「文学のあけぼの」―アイヌ叙事詩『ユーカラ』の研究を中心として ― 」

昭和三十四年十月二六日ご講演
「文学のあけぼの」―アイヌ叙事詩『ユーカラ』の研究を中心として ―」
話 で皆 様に御 興味 をお感 じさ せ申す 事が
ヌの方の調べを少々致しました。片寄った
介の言葉にございましたように、私はアイ
は、誠に光栄の至りに存じます。只今御紹
の つま らない お話 に御清 聴を 煩わす こと
今夕図らずも、こういう立派なお席で私
ただ日本語というものの起源、発達、何時
という事は思いもかけませんことでした。
ら そう いう調 べを して一 生涯 を暮そ う等
のであります。私、何も好き好んで始めか
実 は伝 えられ てい なかっ たよ うに感 ずる
うなものに過ぎませんでしたから、進歩が
物 好き の人の 書き つけた もの だとい うよ
に お り まし たジ ョ ン・バ チ ェ ラー (
か。私が大学に入りました頃に長く北海道
日 本語 との関 係が どうい うも のであ ろう
う、こうやって見て来ますと、アイヌ語と
州語との関係がどう、蒙古語との関係はど
関係にあるか、朝鮮語との関係はどう、満
か、支那の言語と日本の言語とはどういう
金田一京助先生
出来るかどうか、心許ないところもござい
の代、誰が始めたとも知らず、国民と共に
人々の消息を伝えた本というものは、通り
をしているに過ぎません。このため、この
あ るか ないか の本 当にみ すぼ らしい 生活
同じ一脈が北海道の諸所に名残を留めて、
いた異民族でございましたが、今日はこの
り から 我々の 先人 と境を 接し て生活 して
アイヌと申しますと、日本の歴史の始ま
と考える次第でございます。
して、何かの御参考にして載ければ倖せだ
う 事を 私の体 験か ら一応 お聞 きにな りま
ると、こういう大事な事もあるものだとい
中 にも 親しく 下り て行っ て親 切に観 察す
琉 球語 と日本 語と はどう いう 関係に ある
語と日本語が先ずどういう関係にあるか、
ければなりません事は、日本語の周囲の言
ますというと、第一番に私共の手をかけな
学致したのでございました。そうやってみ
て、大学へ入りました時に、言語学科へ入
存在するか、という問題に興味を持ちまし
姉妹の関係に立つ言語学、世界のどの辺に
とか、或いは発生の形態とか、或いは兄弟
展したものであろうか、この日本語の起源
財産が、何時、如何に、どのような所に発
徴のある、変った、美しい国民的な大きな
存 在し て今日 に至 りまし たこ の極め て特
ら響くところの音を、この耳で聞いてこの
しに、直接北海道に渡ってあの人達の口か
そ うす るのに は西 洋人の 書い たもの でな
をもって特有に観察しなければいけない。
究するのには東洋人の頭で、東洋人の見方
取り難い論断がございますので、これを研
たけれども、どの頁にも我々はそのまま受
の 書か れまし た文 法書や 字引 も出来 まし
出、到底そのまま納得出来ません。この方
れますのを読んでみますというと、疑問百
い うよ うな大 胆な 学説等 を発 表して おら
アイヌ語が即ち日本語になったのだ、そう
John
ますが、一見あるかないかのような存在の
) と いう 宣 教師 の 方 等 は 、 日 本
Batchelor
語はどれもこれもアイヌ語が基になって、
一遍の人の外側からの観察、或いはほんの
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演
講
塾
敬
和
部落を尋ね廻って行きますと、胆振の国の
ら 胸を 躍らせ なが ら一歩 一歩 あの人 達の
実を現地に立証する事が出来て、自分なが
至るところ、こちらで考えている事の事
時でございましたでしょう。
大学二年の夏休み、まだ私が二十三、四の
を生じまして、初めて探検致しましたのが
頭 で考 え直し てみ たいと いう ような 欲望
です。けれども、今日の言葉だけを調べて
のでありますから、学問的な興味も湧くの
く 事に よって はじ めて深 い研 究が出 来る
録でもあるなら、遡ってそこまで調べて行
に もし 文字で もあ って古 いア イヌ語 の記
大した興味でもないのでありますが、彼等
何も必要というものは別にありませんし、
うにしゃべるようになったからといって、
のを耳で聴いて口で真似をして、彼等のよ
直後だったので、ではそのユーカラとやら
っておりました。そのため、それを始めた
法 とは かなり 違っ た味の ある 事だと は思
いうふうに出来ている事でも、日本語の文
「打たれる」というこの受身の言葉がそう
ますのに、アイヌ語では頭の方が変化して、
」 と いう ん
時には「アエンキク
a-en kik
ですね。日本語だったら語尾の方が変化し
」と申しました。「打たれる」という
kik
東の果て鵡川という所のアイヌ部落で五、
いう難かしい物語の言葉では「私は打たれ
う。まるで違う。はてな本当かしらと思っ
いて、たった一歩も遡って古いところまで
う 事が もし本 当だ ったら 最も 耳寄り の事
て、バチェラー博士の書いたアイヌ語の字
六 人の 爺さん 達と 話をし てお ります うち
が 自分 で自分 の戦 物語を 物語 ったユ ーカ
だと思いまして、その時にその言葉がふだ
引を鞄から出して引っくり返して見ても、
た」という事を「アエンキク」というかと
ラというものがあって、その言葉だったら
ん の言 葉とど うい うふう に違 うかと いい
そんなものは書いていない。怪しいなと思
行けないとすると、興味が少いはず。それ
難しいものであり、また日本人も西洋人も
ましても、ただ顔を見合せてはっきり教え
いましたが、満更私をかついででたらめを
に、一人の爺さんが、「旦那がそういうよ
手をつけていない。そういうアイヌ語を調
てくれるものはございませんでしたから、
云う様子ではなかったのです。
云いましたら、皆ワーッと笑いました。そ
べてこそ、アイヌ語を調べたといえるんじ
「アイヌ語で神様の事をカムイというが、
翌日は日高の沙流川河口の佐瑠太 サ(ル
が 日本 ではま だ専 門的に これ を研究 しよ
ゃないだろうか」。そういう事をいう年寄
この言葉では何というか」と云ったら、
「そ
うな言葉を調べたって、アイヌなら誰でも
りが一人おりました。後でやっと聞きまし
の言葉でも神様はやっぱりカムイだ」と申
プト と
)いう所でその老人達にその事を云
いましたが、誰も教えてくれようとはしま
う云わないらしいのです。何と云うかと言
たが、この人は、ここの土地の唯一のユー
しますから、「何だ何も変ったところがな
せん。それから打つ、打たれるというよう
うという学者が現われなかった所以(ゆえ
カ ラと いうも のの 名人だ った んだそ うで
いじゃないか」といいましたら皆笑いまし
な事を聞いてみるというと、真面目な顔し
知っている事だ。アイヌの方にもそういう
す。それでそういう事を私に歌ったもので
たが、「いやそれでもやっぱり違うんだ」
て、「チコモナシアイエカラカラ」という
ったら「チコモナニアイエカラカラ」と云
す から 、私は 聞き 耳を立 てて 驚きな がら
とこう申すんです。その時私は一寸「打つ」
ものだというのです。昨日とほぼ同じです。
ん)でございました。丁度この爺さんの言
「歓びだ!」。何故ならばアイヌの言葉を
という言葉をきくと、アイヌ語で、「キク
ふだんの言葉と違った、アイヌの古い祖先
調べるといって、彼等の毎日話しているも
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たら、「宜しい、教えて上げよう。ただ此
ラというものを教えてもらいたい」と云っ
の爺さんを呼んで、この爺さんへ「ユーカ
すが、そこへ入って行って七十幾つの白髪
― 今は その跡 に義 経神社 が建 ってお りま
の 初代 の英雄 が天 から降 りて 都した 所―
の 沙流郡の平取(ピラトル)というアイヌ
たものですから、喜び勇んで翌日愈々日高
い う言 葉の存 在す ること が明 らかに なっ
の差であるかも知れませんが、兎に角そう
日は「チコモナシアイエカラカラ」。方言
昨日は「チコモナニアイエカラカラ」、今
へとへとになりました。早く終ってくれり
は全身汗とあぶらになってしまいまして、
のし続けですから、一時間もかかった時に
出来ますけれども、のべつまくなしに緊張
るまで休んで、また緊張しいしいする事が
か ポー ンとは ねる 音がす ると 次の歌 に移
緊張しましょう。然しながらあの緊張も誰
一 音で 取ろう とし ますか ら息 をも止 めて
りました。カルタを取る時、皆さん始めの
ら、微かな音でも聞き落すまいと懸命にな
時 に意 味が違 って 来るか も知 れませ んか
に 一音 の字も 聞き 落した んで は解釈 する
書くのは口で言うのよりは遅い。そのため
るけれども、ギリシャの昔にはまだそんな
た 時に はライ ルと いう竪 琴に 合わせ てい
ラッドをバード(吟遊詩人)が歌って歩い
んだそうです。中世のヨーロッパのあのバ
人 々に 時とし て高 吟して 聞か せたも のな
懸命に暗誦して、主に盲がそれを暗誦して、
か った 遠い昔 から 忘れち ゃい けない 事を
一大叙事詩を持っておりますね。文字の無
は『イリアッド』、『オデッセイ』という
もまだ終っていない。丁度昔のギリシャ人
長い。もう何百書いたか知りませんけれど
なー、と思ったのです。詩でもってこれ程
記』とかいったような散文ではなく、詩だ
座を叩いてそれが伴奏でした。そうやって
方 の耳 から入 って 此方の 耳か ら逃げ て行
わない、少しいらいらして来ます。二時間
歌ったものなんだそうです。聴く人がこう
洒落たものは無いから、一本の棒でもって
から書いてごらん」という。願ったり叶っ
も続いた。まだ終らなかった。鉛筆がちび
寝 そべ ったり 横に なった り腰 かけた りし
ゃいいのに、何時までたってもお終いと云
たりの事を云ってくれたものですから、宜
れて来ましたから、「爺さん、済まないが
て聴いている昔の絵が、名画にあります。
ったんでは何にもならない。ゆっくり言う
しい、では書き留めよう、とそう云って鉛
一寸待ってくれ」と云って、そうですね二
けれども、だんだん研究の結果、何時の代
筆を五、六本削りまして、今のように万年
待ってもらって鉛筆を研ぎながら、書い
と も知 れぬ文 字の ない古 い時 代に民 族の
ホ メロ スの作 とい われた もの であり ます
の を全 身の神 経を 二つの 耳に 集めた よう
た とこ ろを試 しに パラパ ラめ くって みま
時間か三時間か書いた後でした。
に息をもこめて、じっと聞きすまして書い
すと、そう思って書いたんじゃないですが、 間に口ずから伝えて来た。大抵盲が記憶が
筆がありませんでしたから、爺さんの云う
ていったんです。「イレシュシヤポー イ
うに書いていったんです。何の事だか一つ
ロカメー オカアニシケー」。そういうふ
レ シュ パヒネ ー
ユ ーカ ラとい うの は祖先 の英 雄話だ とい
いたようです。それで私は驚いたのです。
抜けて空いている。丁度英語の詩集でも開
どの頁もどの頁も、真中から下がスーッと
れども、熱心な学者の総合研究によってと
て、一時はそれも散逸してしまうんですけ
が 入っ て来て それ を書き 記し たのが 残っ
の最後の盲、ホメロスの時にギリシャ文字
いいからそれを専門にした。ホメロスはそ
カ ツコ
も解らない。これで私は驚きながら胸轟か
うが、『平家物語』とか或いは『源平盛衰
ランマ カネ ー
せて書いて行ったんですが、何と言っても
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事詩というものの真実な姿だった。
れは戒めの聖典でもあった。それが古代叙
もあった。また不心得者があった場合にそ
った時、それを引用して裁くから、法典で
――、民族の歴史でもある。また問題が起
そ の通 りを民 族が 事実と 考え ている から
った、 ――今の文学とは意味が違って、
ロッパ文学の曙といわれ、人類の初めて持
ロッパ文明のそもそもの魁となった。ヨー
うとう全容が明らかになって、これがヨー
際 にこ のロー マ字 で以て 横書 きにず うっ
速記していける人があり得ようがない。実
間を取り、到底語部の伝えているまま筆で
な字画の多い、一音を一字で書く大変な時
無かった時代、然もその文字は漢字のよう
ども、紙の少なかった時代、殊に毛筆しか
追 っ付 いて書 いて 行く事 が出 来ます けれ
と いう のを持 って いるか らし て言う 人に
今 日我 々が鉛 筆だ の紙だ のロ ーマ字 だの
が筆記したものだといっているけれども、
り まし てアイ ヌを 土木作 業に 使って 夜は
こ れは 今の北 海道 を随分 よく 跋渉し てお
た。最上徳内という出羽の産した大探検家、
夜明かし等をやるものだ」という事があっ
見えてこれが始まると皆大層喜んで徹夜、
れだけは解らないそうだ。面白いものだと
る事も困難であるから、通辞に頼んでもこ
なかなかこれを語るものは少ない。理解す
が出来て、
「蝦夷の中に軍談浄瑠璃がある。
ところは宝永の頃に『蝦夷記』という書物
があってユーカラといって、兎に角、皆、
一緒に寝てはアイヌ語で会話をしたり、ア
たんですね。ただ歌のところになるという
浄 瑠璃 のよう なも のだと 思っ て書い てい
と 書い て行く こと すらこ んな 苦しい 速度
疲れたも、もう吹き飛んでしまいました。
と 伝え の本文 通り のもの を書 き写す に留
たんですね。声を出して歌うものですから
そ う い う事 を私 は 本で読 ん で いた もの
是 非と もこれ をお 終いま で書 き取ろ うと
まる。あとのところは謡い物であったかも
浄 瑠璃 といっ たに 違いあ りま せんけ れど
イヌの言葉をきいたり、話に喜んで耳を傾
懸命になって書いたので、終った時には夜
知れないけれども、梗概を簡単に漢文のよ
も、別にこれを韻文だと自覚した人は誰も
なのであります。ですから凡そ太安万侶は
の十二時が過ぎました。見る影もない生活
うな特別な文体で書き下した。然し我国上
なかったし、また一つの標本も筆記してい
ですから、「何だ、アイヌは叙事詩を持っ
の人達に云ったって、こういう長い叙事詩
代 もこ ういう ふう なもの では なかっ たん
ないのであります。言葉が難しいし、いく
けたりした人でありますが、この人の書き
をなかなか聞かせてくれないけれども、心
だ ろう かとい う想 像させ ると ころの 貴重
ら 仮名 でも容易に 追っ付 いて 書いて いけ
稗 田阿 礼の暗 誦し ている とこ ろを筆 記し
の ある 老人が こうやって 好意 をもっ て慕
な事実だったものですから、今のうちなら
ないからですね。然し皆さんローマ字だっ
ているんじゃないか」という、驚きと歓び
ってくれた事に私がはじめて遭遇した。日
まだ他の村にもこれがあるそうだから、何
残 した 本の中 にや はり蝦 夷に 軍談浄 瑠璃
本民族も文字の無かった時代には語部(か
とかしてこれを知っている者のいる限り、
と
たら、
Ka二字で書かなきゃいけません
けれども片仮名では「カ」と一字で書きま
たといっても、ただその梗概だけを筆記し
たりべ)というものがあって、昔からの古
探して記録をしてみたい。そういう念願を
で一人で胸がふるえるようでした。眠いも
い氏族の伝説を語り伝えていた。日本の最
す。「ノ」といったらローマ字なら二字で
書かなきゃいけないのを一字で書く。です
起して帰ったものでありました。
古い文献を読んでみますというと、早い
古 の文 献の古 書記 という もの は稗田 阿礼
と いう 人の暗 誦し ていた もの を太安 万侶
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ま した あの長 さで ポキッ と点 が打っ てあ
仮名が、皆丁度、今私が区切って発音致し
あるが、訳がついていない。そしてその片
名で書いてある。片仮名でずうっと書いて
ころに、その軍談浄瑠璃というものが片仮
の 単語 を四千 程集 めた書 物の お終い のと
人の一等の蝦夷通辞・上原熊次郎がアイヌ
を書くには書き得るんです。最上徳内の友
か ら片 仮名は 案外 ユーカ ラの ような もの
う事を聞きましたから、そこへ行きました。 し い 別 れ を 告 げ て 帰 っ て 来 た と 結ん で あ
い るか ら近文 のア イヌが 観察 出来る とい
かぶみ)のアイヌが集って鱒の漁をやって
称えている頃ですが、そこへ一夏、近文(ち
おりました。まだその頃はオチヨポッカと
ッカ、日本軍が占領して落帆村と改称して
単身出かけてみました。東海岸のオチョポ
すれば行けるようになったのだった。早速
太 は日 本軍の 手に 帰して 誰で も行こ うと
ります。この『北蝦夷古謡遺篇』というの
夷古謡遺篇』三千行を土産に此の人達と惜
の樺太アイヌ語の文法を、それから『北蝦
四十九日の滞在の朝、四千の単語と、大体
を話しました。その一等お終いのところへ
『心の小道をめぐって』と題してその一条
れたり、親しんでくれるようになったから
晩 々々 ものを 持っ てきて 名前 を教え てく
よ うに なって 、す ぐにそ れか ら彼等 は毎
日 経っ た時に 私の 脇へ便 々た る太っ 腹を
この時の苦心談は『心の小道』という随筆
し ゃる かと思 いま すから この 時の事 は省
出 して いる親 爺の ラマン テと いうの が来
る。この筆記を見ても韻文だという事がは
きます。しかし、何処の人間だか知らない
た。これは酋長だと申して居りましたが、
は、樺太のユーカラなのです。
ども、まだこの人達も叙事詩などというよ
者が初めて来たという風な調子で、ちっと
ふだんは解らず屋で、よく酔っ払って居り
になっておりまして、この随筆は案外多く
う な事 があろ うと 考えも しな かった んで
も歓迎してくれませんでしたし、相手にし
ました。酔ったらもう理屈の通らない、酋
っきりしているのです。片仮名でどの句も
すし、誰一人、詩だともいわずに私の時代
てくれませんでしたから、実に懊悩しまし
長 であ りなが ら困 ったと いう 風にさ れて
こ の ユ ーカ ラを 採 集した 事 は 随筆 には
まで来たのであります。
た。然し、子供だけは私が近寄っても一向
の 人に 愛読さ れま して中 学の 読本の 一年
さ あ こ うい うも の を何と し て 解釈 した
平気で、何かわいわい騒いでおりますから、 いる親爺だったんですが、私の脇へ仰向け
ど の句 も同じ 長さ であっ て決 してだ らだ
らいいか。樺太アイヌの方言を観察して両
に寝て、片方の手は眼の上にのせて片方の
省いて居りますから、その時の様子を一寸
方 を比 較対照 して 行った ら同 じ言葉 が両
こ の子 供を相 手に してど うや ら単語 を採
手 で腹 を叩き なが ら何か 唸り 出した ので
の下巻に大抵出ておりますから、或いは皆
方に分れるのだから、分れる以前の古形を
集する事が出来、その単語を覚えた限り大
す。びっくり致しました。というのは昔、
らと続いたり、短い言葉がポツンと出て来
想定して行く事が出来る。そしたらこのユ
人達のいる所へ行って、出るに任せて覚え
元 旦と いう画 工が 幕府の 役人 につい て北
申し上げてみましょう。滞在して十五、六
ーカラが初めて解釈出来るんだがなあ、と
た単語でそのものを指して言うと、言葉こ
さ んの 中にも お読 み下さ った 方がい らっ
ど うか して樺 太に 行きた いと 念願致 しま
そ心の城府に通う一筋の道なんですね。皆、 海道樺太を廻りました。写真班の役目をし
た りす る散文 では ないの であ ります けれ
したが、大学三年の論文等を出して及落も
にやっと笑って、私にもやっと興味がつく
て 二百 幾つか の絵 を画い てそ れが谷 元旦
未だ解らない中に丁度日露戦争が終り、樺
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ょう、脾腹を叩いてこれが伴奏なんです。
仕方、これより簡単な事は出来ないんでし
れもいらない、一等原始的な文学の演奏の
らいはまだ持っているのですけれども、そ
てきたユーカラ、簡単な、炉縁を叩く棒く
ロス時代の文学、それから今の日高で聞い
な樺太アイヌがやったのであります。ホメ
にいたその儘の状態を、私の目の前で素朴
い うこ とだろ うと 不審を しな がら忘 れず
るんですね。それを私は、はてこれはどう
ら、その片方の手は眼の上にのせて寝てい
て、便々たるお腹を出してそれを叩きなが
の 中に 蝦夷が 浄瑠 璃を語 ると ころと いっ
の『蝦夷紀行』として一冊あるのです。そ
のですから、そう云ったら喜んで「宜しい」
だか、こちらには解らなくなってしまうも
ーウーと沢山つくというと、何処迄が言葉
抜きにしてくれ」「よし」。節をつけてア
じゃもう一遍やるから書け」「よし、節を
いか」と云ったら、何と思ったか「宜しい、
も遺すから、もう一遍静かにやってくれな
たという事を東京の人にも教え、後の世に
ン テと いう親 爺が こうい う事 を知っ てい
ちゃ何にもならない。書いて、樺太のラマ
「おい爺さん、それを私が聞いてすぐ忘れ
な 、そ れを目 の当 りに見 た驚 きと歓 び!
ね。こういう人間の文学活動の最も原始的
い たん ですが 外だ ったら 本当 に撃壌 です
お やお やとい って あきれ た顔 をして 居り
なのがずうっとなっているきりですから、
を見たら、ただみみずのぬらくらしたよう
いうふうに読めるか、といって、私の帳面
どやとやって来て、そいつらも見たらそう
でも云うように威張って、そしたら皆どや
もんだ」と云って、自分の教え方がいいと
たこの旦那、たった一遍で覚えた。どんな
えても、覚える奴は一人もいない。昨日来
もんだ、お前達はな、幾ら教えても何ぼ教
親爺喜ぶの喜ばないの、「おい皆、どんな
云って今私が朗読したように朗読したら、
あったら違ったと云って直してくれよ」と
でみる。その代り少しでも違ったところが
腹という事は腹を打つという事なんだ。私
の悦楽。撃壌という事は地べたを叩く、鼓
田而食帝力何有於我哉)、という太古の民
撃壌而歌曰、日出而作日入而息鑿井而飲耕
はどっちでもいいんだ(有老人、含哺鼓腹、
が天子になろうと、舜が天子になろうと我
し、陽が入るというと家に入って休む。堯
うのがあるものですね。陽が出ると出て耕
の文献にありまして、「撃壌の歌」等とい
「鼓腹撃壌の楽しみ」という事は古い支那
音の弱い奴です。驚きながらそれを筆記し
大人の発音でもドイツ語のチェー・ハー
て何というか聞き取れなかったのですが、
な発音、これが子供達の言葉にもありまし
時 々ハ ーッフ ーッ としゃ っく りする よう
シ
シ クン ネ
イ ヨツ セレケ レ
ケ
ワ
イエカラカラ
タ ノンネ チヤ チヤ
と云って歌い出しましたのは「ポンラモロ
ような、幻を追っかけながら、それを歌っ
びて、酔心地で異常意識へ入って夢を見る
を一本持って来たんです。焼酎。あのユー
時頃はもう夕方なんですが、何処からか酒
ても樺太は早く日が暮れますので、午後三
明日発つというその日の夕方、夕方といっ
ましたが、これも然し皆その晩はそれっき
の 目の 前でラ マン テが腹 を叩 いて唸 った
た。その親爺、「どういう風に出来た、読
て行くものらしいのです。それが無いと、
ラ ムペ
トーキシパーケタ
アナマ ヨイ エ
シ ントコ テツ
何とか、あとを書きたいと思いながら、
残 念な がら酋 長な もんで すか ら漁業 に忙
しくってとうとう書く暇がなかった。愈々
ch カラというのは実は少し飲んで、微醺を帯
チウレンカレ」。
コ メウ ナタラ
プヤッサムパハノ
りで解散してしまったんです。
ら、聴き手はみんな平手でもって座ってい
んでみよ」と云ったものですから、「読ん
テム コンチ レシ
る座を叩くのです。家の中だから座席を叩
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塾
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一時頃に、「あっ間違った!」と云って、
と一緒に徹夜してしまったんです。夜中の
す。この時は随分苦しみました。これは私
て やろ うと云 って やって 来て くれた ので
です。偶々無理して手に入れて旦那に教え
れ が手 に入ら ない 限り来 ない のだっ たん
本当はやらない習慣なんです。だから、そ
さって、これを柳田國男先生が出版して下
古 い歌 の遺篇 とい う風に 標題 をつけ て下
えする人が無いかも知れないというので、
ら、北蝦夷古謡遺篇、遺った篇、あとお伝
生 が樺 太の事 を北 蝦夷と いう もんで すか
た。後にそれを出版する時に、柳田國男先
たのだったんです。それが三千行ありまし
け れば ならな くな った時 刻に やっと 終っ
西 古今 の有り とあ らゆる 文献 をあさ って
るというと、このユーカラと取組んで、東
入って毎日五時まで勤務しました。家へ帰
した。幸いに三省堂の百科辞典の校正部へ
いましたから、殆んど生活に困るところで
の 先生 の資格 が無 いと言 い渡 されて しま
た心が、すっかり当てがはずれて、中学校
しながら、アイヌ文学を研究しようと思っ
これを出版するまでの私の苦心。またこ
き抜いたり、アンダーラインを引いたり、
「今のところ読んでくれ、今のところ読ん
一遍読んでくれ」。又読むと「もう一遍読
れが字引きに一つもない言葉ばかり。それ
暗 記す る程や って もなか なか 意味が 通り
は、これを解釈しようと、一つの同じ言葉
んでくれ」と云う。もう私がこれでいいと
を 持っ て帰っ て何 とかし てこ れを読 書百
ません。然し樺太アイヌ語は、北海道アイ
すったものなんです。
云って止めようとしたくらいでしたが、そ
遍、意自ら通ずという事があるんで、暗記
ヌ 語よ りも古 い面 影を保 存し て居り まし
でくれ」。読んでしまうというと、「もう
し たら 躍起と なっ て怒る んで す。つ まり
する程毎日毎日取り組みました。勤務は、
いう事を許さなかった。とうとう翌日の午
るものですから、いい加減にして止そうと
れは神様の罰が当る。未来にまで考えてい
しくも嘘を書き伝えてはとんでもない、そ
聖なものであり、大事なものであり、いや
めのものではなく、神につながるもの、神
りますから、またお話の機会があるかも知
こんぐらかって、どっちも稀薄なお話にな
頃ですが、啄木の話までふれますとお話が
入りました。石川啄木と同じ下宿に暮した
た もの を校正 部に 一人欲 しい という ので
百科辞典の編集所、そこに言語学を卒業し
や っと 学校を 卒業 して翌 年か ら三省 堂の
意味が解りさえすれば、この頁の意味が解
なか意味が取れません。ここのところ一つ
に役立ったのでありますが、それでもなか
イ ヌ語 の研究 はユ ーカラ の研 究には 非常
居ります事を発見致しましたから、樺太ア
法が、北海道のユーカラの文法と一致して
て、丁度樺太アイヌ語のふだんの言葉の文
がここにもある、ここにもある。これを書
我 々の 文学の よう に聴い てた だ楽し むた
後一時頃でしたが、それでいい、それでい
るんだが、これが何という事だろうと思う
ども、学校を卒業してしまえばもう家から
れませんから、今日はアイヌのユーカラの
そうやって三省堂へ勤務致しました。実
補 助を 仰ぐも んじ ゃない と思 ったもんで
いと云って終った。樺太の夜明が早いので
な かな か夜が 明け ても終 らなかった んで
は、言語学という学問をやったために、そ
すから、僅かな俸給でやっと暮しているだ
と、何とかしてアイヌに会いたいんだけれ
す。それでいいと云って終った三千行を書
の 頃に は中学 や高 等学校 には 無い学 科な
けで北海道へ出かける旅費は余らない。五
お話をもう少し申上げさして戴きます。
いた時にはもう「旦那、舟が来ました」と
ものですから、中学校、高等学校の先生を
明け方三時頃にはもう明るくなりますが、
云 って 舟の用 意が 出来て 其処 を出発 しな
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講
塾
敬
和
月一日に亡くなりましたし、四月十三日に
ランス法の大秀才だったんです。これが二
んですが、法科大学へ行って法科大学のフ
甥、原抱琴という人が、一高の秀才だった
肺炎で亡くなり、二月には原敬という人の
持 った 子が四 十五 年の正 月の 七日に 急性
此の中私は結婚もして居りまして、初めて
のは、明治四十五年でございましたがね。
年間苦しんでしまった。その五年目という
きて行くかこれが問題だったんですが、た
日暇なので、ただ無収入だからどうして生
です。丁度失職しましたため朝から晩迄一
入 って 行ける よう な通用 券を くれた もの
な もの を作れ と云 って私 に博 覧会に 毎日
を見に来たお客さんに教えるように、簡単
ういう、セイバンではどういうと、博覧会
アイヌ語ではどういう、ギリアックではど
一覧の下に、例えば「今日は」という事は
類 学の 坪井正 五郎 先生が これ の諸言 語を
でがぶがぶっと食べる。それでももう問題
っ て来 て二度 分の 御飯を お茶 づけか 何か
りで、昼飯も食べずに、私は家に十時頃帰
情 熱的 な時と いう ものは 朝飯 を食べ たき
た。五十日の博覧会へ毎日行きましたが、
これ、何の事だ、と遺憾なく聞く事が出来
ありません。そして要所々々をここが何だ、
喜ぶのですね。何も喜ばせるのが目的じゃ
行 って それを 読み 上げる と本 当に彼 等が
行くのを毎晩々々待っているようだった。
田万年博士、柳田國男先生のお目にかけて、
は石川啄木が亡くなりましたし、畏れ多く
朝 飯た べると 博覧 会へ来 て囲 いの外 から
ア イヌ はこう いう 口伝え の文 学を持 って
じゃなかったんですね。
に なり ました ら三 省堂の 百科 辞典が 余り
ア イヌ へ向っ ても の云い かけ て彼等 の発
いる。詩ですから明らかにこれは叙事詩で
またまその時に今の家内が「絶好の機会だ
念 を入 れて校 正を 九校も 十校 も取る ため
音を聞いたり、会話の稽古をしてみたり、
すということをお話したら、ウーッと先生
も 明治 天皇が 七月 二十七 日に お亡く なり
に資本が固定して一時破産した事がある。
或いはものをとってみたり。夕方からお客
達は唸ってそれを御覧下さいまして、「こ
そうやって此の博覧会が済んだ時に、そ
編集所は解散になったために、私は失職し
さ んが 皆もう 帰っ て行く から アイヌ だけ
れ はア イヌと いう ものを 見直 さなき ゃな
から、何とか暮しは立てて行くから、後顧
て無収入になったのです。
退屈になる、そこへ私が入ってゆく。お客
らないな」と仰った。それから京都大学の
になりました。八月十八日になりましたら
も う 息 の根 が止 ま るよう な 年 であ りま
さ んが 誰もい なく なると アイ ヌの小 屋ま
新村出先生が、この叙事詩の中のアイヌの
の 樺太 の三千 行の 叙事詩 がす らすら と意
したが、此の十月一日から拓殖博覧会とい
み上げますというと、アイヌの驚きと喜び、 親爺が外国貿易に舟を乗り出す叙景、海の
で入っていける。そしてこのユーカラを読
中へざんぶざんぶと漕いで行く、国土の岸
の憂なくこの機会にうんとやれ」と云って
うものがあり、上野の池の端へ日本全国の
村 にさ え知っ てい る人が なく なると いう
が炉縁のように見える。今迄高いと思った
私の父が亡くなりました。本当にこの年は
異 民族 を郷里 と同 じ家を 造ら せて住 ませ
時に、「東京という所は幾ら人が多い所だ
山が炉縁のように低く見える。だんだん終
味が通ってきて、そしてこれを浄書して上
て博覧会のお客さんに見せる、そういう催
って、それを知ってる人がこの中に居よう
には、塵のように遙かに三角形に見えるだ
くれたものですから、「よし!」とばかり
しでアイヌが来たのです。北海道からも樺
とは思わなかったな」と云って喜んで私の
私の忘れ難い。あっ!おまけに十月の一日
太からも、ギリアック ギ(リヤーク も
)オロ
ッコも来た。セイバン(生蕃)も来た。人
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の方の達人を出した家だから、若い時に随
爺さんがいる。盲ではない時から、代々こ
調べたいなら、私の村にワカルパという盲
すのには、「旦那、そういうようなものを
北 海 道 から 来て い るアイ ヌ 達 が私 に申
のだったんです。
や っと 私の何 年か の苦労 が報 いられ たも
と いう ような 叙景 が詩の 形で うまく 出来
けになる、とそれも見えなくなってしまう
感激しましてね。この先生の為なら死んで
聞かれるということ、私も若い時ですし、
すが、まだ皆言わない中にそういうふうに
行 って やっと 承知 されて 来て 嬉しい んで
に お願 いする のに 繰り返 し二 遍も三 遍も
おっしゃいました時にはねえ、私は凡そ人
ーをポーンとほうり出して「是非呼べ」と
は万葉集以上じゃないか」と褒めて戴いて、 うか」。ポケットから自分のポケットマネ
ているものですから、「アイヌの海洋文学
もいいなと思ったものだったんですね。本
旅費は幾らだ」
「汽車賃十五円ばかり」
「そ
しかけなかったんですが、
「是非呼び給え、
話をしたんですね。私がまだ半分しか話を
イヌの老人がこれだけ暗記していたのか、
先生が私の十冊のノートを見て、一人のア
て文学部長の部屋を訪れた時に、上田万年
だろうという説が起っていた。これをもっ
ということは、不可能の事だからあれは嘘
あるし、人間一人の頭にあれだけ暗誦する
た んだ から暗 記す る必要 が無 かった 筈で
いうけれども、あの頃にはもう文字があっ
て いる ものを 太安 万侶が 筆記 したん だと
の古事記というものは、稗田阿礼が暗誦し
ぱいになったのです。丁度その頃に、日本
ユーカラを筆記させてくれた。十冊にいっ
っ てそ の頃に 私の 家内の 結婚 式に着 た帯
文 字を 持って いる この生 活か ら想像 して
分声はよし、節はよし、言葉も叮寧で皆を
い。これが沙流川下流のユーカラの代表的
だ の着 物だの とい うのが 何処 かへ行 って
は到底想像できないほど、暗記しなければ
そ れな らばも う問 題なく あの 疑問は 一遍
なものだ。『俺が死ぬというと沙流川のユ
しまいました。私の袴だの、紋付等も、手
ならないという心が盛んでありますし、暗
当に死物狂いでした。此の年寄りを呼んだ
ーカラが俺と一緒に亡びてしまう。知って
も通さなかったんですが、結婚式はフロッ
記しようとする努力が盛んですし、暗記し
喜ばせたものだが、盲になってからもう記
て死んで行けるんだがね』と云ってるんだ。 クコートだったもんですからね。だが、そ
い る人 に会っ て書 いても らっ たら安 心し
うそう上田万年先生から、アイヌ語の研究
慣れていて暗記力が旺盛であります。この
に 消し 飛んで しま うと云 って 喜んで 下す
旅費を送って来て下さりゃ、私連れて来ま
費用として百円ばかり下りましたから、そ
間に偶然にも知ったのですが、あの人達の
時、私は何も収入が無かったんですが、従
すよ」と云ってくれる婆さんが居ったので
れ を四 ケ月に 割っ て月に 二十 五円で 暮ら
暗記力というものは、道端の親爺をとらま
憶が一層よくなって、聞いたらもう忘れな
す。何とかしてこれをやり遂げたいと思っ
して、懸命にこれを筆記致しました。
ましたが、とうとうノックした。「入れ」
先生を訪ね、学長室の前を二三遍行き来し
或る日、(母校の)文学部長の上田万年
前を題にした二大雄篇をはじめ、十四篇の
ーカラの中のユーカラと云われる、刀の名
度の偉い物知りでして、私は、アイヌのユ
此の爺さんといったら、本当に敬虔な態
父さんのそのお父さん、ひいお祖父さんま
ている。恥しい話ですが私共お互い、お祖
そ の親 爺は誰 だと 十代く らい 前まで 知っ
えて、君の親爺は誰だ、その親爺は誰だ、
文字の無い時代の暗記力というものは、
ったのだったんです。
ていました。
とおっしゃるから、「はい」と云ってその
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間の間に言語学を、それから北蝦夷古謡遺
大正元年、その翌年は大正二年、その二年
く勉強致しました。此の明治四十五年即ち
仕様のない一、二年を、生涯のうち一等よ
そうやって私が生涯の一等困った、一等
事が解って来た。
い う事 から可 能だ という 事な んだと いう
不可能だと速断していたという事も、こう
像しますから、一人の人間が暗記するのは
らなかったんですね。今の世からすぐに想
なあと云われる。そういうことを今まで知
へ行ったら、これは笑いものです。無学だ
以上になると私も存じません。アイヌの方
では、今でも知っていますけれども、それ
と 自分 の生涯 の基 礎を築 く事 が出来 たの
かったようでありますし、そうやってやっ
ら、あの五十日の勉強中は飯など眼中にな
事 に火 を入れ た結 果にな って しまっ たか
いものか。即ち悲しみは私を駆って私の仕
さえ犠牲にしたこの仕事、生半可な事でい
しようとまでしたのでした。いやいや親を
ゃないかと、危なくアイヌ語の研究を放棄
の親が亡くなった今、まるでもう無意味じ
のためか、誰を喜ばせるための勉強か。そ
死なれるものですから、人間の出世とは誰
せ る事 が出来 るよ うにな らな い中に 父に
分 の収 入で親 へ美 味しい もの 一つ食 べさ
かも知れません。どうやらこうやら私が自
んだそうです。そして最後に自分が罹った。
っ て村 へ帰っ て皆 を加持 祈祷 して癒した
れましたけども、まだ半分だった。そうや
がら村へ帰ってしまった。十冊書かせてく
帰ってくれという手紙が来たので、残念な
療法なもんですから、うちへ帰ってくれ、
療 はこ ういう 爺さ んの加 持祈 祷が唯 一の
まった。医者がありませんので、病気の治
くれる、家内の姉の家族が病気になってし
でございましたが、爺さん達夫妻を養って
盲爺さんは、もっともっと教える爺さん
爺さんの村へ廻ったのであります。
つ て私 に沢山 教え てくれ まし た日高 の盲
まねく探し、大正四年の夏、そうやってか
口 から 樺太ア イヌ 語の文 章を そこに 記録
う標本はそれ迄無かったから、此の親爺の
すが、樺太アイヌ語はこういうものだとい
分 の自 叙伝を アイ ヌ語で しゃ べった ので
きにも帰りにも私の所へ寄って、そして自
南極探検に行って来た親爺、あの親爺、行
その他に樺太アイヌ・山辺安之助という
ございます。
下 さい ますよ うに お願い 申上 げる次 第で
て 不可 能では ない という 事を どうぞ 思い
仕事を築き上げられるよう、この事が決し
そ の時 こそ奮 って 皆さん の生 涯の大 きな
れども、どういう事がないとも限らない。
と いう 事は無 い方 が結構 でご ざいますけ
ては、順境にお過しになりまして、苦難等
でありますから、皆さんにおかせられまし
な気持を話してくれます中に、死んだ人の
したが、此の爺さんは私ヘアイヌの宗教的
か ら村 へ行っ て爺 さんの 亡き 跡を弔 いま
そ れで 昭和四 年が その第 三年 に当り ます
二月七日にとうとう亡くなった事だった。
いその言い習わしが実現して、その年の十
い習わしがあるのですが、余り結構じゃな
た のが 神様に 呼ば れると いう アイヌ の言
そういう時にはどうかすると、最後に罹っ
篇をまとめました。
をして世間へ遺そうと、そのため一代の自
どの家にも家の東窓の外十歩の所に「ぬさ
祭の話をかなり詳しく教えてくれました。
校の講師を命ぜられ、やがて樺太・北海道
だな」、神様に捧げる「幣の棚」が出来て
まあそうやりましたので、それで私は母
へ出張を命ぜられまして、此度は官費でも
いて、そこが拝所なんだ。神様を拝む場所
分の物語、南極探検へ行って来た物語等を
あ の 時 若し も打 撃 に打ち 負 け て居 りま
って北海道・樺太のユーカラの伝承者をあ
記録に留める事が出来ました。
したら、私の生涯は別のものになっていた
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がありますが、アイヌは、「仕様がない。
人 がそ こへお しっ こなど して 行くも の等
のように見えるものです。よく乱暴な日本
が差したり、葉が出て来ますから一寸垣根
うと柳の木は強いもので根が生えたり、枝
垣根のように見えます。古くなりますとい
うに、横に二段に木を渡して、縛ります。
す。それを十本も立てます。ころばないよ
し たも のを彼 等の 方では 御幣 に使う ので
の を小 刀逆手 に房 々と采 配の ように 垂ら
なんだ。柳の枝を皮をむいて真白になった
い って 死んだ 人を 全然か まわ ないの じゃ
場所であるから足踏みをしない。さればと
命日を知らない。死骸を棄てた所は汚水の
から位牌がない。暦がないから何月何日と
う事をアイヌがやっているが、文字がない
それをば「シンヌラッパ」という、こうい
の 爺さ んがそ うい う風に 人間 に死者 を弔
わないという風になっていた。ところがこ
しない。こう云って、まるで死んだ人を構
一俵も土産にしてやらあって、ほら吹いて
だぞ。今に帰る時は村の者にな、薩摩芋の
東 京の 旦那か らこ うして お迎 えが来 るん
んは貧乏しているけれども、いざとなると
が送ってきた時、どんなもんだ、俺らふだ
を流す事です ――一年に三回大祭を行う、 かったなあ。盲爺さんがよ、先生から旅費
らうその祭の事をば「ヌラッパ」― ―涙
云ったっけ、あっはは、あっはは」って笑
ず独り言ともつかず申すのには、「可笑し
で煙草を嗜んでいたら、私に言うともつか
が此頃煙草を嗜んで居りましたから、炉端
人炉端の所で股火鉢をして居りました。私
したんですが、そのうす馬鹿青年が言葉を
った。私も連れ込まれて笑いましたけどね。
て本当かと思って、一つには爺さんの亡き
継いで「旦那からもらった汽車賃の余りで
ない。今申した東窓十歩の外に拝所があっ
捧げ物等そこへやって、祭る時には新しい
跡を弔ってあの爺さんの第三年だから「シ
よ、盲爺さん何買うと思ったら、糸をどっ
知らないんだからね」と我慢して居ります
御幣を立てるのです。そして御祈祷の言葉
ンヌラッパ」をやろうじゃないかと云って
さり買って来たもんだ。爺さんが言うのに
そうだったか、それなら云ってくれりゃそ
を述べて霊等をそこへおびきだす。陽が暮
みた。「シンヌラッパ」というのは大祭な
は、東京という所は、魚の高い所だった。
て、そこで何処の家でも皆死んだ人達を祭
れると今度は家の中に招じ入れて、家の中
んだ。そうしたら皆が涙を流して喜んで感
俺 ら裏 の沙流 川へ 登って 来る 鮭の一 匹も
が、これは神聖な所なんだ。どの家にもそ
で皆上座下座へ居流れて酒を汲みかわし、
謝して、本当にその爺さんが生きていた通
獲 って 旦那の 所へ 送りた いな あとそ う云
れくらいの事はしてやったのに、と暗然と
ユ ーカ ラをや った り等し て御 霊を楽 しま
り の事 をして その 爺さん をい んぎん に祭
って、盲が若い時さんざんやった鮭獲り網
る。それが爺さんが云っているように果し
しせる。そういう事をアイヌがするという
ったのです。そして夜は一晩皆が集って踊
を手さぐりで編みに掛った。何日かかった
れがありますから、此処で祖先神を祭る。
のでしたけれど、今迄の本というものは、
っ たり 歌った りユ ーカラ をし たりし て夜
とう盲の一心、網が出来たよ。出来るとそ
西洋人が書いたものでも、日本人が書いた
この晩の事です。隣の家の青年、これが
の 網を 持って 川へ 真夜中 に起 きて行 って
っけなあ、何ヶ月かかったっけなあ、とう
ているものですから、死んだ人は一向何も
少しうす馬鹿なもんですから、皆が座に坐
は、一人でじゃぶじゃぶと鮭を追い廻して
明かしをしたものだったんです。
構わない。親の命日も知っている奴はいな
らせずにほったらかされておいたから、一
ものでも、アイヌというものを野蛮人と見
いし、位牌というものもないし、墓参りも
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か」「これか、二銭だ」。その頃、鮭が一
と、「旦那これは東京では幾らするんです
り 身を 一日お き二 日おき 位に 食べさ せる
実 は私 の家で 偶に は魚を と思 って鮭 の切
ども、何というあの盲爺さんのあの純情。
ですね。私も連れ込まれて笑いましたけれ
んじゃった。あはは、あはは」って笑うん
たらいいのに、とうとう一匹も獲らずに死
沙 流川 の盲鮭 の一 匹もひ っか かって くれ
でも凝りずに毎晩々々やったよ。可愛想に
くて、逃げる方に目があるんだもの。それ
たって、追っかける方に目があるんじゃな
たよ。あははあ、あははあ、幾ら追い廻し
好意をやって、私がそれが少しも解らずに
こ の人 達のこ うや って影 であ らん限 りの
ら、どうか怒らないで勘弁して下さい」。
かったんだ。隠し立てしたわけではないか
の 気持 を曇ら した ら勿体 ない から云 わな
あした、こうしたという事で有難い旦那様
かりますか。それよりもしがない私達のあ
りもしないことを話したって、旦那、何儲
った話なら云って聞かせますけれども、獲
に、私に向って抗議してきた。「だって獲
んですが、三人の婆さん、一度に異口同音
えてくれなかったんだ」と談判気味だった
るんだ。そんなにいい話、何故誰も早く教
昨日今日来たんじゃない。来て一週間もあ
うかと思うような、対句でたたんだ美しい
を 押し たらこ うい うよう な音 が出る だろ
書きながら時々、この婆さん達から、何処
一句一句私には意味が解るものですから、
させてくれるのです。以前と違って今度は、
秘 的な 祖先の 信仰 の叙事 詩を 歌って 筆記
れが済むと次の婆さん、自分達の種族の神
人の婆さんが済むというと次の婆さん、そ
もない婆さん達ですがね、取り巻いて、一
た旦那だと云って、婆さん達三人、見る影
い う事 が知り たく て東京 から わざわ ざ来
に寝ましたが、この旦那は、アイヌのこう
引き続いて二週間、この村のアイヌの家
て驚いて居った。東京は魚の高い所だ。旦
人達だ。ですから往々にして此方から行っ
しまっても、何とも思わずに我慢している
ものでした。時には朝から畑へ行く服装で
詩の文句に、もう本当に胸がどきどきする
るを得なかったからであります。
切れ二銭だったようですね。高いなあ!っ
那 へ生 鮭の一 匹で もやろ うと いうの だっ
婆さんまだ居るのか、お前も教えて行くつ
鍬 を持 った婆 さん が入口 の所 へ腰か けて
合いの盲婆さん、つれ合い迄も盲になった。 服者の威をかって、知らず知らずこの被征
もりか」というと、「私は何も存じません
た和人達にいい土地は侵蝕されたり、それ
服 者の 純情を どん なに今 まで も踏み にじ
もの」というから、ははあ知らないのかと
たんでしょうね。私がそれを聞いたら、笑
それからこれを養っているこれの姉と、そ
ったり、無視したり、知らぬ事とはいいな
思って、構わずこちらの婆さん達からまた
昼になってもまだ居る。もう畑へ行くのに
れ から この盲 アイ ヌを紹 介し て東京 へ連
がら、どんなにこの人達を悲しませて来た
聞いて筆記していると、気がつくと何時の
から騙されたり、侮辱されたりしても、仕
れ て来 たコプ アメ という 婆さ んと三 人居
か。ちらちら私は北海道の方々で聞いた事
間にかいざり寄って私の脇へ来て、「あは
っ ても 笑って も涙 が溢れ てし ょうが なか
る所へ行って、「おい、婆さん達。盲爺さ
があるんです。気がついたが因縁、私一人
は、婆さん来たか、此度はお前だ」と云っ
遅れてしまうんだろうに思いながら「おい、
んのそんなに美しい話を、何故お前達、私
で もい いから 幾ら か償い をこ の人達 にし
て 帳面 をそっ ちへ 向けて 書き にかか ると
方がないとこうして諦めている。我々は征
に云って聞かせないんだ。あの阿呆野郎が
て やら なくて はと いうよ うな 気を抱 かざ
ったんです。それから婆さん達、このつれ
云ったんで、はじめて解ったんだ。何も私、
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生 れ返 ったと いう ような この 経験を 私一
もあろうかと思ったり、二千年の遠い昔に
驚かした。その楚の国に行ったら、そうで
の楚の国には隠者が沢山居て、孔子さんを
誦していて教えてくれるんだろう。昔支那
人 来る 人が自 分の 祖先の 遠い 神話を ば暗
何処の国へ行ったらこういうような、来る
句の素晴らしさにあっと参ってしまって、
その声の美しさ、節の美しさ、それから文
ポーイレシパチネー」ってやるんですね。
いうと、眼を半分薄目に閉じて「アカシヤ
イナというのはカミ、「神々しい聖伝」―
がついてポロオイナ「大聖伝」、カムイオ
いう事です。それに「大きな」という言葉
いう、――オイナというのは聖なる伝えと
ポロオイナというものと、カムイオイナと
てもらいたい」、そう云って教えてくれた
れを、旦那に書いてもらって後の世に遺し
いけないために、一子相伝になっているそ
同 族の 者でも 滅多 なもの には 聞かし ては
若しそれを聞かしてくれるならば、私はこ
いたんです。けれども、この二人共独身で
の 二人 の姉妹 がア イヌの 伝道 婦とし て働
へ入って、七年函館で勉強して、卒業後こ
した事があったが、その時選ばれてその中
中から四、五十人の有望な青年男女を教育
校(愛憐学校)を建てて、伝道のアイヌの
の 頃に イギリ スの 宣教師 が函 館へ伝 道学
らしい利口な娘達だったために、日清戦争
聖な、異民族に知らせないどころじゃない、 なられて寡婦になった。この二人の娘は珍
の 一子 相伝の カム イオイ ナと いう最 も神
伝道婦となっては家系が絶えるから、妹の
娘(マツ、ナミ)を持った時に主人に亡く
村の大酋長の家内でありましたが、二人の
本名は「マツ(金成マツ)」というんです
人で味わうのが勿体なくて、他の人と一緒
ですから、ああいう異民族の、ざっと見る
が、この人は若い時に高い所から落ちて腰
方(ナミ)を知里家へ縁づかせて登別に一
そ うや って此 の人 達の間 に過 したも のだ
と、乞食の婆さん達のような婆さんの中に
を 痛め て松葉 杖に すがる 不幸 な不具 な身
―、そういうのが五冊の帳面の中にあるの
ったのでございます。
入っても、あの人達を愛する事を知ってい
で、それで独身でとうとう伝道婦として、
に分ちたいような、もう立身も出世も忘れ
そのノートがありまして、此の夏の此の
たお蔭で、あの人達も私へ、そういう神秘
大 正七 年頃に は旭 川郊外 に教 会を持 って
家を構えた。姉の方はマリヤと云った。日
婆さん達から聞いた神話の五冊が、私の蒐
な 自分 達の秘 密の 神話を 皆打 ち明け てく
そこに老母と自分と、それから妹が生んだ
であります。幸い私は愛されて育ったもの
集帳の中で光を放って居ります。その中に
れたのが、実は幸せになった次第でござい
女 の子 の長女幸恵 (知里 幸恵
て、何という私は幸福者だと二週間は忽ち
はニーカップの酋長の青年が、「一子相伝
ます。
え)という十六になる人を養女にして三人
ちり ゆき
で 親爺 が病が 篤く なって 死に 際に私 に伝
えたので、私もこれをばそういう風にして
ん だん 聞いて これ を解る 人も 無くな って
の モナ シノウ クと いうお 婆さ んの一 家の
南海岸第一のユーカラの名手という、幌別
は終列車、先生お帰りになれません。泊っ
に話がはずんで忽ち、「あっ!今のはあれ
が名前を聞いて尋ねて行きましたら、すぐ
の女性で此の教会を持っていた。そこへ私
しまうところだった。旦那が盲爺さんに聞
事 を一 寸申し 上げ て結ば して 戴きた いと
ていらっしゃいませんか」と云われて、私
時間がたちましてどうかと思いますが、
いた、あの刀を主題にしたイサベルマルと
存じます。モナシノウクは、室蘭線の幌別
伝えようと思っていたのだ。だがもう、だ
いうユーカラを私は聞いた事がないので、
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ども、明日何か差上げるものがあるか」と
「 先生 はお泊 めす る事は 差支 えない けれ
で、私ははっと驚いたんです。お婆さんが
の 男と は違う とい うこと だっ たらし いの
なっているような、だが私だったらアイヌ
等 が来 ても何 か泊 めると いう のは法 度に
は女性三人の家であるから、アイヌの親爺
先生なら別だよ」と云うので、ははあここ
を聞きますというと、「先生ならいいさ、
が、何だかアイヌ語でものを云っているの
ははたと当惑したんです。その時お婆さん
ら、「どうも有難う。済みません。それじ
い、さっぱりしたシーツ等敷いてくれたか
の蚊帳をつったんです。隅の方へま新らし
校に使う部屋だから非常に広い。部屋一杯
いませ」と云って、次の間が何しろ日曜学
られたんです。「ではどうぞ我慢して下さ
云ってもう一遍行ったんですが、これも断
りましたが、「蚊帳だけでも借りたい」と
て下さいますか」と大きな蚊帳をつって居
られて「じゃ先生、むさ苦しいのを我慢し
願いしてみましょう」と行きましたが、断
施こした。時頼公はいい気持だったろうと
領 安堵 の記念 だの 大変な 御褒 美で面 目を
したお礼をば、他日鎌倉の晴れの場所で所
らば、佐野源左衛門が鉢の木を焚いて歓待
旅人を愛する此の純情。昔の北条時頼公な
思った。もう遅い。何という此の人達の、
ていたらそれが解らず終いだった。あっと
も私が無理に聞いたから解ったので、隠し
がら座り明かした事が解ったんです。それ
旭 川の 夏の一 夜を 炉端へ 蚊や りを炊 きな
坊を一人安眠させるために、蚊の多い暑い
やっと解った事は、三人の女性はこの風来
かと思ったら、辛く、悲しくさえなったの
ゃお休みなさい」と云って枕へ頭をつけた
はカンカン、あっと起き上がって井戸端へ
です。「宿かさぬ人のつらさをなさけにて
云ったら、マツさん、四十代の中婆さんだ
恵さんが、「どうせ私達の家に先生の口に
行って顔をぶるんぶるん。昨夜の炉端へも
朧月夜の花の下臥(大田垣蓮月)」という
思いますが、此の貧乏学究が、これ等の人
合うものなんぞない」と云った。「私の食
ど って 座って みる という と真 中へ鍋 一杯
歌がありますね。宿を断られたその辛さが、
ら一眠り、私は疲れて居るもんですから、
べ物なら何も心配しなさんな、私はアイヌ
じ ゃが いもが おい しそう に煮 立って 居り
今はお蔭で、桜の満開の山の花の下へ寝て
ったんですが、「それがねえ、無いんでね
部落で泊る時はよくね、そら、そこにも北
ました。やあ御馳走様といって食べながら
いい気持の体験をした。隣の校長さんがも
の この 情に何 を以 て報ゆ る事 が出来 よう
海道のじゃがいもがある。それはおいしい
そ れを 見ると いう と昨夜 寝る 時と炉 端が
し宿を貸してくれて寝たら、私の半生が全
ぐっすり何も知らず、眼を醒ましたら、陽
から塩うでしてもらうと、それで朝食も昼
何だか模様が変って居るし、炉の中に檜の
え」と云ったら、その十六になる養女の幸
食も夕食も通して居りますよ」っていった
な、皆さんは何時あの蚊帳へ行って休んで、 とも云えない美しい純情に触れまして、そ
く別のものだったでしょうが、そこへ寝た
の上一晩寝かさなかった上に、うるさく質
小 さな 枝が半 分焼 けたの がい っぱい ある
じゃがいもで結構だと云うので、私の無雑
何時起きたんですか」と云ったら、顔を見
問 して 苦しめ るん じゃな いと 思って 早く
ら、解られまいと思って話したアイヌ語の
作というか、可笑しさというか、三人転げ
合わせてどうも返事が曖昧なんだ。突っ込
暇を告げました。
ばかりにそういうアイヌの人達もまた、何
るようにして笑って居りましたが、その時
んで、突っ込んで、突っ込んで聞いたら、
内輪話が、筒抜けに解られてしまったので、 んですね。こんなの無かった筈だ。「はて
幸恵さんが、「お隣りの校長先生の家へお
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書も立派だし、作文がまるで美しい文章体
れずに持って来た。見ますというと、お清
と云って照れて居りましたけれども、悪び
だの見て戴きなさい」「いやなお母さん」
先生でいらっしゃる、お前も作文だの清書
さんが娘さんへ、「幸恵、他の方ではなく
るときだったです。そのマツさん、四十婆
って、「幸恵さん、あなた方は、アイヌ、
いか」と、靴の紐を結ぶ事等は止めてしま
も いっ ぱい云 って きた事 を申 そうじ ゃな
た質問に、「それなら、私も誰に向ってで
るものなのでしょうか」とこだわらずに出
れど、私共のユーカラはそれ程の値打があ
下 すっ てそん なに 御苦労 をな さいま すけ
先生が貴重なお金、貴重なお時間をお使い
して、「先生、私達のユーカラのために、
とは、単にあなた方の調べをするんじゃな
えている。私があなた方のこれを調べるこ
の 我々 の祖先 の二 千年前 の昔 を如実 に伝
なた方が文字を持たなかったがために、こ
の事で、今から覗きようもない。幸いにあ
たんだけれども、それは千年二千年の大昔
も のは 我々の 祖先 の昔も かつ てこう だっ
か。そればかりじゃない。此の事実という
種 族で ないと いう 何より の証 拠じゃ ない
暇 を 告 げて 編上 げ の靴の 紐 を 結ん でい
の、詩のような美文を書いて居りました。
指 を指 されな い日 本人と して 生きて 行か
くて、よってもって我々の祖先の事を調べ
英雄談をば、詩の形に歌い伝えている。こ
なければならない人達だ。私達は皆さんの
アイヌ、アイヌの一語をまるで無学文盲、
語が上手だ。でも可愛そうにアイヌ語は一
れは叙事詩というものなんですよ。叙事詩
後 から 落穂を 拾う つもり で私 はこれ をや
そ れに 仮名遣 いと か字画 の間 違いが あり
つも知らないでしょうね。そう云うのが習
というものは、西洋ではギリシャのイリア
っているのだ」という風に私が話して来た
る貴重な資料であるから、私の全財産を傾
慣なもんですから」と何気なしに私の口か
ッ ドと オデッ セイ 、ロー マで はエニ ード
時でした。幸恵さんが大きな眠いっぱいに
はしないかと、私は校正係が商売ですから、 無知蒙昧、劣等種族のように聞いて来た。
ら漏れたのです。そしたら、お母さんのマ
(アエネーイス)というものがあった。東
涙をしましてね。「先生解りました。初め
けても、私の全生涯を注いでも惜しいと思
ツさんが私の肘をひったくって、「幸恵と
洋 では お釈迦 様達 仏教を 讃じ たあの 人達
て眼が醒めました。縁もゆかりもない先生
人 間と 犬との 合い の子の よう に思わ れて
いったら、お婆さんの懐でアイヌ語の片言
がマハーバーラタというものと、ラーマー
が そん なに思 って 下さい ます ところ の私
意地悪い眼で見ましたけれども、一つも誤
からはじまり、今では年寄にも譲らないく
ヤナという二大叙事詩を持っているんだ。
達 の祖 先が私 達に 遺して くれ ました ユー
いません。但しあなた方は違いますよ。あ
らい達者だ。お婆さんの口真似してユーカ
最近百年ばかり前に、カレワラというもの
カラは、私達は何の気もつかず、私達の事
侮辱されているんじゃないですか。ところ
ラまで出来るんですよ」。私は、幾らなん
が北欧の民衆に口伝えされていた。それか
といったら何でも肩身の狭い、恥しい事の
りが見出せなかったんです。覚えず私は感
で もこ れはお 母さ んの子 褒め だと思 った
ら 見た ら五番 目に ユーカ ラが 列して いい
ようにばっかり思っていました。何という
な た方 はどん どん 新しい 事を 学んで 後ろ
んです。そして幸恵さんの顔を見たら、幸
と思う。あなた方がこれを持っているとい
愚かな事でございましょう。この眼の醒め
が ユー カラと いう ものは あな た方祖 先の
恵 さん はお母 さん の言葉 を否 定も肯 定も
うことたった一つでも、あなた方が劣等の
歎したんです。「幸恵さん、こんなに日本
しませんでした。そしてその時膝を乗り出
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と云って別れたのは大正七年の夏の話。
ん婆さんの代りに貴方へ聴きに来ますよ」
それでも、「今に私はね、北海道へ、爺さ
大した重きを置きませんでしたけれども、
け れど もたか が十 六娘の 言葉 だと思 って
恵さん、いいところへ気がついてくれた」。
すよ。圧倒されましたね。私は、「おお幸
さいませ」。これが十六娘の咄嗟の言葉で
ラ の研 究をや って いるん だと 思し召 し下
きているとお聞きになりましたら、ユーカ
ユーカラの研究に身を捧げます。幸恵が生
私 の全 生涯を 挙げ て祖先 が遺 してく れた
ました今日を境に私は決心を致しました。
で そう 云われ ると 一等痛 いと ころへ 触ら
い、こういうところから見えている。それ
さんはやっぱりアイヌの人ですね。毛が多
を着ていても」と云って馬鹿にする。幸恵
「おお寒い」なんて云うと、「こんな毛皮
をやるにも皆、のけ者にされる。うっかり
ゃないわよ」と云って遊んでくれない、何
ヌの乙女だ。ですから、「貴方の来る所じ
ものですから、女学校へ入った初めのアイ
ア イヌ の子供 って いうの は小 学校き りな
夏休になったところだったんです。その頃
生だったんです。一年生の一学期がすんで
に選んだという、此のお嬢さん達の自分の
るそういう気持ちの人達が、自分達の級長
と云ったら日本人。アイヌと人々を差別す
や人という言葉が当てはまらないです。人
合いの子くらいに思っているんですよ。い
は、アイヌと云ったら本当に、犬と人間の
ンチックに考え勝ちですけど、北海道の人
と、少し隔たっているもんですから、ロマ
選んだそうです。東京の人はアイヌという
来る所じゃないわよ」と云うんだそうです。 達がね、アイヌの此の娘を自分達の級長に
にはまだ学校の同級生が、「ここは貴方の
非を悟ること、ねえ!勇敢な、美しい、本
たら、どうでしょう、その同級のお嬢さん
するような様子があったが、二年生になっ
と 云っ て先生 も生 徒も何 だか 自分を 黙想
当に驚く程です。あの学校へ入った時に、
礼を受けていてあんな純な娘さんがと、本
に、人間が本当に純情な、キリスト教の洗
だったんです。学問が出来るばかりでなし
ット・ノート 脚(注 を)添えて、それを手土
産に東京へ現れて来たのです。語学の天才
はそれの逐語訳を美しい日本語で、下へフ
分でローマ字で横書きに書いて、右の方に
ラ十四篇をお婆さんがやっているのを、自
なったんです。幸恵さんは、神々のユーカ
です。四年たったらそれもすっかり本当に
北海道をぐるっと廻りました。その年の末
て、三学期になったら「ああ、あの子は」
から、丁寧にそれを謙遜に教えたりなどし
る人があると、うんとよく出来るもんです
われても構わずにっこり笑って、困ってい
元 気に なって 今度 はのけ 者に されて も笑
てみます。そういう気を起して朝になると
私 それ が出来 るか 出来な いか それを やっ
遇に私を置いたに違いありません。神様、
私にそれが出来るかと、神様がこういう境
るに恩を以てす」、何という美しい言葉、
って床の中で目が醒めると、「恨みに報ゆ
帰りしたもんだそうですけれども、朝にな
れる。帰りには涙ぽたぽた落しながら帰り
小説だったようです。
せんでしたから、幸恵さんをモデルにした
に アイ ヌ人で 女学 校へ入 った 人はあ りま
聞く事が出来なかったんですけれども、他
小説だったんです。幸恵さんが死んだから
が、謝ってお詫びをしたという事を書いた
こ の立 派に美 しく 恩を以 て報 いられ た皆
侮辱したり差別待遇したりしたけれども、
女 学校 ヘアイ ヌ人 が入っ て来 たのを 皆で
よく募集したものです。その中にある時、
した。あの頃に新聞が十円の懸賞の小説を
んが死んだ後、小説を札幌の新聞で読みま
当に立派な事だと思う。この事を、幸恵さ
北海道開道五十年の年で、あの年に私は
旭川の女学校では、私が行った時には一年
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人も座っている時はロツクといったり、一
人で座っている時はアというけれども、何
ヌ語にもございます」といって、例えば一
んですが。そしたら「そういう事ならアイ
と云ったんです。動詞についての時だった
英 語を 教えて これ は単数 でこ れは複 数だ
複数単数という事がありますから、何時か
うにどんどん言ってくれる。英語だったら
説明して、同じ様な例を袋の中から出すよ
思って聞きますとね、さあもうはっきりと
こ の 幸 恵さ んに 私 がアイ ヌ 語 で疑 問に
表現した時には、動詞は複数を使うに及ば
な いと いうこ とを はっき り数 詞を用 いて
い う風 にして もう 三とか 五と か一人 じゃ
蒙ったとかいう事と同じになります。こう
うというと、馬から落馬したとか、被害を
にはっきりしているから、ここを複数を使
ら 来た のは一 人じ ゃない とい う事は 余り
何でもない事だった。三人と三と断ったか
なかったから幸恵さんに聞いた。そしたら
私には十何年疑問で疑問で、果てしようが
と、複数形じゃない方に直される。これが
くなってしまったのです。自分の苦痛を話
この幸恵さんは残念な事に、私の家で亡
えが数々あったのでございます。
私の叙事詩の文法の研究は、幸恵さんの教
ういう風にして、後に恩賜賞を戴きました
はっきりと幸恵さんが説明してくれる。こ
うなんだ。そういう風な事が何でもなしに
の 東の 方の北 氷洋 の方に ある 言語も 皆そ
山脈の中にある多くの言語だの、ウラル山
ッパの言語にもそれがあるんです。ウラル
それだ。そうやって見るというと、ヨーロ
念の人だった。それから人間の凡そ犠牲に
ない。即ち諒解の限度に於ける文法なんだ。 して心配させる事は悪いこと、こういう観
も、沢山の人の行く時にはパエと云ったり、 イ ギ リ ス な ど の 文 法 だ と い う と 例 え ば 、
な った という よう な話を 聞く と涙を 流し
人の人が行く時には、アロパというけれど
と云わなければな
are
だからエツクでなしに複数のアルキ、レ・
というと三人のアイヌということ。人と三
イヌが来た、とそういう時に、レ・アイヌ
は知っては居りましたけれども、三人のア
も云って居りますし、イー
(Henry Sweet)
ストレーキ(フレデリック・イーストレイ
な第一流の言語者のヘンリー・スウィート
たぜいたくな形だ。これはイギリスの有名
複数にする、これは必要以上に文法に走っ
を起しまして、口からあの赤いしゃぼんの
イヌ神謡集』)にしてあげたんですが、そ
て話したものでした。そうですからこの集
お 話等 はよく 知っ て居り まし て涙を流し
精神でしょうが、そうやって犠牲になった
らない。 three
と云ったからもう一々、一
てその人のためにお祈りをする人でした。
人じゃないって事は解っているのに three 勿 論 キ リ ス ト が 人 類 の 犠 牲 に な っ た か ら
と云ったからと名詞も複数にする、動詞も
そ れで キリス トを 讃美す るあ の耶蘇 教的
というと
three men
アイヌ・アルキというと、アイヌはきっと
) も云って いる 事
ク
Frederick Eastlake
なんです。だからそれに慣れているという
泡 のよ うなも のを 限りな く吐 いてし まっ
来るという言葉もエツクですけれども、沢
それが解らなかった。果してこれが複数だ
と 他の 言葉も その ように 思う のが人 間の
た。何だかあんな事がなかったんですが、
山来るという時にはアルキといったり、こ
ろうかと思うと、何人もの時はこういうん
弱さ。こういう風に世界の言語の中には、
「先生!」と云って、手をこう出したんで
から複数の方を使って、何故直されるのか
レ・アイヌ・エツクと直すんです。三人だ
ういう風なのが沢山ある。こういう事は私
だと年寄が云うんですから、まさに複数形
必要限度の文法があるんです。アイヌ話は
の 最後 の校正 を終 えると 一緒 に心臓 麻痺
めてきた神々のユーカラを一冊の本(『ア
だ。しかし(動詞に)複数形を使うという
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いのでありますが、それだけなら未だしも、 た。ところが東京へ来て見たら、私は朝か
ど んな ことを して も私は 償う 事が出 来な
取りこぼしてしまったのです。この罪障は
です。天から恵まれた唯一の宝玉を手から
声 目に 微かに 答え たそれ が最 後だっ たん
ん!幸恵さん!幸恵さん!」と連呼した三
す。覚えずその手につかまって、「幸恵さ
ったら、「はあーっ」とそれを吐いたんで
す。何だろうと思って、「どうした」と云
ら晩まで忙がしい。学校を五つも六つもか
し て幸 恵さん の墓 参りを 兼ね たもの だっ
岸第一等の老母の薀蓄をも私に伝える、そ
なった養女の志をも遂げしめ、北海道南海
松葉杖にすがってやって来たんです。亡く
っておりましたが、昭和三年頃にとうとう
時には、東京へお墓参りに参ります」と言
に退いてしまった。それで幸恵の七周忌の
か ら月 々のお 金が 来なく なっ たので 同時
チ ネダ ンヌカ ネカ ツコロ カニ オカア ニケ
「 イレ シユシ ヤポ イレシ ユユ ビイレ シパ
覚 えて 暗誦し てい るのを 書い て置い た。
覚えたローマ字で、老母の言うのを自然に
これを書いて置きました」と云って昔習い
帰ってきた時、
「先生、退屈しましたから、
でマツさん、退屈しちゃった。或る時私が
ないからすぐに寝てしまいますから。それ
せんから、へとへとに疲れて帰っては書け
も うそ れは精 神を 集中し なけ ればな りま
そういうようにお読みになりますならば、
国にいる老母が、「幸恵が死んだ。幸恵が
かけ持った。幸い、こっちへ来てくれ、あ
何も先生を煩わす事がございません。私が
カ ムイ カツチ ヤシ チヤシ ウシ チヨロ アユ
お 婆 さ んこ そは 南 海岸第 一 の 名人 だっ
っちへ来てくれといって下さる。私はアイ
書きます」と云ってそれから書きも書いた
け持っている。言語学の講義というものは
たんですが、あまりに痛々しくて、お婆さ
ヌ語を専門にするんですから、周旋の口な
り、お婆さん、国へ帰ってからでも書き続
死んだ」と云って夜も昼も泣いてとうとう
ん から 一行も 筆記 しない 中に 死んで しま
ど探した事などないのです。どうせそんな
けましたから、昭和三年から昭和十九年迄
オレシユ」。そういう風なものだったんで
ったのであります。そのときに、四十婆さ
ものを教える学校はないから、頼んだって
に、七十二冊書いた。一万五、六千頁です、
一 つの 学校で も二 時間し か入 用のな いも
んのマツさんから、「もう母も亡くなる前
出来っこない。どうかするというと、あい
等身大。これは日本の御婦人だってなかな
睡眠も出来なくなり、食物も食べられなく
に、あまり悲しんで少しもうろくして、ユ
つが苦しんでいるそうだ。俺の方へ来て言
か容易な事じゃありません。
す。私がこう読みましたら、お婆さん喜ぶ
ー カラ をやっ ても 途中か ら別 のもの にな
語学やれ、俺の方へ来て言語学やれといっ
のですから、一つの学校から僅かしかもら
って到底駄目になりましたから、私がどう
て下さるもんですから、もうその中には五
いたら無になりますから、戦争中これを焼
なり、とうとうそれで死んでしまったので
に か伝 えてこ れを 先生に お教 えしま すか
つも六つも七つも学校で言語学をやって、
くまいとどんなに苦心したか。その苦心談
の喜ばないの「私が書いたのでも、先生が
ら」と云って私を慰めてくれて居りました
どうやらしのいで居ったんですが、そのた
をきいて国学院大学のあの文化研究所が、
えないものですから、五つも六つも学枚を
から、老母が亡くなった時、「もう老母も
め にマ ツさん が折 角私に 教え ようと して
よし、マイクロフィルムに撮ってやろう、
す。
亡くなりましたし、それから日本の聖公会
来ても、大抵、私は書けなくなっちゃった。
これは、たった一つの文献ですから、焼
の方も、イギリスから独立して、イギリス
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ん な解 らない のを ただ蔵 って 置いて も仕
らえたんです。それは大変な容積です。こ
を とう とう写 真に 焼いて 副本 二通を こし
ます。これも撮っちゃった。それからそれ
り、婆さん達から書いた私のも四十冊あり
ました。ついでに盲爺さんから私が書いた
と 云っ て全部 をマ イクロ フィ ルムに 撮り
もんですよ。第一回目に受取った時に新聞
で も受 取りに 来い といっ て受 取って 来た
助したいといって、それが承知されて、何
そは日本だけの研究、こういうのへこそ援
るが、アイヌのユーカラとやらは、これこ
究 はヨ ーロッ パや アメリ カで もやっ てい
ェラーという人も大きな人ですね。他の研
た。国学院は三千万円。そしたらロックフ
来たから、国学院の文化研究所へ行って聞
様がない、金田一先生にこれを訳させよう
だそうですね。それで計算してみると三千
いて下さい、といいました。何でもあれは
へ出ました。慶応が九万円だとか、早稲田
万円かかるというんです。そうしたら渋沢
八月頃でしたか、その事が出ておりました
じ ゃな いかと 誰か がいい 出し たんだ そう
敬三さんは、「三千万円はどうにかしよう
筈です。こうやって、このマツさんの仕事
が十五万円、国学院は三千万円と書いてあ
じゃないか」といったんだそうです。それ
も 私の 畢生の 仕事 になっ て今 翻訳に 一生
です。私がそれを伝え聞いて、私達は出版
で 国学 院の文 化研 究所は 学枚 の研究 所の
懸命になっている。幾らかマツさんの労苦
りましたが、小さいところへ書いてあるか
研究題目三千万円の予算、「アイヌのユー
も報られようとも思いますし、それから何
も出来やしまいし、誰も買う人があるまい
カラの研究」と積立をちゃんと書いてあっ
と かし てお礼 をし たいと 思っ ており まし
ら誰も余り見なかったんですね。
た。そこへロックフェラーが日本へ来て、
たが、文部省だの無形文化財保護委員会へ
からといったら、文化研究所で会議にした
私立大学の研究を、何処の大学でどういう
話が行って、マツさんへ三十一年紫綬褒賞
三 ケ 月 もた って か ら朝日 新 聞 がそ れに
研究するか書き出せ、早稲田大学だの慶応
が降りました。年金養老金五万円を受取る
には、こんなに書いたお婆さんが、文部省
が、
「役所は形のないものに出せないから、
何か書きなさい、そうしたら五万ずつ上げ
ます」というのに一行も書かない。それで
文部省がびっくりして私のところへ来て、
どうしたもんだろうと云う。私も仕様がな
いから飛行機で飛んで行きました。「お婆
さん、何で書かないんですか」。そしたら
書かないのも道理、妹夫婦の家の玄関の所
にこうしているだけで、毎日人が出入りす
るでしょう。それはユーカラを筆記すると
したら、少し微醺を帯びて夢幻の境地に入
って、そしてありありと目に見るように状
景を想い浮べてそれを書くんですから、毎
日人が出入したり、子供がぎゃあぎゃあ泣
いたりする所にいるので出来ない。それで
お 金を 少しや って お婆さ んの 家を一 軒を
建ててやりました。そしたら書くと思った
らそれでも書かない。「もう金田一先生に
みんな書いてやったから書くものがない」
といっておったそうですが、文部省では、
八十四になりますからね、「御老体に無理
にとは申さない、結構です」といって一回
だ け甥 の知里 真志 保博士 がお 婆さん のい
うのを書いて、そして出ました(のちに
『ア
イヌ叙事詩ユーカラ集』
)。(以下約十分
そうですが、物さえあれば金は何とかしよ
大学で、こちらでは九万円の予算でこうい
ようになった。でも、私は何もお礼の約束
間 機械 の故障 で録 音が入 らず 遺憾な がら
気がついて、「どういう事です」といって
う研究をしている、十五万円の予算でこう
もしないけれども、私のために筆記する時
うじゃないかと、理事の中に渋沢敬三さん
いう研究をしている、とこういうものだっ
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割愛しました。)
以 上 長 時間 にわ た りご清 聴 を 感謝 しま
す(拍手やまず)。
金 田 一 京助 氏は 明 治十五 年 岩 手県 に生
れ、明治四十年東京大学言語学科卒業専攻、
言語学・国語学・アイヌ語学。文学博士。
学士院会員、言語学会副会長。
昭和七年学士院恩賜賞、昭和二十九年文
化勲章受賞。早大、実践女子大、東大各教
授を経て現在国学院大学教授。
著 書 に は「 アイ ヌ 叙事詩 ユ ー カラ の研
究」、「アイヌの研究」、「国語音韻論」、
「アイヌ文学」、「定本石川啄木」などの
ほか「日本文学辞典」、「辞海」などの編
書・監修書多数。
※当DVD収録のご講演録には、現在では
不 適切 と思わ れる 表現が 用い られて いる
場合がございますが、講演時の時代背景等
を尊重し、当時のままといたしました。
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