2012年度版 - 福岡大学人文学部

文化学科ジャーナル
Journal of Department of Culture No.11 2012
目
次
巻頭言
映画「風と共に去りぬ」雑感
小林淳一
(1)
新任教授、行きま~す!
哲学と岡崎京子を同じ気分で、同じ喜びを持ちながら
小笠原史樹 (3)
卒論を語る
卒業論文のすっぱい思い出
髙下保幸
(7)
卒論はいい思い出
柏田康史
(11)
卒論って何だろう?
特集
宮野真生子 (13)
体験記!
教育実習体験記録
田原七海
(17)
オープンキャンパス体験記
嶺 早織 (20)
福岡大学図書館について
水流 梓
(24)
卒業生だより
京都大学大学院非不合格体験記
卒業論文・修士論文一覧
石橋 優也 (27)
(31)
報告
平成 23~24 年度 活動報告
(33)
平成 22 年度 LC フォーラム決算報告書
(40)
平成 23 年度 LC フォーラム予算
(41)
巻頭言
映画「風と共に去りぬ」雑感
文化学科フォーラム 会長 小林淳一
教員と学生の親睦団体として発足した文化学科(LC)フォーラムは、今年度も 6 月に「新
入生歓迎会」を催したのを始め、11 月には大分県九重町にあるわが国最大の地熱発電所な
どをまわる「バスハイク」
、1 月には「卒業論文発表会」
、3 月には「卒業記念パーティ」な
どの開催を予定しております。これらの行事に対し、学生諸君の積極的な参加を期待して
います。
さて今年の夏休みは、短期間の海外旅行をした以外は、とくに何をするわけでもなく、
しいていえば小説やエッセイを中心とした雑多な本を読んで、過ごしました。その本の中
から得た情報をひとつ、提供します。1939 年(昭和 14 年)にアメリカで公開されたハリ
ウッド映画「風と共に去りぬ」は、わが国では 1952 年(昭和 27 年)に初公開された、と
いうことになっています。わたしは、中学生のとき(1960 年代)にその映画を 70mm の大
画面でみて、波乱万丈のストーリーや画面のあまりのきれいさに、度肝をぬかれた記憶が
あります。そのときたしか、第1部が終わって第2部が始まるまでのあいだ、スクリーン
に intermission という表示がでており、映画が終わってから英語の辞書でその単語の意味
を調べた記憶もあります。
しかし、わたしの好みの作家である小林信彦氏の一連の著作によると、じつは「風と共
に去りぬ」は、先のアメリカとの戦争中、東京大学構内においてすでに極秘に上映されて
いたとのことです。また同氏によれば、
「風と共に去りぬ」は先の戦争中、日本により占領
され「昭南島」と改名されていたシンガポールにおいて、堂々と公開されていたとのこと
です。おそらく、当時シンガポールで任務にあたっていた軍隊関係者や報道記者、また徴
用されていた文化人など、多くの日本人が「風と共に去りぬ」を見たのでしょう。心ある
人ならば、あんな素晴しい映画を製作するだけの国力をもったアメリカと戦争をしても、
絶対に勝てないことを悟ったに違いありません。
こういうことを考えていたら、もう 20 年近くも前、シンガポールに留学中のある日、街
-1-
中で Gone With the Window の宣伝用の大看板をみて、中学生のときの感動がよみが
えったことを想いだしました。なつかしい想い出です。
-2-
新任教授、行きまーす!
哲学と岡崎京子を同じ気分で、同じ喜びを持ちながら
文化学科 小笠原史樹
夏休みに、天神で「ヘルタースケルター」という映画を観ました。沢尻エリカ主演、蜷
川実花監督ということで幾らか話題になったようですが、私がこの映画に興味を持ったの
は、映画の原作が岡崎京子のマンガだったからです。とりあえずの感想としては、可もな
く不可もなく。やはり原作とは別物で、かつ演劇的な大仰さは好き嫌いが分かれるところ
ながら、相応に楽しめる映画です。
岡崎京子は 1963 年、東京都生まれのマンガ家。1996 年に交通事故に遭って休筆するま
で、数多くの作品を生み出しました。映画化された『ヘルタースケルター』は『FEEL
YOUNG』という雑誌に 1995 年から 1996 年まで連載されたもので、いわゆる「後期」を
代表する作品です。当然、題名はビートルズの名曲“Helter Skelter”から。
物語の主人公は、全身整形を繰り返すモデルのりりこ。彼女は自分の刹那的な人気に執
着し、人々から忘れ去られるのを強迫的に恐れる人物として描かれています。「忘れられ
るって/死んでるのと同じよね/本当に死ぬのもこわいけど/忘れられるのもおそろしい
……」。この主人公のライバルとして登場するのが吉川こずえで、映画では水原希子。マ
ンガの中では、こずえが主人公と対照的に「いつかみんなあたしのこと忘れちゃってもい
いです(…)むしろそのことのほうがたのしみです」と語る場面が印象的です。残念なが
ら、映画でこの場面は再現されていませんでしたが、主人公とこずえのコントラストは強
調されていました。
私が岡崎京子の作品を初めて読んだのは、学部生の頃――窓から佐渡島の見える研究室
に出入りしつつ、キリスト教の思想や西洋哲学について少しずつ学び始めていた頃のこと
です。当時「BSマンガ夜話」というテレビ番組があり、その番組で岡崎京子『pink』が
取り上げられた回を観たのがきっかけでした。番組中、この作品を「馬鹿女の話」と形容
する岡田斗司夫と「(主人公の女性は)全然馬鹿じゃない」と反論するいしかわじゅんと
が対立していたのですが、そのような番組に影響されて『pink』を入手。作品全体に漂う
-3-
一種独特の「軽さ」や浮遊感のようなもの――例えば、義理の母親の血液で汚れたバット
を放置したまま、ワニの「死体」の横で主人公が眠る姿から感じられる、場違いな幸福感
のようなもの――が好ましく、何度も読み返したのは勿論、主に古本屋を巡って他の本も
集め始めました。
岡崎京子の諸作品の中でも『pink』以上に衝撃的だったのが、『リバーズ・エッジ』で
す。初出は『CUTiE』という女性誌で、連載期間は 1993 年から 1994 年。最初に読んだ
とき、作品に引きこまれつつも一歩引いた視点から「今自分は本当に凄いものを読んでい
る」と感じていたように記憶しています。本を読んでいるとしばしば「この本を読む前と
後では、自分の中の何かが決定的に変わってしまうのではないか」という(得てして一回
限りの)感覚に襲われることがあるものですが、『リバーズ・エッジ』を読んだことは少
なくとも私にとって、単に一冊の本を読んだというだけに留まらない、稀有な読書体験の
一つでした。
主要な登場人物は三人の高校生。河原に放置された死体を見て、同性愛者の少年は「何
か、この死体をみるとほっとするんだ」と語ります。「自分が生きてるのか死んでるのか
いつも分からないでいるけど/この死体をみると勇気が出るんだ」。しかし、死体を見る
ことで生きている実感を覚える少年と異なり、主人公の少女が抱くのは「やっぱ実感がわ
かない」という感想です。「もしかしてもうあたしはすでに死んでて/でもそれを知らず
に生きてんのかなぁと思った」
。
三人目が『ヘルタースケルター』にも登場する吉川こずえ。死体に関する彼女の感想は
次の通り。
あたしはね/“ザマアミロ”って思った(…)
世の中みんな/キレイぶって/ステキぶって/楽しぶってるけど/
ざけんじゃねえよって
ざけんじゃねえよ/いいかげんにしろ
あたしにも無いけど/あんたらにも/逃げ道ないぞ/ザマアミロって(…)
なーんてね
先の少年が死体によって生を実感するのに対し、こずえが死体によって実感するのはむ
しろ死であり、死が避けられないという事実です。少年は自分が未だ死体でないことを確
-4-
認し、こずえは自分がいずれ死体となることを確認する――死体を見ることで少年にとっ
ては生が重みを帯び、逆にこずえにとっては生が重みを失う。他方、主人公にとっては何
も変わらない、というわけです。
学部生として過ごした四年間、酷く怠慢ながら少しは哲学書も読み、世界文学の古典に
も手を出してみたりしましたが、もしベストの一冊を挙げるとすれば、迷うことなく岡崎
京子の『リバーズ・エッジ』を選びます。カント『実践理性批判』やキルケゴール『おそ
れとおののき』、旧約聖書の『ヨブ記』やドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』も捨
てがたいところながら、それらを読んだ際の高揚感に比べても、やはり『リバーズ・エッ
ジ』の読書体験は圧倒的でした。
ともすれば、哲学や文学の古典をマンガと比較すること自体が不自然に見えるかもしれ
ませんが、私個人はそれらを全て同列で扱うことに何も違和感を覚えません。逆に、哲学
書を無条件で高尚なものと考えたり、マンガを無条件で低俗なものと考えたりすることに
は違和感を覚えます。大学でY先生に習ったせいでしょうか。Y氏は授業でメタリカの曲
を流してリズム論を語り、エヴァンゲリオンを題材にして天使の言語について論じ、やが
て椎名林檎と西田幾多郎の親縁性について論文を書いたような人です。Y氏の下では「ス
コラ哲学と松本大洋や岡崎京子のマンガを、同じ気分で、同じ喜びを持ちながら」読むこ
とが奨励されていました。
私にとって哲学とは高尚なものであるよりも、とにかく面白いものです。確かにマンガ
よりも哲学書の方がやや敷居が高く感じられるでしょうが、一旦敷居を跨いでしまえば、
そのような敷居なんて初めから存在しなかったことに気づきます。一読しただけでは意味
がわからないような、極めて難解な哲学書もあるにせよ、専門用語の少ないわかりやすい
哲学書もあります。例えば、プラトン『ソクラテスの弁明』やパスカル『パンセ』(特に
前半)、ラッセル『幸福論』、等々。また、マンガだからわかりやすいとも限りません。お
そらく士郎正宗『攻殻機動隊』を諫山創『進撃の巨人』と同じスピードで読むことはかな
り難しいでしょう。要するに、様々な哲学書があって様々なマンガがある、というだけの
ことです。哲学書よりもマンガの方が哲学的な場合もあれば、マンガよりも哲学書の方が
娯楽として優れている場合もあるはずです(具体例は後で考えておきます)
。
岡崎京子のマンガが哲学的であると主張するつもりはありませんが、私には、自分が哲
学を通してアプローチしようとしている何かが、彼女の作品の中でも表現されている、と
感じられます。或いは、彼女の作品の中で表現されている何かに対して、哲学的にアプロ
-5-
ーチしようとしている、と言うべきでしょうか。仙台で院生だった頃、大学で私が使って
いた本棚には、中世ヨーロッパの論理学や神学に関する文献に挟まれて、岡崎京子の単行
本(おそらく当時入手可能だった全て)がズラリと並んでいました。それらのマンガに付
箋が多く張られているのを見つけて「まるで研究してるみたいだな」と苦笑した或る先輩
に、冗談めかして「研究してるんです」と応じたものでしたが、案外本気です。
というわけで、今でも研究室の本棚には密かに、彼女の本が並べてあります。
-6-
卒論を語る
卒業論文のすっぱい思い出
文化学科 髙下 保幸
記憶とははかないものでもあり、ときに生々しくよみがえってくるものでもある。しか
し、何せ四十数年前のことであるから、やはり断片的に、年寄りの「まだらボケ」のよう
に思い出されるものである。
世に初恋の味はハチミツレモンのように甘くてすっぱ
いと喩えられるが、私の卒業論文にまつわる思い出はす
っぱい香りと言うより臭いに包まれている。いつの日か
学生に供覧するのに役立つのではと、卒業論文のデータ
が記録された16ミリフイルムを納めた缶を机の引き出し
にしまったままににしていた。この機会に取りだしてみると、いまだにフィルムの現像後
に画像の定着のために浸す酢酸液の鼻をつく臭いがするのである。
卒業論文の題目は、関係資料が残っておらず定かではないが「視覚刺激による瞳孔反応
の心理学的研究」であったように思える。このテーマは自ら進んで選んだものではない。
4年次に進級した新学期、華やかに見えていたマスコミ関係に就職できればよしと思って
いた私に、指導教授は卒業後は大学院に進学するのが当然であるかのような期待と対応を
示した。この教授の意気に感じてという、まったく主体性もなく就職志望から大学院進学
の意向に転じたのである。その進学のためもあって早い時期から卒業論文の作成にとり組
むこととなった。しかしながら、就職を考えていた身には、研究テーマの選択について明
確な目途をもっていたわけではなかった。ミステリーやパズルなどに興味を抱いていたこ
ともあって、漠然と心理学の「思考」「問題解決」の領域の研究でもしてみようかぐらい
の問題意識のなさであった。教授はそうした迷える私の気持ちに気遣うこともなく、「こ
れをやってみたら…」と有無を言わさずに(教授の人柄のよさから強制されるという思い
はなかったが)提案されたのが「瞳孔反応」の研究テーマであった。
人間の瞳孔は、眼球の虹彩部分に囲まれた空間、いわば
穴である。光刺激の照射に対して瞬時に縮小し、その後順
-7-
応によって徐々に散大する(直径が2~8ミリの範囲の変化)という、網膜に入射する光
刺激量を調節する対光反射を基本的な機能とする。
ところが、1960年代にアメリカの心理学者E.H.Hessが、瞳孔の活動は対光反射の機能と
は別途に、その人の心的活動を反映しているという報告を出している。関心のある刺激や
快適な刺激を見るとき、また暗算などの心的活動時に瞳孔は散大し、不快な刺激を見ると
きに瞳孔は縮小するという、いわば「瞳孔は心の窓」でもあることを実験によって明らか
にしている。
教授はこの研究を追試することを始めにして、瞳孔反応といろいろな精神活動との関係
をみることを目標とし、私を含めて5人の4年生に卒業論文のグループ研究として課した
のである。私はその研究の一環として、老婆と若い女性が交互に反転して見える図、多様
なパターンの中に埋め込まれた図を観察し、視的探索する、いわば視的問題解決にとり組
んでいるときの瞳孔反応を測定することとなった。
いざ実際に研究を始めて見ると、「言うは易く行うは難し」の通りであった。実験で提
示する刺激を作成する、測定装置に被験者を配置して刺激を観察しているときの被験者の
片眼を16ミリ映画の撮影機でフレームいっぱいに撮影する(当時はこのようなアナログな
測定によっていた)、撮影済みのネガフィルムが10巻ほどになると暗室に持ち込んで現像
と定着を手作業で進める(夏の盛りや厳寒の季節にエアコンもない暗室での作業のつらい
こと)、仕上がったネガフィルムをプロジェクターでスクリーンに一コマずつ投影し、投
影像の瞳孔に定規をあてて直径をミリ単位で実測する(ときに何千コマもの実測の後には
夢にまで眼が出てくる思いであった)、最後に数値化したデータを分析する。この手順を
反復する日々であった。
こうして苦労して得たデータの分析の結果として、瞳孔
は視覚問題の提示時に拡大し、解決時に縮小する傾向がみ
られたが、明確なものではなかった。この実験結果から、
現在でも続けられている身体反応や生理反応から心理活動
を推測する生理心理学的研究の難しさ、隔靴掻痒としたも
どかしさを実感させられるものであった。そして、私の関
心を心的活動、特に感情の問題を直接に探ることに向けた
きっかけにもなったようでもある。
この1年近くに及ぶ灰色の壁の実験室や闇の暗室での卒
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業論文研究ととり組む無彩色の日々にも、一度だけ彩りの日があった。予てから好ましく
思うが、その思いを告げられぬ同級の女性がいた。女性はこの瞳孔反応の卒論研究グルー
プの5人の一人である。女性であることから、私が実験の進行はもちろん、撮影のフィル
ムの現像の作業まで指導を兼ねて手伝うこととなった。厳寒の暗室の闇のなかで公然と二
人きりになったのである。いつもは感じていた部屋の寒さ、現像液の冷たさはどこへやら、
私の心は温かい気持ちでいっぱいであった。ときどき女性の衣服に手が触れたときのドキ
ドキした感じ。暗闇のなかとはいえ、私の瞳孔は目一杯に広がって輝いていたに違いない。
この至福のひとときを過ごしてしばらく経ったある日のこと、他学科の親しくしている
友人の口から、その女性と付き合っていることを知らされたときの失意と嫉妬心のない交
ぜに落ち込んだものである。きっと私の瞳孔はまぶたの裏から流れ出る液体で光っていた
に違いない。
こうして、私の卒業論文との取り組みは、定着液の酢酸のすっぱい臭いと好きな女性の
意を得ることができなかったすっぱい思いで終わったのである。(その女性との後日談が
ある。卒業して40年近く経って、心理学科の同期が寄っての同窓会となった。もちろんそ
の女性も同席である。卒業後初めて顔を合わせたのであるが、年を重ねたせいか、女性に
対してもはや胸はときめかず、レモネードほどの淡泊な甘ずっぱい思いでしかなかった。)
以上が私の卒業論文作成のちょっとすっぱい体験記である。我ながら、振り返って読ん
でみると、文化学科の在学生に向けて卒業論文を書こうという意欲を駆り立てるものにな
っているとは思えない。それで、立場代わって私がこれまでに指導に当たった文化学科の
卒業論文からの引用でこの稿を終えることとする。
その卒業論文はLC89台とあるから、もう二十年前の卒業生が書いたものである。当時は
ゼミや卒業論文指導の制度が現在とは違い、ゼミは2、3、4年と同じ学生を持ち上がり
で担当し、卒業論文もゼミでゼミ担当教員が指導するものであった。卒業論文は現今同様
に選択科目であったが、私のゼミの学生はほとんどが書く方向で4年次に臨んだものであ
る。
手許の記録をみると、このLC89台のゼミ生は15名が卒業論文を書き上げている。という
ことは、一度に15名もの学生を指導したということである。また題目を並べてみると、「集
団規範への同調・逸脱」「親子関係と性格形成」「子どもの遊び」「ことわざ・迷信に対
する大学生の意識」「直観像とイメージ」「攻撃性と攻撃行動」「色彩象徴の形成過程」
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「方言のイメージ」「児童期の記憶」「テスト不安」「音楽におけるユーモア性」等々と、
心理学も多くの領域にわたっている。私の指導が可能な限りで学生の関心のあるテーマと
なるように幾度となくすり合わせをした覚えがある。数名の卒業論文の指導に汲々として
いる昨今に比べれば、
当時の4年次の1年間は指導にえらく力を尽くしていたようであり、
我ながら、あっぱれと自らに言ってやりたいものである。学生も私の期待に応えるように
卒業論文の作成に熱心でもあった。
前置きが長くなったが、そうした熱心な学生の一人、古賀瑞穂さんの卒業論文から引用
しようというのである。卒業論文の題目は「泣くことの機序について」である。当初から
関心をもっていた「泣くことによるストレス緩和効果」を明らかにする研究目標を中心に、
調査法によって、「泣くことの理由」「泣くことに関わる行動の男女差」の分析、「よく
泣く人はあまり笑わない」「外向性の人ほど泣く」などの結論を引き出す「泣きに関する
行動学」と言ってもよい力作であった。その「あとがき」にこうあった。
本当に提出の締切日に間に合うのだろうかと心配しながら、誰も来なくなった文系セン
ター 8階の共同研究室のパソコンとにらみ合っていた私。「締切りまであと2日しか
ないよ」と 先生方に冷やかし気味にせかされながらも、私はまだ楽観視していた。調
査の分析結果さえ 書き出せば終わると思っていた。ところが、後から後から、これと
これとの関係はあるのだ ろうかとか、こういう仮説は言えるのだろうかとなどといっ
た疑問が出てきて、締切りを目 前にしてすごい勉強欲だと我ながら感心していた。出
来上がりは締切日の朝6時だった。何 度も完成した論文をながめては独り悦に入って
いた。誰かに自慢したくてたまらなかった。 この満足感を味あうために卒論を書くの
だと思った。
このような達成感を得た学生に、「よかった、よかった」と声をかけたくなる思いが指
導者冥利に尽きると言える。
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卒論を語る
卒論はいい思い出
文化学科
柏田
康史
大学時代は、自由な学生生活を心底楽しみ、人生でも最も楽しい時代の一つでし
た。しかしあまり真面目な学生ではなく、授業もよくサボりました。でもその頃は
今に比べ、大学もゆったりしていて、休みもたっぷりあり、先生方は研究に専念し、
学生は自分で本をどんどん読んで勉強し、授業やゼミや試験は、お互いにその結果
を出し合うためのものだという、暗黙の了解のようなものがありました。ですから、
あまり授業に出なくても、それなりの勉強をした答案やレポートを書けば、評価し
てくれる先生が多かったし、先生も自分の研究をそのまま教室で話すといった調子
でした。そういうのが大学であり、お互いのためにもなると思いますが、今の日本
の大学は、ゆったりしたところがなくなり、なんだか高校の延長のようになってし
まい、かえってレベルを落としている気がします。
もっとも私は、そういう大学のあり方と、当時の学園紛争のどさくさを悪用し、
授業はろくに出ず、ゼミの先生に名前も覚えてもらえないという情けない学生でし
た。その代わり、友達と徹夜で議論をしたり、自分で本を読み漁るといったことは
していました。いま振り返ると、友達との真剣な議論や、特に大学時代に読んだ本
が、その後の自分の価値観の基礎となり、大学時代の最も大きな糧となっています。
卒論は、デンマークの哲学者:キルケゴールを選びました。ニーチェとともに実
存哲学の祖として、日本でも死後半世紀近くたって注目され始めた人です。生前は、
アカデミズムに反発し、ほとんど世に知られることなく、路上で死んだ孤独な思想
家で、そういう生き方や文学的な文体も好きでした。『死に至る病』『不安の概念』
『あれか、これか』
『恐れとおののき』といった、なんともユニークな題名の著書を
読みながら、『反復』を中心に論文を書きました。
先生や友人という読者も意識しながら、自分の言葉で何十枚もの論文を書くとい
- 11 -
うことは、試験もレポートも苦であった私には大変な苦労でした。しかしやがて、
キルケゴールという人の世界の大きさに圧倒されながら、次第に魅了され、そこで
思ったことを自分なりの言葉で表現することが楽しくなりました。そして卒論を書
きだして初めて、講義やゼミで教えてもらっていたことの意味も分かり、それから
熱心に聞くようにしたのですが、それまであまり出なかった授業を「もったいない
ことをした」と後悔したものです。卒論の口頭試問では、きっと怒られるだろうと
冷や汗をかいていたのですが、思いもかけず褒めていただきました。落ちこぼれ寸
前の学生への励ましもあったのでしょう、それはその後の私の支えにもなっていて
います(でも今はその論文も、あまりに青臭く、恥ずかしくて読み直す気にはなれ
ないのですが)。
文化学科は卒論を必修とはしていません。それは、卒論を軽視しているというよ
り、
(義務ではなく)学生さん自身の自主性や意欲があってこそ意味があるものとし
て、かえって大切にしているからでもあります。文化学科ほど多様なことが幅広く
勉強できる学科は他にないのですが、逆に、何を勉強したのか実感がないまま卒業
していく人も多いように思います。興味をもったテーマを選び、それについて調べ、
考え、自分なりの文章を書いていくということは、その苦労にみあう充実感も必ず
あります。その後の人生で、そのような贅沢なことができる機会も時間もあまりな
いでしょう。就職活動も忙しい時代ですが、皆さんには、
「自分の小さな本を、楽し
みながら創っていく」というつもりで、
(途中で書けなくなっても構わないので)最
後の学生生活の記念になる卒論に、挑戦してもらいたいと思います。
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卒論を語る
卒論って何だろう?
文化学科 宮野 真生子
文化学科に着任したとき、一番驚いたのが「卒業論文が必修」ではない!ということで
した。たしか、
「卒論書かなくて何するんですか、人文学部が」とかなんとか暴言を吐いた
ような気がします。ことほど左様に卒論は大切です。卒業論文を書くために大学で 4 年間
過ごすといってもよいほどです(ちょっと言い過ぎかも)
。
これは 4 年間かけて卒業論文の準備をしろと言っているわけではありません。私自身を
振り返ってみても、
学生生活の 4 年間が卒論に捧げられたかというと、
全くそうではなく、
演劇に没頭したり(劇団で芝居をやっていた大学生だったのです)、バイトに追われたと思
ったら、友人たちと徹夜でマージャンをしたり、時には一念発起して勉強をしてみるもの
の、なぜか専攻の日本哲学ではなくフランス哲学にはまったりと、かなりフラフラとして
いたと思います。自分が何をしたいのか、何に悩んでいるのか、何に興味があるのかさえ
わかりませんでした。こんな状況で卒論を書く 4 回生の春が来ました。
さて困った、どうしよう。私の場合、卒論は必修で逃げられません。一応、3 回生から
特定の研究室に所属しているので、最低限の方向性は決まっています。とはいえ、取り上
げる対象やテーマを絞るのは自分でやるしかない。
近ごろでは、大学も先生も親切なので、
資料の調べ方やら、論文の書き方、テーマを絞る手掛かりなんかを示してくれますが、私
が学生の頃は当然そのようなものはありませんでした(私の出身大学の風土なのかもしれ
ませんが)
。まさに、見知らぬ街に一人放り出された状態です。地図すら持っていない。手
元にあるのは、自分のアタマという役に立つんだか立たないんだかわからないコンパスだ
け。じゃぁまずは地図を作ることから始めよう!・・・と言うのは簡単ですが、地図を作
るって難しいですよね。どこに何があって、道はどう繋がっているのか。そういう整理を
しなきゃいけないわけですが、そのためにはかなりの情報が必要です。
では、どうやって情報を集めるのか。色々な方法があると思います。やみくもに歩く人、
とりあえず面白そうな脇道があれば入ってみる人、困り果てて道行く人に尋ねる人。脇道
探索は面白いですけれど、地図を作りたいと思うなら、いきなりそこからはじめるのはお
- 13 -
ススメできません。やっぱり初めは大通りを歩いてみて、その街の様子を眺めてみましょ
う。大通りを歩く、それは論文を書こうと思っているジャンルで最もスタンダードな本を
読むことです。哲学ならデカルトやカントあたりでしょうか。ちなみに 4 回生の私が手に
とったのは、和辻哲郎の『倫理学』
。日本哲学/思想史では超定番の本です。スタンダード
な本をしっかり読んで大通りを歩いたら、その本に少しでも関係のありそうなものは片っ
端から読んで、とりあえず、色んな脇道に入ってみましょう。とりあえず入ってみたけど、
あんまり楽しくなかったという散歩(読書)もあるかもしれませんけれど、それも地図を
作るためには必要です。
「楽しくなかった」と地図に書きくわえて、二度と近づかなければ
いいのです。色んな脇道を調べて、少しずつ街の様子がわかってきましたか?では、ちょ
っと大雑把な地図を作ってみましょう。大雑把で大丈夫です。大通りの場所と、それがど
こに繋がっているのか。
東西南北がざっとわかればいいので、
細かい路地は省きましょう。
さて、こうやって出来上がった地図が何かと言えば、自分が卒論で扱おうと考えている学
問ジャンルの一般的な議論の構造です。どういうトピックがあって、そこに誰が関わって
いて、どんな対立関係になっているのか。学問という領域で、問題がどのような枠組みが
提示されているのかが、その地図には書かれています。めんどくさいと思うなかれ、地図
作りの作業は(卒論や学問だけでなく)何をするにしても重要です。闇雲に進んでいたら
行き止まりにぶつかったり、道に迷ったりするけれど、たとえ大雑把な地図でも、全体像
が何となくわかっていれば、安心して歩いて行けるでしょ。
さぁ、地図を手にしたら、どこに進んでいくのかを決めないと。これだけはもう誰も助
けてくれません。自分で決めるしかないのです。頭脳コンパスが指す方向に進んでくださ
い。コンパスが動かない?なら、地図を作るために探索したときに気になった建物はあり
ませんでしたか?もしくは、もっと歩いてみたいと思った道はなかったかしら?地図を手
にした今なら脇道に入るのも悪くないかもしれません。そのかわり、迷うかもしれないの
で、その辺は覚悟してください。ちなみに 4 回生の私は、小心者だったので、とりあえず
大通りを歩いていたのですが、途中でとっても気になる脇道があったので入ってみたら見
事に迷いかけました。それでも何とか地図があったので、なんとか大通りに戻ってこられ
ました。地図がなければたぶん遭難していたでしょう。けれど、そんなふうに地図を片手
に迷いながら、時々通りの店に入ってみたりしつつ、自分の歩きたい道がどれなのか、ど
うしてその道を行きたいと思うのか、少しずつわかってきた気がします。それは単に学問
的な知識が身に着いたというのとは少し違います。たしかに、学問的な知識も多少は身に
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着いたでしょう。でもそれよりも、地図を片手に学問という街を歩くとき、それまで漠然
と考えていたことが「こういうことだったのか!」と学問の言葉によってはっきりとした
形をもって見えるようになり、
「あ、こっちにも私が悩んでいたことが書かれている」とさ
らに歩き続けるなかで発見し、やがて、それまで自分が考えていたことが、学問という地
図上で繋がっていくという経験こそが大切です。その繋がったところで見えてくるのが、
自分が本当に知りたかったことであり、卒論の「テーマ」です。
こうやって見つけ出したテーマには、それまでの 4 年間で自分が何となく悩んできたこ
と、興味を持ってきたことが学問の言葉で凝縮されています。たとえば私は、演劇をする
なかで観客に何かが伝わるってどういうことなのだろうと悩んだり、もっと卑近なことで
言うならば、友達との関係がうまくいかなかったり、恋愛で苦しんだりするなかで自分と
他人との間に開かれる関係性がよくわからなくなることがたくさんありました。でも、卒
論を書くまでは、それを何となくしんどいなぁと感じているだけでした。その何となくの
感覚が、和辻哲郎の『倫理学』を手掛かりにするとき、
「自己と他者の間柄」という言葉で
浮き彫りになってきて、テーマが決まったわけです。
だから、卒論は 4 年かけて準備するものではないけれど、それまでの自分が浮き彫りに
されるもの、あらわになるものと言えるでしょう。逆にいえば、そういうテーマを見つけ
られるかどうかが、卒論の楽しみであり、成否を握っているのかもしれません。私自身、
卒論の具体的なテーマを決定したのは 4 回生の 6 月くらいだったのですが、そのとき作っ
たアウトラインを見た先輩が、
「卒論は、自分の問いを見つけるのが仕事だから。良い問い
が見つかればそれで十分だから」と言ってくれたことを思い出します。
さて、最後に多少は役に立つことも書いておきましょう。卒論を書くときの大切なポイ
ントは、それが「人に読んでもらうためのもの」であることを常に意識しておくことです。
そのためには、論理的な一貫性が大事。一貫性を見失わないためには、いったい自分がこ
の論文で「何を明らかにしたい」と考えていたのか、つまりテーマ、そして、
「なぜこのテ
ーマを取り上げたのか」という動機をしっかりと持っておくことです。一貫性に不安を覚
えたら、常にここに立ち戻ることで、自分の書いているものを反省しましょう。
うまく書けるかどうかより、まずは取り組むべきテーマを見つけられたら、きっとそれ
は一生の財産になると思います。卒論と格闘することで、自分の 4 年間が何だったのかに
気付いてみませんか。
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特集 体験記!
教育実習体験記録
文化学科4年 田原 七海
1.はじめに
私は、5月下旬から6月上旬にかけて、出身の高等学校の地歴科(世界史)で、3 週間教
育実習をさせて頂きました。始まるまでは、どんな生徒達なのか、自分でうまく出来るの
か…という不安ばかりでした。私が担当になったのは、英語進学科の1年2組でした。女
子が9割のクラスだったので、私にとっては、非常に打ちとけやすいクラスでした。
教育実習のまず 1 週間目は、自分の担当の先生や、他の先生の授業参観から始まります。
一度も教壇に立ったことがない私達実習生にとっては、先生方の授業を見ることも、大変
勉強になるので、これを真似したいと思ったら、すぐにメモをし、残しておきました。他
の先生方の授業を参観させて頂くと、必ずと言っていいほど、初めてのクラスでは自己紹
介をさせられ、生徒からの質問を受けました。初めは、この自己紹介すら緊張してしまい
ますが、徐々に慣れました。自己紹介のパターンを決めておくと良いと思います。
2.授業について
2週間目から、いよいよ授業の実践です。簡単な指導案と、板書計画、それから私は、
大体の授業の流れを自分でまとめたものを使って、授業を進めました。初回の授業は、本
当に緊張しました。初回の授業は、自分でも情けないくらいぼろぼろでした。1 時間の授業
50 分は、短いようで長く感じられ、私はいつも早めに授業が終わってしまうこと、それか
ら、私の発言が、棒読みになってしまうという 2 点を克服するのに、大変苦労しました。
授業が終わったら、その都度担当教官に指導を仰ぎ、分からないことは、小さなことでも
積極的に質問しました。そして、授業を行うにあたって、一番重要なことは、「自分が一つ
の授業を通して、何を伝えたいか」だと、指導教官に教えて頂きました。これを実践し、
自分が授業の中で、一番伝えたいことを、常に頭の中におくことで、発問をしやすくなり
ました。一番伝えたいことを最終的に導くために、発問を行えば良いということです。こ
れを頭において授業をすることで、棒読みだった授業にめりはりがつくようになりました。
3 週間目の最後の授業は、いよいよ研究授業です。研究授業は、指導案を作ることが、一
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番大変でした。様々な参考書を読み、言い回しを考え、誤字脱字など、一切無いようにし
なければなりません。前日まで粘って、やっと完成させました。そして、同時進行で、指
導教官に生徒役をして頂き、何度も何度も授業の練習を行いました。研究授業当日は、社
会科の全部の先生、校長先生などが見に来られました。大変緊張しましたが、堂々と、元
気よく、練習したことを信じて、行いました。反省点は多々ありましたが、自分では納得
のいく授業ができ、指導教官も一緒になって喜んでくださり、無事に終えることが出来ま
した。
3.生徒とのコミュニケーション
生徒とのコミュニケーションは、とにかく自分から積極的に行いました。私は特に、掃
除の時間の話すことをおすすめします。それから、私は毎日クラスの生徒が書いた日記に
コメントを付けさせてもらいました。生徒一人ひとりの日記を読み、コメントをすること
で、交換日記のようになりますし、皆が考えていることや、興味があることを知ることが
できます。これを続けることで、自然に生徒と共通の話題が出来て、話しも弾み、生徒か
らも話しかけてくれるようになりました。日記を楽しみにしてくれる生徒もいて、大変嬉
しかったです。昼食に誘ってくれる生徒も出てきて、楽しい時間を過ごすことが出来まし
た。最後には、自分のクラスと、受け持っていないクラスの生徒も、色紙を書いてくれて、
本当に嬉しくて、感動しました。教育実習をやって良かったと心から思いました。
4.最後に
この3週間を通して、一番大切だと思ったことは、コミュニケーションです。これは、
生徒や、先生方、保護者の方すべてに言えることです。様々な先生や生徒がいて、それぞ
れ考え方が違うので、まずは、相手のことを知ろうとすることが、とても大切だと思いま
した。教育実習期間中は、睡眠時間は平均4時間ほどで、本当にきつかったですが、それ
以上に学んだことの方が、大きかったです。
これから教育実習に行かれる方は、不安も大きいと思いますが、実習生はみんな同じ気
持なので、大丈夫です。一生懸命やれば、きっと良い勉強になると思います。頑張ってく
ださい!!
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特集 体験記!
オープンキャンパス体験記
文化学科4年 嶺 早織
2012 年 8 月 4 日福岡大学オープンキャンパスが行われ、その中で学生相談員として高校
生に文化学科で学べることや学科の魅力を伝えました。
私が学生相談員になったきっかけは平田先生からのお誘いです。また、私自身大学案内
の学科紹介のページに載せて頂いたこともあり、大好きな文化学科のことを直接後輩に伝
えたいと思い、やることを決意しました。
学生相談員は 3 年生 4 名、4年生 2 名の計 6 名です。オープンキャンパス当日の文化学
科ブースでの案内役・相談役や 8 号館で行われる模擬授業の案内、当日までの準備を担当
します。2012 年度学生相談員としては、文化学科紹介ポスター、文化学科の時間割紹介表、
ブースの入り口に展示する学科の紹介パネルを作成しました。
時間割表
ポスター
学部紹介パネル
一番初めの仕事はポスターの撮影です。平田先生が私達の顔を撮影し、先生による写真
加工の結果、とても素敵なポスターが完成しました。当日はそのポスターを廊下やブース
内、エレベータの中、8 号館入り口、模擬授業の教室前等々多くの場所に貼ったので、来た
ほとんどの高校生の目に止まったことでしょう。福岡大学全学科の中で文化学科が一番広
告に力を入れているのは間違いありません!
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6 月頃から週一回を目安に学生相談員のメンバーで集まって、雑談も踏まえつつパネル製作や
時間割表作り等準備を行ったのは良い思い出です。
そしてオープンキャンパス当日、たくさんの高校生が文化学科のブースに来て下さり、
模擬授業もほぼ満員状態で大盛況でした。2012 年度の模擬授業は植野先生による「美術を
楽しむ-街の中のアート-」
、池田先生による「集団の心理学-集団の中での人の「心」は
どのような影響を受けるのか?-」
、以上の二講義が行われました。
模擬授業の様子
ブースでは文化学科の 4 年間の時間割表や実際に使っている教科書を展示し、教室の奥
では相談用のテーブルを構え教授の方々や学生相談員が高校生の質問に答えます。
ブースに来た高校生で芸術に興味を持っている女の子がおり、その学生に芸術の授業に
ついて話すと、目を輝かせて「面白そうー!」と言ってくれた事がとても印象的でした。
自分の好きな分野にぴったり合ってはまっている様子で、文化学科にとても関心を抱いて
くれたので嬉しく思いました。同じ趣味、興味を持った相手がいると、それだけで話が弾
みます。だから文化学科が、楽しそう、面白そうと思って入る学生は必ず同じ考えの同士
や友人に恵まれるはずです。
また、中には自分は宗教、神話の世界が好きだ、妖怪が好きだ、社会心理学を学びたい、
と自分の学びたいことが明確な高校生もいて、意識の高さを感じました。高校までは決ま
った授業、みんなと同じ内容のことを学んでいるけれど、大学では学部学科によって、さ
らにその学科の中でも自分の興味のある一歩踏み込んだことを深く学べる場だと思います。
4 年間も学ぶのだから、やはり自分が好きなことや興味のあることを勉強するのが一番楽し
いし夢中になれる、有意義な学生生活を送ることが出来るのではないでしょうか。
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そしてこれは全学科共通かもしれませんが「時間割を自分で作る」ということを説明し
た時に高校生の反応が良かったです。今高校生は決められた時間割の中で授業を受けてい
る状態ですが、大学では自分の好きな時間に授業を入れることが出来る。授業の入れ方を
工夫すれば平日一日休みにすることも出来る、そんな大学は高校のときより授業にしても
プライベートにしても自由度がとても高いです。時間がある分、時間の使い方を自分なり
に工夫するのが上手く大学生活を送るコツだと思います。こうやってオープンキャンパス
のスタッフをするのも大学生活がより有意義になるコツなのかもしれませんね。
また文化学科の推薦を受けたいという高校生も多々訪れました。推薦については先生方の
意見を頂いた所、学びたい分野、その中で具体的に何を学びたいのかを明確にすることが
大事とのことでした。このオープンキャンパスでより文化学科に入りたいという気持ちが
より高まったのであれば嬉しいです。
4 年生ということもあり、就職についても聞かれましたが、他の文系学科とあまり大差な
いと私自身の就職活動を通して思ったのでそう伝えました。文化学科でも公務員を目指す
学生もいれば、心理カウンセラーになりたいという学生、地元の銀行に就職したいという
学生等多くの学生がおり、就職先もさまざまです。高校生のとき将来の仕事を考えるのは
難しいと思いますが、大学で 4 年間いろんな人と出会い、学ぶ中で自分のやりたいこと見
つけていけば良いのではないでしょうか。
文化学科では心理学や社会、芸術、宗教、哲学などの多くの観点から文化を学ぶので、
広い視点でものを見ることが出来るという点では柔軟な発想を持つことが出来て、きっと
この経験は社会に出ても役立つだろうと思います。
今回のオープンキャンパスの学生相談員を通して、文化学科を説明するために改めて文化
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学科ってどんな学科だろうと深く考えることが出来ました。自分がこの学科を選んだ理由
やきっかけを改めて自分自身で問い直し、その結果文化学科という選択をして今の自分が
あるのかなと思いました。
学生に魅力を伝える立場でありながら文化学科の魅力を一番感じたのは私自身かもしれ
ません。残り半年の大学生活ですが、勉強も遊びも大切にして過ごしていこうと思いまし
た!
こんな貴重な体験をすることが出来てとても嬉しく思っています。
支えてくださった先生方、そして学生相談員の皆様ありがとうございました。
学生相談員
左から
塚本真也、中田文菜、嶺早織、砂川柊名子、渡部知世、島本裕代
写真提供:平田暢先生
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特集 体験記!
福岡大学図書館について
文化学科 1 年 水流 梓
今年七月に完成した、新しい福岡大学図書館。やはり新築なだけあって、外も中もまだ
まだきれいである。大きさもかなりのものだ。なんでも、旧図書館よりも書架を約5倍も
増やし、さらに様々な部屋やコーナーを設置したのだという。残念ながら私は旧図書館に
一度も訪れたことがないので、比較のしようがないのだが、以前よりもたいそう立派にな
ったということは断言できる。
図書館に入ったとき、最初に目にするものはおそらく入退館ゲートだろう。改札口にも
似たその機械に学生証を通し、入館および退館するのだ。ここですでに感動していたのだ
が、まだまだ早かった。
1 階には、インフォメーションカウンターや多目的
ホール、新聞閲覧コーナーなどがある。何か自治問題
や事件に関することを調べるのであれば、この場所を
利用するのも手だと思う。興味深い記事がみつかるか
もしれない。
2 階には哲学や歴史に関する図書の他に、AVコー
ナー、読書支援室などがある。AVコーナーでは、様々
な視聴覚資料を視聴できる。NHKの番組や、映画も
見ることが可能だ。以前訪れた際、面白そうな資料があったのでいつか利用してみたいと
思う。ちなみに 2 階から4階にかけて各階には、情報サービス室、グループ学習室、ラー
ニング・コモンズという部屋がある。パソコンを利用したり、プレゼンテーションを行っ
たり、論文やレポート作成をしたりといった、学生のための共有施設だ。おそらく一番大
学生にふさわしい施設だろう。
3 階、4 階は同じように図書や学生向けの施設がそろっている。4 階には文学作品が数多
く存在しているので、物語も閲覧できる。有名な作家の全集もあるので、文豪好きには嬉
しい施設となっている。
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5 階は貴重書ばかりが保管されているので、許可がないと入室できない。洋書・和書があ
るようだが、いったいどんな資料が置かれているかは私にはわからない。しかし一度は見
てみたいと思う。
このように 1 階から 5 階までたくさんの図書や施設があるのだが、驚くことに福岡大学
図書館には地下があるのだという。
そこにはおよそ 138 万もの本を収蔵できるのだという。
その場所に保管されている本を貸し出すこともできるらしく、貸出依頼を出せば地下の機
械が本を運び、受けとるという流れになっている。
地下にある自動電動書庫
地下に貯蔵されている本と 4 階までに置かれている本を合わせれば、膨大な数になる。
これだけあれば、レポートを書くための資料探しや、読書にかなり役立つことだろう。今
後レポートを書く機会が増えてくるので、ぜひ利用していきたいと思う。
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卒業生だより
京都大学大学院非不合格体験記
京都大学大学院 教育学研究科
修士課程1年 石橋 優也
AM 6:32——
自室でパソコンとにらめっこをしながら、自分は一人の先輩として、皆さんに何を伝えられるだろ
うかと考えている。原稿依頼の内容は「京都大学大学院にどうやって合格したのか、そして大学院と
はどんなところかを書いてほしい」というものであった。しかし、文化学科の学生の多くは、卒業後
の進路として「進学」ではなく「就職」を選ぶ。つまり、大学院進学に特化して書いてしまうと、大
部分の学生にとってこの文章が価値のないものになる可能性があるということだ。それだけは避けた
い。いつもは 10 時に起床する僕が、せっかく早起きして、心血注ぎ書いた文章である。どうせなら
皆さんに読んでほしい。
そこで本稿は前後 2 つに分けて書くことにしようと思う。前編は、文化学科の全学生にむけた「い
かに目標を達成するか」について、そして後編は進学に興味がある学生に向けた、大学院の意義とそ
こでの生活について。皆さんのためになることがきっと書かれていると思うので、時間のない方も前
編だけは読んでほしい。
前編:将来の目標を決め、達成しちゃおう
2010 年の秋、卒業まであと 1 年半に迫った頃、私は就職ではなく進学を志した。なぜならその時
の私にとって、就職をすることよりも心理学を学ぶことの方が魅力的に見えたからである。
この文章を読んでくれている皆さんの中に、自分は将来こうなりたい、こんな職業に就きたい、と
いう目標を持っている人は何人くらいいるのだろうか。もしまだ将来のことなんて考えたことがない、
という方がいれば、是非これを機に考えていただきたい。もちろん「そんなのまだ先のことでし
ょ?」と思っている 1 年生、2 年生のみなさんも含めてである。なぜなら自分の理想や目標を現実に
するためには、多くの場合、長い時間と多大な苦労が絶対に不可欠だからだ。私が本気で京都大学大
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学院への進学を目指したのは、受験日のちょうど 1 年前からであった。今になっても正直、この準備
期間では短すぎたとかなり反省している。
では、私はいかにして合格したのか。これを書く前に、先日目標達成に関係する興味深い話を聞い
たため皆さんに紹介したい。この言葉は、ソフトバンク社長孫正義氏の弟である孫泰蔵氏が講演の中
で話していたものだ。孫氏は「どうすれば社会で成功するか」という問いに対し、こう答えた。
——成功に理由なんてない。必要なのは運だ。しかし、失敗には必ず理由が伴う。
私はこの言葉に大変共感した。なぜなら私が大学院合格という目標を達成できたのは、はっきり言
って運が良かったからだ。受験当日、たまたま前日に振り返った内容が出題され、たまたま英文和訳
がすらすらできた。しかしながら、大学院合格を目標に据えたその日から、失敗しないための努力は
人一倍やってきたつもりである。
人間は成功体験を書こうとすると、どうしても天狗になり余計なことばかり書いてしまうものだ。
そこでここでは、私がどうやって目標を達成したかではなく、何をしたから失敗しなかったのかを皆
さんに伝えたい。つまり、合格体験記ではなく、非不合格体験記である。
私が院試に落ちないために行ったことは次の 3 つである——「つながりづくり」「情報収集」そし
て「やる気呈示」だ。これらはおそらく、就職試験にも有効な手段であるだろうから、1 つずつ説明
していきたい。
まずは、つながりづくりについて。目標が決まったら、そこの関係者の方と繋がりをつくろう。私
は志望する研究室が決まるとすぐに、その研究室の先生宛に「先生の元で勉強したいから、是非研究
室の訪問をさせてほしい」という旨のメールを送った。就職活動にあてはめると、これは自分の力で
「インターンシップをさせてほしい」と交渉することにあたるだろう。私はこの結果つながりができ、
何度かゼミに参加することができた。さらに、そこで自分の研究計画を発表させてもらい、先生、先
輩方からたくさんのご指摘やご意見をうかがえた。また、一人の先輩に親しくしてもらい、受験まで
の間様々なことで相談に乗ってもらった。
次に、情報収集について。これは先ほどできた「つながり」の方々に、どんな試験が行われるのか、
そのためにはどんな勉強をすればいいのか、また、仕事の内容は自分の想像通りかを聞くことである。
そこにいる先輩方は皆、試験をクリアされてきた方々なので、遠慮せず聞きたいことを聞けば良いと
思う。私は紹介していただいた先輩に、入試問題の傾向や詳しい勉強方法、また京都大学大学院にあ
わせた卒論の書き方を教えてもらった。これは決してネットでは手に入らない、生きた情報である。
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そして最後に、やる気呈示について。自分はここで働きたいんだ、進学したいんだという意欲を、
試験の前から精一杯アピールしてほしい。私はある時、2 日連続で研究室を訪問する機会をいただい
た。一日目は研究室の先輩とお話しをさせてもらい、二日目は先生のゼミで卒業論文の研究計画を発
表させてもらう予定だった。私はもちろん一日目の段階で、二日目の発表で使用するレジュメやスラ
イドは仕上げていたのだが、なんと発表前日に先輩から研究計画の問題点を指摘されてしまったのだ。
この問題をかかえたまま発表に臨む訳にはいかない。そこで私はその日はほとんど眠らずに、ホテル
でその問題点を改善したレジュメとスライドを作成し、翌日のゼミで発表した。すると先生や先輩方
から思いがけず高評価をいただいた。きっと私のやる気を評価してくださったのだろう。
これら 3 つをやったから私は不合格にならなかったのだと思う。しかし、これさえやっておけば十
分、という意味ではない。もちろん私もこれ以外に、進学希望先の先生方の著書を読んだり、分厚い
英語の専門書を和訳したり、できる限りの努力は行った (直前は 2 日間で 6 時間睡眠という地獄のよ
うなサイクルで生活した。もう少し早くから勉強してれば...)。皆さんにはまだ時間がある。それぞれ
の目標を不達成にしないためにも、自分に何ができるかをよく考え、今からそれに向かって行動して
いただきたいと思う。思い立ったが吉日である。
後編:なぜ大学院に行くのか、そこでは何をやっているのか
皆さんはもしかすると、大学院に進学する=研究者にならなければいけない、と考えてはいないだ
ろうか。もしそうだとしたら、それは大きな間違いである。大学院に進学した後に一般企業に就職す
る人もたくさんいる (というよりも、研究者になれる人は全体のほんの一握りである、と言うべきか)。
では、大学院とは何をするところなのだろうか。大学院の意義とは何なのであろうか。これはあくま
でも私の主観でしかないが、大学院とは「今までの学びを振り返り、自分自身の可能性を高める場」
であると思う。
文化学科に入学してから今までに、何を学んだのかと聞かれた時、皆さんは何と答えるだろう。—
—心理学を学びました。哲学について勉強しました。統計的検定ができるようになりました…いろん
な言葉が返ってくるかもしれない。しかし、これだけでは「学んだ」ことにはならない。ただ、先生
方から「教わった」だけで、高校までと何ら変わらないのだ。
あと数年で皆さんは、社会人として自立しなければならない。しかし一度社会に出ると、そんなに
簡単に人から教わることができない。また、いつも正しい答えがあるとは限らないし、それが一つで
あるとも限らない。これまで経験したことのないような過酷な環境の中で、自分で問題を見つけ、そ
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れを試行錯誤しながら解決していかなければならない。そして、この問題解決能力を身につける最後
のチャンス、それが大学院である。
大学院では最初の 2 年間で、修士論文というものを書かなければならない。これは、過去の研究か
ら、あるいは全く新しい見地から問題点を発見し、それを突き詰め解決してゆく作業である。問題点
を見つけるためには膨大な論文や、分厚い専門書をいくつも読み漁らなければならない上に、一朝一
夕には解決の糸口すらみつからない。しかし、そうして苦労に苦労を重ねる中でのみ、自分の中の問
題解決能力を育めるのだと思う。
大学院ではそんなにたくさんの授業があるわけではない (私は週 5 コマ程度である)。つまり、自由
な時間がたっぷりある。その中で、自分は何をするのかというスケジューリング、自己管理が重要に
なってくる。時には図書館に足を運び文献に没頭したり、時には研究室の先輩方や友人とディスカッ
ションしたり、何をするかは自由である。言い換えれば、それでどうなっても自己責任でもある。し
かし、全てを自分で抱え込めというわけではもちろんない。研究について何かわからないことがあれ
ば、先生や先輩方が信じられないほど親身になって相談に乗ってくれる。同じ高い志をもった友にも
出会える。懸命に取り組んでいれば、たまに先輩が飲みに連れて行ってくれる。とにかく、たっぷり
と時間をかけて、自分の興味のあることだけに打ち込める環境、それが大学院である。
修士課程の 2 年間で十分な問題解決能力を身につけた人は、そこから社会に出ればよい。また、こ
の研究をこの先もずっと続けていきたいと考える人がいれば、さらに 3 年間博士課程に在籍し、研究
者としての道を邁進すればよい。どちらにせよ、大学院で学ぶことは、自分にとってのよき肥やしに
なる。もしこれを読んでくれている後輩の中に、自分も京都大学大学院に進学したいと考える人がい
れば、私は全力でバックアップするつもりである。
長文になってしまったが、最後にとある大学の図書館に飾ってあるという 20 の教訓のうちの一つ
を皆さんに紹介して、本稿を締めたいと思う。
——犬の様に学び、紳士の様に遊べ。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
追伸
最近は難しい専門書や論文ばかり読んでいるため、かなり文章が堅苦しくなってしまった。もしこ
んなお堅い文章を書きたいという方がいれば、大学院に進学してみてはいかがだろうか。
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卒業論文
平成 23 年度
指導教員
池田 浩
氏
卒業論文一覧
名
早野 綾香
卒業論文題目
自律的モチベーションを生起させる要因に関する心理学
的研究
渡辺 祥子
集団の創造性を引き出すコミュニケーション特性に関す
る研究
和田 岳
人材育成におけるフィードバックの効果に関する心理学
的研究
藤野 かおり
女性リーダーの自己犠牲行動の効果性に関する研究
山口 美咲
大学生スポーツチームにおける、フォロワーシップの構
造と機能に関する心理学的研究
臼井 理紗
大学生スポーツチームにおけるチーム力の形成に関する
心理学的研究
石田 和夫
四俣 友美子
吉田松陰研究
浦上 雅司
井上 真吾
街頭紙芝居-貧困から生まれた日本独自のメディア
山下 恵李佳
ガウディ建築-カサ・バトリョについて
牛島 麻里
アミアン大聖堂は何を象徴しているか
遠嶋 かの子
三木聡-シュールの中のリアル
馬場添 結麻
ヘンリー・ダーガー作『非現実の王国で』
石橋 優也
くしゃみは魅力を上げるか
内山 朋美
日常風景における描画を用いた想起の効果
長谷川 奈南
身長推定に関わる要因について
大川 麻由美
大学生の服装と性格の関連性について
荒砂 精伍
痛みが凶器注目効果に及ぼす影響
森
世界の貧困と格差
大上 渉
柏田 康史
祐衣
佐美三 桐子
グローバル時代の文化と国家-日本とアメリカから
鴨川 武文
山口 香緒里
自然環境からみる日本の文化形成
岸根 敏幸
一ノ瀬 優作
日本神話とギリシャ神話の類似性
益森 比奈子
日中韓の家族集団と制度に関する比較分析
諸永 遥夏
ブームの誕生と終焉
小林淳一
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佐藤 基治
野澤 瑠美
視角探索における刺激配置と探索効率の関連
白川 琢磨
友成 千裕
建築と文化-宗教建築を中心に
中村 真里奈
日本と外国の消費文化の違い
北村 美紅
『須恵村』の変化と連続性
中村 僚子
中期ウィトゲンシュタインにおける文法の恣意性につい
関口 浩喜
て
高岡 弘幸
高下 保幸
平井 靖史
宮岡 真央子
宮野 真生子
池田 加奈子
回心の研究
永石理恵
制服に隠された女子高生の性について
今泉綾
日本と欧米の幽霊からみる霊魂観の比較
岡田 千春
ユーモア理論によるユーモア広告技法の分析
柴田 美穂
アリスに憧れない乙女になるために
秋吉 保英
私と今
渡邊 しおり
私が死ねば世界は消える-素朴観念論的転回
迫田 詩織
デカルトを中心とした神の存在証明
伊藤 来
「平和」表象の創出と変遷-舟入高校演劇部を事例に
洲崎 慎平
日本社会におけるジェンダー規範とその変遷
安立 葵
宮沢賢治と法華思想
田中 雅美
対象喪失-宮沢賢治の作品から考える
川口 敏夫
高橋和巳作品における「生の無意味さ」に関する一考察
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文化学科フォーラム活動報告
平成 23~24 年度
活動報告
◆平成 23 年度
1.卒業論文発表会
平成 24 年 1 月 26 日(木) 13:00~
文系センター棟 15 階 第 5 会議室
司会 石田和夫教授
(1)中村真理奈
「テーマパークとツーリズム」
(2)臼井理紗 「大学生スポーツチームにおけるチーム力の形成に関する心理学的研究」
(3)友成千裕
「建築と文化 - 宗教建築を中心に 」
(4)洲崎慎平
「おやじの会における父親像」
(5)北村美紅
「
「須恵村」の変化と連続性」
(6)中村遼子 「中期ウィトゲンシュタインにおける「文法」概念について」
(7)石橋優也 「非言語ツールとしてのくしゃみの効果」
卒業論文の発表の様子
活発な議論が展開されました!
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2.平成 23 年度文化学科卒業証書・人文科学研究科社会文化論専攻修了証書授与式
平成 24 年 3 月 19 日(木) 12:20~13:00 A棟 101 教室において
ご卒業おめでとうございました!
3.卒業記念パーティ
平成 24 年 3 月 19 日(木) 18:00~20:00
KKR ホテル博多(福岡市中央区薬院 4-21-1)にて
LC フォーラム 小林会長の挨拶
笑顔が弾ける卒業生
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◆平成 24 年度
4.文化学科新入生懇談会(対面式)
平成 24 年 4 月 6 日(金) 13:00~15:00
821 教室にて
岸根学科主任 ご挨拶
新入生のフレッシュな顔ぶれ
真剣な表情で・・・
5.新入生歓迎会
平成 23 年 6 月 1 日(金) 18:00~20:00
参加者:約 120 名
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文系センター棟 16 階スカイラウンジにて
LCフ ォ ー ラ ム
バ スハ イ ク
LC090032
LC090040
LC090057
芋 生舞子
吉村梨奈
加 島綾 乃
11月 4日 、私 た ちは LCフ ォー ラム主催 のバ スハ イ クに参加 した。 まず、バス に揺 られ
て向か つた の は博多織 工芸館 である。 ここでは直接 工場 を見 させて頂 き、博多織 につい て
詳 しい説 明を して頂 い た。博多織 とは
770年 の歴史 を もつ福 岡 の伝統 工芸品である。博多
織 の特徴 は、経糸 (た てい と)の 本数 が他 の織物 に比 べ て とて も多 い ことにあ り、織機 に経糸
を密 に配列 して張力 を強 くし、太 い緯 糸 (よ こい と)を 打 ち込むため生地に厚み があ り、 しつ
か りとした風合 い を持 つ こ とである。博多織 は私た ち福 岡 の人 々 に とつて とて も身近 な伝
統 工芸品であるが 、今 回、 工芸館 を訪れ て 、実際 に博多織 を織 る機 屋 が年 々減少 して い る
とい う状況 を初 めて知 つた。 だか ら こそ、福 岡 に住み、博多 の伝統 を受 け継 いでい く私 た
ちに とつて博多織 の歴史や特徴 を学 べ た こ とは とて も良い経験 であ つた と思 う。
次 に 向 か つた の は唐津市 の名護屋城博物館 で ある。 ここで は学芸員 の方 か ら名護屋城や
そ の時代 の ことについ て の詳 しい説 明 を受 けた。名護 屋 城 は、豊 臣秀吉 が朝鮮 半島や 中国
大陸へ 向けて 出兵す るため 、そ の 軍事拠点 として築 かせ た城 である。名護 屋城 の総面積 は
約 17万 ぽあ り、城 を中心 として 、全 国 か ら集 ま った武 士や商人な どで人 口 20万 人 を超 え
る城 下町 が形成 されて い た そ うで ある。 当時 では 、大 坂 城 に次 ぐ全国 2番 目の規模 であ つ
た と言われてお り、同 じ城 下町 の福 岡 よ りも人 口が 多 か った と教 えて頂 き、とて も驚 い た。
佐賀県は福 岡県 の 隣県 であ り、豊 臣秀吉 も歴 史 の教科書 で何度 も見 た こ との あ る人物 で も
あ り、名護 屋 城博物館 で 、今 ある知識 に枝葉 をつ けるよ うに知識 を広 げ る こ とが出来た よ
うに感 じる。
そ の後昼食 を とり、昼食後 、唐 津焼 の窯元 で唐津焼 の生産 工程 を見学 させ て もらつた。
唐津焼 は古 くか ら茶道 にお い て 「一 楽 二萩 三唐津」 と称 されて とて も名 高 く、伝統 工芸品
に指定 され て い る。最初 に 、 ろ くろを回 して成形 してい る様子 を見学 した後 、 登 り窯 へ 案
内 して も らつた。 登 り窯 は階 段状割竹式登 り窯 で 、 これ が現在 で も残 つてい るの は唐津で
も珍 しい そ うだ。窯 の 中 に入 らせ て もら うと、 レンガで作 られた窯 の 内部 は真 つ黒 に焼 け
てお り、想像 で きない ほ どの 高 い温 度 で生地が焼成 され て い るこ とが うかが えた。窯 の温
度管理 は陶 工の経験 と勘 に よつて行 われ るよ うだが 、伺 うと一 人前 の陶 工 にな るためには
最低 10年 は必要だそ うだ。 それ で も 日々、勉強 だそ うである。そ んな卓越 した技能 を持 つ
陶 工が作 る唐津焼 は、素朴だ が 、 とて も力強 く感 じた。
そ して最後 に私 たちが向か つた の は糸島市 の 自糸酒造 である。 自糸酒造 では 、地元 のお
米 である 山田錦 を使 い 、伝統的 なハ ネ木搾 りで酒造 りが行 われ て い る。 ハ ネ木搾 りとは、
酒槽 (し ゅそ う)と い う木箱 に もろみ が入 つた酒袋 を敷 き、長 さ約
8mの カシの本 でふたを押
さえ、カ シの本 の一 方 を固定 し、反対側 の端 に約 1.2ト ンの石 を ロー プでつ り下げる ことで
「て この原 理 」 に よつて重みがかか り、酒 を搾 り出す とい う技法 である。 ハ ネ木搾 りを行
つてい る造 り酒屋 は全 国 で も珍 しいそ うである。 また 、説 明 を受 けた後 、甘酒 を飲 ませて
頂 い たが 、 これ が本 当に美味 しかった。 アル コール 分 が全 く含 まれ て い ない 甘酒 で ある。
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米麹 と地 下水 の みで作 られ てお り、 さらつ とした飲み 心地 で とて も飲みやす く、優 しい甘
さだ つた。 大量生産 され た安価 なお酒 を飲 んで い る私 た ち学生 に とっては衝撃的 な味であ
り、一滴 一滴 に愛情 を込 めて作 られ てい るか らこそ の味な の だ と感 じた。
今回 のバ スハ イ クでは 日頃出 か ける こ との な い 、様 々 な場 所 に訪れ る ことがで きた。普
段学生同 士 で旅行 を計画す る とな る と、 ど うして も華や かな流行 の場所 に 目が 向 くた め、
伝統的 な場 所 は ど うもつ ま らな く感 じて後 回 しにな りが ちであ る。 しか し、今 回 のバ スハ
イ クに参加 して 、伝統的な場所 に訪れ 、様 々 な物 を見て 、知 る こ との楽 しさを知 る こ とが
出来た。 これ らの場所 は決 して華や かではな い か も しれ な い が 、古 くか ら人 々 に伝 わ る知
恵や思 い が詰 ま つてい る。だか らこそ、訪れ る人 々 も多 くの こ とを感 じ、学 ぶ ことがで き、
有意義 な旅 を楽 しむ こ とがで きるの だ と思 う。今回、 バ スハ イ クを計画 し運営 して くだ さ
つた先生や学生 の皆 さん、私 た ちに詳 しく説 明 して くだ さつた方 々 に とて も感謝 してい る。
そ して、学 生 の皆 さんにぜ ひ来年 のバ スハ イ クに参加す るよ う伝 えたい。
(平 成
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23年 11月 4日 実施 )
LCフ ォー ラ ム
バ スハ イ ク
LCl10059
森
彩音
11月 1日 (木 )、 七 隈祭 の期間中 に行 われ た LCフ ォー ラ ム主催 のバ スハ イ クに参加 しま
した。 テ ーマ は “
秋 の九重・ 小国散策 "で した。 始 めに訪れた場所 は、平成 18年 10月 30
日に完成 した 、 九重 の渓谷 に架 か る 日本 最 大 の 吊橋 、 九重 “夢 "大 吊橋 です。 この 吊橋 は
地上か らの高 さ 173m、 長 さ 390mも あ ります。実際 に この 吊橋 を渡 りま したが 、橋 の上では
強風 に さらされ 、雪 が 降 るの ではな いか と思 うくらいの寒 さで した。 また、あま りの強風
で 、 コン ク リー トで支 え られ て い る吊橋 も揺れ て い るよ うに感 じられ 、 自然 の強 さを感 じ
ま した。 しか し、 日を下に向 ける と、赤や黄 色 、橙色 に色 づい た紅葉 が 見 られ た り、渓谷
を流れ落 ちる滝音 が聞 こえた り、 自然 の雄 大 さ、美 しさも実感 できま した。
次 に、 九州電力 (株 )人 丁原地熱発電所 を訪 問 し、地熱 を利用 した発電法 につい て説 明を
受 けま した。 地熱発電 とは 、 マ グマ の熱 で高温 にな つてい る地下水 を くみ 上げ、蒸気 の力
で ター ビン とい う風車 の よ うな もの を高速回転 させ て発電す る方法 で 、 また 、 くみ上 げ ら
れ た熱水 は還元 井 を使 つて再び地 下に戻す とい う循環方 式 が とられ て い ます。 昨年 の東京
電力 (株 )福 島第 一原子力発 電所 の事故以来、 自然 エ ネ ル ギー に対す る関心が高 ま つ て い ま
す が 、地熱発電 はそ の一 例 です。事故以降、国 内外 か らの 見学者・ 視察者 が増 加 して い る
そ うです 。発 電 された 11万 kwの 電気 は大分県 日田市 に供給 されて い るそ うです が 、以前
は 50,000世 帯分、現在 は 37,000世 帯分 の消費電力 に相 当す るそ うです。 それだけ各世帯
にお ける消費電力 が増 加 した ことにな ります 。 人丁原 地熱発電所 は 九重連 山の 山 々 に囲 ま
れ た紅 葉 の美 しい場所 にあ りま した。日本 は火 山国 です か ら、地熱 は豊富にあるの ですが、
火 山地域 は 国 立公 園 に指定 され て い る こ とが多 く、そ のた めに開発 が規制 され 、地熱発 電
所 を建設す る こ とがで きな い とい う問題点 があ ります 。
発電所 を出発 し、近年 、 来訪者 が増加 した黒川温泉 を経 由 して 、熊本 県 の小国町 に到着
国」
しま した。 小 国町 の物産館 を兼 ねた 「小国 ぴ らみ つ と」 で昼 食 を食 べ た後、「道 の駅 月ヽ
国」 の建
の 2階 にある小 国 ツー リズム協会 に向 かいま した。協会 が入 つてい る 「道 の駅 月ヽ
物 は 、 ガ ラス張 りでダイヤ モ ン ドの よ うな形 を してい ま した。 建物 の 中 に入 つてみ る と、
本 で作 られ た木組 み の建物 である こ とがわ か りま した。 小 国町 は林業 が盛 んな ことで も知
られ て い ます 。 ここで 協会 の役員 の方 に、小国町 の グ リー ンツー リズム につい て説 明 を し
て い ただ きま した。 た とえば、小 国 町 に限 らず 、近年 では 、都市 に出た人 が故郷 に戻 つて
くるよ うな Uタ ー ン現象や 、都 市出身者 が地方 に定住す る Iタ ー ン現象 が増 えてきて い る
こ と、小 国町 を訪れ る人た ちが 、貸切 バ ス を利用 して大 人数 で訪れ る形態 か ら、 自家用車
を利用 して 1人 、 カ ップル 、家族連 れ な ど少人数 へ と変 化 しつつ ある こ と、 さま ざまな年
齢層 の人 た ちが来訪す る こ と、小 国町 を支 えて い る人 たちの 中 には、都 市 か ら来訪 してそ
の まま住 み つ き ボ ラ ンテ ィア活動 に従 事 して い る人が い る こと、 また、小国町 で の経験 を
ネ ッ トを介 して情報発信 を して い る人 がい る こ とな ど、興味 ある内容 で した。 小国町 で感
じた ことは 、私 が住 む福 岡市 と比 較 した とき、 時間 の流れ の違 い で した。 小 国 町 は山に囲
まれ 、 自然豊 かで 、空気 もお い しく、心が休 ま るよ うな場所 で 、時間 の流れ が遅 く感 じま
した。福 岡 の街 は 、車 も多 く、雑踏 とい う感 じがあ り、 とて も気持 ちが安 らぐよ うな場所
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ではな い よ うに感 じ、時間 の流れ も速 く感 じます。 この よ うな気持 か ら解放 され るた めに
人 々が来 るのだ ろ うと実感 できま した。
小国町 を出発 して 、 大分県 日田市 にあるサ ッポ ロビール (株 )九 州 日田工場 に 向 か い ま し
た。 工場 では、原材料 である大麦 、苦 み の も とであるホ ップな どを手で触れ てみた り、 ビ
ール 缶 がベ ル トコンベ アー の上 を流れ て い く生産 工程 を見学 しま した。 見学後 、 日田市街
地 を眺望 で きる試 飲 室で 、出来 たて のヱ ビス ビール を飲 ませ て い ただきま した。 工場 出発
後 、大学 に無事到 着 しま した。多 くの知識 を吸収 し、多 くの事 を感 じることの できた、充
実 したバ スハ イ クの一 日は終わ りま した。 バ スハ イ クを企 画 され た先 生方 に本 当に感謝 し
て い ます。 あ りが とうご ざい ま した。
(平 成
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24年 11月 1日 実施 )