswebet mit marter und mit maneger clage wol vierzic naht und
vierzic tage, swar mich die winde sluogen, die wilden ünde truogen wilent her und wilent hin
(Tristan 7596)(こうして私はその後一人で、風と荒れる波が私を時にこちら時にあちら
へと押しやり運ぶまま、苦痛と悲嘆の中で約 40 昼夜漂っていた)(= (100))
(486) selten vroelîchiu werc was dâ gevrümt ze langer stunt (Parzival 227, 15)(そこでは楽し
い騎士の活動は長らく行われていなかった)
(487) im was in manigen zîten niht sô lieber mære komen (Nibelungenlied 1641)(彼〔リュエ
デゲール〕にこれほど嬉しい知らせは長いこと来たことがなかった)(= (242))
(488) nu diz was al zehant geschehen reht alse ez wart geraten da (Tristan 14282)(それです
ぐさまそれは相談された通りになった)
(489) nu diz was al zehant getan, daz er gebot und des er bat (Tristan 14294)(それですぐさ
まそれは彼〔マルケ王〕が命じ、頼んだ通りに行われた)
(490) ich hân vernomen lange von Kriemhilde sagen, daz si ir herzeleide wolde niht vertragen
(Nibelungenlied 1960)(クリエムヒルトについて、彼女がその心痛を我慢する気がないと
いうことを人が言うのを私はずっと前から聞いている〔聞いてから長い〕)(= (278))
(491) ich hoere meinen vater sagen, min vater der si lange erslagen (Tristan 4368)(私は〔ト
リスタン〕は私の父がずっと前に打ち殺された〔打ち殺されてから長い〕と言われるの
を聞く)
(492) so hab wir den oftgnanten / dem apte vnd der samnvnge von zwetel / disen prief gegeben
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ze einem vrchunde mit vnsern insigelen verinsigelt · von Christes geburtte vber Tovsent iar zwai
hvndert iar in dem ain vnd ahzigestem iar / des nahsten mæntages vor sant Elsbeten tak
(Originalurkunden Nr. 487: 1281)(それで我々は、何度も名を挙げた大修道院長および修
道院ツヴェテルの一同に、この文書を我々の印章で封印された証文としてキリスト生誕
後 1281 年聖エリザベトの日の直前の月曜日に渡した)(= (218)(299))
e
e
(493) diser brif ist gegeben / ze Winen nach Christes gebvrt / v ber Tovsent iar / vnd v ber
zvaihvndrt iar an dem ein vnd / Ahzegsten iar / an dem virden tage / nach mittem Meien・des
e
Ma ntags in der Chrevzwochen (Originalurkunden Nr. 470: 1281)(この文書はウィーンでキ
リスト生誕後 1281 年 5 月後半十字架週の月曜日に渡された)
上の例で(482)と(483)は事態完了後の結果状態を表す例であるが、どちらも von kinde her
「子供の頃から」という副詞句が用いられている。現代語であれば、er kennt es von Kind
an のように現在形を用いるところで現在完了形を用いているが、それが sein 受動におい
ても可能だということである。また、 (484)と (485)は事態の継続を表す例であるが、どち
らも期間を表す時間副詞句を伴っている。また、 (487)は経験の用法が事態継続の用法と
連動することを示す例であったが(P.160 参照頁)、それは(486)のように sein
受動によ
っ て も 表 さ れ る 。 ま た 、 (488)は 過 去 か ら 見 た 未 来 完 了 形 的 な 事 態 を 表 す 過 去 完 了 形
(P.162 参照頁以下を参照)であるが、それは(489)のようにそれが sein
受動によっても
表現されうる。そしてどちらにも al zehant「すぐさま」という副詞句が使用されてい
る。(490)と(491)は類似する事態を表すわけではなく、また、sein
受動は接続法 1 式で、
(490)の現在完了形とは助動詞の時制が異なるが、どちらも完了後の結果状態の存続を表
し、そこに付加された lange「長らく」という副詞が事態そのものではなく結果状態の時
間を表すという点で共通する。最後の(492)はすでに前に挙げたことのある 13 世紀の証文
の例で、特定の時点を指す時間副詞句が現在完了形に用いられているが、それは (493)の
ように sein 受動においても可能である。
このように、sein 受動には完了形の様々な用法に対応する例が見られる。16) 例えば、現
在完了形は発話時を表す nu「今」のような副詞を伴う例が多くあるが、それは sein 受動
にも見られる。
(494) nu ist iu doch gewizzen, waz wir haben getân (Nibelungenlied 1459)(我々が何をした
かは今やあなたにも分かっているだろうに)
(495) jane ist mîn vrouwe Prünhilt nu niht sô wol gemuot, daz ir si müget schouwen
(Nibelungenlied 1486)(王妃プリュンヒルトは、あなたが彼女に会えるほど今気分がよく
ない)
(496) nu ist iu doch daz wol erkant (Tristan 14834)(今やあなたにはそのことがよくお分
かりでしょう)
(497) nu ist enschumpfiert ir wer (Parzival 43, 30)(今や彼らの抵抗は打ち負かされた)
(498) alle mîne sorge sint mir êrste nu bekant (Nibelungenlied 1094)(すべての自分の苦し
みが今初めて思い知らされた)
(499) nu ist hie mit ir gâbe vil manic wunder getân (Nibelungenlied 1366)(今ここで彼女
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〔クリエムヒルト〕の贈り物によって大いに驚くことがなされた)
(500) nu sint mir mîniu jâr nâch grôzer tumpheit bewant (Parzival 42, 17)(今回私の年齢は
とても馬鹿げたことに 向けられた 〔自分の年齢にふさわしくなく馬鹿げたことをし
た〕)
また、事態の継続や反復を表す完了形に対応する sein 受動の例も存在する。
(501) ich bin doch nu vil lange ergeben als ungewissen winden (Tristan 19512)(私は今まで
ずっとこうして定めない風に身を委ねている)
(502) liut unde lande ist wol erkant, wie sere ir g'arcwaenet sit nu lange und vor maneger zit
mit minem neven Tristande (Tristan 16543)(お前が我が甥トリスタンとの間をこれまでず
っと何年も前からどれほどひどく疑われているかは国中に知られている)
(503) diz golt vil edele daz wart mir verstoln und ist mich harte lange vil übele vor verholn
(Nibelungenlied 848)(その気品ある金〔の指輪〕は私のもとから盗まれたもので、それ
はずっと長いこと悪意を持って私に対し隠されてきました)17)
(504) so dicke als er zem besten an rehter manheit ist gezalt (Tristan 6509)(彼〔モーロル
ト〕の真の男らしさがどれほどたびたび最高のものに数えられてきたとしても)
また、経験を表す完了形に対応する sein 受動の例も見られる。
(505) vil selten ist vernomen von alsô hôhem gruoze (Nibelungenlied 1816)(これほど高貴な
挨拶があったとは聞かれたことがない)
(506) daz ist sô guoten helden noch vil selten her getân (Nibelungenlied 1847)(そんなこと
〔寝首を掻かれること〕は優れた勇士にこれまで行われたことはない)
(507) mir ist noch vil selten geschenket bezzer wîn (Nibelungenlied 2116)(これよりよいぶ
どう酒が私につがれたことはない)
(508) ob in nu kumber wecke, des was er dâ vor niht gewent (Parzival 248, 15)(彼〔パルツ
ィヴァール〕を今苦しみが呼び覚ますか、そういうことには彼は以前には慣れたことは
なかった)
(509) ist iemen baz enpfangen, daz ist mir unbekant, danne die helde mære in Sigemundes lant
(Nibelungenlied 707)(名高い英雄たちがジゲムントの国に迎えられた以上に誰かがよく
迎えられたことがあるとは私は知らない)
この場合、経験の否定を表す否定辞として完了形の場合のように selten
がよく用いられ
るという点が目を引く(過去形の場合は「5. 3. 1 経験を表す現在完了形と同等の過去形」
で見たように nie が多い)。
また、完了形には基準時との関連が間接的でしかないような例が存在したが(「2. 4 基
準時との間接的な関連を表す現在完了形」を参照)、そのような例は sein 受動にも見ら
れる。
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(510) ein vesperîe ist hie erliten, daz trunieren wirt vermiten an dirre zît vor Kanvoleiz
(Parzival 86, 21)(前哨戦がここで体験されたので、カンヴォレイス城外でこの時間、槍
試合は避けられる)
(511) vor Pelrapeire ûf dem plân ist werdiu ritterschaft getân (Parzival 203, 17)(ペルラペイ
レ城外の草原で見事な一騎打ちが行われた)
(512) ir sît durch in geslagen (Parzival 218, 8)(あなたは彼〔ケイエ〕に殴られた)((152)
を参照)
また、すでに上の (489)の例で見たように、sein
受動には未来完了形的な完了形に類似
する sein 受動の例がある。
(513) swaz ir durch sî gebietet, daz ist allez getân (Nibelungenlied 536)(あなたが彼女〔ク
リエムヒルト〕のために何を命じようと、それはすべて行われる)
(514) swaz ir wellet, deist getan (Tristan 10634)(あなた達が何を望もうと、それは行われ
る)
(515) welt ir iht, des ich han, daz ist allez getan (Tristan 13194)(私が持っている何かをあ
なたが望むのなら、それはすべて行われる〔与えられる〕)
(516) swaz ir gebietet, deist getan (Tristan 13934)(あなたが何を命じようと、それは行わ
れる)
(517) swaz ir dar über geruochet und her ze mir gesuochet, daz ist allez getan (Tristan 7879)
(あなたがそれ〔学芸の教授〕に関して私に何を望み要求しようと、それはすべて行わ
れる)
(518) so ist maneger geheilet, der nu vil sêre wunder lît (Nibelungenlied 257) (そうすれば今
重い傷に苦しんでいる多くの者たちも治るだろう)
(519) sîn swester sol iuch grüezen; daz ist zen êren iu getân (Nibelungenlied 290)(彼の妹君
があなたに挨拶することになっている。それは敬意を表してなされるのだ)
(520) ich sol in immer dienen [...] daz ist nâch iuwern hulden, mîn frou Kriemhilt, getân
(Nibelungenlied 304)(私は彼らにずっと仕えましょう〔……〕それはクリエムヒルト姫、
あなたの情愛を求めてなされるのです)
(521) die sint dâ von bescholten, swaz ir wirt geboren her nâch disen zîten (Nibelungenlied
990)(これからのちに生まれてくる者はこのことで罵られるだろう)
(522) kumestu hin zen Hiunen, sô bistu sêre betrogen (Nibelungenlied 1539)(もしあなたが
フン族のところへ行けば、あなたはひどく裏切られますよ)
(523) unde koments' an den wint, erkuolent in die ringe, sô sît ir alle vlorn (Nibelungenlied
2100)(もし彼らが風にあたって彼らの鎧が冷やされれば、あなた達皆 滅ぼされるだろ
う)
(524) vert er ze Curnewale wider, so leit er Parmenie nider an aller siner werdekeit und ist ouch
Rual nider geleit an vröuden unde an muote (Tristan 5660)(彼〔トリスタン〕がコンウォー
ルへ帰れば、彼はパルメニーエの価値を下げることになり、ルーアルの喜びと気持ちも
低下してしまう)
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(525) daz ist mir liebe getân (Nibelungenlied 1172)(それは嬉しいこととして行われる〔行
われれば嬉しい〕)
(526) und ist aber ez also getan, daz mir in dirre jares vrist gelücke niht geschehen ist, so
muget ir iuch min wol bewegen (Tristan 7462)(しかしもし、今年中に幸運が私に見舞われ
ないということになったら、あなたは私をあきらめてもよい)
(527) sô daz ist getân, dem sol man jehen danne, den man sihet gewunnen hân (Nibelungenlied
973)(それが行われたら、そのとき人は勝った者にその勝ちを認めることになろう)
(528) nu bindet ûf die helme, daz ist rætlîch getân (Nibelungenlied 1601)(今や兜の緒を締め
よ。それがなされれば役に立つ)
勿論、未来完了形的な意味で用いられているとは言っても、これらの例は、すでに古高ド
イツ語において見られたような(78 頁以下を参照)「動作受動」的な意味を表す sein 受
動の例と見ることもでき、そうだとすれば、特に完了形との連動で捕らえる必要はないと
言える。しかし、古高ドイツ語の動作受動的 sein 受動とは異なり、これらの例はほとん
ど条件と帰結という形で用いられている。従って、古高ドイツ語以来の動作受動的 sein
受動と見るよりは、未来完了形的な意味の sein 受動と捕らえる方が適切であると考えら
れる。
以上、sein 受動と完了形の意味的関連を見てきたが、この関連は前章で述べたようにす
でに古高ドイツ語に見られるものであった。ただ、古高ドイツ語における両者の関連は
sein 受動から完了形への一方的な影響であった。しかし、中高ドイツ語においては、経験
の否定の用法においてどちらも、古高ドイツ語には見られなかった否定辞 selten
が用い
られるという点などを見ると、sein 受動が一方的に完了形の発達に影響を与えたというよ
りも、共通の時間表現を示すものとして両者がともに発達していったと考える方がよいだ
ろう。
7. 法助動詞+完了不定詞
中高ドイツ語には古高ドイツ語には見られなかった法助動詞+完了不定詞という構造が
現れる。完了不定詞はすでにノートカーにも見られたが、それは法助動詞との組合せにお
いてではなく、ラテン語の完了不定詞の訳語として用いられていた。18)
中高ドイツ語に現れる法助動詞+完了不定詞は、それがこの時代に初めて現れるという
だけではなく、次の例のように、その意味が現代語とは異なる場合が多いという点でも注
目すべきものである。
(529) möhte er ir iegelichen uf siner hant getragen han, daz haete er gerne getan (Tristan 3493)
(もし彼〔トリスタン〕が彼ら〔宮廷の人々〕を自分の手にのせて運ぶことができたと
すれば、喜んでしていただろう)
このような例がどう解釈されるのか、様々な例を挙げて考察していきたい。
- 190 -
7. 1 法助動詞の現在形+完了不定詞
現代ドイツ語で法助動詞+完了不定詞が用いられる場合、er muss es getan haben「彼は
それをしたに違いない」のように過去の事態に対する必然や推量などを表すのが普通であ
るが、中高ドイツ語においては、この構造の意味はそれとはかなり異なる。
(530) in welle behüeten, du muost in sciere vloren hân (Nibelungenlied 14)(その男を神がお
守り下さるように。さもないと、あなたはその男をすぐに失わねばならない)
(531) sol ich dich hân verlorn, sô mac mich balde riuwen, daz ich ie wart geborn
(Nibelungenlied 2322)(もし私〔ディエトリーヒ〕があなた〔ウォルフハルト〕を失うと
いうのであれば、私は勿論、自分がかつて生まれたことを後悔するだろう)
(532) den sult ir iuwer minne und iuwer hulde lazen han (Tristan 10643)(あなたが彼〔トリ
スタン〕にあなたの温情と好意を受けさせるようにして頂きたい)
(533) ir sult ez niht anders hân vernomen, wan daz der vischer sî komen (Parzival 229, 19)
(漁師が来たということだけをあなたが知るようにということである〔それだけをあな
たに知らせようというのが道化の考えである〕)
(534) ir sult si dâ vür hân erkant, iuch envienc hie niemen wan ir hant (Parzival 394, 17)(そ
れよりもあなたは、あなたを捕らえたのがほかならぬ彼女〔オビロート〕の手であるこ
とを認識して頂きたい)
上の例はどれも過去の事態の推量や必然などを表さない。表される事態は過去ではなく、
むしろ基準時よりもあとの未来にある。では、なぜ(現在)不定詞ではなく完了不定詞を
用いるのかが問題になるが、上の (530)の例に schiere「すぐに」が用いられていることに
注目すると、この副詞は、上に挙げた、現在完了形の (182)-(184)や過去完了形の (254)(258)の例のように未来完了形的な非過去を表す完了形で用いられていた。従って、ここ
の完了不定詞も、未来完了形的な意味で用いられているのであり、あくまでこの時代の現
在完了形や過去完了形の用法に基づいていると言える。
他に法助動詞が現在形になるものとして次のような例も存在する。
(535) hie sol niht mêr geswigen sîn (Parzival 189, 5)(ここで〔私は〕これ以上黙っていて
はいけない)
この例の完了不定詞は、未来完了形的な用法というよりは、事態の継続の用法に従って用
いられていると考えられる。その意味では、これも完了形の一般的用法に従っていると言
える。
このように、法助動詞の現在形+完了不定詞における完了不定詞は、この時代の完了形
の用法に基づいて用いられると言える。しかし、完了不定詞が最も基礎的な完了後の結果
状態の存続の用法に従って用いられれば、現代語の er muss es getan haben「彼はそれをし
たに違いない」のように過去の事態に対する推量や必然を表してもよいはずであるが、そ
のような例は現れない。
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7. 2 法助動詞の接続法1式+完了不定詞
法助動詞の接続法1式+完了不定詞の例は多くないが、次のような例が見られる。
(536) ir ist lîhte vor dir niht sô gâch, dune mügest si schiere hân erriten (Parzival 442, 23)(彼
女〔クンドリーエ〕は、あなたがすぐに馬で追いつけないほどには、あなたの先を遠く
へは行っていないだろう)
この完了不定詞は、上で見た、法助動詞が現在形の (530)以下の例と同様、未来完了形的
な意味で用いられていると考えられる。
7. 3 法助動詞の接続法2式+完了不定詞
以上の例は法助動詞が現在形の例であったが、法助動詞+完了不定詞という構造におい
ては、法助動詞が過去形の例と接続法2式の例が最も多い。19) ここではまず、接続法2式
の例を挙げる。
(537) du möhtes wol gedaget hân, und wære dir êre liep (Nibelungenlied 849)(あなたにとっ
て名誉が大事なら、黙っておく方がよいでしょう)
(538) daz möht ir gerne hân verdaget (Parzival 464, 6)(そんなことはあなたは黙っておく
方がよい)
(539) ir möht iuch nu wol hân verschemt (Parzival 90, 4)(あなたは今や恥辱を忘れてよい
だろう)
(540) dannoch vor naht do wart der schal in dem lande vliegende über al, daz der stolze Kaedin
uz geriten solte sin mit offener reise (Tristan 18836)(誇り高いカーエディーンが大遠征を
して外へ馬を進めたという声が日暮れ前に国中に飛び交った)
(541) iuch möht des waldes hân bevilt, von erbûwenem lande her geriten (Parzival 250, 20)
(開墾された国から来て、森はあなたには大変だっただろう)20)
(542) durch die trügeheit, die er begangen solte han (Tristan 14935)(彼〔メロート〕が犯し
たと言われる虚偽のために〔メロートは苦しんだ〕)
上の (537)(538)は完了形の事態継続の用法に準ずるもの、 (539)は未来完了形的な用法に基
づくもの、 (540)は結果状態の存続の用法に準ずるもの、 (541)(542)は基準時との関連が間
接的な完了形の用法に対応するものとして、それぞれの完了不定詞を見ることができる。
以上は完了不定詞をこの時代の完了形の用法から説明できる例であったが、実際には、
法助動詞の接続法2式+完了不定詞の構造は、完了不定詞をそのようには説明できない例
の方が多い。
(543) möhte er ir iegelichen uf siner hant getragen han, daz haete er gerne getan (Tristan 3493)
- 192 -
(もし彼〔トリスタン〕が彼ら〔宮廷の人々〕を自分の手にのせて運ぶことができたと
すれば、喜んでしていただろう)(= (529))
この(543)は現代ドイツ語では、wenn er jedem von ihnen auf seiner Hand hätte tragen können
のように法助動詞の完了形の接続法2式で表される。つまり、現代ドイツ語では hätte
können によって表される過去性が、(543)では、完了不定詞の getragen han によって表さ
れている。kunnen (= können) の過去性を完了不定詞が表すということは、統語意味論的に
ずれが生じているということである。この種の例は中高ドイツ語にはかなり頻繁に現れる。
(544) waere ez im an den lip geboten, ern möhte ez niht verswigen han (Tristan 3519)(もし
それが彼〔トリスタン〕に対し命に関わることとしてそうしないよう命じられていたと
しても、彼はそれを隠すことはできなかっただろう)
(545) Tristan den anker werfen bat wol alse verre von der habe, daz man mit einem bogen dar
abe niht möhte haben geslagen zuo z'in (Tristan 8683)(トリスタンは、人が弓でそこから
彼らに向かって撃つことができないほど港から離れたところに錨を下ろさせた)21)
(546) möht ir gerüeret hân den vlans, und het den wirt gevrâget (Parzival 247, 28)(あなたは
その口を動かすことができていれば、そしてご主人様に質問していたらよかったのに)
(547) kund ich iu bas gedienet han, daz haete ich gerne getan (Tristan 3047)(もし私があな
た達にもっとよく奉仕することができたとすれば、喜んでしただろう)
(548) sehs ritter solte er hân gevalt, die gein im koemen ûf ein velt (Parzival 197, 18)(戦場で
彼に立ち向かう者が六人の騎士であったとしても、彼は打ち倒していたはずだろう)
(549) ouch wânde dô ein vrouwe sân, si solt den prîs verlorn hân, hete si dâ niht ir âmis
(Parzival 216, 24)(各婦人はすぐに、もし自分がここに信奉者を連れていなければ、栄
誉を失わねばならないだろうと思った)
(550) dem haete er sine maze an der seige und an dem laze rehte in der merke gegeben, daz er
Tristande an sin leben solte sin gegangen (Tristan 16021)(彼〔ウルガーン〕は、トリスタ
ンの命に攻撃を加えるという意図で、それ〔投擲〕のねらいと方法を正しく計った)
(551) die wolten uns, haete ich ez niht mit minem guote underkomen, den lip zem guote han
genomen (Tristan 9526)(彼らは、もし私が財産を差し出すことでそれを阻止しなかった
ら、財産に加えて命を奪おうとしていただろう)
(552) man haete in allen landen dekeine vröude vunden, die si zwei zuo den stunden wolten
haben gekouft dar in umbe ein glesin vingerlin (Tristan 16869)(彼らがその頃ガラスの指輪
の値段であっても買いたいと思うほどの喜びはどこの国にも見つからなかっただろう)
(553) irn dörftet mich niht han gemant so verre, ich seite ez iu doch wol (Tristan 3462)(あな
たがそれほど強く私に求めなくともよかった。そうでなくとも私はあなたにそれを話し
ていただろう)
(554) der dûhte si anders wol sô wert, daz er niht dörfte hân gegert ir herberge (Parzival 185,
24)(彼〔パルツィヴァール〕を彼らはとても高貴に思い、彼が自分たちの所で宿を 求
める必要はないだろうと考えた)
(555) waere ez da zuo komen, daz ir müeset han genomen den truhsaezen ze manne, wie vüere
- 193 -
ez aber danne? (Tristan 11612)(あなたがもし内膳頭を夫にしなければならないというこ
とになっていたら、どうなっているでしょう)
(556) den müese er gar verloren hân, waerz niht ein herzehafter man (Parzival 224, 17)(もし
それが思慮深い男でなかったら、それ〔分別〕を失うことが必然であったろう〔きっと
失っていただろう〕)
結論として言えることは、中高ドイツ語ではまだ法助動詞の完了形は発達していなかっ
た。法助動詞の接続法2式+完了不定詞が、法助動詞の完了形の接続法2式の代用形のよ
うなものとして用いられた。この場合、完了不定詞はこの時代の完了形の用法からは説明
できないということである。
7. 4 法助動詞の過去形+完了不定詞
法助動詞+完了不定詞という構造のうち、法助動詞が過去形になる場合も多い。この場
合、過去における非現実の事態が表されると言われる (Paul/Wihl/Grosse 1989: 295 f. を参
照)。しかしそれは絶対的ではなく、非現実を表さない場合もある。
(557) ern dorfte sîn besezzen niht ûf dem orse aldâ er saz (Parzival 74, 16)(彼は乗っていた
馬に坐り続ける必要はなかった)(注・実際に馬から落ちている)
(558) der karakter â b c muose er hân gelernet ê (Parzival 453, 15)(彼はまず魔法の文字の
ABCを習得する必要があった)(注・実際に修得した)
この場合、 (557)の完了不定詞は事態の継続を表し、 (558)の完了不定詞は未来完了形的な
意味で用いられていると考えられ、この時代の完了形の用法に従っている。
非現実を表さない例としては次のようなものもある。
(559) Tristande was daz maere vil innecliche swaere von anders nihte wan von dan, daz er an
dem getriuwen man vater unde vaterwan also verlorn solte han (Tristan 4232)(トリスタンに
はその話は心からつらかった。それはほかでもなく、彼がその忠実な人において父と、
父がいるという考え〔の二つ〕を失うことになった〔忠実なルーアルが父ではないこと
が分かり、それで自分に父があるという考えを捨てなければならなくなった〕からであ
る)
(560) nu daz diu guote marschalkin der noete genesen solte sin und nach ir sehs wochen [...]
des suns ze kirchen solte gan [...] si selbe in an ir arm nam (Tristan 1956)(立派な主馬頭夫人
が苦しみから回復したということになって、6 週間後に息子のために教会に行かねばな
らなくなったとき、彼女は自ら彼を腕に抱いた)
(561) daz stuont alsô daz Artûs ze Nantes, dâ er dicke saz, niht dorfte hân gebûwet baz
(Parzival 548, 26)(それ〔館〕は、アルトゥースが、自分が何度も滞在したナントにも、
それ以上によいものを 建てる必要がない ほどのもの〔それほど立派〕であった) (=
(368))22)
- 194 -
この (559)-(561)における完了不定詞がどういう用法で用いられているのかは不明瞭である。
上の (543)-(556)のように法助動詞の接続法2式+完了不定詞であれば、完了不定詞が法助
動詞の代わりに過去性を表すと言うことができるが、ここでの過去性は過去形の法助動詞
が表すと思われる。だとすれば、完了不定詞は何を表すのか。結論を述べれば、この完了
不定詞は結果状態の存続の用法に基づいているということである。
この問題を考えるために、他の法助動詞の過去形+完了不定詞の例を見たい。この構造
はすでに述べたように多くの場合、非現実の過去を表す。これにはいくつかのタイプがあ
る。その一つは次のように solde +完了不定詞によって「~すべきだった〔のにしなかっ
た〕」を表すものである。
(562) [ich] solde iuch selbe an disem wage unde an dirre veigen vart vor disem leide haben
bewart (Tristan 12470)(〔私が〕この道中、忌まわしい旅程においてこのような苦しみ
からあなたを守るべきだったのだが)
(563) iuch solt iuwer wirt erbarmet hân [...] unt het gevrâget sîner nôt (Parzival 255, 17)(あ
なたはご主人のことを憐れむべきだった。〔……〕そうすれば彼の苦しみについて尋ね
ていただろう)
(564) man solde mir siben soume met und lûtertranc haben her gefüeret (Nibelungenlied 9689
(私には人々が七荷駄の蜜酒と混合蒸留酒を運んでくれればよかったのだが)
(565) dô des niht mohte sîn, dô sold' man uns gesidelt haben nâher an den Rîn (Nibelungenlied
968)(それが不可能だったら、我々をラインの近くへ移せばよかったのだが)
(566) er soltez haben lân. im heten mîne herren sölher leide niht getân (Nibelungenlied 121)
(彼〔ジーフリト〕はそれ〔ラインへ来たこと〕をやめておけばよかったのだ。そうす
れば私の主人も彼にそのような苦痛を与えなかっただろう)
(567) diu solte nach mir sit vil tougenliche haben ersant al Curnewal und Engelant (Tristan
19533)(彼女〔イゾルデ〕はその後密かに私を探すためにコンウォールとイングランド
中に使いを出すべきだった)
これが「~すべきだったのに実際にはしなかった」という非現実を表すとすると、その非
現実性は完了不定詞によって表されると考えられる。その場合の完了不定詞は完了後の結
果状態の存続を表す。すなわち、ある事態が完了している状態にあるということは、それ
が確実に生じたということであり、事態の生起の確実性を意味する。そうすると、この構
造は「ある事態が確実に起こっているはずであった」を表現し、そこから逆に「ある事態
が確実に起こるはずであったのに、それにも拘わらず起こらなかった」という非現実性の
含意が生まれる。勿論、非現実性は完了不定詞でなくとも、(現在)不定詞によって「~
すべきだった」と表現することによってもある程度は表される。しかし、絶対にそれが起
こっているはずだったと表現することによって、それが実際には起こらなかったという否
定の含意が強調されるのだと考えられる。
非現実の過去を表す法助動詞の過去形+完了不定詞には、他に wolde
い。この場合も、同じように解釈できる。
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によるものも多
(568) si wolden Volkêren ze tôde erslagen hân (Nibelungenlied 1893)(彼らはフォルケール
を打ち殺そうとした)
(569) er [...] suohte her unde hin uf den gedingen, ob er in iender haete vunden so müeden oder
so wunden, daz ime der strit töhte [...] daz ern erslagen wolte haben (Tristan 9183)(彼〔内膳
頭〕は、自分に戦えるほど弱り傷ついた男をどこかで見つけたらそいつを打ち殺そうと
いう考えであちこち探した)
(570) dar umb ich in wolde so gerne hiut' ertrenket hân (Nibelungelied 1589)(それゆえ私は
今日あれほど強く彼〔僧侶〕を溺死させようとした)
(571) wolt ir slâfende uns ermordet hân? (Nibelungenlied 1847)(お前たちは寝ている我々
を殺そうとしたのか)
(572) dô greif si hin z'ir sîten, dâ si den porten vant, unt wold' in hân gebunden
(Nibelungenlied 677)(そこで彼女〔プリュンヒルト〕は自分の脇に手を伸ばすと、そこ
に帯を見つけ、彼〔グンテル〕を縛ろうとした)
(573) die Kriemhildie man die wolden an den gesten gerne schaden hân getân (Nibelungenlied
1837)(クリエムヒルトの家臣たちは客たちに危害を加えようとした)
(574) dô sach ein Hiunen recke Etzelen gân bî Dietrîche nâhen: genozzen wold' ers hân
(Nibelungenlied 1999)(そのとき一人のフン族の戦士はエッツェル王がディエトリーヒに
随いて行くのを見た。彼はそれで利益を得ようとした〔一緒に逃れようとした〕)
(575) wir wolden Rüedegêren getragen haben dan; des enwolden uns niht gunnen des künec
Guntheres man (Nibelungenlied 2313)(我々はリュエデゲール〔の遺体〕を運びだそうと
したが、グンテル王の家来がそれを我々に許そうとしなかった)
(576) ich tetz durch hoflîchen site und wolte iuch hân gebezzert mite (Parzival 218, 24)(私は
宮廷の風習のためにそれを行ったのであり、あなたを立派にしたかったのだ)
(577) dô der künic Sigemunt wolde sîn geriten, dô begonden Kriemhilt ir mâge biten
(Nibelungenlied 1077)(ジゲムント王が馬に乗って行こうとしたとき、クリエムヒルトの
近親者は彼女に頼んだ)
(578) er wolde sîn genesen, ob im iemen hülfe (Nibelungenlied 1578)(彼〔僧侶〕は誰か助
けてくれるなら、生きのびたかった)
(579) Brangaene wolte erbeizet sin (Tristan 12767)(ブランゲーネは馬から下りたかった)
(580) sus wolte si dem strite, dem muote, unde der zite mit einem liste entwichen sin (Tristan
18137)(それで彼女〔イゾルデ〕は、気持ちと時期という争いから何とかして逃れよう
とした)
(581) dô wolte er hân gevrâget baz (Parzival 247, 25)(彼は聞いてみる方がよいと思ったの
である)
(35) da wolden genuoge vil gerne sin gewesen als er (Tristan 3707)(それで多くの人は非常
に強く彼のようにありたいと思った)
これらの例においても完了不定詞は完了後の結果状態の存続を表す。すなわち、「ある事
態が絶対に起こっていることを望んだ」と表現することによって、逆に「それにも拘わら
- 196 -
ずそれは生じなかった」という非現実性が強められる。
ほかに非現実の過去を表す法助動詞の過去形+完了不定詞には、solde 等によって「~
することがあったとすれば」という条件を表すものがある。
(582) genuoge ûz Beyerlande, solden si hân genomen den roub ûf der strâzen nâch ir gewonheit,
sô heten si den gesten dâ getân vil lîhte leit (Nibelungenlied 1302)(多くのバイエルンの者が
慣習的に路上で略奪をしてそれを取ることがあったとしたら、その者は容易に客に危害
を加えていただろう)
(583) solte unser saelde han beruoht [...] ez waere niht biz her gespart (Tristan 6201)(もし幸
運が我々を気にかけることがあったとしたら、これまで放置されなかっただろう)
(584) gewâpent reit ez der tumbe man den tac sô verre, ez hete lân ein blôz wîser, solte erz hân
geriten zwêne tage, ez waere vermiten (Parzival 161, 19)(武装してその愚かな男〔パルツ
ィヴァール〕は一日でそれだけ遠くへ馬を走らせた。そんなことは賢明な者なら避けて
いただろう。もしその者が二日でそれだけ馬を走らせねばならなかったとしても、それ
は避けられるだろう)
(585) uns tuot diu âventiure bekant daz er bî dem tage reit, ein vogel hete es arbeit, solt erz
allez hân ervlogen (Parzival 224, 25)(物語が我々に知らせるところによると、彼〔パル
ツィヴァール〕が一日で馬を進めた距離は、鳥がそれをすべて飛びおおせたとしても、
苦労したであろうというほどのものであった)
(33) und wære sîn tûsent stunde noch alse vil gewesen, und solt' der herre Sîfrit gesunder sîn
gewesen, bî im wære Kriemhilt hendeblôz bestân (Nibelungenlied 1126)(もしそれ〔宝〕が
千倍あったとしても、もし王者ジーフリトが健やかであったなら、クリエムヒルトは何
も手にせず彼のもとにとどまっただろう)23)
(586) môht' ich es im geweigert han, ich het iz gerne verlân (Nibelungenlied 422)(もし私が
それを彼に拒むことができたなら、わたしはそれをやめたかった)24)
ここでも、完了不定詞は完了後の結果状態の存続の用法に基づいて、事態の生起の確実性
を表す。すなわち、わざわざ「ある事態がそれでもなお絶対に起こるはずだったとすれ
ば」と表現することで、逆に「実際には起こるはずもなかったが」という非現実の含意が
生まれるのだと考えられる。25)
さて、ここでもう一度、非現実を表さない法助動詞の過去形+完了不定詞の例に戻りた
い(下に再掲)。
(559) Tristande was daz maere vil innecliche swaere von anders nihte wan von dan, daz er an
dem getriuwen man vater unde vaterwan also verlorn solte han (Tristan 4232)(トリスタンに
はその話は心からつらかった。それはほかでもなく、彼がその忠実な人において父と、
父がいるという考え〔の二つ〕を失うことになった〔忠実なルーアルが父ではないこと
が分かり、それで自分に父があるという考えを捨てなければならなくなった〕からであ
る)
(560) nu daz diu guote marschalkin der noete genesen solte sin und nach ir sehs wochen [...]
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des suns ze kirchen solte gan [...] si selbe in an ir arm nam (Tristan 1956)(立派な主馬頭夫人
が苦しみから回復したということになって、6 週間後に息子のために教会に行かねばな
らなくなったとき、彼女は自ら彼を腕に抱いた)
(561) daz stuont alsô daz Artûs ze Nantes, dâ er dicke saz, niht dorfte hân gebûwet baz
(Parzival 548, 26)(それ〔館〕は、アルトゥースが、自分が何度も滞在したナントにも、
それ以上によいものを建てる必要がないほどのもの〔それほど立派〕であった)
これらの完了不定詞がどのような用法に基づくのかが問題であったが、結局、これらの完
了不定詞も完了後の結果状態の存続の用法に由来すると考えられる。すなわち、それが事
態の生起の確実性を表すことで、それが必然的に起こったことを強調する。( (561)は否
定文なので、事態の生起が絶対に起こらなかったことを表す。)つまり、ここでは事態の
生起の確実性が非現実性を強めるのではなく、単にその生起の確実性を強調していると考
えられる。
結論として言えることは、法助動詞の過去形+完了不定詞における完了不定詞はこの時
代の完了形の用法に従うものであった。ただし、そこで表される非現実性が表される場合
があるのは、修辞的な効果によるということである。
7. 5 法助動詞+ sein 受動の不定詞
上の 6. で受動の sein +過去分詞と完了形は中高ドイツ語においても意味的並行性を保
っていることを見た。そこで、法助動詞+完了不定詞との関連で、法助動詞+ sein 受動
の不定詞を見ておきたい。
7. 5. 1 法助動詞の現在形+ sein 受動の不定詞
法助動詞の現在形+完了不定詞においては、完了不定詞はこの時代の完了形の用法に則
る形で用いられるが、専ら未来完了形的な意味や事態の継続の意味で用いられ、過去の推
量や必然のような用法は見られなかった。それに対し、法助動詞の現在形+ sein 受動の
不定詞においては、sein +過去分詞が完了後の結果状態の存続を表す例が見られる。
(587) küneges wort und küneges eit diu suln war unde bewaeret sin (Tristan 9819)(王の言葉
と誓いは真正かつ確証されたものであるはずだ)
(588) sul wir sus entêret sîn? (Parzival 79,14)(我々はこのように名誉を傷つけられていて
よいのか)
(589) daz muoz ich immer weinen, sol ich alsô verderbet sîn (Nibelungenlied 620)(彼女〔ク
リエムヒルト〕がこのように貶められているとすれば、私はそれを泣かずにはいられな
い)
(590) sit si besprochen sol sin umbe solhe missewende (Tristan 15412)(彼女〔イゾルデ〕が
そのような罪を着せられているとすれば)
(591) der sol dich [...] immer wol verholn sîn (Nibelungenlied 371)(それ〔宝〕はあなたに
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はずっと隠されたままになる)
ただし、これらの例も、完了後の結果を表すという意味では過去の事態を表すと言えるが、
あくまで結果状態の存続に焦点が当てられており、単なる過去の事態についての推量や必
然などを表してはいない。つまりこれらの例は、法助動詞の現在形+完了不定詞の完了不
定詞が結果状態の存続を表さなかったという点では法助動詞の現在形+完了不定詞と異な
るが、過去の事態を表さないという点ではそれと同じだということである。
中高ドイツ語の法助動詞の現在形+ sein 受動の不定詞において最もよく現れるのは、
sein 受動の不定詞が未来完了形的な意味を表すものである。
(592) swaz ich ir dienen kan, daz sol vil willeclîchen mit triuwen sîn getân (Nibelungenlied
548)(私が彼女〔クリエムヒルト〕に奉仕できることは何でも喜んで忠実に行われるで
しょう〔喜んで忠実に私は行うつもりだ〕)
(593) swen ich iuch heize küssen, daz sol sîn getân (Nibelungenlied 1348)(私があなたに誰
に対してキスするよう言っても、それが行われることを〔私は〕望む)
(594) mit vriuntlîchen triuwen sô sol ez sîn getân (Nibelungenlied 561)(そのことは誠意を持
って行われるよう計らいましょう)
(595) nu sol ez sîn getân (Nibelungenlied 557)(それは今行われるよう計らいましょう)
(Nibelungenlied 613, 830, 1135 も同様)
(596) ir sult wandels sîn erlân (Parzival 255, 24)(あなたが贖罪から免除されることを〔私
は〕望む〔贖罪などしないでほしい〕)
(597) daz sol dir vriuntlîche ûf genâde sîn gekleit (Nibelungenlied 650)(それは内密にあなた
の情けを頼みに訴えられねばならない)
(598) des ie mîn wille gerte, daz sol nû verendet sîn (Nibelungenlied 1503)(私の意志がずっ
と望んできたことが今果たされるのです)
(599) iuwer kus sol wesen mîn, suln dise hêrrn geküsset sîn (Parzival 83, 18)(もしこれらの
騎士たちが口づけを受ける〔のが適当とあなたが思う〕なら、あなたの口づけは私に与
えられるべきだ)
(600) jâ sol im von Hagenen immer wesen widerseit (Nibelungenlied 873)(彼〔ジーフリ
ト〕はずっとハゲネによって敵視されることになろう)
(601) mit laster ir gescheiden sult von guoten recken sîn (Nibelungenlied 990)(この罪業でお
前たちは立派な武士たちから離反されることになろう)
(602) vride und suone sol iu vil gar versaget sîn (Nibelungenlied 2090)(和平や和解はあなた
達に対し拒絶されるべきだ〔我々は和平や和解をあなた達に対し拒絶したい〕)
(603) ab ir sol er iu gelihen sîn (Parzival 228, 16)(彼女からそれ〔マント〕があなたに貸
されるようにとのことです)
(604) suln die vor iu ersterben, sô muoz gescheiden sîn diu vil stæte vriuntschaft zuo dir und
ouch der tohter dîn (Nibelungenlied 2191)(彼ら〔我が一族〕あなたの前で討ち果てるよう
なことがあれば、あなたとあなたの娘に対する変わらぬ友好も断絶されずにはいない)
(605) der zins muoz vürder sin getan (Tristan 6821)(貢ぎはやめさせられねばならない)
- 199 -
(606) min eit muoz doch gestellet sin, swaz ir dekeiner gesaget, als iu gevellet unde behaget
(Tristan 15698)(私の誓いは、彼らのうちの誰かが何を言おうと、あなたの気に入るよ
うに決められねばならない)
(607) swenne ir bejaget ir ungunst, sô müezet ir gunêret sîn (Parzival 172, 27)(あなたがそれ
〔愛〕に気に入られなければ、あなたは不名誉を受けねばならない)
(608) dâ mit wil ich selbe niht bescholten sîn (Nibelungenlied 828)(そのことで私自身が非
難されたくはない)
(609) wiltu zer werlde gewerdet sin, so schaffe et umbe richen muot (Tristan 4470)(もしあな
たがこの世で尊敬されたいと思うなら、物惜しみしない心を持つようにしなさい)
(610) und mac daz sîn getân, daz ir mir, fürste, erloubet, sone wil ich niht verdagen diu mære
(Nibelungenlied 1191)(もし、王様、あなたが私に許すことが行われうるならば、私はそ
の話を隠すつもりはありません)
このように、法助動詞の現在形+ sein 受動の不定詞が未来完了形的な意味を持つことは、
法助動詞の現在形+完了不定詞において完了不定詞が多くの場合、未来完了形的な意味で
用いられることに対応する。
7. 5. 2 法助動詞の接続法1式+ sein 受動の不定詞
法助動詞の接続法1式+完了不定詞の例において完了不定詞は未来完了形的な意味で用
いられたが、このことは法助動詞の接続法1式+ sein 受動の不定詞にも当てはまる。
(611) ezn müeze dan gescheiden sin (Tristan 4920)(それ〔塵〕がそこから取り去られえな
いようなものだととしても)
(612) so müezet ir gesegenet sin von allem himelischem her (Tristan 14900)(それでもあなた
がすべての天使に祝福されますように)
7. 5. 3 法助動詞の接続法2式+ sein 受動の不定詞
法助動詞の接続法2式+完了不定詞の最大の特徴は、法助動詞が表すべき過去性を完了
不定詞が表す場合が多いということであった。これは現代語ならば法助動詞の完了形の接
続法2式によって表されるべきものである。その種の例は、この sein 受動の不定詞によ
る例にも見られる。
(613) der fürste wânde vinden bogen oder swert: sô müese wesen Hagene nâch sînem dienste
gewert (Nibelungenlied 983)(その王者〔ジーフリト〕は弓か剣を見つけようと思った。
もしそうなっていたらハゲネはその自分の仕業にふさわしい報いを受けねばならなかっ
ただろう)
しかし、完了不定詞の場合ほどたくさんの例は存在しない。むしろ、sein 受動の不定詞が
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事態の継続や未来完了形的な意味を表す例の方が多いようである。
(614) ine möhte niemer sin verswigen, ine müese werden bezigen unvuoge und missewende
(Tristan 15491)(私のことは決して黙っておいてはもらえず、私は不作法と過失の罪を
着せられるに違いありません)
(615) ouch solte an iuch gedinget sîn daz ir der meide ir vingerlîn liezet, ob siz möhte hân
(Parzival 175, 29)(もし彼女が指輪を持っていても、彼女にそれを残しておくことがあ
なたに求められるだろう〔私はあなたに求めるだろう〕)
(616) möhte ich es erlazen sin (Tristan 15439)(私がそのようなことから免れますように)
従って、法助動詞の接続法2式においては、完了不定詞が用いられる場合と sein 受動の
不定詞が用いられる場合では大きな違いがあると言える。
7. 5. 4 法助動詞の過去形+ sein 受動の不定詞
法助動詞の過去形+完了不定詞の最大の特徴は、非現実の過去を表す場合が多いという
ことであった。それに対し、sein 受動の不定詞が用いられる場合は、非現実の過去が表さ
れる例は見られない。
(617) der tisch gedecket muose sîn (Parzival 175, 20)(食卓は準備されているのが当然であ
った〔勿論準備されていた〕)
(618) done kunden disiu mære niht verholn sîn (Nibelungenlied 1175)(その話は隠されてい
ることはできなかった)
(619) wol muose ir kiusche sîn bewart, diu sîn ze rehte solde pflegen (Parzival 235, 28)(それ
〔聖杯〕を正しく守るべき女性の純潔はよく守られていなければならなかった)
(620) von helden kunde nimmer wirs gejaget sîn (Nibelungenlied 1002)(勇士たちによってこ
れ以上悪い狩はなされえなかった)
(621) ez enkunde baz gedienet nimmer helden sîn (Nibelungenlied 964)(勇士に対しこれ以上
によくは給仕されえなかった)
(622) dô der strît niht anders kunde sîn erhaben [...] dô hiez si tragen ze tische den Étzelen sun
(Nibelungenlied 1912)(戦いが他には始められえなかったので、彼女〔クリエムヒルト〕
はエッツェルとの間にできた息子を食卓に連れてくるよう命じた)
(623) sine kunde in dirre werlde niht baz verwendet sîn ûf zuht unde ûf êre, ûf triuwe unde
ouch ûf guot (Nibelugenlied 2161)(彼女〔リュエデゲールの娘〕はたしなみ、名誉、忠誠
そして財産の上でこの世でこれ以上によく嫁がせられることはありえなかった)
(624) valle unde haft, diz unde daz, diu enmohten beidiu niemer baz an ir eigenschaft sin braht
(Tristan 17039)(掛け金と留め金のどちらもこれ以上にその特徴にもたらされることは
ありえなかった〔特性を発揮したものが作られたことはなかった〕)
(625) jane dorften nimmer helde baz gehandelet sîn (Nibelungenlied 1668)(勇士たちがこれ
以上によくもてなされることはありえなかった)
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(626) swa man seite maere, daz ir vriunt Tristan waere, daz solte sider gar sin ersuoht (Tristan
19539)(彼女〔イゾルデ〕の恋人トリスタンがいると人が言う所はすべて、その後探さ
れるべきだった)
(627) swaz si des über Rîn mit ir zen Hiuten brâhte, daz muose gar zergeben sîn
(Nibelungenlied 1384)(彼女がラインを超えてフン族のもとに持ってきたものはすべて分
かち与えられねばならなかった)
(628) des muose er vil geprîset sîn von den vrouwen die daz sâhen (Parzival 38, 14)(このこ
とで彼〔ガハムレト〕は当然それを見ていた婦人たちに大いに賞賛された)
(629) schiere er muose entwâpent sîn (Parzival 164, 5)(すぐに彼〔パルツィヴァール〕は
甲冑を脱がされねばならなかった)
これらの例の sein 受動の不定詞が表すのは、結果状態の存続や事態の継続や未来完了形
的な事態であり、この構造も完了不定詞との組合せとは異なることが分かる。
以上、法助動詞+ sein 受動の不定詞は、法助動詞が現在形や接続法1式の場合には法
助動詞+完了不定詞と大体並行性を示すが、法助動詞が接続法2式や過去形の場合には並
行性を示さないことが分かった。これは法助動詞の接続法2式および過去形+完了不定詞
が特殊な意味発達を遂げたためだと考えられる。(その特殊な意味は新高ドイツ語では失
われる。)
- 202 -
注
1)
柏野 (ibd.) の用語では「完了・結果」。
2)
Grønvik (ibd.: 35 f.) は、『ムスピリ』を 830 年頃の作品と見て、その中の haben + 過去
分詞の例が目的語を伴わない他動詞によるものであることから、ここですでに第 3 段階に
達していたと言うが、『ムスピリ』の成立年代は 9 世紀後半の可能性もあるので、発展段
階の時期設定から除外しておく。
3)
さらに時代が下って 1300 年頃の文献には次のような基準時(=発話時)との関連が弱
い例が見られる。
unsinnic bist dû ê gewesen (Heidin 1215)(お前は先刻理性を失っていた)
4)
Oubouzar (1974: 26) は、助動詞 sein の接続法の例として扱っている。確かに sîn (=
sein) の接続法 1 式は sî, 不定詞は sîn であるので、形式的には接続法と見るべきであるが、
wænen「思う」は通常、対格目的語と不定詞を伴い、対格目的語が補文の補文の主語、不
定詞が述語の役割を果たすことを考えると、この例の uns「私たち」は対格目的語、 sî
gewesen は完了不定詞と見ることもできる。判定は難しいが、ここでは完了不定詞の例と
して挙げておく。
5)
ただし、動詞 behaben の現在完了形の例は存在する。
vrou Herzeloyd diu künegîn hât behabt den Anschevîn (Parzival 98, 17)(女王ヘルツェロイデ
はアンショウヴェの人を手に入れた)
er hât doch an Îsolde behabet, daz er wolde (Tristan 11297)(彼はイゾルデのことで望んでい
たものを手に入れた)
また、(ge)haben の過去分詞を用いた受動形の例としては、
doch wart ein stap sô dran gehabt, unz daz sîn siusen gar verswanv, durch die wât unt durch ir
vel ez dranc (Parzival 151, 28)(しかし棒がそこ〔クンネヴァーレの背中〕に当てられ、そ
の音は振動を止め、服と肌の中へ浸透した)
6)
Novellistik des Mittelalters. Hg. v. Klaus Grubmüller. Deutscher Klassiker. Frankfurt a. M.
1996, S. 364-469.
7)
8)
ibd. S. 296-335.
Heine, Bernd/Claudi, Urlike/Hünnemeyer, Friederike (1991: 3) によると、「文法化」を「語
彙的な地位にあるものから文法的なものへ、あるいは、より文法的でないものからより文
法的なものへと前進する形態素の列の増加」と定義したのは Jerzy Kuryłowicz ([1965]
1975: 52) である。
9)
10)
Oubouzar (ibd.: 8 ff.) を参照。
この schiere「すぐに」という副詞は非過去を表す現在完了形の (182)-(184)でも用いら
れている。
11)
nu は勿論、現在完了形以外の様々な時制とも共起する。nu は「今」を表すので、当
然、現在形と共起する。
nu ist es zit, nu kere zuo (Tristan 8925)(もうその時間だ。さあ取りかかれ)
nie sô manegen gîsel man brâht' in ditze lant, sô von sînen schulden nu kumt an den Rîn
(Nibelungenlied 238)(今彼〔ジーフリト〕のおかげでラインへやってくるほど多くの人質
- 203 -
を人がこの国に連れてきたことはない)
so ist maneger geheilet, der nu vil sêre wunder lît (Nibelungenlied 257) (そうすれば今重い傷に
苦しんでいる多くの者たちも治るだろう)
nu ist doch unser eigen Sîfrit ir man (Nibelungenlied 724)(今や彼女の夫ジーフリトは私たち
の臣下であるのに)
nu muget ir von dem horde wunder hœren sagen (Nibelungenlied 1122)(今やあなた方はその
宝について驚くべきことが言われるのを聞くことができる)
wer wîset nû die recken sô manege hervart (Nibelungenlied 2260)(今や誰が武士たちの多くの
行軍を導くのか)
しかしそれだけでなく、過去形と共起することもある。
nu gie diu minneclîche (Nibelungenlied 281)(そのとき愛らしい人が現れた)
nu kom diu edele Kriemhilt mit manigem küenem man (Nibelungenlied 846)(そのとき高貴な
クリエムヒルトがたくさんの勇敢な男たちとともにやって来た)
nu gedâht' ouch alle zîte daz Guntheres wîp (Nibelungenlied 724)(さてまた、ずっとグンテル
の妃はこう考えていた)
alse ich iezuo las (Tristan 18601)(私が今お聞かせしたように)
また、過去完了形と共起する場合もある。
nu het ouch in her Liudegast vîentlîch erkorn (Nibelungenlied 184)(そのときリウデガストも
彼〔ジーフリト〕を敵と認めていた)
nu wâren ouch die geste ze rossen alle komen (Nibelungenlied 596)(今や客たちもすべて馬に
ついていた)
nu was diu küneginne ze Everdingen komen (Nibelungenlied 1302)(今や王妃〔クリエムヒル
ト〕はエフェルディンゲンにやって来た)
nu hete der rise küene sîn gewæfen an getân, sînen helm ûf sîn houbet. der vil starke man den
schilt vil balde zuhte, daz tor er ûf dô swief (Nibelungenlied 489)(そのとき勇猛な巨人は武器
を身に、兜を頭に着けるや、その強力の男は盾をすばやくひっつかむと門を引き開けた)
また、sein 受動の現在形や過去形と共起する場合もある。
nu ist hie mit ir gâbe vil manic wunder getân (Nibelungenlied 1366)(今ここで彼女〔クリエム
ヒルト〕の贈り物によって大いに驚くことがなされた)
nu was ouch ir gesinde gezieret, als im zam (Nibelungenlied 348)(今や彼女の従者たちも自分
たちにふさわしく装った)
dô was nu ûf gesoumet sîn edel pirsgewant (Nibelungenlied 918)(そこに今や彼の高価な狩衣
が積まれていた)
また、接続詞の nu も存在する。
nu ich dich gesehen han, nu wil ich frolichen sterben (Wiener Genesis 5070)(今私はお前に会
ったので、今私は喜んで死のう)
nu ir mich betrogen habt, ir müezet dishalben sîn (Nibelungenlied 1556)(お前は今私をだまし
たので、お前はこちら側に残らねばならぬ)
nu wir der herverte ledic worden sîn, sô wil ich jagen rîten bern unde swîn hin zem Waskenwalde
(Nibelungenlied 911)(今や私たちは遠征から解放されたので、ワスケンの森へ熊や猪を狩
- 204 -
りしにいこうと思う)
12)
verweisen は「孤児にする」という他動詞としても用いられるので、これは sein 受動
の例であるかもしれない。
13)
この種の時間副詞は勿論、過去形とも共起しうる。
ir sult ouch haben, vrouwe, allen den gewalt, den iu ê tete künde Sîfrit der degen balt
(Nibelungenlied 1075)(また妃よ、勇敢な戦士である高名なジーフリトが以前お前に与えた
あらゆる権力をお前は握っておきなさい)
wir haben daz wol ersehen, daz wir hir vinde vinden, als wir ê hôrten jehen (Nibelungenlied
1800)(我々は かつて 〔人が〕言うのを 聞いた 通り、ここには我々の敵がいることを見て
取った)
14)
現在完了形が事態の継続を表す場合に、事態の継続が基準時直前で終結し、事態その
ものは基準時には存続しない場合があったように(例 (98)-(100)を参照)、過去形でも事
態の継続を表しながら、その事態が発話時に存続しない場合がある。
daz was biz her min meistiu not (Tristan 10292)(それはこれまで私の最大の苦しみだった)
ich zwivelte unz an dise zit. nu habet ir mir die warheit ungevraget geseit (Tristan 10342)(私は
これまで疑ってきた。今あなたは問われずに本当のことを言った)
15)
この例の完了形は未来完了形的な現在完了形であり、sein 受動も同じ機能を持つもの
として用いられている。
16)
sein 受動が時間副詞類の共起という点で完了形とは異なる例が見られる。すなわち、
現在完了形には基準時から切り離された特定の過去時を表す時間副詞類が共起する例は存
在しなかったが、sein 受動には次のような例がある。
mir ist wol kunt, daz mich disiu dörperheit vor eime jare ist an geseit (Tristan 15482)(このよう
な聞き苦しいことが一年前から私に対して言われているは私にはよく分かっている)
ただしこれは事態の継続を表す例であり、vor eime jare「一年前」は事態継続の開始点を
表すという点で現代ドイツ語の er hat es vor einem Jahr getan「彼はそれを一年前に行っ
た」のような時間副詞句とは異なる。しかしそれでも、次のような sein 受動の例も存在
し、ここでは特定の過去時ではないが、結果状態の開始点が時間副詞句によって示されて
いる。
er ist vor maniger zît begraben (Nibelungenlied 1725)(彼〔ジーフリト〕はとうの昔に葬ら
れている)
これはあくまで完了後の結果状態が存続するという点でやはり er hat es vor einem Jahr
getan のような用法とは異なるが、このような用法や上の例のような用法が現在完了形に
おける特定の過去時を表す時間副詞類の共起を促した可能性は考えられないわけではない。
17)
受動形であるにも拘わらず対格の mich が用いられている理由は、verheln が二重対格
をとって「ある人に対しある物を隠す」を意味する動詞であるからである。この場合、
「ある物を」を表す対格は受動形で主格名詞になり、「ある人に対し」を表す対格はその
まま残されている。
18)
中高ドイツ語には完了不定詞の例として、他に、知覚動詞・思考動詞+完了不定詞の
構造も見られる。
sô daz ist getân, dem sol man jehen danne, den man sihet gewunnen hân (Nibelungenlied 973)
- 205 -
(それが行われたら、そのとき人は 勝った と人が見る者にその勝ちを認めることになろ
う)
ich waene in rehte ersehen han (Tristan 9382)(私はそれ〔兜〕を正しく認識したと思う)
19)
ただし、この過去形と接続法2式は、wolte (< wellen = wollen), wolde (< wellen), solte
(< soln = sollen) 等のように、形態的に区別することが難しい場合が多い。
20)
4
2
beviln は j bevilt et という形で「ある人にとってあることが多すぎる、大変である、
苦になる」を意味する。
21)
このような例は一見、「過去」の可能性を表さないように見えるが、それは副文であ
るためであり、主文として訳せば「撃つことができなかっただろう」というように過去の
可能性を表すことが分かる。
22)
この例は否定文なので、もしこれが非現実を表すとすれば「建てる必要がなかったの
に建てた」という含意があるということになるが、そのような含意はない。
23)
この例は、完了不定詞が「あり続ける」という事態の継続を表す可能性もある。
24)
この例は solde ではなく、mohte の例であるが、「何としてもそれを拒むことができ
たなら」と言うことで、「実際には拒むことはできなかったが」という非現実の含意が生
まれると考えられるので、同様の例として挙げる。
25)
ほかに非現実の過去を表す法助動詞の過去形+完了不定詞の例としては、次のような
ものがある。
dâ tet iuwer bruoder die aller grœzisten nôt, diu immer in den stürmen kunde sîn geschehen
(Nibelungenlied 232)(そこであなたの兄は、これまでの戦場で起こりえた最大の損害を与
えた)
しかしこの例は他の例と違って、非現実性は法助動詞+完了不定詞という構造そのものが
表すわけではない。この例の非現実性は「それ以上の損害が起こったことはない」という
最上級による属性表現によって表される。完了不定詞自体は「これまでに起こり続けてき
た」という事態の継続あるいは反復を表す。
- 206 -
第4章
初期新高ドイツ語の現在完了形
本章の主題は、中高ドイツ語で現代英語の現在完了形とほぼ同等の意味機能を獲得した
現在完了形のその後の変化の跡づけである。それは一言で言えば「現在完了形の過去時制
化」である。すでに中高ドイツ語において基準時との関連が間接的でしかないような例が
現れていたが、gestern「昨日」のような発話時から切り離された特定の過去時を表す副詞
が共起する例は見られなかった。それが現れるのがこの時代である。
その場合、現在完了形の時間的意味がどのように記述されるべきかが問題になる。
gestern のような時間副詞類が共起可能だとすれば、Reichenbach (1947: § 51) が過去形につ
いて示したように、R = E < S(基準時と事態時が一致し、発話時はそれよりもあと)と
なるのであろうか。
R, E
S
筆者の考えでは、依然として E < R, ¬ R < S(事態時が基準時の前、基準時は発話時の
前にはない)という中高ドイツ語の現在完了形で示した図式は保持されるべきである。な
ぜなら、物語のような連続する複数の過去の事態を現在完了形だけで表すことはできず、
現在完了形は依然として「語りの時制」erzählendes Tempus (Weinrich 1985 を参照) ではな
いからである。これは現代ドイツ語においてもなおそうである(第5章「3.
現代ドイツ
語の現在完了形」を参照)。筆者の考えでは、R = E こそが「語りの時制」の重要な用件
であり、現在完了形が「語りの時制」でない以上、R = E とはならない。
しかし、「昨日」のような副詞が共起可能だとすれば、中高ドイツ語の現在完了形と初
期新高ドイツ語以降のそれの時間的意味はまったく同じではないはずである。筆者はそこ
で、第2の基準時の導入を提案する。すなわち、特に過去の副詞や文脈がなければ E < R,
¬ R < S であるが、特定の過去時への指示がある場合に R1 = E, ¬ R0 < S となる。
R1, E
S, R0
このように基準時を二つ設けると、「そこから事態を見る時点」という基準時の機能の根
本に矛盾を来たし、「その場限り」の理論に陥る危険もあるが、それが有効であることは
次章で述べたい。この時点で重要なことは、初期新高ドイツ語以降の現在完了形が発話時
から切り離された時間副詞類を伴うことができるような「過去時制」でありながら、しか
しそれでもなお「語りの時制」ではないということである。
1. 過去分詞の動詞の種類
前章で見たように、現代ドイツ語で口語においても過去形が用いられることの多い動詞
として、sein, haben, 受動の werden +過去分詞の werden, 法助動詞等があり、そのうち
- 207 -
sein と haben の現在完了形(ist gewesen, hat gehabt 等)の例は中高ドイツ語の資料に現れ
た。それに対し、受動形や法助動詞の現在完了形(ist getan worden, hat tun können 等)は
初期新高ドイツ語になって現れる。
これらの歴史的出現順序を下に挙げる。下の表はそれぞれの形式がどの文献で現れたか
を+で示したものである。
ist gewesen
hat gehabt
Anfang 13. Jhs.
+
OU 13. Jh.
+
+
Nürnberg 1387-1389
+
+
ackerman 1401
+
+
um 1500
+
+
ist getan worden
hat tun können
+
+
+
(Anfang 13. Jhs. = Nibelungenlied, Tristan, Parzival; OU 13. Jh. = Originalurkunden; Nürnberg
1387-1389 = Nürnberg im großen Städtekrieg von 1387-1389; ackerman 1401 = Der ackerman;
um 1500 = Tristrant und Isalde, Fortunatus, Till Eulenspiegel)
この表から分かることは、表中右側にある形式が現れる文献においては、必ずその左側に
ある形式も存在するということである。例えば、hat gehabt が現れる文献には、必ず ist
gewesen も現れる。逆の言い方をすれば、ist gewesen の現れない文献には hat gehabt は現
れない。従って諸形式の出現順序は、ist gewesen > hat gehabt > ist getan worden > hat tun
können となる。
1)
この順序の理由は明らかではない。ただ、ist gewesen, hat gehabt の二つよりも ist getan
worden, hat tun können の二つの方が遅れて現れる一つの理由は、後者が助動詞をさらに分
析的に (analytisch) 表すことにあるかもしれない。この後者二つを構成する要素の数は三
つである。勿論、3項述語からなる形式は古高ドイツ語にすでに見られる。
(1) ni mac daz gescrib zilosit uuerdan (Tatian 134, 8)(聖書は破壊されることはない)= J
10, 35
(2) ni mag burg uuerdan giborgan ubar berg gisezzitu (Tatian 25, 1)(山の上に置かれた町
は隠されることはできない)= Mt 5, 14
しかし、ist getan worden, hat tun können の場合は、werden, können が助動詞であり、それ
をさらに完了形として分析的に助動詞の sein
können
と worden
あるいは助動詞の haben
と
に分けて表す。つまり、助動詞をさらに助動詞化するという点が単なる3項述語
とは異なり、これが出現が遅れる一つの理由と考えられる(他に考えられる理由は下の各
節を参照)。
いずれにしても、これら四つの形式は現代ドイツ語において口語においても過去形が多
く用いられるということで一括りに扱われることが多いが、歴史的に見ると、その完了形
の出現順序は同じではないことを確認しておく。
- 208 -
1. 1 受動 werden +過去分詞の完了形
受動形の完了形は、Behaghel (1989: S. 202 f.) が 13 世紀の文献に既にいくつかの例が現
れることを指摘しているが、筆者の調べた 13 世紀までの文献では、前章の例(476)で挙げ
た過去完了形の例のほかには受動形の完了形は見出されなかった(下に再掲)。
(3) nu was ez ouch überdes jâres zil, daz Gahmuret geprîset vil was worden dâ ze Zazamanc
(Parzival 57, 29)(ガハムレトがツァツァマンクで賞賛を博して一年以上の歳月がたっ
た)
これは筆者の調査対象が狭すぎるためばかりではなく、受動の現在完了形は 1200 年以降、
常に出現する可能性を秘めながらも(形態的には werden は sein, haben, können 等とは異
なり、過去分詞 (ge-)worden
がすでにゴート語や古高ドイツ語において形成可能であっ
た)、初期新高ドイツ語期までは確立していなかったためだと考えられる。
その一つの理由は、上に述べたように助動詞をさらに分析的に助動詞化することだと考
えられるが、この受動の完了形については、さらに別の理由も考えられる。それは、前章
で見たように受動の sein +過去分詞(いわゆる状態受動)が、完了形と同様の時間的意
味を表していたということである。つまり、ist getan が完了形と同等のものとして用いら
れていたので、ist getan worden は、必要がなかったと考えられる。
必要がなかったために用いられなかったとすれば、初期新高ドイツ語期になって用いら
れるようになった理由は、必要性が生じたということである。つまり、この時期に受動の
sein +過去分詞と完了形の間で意味機能の差異が生じ始めたと考えられる。
筆者の調べた文献の中で ist getan worden のような形が初めて現れるのは、実用散文の
14 世紀後半の「ニュルンベルクの手紙」においてである。
(4) die selben euwer brief und die abschrift darinne sind uns erst geantwurt worden an sant
Pauls abent an der naht (Brief vom 25. Jan. 1388. In: Nürnberg im großen Städtekrieg von
1387-1389, S. 142)(あなたの手紙とその写しは私たちにようやく聖パウロの日の晩に渡
された)
(5) daz die unsern geprant und etlich erslagen sind worden (Brief vom 12. Aug. 1388. In: ibd.,
S. 143)(我々の者たちが焼き打ちにあい、幾人かが打ち殺されたこと)
(6) darzü ist uns gesagt worden, daz [...] (Brief vom 5. Aug. 1388. In: ibd., S. 145)(さらに我
々に次のことが言われた)
上の例で注目すべきは、 (4)の例で発話時から切り離された特定の過去時を表す時間副詞
句が共起するということである。このように明確に過去時を指示する副詞類を伴うという
ことは、それだけ現在完了形の「過去性」が強まったと言える。それに対し、いわゆる状
態受動の sein +過去分詞は、あくまで基準時(=発話時)との関連でしか用いられず、
そのような時間副詞類を伴うことはできない。
- 209 -
しかし、上の残りの(5)(6)は、中高ドイツ語であれば、sein
受動で表すことができるよ
うな例である。従って、この時代に受動の完了形の使用が一般的になったさらに別の理由
も考えられる。それは、受動の werden +過去分詞の文法化が進んだということである。
(7) da dann noch die hochschůl von der hochen kunst der Nigromancia ist und geleert wirt
(Fortunatus S. 113)(そこには高度な黒魔術の学校があり、〔それが〕教えられている)
上の例は事態の継続を表す。このような用法は werden が「なる」という完了相の意味を
保持する限り現れない。受動という態を表す形式として werden +過去分詞の文法化が進
むと、das wird getan は単に er tut das の受動形であるという意識が広がる。そうすると、
er tut das の現在完了形が tun の過去分詞を用いて作られるのと同じように、das wird
getan の現在完了形は werden の過去分詞を用いて作られるという類推が働いたというこ
とである。
受動の現在完了形は、上に見たように、すでに実用散文においては 14 世紀半ばの文献
に見られるが、文学作品について見れば、1401 年の『ボヘミアの農夫』der ackerman には
現れず、1500 年頃の文献にようやく現れる。
(8) Als man zalt von Crist beburt M.CCCCC bin ich. N. durch etlich personen gebetten
worden, dz [...] (Till Eulenspiegel S. 3)(キリスト生誕から数えて 1500 年に私 N は数人の
人に〔……〕ということを頼まれた)
(9) Nun bin jch beraubt worden auff dem mör (Tristrant S. 20)(私は海上で略奪にあっ
た)
(10) wie ist mein gemüt so jehes verwandlet worden (Tristrant S. 46)(どうして私の気持ち
はこんなにも急に変えられたのか)
(11) wie ist gerechtigkeytt da hin hinder getrunken worden (Tristrant S. 81)(いかに正義が
押し退けられたか)
(12) So seint sie nun so gelert worden von den bücheren, die sie koufen, dz sie ir zeit
ußwendig künnen darzů sie ir bůcher in 4 Wochen nit mee dan eins uff thůun (Till Eulenspiegel
. 96)(ところが今や彼らは自分の買う本から十分に教わったので、暗記して、四週間に
一冊以上自分の本を開かない)
(13) ist er dir mit gwalt genomen worden / oder hastu in verlorn? (Fortunatus S. 145)(それ
〔幸運の財布〕はお前のもとから力ずくで 奪われた のか、それとも自分でなくしたの
か)
(14) daz dises closter / darzu die stat / hie gebawen ist worden (Fortunatus S. 60)(それでこ
の修道院とこの市がここに建設された)
(15) Man find ir wol die von narren seint betrogen worden (Till Eulenspiegel S. 21)(人は彼
らが馬鹿者に騙されていると思うだろう)
(16) von dem seind ir betrogen worden (Till Eulenspiegel S. 23)(彼にあなたは騙された)
(17) in der eere ainer junkfrawen von der ich begabt byn worden mit disem glückhaftigen
seckel (Fortunatus S. 123)(私がこの幸運の財布を与えてもらった乙女を敬う意味で)
- 210 -
(18) mir ist ettwas in diser stunde / in ainer gehaim gesagt worden von meines herren Cantzler
(Fortunatus S. 15)( この時間 私にこっそり私の主人の大臣によってあることが 言われ
た)
(19) in der gedächtnuß als du heüt erfreüwet bist worden von mir / so erfrew du alle jar ein
arme jungfraw (Fortunatus S. 47)(あなたが今日私によって喜びを得たことを思い出して、
毎年貧しい乙女を喜ばせなさい)
(20) des gleichen vor nie gehört ist worden (Till Eulenspiegel S. 48)(そのようなことはか
つて聞かれたことがない)
(21) uns ist soliche er nye erbotten worden (Fortunatus S. 91)(我々にこのような敬意が示
されたことはない)
(22) ich hon eüch lanng nach geraist mit grossen sorgen / daz ich nit ermort byn worden mit
den klainaten (Fortunatus S. 148)(私はこの宝石のために殺されてしまわないようとても
心配しながらずっとあなたを求めて旅してきた)
(23) Ob er leicht lieb gehabt worden ist. so hat er doch nitt rechter lieb widerum gehabt
(Tristrant S. 89)(もし彼〔マルク王〕が愛されたとしても、彼の側で真の愛を抱くこと
はないだろう)
上の例を見ると、 (8)では発話時から切り離された特定の過去時を表す時間副詞句が共起
しており、sein 受動との違いを見せているが、それ以外は特に sein 受動と異なる用法で
は用いられてはいない。例えば、(9)-(19)は結果状態の存続を表すが、これは sein 受動の
最も基本的な意味である。また、 (20)(21)は経験を表すが、これも中高ドイツ語では sein
受動で表されることができ、また、初期新高ドイツ語にも依然としてそのような例は存在
する。
(24) lassent mich die hochzeit zu Famagusta haben in meine neüen hauß das noch nye
eingeweicht / noch kayn freüd darinn volbracht ist (Fortunatus S. 91)(宴はファマガスタの
私の新居で開かせて下さい。そこはまだ落成式も行われていず、饗宴も行われていませ
ん)
また、 (22)(23)は未来完了形的な意味を持つ例であるが、これも中高ドイツ語においても
初期新高ドイツ語においても sein 受動によって表すことが可能な用法である。
(25) so solt ir das hütlin nit von handen geben / biß ir gewert und bezalt seind (Fortunatus S.
118)(あなたに支払いがなされるまで、あなたはその帽子を手渡さなくてよい)
上の諸例の中で目を引くのは、(15)-(19)において動作主が von による前置詞句によって表
されているということである。これは確かに、sein 受動の場合よりも werden 受動の完了
形の方が状態性ではなく動作性を強く表す証拠と言える。ただし、前置詞句による動作主
の表示は sein
受動でも不可能ではない(これは現代語においても可能である。Vaagland
1983 を参照)。
- 211 -
(26) wir seind von dem gecken betrogen (Till Eulenspiegel S. 55)(私たちはあの馬鹿者に騙
された)
結局、明確に sein 受動とは異なる用法で用いられる werden 受動の現在完了形の例はそ
れほど多くはない。だとすれば、やはり werden 受動が受動という態を表す形式として文
法化されたことが、その完了形の成立に強く関与したと考えられる。
werden 受動の完了形には他に過去完了形の例もある。
(27) Er was gegen mir verlogen worden von ettlichen herczogen (Tristrant S. 76)(彼〔トリ
ストラント〕のことが私に対してある大公らによって誹謗されていたのだ)
(28) Lüpoldus nam wunder / das seyn herre so milt was / uns so ringklich vil geltes außgab /
unnd sich doch so übel gehůb umb lützel geltes / das ym verstolen worden was (Fortunatus S.
73)(リュポルドゥスは自分の主人がこんなに寛大で、すぐにたくさんのお金を出すの
に、盗まれたわずかなお金のためにあれほど具合が悪くなったことを不思議に思った)
(29) Darbey Agripina wol mercken kund / das ym das hüttlin auß der massen lieb was / unnd
durch krafft des hüttlins sy allso zway mal weg gefüret was worden / grißgramet in ir selbs
(Fortunatus S. 168)(アグリピーナは、彼〔アンドロージア〕が異常に財布を大事にし、
帽子の力で自分が二度も連れ去られたことに気づき、歯ぎしりした)
(30) Nun bei der zeit als Ulenspiegel alle land umb louffen het, vnd was alt vnd verdrossen
worden da kam in ein galgen ruw an (Till Eulenspiegel S. 137)(オイレンシュピーゲルがあ
らゆる国を回って年を取り、うんざりしたときに、彼を晩年の後悔が襲った)
これらは結果状態の(過去の基準時における)存続を表す例と見ることができる。
また助動詞 sein が接続法の例も存在する。
(31) das sy sich můßten verbergen und einsperren / wann wo man sy an der gassen hette funden
/ So wären sy zůtod geschlagen worden von dem gemainen mann (Fortunatus S. 36)(そのた
め彼らは身を隠し、閉じこもらねばならなかった。というのも、人が彼らを通りで見つ
けたら、その辺の人に死ぬまで殴られていただろうからである)
(32) [Tristrant] saget seinen mitkommenden. das er vormalen den enden geheilet wär worden
(Tristrant S. 25)(〔トリストラントは〕自分は前にこの地で傷を治してもらったのだと
仲間たちに言った)
(33) [Fortunatus] sagt ym wie das er durch seiner brieff willen gar eerlich und schon von allen
herren entpfangen wär worden (Fortunatus S. 110)(〔フォルトゥナートゥスは〕彼〔王〕
の手紙のおかげですべての領主から丁重に迎えてもらえたと彼〔王」に言った)
(34) Do Andoloisa das vernam / das er also betrogen was / do was ym [...] umb das er sich
versach / es wurd außkommen in der gantzen stat und wurd ain gespöt darauß / das er also
betrogen wär worden von zwayen weiben (Fortunatus S. 129)(アンドロージアは、自分が
そうして騙されたと知ったとき〔……〕そのことが町中に広まり、自分がそうして二人
- 212 -
の女に騙されたという嘲笑が広まることを恐れるということが彼には問題であった)
このうち、 (31)は過去における非現実の事態を表す。 (32)-(34)は間接話法で用いられ、
「言う」等を表す上位文 (Matrixsatz) の示す時点に対する過去の事態を表す。
なお、受動の完了形には sein 受動の完了形の例も存在する。
(35) Ich bin vberladen gewesen mit eim schalck (Till Eulenspiegel S. 23)(私はある悪餓鬼に
騙されていた)
(36) Nun waren dise ding dem getreüen trucksäß herczog Thinas verhalten gewesen (Tristrant
S. 82)(さて、これらのことは忠実な内膳頭ディナス公には隠されていた)
(37) ich het ym kain anders geben / ich wäre dann vor bezalt gewesen umb das erst
(Fortunatus S. 49)(私はまず先に前払いしてもらっていなければ他に何も彼にやらなか
っただろう)
(38) Dess was der abbt fro / und het gar ungern gewelt das die pilgere verloren wären gewesen
(Fortunatus S. 63)(そのことを僧院長は喜び、巡礼が行方不明であったらなどというこ
とはまったく望んでいなかった)
このうち (35)は現在完了形の例であり、過去における状態を表す。つまり状態受動の過去
表現である。 (36)は過去完了形の例で、同様に「過去の過去」における状態を表す。 (37)
(38)は助動詞 sein
が接続法2式になっている例で、過去における状態の非現実の仮定を
表す。いずれも基準時から見た状態の過去を表すということは、完了形が過去性を表す用
法を拡大していったことを示すと言える。
1. 2 法助動詞の完了形
法助動詞の完了形が現れるのは、Kurrelmeyer (1910: 157-173) や Biener (1932: 1-25) によ
れば、15 世紀以降の文献であり、筆者の調査した文献においても、1500 年頃のものが最
初である。これは、完了形の動詞の制限において最終段階に位置するもので、この段階で
完了形形成の動詞の制限は基本的になくなる。
これが最も遅れて完了形を形成した理由は、上で述べた助動詞の助動詞化ということ以
外に、意味的に完了形が作られにくいということが挙げられる。すなわち、法助動詞が完
了形で用いられる場合、「過去」の意味以外で作られることはあまり考えられない。例え
ば、「~することが可能だという事態が生じたあとの状態にある」(結果状態)とか「~
することが可能だという事態が続いている」(事態継続)とか「~することが可能だとい
う事態が過去に存在する」(経験)等が表されることは、ありえないとは言えないが、多
くあるとも考え難い。(実際には下で見るようにそのような例はわずかに存在する。)従
って、過去形が厳然と存在する限り、法助動詞から完了形を作る必要性はないと言うこと
ができ、これが最も遅れて現れるもう一つの理由であろう。
なお、 1401 年の『ボヘミアの農夫』には法助動詞の完了形の例はまだ見られないが、
次のように分詞構文でその過去分詞のみを用いた例は存在する。
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(39) In die lenge wirt man gewar der warheit; als: lange gelernet, etwas gekunnet (ackerman 23.
cap.)(時が経てば人は真理に気づく。学んだらそれだけ何かが可能になっているという
真理に)
1. 2. 1 法助動詞の現在完了形
まず、法助動詞の完了形の中から、現在完了形の例を挙げる。
(40) mit Vlenspiegel hon ich mich nie bekümern wöllen, noch dan ist er zů vns kumen (Till
Eulenspiegel S. 42)(私はオイレンシュピーゲルと一切関わるつもりはなかったのだが、
彼の方から私たちの所へ来たのだ)
(41) Andolosia torst seinem brůder nitt sagen [...] wie er yn tzu ym wünschet tzu erwürgen /
›und auch mich selber hon wöllen erhangen.‹ (Fortunatus S. 173)(アンドロージアは〔…
…〕自分が彼〔アンペード〕を絞め殺そうと思ったこと、そして「俺も首をつろうと思
った」とは敢えて言わなかった)2)
(42) Jch weiß das er den Serpant nicht erschlagen hat. auch in hat nye getürren ansehen
(Tristrant S. 29)(彼〔内膳頭〕が竜を打ち殺したのではないことも、それを見る勇気も
持たなかったことも私は知っている)3)
(43) darinn du selbs sehen vnd hören wirst. das der betrieger den wurme nicht bestanden noch
ertöt hat. auch nit hat türren sehen. wie er sein endt genoemmen hat (Tristrant S. 36)(そこで
あなたは、あの嘘つきが、竜に立ち向かわず、殺しもせず、竜が最期を迎えるのを見る
勇気も持たなかったことを、自分で見、聞くだろう)
(44) [ich] hab noch nie zů Worten mit im mögen kummen (Till Eulenspiegel S. 51)(〔私
は〕まだ一度も彼〔教皇〕と言葉を交わすことはできていない)
(45) so haben sy das nymmer recht gesieden noch gepraten künnen auch weder brot noch
keinerlei ander speiß nocht tranck gehaben mügen (Tristrant S. 96)(彼ら〔トリストラント
とイザルデ〕はそれを煮ることも焼くこともできなかったし、パンも他の食べ物も飲み
物も手に入れることはできなかった)
(46) ich sag dir lob und danck / das ich doch ain mensch hab mügen sehen vor meim tod
(Fortunatus S. 45)(私が死ぬ前に人を見ることができたことであなたに賞賛と感謝を表
する)
(47) hond ir die hörner also künden überkommen / so steet auch darauf das sy wider künden
hynweg geen (Fortunatus S. 156)(あなたがこうして角を手に入れられたのなら、それが
まだなくなることが可能な方法もある)
(48) nun hastu die baide klainat in deinem gewaltt gehebt und hast sy nit künden behaltten
(Fortunatus S. 169)(お前は二つの宝を自分の手中に収めたのに、それを保てなかった)
ここで目につくのは、mögen, künnen「~できる」の例が多いということである。(42)(43)
も一種の可能表現と見ることができるので、過去における意思を表す (40)(41)以外はすべ
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て可能を表す例である。(『ボヘミアの農夫』の分詞構文の上例 (39)も可能を表す例であ
った。)また、(44)が経験の用法を示す以外は単なる過去を表す例ばかりである。
ほかにこの形式には法助動詞が本動詞として用いられる例もある。
(49) ich kan es nit und hab es nye künt (Fortunatus S. 189)(私はそんなことは〔今も〕で
きないし、〔過去に〕できたこともない)
これも mögen ではないが、同じく可能を表す例である。ただし、これは経験の用法で用
いられている。
1. 2. 2 法助動詞の過去完了形
法助動詞の過去完了形の例は多く現れないが、次のような例が存在する。
(50) Als aber sy eylent dar kam. was jr öhem tod. vnnd het jrer zů kunft nit erbeyten mügen
(Tristrant S. 17)(しかし彼女〔イザルデ〕が急いでそこへ行くと、彼女の叔父は死んで
いて、彼女の到着を待つことは〔すでに〕不可能であった)
これも上の現在完了形に多く見られる例と同様、mögen の例であり、過去の過去における
可能性を表す。
1. 2. 3 法助動詞の完了形の接続法2式
法助動詞の完了形が接続法2式の形を取る例としては次のようなものがある。
(51) du hest nit halb so fast dörffen iagen du werest noch wol zů rechter zeit kumen (Till
Eulenspigel S. 50)(お前はそんなに必死に追いかける必要はなかっただろう。そうしな
くともちゃんと間に合っただろう)
(52) Ich aß daz mir der schweiß ußbrach, als ob es leib vnd leben golten het, so hett ich nit mer
essen mögen (Till Eulenspiegel S. 51)(私は汗が吹き出すほどに食べて、もし命に関わる
としても、それ以上は食べることができなかっただろう)
(53) hett er den seckel sehen lassen so hett man wol mügen mercken das es ain glückseckel
gewesen wär (Fortunatus S. 110)(もし彼〔フォルトゥナートゥス〕がその財布を見せて
いたら、人はきっとそれが幸運の財布であることに気づくことができただろう)
(54) wär der künig selb gestorben / so het man im nit mer mügen nach thůn (Fortunatus S.
123)(もし王自身が死んだとしても、人はこれ以上彼と 同じまねはできなかっただろ
う)
(55) man weßt nyemand in der ganczen welt. der sölich erczney kunt. als die schön ysalde die
im auch wol hett helffen mügen (Tristrant S. 17)(彼〔モルホールト〕を救うことができ
る美しいイザルデ以外にそのような医薬を知る者を人は世界中に誰も知らなかった)
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(56) so haben wir nit gehebt darmitt wir sy haben mügen außsteüren (Fortunatus S. 72)(それ
で私たちは彼女に持参金をつけてやれるほどにはお金を持っていなかった)
(57) welchen er mit ainem guldin het mügen außrichten dem gab er zwen (Fortunatus S. 105)
(彼〔フォルトゥナートゥス〕は 1 グルデンで済ますことができるような人にも 2 グル
デン与えた)
(58) du hettest mir ungern ain zergelt gesant / das ich ain wenig eerlich hett mügen
haimkommen zu meinen freünden (Fortunatus S. 168)(お前は私が少しは名誉を持って故
郷の友人たちのもとへ帰れるようにと、はした金を私にやることもしようとはしなかっ
た)
(59) [Tristrant und Isalde] lasen kreütter vnd würczen, die sy miteinander assen. dann hettent sy
es besser gehaben mügen. wäre in vaste nott gewesen (Tristrant S. 99)(〔トリストラントと
イザルデは〕草や根を集めて、分け合って食べた。彼らがもっとよいもの〔食料〕を手
に入れられない以上、彼らは完全な困窮のままであっただろうからである)
上は(51)を除いてすべて mögen「できる」の例であり、すべて過去における非現実の仮定
に対する非現実の帰結を表す。 (55)-(58)は一見、「過去」における非現実を表さないよう
に見えるが、それは副文であるためで、主文に変えれば「イザルデであれば救うことがで
きたであろう」「持参金をつけてやれただろう」「帰れただろう」というように「過去」
を表すことが分かる。(59)は現代語の es sei denn「~でないかぎり、~でない以上」のも
とになるような表現である。,A‘, es sei denn, dass ,B‘ の本来の意味は「A である。さもな
ければ B であろう」であり、そこから「B でないかぎり A である」の意味で用いられる
ようになった。 (59)も本来の意味は「そうでなければもっとよいものを手に入れられたで
あろう」であり、やはり過去における非現実を表す。
また、次のように過去における非現実の仮定を表す例もある。
(60) er het jr auch geren genommen all jr ere. het er das mügen thůn (Tristrant S. 147)(彼
〔トリストラントの従者〕は、もしそうすることができたとすれば、彼女〔イザルデ〕
の名誉をすべて奪いたかった)
(61) DO nun das allso geschehen was / lang als der künig es gar geren gewißt wo sy gewesen
wären / und hetten sy ym nit wider werden mügen / noch dann het er gern groß gůtt geben das
er het mügen innen werden wie es darumb gestalt wär (Fortunatus S. 39)(このようなこと
が起こったあと、ずっと王はそれら〔宝石〕がどこにあるのか知りたいと思い、それが
彼のものになることはありえなかったとしても、それでもそれがどう行われたのか自分
が知ることができたなら、喜んでたくさんのお金を与えただろう)
また、次のように間接話法で用いられる場合もある。この場合、過去における可能性等
が表されるが、それが非現実である場合もあるが (下例 (62)-(64))、単に間接話法として用
いられ、非現実を表さない場合もある(下例(65)-(67))。
(62) do es nun umb die malzeit ward / gedacht der künig die malzeytt het nit mügen beraitt
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werden (Fortunatus S. 135)(昼食時になったとき、王は昼食は準備されることは不可能
だったろうと考えた)
(63) wo er seine brieff nit het gehabt / so het er die rayß nit mügen vollenden noch volbringen
(Fortunatus S. 110)(自分が彼〔王〕の手紙を持っていなかったら、旅行を全うすること
も実行することもできなかっただろう〔とフォルトゥナートゥスは言った〕)
(64) Fortunatus sprach er wißte nit zu radten/ dann das er aber gedacht / warumb er nit weißhayt
für reichtumb erwelet het / so er es wol het mügen tůn (Fortunatus S. 77)(フォルトゥナー
トゥスは、自分にはよい考えがないと言い、ただ、自分はなぜ富の代わりに知恵を選ば
なかったのか、そうすればうまくやれただろうにと考えた。)
(65) do er nun yederman gegeben hett / das nyemandt mer da was / nam es den Soldan groß
frembde / wie er so schwär gold het mügen ertragen (Fortunatus S. 111)(彼〔フォルトゥナ
ートゥス〕がすべての人にお金をあげ、もらっていない人は他にもう誰もいなくなると、
スルタンは、彼がどうしてこんな大金を生み出すことができたのかととても不思議に思
った)
(66) sy [...] sagten dem soldan / sy hetten die gallee nit mügen ereylen (Fortunatus S. 114)
(彼ら〔スルタンの家臣〕はスルタンに、自分たちはガレー船に追いつくことはできな
かったと言った)
(67) [Cassandra] fieng an in zu bitten das er von seinem fürnemen lyeß / es wurd yn gerewen
und das er vor umb gezogen wär / das wär alles in der christen land / wär er jung und stark
gewesen / und het mügen vil erleiden (Fortunatus S. 99)(〔カサンドラは〕彼〔フォルト
ゥナートゥス〕にその計画を止めるよう頼んだ。そんなことをすれば後悔する、彼が前
に回った所はすべてキリスト教国であり、彼も若く壮健だった、それで色んなことに耐
えられたのだと言った)
ここで注目すべきは、上のように間接話法で用いられる場合、法助動詞の完了形の接続法
2式が、「思う」等を表す上位文の示す時点に対して「過去」を表すということである。
つまり、「思った」時点に対して「~できた(だろう)」という時点が前にあるというこ
とである。これは勿論、現代語でもそうであり、特に不思議な現象ではない。しかし、中
高ドイツ語以来、法助動詞の接続法2式+完了不定詞が存在するが、これが間接話法で用
いられる場合、過去を表しはするが、その過去は上位文に対する過去ではなく、発話時に
対する過去を表すからである。つまり、法助動詞の完了形の接続法2式と法助動詞の接続
法2式+完了不定詞という、法助動詞の過去性を表す二つの形式のあいだに違いがあると
いうことである。
尤も、法助動詞の完了形の接続法2式が発話時から見て過去を表すと解釈可能な例はあ
る。
(68) Nun möcht man wunder haben. wie sy sölchs strengs leben vnd groß armůt hetten erleiden
mügen (Tristrant S. 96)(彼ら〔トリストラントとイザルデ〕がどうしてそんなに厳しい
生活やひどい貧困に耐えることができたのか人は不思議に思うかもしれない)
(69) ich het nitt gedacht / das er ainen eßel het mügen vergelten (Fortunatus S. 49)(私は彼が
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ろば一頭でも買うことができるとは思っていなかった)
(70) [Fortunatus] hett nit vermaint das ain kunig so vil unnd so grosse kostliche klainat hette
mügen haben (Fortunatus S. 112)(〔フォルトゥナートゥスは〕一人の王がこれほどたく
さんの立派な高価な宝石を持つことができるとは思っていなかった)
しかし、上の (68)は発話時から見て過去を表すと解釈可能というだけで、上位文に対して
過去を表すと解釈することもできる例である。また、 (69)(70)は「思う」時点から見れば
過去を表さないが、「思う」という上位文は過去完了形であり、その基準時から見て過去
を表す。つまり、これも上位文から見て過去を表すと言える。従って、発話時から見て過
去を表すとしか解釈できないような例は存在しない。
なお、法助動詞の完了形が接続法2式の形を取るものには、次のように不定詞を伴わず、
法助動詞が本動詞として用いられるものもある。
(71) aber die ersten die hett ich wol gemöcht, die hond ir mir on mein danck geessen (Till
Eulenspiegel S. 59)(しかし私が欲しかった最初のもの〔ソーセージ〕は、あなた達が私
の気持ちを無視して食べてしまった)
(72) Dess was der abbt fro / und het gar ungern gewelt das die pilgere verloren wären gewesen
(Fortunatus S. 63)(そのことを僧院長は喜び、巡礼が行方不明であったらなどというこ
とは決して望んでいなかった)(= (38))
このうち、 (71)は「私にそれが可能であったらよかったのだが」という意味から「私はそ
れが欲しかった」という意味を生んだ例である。また、 (72)は「決して喜んでは望まなか
っただろう」というのがもとの意味である。従って、これらはいずれも過去における非現
実を表す。
1. 2. 4 法助動詞+完了不定詞
中高ドイツ語には法助動詞の完了形は存在せず、法助動詞+完了不定詞という形式が用
いられていた。これは前章の「7.
法助動詞+完了不定詞」で見たように、現代語とは異
なる意味で用いられることが多かった。そこでこの形式が初期新高ドイツ語ではどのよう
な意味を持つか見ておきたい。
1. 2. 4. 1 法助動詞の現在形+完了不定詞
中高ドイツ語においてこの形式が現在形で用いられる場合、現代ドイツ語とは異なり、
完了不定詞が過去を表さず、未来完了形的な意味で用いられた(前章「7. 1 法助動詞の現
在形+完了不定詞を」参照)。初期新高ドイツ語にもそのような完了不定詞が過去を表さ
ない例が存在する。
(73) [ich] wil mich auch gegen yederman entschuldiget haben (Till Eulenspiegel S. 3)(〔私
- 218 -
は〕すべての人に容赦して頂きたい)
しかしそのような例は多くない。むしろ、過去の事態に対する現在における推量等を表す
場合の方が多く、現代ドイツ語の用法に近づいている。
(74) du můst nit lang darbei gewesen sein (Till Eulenspiegel S. 83)(お前はまだ長くはこの
職についていないに違いない)
(75) du magst sy nye so woll nach deinem willen gesehen haben (Tristrant S. 179)(あなたは
自分の思い通りには彼女〔イザルデ〕にずっと会えなかったかもしれない)
(76) du redest gleich. als ob du den gesehen habest. der es gethan soll haben (Tristrant S. 35)
(あなたはまるで、それ〔竜退治〕を 行ったと言われる 者を見たかのように話してい
る)
1. 2. 4. 2 法助動詞の過去形+完了不定詞
中高ドイツ語ではこの形式の法助動詞が過去形の場合、最大の特徴は過去における非現
実の事態を表す例が多いということであったが(前章「7. 4 法助動詞の過去形+完了不定
詞」を参照)、初期新高ドイツ語では次のように非現実を表さない例が見られる。
(77) Wie der truchseß sein manlich tat solt beweißt haben (Tristrant S. 38)(内膳頭が自分の
勇敢な行為を証明するよう言われたこと)
しかし、これは完了不定詞が未来完了形的な意味で用いられている例であり、これも中高
ドイツ語の用法の一つである(前章「2. 5 非過去を表す現在完了形」を参照)。
それ以外の例は非現実の過去を表し、中高ドイツ語の用法がそのまま残っていることが
分かる。下の (78)は『ボヘミアの農夫』からの例で、それ以外は 1500 年頃の資料からの
ものである。
(78) Solte gotes almechtige vnd wirdige hant so ein vnreines vnd vnfletiges menschwerk haben
gewurket [...] ein streflicher vnd gemeiligter wurker were er (ackerman 25. cap.)(もし全能で
威厳ある神の手がそんな不純で下品な人間という作物を作るということがあったとすれ
ば、神は罰すべき、恥辱に満ちた創造者ということになるだろう)
(79) wann solt ers geweißt haben. es wär hierzů nit kommen (Tristrant S. 82)(というのは、
もし彼〔ディナス公〕がそれを知るようなことがあったとすれば、彼は来なかっただろ
うからである)
(80) so wz mir leid dz ir solten gelogen hon, dz ir die hüner all beid solten gessen hon, dz mir
nüt dauon worden wer (Till Eulenspiegel S. 16)(あなた方が鶏を二羽すべて万一食べるよ
うなことがあって、私の分がなくなって、あなた方が嘘をつくようなことがあったら、
それは私にはつらいことであった)
(81) Do sy also den tag und die nacht warteten / unnd sy nit herwider kam / ward es die künigin
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(als ain můtter) behertzigen / das sy umb ir schonen tochter allso solt kommen sein (Fortunatus
S. 166)(彼らは一昼夜待ったが彼女〔アグリピーナ〕は戻ってこなかったので、王妃は
母らしく、美しい我が娘をよもや亡くしたのではあるまいかと心を痛めた)4)
(82) wann jch solt des getranckes bas gepflegen haben (Tristrant S. 50)(私はあの飲薬をもっ
とよく管理すべきだったのだから)
(83) Nu hast du mir doch selbst gesaget. das mir sölich mein nott vnd vngelick von dem
getranck entstanden sey den du verwart soltest haben (Tristrant S. 53)(私の苦しみと不幸は
あなたが管理すべきだった飲薬から生じたと、あなたは私に今言ったばかりだ)
(84) die meinten der weinzepffer solt uff gesehen haben, als er dann spricht, dz in niemans
betriegen kund, vnd dz hat Vlenspiegel gethon, umb seiner großen vermessenheit willen (Till
Eulenspiegel S. 90)(彼らは、ワイン管理者は誰も自分を騙せないと言っていたのだから、
注意すべきだった。そんなことをオイレンシュピーゲルがしたのは彼の不遜のためだと
考えた)
(85) jch sollt jm leicht sein sein schwert gewüschet haben (Tristrant S. 32)(私はひょっとし
たら彼〔トリストラント〕の剣を拭うべきだったのかもしれない)
(86) du solltestt disen langen tag darnach gejaget haben (Tristrant S. 158)(あなたは日がな一
日それ〔馬〕を追っていればよかったのに)
(87) Als ich billich und von rechts wegen auch gethon solt haben / und unser alt herkommen
und stammen in würde hon gesetzt (Fortunatus S. 7)(私は正しくまっとうにすべきで、我
々の昔から続く家系と血統を尊厳あるものにすべきだったのに)
(88) oder hab jch arme ysalde ye jchcz gewürckt. dz jch solt vermiten haben (Tristrant S. 46)
(あるいは私、哀れなイザルデは、避けるべきだったことをこれまでに行ったのか)
(89) [Brangel] bat dye frawen jr auch ze vergeben. ob sy ye jchtes gethan hette. das sy solt
vermiten haben (Tristrant S. 60)(〔ブランゲルは〕自分が避けるべきだったことをかつ
て行ったことを許しすよう自分の主人〔イザルデ〕に頼んだ)
(90) dann wär jendert ain kalines fincklein der lieb in jm gewest all sein tag. er solt das
billichen da haben erscheinen lassen. (Tristrant S. 89)(というのは、もし愛の火花が生涯
一度でも彼〔マルク王〕の中にあったなら、彼はそれをきっと表したはずだったからで
ある)
(91) do es nacht ward unnd man aber den breüß außgeben und von billichait Andolosia solt sein
wordenn. Aber von eeren wegen gegeben graff Theodoro (Fortunatus S. 183)(夜になり、褒
美を与えることになり、当然アンドロージアがそうなるべきであった。しかし敬意を表
してテオドルス伯に与えられた)
(92) [der künig Marchs] wolt das geczwerglin erstochen haben (Tristrant S. 73)(〔マルク王
は〕侏儒を刺し殺そうとした)
(93) [Tristrant] wolt in ernider geschalgen haben (Tristrant S. 144)(〔トリストラントは〕
彼〔カイニス〕を殴り倒そうかと思った)
(94) der bößwicht wolt mich ermort haben (Fortunatus S. 31)(この悪人が私を殺そうとし
た)
(95) so woltt er yn hon lassen hencken (Fortunatus S. 37)(それで彼〔裁判官〕は彼〔フォ
- 220 -
ルトゥナートゥス〕を絞首刑にしようとした)
(96) [ich] wolt mich selbs erhangen haben (Fortunatus S. 167)(〔私は〕自分を縛り首にし
ようと思った)
(97) Auctrat wolte auch sein narren spil mit jm haben getriben (Tristrant S. 180)(アウクトラ
ートは彼〔道化に扮したトリストラント〕をからかおうとした)
(98) so wolt er nur die dreü / so dann der graff kaufft wolt haben (Fortunatus S. 49)(それで
彼〔フォルトゥナートゥス〕は、伯が買おうと思っていた三頭〔の馬〕が欲しいと思っ
た)
(99) ich wolt in den malvesier an das bett bracht haben / gedacht ich růwe thät in bas
(Fortunatus S. 78)(私はマルヴァシアワインを彼らの寝床に持っていこうと思ったが、
彼らには休息の方が大事だろうと考えた)
(100) so wolt er yn tzu ainem graffen gemacht haben (Fortunatus S. 130)(そして彼〔王〕は
彼〔アンドロージア〕を伯にしようと思った)
(101) [der graf] wolt ym fünffzig bar ducaten geben haben (Fortunatus S. 189)(〔伯は〕彼に
50 ドゥカーテンやろうと思った)
(102) der sagt wie dass er yn woldt haben ermort (Fortunatus S. 37)(彼〔アンドレアーン〕
は相手が自分を殺そうとしたことを話した)
(103) [Fortunatus] satg yn [...] wie groß gůtt ym der soldan darumb wolt geben haben
(Fortunatus S. 122)(〔フォルトゥナートゥスは〕彼ら〔息子たち〕に、スルタンがその
〔帽子の〕ために莫大な財産を自分に渡そうとしたことを話した)
以上の例で使われている法助動詞は sollen, wollen であり、この点も中高ドイツ語と同様
である。初期新高ドイツ語においては、この過去における非現実の事態は法助動詞の現在
完了形によっても表される(下に再掲)。
(40) mit Vlenspiegel hon ich mich nie bekümern wöllen, noch dan ist er zů vns kumen (Till
Eulenspiegel S. 42)(私はオイレンシュピーゲルと一切関わるつもりはなかったのだが、
彼の方から私たちの所へ来たのだ)
しかし、上で見たように(1. 2. 1 )法助動詞の現在完了形の多くは mögen 等による可能
を表す例であった。従って、過去における非現実の事態は、意志を表す sollen, wollen
(sollen
も主語以外のものの意思を表す) については中高ドイツ語以来の伝統に従って
法助動詞の過去形+完了不定詞が用いられ、可能を表す mögen 等については新しい法助
動詞の現在完了形が用いられるというように、助動詞の種類によって使い分けが行われて
いたと考えられる。
1. 2. 4. 3 法助動詞の接続法2式+完了不定詞
中高ドイツ語において法助動詞の接続法2式+完了不定詞が用いられる場合、最大の特
徴は、法助動詞が表すべき過去性を完了不定詞が表す例が多いということであった(前章
- 221 -
「7. 3 法助動詞の接続法2式+完了不定詞」を参照)。この用法は初期新高ドイツ語にも
見られる。
(104) vnnd weren etlich der selben da gewesen, er wolte das opffer nicht von inen entpfangen
haben (Till Eulenspiegel S. 48)(もしそのような者がいたとしても、その者からは自分は
献金を受けようとはしなかっただろう〔とオイレンシュピーゲルは言った〕)
(105) Het ich die meinung also gewißt, ich wolt die ermel wol gůt haben angenegt vnd het
auch ein par stunden geschlaffen (Till Eulenspiegel S. 77)(もし私がその考えを知っていた
ら、その袖をきちんと縫いつけようとしていただろうし、また、2, 3 時間寝ていただろ
う)
(106) wo sy in funden hetten. wöllten sy in ertöt haben (Tristrant S. 30)(もし彼らがそれ
〔竜〕を見つけていたら、それを殺そうとしていただろう)
(107) het er mir das gesagt daz er den apffel so begirig wolt haben ingeschluckt, ich wolt inn
haben dafür gewarnt (Till Eulenspiegel S. 133)(もし彼がそのりんごを貪欲に飲み込みた
いと私に言っていれば、私は彼にそんなことはするなと注意しようと思っただろう)
(108) het ich das gewüßt das ich nit mer danck solt verdient haben, ich wolt so grossen fleiß nitt
gebrucht haben (Till Eulenspiegel S. 86)(もし私がそれ以上の感謝を受けられないと知っ
ていたら、これほど多くの努力を用いようとはしなかっただろう)
(109) [die Schneider] fragten in ob er auch etwz mer zesagen het dan der fantasei wolten sie nit
10 oder 12 meilen nach gezogen haben, und zůeinander botten geschickt hon (Till Eulenspigel
S. 79)(仕立屋たちは彼〔オイレンシュピーゲル〕に、他にもっと言うことはあるのか、
というのは、自分たちは 10 マイル、12 マイルも絵空事を求めて来るつもりも、使者を
互いに送るつもりもなかったのだからと尋ねた)
(110) sy wärn aber billicher ee kommen. wöllten sy jm vil hilfe beweißt haben (Tristrant S.
122)(しかし彼らは彼〔リオル伯〕に多大の援護を示そうと思ったのなら、早く来る方
がよかっただろう)
(111) zů letst müsten sie zů friden sein, vnd trösten sich damit es wer ein gnediger her, ob sie
im schon die ochsen müsten gegeben haben (Till Eulenspiegel S. 135)(最後には彼らは、自
分たちが雄牛をやらねばならなかったとしても、それは慈悲深い主人だということで、
満足し、自らを慰めねばならなかった)
(112) Also wurden vil töchtern schon geklait / die sunst noch lang müßten on so gůte klayder
gewesen sein (Fortunatus S. 83)(こうして多くの娘たちも着飾ったが、彼女たちはほかの
時ならずっとよい服がないままであらねばならなかっただろう)
(113) so het der kirchherr vil von Vlenspiegeln gehört, was er für ein gesel wer, vnd schalt den
schmid, dz er im das nit zů wissen het gethon, dz er doch Vlenspiegeln gesehen möcht haben
(Till Eulenspiegel S. 66)(すると司祭はオイレンシュピーゲルについてどんな職人なのか
色々聞いていたので、鍛冶屋が自分にそれを知らせなかったことを非難した。そうすれ
ば、彼はオイレンシュピーゲルに会うことができただろう)
(114) hetest du die warheitt gesaget als dein gesell. So möchtestu deyn leben auch behalten
haben (Tristrant S. 175)(お前がお前の仲間同様本当のことを言っていれば、命を守れた
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だろうに)
(115) des verlor manicher den leib den er sunst wol möcht behalten haben (Tristrant S. 124)
(多くの者が、そうでなければ〔武装していれば〕守れたであろう命を失った)
初期新高ドイツ語ではこれらの例が表す意味は、法助動詞の完了形の接続法2式によって
も表せるだろう。実際、例えば上の(114)と 1. 2. 3 で挙げた(53)(下に再掲)は用法におい
て特に違いがあるとは思えない。
(53) hett er den seckel sehen lassen so hett man wol mügen mercken das es ain glückseckel
gewesen wär (Fortunatus S. 110)(もし彼〔フォルトゥナートゥス〕がその財布を見せて
いたら、人はきっとそれが幸運の財布であることに気づくことができただろう)
ただし、法助動詞の完了形の接続法2式の場合、ほとんど mögen
による可能を表す例ば
かりであった。それに対し、この法助動詞の接続法2式+完了不定詞においては、中高ド
イツ語以来、その助動詞の種類に特に制限はない。従って、法助動詞の完了形の接続法2
式という形式は、まず mögen によって広まり、そのあとで他の助動詞に広がり、従来の
法助動詞の接続法2式+完了不定詞という形式を駆逐していったと考えられる。その意味
で、初期新高ドイツ語はまだその途中の段階と見なされる。
この形式が間接話法で用いられる場合、上で述べたように( (62)-(67)のあとに続く説明
箇所を参照)、過去性は上位文に対する過去ではなく、発話時から見た過去である。
(116) het er mir das gesagt daz er den apffel so begirig wolt haben ingeschluckt, ich wolt inn
haben dafür gewarnt (Till Eulenspiegel S. 133)(もし彼がそのりんごを貪欲に飲み込みたい
と私に言っていれば、私は彼にそんなことはするなと注意しよう思っただろう) (=
(107))
(117) het ich das gewüßt das ich nit mer danck solt verdient haben, ich wolt so grossen fleiß
nitt gebrucht haben (Till Eulenspiegel S. 86)(もし私がそれ以上の感謝を受けられないと知
っていたら、これほど多くの努力を用いようとはしなかっただろう)(= (108))
(118) wann ich hab all mein hoffen auff dich gehebt / das wir als brüder wolten mit ainander
gelebt haben. und unser zeit mit ainander vertriben (Fortunatus S. 18)(というのは、私は、
我々が一緒に暮らし、一緒に人生を送ろうと、すべての望みをお前にかけたからだ)
(119) Curneual het sich der kron vnd des reichs geren verwegen das er mit seinem herren solt
gefaren sein (Tristrant S. 19)(クルネヴァル〔クルヴェナル〕は主君に同行せよと言われ
れば王位も王国も喜んで捨てるだろう〔とトリストラントは父王に伝えさせた〕)
(120) [der wirt] mainet er solt auch ain verdrießen daran gehebt hon (Fortunatus S. 71)(〔宿
の主人は〕彼〔フォルトゥナートゥス〕がこれで嫌気をもよおすはずだと思った)
(121) Mer gab er auß ain klaynat vierhundert ducaten wert. darumb solten stechen die burger
und ir genoß auch dreytag / und wer das best thet der solt das selb klainat gewunnen haben
(Fortunatus S. 95)(さらに彼〔フォルトゥナートゥス〕は、400 ドゥカーテンの価値の宝
石を出した。そのために市民およびそれと同等の者たちが三日間槍試合を行うことにし、
- 223 -
最も優れた活躍をした者がその宝石を獲得するようにと)
(122) [Andrean sprach, er] wär dester ferrer her kommen auff hoffnung der künig solte ym auch
ettliche stuck ab kaufft haben (Fortunatus S. 29)(王が自分から何か買ってくれるのではな
いかと期待して遠くからやって来た〔とアンドレアーンは言った〕)
(123) [der wirt] vermaynet er solt groß fleck mit guldin in iren wammessern funden haben
(Fortunatus S. 67)(〔宿の主人は〕彼らの胴着の中にお金の入った大きなつぎあてを見
つけられるのではないかと思った)
(124) do ward er fro und maint er solt leüt darinnen gefunden haben (Fortunatus S. 43)(それ
で彼〔フォルトゥナートゥス〕は喜んで、中に人が見つかるのではないかと思った)
例えば上の (124)は「彼は思った。彼が人を見つけられることがあったとすれば〔よかっ
ただろう〕」→「彼は、自分が人を見つけられればよいのだがと思った」と解釈され、過
去性は主文に対してではなく、文全体の発話時から見たものである。
その意味では、次の例も同様の用法から生まれた特殊な直接話法の例と見ることができ
る。
(125) [Andolosia] gedacht ym / ›hette er den seckel tzu seinen handen genommen so wäre doch
nit lang an gestannden / ich müßt yn wider darumb gebeeten haben [...]‹ (Fortunatus S. 173)
(「もし彼〔アンペード〕が財布を自分のものにしたら、長いことかからずに、俺はま
たそれを彼に頼まねばならないだろう」と〔アンドロージアは〕思った)
すなわち、この例は「彼は思った。そうなれば彼は頼まねばならなかっただろう」→「彼
は、自分は頼まねばならないだろうと思った」→「彼は『私は頼まねばならないだろう』
と思った」というように間接話法から直接話法に転じた特殊な直接話法の例であり、やは
り発話時から見た過去を表す間接話法の変種と考えられる。
なお、法助動詞の接続法2式+完了不定詞という形式には、助動詞の過去性を表さない
例もある。
(126) solten wir so lange beieinander gewesen sein, vnd nun erst uß dem eelichen stat sitzen,
das wer nit gůt (Till Eulenspiegel S. 106)(もし我々がこんなに長いこと一緒にいて、今に
なって婚姻関係にないということになったりしたら、それはよくないことだろう)
この例では solten にかかる不定詞は gewesen sein と sitzen の二つであり、sollte の「~に
なるようなことがあるとすれば」という意味はどちらかと言えば sitzen
と結びつく。
gewesen sein は「いつづけている」という sitzen の背景となる状況を表すに過ぎないので、
これは単なる sollte +不定詞の用法と見るべきであろう。
2. 現在完了形の意味機能
中高ドイツ語の現在完了形には、完了後の結果状態、事態継続、経験、基準時との間接
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的な関与などの用法が認められたが、そのすべての用法は初期新高ドイツ語にも認められ
る。
2. 1 事態完了後の結果状態の存続を表す現在完了形
この用法は何度も述べたように現在完了形の最も基本的用法であり、初期新高ドイツ語
にも見られる。ここではわずかな例を挙げるにとどめる。
(127) ich bin nit in euwerm land ich sitz in meinem land das ich gekoufft hab für einen .ß.
pfenning (Till Eulenspiegel S. 38)(私はあなたの土地にいるのではなく、私が1シリング・
プフェニヒで買った土地にいるのだ)
(128) bistu vnsinnig vnd doll worden (Till Eulenspiegel S. 33)(お前は気でも狂って頭がおか
しくなったのか)
2. 2 継続を表す現在完了形
継続を表す現在完了形は中高ドイツ語には多いが、現代ドイツ語にはあまり見られない。
初期新高ドイツ語にはこの用法の現在完了形の例は依然として多い。
(129) Tugent lieb gehabet, bosheit gehasset, sunde vbersehen vnd gerochen hat got bis her
(ackerman 31. cap.)(神はこれまで徳を好み、悪を憎み、罪に恩赦や報復を加えてきた)
(130) Ich han von jugent auf gehoret lesen vnd gelernet, wie alle dinge got gut bescahffen
habe (ackerman 31. cap.)(神がいかにすべてのものをよく創造したかということを、私
は子供の頃から読むのを聞き、学んできた)
(131) als vns her ist gewesen (ackerman 8. cap.)(これまでそうであったように)
(132) Wo nam der nun söllich manheit. der doch ye eyn zag gewesen ist (Tristrant S. 29)(彼
〔内膳頭〕がどこでそんな勇気を身につけたのか。ずっと臆病者だったのに)
(133) Du hast lang nach dem bad gerungen (Till Eulenspiegel S. 7)(お前はずっと水浴びを
〔上手くできるよう〕求めてきた)
(134) ewer schweiß hat lang vbel gstuncken (Till Eulenspiegel S. 22)(あなたの汗はずっと
ひどい臭気を発している)
(135) ich hon eüch lanng nach geraist mit grossen sorgen / daz ich nit ermort byn worden mit
den klainaten (Fortunatus S. 148)(私はこの宝石のために殺されてしまわないようとても
心配しながらずっとあなたを求めて旅してきた)(= (22))
(136) verflůcht sey die stund darinn ich geborn ward / und die tag und stund die ich ye gelebt
hab (Fortunatus S. 150)(私が生まれた時よ、私がずっと生きてきた日と時よ、呪われ
よ)
(137) so hon ich all mein lebtag gehört, das ein ietlicher sol frid haben in seinen vier pfelen
(Till Eulenspiegel S. 37)(誰でも自分の4本の柱の中では安全を受けられると自分の生き
ている間ずっと聞いてきた)
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(138) ich wil den sachen also thůn, vnd hoff noch für ein frumen man zů beston, als ich vor
lang gethon hab (Till Eulenspiegel S. 42)(私は、ずっと前から行ってきた通りに、その問
題に対処し、有能な人間であることを示したい)
(139) wißsen das ich den seckel sechtzig jar gehebt hab / und hon es kainem menschen nye
gesagt (Fortunatus S. 123)(私はこの財布を 60 年間持ち続けているが、それを誰にも話
したことはないことを覚えておきなさい)
(140) hie bin ich so kranck drei tag und nacht on aller menschen hilff hie gelegen (Till
Eulenspiegel S. 136)(私はここに 三日三晩 誰の助けもなく病気で 横になったままでい
る)
(141) die trew und liebin so ir uns biß her bewisen haben / lond auß eüerem hertzen nit
kommen (Fortunatus S. 100)(あなたが私たちにこれまで示してきた忠実と愛情をあなた
の心からなくさないで下さい)
(142) Nun ist die zeit kommen das ich nit mer kan hoff halten als ich bißher gethon hab
(Fortunatus S. 143)(私がこれまでやってきたようには饗宴をこれ以上行うことはできな
い時が今ややって来た)
(143) so lang und ich den seckel gehebt hab ich dem gelübt entlich gelebt (Fortunatus S. 123)
(私がこの財布を持ち続けている間はずっとこの誓いを大事に生きてきた)
(144) du bist nun ein gancz jar vnd mer mit deinem mann gewesen (Tristrant S. 128)(お前
〔カイエスの妹のイザルデ〕はこれまで丸一年以上お前の夫とともにいつづけた)
(145) also will ich eüch sagen wie ir eüch halten söllen nach meinem tod / da mit ir bey eeren
unnd gůtt beleyben / als ich biß an mein end beliben byn (Fortunatus S. 122)(それで、私が
この最後の時まであり続けたようにお前たちが名誉と財産を保つために、どうやってお
前たちが私の死後振る舞うべきか、お前たちに言おう)
また、事態の反復を表す例も見られる。
(146) als leider dicke geschehen ist (ackerman 15. cap.)(残念なから何度も起こっているよ
うに)
(147) Nun habe jch in doch vormal offt gesehen. das er mein gemüt nie erwegt hat (Tristrant S.
46)(私は これまで何度も 彼〔トリストラント〕を 見てきた が、彼が私の心を突き動か
したことはない)
(148) du hast offt gehört wer brot hat dem gibt man brot (Till Eulenspiegel S. 27)(パンを持
つ者にはパンが与えられるとお前は何度も聞いた)
(149) du hast offt gehört man künd nüt so seltzems dings geen Brunschwick bringen man lößt
gelt daruß (Till Eulenspiegel S. 28)(妙なものをブラウンシュヴァイクに持っていけばお
金を払ってくれるとお前は何度も聞いた)
(150) wir seyen mer hye gewesen (Fortunatus S. 91)(私たちはここへ何度も来た)
2. 3 経験を表す現在完了形
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経験を表す現在完了形の例も初期新高ドイツ語に多く見られる。(これは現代ドイツ語
にも多い。)
(151) Was weiß davon ein tummer man, der aus disem jungbrunnen nie hat getrunken?
(ackerman 9. cap.)(この若さの泉から飲んだことのない愚か者がそれについて何を知っ
ているか)
(152) Wunder nimpt vns solcher vngehorter anfechtung, die vns nimmer hat begegent
(ackerman 4. cap.)(我々の身に起こったことのないような攻撃に驚いている)
(153) Wo hat ie werkman gewurket so behendes vnd reiches werkstuck, einen so werkberlichen
kleinen kloß als eines menschen haubet? (ackerman 25. cap.)(人間の頭ほど敏捷で中身のあ
る作品を、巧妙な小球をこれまでどこで職人が作ったことがあるか)
(154) Nun habe jch in doch vormal offt gesehen. das er mein gemüt nie erwegt hat (Tristrant S.
46)(私はこれまで何度も彼〔トリストラント〕を見てきたが、彼が私の心を 突き動か
したことはない)(= (147))
(155) ich hab meinen knechten zů diser zeit nie kein liecht geben (Till Eulenspiegel S. 29)(私
は職人にこの時期明かりを渡したことはない)
(156) das er kainer stat noch iren leütten nye geschenckt hatt / weder vil noch lützel
(Fortunatus S. 103)(彼〔王〕はどの都市にも、またそこに住む人にも、どんな量であれ
贈り物をしたことはないので)
(157) auch hastu mir noch nie gesagt wie es darumb gestalt sei (Tristrant S. 110)(あなたはそ
れがどうして起こったのか私にまだ言っていない)
(158) wißsen das ich den seckel sechtzig jar gehebt hab / und hon es kainem menschen nye
gesagt (Fortunatus S. 123)(私はこの財布を 60 年間持ち続けているが、それを誰にも話
したことはないことを覚えておきなさい)(= (139))
(159) Jch hab auch nie gehört das [...] (Tristrant S. 195)(私も〔……〕ということを聞いた
ことがない)
(20) des gleichen vor nie gehört ist worden (Till Eulenspiegel S. 48)(そのようなことはか
つて聞かれたことがない)
(21) uns ist soliche er nye erbotten worden (Fortunatus S. 91)(我々にこのような敬意が示
されたことはない)
(44) [ich] hab noch nie zů Worten mit im mögen kummen (Till Eulenspiegel S. 51)(〔私
は〕まだ一度も彼〔教皇〕と言葉を交わすことはできていない)
(160) wenn du hast mir den liebsten man den ye keyn juncfrau gehabt hat. an meinem öhem
erschlagen (Tristrant S. 33)(あなたは私の叔父という、いかなる乙女にもあったことのな
い最愛の人を殺したのだから)
(161) Al myn lebtag hat mir niemant verwissen dz ich schele bin (Till Eulenspiegel S. 46)(私
はこれまでの人生誰も私に私が斜視であると指摘したことはない)
(162) Ich hab all mein lebtag nye so hart geschlaffen (Fortunatus S. 141)(私は人生でこれほ
ど深く眠ったことはない)
(163) ich hab in dreissig jaren nye kain mensch gesehen noch gehört (Fortunatus S. 152)(私
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は 30 年間人に会っていないし、声も聞いていない)
(164) seyder haben ir unser kainer mer gesehen (Fortunatus S. 32)(それ以来もう我々のうち
の誰も彼らを見ていない)
(165) ich hab noch kain hauß bestanden (Fortunatus S. 159)(私はまだ家を持っていない)
(166) vnd ist der aller süssest man. den juncfraw je lieb gehebt hat (Tristrant S. 46)(そして彼
は乙女がこれまでに愛した最も麗しい人だ)
この用法で中高ドイツ語と異なる点は、中高ドイツ語で経験の否定を表す否定辞として
中心的に用いられていたのが selten
であったのに対し、初期新高ドイツ語ではこの否定
辞がもはや使用されないということである。それは恐らく、経験の用法が事態反復の用法
とは関係のない、一つの用法として確立したためだと考えられる。
2. 4 基準時との間接的な関与を表す現在完了形
中高ドイツ語にも基準時との間接的な関与を表す例がすでに現れていたが、初期新高ド
イツ語ではその種の例は増大している。
(167) Die haben es selbes getan vnd haben das ire kinder gelernet, das sie liebe in eren haben
solten (ackerman 23. cap.)(彼ら〔ローマ人〕は名誉を喜びとすることを自ら行い、子供
に教えた)
(168) Mit solcher warheit hat den trostlichen Romer Boecium hin geleget Philosophia
(ackerman 29. cap.)(そのような真理によって哲学は慰めを受けるローマ人ボエティウス
を平安に至らせた)
(169) Vmb keiser Karel, marggrave Wilhelm, Dietrich von Berne, den starken Boppen vnd vmb
den hurnen Seifrid haben wir nicht so vil mue gehabet (ackerman 30. cap.)(カール大帝、ヴ
ィルヘルム辺境伯、ベルンのディートリヒ、強力のボッペ、角質化したザイフリートの
こと〔死んだこと〕でも我々は〔非難を受けて〕これほどつらい思いをしなかった)
(170) Weise mir ein handvol schöne aller schönen frauen, die vor hundert jaren haben gelebt
(ackerman 24. cap.)(百年も前に生きたすべての美しい女性の美しさが一握りでもあれば
私に見せてくれ)
(171) so jch jnen sage. daz jch kein anndere haben wölle dann die. der das har gewesen ist
(Tristrant S. 23)(それで私は、この髪の持ち主であった女性以外の誰も娶るつもりはな
いとあなた達に言おう)
(172) nun ist nicht zweifels dz wir lebendig oder mit gesundem leib nymer von hinnen kommen.
wenn künig marcks ist hye gewesen (Tristrant S. 98)(もはや私たち生きて健康な体でここ
から逃れられないことは疑いない。マルク王がここに来たのだから)
(173) noch dan ist er zů vns kumen (Till Eulenspiegel S. 42)(それでも彼〔オイレンシュピ
ーゲル〕は私たちの所へやって来た)
(174) jch hab aber nit gedacht das du so ein vntrew man gewesen seyest (Tristrant S. 68)(私
はあなたがそんな不実な男だとは思わなかった)
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(175) wz er getriben vnd gethon hat in welschen vnd tütschen landen (Till Eulenspiegel S. 3)
(彼〔オイレンシュピーゲル〕が南の国やドイツで何をやり、行ったか〔を書くよう私
は頼まれた〕)
(176) wie habt ir so hert geschlafen (Fortunatus S. 140)(どうしてあなたはあんなに深く眠
っていたのか)
(177) wann jch nahent czwey gancze jar on brot vnd on alle gekochte speyß gelebt hab
(Tristrant S. 120)(というのは、私はほぼ丸二年、パンも調理された料理も食べずに生き
たからである)
(178) ich hon lang an eüch gewekt / ich kund üch aber nye erwecken (Fortunatus S. 141)(私
はあなたをずっと起こしたが、しかしあなたを目覚めさせることはできなかった)
(179) ich sih wol dz nur ein hun am spiß steckt vnd sein ihr doch zwei gesein (Till Eulenspiegel
S. 16)(私が見るに、鶏は一羽串に刺さっているが、それは二羽 あった はずだ) (Der
hüner waren doch zwei, wa ist dz ein hin kumen? (ibd.)(鶏は二羽あったはずだが、一羽は
どこへ行ったのか)を参照)
(180) es ist nacht gewesen / ich wißt nit waß ich traff (Fortunatus S. 76)(夜だったので、私
は何を打ったのか分からなかった)
(181) so mag er daz ander auch onwerden und zu armůt kommen / wie sein vater zu armůt
kommen ist (Fortunatus S. 83)(だから彼も、彼の父親が貧困に陥ったように、残りのも
の〔金〕を失い貧困に陥るかもしれない)(父親はすでに死去)
(182) Als auch gethon hat Salomon / dardurch er der reichest künig der erden wordenn ist
(Fortunatus S. 195)(そのようにソロモン王も行った。それでこの世で最も裕福な王にな
った)
(183) wie sy das nächtmal bald ist wider kommen / also wirtt villeicht yetz auch beschehen
(Fortunatus S. 165)(彼女〔アグリピーナ〕は前回すぐに戻って来たのと同じように今回
もきっとなる〔すぐ戻って来る〕だろう)
(184) wir haben fenster und thür verspert / und haben es alles offen funden (Fortunatus S. 68)
(我々は窓も戸も鍵をかけたが、すべて開いた状態で見出した)
このうち (170)のように発話時から切り離された特定の過去時を表す時間副詞句を伴う例
も存在する。
2. 5 非過去を表す現在完了形
未来完了形的に非過去を表す現在完了形の例も初期新高ドイツ語に多く見られる。(現
代ドイツ語にも多い。)
(185) als balde ein mensche geboren wirt, als balde hat es den leikauf getrunken, das es
sterben sol (ackerman 20. cap.)(人間は生まれるやいなや、死なねばならないという契約
の杯を飲んでいるのだ)
(186) das ist bald geschehen (Tristrant S. 85)(そんなことはすぐに済むだろう)
- 229 -
(187) es ist noch umb ain nacht zů thůn / so sind ir gar genesen (Fortunatus S. 164)(あと一
晩治療されねばならない。そうすればあなたはすっかり治っているだろう)
(188) Ob er leicht lieb gehabt worden ist. so hat er doch nitt rechter lieb widerum gehabt
(Tristrant S. 89)(もし彼〔マルク王〕が愛されたとしても、彼の側で真の愛を抱くこと
はないだろう)(= (23))
(189) hat der mensch solichs gethon, so ist zů förchten, das er in vnglauben ist vnd kein gůter
Cristen ist (Till Eulenspiegel S. 52)(人がそのようなことをしたら、その人は不信仰で、
よいキリスト教徒ではないと恐れねばならない)
(190) So dann unser herr sein frawenzymmer versehen hat mit verschnitten kämerlingen / wolt
ich dir schreiben (Fortunatus S. 18)(私たちの主人が女房たちに宦官を配したら、私はお
前に手紙を書こう)
(191) so sollichs beschehen ist / so wirt er sy wider haim füren (Fortunatus S. 16)(それが行
われたら、彼が彼らを連れて帰ることになる)
(192) jch will nyendert reyten. sunder mit dir meins gesellen wartten. biß der wider ist kommen
(Tristrant S. 146)(私はどこへも行かず、私の仲間が戻って来るまで、あなたとともに仲
間を待とう)
(193) ich bin ein armer grosser sünder vnnd zoch mich des mein sünd das ich das nit würdig
wer, biß das ich mein sünd gebichtet hab (Till Eulenspiegel S. 53)(私は哀れな大罪人であ
り、自分の罪のために、その罪を告白するまでそれ〔聖体の方を向くこと〕に値しない
でしょう)
(194) wenn eüch gedunckt das ich oder wer mit mir kommet mer verzeret haben dann sollich
gelt / so wil ich üch mer geben (Fortunatus S. 54)(もし私あるいは私の連れがこのお金よ
りも多く飲み食いしたとあなたが思ったら、私はあなたにもっとあげよう)
(195) lassent einen furtz er gat vch bald wider in die nase, vß der wörme, da er ußkumen ist
(Till Eulenspiegel S. 83)(おならをしてみなさい。暖かさのために、それはすぐにあなた
の鼻を通ってそれが出てきた場所に戻りますよ)
(196) da geet man dareyn wie in ain keler [...] so geben die priester ainem den segen und
beschliessen die thür / thůnd nit wider auff biß morgenns umb die zeitt so man dareyn gangen
ist (Fortunatus S. 62)(そこで人は地下室に入るように中に入る。〔……〕すると司祭は
その人に祝福を与え、戸を閉め、翌日の、人が入った同じ時刻まで開けない)
(197) bedenck dich nit lang / wann die stund des glücks zu geben ist gar nach verschynen
(Fortunatus S. 46)(ゆっくり考えていてはならない。なぜなら与えられる幸運の時はす
ぐに過ぎ去るのだから)
(22) ich hon eüch lanng nach geraist mit grossen sorgen / daz ich nit ermort byn worden mit
den klainaten (Fortunatus S. 148)(私はこの宝石のために殺されてしまわないようとても
心配しながらずっとあなたを求めて旅してきた)
3. 過去完了形の意味機能
過去完了形の用法も現在完了形のそれに準ずる。例えば、完了後の結果状態を表す例は
- 230 -
勿論存在する。
(198) [Ulenspiegel] het etlich tüchlin vnnd künstück, die er in flandern koufft het (Till
Eulenspiegel S. 39)(〔オイレンシュピーゲルは〕自分がフランドルで買ったカンバスや
絵をいくつか持っていた)
(199) da lag ein reff von einem dieb, der ws herab gefallen (Till Eulenspiegel S. 30)(そこに
〔絞首台から〕落ちた泥棒の死体が横たわっていた)
また、事態継続や反復の例も見られる。
(200) Also het der gůt schüler die zeit gefastet, bis uff drei nach mittag (Till Eulenspiegel S.
45)(それでその善良な弟子は午後三時までの間断食をし続けた)
(201) [Ulenspiegel] wz doch gůter ding von iugent vff gwesen, vnd gelts gnůg vber kumen mit
allerlei gükel spil (Till Eulenspiegel S. 47)(しかし〔オイレンシュピーゲルは〕子供の頃
から自信満々であり、色々な奇術でたくさんのお金を手に入れてきていた)
(202) [der wirdt] forcht er ritt unbezalt hynweg / als ym vormals offt beschehen was (Fortunatus
S. 53)(〔宿の主人は〕以前に何度も自分の身に起こったように、彼〔フォルトゥナー
トゥス〕が支払いをせずに行ってしまうのではないかと恐れた)
(203) Vlenspiegel wz wol bekant in des pfarrers huß wan er was offt da bei im vor zeiten
gewesen (Till Eulenspiegel S. 59)(オイレンシュピーゲルは司祭の家でよく知られていた。
というのは、彼は前に何度もそこに滞在していたからである)
また、経験を表す例もある。
(204) Vlenspiegel sprach ia, vnd het doch sein lebtag noch nirgen kein senep oder senff
gesehen (Till Eulenspiegel S. 14)(オイレンシュピーゲルは、はいと言ったが、まだこれ
までの人生でゼネップやゼンフなどというものを見たことがなかった)
(205) Do die Venediger [...] horten das der künig Fortunato ain so kostliche schankung gethon
hett / und vor nye mer da was gewesen (Fortunatus S. 103)(ヴェネツィア人〔たち〕は、王
がフォルトゥナートゥスに高価な贈り物をして、以前にそれ以上のことは一度もなかっ
たので)
(206) wa er vor ein mal gewesen waz da wz er nit wilkum (Till Eulenspiegel S. 47)(彼〔オイ
レンシュピーゲル〕が一度来た所では、彼は歓迎されなかった)
また、基準時との間接的な関与を表す例もある。
(207) [Andolosia] stricket den seckel an das ort / da er yn allweg gehebt het (Fortunatus S.
167)(〔アンドロージアは〕自分がずっとその財布を持っていた同じ場所に財布を縛り
付けた)
(208) Er hefftet sein pferd an die linden. darauf jm einest der küng gewartet het (Tristrant S.
- 231 -
101)(彼〔トリストラント〕は、かつて王がその上で自分を見張っていた菩提樹に馬を
繋いだ)
また、未来完了形的な現在完了形に準ずるような過去完了形の例もある。
(209) so bald er das gewünschet do warn sy in ainer kurtzen weil durch die lüft kommen in ain
ellende ynsel stosset an Hybernia (Fortunatus S. 149)(彼〔アンドロージア〕が願うや、彼
らは短い時間で空を飛んでアイルランドに接する異国の島に来た)
(210) so bald Andolosia die öpffel aß do waren ym die hörner ganntz verschwunden
(Fortunatus S. 152)(アンドロージアがそのりんごを食べるや、彼の角は完全に消えた)
以上は、この時代の現在完了形に対応する過去完了形の例であり、それはまた中高ドイ
ツ語にも見られた用法であった。初期新高ドイツ語には、その他に、非完了相の継続的事
態を表す動詞による過去完了形が継続的事態の終結を表す例が見られる。
(211) Bald nach diser zeit als vlenspiegel ein sigrist wz gesein. Da kame er geen Megdburg
(Till Eulenspiegel S. 19)(オイレンシュピーゲルが寺男であることをやめて間もなく、彼
はマグデブルクにやって来た)
(212) Vlenspiegel was da gewesen vnd kam nit wider (Till Eulenspiegel S. 121)(オイレンシ
ュピーゲルはそこを去って、戻ってくることはなかった)
(213) Etliche wolten sehen wie er sein end wolt nemen nach dem er ein abentürlich mensch wz
gewesen (Till Eulenspiegel S. 90)(ある者たちは、彼〔オイレンシュピーゲル〕が奇矯な
人間として生きたあと、どのような最後を迎えることになるか見ようと思った)
「完了形」という用語から見れば、こうした例は「事態の完了」を表すという意味で特に
特殊なものとは思われないかもしれないが、非完了相の動詞が完了形で特に「終結」を表
すという例はこれまでには存在せず、むしろ、次のように表される事態は終結しない場合
の方が多かった。
(214) Als er nun zwen tag bei im was gewesen, da hieß in der becker bachen vff den abent (Till
Eulenspiegel S. 27)(彼〔オイレンシュピーゲル〕が二日彼〔パン屋〕のもとにいたあと
で、彼にパン屋は晩までにパンを焼くよう命じた)
初期新高ドイツ語でこのような継続的事態の終結を表す例が現れるということは、完了形
が基準時から切り離された過去の事態を表す傾向を強めていることを示唆するのかもしれ
ない。ただし、この種の用法は、現代ドイツ語ではあまり見られない。
4. 現在完了形と共起する時間副詞類
下のリストは、中高ドイツ語の『ニーベルンゲンの歌』Nibelungelied と初期新高ドイツ
- 232 -
語の『フォルトゥナートゥス』Fortunatus の会話文において、現在完了形 (Perf.) と過去形
(Prät.) に共起する時間副詞類の数を示す。
Nibelungenlied:
Perf.: nu 13 (nu lange 3); lange 9 (nu lange 3); noch 7 (noch her 2; noch vil selten 1); hiute 5;
selten 4 (noch vil selten 1); her 4 (noch her 2; alher 1; von kinde her 1); dicke (= oft) 3; nie 3;
ê 3; ie (= irgend einmal) 2; hînte (= heute nacht) 2; sît 1; niulîche 1; in manegen zîten 1; ze
stunde 1
Prät.: nie 43 (noch nie 4; in langen zîten nie 1); ie (= irgend einmal) 35; ie (= immer) 9 (ie in
allen mînen tagen 1); ê 5; noch 4 (noch nie 4); hiute 3 (hiute morgen fruo 2); hînte (= heute
nacht) 2; nimmer 2 (nimmer mê 1; an dîsen zîten nimmer 1); vor 1; immer 1; alle zîte 1; die
naht unz an den tac 1; nu 1
Fortunatus:
Perf.: yetzund, yetzo, yetz 6; nye 6 (all mein lebtag nye 1; in dreissig jaren nye 1); nun 4; ye (=
irgend einmal) 3; lang 2; biß her 2; vor 2; seyder 1; erst (= kurz zuvor) 1; dises tags 1; heüt 1;
gestern 1; vor vil hundert jaren 1; vor meim tod; am vierden tag 1; ye (= immer 1) ; mer (=
mehrmals) 1; sechzig jar 1; biß an mein end 1; noch 1; erst bei drei tagen 1; das nähstmal (=
letztes Mal) 1; vor mein tod 1; in diser stunde 1; in kurtzer tzeitt 1
Prät.: nye 1; ye 1; gestern 1; offt 1; noch 1; alltag (= alltäglich) 1
上のリストから、『ニーベルンゲンの歌』では、nu
等、現在時を表す副詞が多く現在
完了形と共起するが、『フォルトゥナートゥス』においても現在時を表す副詞は現在完了
形に多く現れ、事態完了後の結果状態の用法が中心的用法であり続けていることが窺われ
る。また、『ニーベルンゲンの歌』では過去形とよく共起した nie, ie 等は、『フォルト
ゥナートゥス』ではむしろ現在完了形に現れ、中高ドイツ語では多く過去形で表された経
験の用法が初期新高ドイツ語では現在完了形で表されるようになったことが分かる。また、
現在完了形における時間副詞類の共起に関する中高ドイツ語と初期新高ドイツ語の最大の
違いは、発話時から切り離された特定の過去時を表す副詞が用いられるかどうかというこ
とであった。確かに『ニーベルンゲンの歌』には見られなかった gestern「昨日」が『フ
ォルトゥナートゥス』には現れている。しかし数の上ではそのような副詞の共起はあまり
多くないことが分かる。(過去形においても多くない。)
以下、中高ドイツ語で試みた時間副詞類の分類に従って、具体例を挙げる。
4. 1 発話時(直前)を表す時間副詞類
上で見たように、初期新高ドイツ語においても、現在完了形に発話時を指す時間副詞類
が共起する例は多い。
(215) so ist Ybernia ain grob hert land / da weder wein noch ander edel frücht innen wachsen /
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der ich yetzund hye gewonet hab (Fortunatus S. 96)(それでもアイルランドは気候の荒い
厳しい国で、そこには、私がここで現在慣れ親しんでいるようなワインも他の高級な果
物も育たない)
(216) dz hastu nun wol an mir gerochen (Tristrant S. 46)(それに対し今お前は私に報復し
たのだろう)
(217) Nu hast du mir doch selbst gesaget (Tristrant S. 53)(あなたは私に今言ったばかり
だ)
(218) das ich yetzund den hörnern gethon hab / das wird sy lind machen (Fortunatus S. 161)
(私が今角に行ったことが、角を柔らかくするだろう)
(219) nun hab ich aber einen braten geholt, als du mich an sprachest (Till Eulenspiegel S. 94)
(あなたが私に話しかけたので、これでまた私は焼き肉を手に入れた)
(12) So seint sie nun so gelert worden von den bücheren, die sie koufen, dz sie ir zeit
ußwendig künnen darzů sie ir bůcher in 4 Wochen nit mee dan eins uff thůun (Till Eulenspiegel
. 96)(ところが今や彼らは自分の買う本から十分に教わったので、暗記して、四週間に
一冊以上自分の本を開かない)
(220) nun hab ich wol verstanden das ir an des küniges hoff gewesen (Fortunatus S. 138)(今
やあなたが王様の宮廷に滞在していることが理解できた)
(221) so ir mich nun als loblich begabt hond / so ist doch billich das ich umb eüertwillen eüch
etwas pflichtig sey tzu thůn (Fortunatus S. 46)(あなたは今私にこれほど素晴らしい贈り物
をしてくれたのだから、私があなたのために何かするべきだというのが正しい)
(222) yetzund seyen wir alle umb unser leib unnd gůt kommen (Fortunatus S. 75)(今や我々
は命も財産も失った)
(223) eüwer můtter die eüch so mitt gar grossem vleyß erzogenn hatt Nun mitt tod abgangen ist
/ so ist nun die zeit kommen das ich auch auß diser zeit schaiden můßs (Fortunatus S. 122)
(お前たちを一所懸命育ててくれたお前たちの母親は今や亡くなったが、私がこの世か
ら去らねばならない時も今ややって来た)(= (142))
(224) Nun ist die zeit kommen das ich nit mer kan hoff halten als ich bißher gethon hab
(Fortunatus S. 143)(私がこれまでやってきたようには饗宴をこれ以上行うことはできな
い時が今ややって来た)
(225) gehabt üch nit so übel / was yetz nit geschehenn ist / das beschehe aber hernach
(Fortunatus S. 141)(そんなにがっかりしないで。今度起こらなかったことも次には起こ
るでしょう)
(226) sy ist erst aufgestanden (Fortunatus S. 140)(彼女〔アグリピーナ〕はさっき起き
た)
4. 2 継続・反復を表す時間副詞類
現在完了形における継続・反復の用法は初期新高ドイツ語においても保たれているが、
「ずっと」「たびたび」のような副詞類の使用は、中高ドイツ語ほど多くはなく、むしろ
期間を具体的に表す副詞句を伴う場合が多い。
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(227) ich bin daby nit lang gewesen (Till Eulenspiegel S. 83)(私はこの職について長くな
い)
(228) auch ist mein magt vor mer darbei gewesen (Till Eulenspiegel S. 18)(私の女中は実際
以前に何度もそれに参加している)
(229) so ir nun fünfftzig iar bei einader gewesen sent, so wer die gehorsam des eelichen stats vß
(Till Eulenspiegel S. 105)(あなた達は今や 50 年間一緒にいたのだから、婚姻関係の服従
義務は終わっているだろう)
(230) ich hab in 4 wochen kein brot in meinem huß gehabt (Till Eulenspiegel S. 9)(4週間の
あいだ家にはパンがなかった)
(231) wan er ist wunderlich gewesen in seinem leben, wunderlich wil er auch sein in seinem tod
(Till Eulenspiegel S. 145)(彼〔オイレンシュピーゲル〕は生きている間変わり者だった
のだから、死んでも変わり者のままでいたいのだろう)
継続的期間を表す副詞類が共起する場合でも、その事態は基準時の前で終結している例
が見られる。ただし、これは中高ドイツ語にも存在した。
(177) wann jch nahent czwey gancze jar on brot vnd on alle gekochte speyß gelebt hab
(Tristrant S. 120)(というのは、私はほぼ丸二年、パンも調理された料理も食べずに生き
たからである)
(178) ich hon lang an eüch gewekt / ich kund üch aber nye erwecken (Fortunatus S. 141)(私
はあなたを長いこと起こしたが、しかしあなたを目覚めさせることはできなかった)
また、これも中高ドイツ語に見られた用法であるが、継続的期間を表す副詞類が事態そ
のものの継続ではなく、結果状態の持続を表す例もある。
(232) Wir haben dich lange zeit erkant; wir hetten aber dein vergessen (ackerman 18. cap.)
(我々は長いこと君を知ってはいるが、君のことを忘れていた)
(233) Ich byn erst bey drey tagen herkommen (Fortunatus S. 159)(私がここに来てようや
く三日になる)
4. 3 不定の過去を表す時間副詞類
中高ドイツ語と同様、初期新高ドイツ語においても「かつて」のように不定の過去時を
表す時間副詞類が現在完了形に用いられる例が見られる。
(234) Ich bin vormals in der lieben lustigen ee gewesen (ackerman 27. cap.)(私は以前は喜ば
しく楽しい結婚生活の中にいた)
(235) Wir haben vor gesprochen (ackerman 12. cap.)(我々は前に話した)
(236) als ich vor mit ewch geredt hab (Fortunatus S. 71)(私があなたと前に話したよう
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に)
(237) Ich slůg nah aim dieb der mir under dem kopff nüstert der uns vor das unser gestolen hat
(Fortunatus S. 76)(私が打ったのは私の頭の下をかぎまわっていた泥棒で、そいつは前
に我々のものを盗んだ奴だ)
(238) mir ist laid daz ich ye herkomen bin (Fortunatus S. 152)(かつて私がここに来たこと
はつらいことだ)
(239) so wolt ich gern wissen / was ir mir tzu lon geben wöllt / wenn ir der hörner gar
abkommen unnd ewer kopff so glatt wirt als er ye gewesen ist (Fortunatus S. 164)(もしあな
たの角が取れ、あなたの頭がかつてそうだったようになめらかになったときに、あなた
が私に何を報酬としてくれるのか聞きたい)
4. 4 近い過去を表す時間副詞類
中高ドイツ語と同様、「今日」のように発話時に近接する過去時を表す例も初期新高ド
イツ語に見られる。
(18) mir ist ettwas in diser stunde / in ainer gehaim gesagt worden von meines herren Cantzler
(Fortunatus S. 15)( この時間私 にこっそり私の主人の大臣によってあることが 言われ
た)
(240) in der gedächtnuß als du heüt erfreüwet bist worden von mir / so erfrew du alle jar ein
arme jungfraw (Fortunatus S. 47)(あなたが今日私によって喜びを得たことを思い出して、
毎年貧しい乙女を喜ばせなさい)(= (19))
(241) da hab ich mitt ir geredt gar in kurtzer tzeitt (Fortunatus S. 174)(そこで私はつい最近
彼女と話をした)
4. 5 特定の過去時を表す時間副詞類
すでに述べたように、発話時から切り離された特定の過去時を表す時間副詞類は中高ド
イツ語の文献には現れない。これが最初に現れるのは、筆者の調べた資料の中では、 14
世紀後半の実用散文である「ニュルンベルクの手紙」である。
(242) wisse lieber Ber. daz wir an dem nehsten vergangen montag hie vor tag awz sein gezogen
wol mit 500 spiezzen und einem grossen fuzvolk in daz lant [...] und sein uber naht uff den
veinden gelegen in einem markt [...] und haben den dez morgens awzgeprant und haben
gestern daz lant her wider heim geprant (Brief vom 11. Nov. 1388. In: Nürnberg im großen
Städtekrieg von 1387-1389, S. 159)(ベルトルト様、以下のことお伝えします。我々は先
の月曜日に 500 人の槍部隊と歩兵の一群とともに〔……〕その国に出兵し、夜通し敵を
市場で攻め〔……〕、その市場を朝焼き払い、そして昨日その国を再び襲って焼きまし
た)
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この「手紙」は受動の werden +過去分詞の現在完了形が現れるという意味でも注目すべ
き資料であったが、上のような例を見ると、特定の過去時を表す時間副詞類が共起してい
るということに加えて、さらに、現在完了形がほとんど単なる過去時制として使用されて
いるという印象を与えるという点でも特筆すべきものに思われる。このような現在完了形
の使用法はこの手紙には多く見られる。
(243) wir lassen ewer kuniglich hochwirdikeit wissen, daz [...] der Borsowo und ewer und sein
diener dabey gewesen sind, daz die unsern geprant und etlich erslagen sind worden (Brief
vom 12. Aug. 1388. In: ibd.., S. 143)(私たちは尊敬する王様に次のことをお知らせしま
す。すなわち、〔……〕そのボルゾヴォとあなたおよび彼の従者がそこにいて、私たち
の者は焼かれ、何人かは打ち殺されました)
実用散文には、日常の口語における言語使用状況がかなり強くテクストに反映されるのか
もしれない。もしそうだとすれば、すでに 14 世紀後半のニュルンベルクにおいては現在
完了形は「過去時制」としてかなり日常的に用いられていたと推測される。
文学作品において現在完了形に特定の過去時を表す時間副詞類が共起するのは、すでに
挙げた『ボヘミアの農夫』においてである(下に再掲)。
(170) Weise mir ein handvol schöne aller schönen frauen, die vor hundert jaren haben gelebt
(ackerman 24. cap.)(百年も前に生きたすべての美しい女性の美しさが一握りでもあれば
私に見せてくれ)
また、1500 年頃の文学作品には次に見るように、この種の例がいくつか見られる。
(244) betrügstu mich in deinem letsten end da du in deinem todbet leist, so dürffen die ginnen
nit klagen die du betrogen hast in deinen iungen tagen (Till Eulenspiegel S. 142)(お前は死
の床についた最期においても私を騙すのか、お前が若い頃に騙した人たちもこんなに不
平を述べることはないだろう)
(8) Als man zalt von Crist beburt M.CCCCC bin ich. N. durch etlich personen gebetten
worden, dz [...] (Till Eulenspiegel S. 3)(キリスト生誕から数えて 1500 年に私 N は数人の
人に〔……〕ということを頼まれた)
(245) Wz vor tusent iaren geschehen ist, da wer niemans, der dz yndenck wer (Till
Eulenspiegel S. 80)(千年も前に起こったことなど、思い出せる者はいないだろう)
(246) Es ist vor vil hundert jaren [...] ain wilde wüstin gewesen (Fortunatus S. 60)(そこは何
百年も前は荒れた荒野だった)
(247) darinn seind vil abweg das man leüchtlich verirren mag / als etlichen bey meiner
gedächtnus geschehen ist / die man erst am vierden tag funden hat (Fortunatus S. 60)(中は迷
いやすい脇道がたくさんあり、私の記憶では、ある人においては、四日目にようやく人
が見つけてくれたということが起こったという具合だ)
(248) es ist ain fremder kauffman gestern herkommen (Fortunatus S. 48)(一人の見知らぬ商
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人が昨日やって来た)
4. 6 過去完了形と共起する時間副詞類
過去完了形と共起する時間副詞類は基本的に中高ドイツ語の場合と同じである。例えば、
継続的期間を表す時間副詞類を伴う例としては次のようなものが挙げられる。
(214) Als er nun zwen tag bei im was gewesen, da hieß in der becker bachen vff den abent (Till
Eulenspiegel S. 27)(彼〔オイレンシュピーゲル〕が二日彼〔パン屋〕のもとにいたあと
で、彼にパン屋は晩までにパンを焼くよう命じた)
(249) Als er nun 8 tag bei dem gerwer geweßen wz, da schickt es sich, dz der Gerwer wolte zů
gast essen (Till Eulenspiegel S. 87)(彼〔オイレンシュピーゲル〕が八日皮なめし屋のと
ころにいたあと、皮なめし屋が客として食事に呼ばれるということが起こった)
(250) Als er nun bei dreien tagen da gewesen wz da gebert er as ob er kranck wer (Till
Eulenspiegel S. 59)(彼〔オイレンシュピーゲル〕は三日そこにいたあと、病気になった
ふりをした)
(251) nun Marcholando wol dreytag zu Famagusta gewesen was / do sandt er zu Fortunato
(Fortunatus S. 116)(マルコランドーがファマガスタに三日いたあと、彼はフォルトゥナ
ートゥスに使いを送った)
(252) als aber Fortunatus tzu Allexandria wol acht tag gelegen was / vil seltzamer thyer und
anders bey ym hett / ward yn belangen (Fortunatus S. 108)(しかしフォルトゥナートゥスが
たくさんの珍しい動物などを側に置いてアレクサンドリアに八日滞在したところで、彼
に郷愁の気持ちが生じた)
また、不定の過去を表す時間副詞類が共起する例もある。
(253) [der wirdt] leget yn auch in ain eerlichere kamer dann er vor gelegen was (Fortunatus S.
54)(〔宿の主人は〕彼〔フォルトゥナートゥス〕を 前にいた のより立派な部屋に移し
もした)
(254) der selb wißt wie es ym vor gangen was zu Lunden (Fotrtunatus S. 75)(彼自身、前に
ロンドンで自分にどんなことが起こったのか分かっていた)
(255) DA het sich Andolosia auch angemachet als ain artzt [...] das yn niemandt kennen kund /
der yn vor wol bekant het (Fortunatus S. 157)(フォルトゥナートゥスは、彼を前からよく
知っている人も彼のことが分からないように〔……〕医者に変装した)
(256) do kam er zu ainer aldten glaßhüten / in der man vor vil jaren glaß gemacht het
(Fortunatus S. 42)(それで彼〔フォルトゥナートゥス〕は、何年も前に人がガラスを作
っていた古いガラス工房にやって来た)(継続的)
(257) Also wißt der Abbt ainen alten man / der vor vil jaren die hüli hett mitt schnieren
abgemessen (Fortunatus S. 62)(それで僧院長は、何年も前に穴を紐で計った老人のこと
を知っていた)
- 238 -
また、特定の過去時を表す時間副詞類が共起する例もある。5)
(258) [Fortunatus] thet wie er die anderen nacht gethon hett (Fortunatus S. 162)(〔フォルト
ゥナートゥスは〕昨晩行ったのと同じように行った)
5. 過去形の意味機能
初期新高ドイツ語における過去形の一つの特徴は、中高ドイツ語まで多く見られた経験
を表すものが減少したということである。これは『ボヘミアの農夫』にはまだいくらか見
られる。
(259) So manlichen man gesach ich nie (ackerman 29. cap.)(そんな男らしい男を私は見た
ことがない)
(260) So schones mensche gesahestu nie (ackerman 24. cap.)(そんな美しい人間などお前は
見たことがない)
(261) Werlich also zu kurze geschach nie manne (ackerman 19. cap.)(実際、こんなことがあ
まりにも短い間に人間に起こったことはない)
(262) Doch seit das nie so boser man wart, er were an etwe gut (ackerman 21. cap.)(誰に対
しても善良にならないほどに悪い人間が生まれたことはないと〔全世界が〕言う)
しかし、1500 年頃の文献にはそれほど多く現れない。
(263) so geschach mir nye so laid (Tristrant S. 75)(こんなにつらいことが私に起こったこ
とはない)
これは経験の用法を表す形式がこの時代に過去形から現在完了形に移ったことを意味する。
6. sein/haben の省略
初期新高ドイツ語では完了形の助動詞 sein/haben が省略される例が多い。これは大体、
副文で生じる現象である。
(264) wellicher aber das geren wissen welle / der leß das bůch Johannem de Montevilla / unnd
andere mer bücher / deren die solch land alle durchtzogen sind und von yedem land geschriben
(Fortunatus S. 107)(しかしそれを知りたいと思う人は、ジョン・マンデヴィルの本や、
それらの国すべてを回り、それぞれの国について書いた人たちの本を読んでいただきた
い)
(265) Als sy dicz vernommen wurden sy fro (Tristrant S. 110)(彼らはそれを聞いて喜ん
だ)
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(266) Mit ernst reißt Ulenspiegel von Rostock, als er die schalckheit gethon, vnd kam in ein
flecken zu herberg (Till Eulenspiegel S. 127)(オイレンシュピーゲルはいたずらをしたあ
と、急いでロストックから旅立ち、ある町の旅館にやって来た)
(267) und gieng die fraw zu irer gespilen und dancket ir gar ser umb den rat so sy ir geben
(Fortunatus S. 42)(そしてその婦人は自分の友達のところへ行き、彼女が自分に与えて
くれた忠告に対しとても彼女に感謝した)
(268) Er het auch von jedem künig erlangt die klainat und geselschafft so sy außgeben
(Fortunatus S. 80)(彼〔フォルトゥナートゥス〕はそれぞれの王から、彼らが与えてく
れた宝石と接待を受けた)
(269) wo ich ewrem radt nit gevolget / so het unser herr der künig sine klainat nit / noch ich
ainen hübschen jungen man (Fortunatus S. 42)(もし私があなたの忠告に従っていなかった
ら、私たちの主人の王様も宝石を手に入れていなかったし、私もかわいい若い男をもの
にできなかっただろう)
(270) so lang und ich den seckel gehebt hab ich dem gelübt entlich gelebt (Fortunatus S. 123)
(私がこの財布を持ち続けている間はずっとこの誓いを大事に生きてきた)(= (143))
(271) nun hab ich wol verstanden das ir an des küniges hoff gewesen (Fortunatus S. 138)(今
やあなたが王様の宮廷に滞在していることが理解できた)(= (220))
主文においても、二つの並列文において一方の助動詞が sein, 他方の助動詞が haben の
場合、その一方が省略されることがある。
(272) er ist auch wol mit seinen genaden herniden gewesen. vnd dir geholffen auß der not
(Tristrant S. 60)(また彼〔神〕はその慈悲を持ってこの世にいらして、あなたを困窮か
ら救った)
このように助動詞を省略できるのは、それがなくとも意味が分かるためであろう。助動
詞がなくとも意味が分かるのは、それだけ完了形の使用が一般的になった結果、過去分詞
だけでそれが完了形であると判断可能になったためだと考えられる。6)
そういう意味で、下に見るように、過去分詞を副詞的に用いる分詞構文のような例がこ
の時代に多く見られることも、完了形の使用の拡大と関係するかもしれない。勿論、その
ような例は中高ドイツ語にも見られる。
(273) iuch möht des waldes hân bevilt, von erbûwenem lande her geriten (Parzival 250, 20)
(開墾された国から来て、森はあなたには大変だっただろう)
しかし、初期新高ドイツ語において副詞的に用いられる過去分詞の特徴は、本来、自律的
意味を持つ過去分詞を形成しない動詞による例が見られるということである。
(274) Mit kriege vnd mit raube gewinnen sie es; wann ie mere gehabet, ie mere geraubet
(ackerman 32. cap.)(戦争と略奪によって彼ら〔すべての人〕はそれを獲得する。という
- 240 -
のは、多く持ったとすれば、それだけ多く奪っているからだ)
(275) In die lenge wirt man gewar der warheit; als: lange gelernet, etwas gekunnet (ackerman
23. cap.)(時が経てば人は真理に気づく。学んだらそれだけ何かが可能になっていると
いう真理に)(= (39))
(276) Also lag er des nachts vngeschlaffen, vnd gedacht vnd speculiert die narung (Till
Eulenspiegel S. 53)(それで彼〔オイレンシュピーゲル〕はその夜眠らずに横になって生
計について考え、思いめぐらした)
上の(274)の ie mere gehabet, ie mere geraubet (= je mehr gehabt, desto mehr geraubt) は je
mehr man gehabt hat, desto mehr hat man geraubt という未来完了形的な現在完了形がもとに
な る と 解 釈 で き る ( (275)も 同 様 ) 。 ま た 、 (276)の ungeschlafen は indem er nicht
geschlafen hatte という過去完了形に転換して解釈することができる。
副詞的な過去分詞の例には他に、自律的意味を持つ過去分詞を形成可能な動詞によるも
のもある。しかし、中高ドイツ語までの副詞的過去分詞においては、それが副詞的に用い
られていても、修飾する(代)名詞が存在した(例えば上の (273)では iuch)のに対し、
初期新高ドイツ語では過去分詞は自律的意味を持っていても、修飾すべき名詞が存在しな
い場合が少なくない。
(277) Auf snellem fusse laufet hin der menschen leben: iezunt lebend, in einem hantwenden
gestorben (ackerman20. cap.)(人の命は駆け足で過ぎ去る。今生きていても次の瞬間には
死んでいる)
(278) In dem kam der bruwer wol getruncken vnd sprach (Till Eulenspiegel S. 75)(その間に
醸造業者はたっぷり酒を飲んでやって来て、言った)
(279) [der wirdt] forcht er ritt unbezalt hynweg (Fortunatus S. 53)(〔宿の主人は〕彼〔フォ
ルトゥナートゥス〕が支払いをせずに行ってしまうのではないかと恐れた)
(280) ich wil nit unbetzalt hynweg reiten (Fortunatus S. 54)(私は支払いをせずに行ってし
まうようなことはしない)
(281) so gieng er nit unkauft darvon (Fortunatus S. 81)(それで彼〔フォルトゥナートゥ
ス〕は買わずに去ることはなかった)
上の(277)については、例えば現在分詞の lebend が修飾する名詞として Menschen を想定
することはできるが、それを過去分詞 gestorben の被修飾語と見なすことはできない。な
ぜなら、この過去分詞は未来的な意味を持つので、「死んだ人間」を意味する gestorbene
Menschen とは意味が異なるからである。この gestorben は jetzt lebende Menschen ist im
Handumwenden gestorben「生きている人間が次の瞬間には死んでいる」というような未来
完了形的な現在完了形を前提として初めて使用可能になる。また(278)の getrunken は、自
律的意味を持つ過去分詞として使われる限り、修飾する名詞は「酒」等の飲み物になるは
ずであるが、そのような名詞は存在しない。この過去分詞は、むしろ nachdem der Brauer
wohl getrunken hatte というような過去完了形をもとにして作られたと考える方が自然に理
解できる。(279)-(281)も同様に、indem er nicht bezahlt hatte のような過去完了形が前提と
- 241 -
なると考えられ、いずれも完了形の発達によって可能になった副詞的過去分詞と見なすこ
とができる。7)
また、次のような付加語的分詞構文も、本来過去分詞を形成しない動詞によるものであ
り、完了形の発達がなければ生まれなかった。
(282) da nyeman was dann der künig und künigin / und ain ainige tochter so er het. aine der
aller schönsten frawenbild was / so man in der welt finden mocht / so weiss und so tzart Das sy
der schönen Amaley / auch etwann ain künigin in England gwesen / vergleicht ward (Fortunatus
S. 132)(そこには王と王妃と彼の一人娘しかいなかった。その娘は世界で見つけること
ができる最も美しい女性で、色は白く華奢だったので、彼女はかつてイングランドにい
た美しいアマリーに比せられた)
7. 南ドイツにおける過去形の消失
初期新高ドイツ語の現在完了形に関して特筆すべきことは、この時代に南ドイツで過去
形が消失し(それとともに sein/haben の過去形を構成素とする過去完了形も消失して)、
現在完了形が唯一の過去時制になるということである。Lindgren (1957) はアウクスブルク
の都市年代記 (Stadtchronik) において 1530 年頃の文書から過去形と現在完了形の使用頻度
に差異が生じ、 16 世紀後半に過去形がほぼ皆無の文書が現れることから、日常会話にお
ける南ドイツでの過去形消失の時期を 1500 年頃と推定している。
過去形がもはや用いられず、過去の事態が専ら現在完了形によって表される 16 世紀後
半のアウクスブルクの都市年代記とは、次のようなものである。
(283) Am afftermontag, dem andern tag des monats jenner zenachts zwischen 11 und 12 uhren
ist der Leonhard Fischer, weber, als er die nachtwach gethon, gewarnet und im angezaigt
worden, er solle haim gohn, denn der Lenhart Mamendorfer, maurer, lige bei seinem weib. als
er nun eilends haimkomen, hat er sie also beiainader erwüscht und hat dem Mamendorfer mit
dem schweinspieß etliche stich und straich geben, doch ist im der Mamendorfer undergelaufen
und ime den spieß zuckt, also daß sie baid mitainander zu ringen komen (Chroniken der
deutschen Städte, Bd. 33, S. 23)(1月2日火曜夜 11 時と 12 の間、織工レオンハルト・フ
ィッシャーは、夜警を行った際、石工のレーンハルト・マーメンドルファーが彼の妻と
同衾しているから家に帰るように警告され、また告げられた。そこで彼は急いで帰宅す
ると、一緒にいた二人をつかまえ、マーメンドルファーを豚用の串で何度か刺し、また
殴打を加えた。しかしマーメンドルファーは彼から逃れ、その串を奪い取り、それで二
人は格闘することになった)
このように現在完了形で過去の事態を列挙するやり方はすでに上で見た 14 世紀後半の
「ニュルンベルクの手紙」にも見られた(上例 (242))。また、 16 世紀初頭のニュルンベ
ルクの画家デューラーの次の手紙などにも同じような書き方が見られる。
- 242 -
(284) [ich] hab alle meine thefelle verkawft pis an eins, hab 2 geben vm 24 dugten vnd dy
andern 3 hab ich geben vür dy trey ring, dy sind mir am schtich vm 24 dugaten angeschlagen
worden. Aber ich hab sy gut gesellen sehen lassen, dy sagen, sy seynt werd 22 dugatn (Von
Albrecht Dürer, 28. Feb. 1506. In: Willibald Pirkheimers Briefwechsel Nr. 101: S. 335)(私は
一つを除いて私のすべての板絵を売りました。二枚を 24 ドゥカーテンで売り、残る三
枚は指輪三つで引き渡しました。取引の際、その指輪は 24 ドゥカーテンの価値がある
と 言われました 。しかし私がそれを仲間に見せたところ、 22 ドゥカーテンの価値だと
言うのです)
しかしこうしたテクストにおいても過去形は消失してはいない。
(285) nach der letzten unser botschaft, die wir nehst getan haben, kom zu uns Worzywoy von
Sweinar (Brief vom 25. Jan. 1388. In: Nürnberg im großen Städtekrieg von 1387-1389, S. 141)
(我々が前回行った最後の知らせのあと、我々のところへヴォルツィヴォイ・フォン・
スヴィーナルがやって来た)
(286) Do was ich fro vnd nam bald mein gelt wider (Von Albercht Dürer, 8. März 1506. In:
Willibald Pirkheimers Briefwechsel Nr. 104: S. 344)(それで私は嬉しかった。自分のお金
を取り戻したのだ)
それに対し、 (284)に上げた 16 世紀後半のこのテクストでは過去形はほぼ皆無である
(Lindgren ibd.: 63 の調査では現在完了形が 1796 例に対し過去形は 1 例のみ)。
では、過去形の消失の原因は何であろうか。それについての最も人口に膾炙した説は、
-e
という音の語末音消失 (Apokope)
を原因と見るものである(Reichmann/Wegera/Ebert/
Solms 1993: 388 f. を参照)。すなわち、-e の語末音消失により、弱変化動詞においては、
er sagt(現在形)と er sagt'(過去形)のように、3人称単数の現在形と過去形の差異が
なくなり、その結果、過去形が使われなくなったということである。しかしこの説には様
々な異論が加えられた。例えば、Dal (1960) は、弱変化動詞の歯音接尾辞は現代において
も南ドイツにおいて非現実を表す形式として機能しており、弱変化動詞の過去形が形態的
に消失したという事実はないと言う。あるいは Lindgren (ibd. 116 ff.) は、弱変化動詞と強
変化動詞を統計調査に基づいて比較し、過去形の消失が強変化動詞よりも弱変化動詞に特
に多く見られるわけではないことを示した。つまり、語末音消失と無関係な強変化動詞の
過去形も同じように減少したということである。
ここで考えるべきことは、過去形の消失と現在完了形の使用拡大の因果関係である。過
去形が衰退した結果、現在完了形の使用が拡大したのか、それとも現在完了形が過去形を
駆逐したのか。答えは、中高ドイツ語までの過去形の衰退は、現在完了形の使用の拡大に
よる。それに対し、初期新高ドイツ語において南ドイツで過去形が消失するのは現在完了
形によってではない。(ただし、その消失の原因そのものは下で述べるように明らかでは
ない。)過去形の衰退と消失は区別して考えるべき現象である。
中高ドイツ語までの過去形の衰退が現在完了形の使用の拡大によってもたらされたと筆
者が述べる理由は、前章で述べたように、現在完了形は様々な機能を古高ドイツ語から中
- 243 -
高ドイツ語にかけて獲得していくが、そうした機能はすべて過去形が持っていたものだか
らである。中高ドイツ語においても過去形はさまざまな機能を保っていることを考えると、
過去形がそうした機能を失った結果、それを補うものとして現在完了形が使われるように
なったのではないことは明らかである。現在完了形はそれ自体が多様な機能を獲得してい
ったのであり、過去形が衰退したためではない。この順序は次のように表示できる。
完了形の意味機能の拡大→完了形の使用の拡大→過去形の使用の制限→過去形の意味機
能の制限
それに対し、初期新高ドイツ語における南ドイツでの過去形の消失が現在完了形の使用
の拡大によるものではないと主張する理由は、この時期に現在完了形が多用されるように
なったとしても、現在完了形が過去形の機能をすべて獲得してはいないことにある。その
獲得されていないものとは、「語りの時制」(Weinrich 1985) としての機能である。
Lindgren (ibd. 98 f.; 113 ff.) が述べるように、過去形が消失した現代の南ドイツの方言に
おいても、現在完了形のみで過去の一連の出来事を語るということは難しい。その場合、
現在完了形は勿論、多用されるが、それだけですべてが表されることはなく、そのあいだ
に現在形が過去の事態を表すものとして挿入されるのが普通である。次の『グリム童話』
に収められた「天国の農夫」はスイス・アーラウの方言で書かれているが、そこでは現在
完了形と現在形が混在した形で用いられている。8)
(287) 's isch emol arms fromms Bürle gstorbe und chunt do vor d' Himmelspforte. Zur gliche
Zit isch au e riche, riche Herr do gsi und het au i Himmel welle. Do chunt der heilige Petrus
mit em Schlüssel und macht uf und lot der Herr ine; das Bürle het er aber, wie's schint, nid
gseh und macht d' Pforte ämel wieder zue (= Es ist einmal ein armes, frommes Bäuerlein
gestorben und kommt da vor die Himmelspforte. Zur gleichen Zeit ist auch ein reicher, reicher
Herr da gewesen und hat auch in den Himmel gewollt. Da kommt der heilige Petrus mit einem
Schlüssel und macht auf und lässt den Herrn ein; das Bäuerlein hat er aber, wie es scheint, nicht
gesehen und macht die Pforte noch mal wieder zu.) (Das Bürle im Himmel. In: Grimms Kinderund Hausmärchen 167)(むかし貧しい敬虔な農夫が死んで、天国の門の前にやって来た。
同じときにとても金持ちの紳士もそこに来て、天国に入ることを望んだ。そこへ聖ペテ
ロが鍵を持ってやって来て、門を開け、その紳士を入れた。しかしどうやら彼は農夫は
見えなかったらしく、門をまた閉じた)
あるいは、次の二つの引用はオーストリア・フォーァアールベルク方言での口頭による語
りを標準ドイツ語の綴りに転換したものであるが、同じ現象が見られる。
(288) wir haben natürlich gemeint, man würfe [verft] uns Fünf-Frankstücke nach, wenn wir
dorthin kommen. [Da] sind wir dann in das Sankt Margarethen! Da habe ich gesagt, ich hätte
dann einfach Hunger. [Da] sagen sie, ja ... Sage ich, komm, wir gehen in ein Wirtshaus und
fragen, was ein Beckele (Täßchen) voll Kaffee kostet. Sind wir da hinein. Ja, fünfzig Rappen!
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Da haben wir denn zusammengesteuert und zusammengelegt, und da hat es dann eben ein
Beckele voll gegeben (Bethge/Bonnin S. 108)(勿論私たちは向こうへ行けば 5 フランもら
えるだろうと思った。私たちはそれでザンクト・マルガレーテンへ行った。そこで私は、
とにかくお腹が空いたと言った。それで彼女たちは言った……、私は料亭に行って、コ
ーヒー一杯いくらか聞いてみようと言った。それで私たちはそこへ行った。 50 ラッペ
ンだった。そこで私たちはお金を出し合い、集めた。それでコーヒー一杯が来た)
(289) Und die Hüneraugen haben mir auch derart wehgetan, daß ich hätte nicht können laufen,
wir haben eben müssen mit dem Zug [fahren]. Und da auf einmal höre ich ein Rässelein. Da
sage ich: „In do(?), bei Gott, der wird doch nicht kommen!“ - „Jesus!“, sagt sie. Im nächsten
Augenblick tut er die Tür auf, sagt er: „Billets!“ - „Jesus!“, hab ich gerade müssen sagen, „die
Frau hat sie [bei] sich, sie ist gerade aufs Klosett, sie hat sie bei sich.“ (Bethge/Bonnin S. 110)
(そして私は歩けないほど魚の目が痛かったので、列車で行かねばならなかった。そこ
で突然、ガラガラという音が聞こえた。私は「彼〔車掌〕が来ることなどない」と言っ
た。「神様」と彼女は言った。次の瞬間彼〔車掌〕はドアを開け、「切符を」と言った。
「ああ、どうしよう」私はもう「友達の女性が持っています。彼女は丁度トイレに行っ
ているのです。彼女が持っています」と言うしかなかった。)
こうした語りにおける現在形の使用は文学的効果を持って用いられるいわゆる「歴史的
現在」とは異なる。このいわゆる「歴史的現在」は、次のように、読者がある場面を臨場
感を感じながら同時体験するような効果を持つ。9)
(290) Am Abend des dritten Tages, da beide, um der Sache auf den Grund zu kommen, mit
Herzklopfen wieder die Treppe zu dem Fremdenzimmer bestiegen, fand sich zufällig der
Haushund, den man von der Kette losgelassen hatte, vor der Tür desselben ein; dergestalt, daß
beide, ohne sich bestimmt zu erklären, vielleicht in der unwillkürlichen Absicht, außer sich
selbst noch etwas Dirttes, Lebendiges, bei sich zu haben, den Hund mit sich in das Zimmer
nahmen. Das Ehepaar, zwei Lichter auf dem Tisch, die Marquise unausgezogen, der Marchese
Degen und Pistolen, die er aus dem Schrank genommen, neben sich, setzen sich, gegen eilf Uhr,
jeder auf dem Bett; und während sie sich mit Gesprächen, so gut sie vermögen, zu unterhalten
suchen, legt sich der Hund, Kopf und Beine zusammen gekauert, in der Mitte des Zimmers
nieder und schläft ein. Drauf, in dem Augenblick der Mitternacht, läßt sich das entsetzliche
Geräusch wieder hören; jemand, den kein Mensch mit Augen sehen kann, hebt sich, auf
Krücken, im Zimmerwinkel empor; man hört das Stroh, das unter ihm rauscht; und mit dem
ersten Schritt: tapp! tapp! erwacht der Hund, hebt sich plötzlich, die Ohren spitzend, vom
Boden empor, und knurrend und bellend, grad als ob ein Mensch auf ihn eingeschritten käme,
rückwärts gegen den Ofen weicht er aus. Bei diesem Anblick stürzt die Marquise, mit
sträubenden Haaren, aus dem Zimmer; und während der Marquis, der den Degen ergriffen: wer
da? ruft, und da ihm niemand antwortet, gleich einem Rasenden, nach allen Richtungen die
Luft durchhaut, läßt sie anspannen, entschlossen, augenblicklich, nach der Stadt abzufahren.
Aber ehe sie noch einige Sachen zusammengepackt und aus dem Tore herausgerasselt, sieht sie
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schon das Schloß ringsum in Flammen aufgehen. Der Marchese, von Entsetzen überreizt, hatte
eine Kerze genommen, und dasselbe, überall mit Holz getäfelt wie es war, an allen vier Ecken,
müde seines Lebens, angesteckt. Vergebens schickte sie Leute hinein, den Unglücklichen zu
retten (Kleist: Das Bettelweib von Locarno)(三日目の夜二人が根本的に事実の真相を究め
ようと胸を轟かしながらまた階段をのぼって客室へ行くと、室の戸の前にたまたま、鎖
を解かれた一匹の飼犬が眼についた。で、夫妻はしかと定まる理由もないが、恐らく何
か命あるものを味方につけておこうという気が暗にはたらいたものらしく、犬も一緒に
室内に連れていった。そこで二人は二本の蝋燭を机上に点じ、奥方は寝衣にも着更えず、
侯爵は箪笥から取りだしてきた剣と短銃をそばに置いて、十一時ごろ、各々寝台に腰を
おろした。そうして出来るだけ話を交えて陽気にしようとつとめている間に、犬は頭も
足も一緒くたに、室の真中に蹲ったまま眠ってしまった。/やがて今や真夜中という頃、
あの恐ろしいがさがさはまたもや聞えだしたのである。眼には映らないけれども誰かが
室の隅で拐杖に縋って立ちあがり、足下の藁ががさがさする。それから例の足音が始ま
る。ぴた、ぴた―この時、がばと身を起した犬は、きっと耳を聳てたかと思うと吠え
つたけりつ、さながら人が自分に歩み寄るかの如く次第に後退りをして暖炉から身を避
けた。この様を見るや奥方は身の毛も悚け立って戸のそとに飛びだす。侯爵は剣を握り、
何者じゃと呼んだが答えはなし、狂気の如く四方八方に空中を切って廻るその間に、奥
方は心を定め、即刻、町へ向って旅立つため馬車の用意をさせた。/けれども、彼女が
数点の品を荷造りし、大急ぎで門外に飛び出そうとする間に、城はすでに八方から焔を
吐いて燃え上っていた。侯爵が恐怖のあまり逆上して生きているのも厭になり、蝋燭を
とってすべて板張りになっている城の隅々に火をつけたのであった。奥方は不幸な夫を
救うべく人々を駈けこませたが、既に時は遅かった)(「ロカルノの女乞食」『O 侯爵
夫人』相良守峯訳、岩波文庫、旧漢字改め)
それに対し、現在完了形の連なりのあいだに挿入される現在形にはそのような特殊な機能
はなく、単に一つの「語りの時制」として用いられるだけである(Lindgren ibd.: S. 98 を
参照)。そのことは、現在形が単独で物語を形成することができることからも分かる。次
の『グリム童話』中の「頭のよいハンス」では地の文がすべて現在形である。
(291) Hans nimmt den Speck, bindet ihn an ein Seil und schleift's hinter sich her. Die Hunde
kommen und fressen den Speck ab. Wie er nach Haus kommt, hat er das Seil an der Hand,
und ist nichts mehr daran (Der gescheite Hans: In: Grimms Kinder- und Hausmärchen 32)(ハ
ンスはベーコンを受け取ると、それをロープにつなぎ、自分のうしろに引きずっていっ
た。すると犬がやって来て、そのベーコンを食べてしまった。彼が家に帰ると、手にロ
ープを持っていたが、他には何もなかった)
ここで重要なことは、過去形と同様の「語り」の機能が現在形にはあるが、現在完了形
にはないということである。Weinrich は勿論、現在形を「語りの時制」ではなく、「論評
の時制」に含めているが(Weinrich 1985: 18 f. また、第5章「3. 現代ドイツ語の現在完了
形」も参照)、これは恐らく正しくない。現在形はむしろ、過去形以外で「語り」の機能
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を持つ唯一の時制である。過去形と現在形に「語り」の機能があるのは、過去形と現在形
においては基準時が事象時と一致するためである(湯淺 1998: 47 ff. を参照)。それに対
し、現在完了形は現代ドイツ語に至るまで、基本的に基準時が発話時と一致することをや
めていない。現在完了形は確かに「過去時制」として一般化したが、「語り」の時制には
なってはいない。それで現在完了形で語ろうとしてもそれだけで続けることはできず、あ
いだに現在形の挿入が必要となる。
上で見た(283)の都市年代記には(下に再掲)、完了形の助動詞 sein/haben
が省略され
た箇所が多いが、これも同じ理由によるのかもしれない。
(283) Am afftermontag, dem andern tag des monats jenner zenachts zwischen 11 und 12 uhren
ist der Leonhard Fischer, weber, als er die nachtwach gethon, gewarnet und im angezaigt
worden, er solle haim gohn, denn der Lenhart Mamendorfer, maurer, lige bei seinem weib. als
er nun eilends haimkomen, hat er sie also beiainader erwüscht und hat dem Mamendorfer mit
dem schweinspieß etliche stich und straich geben, doch ist im der Mamendorfer undergelaufen
und ime den spieß zuckt, also daß sie baid mitainander zu ringen komen (Chroniken der
deutschen Städte, Bd. 33, S. 23)(1月2日火曜夜 11 時と 12 の間、織工レオンハルト・フ
ィッシャーは、夜警を行った際、石工のレーンハルト・マーメンドルファーが彼の妻と
同衾しているから家に帰るように警告され、また告げられた。そこで彼は急いで帰宅す
ると、一緒にいた二人をつかまえ、マーメンドルファーを豚用の串で何度か刺し、また
殴打を加えた。しかしマーメンドルファーは彼から逃れ、その串を奪い取り、それで二
人は格闘することになった)
つまり、このような sein/haben の省略は、上の「6. sein/haben の省略」で述べたように、
過去分詞のみでそれが完了形であることが分かることを意味するが、さらに、現在完了形
のみで過去の事態を描写することが難しいということとも関わると思われる。すなわち、
sein/haben を明示すると、基準時を決定するのは本来 sein/haben なので、基準時は基本的
に発話時になり、複数の事態がそれぞれ発話時と結びつけられ、一連の事態それぞれのあ
いだの結びつきは弱くなって語りが成立しにくくなるということである。それに対し、
sein/haben が省略されれば、基準時の表示が不明瞭になり、事態それぞれの間の関連が保
たれやすいということである。
結局、現在完了形が「語り」の機能を獲得していないにも拘わらず、過去形が消失した
とすれば、現在完了形によって過去形が駆逐されたとは考えられない。むしろ過去形消失
の原因は現在完了形の発達以外のところに求められるべきである。その原因の一つとして
考えられるのは、Lindgren (ibd.: 126 f.) の言うように、語末音消失であろう。Lindgren は
上で述べたように、弱変化動詞においても強変化動詞においても同様に過去形が衰退した
ことから見て、語末音消失が過去形消失の直接の原因であるという考えは否定している。
しかし、語末音消失によって動詞の活用体系が崩れ、それが過去形消失の間接的原因にな
ったと考えている。
この問題をもう少しくわしく考えるために、初期新高ドイツ語の文学作品を見てみたい。
初期新高ドイツ語の文学作品においては、語りの地の文は基本的にすべて過去形であるが、
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弱変化動詞においては、語末音消失のためにそれが過去形なのか現在形なのか区別がつか
ない場合が非常に多い。
(292) Alsbald nun Ulenspiegel so alt ward dz er gon vnd ston kunt, da macht er vil spils mit
den iungen kinden (Till Eulenspiegel S. 6)(さてオイレンシュピーゲルが、立って歩ける
ようになると、彼は幼い子供たちとたくさんいたずらをした)
(293) Ulenspiegels muter wonet in einem huß, vnd der hoff gieng an das wasser die Sal genant
(Till Eulenspiegel S. 7)(オイレンシュピーゲルの母は庭がザーレという名の川に面した
家に住んでいた)
そのような弱変化動詞の過去形は、過去形であると同時に現在形とも判断されたと思われ
る。というのは、過去形と現在形が形態的に異なる強変化動詞(あるいは法助動詞や反復
動詞等)も、地の文で現在形で現れる場合が少なくないからである。10)
(294) sy weßt aber nit den verborgen mord vnd vntreü jrer frawen. noch nicht. dz sy yecz
sterben sollt. vnd gieng zů dem prunnen. als sy des wassers schöffen wil. treten die zwen herfür.
greiffen sy an vnd sagten jr (Tristrant S. 57)(しかし彼女〔ブランゲル〕は密かに計画され
た殺人も自分の主人〔イザルデ〕の裏切りも、自分が殺されそうになっていることも知
らず、泉へ向かった。彼女が水を汲もうとすると、二人の男が前に現れ、彼女をつかん
で言った)
(295) die fraw erschracke zemal dere. vnd sprach. Sy west nit mit welichen listen oder wie er
daher kommen wäre. Vnnd als her tristrand seyn schwert. will wider einstossen. so sicht er das
dicz. künig marcksen ist. vnd jm daz sein darwider genommen. Do sprache er zů der künigin
(Tristrant S. 98)(妃〔イザルデ〕はひどく驚き、どんな意図でどのようにしてそれ〔手
袋〕がそこへ置かれたのか自分は分からないと言った。それでトリストラントが自分の
剣を収めようとすると、それがマルク王のものであり、自分のものは奪われていること
を見て取った。そこで彼は王妃に言った)
(296) Vlenspiegel lacht vnd gedacht [...] vnd beitet biß sie aber ein ackerlengen giengen, da gibt
er dem hindersten auch einen gůten rupff bei dem har, das er sich rümpffte, der ward da noch
als zornig vnd sprach (Till Eulenspiegen S. 12)(オイレンシュピーゲルは笑い、〔……〕と
考え、彼らがまたしばらく歩くのを待っていた。そして彼はうしろの男の髪にしっかり
とした引っ張りを加え〔髪をぐっと引っ張り〕、その男は体を曲げた。そこで男はなお
ひどく怒り、言った)
(297) als es imbiß wolt werden, so gat Vlenspiegel in die kuchen (Till Eulenspiegel S. 14)(間
食の時間になろうとしたので、オイレンシュピーゲルは台所に入った)
(298) da er in die bachstuben kam so find er weder weck noch semlen (Till Eulenspoiegel S.
28)(彼〔パン屋〕がパン焼き部屋に入ると、折れパンも巻きパンも 見つからなかっ
た)
(299) Des morgens stund der meister vff vnd wecket vlenspiegl ouch vnd fint disen wolff im
gaden ston (Till Eulenspiegel S. 76)(朝親方は起き、オイレンシュピーゲルも起こし、そ
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の狼が部屋にあるのを見つけた)
(300) der meister gieng schlaffen vnd woolt ein par stunden schlaffen, die weil nimpt
Vlenspiegel den bütel vnd reckt in zům fenster vß und bůtelt dz mel in hoff (Till Eulenspiegel S.
29)(親方は寝に行き、2,3 時間寝ようとした。その間にオイレンシュピーゲルはふるい
を取ってそれを窓から外に出し、粉を庭にふるった)
(301) als aber Vlenspiegel mit dreien gesellen wil die arbeit anfahen, so dingt er dem
landgraffen an (Till Eulenspiegel S. 39)(そしてオイレンシュピーゲルが三人の職人と仕事
を始めようとした時、彼は方伯に条件を出した)
(302) als Vlenspiegel vmb sich sahe, so sicht er das die wirtin schilet (Till Eulenspiegel S. 45)
(オイレンシュピーゲルは回りを見回すと、女主人が斜視であることに気づいた)
(303) so sicht sy über sich und sicht die schönen öpffel ob ir steen / do sprach sy zu dem
abenteürer (Fortunatus S. 149)(そこで彼女〔アグリピーナ〕が自分の頭上に目をやり、
自分の上に立派なリンゴがあるのを見ると、宝石商に言った)
(304) da es imbiß zeit wolt werden so kumpt des pfaffen kellerin [...] zům feur vnd wolt die
hüner betreiffen, so sicht sie dz nur ein hůn am spiß wz (Till Eulenspiegel S. 15)(間食の時間
になろうとしたので、牧師の料理女はかまどの所へ来て、鶏にたれをかけようとした。
すると彼女は串に鶏が一羽しかないのを見た)
(305) vnd gleich so kummet Vlnspiegel yngangen von der kirchen. Da sprach in der pfarrer an
(Till Eulenspiegel S. 58)(すると丁度そこへオイレンシュピーゲルが教会から中へ入って
来た。そこで彼に司祭は話しかけた)
(306) als sy also stůnden so kommpt der schalck geloffen und sach greülich (Fortunatus S. 31)
(彼らがそうして立っていると、その悪漢は走って来て、恐ろしい様相をした)
(307) da nam vlenspiegel das bet vnd bindet es vff den rücken, vnd als dz ysin heiß was, so
kumpt er von der büne lauffen vnd zům anboß vnd schlecht mit zů dz die funcken ins beth
stoben (Till Eulenspiegel S. 63)(オイレンシュピーゲルはベッドを取るとそれを背中に縛
りつけた。そして鉄が熱くなると、彼は屋根裏から出ていって、金敷のところへ行き、
一緒に打ちつけると、火花がベッドに飛び散った)
(308) der meister gieng zů beth, vnd vlenspiegel hienge den rock an den hacken, vnd zundt zwei
liecht an, uff yede seit des rocks ein liecht, vnd nimpt ein ermel, vnd würfet den daran, vnd gat
uff die ander seit, und würfft den auch daran (Till Eulenspiegel S. 76/77)(親方が床につくと、
オイレンシュピーゲルは上着を鈎に掛け、火を二つ上着の両側に灯すと、袖を取ってそ
の袖を上着に投げ、また反対側に行くと袖を上着に投げつけた)
(309) Da gieng vlenpiegel schlaffen, vnd als er uff stund, gedacht er wolt im dz bezalen vnd solt
er bitz an knü im schne louffen, Er macht ein hefftig feür vnd nimpt die zang, vnd schweißet
sie in den sand löffel vnd macht sie zůsamen des gleichen 2 hemmer vnd des feür spet, vnd
sperhocken vnd nimpt den rumpff darin die hůff negel ligen, vnd schüttet die huffnegel daruß
vnd howet in die köpff ab, vnd die köpff zůsamen vnd die stefft auch also, vnd nimpt seinen
schurtz da er hort dz der schmid uff stund vnd get hinweg, der schmid kumpt in die werckstat
vnd sicht dz den negelen die köpff waren abgehowen, vnd die hamer, zangen vnd ander stück
zůsammen waren geschmid da ward er zornig vnd riefft der magt (Till Eulenspiegel S. 65)(そ
- 249 -
れでオイレンシュピーゲルは寝に行き、起きると、彼〔鍛冶屋〕に仕返しをし、痛い目
に会わせてやると考えた。彼は激しく火をおこし、火ばさみを取り、それを砂かけ用の
スコップに溶接してくっつけた。同様に二つのハンマー、火おこし棒、留め鈎もくっつ
け、蹄鉄釘の入った壺を取ると、蹄鉄釘を振って落とし、その釘の頭を切り落とし、そ
の頭同士を溶接してくっつけ、無頭釘もくっつけた。そして鍛冶屋が起きる音を聞くと
彼は前掛けを取って去って行った。鍛冶屋は仕事場に入ると、釘の頭が切り取られ、ハ
ンマーや火ばさみや他の道具が溶接されているのを見た。それで彼は怒って、女中を呼
んだ)
上の (309)においては、現在形が連続して用いられているために、一見、その現在形は
文学的技法としての歴史的現在のようにも見えるが、あいだには uff stund (= aufstand) と
いう過去形が挿入されており、文学技法としての歴史的現在とは異なることが分かる。実
際 、 (309)で は 、 最 後 の 現 在 形 の sicht (= sieht)「 見 る 」 の 内 容 を 表 す 文 が 、 waren
abgehowen (= waren abgehauen)「切り取られていた」というように状態受動の過去形で表
されている。主文の時制に合わせるなら副文の時制は sind abgehauen のように現在形にな
るべきところであり、sicht
はいわゆる歴史的現在ではなく、過去形の機能を持つものと
して用いられている。類似の現象は他にも見られる。
(310) da dz geschehen wz, so thůt er dz Leder vß dem kessel, vnd legt das an einen huffen, vnd
gat vß dem huß für die stat, vnd wandert hinweg (Till Eulenspiegel S. 88)(それが行われたあ
と、彼〔オイレンシュピーゲル〕は皮を釜から出し、それを山積みにして家から町へ出
て、旅立った)
この例でも主文の時制に合わせるならば、過去完了形の geschehen wz (= geschenen war)
「生じた」は現在完了形で geschehen ist と表されるはずである。このような主文=現在
形、副文=過去完了形という時制の連結も、現在形が過去形の代用として用いられている
ことによる。11)
一方、本来の強変化動詞(あるいは反復動詞)の過去形の形態が曖昧な場合もある。
(311) [Ulenspiegel] sahe da dz es hart vnd kalt winter wz (Till Eulenspiegel S. 27)(〔オイレ
ンシュピーゲルは〕厳しく寒い冬が来たことに気づいた)
(312) [Ulenspiegel] ließe sie sieden vnd kochen (Till Eulenspiegel S. 46)(〔オイレンシュピ
ーゲルは〕それ〔毛皮〕を煮立たせた)
(313) do was yederman fro / unnd kame allso auß das er ain eefrauwen neman wollt (Fortunatus
S. 83)(それで誰もが喜び、彼〔フォルトゥナートゥス〕が妻を娶ろうとしているとい
う話が広がった)
(314) vlenspiegel trinck vnd gibt dem hund auch in die schüssel (Till Eulenspiegel S. 128)(オ
イレンシュピーゲルは飲み、犬にも鉢に分けてやった)
上の(311)の sahe や(312)の ließe における接尾辞の -e は本来不要である。語末音消失に
- 250 -
よって弱変化動詞の過去形においては本来必要な -e が脱落するのに対し、ここでは逆に
不要な -e が付加されている。このような例は初期新高ドイツ語の文学作品には非常に多
い。また、(314)の trinck については、勿論、単に現在形の人称語尾の -t が脱落した形と
見ることもできるが、過去形の tran(c)k との混合によって生じた形と見ることもできる。
このように見ると、例えば sehen「見る」には、直説法過去形3人称単数の形が sah,
sahe, si(c)ht 等、複数存在していたことが分かる。machen のような弱変化動詞においては
語末音消失によって過去形と現在形の形態的区別がなくなり、一つの形が複数の意味を表
すようになったが、それに対し、強変化動詞においては複数の形が一つの意味を表すよう
になったと言える。このようにして過去形全般の形態は不安定なものになり、過去形はそ
の立場を失っていった。その際、過去形が担っていた機能は現在形と現在完了形が受け継
ぐことになった。これら二つはそれぞれ過去形と完全に同じ機能を持ってはいない。現在
形には過去を指示する機能はなく、現在完了形には「語り」の機能がない。従って、「語
り」の機能は現在形が受け継ぎ、過去を指示する機能は現在完了形が受け継いだと考えら
れる(Lindgren ibd.: 105 を参照)。
過去形の形態が不安定になったということには、おそらくこの時代の社会変化が関与し
ていると思われる。現在完了形が早い時期に多用されるようになったことが推測される地
域は例えば、上で「手紙」の例で挙げたニュルンベルクのような都市である( Rowley
1983
を参照)。都市の発達は人間の流動を生む。その結果、多様な言語形態が混合して、
過去形の形態的不安定が生じたと考えられる。その際、 sein/haben +過去分詞によって形
成される現在完了形は、多様な形態があったとしても、過去形のように現在形と類似する
ことはない。そこで現在完了形は、過去形の「語り」の機能は持ってはいなかったが、そ
れでもすでに「過去時制」としての機能はかなりの程度獲得していたために、過去形に代
わる形式として多用され始めたのであろう。
しかし、形態的混乱は必ずしも南ドイツのみで生じたことではない。だとすれば、なぜ
過去形の消失が南ドイツにおいてのみ生じたのかという問題は残る。その一つの答えは、
Abe (1981) が言うように、南ドイツの方が非土着的 (heterochthon) だということかもしれ
ない。Abe は過去形の消失および現在完了形によるその代用が、アフリカーンス語や書記
イディシュ語、ペンシルヴァニア・ドイツ語(ペンシルヴァニア・ダッチ)等にも見られ
ることから、ドイツ語を土着の言語として使用していなかった地域で総合的形式の過去形
から分析的形式の現在完了形への移行が生じたと言う。その意味で、フランス語における
単純過去から複合過去への移行も同様の現象と見なされる。確かに、これは筆者の推測に
すぎないが、第2次子音推移がなぜ北ドイツでは起こらなかったのかということを考える
と、北ドイツではもともといたゲルマン人が従来のゲルマン語をかなりよく保ったのに対
し、南ドイツでは本来ゲルマン語を話していなかった人間(例えばケルト人等)がかなり
いて、そこにゲルマン語が持ち込まれたために特殊な音韻変化が生じたということが考え
られる。だとすれば、北ドイツよりも南ドイツの方が過去形の形態が崩れやすかったとい
うこともあるかもしれない。
しかし、イギリス英語のみならず、アメリカ英語においても依然として過去形が過去時
制の中心であることを考えると、土着的か非土着的ということだけで過去形の消失の有無
を説明するのは難しいように思われる。(英国本土にも多数のケルト人がいたとすれば、
- 251 -
そもそもイギリス英語自体が非土着の側に属す。)そこで考えられるのは、動詞の相
(Aspekt) との関係である。Leiss (1992: 278 f.) は、現在完了形は完了相動詞においては事
態完了後の結果状態を表すが、非完了相の継続的事態を表す動詞においては、そのような
結果状態は意味的に不可能であるので、現在完了形が純粋な過去時制になりやすいと言う。
そして、ドイツ語においては非完了相動詞が支配的であるので、現在完了形が容易に過去
時制化した。それに対し、英語においては完了相動詞が支配的であるため、いわゆる進行
形の be + doing という非完了相を表す特別な形式は発達したが、現在完了形は結果状態
の存続が中心的な用法であり続けたと述べる。
すでに前章で見たように、非完了相動詞の現在完了形が特に過去時制化しやすかったと
いう事実はなく、そうした動詞の現在完了形は事態継続の用法で用いられることが多かっ
たことを考えると、Leiss の説をそのまま受け入れるわけにはいかない。しかし、英語に
おいて完了相動詞が支配的であるために、いくら他の用法が可能であっても、現在完了形
の中心的用法が結果状態の存続であり続けたということは考慮に値する。そして英語に近
い北ドイツのドイツ語においても似た状況があるのかもしれない。その場合、現在完了形
はまだ完全には過去時制化していないので、過去形の形態が不安定になっても、その代用
になることが難しいと言える。12)
結局、南ドイツにおける過去形消失の真の原因は明らかではない。ただここでは次のこ
とを確認しておきたい。すなわち、南ドイツにおいて過去形は消失したが、それは現在完
了形の発達が直接の原因ではない。現在完了形は現代においてもまだ過去形の「語り」の
機能は獲得していない。ただし、過去形が消失した場合に、過去一般を表す時制として機
能するほどには過去時制化していたということである。
- 252 -
注
1)
「ニュルンベルクの手紙」には、年代的に先行するにも拘わらず、『ボヘミアの農
夫』Der ackerman よりも早く ist getan worden が現れている。これは、『ボヘミアの農
夫』がプラハで書かれた(会話文から成るものではあっても)文学作品であるのに対し、
「手紙」がニュルンベルクの現実の都市戦争の際に交わされた、実用散文で書かれた手紙
という、地方差、テクストの種類等によるものと考えられる。そういう差異を無視して単
純に年代順に並べることには当然問題があるが、しかしここで重要なのは、諸形式の出現
順序である。すなわち、ist getan worden が現れる「手紙」には、ist gewesen や hat gehabt
も現れるのに対し、ist getan worden が現れない『ボヘミアの農夫』には、ist gewesen, hat
gehabt は現れても、hat tun wollen は現れない。なお、「手紙」と同様,ist gewesen, hat
gehabt, ist getan worden は現れるが、hat tun wollen は現れない文献として、Oubouzar が調
査対象とした Richenthal: Chronik des Constanzer Conzils (15 世紀前半) を挙げることができ
る(Oubouzar, ibd.: S. 43 ff.を参照)。
2)
この例では erwürgen までは間接話法であるが、vnd auch 以下は mich を使っているこ
とからも分かるように直接話法になっている。このような途中で間接話法から直接話法に
点ずるような例は少なくない。
3)
türren「~する勇気がある、敢えて~する」は wollen
以外の法助動詞と同様、過去現
在動詞(本来完了過去であったものが現在の状態を表すという意味で、現在形的に用いら
れ、過去を表すためにそこから新たに過去形を形成した動詞)に属し、古高ドイツ語以来、
不定詞を伴って用いられる。
4)
一見この例は非現実の過去を表さないが、もとになるのは「万一娘をなくすようなこ
とがあったとすれば〔困る〕」という意味であり、やはり非現実の過去を表すと解釈され
る。
5)
なお、完了形の接続法2式に特定の過去時を表す時間副詞類が共起する例としては、
次のような例が挙げられる。
dise kunst hond die schneider lang wol gewißt, mer dan vor tusent iaren (Till Eulenspiegel S. 80)
(そんな技術は自分たちはずっと前から、千年以上前から知っていた〔と仕立屋たちは言
った〕)
ich bitt dich / du wöllest es nit offenbaren das ich also von land geritten sey / ich sey dann vor
drey tagen hynweg gewesen (Fortunatus S. 19)(私が三日前に立ち去っていなければ〔立ち去
って三日以上経っていなければ〕、あなたは私がこうして国を出たことを知らせないよう
お願いする)
sy wär vor sechs jaren groß genůg gewesen (Fortunatus S. 72)(彼女は6年前でも十分大人だ
っただろう)
6)
ただし、同じ現象は受動形にも見られる。
Die 11. historie sagt wie sich Ulenspiegel zů einem pfarrer verdingt, vnd wie er im die gebraten
hüner von dem spiß aß (Till Eulenspiegel S. 15)(第11話は、オイレンシュピーゲルがある司
祭に雇われ、焼き鳥を串から直接食べたことを語る)
また、完了形と受動形の両方の助動詞となる sein が省略される例もある。
- 253 -
es ist nun als für bracht. Wie der teür manlich held herr Tristrant geboren gewachssen. erzogen.
auch wz er in seynem leben ye gewürckt. vnd wie er sein ende genommen hat (Tristrant S. 197)
(いかに貴く勇敢な勇士トリストラントが生まれ、育ち、養育され、また、その生涯を通
じて何を行い、どのような最期を迎えたかが、今や述べられた)
あるいは、完了形か受動形か区別が不明なものもある。
do es nacht ward unnd man aber den breüß außgeben und von billichait Andolosia solt sein
wordenn. Aber von eeren wegen gegeben graff Theodoro (Fortunatus S. 183)(夜になり、褒美
を与えることになり、当然アンドロージアがそうなるべきであった。しかし敬意を表して
テオドルス伯に与え〔られ〕た) (= (91))
7)
このような過去分詞の副詞的用法からさらに次のような絶対的分詞構文も生じたのか
もしれない。
iedoch wellen wir dir sagen von eelichem leben, vngeruret aller reinen frawen (ackerman 27. cap.)
(しかし我々は、すべての純粋な女性のことには触れずに、結婚生活についてお前に話そ
う)
Angesehen / das kayn haydenn kainen christen liebhaben mag (Fortunatus S. 119)(異教徒がキ
リスト教徒に好意を持たないだろうことを考えると)
8)
ただし『グリム童話』には、次のように地の文が現在完了形のみで構成された話が
収録されている。
Is ist emol e Mon gewön, der hot ninx us g'spielt, und do hobnd'n d'Leut nur in Spielhansl
g'hoaßen, und wal e gor nit afg'hört zen spieln, se hot e san Haus und ulls verspielt (= Es ist
einmal ein Mann gewesen, der hat nichts als gespielt, und da haben ihn die Leute nur den
Spielhansl geheißen, und weil der gar nicht aufgehört zu spielen, so hat er sein Haus und alles
verspielt (De Spielhansl. In: Grimms Kinder- und Hausmärchen 82)(むかし一人の男がいて、
彼は賭け事以外何もしなかった。それで人々は彼を専ら「賭け事のハンス」と呼んだ。そ
して彼は賭け事をまったく止めなかったので、自分の家もすべて賭けで失った)
この話で地の文に現れる現在形は、Hietzt is e hullt anhi (= Jetzt ist er halt hinein)(そこで彼
はとにかく中へ入った)のような場所の移動を表す表現のみで、他にはまったく現れない。
(過去形は勿論まったく使われていない。)従って、ここでは現在完了形が「語り」の機
能を持っていると考えられる。この話はチェコとの国境に隣接するオーストリアのヴァイ
トラ (Weitra)
の方言で語られており、方言の中には現在完了形がすでに「語り」の機能
を獲得したものもあるのかもしれない。このような方言間の差異についてはもっと詳細な
研究が必要である。
9)
ただし、このような「歴史的現在」が本当に、臨場感を伴う文学技法であるのか筆者
は疑問を抱いている。このクライストのテクストでは、そのような効果を働かせるべき箇
所は Drauf, in dem Augenblick der Mitternacht, läßt sich das entsetzliche Geräusch wieder hören
(やがて今や真夜中という頃、あの恐ろしいがさがさはまたもや聞えだしたのである)の
あたりからだと思われるが、現在形の使用はその前に始まっている。ひょっとしたら、こ
のような「歴史的現在」も単に「語り」の現在形であって、臨場感というような特殊な効
果を持たないかもしれない。
10)
そのような現象は次のように中高ドイツ語にも見られるが、それほど多くはない。
- 254 -
si sprach »dâ lege dîn triuwe zuo.« nu gêt der künec an sînen rât (Parzival 422, 20)(彼女は「あ
なたの誠実を忘れないで」と言った。さて、王は協議の場に出かけた)
11)
しかし次のように、主文が現在形に対し、二つの副文の一方が現在完了形、他方が過
去完了形で表される場合もある。
vnd vber kam ein leiter, vnd stig in di fürst vnd brach dz dach oben vß vnd gieng vff dem dach
uff den latten, vnd nimpt die Leiter vnd zücht sie nach im, vnd setzt sie von dem dach ab uff die
straß vnd steig also hinab vnd gat hinweg. Der schmidt hort dz er boldert vnd gat im nach vff di
bün mit dem andern knecht, vnd sicht dz er dz dach hatt vff gebrochen vnd war durch vß
gestigen, da ward er noch zorniger (Till Eulenspiegel S. 63)(そして〔オイレンシュピーゲル
は〕梯子を持ってきて屋根裏の梁に登り、上の屋根を破って屋根板の上に上がった。そし
て梯子を取ると自分の方へ引っぱり、それを屋根から通りにかけて降りていった。鍛冶屋
は彼ががたがたいわせているのを聞いて、他の職人と一緒に屋根裏に彼のあとを追って行
くと、彼が屋根を破って、そこから出ていったことに気づいた。それで彼はますます怒っ
た)
この例の最後の主文における現在形 sicht (= sieht) と副文の現在完了形 hatt vff gebrochen
(= hat aufgebrochen) と過去完了形 war vß gestigen (= war ausgestiegen) という奇妙な時制の
連結は、sicht
が形態的に現在形であるために意味的にも現在形と見なされ、現在完了形
と連結される一方、sicht
は意味的には現在形ではなく過去形と見なされるために過去完
了形とも連結されたことによると考えられる。つまりこの sicht は意味的に(形態的にで
はなく)現在形であると同時に過去形でもある。
12)
もし南ドイツでは現在完了形の過去時制化の度合いが高いために過去形が消失し、北
ドイツではその度合いが低いために過去形が消失しなかったとすれば、過去形消滅の直接
の原因は現在完了形の発達にあるということになる。ただし、その場合の「直接の原因」
とは、最後に消失を決定づけたということであり、やはりその前の段階ですでに過去形は
不安定な状態にあったことの方が原因としては大きいと思われる。
- 255 -
第5章
現在完了形の過去と現在
この最後の章ではドイツ語の現在完了形の歴史を通観し、現代ドイツ語の現在完了形に
ついて説明の補足を行う。
1. 会話文中での過去形と現在完了形の出現頻度比
現代ドイツ語においても文学作品中の地の文では圧倒的に過去形が支配的である。それ
に対し、会話文中では過去形と現在完了形が混在して用いられる。そこで、会話文中にお
ける両者の出現頻度比が歴史的にどう変化したのかを見てみたい。以下、それぞれの作品
中での過去形 (Prät.) と現在完了形 (Perf.) の実数とそれを全体で 100 とした場合の比率を
挙げる(比率においては小数点以下四捨五入)。1)
古高ドイツ語
Otfrids Evangelienbuch (870 年頃) Prät. 455 : Perf. 28 ≒ 94 : 6
中高ドイツ語 (1050-1350)
Wiener Genesis (1060 年?)
267 : 52 ≒
84 : 16
Pfaffe Konrad: Rolandslied (1170 年?) 284 : 247 ≒ 53 : 47
Nibelungenlied (13 世紀初頭)
461 : 398 ≒ 54 : 46
Tristan (13 世紀初頭)
460 : 349 ≒ 57 : 43
Parzival (13 世紀初頭)(1.-10. Buch) 1465 : 375 ≒ 80 : 20
Konrad von Würzburg:
Kleinere Dichtungen (14 世紀後半)
31 : 66 ≒ 32 : 68
初期新高ドイツ語 (1350-1650)
Der ackerman (1401 年?)
145 : 119 ≒ 55 : 45
Tristrant und Isalde (1484 年)
137 : 271 ≒ 34 : 66
Fortunatus (1509 年)
147 : 301 ≒ 33 : 67
Till Eulenspiegel (1515 年)
187 : 237 ≒ 44 : 56
Dr. Faustus (1587 年)
64 : 119 ≒ 35 : 65
新高ドイツ語 (1650-)
Max Frisch: Homo Faber
30 : 68 ≒ 31 : 69 (Hauser-Suida/Hoppe-Beugel 1972: S. 83)
Heinz Pinkwart: Mord ist schlecht
für hohen Blutdruck (Krimi)
395 : 241 ≒ 62 : 38 (ibd.)
Theodor Storm: Viola Tricolor,
Immensee, Aquis Submersus
118 : 158 ≒ 43 : 57 (Lindgren 1972: S. 20)
Gottfried Keller: Pankraz der Schmoller,
Romeo und Julia auf dem Dorfe
80 : 121 ≒ 40 : 60 (ibd., S. 25)
- 256 -
Arthur Schnitzler: Der Weg ins Freie
174 : 377 ≒ 32 : 68 (ibd., S. 28)
Böttcher (Krimi)
209 : 197 ≒ 51 : 49
Feid (Krimi)
353 : 239 ≒ 60 : 40
Schweiger (Krimi)
487 : 233 ≒ 68 : 32
話し言葉
2)
Freiburger Corpus
5741 : 6918 ≒ 45 : 55 (Latzel 1977: S. 203)
まず新高ドイツ語について説明すると、M・フリッシュ (M. Frisch) とピンクヴァルト
(Pinkwart) は、それぞれ Hauser-Suida/ Hoppe-Beugel (1972) の調査における最も現在完了形
の出現頻度が高いものと、最も低いものであり、他の調査文献における出現頻度比は、す
べてこの間に位置づけられる。また、シュトルム (Storm)、ケラー (Keller)、シュニツラ
ー (Schnitzler) の示す数字は、出身地の差異が、少なくとも文学作品の会話文中では、過
去形と現在完了形の使用頻度比に決定的な影響を及ぼさないことを示している。全体とし
て新高ドイツ語の会話文中での過去形と現在完了形の出現頻度比は、おおよそ 5 : 5 から
3 : 7 の間におさまる。
これを踏まえてそれ以前の文献について見ると、古高ドイツ語の『オトフリート福音
書』から中高ドイツ語初期の『ウィーン版創世記』までは、過去形の使用が現在完了形の
それを大きく上回るが、 1200 年頃以降の文献においては『パルツィヴァール』を除いて、
おおよそ 5 : 5 から 3 : 7 のあいだの数値を示し、現代ドイツ語の出現頻度比と大きな差
異は見られない。つまり、現在完了形はすでに 1200 年頃には特殊な形式ではなかったこ
とが分かる。
しかし、現在完了形は中高ドイツ語と初期新高ドイツ語のあいだで過去時制化し、現在
完了形の使用の拡大が行われたはずであるが、それは上の数字には反映されていない。も
し単純に現在完了形が意味機能を拡大していったとすれば、中高ドイツ語以降も過去形の
比率が下がり続け、現在完了形の比率が上がり続けるはずである。そうならない理由とし
て考えられるのは、中高ドイツ語の現在完了形は事態継続の用法で用いられる例が多かっ
たのに対し、初期新高ドイツ語以降その用法の例が減少していったということである。つ
まり、現在完了形は一直線に意味機能を拡大していったのではなく、一旦獲得した意味機
能を次第に制限した部分もあった。このことは、文法化が単に具体的なものから抽象的な
ものへというように一直線に行われるとは限らないことを示すという意味で重要である。
2. 現在完了形の意味機能の歴史的変化の概観
すでに第3・4章で述べたことであるが、ここで現在完了形が歴史的に獲得していった
用法の関連を整理して示しておく。横の矢印は各用法の歴史的な出現と存続を示し、縦の
矢印は用法間の関連を示す。
- 257 -
事態完了後の
結果状態
(古高ドイツ語)
事態継続・反復
経験
間接的な基準時との関連
(中高ドイツ語)
過去時制
(初期新高ドイツ語)
これらの用法のうち、事態継続・反復の用法は現代ドイツ語では多く見られないが、それ
以外はすべてよく用いられる用法である。このことは現在完了形の意味機能の変化が単な
る移行でもなければ、拡張でもないことを示す。ただし、事態継続・反復の用法以外は、
すべて事態時が基準時よりも前にあるので、この歴史的変化が基本的には「過去時制化」
という方向に沿うということは言える。
3. 現代ドイツ語の現在完了形 3)
現在完了形は「語る」機能を現代ドイツ語においても獲得していないことを前章で述べ
たが、通常の語りにおいては次のように現在完了形と過去形が混在して用いられる場合が
多い。
(1) In Hannover habe ich es mit der Angst bekommen, der Zug könnte besonders kontrolliert
werden. Ich dachte, was machst du denn hier bloß, nimm lieber alles auf dich und geh zurück
ins Amt. Ich habe die Nacht auf dem Bahnhof verbracht und bin am anderen Morgen Richtung
Köln gefahren. Kurz vor Düsseldorf ging ich auf die Zugtoilette, um mich ein bißchen frisch zu
machen. Da sah ich mein Bild im Spiegel, bekleckert, unrasiert (Tiedge 101)(ハノーファーで
私は、この列車が特別に検査されるのではないかと不安を抱きました。一体ここでどう
するというのだ、すべての責任を取って、役所に戻るんだと思いました。私は駅で夜を
過ごし、翌朝ケルン行きの列車に乗りました。デュッセルドルフに着く直前、少しさっ
ぱりするために、列車のトイレへ行きました。そこで私は薄汚れて無精ひげの自分の姿
を鏡の中に見ました)
このような現在完了形がなお「語る」機能を有していないと主張する理由をここでもう少
しくわしく説明したい。
ここでの一番の問題は基準時の扱いである。第4章の冒頭で述べたように、現在完了形
の基準時は基本的に発話時と一致するが、上のような現在完了形においては、基準時は発
話時と一致するもの以外に事態時と一致する第二の基準時が置かれるというのが筆者の考
- 258 -
えである。4) では、なぜ第一の基準時を残す必要があるのか。例えば、Vater (1994: 70) は
基本的に現在完了形の基準時は発話時と一致するが、結果状態が存続しないような場合は
基準時が過去に移されると言う。この考えに従えば、基準時を発話時に残す必要はない。
この問題を明らかにするために、時間の向きについて考えたい。時間には二つの向きが
認められる。すなわち、過去から現在への向きと、未来から過去への向きである。未来へ
の向きは、生きている「私」の持つ向きである。人間は誕生から死へ向かうという意味で
過去から未来へ向かっている。それに対し、「私」が体験する事態は未来から来て、体験
されて、過去のものになる(Koschmieder 1929 参照)。
この二つの向きは前置詞の vor「~の前」によって表される。これはあるものが向かう
向きを表す。例えば vor mir「私の前」は、「私」が向いている方法を示す。この場合、
その向きは時間的には過去から未来へ向いている。vor mir liegt eine schöne Zukunft「我々
の前にはすばらしい未来がある」とは言えても、vor mir liegt eine schöne Vergangenheit
「我々の前にはすばらしい過去がある」とは言わない。それに対し、vor dem Essen「食事
の前」のような表現では、向きは未来から過去に向いている。「食事の前」は食事よりも
過去の時間を指す。例えば、der Spaziergang vor dem Essen「食事の前の散歩」は「散歩」
が「食事」よりも過去にある。つまり、体験者である「我々」は未来に向かい、その体験
される事態は未来から過去へ向かうことが前置詞 vor によって示される。
vor mir
ich → (Zukunft)
vor dem Essen
der Spaziergang vor dem Essen
(Erlebender) → ← Essen
(Erlebender) →
Spaziergang ← Essen
vor「~の前」という前置詞は空間指示にも用いられるが、あるものが向かう方向を指
すという点では時間指示の場合と同じである。すなわち、空間的にも vor
においては二
つの向きが認められる。一つはあるものがそれ自体で向きを持っている場合で、典型的に
は「私」のような人間である。すなわち、vor mir「私の前」は私が向かう方向を指す。し
かし、これは単に運動の向きであるだけではなく、知覚の向きでもある。つまり、「私」
の視線が向かう方向が「私の前」である。時間指示においてはこの「私」は体験者である
が、空間指示においては「私」は知覚者であり、vor mir steht ein Kasten「私の前に箱があ
る」は「私」の視線の向かう先に「箱」があることを意味する。
vor mir
ich →
vor mir steht ein Kasten
ich → Kasten
しかし、このような知覚者自身が持つ「内在的」な向き以外に、知覚される対象も向きを
持つ。例えば、vor dem Kasten「箱の前」は「箱」から知覚者への向きを表す。この場合、
知覚者が「箱」に視線を向けることによって、知覚される「箱」が表象として知覚者へ向
かう。従って、vor dem Kasten liegt ein Buch「箱の前に本がある」は「箱」から知覚者へ
- 259 -
向かう方向の先に「本」があることを意味する。
vor dem Kasten
(Wahrnehmender) → ← Kasten
vor dem Kasten liegt ein Buch
(Wahrnehmender) →
従って、空間指示においても時間指示においても vor
Buch ← Kasten
の示す向きは同様に解釈できるこ
とが分かる。(日本語の「前」も同じである。)
ところで、基本的に体験される事態は未来から過去へ向かうが、逆に過去から未来への
向きを持つ場合もある。それは「内的観点」Innenperspektive
で事態が観察される場合で
ある。この場合、その事態は時間的に持続するものとして、体験者とともに過去から未来
へと向かうものとして観察される。それに対し、「外的観点」Außenperspektive によって
捉えられる事態は全体が点として観察され、未来から過去へと向かう。従って、すべての
事態はその見方によって持続的なものとしても点的なものとしても観察されることが可能
であり、持続的に見られる事態は過去から未来へ、点的に見られる事態は未来から過去へ
向かう。
ある事態が持続するものとして捉えられるということは、それが同質性 (Homogenität)
を持つということを意味する。持続するからにはその内容は同じものである。それに対し、
点的に捉えられる事態は異質性 (Heterogenität) を持つ。それは他の事態とは別の異なるも
のとして区別されるからである。この同質性と異質性の違いは空間における事物の知覚に
おいても認められる。すなわち、リンゴは一つずつ数えられるものとして、他の事物とは
区別される。一個のリンゴと別のリンゴは足すと二個のリンゴであり、一個のリンゴには
ならない。それに対し、リンゴソースは別のリンゴソースを足すと、二つのリンゴソース
にはならず、同質のリンゴソースを形成する。この場合、その事物が境界を持つか否かが
可算的か非可算的かを分ける。すなわち、事物が境界を持つ場合には可算的であり、持た
なければ非可算的である。境界があるということはそれが外から観察されているというこ
とであり、それが他のものに対し、異質であることを意味する。境界がないということは
それが内的観点で観察されるということであり、内的に同質であることを意味する
(Krifka 1989 および Leiss 1992 を参照)。
同質性と異質性の違いは観点の違いによって生じるので、すべての事態はそのどちらの
ものとも見なされうる。例えば、sterben「死ぬ」という事態は基本的には点的であるが、
er stirbt schon seit zwei Stunden「もう二時間前から彼は死にかけている〔死ぬ過程にあ
る〕」(Schröder 1955: 6) のように内的観点から持続的なものと見ることもできる。あるい
は、 leben「生きる」という事態は基本的に持続的であるが、一つの生全体を外的観点か
ら点的に見ることもできる。
従って、例えば足、お腹、手という順序で体を洗った場合、それぞれの「洗う」事態は
異質なものとして、足を洗う、お腹を洗う、手を洗うという順序で未来から来て、体験さ
れ、過去へと過ぎ去っていく。しかし、これらの各事態の異質性を無視して、「洗う」と
いう一つの事態と見ると、内的に同質の事態として持続的に過去から未来へ向かうものと
して捉えられる。しかしまた、その「洗う」事態を全体として外的観点から他とは異質な
点的な事態と捉えれば、それはまた、未来から過去へと向かうことになる。
- 260 -
ここで時制の問題に戻るが、現在完了形について考える前に、現在形における基準時の
問題に触れておきたい。現在形で表される事態は、基準時までの時間に終結していない事
態である。現在形においては基準時は、通常、発話時現在に置かれる。現在形が er
wohnt in München のように、発話時現在における継続的事態を表す場合、基準時は発話時
に置かれ、その事態が基準時までの時間にはまだ終結していないことが表される。現在形
は er kommt bald のような未来の事態を表す場合もある。この場合、基準時は発話時より
もあとの未来に置かれるが、継続的事態を表す場合と同様、基準時までの時間において終
結していない。そして大事なことは、どちらの場合も、基準時までの時間は同質的だとい
うことである。つまり、継続的事態が表される場合に同質的であるのは当然であるが、未
来の事態を表す場合も、その事態そのものは異質であるが、基準時までの時間は同質的で
ある。
では、前章で述べた「語りの時制」としての現在形の場合はどうであろうか。この場合、
それが過去における事態を表すならば(過去でない語りもありうる)、基準時は過去に置
かれる。5) そしてその基準時までの時間には事態はまだ終結していない。完了相動詞によ
って表されるような事態も基準時において終結するのであって、それまでの時間において
ではない。ここで重要なことは、通常の現在形の使用の場合と同様、基準時までの時間が
同質的であるということである。すなわち、事態が基準時に終結する場合も、それ自体は
異質的であるが、基準時までの時間は同質的である。これはその事態がそれ以前の事態と
関連づけられて同質の世界を作ることを意味する。これがまさに「語る」時制の機能であ
る。6)
過去形で表される事態の特徴もこれと同じである。過去形の事態はそれ自体は異質的で
あるが、それまでに生じた事態と関連づけられて同質的世界を形成する。それに対し、基
準時が基本的に発話時と一致する現在完了形においては、基準時までの時間が同質的であ
るという点は同じであるが、事態時は基準時よりも前にあるので、同質的であるのは、事
態が生じたあとの時間である。従って、表される事態そのものは、他の事態と関連づけら
れず、同質の世界を形成しない。これが現在完了形は「語りの時制」ではないということ
の意味である。
初期新高ドイツ語以降の現在完了形においては発話時から切り離された特定の過去時を
示す時間副詞類が共起しうる。その場合、基準時は過去の事態時に置かれることになる。
しかし、それは付加された基準時であり、第一の基準時は発話時に残る。従って、現在完
了形は「過去時制」であっても依然として「語りの時制」ではない。
Weinrich (1985) はドイツ語の時制を「論評の時制」besprechende Tempora と「語りの時
制」erzählende Tempora に分けた。7) 具体的には、「論評の時制」が現在形、現在完了形、
未来形、未来完了形、「語りの時制」は過去形、過去完了形、条件法 I (würde +不定詞)、
条件法 II (würde +完了不定詞)である (Weinrich ibd.: 18 ff.)。
8)
この区分は発話態度
(Sprechhaltung) の違いに基づく。すなわち、「論評の時制」においては聞き手は話し手と
聞き手の間に緊張が生じ、聞き手は反応しなければならないが、「語りの時制」において
はその緊張は解かれ、聞き手は語られる世界に没入できる (Weinrich ibd.: 36 f.)。しかし、
筆者の考えでは、こうした発話態度の違いは基準時の位置の違いによって生じる。すなわ
ち、現在完了形においては基準時が発話時と一致するので、聞き手はその発話の現場から
- 261 -
解放されず、緊張が生じる。それに対し、過去形に置いては基準時が事態時と一致するの
で、発話の現場から切り離され、事態間の連鎖によって生じる同質的世界に没入できる。
以上の考察から導き出される結論は、一連の過去の事態が過去形と現在完了形が混在す
る形で表される場合、過去形の事態はその過去の同質的世界の一部をなすが、現在完了形
の事態はその同質的世界から孤立するということである。孤立するということは、語られ
る世界の中で際立つ中心的な事態であるか、あるいは、補足的に付け加えられるだけの重
要度の低い事態だということを意味する。
以上述べたことを具体例によって考察したい。次の例は上に挙げた (1)に前後を付け加
えたものである。
(2) SPIEGEL: Ihre Spur verliert sich am 18. August 1985 um 16.41 Uhr an einer
Straßenbahnhaltestelle in Köln-Mehrheim. Können Sie uns erzählen, wie es weiterging?(あな
たの足取りは 1985 年 8 月 18 日 16 時 41 分にケルン・メーァハイムの市街電車のある停
車場で消えます。そのあとどうなったのかお話頂けますか)
Tiedge: Ich war vorher in meiner Stammkneipe und habe Skat gespielt. Mit der Straßenbahn bin
ich zum Hauptbahnhof und von dort nach Hannover gefahren.(私はその前なじみの飲み屋に
いてスカートをしていました。市街電車に乗って中央駅へ行き、そこからハノーファー
へ行きました)
SPIEGEL: Aber Sie waren doch blank.(でもお金はなかったのでしょう)
Tiedge: Die Reise hat das BfV bezahlt. Wir hatten Blanko-Freifahrscheine erster Klasse. In
Hannover habe ich es mit der Angst bekommen (1), der Zug könnte besonders kontrolliert
werden. Ich dachte (2), was machst du denn hier bloß, nimm lieber alles auf dich und geh
zurück ins Amt. Ich habe die Nacht auf dem Bahnhof verbracht (3) und bin am anderen
Morgen Richtung Köln gefahren (4). Kurz vor Düsseldorf ging (5) ich auf die Zugtoilette, um
mich ein bißchen frisch zu machen. Da sah (6) ich mein Bild im Spiegel, bekleckert, unrasiert,
so wäre ich trotz meines Dienstausweises nicht einmal beim BfV reingekommen. Vom
Bahnsteig in Köln habe ich meine Sekräterin angerufen (7) und mich krank gemeldet (8). Fünf
Minuten später saß (9) ich wieder im Gegenzug und fuhr (10) bis Helmstedt. (Tiedge 101)(旅
行代を出したのは連邦保安局です。私たちは一等席用の目的自由の乗車券を持っていま
した。ハノーファーで私は、この列車が特別に検査されるのではないかと不安を抱きま
した。一体ここでどうするというのだ、すべての責任を取って、役所に戻るんだと思い
ました。私は駅で夜を過ごし、翌朝ケルン行きの列車に乗りました。デュッセルドルフ
に着く直前、少しさっぱりするために、列車のトイレへ行きました。そこで私は薄汚れ
て無精ひげの自分の姿を鏡の中に見ました。これでは職業証明書があっても連邦保安局
には戻れなかったでしょう。ケルンのプラットフォームで私は秘書に電話し、病気だと
伝えました。5分後私は逆方向の列車に乗って、ヘルムシュテットまで行きました)
上の例では西ドイツから東ドイツへ逃亡した男の体験が語られている。そこで情報として
重要なのは、どのように逃亡したかということである。その経過は聞き手には未知であり、
関心の対象である。その意味で、現在完了形の「不安を抱いた」(1), 「夜を駅で過ごして
- 262 -
翌朝ケルン行きの列車に乗った」(3), (4), 「秘書に電話して病気だと告げた」(7), (8) はす
べて逃亡の経過の中で骨格となる中心的な事態を表す。特に (7), (8) は東ドイツへの逃亡
の決定を表す重要な事態である。それに対し、過去形の「引き返した方がいいと思った」
(2) は (1) に直接つながる事態を、「トイレに行って薄汚れた自分の姿を見た」(5), (6) は
(4) の「ケルン行きの列車に乗った」その列車の中での事態を、「また逆方向の列車に乗
ってヘルムシュテットへいった」(9), (10) は (7), (8) で表された「東ドイツへの逃亡の決
定」からつながる事態を表し、それぞれ他の事態との関連で用いられている。
このように、現在完了形は他の事態から孤立した事態を表すのに対し、過去形はそれ以
前の事態と関連づけられる事態を表す。それは基準時の位置の違いによって生じる違いで
ある。
4. 現代ドイツ語の過去形における基準時
ここで現代ドイツ語の過去形における基準点の位置についても説明の補足をしておきた
い。上で過去形の基準時は過去にあり、事態時と一致することを強調したが、そうならな
い場合がある。
(3) Der Ball ist im Spiel, sobald der Stoß ausgeführt wurde. (Die Fußballregeln, Regel
14) (Latzel 1974: 289)(キックが 行われた瞬間、そのボールは試合中のものとなる)
(4) Wenn eine Schachfigur berührt wurde , muß gezogen werden. (Hörbeleg) (Latzel
1974: 289) (一旦、チェスの駒が手に 触れたら、動かされねばならない)
(5) Es hat keinen Sinn, im Keller Äpfel und Kartoffeln einzulagern, die Kartoffeln
keimen, die Äpfel schmoren zusammen. Sie werden bis zum nachsten Jahr so klein, das
man das, was zwanzig Kilo waren , mit einer Hand wegwischen kann. (Bichsel: Die
Jahreszeiten,
27) (地下室にリンゴやじゃがいもを貯蔵するのは無意味だ。じゃがい
もは芽を吹き、リンゴはうだって縮む。次の年までにリンゴは、 20 キロ だった もの
が、片手で片づけられるほどに小さくなる)
上の例ではすべて過去形が未来的あるいは無時間的な事態を表し、過去の事態を表さない。
このような過去形は、主として sein, haben,
werden
法助動詞、受動の werden +過去分詞の
に見られる。この場合、基準時は過去ではなく未来に置かれる。このような過去
形の使用は現代においては特殊に見えるが、そもそも過去形は古高ドイツ語から中高ドイ
ツ語までは未来を表す用法が多く見られた。その意味では上の過去形はその名残と見るこ
とができる。
未来的な過去形は強変化動詞の過去形が完了過去 (perfectum) に由来することによるの
かもしれない。だとすると、過去形はもともとは現代ドイツ語の現在完了形のように E <
R, ¬ R < S(事態時が基準時の前であり、基準時は発話時の前にはない)と規定されるも
のであったのが、次第に基準時が事態時と一致する用法を発達させ、かつての用法は現在
完了形に取って代わられたのかもしれない。そうすると、現在完了形はかつて過去形がた
- 263 -
どった道を進んでいると言える。
5. 現代の方言における過去形と現在完了形の分布
すでに述べたように南ドイツでは過去形が消失したが、それに対し、北ドイツでは現代
においても過去形が話し言葉によく用いられると言われる。下の統計は、話される方言を
録音して文字化した Bethge/Bonnin (1969): Proben deutscher Mundarten に現れる過去形と現
在完了形の出現の実数を示したものである。(過去形と現在完了形が合わせて5以下のテ
クストは除外した。また、質問者と回答者に分かれたテクストにおいては質問者の発言部
分は除外した。)
Prät. : Perf.
Hochdeutsch (norddeutsch gefärbt)
10 : 0
Niederdeutsch/Schleswigisch (Vollmundart)
9:1
Nordfriesisch (Vollmundart)
7:0
Niederdeutsch/Holsteinisch (Mundart der jüngeren Generation) 22 : 11
Niederdeutsch/Nordniedersächsisch (Halbmundart)
13 : 8
Niederdeutsch/Niederfränkisch (Halbmundart)
12 : 2
Niederdeutsch/Südwestfälisch (Vollmundart)
8:6
Niederdeutsch/Ostfälisch (Vollmundart)
22 : 3
Niederdeutsch/Ostfälisch (Vollmundart)
9:4
Niederdeutsch/Mecklenburgisch (Regionalmundart)
7:5
Niederdeutsch/Pommerisch (Vollmundart)
14 : 10
Niederdeutsch/Niederpreussisch (heimische Vollmundart)
14 : 25
Mitteldeutsch/Berlinisch (mundartliche Umgangssprache)
47 : 21
Westmitteldeutsch/Mittelfränkisch (Vollmundart)
33 : 3
Westmitteldeutsch/Hessisch (Regionalmundart)
Westmitteldeutsch/Hessisch (Vollmundart)
6 : 23
22 : 3
Ostmitteldeutsch/Obersächsisch (sächsische Umgangssprache)
Ostmitteldeutsch/Schlesisch (Halb- bzw. Regionalmundart)
7:8
40 : 5
Ostmitteldetusch/Oberschlesisch (Großraummundart)
5:1
Oberdeutsch/Südfränkisch (Vollmundart)
5 : 25
Oberdeutsch/Ostfränkisch (Vollmundart)
11 : 14
Oberdeutch/Ostfränkisch-Nordbairisch (Vollmundart)
10 : 15
Oberdeutsch/Westschwäbisch (Vollmundart)
0 : 16
Oberdeutsch/Elsässisch (Vollmundart)
1 : 20
Oberdeutsch/Vorarlbergisch (Vollmundart)
2 : 35
Oberdeutsch/Nordbairisch (Mundart der jüngeren Generation)
4 : 12
Oberdeutsch/Mittelbairisch (Münchner Umgangssprache)
3 : 31
- 264 -
この調査は勿論、統計的に有効とは言えないほどの極めて小さな集計でしかない。また、
話される内容はそれぞれ異なっており、単純に比較することには問題がある。しかし、こ
の程度の調査でも、北部の低地ドイツ語 (Niederdeutsch)
においては比較的よく過去形が
使われるのに対し、南部の上部ドイツ語 (Oberdeutsch) においては過去形の比率が下がる
ことが見て取れる。ただし、過去形が消失したと言われる上部ドイツ語においても、過去
形は若干ながら保持されている。
すでに前章でも述べたように、現在完了形が支配的なテクストにおいては現在形が挿入
される。しかし、実際には、過去形が支配的なテクストにおいても現在形が過去の事態を
表すものとして挿入されることが多い。次の例はハノーファー周辺のオストファーレン方
言で話されたものである。
(6) Na ja, er lieh sich das Rad aus von dem und fährt los ... mit dem Rad. Die erste Kurve
nimmt er ganz gut, und die zweite Kurve -- hinein in den Graben! Er kommt wieder. - „Ja,“
sagten sie, „du kannst es doch noch nicht so richtig.“ (Bethge/Bonnin: 32)(まあ、それで彼は
そいつから自転車を借りて、走り出したんだ……その自転車で。最初のカーブはうまく
やったんだが、二つ目のカーブは……溝に落っこちた。戻って来たんで、みんなは「や
っぱりまだあんまりちゃんとは乗れないようだな」と言った)
従って、前章の最後で述べたように、北ドイツでも過去形の体系は不安定になっていたが、
しかし、それに代わるほどには北ドイツでは現在完了形はまだ過去時制化していないのか
もしれない。
- 265 -
注
1)
現在完了形の用例数は、過去分詞の数に基づく。従って、er hat gegessen und getrunken
のような例では 2 となる。
2)
これは話し言葉のコーパスであり、文学作品中の会話文ではない。
3)
この節の内容は基本的に Shimazaki (1996) で述べたことを修正したものである。
4)
基準時を二つ認める考えの端緒は、Ballweg (1986) に見られる。ただし、Ballweg は基
準時 (Referenzzeit) の代わりに、観察時 (Betrachtzeit) を導入している。観察時は基準時と
同様、そこから表される事態を見る時点であるが、基準時があらかじめ時制に備わってい
るのに対し、観察時は時間副詞類によって規定されるという違いがある(Bäuerle 1979 を
参照)。
5)
「語りの時制」としての現在形は、過去を表す時制ということができる。他に過去を
表す現在形には、歴史的事実を事典的に列挙する目録的現在形 (Präsens tabulare, Vater
1994: 65) や新聞の見出しに用いられる現在形があるが、これについては嶋﨑 (2002 b) を
参照。
6)
なお、読者が現前で場面を見るかのような効果を持つ文学的技法としてのいわゆる
「歴史的現在」においては、基準時は確かに過去に置かれるが、おそらく発話時もその同
じ過去にあるかのように感じられるという点で、単なる「語る」時制としての現在形とは
区別される。この発話時の過去への移行は勿論虚構であるが、しかしだからこそ「文学的
技法」なのである。
7)
「論評の時制」という訳語は湯淺 (1998: 28) の「論評する時制」を参考にした。
8)
現在形は Weinrich によれば「論評の時制」であるが、単純にそう決めることはできな
い。現在形は基準時が発話時と一致するという意味では「論評の時制」である。しかし、
過去形と同様、事態時とも一致する。勿論、事態時と一致するだけでは「語りの時制」に
はならない。これが「語りの時制」として機能するためには、それが表す事態よりも過去
の事態と関連づけられねばならない。従って、単独で用いられる現在形は「論評の時制」
であるが、それが表す事態よりも過去の事態と関連づけられるときに、現在形は「語りの
時制」になると考えられる。
- 266 -
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