キューバ:脱石油の暮らし

キューバ:脱石油の暮らし
New Solutions 第 2 号,2004 年 5 月
発行元:The Community Solution(www.communitysolution.org)
宮野素美子(地質調査情報センター)訳
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社会事業部のパット・マーフィー常務とフェイス・モーガン理事は,2004年米国がキューバへの留学を禁ずる
前の2003年,同国で二度の研究調査を行った.彼らの目的は1990年のソビエト連邦崩壊後,石油輸
入が途絶えたキューバがどのようにそれを切り抜けてきたかを知ることであった.彼らがそこで見たものは,楽
天的で希望に満ち溢れ,生活物資は乏しいがコミュニティの関わり合いと大切さを知り,それに感謝している
人々の姿であった.
New Solutions 本号では,ほとんど石油に頼らず生きるこの脱工業社会について,彼らの見たままを報告す
る
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過去の石油ピーク - キューバから学ぶこと
石油枯渇に対する意識の高まりを示す記事はますます増えている.この問題に関する本は有名人や,
社会的尊敬を受けている人が書いたものも含め,数多く出版されている.石油ピークに関する研究連盟(A
SPO)の報告によれば,彼らのウェッブサイトには毎月2万件ものアクセスがあるという.
私たちは5月末にベルリンで開かれるASPOの第3回年次総会に参加し,この件に関する研究を続行
する予定である.この会議の焦点は,石油生産がピークを迎える時,つまりその後は生産曲線が下がりつづ
ける,という時期を出来るだけ正確に決めることである.新たな油田発見に関しては1960年代にすでに峠
を越えている.
この件に関する関心と意識が高まるにつれ,将来に対する懸念も増大している.ウェンデル・ベリーがその
詩の中で詠っている機械がほとんど使えない世界とは,どのような世界だろうか?社会はどう変わってゆくの
か?疑問は次から次へと浮かび,課題はおそろしく厄介である.
絶望して「個体激減」,つまり暴力や飢餓による人口の急激な減少という不吉な予言を述べる人も多い
が,幸いなことに筆者らは解決策は必ずあると信じていて,落ち込んではいない.ただ,人類が直面している
巨大な何かや,時間がどんどんなくなっていくという圧迫感は,ひしひしと感じている.私たちがキューバに注
目したのは,支援者であったソビエト連邦の崩壊後に生じた人為的な「ピークオイル」を上手に切り抜けた唯
一の国だからである.
米国民のキューバへの渡航は米政府により禁じられているので,現在にいたるまでキューバがどのような対
策をとり,行っているのか,私たちには謎である.私たちは昨年,留学ビザでキューバへ渡り,彼らがいかにし
て乗り切ってきたか調査・研究を行った.ところが2004年初頭,米政府はキューバへの渡航規制を強化し,
キューバやその文化,石油の欠乏に対して彼らがとった政策について一般の米国民が研究を行うことは許さ
れなくなった.これには全く驚いた.ここに世界に先駆けて突然の石油供給減少を経験し,それに上手に対
処してきた小さな国があるというのに,そこを訪れることは許されないのである.「この貧しい1200万の人々
が我々にとってどれほどの脅威だというのだろう?」と私たちは自問した.
二度にわたるフェイスとパットのキューバ旅行は,グローバル・エクスチェンジの研究ビザによるものである.今
年,グローバル・エクスチェンジは,さらに厳しい新たな規制においても例外扱いとされていたある機関を加え
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た旅行を準備していた.我々も4月9日に再生可能エネルギーに関する「キューバ・ソーラー」第6回国際年
次総会に参加する予定だった.パットは総会で「ピークオイルと米国の対応」について話すことになっていた.
出発の一週間前になって国務省は許可を撤回し,ビザを取り消した.私たちは会議へ参加し,キューバのコ
ストのかからない再生可能エネルギー発生技術を学ぶことをずっと楽しみにしていた.
最初の旅行では,キューバに関する一般的情報,つまり歴史や文化に加えてソビエトからの石油が突然
途絶えた後の政策を知ることができた.二回目の旅行では石油系農薬に代わりバイオ農薬を使用し,トラ
クターの代わりに牛を使うなどのキューバにおける有機農業を学んだ.今回三度目の旅行ではキューバが開
発した石油代替物について学ぶはずであった.
私たちが初めて訪問した際に話を聞いた経済学者は,遠隔地ででもなければ,キューバでは何百万ドル
もするウィンド・マシンや高価な光電池システムなどを使う余裕はないと語った.こうした代替物がハイコストの
ため利用が限られるというのなら,限られた予算しかない国は現実的にどのような選択肢を編み出すのだろ
うと興味があった.
キューバへの最初の訪問によって私たちは石油枯渇に対する構想をふくらませ,ひどく複雑で(かつ疑問の
多い)技術的な石油枯渇対策などより,地域社会での解決が重要であることを知った.この10日間で得
た多くの経験をたった数ページにまとめるのはむつかしい.本リポートでは医療,教育,住居,交通に絞って
話をしよう.
予防に重点をおき,医療費は無料に
キューバは常に貧しい国であったし,最近の石油不足後もそれは変わらない.にもかかわらず,その医療シ
ステムは他の第三世界とは比較にならないほど素晴らしく,すべての国民は医療費が無料である.
キューバ人は自分たちのこうしたやり方に誇りを持っており,この健康管理システムの長所を常に重視して
いる.すべての子供に13種の幼児疾患に対する予防接種が行われ,キューバの乳児死亡率は米国のそ
れよりも低い.貧しいキューバ人の平均寿命は米国と同じであり,第三世界の多くで人々が伝染病で死ん
でいるのに対し,キューバ人は私たちと同じ病気で死ぬ.心臓切開手術をはじめ複雑な処置がキューバで
は行われている.
1959年の革命前には,医師は国民2000人あたり 1 人だったのが,現在では167人に 1 人の割合で
ある.キューバには国際医学校があり,驚くべきことに何百人もの米国人が,帰国後は貧しい人々のために
働くという条件付で,無料で学んでいる.キューバは帰国後貧困層に奉仕する者に限って,さまざまな国の
医学生を受け入れている.
キューバはまた,他の貧しい国々に自国の医師を派遣している.彼らは時に自身の生命を危険にさらし
ながら僻地に赴任する.このように海外で働くキューバ人医師は2万人にのぼる.
キューバは貧しい国である.医療機器を無駄に出来ないため,予防医学に重点をおいている.つまり,キ
ューバでは医師は単に疾患を直すのではなく,むしろ人々の健康を保つよう努めている.
彼らが力を注いでいるのは主として食生活の改善である.キューバ人の食生活はヘルシーで低脂肪,ほと
んど菜食主義といってよいが,これは彼らが好んでそうしているというよりは食糧事情の制限に負うところが大
きい.彼らは米国人よりも健全なアウトドアライフを送り,デスクワークはほとんどしない.交通手段がないため,
よく歩き,自転車に乗る.
へき地では一階が医院,二階と三階が医師と看護婦のための住居になっている三階建のビルが建設さ
れている.ここでも予防医学が重視されている.
都市では医師や看護婦は勤務地の近くに住むのが常である.住民すべての家族を知っており,家庭環
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境の中で患者を扱おうと努める.遠く離れた病院に入院させられた患者のストレスをよくわかっているのであ
る.
私達はハバナの地域病院を訪ね,そこの精神科医と看護婦に話を聞いた.この病院が担当する住人は
900人,精神分析医や小児科医,高齢者介護の専門家とも連携している.鍼などの代替医療も行って
いる.
キューバでは予防接種の研究も盛んで,経済制裁のため限られてはいるものの,抗生剤も十分にある.
医師の話では最も不足しているのは注射針,手袋,消耗品である.
医学教育の最初の6年間,医師は内科学を学び,さらに3年間の追加教育を受ける.助産婦はなく,
赤ん坊の99パーセントが病院で生まれる.医師はふつう午前中は病院で勤務し,午後と夜間は往診を行
う.施設ではなく,家庭で最後の時を迎えられるよう心掛ける.医師の60パーセントは女性である.
二人の女医とディスカッションしているとき,おもしろいことがあった.私たちのメンバーにハーバード大学医
学部の学生で,医者の娘がいた.彼女は西側世界の医者の立場から,医療の採算性についてたくさん質
問をした.質問の根底にあったのは「金銭的メリットがないのになぜ医者になるのか?」ということだった.米国
の医学生とキューバの医師の間には明らかに大きな文化的相違があった.一連の質問を医師たちが理解
するにつれ,彼らの顔には衝撃の色が浮かんだ.そして質問の背後にある目的がはっきりしたとき,医師の一
人がきっぱりと応答した.「医療は天職です.ただの仕事とは違います」
キューバが第三世界のみならず,われわれ第一世界のお手本たりうるのは,こうした姿勢である.キューバ
がきわめて貧しい国でありながらその平均寿命は米国人のそれと同じであることを思うと,医療従事者の一
般人に対するこの姿勢が,その規範と姿勢を強く支えているのだろう.
ちなみに,医療に関する事ではないが,死ぬまで働かない,というのも健康的なライフスタイルのひとつであ
る.キューバでは男性は60歳,女性は55歳で定年を迎え,労働期間は35年である.鉱夫の場合,定年
はもっと早い.一般にキューバの週労働時間は40時間だが,米国による経済制裁のため多くが副業を持っ
ている.
教育-国家の優先課題
キューバが最も力を入れている社会事業は教育で,就学率は100パーセントである.1学年から9学年
までの初等教育と10学年から12学年までの中等教育は義務教育である.どんなに小さな村にも校舎とビ
デオデッキ,テレビがあり,(娯楽ではなく)教育の一環として利用されている.すべての子供は12年間の学
校教育を受けるが,大学進学者の割合は米国よりもはるかに低い.
革命直後,12万人の教師が奥地に派遣され,数ヶ月で70万人が読み書きを学んだ.革命前,教師
は国民3000人あたり 1 人であった.現在では42人に 1 人の割合である.教師 1 人あたりの生徒数は16
人で,これらの値は世界でも最高である.
キューバのメディアは限られており,特にテレビは主として教育用に利用される.多くの科学番組や保健番
組があり,テーマは学校,家庭,性教育などさまざまである.人口の99パーセントがテレビを所有している.
キューバにおける教育には職業教育も含まれているが,手に職をつけるだけの米国のそれとは少し考え方
が異なる.パイオニアと呼ばれる全国的組織が7月8月の夏休み期間中,サマースクールとキャンプを兼ねた
ものを開催する.
このキャンプは無料で,土曜日と日曜日にはもっぱらレクリエーション,山や海岸への遠足,誕生会などが
行われる.子供たちの多くは地元の子ではなく,キャンプで生活している.農業,海での学習(魚つり,舟遊
び),運輸(車の修理を含む),刺繍(地域の伝統工芸),建築,美味しいものの勉強,苗を育てるなど学
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習は多岐にわたっている.男子,女子の区別なく,裁縫も車の修理も習う.教室には体験を身近にするた
め,さまざまな職業の制服や工具が備えてある.観光客に地域の工芸品を売ることで(彼らの最大の産業
は観光である)彼らの生活が大きく変わるため,工芸品教育は国家的な優先課題である.私たちが訪ねた
パイオニア・キャンプは1985年に設立された.パイオニア計画自体は1975年に始まっている.
上記の学科ごとにそれぞれ教室がある.農業のクラスでは,豆,種,土壌,コーヒーについて学ぶ.サトウ
キビはキューバの主要産業なので,そのための特別コーナーが設けられている.別の教室では,生徒は海に
ついて-魚釣り,舟遊び,ダイビングなど,このあたりの海での活動-学ぶ.パイオニア・キャンプの主な目的
は,さまざまな職業体験を通して子供たちが自分の好きなものを見つけることにより,彼らの職業選択をサポ
ートすることにある.
私たちが出会った子供たちは,こうした勉強以外の学習が気に入っているようだった.この旅のハイライトは,
ピンクのチュチュに身を包んだ 10 歳の少女によるバレー独演だった.
今回,米国から4人の公立学校教師が同行していた.バスに戻ると,4人のうちの2人が泣き出した.どう
したのかと尋ねられて彼らは,自分達が教師になったときに夢見ていたのはまさにこうしたことだったのに,自分
たちはかなえることが出来なかった,と答えた.
輸送-相乗り方式
ソビエト連邦からの石油供給が突然途絶えた後,1993年には交通は全面的にマヒした.車は一台も
走らず,公共交通は崩壊し,道路はガラガラになった.キューバは中国製の重い自転車を200万台輸入し
た.ある人は,食糧の不足に加え,熱帯のこの暑さの中でペダルを漕がねばならないため,ハバナで体重が
減らなかった者はいない,と話した.幸いなことに事態は好転していった.
今日のキューバにおける交通手段は,非常に興味をそそられる,としかいいようがない - が,厄介でも
ある!キューバでは車を所有しているのは 10 人中 1 人に満たないし,今後その数が増えるとも思えない.ハ
バナのバスはどれもすし詰めで,そのほとんどが老朽化している.ハバナの交通で特記すべきはただひとつ,
非常に大きな金属製のセミトレーラーで,普通のトレーラー・トラックがそれを引っ張っている.奇妙な形をした
この乗り物は300人乗りで,「ラクダ」と呼ばれている.いつでも暑くて混んでいるといわれるが,料金はとても
安く,1キューバペソである.
キューバ人は好んで「必要は発明の母」という.金も燃料もほとんどないのに,キューバでは首都のラッシュ
アワーに大量の人々を輸送している.
こうした創意工夫に満ちたやり方は,お手製の手押し車からバスにいたるまで,さまざまな形で輸送手段
に生かされている.キューバでは大型車から小型車まで,モーターのついているのから動物が引くものまで,あ
りとあらゆる乗り物を動員して大量輸送システムを構築した.最近では小型車が少し輸入されているものの,
これらはごく一部である.
驚いたのは,米国では掘り出し物の1950年代の古いアメリカ車をたくさん見かけることだった.こうした古
い(骨董品の)車を国外に持ち出すことは違法となっている.
ハバナでは自転車,黄色い二人乗りのモーター付人力車が一般的で,小都市では馬や荷車が使われ
ている.
国家的緊急時,いささか不便ではあるが,燃料がほとんどなくても人々の輸送は可能であることをキュー
バは立証した.ひとりひとりの移動は犠牲になるが,十分な石油がなくても公共交通で代替できる.黄色い
制服を着た役人は,ほぼ空っぽの公用車やトラックを見つけると路肩に停車させ,車を必要とする人々を乗
せるように命ずる.古いシェヴィーの前シートに4人,後部に4人が乗っている,などというのは珍しくない.
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ハバナへ向かう,あるいはハバナからの道路端には必ず,車に乗せてもらおうと手にした紙幣を振っているヒ
ッチハイカーがいる.荷台にタクシー免許を打ちつけたロバの荷車もあった.トラックの多くは乗降に便利なよう
に後部に階段をハンダ付けして,旅客輸送車に転用している.高い荷台の後部に男が二人,乗客がトラッ
クに乗り降りするのを手伝っていることもあった.こうしたトラックの多くは,日除けのための幌がついている.19
50年代のステーションワゴンが10人の乗客を乗せていることもある.
ほとんどの政府高官も車は持っておらず,通勤用マイクロバスを利用するか,車を持っている人に相乗りさ
せてもらっている.
農村を訪ねたとき,海岸まで馬車で行った.途中,ヒッチハイカーを拾っては,降ろした.あるところで家族
連れに会い,2人の幼い子供を車に乗せたが,両親は歩き続けた.また別の場所で私たちが乗せた10代
の少女を,運転手が口説きはじめた.この気取らず,のんびりとした無料の臨時バスはなんともすてきだった.
通りや高速道路には看板などの広告はまったくない.アメリカ風の派手な広告を見慣れた目にはなんとも
ほっとする風景だ.ホテルの中にも周辺にも,今風の店はない.果てしない要求をかきたてる広告はなく,米
国のように限りある物的資源によって人の心が活力を失ってしまうこともない.とはいえ,旅行者がいるところ
には店がある.ハバナの土産物店では葉巻やラムを,農村では土地の手工芸品を売っている.
この旅の極めつけは“ハバナ組曲”というタイトルの映画を見たことである.音楽と通りのざわめき,時おり子
供を呼ぶ母親の声以外には全くの無声,という特筆すべき作品である.そこに描かれているのは運輸,食料,
住居の困難な問題だ.が同時に,そこには創意工夫と分かち合いも描かれており,それこそが何十年にもわ
たる米国の経済制裁に対してキューバが出した答えなのだった.
住居-過ぎたるは及ばざるが如し
ハバナは人口250万人のキューバ最大の都市である.この町は少々うらぶれて荒廃した感がある.建物
は明らかに劣化し,中には崩壊したり廃墟となっているものもある.
ハバナの住宅は人口密度が非常に高い.一人当たりの占有面積はたった3平方メートル,何世代もが
同居しているアパートはざらである.この密集状態が,多世代家族であることとあわせて高い離婚率の一因
となっている.
ハバナには21の社会改革センターがあり,住民の共同住宅計画をすすめている.新たな住宅建設があ
ると,住民は誰が新しい家に入居するか,自分たちで決める.最近の住宅は砂,石,軽量コンクリートを使
ったより簡単なつくりのものもあり,こうした新手法による家造りを教えるコースもある.
キューバの住宅事情は非常に深刻な問題であるが,ブラジルや他の第三世界諸国のようなスラムはない.
家を建てるときは未開墾地が提供される.標準的な家は25フィート×35フィート(7.6m×10.7m)の
長方形で,ごく小さな寝室が3つ,居間と台所,それに小さなベランダがある.コンクリートブロックでできてい
て,建築資材は政府から供与される.最近の米国の新築家屋は平均2400平方フィート(223平方メー
トル)以上で,キューバにおける新築家屋の約3倍の広さである.
ソビエト連邦崩壊後の時代をキューバ人は「特別な時代」と呼ぶ.この「特別な時代」になって,田舎から
ハバナへという人々の流れが逆転した.以前は,進学のため家を離れた農家の子女は,農業を継いだり生
まれ故郷に帰ろうとはしなかった.土地を耕す意欲をそそる動機がなかったのだ.しかし今日ではキューバは
以前にまして農業国となり,それは収入にも反映している.以前は,農村地域や食料生産はほとんど重視
されず,食糧のほとんどが東ヨーロッパからの輸入であった.今日,キューバの農村地帯で作物を育てる技術
者は,非常に大切にされる.
トリニダッドの海岸の町で,私たちは町内の路上パーティに誘われた.パーティは夕方遅く狭い通りで開か
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れ,狭い歩道が家々の入り口に直接繋がっていた.それぞれの家から通りをはさんだ向かいの家まで,米国
の大きな居間ほどの幅しかない.私達は大歓迎を受け CVR(革命擁護委員会)委員長のスピーチを聞い
た.彼女は管理チームの3人を紹介し,それぞれが短いスピーチを行った.
スナックと歌,ダンスのあとで,私達は家の中に招き入れられた.ハバナに比べ,トリニダットの家は広々して,
快適だった.三人の子供がそれぞれの寝室にいた.居間は質素で,家具は古くて中古のようだったが,きち
んと修理がなされ飾りもついていた.壁には素朴だがとても素敵な絵が掛かっていた.
地方都市では家の裏手に壁で仕切られた小さな中庭(パティオ)があって,豚や鶏を飼っていたりする.
家を建てる腕のいい大工はいくらでもいるが,いかんせん建築資材,特にコンクリートが不足しており,これ
はその製造に莫大なエネルギーが必要なためである.自然災害で家が被害を受けることもある.近年では,
一度のハリケーンで4000戸の家が壊れた.
だれもが関わる“いつまでも続く世界”
本記事の最初で述べたように,たいていの人はピークオイルについて知ると落胆するが,私達はそうは思っ
ていない.ウェンデル・ベリーの詩の全部を引用したわけではないが,「ランド・リポート」の他の記事同様,そこ
に示されているのは,すべての人が関わる世界の姿である.つまり,共同体,モラル,価値といった感覚を持
った世界のことである.これこそが永続的な世界であり,農薬や工業毒素がない世界であり,人々が互いに
そして地球と仲良く暮らし,資本主義的工業社会の原則である絶え間ない競争とは無縁の世界である.
キューバという国が,石油に依存する工業時代から現在の分散農業社会へと,いかに早く移行したかを
知って,私達も希望が湧いてきた.キューバ人にしてみれば,事ほどさように簡単ではなく,ここに述べた以外
にも米国のキューバ制裁によるさまざまな困難がある.
落ち込んだり,絶望している人はほとんどいなかった.彼らは共同体が大切で価値あるものだと気づきつつ
ある(あるいはもしかすると,昔からちゃんと知っていたのだ).大変だといいながら,キューバの教育の質,予
防を重視した無料の保健医療,長い平均寿命,スポーツでの活躍,米国の制裁にもかかわらずちゃんと生
き抜いていること,などを誇らしげに語った.キューバは制裁によって強くなれたと思う,という人すらいる.
キューバから機械がなくなってしまったわけではない.が,1990年以前に比べればはるかに少なく,残って
いる機械も昔ほどには使われていない.
私たちとしては,読者の皆さんにキューバを訪れることをお勧めしたいが,我が政府はそれを許すまい.私
たちにはわが政府の政策がよくわかる,つまり,「キューバはアメリカ的生活に対して脅威である」・・・私たちコ
ミュニティ・サービスはそれこそが望ましいと思っているのに.農業に重点を置き,低エネルギーで互いに協力し
あうキューバのライフスタイルこそ,減りつづける一方の化石燃料を消費しながら成長し,競争し,消費する
現代の消費社会よりも,私たちの価値観には合っている.
ウェンデル・ベリーとウェス・ジャクソンが私たちのようにキューバを訪ね,かの国が農業中心の生活に生まれ
変わりつつあるのを見ることができたなら!ウェンデルの詩には,こんな一節がある.“機械は嫌いだ...いつ
の日か機械がなくなるとき,それは喜びに満ちた聖なる日”.キューバは着々とその「喜びに満ちた聖なる時」
に向かっている.
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