在郷軍人会と地域社会からみた歴史教育 ~秋田支部の実態と民衆

在郷軍人会と地域社会からみた歴史教育
~秋田支部の実態と民衆~
教科教育専攻
社会科教育専修
荒川
2510017
潤
問題の所在と研究の目的
本研究の目的は、在郷軍人会が発会した明治から昭和期における陸上自衛隊秋田駐屯地
史料館所蔵『歴史』の史料分析とその史料を用いた秋田県における「在郷軍人会と地域社
会」の関係性、特に在郷軍人と民衆の実態を時代区分ごとに解明し、在郷軍人会が民衆に
どのように戦争協力を求めていたのか、総力戦体制形成のためどのように在郷軍人会が民
衆にかかわっていったのか、在郷軍人会秋田支部に着目して、その実態を明らかにしてい
くことにある。また、『帝国在郷軍人会三十年史』と秋田県の地方紙である『秋田魁新報』
などを用いて『歴史』を客観的に分析し、在郷軍人会秋田支部と地域社会のつながりやそ
の影響による変化、民衆の変化についても明らかにしていく。そして、これらの内容研究
をもとに筆者が講師として働いている秋田和洋女子高等学校で授業を実施していく。
第一次世界大戦以降、国家の有する軍事的、政治的、経済的、人的諸能力を最大限に組
織し動員するという新たな戦争形態である国家総力戦体制が構築された。国家総力戦体制
はその後、日中戦争やアジア・太平洋戦争などにおいて必要不可欠なものになってくる。
その国家総力戦体制は、民衆の力を総動員しなければ遂行できないものであった。そのた
め総力戦を担いうる新たな国家体制の構築が軍部を中心に進められた。それが軍部と民衆
とをつなぐ結節点的な役割を果たす在郷軍人会の存在である。在郷軍人会を構成している
在郷軍人とは、現役の軍隊生活を終えて予備役、後備役などに退いた軍人のことをいう。
帰郷した存在として、在郷軍人としている。また、まだ完全に兵役を離れていないという
意味があるので、西欧流にいえば、
「軍服を着た市民」と表現することもできる。
国民の戦争協力を主導し、戦前のファシズム体制を代表する組織としてのイメージが強
い在郷軍人会。しかし、その実態はあまり知られていない。民衆と軍部との結節点的役割
を果たしていた在郷軍人は国家総力戦体制を形成するために一役かったことには違いない
がはたしていつ、どのようなタイミングで民衆を扇動していったのであろうか。本部の実
態ですらほとんど解明されていない今日、特に地方支部である在郷軍人会秋田支部の実態
についてはどの出版物や論文においても皆無であるといっても過言ではない。本部よりも
地方支部がより民衆に近い立場にいたのは事実である。その地方支部の動きを追っていく
と軍部と民衆との関係性がより鮮明になってくるし、民衆を動員して国家総力戦体制を構
築したメカニズムも明らかになる。そのため、在郷軍人会秋田支部を研究対象として在郷
軍人会と民衆との関係性を解明する。
各章の概要
第1章
在郷軍人会の実態と史料分析
第 1 章では、帝国在郷軍人会(本部)と帝国在郷軍人会秋田支部の実態をそれぞれ明ら
かにし、本部と下部組織の命令系統と組織図について焦点化した。また、本研究でもちい
る陸上自衛隊秋田駐屯地史料館所蔵在郷軍人会秋田支部『歴史』
(以下、
『歴史』と称する)
と『帝国在郷軍人会三十年史』の一次史料の史料分析並びに概要を論じ、それらの史料を
もとに年表を作成して本部と地方支部を比較しながら関係性についても明らかにした。
第 1 節では、在郷軍人会を構成する在郷軍人に焦点をあて、徴兵検査や兵役制度から在
郷軍人の実態を明らかにした。本来ならば、兵役の経験がないものを在郷軍人とはしない
が、戦局の悪化にともなって在郷軍人が大量動員されるとその適用範囲が第二補充兵役、
第二国民兵役と範囲が拡大し、兵役の経験のないものが在郷軍人会の会員とされ、終戦間
際には在郷軍人会の定義すら存在しえなくなってきたことが研究の結果明らかになった。
それは在郷軍人会の質の低下にも繋がっているといえる。
第 2 節では、
『帝国在郷軍人会三十年史』をもとに帝国在郷軍人会がつくられた目的、発
会当時の支部役員をまとめ、年表を作成し本部の変遷をたどった。また、帝国在郷軍人会
組織図を作成して軍隊官僚制と自治制が上部機関と下部機関とではっきり区別されている
ことを明らかにした。そして、本部からの命令を下部組織に浸透させるトップダウン方式
の命令系統が存在していたことを組織図をもちいて立証することができた。
第 3 節では、
『歴史』をもちいて秋田支部発会式の様子と発会式当時の支部役員について
まとめた。それによると特別会員には各地域の郡長・市長が名を列ねていることから地域
を基盤とした組織であったことがうかがえた。在郷軍人会は地域との繋がりが強い組織で
あるといえる。また、第 2 節同様、秋田支部組織図を作成し、下部組織である連合分会と
の関係や本部と秋田支部との関係性を秋田支部の視点から明らかにした。また、秋田支部
の年表を作成しその変遷をたどることによって客観的に秋田支部を考察した。
第 4 節では、
『歴史』と『帝国在郷軍人会三十年史』の史料分析とその概要を論じた。そ
の結果、両史料とも史料価値が非常に高いことを確認することができた。
第2章
軍備縮小期における軍部と地域社会の実態
第 2 章では、大正 11(1922)年から昭和 6(1931)年の軍備縮小期の山梨軍縮と宇垣軍
縮に焦点をあて、その間におこなわれた現役将校学校配属令と青年訓練所令の 2 点につい
てその実態を明らかにし解明した。当時おこなわれた軍縮は、単なる軍備縮小ではなくそ
の後におこる国家総力戦体制を睨んだ軍備の近代化のための軍縮であった。そのため、軍
縮の交換条件として現役将校学校配属令と青年訓練所令が制定された。これはもちろん軍
縮によって余剰となった現役将校、兵、在郷軍人の再就職先を斡旋するような法令となっ
た。そして、現役将校、兵、在郷軍人が学校現場に入り軍事教練を実施することで総力戦
体制の礎を築いていくことになる。第 1 節では軍備縮小期の実態を論じた。
第 2 節の現役将校学校配属令では軍縮によって冗員となった現役将校を男子中学校以上
の学校に配属し、その配属将校を教官として学生・生徒に軍事教練を行い、戦時に必要な
予備役初級幹部を確保しようとするものであった。それは、将来の国家総力戦体制を見据
えたものであるといえるし、軍縮によって余剰となった将校の再就職の場でもあった。し
かし、軍事教練を通しての軍国主義化への移行によって民衆が軍部に抵抗していた実態も
『秋田魁新報』の記事をもとに明らかにした。
第 3 節では、男子勤労青年に主として軍事訓練を行うため設置された青年訓練所が在郷
軍人と青年との接触面となっていることを資料を通して明らかにした。そして、このこと
は民衆の間に軍国主義化進めていく契機となったといえる。また、青年訓練所においても
現役将校学校配属令と同じように反軍感情が湧き起こっていたことを軍服着用の服装問題
を例に明らかにすることができた。第 2 章を通して、まだこの時代は軍国主義化に対する
民衆の抵抗が存在していることが明らかになった。しかしこれ以降、総力戦体制が形成さ
れてくることによってますます軍国主義化が強まり民衆の自由な行動は軍部を中心に抑圧
されてくることになる。その様子については第 3 章「総力戦体制下における軍部と地域社
会の実態」で論じる。
第3章
総力戦体制下における軍部と地域社会の実態
本研究の核といえる第 3 章では、総力戦体制の形成にいたる過程を満州事変期、日中戦
争期、アジア・太平洋戦争期の 3 つの時代区分にわけて在郷軍人会秋田支部が総力戦体制
形成のためにどのように秋田県の民衆に関わっていったのか『歴史』を中心史料としても
ちいて『帝国在郷軍人会三十年史』も活用しながら解明していった。第 1 節では、秋田県
の農業恐慌の実態を通して満蒙開拓移民と軍用機献納運動について明らかにし、当時並行
して起こっていた国際連盟脱退についても在郷軍人会の視点から解明していった。農業恐
慌による農村の疲弊を解消するために国策として満蒙移民が推奨されることになるが、移
民の先遣隊として兵役を終了した在郷軍人が武装移民として派遣される。それは秋田県に
おいても募集され、秋田県内から多くの在郷軍人が武装移民として満州へ渡った。ここで
は、秋田県の武装移民の募集や選抜について『秋田魁新報』をもとに論じた。その結果、
第一次移民団は屯田兵式農業を主体としていたため東北を中心とした第八師団管内から募
集を募っていたこと、東北の中でも秋田からの募集が多かったこと、秋田県からは 41 人の
兵役を終了したものが選抜されたことが明らかになった。そして、武装移民の経過を『秋
田魁新報』から論じた。結果から言うと武装移民は失敗であった。しかし、政府は国策と
して以後も貧しい農村の農民たちを満州の地へと駆り立てて行くことになる。
軍用機献納では農業恐慌の影響のため献納費用が集まらず、予算規模も縮小されていっ
たことを『秋田魁新報』をもとに立証していった。この軍用機献納運動を出発点として在
郷軍人による民衆を巻き込んだ銃後活動が熱を帯び、その後の銃後活動の支援体制を形成
する契機となってくる。また、国際連盟脱退の運動については、本部よりも下部組織であ
る秋田支部や各連合分会の動きが活発であったことを横手町在郷軍人分会を例に明らかに
していった。それは、本部中枢の軍人よりも民衆が連盟脱退を強く望んでいたとことだと
いえるし、軍やマスコミなどの戦争熱を煽った扇動が功を奏した結果だともいえる。
第 2 節では、戦争の長期化、拡大により大量の兵士の動員が続いた。そのため、民衆の
エネルギーを戦争に向けて大量動員していく国民精神総動員運動が活発に行われていく。
国民精神総動員運動においては『在郷軍人会三十年史』をもとに論じた。そこでは国民の
戦意昂揚と総力戦形成のため在郷軍人会を中心に協力を図っていることがわかる。そして、
運動を通して大衆エネルギーを戦争動員へと変化させていきファッショ的国民統合を進め
ていったのである。また、当時は日中戦争の拡大により在郷軍人も兵士の不足から戦場へ
と大量動員されているため在郷軍人会の存続自体も困難になっていた。そして、今まで在
郷軍人会が担っていた銃後活動も在郷軍人会から国防婦人会へと役割の主体が変化した。
在郷軍人は他人のことよりも自分のことに注意を向けなければならなくなったのである。
そのことを、ここでは各史料を通して明らかにしてきた。在郷軍人の動員は銃後活動だけ
に影響を及ぼすのではなく、兵士の不足から未入営補充兵の軍事教育にも力をいれねばな
らなくなってくる。そのため、当時の在郷軍人会においては国防婦人会への支援と軍事教
育が主な活動になっていった。その結果、日中戦争期においては、在郷軍人の大量動員に
より在郷軍人会の本来の活動すら支障をきたすようになってきたのである。
第 3 節では、昭和 17(1942)年 4 月に行われた翼賛選挙を中心に論じた。ここで明らか
になったことを 2 点述べる。一つ目に在郷軍人会秋田支部を中心とした在郷軍人の選挙支
援があったことが『歴史』から明らかになった。また、それを裏付ける資料が『秋田魁新
報』からも発見することができた。推薦候補者を設けて政府が選挙干渉をするだけでなく、
在郷軍人会や青年団が組織となって政治干渉をしていたことは驚きである。二つ目として、
激しい選挙干渉にもかかわらず非推薦候補が 2 名当選し、特に第二区でトップ当選してい
る者まで表れた。また、非推薦候補者の得票総数が全体の半数近かったことは、東条政権
に対する批判的な人々の存在を明らかにしたといえる。以上のことは、後に東条内閣打倒
の有力な一要素となっていくのである。
終章
教材化の試み
最後に終章では、本研究の内容を踏まえ、高等学校地理歴史科の「日本史A」における
授業化を試みた。本授業案は 2012 年 1 月 18 日に秋田和洋女子高等学校 2 年 E 組で実践し
た内容である。生徒の身近にある満蒙開拓移民に焦点化し、多くの資料を用いながら授業
を行った。平成生まれの生徒に約 67 年前に起こった戦争について考えさせることによって
平和への強い願いを考えさせる契機にしたかった。また、2011 年 3 月 11 日に起こった東
日本大震災、その後の原発事故などに関連させた授業を行い、これからの日本を背負って
立つ生徒一人一人の問題意識を高めていきたい。そんな願いも込めて本授業を行った。授
業を通してこれからも生徒一人一人に問題提起をしていき、批判的に物事を見る目を育て
ていきたい。
本研究の成果と課題
1.本研究の成果
本研究の全体の成果を述べる。本研究は在郷軍人会と民衆の実態を解明し民衆に与えた
影響について明らかにしてきた。地域社会を基盤とした在郷軍人会は総力戦体制を構築す
る上でなくてはならない存在だったといえる。それは日中戦争以降の戦火の拡大によって
ますます在郷軍人会の役割が拡大し、在郷軍人が台頭してくる契機となる。また、軍部と
民衆とを繋ぐ結節点的役割をはたしたことも本研究を通して解明したことである。在郷軍
人会の存在がなかったら民衆を動員する総力戦体制を構築することは不可能であっただろ
う。そう言わせるまで、在郷軍人会は民衆を戦争へと動員する能力に長けていたし、民衆
に大きな影響を及ぼす存在であった。それは銃後活動だけでなく、村政や町政を基盤に政
治においても影響力を持っていた。そのことは翼賛選挙を通して明らかにしてきたことで
ある。
在郷軍人会とは何か。在郷軍人会とは軍国主義化を推進し総力戦体制を構築した組織で
ある。また、それによる反軍感情を緩和し民衆の支持を得るための最大の地域組織であっ
た。軍部は在郷軍人会を利用し、地域においては各支部を使いながら民衆を戦争へと扇動
していったのである。
2.本研究の課題
本研究においては、3 つのことが課題として残った。
まず 1 点目としては帝国在郷軍人会(本部)の実態を最後まで追えなかったことである。
本部の実態については『帝国在郷軍人会三十年史』の史料をもとに論じてきた。しかし、
この史料は帝国在郷軍人会が発会してから 30 年間の流れを記述したものであり、最後の記
述は昭和 16 年 12 月 8 日の「大東亜戦争勃発し、稜威八紘を掩ひ、皇道四表を光被す。万
歳!1」である。そのため、それ以降の本部の実態を明らかにすることはできなかった。
そのため、本研究においては昭和 17 年以降の本部と秋田支部との関係性について内容が薄
くなってしまった。他の資料を活用し、本部の実態を解明することでさらに本部と秋田支
部との関係性が明確になり、本研究が前進すると考える。
2 点目としては兵事書類を用いて在郷軍人会並びに在郷軍人会秋田支部を考察すること
である。本研究では、在郷軍人の動員や召集に触れてきたが数値を用いて動員や召集の実
態を論じることができなく深みのない研究に成ってしまった。本来ならば「在郷軍人名簿」
や「兵事関係綴」など兵事書類を用いて実証的に論じなければならないが秋田県において
はこの兵事書類が不明のため、数値化して論じることができなかった。秋田県の兵事書類
をもちいてさらなる研究をする必要がある。
3 点目としては、支部の下部組織である連合分会に焦点をあてて考察することである。
本研究では、在郷軍人会本部と支部について着目し論じてきた。そこからでも、民衆の様々
な実態をみることができたが各分会ごとの実態は史料がないため不明であった。しかし、
分会の実態を解明すると地域ごとの特色をも引き出すことができると考える。そのため、
連合分会についても焦点化する必要がある。
これらの 3 点を今後の課題として在郷軍人会秋田支部のさらなる解明に取り組んでいき
たい。
【註】
帝国在郷軍人会三十年史編纂委員『帝国在郷軍人会三十年史』(帝国在郷軍人会本部、
1945 年)、附録 17 頁。
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