理想郷への旅 - 富山国際大学

国際教養学部紀要 VOL.2(2006.3)
理想郷への旅
−シェリーの『エピサイキディオン』とクレインの『航海』−
Journeys to Utopia: Shelley’s Epipsychidion and Crane’s Voyages
望
月
健
一
Mochizuki Ken-ichi
1.序
ハート・クレイン (Hart Crane, 1899-1932) より 18 歳年下のアメリカの告白詩人、ロバート・ローウェル
(Robert Lowell, 1917-1977) は、「ハート・クレインへの献辞」(‘Words for Hart Crane’) と題する十四行詩の
中でクレインのことを「同時代のシェリー」(“the Shelley of my age”) と呼んでいる。イギリス・ロマン派後
期に活躍したパーシー・ビッシュ・シェリー (Percy Bysshe Shelley, 1792-1822) とモダニズムの時代に生き
たハート・クレインの間には、多くの共通点・類似点が見られる。
まず、第一に挙げられる点は、夭折である。シェリーは 29 歳、クレインは 32 歳で、いずれも水死している。
シェリーは自家用の帆船エアリエル号が嵐に遭って転覆、不慮の事故死であった。これに対して、クレインの
方は、メキシコからニューヨークへ向かうオリザバ号の欄干を乗り越えて転落、おそらく自殺と見られてい る。
第二に、恋愛面において、これら二人の詩人はそれぞれ彼らが生きていた当時の社会的規範から大きくはず
れていた。シェリーは、伝統的な結婚制度を否定していた。彼は、結婚によって一人の配偶者に縛られるべき
ではないと考えていたのである。一方、クレインの方は同性愛にはまり込んでいた。彼が女性を愛することが
できるようになったのは、晩年になってからのことであった。
第三に、シェリーとクレインの間には、作風の面でも多くの類似点が見られる。まず、両者の詩作品はイメ
ージが豊かであり、感覚的である、という点において古今東西の詩人達の中でも群を抜いている。また、理想
郷、あるいは永遠的なるものを追い求める傾向、詩人の視線が上方に向かう傾向、等も両者に共通した気質と
言える。ただし、シェリーにあっては視点そのものが最初から極めて高い位置にある場合が多いのに対して、
クレインの場合には、地上(あるいは海上)の位置から天空を仰ぎ見ることが多いようである。大変に思い込
みのはげしい詩人であるのも両者の共通点である。
そして、第四に、シェリーもクレインもプラトンを読んでおり、程度の差こそあれ、それぞれの作品にその
少なからぬ影響が見られる。例えば、両者が強く意識していたと考えられる作品の一つとして『饗宴』
( Symposium ) が挙げられる。シェリーはプラトンの『饗宴』を全訳しているし、クレインは長編詩『橋』( The
Bridge ) 全体のクライマックスとも言うべき第八詩篇「アトランティス」(‘Atlantis’) の冒頭に『饗宴』からの
一節をエピグラムとして掲げている。
本稿では、シェリーとクレインのそれぞれ代表的な探求詩・恋愛詩である『エピサイキディオン』
( Epipsychidion ) と『航 海 』( Voyages ) の 比 較 考察 を 行うこ とに よ って、 これ ら 二つの 作品 の 類似点 ・相 違 点
を明らかにする。特に、共にネオ・プラトニズムの傾向を持つこれら二人の詩人が、
「有限なるもの」と「永遠
的なるもの」に対して、かなり異なるスタンスをとっていることに注目したい。なお、六つの詩篇から成るク
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レインの『航海』は、その一、二篇のみが英詩のアンソロジー等に掲載される機会も多いが、筆者はこれを飽
くまでも連作と見なす立場をとる。
2.P. B. シェリーの『エピサイキディオン』
シェリーは、1820 年 11 月 29 日、ピサ大学パキアーニ教授によってエミリア・ヴィヴィアーニという女性
に紹介された。横暴な父によって修道院に幽閉されていた、この美しい高貴な女性はたちまち詩人の心を捉え、
『エピサイキディオン』執筆の直接の霊感の源となった。
『エピサイキディオン』は、シェリーの作品中最もプラトニズムの傾向が強いものの一つとなっている。そ
の最大の理由の一つとして、彼がこれまで『アラスター、または孤独の霊』( Alastor; or, The Spirit of Solitude )、
『知的美に寄せるオード』( Hymn to Intellectual Beauty ) 等で探し求めてきた理想美を、初めて生身の人間の
中に見いだしたことが挙げられる。つまり、
『エピサイキディオン』はプラトンの「対型」(antitype) の概念、
即ち、人間はもともと一つのものが二つに断ち切られたために一人一人が自分の片割れを捜し求めるようにな
ったとする考え方、にシェリー自身の生々しい個人的な体験が加わることによって成立した作品なのである。
この詩の成立で、もう一つ重要なことは、当時のシェリーの読書傾向である。特に彼は『エピサイキディオ
ン』執筆と同時期にダンテの『新生』( Vita Nuova ) を愛読していた。『新生』に登場する天上的美を体現 する
ベアトリーチェが『エピサイキディオン』のエミリー像に多大な影響を与えたことは想像に難くない。
しかし、
『エピサイキディオン』には、プラトニズムの枠内に収まりきらない部分も多い。もっと正確な言い
方をするならば、外見上いかにもプラトンを踏襲しているかのように見えるために、却ってシェリーの独自性・
個性が強調されるという大変興味深い結果を招いているのである。
この詩のタイトル『エピサイキディオン』( Epipsychidion ) は、ギリシャ語で「魂の中の魂」(“the soul of my
soul”) という意味である。ノトプーロスによれば、これは「プラトン的部分属格」(“Platonic partitive genitive”)
にあたる。 1 従って、まずタイトルからしてプラトン的ということができる。さらには、この詩にはシェリー
に詩的霊感を与えたエミリア・ヴィヴィアーニ自身の言葉が題辞として掲げられているが、その内容は多分に
プラトン的である。題辞全体を次に引用する。
L’anima amante si slancia fuori del creato, e si crea nel infinito un
Mondo tutto per essa, diverso assai da questo oscuro e pauroso baratro.
恋する魂は、この世界を脱け出して無限の中に自らの世界−この暗黒の恐るべき奈落とは全く異な
る世界−を独り自らのためにのみ創り出すものである。
「この世界」(“creato”) とは、地上の人間の世界を指す。この題辞から読者は、
「愛する魂」が俗界を抜け出
して精神世界にはいっていく物語がこれから始まるかのような印象を受ける。つまり、有限と無限のプラトン
的二元論をふまえた作品を想起させる。しかし、この作品を最後まで読むと必ずしもそのようには感じられな
いのは何故か。
第一部冒頭わずか 70 行程の間に、シェリーはエミリーに対して「うるわしい精 (“Sweet Spirit”)」(l. 1)、
「あ
われな、囚われの鳥 (“Poor captive bird”)」(l. 5)、
「霊の翼をもつ高貴な心 (“High, spirit-winged Heart”)」(l.
13) 等、おびただしい数の比喩表現で呼びかける。これは、書き進めながらますます霊感が高まっていく詩人
が、たった今使った比喩に満足できなくなって次々に別の新しい表現を求めるからである。
次の箇所において、詩人のエミリーに対する評価は一応定まったかのように見える (ll. 112-123)。 2
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See where she stands!
a mortal shape indued
With love and life and light and deity,
And motion which may change but cannot die;
An image of some bright Eternity;
A shadow of some golden dream; a Splendour
Leaving the third sphere pilotless; a tender
Reflection of the eternal Moon of Love
Under whose motions life’s dull billows move;
A Metaphor of Spring and Youth and Morning;
A Vision like incarnate April, warming,
With smiles and tears, Frost the Anatomy
Into his summer grave.
見よ、彼女の立つところ!
愛、生命、光、神性、
そして変化はしても絶えることなき動きを
身にまとう必滅の幻影。
光輝く永遠の化身。
金色の夢の幻影。第三天を迷わす
「光輝」。その運行のもとに
人生の愚鈍な波が移動する
永遠なる愛の月の優しき映像。
微笑み、涙を浮かべながら
「骸骨」となった「霜」を夏の墓へと追いやる
肉体もつ四月のごとき「幻影」。
しかし、エミリーは「愛 (“love”)」、「生命 (“life”)」、「光 (“light”)」、「崇高 (“deity”)」、「動き (“motion”)」
を 有し て い る に もか か わ ら ず 、飽 く ま で も 「必滅の幻影 (“mortal shape”)」とされている。即ち、「光輝 く永
遠の化身 (“An image of some bright Eternity”)」であって「光輝く永遠」そのものではない。「金色の夢の幻
影 (“A shadow of some golden dream”)」であって「金色の夢」そのものではない。「永遠なる愛の月の優しき
映像 (“a tender / Reflection of the eternal Moon of Love”)」であって「永遠なる愛の月」そのものではないの
である。ごく普通の読み方をするならば、この部分は「プラトン的イデア」と「その形象」との関係をふまえ
て書かれており、差し当たりエミリーは「イデア」の「形象」に過ぎないということになる。ここで言う「形
象」とは、人間によって知覚された事物の像を指す。ところが、シェリーの詩の世界では「イデア」と「形象」
の区別が非常に曖昧になっていて、地上の「形象」が天上的な美に輝き、詩人を魅了してしまう、ということ
が実際に起こり得るのである。
第一部で顕著なもう一つのプラトン的な特質は、
「対型」の概念である。これは、人間はもともと一つのもの
が二つに断ち切られたために一人一人が自分の片割れを捜し求めるようになったとする考え方である。このこ
とを論証するためには、
「私はあなたのものではない、あなたの分身にすぎないのだ。(“I am not thine: I am a
part of thee .”)」(l. 51) および「私達は、楽譜のように似ていないが / 互いのために
造られたのではないだ
ろうか、・・・(“We−are we not formed, as notes of music are, / For one another, though dissimilar; . . .”)」
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(ll. 142-143) の二箇所を指摘するだけで十分であろう。次に、プラトンの『饗宴』の中で、この考え方があら
われている箇所をシェリーの訳で引用する。 3
Every one of us is thus the half of what may be properly termed a man, and like a psetta cut in
two, is the imperfect portion of an entire whole, perpetually necessitated to seek the half
belonging to him. . . . (191E)
従って我々は皆、本来一個の人間と呼ばれるものの半分で、二つに断ち切られたヒラメのようなも
のなのだから、完全な全体のうちの不完全な一部であり、常に自分の片割れを求めずにはいられな
いのだ。
第 二部 は 、 詩人 が理 想 の 女性 を求 め て 森の 中をさまよい歩く前半 (ll. 190-344) と、詩人の前方に三つの天
体、 月、 太 陽 、彗星が 現 れ る後 半 (ll. 345-387) の二つの部分から成る。特に前者における詩人の探究はプラ
ト ンの 真 理 の 探 究を 、 ま た 詩 人の 旅 す る 暗 い森は、ダンテの『饗宴』( Convito ) に見られる俗世のあらゆ る罪
悪、情欲、懐疑、困惑などが生い茂る暗い森を思わせる。
かつて詩人は「神聖な眠り (“divine sleep”)」(l. 195) の中で、「ある存在 (a Being)」(l. 190)に出会った。
この「存在」はまともに見ることができないくらいに眩しく光輝いているが、これは、例えばプラトンの『国
家篇』( Politeia ) で 、洞 窟 の囚 人 が太 陽 を直 視 できないことに通じる。この「存在」は、その歌声が「森 のさ
さやき、泉、花の香り」等から聞こえてくることから、自然界に偏在する「霊」と考えられる。しかし、この
「霊」の存在を感じるだけでは満足できなくなった詩人は、「我々の人生の冬の森 (“the wintry forest of our
life”)」(l. 249) に足を踏み入れ、自分の思想のかの偶像の影を、性急にも数多くの生身の女性の中に求めてし
まう。次に、256∼266 行目を引用する。
There,−One, whose voice was venomed melody
Sate by a well, under blue night-shade bowers;
The breath of her false mouth was like faint flowers,
Her touch was as electric poison,−flame
Out of her looks into my vitals came,
And from her living cheeks and bosom flew
A killing air, which pierced like honey-dew
Into the core of my green heart, and lay
Upon its leaves; until, as hair grown grey
O’er a young brow, they hid its unblown prime
With ruins of unseasonable time.
そこに、ベラドンナの青葉の茂みの下の泉のほとりに
毒を含む歌声をもつ、一人の女性がいた。
彼女の偽りの口から吐く息は、気の遠くなるような香のする花のようで、
その触感は電気にしびれるような毒を含んでいた−情欲の炎が
彼女の外見から私のはらわたに浸透し、
紅潮した頬と胸から
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悩殺の気が私のうぶな心の核に
甘露のごとく突き入り、心の葉身に
垂れ込め、やがて、若い額の上の髪が
灰色になるように
時ならぬ凋落をもって
未だ花開かぬ青春を覆い隠した。
この外見は美しいが内面は低俗、不実、肉欲的な女性は、詩人が求める理想美とは対極にある存在である。
N. I. ホワイト、4 J. A. ノトプーロス、5 E. R. ワッサーマン 6 等の批評家は、この女性を「ヴィーナス・ユ
ーレイニア」(Venus Urania) に対する「ヴィーナス・パンデモス」(Venus Pandemos) と見なしている。
ある日、詩人は「一人の女性 (“One”)」(l. 277) に出会う。彼女は「月」にたとえられ、「月」のように借り
ものの光を発するが、温かみを与えない存在である。その女性の影響下にある詩人は「生」と「死」から「こ
の者は我々の仲間ではない」と見放されてしまう。嵐を経験した後、ほの暗い森を歩いていた詩人は、遂に長
い間探し求めていた「幻影 (“The Vision”)」(l. 322)、即ち、自ら光を発する「太陽」にたとえられたエミリー
に出会う。
こうして、第二部後半では、詩人の目の前に「太陽」、「月」、「彗星」の三つの天体があらわれる。345∼346
行目、および 368∼370 行目を引用する。
Twin Spheres of light who rule this passive Earth,
This world of love, this me ;
この受動の「地球」、この愛の世界、
この「私」を支配する二つの天体よ、・・・
Thou too, O Comet beautiful and fierce,
Who drew the heart of this frail Universe
Towards thine own;
また君、おお美しく烈しい「彗星」よ、
このか弱い「宇宙」の心を
君の方へと引く・・・
シェリーは『詩の擁護』( A Defence of Poetry ) や、
『詩の四つの時代』( Four Age of Poetry ) における T. L. ピ
ーコックの姿勢を批判した 1821 年3月オリアー宛の手紙でも「太陽」を想像力、
「月」を理性の象徴として用
いている。また、カルロス・ベイカーは、「彗星」を人間の獣性 (appetitive part) の象徴と考え、嵐の原因と
見 な し て いる 。 7 し か し、 こ の 箇 所 で重 要 な こ とは、これら三つの天体の共 存 関 係 が 歌 わ れ て い る 点 で あ る 。
第二部前半における詩人の理想美探究は、
「人間の獣性」→「理性」→「想像力」と、低次元から高次元に向
かって上昇していくかのような様相を呈していた。ところが探究の最後で段階に来て、詩人は「太陽」、「月」、
「彗星」のすべてに存在価値を認めているのである。
「太陽」=エミリーに出会ったからといって、決して「月」
や「彗星」を見捨てるようなことはしていないのである。シェリーという詩人の理想美追求の特徴は、こうい
ったところに端的にあらわれているのではないだろうか。
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第三部は、楽園における船出の場面である。シェリーの場面設定によれば「イオニアの空の下の、ある島 (“an
isle under Ionian skies”)」(l. 422) であり、別の箇所では 「天、空、大地、海の間 (“twixt Heaven, Air, Earth,
and Sea”)」(l. 457) という、いささか曖昧な言い方がなされている。しかし、この楽園は、我々読者に地上の
どこにも存在しない場所であるかのような印象を与える。その原因として、第一に、その風景の描写が地上の
自然描写のように細かく精密であること、第二に、感覚イメージが豊かで、時には生々しいまでに強烈である
こと、そして第三に、地上における人間の愛の行為を連想させる表現が多く見られること、が挙げられる。
この部分には、
「詩人とエミリー」と「海と陸」が呼応関係にある、つまり「人間の愛の営み」を自然が模倣
していると見ることができる箇所がいくつか見られる。最初に、430∼434 行目を引用する。
The blue AEgean girds this chosen home,
With ever-changing sound and light and foam,
Kissing the sifted sands, and caverns hoar;
And all the winds wandering along the shore
Undulate with the undulating tide:
青いエーゲ海が、この選ばれた棲み家を取り囲む。
絶えず変化する音色と光と泡で、
ふるい分けられた砂や白い洞窟に接吻しながら。
そして海辺をさまよう風は
潮とともに流れ漂う。
海が「ふるい分けられた砂や白い洞窟に接吻」するという表現は、人間の男女の愛の営みを連想させるもの
である。次に 541∼548 行目を引用する。
We two will rise, and sit, and walk together,
Under the roof of blue Ionian weather,
And wander in the meadows, or ascend
The mossy mountains, where the blue heavens bend
With lightest winds, to touch their paramour;
Or linger, where the pebble-paven shore,
Under the quick, faint kisses of the sea
Trembles and sparkles as with ecstacy,−
ぼく達二人は共に起き、共に座し、共に歩もう、
紺青のイオニアの空の下で。
そして野をさまよい、苔の生えた山に
登ろう。そこでは青空が軽やかな風を吹かせて
身をかがめ、その恋人[愛する大地]に触れる。
また、海のすばやい、優しいくちづけに
恍惚として震え、きらめく
小石の磯にたたずんでいよう。
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544 行目から出現する、
「青空」が「身をかがめて」大地に「触れる」、あるいは、
「小石」が敷き詰められた
海岸が「海のすばやい、優しいくちづけ」を受けて恍惚状態になって「震え、きらめく」、といった詩的イメー
ジは、自然界の愛の調和を歌ったものであるにもかかわらず、人間の愛の行為を連想させる。
これらの詩的イメージによって、シェリーは恋人達と自然界が完全に調和した状態を描こうとしたと考えら
れるが、これによく似た手法が、後述するハート・クレインの『航海』にも見られる。
さて、プラトニズムの読み方でここまで読み進めてきた読者は、当然この第三部で、これまで遍歴を続けて
きた魂の安住の地としての精神世界が出現することを期待する。それにも関わらず、ここに至って我々は、シ
ェリーの理想郷が身体的なものを指向する、あまりにも地上的な感覚の楽園であったことを知って愕然とする。
しかし、もとよりシェリーは正統的なプラトン主義者ではない。シェリーの理想郷の本質を理解するためにま
ず必要なことは、彼岸と此岸、魂と身体、「永遠的なるもの」と「有限なるもの」、といったプラトン的な 二元
論を捨て去ることである。両者の間の壁が完全に取り払われた状態、即ち、両者が一元化することによって実
現する「地上の楽園」こそが、シェリーの理想郷の本質であったと考えられるからである。
しかし、作品の中で理想郷を実現させてしまった詩人は、自らの言葉の限界の壁に突き当たるという大きな
代償を支払うことになる。詩的インスピレーションと、作品を織り成す言語の間の深い溝を埋めることに失敗
した詩人は、次のように嘆き、絶句するより他に、この詩を締め括る術を知らなかったのである (ll. 587-591)。
Woe is me!
The winged words on which my soul would pierce
Into the height of love’s rare Universe,
Are chains of lead around its flight of fire.−
I pant, I sink, I tremble, I expire!
ああ、悲しいかな!
愛の類まれなる宇宙の高みに
私の魂が翔け上がるための翼もつ言葉の
火の飛翔を遮る鉛の鎖
私は喘ぎ、喪心し、震え、息絶える!
3.ハート・クレインの『航海』
ハ ー ト・ ク レ イン の『 航 海 』( Voyages ) は 、 エミール・オゥファー (Emil Opffer) というデンマーク出身の
船乗りとの恋愛体験に基づく作品であるが、この詩の中で実際の恋愛事件はほとんど語られていない。この詩
に登場する恋人は基本的には詩人一人であり(ただし、第五詩篇に二箇所、詩人の恋人のせりふの断片と思わ
れる部分がある)、詩人の魂の遍歴が語られた一種の探究詩と見ることができる。第一∼六詩篇は連作として、
「地上の愛 → エクスタシー → 喪失感 → 慰め → 時を超えた楽園のヴィジョン」という上昇のプロセスを
たどっている。また、シェリーの『エピサイキディオン』とは違って「海」が大変重要な機能をになっており、
女性のイメージが与えられている。この女性は、ある時は野性的で詩人を誘惑する存在であり、またある時は
平安や永遠のヴィジョンを与えてくれるものとされる。 従って、この詩では一貫して、海は三人称 ”she”、詩
人 の 恋 人 ( 男 性 ) は 二 人 称 “you” で 呼 び か け ら れ て い る 。 恋 人 と 自 分 に 言 及 す る 場 合 に は 、 当 然 一 人 称複数
形 ”we”、”our” 等を使用することになるわけだが、クレインの場合にはシェリーとは違って、それらがプラト
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ン的な「対型」の概念を形成するには至っていない。
第一詩篇で「腕白小僧達 (“urchins”)」(l. 2) に海岸線を越えないように忠告しておきながら、詩人は航海に
出る。「太陽は波に稲妻をたたきつけ (“The sun beats lightning on the waves”)」(l. 7)、「波は砂浜に雷鳴を
たたみ込む (“The waves fold thunder on the sand”)」(l. 8) とあるように、詩の冒頭では「海」も「太陽 」も
人間を威嚇する危険な存在とされている。
「 雷」は、全能の神ゼウスの武器であることを思い起こしておきたい。
第 二 詩 篇 で は 、「 海 」は 女 王の よ うに 君 臨し て い る 。 し か し 、 彼 女 は 二 つ の 面 を も っ て い る 。 一 つ は 「支 配
者」としての「海」であり、時には暴君ともなるが、それでいて、いささか気まぐれなところもある。第二詩
篇から 6∼10 行目を引用する。 8
Take this Sea, whose diapason knells
On scrolls of silver snowy sentences,
The sceptred terror of whose sessions rends
As her demeanors motion well or ill,
All but the pieties of lovers’ hands.
この海を受け入れよ。その全音域を一度に鳴らす弔いの鐘が
白銀の判決を書き記した巻物の上に響き渡る。
その法廷の笏を手にした恐怖は、
彼女の上機嫌、あるいは不機嫌な動作のなすがままに
恋人たちの敬虔な手以外のすべてを引き裂く。
「全音域を一度に鳴らす弔いの鐘」は、いかにも海の女王にふさわしい荘重な響きであり、
「白銀の判決を書
き記した巻物」、「法廷の笏を手にした恐怖」は裁判のイメージであり、厳しい裁きや冷たい死を想起させる。
彼女のもう一つの顔は、魅力的、誘惑的、かつ自由奔放な「水の精」、オンディーヌである。この連の 1∼5
行目を引用する。
−And yet this great wink of eternity,
Of rimless floods, unfettered leewardings,
Samite sheeted and processioned where
Her undinal vast belly moonward bends,
Laughing the wrapt inflections of our love;
しかし、堰を切ったように風下へと流れ出す
どこまでも広がる満ち潮の
この永劫の巨大な瞬き。
金襴を敷き詰めながら行進し、
彼女の巨大な水の精の腹が月に向かって湾曲し、
ぼくたちの愛の覆い隠された抑揚を笑う。
「金襴を敷き詰めながら行進し」は、女王が臣下の者どもを引き連れて行進している光景を彷彿させるが、
それに続く詩行「彼女の巨大な水の精の腹が月に向かって湾曲し」からは、とてつもない力も秘めた豊満な女
性のイメージが浮かび上がってくる。水の精の腹の円形は、それと相似形の「月」に向かっているのである。
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また、第二詩篇では「海」は時計のねじを巻く役割をもになっており、時を支配するものとされている点にも
注目しておきたい。
「海」以外の主要なイメージに目を向けると、まず恋人たちの乗る船が「カリブの海をさすらう吟遊の帆船
(“minstrel galleons of Carib fire”)」(l. 22) と形容されていることが目につく。ここでは、元来正反対のもの
である「水」と「火」の融合がはかられているわけであるが、「火」は恋する詩人の情熱をあらわし、「水」は
夢幻的な世界をあらわす。また、ここにおける「火」のイメージは、第六詩篇において「不死鳥」=「詩人」
が再生するための炎のイメージの伏線にもなっている。
常に永遠の世界を仰ぎ見ようとせずにはいられない、この詩人の生来の気質が第二詩篇の末尾の部分にあら
わ れ て い る こ と に も 注 目 し て お き た い 。「 ぼ く ら を 現 世 の 岸 辺 に つ け な い で お く れ (“Bequeath us to no
earthly shore”)」(l. 23) という詩行からは、究極のヴィジョンに到達するまでは、いかなる「地上の海岸」に
たどり着くことも拒否しようとする詩人の並々ならぬ決意のほどがうかがえる。また、
「天国を仰ぎ見るアザラ
シの波しぶきに煙った大きく見開いた目 (“The seal’s wide spindrift gaze toward paradise”)」(l. 25) におけ
るアザラシには、詩人自身の姿が投影されていると考えられる。何故なら、このアザラシの目は「天国」の方
を見つめているからである。自分をアザラシに見立てることによって、詩人は自己卑下をしているのであろう
か。詩人は最初から地上的なものはあまり眼中にはなく、むしろ、天上的なもの、永遠的なるものを捜し求め
ているのである。そして、詩人はここで、恋人との一体感の中にそれを見いだそうとしているかのようである。
第三詩篇は、愛が ピー ク に到達 した 場 面である。何よりも「血縁 (“consanguinity”)」(l. 1) という言 葉が、
二 人 の 緊 密 な 関 係 を あ ら わ し て い る 。 ま た 、「 ぼ く の 体 に 巻 き つ く リ ボ ン の 水 路 (“ribboned water lanes I
wind”)」(l. 5) とあるように、この場面では詩人と海が一体化している。ちょうど詩人が恋人を求めるように、
海は空と結合しようとしているのである。
And so, admitted through black swollen gates
That must arrest all distance otherwise,−
Past whirling pillars and lithe pediments,
Light wrestling there incessantly with light,
Star kissing star through wave on wave unto
Your body rocking!
こうして、黒く膨れあがるいくつもの門をくぐることを許される。
さもなければ、四方八方を塞がれてしまうだろう。−
いくつもの旋回する柱と、しなやかな切り妻を通り抜けると
そこは、光と光が絶え間なくもつれ合う世界。
星に口づけする星は、波に重なる波を通り抜け、
揺れるきみの体を目指す!
「黒く膨れあがるいくつもの門」は、愛の精神的な高みに到達するためには必ず通らなければならない 門で
ある。同時に性的な含蓄もあるだろう。
「いくつもの旋回する柱」、
「しなやかな切妻」は大きな波の詩的表現で
あるが、これらには教会や神殿のイメージが重ね合わされていることから、二人の愛が神聖なものであるとさ
れていることが読み取れる。そして、その背後にあるのは、男同士の愛が神聖なものであるという考え方であ
ろう。特に注目しておきたい詩行は、
「星に口づけする星は、波に重なる波を通り抜け、/ 揺れるきみの体を目
指す!」である。 詩人の欲望が海の行為に投影されていると見ることができるからである。ここではまさに、
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「空」、
「海」、
「恋人たち」が一体化し、しかも三者が同じリズムで「揺れて (“rocking”)」いるのである。この
愛のエクスタシーの状態は、地上的であるが永遠の性質をも帯びている。第二連の最後の行は、第三連(15∼
18 行目)の最初の行に受け継がれる(行数計算上、両方合わせて第三詩篇の 15 行目ということになる)。
and where death, if shed,
Presumes no carnage, but this single change,−
Upon the steep floor flung from dawn to dawn
The silken skilled transmemberment of song;
そこで、死は流れ出すことはあっても、
敢えて殺戮を計ることはせず、ただこの一つの変容があるだけ。−
それは夜明けから夜明けへ、険しい海底の上へ投げ出される歌。
巧みに織りあげられた絹のごとく、解体を変容に変える歌。
第 二 連 中 断 の 直 後 、 第 三 連 の は じ め に 「 死 (“death”)」という語 が出現す るこ とから、 この 愛のエク スタ シ
ーが「死」と表裏一体の関 係にあること が明らかになる。1行目 “shed” には、1.「(愛がピークの状態に到
達 し 、) こ ぼ れ る 」、 2 .「( 愛 を 通 じ て 死 を ) 振 り 切 る 」、 3 .「( 血 を ) 流 す 」、 の 3 つ の 意 味 が 込 め ら れ て い
る。”transmemberment”(「解体を変容に変える」)は、”transfiguration”(「変容」)と “dismemberment”(「分
割」)からクレインが生成した造語である。しかし、この場面においても、恋人の姿ははっきりしない。
第三詩篇の最後とシンタックス上つながっている第四詩篇でも、愛のピークの状態が続く。この詩篇は、
「す
べてが犯しがたい芳香を放ち (“All fragrance irrefragably”)」(l. 9)、「花輪で飾る (“wreathe”)」(l. 11)、「花
と羽根に輝く譜表の流れ (“Bright staves of flowers and quills”)」(l. 15)、
「 あらゆる愛の秘密の櫂と花弁 (“The
secret oar and petals of all love”)」(l. 25) 等、花のイメージに満ち溢れている。しかし、第三連「この瞳と唇
は 、 ぼ く た ち の 歩 み の 中 に 今 日 / 花 と 羽 根 に輝く 譜 表の流れを 堰 き止めてし ま い、まずぼ く が / 愛を語るた
めに死の潮に沈まなければならなくなるのではないだろうか。(“Shall they not stem and close in our own
steps / Bright staves of flowers and quills today as I / Must first be lost in fatal tides to tell?”)」(ll. 14-16)
からは、熟成した二人の愛がやがて破局を迎えることが予感される。ここで二人の愛について語る「肉体をも
つ言葉 (“the incarnate word”)」(l. 17) は、飽くまでも地上的な有限の世界の言葉に過ぎない。この詩句は、
後 の 第 六 詩 篇 で 現 わ れ る 天 上 的 な 永 遠 の 世 界 の 「 創 造 の 陽 気 な 花 弁 を つ け た 言 葉 (“Creation’s blithe and
petalled word”)」(l. 21)、「想像の言葉 (“The imaged Word”)」(l. 29) と対比関係にあり、しかも後者は前者
が変容したものであることを指摘しておきたい。
第五詩篇では、恋人たちは海岸で「月」を眺めている。
「月」は、心変わりの象徴である。ここでは、詩人の
恋人の肉体は存在するものの、精神的にはいないも同然である。失恋した詩人の精神状態を反映するかのよう
に、第三詩篇とは対照的に、今や自然界のあらゆるものが冷たくよそよそしいものになっている。ここに至っ
て初めて、「この世に / こんなにすばらしいものはないよ (“There’s / Nothing like this in the world”)」(ll.
13-14)、「−それに、すべてを理解するなんて無理だよ!(“−And never to quite understand!”)」(l. 18) 等の
恋人自身の言葉の断片が聞かれるのが、いかにも皮肉である。
第六詩篇冒頭で、詩人は一人で冷たい海を泳いでいる。しかし、ここでは泳ぎ手と船のイメージがだぶって
いる。つまり、詩人自身の体が船にもなっているのである。
「ああ、潮は一つに溶け合いながら空へ (“O rivers
mingling toward the sky”)」(l. 9) は、第三詩篇と同様に、ここでも「海」と「空」が愛の融合状態にあるこ
とを示している。この詩篇で重要なのは、再生のシンボルである「不死鳥 (“the phoenix”)」(l. 10) である。
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不死鳥は、その時期が来ると自然に体が燃えて自分の灰の中から新たに蘇えるとされている。
「−汝の遺棄船で
あり盲目の客は / 待機し火に焼かれる (“−Thy derelict and blinded guest / Waiting, afire”)」(ll. 12-13) と
あるように、
「詩人」=「 吟遊の帆船」は、ここで不死鳥のように新生の炎に焼かれることによって、再生をは
かるのである。こ の炎 は、 第二 詩篇 にお ける 「カリブの火の海をさすらう吟遊の帆船 (“minstrel galleons of
Carib fire”)」(Ⅱ.l. 22) の恋の情熱の炎が変容したものと考えられるが、両者は全く性質を異にしている。
「シ
ロッコ (“siroccos”)」(l. 17) は、新しい生命が空、つまり神のもとから地上に送り込まれて来たことによって
発生したもので、創造の前に必要な詩人の内面の嵐の状態をあらわしている。
第六詩篇では再び海の女神が現われるが、この「横たわる女神 (“the lounged goddess”)」(l. 22) には、も
はや第二詩篇の暴君的、野生的な女王や、誘惑的な水の精オンディーヌの面影はない。この女神は、詩人に恵
みや平安を与えてくれる親しみやすい存在である。第六連を引用する (ll. 21-24)。
Creation’s blithe and petalled word
To the lounged goddess when she rose
Conceding dialogue with eyes
That smile unsearchable repose−
創造の陽気な花弁をつけた言葉が
横たわる女神のもとへと流れて行った。
すると彼女は体を起こして、「話してごらんなさい」と言ってくれた。
微笑む瞳に不思議な平安を湛えて。−
「微笑む瞳に不思議な平安を湛えて」いるこの女神は、詩人のガイド役であり、詩人に永遠・調和のヴィジ
ョンを与えてくれる。M. D. ウロフによれば、これは海の女神アンフィトリテ (Amphitrite) であるが、 9 リ
チャード・グレイは、恋愛・美の女神アプロディーテー (Aphrodite) であるとしている。 1 0 この女神が詩人
に示す究極の理想郷は、「美の島 (“Belle Isle”)」である。最後の二連を引用する(ll. 25-32)。
Still fervid covenant, Belle Isle,
−Unfolded floating dais before
Which rainbows twine continual hair−
Belle Isle, white echo of the oar!
The imaged Word, it is, that holds
Hushed willows anchored in its glow.
It is the unbetrayable reply
Whose accent no farewell can know.
静かに燃える誓約よ。「美の島」よ。
−花開き浮かぶ高座よ。前方の虹は
髪を編み、永く連ねる−
「美の島」よ。櫂の白いこだまよ!
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それは、想像の<言葉>。その輝きに
無言の柳の木々を錨でつないでいる。
それは、裏切ることのない応答。
決して別れを告げることのない永遠の抑揚だ。
「美の島」は、現実に存在するカナダ北方のニューファンドランド島とラブラドル半島の間の「ベル・アイ
ル海峡」とたまたまその名称が合致するが、これは基本的にはクレインが創作した地名であり、詩作に不可欠
な詩人の理想郷、絶対的な美を指すものと考えられる。この「美の島」は、この第六詩篇の「創造の陽気な花
弁 を つ け た 言 葉 (“Creation’s blithe and petalled word”)」 (l. 21) お よ び 「 想 像 の < 言 葉 > (“The imaged
Word”)」(l. 29)と同等視されているが、これらは先に見た第四詩篇「肉体をもつ言葉 (“the incarnate word”)」
(Ⅳ.l. 17) が変容したものである。つまり、第四詩篇における地上の世界の「言葉」が、第六詩篇において永
遠界の「言葉」に格上げされたのである。そしてこのことは、シェリーの『エピサイキディオン』末尾の「翼
もつ言葉 (“The Winged words”)」(l. 588) が詩人の魂の飛翔を妨げていたのと好対照を成している。
「花開き浮かぶ高座 (“Unfolded floating dais”)」(l. 26) は、永遠のヴィジョンが掲げられた祭壇であり、
その前方には「虹 (“rainbows”)」(l. 27) がかかっている。
「虹」は、
「橋」をはじめとしてクレインが生涯好ん
で 使 用 し た 様 々 な ア ー チ 型 の イ メ ー ジ の 一 つ で あ り 、 完 全 性 や 不 滅 性 の 象 徴 で あ る 。「 無 言 の 柳 (“Hushed
willows”)」(l. 30) という詩句も、「柳」が死の象徴であり、それが黙ることを余儀なくされていることか ら、
これも一連の永遠性の象徴の一つと見なすことができるであろう。
このように『航海』の六つの詩篇を順に読み進めてくると、我々読者は、クレインにあっては人間的な愛と
理想郷との間には大きな隔たりがあったということに気づかされる。この点において、クレインの『航海』は、
恋人エミリーとの結合によって直ちに理想郷が実現してしまうシェリーの 『エピサイキディオン』 とは本質
的に異なっている。この詩の第六詩篇において、詩人は「不死鳥」のように一度火に焼かれて灰になり、そこ
から蘇えることによって、初めて永遠のヴィジョンを得ることに成功するのであるが、シェリーの詩にはこの
ようなプロセスは認められない。クレインにとって、理想郷を求める旅を完結させるためには、その最終段階
において「死から再生へ」という重要な儀式が必要だったのである。
4.結論
シェリーの作品には、「永遠的なるもの」の追求、「対型」を求める愛、無尽蔵の愛、一つの限定されない愛
の対象等、多くの点においてプラトンの思想との親近性が認められる。1 1 しかし、彼の詩の世界にあっては、
「地上的なもの」と「天上的なもの」の境目ははっきりしない。この点に限定して言えば、シェリーという詩
人はむしろ非プラトン的である。特に『エピサイキディオン』においては、恋人との融合により直ちに理想郷
が実現し、その理想郷の世界の描写は、極めて地上的な感覚イメージによって行われる。シェリーの理想郷の
本質は、「永遠的なるもの」と「有限なるもの」が一元化されることによって実現する「地上の楽園」である。
一方、クレインにとって、
「地上的なもの」と「天上的なもの」ははっきりと分離している。その意味におい
て、クレインはプラトンのより忠実な継承者である。彼にとって、恋愛とは本質的には地上的なものであった。
もちろん、クレインの詩の世界においても、愛のエクスタシーが永遠の性質を帯びる瞬間はある。しかし、飽
くまでもそれは一時的なものに過ぎない。だからこそ彼は、
『航海』において自らの恋愛体験を永遠のヴィジョ
ンに昇華させるために、炎を媒介とした「死から再生へ」の儀式を経る必要があったのである。
最後に、創作過程の観点から言えば、詩的インスピレーションから詩的言語を生成するプロセスにおいて成
功を収めたのは、シェリーよりはむしろクレインの方であった。
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P. B. Shelley, Epipsychidion
詩人に創作インスピレ
ーションを与えた恋人
恋人達が乗る船
Emilia Viviani(異性)
Hart Crane, Voyages
Emil Opffer(同性)
−作中では “Emily” (l. 407)
“Our bark (is as an albatross)”
(l. 416) − 精神遍歴の船
−作中では “you” (Ⅳ.l. 8) 等
“minstrel galleons of Carib fire”
(Ⅱ. l. 22) − 吟遊詩人の船
“the Carib(bean) Sea” (Ⅱ.l. 22)
“The blue Aegean (Sea)” (l. 430)
海は女神に喩えられる:
水の精「オンディーヌ」”Her undinal
vast belly” (Ⅱ. l. 4)
航海する海
→恋愛・美の女神「アプロディーテー」
あるいは、「アンフィトリテ」
“the lounged goddess” (Ⅵ. l. 22)
“an isle under Ionian skies”(l. 422)
=”’twixt Heaven, Air, Earth, and
目
的
地
Sea” (l. 457)
“Belle Isle” (Ⅵ. l. 28) (=the Strait of
Belle Isle?)
−実在の地名があてられているが、実
−実在の地名があてられているが、
体は詩人の内なる理想郷
実体は詩人の内なる理想郷
「永遠的なるもの」と「有限なるも
理
想
郷
詩的イメージ
「失恋」→「死」→「再生」のプロセ
の」の一元化により実現する「地
スを経て、はじめて到達できるもの
上の楽園」
・恋人との愛=地上的
・恋人との融合により直ちに実現
・理想郷=天上的
感覚的
感覚的
いろいろな種類の感覚イ
メージが複合的に折り重なる−共
イメージが豊か
感覚イメージ
「花」のイメージが重要
「 光 」、「 天 体 」 の イ メ ー ジ が 重 要
恋人達と自然界の性愛的なイメージ
恋人達と自然界の性愛的イメージ
自然が人間の愛の行為
ll. 430-434
Ⅱ. ll. 13-14
を模倣
ll. 541-548
Ⅵ. l. 9
“The winged words on which my
“the incarnate word” (Ⅳ. l. 17)
soul would pierce / Into the height
→・”Creation’s blithe and petalled
言
葉
プラトニズム
word” (Ⅳ. l. 21)
of love’s rare Universe, / Are
chains of lead around its flight of
→・”The imaged Word” (Ⅵ. l. 29)
fire.” (ll. 588-590)− 詩 的 イ ン ス ピ
永遠のヴィジョンをとらえることに
レーションの飛翔を妨害
成功
「永遠的なるもの」の探究
「永遠的なるもの」の探究
「対型」を求める愛
魂と身体の二元論
イデア論
無尽蔵の愛 (ll. 160-167)
一つに限定されない愛の対象
(ll. 149-159)
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<注>
J. A. Notopoulos, The Platonism of Shelley: A Study of Platonism and the Poetic Mind , Durham & North Carolina:
Duke U. P., 1949, p. 279. ノ ト プ ー ロ ス の 言 う 「 プ ラ ト ン 的 部 分 属 格 」 と は 、 ”soul of my soul,” “soul out of my soul,”
“Life of Life,” “world within a world” と い っ た 類 の 語 句 を 指 す 。
2 シ ェ リ ー の 詩 の テ キ ス ト に は Shelley’s Poetry and Prose: Authoritative Texts Criticism , ed. Donald H. Reiman, W. W.
Norton & Co., 1977. を 使 用 し た 。 ま た 、 引 用 箇 所 の 日 本 語 訳 は 、 す べ て 筆 者 に よ る も の で あ る 。
3 シ ェ リ ー の 散 文 の テ キ ス ト に は The Complete Works of Percy Bysshe Shelley , eds. Roger Ingpen & Walter E. Peck.
10 vols., Gordian, 1965. を 使 用 し た 。
4 N. I. White, Shelley , 2 vols., Secker & Warburg, London, 1947, Ⅱ . p. 288.
5 J. A. Notopoulos, The Platonism of Shelley: A Study of Platonism and the Poetic Mind , Durham & North Carolina:
Duke U. P., 1949, p. 288.
6 Earl R. Wasserman, Shelley: A Critical Reading , The John’s Hopkins Press, Baltimore, 1971, p. 433.
7 Carlos Baker, Shelley’s Major Poetry , New York: Russell & Russell, 1961.
8 ハ ー ト ・ ク レ イ ン の 詩 の テ キ ス ト に は Complete Poems of Hart Crane , ed. Marc Simon, New York & London:
Liveright, 1993. を 使 用 し た 。 ま た 、 引 用 箇 所 の 日 本 語 訳 は 、 す べ て 筆 者 に よ る も の で あ る 。
9 M. D. Uroff, Hart Crane: The Patterns of His Poetry , Urbana, Chicago, & London: Univ. of Illinois Press, 1974,
p. 75.
1 0 American Poetry of the Twentieth Century , ed. Richard Gray, Cambridge U. P., 1976, p. 230. な お 、 こ の ア ン ソ ロ
ジーでは『航海』の第一、二、三、六詩篇のみが収録されている。
1 1 シ ェ リ ー の 作 品 に 見 ら れ る プ ラ ト ニ ズ ム に 関 し て は 、望 月 健 一「
『 エ ピ サ イ キ デ ィ オ ン 』に 見 ら れ る 愛 の 哲 学 (1)」、「 同
(2)」(『 人 文 社 会 学 部 紀 要 』 富 山 国 際 大 学 Vol.1 , 2001, pp. 127-137, Vol.2 , 2002, pp. 13-18) を 参 照 。
1
本稿は、日本英文学会中部支部第 56 回大会 (於 信州大学、2004 年 10 月 16 日) における研究発表の原稿に
手を加えたものである。
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