シーボルトの朝鮮研究 一一朝鮮語関係の資料と著作に注目して

I部
シーボルトの描く「日本」像一一歴史と文化一一
シーボルトの朝鮮研究
一一朝鮮語関係の資料と著作に注目して
オースタカンプ・スヱン
はじめに
本稿ではシーボルトの蒐集にかかる朝鮮語関係の資料とそれをもとにした著作に注目し
て考察を加えたいと思う。『倭語類解Jと「類合』の原本がそれぞれ2010年・ 2012年に発
見できたのみならず、ヨーロッパ各地に散在している関係資料の調査も徐々にではあるが
進んでいるため、朝鮮語研究の子細が従来より明らかになりつつあると言えようが、本稿
の目的は、その一端を紹介することにある。
まず、
r
B
i
b
l
i
o
t
h
e
c
aJ
a
p
o
n
i
c
a(日本文庫 )
j に実際に所収されている、あるいは所収予定の
あったものに関して原資料の由来と行方について述べることとする。最後に、『日本』所
載の「語葉集」における朝鮮語の出典を明らかにして、その結果をシーボルト自身の発言
と比較してみる。
r
1
. 千字文』
シーボルトが郭成章の協力を得て『千字文Jを石版印刷し、 1833年に「日本文庫 Jの第
三巻として出版したことは周知の通りであるが、本稿ではまずそのもととなった原物、す
なわち幸いにも今日に至るまでライデンの国立民族学博物館で所蔵されている『千字文J
の刊本(整理番号:1
4
3
3
4
) について考えてみたい。その存在は後述の『類合Jや「倭語
類解』と違って以前から知られていたが、その正体が明らかにされているとは必ずしも言
えない。
1833年版の標題紙に i
i
np
e
n
i
n
s
u
l
aK
o
o
r
a
iimpressum(朝鮮半島で印刷された )
J とある
ように、シーボルトによって朝鮮本かの如く扱われており l、またホフマン (
1
8
4
0:2
) も
同様に i
d
a
sg
e
d
r
u
c
k
t
eO
r
i
g
i
n
a
l[
t
r
a
g
t
]unverkennbareSpurenk
o
r
a
i
s
c
h
e
nUrsprungs (印刷
された原文がまごうかたなく朝鮮起源の痕跡を残している 2
)
J と述べている。それのみ
か、クラブロート宛の書翰に見られるシーボルト自身の言葉を信ずるならば、朝鮮人漂流
民からもらったとのことで 3、しからば朝鮮本であるはずだとはいうまでもないことであ
る。が、原物を見れば明らかなように、実際には朝鮮本ではなく、朝鮮本をもとにした和
刻本であることがわかる。
朝鮮本の和刻本といえば、漢文のものなら珍しくないが、朝鮮本にして一部はハングル
までも含むものが和刻本になったのは極めて稀なことであったようである。『束墜賓鑑」
(但しハングルのあるのは湯液篇のみ)がその好例となろうが、『千字文Jの場合にも少な
シーボ川の朝鮮研究一朝鮮語関係の資料と著作に注目して
I 41
くとも二種類ある。どちらの場合にも、和刻本のもととなったのは、韓護(1 543~ 1
6
0
5
年、号は石峯)が書いたいわゆる『石峯千字文Jである。わずかにしか伝わっていない稀
観本であるせいか、シーボルトの関係で取り上げられることが皆無のようである。
その第一種とは、前間(19
3
7:8
8
9
0
) などによって夙に紹介されたもので、江戸で覆
7
5
) の肢を有する。シーボルトが手
刻されるまでの経緯が述べられている延宝三年(16
に入れたものの正体はまさしくこれである。内題は「千字文」とあるのみで、版心にも
「千」としか書いてないが、ライデン本の題築によれば『武州千文字』との別称もあった
らしい。ただし、目録類(シーボルト・ホフマン 1
8
4
5:2
0,3
3
0番;セリユリエ 1
8
9
6:2
9,
9
8番)ではいずれも『千字文大本Jとなっており、一定しない 40
第二種は、見返しに「朝鮮園韓護書/朝鮮千字文/書林
書林/)11貢慶町心粛橋角
河内屋茂兵衛/四軒町
赤松閑蔵版」、刊記に「大阪
千草屋新右衛門求板」とある陰刻のもの
である。刊年は明記されていないが、赤松閣の主人であった平瀬徹斎(通称は千草屋新右
衛門)が活躍していた 1
8世紀中頃のものとみられる 5。イギリス人宣教師メドハーストが、
1
8
3
5年刊)とてバタヴイ
のちシーボルトの所蔵となった『倭語類解Jを『朝鮮偉園字葉j (
アで石版印刷する際、その附録としたものもこれである。
さて、シーボルト・ホフマン自身も後になって認めているようにヘ和刻本である原物
にも既に無数の誤りが存在するが、原物と 1
8
3
3年刊の翻刻本とを対照すれば、やはり後者
に見られる誤りのほとんどすべてが前者の誤りを引き継いだものであるのに対して、新た
に生じた誤りは僅かにしかないことがわかる。そういう誤りの中で特に目立つのは、ハン
グル音節の脱落であるが、シーボルト旧蔵の和刻本と実際の朝鮮本を比べてみれば 7、前
者には(音節数でいうと)朝鮮語の三分のーもその姿を消しており、翻刻本でもまた同様
であることカまわかる。
前述のごとく、朝鮮人漂流民からもらったはずのない和刻本であることが確実であるが、
最近になってブランデンシュタイン家所蔵文書の中から、やはりそうでないことを証明す
る手稿が見つかった。それは『日本文庫 Jの第 3巻・第 4巻をラテン語で解説したもので、
シーボルト (
1
8
4
1:6
8
) や『日本j (刊:1
0
11)の文章と重複するところが多い 80 この手
稿では、『千字文』の由来を述べるところで、朝鮮人漂流民への言及は一切なく、通詞の名村
三次郎からもらったと明記している。ただし、名村は朝鮮から手に入れたものとも述べら
れており、これもまた真実として認めがたいところである。ともあれ、シーボルト自身はそ
う信じていた可能性は十分あるであろう。
2
.r
類合』
続いて 1
8
3
8年に『日本文庫Jの第 4巻として出版され、また翌年刊の第 7 ・8分冊とい
う形で『日本』にも所収された『類合』である。その原本の由来についてはシーボルトは
次のように述べている。
“
D
a
so
b
e
ng
e
g
e
b
e
n
eW
o
r
t
e
r
v
e
r
z
e
i
c
h
n
i
s
sw
a
rb
e
r
e
i
t
szumD
r
u
c
k
eb
e
f
o
r
d
e
r
t,a
l
su
n
sd
a
s
i
n
eb
e
iw
e
i
t
e
nv
o
l
l
s
t
a
n
d
i
g
e
r
eSammlungk
o
r
a
i
s
c
h
e
rW
o
r
t
e
rd
u
r
c
h
g
e
g
e
n
w
a
r
t
i
g
eLuiho,e
42
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
I
F
r
e
i
h
e
r
r
nvonS
C
H
I
L
L
I
N
G
C
A
N
S
T
A
D
Tm
i
t
g
e
t
h
e
i
l
tw
u
r
d
e
.D
i
e
s
e
rv
e
r
d
i
e
n
s
t
v
o
l
l
eG
e
l
e
h
r
t
e
h
a
t
t
ed
a
sBuchvons
e
i
n
e
rR
e
i
s
e,
welchee
ra
u
fB
e
f
e
h
ld
e
rK
a
i
s
e
r
l
i
c
hR
u
s
s
i
s
c
h
e
nR
e
g
i
r
u
n
g
i
t
g
e
b
r
a
c
h
t
.Erv
e
r
d
a
n
k
t
ee
sdemP
a
t
e
rHYACINTH,
i
n1832nachK
i
a
c
h
t
aunternahm,m
A
r
c
h
i
m
a
n
d
r
i
td
e
rM
i
s
s
i
o
nz
uP
e
k
i
n
g,
d
e
re
sd
a
s
e
l
b
s
tvonk
o
r
a
i
s
c
h
e
nGesandtene
r
h
a
l
t
e
n
N
i
p
p
o
nV
I
I
:6
1
)
h
a
t
t
e
.
"(
「本語葉集よりはるかに多くの朝鮮語を集録した現在の『類合Jがシリング=カン
シュタット男爵の手でわれわれに伝えられたのは、本語葉集がすでに印刷に回された
あとであった。すぐれた業績を残したこの学者は、ロシア帝国政府の命令で一八三二
年にキアフタヘ旅行したさいに、一冊の書物を持ち帰った。これは、北京宣教師会の
管区長ハシント神父が北京の朝鮮使節からもらったものをさらに男爵が譲り受けたの
9
7
8:9
8
)
である。 J(尾崎 1
かくて、『類合Jの由来に関しては『千字文Jよりも遥かに詳しく知られているわけで
あるが、原物は『千字文』と違ってライデンに伝わっておらず、長らく行方不明となって
012年にオーストリア国立図書館の所蔵となっている朝鮮語関係資
いた。幸いなことに、 2
料を調査する際、思いがけず発見できたので、ここで紹介しておく。
実際には、エントリヒャーの目録(18
37:1
3
6
) にも 1
4
4番として既に出ているものでは
あるが、 I
K
o
r
e
a
n
i
s
c
h
e
sV
o
c
a
b
u
l
a
r
.1H
e
f
ti
n8
0
•
(朝鮮語葉集、一冊、八つ折本 )
J とあるの
みで、同じくその日録に出ているシーボルト旧蔵の和本などと違って題名は示されていな
い。その理由は必ずしも明らかではないが、次の事実が関係しているように思われる。す
莫籍などの場合には、漢語の研究にも努めていたエントリヒャーの自力でも目録
なわち、 j
の作成が可能であったかも知れないが、手日本に関する記述はシーボルトの書目をほぼその
まま書き写したものに過ぎないのである。そして、オーストリア国立図書館のアーカイブ
とプランデンシュタイン家所蔵文書にそれぞれ伝わっているその書目を見てみると、 1
4
3
番や 1
4
5番に当たるものはあるが 1
4
4番にあたるものがない、という点に気づく
90
つまり、
シーボルト旧蔵の和本と違って記述の拠り所がまったくなくて、そのため題名も挙げずに
「朝鮮語葉集」というごく簡単な記述に留めざるを得なかったと考えてよかろう。
それはともかく、確かなのは、シーボルトのものと共にもともと和書コレクションに入っ
ており、 ]
a
p
.1
1
9という整理番号が付いていたのに、 20世紀のいつか、和本でないためか、
和書コレクションから除外されて、どこの特定のコレクションにも入っておらず整理番号さ
えないまま書庫に眠っていたことである。ちなみに、最近になってようやく S
i
n7
Cという
新しい整理番号を与えられ、今回は漢籍コレクションに入ってしまっている。
巻首にやはりシリング・フォン・カンシュタットの自署があるが、シーボルトの書目に
出ていないところを合わせて考えてみると、国立図書館に入るまでは依然として男爵の所
蔵にあり、結局シーボルトが所蔵者であった時期がなく男爵から借りていたに過ぎないか
i
n7
Cが 1
8
3
8年の石版本の原本であることは次のような対応例
と思われる。とは言え、 S
を考慮に入れれば、疑う余地もないであろう。ともに『類合』で版木の摩耗などによって
ハングルの一部が脱落したのを反映しているものである。
シーボルトの朝鮮研究一朝鮮語関係の資料と著作に注目して
I
4
3
石版本
彼ヰ
4佼 母 │ 日
(十四ウ)
ぜ
言
方
向 IBJ-~tJ
訪す
(十七ウ)
斗騒著円
駆干
(一九オ)
│正→誤
〉
警
r
3. 倭語類解J
韓日対訳辞書たる『倭語類解』は、『日本』が出版されはじめる以前にも、シーボルト
が1
8
2
3年 に 来 日 し て 間 も な く そ の 草 稿 が 出 来 上 が っ た i
E
i
n
i
g
eW
o
r
t
eu
b
e
rd
e
nU
r
s
p
r
u
n
g
J という論文で既に参考図書として挙げられてい
d
e
r]
a
p
a
n
e
s
e
n (日本人の起源について )
る。また、ボーフム大学で所蔵されている手稿(整理番号:1
.1
4
5
.
0
0
1
) によれば、『倭語
類解Jは「日本で二本しか存在しない」というが、本文より後に加筆されたところに「私
は一本を手に入れる見込みである」ともある
(
5オ)。しかし、実際に手に入れたのはそ
れよりかなり後のことで、プランデンシュタイン家所蔵文書によれば、数多くの和書とと
もにビュルガーから購入して 1
8
3
8年に受け取ったものの一つであった 100 従来『倭語類解J
の伝本として知られていたのは駒沢大学濯足文庫蔵本と韓国の国立中央図書館蔵本の合わ
せて二本のみで相当の稀観本であるが、そのような稀観本をどこからいかにして手に入れ
たのであろうかという疑問が当然出てくる。幸いにここでも『千字文』の関連で既に言及
した手稿がまた貴重な情報を提供してくれる。これによれば、もと長崎の通詞仲間の所蔵
であったという
1
1
0
次の引用からわかるように、「日本文庫』にその覆刻本を入れる予定はあったようだが、
1
8
3
5年末にバタヴイアに帰って行った郭成章の力無しでは不可能であった 120
“
Maximed
o
l
e
m
u
s,p
r
a
e
c
i
p
u
u
ml
i
b
r
u
mC
o
r
a
i
a
n
u
m,c
u
iS
i
n
e
n
s
i
st
i
t
u
l
u
s片防'
e
ijul
u
ik
i
αi
"
s
c
r
i
p
t
u
se
s
t,s
e
r
oan
o
b
i
se
s
s
ec
o
g
n
i
t
u
m,q
u
ar
ei
m
p
e
d
i
t
is
u
m
u
s,q
u
o
m
i
n
u
sh
u
j
u
sq
u
o
q
u
e
8
4
1:8
)
e
x
e
m
p
l
u
me
x
s
c
r
i
p
t
u
mi
nB
i
b
l
i
o
t
h
e
c
an
o
s
t
r
a]
a
p
o
n
i
c
at
r
a
d
e
r
e
m
u
s
.
"(シーボルト 1
「支那の表題が「倭語類解 J“
[W
e
ij
ul
u
ik
i
a
i
"
J と書かれである特別な朝鮮の書籍が
晩く我々に認識されたのを大に悲しむのであって、其が~に書見された一本をも我が
日本文庫に入れられるのを妨げられた。 J(吉町 1
9
4
1[
1
9
7
7
:1
71
]
)
さて、シーボルトの『倭語類解』の行方については、不明で「現在もどこかに保存され
ているのかどうか明らかでない J(浜田 1
9
7
7:2
0
4
) とされてきたが、 2
0
1
0年にマンチェス
ター大学附属ジョン・ライランズ図書館の漢籍コレクションに今でも現存することがわ
44
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
かった(整理番号:C
h
i
n
e
s
e4
3
5
)。
9
0
1年に購入した BibliothecaLindesiana (
則
このコレクションの基層をなしているのは 1
ちリンゼイ卿の蒐集したもの)のそれであり、後者の漢籍と同様にシーボルト旧蔵の『倭
語類解』も 1
8
9
5年 刊 の 目 録 に 記 録 さ れ て い る 130 更 に 遡 れ ば 、 大 英 図 書 館 の 和 書 コ レ ク
ションに伝わっているシーボルト旧蔵のものと共に、シーボルトが死去して間もなく、
長男アレクサンダーが売ったものに至る。 1867~ 1
8
6
8年 に 亘 る ア レ ク サ ン ダ ー と 当 時 の
大英博物館のやりとりを見れば、売りに出されていないものとして I
aCoreanD
i
c
t
i
o
n
a
r
y
whichmyf
a
t
h
e
rh
a
db
o
u
g
h
tonh
i
sf
i
r
s
tv
o
y
a
g
e
J11が目立つが、これは、大英博物館にではな
5
く、同じころ『日本Jの残部を買い占めたロンドンの古書籍商クォリッチを通して、第 2
代クローフォード伯爵、リンゼイ卿に売ったのである。
前述の『朝鮮偉圃字葉Jの主部をなしているのは『倭語類解」の翻刻および英訳である
が、『朝鮮偉圃字葉』と後者のマンチェスタ一本との比較が物語るように、メドハースト
が用いた『倭語類解』はやはり浜田
(
1
9
7
7:2
0
4
) 説通り後でシーボルトの所蔵となった
ものと同ーのものであった。
4
.r
日本』所載の「語葉集J
最後に『日本J の第 2分冊 (
1
8
3
3年刊)所載の I
W
o
r
t
e
r
v
e
r
z
e
i
c
h
n
i
s
s (語葉集 )
J とその
6
0
項からなるものであるが、ローマ字篇と原文
成立過程について考えてみたい。およそ 5
篇(漢字および仮名とハングルによる音訓)とに分けられており、前者にしかないものが
多数ある。
番号のあるもの
ローマ字篇
原文篇
4
5
3項
4
5
4項
5
5まであるが、 3
9
3 番号は 4
番号は 4
5
5まであるが、 3
9
3
番は脱落、 4
5
4番は原文篇
番は脱落。
5
3番と合一 150
の4
番号のないもの
1
1
1項
さて、ここで語葉の出典が問題となるのであるが、シーボルト自身は次にように述べて
いる。
“
Demg
r
o
s
s
t
e
nT
h
e
i
l
en
a
c
hs
i
n
dd
i
eWorterd
u
r
c
hmichundmeinej
a
p
a
n
i
s
c
h
e
nFreunde
i
t
a
u
sdemUmgangem
i
tK
o
o
r
a
i
e
r
ngesammelt,w
e
l
c
h
ed
i
e
s
e
l
b
e
ni
ni
h
r
e
rOnmunschriftm
白g
t
e
rE
r
k
l
a
r
u
n
gd
u
r
c
hd
i
es
c
h
i
n
e
s
i
s
c
h
e
nC
h
a
r
a
k
t
e
r
e,
s
c
h
r
i
e
b
e
n
.E
i
n
i
g
eW
o
r
t
e
rundv
i
e
l
e
b
e
i
g
e
d
e
rs
c
h
i
n
e
s
i
s
c
h
k
o
o
r
a
i
s
c
h
e
ns
i
n
da
u
sdeme
r
w
a
h
n
t
e
nT
si
a
nd
s
u
w
e
ngenommen;d
i
ea
u
sdem
V
o
c
a
b
u
l
a
i
r
ed
e
sHerrnK
l
a
p
r
o
t
hf
u
l
l
t
e
nd
a
b
e
ie
i
n
eg
r
o
s
s
eLuckea
u
s
.Daw
i
rs
i
ej
e
d
o
c
h,w
i
e
HerrK
l
a
p
r
o
t
hs
e
l
b
s
tbemerkt,w
e
i
li
h
r
eA
u
s
s
p
r
a
c
h
es
i
c
ha
u
fe
i
n
eAngabei
ns
c
h
i
n
e
s
i
s
c
h
e
n
C
h
a
r
a
k
t
e
r
e
ng
r
u
n
d
e
t,n
i
c
h
td
u
r
c
h
g
e
h
e
n
d
sf
u
rr
i
c
h
t
i
gm凸geng
e
l
t
e
nl
a
s
s
e
n,g
l
a
u
b
t
e
nw
i
rs
i
e
I
I
:1
4
)
d
u
r
c
hC
u
r
s
i
v
s
c
h
r
i
f
tvondenu
b
r
i
g
e
nu
n
t
e
r
s
c
h
e
i
d
e
nz
um
u
s
s
e
n
.
"(NipponV
シーボルトの朝鮮研究一朝鮮語関係の資料と著作に注目して
I
45
「単語の大部分は私と私の日本の友人が朝鮮人との面談を通じて集めたものである。
朝鮮人はこれを彼らの諺文で書き、それに中国文字による説明を添えた。しかし若干
の単語と中国語風朝鮮語の多くは前述の『千字文』から取った。そのさいクラプロー
ト氏の語葉集からもかなり多くの語を補足した。しかしわれわれは、クラプロート氏
自身が言っているように、その発音が中国文字表記にもとづいているため、完全に正
しいとするつもりはないので、それらはイタリック体によって他の表記と区別せざる
をえないと考えた。 J (尾崎 1
978:2
0
)
まず、ここで具体的な出典として挙げられている「千字文』と「クラプロート氏の語葉
集 Jの役割について調べることとする。
クラプロートは三回に亘って朝鮮語の語葉集を世に出したが 16、シーボルトが用いたの
1
8
3
2年刊)に載せてある最後のものである。イタリック体
は「三園通覧園説J の仏訳本 (
のものを数えてみると、全体として 1
15項にわたる 125語(他に今のところ不明とせざるを
15項の
得ないものも 2語)もあることになるが、総語数の約 15%にあたる。また、その 1
内、クラプロートから取ったもの以外に何も示されていないものは 1
0
3項という相当の数
に登る。換言すれば、クラブロートのものは「語葉集」の五分のー近くまでも占めている
のである。
832年の彼の語葉集では『鶏林類事J 所載の語葉と、それ以外のものとをそれ
因みに、 1
ぞれきちんと分けて提供しているわけであるが、言うまでもなく後者には「その発音が
中国文字表記にもとづいている」という発言が当てはまらない。が、シーボルトがクラプ
ロートから取ったものを調べてみると、『鶏林類事』所載のものに限られておらず、『束墜
賓 鑑J とか時にはウイットセン(17
0
5
) やブロートン (
1
8
0
4
) から取ったものも多数含ま
れていることがわかる 170
出
典
「語葉集」
クラブロート
眉毛
1
5
9
b
:nounc
h
i
p
‘
'
A
u
g
e
n
b
r
a
u
e
n
'
nounc
h
i
p
‘
S
o
u
r
c
i
l
s
'(
13
3
)
Thee
y
e
b
r
o
w
'
Noonship‘
(ブロートン 1
8
0
4:3
9
1
)
実
質
1
5
8
b
:ゅのm
‘
Wange'
spaim
'
J
o
u
e
s
'(
13
4
)
Spaem‘
d
eWangen'
(ウイットセン 1
7
0
5:5
2
)
撒
1
0
9
c
:t
s
αi
nkα
l
‘
S
c
o
r
p
i
o
n
'
t
s
α
i
:
nkα
1
‘
S
c
o
r
p
i
o
n
'(
1
2
8
)
湯i
夜篇巻之二・十五オ)
賜せ吾
a束墜賓鑑J
続いて、『千字文J由来のものであるが、これもまた相当の数に盛る。語数からすると、
全体の 33%も占めている。そして、やはり 1
8
3
3年版の誤りをそのまま引き受けたものが非
常にたくさんある。特に注目に値するのは、シーボルトが勝手に作り出したとみられる多
数の偽朝鮮語である。次のように、『千字文』の和刻本における誤りだらけの音・ ~)II をそ
のまま引き受けてしまったのみならず、もとより朝鮮語として存在しないそれらを二つ並
べて複合語となしたものがこれである。かような幽霊語が「言語研究者と旅行者のため
r
978:20= 日本 j V
I
I :1
4
) なりえず、また朝鮮語の言語資料としても何の価
にJ (尾崎 1
値もないものだとは言うを侠たない。
4
6
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
『千字文』
漢字
海堂
I
D
I
I
番号
(二ウ)
子口
(正しくは子音)
L
T
ー
o
-
母
(十五オ)
叶口
(正しくはo1ロ1)
_
2
ー
海
(二ウ)
日
ト
口
き
空三
Z弓
雲母
「語葉集」
二圭
H
L
(正しくは叫斗)
主
r
>
l
l
主
,
生
E
l
す
(生美)
善
叶口
(正しくは叶日)
λ十
(十ウ)
kuo
un-mo
(
k
u干
unl
:
T
了
+0 o
1
)
+moY)
d
s
i
p
p
a
h
a
it
a
n
g
(
d
s
i
p~
(
h
a
i司
+pa1
:
1
ト
) +tangす)
じ0
し王
L
(三ウ)
1
1
6
l
召
(十オ)
生善
70
互
日
生
I
D
I
I
n
a
l
o
1
3
5
(正しくは恒)
s
a
m
g
s
l
e
叫包│
(
n
a
lせ
(
s
+O叶)
+sieλ4)
」一
さて、クラブロートと『千字文J由来のものを除外すれば、残りはすべて「私と私の日
本の友人が朝鮮人との面談を通じて集めたもの」ということになるはずだが、いかがであ
ろうか。
夙に新村(19
2
9:3など)によって指摘されている通り、上記の両者以外に、シーボル
トの朝鮮記述にとって重大な役割を果たしている『朝鮮物語』も深く関係している。しか
し、拙稿 (
2
0
0
9
) でも些か述べたように、 2
9
8項にわたる『朝鮮物語J巻五所載の「朝鮮
の園話 J
1
8をそのまま『日本』の「語葉集 Jに転載したと見るのは妥当ではなく、どちら
かと言えば、『朝鮮物語」をその出発点としながらもいろいろと手を入れたものを用いた
としなければならない。「朝鮮の園語」にはハングル表記がいっさいなく、朝鮮語もすべ
て仮名のみで、しかも伝写の誤りなどのせいで元の朝鮮語を同定するのが不可能となって
いるものもいくつか含まれている。従って、それを「語葉集」に見られる形に書き直すた
めには朝鮮語とハングルに関する相当の知識がなければならない。そういう知識を備えた
者にして早くからシーボルトと交際していた人物と言えば、対馬の朝鮮語通詞を除いては
いい候補はまずないであろう
1
9
0
朝鮮語の日本資料によく目にする問題点がここにも同様
に現れているところを考え合わせれば、その蓋然性が一層高くなる。要するに、少なくと
も間接的には確かに「朝鮮人との面談」によるものと言えそうだが、シーボルト自身の力
だけで、は到底可能で、なかった作業なので、「私の日本の友人」の関与が示唆される。
「朝鮮物語Jがもととなったものがどれほど『日本』の語葉集に載せてあるかを計算し
てみると、『千字文』の場合と同様に 33%ということになる。量的にいえば主な出典は以
上ですべてであるが、そのどちらでも説明がつかないものがまだ残されている。今までの
調査で更なる出典として明らかになったのは次の二点である。
r
-朝鮮人に書いてもらった漢詩につけてある、ハングルによる音訓( 日本Jの第 2分
冊に所収) =1
1%
.I
日本人の起源について J(
1
8
2
4年成る)の語葉表などにおいて既に学界に知らせたも
の=4%
シーボルトの朝鮮研究一朝鮮語関係の資料と著作に注目して
I
4
7
.
r
朝鮮物語j
[
Z
H千字文J
瞳クラプロート
結局、シーボルト自身が「朝鮮人との面談を通じて集めたもの」と言えるのは僅かに漢
詩のものだけで全体的にみて 1
1%と極めて少ない、ということになる。それ以外は、直接
書籍に基づいたものか、同じく書籍に基づくものでも朝鮮語通詞などの協力を得て改編し
てもらったもののどちらかである。
今後の課題として残されているのは、ライデン、ウィーン、ボーフム、ベルリンなどに
散在する、「語葉集」の成立過程を物語る資料の詳細な調査である。今まで確認できた主
なものは次の①
⑥である。
『朝鮮物語Jの「朝鮮の園語」
ライデン本
(朝〔かな〕・日、
「朝鮮の園語」を蘭訳したもの
→
l
2
9
8項)
①ボーフム、1.2
8
6
.
0
0
0
(朝〔カナ〕・日・蘭、
2
9
5項)
B
r
.家所蔵文書、 N
r
.2
4,7
1
3
(朝〔カナ・諺文〕・日、 3
0
0項)
③
B
r
.家所蔵文書、 N
r
.2
4,1
5
2
2
(朝・日・独、 2
9
3項)
④
「朝鮮の園語」を改編したもの
B
r
.家所蔵文書、 K
3F
a
L4
9
(朝〔カナ・諺文〕・日・蘭、 3
0
3項)
②
『朝鮮貸手書全本J
→
l
⑤オーストリア国立図書館、 C
i
m
.]
a
p
.1
5(副本)
ライデン(原本、未見) (
朝
、
3
0
0項)
改編したものを大幅に増補したもの
B
r
.家所蔵文書、 K
3F
a
L5
0
(独・朝・日、約 5
7
0項)
⑥
『日本j所載の「語葉集」
(独・朝・日)
⑥ は 『 日 本J所載のものに近いのに対して、①
⑤ではまだ「朝鮮の園語」の原形をよ
く反映している、それ以前の段階のものである。①は、
I
E
i
n
i
g
eK
o
o
r
e
i
s
c
h
eW
o
r
t
e (若干の
J と題して「朝鮮の園語」をほぼ全面的に写してオランダ語の対訳を付け加え
朝鮮語葉)
た も の で あ る が20、 朝 鮮 語 は 依 然 と し て 仮 名 表 記 し か な く 、 『 日 本 』 の 語 葉 集 の よ う に ハ
ングルに書き直したものではない。最近、コンスタンティン・フォン・ブランデンシュタ
イン=ツエツペリン氏のご指摘で明らかになったように、シーボルト自身が門人論文に数
4
8
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
えていたものの一つである 210
②は、門人と言えるかどうかは不明だが、朝鮮語通詞が書いたと思しきものである。
「朝鮮の園語」の難解なものは書き直されており、また全項目に亘って朝鮮語のハングル
表記もある。最後に数字の
1-J1
二 J1
三 J(三っとも重複) 1
億 J1
兆」が追加されてい
る。更に、オランダ語の対訳も悉く書き加えられているが、別人によるものかも知れな
し) 0
③は途中で作られた②の写しと見られるが、オランダ語もまったくないのに加えて、②
では後になって消された項
(
1江 戸 J1
大 坂 J1
兄弟 J1
孫 J1
計 J1
只J1
押 」 の 合 計 7項)
も依然として残っている。④は朝鮮語の仮名表記を消してハングル表記のみを残し、更に
対訳をドイツ語に直して(ただし『日本』所載のそれと異なるものも少なくない)できた
浄書のものである。「億 J1
兆」はあるが、②で消しである 7項がすべて除外されている。
⑤も②に基づいたものであるが、見出しの漢字とそれにあたる朝鮮語の音訓のみを取って
清書したものである。②で消しであるものの一部は
(
1江 戸 J1
大 坂 J1
計J
) 除外されてい
る。また、ハングルの音節表や漂流民の漢詩なども合わせて載せてある。
⑥では結局オランダ語がドイツ語に取って代わられ、『日本』にあるものと同様に日本
語の音訓が増補され、そして朝鮮語・日本語のローマ字表記も付け加えられている。『千
字文』などによる増補がなされたのもこの段階においてであった。
註
1 他にも書翰類などに同様な発言がいくつか見出される口例えば I
I
chb
e
s
i
t
z
eu
n
t
e
ra
n
d
e
r
ne
i
n
C
h
i
n
e
s
i
s
c
hK
o
r
e
i
s
c
h
e
sW凸r
t
e
r
b
u
c
h,i
nK
o
r
e
ag
e
d
r
u
c
k
t,e
i
n
eh
e
r
r
l
i
c
h
eAusgabe!
J(
1
8
3
0年1
0月 9 日 ) や
IMehrmalsh
a
b
ei
c
hz
uN
a
g
a
s
a
k
is
c
h
i
f
f
b
r
u
c
h
i
g
eK
o
o
r
a
i
e
rkenneng
e
l
e
r
n
t,undd
i
e
s
eh
a
b
e
nm
i
ru
n
t
e
ra
n
d
e
r
n
emen1
nK
o
o
r
a
ig
e
d
r
u
c
k
t
e
l
1W
o
r
t
s
c
h
a
t
zm
i
t
g
e
t
h
e
i
l
t
.J (
18
3
2年 8月1
9日、ともにクラブロート宛、ヴァル
ラーヴェンス 2
0
0
2:9
7,9
8を参照)などがこれである。『千字文 Jと明記されているわけではないが、
その石版本を出した直後に
1
e
i
ns
c
h
i
n
e
s
i
s
c
h
e
sundK
o
o
r
a
i
s
c
h
e
sW凸r
t
e
r
b
u
c
h
J(
18
3
4年 2月 2日、ネー
ス・フォン・エーゼンベック宛の書翰、ベルリン国立図書館所蔵)といった言い方もしているため、
これらもまた「千字文 Jを指すものに他ならないであろう。
2 和訳は尾崎 (
1
9
7
8:2
4
8
) による。
0
3 脚注 1を参照。先行研究でも例えば高(19
8
9:2
4
) では 1
1叶 せ 音 畦 漂 着 民 立 豆 ヰ 叶 守 会
1司-& 0
せ吾廿叶|吾首~斗(この本は前述の漂着民からもらった贈物であるに違いない )J とされている。
4 ライデン本以外に、東洋文庫(前問恭作旧蔵本)、東京大学(黒川真頼旧蔵本か)、杢章閤(但し践
を欠く)にそれぞれ一本が所蔵されているようであるが、ともに未見。
5 メドハーストが用いたのは、その当時、 1
8
2
6年 ま で オ ラ ン ダ 商 館 長 を 務 め た デ ・ ス テ ュ ル レ ル の 蔵
a
p
o
n
a
i
s3
6
9
) となったものである。これ
書 で あ り 、 後 に フ ラ ン ス の 国 立 図 書 館 の 所 蔵 ( 整 理 番 号 :]
以外に、関西大学(内藤文庫)や東京都立図書館(安藤正次旧蔵本)にもそれぞれ一本があるよう
である。
6 シーボルト (
1
8
4
1:7
) やシーボルト・ホフマン (
1
8
4
5:2
0,3
3
0番)などを参照。
7 本稿で用いたのは杢章閉所蔵のもの(整理番号:杢9
8
0
1
) である。
8 プランデンシュタイン家所蔵文書の B-3F
a
C2
7(
4
4オ
)
、 B
-3F
a
C2
8(
5
5オ)を参照。
9 前者は未見であるが、
トート (
2
0
1
1:1
3
) によると、エントリヒャ一目録の1
3
5、 1
4
1、 1
4
2、 1
4
4、
1
5
4番にあたるものはないという。プランデンシュタイン家所蔵文書に伝わっている目録 (
B
4Fa-K
2
6
6
) も同様である。
シーボルトの朝鮮研究一朝鮮語関係の資料と著作に注目して
I
49
1
0 ビュルガーコレクションの目録 (
K
3Fa-H:8
2
1
) の7
1番を参照。
1
1 プランデンシュタイン家所蔵文書の B-3Fa-C27(
4
7ウ
)
、 B・3F
a
C28(57 ウ ~58 オ)を参照。
1
2 帰国との関係についてはプランデンシュタイン家所蔵文書の B-3F
a
C27(
4
7ウ
)
、 B-3F
a
C28(
5
7ウ)
をも参照。また、帰国の時期に関しては、シーボルト(18
4
1:4
) によれば 1
8
3
6年のことというが、
8
3
5年 1
1月25日付けのホフマンの書翰(プランデンシュタイン家
ここでは、「今月出帆した」とある 1
5
9
) に従って 1
8
3
5年 1
1月とする。
所蔵文書、 B-4Fa-K2
1
3 エドモンド (
1
8
9
5:6
5
) の435番を参照。現在の整理番号はこれをそのまま受け継ぐ。
1
4 フリーゼ (
1
9
8
3:9
7
) より再引用。ただし、ビュルガー由来のものであるにも拘らずアレクサンダー
"
"
0
のように「第一次滞日中に購入した」とするのはもとより正しくな ¥
1
5 他に 1
6
9番を 1
7
9番に誤り、 1
7
4番を間違って 1
6
3番の次に入れている口
1
6 オースタカンプ (
2
0
0
9:1
8
9
) を参照。
1
7 因みに、クラプロートがサンクトペテルブルク滞在中参考にしていた『束墜賓鑑Jもまた朝鮮本で
はなく、中国の覆刻本であったことがほぼ確かである。前述のように和刻本もあるのだが、日本・
中国の覆刻本ともにハングルに誤りが多くて、朝鮮語の資料としては問題がある。
1
8 叶 (
2
0
0
5
)などによって明らかにされているように、『朝鮮物語』の朝鮮語葉集は、『異圃旅硯J
所載の「縫
革由民事服手三園通用詞の事」と附漢三才園曾J
巻第十三t
斥載の「車服雑菌剖とを合わせたものに他ならない。つまり、内
容的には、シーボルトの時代でも既に百年以上前のものとなっていたのである。
1
9 インフォーマントとしての朝鮮語通詞については、早くも「日本人の起源について J(表の凡例など)
) に言及がみられる(オースタカンプ 2009:1
9
2を参照)。
や『日本j (四:7,9
20 ただし、ここでは『朝鮮物語J の「旦(あした )
Ji
明(あくる )
Ji
塩(しほ)J の 3項にあたるもの
項となっている。また、読みやすさを目指してか、もとの平仮名を片仮名に書
がないため、合計295
2
0
0
9
) をも参照。
き直してそして順番も自由に変えている。オースタカンプ (
2
1 プランデンシュタイン家所蔵文書に伝わっている門人論文の目録 i
L
i
t
e
r
a
r
i
s
c
h
eB
e
y
t
r
a
g
emeiner
J
a
p
a
n
i
s
c
h
e
nFreundeJ (
K
5Fa-E9
3
) を参照。「若干の朝鮮語葉」の表紙に i
no3
6
J と番号がついて
いるが、やはり目録にある通りである。
参考文献
ヴァルラーヴェンス=W
alravens,Hartmut (
2
0
0
2
)
:J
u
l
i
u
sK
l
a
p
r
o
t
h臼783-1835
人B
r
i
e
f
w
e
c
h
s
e
lm
i
tG
e
l
e
h
r
t
e
n
,
g
r
o
s
e
n
t
e
i
l
sa
u
sdemA初 d
e
m
i
e
a
r
c
h
i
vi
nS
t
.P
e
t
e
r
s
b
u
r
g
.Wiesbaden:Harrassowitz.
ウイットセン=W
itsen,N
i
c
o
l
a
e
s(
1
7
0
5
)
:N
o
o
r
de
nO
o
s
tT
a
r
t
a
りe
,o
j
t
eb
o
n
d
i
go
n
t
腕 r
pV
a
ne
e
n留e
'd
i
e
rl
a
n
d
e
ne
n
v
o
l
k
e
n
,日
告l
k
ev
o
o
r
m
a
e
l
sb
e
k
e
n
tz
i
j
ng
e
w
e
e
s
t
.T
w
e
e
d
eD
r
u
k
.Amsterdam:FrancoisHalma.
エ ド モ ン ド =Edmond,JohnP
h
i
l
l
i
p(
18
9
5
)
:B
i
b
l
i
o
t
h
e
c
aL
i
n
d
e
s
i
a
n
a
.C
a
t
a
l
o
g
u
eo
fC
h
i
n
e
s
eb
o
o
k
sand
m
a
n
u
s
c
r
砂t
s
.P
r
i
v
a
t
e
l
yp
r
i
n
t
e
d
.
エ ン ト リ ヒ ャ ー =E
n
d
l
i
c
h
e
r
,
S
t
e
p
h
a
n(
1
8
3
7
)
:陪r
z
e
i
c
h
n
i
s
sd
e
rc
h
i
n
e
s
i
s
c
h
e
nundj
a
p
a
n
i
s
c
h
e
nMunzend
e
sk
.k
.M
u
n
z
-
αb
i
n
e
t
e
si
nW
i
e
n
.N
e
b
s
te
i
n
e
rU
b
e
r
s
i
c
h
td
e
rc
h
i
n
e
s
i
s
c
h
e
nundj
a
p
a
n
i
s
c
h
e
nB
u
c
h
e
rd
e
rk
.k
.
undA
n
t
i
k
e
n
C
Hゆ i
b
l
i
o
t
h
e
k
.Wien:BeckscheUniversitats-Buchhandlung.
オ ー ス タ カ ン プ =Osterkamp,Sven (
2
0
0
9
)
:“S
e
l
e
c
t
e
dm
a
t
e
r
i
a
l
sonKoreanfromt
h
eS
i
e
b
o
l
dArchivei
n
fKoreanぺI
n
:B
ochumer
Bochum-PrecededbySomeGeneralRemarksRegardingS
i
e
b
o
l
d包Studyo
J
a
h
r
b
u
c
hz
u
rO
s
t
a
s
i
e
n
f
o
r
s
c
h
u
n
g3
3
:1
8
7
2
1
6
.
r
尾崎賢治(訳) (
19
7
8
) 日本j 第五巻.東京:雄松堂書庖.
ク ラ ブ ロ ー ト =K
l
a
p
r
o
t
h,
J
u
l
i
u
s(
1
8
3
2
) :三園通覧園説 S
a
nk
o
k
ft
s
o
ur
a
nt
os
e
t
s
,o
ua
p
e
r
c
ug
e
n
e
r
a
ld
e
st
r
o
i
s
a
r
i
s
:O
r
i
e
n
t
a
lT
r
a
n
s
l
a
t
i
o
nF
u
n
d
.
r
o
y
a
u
m
e
s
.P
r
高永根 (
1
9
8
9
) i スl 号~ (
F
r
.vonS
i
e
b
o
l
d
) 斗 韓 園 記 録 研 究 J 東洋皐j19:1
6
4
.
シ ー ボ ル ト =S
i
e
b
o
l
d,P
h
i
l
i
p
pFranzvon (
18
4
1
)
:I
s
a
g
o
g
ei
nB
i
b
l
i
o
t
h
e
c
ωnJ
a
p
o
n
i
c
a
me
ts
t
u
d
i
u
ml
i
t
e
r
a
r
u
m
j
a
p
o
n
i
c
a
r
u
m
.Lugduni-Batavorum:apudauctorem.
50
I
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
一一一;Hoffmann,
JohannJoseph(
18
4
5
)
:C
a
t
a
l
o
g
u
sl
i
b
r
o
r
u
me
tmωz
u
s
c
r
i
p
t
o
r
u
mJ
a
p
o
n
i
c
o
r
u
maP
h
.F.
rd
eS
i
e
b
o
l
d
c
o
l
l
e
c
t
o
r
u
m
,αn
n
e
x
ae
n
u
m
e
r
a
t
i
o
n
ei
l
l
o
r
u
m
,q
u
ii
nMuseoR
e
g
i
oHaganos
e
r
v
a
n
t
u
.
rLugduni-Batavorum:apud
a
u
c
t
o
r
e
m
.
r
新村出 (
1
9
2
9
)I
和蘭ライデン大皐訪書誌 J 書物種讃j9:1
4,7
.
セ リ ュ リ エ =S
e
r
r
u
r
i
e
r
,
L
i
n
d
o
r(
1
8
9
6
)
:B
i
b
l
i
o
t
h
勾u
ej
a
p
o
n
a
i
s
e
.Leiden:E
.J
.B
r
i
ll
.
トート=Toth,VeronikaV
. (2011):A
u
s
g
e
w
a
h
l
t
eJ
a
p
o
n
i
c
ai
nd
e
rO
s
t
e
r
r
e
i
c
h
i
s
c
h
e
nN
a
t
i
o
n
a
l
b
i
b
l
i
o
t
h
e
k
.
S
e
m
i
n
a
r
a
r
b
e
i
t,
U
n
i
v
e
r
s
i
t
a
tW
i
e
n
.
r
r
叶 Ac
J
ス
ト (2005) I朝鮮物語J斗「朝鮮の園語」叶1
rR司叶 J 日語日文皐研究j54:1
5
9
1
7
8
.
浜田敦 (
1
9
7
7
)I
近隣諸国に関する情報:朝鮮」岩生成一他編「シーボルト「日本」の研究と解説J東京:
講談社, 1
9
8
2
0
7
.
フリーゼ=F
r
i
e
s
e,E
b
e
r
h
a
r
d(
1
9
8
3
)
:P
h
i
l
i
p
pF
r
a
n
zv
o
nS
i
e
b
o
l
da
l
sf
r
u
h
e
rE
x
p
o
n
e
n
td
e
rO
s
t
a
s
i
e
n
w
i
s
s
e
n
s
c
h
a
f
t
e
n
.
Bochum:S
t
u
d
i
e
n
v
e
r
l
a
gB
r
o
c
k
m
e
y
e
r
.
ブロートン=Broughton,W
i
l
l
i
a
mR
o
b
e
r
t(
1
8
0
4
)
:Av
o
y
a
g
eo
fd
i
s
c
o
v
e
r
yt
ot
h
eN
o
r
t
hR前例cO
c
e
a
n
.London:T
.
C
a
d
e
l
l&
w
.Davies.
ホ フ マ ン =Hoffmann,JohannJoseph (
1
8
4
0
)
:Dω 千字文 T
s
i
a
nd
s
uweno
d
e
rBuchv
o
nt
a
u
s
e
n
dW
o
r
t
e
r
n,
αu
sdemS
c
h
i
n
e
s
i
s
c
h
e
n,m
i
tB
e
r
u
c
k
s
i
c
h
t
i
g
u
n
gd
e
rk
o
r
a
i
s
c
h
e
nundj
a
p
a
n
i
s
c
h
e
nU
b
e
r
s
e
t
z
u
n
g
,i
n
sD
e
u
t
s
c
h
e
α
r
g
e
n
.Leiden.
u
b
e
r
t
r
,
r
前間恭作(19
3
7
) 朝鮮の板本J福岡:松浦書庖.
r
r
施福多「日本文庫及日本文皐研究提要 J(
前)
J 文皐研究j30. [吉町義雄(1977) 北
吉町義雄 (
1
9
4
1
)I
j
火和語考』東京:笠間書院, 1
5
5
1
8
2に再収録〕
(すゑん
おーすたかんぷ・ボーフム・ルール大学)
シーボルトの朝鮮研究一朝鮮語関係の資料と著作に注目して
I
5
1